映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

私の男

2014年06月27日 | 邦画(14年)
 『私の男』を渋谷HUMAXシネマで見てきました。

(1)浅野忠信が出演する作品というので映画館に行ってきました(注1)。

 本作の冒頭は、流氷の海の中から少女の二階堂ふみ)が這い上がってきてニッと笑う場面。
 次いで、場面は、様々な物(中には死体も)が流れ着いている海岸で、泥だらけになった女の子(幼い花:山田望叶)が這い出てきて、立ち上がって歩いていきます。
 遠くでは爆発が起き火の手が上がります。どうやらこれは1993年に奥尻島を襲った地震の現場のよう。
 その女の子は、途中で出会った淳悟浅野忠信)の後をついて回ります(注2)。
 結局、淳悟は花を引き取ることになって、奥尻島から住まいのある紋別へ。
 さあ、二人の生活はどのように展開していくのでしょうか、どうして、花は流氷の海から這い上がってくるのでしょうか………?

 冬の紋別を背景に浅野忠信と二階堂ふみとの二人だけの濃密な生活が描かれていて(注3)、素晴らしい文芸作品に仕上がっているなと思いましたが(特に、本作における二人の演技は舌を巻く凄さです:注4)、ただ作中の2件の殺人事件がそのままになってしまっている点などに少々違和感を覚えました(注5)。

(2)本作は、原作の小説(注6)の構成などをかなり変えて制作されています(注7)。
 本作の脚本を担当した宇治田隆史は、劇場用パンフレットに掲載されている文章の中で、「この世界が花の目にどう映っているのか。脚本ではそこに焦点をあわせて脚色しました」とし(注8)、「原作では章ごとに時系列を遡っていく形で書かれています」が、「整理し切れない部分が多くある気がして、時系列を普通にしてみたらまずはどうか?割りと早いうちからそう考えて作業に入りました」と述べています。
 確かに、原作の第1章「2008年6月 花と、ふるいカメラ」では、本作のラストで扱われる結婚式のことが書かれています。そして、原作の終章の「1993年7月 花と、嵐」では、幼い竹中花が遭遇した奥尻島での地震のことが書かれていますが、これは本作の冒頭直後の出来事です。
 このように通常の時系列に沿って本作が制作されているために、観客の理解が容易になっていることは事実でしょう。
 ただ、原作を読む場合、その後どうなったんだろうと立ち止まらなくても済むところ(なにしろ時間の流れが過去に向いているのですから)、逆に本作のようにまともに時系列的に辿られると、2つの殺人事件はいったいどう解決するのだろうという疑問がことさらに湧いてきてしまいます。
 あるいは、花は前だけを向く強い性格なのかもしれませんし、そうした花に淳悟は引きずられてしまったのかもしれません。でも、それと殺人という罪に目を瞑ることとは話の次元が違うような気がしてしまいます。
 罪を犯したことに正面切って立ち向かわなければ、いくら花と淳悟の愛が強いものであっても(そのことがラストでも暗示されていますが)、所詮は“腐った”関係(注9)に過ぎないのでは、と思えます。

 それと、大したことではありませんが、地元の実力者である大塩藤竜也)の殺人事件を追う紋別警察署の警察官・田岡モロ師岡)が、本作の場合、証拠の品として淳悟に見せるのはメガネですが、原作では大塩が持っていたカメラです。
 本作で花がかけているメガネはとても印象的だとはいえ(注10)、カメラほど決定的な証拠品になりえないのではないでしょうか(注11)?

 また、原作では、花子が結婚する相手は尾崎美郎高良健吾)ながら、本作では、別人の大輔三浦貴大)となっています。確かに、本作のように、淳悟によって体の匂いまで嗅がれて嫌な目に遭った美郎が花と結婚までするようには思えないところ、そうは言っても大輔の登場は唐突以外の何物でもありません(注12)。

 さらにいえば、本作において、奥尻島紋別との関係がどうなっているのか始めのうちはよくわかりませんでした(注13)。
 なぜ、奥尻島とはまるで離れたところに位置する紋別の人間が二人(淳悟と大塩)もその島に来ていて、結局淳悟が花を紋別に連れて行くことになり、その紋別で事件が起こることになるというのも、台詞が極端に少ないこともあって中々捉えがたいところです。

(3)渡まち子氏は、「雪に閉ざされた世界を舞台に禁断の愛を描く「私の男」。北海道パートの映像が素晴らしく魅力的」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「氷のように冷たく、人肌のぬくもりが生々しい、怪しい香りに捕らわれる濃密作であった」と述べています。



(注1)本作の監督は、『夏の終わり』『海炭市叙景』『ノン子36歳(家事手伝い)』の熊切和嘉

(注2)劇場用パンフレットに掲載の年表「北海道奥尻島から東京へ 淳悟と花の十六年間」に従えば、奥尻島に地震があった時(1993年夏)、花は10歳で、花を引き取ることになった淳悟は27歳。
 後に、淳悟が東京のタクシー会社で働いている際に(2000年)、同僚(康すおん)から「娘っていくつよ?」と聞かれ、「17歳」と淳悟が言うと、さらに「あんたは?」と尋ねられ「34歳」と答えて呆れられています。

 ただし、その年表に「淳悟(16歳)、半年間だけ奥尻島の竹中家に滞在」とあるところ、映画の中で花に「奥尻に来たことがあるの?」と聞かれて「中学の時、半年くらい」と淳悟が答えていることからすれば(原作でもそうなっています:P.372)、やや歳が合わないような感じがします(16歳で中学?)。
 これに対して、原作では、奥尻地震の時の花は9歳とされ(P.347)、また2000年に淳悟がタクシー会社で働いているときは16歳と32歳となっています(p.163)。
 これだと、淳悟は15歳の時(1983年)に奥尻島に半年間滞在し、翌年花が生まれたということになり、年齢的につじつまが合ってくるのではないかと思われます。

 なぜ、映画ではわざわざ原作の年齢の引き上げを行っているのでしょうか?

(注3)例えば、花と淳悟が性的な関係を持つシーンでは、赤い雨が部屋の中に降ったりして、とても幻想的な素晴らしい映像となっています。

(注4)最近では、浅野忠信は『終の信託』、二階堂ふみは『四十九日のレシピ』でそれぞれ見ています。



 また、高良健吾は『武士の献立』、藤竜也は『スープ・オペラ』でそれぞれ見ています。
 さらに、幼少時の花を演じる山田望叶は、現在放映中のNHK連続テレビ小説『花子とアン』においても、安東はな(吉高由里子)の幼少時を巧みに演じています。
 淳悟が働くタクシー会社の同僚役で康すおんが出演していますが、彼は『もらとりあむタマ子』で父親役を演じていました。

 なお、紋別における淳悟の恋人・小町を演じている河井青葉そのインタビュー記事)については、体当たりの演技もさることながら、二階堂ふみとのやり取りでも確かな演技力が伺え、今後注目したいと思います。



 (クマネズミの見間違いかもしれませんが、小町の裸の背中に様々な傷があるように見えました。これはもしかしたら、淳悟の性的嗜好を表すものではないか、そうだからこそ淳悟は、実の母親の首を絞めたり、田岡に対しても残酷な仕打ちをしてしまうのではないか、と思ったりしました。ただ、花に対してはそうした性的嗜好を示しませんから、こんな解釈はできないのかもしれません)。

(注5)本作では、ドボルザークの交響曲「新世界より」の第2楽章の有名な旋律が何度も使われています。本作の音楽を担当したジム・オルークは「もともとの作品は結構大袈裟な感じがあるので、雲散霧消的な印象が残るようにアレンジしました」と述べているとはいえ(劇場用パンフレット)、どうアレンジしようと「遠き山に日は落ちて」「家路」以来の固定したイメージが同曲にはまとわりついていて、本作の自由な鑑賞を妨げることになるのではないかなと思いました。

(注6)直木賞を受賞した桜庭一樹著『私の男』(文春文庫)。
 作家名から男性とばかり思い込んでいたところ、女性なんですね。
 なお、くだらないことながら、原作のP.348に「こころのどこかでずっと、ここが自分の居場所ではなくて、ほんとうにいるべき場所がほかにあるような気がしていた」と書かれていますが、つい最近見た『春を背負って』を制作した木村大作監督も同じようなことを言っていたなと思い出しました(拙エントリの「注6」をご覧ください)。

(注7)以下のように申し上げるからといって、原作者は原作に忠実でなければならないなどとクマネズミが考えているわけでは毛頭ありません。

(注8)原作では、章ごとに語り手が変えられていて(例えば、第1章は花、第2章は尾崎美郎、第3章は淳悟、というように)、全体として様々な視点から一つの物語が語られていることになります。
 とはいえ、例えば、P.9の「泣き笑いのような表情を浮かべて男を出迎えた」といった表現は、第3者的視点からのもののように思えますが(語り手を変えるのであれば文体も変える必要がある者と思います)。

(注9)淳悟の名字が「腐野」(この記事によれば、実在する名字ではなさそうです)。
 映画の中で「くさりの」と言われても、漢字は全然思い付きません!

