映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

マリアンヌ

2017年02月28日 | 洋画(17年)
 『マリアンヌ』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)前回取り上げた『たかが世界の終わり』に出演しているマリオン・コティヤールが本作にも出演しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、プロペラ機の音がして、原題の「ALLIED」が映し出された後、夕日が沈んだ後に、主人公のマックスブラッド・ピット)が、落下傘で砂漠地帯に降下します。
 そして、「フランス領モロッコ 1942年」の字幕。

 マックスは、落下傘を外し、砂漠の中に設けられた土の道を歩きます。
 手にした双眼鏡で前方を見ると、1台の車がこちらに進んでくるのが見えます。
 念のためにピストルに手を掛けながら車を待つと、その車はマックスの前で回り込んで停まります。
 マックスが後部座席に乗り込むと、車はもと来た方向に走り出します。
 座席に置かれていたトランクを開けると、新しいパスポートや銃、資金が用意されています。
 運転手は、マックスに指輪を渡し、「あんたの“妻”の服装の色は紫で、目印はハチドリ」と告げます。

 カサブランカの市街に入ると、マックスは車を乗り換え、それでクラブに乗り付け、中に入っていきます。
 すぐに“妻”・マリアンヌマリオン・コティヤール)が見つかります。



 マリアンヌは、マックスと顔が合うと笑顔を返し、抱きついてキスをし、そこにいた友人たちに「私の夫のマックス・ヴァタン」と紹介します。
 友人の一人が「どのくらいここに?」と尋ねると、マックスは「6週間」と答えます。
 マックスは「失礼して、妻を連れ帰ります。空白期間を埋めないといけませんので」と言って、マリアンヌを連れてクラブを出ていきます。

 車の中で。
 マックスが「上出来だ」と言うと、マリアンヌは「あなもよ」と応じます。
 さらにマックスが「君の活躍は聞いている。パリ支局がやられたとか?」と尋ねると、マリアンヌは「今度の任務に関係しないことは話さない」と答えます。

 こうして2人はホテルに入って、外見上は夫婦を演じながら、その実は諜報活動をすることになりますが、さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作は、第2次大戦中に活躍したイギリス人とフランス人のスパイをめぐるラブストーリーです。ストーリー上の難点はいくつもありますが、ブラピとコティヤールという美男と美女の恋愛物語ということで大目に見れば、なかなかきれいな映像の連続なので、楽しんで見ることができるでしょう。いうまでもなく、こうした作品に反戦を読み取る必要性など、ありはしないでしょう(注2)。戦争が悲劇を生みますが、戦争がなければ本作の美男と美女は出会うこともなかったでしょうから。

(2)本作の劇場用パンフレットの「Production Notes」では、本作の物語が“実話”にもとづいているかのような解説がなされています(注3)。
 仮にそうだとしても、本作が依拠しているのはごくごく大雑把な枠組みだけであり、個別のエピソードはどれもフィクションではないかと思われます。
 というのも、例えば、最初の方でマックスとマリアンヌは、駐モロッコのドイツ大使らを殺害しますが、なぜわざわざそんなことをするのかよくわかりません(注4)。それも、大使館で開催されたパーティーという衆人環視の中で実行するとは、諜報活動をする者の仕業とも思えないところです(注5)。
 その後のストーリーにも、腑に落ちないところがいくつも見受けられます(注6)。

 でも、本作は、スパイが活躍するアクション物というよりは、公式サイトの「Introduction」が強調するように、「マックスとマリアンヌが繰り広げる切ないラブストーリー」「「感涙」のラブストーリー」なのでしょう(注7)。



 そう思ってみると、ドイツ大使殺害シーンにしても、マックスを演じるブラッド・ピットもマリアンヌに扮するマリオン・コティヤールにしても、大使主宰のパーティーに出席しているために2人が正装しているせいでもありますが、最初から最後まで実にきれいに撮れています。
 また、砂嵐の砂漠に置かれた車の中で2人が結ばれるまでの様々なやりとりも、二人の様子を覗き見する関係者を欺くためでしょうが、なかなか面白いものがあります(注8)。
 それに、そうした場面の背景として描かれるカサブランカの街について、本作を制作したゼメキス監督は、随分と意欲的に美しく描いているのですから(注9)。

 本作の後半になっても、印象的な場面がかなりあります。
 例えば、ドイツ空軍によるロンドン空襲の最中に、マリアンヌが病院の外で出産をする場面とか、撃ち落とされたドイツ空軍の爆撃機がマックスらの暮らすロンドンの住宅の直ぐ側に落下するシーンなど、なかなか見応えがあります。

 こんなところから、ブラッド・ピットもマリオン・コティヤールも、本作の役柄からすると歳を取りすぎているとする評論家(注10)がいるとはいえ、クマネズミの目には、さすがの美男・美女の取り合わせだなと思え、ストーリーの難点に目をつぶれば、楽しく見ることのできる作品なのではと思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「(ブラッド・ピットは)本作では、戦争が恋を生み、同じ戦争が愛を奪おうとする物語をダンディーかつセクシーに演じて存在感を示している」し、「国際的に活躍するオスカー女優のコティヤールの知的な美しさもまた絶品」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「「マリアンヌ」は決して長く後に残る映画作品ではないが、ストーリーが疾走しており、週末のディナーのお供ならば十分にその役を果たすだろう」として70点を付けています。



(注1)監督は、『フライト』や『ザ・ウォーク』のロバート・ゼメキス
 脚本は、『マダム・マロリーと魔法のスパイス』のスティーヴン・ナイト
 原題は「ALLIED」(とりあえずは、「枢軸国」に対する「連合国」の意味でしょうが、あるいはマックスとマリアンヌとの関係を暗示しているかもしれません)。

 なお、出演者の内、最近では、ブラッド・ピットは『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、マリオン・コティヤールは『たかが世界の終わり』で、それぞれ見ました。

(注2)本文の(3)で触れる渡まち子氏は、「サスペンス・タッチではあるが、本作は王道のメロドラマ。だがその根底にある反戦のメッセージを見逃してほしくない」と述べています。

(注3)劇場用パンフレットの該当箇所では、「彼(脚本家のスティーヴン・ナイト)は、互いの身分がばれると命の危険があることを承知の上で、恋に落ちた第二次世界大戦時の2人のスパイの話を聞いたという」、「ナイトを魅了した物語は、カナダ人のスパイと元教師のフランス人レジスタンスをめぐるものだった」と述べられています。

(注4)後から英国諜報機関の高官がマックスに話すところによれば、マリアンヌを英国諜報機関側にすんなり受け入れさせるために、危険人物視していた当該ドイツ大使をナチス側が人身御供として差し出したとのこと。
 でも、そうであれば、そしてそのことを英国諜報機関側が予め知っていれば、大使殺害計画など立案しなかったでしょう(大使暗殺を計画するのは、ナチス側ではなく英国側なのです)。
 また、そのことを英国諜報機関側が知らなかったとしても、当該ドイツ大使の存在は、死をもって排除しなければならないほど連合国側に酷いダメージを与えるものでなかったのではないかと推測されます(なにしろ、標的のドイツ大使は、ナチスによって反体制的と目されているくらいの人物なのですから)。

(注5)諜報機関が要人を暗殺するのであれば、今回の金正男暗殺事件のように(?!)、衆人環視の中で実行する場合でさえ、結局、真の犯人が誰であるのか捜査できないような状況にするのではないでしょうか?
 本作の場合は、目撃者を全員撃ち殺したわけではありませんから、すぐに身元がバレてしまうように思えます。
 それに、マリアンヌとマックスが、建物の外での爆発に呼応して、パーティー会場に置かれていた机の下に隠されていた銃器を取り出して乱射するわけながら、2人が全くの無傷で大使館を抜け出し、車に乗って逃走してしまうというのは、今時のアクション映画では見かけないほどの大雑把な描写のように思えます。

(注6)ほんの少し待てば、マリアンヌに対する嫌疑の真偽が判然とするにもかかわらず、どうしてわざわざマックスは、死の危険を犯してまでナチス占領下のフランスに調査に出向くのでしょうか、自分たちが24時間、機関の監視の下に置かれているのが明らかにもかかわらず、なぜ2人は大っぴらに脱出を図ろうとするのでしょうか、などいくつも疑問が湧いてしまいました。

(注7)「D姐(でぃーねえ)」によるこの記事の冒頭では、「昨年、アンジェリーナ・ジョリーとのまさかの離婚劇で一躍お騒がせ対象になってしまったブラッド・ピット。しかも離婚の一因と噂されたのが、共演者である仏女優マリオン・コティヤールとの不倫!とまで囁かれたのを覚えている人も多いと思いますが、その真相は別として、『マリアンヌ』こそがその問題の共演映画」と述べられています(尤も、同記事では「アテクシ的判定、シロ」とされていますが)。

(注8)例えば、マックスがモロッコにやってきた最初の夜、マックスは屋上でブランケットを敷いて寝ることになりますが(これは、任務を上首尾に遂行するために、男女の関係になるべきではないとの考えによっています)、マリアンヌが、最上階の部屋からランプを手にして「最初の夜から妻がソバにいないと疑われる」と呟きながらマックスのもとにやってきて、彼とキスをしたり、彼に「見ている人がいるから、どんどん喋って」と要求したりします。



(注9)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューの中で、ゼメキス監督は、「モロッコの風景については、私は、『カサブランカ』(42)を讃えたいと考えていた。当時のハリウッドでは想像もつかなかったような視覚効果を駆使しているとはいえ、この映画は私たちが古典的名作ですでに知っているカサブランカの街を思い起こさせるものにしたかったんだ」、「今や私たちはVFXでなんでもできる時代にいる。1940年台のヨーロッパや北アフリカの都市を再想像することができたよ」などと述べています。

(注10)本文の(3)で触れる前田有一氏は、「この青臭いストーリーとキャラ設定には、どう考えてもブラピ(63年生まれ)はおっさんすぎるし、マリオン(75年生まれ)はおばちゃんすぎる」と述べています。



★★★☆☆☆



象のロケット:マリアンヌ

たかが世界の終わり

2017年02月24日 | 洋画(17年)
 『たかが世界の終わり』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)昨年のカンヌ映画祭でパルム・ドールに次ぐグランプリを獲得した作品ということで(注1)、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、「しばらく前に 世界のどこかで」との字幕が映し出され、客室乗務員の「お客様、シートベルトの着用を」との声掛けが。
 そして、飛行機に乗っている主人公のルイギャスパー・ウリエル)の顔が大きく映し出されて、モノローグ。
 「あれから時が過ぎた、正確には12年だ」。
 「僕は、あの人達と再び会おうと思った」、「理由はいくつもある」、「長い不在の後、自分が来た道を辿ろうと」。
 「僕の死を告げるために」、「僕という存在の幻想」。
 「自分であり続けたら、どうなるのだろう」。
 「私の家には居場所がない」、「家は救いの港じゃない」、「それは深くえぐられた傷跡だ」。

 ルイはタクシーに乗ります。
 他方で、料理をする手が大写しになります。
 時計が1時を知らせます。

 ルイの妹のシュザンヌレア・セドゥ)が、「ママ、ルイ兄さんが来た!」「間に合わない」と言って慌てます。



 母親(ナタリー・バイ)は、「おしゃれしたい。息子に久しぶりに会うのだから」と呟きます。

その2人に、兄のアントワーヌヴァンサン・カッセル)の妻のカトリーヌマリオン・コティヤール)を加えた3人の女が待ち構えていると、タクシーを降りたルイが入口のドアから入ってきます。



 シュザンヌがルイに抱きついて「タクシーは高いんじゃ?」と言い、母親が「カトリーヌは始めてでしょ」と紹介すると、ルイは「会えて嬉しいよ」とカトリーヌに挨拶し握手をします。すると、シュザンヌは「なんで握手?大統領みたい」と訝しがります。
 さらに母親は、「シュザンヌとも会っていないの?」「そんなこと考えもしなかった。私たちって、変わった人生を送っているんだ」と付け加えます。

