映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ロビン・フッド

2010年12月25日 | 洋画(10年)
 きっと痛快無比な映画に違いないという予感がして、『ロビン・フッド』を見に、TOHOシネマズ日劇に行ってきました。こうした冒険活劇を見るなら、大画面を備えた劇場に限ると思ったものですから。

(1)『ロビン・フッド』というからには、シャーウッドの森の奥に隠れ住んでいながらも、リトル・ジョンなどの仲間らとともに、悪行の限りを尽くす時の権力者を懲らしめるヒーローの物語であり、それをおなじみのラッセル・クロウが演じるものだとばかり思い込んでいました。
 ですが、実際には、この映画は、その前史というべきものなのです。
 すなわち、第3回目の十字軍遠征の帰途、ロビン・フッド(ラッセル・クロウ)が、瀕死のノッティンガム領主の息子の依頼で、その剣を届けに父親の元に出向いたところ、領主から息子の身代わりになるように求められます。どこと言って行く当てのない身、ロビンはすぐに了承しますが、妻(ケイト・ブランシェット)は、当然のことながら、とてもすぐには受け入れてくれません。
でも、ロビンの誠実さが通じたのか、次第に馬が合ってきます。そして、そうこうするうちに様々な出来事が起こり、ついには、ジョン王の下でフランス王の侵略を阻止してしまうという、とても考えられない活躍をしてしまうのです!
 そんなことなら、ジョン王の右腕となってさらなる飛躍がと思われたところ、マグナカルタへの署名をジョン王に強制したというトガで、逆にジョン王に追われる身となってしまうのです。
 そのため、シャーウッドの森に仲間たちと逃げ込んで、その後はよく知られた活躍をするという次第。

 いってみれば、映画『ゲゲゲの女房』が、これから水木しげるの漫画が大いに売れだす直前で、映画『ノーウェアボーイ』がジョン・レノンらがハンブルグ行きが決まったところでジ・エンドとなってしまうのに似ているかもしれません!
 とはいえ、これら2作では、主人公たちはこれ以降世の人に知ってもらうことになるのに対して『ロビン・フッド』は、これからは世の中から隠れることになるという点で、180度違っているとも言えるかもしれません。
 でも、世の人がロビン・フッドに喝采を浴びせかけるのは、これからの活躍によってなのですが!

 それでも、いくら領主が彼の父親を知っているからと言っても、石工の息子にすぎないロビン・フッドが、直ちに領主の息子の身代わりとなるなんて、それも貴族の集会での演説によって、皆の心を一つにまとめあげてしまうなんて、という気にもなります。ですが、ロビン・フッドにまつわる話は元々全て伝説なのでしょうから、どんなことが起きても不思議ではないのでしょう。すべては歴史ファンタジーであって、むしろ余り本当らしさを追求すべきではないのかもしれません。

 ノッティンガムの村の様子などは、『黒く濁る村』で描かれている村と比べたら、はるかにリアルな感じがします。きちんと農作業が映し出され、ジョン王の過酷な税金の取立てで、周格もままならない様子まで、見ている方はよく理解できます。
 ただ、ファンタジーとするならば、ここにやはり洞窟などの装置が何か必要なのではないでしょうか?とはいえ何もないわけではなく、ノッティンガムではありませんが、ロビン・フッドの生まれ故郷のバーンズデイル(ノッティンガムのすぐ南)には、石の塔があり、その礎石を動かすと、父親が刻んだ標語が現れるのです!

 主演のラッセル・クロウは、このところかなり肥満気味でしたが、『プロヴァンスの贈り物』や『ワールド・オブ・ライズ』はともかくも、『消されたヘッドライン』は地味な映画ながらもなかなかの出来栄えで、この映画もと期待したところ、弓を射る格好とか乗馬姿などなかなか精悍で見直しました。



 相手役のケイト・ブランシェットは、『アイム・ノット・ゼア』(ボブ・ディランに扮しました!)とか『ベンジャミン・バトン』以来ですが、男勝りの性格で、ついには鎧兜に身を包んでロビンのもとに馳せ参じる姿はこの女優ならではでしょう!