(注10)劇場用パンフレット掲載の阿部嘉昭氏のエッセイ「熊切和嘉が描く「流浪」とそのなかの「不変要素」」では、「十三歳時に眼鏡を着用したとおぼしい花は以後、ずっとガラス=氷状のものを介して世界を見ている」などと述べられています。



(注11)尤も、原作では、カメラの中に入っていたフィルムをまだ現像していないと田岡は言っています。殺人者の「顔をもう一度見て、確信してからにしたかった」と田岡は言うのですが(P.176)、淳悟ならずともよく理解できない理屈です。花の顔が写っていることは確かなことであり(P.257)、周りくどいことをせずにそのフィルムを現像しさえすれば、彼女を簡単に逮捕できるのですから(昔なじみに気を使ったとでも言うのでしょうか)。

(注12)原作でも、本作同様、美郎は淳悟と花とが住む家に行き、その生活ぶりの一端を垣間見ていて(第2章「美郎と、ふるい死体」)、その上で美郎は花と結婚するのですから、何も花の結婚相手として新たに大輔(どういう人物なのかマッタク描き出されません)を創りださなくともと思えるのですが。

(注13)実のところを言えば、劇場用パンフレットに掲載されている「相関図」によってなるほどそうだったのかと理解できたような次第です。



★★★☆☆☆



象のロケット:私の男
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春を背負って

2014年06月24日 | 邦画(14年)
 『春を背負って』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)本作を制作した木村大作監督による前作『劔岳 点の記』が良かったこともあって映画館に足を延ばしました。

 本作の最初では、20年前のこととして、雪山を幼いと共に登る父親・勇夫小林薫)の姿が映し出されます。



 勇夫は、「一歩一歩負けないように、自分の力で普通に歩けばいい」と息子に言い、彼が滑り落ちると、引き上げてから殴ったりします。
 そして、二人は山小屋に到着。
 勇夫は亨に、「これが標高3000mの菫小屋だ」と教え(注1)、「これから小屋開けの準備をするぞ!」と息子に叫びます。

 場面は変わって、コンピュータのディスプレイが林立する金融機関の大部屋。
 同僚が「いくら睨んでも数字は変わらんよ。開き直らないとトレーダーなんてやってらんないよ」と言うのに対し、浮かない顔でディスプレイを見ている松山ケンイチ)が「60億ですからね」と答えます。
 部長(仲村トオル)が「どのくらいやられたんだ」と尋ねると、亨は「9億ほどです」と答えるので、部長は「最近どうしたんだ、結果が出ていないが。明日は専務に説明だ」と言います。



 資料の作成などで亨が残業で会社に居残っていると、突然、故郷の母親・檀ふみ)から「父さんが遭難者を助けようとして死んだ」との連絡が入ります。

 翌日、亨は専務への報告を済ませた後(注2)、車で関越道を通って富山の実家に戻り、葬儀に参列します。
 そこでの皆の話から、父親が皆に慕われていたことが分かる一方で、「菫さんも、民宿があるから、菫小屋は手放さざるをえないだろう」との噂話も耳に(注3)。
 そんな時に、亨の会社の部長から「お前の勘が当たって、だいぶいい感じになってきている」との電話も入ってきます。
 さあ、亨はこれからどうするのでしょうか、………?

 本作では、山小屋のある場所から見る朝日や夕日とか高山植物など立山の自然がとても綺麗に映し出されていて素晴らしいとはいえ、描き出されるいくつかのエピソードはありふれたものであり(注4)、筋の運びや台詞などにも問題が散見されるのではと思いました(注5)。

(2)本作は、前作同様に、その大きな狙いが立山の自然の素晴らしさを映し出すことにあるように思われ、その点では制作の意図は十分達成されているように思います。
 菫小屋から見える立山連峰の眺め、タカネスミレなどの高山植物、翼を広げる雷鳥、民宿の庭に咲く山桜、などなど、次々に美しい映像が出てきます。
 そうしたことから、本作については、ストーリーとか人物造形などに異を立ててみてもマッタク意味がないように思われます。

 でも、自然を写すドキュメンタリー作品ではなく劇映画としてみると、どうでもいいことながらいくつか気になる点が出てきます。
例えば、
a.あまりにあっさりと亨が、将来を嘱望されている金融の最前線から身を引いてしまう点〔従来からそのように思っていたというのでもなさそうですし(このところ成績が落ち込んでいるにしても、それまでは至極順調でした)、取引にまつわる事故でやる気が削がれていたわけでもなさそうですし〕(注6)、

b.父の死を聞いて亨が故郷に東京から戻るに際し、大変急いでいるのにどうして東京から車を使ったのかという点(ただでさえ時間がかかるのに、亨の場合は渋滞にも遭遇しますし)(注7)、

c.山小屋に救助用ソリが置いていないのかという点(そうしたものが備わっていれば、部分的には背負わなくてはダメなところがあるにせよ、ソリを持ってきた救助隊に出会うまでズッと悟郎を背負うこともないでしょう)(注8)、

d.蒼井優が演じる(山小屋で働くスタッフ)は心に闇を持っているにもかかわらず(注9)、あまりにも純朴そのものに描き出されている点、



e.亨の親友・聡史新井浩文)の妻の役で安藤サクラが出演していますが、せっかくなのですからもう少しストーリーに絡んできてもいいのではという点(注10)、

など違和感を覚えたところです(注11)。

 それに何よりも、山に登るとその達成感から悟ったようなことを言ってみたくなる気持は良くわかりますが(昔から仙人は山にいました!)、登場人物、特に山男で勇夫の後輩の悟郎豊川悦司)の台詞がどれも名台詞じみているのはどうかなと思いました。



 例えば、初めて重い荷物を持って山に登る亨を見て、悟郎は「あんたは荷物と喧嘩している。荷物とは仲良くしていかないと。一歩一歩、負けないように普通に歩けばいい」と言ったり、またタバコと人間の共通点を聞かれて、「タバコも人間も煙になって初めて本当の価値がわかる」とか、「菫小屋は、皆の心の避難小屋だった。疲れたらここにくるんだ」と言ったりします(注12)。
 そんなわかったような台詞を登場人物にわざわざ喋らさずとも、映像だけでそのことは十分に観客に伝わるのではないか、映画全体の台詞の中に1つ2つあるからこその名台詞ではないか、などと思いました。

(3)渡まち子氏は、「立山連峰を舞台に山で生きる人々の愛と絆が描かれる「春を背負って」。気恥ずかしいくらい真っ直ぐな映画だ」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「笹本稜平による原作と同じではあるのだが、この題名は秀逸である。見終わってから真の意味が分かるあたりは優れたミステリのそれをほうふつとさせるが、それが感動につながる点が実に映画的である」などとして70点をつけています。



(注1)父親・勇夫は亨に、「人は、歳を重ねるにつれて沢山の荷物をしょって生きていかなくてはならない。行く先も自分で決め無くてはならない。誰かに助けてもらうわけにはいかないんだ。鶴の群れはエベレストを越えていくが、誰も教えないのに自分らの変えるべき場所を知っている。人間なんかとても及ばない」などとも言います。

(注2)専務からは、「会社は君に期待している。結果を出せば、君は幹部にだってなれる」と言われます。

(注3)さらに、亨の親友の聡史が、「立山杉は一生この場所にいる。俺もこの立山に居残る」と亨に言います。
 なお、聡史は、亨用に椅子(元々は、勇夫が注文したもの)を作って山小屋まで持って上がりますが、これは、『キツツキと雨』において、木こりの克彦(役所広司)が幸一(小栗旬)に監督用の立派な椅子を作ってあげたことを思い出しました。

(注4)本作では、山での遭難事故が4つほど描かれていますが。

(注5)俳優陣の内、最近では、松山ケンイチは『僕達急行 A列車で行こう』、蒼井優は『東京家族』、豊川悦司は『ジャッジ!』、小林薫は『夏の終り』、新井浩文は『永遠の0』、安藤サクラは『かぞくのくに』でそれぞれ見ました。
 また、山小屋に来た後遭難して亨に救助される登山者役に池松壮亮が扮していますが、『ぼくたちの家族』に出演しています〔それだけでなく、この拙エントリの(2)のロでも触れたように、最近まで放映されていたTVドラマ『MOZU』にも出演して活躍しています〕。

(注6)非人間的な金融業界というお馴染みの先入観に本作も毒されているような感じを受けます。
 ただ、木村監督は、劇場用パンフレットに掲載されている「Director Interviw」で「人は自分がおかれている立場を超えて、別の居場所があるんじゃないかと思っている気がするんです」と述べています。あるいは、亨も金融機関で働きながら一方でそう思い続けていたのかもしれません。そういう背景があるものですから、父の葬儀の後、菫小屋に登って父の遺したものを見ると、自分こそがこの後を継ぐのだと突然思ったのかもしれません。
 でも、かりにそうだとしたら、山小屋の仕事を続けている最中に、自分の居場所はここではないのではと思うかもしれないなどと、つまらない揚げ足を取ってみたくなってしまいます。

(注7)なぜ飛行機や新幹線を使わなかったのでしょうか?飛行場や新幹線の駅から亨の実家まで距離があるにしても、タクシーやレンタカーで対応できるのではないでしょうか?

(注8)あるいは、天候が悪いわけではないのですから、ヘリによる救出が考えられないのでしょうか(この際、費用のことは言っていられないでしょう)?