 こんな風にして、実家に戻ったルイを中心に会話が続きますが、さあ、どのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、主人公の若い作家が、ある秘密を家族に伝えようとして、12年ぶりに家族のもとに戻ってきたものの、相変わらずの母親と長兄、それに次兄の主人公のことをよく覚えていない妹、さらには主人公と初対面の長兄の妻との錯綜した関係に巻き込まれ、言い出すタイミングを失ってしまい、云々という物語。主人公と家族それぞれとの間で熱のこもった会話がなされ、戯曲の映画化という点が感じられはするものの、おざなりな家族の絆を描く他愛のないホームドラマとは異なるリアルさを味わうことができます。

(2)本作の登場人物は男2人と女3人の5人で、舞台も大部分がルイの実家だけとされていて、随分とシンプルな作りになっています。
 内容も、登場人物たちの会話がもっぱらです。
 こうなると、戯曲が原作なのだなとすぐに気が付きますが、案の定、ジャン=リュック・ラガルス(注3)の戯曲(1990年)が原作になっています。

 同じように戯曲が原作で、家族間の葛藤を描いた映画作品としては、『8月の家族たち』が思い浮かびます(注4)。
 同作では、夫のベバリーサム・シェパード)が失踪してしまったバイオレットメリル・ストリープ)が、次女のアイビージュリアン・ニコルソン)を呼び、それから長女のバーバラジュリア・ロバーツ)、三女のカレンジュリエット・ルイス)などが次々と母親の元へやってきます。
 ただ、バイオレットは口腔癌を患っていて、様々な抗癌剤を飲んでいるだけでなく、鎮痛剤の中毒にも陥っています。それで情緒が大層不安定で、暑い中をわざわざやってきた家族や親類たちに酷い言葉を投げかけたりします。

 そんなところから、本作とこの『8月の家族たち』は雰囲気が類似しているように感じられます。
 本作においても、12年ぶりに実家に戻ってきた弟ルイに対し、待ち構えていた家族はさかんに話をしますし(注5)、特に兄アントワーヌが威圧的な態度を取ります(注6)。



 また、同作においては、ベバリーの葬儀に遅れて来た従弟のリトル・チャールズベネディクト・カンバーバッチ)は、次女のアイビーと付き合っていることを皆の前で言うつもりでしたが、本作のルイと同じように、なかなか言い出せないまま時間が過ぎていきます。

 とはいえ、異なっている点も多そうです。
 例えば、登場人物の会話の分量は両作ともトテモ多いのですが、本作の主人公であるルイについては、例外的に、ごくわずかの台詞しか設けられておらず、家族とのコミュニーケーションの大部分は、台詞以外のもので表現しています(注7)。
 この点は、演劇と比べて映画の利点を活かせるものと思います。

 また、本作では、男女関係はアントワーヌとカトリーヌの夫婦だけですが(注8)、『8月の家族たち』においては、バイオレットとベバリーを始めとして何組も登場し、同作は個々人の話というよりも、むしろ男女関係の問題を描いているとも言えそうです(注9)。

 それに、『8月の家族たち』では、リトル・チャールズをめぐる重大な秘密が明かされたりしますが、本作においてはそういうようなことは起こりません(注10)。

 なにはともあれ、それに、本作においては、主人公を演じるギャスパー・ウリエル以下の俳優が、『8月の家族たち』においても、メリル・ストリープなどの俳優が、それぞれ精魂込めて演じていて、戯曲を映画化した作品という感じがするとはいえ、そして取り立てて言うほどの事件が起こるわけではないものの(特に本作の場合)、見る者は圧倒されます。

(3)渡まち子氏は、「ウリエル、セドゥ、コティヤール、カッセル、そして母親役のナタリー・バイと、仏映画界を代表する実力派が演じるだけあって、繰り返される顔のアップや膨大なセリフの応酬も、しっかりと受け止めて演じていて見応えがある」として75点を付けています。
 前田有一氏は、「徹頭徹尾重苦しく、似たような体験をした人にはたまらないストレスとトラウマ再帰の危険性がある。相変わらず、体調万全の時にしか見られない、そんなグザヴィエ・ドラン監督作品である」として60点を付けています。
 中条省平氏は、「最高の見どころは、フランスを代表する名優5人がくり広げる丁丁発止の演技合戦だ。やり過ぎの限界寸前まで盛りあげる各自の技に、さすが芸達者! と声をかけたくなる出来栄えなのである」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「飛び切り上手な映画なんですが、私にはどこか芝居くさい印象が残りました。ヘンな言い方ですが、俳優が良すぎるんです」と述べています。
 金原由佳氏は、「世界の政治が急激に不寛容へと傾く今、家族という小さな単位での「受容」について考えを巡らすのは無駄ではない」と述べています。


(注1)2016年のパルム・ドールはケン・ローチ監督の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(日本では3月18日より公開)に与えられています。

(注2)監督・脚本はグザヴィエ・ドラン
 原題は「Juste la fin du monde」(英題は、「It’s only the end of the world」)。
 原作はジャン=リュック・ラガルスの戯曲『Juste la fin du monde』(邦訳はこちら:ちなみに、フランス語の舞台はこちら)。

 なお、出演者の内、最近では、レア・セドゥは『美女と野獣』、マリオン・コティヤールは『エヴァの告白』、ヴァンサン・カッセルは『五日物語―3つの王国と3人の女―』で、それぞれ見ました。

(注3)簡単なプロフィールはこちら(英語ではこちら)。

(注4)同作は、トレイシー・レッツの戯曲〔『August: Osage County』(2007年)〕が原作となっています。

(注5)例えば、カトリーヌは、ルイに「子どもたちに会わせたかった。あなたが来るなら、折角の機会だから。長女は8歳」とか、「いままで手紙を送ってくれた。なんて優しいんだと思った」と話すと、夫のアントワーヌは「ルイが退屈しているのがわからないか?」と遮ります。カトリーヌが「いつも退屈させてしまうの」と謝ると、ルイは「そんなことはないよ。子供の話を聞かせて。僕と同じ名前にしたとか。その話を聞いた時は感動した」と応じます。すると、アントワーヌは「俺のせいにするな。話したかったら早く話せ。ルイは子供が大好きなんだ」と怒ります。



 なお、カトリーヌは、話の中で、「子供にルイと名付けたのは、あなたに子供がいないから」と失言してしまい、すぐに「まだ、子供ができるけど」と付け足したりします。
 総じて、カトリーヌは、ルイにきちんと向かい合っているように思われます。
 ただ、ルイが「実は、今日は…」と話しかけると、カトリーヌは「何も言わないで。話すならあの人に話して」と言うので、仕方なしにルイは「雑談をしようと思っただけ」と応じます。

(注6)タバコを買いに行こうとして車の中で2人だけになった時に、ルイが「飛行場に着いた時に、すぐさま家には来ずに、しばらくカフェにいた」「夜明けに家に入ったら、皆が騒ぐだろうと思った」「何もしないで待っていたことは、兄さんならわかってくれるだろうと思った」と話すと、アントワーヌは、「相変わらずだな。カフェのことを事細かく話して、人を混乱させる」、「そんな話、俺が興味を持つとでも?俺が隣りにいるから作ったのだろう」、「俺のことなど考えたはずはない」、「お前は、俺を操る術を知っていると思っている。だが、俺は簡単にはいかない」、「ちっぽけな世界にいて、自分が特別だと思うな」などと激しく言い募ります。
 アントワーヌは、ルイと向かい合った当初から大層苛ついており、挙句は、「この家に泊まっていったら良いのに」という母親の声を無視して、無理やりルイを帰らそうとします。

(注7)公式サイトの「Production Notes」の「セリフがほとんどない主人公」では、「「確かに、ほとんど話さない役というのはとても手強い。でもそこにやりがいがあった」と打ち明けるウリエルは、否応なく迫る死に直面しているルイを、歩く死人、幽霊のような存在として表現しようとしたという。セリフが少ないために、ウリエルにとって微妙な演技をキャプチャーしてもらえるかどうかがすべてだった。「今回のような至近距離での撮影では、呼吸、まばたきのひとつひとつをカメラが捉えてくれるという感覚が素晴らしかった。」」と述べられています。

(注8)カトリーヌは、夫のがさつな態度に目を顰めたりはしますが、夫婦関係の危機にあるようには見えません。

(注9)なにしろ、『8月の家族たち』においては、冒頭の方で、主人公の夫が自殺してしまうのです。それに、長女・バーバラの夫・ビルユアン・マクレガー)は浮気していますし、バーバラから「頼りない男」となじられたりします。また、三女・カレンの婚約者・スティーブは、バーバラとビルの間の子供・ジーンにちょっかいを出すオカシナ男だったりします。

(注10)主人公のルイが同性愛者であることを示す映像(ルイが自分の部屋だったところに行き、もっと若い時分を回想したもの)が挿入されたり、そのことに兄のアントワーヌが気が付いていることもほのめかされたりはしますが(他の家族も気づいているようです)、ストーリーの展開に大きく影響を与えたりはしません。



★★★★☆☆



象のロケット:たかが世界の終わり

サバイバルファミリー

2017年02月21日 | 邦画(17年)
 『サバイバルファミリー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、東京の夜景が映し出され、救急車のサイレンなどの騒音が聞かれます。そして、主人公の鈴木義之小日向文世)の職場が映し出され、そこでは義之がPCに向かってキーボードを叩いています。

 次いで、義之とその家族が住む東京のマンション。
 義之の妻・光恵深津絵里)が、キッチンで、鹿児島にある自分の実家(注2)から送られてきた大きな魚を捌こうとしていますが、手にあまるようです。
 娘の結衣葵わかな)は「私、そんなの食べない」と言い、光恵が義之に「私ダメ。やってくれない?」と頼むと、彼は「俺はいいよ」と逃げます。それで、光恵は仕方なく、魚を冷蔵庫に仕舞います。更に光恵は、魚と一緒に送られてきた野菜の箱を見ながら、「これも無用なのよね。いいんだけど」などと呟きます。

 義之は、頭からウィッグを外し、結衣はつけまつげを外します。
 光恵は、「何かいた!」と叫んで、床にいた虫を紙で挟んでゴミ箱に捨てます。

 息子の賢司泉澤祐希)が帰宅し、コンビニで買ったものを口に頬張りながら居間に入ってきます。義之が見咎めて、「何か言うことはないのか?」「うちにメシがあるのに、ろくでもないものを食いおって!」と怒ります。
 賢司は、それを無視して自分の部屋に入り、PCに入っている国際経済学のノートを開けてチェックします。そんなところに、密かに思いを寄せる中村里美松浦雅)から、「今日の国際経済学とった?とっていたらノートを送って」との依頼の電話が入ります。賢司は2つ返事でノートを送信し、中村から「あっ、来た!ありがとう。明日ね」との返事を受け取ると、PCに収められている中村の画像を見て「可愛い」と呟きます。

 結衣も、自分の部屋のベッドで腹ばいになりながら、次々に来るLINEの対応に追われています(スマホには、「バッテリーが少なくなっています」との表示が)。
 居間では、光恵が「あの子達の携帯代が酷いことになっているから、あなたから言ってよ」と言うと、義之は「疲れているんだ。先に寝るぞ」との返事。

 さて、これで次の朝を迎えるのですが、鈴木家を巡る状況はどんなことになるのでしょうか、………?

