『私の男』を渋谷HUMAXシネマで見てきました。
(1)浅野忠信が出演する作品というので映画館に行ってきました(注1)。
本作の冒頭は、流氷の海の中から少女の花(二階堂ふみ)が這い上がってきてニッと笑う場面。
次いで、場面は、様々な物(中には死体も)が流れ着いている海岸で、泥だらけになった女の子(幼い花:山田望叶)が這い出てきて、立ち上がって歩いていきます。
遠くでは爆発が起き火の手が上がります。どうやらこれは1993年に奥尻島を襲った地震の現場のよう。
その女の子は、途中で出会った淳悟(浅野忠信)の後をついて回ります(注2)。
結局、淳悟は花を引き取ることになって、奥尻島から住まいのある紋別へ。
さあ、二人の生活はどのように展開していくのでしょうか、どうして、花は流氷の海から這い上がってくるのでしょうか………?
冬の紋別を背景に浅野忠信と二階堂ふみとの二人だけの濃密な生活が描かれていて(注3)、素晴らしい文芸作品に仕上がっているなと思いましたが(特に、本作における二人の演技は舌を巻く凄さです:注4)、ただ作中の2件の殺人事件がそのままになってしまっている点などに少々違和感を覚えました(注5)。
(2)本作は、原作の小説(注6)の構成などをかなり変えて制作されています(注7)。
本作の脚本を担当した宇治田隆史は、劇場用パンフレットに掲載されている文章の中で、「この世界が花の目にどう映っているのか。脚本ではそこに焦点をあわせて脚色しました」とし(注8)、「原作では章ごとに時系列を遡っていく形で書かれています」が、「整理し切れない部分が多くある気がして、時系列を普通にしてみたらまずはどうか?割りと早いうちからそう考えて作業に入りました」と述べています。
確かに、原作の第1章「2008年6月 花と、ふるいカメラ」では、本作のラストで扱われる結婚式のことが書かれています。そして、原作の終章の「1993年7月 花と、嵐」では、幼い竹中花が遭遇した奥尻島での地震のことが書かれていますが、これは本作の冒頭直後の出来事です。
このように通常の時系列に沿って本作が制作されているために、観客の理解が容易になっていることは事実でしょう。
ただ、原作を読む場合、その後どうなったんだろうと立ち止まらなくても済むところ(なにしろ時間の流れが過去に向いているのですから)、逆に本作のようにまともに時系列的に辿られると、2つの殺人事件はいったいどう解決するのだろうという疑問がことさらに湧いてきてしまいます。
あるいは、花は前だけを向く強い性格なのかもしれませんし、そうした花に淳悟は引きずられてしまったのかもしれません。でも、それと殺人という罪に目を瞑ることとは話の次元が違うような気がしてしまいます。
罪を犯したことに正面切って立ち向かわなければ、いくら花と淳悟の愛が強いものであっても(そのことがラストでも暗示されていますが)、所詮は“腐った”関係(注9)に過ぎないのでは、と思えます。
それと、大したことではありませんが、地元の実力者である大塩(藤竜也)の殺人事件を追う紋別警察署の警察官・田岡(モロ師岡)が、本作の場合、証拠の品として淳悟に見せるのはメガネですが、原作では大塩が持っていたカメラです。
本作で花がかけているメガネはとても印象的だとはいえ(注10)、カメラほど決定的な証拠品になりえないのではないでしょうか(注11)?