(注9)愛は、亨や悟郎に、「3年前に認知症の父が死に、母も肺がんで後を追ったが、私ばかり犠牲になってという思いもあって、母が亡くなった時は、妻子ある男性と旅行中だった」などと話します。

(注10)亨の母親役の檀ふみにしても、登山客役の市毛良枝にしても、台詞があるのに、安藤サクラは、優しく聡史の行動を見守るだけで台詞がありません(それはそれで難しい演技なのでしょう。上記「注6」のインタビューにおいて、監督は、台詞ではなく「(俳優の)表情が一番気になるんですよ」と述べていますし)。

(注11)友人が「立山山中で携帯が使えるのか?」との疑問を呈していましたが、この記事で見ると立山の「剣山荘」や「一ノ越山荘」などでは使えそうです。

(注12)さらにまた、亨が夕日を見ながら「何万年もこの光景は変わらないのに、僕の仕事は一瞬でおしまいになってしまう」と言うのに対し、悟郎は、「人生は徒労の連続。一歩一歩進んでいく。それが人生」などと答えます。
 愛が自分の過去を話したことに対しても、悟郎は「自分が背負っている荷物を一つ一つおろそうとしている」と論評します。
 総じて、悟郎の名台詞は、亨の父親が言ったことの焼き直しだとも考えられますが。



★★★☆☆☆



象のロケット:春を背負って
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グランド・ブダペスト・ホテル

2014年06月20日 | 洋画(14年)
 『グランド・ブダペスト・ホテル』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)本作を制作したウェス・アンダーソン監督の『ダージリン急行』などが良かったこともあって(注1)、映画館に行ってきました。
 ただ、前宣伝が行き届いていたせいなのでしょうか、ほぼ満席でした!ことに、学生ではなく中年過ぎの女性が多かったのには驚きました(注2)。

 本作は、旧ズブロフスカ共和国の国民的大作家(どうやらステファン・ツヴァイクのようです:注3)が、同共和国内にあったグランド・ブダペスト・ホテルのオーナーであるゼロ・ムスタファF・マーレイ・エイブラハム)から聞いた話を描いていきます。
 ゼロ(若い時代はトニー・レヴォロリ)は、1932年に、このホテルのロビーボーイとして働き始めます。



 その彼に何かと目をかけてくれたのが、本作の主人公であるコンシェルジュのグスタヴレイフ・ファインズ)。



 そんななか、彼の上顧客であるマダムDティルダ・スウィントン)が何者かに殺害されます。グスタヴは彼女の居城に行き、彼女の遺言によって、価値の大層高い絵画(注4)を受け取ります。
 ですが、ホテルに戻ると、マダムDを殺害した容疑でグスタヴは逮捕され拘留所に入れられてしまいます。どうやら、彼は、マダムDの長男ドミトリーエイドリアン・ブロディ)を中心とする遺産相続争いに巻き込まれてしまったようです。
 さあ、グスタヴは助かるでしょうか、ゼロはどんなサポートをしたのでしょうか、………?

 本作は、一昔前のホテルのコンシェルジュとロビーボーイのお話ですが、その構成や衣装、装置、それに登場人物の演技などによって、まるでおとぎ話の絵本の世界に入り込んだ感じがするものの、と言って決して荒唐無稽でもなく、むしろとてもリアルな印象を受け、全体として実に面白く見ることが出来ました(注5)。

(2)色々興味深い点があるところ、クマネズミは、本作の最初の方の構成の仕方がいろいろ複雑で随分と面白いと思いました。

 まず、現代の若い女性が墓地(Old Lutz Cemetery)の中に入っていき、男性の胸像の前に行きます(注6)。その胸像には沢山の鍵が吊るされているのですが、彼女も、自分の鍵を一つそこに吊るします(注7)。
 彼女が「グランド・ブダペスト・ホテル」とのタイトルの付いた本を手にしていることから、この胸像の主は、同小説を書いた国民的作家であることがわかります。胸像のそばで、彼女はその小説を読み始めます。

 次いで、場面は1985年となり、その作家(トム・ウィルキンソン)が観客に向かって、「作家は、想像力で物語を最初から創りだすと思われているが、それは誤解。作家とわかると、人は面白い話を進んで話してくれる。この話も人から聞いたものだ」などと語り始めます(ただ、子どもたちが闖入してきて、彼の周りで遊び始めるので、話は何度も中断しますが)。

 さらに、場面は1968年とされ、若い時分の作家(ジュード・ロウ)が、グランド・ブダペスト・ホテル内のレストランにおいて、富豪のゼロ・ムスタファから、そのホテルを所有するに至った経緯を聞き取ります。

 その上で場面は、1932年のグランド・ブダペスト・ホテルとなり、「ルッツに帰るのは怖い」と言っているマダムDに対し、「旅の前の不安はいつもです」などと答えて彼女を宥めて車に乗せているコンシェルジュのグスタヴが映し出されます。
 彼は試用期間中のゼロを見つけて、「ロビーボーイとして適任かテストする」と言って、他のホテルの経験や教育程度、家族について質問しますが、なにもない(すべてがゼロ)ことがわかります(注8)。
 そこで、グスタヴは「なぜ、ロビーボーイになろうと思ったのか」と尋ねると、ゼロが「だれでも憧れるグランド・ブダペスト・ホテルですよ!」と答えたため、「大いに結構!」として受け入れ、彼はグスタヴのもとで修行をすることになります。

 このように、本作の話は、現在時点→1985年→1968年→1932年という具合にどんどん時点が昔に遡り、話し手も、「グランド・ブダペスト・ホテル」を書いた国民的作家→その小説を書く前の国民的作家→富豪のゼロ・ムスタファへと移り変わります。
 要すれば、本作の中心は、ゼロ・ムスタファが物語った1930年代のお話ということになりますが、ただその大部分の話にはゼロ自身が立ち会っているとはいえ、例えば、コンシェルジュのグスタヴが留置された「第19犯罪者拘留所」を巡るストーリー(注9)については、グスタヴからゼロが聞いた話を作家に物語っていることになるでしょう。
 そうであれば、グスタヴは、グランド・ブダペスト・ホテルの名物コンシェルジュとして、その良き伝統を守り伝えようとしていますから(注10)、彼の話の背後にはもっと遠くの過去も様々に入り込んでいるに違いありません。
 本作は、こうした複雑な構成をとることによって(注11)、過去の多層的な分厚い積み上がりを観客が感じ取ることができるようになっているのでは、と思われます。

(3)本作は、ウェス・アンダーソンの作品の中ではDVDで見た『ライフ・アクアティック』と類似するところがあるのではと思いました(と言って、ほんの僅かの作品しか見ていないのですが)。

 同作は、海洋探検家であり映画監督でもある主人公スティーヴ・ズィスー(ビル・マーレイ)らが繰り広げる冒険を描いた作品ですが、
a.なんといっても、ズィスーが所有する探査船ベラフォンテ号の作りは、雰囲気的に、本作のグランド・ブダペスト・ホテルの構造とよく似ているように思われます。



 なかでも、同ホテルにたどり着くために必要なケーブルカーは、ベクトルの方向はまるで異なるとはいえ、同作のベラフォンテ号に取り付けられている潜水艇に類似するように思われます。

b.また、同作のズィスーは本作のグスタヴに、同作のエレノア(ズィスーの妻)は本作のマダムDに、同作のネッド(ズィスーの息子かもしれない男)は本作のゼロに、同作のジェーン(雑誌記者)は本作の国民的作家に、それぞれ対応しているようにも思われます。

c.さらに言えば、同作では、最後にズィスーがドキュメンタリー作品を制作し映画祭で上映されることになりますが、これは本作でゼロの話に基づいて数々の文学書を受賞する小説を国民的作家が描き上げることに対応しているのではないでしょうか?

 とはいえ、本作においては、1930年代の歴史的な出来事が色濃く反映しているように思われるのに対して(注12)、『ライフ・アクアティック』においてはそうした要素は余り感じられません。

(4)渡まち子氏は、「大戦前の東欧の豪華ホテルを舞台にしたミステリ仕立てのコメディである本作は、ウェス印の美学が頂点に達した作品ではなかろうか」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「ファンシーな世界を楽しむライトな作品と思いきや、なかなかに捻りのきいた造り手の魂が木霊する一本であった」が、「ファンでもない人間の感想としては一言、つまらなかった。登場人物の誰にも共感も愛着もわかず、至極どうでもいい茶番に辟易。スカした演出にも、終始乗りきれず。そもそも監督と感性が合っていないのだろう」と述べています。
 渡辺祥子氏は、「繊細でモダン。胸躍る民族調の音楽。垣間見える1930年代喜劇、スリラーなどの映画への愛着満ちたおしゃれな映像に見とれながら、そこは『ムーンライズ・キングダム』(2012年)など才気溢れる手腕が心憎いウェス・アンダーソンの脚本・監督作、時間を遡って進む話が示す彼の豊かな感性に魅了されてしまう」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)『ダージリン急行』については、この拙エントリの(2)で取り上げています。

(注2)『ハンナ・アーレント』の公開時に起きたのと同じ現象でしょうか?