 本作は、突然電気が使えなくなったら人々はどのように生き残りを図るのかということを、ごく普通の一家族に焦点を当てて描き出したものです。停電がバッテリーにまで及ぶのはよくわからないとはいえ、それも一つの設定だとして目をつぶると、たちまち通常の都市生活が全面的にストップしてしまいます。それに物資の供給が途絶えてしまうので、主人公ら4人の家族は、東京から鹿児島の実家に自転車で向かいます。その大変な様がコミカルなタッチで描かれていてなかなか面白いものの、ただ、物語として盛り上がりというかもう一捻りが必要なのではと思いました。

(2)なにしろ、本作では、発電所から送られてくる電気のみならず、バッテリーが使えなくなるのですから(注3)、単に部屋の灯がつかなくなり、TVや携帯の電源も入らなくなる、といったことにとどまらず(注4)、マンションのエレベータが動かなくなり、ポンプが止まって水道が出ず、トイレの水も流れなくなり、時計はおろか携帯も使えなくなってしまいます。
 街に出ると、勿論信号機が点いていないどころか、車があちこちでストップしています。電車も動きません。

 義之は、それでも勤務先に近いところに住んでいるために、出勤します(注5)。
 ですが、勤務先が入っているビルの入り口の自動ドアが開きません。それで、硬い物でドアの硝子を打ち破って、義之らはビルの中に入っていきます。

 光恵はスーパーに行くのですが、レジスターが動かないため、店員はそろばんで計算をしています。また、他の店員が「本日はカードは使えません。現金のみとなります」と大声で叫びます(注6)。

 こんな停電下の状況が、本作ではなかなかのリアリティをもって描かれています。
 そればかりか、鈴木家では、夜、一家4人がベランダから満天に輝く沢山の星を見て驚く様子まできちんと描き出されます(注7)。

 そして、同僚の部長(宅麻伸)が、「とりあえず水があるところを探しに行く」と言いながら家族を連れて東京を離れるのに遭遇したり、マンションの隣近所が次々に出発するのを見たりして、鈴木家も、8日目にして、妻の実家のある鹿児島に向けて自転車に乗って出発します(注8)。



 本作を見て、映画で見る戦争中の疎開の様子になんだか似ているのでは、と思いました。
 例えば、『この国の空』では、主人公(二階堂ふみ)の近所に住む画家(奥田瑛二)らが、東京では空襲で生活できないために、次々と田舎に疎開していきます。また、母親(工藤夕貴)と一緒に主人公は、郊外の農家に買い出しに行きますが、現金ではなくきちんとした着物でないと交換してくれません(注9)。
 こんなところは、本作の、都会を離れて田舎に向かう人々が高速道路に溢れている様子とか、羽田に向かう途中で米を物々交換で売っている女(渡辺えり)が言う台詞「お金とかロレックスなんか、何に使えるの?水か食べ物だったら構わない」を彷彿とさせます(注10)。

 まあ、都市から電気が突如として消滅したら、空襲に晒される都市と同じような状況に置かれるということなのでしょう。
 ただ、先の戦争中は、それでも、軍隊がいましたし、隣組制度などがあったりして、それなりに秩序はあったように思われます。
 これに対し、本作においては、鈴木家が鹿児島に向かう途中で自衛隊の一団に遭遇するとはいえ、警察とか消防団などといった公的な機関はほとんど姿を見せず、人々は何の情報もなしに放り出されたままの状態が続きます。
 もぬけの殻になった都会には空き巣などが横行するかもしれません。でも、電気が一切使えない状況では、いくら高価な物を盗んでも現下の生活を維持する上で何の役にもたちませんから、あるいは空き巣といった犯罪などあまり起こらないかもしれません。

 結局、停電から2年と126日経過して、突然鞄にしまってあった目覚まし時計のベルが鳴って、事態が元通り復旧するのですが、登場人物が「アレッ、治ったの」と拍子抜けするのと同じくらい、見ている方も「エッ、もう少し何か事件が起こるのでは?」と拍子抜けしてしまいます。

 言うまでもなく、停電中に得られた貴重な経験によって、鈴木家の面々も一皮むけています。



 例えば、義之は、自分が一家の大黒柱とばかりに、一家を引き連れていこうとしますが、真っ先に川の水を飲んで下痢をするとか、筏で川を横断しようとして流されてしまうなど、良いところがなく、その権威は丸つぶれとなってしまいます(注11)。
 とはいえ、それで義之は自分を見つめ直すことができ、今後は家庭でも職場でも、もっと柔軟に対応できるようになるのかもしれません。

 しかしながら、本作には、もう少し物語的な要素があってもいいのではないでしょうか?
 確かに、本作のような一斉の停電は、実に大きな出来事でしょう。と言っても、本作の大部分が停電の中での出来事ということになると、それは背景になってしまい、見る方としては、その中でもう一捻りがあっていいのでは、と思えてしまいます(注12)。

(3)渡まち子氏は、「災害シミュレーションとして笑わせながら、最後はしっかりと考えさせられる。必見の家族ドラマだ」として75点を付けています。
 前田有一氏は、「「ハッピーフライト」(2008)の矢口史靖監督らしい徹底取材によるリアリティと、小学生に見せても大丈夫な健全なコメディー、そしてしっかりとしたテーマを持つ良質なオリジナル作品。こういうものを見たかった、と手を叩きたくなる面白い一本だ」として90点を付けています。
 小島一宏氏は、「まるでドキュメンタリーのように、俳優たちがボロボロになっていく映画「サバイバルファミリー」は、シビアだが面白く示唆に富んだ物語だ」と述べています。



(注1)監督‥脚本は、『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』の矢口史靖

 なお、タイトルの「サバイバルファミリー」については、「家族の生存」という意味であれば、「family survival」とか「family for survival」とかのように思えますが、和製英語なのかもしれません。

 また、出演者の内、最近では、小日向文世は『杉原千畝 スギハラチウネ』、深津絵里は『永い言い訳』、葵わかなは『罪の余白』、時任三郎は『グッドモーニングショー』、大野拓朗高台家の人々』は、渡辺えりは『お父さんと伊藤さん』、柄本明は『疾風ロンド』、大地康雄は『幸福のアリバイ~Picture~』で、それぞれ見ました。

(注2)実家の父親(柄本明)が、海で釣った魚とか畑で栽培した野菜などを、自分の娘である光恵に送ってくるのです。

(注3)原因はわかりませんが、本作においては、電気エネルギーが消滅してしまうということなのでしょう。
 バッテリーは、電気エネルギー自体を蓄えているわけではありませんが、蓄えられていた科学エネルギーが放電によって電気エネルギーに変換されます。そうしてできた電気エネルギーが、何かの原因によって直ちに消滅してしまうのでしょう(この記事には、バッテリーと同じ働きをするものがいくつか挙げられています)。
 本作では、嵐が来ても落雷は起こらないとされていますが、もしかしたら、デンキウナギの電気もなくなってしまうかもしれません!

(注4)鈴木家では、小型ガスコンロは点きます。
 ただ、普通のサイズのガスコンロは、点火に電池を使いますから点きません。

(注5)ビルの入り口にいた同僚の部長が「遅いな、隣の駅なのに」と言うと、義之は「隣の隣」と訂正を求めます。
 また、職場で出勤者が少ないのを見て、義之が「若い奴らはやる気があるのか!歩いてくればいいんだ」と怒り、ソバにいた者が「部長の家は隣駅ですから」と応じると、義之は「隣の隣」と呟きます。
 ただ、劇場用パンフレットの「ロケ&シナハン」によれば、鈴木家のマンションは練馬にあるとされているところ、勤務先の入っているビルは都心にある感じで、そうだとしたら、勤務先から2駅で練馬のマンションに行くことができるようには思えません(練馬はロケ地ということでしょう)。

(注6)義之は銀行の支店に行きますが、ATMは使えず、通帳を持ってきた者だけが一人10万円の現金を受け取れます。
 ただ、銀行側にしても、様々な機器等が使えませんから、手持ちの現金(今時の銀行は、支店にそれほどたくさんの元気を置いていないでしょう)がなくなれば対応できなくなってしまうのではないでしょうか(現金輸送車も動かないことですし、本支店間の連絡もできないでしょうから)?

(注7)結衣が、夜空の沢山の星を見て「なんで?」と訊くと、義之が「街の明かりがないから」と答え、さらに結衣が、夜空にひときわ輝く一帯を見て「あれは何?」と尋ねたのに対し、光恵が「天の川」と答えると、結衣は「天の川って実在するんだ」と驚きます。

(注8)途中で、この危機的な状況を楽しんでいる斉藤一家〔夫(時任三郎)、妻(藤原紀香)、長男(大野拓朗)、次男(志尊淳)〕と出会ったり、豚を飼う男(大地康雄)に家業を手伝ってもらえないかと言われたりするなど、様々の人との出会いとか事件が起きたりします。

(注9)また、『戦争と一人の女』では、傷病兵の男(村上淳)が、米を求めて田舎にやってきた女に襲いかかる姿が描かれています。

(注10)鈴木家は、光恵が隠し持ってきた高級ウイスキーで米と自転車を得ることができました。

(注11)43日目に鈴木家は大阪通天閣の前に到着しますが、事態は何も変わっておらず、東京と同じです。これを見て結衣は切れてしまい、義之に向かって「もう嫌だ。自転車は大阪までと言ったわよね。お風呂に入っていないし、頭が痒い。俺について来いと言ったじゃない。嘘つき」とぶちまけます。すると、光恵は、「そんなことはわかっていたでしょ。お父さんはそういう人なんだから」ととりなします。

(注12)厳しい状況に置かれた登場人物がサバイバルすべく頑張るといった“サバイバル物”なら、これまでにも沢山の作品が制作されています(例えば、最近では、『ロスト・バケーション』)。
 その中で、本作のように家族が一丸となって危険な状況からの脱出を図るということになると、最近では例えば『クーデター』が挙げられるでしょう。ただ、同作は、外国で外国人排撃の集団に襲われ、なんとか安全な隣国に脱出しようとする一家の姿を描いたハラハラドキドキの作品となっています。
 翻って本作を見ると、そのまま東京にいたら死ぬことになるとの判断で、一家が脱出を図るという点では同作と類似するとはいえ、漂う雰囲気はまるで違います。それは、同作が戦争に類似した状況が背景にあるのに対して、本作は平時だという点から来るのでしょう。
 それでも、物語的な要素をもう少し何か加えれば、もっと緊張感あふれる作品になったのでは、と思われます(尤も、本作のようにコミカルな感じを出そうとすれば、本作くらいのところで良しとすべきかもしれませんが)。



★★★☆☆☆



象のロケット:サバイバルファミリー

ザ・コンサルタント

2017年02月17日 | 洋画(17年)
 『ザ・コンサルタント』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)久しぶりにアクション映画でもと思って映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、男が、道路を横断して酒場の中に入ります。
 死体がいくつも床に転がっており、銃声がします。
 男は階段を登っていきます。
 「お願いだ、止めてくれ」と命乞いをする声が聞こえます。
 銃声がし、タイトルが流れます。

 場面は30年ほど昔に戻って、ジグソーパズルをしている兄クリスチャンと、静かに椅子に座っている弟プラクストンが映し出されます。
 クリスチャンは、すごい勢いでパズルを始めますが、ピースが一つ見つからないと、金切り声を上げたりして酷く落ち着かなくなります。
 場所は、ニューハンプシャー州にあるハーバー神経科病院。
 母親が「息子の病名は?」と尋ねると、医師は「レッテルを貼るのは良くない。利発なお子さんです」と答えます。
 更に母親は「自分の子だと大問題。夫が陸軍にいて基地から基地へと移動したため、あの子の友達は弟だけ」と言い、医師が「夏の間だけでもここに預けてはどうでしょう」と要請すると、父親は「いいや、優しくない世界で行きていけるスベを身につけさせなくてはならない」と言います。
 そうこうするうちにクリスチャンは、「ソロモン・グランディ」の歌(注2)を歌い出すものの、パズルの最後のピースを見つけると歌うのを止めます(注3)。

 また場面が変わって現在時点で、場所はイリノイ州シカゴ近郊の田舎町。
 クリスチャン・ウルフベン・アフレック)が公認会計士の事務所にいて、農家の夫婦の話を聞いています。



 夫婦は、税金の支払いのことでクリスチャンに相談に来ています。その妻が宝飾品を趣味で制作していることがわかると、クリスチャンは、それは在宅事業であり、家庭内での出費は事業のための経費として所得から一定程度控除できるとアドバイスします。
 そのアドバイスに夫婦は感激し、自分らの家に招待します。

 さらに場面が変わって、財務省の局長・キングJ・K・シモンズ)が、分析官のメディナシンシア・アダイ=ロビンソン)にある男の調査を命じます。



 その男こそがクリスチャンなのです。さあ、いったいどうして彼はキング局長の調査対象となっているのでしょうか、………?

