映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

RAILWAYS

2011年12月14日 | 邦画(11年)
 『RAILWAYS  愛を伝えられない大人たちへ 』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)全体として随分と手堅く破綻なく作られた作品(裏返せば、まとまりすぎていて、もう少し変化とか盛り上がりがあっても良いのかな、という感じですが)だなと思いました。

 この映画は、相手のことを慮って行動しているつもりでも(=本当のところは愛しているのだと伝えようとしていても)、相手にとっては身勝手にしか見えない(=愛のない振る舞いにしか見えない)ことって、世の中で日常茶飯に見られ、さらには、わかっていてもなかなか自分の身勝手さを抑制しきれないものですが、そんなあれこれを物語として描いてみたものだと思われます。
 特に、映画の主人公の年代の人は、働くことに生きがいを求め、そのことで家族も自分に感謝しているはずだ(黙っていても分かっている事柄だ)との思い込みが強いように思えるところです。

 物語は、あと1ヶ月で定年となる滝島徹三浦友和)が主人公。帰宅途中で気がついて、出雲旅行のパンフレットを持って家に帰り、定年後には山陰旅行でもと切り出そうとした途端に、妻の佐和子余貴美子)から、実は看護士として病院の在宅ケアセンターで勤務することを決めてきた、と告げられてしまいます。
 夫の徹にしてみれば、定年退職するのだからユックリと過ごしたいし、妻のこれまでの労苦をもねぎらおうとの優しい気持から、旅行の話を切り出そうとしたにもかかわらず、そんなことより自分の就職だと言わんばかりの妻の態度にブチ切れてしまいます。
 すると、妻が家を出をしてしまい、夫は一人での生活を余儀なくされます。
 丁度出産を控えた長女・麻衣小池栄子)が時折顔を出してくれますが、むしろ母親の味方のようで(注1)、夫は長女にも怒りをぶつけてしまいます。



 そんな中でも、夫の方は、新人の研修乗務を引き受けることになり、妻の方も、末期癌患者(吉行和子)(注2)の在宅介護で、連日忙しく働くようになります。
 一度佐和子は家に戻るのですが、却って火に油を注ぐ結果となり、徹は彼女に「そんなに言うなら家を出て行け」とまで言ってしまいます。
 そうこうするうちに、とある事件が起こり(注3)、そして……。

 長年平和に連れ添ってきた夫婦仲に突如として危機が訪れる原因の大きなものは、妻の佐和子が、夫に事前の相談もなく再就職を決めてしまったことでしょう。
 なにもそこまでせずとも、前もって夫によく相談した上で決めさえすれば、こんなにこじれるまでに至らなかったのではとも思われます。

 ただ、佐和子にしてみれば、これまでの長年の夫の感じから、いくら事前に懇切丁寧に説明しても、自分の気持ちを理解してはもらえないと考えたに違いありません。
 たぶん、夫側の理屈としては、自分が毎日きちんと出勤して勤めたからこそ給料を手にすることができ、ここでこうして暮らしていけたのであって、だから定年後はのんびりと暮らそうというのに、いったい何の問題があるのか、ということでしょう。
 それに対して佐和子の方は、それでは自分はいつまでたっても夫の添え物にすぎない、自分としては後悔するような生き方をしたくないのだ、と言いたいのでしょう。
 でも、そんなことを言ってみても、自分の気持ちを夫が了解するに至らずに平行線のままとなってしまい、とても事前の了解など得られないと、佐和子が考えたとしても無理はないかもしれません(注4)。
 何より佐和子としては、自分は、夫が定年退職するまでは自分を抑えて我慢してきたのだから、との思いが募っていることでしょう(注5)。

 あるいは、徹が「その話は終わったことだ」と言っているところからすると、再就職については、これまでにも何度か佐和子の方から切り出している話であって、そのたびに夫は聞く耳を持たなかったのではないかと推測されます。
 さらには、佐和子は、癌検診で再検査という結果が出て、無論再検査は無事だったのですが、残された時間があるようでありながら実はないのではないか、なんとか早く再就職しないと自分が生きた証が得られなくなってしまう、と切羽詰まった思いに駆られたのではないか、とも思われるところです。

 実際のところは、映画全体から醸し出される落ち着いた雰囲気から、いくら佐和子が、結婚指輪と離婚届を夫に渡しても、そして別の場所にマンションを借りたとしても、そして、徹が、市役所に離婚届を提出し、2人の結婚指輪を遠くに放り投げたりしても、観客の方としては、とどのつまりは元の鞘に収まるのだろうと思いながら、落ち着いて映画を見てしまうのですが。



 本作は、日常的に起こりがちながらツイツイやり過ごしてしまう様々な事柄について色々考えさせてくれ、まずまずの仕上がりとなっているのではと思いました。

 それでも問題点がいろいろあるように思われます。
 例えば、3月の1か月間の話にしては、自然の風景が変化し過ぎでしょう(雪が降って、桜が咲き、チューリップまで咲くのですから)。とはいえ、その後の1か月位を取り込めば、チューリップも桜も咲いていそうですから、もしかしたらありうるのではと思いました(回想シーンもあることですし)。

 また、退職する当日まで実際に乗車勤務するというのも、実際にありうるのかなと思われます。ですが、このサイトの記事を見ると、それに近い話はあるのかなとも思えてきます(もちろん、そこでは、定年の日とラストランとの関係は不明ですが)。

 さらに、60歳の定年後に何をするかの問題が描かれているところ、おそらく、滝島徹は、今更カメラを手に取ってみても(注6)、そこに生きがいを感じられないのでしょう。とすると、定年後の嘱託期間の5年が経過した時こそ(注7)、厳しい難問に逢着することでしょう(妻の方も、病院の定年に引っ掛かる可能性があります)。
 映画の中で、先輩(米倉斉加年)が「定年後が恐ろしく長いぞ」と彼に言いますが、これは真実を突いた言葉ではないかと思います。

 三浦友和は、実年齢と演じる役柄の年齢が一致しているとはいえ、とても定年退職するような歳には見えません(なにしろ、『ナニワ・サリバン・ショー』の忌野清志郎の幼友達なのですから!)。これからもこうした柔和な路線と、『沈まぬ太陽』における行天専務のような敵役の路線とを幅広く演じて活躍するものと思いました。
 余貴美子は、最近では、『八日目の蝉』におけるエンジェルとか『ツレがウツになりまして。』の母親役とかが印象的ですが、本作でも、最後まで自分の意思を通そうとする芯の強さを持った女性を、実に巧みに演じていると思いました。



 他に注目すべき俳優としては、このところあちこちで見かける徳井優が、本作でも滝島徹の上司役として出演しています(注8)!

(2)本作は、中井貴一主演の『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』(2010年)に次ぐシリーズ第2作ですが、舞台は、前作が島根県の一畑電車であったのに対して、富山県の富山地方鉄道に変わっています。

 こうした地方の私鉄の場合、興味深いのは、様々の種類の車両を導入している会社が多い点でしょう。
 クマネズミは1年ほど広島市で暮らしたことがあり、その際、広電で使われている車両が相当多岐にわたっているのを見て、奇異な感じを受けたことがあります(以前は、ドイツの市電などが幾つも走行していたようにも思います)。
 本作の富山地方鉄道においても、東京の西武鉄道で使われている「レッドアロー号」が、2両編成で走っているのを見て驚きました(前作の一畑電車の場合の方が、東京などで使われていた車両を多く使っているようです)。

 なお、映画『劔岳 点の記』において、当時の富山駅としてロケに使われた「岩峅寺(いわくらじ)駅」が、本作で何度も出てきたので驚きました(尤も、本作では、駅の外観ではなく構内風景しか映されませんが)。

(3)前田有一氏は、「どっしりと動かぬカメラ、穏やかな陰影、先を急がぬ落ち着いた演出。地味ながら日本映画のいいところを体現する演出は、ベテラン監督かと思わせるほど。と同時に、この手のドラマの弱点になりがちな退屈さとは無縁の卓越したストーリーテリング。非常に面白い人間ドラマであり、鉄道映画の楽しみも味わえるお得な逸品である」として85点もの高得点をつけています。
 渡まち子氏は、「熟年層をターゲットにした地味な作品だが、共に演技派の三浦友和と余貴美子の、自然なたたずまいが味わい深い。何より、雄大な立山連峰を背景に、四季折々の田園風景の中、列車が走る様は、鉄道マニアでなくとも見惚れてしまう美しさだった」として60点をつけています。
 福本次郎氏も、「峻嶮な山脈が町に迫り、単線を2両電車が走る田園、そして人々の小さな日常。平凡な人生にもひとつひとつにドラマがあり、日々の出来事にはすべて人の思いがこもっていることを思い出させてくれる作品だった」として60点をつけています。



(注1)娘は、「少しは母さんの気持ちを考えてあげたら」とか、「いつも自分は正しいといった顔をしている」と滝島に言ったりします。

(注2)その患者は、「病院でチューブに繋がれている自分の姿を思い出にして欲しくない」ということから、末期癌にもかかわらず在宅ケアに頼っています。

(注3)徹が研修生と一緒に乗車していた電車が、落雷のため送電がストップして、トンネルの入口で立ち往生してしまいます。たまたまその電車には、妻の佐和子が介護していた末期癌患者(吉行和子)が乗り合わせていて(孫の皮膚病によく効く薬草を取りに、家のベッドを抜け出していました)、具合が悪くなってしまいます。徹の連絡により妻がやってきてかいがいしく介護しますが、その仕事ぶりを見て、徹は、妻がいい加減な思いで仕事に取り組んでいるのではないことを悟らされます。

(注4)病院の在宅ケア責任者(西村和彦)によれば、佐和子が担当する患者は末期癌患者で、家族の理解がなければトテモ続けていけないとのこと。実際にも、呼び出しがいつ何時あるのか分からないために、夫の面倒をコレまでのようにはみれなくなります。そんなことをいくら丁寧に説明しても、夫の方は理解などしてくれそうもありません。

(注5)佐和子にしてみれば、看護師を辞めたのも、出産と、癌で死んだ母の介護のためであって、自分としては継続したかったのだと思い続けて来たのでしょう。

(注6)幼馴染みの女友達(仁科亜紀子)に偶然出会った際に、滝島は、彼女から、自分が以前カメラマンになりたいと言っていたことを知らされます。

(注7)滝島は、定年後は別のところで再就職しようと考えていましたが適当な口が見つからず、かといって生き甲斐とすべき趣味も持ち合わせておらず、結局、同じ職場に嘱託として居続けることになります。

(注8)徳井優は、最近では『吉祥寺の朝日奈くん』などで見かけました。




★★★☆☆





象のロケット:RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ

ナニワ・サリバン・ショー

2011年12月12日 | 邦画(11年)
 『ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!!』を新宿バルト9で見てきました。

(1)2009年5月に58歳で亡くなった忌野清志郎が、2001年、2004年、2006年と3回にわたって大阪城ホールで開催した「ナニワ・サリバン・ショー」の映像から作られたドキュメンタリー作品です。

 中心の忌野清志郎だけでなく、布袋寅泰、斉藤和義、トータス松本、山崎まさよし、ゆず、矢野顕子、HIS(細野晴臣・忌野清志郎・坂本冬美)などなど、超一流アーティストが次々に出演し、その素晴らしい演奏に心から堪能しました。

 映画全体は、間寛平が通天閣の下からショーの会場に向かって走る流れの中に綴られ(その中に「ナニワ・サリバンショー」の収録映像が嵌め込まれるという形になっています)(注1)、途中は宮藤官九郎らがDJとして曲紹介などをします(注2)。
 要するに、過去の映像記録をスクリーンに単に再生するというのではなく、本年にモウ1回ショーが開催されたとして、そこで繰り広げられている舞台を観客に映像として届けるという形を取っているわけです。
 おそらく、過去の3回のライブショーをよく知っている人には、切り貼りだらけで、おまけに随分と粗い映像もあったりして、なんだかおかしな作品に見えるかもしれません(注3)。ですが、クマネズミのような門外漢には、こうした素人向けの映像作品の方が随分と取っつきやすい感じがしました。



 映画で流れる曲はどれも皆素晴らしい出来栄えですが、忌野清志郎の「スローバラード」、HIS(細野晴臣・忌野清志郎・坂本冬美)の「幸せハッピー」、矢野顕子の「ひとつだけ」などがトテモ印象的でした。

(2)とにかく、今、大阪は大いに燃えているのではないでしょうか?
なにしろ、橋下徹前大阪府知事が率いる「大阪維新の会」が、既成組織からの激しい攻撃をはね除けて、大阪市民から圧倒的な支持を受けたのですから!
 そしてこの『ナニワ・サリバン・ショー』の公開です!