(注3)本作とツヴァイクとの関係の詳細については、町山智浩氏によるこの記事をご覧ください。

(注4)映画の中では、ホイトル作の『少年と林檎』とされています(むろん、そんな画家は実在しません)。この絵は、グスタヴがマダムDから譲り受けて、グランド・ブダペスト・ホテルのコンシェルジュの受付の背後に架けられています。

(注5)俳優陣の内、最近では、ジュード・ロウは『ヒューゴの不思議な発明』、ウィレム・デフォー(ドミトリーの部下の役)は『ミラル』、マチュー・アマルリック(ルッツ城の執事の役)は 『チキンとプラム―あるバイオリン弾き、最後の夢』、エイドリアン・ブロディは『ミッドナイト・イン・パリ』、ジェイソン・シュワルツマン(グランド・ブダペスト・ホテルのコンシェルジュの役)は 『ウォルト・ディズニーの約束』、レア・セドゥ(ルッツ城のハウスメイド役)は『アデル、ブルーは熱い色』、トム・ウィルキンソンは『声をかくす人』で、それぞれ見ました。

(注6)この胸像は、本作のラストにも登場します。

(注7)映画からすると、小説「グランド・ブダペスト・ホテル」では「鍵の秘密結社」(クロスト・キーズ協会:コンシェルジュによる秘密結社)が書き込まれているようですから、胸像に鍵が沢山吊るされているのも同結社絡みなのではと想像されますが、よくわかりません。

 なお、鍵に関しては、クマネズミはこれまでも関心を持っているところ〔例えば、この拙エントリの(2)をご覧ください〕、本作における鍵は、秘密結社の紋章(コンシェルジュの制服の両襟に付けられています)に使われているくらいで、なにか秘密の扉とか箱を開けたりするのに使われるわけではありません(単なるシンボルと化しています)。

(注8)後でゼロ・ムスタファが語ったところによると、戦争で家族を失って故国を追われた難民だったようです。

(注9)ゼロが差し入れた器具を使い、グスタヴらの拘留者は床を掘って拘留所から脱走しますが、ここではクマネズミの大好きなトンネルが描き出されます〔例えば、この拙エントリの(3)などをご覧ください〕。
 なお、器具の差し入れに際しては、人気の菓子店である「メンドル」の菓子と菓子箱が使われますが、その菓子店で働くアガサシアーシャ・ローナン)とゼロは親しくなり、後に結婚します。ただ、欧州で流行ったスペイン風邪によって彼女と息子は亡くなってしまったとのことです。
 ちなみに、グスタヴらが『少年と林檎』の絵をルッツ城で盗み出す際に、代わりに架けておいたのがエゴン・シーレの絵(その絵も偽造品のようです)ですが、シーレは、アガサが罹ったのと同じスペイン風邪で死亡しています。

(注10)ラストの方で、ゼロ・ムグスタファは、「グスタヴの時には既に消え去っていて幻影になっていたが」と付け加えて作家に話しますが。

(注11)もっと言えば、本作は、映画の冒頭に登場する若い女性が読む「グランド・ブダペスト・ホテル」という小説を映像化したものとも言えるでしょう。何しろ、冒頭と末尾に作家の胸像が登場し(上記「注6」)、そのそばで彼女がその小説を読んでいるのであり、その間に映画で描かれていることは、全てその小説に書かれていることとも考えられます。
 ただ、そうだとすると、トム・ウィルキンソンが扮する作家が観客に語りかける場面とか、ジュード・ロウが演じる作家がゼロ・ムスタファと会食して話を聞き出す場面、さらには映画の末尾の方でゼロ・ムスタファが作家に付言する場面(上記「注10」)などの位置づけはどうなるのでしょう?
 あるいは、その小説の「序」とか「あとがき」に書いてあることが映像化されている、と見るべきなのかもしれません(でも、ゼロ・ムスタファが、アガサのことに言い淀んで泣く場面が途中にありますが、それはどう考えたらいいのでしょう?)。

(注12)当初、ゼロとグスタヴが、マダムDの訃報を受けてルッツ行きの列車に乗っていると、突然列車が止められ、軍警察が車内に乗り込んできて、通行証がチェックされます。ただ、ゼロは移民で正式の通行証を持っていなかったところ、軍警察のヘンケルス大尉(エドワード・ノートン)がグスタヴを知っていたことから、彼はゼロに「特別通行証」を発行してあげます。
 しかしながら、ラストあたりになると、グランド・ブダペスト・ホテルはファシスト達によって占拠されており、警察によるチェックも厳しいものとなっていて、グスタヴとゼロが前と同じ列車に乗っている時に、ゼロがその「特別通行証」を提示しても破棄されてしまいます。
要すれば、この間に政府が変わってしまい、ファシストが国を支配する状況になったのです。



★★★★☆☆



象のロケット:グランド・ブダペスト・ホテル
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罪の手ざわり

2014年06月17日 | 洋画(14年)
 『罪の手ざわり』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)予告編で面白そうだったので、このところ敬遠気味の中国映画ですが、映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、中国社会が現在抱えている社会問題を背景にした事件が描かれる4話からなる作品ながら、4つの話が絶妙なつながりを持って描き出されていること(注2)などもあって、見る前はあまり期待していなかったものの、実際には随分と面白く見ることが出来ました。

 3番目の話を少しだけ紹介すると、はじめに重慶からの夜行バスに乗っている男(注3)が、停留所でもないところでバスを止めさせて降りてしまいます。
 その後、バスが湖北省の宣昌に着くと一人の男がバスから降りて、喫茶店で待つ女性・シャオユーチャオ・タオ)と会います。
 シャオユーとその男との間で、「奥さんに話した?」「少し話した、ほのめかした」「言わなかったのね?」「多分、理解したと思う。広州に来てくれ」「何年も一緒なのに、まだ待つの?私は我慢するけど、親に説明が出来ない。子供がほしい」「ともかく広州に一緒に行こう」などといった会話がなされ、男の方はシャオユーを置いて列車で広州に向かってしまいます(注4)。



 ただ、駅で男が列車に乗る際に行われた荷物検査で、果物ナイフが見つかってしまいます。係官に没収されそうになったため、シャオユーが受け取って自分の鞄の中にしまいます。
 この果物ナイフが、あとでとんだことに使われてしまうのですが、………(注5)?

(2)本作については、劇場用パンフレットが随分と充実しています。
 特に、本作を制作したジャ・ジャンクー監督の話が2つの記事に記載されていますし(注6)、また、現代中国文学者の藤井省三氏によるエッセイ「“天の定め”の罪びとたち」は、本作のあらすじや4つのエピソードの相互の微妙な繋がりのみならず、本作で描かれる4つの事件の背景にある実際の事件についてまで言及していて、余すところがありません。

 それで殊更申し上げることも見当たらないのですが、あえて言うとしたら、本作のような感じを持ったオムニバス形式の映画として思い浮かぶのは、クマネズミの場合、例えば、邦画では『海炭市叙景』ですし、洋画では『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』についての拙エントリの(2)でも触れた『四つのいのち』です。
 特に後者に関しては、本作同様にカンヌ国際映画祭絡み(注7)であることは別にしても、4つの命(牧夫、山羊、樅の木、炭)がそこはかとない繋がりの中で描かれている点で(注8)、本作と通じるものがあるのではと思います。

 そればかりか、本作は、描かれる事件とか登場人物で各エピソード相互に繋がりをつけているだけでなく、藤田氏のエッセイでも抜かりなく指摘されているように、京劇とか旧正月の爆竹や花火の打ち上げ、蛇女の見世物など、庶民に根付いている伝統を各エピソーで描き出しているという点でも繋がりをつけているように思えるところ、『四つのいのち』でも、「ピタの祭り」(注9)とか復活祭(イエスが十字架を背負ってゴルゴタの丘まで歩いたことをなぞって、その当時の服装をした者らが村を練り歩きます)といった伝統的なものが描かれています。

 さらに、本作のタイトルが「罪の手ざわり」(英題が「Touch of Sin」:原題は「天注定」)となっているところ、他の3つのエピソードは殺人事件を取り扱っていながらも、4番目のエピソードが自殺を取り上げている点からすると、この作品は一筋縄では料理できないように思わせますが(注10)、これは『四つのいのち』が3つの命あるもの(人間、動物、植物)のみならず、炭という命のない鉱物を取り扱っていることに類似しているように思われます(注11)。

 とはいえ、『四つのいのち』の大きな特徴は全編にわたって全く台詞がなく(と言って、サイレント映画ではありませんが)、大層もの静かに映像がラストまで流れていきますから、何人もの人の死が沢山の台詞の中で描かれる本作とは雰囲気がまるで違うことは申し上げておかなくてはなりません。

(3)渡まち子氏は、「中国で実際に起こった4つの事件をモチーフに描くオムニバス「罪の手ざわり」。暴力の噴出は中国社会の怒りの現れか」として65点をつけています。
 山根貞男氏は、「激変する中国社会の深部を切開した傑作である。切り口は暴力。荒々しいが切実なドラマが繰り広げられる」と述べています。
 恩田泰子氏は、「社会性と娯楽性。その両方を満たす映画を作るのは容易ではないが、それを見事に両立しているのが本作」と述べています。
 藤原帰一氏は、「政治的な映画じゃありません。むしろ、プロパガンダではないからこそこれが中国だという手応えがある。中国社会に潜むフラストレーションを理解するためには欠かせない傑作です」と述べています。



(注1)本作を制作したジャ・ジャンクー監督の作品としては『長江哀歌』をDVDで見たことがあります。
 また、俳優陣では、その『長江哀歌』の主演女優のチャオ・タオと、『さらば復讐の狼たちよ』のチャン・ウーくらいしか知りません。
 なお、この記事によれば、本作は、公開前に、ネットに流れてしまったとのこと。

(注2)この点は、劇場用パンフレット掲載されている川本三郎氏のエッセイ「チェーン・ストーリーの面白さ」で主題的に取り上げられています。

(注3)この男は2番目のエピソードの主人公チョウワン・バオチャン)で、重慶で事件を引き起こした後、この夜行バスに乗り込んでいました。
 実は、チャオは、1番目のエピソードの冒頭(山西省の山あいの村)でも、そのエピソードの主人公のダーハイチャン・ウー)とすれ違っているのです!