 歴史ファンタジーと豪華配役陣とのとりあわせですから、否が応でも楽しい映画にならざるを得ないところです。

(2)この映画については、2つの点に興味をひかれました。
イ)リチャード獅子心王は、お追従ばかり口にする部下を嫌って、兵隊の間に入り込んで、彼らの本心を聞き出そうとします。
 その誘いにうかうかと乗ってしまって本心をぶちまけてしまったロビン・フッドとその仲間は、獅子心王が城攻めをしている最中、首かせ。足かせのさらし刑に処せられてしまいます(幸い、獅子心王が戦死したどさくさにまぎれて、彼らは逃げ出してしまいますが)。
 このエピソードは、上司が部下の本心が知りたくて、どんな厳しい意見でもいいから言ってくれと部下に求めるものの、自分を批判する意見を求めているわけでは決してなく、やはり求めているのは支持してくれる部下にすぎない、という職場でよくある光景を髣髴とさせるものでした!

ロ)この映画のラストは、フランス王が兵隊を連れてイングランドに攻め込んでくるのを、ロビン・フッドなどが阻止する場面ですが、さながら第2次世界大戦の連合国軍によるノルマンジー上陸作戦の真逆を見るようでした!

 なにしろ、ドーバー海峡に面した切り立った崖下に向かってフランス軍は上陸してくるところ、驚いたことにあの「上陸用舟艇」が何艘も登場するのです。
 まさか鋼鉄製ではなく木製ですが、接岸すると船首のところが前に倒れて渡し板となり、そこを通って兵士は敵前上陸するようになっています。
 ただ、これをロンメル将軍が迎え撃つのかと思いきや、出迎えるのはフランス王側のスパイであるゴドフリーとその部下。上陸部隊がこれに合流してイングランド軍と激突することになります。

(3)渡まち子氏は、「伝説とフィクション、さらに重厚な史実を上手くブレンドさせた脚本は、娯楽性にあふれていて、手堅い出来栄えだ。何よりハリウッド大作ならではのスター共演で華やかさはバツグン。見る前は、手垢のついたヒーローものを何をいまさら…と思っていたが、見終われば、見事にスコット版ロビン・フッドを楽しめた」として65点をつけています。



★★★☆☆




象のロケット:ロビン・フッド
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白いリボン

2010年12月19日 | 洋画(10年)
 2009年のカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞した作品というので、『白いリボン』を見に銀座テアトルシネマに行ってきました。

(1)カンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞した作品というと、『ピアノ・レッスン』(1993年)、『パルプ・フィクション』(1994年)、『うなぎ』(1997年)、『戦場のピアニスト』(2002年)くらいしか劇場では見てはいませんが、今回の映画は、これまで見た受賞作品と比べると、大層地味な仕上がりになっていると言えるでしょう
 なにしろ、第1次世界大戦直前の北ドイツの小さな村における様々な小さな出来事を、モノクロ映像で実に淡々と描いているだけなのですから。
 それも、その村を支配する男爵家、男爵家の家令の一家、牧師(プロテスタント)の一家、ドクターの一家、それに小作人の一家、というように、その村を構成する家々とそのつながりを、村の学校の教師であった男のナレーションで描き出すのです。
 164分の『黒く濁る村』には及びませんが、全体が144分という長さで、様々な人物によっていろいろな事件が引き起こされると、見ている方は息切れがして、筋をたどっていくのがやっとになってしまいます(特に、どの家も子供がたくさんいて、誰がどの家の子供なのかを判別するのも大変です)。

 それでも、この映画に漂う不気味でどんよりとした重苦しい雰囲気は、比類がありません。
 冒頭では、ドクターが落馬して重傷を負うのですがが、それは道に張られた針金に馬の足が引っ掛かって倒れたためなのです(後で、その針金を探したところ、誰かがすでに取り外していて、跡形もありません)。
 また小作人の妻は、納屋の床に倒れて絶命しているのを発見されるところ、男爵の納屋管理に不備があったためではないかとその長男は疑います(誰も調べようとしないので、長男はイラついて男爵家のキャベツ畑を荒らしてしまいます)。