 他方で、唐突ながら映画『プリンセス・トヨトミ』の超保守性も明らかになってくるのではないでしょうか?
 いくら大阪城の真下に大阪国が存在してきたといっても、東京にある政府から毎年5億円もの補助を得ているようでは、まさに既成組織そのものであって、結局のところ日本国を作り替える起爆剤になりようがありません。せいぜいのところが、瓢箪を持ち出して大阪府庁舎前で集会を開くくらいのことではないでしょうか?

(3)他の作品との関連性を少しだけ申し上げれば、本作に登場する斉藤和義は、『吉祥寺の朝日奈くん』で、その主題曲『空に星が綺麗~悲しい吉祥寺~』〔アルバム『FIRE DOG』(1996年)収録曲〕を歌っています。
 また、『RAILWAYS』で主演の三浦友和は、忌野清志郎の幼友達(高校では同クラス)だったとのこと。



(注1)ラスト近くには、間寛平が舞台に登場し、「アメママン」のギャグにステージにいた出演者がズッコケたりします(ただ、ステージ上にいた中村獅童はズッコケなかったようです)。

(注2)矢野顕子や清水みちこが、宣伝カーに乗って、大阪市内を走り回ったりします。

(注3)ライブ会場の後ろの観客によく見えるようにと、会場の後方に小さなステージを設けて「うしろの奴等のために」を歌ったりするなど、毎回、様々の趣向を凝らしてまとまりがあるものとして提示されているのですから。


  
★★★★☆



恋谷橋

2011年12月10日 | 邦画(11年)
 『恋谷橋』をシネマート六本木で見ました。

(1)この映画は、なんとなくタイトルがよさそうに思え(注1)、合わせて時間の空きにスポッとうまく上映スケジュールがはまり込んだこともあって、見に行ってきたのですが、鳥取県倉吉市の近くにある三朝温泉を巡る単なるご当地物にすぎませんでした。

 要すれば、従前の勢いがなくなってしまった三朝温泉を盛り返そうと、東京に出てデザイン関係の会社に勤めていた朋子(SPEEDの上原多香子)が、色々の出来事があった挙句、母親(松田美由紀)の後を継いで老舗旅館の若女将となって頑張って行こうとする、といったストーリーで、その旅館には昔ながらの料理人・源三(松方弘樹)とその息子・圭太(水上剣星)がいて(注2)、さらに圭太の同級生などが朋子を取り巻いて、また伝統を受け継いでいく同級生(注3)もいるといったおなじみの展開がなされているわけです。

 たぶん、こうしたお定まりの展開になってしまったのは、手慣れた脚本家が、地元振興という観点を加味しながら書いたためであって、ただ、こんな趣向の作品をいくら製作しても、関係者以外に見向く人がそれほどいるとは思えず、地元振興にも何にも役立たないのでは、と思えてしまいます。

 主演の上原多香子は、映画初主演ということで頑張っていますが、まだ何となくぎこちなさが残っていて、さらなる飛躍のためには一層の努力が必要なのでは、と思いました。



 特に、この映画で中心的になるはずなのは、朋子と圭太の恋愛でしょう。ですが、いつまでたっても、2人の関係は極端に淡いままで、何らの進展も見られません。



 これでは、映画のタイトルが泣いてしまうでしょうし、さらには回想シーンで、幼い2人が裸で三徳川の川辺にある露天風呂に入っている時の方がまだましなのでは、などと思いたくもなってしまいます!

(2)ご当地物というと、スグに念頭に浮かぶのはクマネズミの場合、『津軽百年食堂』です。
 そして、本作と比べると、両者には類似する点がいくつかありそうです。

 一方の『津軽百年食堂』における主人公は、飲食店(津軽そばがメインの大森食堂)を経営する家の長男ながら、父親との折り合いが悪いこともあり、東京で仕事(バルーンアート)をしています。そこに、父親が交通事故で入院という連絡が入って、結局彼は、故郷の弘前に戻って家業を継ぐ決意をします。
 他方で本作の場合、主人公は次女ですが、東京で仕事(デザイン)を続けることは諦めて、故郷の三朝温泉に戻って家業を継ぐことになります。その際の切っ掛けの一つが、父親(小倉一郎)が脳梗塞で倒れたことにあります(注4)。

 それに、『津軽百年食堂』のクライマックスは、「弘前さくら祭」に大森食堂が出店して、主人公が客に津軽そばを振る舞うシーンといえるでしょうが、本作においても、ラスト近くの「山陰KAMIあかりアートフェスティバル」が山場となっています(注5)。

 もう一つ上げれば、『津軽百年戦争』においては、主人公の彼女がカメラマンで、主人公と一緒に弘前に戻ってくるのですが、本作においてはこの2人が上原多香子に合体していると見なせるのではないでしょうか?

(3)この映画には、もう一つ問題がありそうです。
 後からわかったことですが、本作は、第1回「スーパーシナリオグランプリ」(2008年開催)において選ばれたグランプリシナリオを映画化したものとされています(注6)。
 ところが、ネットで調べてみると、同コンクールで実際に選ばれたシナリオのタイトルは、『雨の中の初恋 First Love in the Rain』とされています。
 他方、今回の作品のクレジットでは、「原作;宮尾卓志(「雨の中の初恋」より)」とあり、なおかつ、「脚本:井上正子、後藤幸一」となっているのです。

 どうも、本作の脚本は、映画のネタだけが欲しくて全国からシナリオを募集して(注7)、選ばれたグランプリ作品のネタをもとに、プロの脚本家が最初から書き上げた代物のようです。なにより、そこには若者(原作者は27歳の会社員とのこと)らしい新鮮な視点などは、完全に抜け落ちてしまっている気がします(注8)。

 そこで、ネットでもう少し経緯を調べてみると、推測が多分に混じりますが、どうやら次のようです。
イ)当初、2008年5月12日締切で、主催者「スーパーシナリオグランプリ実行委員会」がシナリオを公募(注9)。

ロ)次いで、2008年11月上旬に結果の発表(注10)。
●グランプリ作品・・・・・雨の中の初恋(First Love in the Rain)
●優秀作品・・・・・・・・・・・アンナと知夏
●準優秀作品・・・・・・・・・あいすえいさー
●審査委員会奨励賞(50音順)
    ・・・・OGASAWARA Islands(猫とクジラとレモンの物語)
    ・・・・恋する金平糖
    ・・・・GOホームセンタァ!

 グランプリ作品の内容について、関係するHPには次のように記載されていたようです。「この作品は、かつて繁栄を極めながら、時代の波に乗れず、今は深刻な経営不振に陥っている地方の名門温泉旅館が舞台。昔の栄光を取り戻すべく「町と人の再生」をテーマにしながら、町・人と自然が一体となり「奇跡の再生」までを描く感動作品」。

ハ)それからロケ地公募があり、「NPOみささ温泉」が熱心に運動したこともあって、2008年12月24日、三朝温泉がロケ地に選定されます(注11)。

ニ)その後、2009年に出演俳優の発表が行われましたが(注12)、何かの事情で出演者の大幅入れ替えがあったりして、クランク・インは著しく遅延し、翌2010年の11月20日となったようです(クランクアップは12月10日)(注13)。

ホ)なお、月刊誌『シナリオ』12月号には、本作のシナリオが掲載されているだけでなく、脚本を担当した井上正子氏のノートが掲載されていますが、それによれば、「当然、グランプリをとったシナリオの原型とは、三朝温泉という地名だけを残して、登場人物も設定もストーリーも大幅に変わった」とのこと(同誌P.114)。

 上に記した経緯が仮に正しいとすれば、舞台の「三朝温泉」すらも、あとからのロケ地公募によって決まったようですから、グランプリシナリオの『雨の中の初恋(First Love in the Rain)』は、「原作」の扱いも受けてはいないように思われるところです。
 少なくとも、「グランプリシナリオの映画化」というこの映画のキャッチコピーは、事情を知らない者にかなり誤解を与えるのではないかと思います。



(注1)ネットの地図画像で調べると、映画の舞台となる三朝温泉を流れる三徳川には、実際に「恋谷橋(こいたにばし)」が架かっています。

(注2)松方弘樹が演じる源三は、「魚も人も同じだが。いい生き様をしてきたもんは、いい味を出す。魚の目を見て感じろ」などと、歯の浮くような定型的なことしか話しません。また、その息子・圭太もハイハイと受け入れるばかりです。この厨房にはロボットしかいないような雰囲気です。

(注3)因州和紙を受け継いできている和紙工房の主人(石橋蓮司)は、息子が家業を嫌って家出してしまったため、工房をたたもうとしますが、ちょうど「山陰KAMIあかりアートフェスティバル」の開催に合わせるかのように、おあつらえむきに息子が戻ってきて家業を継ぐのです!