 本作は、表では会計コンサルタントでありながら、裏では殺し屋という男が主人公。依頼を受けた会社の帳簿を調べると不正経理が見つかりますが、主人公らは何者かによって殺されそうになり、それらと対決する内に、より大きな闇が暴かれていきます。主人公は、数字について特殊な才能があるばかりでなく、射撃を含めた身体能力にも抜群のものを持っているので、鮮やかなアクションシーンが描かれることになって、2時間を超える長尺ながらも、最後まで飽きさせません。

(2)とはいえ、少々わからないところがあります。
 例えば、
 公式サイトの「STORY」によれば、主人公のクリスチャンは、一方で、「数字に関して天才的頭脳を持ち、完璧な闇の会計術で悪人たちの裏帳簿を仕切る」“裏社会の掃除屋”であり、他方で、「命中率100%の狙撃の腕と暗殺術を身に着け」ていた男、とされています。
 ですが、本作からは、その2つの面〔“裏社会の掃除屋”と腕利きの殺し屋(注4)〕は2つともうまく伺えないように思われます(注5)。
 本作で描かれるクリスチャンは、会計士としては、裏社会ではなく、まともな大企業から財務調査を依頼されるわけですし(注6)、何人もの敵を殺しますが、殺し屋として依頼されて殺したのではなく、襲われたから反撃したにすぎないように思えます(注7)。

 それと、本作のクリスチャンは「高機能自閉症スペクトラム」とされていますが(注8)、顧客とまともに会話していたり、一部の能力が飛び抜けて優れていたりするところを見ると、よく言われるアスペルガー症候群に類似しているようにも見受けられます(注9)。

 さらにいえば、キング局長は財務省犯罪捜査部を担当しており、分析官・メディナにクリスチャンの調査を命じますが、財務省犯罪捜査部とは一体何をするところなのでしょう(注10)?
 キング局長らの外見だけを見ると、大昔のエリオット・ネスまがいの行動を見せますが(拳銃を所持していたりします)、当時ネスが捜査官として所属していた酒類取締局など最早存在しません。

 でも、こういったことは些細な点であり、むしろ、本作においては、クリスチャンの類まれな銃の扱い方とか、小さい時に身につけた「格闘技ブンチャック・シラット」の凄さといったものが描き出されるアクションシーン(注11)を愉しめばそれで十分でしょう。
 ヒロインのアナ・ケンドリックの役割が小さいところは残念ですが(注12)。

(3)渡まち子氏は、「ベン・アフレックの新たなハマリ役になりそうなこのアンチ・ヒーローの次の活躍が見てみたい。個人的に、続編希望!である」として75点を付けています。
 りんたいこ氏は、「いうなれば“深いアクション映画”。それだけに、すべてが収まるところに収まったときには、「なるほど!」と膝を打った」と述べています。
 稲垣都々世氏は、「クセの強い人物を複雑だが整理されたプロットの中で生き生きと息づかせ、冒頭から大量にばらまいた伏線を要領よく回収し、緊迫したリズムに合わせてパズルのピースをぴったりハメこんでいくような脚本は見事というしかない」と述べています。



(注1)監督はキャビン・オコナー
 脚本はビル・ドゥビューク
 原題は「The Accountant」。
(公式サイトの「本編映像①」を見ると、「いい会計士がいると耳に入る」というキング局長の台詞の字幕において、「会計士」に「コンサルタント」というフリガナがわざわざ付けられています。ですが、「会計士」は「アカウンタント」であり「コンサルタント」とは違うのではないでしょうか?タイトルの「コンサルタント」も、誤解を招きかねないように思われます)
(追補:この記事で取り上げられている「会計士」の2人は、「会計士」の仕事として「オスカー選考過程における票の集計」を行ったのでしょうか?)

 なお、出演者の内、最近では、ベン・アフレックは『ゴーン・ガール』、アナ・ケンドリックは『イントゥ・ザ・ウッズ』、J・K・シモンズは『セッション』、ジョン・バーンサルは『フューリー』で、それぞれ見ました。

(注2)イギリスの古い童謡(マザーグース、あるいは、ナーサリー・ライム)の歌。歌詞はこちらで、その訳はこちらで。

(注3)ソバにいた女の子・ジャステンアリソン・ライト)がそのピースを見つけます。

(注4)公式サイトの「PROFILING」でも、クリスチャンは、「裏社会の掃除屋。年収は1000万ドル」の「腕利きの殺し屋」、「命中率100%」、「相棒は音声のみでサポートする謎の女性」などとされています。

(注5)尤も、キング局長から調査を命じられたメディナは、クリスチャンがマフィアのガンビーノらを殺害したことを突き止め、それにキング局長が関与していたことがわかり、本作冒頭の映像もそのことを描いているのです。
 ガンビーノをクリスチャンが殺したのは、自分の師にあたる人物フランシスをガンビーノが殺したことに対する復讐なのでしょうが、とはいえ、それが“裏社会の掃除屋”がなすべきことに該当するのか、よくわからないところです。

(注6)クリスチャンには、大手電子機器メーカーである「リビング・ロボ社」の社長ラマジョン・リスゴー)から財務調査の依頼があるのです〔同社の経理担当職員のダナ・カミングスアナ・ケンドリック)が不正経理に気が付きました〕。



(注7)例えば、クリスチャンは、「リビング・ロボ社」の帳簿に使途不明金を見つけた後、顧客の農家を訪れると、2人の殺し屋が待ち受けているのです。クリスチャンは難なくこの殺し屋を倒しますが、殺し屋であるはずのクリスチャンが殺し屋に殺されそうになったのです!

(注8)劇場用パンフレット掲載の「STORY」に、「じつはクリスチャンは高機能自閉症スペクトラムであり」と述べられています。

(注9)この記事にある古典的自閉症とアスペルガー症候群などとを比較した図によれば、言語発達の面で「高機能古典的自閉症」には問題がありそうです。
 また、本作におけるクリスチャンの行動を見ると、「他人の情緒を理解すること」が苦手のように思えますが、これは。同記事においてアスペルガーの特徴ともされている点です。
 この記事においても、「アスペルガー症候群とは、知的障害を伴わない自閉症のことであり、高機能自閉症と呼ばれることもあります。(定義上、高機能自閉症の中で言葉の発達に遅れがないものがアスペルガー症候群と呼ばれています)」とされており、まさにクリスチャンが該当するようにも思われます。
 尤も、「発達障害」という言葉もあったり、「近年の研究によって、2~3歳頃にみられた高機能自閉症とアスペルガー症候群の言語能力の差は、時間の経過とともに縮まっていくことが分かりました。また、高機能自閉症は年齢を重ねて言語が身に付き始めると、アスペルガー症候群と変わらない特徴や症状がみられることが分かりました。以上のことから近年、両者はあまり区別しないで扱われることが多くなってきました」と述べている記事もあったりするので、とても素人には扱えない分野となっているようです。

(注10)あるいは、この記事で、財務省の「金融犯罪捜査網」〔Financial Crimes Enforcement Network (FinCEN):この記事〕とされている部署が該当するのかもしれません。

(注11)特に、クリスチャンを付け狙う暗殺者の一味(ボスを演じるのがジョン・バーンサル)と対峙するラストのシーンの迫力は圧倒的です。



(注12)尤も、本作が制作された昨年は、ジャクソン・ポロックの死後60年目にあたりますが、クリスチャンから、アナ・ケンドリック扮するダナ・カミングスにそのポロックの絵が贈られるのですから、まあ許されるでしょう(ポロックについては、この拙エントリをご覧ください)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ザ・コンサルタント

ニュートン・ナイト

2017年02月14日 | 洋画(17年)
 『ニュートン・ナイト  自由の旗をかかげた男』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)『ダラス・バイヤーズクラブ』のマシュー・マコノヒーの主演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「1862年~1876年 ジョーンズ郡で起きた事実に基づく物語」との字幕。
 さらに「1862年10月」(注2)の字幕。
 次いで、野原を南軍の兵士の一団が銃を担いで左から右へ行進しています。
 あたりには、兵士の遺体がたくさん転がっています。
 指揮官が先頭に立って、「左、右」「そのまま騎手の後に続け」「歩調を合わせろ」「隊列を乱すな」「稜線の向こう側に攻め込むぞ」などと掛け声をかけています。
稜線までくると、その向こう側では、北軍が銃や大砲を揃えて待ち構えていて、「構え」「撃て」の声とともに一斉射撃をします。
 南軍は、指揮官を始めとして次々に銃弾に倒れますが、それでも兵士らは前進を止めません。

 南軍の衛生兵のニュートン・ナイトマシュー・マコノヒー)が、板の担架に負傷した兵士を乗せて、「もう少しだからな」と言いながら、一人で野戦病院のテントに運んでいます。
 テントに近づくと、「将校が先だ」との声があり、ニュートンは運んできた負傷兵に、「将校だと先に診てもらえる」と言い、そばの者に「大尉を頼む」とその傷病兵を託します。

 ニュートンは、この場を去る同僚のジャスパークリストファー・ベリー)に向かって、「どこに行くのだ」と尋ねると、彼は「チャールストンだ」と答え、「奴隷法の恩恵だ」「奴隷を20人持っていれば戻れるのだ」「この戦争は金持ちが始め、貧乏人が支えている」と言います。

 野営地で、兵士たちが話しています。
 一人が「奴隷が20人いると兵役が免除される」「金持ち優遇だ」と言うと、ニュートンは「皆で奴隷を買って、休暇を得ようか」と冗談を言い、ある兵士(ウィルショーン・ブリジャーズ)が「俺は名誉のために戦う」と言うと、ニュートンは「立派だな、俺は御免だ」と応じます。

 ニュートンは、自分の寝場所に行き、そこで戦場から逃げてきた甥のダニエルジェイコブ・ロフランド)に遭遇しますが、さあ、ニュートンにはこの後どんな運命が待ち構えているのでしょうか、………?



 本作は、アメリカの南北戦争の折に、自由を求めて闘った実在した男が主人公の物語。主人公は、当初、南軍の衛生兵として従軍していましたが、甥が目前で死んだことなどをきっかけに前線を離脱して身を隠し、同じような境遇にある者や逃亡奴隷の黒人たちと結託して南軍に反旗を翻し、「ジョーンズ自由州」を宣言するに至ります。本作を見ると、逃亡兵ながらも、実に英雄的な行動を取っていて素晴らしい人物なのです。ですが、殆ど知られていないところを見ると、あるいは本作で描かれている彼の姿にはかなりフィクションが混じっているのでしょう。特に、「ジョーンズ自由州」の実態がどんなものだったのか、本作からはよく見えてきません。自由を求めて闘った男を巡るフィクションの劇映画として捕らえておいた方が無難なのかもしれません。

(2)本作の冒頭で「事実に基づく物語」との字幕が映し出されたり、公式サイトの「イントロダクション」では「比類なき英雄の驚愕と感動の実話」とあったりして、本作については、随分と「実話」であることが強調されています。
 特に、全く唐突に現代風の裁判の模様が時間を置いて何度も挿入されて、如何にも本作が事実を描いているかのような雰囲気が醸し出されます(注3)。

 確かに、公式サイトの「ニュートン・ナイトと南北戦争」には、主人公のニュートン・ナイトの伝記が述べられていますし、Wikipediaの英語版にも、「Newton Knight」の項目が立てられています。
 少なくとも、それらで述べられていることは史実なのでしょう。

 でも、本作で描かれているニュートンの格好のいい英雄的な姿の大部分は、フィクションではないかと疑いたくなってしまいます(注4)。



 勿論、クマネズミは、そう考える根拠を何も持っておらず、いい加減な憶測に過ぎません。
 でも、ニュートンの目の前で戦死した甥のダニエルの話とか、物資の調達にやってきたバーバー中尉(ビル・タングラディー)率いる南軍の兵士たちをニュートンと主婦と3人の女の子で退ける話、南軍に投降したにもかかわらず縛り首にされた一家4人の葬儀の場におけるニュートンらの大反撃などは、本作を面白く見せるためのフィクション(あるいは伝説として伝えられていること)ではないかと疑いたくなってしまいます。
 また、ニュートンと一緒に暮らすことになるレイチェルググ・ンバータ=ロー)は写真(注5)が残っているので実在したのでしょうが、ニュートンの右腕とも言うべき逃亡奴隷のモーゼスマハーシャラ・アリ)は実在しなかったように思われます。



 なによりも、ニュートンが「4原則」(注6)を高らかに掲げて成立を宣言した「ジョーンズ自由州」ですが、本作からはその実態がよくわかりません。
 南軍や北軍から離れて自分たちの州を作った感じですが、代表者は誰で、州庁は何処にあり、州の行政を司る役人は何処にいるのか、などわからないことだらけです。
 一番の問題は、ニュートンが率いる500名とされる者たちの位置づけです。
 彼らは、南軍の司令部が置かれていたエリスビルの「ALICEホテル」を占拠するものの、大規模な南軍がやってくると聞いて、元の棲家の沼地にまで戻ってしまうのです。
 これでは、「ジョーンズ自由州」の4原則を維持することなど難しいのではないでしょうか?