 そればかりか、第2話の冒頭でチャオは、ダーハイの同僚と重慶行きのフェリーで隣り合わせに座ったりします。



(注4)男はヨウリャンチャン・ジャイー)で、広州で縫製工場を営んでいます。
 実は、その工場で、第4話の主人公のシャオホイルオ・ランシャン)が働いているのです。ただ、彼は、同僚に怪我をさせたことから工場をやめてしまい、東莞に行ってナイトクラブで働くことになりますが、………?

(注5)シャオユーは、事件の後、山西省に行ってある会社の採用面接試験を受けます。
 実は、その会社は、第1話でダーハイに射殺された男が社長でしたが、事件の後その妻が社長となって面接を行っています。

(注6)「インタビュー」と「来日プレスミーティング」。
 なお、同監督のインタビュー記事は、このサイトにも掲載されています。

(注7)本作は、第66回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しているのに対し、同作は、第63回カンヌ国際映画祭監督週間正式出品作品なのです。

(注8)「牧夫」は「山羊」の世話をし、彷徨い出た山羊がその根元で力尽きてしまう大きな「樅の木」が「祭りのために切り出され、ついには「炭」にされてしまうという具合です。

(注9)「ピタの祭り」については、拙エントリの「注9」を参照して下さい。

(注10)本作のラストでは、山西省の町の広場で伝統地方劇「玉堂春」が上演されていて、その劇の中では、ヒロインに対して裁判官が「お前は、自分の罪を認めるか?」と尋問します。
 この劇を、3番目のエピソードのヒロイン・シャオユーが人々に混じって見ているところ、おそらく彼女は罪を認めることでしょう(彼女は、自分から警察に人を殺したことを通報するのですから:本文で触れた藤井省三氏のエッセイ「“天の定め”の罪びとたち」によれば、実際の事件の犯人のトン・ユイチャオは、「有罪だが刑を免除」との判決を受けたとのこと)。
 多分、1番目のエピソードのダーハイにしても、2番目のエピソードのチョウにしても、人を何人も殺しているのですから罪は認めることでしょう(ダーハイのモデルの胡文海は死刑になったようですし、チョウのモデルのチョウ・コーホワは、藤田氏のエッセイによれば、警官隊に射殺されています)。

 でも、4番目のエピソードのシャオホイはどうでしょうか?
 少なくとも、日本では、殺人や殺人未遂は法律上罪になりますが、自殺や自殺未遂は罪になりません(ここらあたりは、Wikipediaの「自殺」の「法律」の項とか、この記事などが参考になるでしょう)。
 まして法律を離れると、キリスト教などに基づいた一定の倫理観がみあたらない日本では、シャオホイのケースをダーハイなどの3つのケースと同列に並べることにやや違和感を覚えてしまうのではないでしょうか?

 ジャ・ジャンクー監督は、上記「注6」で触れた「来日プレスミーティング」において、「最初から3話までのストーリーは中年世代で、彼らは受けた暴力に対して暴力で返しますが、4話目の男の子は暴力が自分に向かってしまいます」、「4話目は、目に見えない、形のない暴力です」、「私自身、この映画を作りながら、暴力というものについて理解しようとしました」などと述べ、映画全体を「暴力」という観点から捉えているようです。

 とはいえ、「受けた暴力に対して暴力で返」すといっても、例えば、第2話のチャオが行う現金強奪は、そのような構図になっていないような感じがしてしまい、果たして本作の全体を「暴力」という視点からのみで捉えきれるのか疑問に思えてきてしまうのですが。

(注11)『四つのいのち』では、3番目に取り上げられる大きな樅の木が炭になる(樅の木は、祭が終わると、切り刻まれてうず高く積まれ焼かれて炭にされます)ということで繋がりが持たれています。
 そして、同作の冒頭がこの炭焼きの場面であることは、本作のラストが冒頭の山西省となっていることに通じているかもしれません。



★★★★☆☆


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万能鑑定士Q

2014年06月14日 | 邦画(14年)
 『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』を渋谷シネクイントで見ました。

(1)本作(注1)では、絵画の鑑定が描かれているというので映画館に行ってきました。

 本作の冒頭は、万能鑑定士である凜田綾瀬はるか)が、トルコ料理の試食会に関するチラシを鑑定するところから始まります。



 チラシを持ち込んだ者が「マルチ商法の感じがする」と言うのに対し、凜田は、「チラシにある食品検査の写真の色に細工がされていて、何か裏があるのでは」と答えます。
 それで、試食会自体も彼女が鑑定することに。
 会場で彼女は、トルコ料理の調理の順番に問題点を見つけ、聴覚のマスキング(低周波数の音に高周波数の音を重ねて、聞こえなくすること)が行われていると気付きます。そして、ガラスの割れる音を察知し、会場の2階のギャラリーが危ないと推理し、「大変です。警察を呼んで下さい」と担当者に言って2階に駆け上がります。
 ギャラリーは既に壊されていましたが、凜田は、ギャラリーが一番大切にしていた宝物(ロシア皇帝に献呈された逸品)を救い出すことが出来ました。
 これには、ギャラリーの主の朝比奈村上弘明)が感激してしまいます。
 また、たまたまその会場には、角川書店出版部の雑誌記者である小笠原松坂桃李)が取材に来ていて、事件の経緯を見て、鑑定士の凜田につき「あの人は何者?」と興味を持ちます。

 小笠原は彼女を取材すべくその店(「万能鑑定士Q」の看板が店の前に出ています:注2)を訪れたところ、丁度、先のギャラリーの朝比奈も顔を出します。
 朝比奈の話によれば、自分はルーブル美術館のアジア圏の調査員でもあり、世界を巡回している「モナ・リザ」が今年の11月に40年ぶりに日本にやって来るのにあわせて、臨時の現地学芸員として凜田を推薦している、ついては、1週間後にルーブルで世界の鑑定士を集めての採用テストが行われるのでパリに行ってくれないか、とのこと。
 そこで凜田はパリに行きますが、小笠原も同行することに(どうやら自費のようです)。



 ルーブルでの採用テストは、複製を多数混じえて陳列されている「モナ・リザ」の中から本物を見つけ出すというものです。彼女は、部屋の中に陳列されている絵は全て偽物であり、本物は入口のパネルの中にある、と見事正解を言い当てて、そのテストに合格します。

 さらに凜田に対しては、鑑定能力の一層のアップのために軽井沢で研修合宿が行われますが、研修には、もう一人の合格者である東京藝術大学非常勤講師の流泉寺初音映莉子)も参加します。



 研修の講師は、真贋鑑定の権威とされるリシャールピエール・ドゥラドンシャン)。
 そして、ここらあたりから物語が本格的に動き出しますが、さてどうなることでしょうか、………?

 この作品は、いくらファンタジーとはいえストーリーが大層粗雑であり、また何よりも綾瀬はるかのために制作しているように考えられるものの、それにしても彼女は、全体的にとて随分と地味な印象で(鑑定士という職業柄仕方がないのでしょうが)、特に前半は余り綺麗に撮れていないように感じられ、期待が外れてしまいました(注3)。

(2)本作は、「“万能”鑑定士」というタイトルであり、冒頭でも、主人公の凜田が探偵まがいのことをして試食会がカモフラージュであることを見抜いたりしますから(物品の鑑定をするだけではないのです!:注4)、何でもありのファンタジーなのだなとわかりますが、それにしても、一言も喋れなかった凜田がフランス語を一晩で身につけて、翌朝には講師のリシャールと自由に会話できてしまうとは凄まじい限りです。

 また、例えば、朝比奈というアジア圏の調査員も既に存在するにもかかわらず、どうして凜田と流泉寺の二人の臨時学芸員を設けなくてはならないのかよく理解できないところですが、それはさておくとしても、研修の中身がすごすぎます。
 だって、凜田は、すでにルーブル美術館で多数の製の中に混じっている本物を一度で見分けられたのですから、合宿でリシャールが執り行う「本物探しゲーム」の訓練法など元々無意味なはずではないでしょうか(注5)?

 さらには、軽井沢の研修がいつ行われたのかわかりませんが、研修の最後に、12枚並べられている「モナ・リザ」から本物を探しだすゲームをやるからには、その頃には日本に到着しているものと推測されます(注6)。
 ですが、なんの防護設備も施されていないように見えるだだっ広い部屋に、本物の「モナ・リザ」が偽物と一列に置かれているなんて、とても信じられません!
 それに、たかが臨時学芸員の研修のために本物の「モナ・リザ」が使われるものでしょうか?