(注4)父親は、写真を撮りながら日本中を回っていたところ、三徳山投入堂の美しさにひかれてこの地にとどまったとされています。

(注5)このフェスティバルは、因州和紙を使ったオブジェをいくつも温泉街に並べ、夜はその中に入れたイルミネーションを灯らせて雰囲気を作り出すというもの。そのオブジェのデザインを朋子が手掛けます(倉吉市で行われる同名の祭についてはこのサイトの記事を)。

(注6)劇場用パンフレットの「Introduction」には、「応募総数777点もの作品の中から選ばれたグランプリシナリオの待望の映画化です」と述べられています。

(注7)ブログ「シナリオ道ぶらり旅」の2008年11月6日の記事によります。

(注8)このサイトを見ると、井上正子氏は1940年生まれ(後藤幸一氏は1946年生まれ)。他方、このサイトによればグランプリシナリオを書いた宮尾卓志氏は27歳。

(注9)その要領は、ここでうかがえます。

(注10)ここまでの経緯は、このサイトに記載されているものによります。

(注11)この点については、「特定非営利法人みささ温泉」のこの情報によっています。
 すなわち、そこには、「映画「雨の中の初恋」ロケ地誘致では、ネット情報からの公募で応募した。それを日本海新聞に記事にしてもらった。その記事を持ち、東京に行き地元の盛り上がりを伝え、絶対三朝でロケが行えるようにとPRした。新聞記事にしたことで話がスムーズに進み三朝温泉に映画ロケ地を誘致することに成功した」と述べられています。

(注12)このサイトによれば、2009年8月の発表では、「朋子役に新人19歳の岡本奈月、女将役に石野真子、他、小野寺昭、竹中直人、佐藤二朗等」とされていました。

(注13)このあたりも、上記「注12」のサイトによります。



★★☆☆☆







アントキノイノチ

2011年12月07日 | 邦画(11年)
 『アントキノイノチ』を渋谷東急で見ました。

(1)この映画は、さだまさし原作ということで二の足を踏んでいたところ(注1)、なかなかよかった『ヘヴンズストーリー』の瀬々敬久監督の作品であり、かつ『東京公園』で好演した榮倉奈々が出演するとあって、映画館に足を運びました。
 でも、こうした映画を瀬々監督もまた作ってしまうのかな、というところが正直な感想です。

 本作においては、遺品整理業を営む会社で働く永島杏平岡田将生)と久保田ゆき榮倉奈々)が中心となりますが、それぞれ重い過去を持っているというわけです。
 永島の方は、親友(染谷将太)が目の前で後者から飛び降り自殺をしてしまったことなど、ゆきの方は、レイプされたことなど(注2)。そのためもあってか、二人とも、周りの者とのコミュニケーションがうまくいきません。それでも、厳しい現場の仕事に次第に慣れていきますが、何かというと過去のことに囚われてしまうようです。
 その挙げ句、ゆきは、突然会社を辞めて姿を消してしまいます。永島は、彼女のことが忘れられず、ツテを辿って探し出すと彼女は老人ホームで働いていました。
 そして、二人の間のコミュニケーションが復活して、何とか前向きに生きていこうとした矢先、……。

 映画の冒頭で、岡田将生がオールヌードで屋根に上る様子が映し出され、“これは単なる感動作ではないかもしれない”と期待を持たせます。
 ですが、その期待は急速にしぼんでいきます。

 何しろ話がくどすぎるのです。
 余り見受けない遺品整理業を取り上げるのであれば、特異な職場なのですからそれだけに焦点を絞ればいいにもかかわらず、なぜ最後の方で老人ホームまで登場させる必要性があるのか理解出来ません。遺品整理を通じても、現在の老人問題はいくらでも描き出せると思われますから。
 また、永島の過去については、親友の自殺だけでも大変なことと思えるのに、さらにもう一つの事件まで用意されているのです(注3)。でも、いくら過去のことを綿密に描き上げても、何故彼が現在の彼であるのかについて観客が十分納得出来るわけのものでもないと思われます(注4)。
 現に、永島は幼い頃から吃音症なのですが、その説明は何もされていません(注5)。

 ゆきについても、レイプされたばかりでなく、妊娠した上に流産して子供を殺してしまったとして、何回も自殺を図っているとされています(手首にリストカットの跡がいくつも残っています)(注6)。

 そして、そもそも主要人物の2人が、どうして同じ職場にいて、あまつさえこうも類似した特徴を持っていなくてはならないのでしょうか?

 主要人物以外についても、例えば、遺族は遺品に触れたくないがために遺品整理業者に頼んでいるのだということを、2つの人物を使って描いています。
 一人は堀部圭亮で、もう一人は檀れいです。両者とも、親が亡くなるのですが、遺品は全部廃棄してくれと強く要望したにもかかわらず、堀部は、土地に関する書類を探さざるをえなくなり、檀も、母親が書いて出さず仕舞いになった手紙(永島が彼女に届けます)を後から読んで涙ぐむのです。
 ですが、酷似したシチュエーションを描いているエピソードを繰り返しているとしか思えません。

 また、柄本明が登場すると、これは彼が大泣きするなと観客は思うでしょうが(注7)、まさにその通りに物語が展開するので、マイッタナーという思いに囚われてしまいます(永島が故人のベッドを動かすと、その下からお誂えむきに電話器が出てきて、なぜか彼が留守電の操作をすると、故人の声が入っているのです!)。

 その結果の131分では、見ている方が退屈してしまいます〔278分の『ヘヴンズストーリー』の監督の作品(2009年の『感染列島』も138分!)ですからこんな長さになるのも仕方がないのかもしれませんが、結局は、刈り込んで編集する作業が上手くいっていないということではないでしょうか?〕。
 要すれば、元々原作の主人公やヒロインに様々なものが詰め込まれているにもかかわらず、さらにこれでもかとばかりダメ押し気味にエピソードを付け加えたがために、逆に本作は、スカッとした感動を観客に与えることが難しくなっているのではないか、と思いました(注8)。

 とはいえ、岡田将生(注9)は、吃音症であり、最近まで重度の鬱病だったという人物を好演しており、また榮倉奈々も、遺品整理業に従事している時の暗い様子から、老人ホームでの生き生きとした様にまで大きく変化する役を実にうまくこなしています。



 さらに、遺品整理業で2人の先輩役を演じる原田泰造は、『神様のカルテ』でも感じたことですが、脇役として実にいいものを持っている俳優だな、と思いました。




(2)本作で取り上げている「遺品整理業」に似通った仕事内容のものは、『サンシャイン・クリーニング』で描かれているものでしょう。
 といっても、後者の仕事は、血などで汚れた犯罪現場を元通りに綺麗にするというものであって、本作の「遺品整理業」における故人の遺品整理とは趣旨が違っているところです。
 とはいえ、本作によれば、遺体が発見された場所が変質したりしているのを綺麗に掃除することも業務に入っているようですから、結果としてみれば、両者の差はあまり大きくないようにも思われます。
 また、『おくりびと』(2008年)に通じるところがあるようです。ただ、両者の、残されたもの(遺体とか遺品)に対する丁重な扱いは、共通するといえそうですが、『おくりびと』の場合には、まさに遺体に対面しますが、『アントキノイノチ』の場合では遺体を除く遺品に対面するという違いがありますが。

(3)渡まち子氏は、「岡田将生と榮倉奈々の両若手俳優は、繊細な表情や仕草でキャラクターに説得力を与えて素晴らしい。杏平はかつて無関心な周囲に「関係なくないだろう!」と叫んだ。だがそれは、他人との関わりを恐れていた自分にも跳ね返る。生きている間は、人と人とはつながっている。いや、生きているものと亡くなった人もまた。そのことを杏平が改めて知るのが、終盤に彼が行うある人の遺品整理だ。とてもつらい場面だが、その先には確かな明るい希望がみえる」として70点をつけています。
 福本次郎氏も、「物語は、心が壊れた青年が遺品整理の現場で働くうちに、すべての人間は誰かと繋がっていると気づいていく過程を描く。絶望と死の影に押しつぶされそうなゆっくりとしたテンポの映像からは、繊細な主人公の喪失感が重くのしかかってくるようだ」として70点をつけています。





(注1)さだまさし原作の映画としては2007年の『眉山』を見たにすぎません。

(注2)本作のゆきについては、原作(幻冬舎文庫、2011年)とかなり違った設定になっています。
 原作では、ゆきは、永島と同じ職場ではなく、会社の社員が行きつけの居酒屋「おふくろ屋」でアルバイトとして働いています(21歳で、その店を営んでいるおじさんの親類の娘らしいとのこと)。ですから、彼女が昼間、介護福祉士の勉強や実習をしているというのもわかります。
 他方、映画の場合、ゆきは、昼間働いていた会社を突然辞めると、今度は老人ホームに現れるわけですから、なんだか酷く唐突な感じがしてしまいます。
 なお、原作のゆきは、以前、永島と同じ墨東高校にいて(クラスは違うものの同学年)、永島を知っていたというのです。ただ、レイプされたことがきっかけで1年で学校をやめてしまったため、永島には印象が残っていないようなのです。
これらの点は、原作の方が酷くご都合主義的に思われます。
 さらに、原作においては、ゆきも、レイプ事件によって「解離性記憶障害」となって「心が壊れた」と述べていますが(P.268)、なにも主人公と同じような病気をヒロインが罹ったことにするまでもないのではとも思われるところです。

(注3)高校の同級生に松井松坂桃李)という生徒がいて、永島の親友(染谷将太)が自殺したのも、彼の陰湿ないじめのせいなのですが、さらにまた山岳部で戸隠山に登った際の出来事を巡って、永島は松井と乱闘騒ぎを引き起こしてしまいます。
 原作にあっては、この松井がゆきをレイプした男とされています。ですが、そこまで因果関係を書き込んでしまうと、ご都合主義と見られても仕方がないでしょう!
〔なお、この松井については、染谷将太の自殺の後、「精神的外傷を味わったことは確か」と書かれています(P.107)。となると、原作小説は、精神障害者ばかりが出てくる作品の感があります!〕

(注4)永島は、原作の場合、「緘黙症」(PTSDの一種の社会不安障害)だとされています(P.267)〔ただ、原作の初めの方では、その病気について、「高校をやめた後、僕は自律神経の失調と言われ、その後、次第に精神失調が進み、鬱の症状が出たりするうち、ついには失語症状が出た」とされています(P.68)〕。

(注5)映画の永島に目立つ吃音症の方は、原作においては、むしろ軽度のものとされています(「ま、吃音つっても、ごく軽いものだったし」P.267)。
 小説で吃音症を書き表すのは大変でしょうが、映画の場合は演技で表現できます。そこで本作においては、他の精神障害はさておいて、吃音症の程度を酷くしているように推測されます。
 なお、映画でもチョコッと描かれますが、永島が中学生の時に、母親が他の男と駆け落ちして家を飛び出しているのです。それ以来、父親の下で育てられてきましたが、あるいはこんなところも、彼の精神障害の原因の一つともなっているのかもしれません(映画では、現在の永島が母親の病院を訪れる場面を挿入して、この問題を解決してしまっていますが、わざわざそんなことをする必要があるとも思えません)。

 それにしても、原作でも映画でも、ゆきもそうですが、永島も、随分とたくさんの事件及び精神障害を抱え込んだ人物として造形されているものです!

(注6)原作においては、ゆきに「不思議なのはね、私ね、そんなになっても、自殺しよう、とは思わなかったんだ」と言わせ、さらに「はっとした。それは……僕もだ」と書かれています(「僕」とは語り手の永島を指します:P.290)。
 ここは、映画の冒頭とかラストと並んで、映画と原作とが一番異なっている部分ではないでしょうか?

(注7)柄本明が大声を上げて泣く場面としては、最近では、『悪人』や『ヘヴンズストーリー』が思い出されるところです。

(注8)いつも申し上げることですが、こう述べたからと言って、映画は原作に従ったものにすべきだと言いたいわけでは決してありません。
 それにしても、映画のラストの交通事故(ゆきの死)の話は、原作のラストの、遊園地で永島とゆきが松井と遭遇する場面と同じくらい、“なくもがな”です!