また、原作では、花子が結婚する相手は尾崎美郎(高良健吾)ながら、本作では、別人の大輔(三浦貴大)となっています。確かに、本作のように、淳悟によって体の匂いまで嗅がれて嫌な目に遭った美郎が花と結婚までするようには思えないところ、そうは言っても大輔の登場は唐突以外の何物でもありません(注12)。
さらにいえば、本作において、奥尻島と紋別との関係がどうなっているのか始めのうちはよくわかりませんでした(注13)。
なぜ、奥尻島とはまるで離れたところに位置する紋別の人間が二人(淳悟と大塩)もその島に来ていて、結局淳悟が花を紋別に連れて行くことになり、その紋別で事件が起こることになるというのも、台詞が極端に少ないこともあって中々捉えがたいところです。
(3)渡まち子氏は、「雪に閉ざされた世界を舞台に禁断の愛を描く「私の男」。北海道パートの映像が素晴らしく魅力的」として65点をつけています。
相木悟氏は、「氷のように冷たく、人肌のぬくもりが生々しい、怪しい香りに捕らわれる濃密作であった」と述べています。
(注1)本作の監督は、『夏の終わり』『海炭市叙景』『ノン子36歳(家事手伝い)』の熊切和嘉。
(注2)劇場用パンフレットに掲載の年表「北海道奥尻島から東京へ 淳悟と花の十六年間」に従えば、奥尻島に地震があった時(1993年夏)、花は10歳で、花を引き取ることになった淳悟は27歳。
後に、淳悟が東京のタクシー会社で働いている際に(2000年)、同僚(康すおん)から「娘っていくつよ?」と聞かれ、「17歳」と淳悟が言うと、さらに「あんたは?」と尋ねられ「34歳」と答えて呆れられています。
ただし、その年表に「淳悟(16歳)、半年間だけ奥尻島の竹中家に滞在」とあるところ、映画の中で花に「奥尻に来たことがあるの?」と聞かれて「中学の時、半年くらい」と淳悟が答えていることからすれば(原作でもそうなっています:P.372)、やや歳が合わないような感じがします(16歳で中学?)。
これに対して、原作では、奥尻地震の時の花は9歳とされ(P.347)、また2000年に淳悟がタクシー会社で働いているときは16歳と32歳となっています(p.163)。
これだと、淳悟は15歳の時(1983年)に奥尻島に半年間滞在し、翌年花が生まれたということになり、年齢的につじつまが合ってくるのではないかと思われます。
なぜ、映画ではわざわざ原作の年齢の引き上げを行っているのでしょうか?
(注3)例えば、花と淳悟が性的な関係を持つシーンでは、赤い雨が部屋の中に降ったりして、とても幻想的な素晴らしい映像となっています。
(注4)最近では、浅野忠信は『終の信託』、二階堂ふみは『四十九日のレシピ』でそれぞれ見ています。
また、高良健吾は『武士の献立』、藤竜也は『スープ・オペラ』でそれぞれ見ています。
さらに、幼少時の花を演じる山田望叶は、現在放映中のNHK連続テレビ小説『花子とアン』においても、安東はな(吉高由里子)の幼少時を巧みに演じています。
淳悟が働くタクシー会社の同僚役で康すおんが出演していますが、彼は『もらとりあむタマ子』で父親役を演じていました。
なお、紋別における淳悟の恋人・小町を演じている河井青葉(そのインタビュー記事)については、体当たりの演技もさることながら、二階堂ふみとのやり取りでも確かな演技力が伺え、今後注目したいと思います。
(クマネズミの見間違いかもしれませんが、小町の裸の背中に様々な傷があるように見えました。これはもしかしたら、淳悟の性的嗜好を表すものではないか、そうだからこそ淳悟は、実の母親の首を絞めたり、田岡に対しても残酷な仕打ちをしてしまうのではないか、と思ったりしました。ただ、花に対してはそうした性的嗜好を示しませんから、こんな解釈はできないのかもしれません)。
(注5)本作では、ドボルザークの交響曲「新世界より」の第2楽章の有名な旋律が何度も使われています。本作の音楽を担当したジム・オルークは「もともとの作品は結構大袈裟な感じがあるので、雲散霧消的な印象が残るようにアレンジしました」と述べているとはいえ(劇場用パンフレット)、どうアレンジしようと「遠き山に日は落ちて」「家路」以来の固定したイメージが同曲にはまとわりついていて、本作の自由な鑑賞を妨げることになるのではないかなと思いました。
(注6)直木賞を受賞した桜庭一樹著『私の男』(文春文庫)。
作家名から男性とばかり思い込んでいたところ、女性なんですね。
なお、くだらないことながら、原作のP.348に「こころのどこかでずっと、ここが自分の居場所ではなくて、ほんとうにいるべき場所がほかにあるような気がしていた」と書かれていますが、つい最近見た『春を背負って』を制作した木村大作監督も同じようなことを言っていたなと思い出しました(拙エントリの「注6」をご覧ください)。
(注7)以下のように申し上げるからといって、原作者は原作に忠実でなければならないなどとクマネズミが考えているわけでは毛頭ありません。
(注8)原作では、章ごとに語り手が変えられていて(例えば、第1章は花、第2章は尾崎美郎、第3章は淳悟、というように)、全体として様々な視点から一つの物語が語られていることになります。
とはいえ、例えば、P.9の「泣き笑いのような表情を浮かべて男を出迎えた」といった表現は、第3者的視点からのもののように思えますが(語り手を変えるのであれば文体も変える必要がある者と思います)。
(注9)淳悟の名字が「腐野」(この記事によれば、実在する名字ではなさそうです)。
映画の中で「くさりの」と言われても、漢字は全然思い付きません!