 そのほかのところでも、本物とされる「モナ・リザ」(むろん、映画ではレプリカ―画家・塙雅夫氏の手になる―が使われていますが)がいとも手荒く扱われているのも興を削がれるところです。
まあ、ファンタジーなのですから、どんなに粗雑に扱われていようが、本物の「モナ・リザ」に傷が付くということはありえないのでしょうが(注7)!

(3)渡まち子氏は、「天才的な鑑定眼を持つヒロインがモナ・リザに隠された謎に迫るミステリー「万能鑑定士Q モナ・リザの瞳」。モナ・リザも思わず苦笑する出来栄えで、激しく脱力」だとして30点をつけています。
 前田有一氏は、「美術や衣装など見た目が格調高く、ルーブルロケの効果もあって上質な雰囲気をうまく出せているだけに、その他にももう少し気を配るとさらに良くなっただろう」として60点をつけています。



(注1)原作は、松岡圭祐著『万能鑑定士Qの事件簿Ⅸ』(角川文庫)(未読)。

(注2)ラストの方で、小笠原が凜田に、「Qって、Queenでしょ?」と尋ねると、彼女は「教えません」と答えます(なお、この記事には、Qの経緯が詳しく書かれています)。

(注3)本作の出演者の内、主演の綾瀬はるかは『リアル~完全なる首長竜の日~』、松阪桃李は『麒麟の翼』、初音映莉子は『終戦のエンペラー』、村上弘明は『偉大なる、しゅららぼん』で、それぞれ見ています。

(注4)凜田は、特別な記憶法(強い感情とセットで覚える)を身につけているばかりでなく、高度な論理的思考(ロジカル・シンキング)法をも取得しているとされています。それにしても、トルコでは40年ほど前からしか本格的に使われていないトマトを切る音を聞いただけで、聴覚のマスキングに考え至るとは!

(注5)それも、ごく簡単な手品のトリック(どこか抜けている小笠原が見破ることが出来る程度の)を使ったものなのですから!
 とはいえ、この訓練は、凜田の鑑定能力を狂わせるためのものですから、行われても仕方がないかもしれません(凜田が、無意味だとして拒否すればいいのかもしれませんが)。

(注6)ただ、研修を受けて調子がおかしくなった凜田が、学芸員の資格を返上し店も閉めて、出身地の波照間島に雲隠れした後、小笠原が彼女を見つけ出して事件の真相を話し、彼女の調子が元に戻ってから日本で「モナ・リザ」の展覧会が開催され、二人が会場に現れるのですから、研修期間中に「モナ・リザ」が日本に到着していたとすると、展覧会の開催までに随分の期間があったようにも思えるのですが?

(注7)せっかくファンタジーを作るのであれば、凜田と小笠原との距離がもっと縮んで欲しいと思いますし(何しろ、パリに二人で出かけるのですから!)、また「モナ・リザ」の瞳の中にLとVの文字が見えるという話(解剖学にも詳しいダ・ヴィンチが、絵の中に複雑なものを書き込んだとするのは興味深いことだと思われます)をもっと膨らませて欲しかった(こんな記事もありますし)、などと思いますが、望み過ぎなのでしょう!



★★☆☆☆☆



象のロケット:万能鑑定士Q
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美しい絵の崩壊

2014年06月11日 | 洋画(14年)
 『美しい絵の崩壊』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)これはナオミ・ワッツが出演するからというので映画館に行きました。

 本作の舞台はオーストラリアの東海岸。
 リルナオミ・ワッツ)とロズロビン・ライト)は、幼い頃から近所同士でとても仲が良い二人(注1)。



 それぞれ結婚し息子を一人ずつ設けています(注2)。



 ただ、リルの夫は交通事故で亡くなり(注3)、ロズの夫ハロルドベン・メンデルソーン)はシドニー大学に招聘されることに(注4)。
 そんなときに、リルの息子イアンとロズとが愛しあってしまい、それを見たロズの息子トムもリルと愛し合ってしまいます(注5)。
 そんなことがあっていいのでしょうか、一体どんな展開になるのでしょうか、………?

 邦題では何のことかサッパリわかりませんが、原題「Two Mothers」が示しているように(注6)、本作では親友の母親をセカンドマザーとして慕っている内にそれが愛にまで高まってしまったことが描かれています。大変景色が美しい海辺での優雅な生活が映し出されているものの、酷く浮世離れしている話に思え(注7)、まあ勝手にやってくださいとしか言いようがない感じがしました(注8)。

(2)つまらないことを少々申し上げると、
イ)邦題にある「美しい絵」というのは、それが「崩壊」するのであれば、劇場用パンフレットに掲載されている小柳帝氏のエッセイ「奇数から偶数へ 不安定と安定の間の危うい均衡」で言う「親子三代にわたる美しい家族のポートレート」を指すのかもしれません(注9)。
 でも、この映画で「美しい絵」といったら、むしろラストに映し出されるシーンではないでしょうか?



 そこでは、海に浮かぶ浮き台(floating platform)の上にロズとイアン、それにリルとトムとが水着姿で横たわっています。確かに、トムとイアンのそれぞれの結婚によってこの構図が一時は崩れてしまいますが、なんと最後には再び元に戻っているのです(注10)。タイトルとするのであれば、あるいは「美しい絵の復活」なのかもしれません!

 とはいえ、邦題が「絵」を持ち出すのは見識かもしれません。本作においては、登場人物の内面についてほとんど語られず、専ら画像の推移で物語が綴られているのですから。むろん、映画というのは本来そうしたものかもしれませんが、本作は、殊更その点を強調しているように思われます(注11)。

ロ)本作の公式サイトの「映画情報:Introduction」に「禁断の愛」とあったり、劇場用パンフレット掲載の金子裕子氏のエッセイのタイトルが「美しすぎた背徳のパラダイス」であったりと、本作については随分とその“インモラル”な点が強調されます。
 確かに、ロズにしてもリルにしても、こうした関係はやめなくてはいけないと自覚しているようです(注12)。
 でも、これが実の母親と性的な関係を持つというのであれば反道徳的でしょうが、イアンとロズ、そしてトムとリルとの関係は、ロズとリルとが幼友達であるというだけのことであり親族関係にあるわけでもないのですから、それほど反道徳的だと非難すべきことなのか疑わしいようにも思われます。
 ただ、ロズとリルトがいつも一緒に仲良くしていることから、息子らが相手の母親をセカンドマザーとして意識しているのだとしたら、近親相姦的な臭いも立ち込めるのかもしれませんが(注13)。

(3)折田千鶴子氏は、「主演女優2人の美貌と清潔感のある色気、水着姿に嘆息必至。だからこそ熟女と青年の恋が絵になる。この恋、実は女の隠れた欲望そのものかも。背徳の甘美な味に思わず舌なめずり」と述べ、★5つのうち4つをつけています。



(注1)ロズは近くの街でギャラリーを営んでおり、またリルも会社を経営しています。

(注2)海でサーフィンをする息子たちを見ながら、ロズとリルは、「私達の作品ね」、「私達、腕が良い」などと話します。

(注3)リルにずっと恋心を抱いてきたサウルゲイリー・スウィート)が近づいてきますが、リルは全然相手にしません。ある時、ロズがいる前で、サウルはリルに愛を告白しますが、リルは黙ってロズと顔を見合わせていたところ、サウルの方で二人が同性愛の関係にあると誤解し吹っ切れて、リルから去っていきます。
 なお、二人の同性愛については、リルが「1度だけキスしたことがあるわ」と思い出しますが、ロズは「あれは練習だった」と否定します。

(注4)ハロルドは、「滅多にないチャンスなのでロズとトムにもシドニーに来てもらいたい」と話すのですが、ロズの方は「私に相談なしに応募したのね」などと言って、ついていく気は全くありません(ハロルドの方は、ついにはシドニーで新しい家族を持つことになります)。

(注5)イアンがロズとトムが暮らす家に泊まったある夜、トムは、ロズがイアンのいる部屋から出て行くのを見てしまいます。それも、ジーンズを手に持ちTシャツだけを身につけた格好のところを。
トムはそのことをリルに告げ、キスをしますが、リルは「ロズはイアンにとって母親も同然」と言って信じようとしません。ですが、次の日トムがリルの家に行って泊まろうとすると(「家に帰りたくない」と言いながら)、リルは許してしまいます。
 次の朝、トムはリルの家に泊まったことをロズに告げ、さらに「母さんたちと同じことをした」と言うと、ロズはトムの頬を叩きます。

(注6)本作に関するWikipediaの記事を見ると、現在では「Adore」というタイトルとなっているとのこと。
 なお、原作は、ノーベル文学賞を受賞したドリス・レッシングによる「グランド・マザーズ」(未読)。

(注7)劇場用パンフレットに掲載されている「アンヌ・フォンテーヌ監督インタビュー」において、彼女は、「ドリス・レッシングの短編小説というのは、失楽園のようなセンセーションで満たされている」と述べています。
 ただ、彼女の話しによれば、レッシングの短編小説は「実際に起こった出来事に基づいている」ようなのです!