(注9)岡田将生は、『悪人』などいくつもの映画に出演していますが、『瞬 またたき』が印象的です。




★★☆☆☆




象のロケット:アントキノイノチ

吉祥寺の朝日奈くん

2011年11月30日 | 邦画(11年)
 『吉祥寺の朝日奈くん』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)この映画こそは吉祥寺の1館のみの上映と思っていましたら、どうやらアチコチの映画館で上映されているようなので、意外な感じがしました。
 というのも、事前に何の情報もなく、タイトルから、我が家の近くのこと、それも毎週最低1回は出かけるところが舞台となっているのではという期待だけで見に行ったわけで、まして、映画の中でもバウスシアターが登場しますから、他の映画館は手をひいてしまうのではと思った次第です。
 マア、吉祥寺がうまく紹介されていればいいかな、ストーリーは期待しない方がいいのでは、と思っていましたら、意外としっかりした物語が描かれているので、正直言って驚きました。

 主人公の朝日奈くん桐山漣)は、25歳ながら定職もなくアルバイトでしのいでいる有様(その仕事も、アルバイト先が潰れてしまったため、目下のところ失業中というわけです)。
 その彼が、吉祥寺のある喫茶店に通いつめています。どうも、そこで働く山田さん星野真里)に気があるようなのです。



 ただ、なかなか話すきっかけが掴めないでいたところ、突然、若い男女がその喫茶店に入ってきて喧嘩をし出し、あろうことか女が投げた椅子で、朝日奈くんは顔面に傷を負ってしまったことから、山田さんと話すようになります。
 メルアドを教えてもらったりして、なんとなく付き合い出しますが、彼女はすでに結婚していて幼い娘までいることは、最初から明らかにされています。
 にもかかわらず、朝日奈くんは山田さんとの付き合いをやめようとはしません(注1)。
 2人が出歩く場所は、それこそ吉祥寺駅周辺のよく知られたところばかりながら(注2)、実にさりげなく画像の中に収められているな、このくらいならギリギリのところでいわゆるご当地物にはならないのではないのか、などと思いました(注3)。

 物語は、そこから朝日奈君の先輩(要潤)をも巻き込んで、実に意外な展開をし出しますが(注4)、結局はそうなるだろうな、という結末を迎えます。
 「思ったよりよかったじゃん!」という感じで、映画館を後にすることができました。

 この映画は、タイトルからすれば、桐山漣が演じる朝日奈くんが主役なのでしょうが、山田さんを演じる星野真里になんともいえない魅力があってこその映画ではないかと思いました。と言って、クマネズミには、彼女の出演作品は全く記憶がありません。これからはよくフォローしてみようと思っています。

(2)この映画には、映画と同じタイトルの原作があります。中田永一著『吉祥寺の朝日奈くん』(祥伝社、2009.12)(注5)。



 原作では、映画を見ながら変な感じがした点が、納得がいくように書かれているところがいくつも見受けられます(注6)。
 でもそれらは些細な事柄でしょうし、元々原作と映画は違う作品ですから当然のことともいえるでしょう。

 逆に、映画を見てから原作を読むと、原作に対して大きな違和感を持ってしまいます。というのも、原作小説が、朝日奈くんが「僕」として物語る第一人称小説の形式を取っているからなのですが。
 ネタバレになり過ぎてしまうので本文には書かずに「注4」に記載しましたが、そこに記載したことは、第3者の視点から描かれる映画においては、“実は”として極く自然に受け容れ可能です。ですが、朝日奈くんが物語っている原作においても、映画とマッタク同じ構成になっているのですから、それなら原作の読者に対する作者の大きな裏切り行為ともいえるのではないか、と思えてきます。
 というのも、例えば、原作では、山田さんが“朝日奈くんの舞台姿を見たことがある”と言うと、「奇跡、と心の中でつぶやく。はたして、そのようなものが、そうかんたんにおこるだろうか」と、朝日奈くんの心の中が書き込まれています(P.266)。
 でも、これはその時に朝日奈くんの心の中でリアルに思われたことなのだろうか、との疑問がスグサマ湧いてきてしまいます(注7)。
 この点、映画の観客は、朝日奈くんを演じる桐山漣の表情から、そんな心の中まで読み取る事は出来ませんから、何の問題もなく話は進行します。

 要すれば、原作の方が、全体としては映画的に作られているといえるのかもしれません(注8)!




(注1)たまたま、吉祥寺駅前の献血ルームで「成分献血」を一緒にやったこともあって、より一層2人の関係は接近します。 

(注2)吉祥寺駅前のハモニカ横丁のみならず、メンチカツを求めていつも長い行列ができている「ミートショップ・サトウ」とか、焼き鳥の「いせや」などなど。
 そうした名物店だけでなく、井の頭公園の井戸を源流とする神田川の川岸に作られた遊歩道を三鷹台から久我山方面まで歩くシーンが挿入されてもいたりして、全体として実に好ましい仕上がりになっています。

(注3)クマネズミは、小学校の遠足の際に入ったきりのため知らなかったのですが、井の頭公園に設けられている動物園ではアジアゾウが飼育されていました(山田さんは、「すぐそばの家で暮らしている人は、こんなところに象がいることをどう思っているだろう」などと言います)!

(注4)実は、山田さんは先輩の奥さんで、朝日奈くんは、先輩の要請で奥さんと不倫関係をもつべく努めていたわけなのです(先輩は、奥さんと別れたがっていただけでなく、その際に、慰謝料をもまき上げようとも企んでいました)。でも、よくある話ながら、朝日奈くんは、山田さんに恋心を抱いてしまうのです。その結果、……。

(注5)同書は短編集で、原作の他に4作が掲載されています。

(注6)例えば、映画では、山田さんとその娘が高知の実家へ帰る日に、彼女らが乗るタクシーが、井の頭公園を西端を横切る道路を歩く朝日奈くんと遭遇します。ですが、いくら何でもそんな偶然が起きる確率はごく小さいでしょう(それに、歩道が設けられておらず、車が頻繁に通るあの道路を歩く人など、滅多におりません)。
 この点、原作では、彼女らは朝日奈くんのアパートにやってきて別れの挨拶をするのです。これなら十分に受け容れ可能です。
 映画の改変は、井の頭公園を別れの場としたいためなのでしょうが、いささかやり過ぎではと思いました。
 それに、映画のラストでは、朝日奈くんが役者の道に戻ったことを明らかにするために、台本を覚えている彼の姿を映し出し、また、高知の山田さんとの関係が途切れていないことを示すためでしょう、山田さんから送られてきた手紙(娘が書いた象の絵まで添えられて)を公園の池の端で彼が幸福そうに読むシーンまで描き出されます。
 むろん、原作には、そんな陳腐な場面など書き込まれてはいません!

(注7)原作では、朝日奈くんが、“先輩の部屋に居候していたときに、舞台のチラシをそこに置いていったことがあって、それを山田さんが見て劇場に行ったのでは”、と山田さんに話します(P.304:映画でも同じ説明をします)。要すれば、山田さんとの出会いは、朝日奈くんにとっては「奇跡」でも何でもない事柄のはずです。

(注8)いくらでも例示することが出来ますが、もう一つ例を挙げれば、映画の初めの方で、若い男女が山田さんのいる喫茶店に入ってきて喧嘩をし出し、女が投げた椅子で、朝日奈くんは顔面に傷を負うというシーンがあります。
 同じ場面は、原作の冒頭でも描かれているところ、そのカップルの男について、「大学生くらい」とか「普通の風貌」と、いかにも朝日奈くんは何も知らなかったように書かれていますが(P.233)、実はよく知る劇団の後輩なわけで(そのことは、ラスト近くで明らかにされます:P.296)、そうだとすれば、朝日奈くんが話している物語においてこんなソッケナイ書き方は出来ないのでは、と思われます。




★★★★☆


〔追記:2011.12.12〕本作の主題曲『空に星が綺麗~悲しい吉祥寺~』〔アルバム『FIRE DOG』(1996年)収録曲〕を歌っている斉藤和義が、『ナニワ・サリバン・ショー』に出演しています。








ハラがコレなんで

2011年11月23日 | 邦画(11年)
 『ハラがコレなんで』を渋谷のシネクイントで見ました。

(1)『あぜ道のダンディ』に続く石井裕也監督の作品であり、また、『ゼブラーマン2』や最近の『モテキ』に出演している仲里依沙が主演とのことで、大いに期待したのですが、何回も彼女の口から飛び出す「粋だねっ!」の台詞に、どうも最後まで馴染めませんでした。

 もう少し作品に接近してみましょう。
 冒頭暫くすると、妊婦の光子仲里依沙)は(注1)、住んでいたマンションを引き払い、旅行鞄一つと300円を持って外に出ます。
 公園を通りかかると、保険会社をリストラされた男(近藤芳正)がベンチに座って泣いているので、その300円をあげてしまいます。
 光子は、「風が向いていないときは、昼寝が一番。風向きが変わったら、その時、ドーンと行けばいいんだから」と言って、暫くベンチで休み、空の雲が動き出すと、「ホラ風向きが変わった。行くかな」とタクシーを捉まえて、「あの雲が流れる方へズーッと行って」と乗り込み、昔いたことのある長屋に辿り着くと、タクシー料金など払わずに降りて、ズンズン行ってしまいます。

 そして、光子は、その長屋の大家・稲川実代子)と運命的な再会を果たします。



 というのも、15年前に、両親(並樹史朗と竹内都子)が営んでいたパチンコ店が立ちゆかなくなって、夜逃げしてこの長屋に3人が転がり込んだことがあり、その際に清から、「あんたらは、所詮夜逃げだろう。だけど、あんたらばかりじゃない、みんなでドーンといけよ。粋に生きようとする姿勢が必要だ」とか、「金のない人間には、粋と人情だけが残されたもの」などと、その後の光子の人生観の核となることを言われているのです。

 光子にとって、さらにモウ一つ運命的な再会がありました。その長屋を出て元のパチンコ店に戻るときの別れ際に(注2)、「大きくなったら結婚してくれ」と言われた陽一中村蒼)に出会ったことです。



 彼は、伯父の次郎石橋凌)と一緒に、相変わらず同じ長屋に住み、同じレストランで働いているのです。15年前には、レストランで客の呼び込みをしている陽一を見て、光子は「粋だね」と思い、また今回も、彼が大家の世話を焼いているのを見て「粋だね」と言ったりします。

 物語は更に進行しますが、とにかく光子は、何でも「粋だね」、「OK」とか「大丈夫、大丈夫」とか言って、自分なりの考え方でドンドン前に行こうとするのです。
 周囲の人々は、その勢いに気圧されてしまうのでしょうか、敢えて異を立てようとはしません。
 ただ、彼女の一本調子なところを、映画はくどく描きすぎているのでは、という気がしました。

 仲里依沙は、やっぱり『ゼブラーマン』の黒ゼブラでしょうし、また『モテキ』でも、そんなに長い出番ではありませんでしたが、アゲ嬢・愛もなかなか良かったと思います。
 ですが、今回の光子役では、その魅力がうまく生かされていないように思え、残念でした。