 それに、「ジョーンズ自由州」については、公式サイトの「イントロダクション」に、「(ニュートン・ナイトは、)1864年、出身地であるミシシッピ州ジョーンズ郡に、肌の色、貧富の差、宗教や思想に関係なく、誰もが平等な〈自由州〉の設立を宣言した」とか、「ストーリー」にも、「ニュートンは、北部にも南部にも属さない“ジョーンズ自由州”の設立を高らかに宣言する」と述べられていますが、本作からはそんな崇高な行為が行われたようには見えません(注7)。
 ニュートンは、北軍のシャーマン将軍のもとに、援助を求めて使節を送りますが、烏合の衆だと断られてしまいます。
 実際のところ、ニュートンのところには、彼自身も含めて南軍から脱走した者や、逃亡奴隷の黒人が集まってきているにすぎないようにも思われます。

 しかしながら、伝記物映画にはフィクションは付き物です。
 それがあるからと言って一々批判していたら、伝記物映画は成り立たないでしょう。
 現に、『ブルーに生まれついて』とか『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』とかの作品では、フィクション的なものを随分と取り入れています。
 ただ、これほど一般に知られていない人物を描くのであれば、そしてそれにフィクション的な部分がかなり含まれているとしたら、見る者を混乱させないように、「史実」であるとか「実話」であることを余り強調しない方がいいのでは、と思えてしまいます(注8)。

 それに、本作は、上で触れましたように、時点が80年以上もズレてしまうエピソードが突如挿入されたり、出来事が羅列されているだけだったりもして、南北戦争終結以降はかなりダレた感じになります(注9)。

 とはいえ、主役のマシュー・マコノヒーの熱演によって、主人公の自由を求める熱い思いは、見ている方にも伝わってきます。
 それにしても、マシュー・マコノヒーは、本作の沼地のような湿地帯を描く作品によく登場するものです(注10)。

(3)外山真也氏は、「トランプ大統領が誕生した今、マイノリティーや弱者にも等しく権利があることをうたったこの映画が公開される意義は大きい」として★3つ(5つの内)を付けています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「壮絶な戦闘シーンから人種差別、政治闘争まで、てんこ盛りの2時間20分。個々の人物描写よりも時代感覚、ドラマ性を色濃く映しこむことに力を注いだ」と述べています。
 二井康雄氏は、「骨太で、アメリカの近代史に埋もれた男ニュートン・ナイトの奮闘を描いて、2時間20分の長尺をあきさせない」、「アメリカの大統領や日本の首相に、まっさきに見てもらいたいような映画だ」と述べています。



(注1)監督・脚本はゲイリー・ロス
 原題は「Free State of Jones」。
 また、この記事の「Premise」によれば、「The film is credited as "based on the books The Free State of Jones by Victoria E. Bynum and The State of Jones by Sally Jenkins and John Stauffer」。

 なお、出演者の内、最近では、マシュー・マコノヒーは『インターステラー』、ショーン・ブリジャーズは『ルーム』、ジェイコブ・ロフランドは『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』で、それぞれ見ました。

 ちなみに、ニュートン・ナイトを描いた作品としては、大昔に『Tap Roots』(1948年)があるようです。

(注2)ここで描かれているのは、「第二次コリンスの戦い」でしょう。

(注3)驚いたことに、本作の中に、本作の主な時点である1862年より80年以上も後に行われた裁判の模様が、突如として挿入されるのです。
 すなわち、ニュートン・ナイトのずっと後の子孫(曾孫)のデイビス・ナイトブライアン・リー・フランクリン)が、白人女性と結婚し、異人種間の婚姻を禁止する州法に違反したというので、裁判にかけられています(「State vs. Knight」)。
 問題は、デイビスが、ニュートン・ナイトの最初の妻である白人のセリーナケリー・ラッセル)の血をひいているのか、それとも黒人のレイチェルの血を轢いているのか、ということに絞られます。結局、本作では、セリーナがジョーンズ郡を離れていたらしいことがわかり、さらには、ニュートン・ナイトとレイチェルとの結婚を記した聖書が見つかったことから、デイビスには黒人の血が流れている(少なくとも「8分の1」は)と認定されてしまいます(「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(One-drop rule)」に基づいて)。
 裁判所の方から、あくまでも婚姻関係を維持したいのなら違う州に移住するよう求められますが、デイビスは、この地で婚姻届を出したのだからと言って、移住を拒否します。そこで、裁判所は、デイビスに懲役5年の刑を言い渡します。

 なお、この記事によれば、「世界の多くの国でも異人種間の結婚を禁じる法律は存在したが、アメリカはバージニア州が1661年に制定し、1967年にこの法は憲法に反するとの最高裁の決定まで約300年以上も続いた」とのこと。
 この記事によれば、デイビスの裁判は1948年に行われていますから、ミシシッピ州でも、こうした異人種間の結婚を禁止する州法が存在していたものでしょう。
 ただし、同記事によれば、ミシシッピ州最高裁でデイビス側は勝訴していて、デイビスは実際のところ刑務所に入らなくて済みました。本作で、デイビスの裁判を使うのであれば、そのことまでもきちんと描く必要があるのではないでしょうか(簡単には触れられますが)?

 ちなみに、レイチェルは、本作では「クレオール人(creole slave)の治療師(healer)」とされますが、同記事では「a former slave of Newt’s grandfather.」とされています(ただし、この記事の「Early life and education」によれば、ニュートンの父親は奴隷を持っておらず、ニュートン自身も持ってはいなかったとのこと)。

(注4)この記事の「Premise」にも、「Although the plot of the movie is fiction, the overall story follows the history of Jones County, and many of the events portrayed are true」と述べられています。

(注5)例えばこのURL。

(注6)本作の中で言われている「4原則」とは、
・貧富の差を認めない。
・何人も他のものに命令してはならない。
・自分が作ったものを他者に搾取されることがあってはならない。
・誰しも同じ人間である。なぜなら皆2本足で歩いているから。

 でも、「ジョーンズ自由州」が自分たちを防衛するために軍隊を持つのであれば、指揮・命令系統をはっきりさせなくてはならず、また軍隊は非生産的集団ですから、物資の調達を行わざるを得ず、この4原則の内2つは守ることが難しいのではないでしょうか?
 また、「誰しも同じ人間である」と言うだけでは奴隷解放に繋がらないような気もします。

(注7)本作が依拠しているとされる本(上記「注1」で触れています)を書いたVictoria E. Bynumは、次のように述べているようです。「Newt himself, as well as his 1st Sgt., Jasper J. Collins, and Jasper's son, Loren, all denied the myth of secession during their lifetimes. In separate interviews or publications, these three men made the same point: that it was their belief that Jones County had never left the Union in the first place」(この記事の「Legacy」によります)。

(注8)公式サイトの「イントロダクション」にある「リンカーン大統領よりもひと足先に、奴隷解放を成し遂げ、アメリカを大きく動かすこととなるのだ」と言うような大仰な言い方は、問題があるのではないでしょうか?

(注9)公式サイトの「イントロダクション」によれば、「歴史の中に封印されたニュートンの伝説を、全世界の人々に伝え」ようとして、「10余年の歳月をかけてリサーチを徹底」して行ったとのことです。ただ、そうやって得られた事柄を、ゲイリー・ロス監督は、とにかく映画の中で全て描き出そうとしたかのような印象を受けます。

(注)クマネズミが見た作品としては、『MUD-マッド-』と『ペーパーボーイ―真夏の引力』。
 他に、湿地帯を描いている作品については、後者についての拙エントリの(2)をご覧ください。



★★☆☆☆☆


マギーズ・プラン

2017年02月11日 | 洋画(17年)
 『マギーズ・プラン―幸せのあとしまつ―』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)『ブルーに生まれついて』で好演したイーサン・ホークが出演しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の季節は冬。場所はニューヨーク。
 主人公のマギー(注2:グレタ・ガーウィグ)が通りを歩いています。
 盲人が道路を横断しようとしているのを見て、マギーは彼の腕を取って渡ります。

 次いで、ベビーカーに子供を乗せて立ち止まっている男(マギーの元彼のトニーで、職業は弁護士:ビル・ヘイダー)を見つけて、マギーは「ごめん、ごめん、遅れちゃった」と言い、ベビーカーに乗っている子供に向かって、「ハーイ、マックス。赤ちゃんの臭いがまだこんなにも」と言います。

 続けてマギーが「私も産みたいな」と言うと、トニーが「父親は?」と応じますが、それに対しマギーは、「でも6ヵ月以上関係が続いたことはないの」と答えます。
 トニーが「僕とは2年間一緒だった」とつぶやくと、マギーは「それは大学時代のこと。それに最後の方は、お互いに悲惨だった」と応じます。

 さらにトニーが「僕は、精子を精子バンクに預けている。万一の際の保険にいいかもと思って」と言うと、マギーは「フェリシア(トニーの妻:マーヤ・ルドルフ)は子供を増やしたくないのでは?」と言い、さらに「大学の時のガイトラヴィス・フィメル)を覚えている?昔は数学の大学院に行っていたけど、今はピクルス屋を営む企業家。彼の精子をもらって、自分で注入してみようと考えている」と付け加えます。
 それに対しトニーは、「彼の性格まで遺伝しないように。それに、そんなことは49歳位の女が考えつくことじゃあないのか?」と疑問を呈します。
 マギーは、「私は母親になりたいだけ。私については、お互いに愛し合う関係が半年以上続くとは思えない。こうするのは、そういう自分を直視した結果なの」と答えます。

 次いで、マギーは、ひょんなこと(注3)から大学事務局でジョン(文化人類学を教える非常勤講師:イーサン・ホーク)と知り合い、そこからジョンの妻だったジョーゼット(コロンビア大学の教授:ジュリアン・ムーア)をも巻き込む話が展開するのですが、さあどうなるのでしょう、………?

 本作は、妻子ある男と深い関係になってしまった若い女が、その男の元妻のことを偶然に知るに至り、さらに自分もその男から心が離れてしまったこともあり、彼を元妻のところに戻す計画を実行するというお話。結婚・離婚が簡単に行われているとされるアメリカだったら、こんなこともありうるのかもしれませんが、まあ勝手にやってくれとしか思えない浅薄な内容の映画だなと思ってしまいました。

(2)クマネズミが今のアメリカ人の生活をよく知らないためでしょうが(注4)、本作の主人公のマギーの行動がわかりません(注5)。



 上記の(1)でも触れているように、学生時代に2年間も付き合っていたトニーと別れた後も、随分親しげにマギーは彼と話をしています。喧嘩別れをしたわけではないためでしょうが、それにしてもごくプライベートな事をあけすけに話すものです。
 そして、「6ヵ月以上関係が続いたことはない」と言って、精子提供者のガイとは結婚しないものの、イケメンのジョンが現れると、その言は何処へやら、すぐさま結婚してしまうとは!