 さらに、男爵家の長男が、拉致されて、逆さ吊りされて棒で叩かれたりもします。
 事件と言ってもはっきりとした殺人事件ではなく、このように相当地味目の出来事ばかり起きるのです。加えて、その真犯人が突き止められません(真犯人が分かったと教師に言った助産婦は、その教師から自転車を借りて警察に行くと走り去ったきり、行方不明になってしまいます!)。
 そんな折も折、サラエボでオーストリーの皇太子夫妻が暗殺されるという事件が起こり、第1次大戦が勃発するのです。

 この作品は、おそらく、第1次大戦直前のドイツの農村地帯(おそらく、根本のところでドイツ陸軍を支えているのでしょう)が持っていた雰囲気を、ある意味で概念的に描き出そうとしているのかもしれません。
 たとえば、村を支配しているはずの男爵家は資金的困難に直面しつつあり、村の倫理面をコントロールしている牧師の家の中には腐敗の兆候が顕著に見られ、また先端の知識を持っているはずのドクターも、その精神のありようは実に古臭いものでしかない、といったようなことがあげられるでしょうか。

 ただ、なにもそうした実際の歴史的背景をバックにして、この映画を見ることもないのではとも思われてきます。むしろ、旧秩序が壊れかけ新秩序が次第に現れてくるその端境期・移行期の有様をここに見てもいいのではないでしょうか?
 むろん、その際に中心的な役割を果たすのは、旧秩序に組み込まれていない子供たちと女たちです。
 たとえば、牧師家の子供たちは、教師や親が見ていないところでは、実に奔放な行動をしています。長女は、教室で果物を齧ったり、大騒ぎを引き起こしたりしますし、長男も、決して父親のいいなりにはなっていないようです(そのために、何度も「白いリボン」の罰を受ける羽目になります)。



 また、小作人の一家では、長男などの不行跡を気に病んで、主人が自殺してしまいます。
 一方、男爵家の女主は、イタリアにしばらく行っていたと思ったら、帰ってきて主人に家を出て行くと宣言します(イタリアで知り合った男に愛を感じたからという理由で)。

 こうして、村の昔からの秩序が壊れようとしているさなかに、第1次大戦が勃発します。

 なお、この映画に出演している俳優の大部分は、クマネズミにとってあまりおなじみではないものの、男爵を演じるウルリッヒ・トゥクールは、『セラフィーヌの庭』で画商のウーデを演じていましたし、『アイガー北壁』でヒトラーを支持する国粋主義の新聞記者を演じてもいました。

(2)こうみてくると連想されるのが、若松孝二監督の『キャタピラー』です。
 といっても、『キャタピラー』には子供の姿は一切見あたりませんし、関連性があると言っても戦争を支える農村の有様の面が少々というにすぎませんが。
 それでも、『白いリボン』が、第1次大戦直前のドイツの寒村の様子をミクロレベルで描いているのに対して、『キャタピラー』でも、兵士を戦場に送り出す日本の農村風景が、背景としてかなり濃密に描かれているのです。
 そこで大きな役割を果たしているのが、『白いリボン』と同じように女たちです。
 たとえば、出征兵士を送り出す式典が村の八幡様の前で行われるところ、見送る人たちの大半が大日本国防婦人会に所属する女達(白いカッポウギを着てたすき掛け)ですし、また彼女らは、在郷軍人会に所属する軍人達の指導に従って、バケツリレー方式による消火訓練や、竹槍訓練なども行います(注1)。