(2)本年7月に、石井裕也監督の前作『あぜ道のダンディ』を見たばかりなので、どうしてもそれと比較してみたくなります。

 両作で共通するところが、いくつかあると思われます。
 例えば、前作の主人公の宮田(光石研)も、本作の光子と同様、頗る一本気で、無理を承知しながらも、なんとか子供達を東京の大学に通わせようとどこまでも頑張るのです。
 また、宮田の胃癌騒動は、身体の異変という点で、光子の妊娠と類似するといえるでしょう。そして、胃癌に違いないという宮田の思い込みは、検査によって解消されますし、光子の妊娠も出産によって解消されることになるでしょう。

 ただ、宮田は、どこまでも自分一人でやり通そうとする光子と違って、真田という絶妙の相棒を持っているのです。それに、真田を演じる田口トモロヲのひょうひょうとした味のある演技ともあいまって、宮田の一本気は、観客側にとってそれほど押しつけがましく感じられません。
 また、前作で印象深かったのは、皆で「兎のダンス」を歌うシーンですが、本作ではそれが見当たりません(『川の底からこんにちは』でも、傑作な社歌を歌うシーンがありました!)。

 総じて言えば、クマネズミとしては、前作の『あぜ道のダンディ』の方を買いたいと思います(いくらなんでも28歳の監督が、年2作というハイスピードで傑作を作り続けるのは無理なのでしょう!といっても、クマネズミにとって石井監督の作品は、★3つが最低持ち点なのです)。

(3)本作品は、“とにかく頑張っていこう”というテーマが、鮮明に、かつ前面に出てしまっています。
 もちろん、これまでの作品にもそうしたテーマはスグに見て取れますが(特に、『川の底からこんにちは』)、他のファクターでうまくまぶされて嫌味を余り感じませんでした。
 でも、今回の作品のように、モロにしつこく何回も提示されると、見ているこちら側としては、それからはドンドン引いてしまい、別のファクターに注意を向けたくなってきます。
 例えば、空に浮かぶ雲の固まりがスーッと動く様は、なんだか同監督の『ガール・スパークス』の空を飛ぶロケットを思い出させますし、喫茶店のママ(斎藤慶子)に思いを告白できないレストランの次郎とか、映画の冒頭に登場する会社をリストラされた男なども、同監督作品にお馴染みの“ダメ人間”だな(注3)、それに、次郎達が住んでいる長屋は、このところの邦画でお馴染みの日本家屋だな、などなど。



 特に、長屋の地下に埋まっていた不発弾が爆発して(注4)、寝たきりだった大家がスクッと立ち上がれるようになるなど風向きが変わるのは、マズマズの仕掛けといえるでしょう(注5)。

(4)渡まち子氏は、「光子には自分を顧みず人を助ける、義理と人情こそが“粋”の定義なのである。ただ、彼女が“粋”という言葉を頻繁に口に出しすぎて、かえって野暮に聞こえてしまうのは私だけか? 1983年生まれの石井監督世代が感じる粋とはどんなものなのかが知りたくなる。いずれにしても破天荒な妊婦ヒーロー(ヒロインだけれど)が周囲を元気するこの物語、仲里依紗のカラリとしたキャラのおかげで、見ていてるこちらまで励まされる、賑やかな作品に仕上がった」として60点を付けています。
 福本次郎氏は、「本来、彼女(光子)の善意の空転ぶりが面白いはずなのだが、切れ味の悪い映像はユーモアにまで至らず、いつまでたっても笑いが弾けないのには閉口した」として40点を付けています。



(注1)光子は、かかりつけの産婦人科医に、「また逆子に戻っちゃったね」とか、「妊娠9ヶ月目でまだ吐き気があるとは、なかなか安定しないね」、などと言われます。
 暫くしてまた行くと、「安定期がなかった人だね」と医者に言われますが、光子は、「あたしの人生には安定期はなかったんだ。でも、それでいいんだ、自信ありますから」と言い返します。
 なお、お腹の中の子供について、光子は、「ジャック・ハドソンの子供。彼は黒人で、流れでアメリカに行き、そこで捨てられて帰国した」などと話しています。

(注2)その時は、長屋暮らしはスグに切り上げることが出来ました。その後両親は、15年ほどパチンコ経営に勤しむのですが、またまた銀行融資が受けられなくなって、再度この長屋に転がり込んできたところ、カリフォルニアにいるものとばかり思っていた光子に出会うことになります。

(注3)昨年5月29日の記事の(3)をご覧下さい。

(注4)長屋の大家は、「東京大空襲の際に、この長屋だけは焼けなかったものの、不発弾がいくつか残ったままになっている、そのため、気づいたら長屋の連中は皆いなくなっていた」、「もう人情も粋も日本に残ってはいない」と話しています。

(注5)不発爆弾の爆発のような一発逆転の仕掛けは、これまでの石井裕也監督の作品では、あまりみかけないようです(ただ、『ばけもの模様』の女主人公は、夫をバットで一発殴って重傷を負わせることで、便秘が治ってすっきりしますが)。




★★★☆☆





象のロケット:ハラがコレなんで

サウダーヂ

2011年11月14日 | 邦画(11年)
 『サウダーヂ』をユーロスペースで見ました(注1)。

(1)個人的事情もあって比較的よく知っている甲府市を舞台にし、それもブラジル日系人が登場すると聞き、なおかつ、『映画芸術』誌で特集を組まれたりもしたので(注2)、是非見たいものだと思っていました。
 ところが、その公式サイトの「劇場案内」を見ても、しばらくは、8月下旬の1日限りの上映が甲府市内の映画館で行われることしか、掲載されていませんでした。
 としたところ、渋谷ユーロスペースでロードショーと聞き及んで、勇躍、出かけた次第です(当初はレイトショーだけだったところ、今や1日3回の上映になっています。今月25日まで)。

 39歳の富田克也監督の3本目の作品であり、出身地である甲府市の状況を、土方のセイジとラッパーのアマノを中心にして、日系移民をも交えつつ、描き出しています。

 甲府市は、東西に走る中央本線によって南北に分断され、甲府駅の北側には武田神社などがあるものの、商店街は専ら、舞鶴城公園とか県庁のある駅の南側で発展していました。特に、岡島百貨店の周囲は、いくつもアーケード街があって、かなり賑やかでした。
 ところが今や、そこにあったはずの商店の大部分がシャッターを降ろしていて、ところどころは歯が抜けたように駐車場になっています(注3)。



 これは、中規模の県庁所在地がどこでも抱える、中心市街地の空洞化現象の一つの表れといえるでしょうが(甲府市の場合、大型ショッピング・モールが作られた昭和町の方に中心が移っているようです)、大きな流れとしては、停滞する日本経済に起因するとも考えられ、それは、土方のセイジの仕事の減少といったところにも現れ、また沢山いる外国人労働者の生活にも現れています。

 映画の冒頭は、セイジ鷹野毅)が、新入りの保坂伊藤仁)と、「15番」というラーメン屋で飯を食べている場面。
 セイジが保坂に向かって、「午前中、きつかったでしょう。ここ悪現場なんですよ」と言うと、保坂は、「ついてなかった、でも俺、派遣だから」と言い、さらに「俺、タイに住んでいた」などとも打ち明けます。
 こうした場面などから、セイジは35歳くらい、土方の仕事を長く続けており、ただ今の現場は水が出るところで、かつ石もあり、仕事が相当きついことなどが分かってきます。
 さらに、日本人の妻・恵子工藤千枝)がありながらも、別途タイ人ホステス・ミャオに入れ揚げている様子です。

 また、一時は一つの団地を丸ごと占拠していたほど大勢いたブラジル日系3世達は、日本経済の停滞とともに、職場がなくなってドンドン帰国してしまいます。
 映画で象徴的なのは、ある日系ブラジル人の家族の食事風景で、夫ロベルトは、日本語混じりのポルトガル語で、「もうそろそろブラジルに帰らないといけないと思うよ」などと子供達に話しますが、フィリピン人の妻メイは、日本語と英語とポルトガル語のチャンポンで、子供に「ブラジルに帰りたいの?」、「でも、一度ブラジルに帰ってしまったら、日本には2度と戻れないし、フィリピンにも行けなくなってしまうよ」などと話します。
 彼らは、小綺麗な団地に住んでいたのですが、やがて一家を挙げてブラジルに帰って行きます。

 ただ、ディスコでは、そうしたブラジル人達の勢いが未だ強く、ラッパーのアマノ田我流)は、いくら♪政治家が一番のギャングスター♪などと声を張り上げて歌ってみても、あまり聞いてはもらえず、相当苛ついています。



 ラッパー達と一緒に国道の側を歩いているときでも、アマノは独り、「俺たちの歌を全然聞いてない、なんとかしなくちゃいけんよ」などと言い募ります。

 という具合に映画は映し出されていきますが、それぞれの物語は、ゆるく交錯しつつもほぼ独立して展開され、それらが大きな流れに押し流されていくように描かれることによって、全体として、甲府市の今、ひいては日本の今を浮き彫りにしようと作り上げられています。

 まず、土方のセイジに関しては、一方で、所属している会社の親方から事業を止めることにしたと告げられ、職を失い、他方で、入れ揚げているタイ人ホステスに「タイに行って一緒に暮らそう」と言うも、あっさりと断られてしまいます(注4)。

 アマノの方は、昼間は、建築現場でセイジたちと一緒で、土のう作りなどのアルバイト仕事をしています。その際にも、日系人がらみと思われる窃盗事件に遭遇すると、「あいつらはロクなことをしない」と、ディスコでの恨みがさらに増幅してしまうようです。

 そのアマノは、幼馴染の「まひる」(尾崎愛)の企画でブラジル人たちと一緒に舞台に上がることを了承するも(注5)、「まひる」が単に挨拶として抱擁した相手のブラジル人を、その彼氏と誤解して追いかけた挙句、ナイフで刺してしまいます。

 結果として、甲府市の観光名所やその明るい未来を描く御当地物とはほど遠い(注6)、実に興味深い作品が出来上がり、3時間近い長尺(167分)ながら、大層面白く見ることが出来ました。

 映像として興味深いところは幾つもありますが、例えば、冒頭の工事現場のシーンは様々なことを示唆しているように思われます。すなわち、ビルの土台を作るために、セイジら土方が地面を下に掘り進むのですが、後から後から水が湧き出てくるのです。
 常識的には、セイジらを待ち受けている苦労の種が尽きないことを読み取れるものの、また、毛嫌いしようが何しようが、外国から長期滞在者がドンドン日本に入り込んできてしまっている状況を表しているともいえるかもしれません。

 また、アマノが心を寄せている「まひる」が企画するイベントは、ブラジルの土着格闘技「カポエイラ」とアマノ達の日本語の歌とを同じ舞台に上げようとの企画ながら、アマノがブラジル人の若者を刺してしまうということは、両者はそれほど簡単に融合などできないことを示唆しているのかもしれません。