(注10)劇場用パンフレット掲載の阿部嘉昭氏のエッセイ「熊切和嘉が描く「流浪」とそのなかの「不変要素」」では、「十三歳時に眼鏡を着用したとおぼしい花は以後、ずっとガラス=氷状のものを介して世界を見ている」などと述べられています。
(注11)尤も、原作では、カメラの中に入っていたフィルムをまだ現像していないと田岡は言っています。殺人者の「顔をもう一度見て、確信してからにしたかった」と田岡は言うのですが(P.176)、淳悟ならずともよく理解できない理屈です。花の顔が写っていることは確かなことであり(P.257)、周りくどいことをせずにそのフィルムを現像しさえすれば、彼女を簡単に逮捕できるのですから(昔なじみに気を使ったとでも言うのでしょうか)。
(注12)原作でも、本作同様、美郎は淳悟と花とが住む家に行き、その生活ぶりの一端を垣間見ていて(第2章「美郎と、ふるい死体」)、その上で美郎は花と結婚するのですから、何も花の結婚相手として新たに大輔(どういう人物なのかマッタク描き出されません)を創りださなくともと思えるのですが。
(注13)実のところを言えば、劇場用パンフレットに掲載されている「相関図」によってなるほどそうだったのかと理解できたような次第です。
★★★☆☆☆
象のロケット:私の男
(1)浅野忠信が出演する作品というので映画館に行ってきました(注1)。
本作の冒頭は、流氷の海の中から少女の花(二階堂ふみ)が這い上がってきてニッと笑う場面。
次いで、場面は、様々な物(中には死体も)が流れ着いている海岸で、泥だらけになった女の子(幼い花:山田望叶)が這い出てきて、立ち上がって歩いていきます。
遠くでは爆発が起き火の手が上がります。どうやらこれは1993年に奥尻島を襲った地震の現場のよう。
その女の子は、途中で出会った淳悟(浅野忠信)の後をついて回ります(注2)。
結局、淳悟は花を引き取ることになって、奥尻島から住まいのある紋別へ。
さあ、二人の生活はどのように展開していくのでしょうか、どうして、花は流氷の海から這い上がってくるのでしょうか………?