 これでは、単にガイが嫌いだと言っているだけのことになるでしょう。

 そんなガイにもかかわらず、マギーが彼から精子の提供を受けるというのは、ガイの数学的な才能を見込んでのことなのでしょうか?でも、それでは、人間関係をあまりにも物質的にしか見ていないことになるのでは、と思えてしまいます(生まれた子供から父親のことを聞かれた際には、一体なんて説明するつもりなのでしょう?)。
 そして、マギーは、ガイの精子を使って自分で人工授精をします(注6)。でも、その日にジョンとベッド・インするなんて、いくらなんでも非常識すぎるように思われます(注7)。
 現に、ジョンとの子供と思い込んでいたリリーについて、ラストでは「アレッ?」という感じになるのですから(注8)。

 さらには、ジョンの方もよくわかりません。



 彼は、大学教授の妻・ジョーゼットの仕事の方を優先し、自分はしがない非常勤講師となって、2人の子供ジャスティンポールの面倒の世話をしているのですが、やっぱり自分の時間を確保して書きたい小説を仕上げるとして、ジョーゼットと別れマギーと再婚するのです。
 でも、そんなことで離婚するなんて、結婚を随分簡単に考えているとしか思えません。
 後の話からしたら、ジョンとジョーゼットは喧嘩別れしたわけではなさそうです。
 だったら、夫婦の間できちんと状況を見つめ、これからどうすればいいのか話し合えば、離婚するまでに至らなかったのではないでしょうか(注9)?

 そして、結婚して子供を持てば事態は同じことになるとよくわかっているはずにもかかわらず、ジョンとマギーの間にはすぐにリリーが生まれます。
 こんな状況では、子供たちの方こそ可哀想ですし(注10)、ジョンとマギーの関係が長続きしそうにないのは、誰の目にも明らかでしょう。

 総じて言えば、アメリカならばこんなこともありうるのかなとは思えるものの、まあ皆さん勝手にやってくださいという感じになりました(注11)。

(3)渡まち子氏は、「人間というのは、持ちつ持たれつで成り立っているんだなぁ…と苦笑してしまうお話だが、何とも憎めない小品だ」として60点を付けています。



(注1)監督・脚本は『50歳の恋愛白書』のレベッカ・ミラー

 なお、出演者の内、最近では、イーサン・ホークは『ブルーに生まれついて』、ジュリアン・ムーアは『アリスのままで』で、それぞれ見ました。
 主演のグレタ・ガーウィグは、DVDの『フランシス・ハ』で見ました。

(注2)マギーの職業はアーティスト・コーディネーターで、大学で働いています(この記事によれば、「a career advisor to art and design students」)。

(注3)マギーの方に給与支払い小切手(paycheck)が2通届き、ジョンの方には何も届きませんでした。これは、マギーの正式の名前(Johanna Margaret Hardin)とジョンの正式の名前(John Harding)とが類似していたために、事務局が誤って一人の人間とみなしてしまったことによるものではないか、とマギーはジョンに言います。

(注4)劇場用パンフレット掲載のエッセイ「マギーの“計画”が教えてくれる、幸せと愛についての真実」でライターの佐久間裕美子氏は、「オープニングのわずか数分間で「あ、私達の話だ」とハッとした。頭に浮かんだ「us」(私たち)というのは、ニューヨークのシングル女性のことだ」云々と述べていて、そういう人たちにとって本作は身近な出来事を描いていると思えるのでしょう。でも、遠い日本から、それも男性の目で見ると、とても理解が及ばない感じがしてしまいます。

(注5)尤も、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、監督は「マギーはちょっとドジでありつつ、とても聡明なところが愛される理由」などと語っているところからすると、半ば意図的にマギーにおかしな行動をとらせているのかもしれません。
 なお、イギリス映画『ブリジット・ジョーンズの日記』の3部作と較べてみても面白いかもしれません(第3作目に関する拙エントリはこちら)。

(注6)ネットで調べると、セルフシリンジ法(自己人工授精)というものがあるそうです(例えば、この記事)。

(注7)マギーがバスでセルフシリンジ法をやっている最中にジョンが部屋のドアをノックしたために、マギーは慌てまくります。それで、不十分な注入しかできず、これでは妊娠しないと思い込んだのかもしれませんが。

(注8)ラストでは、スケートを楽しんでいたジョンやマギー、リリーのところにガイが現れるのです(リリーは、3歳児にもかかわらず、大きな数字を数えあげ、大人を驚かせます)。

(注9)2人の合意の上で子供を2人も作ったのですから、ジョンが自分の時間がほしいというのなら、現在の家事の負担割合を変更するように話し合えば済むように思われます(ジョーゼットの仕事を優先させたいジョンが考えているとしても、離婚したら、ジョーゼットは2人の子供の面倒を現在以上に見なくてはいけないことになるのですから)。

(注10)別れたとは言え、ジョンは、ジョーゼットとの間の2人の子供ジャスティンとポールの世話も半分は引き受けなくてはなりませんし、その上リリーも加わるのですから、早晩ジョンとマギーの関係がおかしくなるのは目に見えています。

(注11)全くどうでもいい事柄ながら、ジョンは、自分がよばれた人類学の学会に著名な哲学者のスラヴォイ・ジジェクがくるというので興奮しますが、この記事によれば、同氏は、マルクス主義者でもありながらも、トランプ支持のようです!



★★☆☆☆☆



象のロケット;マギーズ・プラン―幸せのあとしまつ―

キセキ

2017年02月09日 | 邦画(17年)
 『キセキ―あの日のソビト―』を渋谷TOEIで見ました。

(1)松坂桃李菅田将暉が出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ライブハウスでメタルバンドの「ハイスピード」が情熱を込めて演奏しています。ボーカルのジン松坂桃李)が激しく歌い、観客が熱狂。

 次の場面はジンの自宅。
 ジンの音楽活動をまったく認めない父親・誠一(病院に勤務する医師:小林薫)が怒って、「よく考えて行動しろ」と正座するジンを殴りつけると、ジンは「はい」と答え、誠一は「もういい」とそっぽを向きます。
 母親・珠美麻生祐未)がとりなそうとしますが、ジンは「もういいよ」とその場を離れます。



 ジンが部屋に戻ると、弟のヒデ菅田将暉)が、ヘッドフォンを耳にしながら受験勉強をしています。ヒデが「兄ちゃん、また?大丈夫?」と尋ねるのには答えず、ジンは、窓を開け放ってタバコを吸います。

 次いで、入学試験の試験会場の光景(ヒデが混じっています)が映し出された後、ヒデの姉・ふみ早織)が、買ったものを手に下げながら街中を歩き、「今晩は」と言いながら実家に入っていきます。
 母親の珠美が「ご苦労さま」と言うと、ふみは「途中の階段がきつい」とこぼしますが、珠美は「体が温まっていいでしょ」と受け流します。
 ふみが「どうだったの?」と尋ねると珠美は「受かっているでしょ」と答えますが、そこに現れたヒデは「落ちた」と言います。

 夕食は、姉・ふみが買ってきた材料ですき焼き。ジンを除いた家族が揃っています。
 母親・珠美が「絶対受かると思ってた」と言い、姉は「来年もあるから」と応じ、さらに珠美は「不思議よね。大学落ちても、やっぱ肉は美味しい」と言いながら、「ジン、遅いわね」と付け加えます。
 その頃、ジンは、ライブハウスの控室にいて、バンド仲間のトシオ奥野瑛太)から「メシ行かないか?」と誘われると、「全然平気」と応じます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作は、若者に大人気の音楽グループ「GReeeeN」が生まれ大ヒットを飛ばすまでの経緯を描く音楽物。実際のメンバー等は歯科医だったりするため顔などを一切公開していませんが、それを若い俳優たちがなりきって熱演しています(注2)。劇映画仕立てになっていますから事実そのままではないのでしょうが、本作の中で歌われる歌がよくできていることもあって、まずまず面白く見ることができました。

(2)本作は、「GReeeeN」の「キセキ」(注3)が誕生するまでの経緯を、ジンとヒデの兄弟を中心にして描いています。



 それを今が旬の松坂桃李と菅田将暉が熱演していて、特に、父親・誠一役の小林薫から殴られたり、ヘビメタの曲を2つも歌ったりする松坂桃李には圧倒されます。
 そればかりか、本作では、ヒデとHMV店の店員・理香忽那汐里)とのラブ・ストーリーもチキンと描かれています(注4)。



 とは言え、よくわからないところもあります。
 例えば(以下は、実際を良く知らないクマネズミの極端な偏見に基づくものです。悪しからず)、
・音楽にどっぷり漬かるジンを全く認めない父親・誠一が、怒って床の間にあった刀を掴み、鞘を抜いてジンに切りつけようとしますが、今時そんなことがあるのか、と引いた感じになってしまいます(注5)。
 尤も、公式サイトや劇場用パンフレットには「本当にあったキセキの物語」とか「Based on A True Story」とかあるので、もしかしたらそうだったのかもしれませんが。

・ヒデはよくCDショップに出向きます。しかしながら、今時の若者だったら、一般的にはネット配信を利用するのではないでしょうか(注6)?
 本作におけるCDショップは、ヒデと理香との出会いの場所としてとても重要な場所ながら、それにしてもいつも人が入っているなという感じです(注7)。

・誠一が病院で担当している少女・結衣(拡張型心筋症に罹っています:平祐奈)は、手術を不安に思っていたところ、「GReeeeN」の曲を聞いて勇気をもらい、「GReeeeNに会えて前向きに慣れた」と書いたメールがラジオの番組で紹介されます(注8)。
 そこまでは十分にありえるでしょう。でも、そのラジオ番組をヒデが耳にするというのは、起こりうるのでしょうか?ラジオ番組は、若者の間でどの程度聞かれているのでしょう?

・レコード会社ディレクター・売野野間口徹)は、ジンらのバンド「ハイスピード」をライブハウスで実際に聞いて、メジャーデビューに持っていこうとするものの、彼らの演奏する音楽に対しては徹底的にダメ出しをします。
 その際に、売野が「子供のお遊びではない」「プロとアマの違いはリズム感。その歌い方では全然ダメ」などと言うのはわかります。ですが、「サウンドをポップにしないと、メジャーじゃ通用しない」などと言って、曲の抜本的な作り直しを求めるのはどうなのでしょう?
 売野は、「ハイスピード」がメタルバンドであることを十分に承知の上でメジャーデビューさせようとしているわけで、「今時メタルは売れないよ」と言うくらいなら、はじめからスカウトしなければよかったのではと思えてしまいます。

 総じて、本作に盛り込まれるエピソードからは、幾分古めかしい雰囲気が漂ってきます。
 でもまあ、こうしたことがすべて起こったのだから本作のタイトルが「キセキ」になっているのかもしれず、だとしたら、こんなつまらないことをいくら挙げても何の意味もありません。
 ともかく、本作はまずもって音楽物なのだと受け止めて、流される様々な曲に堪能できたのなら、それで良しとすべきなのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「映画としては少し盛り上がりに欠ける印象も。それでもすべてを乗り越えて音楽の道へと進むと決めた彼らの凛とした表情が映り、名曲「キセキ」が流れる時、改めて、この曲の素晴らしさが伝わってくる」として60点を付けています。



(注1)監督は兼重淳
 脚本は、『娚の一生』などの斉藤ひろし
 なお、サブタイトルにある「ソビト」とは、劇場用パンフレット掲載の「GReeeeN’s Secret」には、「素人、空人、自由にチャレンジする気持ちを指します」とあります。そして、「GReeeeN」が作った歌「ソビト」が本作の主題歌になっています。でもサブタイトルにある“あの日”とはどの日なのでしょう?