 こうした様々の印象的な映像に加えて、さらにまた、出演している人たち一人一人が実に生き生きと描かれていて、まるでドキュメンタリー映画を見ているように思われるほど、足が地に着いた感じがするからでもあると思われます。
 実際には、プロの俳優はごくわずかで、出演者の大部分が地元の人たち、ということも与っているのでしょう(注7)。

(2)季刊誌『映画芸術』夏号(No.436)に掲載された論考(P.48~)で、社会学者・宮台真司・首都大学東京教授(注8)は、本作について、「あえて言えば、「客観的」で綿密な社会観察と、それをベースにした「主観的」で強力な世界観の、組み合わせ。「僕たちよりも社会を知る者たちの世界観だ」と身をゆだねることができる」等と論評した上で、「本作の意味を深く理解する」のに必要な知識として、次のような事柄を取り上げています。

a)日本では、「「いわゆる単純労働者」を排除することになっている。だが、外国人の「いわゆる単純労働者」なくして、既に日本は回らない。そこで、さまざまな制度を用いた「ペテン」がまかり通っている」。

b)すなわち、「一般永住者に占める割合がいちばん高いのが中国人で、30%、約17万人、続いてブラジル人で、21%、約12万人、だ。彼らは制度の「ペテン」によって長く在留した人たちである」。

c)「中国人の場合は技能研修という「ペテン」」。
 「研修だけで労働をしない建前なので、労働基準法が適用されないから妥当な賃金を支払う必要がなく、僅かな手当だけ渡される」。

d)ブラジル人の場合は日系人という「ペテン」。
 「1989年に入管法が改正され、日系三世(より以前)とその扶養者は全員、無条件で定住ビザを貰えるようになった」。
 「かくして、日本語を解さないポルトガル語コミュニティが、工業団地や周辺に分布するようになった」。

 こうした事態がそのまま放置されていると、ノルウェーで本年7月22日に起きた銃乱射事件のような、悲惨な出来事が突如として日本でも起きかねないのでは、と思ってしまいます。
 本作でも、ラッパーのアマノは、「あいつら(日系ブラジル人たち)、ファベイラというゲットーから出てきた。俺たち舐められている。俺たちも、マジにならないといけない」と、敵意をあらわにします。

(3)この映画を論じたものは、例えば次のようなものがあります(注9)。
 日経新聞編集委員の古賀重樹氏は、「こころの荒廃に加え、過激な民族主義が台頭するという物語もあながち空想とは思えない。土木労働者をはじめ現実に甲府近辺で働く人々を配役し、じっくり撮影した。画面は力強く、その存在感に圧倒される」と述べ、星5つのところ5つ(「今年有数の傑作」)をつけています(10月14日付)。
 次いで、上記(2)で取り上げた『映画芸術』夏号に掲載された論考「やまなしの水は」において、詩人の手塚敦史氏は、「これほどまでに好ましい後味の悪さとインパクトとを併せ持つ映画は、久しぶりに観たように思う。派手なアクションや映像美といったものには依拠せず、生きている根源的な側面を引き寄せる力のありかと、それを丹念に確認する手触りとが、ここにはあるのだ」(同誌P.46)等と述べています。
 また、ブログ「映画芸術DIARY」に掲載されている「『サウダーヂ』クロスレビュー」において、ライターの若木康輔氏は、「いい映画の価値には娯楽、美学から社会啓蒙の意義まで色々あり、そのひとつに、すでに大勢が意識の下で思い当たっているけれど形にならなかったことを提示し、気付かせてくれる、鏡の効果がある。ああ、言われてみれば確かにそうだよ! というやつ。『サウダーヂ』にはその、言われてみれば、がある。いまは地方の市街を描いたら別に狙わなくても国際色たっぷりになるのだ。この切り口の発見ひとつだけでも、僕らの視界は相当に拡がる」等と述べています。
 さらに、同じ「クロスレビュー」において、映画監督の深田晃司氏は、「そのスクリーンに映し出される顔の得も言われぬ説得力にやはり驚かされた。確かに彼らはジャンキーであったりヤクザであったり移民であったりと、ある社会的雛形を背負ったキャラクターとして設定されているが、それは腐るほど繰り返された物語のステレオタイプにギリギリのところで決して隷属しない」等と述べています。



(注1)“サウダージ”については、10月2日の記事の「注2」を参照。
 なお、下記の「注9」で触れている「宇多丸」氏は、「ここではないどこかに憧れる」ことが「サウダーヂ」だと述べています。

(注2)月刊誌『シナリオ』12月号には本作のシナリオが掲載されています(ただし、実際の映画とは、様々な個所で違いも見受けられるところです)。

(注3)例えば、このサイトの記事を参照。

(注4)セイジが、「俺、向こうで働くから、向こうで一緒に暮らさない?俺、こんなところ嫌なんだ。何も起きないよ。タイにだって土方の仕事があるだろう」などと言うと、タイ人ホステスは、「ダメ。向こうはとっても安いから無理。家族を養えない」などと答えます。

(注5)映画では、「カポエイラ」というブラジル生まれの格闘技を演じるグループが映し出されています。

(注6)ビルの屋上から甲府の中心街を見下ろしながら、保坂が「この街もモウ終わりだな」と言うシーンがあります。
 なお、保坂は、タイにも住んでたことがあるようで、セイジと一緒に「水パイプ」を吸っている時に、「掘りまくれば、真下はブラジル、ちょっと曲がればタイ!」などと叫びます(サバンナ八木の「ブラジルのみなさん、聞こえますかあ」を思い出します)。



(注7)たとえば、アマノを演じた田我流は、山梨県で活動するMCで、今回映画初出演。

(注8)驚いたことに、本作では、宮台氏が、民寿党の若手政治家・赤尾大輔として出演しているのです!演説会のシーンがあり、「個人と個人のふれあいをモット大切にしたい」などと述べています。なお、セイジの妻は、赤尾の熱烈な支持者になっています。

(注9)『SRサイタマノラッパー2』の(5)「で触れた宇多丸」氏のTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の11月5日分の放送で、本作について同氏の論評を聞くことが出来ます。
 その中で同氏は、本作は今年屈指の傑作であり、日本語ラップ映画として、『サイタマノラッパー』と表裏一体をなすのではないか、『サイタマノラッパー』は、崖っぷちに立たされた個人が立ち直っていく様子を描き出すが、『サウダージ』は、個人は無力だが、それでもここではないどこかを憧れてる様子を描いており、かつ映画の外側の社会にまで触れようとしている、などと語っています(大体の趣旨ですが)。


★★★★★





ステキな金縛り

2011年11月12日 | 邦画(11年)
 『ステキな金縛り』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)あれだけ様々な手段でPRすればそうなること必定でしょうが、大きな映画館が観客で一杯でした。

 映画の主役は、裁判でドジばかり踏んでいる弁護士・エミ深津絵里)。これが最後だぞと、所属する法律事務所の上司・速水悠阿部寛)に宣告されて渡された案件は、自分の妻・鈴子竹内結子)を殺害した容疑で逮捕起訴された男(KAN)を巡るもの。
 同人は、アリバイを立証できないために窮地に陥っているものの、犯行時刻には別の場所にいたとして、犯行を全面否認しています。
 エミは、被告の主張を検証すべく、奥多摩にある旅館「しかばね荘」に行くと、被告の証言通り、落武者・更科六兵衛西田敏行)の幽霊に遭遇します。
 そこでエミは、更科六兵衛に裁判で証言してくれるよう頼み込み、なんとか了解をもらいます。
 はたして、そんな前代未聞の裁判は、エミの思惑通りに実現するのでしょうか、実現できたとして、エミは裁判に勝てるのでしょうか……。

 さすが、三谷幸喜監督が、構想10年のアイディアを作品化しただけのことはあり、やや他愛がないという感じは伴うものの、物語はそれなりの面白さを持っていますし、なおかつ、裁判映画であって、一応の謎解きまで備えているのですから、サービス満点といえるでしょう。
 それに、超豪華メンバーのオンパレードで、主演の深津絵里が持てる力をフルに出して素晴らしい演技を披露しますし、幽霊役の西田敏行も、喜劇俳優としての第一人者ぶりを縦横に発揮(2009年の『釣りバカ日誌ファイナル』以来でしょうか)、上司の阿部寛はタップダンスを見せ、検事役の中井貴一エアドッグ(注1)までやってしまいますし、また、浅野忠信、佐藤浩市、深田恭子や篠原涼子、市村正親、などなど錚々たる面々が、次から次に出演するのですから堪えられません。





 ただ、深津絵里が主演ながら、彼女を巡るラブ・ロマンスの面がほとんどないのが物足りないところでしょうか。彼女の上司の阿部寛とか、裁判における担当検事の中井貴一が、独身状態と見られるにもかかわらず、そんな様子は全然見られないのです。
 それに、何の兆候もなし上司の阿部寛が突然死んでしまうというのも、彼に冥界にいる事件の被害者を連れてきてもらうためかもしれないものの、観客側としてはあまり納得がいかないところです。

(2)この映画を巡っては、他の作品の監督とは桁違いに多くの回数 、三谷幸喜監督があちこちに露出しています。

 TV・ラジオなどへの出演ぶり等については、公式サイトにある「メディア露出情報」を見れば一目瞭然ですし、また、他の作品ならば、劇場用パンフレットにおいては、映画評論家のエッセイが2、3本掲載されるところ、本作についてはそんなものは見当たらず、代わりに監督自身の「ロング・インタビュー」とか、監督が本作を製作するに当たってインスピレーションを受けた映画、といったものが掲載されています。

 それもこれも、すべてをさらけ出しサービスすることによって、制作側のみならず、観客側も皆一緒になって映画を楽しみましょうということでしょう。
 それはわからないではありませんし、そうしたものが嫌なら見なければいいのですから!
 ただ、こうも多く顔を出されると、観客側としても少々煩わしくなってくるのではないでしょうか(注2)?
 そして、そんなに言うのなら少しチャチャを入れてみようでは、という気にもなってきます〔野暮で申し訳ありません(でも、仲里依紗さんから「粋だね」なんて言われても仕方ありませんし!)〕。

 例えば、劇場用パンフレットに掲載されている「ロング・インタビュー」の終わりの方で、「出来上がったものは過去の4本に比べると一番映画っぽくなっている気が」するが、その「理由のひとつに、主人公エミの日常生活を描いているということがあ」り、「ベッドルームが出てきて、彼氏まで出てくる」と述べています。
 ですが、あんなに生活臭のないダイニングキッチンで、彼氏の工藤万亀夫木下隆行)がフライパンを使っている姿とか、あんなに新品のベッドで2人が川の字になって寝ているシーンによって、はたして日常生活が描き出されているといえるのでしょうか?

 それに、この彼氏の存在は疑問に思えるところです。エミに彼氏がいるということで、この映画からラブ・ロマンスの要素がなくなってしまっているのですから。
 確かに、役者である工藤のツテで、TV局のスタジオに入れて、チャンバラシーンに立ち会うことができたりするのですから、全く意味がないわけではないでしょう。ただ、皆の関心が更級六兵衛に集まってしまい、自分が無視されているのを感じたときに、彼は家出をしようとしますが、エミは断固としてそれを引き留めようとしないのですから、エミを工藤とは引き離して、もっとラブ・ロマンスの中に置いてもおかしくはないように思えるのですが?