(注8)俳優たちについては、ナオミ・ワッツは『インポッシブル』などで、ロビン・ライトは『声をかくす人』などで、それぞれ見ています。

(注9)2年後、トムはシドニーで女優のメアリーと、またイアンもハナと、それぞれ結婚し子供を設けるので親子三代になります(ロズとリルはお祖母さんなのです!)。そして、映画では、彼らが一緒に海岸で弄れる様子が描かれます。

(注10)イアンが、トムが結婚後もリルとの関係を続けていたことを皆の前で告発したために、憤激したメアリーはハナや子どもたちを引き連れて彼らの家から立ち去ってしまいます。それで、海辺では元の4人の生活が送られることになります。
 もしかしたら、彼らの生活は、先ごろ亡くなった渡辺淳一氏の『失楽園』のようなことが二組出現して終りを迎えるようになるのでしょうか?

(注11)上記「注7」で触れた劇場用パンフレットに掲載されている「アンヌ・フォンテーヌ監督インタビュー」において、彼女は、「数ヶ月を脚本執筆に費やした後、これはうまくいかない、とわかったの。これはフランス固有の文化だけど、物事を説明せずにはいられない傾向にあるのね。でもそれをやると、全てが心理的なものになってしまって、それは「グランド・マザーズ」においては絶対に避けなければならないことだった。それに、この映画の舞台は、この世のものとは思えないくらいに美しい場所でなければならないと、と強く感じていたわ」などと述べています。

(注12)例えば、上記「注5」で触れたようにロズとイアン、リルとトムの間で性的な関係ができた後、ロズはリルと会って「私達何をしたの?」と問いかけると、リルは「一線を超えたの」と答え、ロズが「繰り返さないことね」と言うと、リルも「許されないことね」と応じます。ですが、実際には、………。

(注13)それに、ロズとイアンが性的関係を持った時点では、ロズはまだハロルドと離婚していなかったでしょうから、不倫の関係にあったことにはなりますが。



★★★☆☆☆



象のロケット:美しい絵の崩壊
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青天の霹靂

2014年06月06日 | 邦画(14年)
 『青天の霹靂』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、主人公の晴夫大泉洋)が、「いつからかな、自分を“特別”だって思わなくなったのは」、「昔は、周りの奴らは“普通”の人生しか歩めないと馬鹿にしていた」、「だけど、今になるとわかる、“普通”の人生を手に入れるのがすごく難しいことだって」などと語ります(注1)。
 その晴夫は、この20年来、しがないマジックバー「のぶきち」で働いていますが、サッパリうだつがあがりません。
 丁度来合わせていたTVプロデューサーにコップの中にコインを入れるマジックを披露するものの、面白くもなんともありません。
 店長にも、「もうちょっと気が利いた口が聞けないのか。浅草じゃあ、手品師は口でやらなくては生きていけない」などと言われる始末。
 悪いことは重なるもので、おんぼろのアパートに戻ると、2階の水道管が破裂して、部屋中が水浸し。
 そんな晴夫に、ある時警察から、「あなたのお父さんの正太郎さんが亡くなりました」との連絡が。警察で話を聞くと、父親はホームレスで、死因は脳溢血。線路の高架下で発見されたとのこと。
 晴夫は、父親・正太郎劇団ひとり)と高校の時まで二人暮らしだったものの、卒業以降20年ほど会っていません〔母親(柴咲コウ)は、晴夫を産むとすぐに家を出てしまったと聞いています〕。
 晴夫は、父親が暮らしていたとされるダンボールハウスに行き、そこにあった缶の箱を開けてみると、父親と赤ん坊の自分が写っている写真を見つけます。
 晴夫は、「なんで、こんなものを大切に持っているんだよ、オヤジ、生きるって難しいな、俺ってなんのために生きているんだよ」と泣き出します。
 すると、稲光とともに大音響が轟いて、気が付くとそこは昭和48年の世界。



 さあ、いったい晴夫はどうなるのでしょう、………?

 本作は、現代から昭和48年にタイムスリップした主人公が、そこで自分を生んだ父親や母親に出会い、自分の出生時の経緯を知るという物語ですが、ベタベタした人情話に堕すことなくスカッとした作品に仕上がっているのは、初監督の劇団ひとりの才覚と、出演者の巧みな演技によるものだと思います。

 俳優陣では、主演の大泉洋がそのいいところを遺憾なく発揮しています。また、劇団ひとりも監督とかけもちながら存在感を出していますし、柴咲コウの美貌が映えます(注2)。

(2)本作には、一見したところフロイトの精神分析のような感じが漂っています。
 晴夫は、自分の今の生活がみじめなのは、母親が自分を産んだにもかかわらずすぐに家を出て行ってしまい、置き去りにされた上に、残された父親もろくでもない男だったからと思っています。要すれば、晴夫は、親に見放されたというトラウマを抱え込んで生きてきたようです。ですが、「青天の霹靂」によるタイムトラベルで過去に遡って事情が判明すると、晴夫のトラウマは解消されることになるのでしょうし、20年ぶりで出会った父親ともおそらく巧くやっていけることでしょう。

 ただ、晴夫の場合、両親のことは無意識下にあるのではなくて十分に意識されているので、抑圧されたトラウマといえるかどうか疑問であり、その認識がトラウマの解消につながるというフロイトの手法の出番はないのかもしれません(注3)。

 最近読んだ『嫌われる勇気―自己啓発の源流「アドラー」の教え』(ダイヤモンド社、2013.12)(注4)で議論されていることからすれば、別ルートも考えられるところです。

 同書では、「われわれはみな、なにかしらの「目的」に沿って生きている」のであり(P.32)、「過去にどんな出来事があったとしても、そこにどんな意味づけを施すかによって、現在のあり方は決まってくる」のであって、逆に、「過去がすべてを決定し、過去が変えられないのであれば、今日を生きるわれわれは人生に対してなんら有効な手立てを打てなくなってしまう」のだから、「トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、かたちを変えた決定論であり、ニヒリズムの入口」だ、などと述べられています(P.37:本エントリにおけるページ数は、すべて『嫌われる勇気』)。

 すなわち、本作の晴夫が、自分の今の生活が惨めなのは両親のせいだと原因論的に考えるのは誤りである、というわけです(注5)。
 むしろ、晴夫は、人前に出たくないという「目的」がまずあって(注6)、その「目的」を達成するために両親のことを持ちだしているのではないか、とも言えるかもしれません(注7)。

 そして、晴夫の今の生活が惨めなのは、過去に何かがあったからではなく、そうしようと自分でその都度選んだからだ、と考えることもできるでしょう(注8)。
 晴夫は、人前に出て自分のマジックを世間に披露することによって世間から嫌われ傷ついてしまうことを恐れ、そうした事態に陥らないことを「目的」として、両親のことを言い逃れにしながら、惨めな生活に入り込んでいるのかもしれません(注9)。

 本作の「青天の霹靂」とは、晴夫が今までこだわってきた「ライフスタイル」(P.48)を変えようとする「勇気」(P.53)のことを指しているともいえるでしょう(注10)。映画の表現自体は過去を向いていますが、むしろすべて現在にかかわる話なのではないでしょうか(注11)?晴夫は、人に嫌われてもいいから人とかかわっていこうとする勇気を持つようになるのではないでしょうか(注)?

(3)渡まち子氏は、「笑いと涙、ホロリとした後の粋なエピソード。オーソドックスなところに好感が持てる佳作に仕上がっている」として65点をつけています。



(注1)下記の本文(2)で触れます『嫌われる勇気』では、「アドラー心理学が大切にしているのが、「普通であることの勇気」という言葉です」(P.260)と述べられています。

(注2)最近では、大泉洋は『清州会議』で、柴咲コウは『大奥』でそれぞれ見ています。



 また、本作には、産院の院長として笹野高史(『テルマエ・ロマエⅡ』で見ています:山越真理の父親役)、浅草の演芸ホールの支配人として風間杜夫(『ジャッジ!』で見ています:現通の社長の役)が出演しています。

(注3)晴夫が、自分の出生に際しての経緯を知ることが真のトラウマを認識することになるのかもしれませんが。

(注4)同書は、渋谷のブックファーストでビジネス書の売上1位となっていたことから買ってみました。哲学者・岸見一郎氏の原案に基づきフリーライターの古賀史健氏が、「哲人」と「青年」との対話という形式で書いたもので、中々読みやすくアドラーの心理学が説かれていると思います。
 なお、このサイトの記事も参考になるでしょう。

(注5)「アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します」(P.29)。
 タイムスリップして晴夫の出生の経緯が明らかになりますが、それは両親を今の生活の「原因」とすることは無意味だ、と言っているのではないでしょうか?