 こうした銃後の日本社会を基本的に支えていたのは、戦前の「イエ」制度なのでしょう。ですが、その仕組みの中心に位置付けられていた男達は、大部分が戦地に派遣され、戦争が長引くにつれて戦死者も増加し、それと共に旧来のシステムの内実は空洞化し、敗戦とともに一気に崩れてしまいます(注2)。
 ドイツでも日本でも類似しているのではないかと思われますが、男達が自分たちの論理で始めた戦争によって、逆にその力を失ってしまい、男達によって虐げられていたとされる女達の大幅な飛躍が見出されるようになる(「戦後強くなったのは女性と靴下」!)、と言えるのかもしれません。
 ただ、これは極めて図式的な見方と言えるでしょう。
 『 白いリボン』でも見て取れるように、村を支配しているのは、男爵、牧師、ドクターといった強固な自己を持った男たちですが(父性原理)、日本の場合、社会を支配していたのはどちらかといえば母性原理の方ではないかとも思われるからです。
 とはいえ、これ以上は素人の手に余ることなので差し控えることにいたしましょう。


(注1)大日本国防婦人会は、昭和7年(1932年)の大阪国防婦人会から始まり、1942年に「大日本婦人会」に他の団体と統合されるまで続きました。
 当初は、タスキにカッポウ着という出で立ちで、専ら出征兵士の見送り・出迎え奉仕に従事していましたが(白いカッポウ着とタスキ姿の婦人たちが、出征兵士を歓送迎する際に、ヤカンを持ってお茶の接待をしたとのこと)、戦局が厳しくなり、防空・消火の方に重点が移ってくるにつれてモンペ姿に移っていきます(1941年には、軍事動員の秘密を厳守するために、街頭や駅での見送りは禁止されます)。
 当初は、40人ほどが自発的に作った団体でしたが、次第に軍部と密接な関係を持つようになって、ついには公称1000万人の大きな組織となって、戦時体制の一環に組み込まれていたとされます。
(以上のことは、藤井忠俊著『国防婦人会-日の丸とカッポウ着-』〔岩波新書、1985年〕より)

(注2)上記中で取り上げた著書の中で、藤井氏は、「1千万人におよぶ男子の軍事々員によって、家族構成がくずれ、家は母を柱にした結合へと変容しつつあった」(P.210)などと述べています。


(3)映画評論家・土屋好生氏は、「深く沈潜するような灰色がかった白黒の映像から、封建的な家父長制が残っていた時代の空気をにじみ出させる」とし、「誰しもそこにナチスの台頭を予感するに違いない。が、ナチスに限らず厳しい戒律の宗教や抑圧的なイデオロギーが何をもたらすのか、ハネケは現代的な視点からその内実を克明に描こうとしたのではないか。息が詰まる「原理主義」の恐怖とそこで育った子供たちの不透明な未来。服従か反抗か、事情は今も変わらない」と述べています(12月3日付読売新聞)。
 また、映画評論家・柳下毅一郎氏は、ハネケ監督は、「あえて事件の犯人を名指しせず、結末を曖昧なままにとどめる。だが、その語らんとするところはあきらかだ。犯人はこの村そのものである。罪なき無菌状態を作ろうとした暴君はその試みに反撃されるのだ。結末で少年たちが歌う賛美歌が美しくも恐ろしい」と書いています(12月10日付朝日新聞)。



★★★☆☆



象のロケット:白いリボン
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マチェーテ

2010年12月15日 | 洋画(10年)
 『マチェーテ』を渋谷東急で見てきました。
 評判が高いにもかかわらず、ごく僅かの映画館でしか公開されなかったので見逃してしまったところ、11月下旬からこの劇場で1日1回だけ上映されると聞き込んで、早速行ってきました。