(3)そんなことはサテ置いて、「幽霊」です。
 本作の英題(?)は『A GHOST OF A CHANCE』とされていますが、このところ幽霊(ゴースト)を扱う映画が多いような気がします。
 9月に見た『ゴーストライター』では、「ゴースト」といっても比喩的に使われているところ、『東京公園』では、榮倉奈々の彼氏だった染谷将太の幽霊が、生きている時のままの恰好で登場します。この場合、榮倉奈々には見えないものの、親友の三浦春馬には見えるのです(マサカ、彼がシナモンを好んでいるわけではないでしょうが!)。

 それでも、その映画とか本作に登場する幽霊と、一般に考えられている幽霊とでは、だいぶ異なっているのではないでしょうか?
 本作に頻繁に登場するのは、西田敏行が扮する更級六兵衛の幽霊。
 ただ、囚われの身になって打ち首になって死んだはずなのに、幽霊は鎧を着けてちゃんと首が繋がっています。そればかりか、両足がついていて、裁判所内を縦横に歩き回ります(注3)。

 ですが、一般の幽霊は、例えば、下の松井冬子氏(昨年1月7日の記事の中で触れています)が描くものが典型的だと思いますが(注4)、死んだ時の姿で、それも下半身がない状態で現れるものではないでしょうか?



 あるいは河鍋暁斎の次のような「幽霊図」(部分、1870年)。



 むろん、だからといって本作の更級六兵衛の幽霊がおかしいというわけでは更々なく(注5)、むしろ常識的なものに囚われていない奔放な姿の方が、本作に適っているようにも思われます(注6)。
 とはいえ、更級六兵衛の幽霊は、「証人」に該当するかどうか疑問なしとしないのですが(注7)?また、「証人」になり得るとしても、幽霊は、はたして被告を「金縛り」状態にすることなど出来るものでしょうか(注8)?それも“ステキ”に!?

(4)渡まち子氏は、「さすがは構想10年。練られた脚本は笑いのツボを押さえていて、監督5作目となる三谷幸喜の手腕は相変わらず見事」で、「法廷ものとしては弱いが、人情劇として楽しめる」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「映画は殺人事件を担当する弁護士が落武者の幽霊と心を通じ合わせていくうちに、亡くした父への感情と仕事に対する自信を取り戻していくまでを描」いており、「髪を振り乱して周囲の人々を動かすコミカルかつエネルギッシュなヒロインを深津絵理が熱演、スクリーンから強烈な吸引力を放っていた」として60点をつけています。



(注1)「エアドッグ」ならぬ「エアギター」についてなら、『トイレット』を取り上げた記事の(2)で触れています。

(注2)監督が本作を製作するに当たってインスピレーションを受けた映画として挙げられている中に、例えば、クマネズミの大好きな『真夜中のサバナ』があり、それに関して、「(山本耕史さんについて)ずっと僕は彼を日本のケビン・スペイシーにしたいとおもっているんです。今回も『真夜中のサバナ』のケビン・スペイシーとほぼ同じようなメイクにしてもらいました」との監督による注釈付きですが、和風ケビン・スペイシーなど使い道が他にあるのでしょうか!

 逆に、郷土史家役の浅野忠信の格好は、例えば『父と暮らせば』(2004年)で、宮沢りえの美津江が心を寄せる木下青年と類似している、といったくらいの注釈ではどうでしょうか(ちなみに同作では、先般亡くなった原田芳雄が、父親・竹造の「幽霊」役として出演しているところです)?

(注3)辻惟雄監修『幽霊名画集』(ちくま学芸文庫)に掲載されている諏訪春雄氏のエッセイ「日本人の幽霊観と全生庵幽霊画」には、「幽霊が足をうしなった理由」として、「死者の乗物に雲が使われたこと」と、「地獄で亡者が鬼たちによって足を切られると信じられていた」ことが挙げられています。

(注4)『夜盲症』(2005年)。
 なお、この作品をも含めた「松井冬子展」が、12月17日から横浜美術館で開催される予定です。この展覧会は、「公立美術館における初の大規模な個展」とのことで、今から楽しみです。

(注5)Wikipediaの「幽霊」のには、「日本では幽霊は古くは生前の姿で現れることになっていた」が、「江戸時代ごろになると、納棺時の死人の姿で出現したことにされ、額には三角の白紙の額烏帽子をつけ白衣を着ているとされることが多くなった」などとあり、特段、確定的な姿形などないようです。

(注6)ただし、更級六兵衛の霊が、特定の誰かを恨みに思って出現するのではなく、「しかばね荘」の特定の部屋に繰り返し出現するということであれば、池田彌三郎著『日本の幽霊』(中公文庫)における議論(P.54)を踏まえると、「幽霊」というより、むしろ「妖怪」と呼ぶべきなのかもしれませんが。

(注7)刑事訴訟法第143条 「裁判所は、この法律に特別の定のある場合を除いては、何人でも証人としてこれを尋問することができる」における「何人」に、はたして「幽霊」は該当するのでしょうか?

(注8)残念ながら、本作においては、更級六兵衛から重要な証言が開陳される前に、真犯人が明らかになってしまい、裁判は終わってしまいます。
 ただ、Wikipediaの「金縛り」のには、「人が上に乗っているように感じる、自分の部屋に人が入っているのを見た、耳元で囁かれた、体を触られているといったような幻覚を伴う場合がある。これは夢の一種であると考えられ幽霊や心霊現象と関連づけられる原因になっている」などとあるものの、このサイトの記事によれば、「20世紀初頭、ドイツの医師団は死期が迫っている人を精密な体重計に横たえて、死亡直後に約35g体重が減ることを確認した」そうですし、また「人間の魂の重さは21g」とするもあるようで、仮にそのくらいの体重だとしたら、幽霊に上に乗られても金縛り状態になるとは思えないところですが?
 ただ、更級六兵衛は鎧を着用していますから、それで重いかもしれません(ちなみに、『一命』に登場する井伊家の甲冑は、このサイトの記事によれば24.5kg)。でも、鎧もシナモンを愛用していないと見えないのでは?ということは、鎧も霊魂?
 ちなみに、小泉八雲の「耳無芳一」にも、芳一を案内する「武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した」と書かれているところで(戸川明三訳の青空文庫版)、幽霊が鎧を着けていてもおかしくはなさそうですが。



★★★☆☆




象のロケット:ステキな金縛り

シャッフル

2011年11月06日 | 邦画(11年)
シャッフル』をシネマート新宿で見ました。

(1)このところ観客数が極端に少ない映画ばかりを見ている感じで、この作品も、前々回取り上げた『ヤクザガール』よりも若干多目とはいえ、10名に満たない観客数でした。

 この映画では、最近アチコチの映画でちょこちょこ見かける金子ノブアキ(例えば、『書道カールズ』における書道部顧問役とか、『モテキ』では、長澤まさみと同棲している音楽プロデューサーの役を演じています)が主役の戸辺として熱演しています。



 お話はどんでん返しの繰り返しです。
 戸辺とその仲間のギャング団が、銀行強盗をして5億円ほどを盗み取ったものの、盗んだ金の隠し場所を知っている戸辺が記憶喪失状態に陥ってしまいます。ですが、数時間後に通貨の切り替えが実施されるため、それまでに盗んだお金を銀行に持っていって換金しないと、紙くず同然となってしまうというのです。そこで、仲間は、戸辺の記憶を取り戻すべく、1箇所に集まって、彼に恐怖を味わわせたり混乱状態を引き起こしたりします。
 しかし、自分たちしかいないはずの場所に、モウ1人いて、どうやら彼が全体を取り仕切っているらしいことが分かってきたり、仲間も決して一枚岩ではなく、別の情報を持っていたりして、当初考えられていた状況からはドンドンずれていきます。果たして、彼らはお金を上手く手にすることが出来るのでしょうか、……?

 この映画の舞台は、ところどころで外部の世界が描かれますが、大部分は建物の一室に限られます。というところから、『キサラギ』(2007年)と類似したものといえるでしょう(舞台戯曲を映画化した点でも、また主要な登場人物が男5人なのも同じです)。
 また、人数が2人と5人と差があったりしますが、ラストの雰囲気などは、『アリス・クリードの失踪』と類似するところが若干ながらあるようにも思います。
 ただ、どんでん返しがこうも多用されると、見ている方も次第にインパクトを受けなくなってきて、その次の展開が読めるようにもなってきます。どんでん返しは、やはり、最後に乾坤一擲の勝負を賭けて仕掛けるべきものではないでしょうか?

 とはいえ、新劇臭さは感じられるものの、1室に集まった仲間は、戸辺の記憶を蘇らせようとシナリオを作って演じているという設定(言わば劇中劇になっていると思います)によって救われているように思われます。わざとそのように演じることによって、戸辺に恐怖を味わわせたり、彼を混乱させたりして、その記憶を蘇らせようとするのですから。

 金子ノブアキ以外で注目される俳優としては、『あぜ道のダンディ』で主役を演じた光石研がギャング団を追う警察の刑事役に扮しています。といっても、よれよれのコートを着たうらぶれた男という刑事物でよく見かける格好をしているわけではなく、ソフト帽を被ったダンディな出で立ちで(同僚の刑事は、アメリカの保安官スタイルです)、外見だけからすれば『あぜ道のダンディ』の流れに乗っかっている感じでもあります。

(2)これ以降は、ネタ晴らしになりますので、未見の方はご遠慮願いたいのですが、最初は戸辺の記憶を蘇らせるべく、戸辺以外の4人がシナリオに従って行動しているはずだったところ、途中から、彼らの中に、銀行強盗の情報を警察に流した裏切り者がいて、それを焙り出すためのものだということが明らかとなります。
 その裏切り者が判明して射殺された後に、さあそれでは奪った金を残った皆で山分けしようというまさにその段になって、戸辺の仕掛けた毒入りミルクの効果が現れて3人は息絶えてしまいます。
 結局、戸辺は5億円を手中に収め、その建物を出て外を歩いていると、愛人だったカオリが車に乗って出現し、彼を射殺して金を奪って光石研の刑事と共に走り去ります。
 ですが、……。

 ただ、全体として学芸会風な雰囲気の中で物語が展開している時に、突然拳銃が持ち出されて人が射殺されたり、また毒入りミルクで殺されたりすると、見ている方は、何もそこまでしなくともと違和感が先だってしまいます。
 そんなに悪い奴らの集まりというのであれば、いくら自分たちが拵えたシナリオに従って演じているとはいえ、あのような和気藹々とした雰囲気は場違いな感じが否めず、だったらこんな手の込んだことをせずとも、最初から戸辺は4人を毒殺してしまえばいいのではないのか、などという感じにもなります(別に、裏切り者を焙り出すまでもないのではないでしょうか)。
 それに、こうもどんでん返しが多いと、そこまでするのなら、射殺された裏切り者が実は生きていたとか(防弾チョッキを着装していたなど)、毒入りミルクを飲んだ振りをして戸辺が出て行った後に3人が生き返って彼を追いかける、といったことにどうしてならないのか、など見ている方としては、至極落ち着かない感じになってしまいます。