(注6)さらには、自分が惨めだと見せつけることによって、周りの人たちの注目を集めようとする「目的」もあるかもしれません(「自らの不幸を武器に、相手を支配しようとする」P.89)。

(注7)「アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます」(P.27)。
 さらに、「仮にご友人が「自分は両親に虐待を受けたから、社会に適合できないのだ」と考えているのだとすれば、それは彼のなかにそう考えたい「目的」があるのです」(P.30)。

(注8)「いまのあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだから」(P.45)。

(注9)「他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に怖れている」(P.68)。

(注10)「ライフスタイルを変えようとするとき、われわれは大きな“”勇気」を試されます」(P.52)。 

(注11)「刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に行きましょう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするように生きるのです」(P.280)。



★★★★☆☆



象のロケット:青天の霹靂
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ぼくたちの家族

2014年06月03日 | 邦画(14年)
 『ぼくたちの家族』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)『舟を編む』を制作した石井裕也監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 映画の冒頭は、吉祥寺(注1)の喫茶店で友人と話をしている主婦・玲子原田美枝子)。とはいえなんだか上の空で、友人の話を満足に聞いていない感じです(注2)。



 会合が終わって中央線に乗って家に帰りますが、だいぶ西に向かい、車窓から中央高速が見えますから山梨県に入ってしまっています。
 着いた駅は「三好」(注3)、駅からしばらく歩くと住宅街が一帯に広がっています。
 多分、バブル期にここに家を求めたのでしょう(注4)。
 少しすると、家の主・克明長塚京三)が戻ってきます。「駅に迎えに来ていなかったじゃないか?食事は?」と、暗い中でぼんやり座り込んでいる妻に尋ねると、玲子は「ごめんなさい、忘れちゃった」と答え、慌てて支度に取り掛かります。



 それから、長男・浩介妻夫木聡)に子供が出来たということで、長男の妻・深雪黒川芽以)の両親たちと一緒に食事会が行われます。ただ、その席で玲子は酷くおかしなことを言い出します(注5)。
 そんなこんなで、克明は浩介と一緒に玲子を病院に連れて行ったところ、医師は、脳腫瘍が7つ見つかり(なかにはピンポン球くらいのものも)、「ここ1週間が山になる」と宣告します。
 さあ大変です。この事態に対して、長男・浩介は、頼りにならない父親・克明や次男の俊平池松壮亮)と一緒になって対処しようとするところ、果たしてうまくいくのでしょうか、………?



 実に典型的な中流家庭が取り上げられ、一つ一つはありふれている出来事をいくつもその家族に集中的に生じさせたらどうなるか、という視点から作られている感じの映画ながら、石井監督の映画作りのうまさと、出演俳優の巧みな演技が融合して(注6)、最後まで画面に見入ってしまいます。

(2)これまでの石井裕也監督の作品との関連で言えば、お馴染みの“とにかく頑張っていこう”の精神が、本作でも描かれていることは間違いありません(注7)。
 ただ、従来、何かしら顔を出していたファンタジー的な要素が殆ど見られないために(注8)、そのぶんだけ一層リアルさということが浮かび上がってくるように思われます。
 ですが、そんなにリアルかというと、少々疑問に思える点もないではありません。

 例えば、浩介の両親が住んでいる場所の「三好」です。確かに、バブル期には東京のベッドタウンが小仏峠を越えて山梨県にまで延びたものの、都心からだと通勤に相当の時間を要するのは間違いないでしょう(注9)。
 父親・克明の会社の所在地がはっきりしないので何とも言えないとはいえ、会社に何が起こるかわかりませんから、いやしくも経営者であるならば、そんな遠隔地ではなくとにかく会社の近辺に家を持つのが常識ではないでしょうか?

 また、父親・克明は、妻・玲子の入院に際しても長男・浩介に頼りきりで、ダメな父親振りを発揮しています(注10)。とはいえ、定年間際の窓際族でもなく、思わしくない企業とはいえその経営者なのですから、普通であれば、問題に対して逃げるのではなく、自分が率先して乗り出して解決しようとするのではないでしょうか(注11)?

 さらに、下記の(3)で触れる渡まち子氏が「母の治療に奔走する姿よりも、金銭面でのゴタゴタの方が印象に残ってしまう」と言うように、この家族にはローンの問題が重くのしかかってきます(注12)。
 それで浩介は、克明が自己破産するしかないと言うものの(注13)、ただそうなると、次男・俊平が大学をやめて克明のところで働くという計画もご破算になってしまうのではないでしょうか?

 他にも、母親・玲子の病気について、脳腫瘍か悪性リンパ腫かで皆が一喜一憂する感じです。確かに、脳腫瘍ならば自宅かホスピスで死を待つほかありませんが(注14)、悪性リンパ腫の場合には治療を受けることができるので、当面を凌げることにはなります。でも、悪性リンパ腫はやはり癌であり、事態が深刻なことはそれほど変わりがないように思えるのですが?

 しかしながら、これらのことは、本作の原作が原作者の実体験に基づいて書かれていること(注15)から一蹴されてしまうでしょうし、さらに、本作では、ウケ狙いの演技は極力抑えられていて、登場人物が皆ごく自然に振舞っているように見えますから、その意味でもリアルな作品といえるでしょう。

(3)渡まち子氏は、「母の余命宣言で揺れる家族の本音と再生を描く「ぼくたちの家族」。難病ものなのに湿っぽさがないところがいい」として65点をつけています。
 相木悟氏は、「時代と共に移りかわる家族の在り方。そこに静かに一石を投じる良作の登場である」と述べています。



(注1)「さとう」のメンチカツや「おざさ」の羊羹やモナカを求めて行列が作られる広場などが映し出されています。

(注2)でも、そこで玲子が耳にしたハワイについては、本作全編にわたって様々に取り上げられます(玲子が、フラダンスの手つきをしたり、一度くらいハワイへ行きたかったと言ったりするなど)。

(注3)実際の駅は、劇場用パンフレットの「Production Note」によれば「四方津」。
なお、この記事が参考になります。

(注4)この記事が参考になるでしょう。

(注5)浩介の妻の名前を間違って言ったりするのです。

(注6)本作に出演している俳優の内、最近では、妻夫木聡は『小さいおうち』、原田美枝子は『ミロクローゼ』、池松壮亮は『横道世之介』でそれぞれ見ています。

(注7)「三好」の住宅街を眺め下ろせる小高い山の上で、浩介は「いろいろあるけど、まずはお母さんを助けよう。俺、悪あがきしてみるよ」と俊平に言います。そして二人は、母親・玲子を受け入れてくれる病院探しに奔走するのです(この拙エントリの(3)も参照して下さい)。

 なお、本作を浩介と俊平の物語と見れば、この拙エントリの(3)で触れました「2人組」という枠組みからも捉えることができるかもしれません。

(注8)これまでの石井監督の作品では、例えば、『あぜ道のダンディ』における「兎のダンス」を踊るシーンとか、『ハラがコレなんで』における不発弾が爆発するシーンなど(『舟を編む』は、作品全体がファンタジーではないでしょうか?)。
 強いて言えば、本作においては、その日のラッキーカラーの黄色とラッキーナンバーの8を星座占いで耳にした俊平が、「黄色」の上着を着て病院に行き、受付番号88を引き当てて医者に面会すると、玲子の治療の可能性を言われる場面が描かれていますが、これが相当するのではないかと思われます。

(注9)このサイトの記事によれば、通勤特別快速で四方津から新宿まで73分(八王子まで25分)。

(注10)克明は、玲子が入院した晩、病院から浩介や俊平と一緒に帰宅しようとして、「今夜はオヤジが付き合って」とたしなめられたり、頻繁に病院から電話をかけてきたりします(それも、「母さんがタバコを吸いたいと言っているが、どうしよう?」といったくだらない内容のもの)。
 この父親には、石井裕也監督作品でお目にかかることの多い“ダメ男”に通じるものが見られます〔この拙エントリの(3)をご覧ください〕。

(注11)ごくつまらないことを申し上げれば、父親・克明は、浩介と俊平をジョギングに連れ出します。息子から「いつから始めたの?」と訊かれると「おととい」と答えますが、普通、ジョギングを始めたばかりでは(特に、克明位の年齢になると)、酷い筋肉痛に悩まされ、そうは簡単に続けられないのではないでしょうか?まして、「三好」は坂道の多い街でしょうから、なかなか大変だと思われます。
 とはいえ、息子たちの頑張りを目にし、心境の変化をきたした克明を描き出すためには説得力あるシーンだと思います。

(注12)その内訳は、父親・克明が言うところによれば家と会社のを合わせると6,500万円、それに次男・俊平が調べて母親・玲子に300万円のサラ金ローンがあることがわかります。

(注13)自己破産すれば、家のローンの1,200万円が連帯保証人の浩介にかぶさることになる(バブル期の高い金利からその後の安い金利に借り換えた時に、浩介は連帯保証人を求められたため)、と克明はその難しさを説明します。
 確かにそうかもしれませんが、家のローンの場合、住宅ローンを組んだ金融機関が1番抵当権を持っているでしょうから(会社の借金の抵当にも入っているとはいえ)、「三好」の家を売却することによって、むろんバブル期ほどの高額にはならないものの、かなりの程度債務額は減額されるのではと思われます。

(注14)Wikipedia の脳腫瘍のところでは、「医学の発達にもかかわらず生命予後の改善は芳しくな」いとか「日本国外では考え方や医療制度の関係もあって、悪性腫瘍という診断がついた時点で、積極的治療を断念するのが主流のようである」とされています。

(注15)原作は、早見和真著『ぼくたちの家族』(未読)。
 そして、原作についてのWikipediaの記事に、「著者の早見和真が自らの実体験を元に描いた作品」とあります。



★★★★☆☆



象のロケット:ぼくたちの家族
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