冬の紋別を背景に浅野忠信と二階堂ふみとの二人だけの濃密な生活が描かれていて(注3)、素晴らしい文芸作品に仕上がっているなと思いましたが(特に、本作における二人の演技は舌を巻く凄さです:注4)、ただ作中の2件の殺人事件がそのままになってしまっている点などに少々違和感を覚えました(注5)。
(2)本作は、原作の小説(注6)の構成などをかなり変えて制作されています(注7)。
本作の脚本を担当した宇治田隆史は、劇場用パンフレットに掲載されている文章の中で、「この世界が花の目にどう映っているのか。脚本ではそこに焦点をあわせて脚色しました」とし(注8)、「原作では章ごとに時系列を遡っていく形で書かれています」が、「整理し切れない部分が多くある気がして、時系列を普通にしてみたらまずはどうか?割りと早いうちからそう考えて作業に入りました」と述べています。
確かに、原作の第1章「2008年6月 花と、ふるいカメラ」では、本作のラストで扱われる結婚式のことが書かれています。そして、原作の終章の「1993年7月 花と、嵐」では、幼い竹中花が遭遇した奥尻島での地震のことが書かれていますが、これは本作の冒頭直後の出来事です。
このように通常の時系列に沿って本作が制作されているために、観客の理解が容易になっていることは事実でしょう。
ただ、原作を読む場合、その後どうなったんだろうと立ち止まらなくても済むところ(なにしろ時間の流れが過去に向いているのですから)、逆に本作のようにまともに時系列的に辿られると、2つの殺人事件はいったいどう解決するのだろうという疑問がことさらに湧いてきてしまいます。
あるいは、花は前だけを向く強い性格なのかもしれませんし、そうした花に淳悟は引きずられてしまったのかもしれません。でも、それと殺人という罪に目を瞑ることとは話の次元が違うような気がしてしまいます。
罪を犯したことに正面切って立ち向かわなければ、いくら花と淳悟の愛が強いものであっても(そのことがラストでも暗示されていますが)、所詮は“腐った”関係(注9)に過ぎないのでは、と思えます。
それと、大したことではありませんが、地元の実力者である大塩(藤竜也)の殺人事件を追う紋別警察署の警察官・田岡(モロ師岡)が、本作の場合、証拠の品として淳悟に見せるのはメガネですが、原作では大塩が持っていたカメラです。
本作で花がかけているメガネはとても印象的だとはいえ(注10)、カメラほど決定的な証拠品になりえないのではないでしょうか(注11)?
また、原作では、花子が結婚する相手は尾崎美郎(高良健吾)ながら、本作では、別人の大輔(三浦貴大)となっています。確かに、本作のように、淳悟によって体の匂いまで嗅がれて嫌な目に遭った美郎が花と結婚までするようには思えないところ、そうは言っても大輔の登場は唐突以外の何物でもありません(注12)。
さらにいえば、本作において、奥尻島と紋別との関係がどうなっているのか始めのうちはよくわかりませんでした(注13)。
なぜ、奥尻島とはまるで離れたところに位置する紋別の人間が二人(淳悟と大塩)もその島に来ていて、結局淳悟が花を紋別に連れて行くことになり、その紋別で事件が起こることになるというのも、台詞が極端に少ないこともあって中々捉えがたいところです。
(3)渡まち子氏は、「雪に閉ざされた世界を舞台に禁断の愛を描く「私の男」。北海道パートの映像が素晴らしく魅力的」として65点をつけています。
相木悟氏は、「氷のように冷たく、人肌のぬくもりが生々しい、怪しい香りに捕らわれる濃密作であった」と述べています。
(注1)本作の監督は、『夏の終わり』『海炭市叙景』『ノン子36歳(家事手伝い)』の熊切和嘉。
(注2)劇場用パンフレットに掲載の年表「北海道奥尻島から東京へ 淳悟と花の十六年間」に従えば、奥尻島に地震があった時(1993年夏)、花は10歳で、花を引き取ることになった淳悟は27歳。
後に、淳悟が東京のタクシー会社で働いている際に(2000年)、同僚(康すおん)から「娘っていくつよ?」と聞かれ、「17歳」と淳悟が言うと、さらに「あんたは?」と尋ねられ「34歳」と答えて呆れられています。
ただし、その年表に「淳悟(16歳)、半年間だけ奥尻島の竹中家に滞在」とあるところ、映画の中で花に「奥尻に来たことがあるの?」と聞かれて「中学の時、半年くらい」と淳悟が答えていることからすれば(原作でもそうなっています:P.372)、やや歳が合わないような感じがします(16歳で中学?)。
これに対して、原作では、奥尻地震の時の花は9歳とされ(P.347)、また2000年に淳悟がタクシー会社で働いているときは16歳と32歳となっています(p.163)。
これだと、淳悟は15歳の時(1983年)に奥尻島に半年間滞在し、翌年花が生まれたということになり、年齢的につじつまが合ってくるのではないかと思われます。
なぜ、映画ではわざわざ原作の年齢の引き上げを行っているのでしょうか?