 また、出演者の内、最近では、松坂桃李は『湯を沸かすほどの熱い愛』、菅田将暉は『セトウツミ』、忽那汐里は『女が眠る時』、麻生祐未は『疾風ロンド』、小林薫野間口徹は『海賊とよばれた男』、奥野瑛太は『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』、早織は『百円の恋』で、それぞれ見ました。

(注2)「GReeeeN」のメンバーは、ヒデ(菅田将暉)の他にはnavi横浜流星)、92成田凌)、SOH杉野遥亮)。加えて、プロデュサーとしてのジン(松坂桃李)がいます。
「GReeeeN」についてより詳しくは、例えばこちらで。

(注3)歌はこちらで。

(注4)学業と音楽活動の両立に行き詰まってしまったヒデが理香に、「GReeeeNの活動をいったん止める」と言うと、理香から「何がしたいの?お父さんのために生きているの?」と言われたり、ジンにも「お前には才能がある」「続けたくても続けられないやつもいる」と言われたりして、ジンは大いに悩むのですが、こんなところは、先日見た『本能寺ホテル』における繭子綾瀬はるか)が、自分は一体何がしたいのかわからなくて悩むシーンを思い起こさせます。

(注5)今時の家(一戸建ての場合でも)に、果たして、掛け軸の掛かった床の間が設けられているのか、ましてそこに刀が飾られているなんて、と思ってしまいます。あるいは「模造刀」かもしれませんが、それにしても。
 加えて、メスを持って外科手術を行う医師が、手術室以外の場所で簡単に刃物を手にするのかいささか疑問にも思えます(それに、この瞬間湯沸かし器のような人物は、外科に向いているのでしょうか?)。

(注6)まして、ヒデは、今ではそれほど注目されない「海援隊」のCDを買おうというのですから。
 尤も、このブログの管理者は「歯科研修医」で、「私は「海援隊」が好きだ 「好き」と言うのは何となく悔しいけれど やっぱり、好きだ」と書き、「海援隊勝手にベスト10」を挙げています(GReeeeN関係者でしょうか?)。あるいは、「海援隊」を支持する底流が存在するのかもしれません。

(注7)HMVは、このサイトを見ると、依然として全国展開しています。
 ただ、渋谷の旗艦店は、「音楽のインターネット配信が普及する中で経営が悪化し、平成22年の8月に閉店」しています(この記事:ただ、同記事によれば、27年に別の場所でリニューアルオープンしていますが)。

(注8)厳しい症状の出た結衣が病院に運び込まれると、誠一は心配する母親に、「これから手術をします。最善を尽くします」と言います。ただ、このシーンは、本作の時系列で見ると、GReeeeNのCDデビューの前のこととされています。
 そうであれば、手術を受けるのが怖くて逃げていた結衣が、GReeeeNの曲をラジオで聞いて手術を受ける気になったという流れではなく、単に、GReeeeNの曲を耳にしてこれからは前向きに生きていこうと思った、というエピソードになってしまいます(あるいは、結衣には、モット大掛かりな手術がこれから待ち受けているのかもしれませんが)。



★★★☆☆☆



象のロケット:キセキ―あの日のソビト―

新宿スワンⅡ

2017年02月07日 | 邦画(17年)
 『新宿スワンⅡ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)前作の『新宿スワン』が大層面白かったので、続編もと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、新宿の繁華街の夜景が映し出され、雑踏の中を人々が行き交い、救急車のサイレンが鳴ったりします。
 タイトルが流れた後、主人公の龍彦綾野剛)が、繁華街を歩きながら「俺はスカウトマン。今はスカウトマンのゴールデンタイムだ」などと呟いています。



 さらに、「メンバーも変わった」「秀吉が死んで1年」と龍彦が言うと、秀吉山田孝之)が銃で撃たれて階段を落下する映像が流れます。
 また、「仲が良かった洋介久保田悠来)も、いつの間にか消えた」と呟きます。

 若い女(広瀬アリス)が龍彦に近づいてきて、「あたし、マユミと言います」と名乗るので、龍彦が「で、どうした?」と水を向けると、彼女は「借金が200万あるの。気付いたら随分と増えてた」と言うので、龍彦は「ちゃんと返そうな」と応じます。
 そこへ「揉めている」と仲間(桐山漣)が告げに来たので、龍彦はマユミに、涼子山田優)の店・ムーランルージェの名刺を渡し、「ここに連絡して」と言ってその場所に急ぎます。

 揉めているのは、龍彦の所属するバーストが抑えている新宿歌舞伎町に、渋谷のスカウト会社のパラサイツのスカウトマンが現れたため。
 龍彦が現れると、パラサイツの幹部の森長上地雄輔)が「お前と勝負だ。お前には貸しがある」と言って、龍彦に飛びかかります。
 しかし勝負はつかず、森長が「最高だな」と言い、龍彦も「今度やる時は10発ぐらい増やしてやる」と相手を認めあっていると、警官がやってきて解散させられます。

 場面は変わって、バースト社。幹部が集まっています。
 社長の山城豊原功補)が「現場の揉め事が多いな」と言うと、深水元基)が「だから、ハーレムとの合併には反対だった」と呟き、さらに社長が「2割位スカウトが減ればいいのでは?」と言うと、葉山金子ノブアキ)が「旧ハーレムの連中を減らしますか?俺の裏切りがあったと言われてますし」と応じます。
 社長はそれには取り合わず、「方法は一つしかない、シマを広げるんだ」と言います。
それに対し、関が「どこへ向かって?」と訝しがると、真虎伊勢谷友介)が「横浜だよ」と答えます。



 関は「横浜は無理だ」と言うのですが、社長は「洋介が横浜にいるらしい。関、龍彦を連れて行け」と命じます。

 こうして、横浜進出を図るバーストと、それを迎え撃つウィザード〔社長は浅野忠信)〕との熾烈な戦いが始まりますが、さあ、どのような物語になるのでしょうか、………?

 本作は、新宿歌舞伎町を牛耳っているスカウト会社が、横浜に進出しようとして、横浜のスカウト会社と対立抗争することになるというお話。ただ、なんだか『土竜の唄 香港狂騒曲』と同じような雰囲気が漂っていて、主役の綾野剛が前作同様の熱演ですし、前作の沢尻エリカや山田孝之に代わる広瀬アリスや浅野忠信らもなかなかの演技を披露するとはいえ、総じて前作ほどのヴァイタリティーが感じられませんでした。

(2)本作では、逆に歌舞伎町に進出してきたウィザードのハネマン中野裕太)らと、それを撃退しようとするバーストの龍彦らとの激しいバトルが繰り広げられたり(注2)、深い因縁のある関と滝との殴り合いに龍彦が割って入って、龍彦が滝と向かい合って戦ったりするなど、次々に映し出されるアクションシーンは、谷垣健治をアクション監督として迎えたこともあり、大変見応えがあります。
 また、ウィザードを裏で支える暴力団・宝来会の会長・田坂とか県警の砂子を演じる中野英雄笹野高史などの凄みもなかなかのものです。
 勿論、横浜に進出しようとするバーストを迎え撃つウィザードの社長・滝を演じる浅野忠信の存在感もタダモノではありません(注3)。

 また、本作でも、前作において沢尻エリカが演じたアゲハと同じように、借金に苦しむマユミをヒロイン的な存在として描いています。

 とはいえ、前作は、とにかく龍彦に扮した綾野剛の瑞々しく溌剌とした演技に圧倒されましたが、本作での龍彦は、既にバーストの中間管理職になっているところから描かれていることもあるのでしょう、前作のような弾けっぷりが見られない感じがします。
 例えば、橋の上から川に飛び込んだマユミを龍彦が追いかけて飛び込むシーンは、アゲハが、龍彦と手をつないで歌舞伎町の街を薄いものを羽織って裸足で走る前作のシーンほど感銘を受けるものではありませんでした。

 それに、全日本主犯連合会の会長・住友椎名桔平)の提案で行われる「クイーンコンテスト」ですが、何を基準として勝者が選ばれるのかイマイチはっきりしていない上に(注4)、『土竜の唄 香港狂騒曲』で催される人身売買のパーティーとよく似た感じがしてしまいます。
 そう言えば、本作はスカウト会社の闘いが描かれているとはいえ、背後には、紋舞会〔会長は天野吉田鋼太郎)〕とか宝来会といった暴力団が控えているのであり、数寄矢会などの暴力団の抗争が描かれる『土竜の唄』と構造は類似している感じがします。

 総じて言えば、本作で中心的に描かれるのは浅野忠信が演じる滝であって、本来の主人公である龍彦は、むしろ狂言回し的な位置づけとなってしまっているように思えました(注5)。
 『新宿スワンⅢ』が作られるのであれば、再び、龍彦を巡る作品にしてもらいたい感じがします(注6)。

(3)渡まち子氏は、「何しろ、登場人物が多いので、133分という長尺の間、どうにもゴチャゴチャしてしまった感は否めない。内容も、いろいろと詰め込みすぎて、交通整理がうまくいってない印象だ」として55点を付けています。



(注1)監督は、前作同様、園子温
 脚本も、前作同様、水島力也
 原作は、和久井健著『新宿スワン』(講談社)。

 なお、出演者の内、最近では、綾野剛は『怒り』、浅野忠信は『沈黙-サイレンス-』、伊勢谷友介金子ノブアキ山田優豊原功補吉田鋼太郎は『新宿スワン』、椎名桔平は『秘密 THE TOP SECRET』、深水元基は『ラブ&ピース』、村上淳は『太陽』、久保田悠来は『SCOOP!』、上地雄輔は『土竜の唄 香港狂騒曲』、広瀬アリスは『銀の匙 Silver Spoon』、中野英雄は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。

(注2)ホストの顔が写っている何枚ものパネルが貼られた巨大な看板が倒れてくる中を、龍彦が全力で駆け抜けたりします。



(注3)昨年の『淵に立つ』において浅野忠信が演じる八坂は、利雄古舘寛治)と一緒に罪を犯しながらも、一人でそれを背負って刑務所に入りました。それと同じように、本作の関も、滝を庇って自首して逮捕されます。八坂が出所した時に利雄は出迎えに行きませんでしたし、関が留置所を出た時に滝も出迎えませんでした。それぞれ事情があるとはいえ、関係はもとに戻らず、事態はむしろ悪い方向に進んでしまいます。
 『淵に立つ』と本作とで浅野忠信は180度異なる役柄を演じているものの、どちらも大層説得力ある演技を披露します。

(注4)舞台の前に審査員席があり、そこに全日本主犯連合会の会長・住友などが座っていて、コンテスト出場者にいろいろ質問などをしているにもかかわらず(ラストで、住友がマユミに「特技は?」と尋ねると、マユミはバニーステップを披露します)、最後に、涼子ママが配下のキャバクラ嬢を大量(54人)に連れてきてコンテストに参加すると、結局は、「98対92」でバーストがウィザードに勝ってしまうのです。これでは結局、コンテスト出場者の「質」ではなく、どちらのスカウト会社がキャバ嬢をより多く集めたのかの争いに過ぎなかったということになってしまいます。



(注5)龍彦が、親しかった洋介と絡んでくる場面がモット描かれれば違ってくるかもしれません。洋介は、滝の女のアリサ高橋メアリージュン)が洋介を薬漬けから救出しようとすることに絡んで描かれるに過ぎません。

(注6)ラストで、真虎が「これですべてが解決した。滝が死んで、関は横浜に残った。これで葉山は幹部だ」「洋介が秀吉を殺したという事実に乾杯だ」などと言い、これだと『新宿スワンⅢ』が作られる可能性はなくなるでしょう。
 ただ、龍彦は、「葉山さんへの疑いは晴れない」、「真相はなんだろう?」、「真相はどこかに隠れている」などと呟きます。ここからすれば、『新宿スワンⅢ』の余地は残っているのかもしれません。
 また、本作において真虎がほとんど活躍しなかったことも、『新宿スワンⅢ』を予想させる要因に数えられるのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:新宿スワンⅡ


ゾウを撫でる

2017年02月03日 | 邦画(17年)
 『ゾウを撫でる』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)「お蔵出し映画祭2015審査員特別賞受賞」(注1)の作品ということで、面白そうだなと思って映画館に行ってきました。

 本作(注2)の始めの方では、海岸の砂丘(注3)を歩く二人の男が映し出されます。
 一人は映画監督の神林小市慢太郎) で、もう一人は脚本家の鏑木高橋一生)。
 監督は、両手の指で四角のフレームを作って海岸の方を眺め、「テトラポットが邪魔かな」と言ったり、交換レンズを望遠鏡にしたものを覗きながら、「鏑木君、映画のラストはここでどうだろう?」と尋ねたりします。
 鏑木が「それで書いてみます」と答えると、監督は「眠り続ける女の心、あとは君に任せるよ」と言います。

 2人は木の株に腰を掛けます。



 鏑木が「奇妙な体験をしました」と言うと、画面は映画館の中に変わります。
 鏑木は席に座って映画を見ています。
 しばらくすると、映写室の中にいる技師(竹石研二)の姿が映ります。

 監督の声で、「フィルムを使うのは珍しい。フィルム切り替えのパンチ(注4)があったのだね」。

 その映画館で上映されているのは時代劇ですが、途中で画面が暗転した後、切り替わらないままになってしまいます。
 映写室が映し出され、映写技師が床に倒れ唸っています。

 監督が「その技師は?」と尋ねると、鏑木は「亡くなられました」と答えます。
 監督は、「最後に、技師という存在を伝えたのだ」と言います。
 それから監督は、「15年も撮らない内に、映画はずいぶんと変わってしまった」、「映画のタイトルは「約束の日」ではどうかな」、「いつかあの約束が守られるように、祈りを込めて」と言います。

 これは本作の最初のエピソードですが、これから様々のエピソードが綴られていきます。
 さあ、どのような展開になるのでしょうか、………?