(1)冒頭、メキシコの捜査官マチェーテが、誘拐された女性を救出しようと、刀を振り回しながら敵陣に乗り込んで、銃を構える敵の男たちの首や手首などをバサバサちょん切ったりしながら突き進み、件の女性(それが全裸なのです!)を救出したと思いきや、逆にその女性に裏切られて重傷を負い、さらには、メキシコの麻薬王によって、目の前で自分の妻の首をアッサリと刎ねられる憂き目に!
 マチェーテ役のダニー・トレホの実に容貌怪異な風貌と、麻薬王に扮するおなじみのスティーヴン・セガールの巨大な体を目の当たりにすれば、いったいどっちが主人公なの、おまけにどちらもいとも簡単に人の首を刎ねるものだから、見ている方は目が回ってきて、→潤ツ!
 すると、突然に話はアメリカに飛んで、日雇仕事を確保しようとよろよろ歩くマチェーテの姿。そこから話は進みに進んで、マチェーテの兄の牧師が、麻薬王側のブースなる男に磔にされて惨殺されると、ブースに操られていた上院議員(ロバート・デ・ニーロ)がブースを射殺し、その上院議員は、結局はブースの娘に撃たれるなど、乱れに乱れ、~~。
 ついには、マチェーテと彼を支持する不法移民たちと麻薬王たちとの対決に行き着いて、壮絶な戦いが繰り広げられ、……。

 主役が、普通だったらとても映画に出られそうもないほど壊れている容貌の俳優ダニー・トレホ。不法移民であることは納得させられるものの、なんと映画の中では正義の味方。気は確かなの、この映画は。



 他方、『トラブル・イン・ハリウッド』でプロデューサー役を演じたロバート・デ・ニーロならば、正義の味方であっても不思議ではないところ、この映画では人種差別主義者のいやらしい政治家。身動きのできないメキシコ人を不法移民狩で射殺するなどの無軌道ぶりを見せてくれるのですから、いやはや。



 セガールだって、あの巨大さ、あの強さからして、マチェーテのサポート役にうってつけのところが、一番の悪役ですからマアおそろしい。それにしても、東洋系の女をいつも脇に従えているのはどうしてなの。



 B級映画お定まりの美女軍団も、ジェシカ・アルバ(政府職員)、ミシェル・ロドリゲス(不法移民支援組織の女ボス)、リンジー・ローハン(ブースの娘)という具合。
 ジェシカ・アルバには、シャワーシーンありーの、ラストでダニー・トレホと抱き合うシーンありーの用意周到さながら、こんなのアリかなあ、嗚呼。



 ミシェル・ロドリゲスは、顔面を撃たれたはずにもかかわらず、左眼に眼帯をつけただけで、ビキニスタイルに機関銃という出で立ちでクライマックスに登場するのですから、唖然。



 “お騒がせセレブ”のリンジー・ローハンは、アレまあ!マチェーテと裸でプールの中でいちゃついた挙句、ラストでは、修道女姿で、父の仇である上院議員に銃弾を撃ち込むものの、そんな恰好はこの映画とどんなつながりが、などと問うのは愚も愚、大喝!



 こんな映画にアメリカの移民政策の問題点を探ったりせずに、ただただ面白がって見さえすれば、見終わった後スカッとするのは請け合い!
 刎ねられた首がいくつ宙に舞ったりしても、単に人形の首なのですから、グロテスクでもなく残酷でもありません。ゲームの極み。
 さあ、もっともっとどんどんガンガンやっつけてしまえ!!

(2)クライマックスの殺戮は、邦画『十三人の刺客』とは比べ物にならないほどのいい加減さながら、あるいはその精神は同じなのかもしれません。何しろ、手当たり次第に相手側を殺して、挙句にそのトップの首を取るというだけのこと。一方が“斬って斬って斬りまくれ!”の精神なら、こっちは“撃って撃って撃ちまくれ!”の精神でしょう。
 それでも、役所広司対ダニー・トレホ、、市村正親対セガール、稲垣吾朗対ロバート・デ・ニーロなどなどと比べていくと、端正さなどから邦画に軍配が上がるものの、あるいは幕末対現代(?!)という状況の違いを踏まえれば、『マシェーテ』も、ものスゴクいい線いっていると言えるのかも!