(注3)例えば、花と淳悟が性的な関係を持つシーンでは、赤い雨が部屋の中に降ったりして、とても幻想的な素晴らしい映像となっています。
(注4)最近では、浅野忠信は『終の信託』、二階堂ふみは『四十九日のレシピ』でそれぞれ見ています。
また、高良健吾は『武士の献立』、藤竜也は『スープ・オペラ』でそれぞれ見ています。
さらに、幼少時の花を演じる山田望叶は、現在放映中のNHK連続テレビ小説『花子とアン』においても、安東はな(吉高由里子)の幼少時を巧みに演じています。
淳悟が働くタクシー会社の同僚役で康すおんが出演していますが、彼は『もらとりあむタマ子』で父親役を演じていました。
なお、紋別における淳悟の恋人・小町を演じている河井青葉(そのインタビュー記事)については、体当たりの演技もさることながら、二階堂ふみとのやり取りでも確かな演技力が伺え、今後注目したいと思います。
(クマネズミの見間違いかもしれませんが、小町の裸の背中に様々な傷があるように見えました。これはもしかしたら、淳悟の性的嗜好を表すものではないか、そうだからこそ淳悟は、実の母親の首を絞めたり、田岡に対しても残酷な仕打ちをしてしまうのではないか、と思ったりしました。ただ、花に対してはそうした性的嗜好を示しませんから、こんな解釈はできないのかもしれません)。
(注5)本作では、ドボルザークの交響曲「新世界より」の第2楽章の有名な旋律が何度も使われています。本作の音楽を担当したジム・オルークは「もともとの作品は結構大袈裟な感じがあるので、雲散霧消的な印象が残るようにアレンジしました」と述べているとはいえ(劇場用パンフレット)、どうアレンジしようと「遠き山に日は落ちて」「家路」以来の固定したイメージが同曲にはまとわりついていて、本作の自由な鑑賞を妨げることになるのではないかなと思いました。
(注6)直木賞を受賞した桜庭一樹著『私の男』(文春文庫)。
作家名から男性とばかり思い込んでいたところ、女性なんですね。
なお、くだらないことながら、原作のP.348に「こころのどこかでずっと、ここが自分の居場所ではなくて、ほんとうにいるべき場所がほかにあるような気がしていた」と書かれていますが、つい最近見た『春を背負って』を制作した木村大作監督も同じようなことを言っていたなと思い出しました(拙エントリの「注6」をご覧ください)。
(注7)以下のように申し上げるからといって、原作者は原作に忠実でなければならないなどとクマネズミが考えているわけでは毛頭ありません。
(注8)原作では、章ごとに語り手が変えられていて(例えば、第1章は花、第2章は尾崎美郎、第3章は淳悟、というように)、全体として様々な視点から一つの物語が語られていることになります。
とはいえ、例えば、P.9の「泣き笑いのような表情を浮かべて男を出迎えた」といった表現は、第3者的視点からのもののように思えますが(語り手を変えるのであれば文体も変える必要がある者と思います)。
(注9)淳悟の名字が「腐野」(この記事によれば、実在する名字ではなさそうです)。
映画の中で「くさりの」と言われても、漢字は全然思い付きません!
(注10)劇場用パンフレット掲載の阿部嘉昭氏のエッセイ「熊切和嘉が描く「流浪」とそのなかの「不変要素」」では、「十三歳時に眼鏡を着用したとおぼしい花は以後、ずっとガラス=氷状のものを介して世界を見ている」などと述べられています。
(注11)尤も、原作では、カメラの中に入っていたフィルムをまだ現像していないと田岡は言っています。殺人者の「顔をもう一度見て、確信してからにしたかった」と田岡は言うのですが(P.176)、淳悟ならずともよく理解できない理屈です。花の顔が写っていることは確かなことであり(P.257)、周りくどいことをせずにそのフィルムを現像しさえすれば、彼女を簡単に逮捕できるのですから(昔なじみに気を使ったとでも言うのでしょうか)。
(注12)原作でも、本作同様、美郎は淳悟と花とが住む家に行き、その生活ぶりの一端を垣間見ていて(第2章「美郎と、ふるい死体」)、その上で美郎は花と結婚するのですから、何も花の結婚相手として新たに大輔(どういう人物なのかマッタク描き出されません)を創りださなくともと思えるのですが。
(注13)実のところを言えば、劇場用パンフレットに掲載されている「相関図」によってなるほどそうだったのかと理解できたような次第です。
★★★☆☆☆
象のロケット:私の男