 本作は、それぞれの事情を抱えながら映画にかかわりを持つ人達が、ロケ地に集まってきて映画を制作していこうとする様子を描いている作品です。登場人物の中には、監督とか俳優ばかりでなく、ロケ地で使う大道具を運ぶトラックの運転手やそれに乗るヒッチハイカーの青年までいます。目覚ましい事件は何一つ起こらないのですが、バラバラのエピソードが次第に一つに収斂していくのをまずまず面白く見ることができました。

(2)本作は、「約束の日」という映画の制作に関係する人々の様子がいろいろのエピソードで綴られた上で、最後にそうした人たちが映画のロケ地の砂丘に集まってくるという内容です。
 例えば、上記(1)で触れたエピソードでは監督と脚本家が描かれますが、その他、映画のセリフを覚えようとしてなかなか覚えられない俳優・高樹金井勇太)とか、気位の高い女優・椿羽田美智子)、昔一緒に暮らしたことのある女優が亡くなったとの新聞記事を読む男優・椎塚大杉漣)などが登場します。

 ただ、こうした登場人物なら、映画制作という点からすればありきたりと言えるでしょう。
 ですが、上記(1)のエピソードの次には、鏑木が書いた脚本を印刷する印刷所が描かれます。そのエピソードでは、印刷所の社員(田村三郎)が、「昔は原稿が(手書きのために)読めなかったものだが、今は簡単に印刷できる」と従業員の栃原伊嵜充則)に言ったりします(注5)。
 それだけでなく、映画で使う大道具をロケ場所の砂丘まで運ぶトラックの運転手・梨本金児憲史)とか、そのトラックに乗せてもらうヒッチハイカー・森川山田裕貴)といった登場人物までも現れます。
 このように、映画制作には間接的にしか関わらない人物までもいろいろ登場するために、見る者の興味が最後まで持続させられるように思われます。

 とはいえ、本作のタイトルから始まって(注6)、全体が少々薄っぺらいメタファーに覆われているような感じもしてきます。
 例えば、本作のラストで映し出される一本の大木とか(注7)、監督がバーで若い女・美咲大塚千弘)に語る54本の苗木の話(注8)も、ことさら構えて作り上げたような話に見えてしまいます(注9)。



 あるいは、そのバーのオーナー・楠瀬二階堂智)は、客の男・松波中尾明慶)に、「最近、このあたりで『ハチはなぜ大量死したのか』という本を置いていく客がいる」という話をしますが、これも、本作のタイトルに関連しているのかもしれません(注10)。
 ただ、こうしたメタファーは、見る方に謎解きの楽しさを与えてくれるとはいえ、解けた時点で関心が他に移ってしまうという問題も含んでいるのではないでしょうか?

 本作についてさらに言えば、登場人物が皆、なんだかお行儀良くまとまりを付けてしまっている感じもするのです。
 例えば、神林監督が、ロケ地の村のフィルムコミッション担当者の榊原菅原大吉)に「映画はフレームなんです」というような悟ったことを言うと、榊原は早速それを関係がギクシャクしていた娘に伝授して、以前のような関係に戻ったような雰囲気になります(注11)。



 あるいは、椿は近くにいる者に文句ばっかり言っているとても気位の高い女優ですが、メイクによって老けた顔になったのを鏡で見て自分のことを振り返り、周囲に気配りのできる女優に変身してしまうのです(注12)。

 それになりより、失踪したとされていた主演女優が、顔は明示されないながらもロケ地に現れるのですから。

 こうなるのも、本作が、短編をつなぎ合わせて作られた作品であるせいなのかもしれません。
 それぞれの短編は、それぞれのオチを持ってまとまりのあるものとなっていますから、それをつなぎ合わせると、1頭の「ゾウ」という一つのまとまりのある有機物とはならずに、客車を単に何両も連結した列車のようなものにしかならないのではないでしょうか(注13)?

(3)おかむら良氏は、「台本の印刷屋、フィルムコミッションの担当者、大道具を運ぶ運転手。取り上げられることが少ない裏方さんに光を当てているのがいい」として★3つ(★5つで満点)を付けています。



(注1)「お蔵出し映画祭」については、こちらの記事とかこちらの記事を。
 同イベントは、2011年に開始され、2015年に終了しています。最後のイベントでグランプリを獲得したのは榊英雄監督の『トマトのしずく』で、本作は審査員特別賞(『トマトのしずく』も見たかったのですが、時間が合いませんでした)。

(注2)監督は、『日輪の遺産』や『ツレがうつになりまして。』などの佐々部清
 原案・脚本は、『日輪の遺産』、『ツレがうつになりまして。』や『グラスホッパー』などの青島武

 なお、本作の製作年は2013年。
 当初は「ネスルシアター on YouTube」からいくつかの短編として配信され(2013年11月)、劇場版は、それらの短編と未公開の映像を再編集して作られたものとのことです(劇場用パンフレット掲載の「イントロダクション」などによります。なお、佐々部清監督のサイトに掲載されている「ほろ酔い日記」の2013年8月15日~10月16日の記事が本作に関係しています)。

 また、出演者の内、最近では、小市慢太郎は『流れ星が消えないうちに』、高橋一生大杉漣は『シン・ゴジラ』、菅原大吉は『64 ロクヨン 前編』、二階堂智は『杉原千畝 スギハラチウネ』、金児憲史は『グラスホッパー』、山田裕貴は『ふきげんな過去』で、それぞれ見ました。

(注3)劇場用パンフレット掲載の「プロダクションノート」によれば、静岡の中田島砂丘
 ちなみに、この砂丘は、『俳優 亀岡拓次』でも使われています(同作についての拙エントリの「注12」をご覧ください)。

(注4)このサイトの「チェンジマーク」の項にある「パンチ」のことでしょう。

(注5)栃原は、鏑木とはシナリオ学校で一緒に机を並べていた仲で、「ある時、一緒に行った映画館で、鏑木は椅子に座ったまま出てこようとせずに消えてしまい、それが鏑木と会った最後だった」と呟きます。
 栃原は、鏑木のシナリオを読んで「この「私たちは」は「我々が」の方がいいような気がする」とつぶやいたりしていると、鏑木から電話がかかってきて、「サナトリウムのシーンですが、3行目の「眠り続けている」を「眠り続けていた」に直してください」と頼まれます。



(注6)このインタビュー記事において、佐々部監督は、「(タイトルは)「群盲、象を撫でる」というインドの慣用句から付けました。象の足を触った盲人は「太くて固い」と言い、耳を触った盲人は「柔らかくて薄っぺらい」、そして鼻を触った盲人は「すごく長い」と言うのです。全部間違ってはいないけれど、全体を俯瞰して見ると象の真の姿が表れます。同様にこの作品も、8分ずつのドラマは、それぞれで完結しているけれど、全体を見ると『ゾウを撫でる』という大きな物語がみえてくるのです」と述べています(なお、Wikipediaのこの記事も参考になります)。
 なお、「8分ずつのドラマ」というのは、YouTubeから当初配信された短編を指し、「脚本家と相談し、8分で1つのドラマを完結させるけれど、その8分が積み重なって95分になった時に1つの大きな物語が見える仕掛けしました」とその前で佐々部監督が述べていることに対応しています。

(注7)上記「注6」で取り上げた佐々部監督の話からしたら、岩手県陸前高田市気仙町の「奇跡の一本松」をなぞらえているのでしょうし、また主演女優が現れないために俳優たちが長い時間待機している時に、男優・椎塚が、「こうしていると、まるで「ゴドーを待ちながら」だな」とか「若い時分に「ゴドー」みたいなことをやっていた」と言ったりしますから、ベケットの「ゴドーを待ちながら」の舞台装置である一本の木のメタファーなのかもしれません。

(注8)上記「注6」で触れているインタビュー記事の中で、佐々部監督は、「おそらく映画監督をやっていると、3.11をどこかで伝える、風化させないという想いがあると思います。『ゾウを撫でる』でも、奇跡の木の話が出てきますが、54本の苗木というのは日本の原発の数と同じです」と述べています(ただし、54基というのは映画製作年における数であり、その後廃炉があって、昨年末には43基となっています)。
 ただ、本作の神林監督の話は、立ち枯れた奇跡の木から生え出た54本の苗木のうち、掘り返されたくない物が埋めてあったところに植えた1本の苗だけが成長して、他の苗本はすべて枯れてしまった云々という内容ですが、それが何を意味しているのかはよくわかりません(53の原子炉は廃炉にしても1つは残せということなのでしょうか?)。

(注9)さらに言えば、神林監督は、入ったバーに「ハーパー」のボトルをキープしますが、そのボトルに「羅生門の様な夜に」と書き込むのです。これは、監督がバーに入ったのが、映画『羅生門』で描かれるような土砂降りの雨が降っていた夜だったことからなのでしょうが(「モノクロカメラで迫力のある雨の映像を撮るために、水に墨をまぜてホースで降らせた」)、さらには、本作のタイトル「ゾウを撫でる」と同じような意味合いが映画『羅生門』に読み取れるからなのかもしれません(同作では、登場する3人が皆、嘘の証言をします)。

(注10)というのも、この記事によれば、ミツバチの大量死(CCD:Colony Collapse Disorder 蜂群崩壊症候群)を巡る原因として様々な説が言われているものの、「それぞれに反証があり、CCDを起こす犯人像はなかなか特定できない」と同書では述べられているようですから(CCDが本作の「ゾウ」に相当するのかもしれません)。
 あるいは、主要登場人物の名前の中に植物名が織り込まれていることと合わせて(「美咲」はどうなのでしょう?)、本作が環境問題にも配慮していることを言いたいのでしょうか?

(注11)榊原は、「映画のシナリオを読んだら、長いこと眠り続けている女の子がでてきて、それがお前と重なった」と言い、さらに「監督から「映画はフレームだ」と教わり、確かに指のフレームを作ってあたりを見ると、これまでとは世界が違って見える。お前もやってみろ」と娘に言い、娘も「わかんないよ」と言いながらも、指でフレームを作って海の方を見たりして、満更でもないような感じになります。

(注12)例えば、椿は、主演女優の到着を待っている時、同じように退屈している椎塚などに「記念写真撮らない?」と誘ったりします。以前の椿ならそんな誘いをしなかったことでしょう。



(注13)映画を制作する裏側を描いた作品は、これまでいくつも作られているとはいえ、本作のように、監督の「さあいこうか」という声がかかるクランク・インの直後で終わってしまう作品は余り見かけないように思われます。監督を描いた作品として、例えば、最近では『グランドフィナーレ』がありますが、映画の中ではクランク・インには至りませんでした。



★★★★☆☆