(3)また、こんな点はどうでもいいことなのですが、ギャング団が盗んだお金が円ということは、まだその時点では通貨単位の切り替えが行われていなかったのでしょう。そして、5人が1週間後に1室に集められたその日の午前0時以降、円は通用しなくなって紙くず同然になってしまうとされています。となると、本作における通貨の切り替えは、極めて短い期間(せいぜい1週間)で行われるということになります。
 その前に、切り替えをするという政府広報が事前になされていれば、ギャング団は円など盗まなかったでしょうから、はなはだ唐突に切り替えが発表されて実施されたことになります。
 ですが、平時において、国民の生活に直結する通貨の切り替が、そんな短時間で行いうるものだとは考えられないことです(注1)。
 アナログから地デジへの切り替えを見ても分かるように、そうした事業は数年がかりで準備した上で行われるのが普通であり、長くて1週間という短期間でことが済むことなど考えられないことです(注2)。
 それに、銀行から奪ったお金は、通常は番号が記録されているはずですから、それを持って交換しにノコノコ銀行などに行ったらたら、すぐさま御用になってしまうでしょう。

 でも、こうしたありそうもない設定は、『スイッチを押すとき』のあり得ない設定(自殺率が異常に高いこと)よりもはるかに受け入れやすいものです。というのも、経済的な事柄に関する設定は、どのみち人の生死といった重大問題に関与しませんから、どうでもいいと言えばどうでもいいと思われますから。


(注1)終戦直後という非常時の「新円切り替え」の場合は、激しいインフレを抑えるために、昭和21年2月16日に金融緊急措置令等が公布され、新紙幣と旧紙幣の交換は2月25日から3月7日までの11日間とされました。

(注2)映画の中では、その日の3時に銀行が閉まるからそれまでに換金しないと大変だ、と言われていました。そうであれば、ラストで紙幣が空に舞い散り、それを仲間の1人の愛人だった女が拾い集めているシーンが描かれますが、最早その時間を過ぎてしまい、紙幣が紙くず同然になってしまっていることを表しているのかもしれません。


(3)渡まち子氏は、「記憶喪失の男に仕掛けた罠とその顛末を、二転三転、いや四転五転ばりのどんでん返しで驚かせることに全力をあげている」が、「ただ密室劇なのに、ときどき登場人物が画面から消えて他の部屋へ移る演出が、上手くない。多用する長回しもあまり効果的とは思えない。演劇ではOKでも、映画ではもう少し編集に工夫が必要だったのではないか。“誰も信じるな”の言葉は、観客に向けてのもの。騙される快感を味わいたい人にはお勧めだ」として55点をつけています。
 福本次郎氏は、「伏線が一切なく突然状況が反転するドンデン返しの連続は一瞬の気の緩みも許さず、強引とも思える語り口は見る者をグイグイと物語に引き込んでいく。まるで停滞を恐れるかのような息もつかせぬ展開は、欠点も含めて演劇を見ている気分だった」として50点をつけています。



★★★☆☆




象のロケット:シャッフル

スマグラー

2011年11月05日 | 邦画(11年)
 『スマグラー~おまえの未来を運べ』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)このところ『悪人』や『マイ・バック・ページ』で印象的な演技を見せていた妻夫木聡が出演するというので、取り敢えず映画館に出かけてみました。

 冒頭では、妻夫木が扮するフリーター・(役者を目指していました)が、騙されて300万の借金を背負い込むことになり、それを金貸しの山岡松雪泰子)から借りる代わりに、日給5万円の仕事を紹介されます。



 その仕事というのがスマグラーの手伝い。
 smugglerを英語辞書で調べると「密輸業者」としか出ていませんから、この映画は、てっきり麻薬などの密輸に係わるものなのかと思ってました。
 そしたら、あっけにとられてしまうシーンが息つく間もなく続きます。
 田沼組組長が、チャイニーズ・マフィアからくすねた覚醒剤を売りさばこうとしている現場に、突如、殺し屋の「背骨」と「内臓」が現れ、アレヨアレヨと見ている間もなく全員が簡単に殺されてしまいます。
 なんとスマグラーとは、こうした現場に転がる死体を秘密裡に運んで処分してしまう者をも指す言葉のようなのです。

 ここで登場するスマグラーのリーダーのジョーを演じるのが永瀬正敏。当初は、妻夫木の砧をお荷物視していたものの、次第に彼の考え方をポジティブな方向に変えるべく、色々手を差し伸べるようになるという重要な役どころです(注1)。

 それに、田沼組組長に扮するのが、B&Bの島田洋八と聞いて驚いてしまいます。相方の洋七の方は、「佐賀のがいばあちゃん」などで活躍振りは知られていますが、彼の方は何処へ行ったやらという感じだったところ、本作では、画面に突然現れると、他人の喫煙には我慢できない一方で自分は大の愛煙家であり、またツマラナイお説教を長々と垂れたりするという常識外れの親分役を演じるのです。
 これは面白いと思っていると、「背骨」の手にかかってアッサリと殺されてしまい、その頭部が切断されて、組の事務所に届けられます。

 組長の首が届けられた組のほうでは、タガの外れた凶暴な河島という男が復讐を叫びます。
 そしてこれに扮するのが、高嶋政宏。その演技には正直驚きました(注2)。映画の性格がかなり違うので一概に比べられませんが、テロリストに対して残虐な拷問を加える場面が長々と描かれる『4デイズ』を上回る残酷なシーンを、彼は演じているのではと思いました。

 というのも、実際に組長を殺した「背骨」の身代わりとして砧が河島の元に届けられ、河島は砧に対して、めちゃくちゃな拷問を加えるからです。
 ただ、彼に拷問される砧を演じているのを見ていると、確かにスマグラーの永瀬正敏はかなり格好よく演じているものの、やはり、次第に成長する主役をサポートする立場であって、主役は妻夫木聡ではないのか、特に、「背骨を演じるのだ!」と気を入れ替えて、自分を責め苛む河島をぶちのめす逆転劇は(注3)、そのような場面を設けたことと合わせて(注4)、それを演じる妻夫木は素晴らしいなと思いました。

 また、満島ひかりは、田沼組組長の妻・ちはるという設定ながら、本作の物語においては重要な役割を果たすのであり、やっぱり『一命』(瑛太の妻の役)よりも、こういう元気のある役の方が(注5)、その持ち味を出せるのではと思いました。



 さらに、「背骨」を演じた安藤政信は、一方でヌンチャクの達人であると共に、他方で、「さっきまで喋っていたやつが死ぬ。死ぬのが怖い」などと病内面を晒したりもするなかなか難しい役を、上手くこなしていて印象的です。



 加えて、山岡役の松雪泰子も随分と気合いが入っているなと思いました(注6)。



 物語全体として非常に面白く、加えて演じる俳優が皆個性を十分に発揮しており、映画としては、なんだか『モテキ』よりもこちらの作品の方を評価したくなってしまいます。

(2)本作は、真鍋昌平氏の漫画(注7)を実写化したものですが、映画との関係で見てみると、どうも絵コンテのような感じがしてしまいます。すなわち、原作・脚本・絵コンテまでが真鍋氏が担当し、それを石井克人監督が実写化したというような印象なのです。



 むろん、実際はそんなわけはないので、脚本・絵コンテ・編集は石井克人監督が手がけています(注8)。
 なにしろ、原作漫画では、冒頭がいきなり田沼組長らを「背骨」と「内臓」が襲撃する場面ですし、松雪泰子演じる金貸しの山岡は男、河島も太鼓腹の醜い男として描かれています。

 でも、例えば、「背骨」を運ぶトラックがコンビニで休憩しているときの、妻夫木の砧と満島ひかりのちはるとの印象的なやりとり(注9)は、両者でほぼ同一ですし、そのトラックに乗せられている「背骨」の様子はマサニ原作漫画そのものと言えるでしょう。なにより、主要な登場人物のキャラ設定(特にスマグラーのジョー)は両者でほぼ同一のように思われます。

 こんなところから、本作については、原作漫画と映画との距離がかなり狭まっているなと感じたところです(注10)。

(3)渡まち子氏は、「稀代の映像クリエイターの石井克人が映画化した本作は、刺激的なアクションとコメディの要素を盛り込んだ、スタイリッシュなエンターテインメントに仕上がっ」ており、。「クライマックスに凄まじい形相を見せる妻夫木聡がいいのは言うまでもないが、寡黙なスマグラーのジョーを演じる永瀬正敏の存在感が際立っていた」として65点をつけています。
 福本次郎氏は、「触れると切れるような狂気を孕んだ背骨に扮した安藤政信以外いイマイチ華のない男優たちに比べ、金貸しを演じた松雪泰子や極妻役の満島ひかりら女優の存在感が作品を引き締めていたのが救いだった」として40点をつけています。



(注1)ジョーは、「望まぬ日常に埋もれるカスにはなるな」などと、至極格好の良いことを言ったりします。
 また、ラストでは、砧に対して、「お前はクビだ。お前は、この世界に住む人間じゃあない」と言いながら、「退職金」としてチャイナのところからくすねてきたお金を渡します。

(注2)『探偵はBARにいる』では、弟の高嶋政伸が、これまたエキセントリックな雰囲気を持つ殺し屋の役を演じていました。

(注3)永瀬正敏のジョーが、「本気の嘘を真実にするのだ」と言っていたのを、砧は思い出します。

(注4)冷静に見ればファンタジーそのものですが、演じる妻夫木の気迫が物凄いので、そういうこともアリだよな、と思ってしまいます。

(注5)スマグラーと一緒にトラックに同乗しているときの話しぶりは秀逸です。

(注6)組長を殺した「背骨」を探しに河島らが山岡の事務所に来て、山岡は痛めつけられますが、その時の鼻血のまま電話を掛けるシーンが、ラストのクレジットでも使われていて、これは松雪泰子は相当気合いが入っているなと思いました。

(注7)漫画『スマグラー』は、2000年8月に単行本として出版されていますが、この9月に「新装版」が、「アフタヌーン」の本年10月号掲載のものが「特別編」として追加された上で、出版されています。

(注8)石井克人監督の作品は、『茶の味』(2004年)を見たことがありますが、ここでも「原作・脚本・監督・編集」は彼1人となっています。

(注9)砧は、タコ焼きを買ってきてちはるにもあげたところ、ちはるは「要らない」とごみ箱に棄ててしまいます。剰え砧に対して、「その顔ムカツク」、「なんで文句を言わない」、「言いなりは楽だからか?」、「誰からも嫌われたくないからか?」、「私は自分の居場所を築くためなら、争いを避けたりしない」など悪口雑言を並べ立てます。
 これに対して、砧は「俺はただ、キミが悦ぶと思っただけだよ」と言って立ち去りますが、その後でちはるは、棄てたタコ焼きをごみ箱から取り出して食べ、「うまいじゃんか」と言うのです。
〔以上は、原作漫画によっています〕

(注10)こんな感じは、例えば、『極道めし』ではマッタク受けなかったところです(現在も連載中の大長編であり、登場する人物の数も違っているなどからでしょうか)。





★★★★☆




象のロケット:スマグラー