(3)渡まち子氏は、「リアリティ無視のムチャクチャな演出はまるでコミックの世界のようで、不思議な爽快感が。骨の髄までB級体質のロドリゲスらしいではないか」、「史上類をみないアウトローを誕生させたラテン・バイオレンスの快作は、マジメに“不真面目”をやっている。通俗的という意味ではこれ以上はないだろう。これぞB級映画の心意気だ」として60点を与えています。


★★★☆☆





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黒く濁る村

2010年12月12日 | 洋画(10年)
 『黒く濁る村』を渋谷のシアターNで見てきました。
 このところ、この映画館では、『七瀬ふたたび』とか『誘拐ラプソデー』、『Dear Heart』など、ちょっとどうかなという感じの作品が多かったところから、この映画の出来栄えに危惧したものの、なかなか良い作品でした。

(1)韓国映画はほとんど見ませんが、『母なる証明』とか『息もできない』は、大層すぐれた作品だと思っているところ、この映画もそれらに近い線を行っているのではと思いました。

 ある青年(ユ・ヘグク)が、宗教活動家の父親が亡くなったとの電話連絡を受けて山奥の村にやってきたところ、村全体が胡散臭い謎に包まれているのに気付き、その謎を解明すべく調査に取り掛かります。次第に、父親の死を巡る疑問(死亡診断書もなく死因も不明なままで葬式となる)、自分を村から追い出そうとする動き、特に3人の男が自分を殺そうと付け狙っていること、などを通じて、問題の中心にこの村の村長がいることが分かってきます。
 そこで、ひょんなことで知り合いになったパク検事に情報を入れ(ユ・ヘグクは、検事の非人道的な取調べ状況をICレコーダーで録音し、それを証拠として検事の上司に提出したら、パク検事は地方に飛ばされてしまいました)、一緒にこの事件の解明に向かいます。
 その際に鍵となるのが、この村の宿泊先となった雑貨店を営む女性イ・ヨンジ
 どうも、この女性がユ・ヘグクに電話をかけたようなのですが、ユ・ヘグクが雑貨店への人の出入りなどをよく見ていると、イ・ヨンジは、村長やその取り巻きの3人の男たちと通じているのです。
 いったいどこまでこの女性を信じることができるのかと思っていると、元々は、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)を慕っていたものの、あとになってから村長らと通じるようになったようなのです。
 ユ・ヘグクの謎の解明はうまくいくのでしょうか、村長はどんな役割を果たすのでしょうか、……。

 映画館に入った時は、そんなに長い映画とは思わなかったのですが、実際には2時間41分の長尺物で、ストーリー自体も相当こみ入っています。
 ですが、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)は殺されたのか、村長や彼を取り巻く男たちの真実の姿はどうなのか、など様々の謎が出現するので、最後まで画面にひきつけられてしまい、その長さなど少しも気になりません。
 『母なる証明』とか『息もできない』のような底の深さはあまり感じられないものの、サスペンス物としては大層緊迫感を持った面白い作品だと思いました。

 ただ、問題点がないわけではないでしょう。
 元々の原作(漫画)をだいぶ刈り込んで映画化したためか、重要そうに思われる事件も、全体に余り絡んでこないのです。
 たとえば、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)が当初入り込んだ祈祷院で、大量の死者が出る事件が起きるのですが(ギアナの人民寺院事件のような)、いったい誰がなんのためにそんな事件を引き起こしたのか、明確にされていません。
 なによりも、映画の冒頭、ユ・ヘグクの父親(ユ・モッキョン)の人柄に惹かれる信者が多いのに嫉妬とした祈祷院の院長は、刑事(チョン・ヨンドク)に相談を持ちかけると、この刑事は、よっしゃとばかり彼を連行して痛めつけます。
 大変な事態だな、あるいはこの映画はオウム真理教事件を下敷きにしたものではないか、などと思っていると、いきなり30年後に話が飛んでしまいます。
 アレレと思っていると、どうやらユ・モッキョンとチョン・ヨンドクらは、自分たちの共同体を作り上げて生活していたところ、ユ・モッキョンの死を迎え、そこに誰からの連絡なのか分からないながらも、ユ・ヘグクがやってきた、ということのようなのです。
 ですが、最初のうちは、村長が刑事(チョン・ヨンドク)の30年後の姿とは分からずに、前の話とのつながりが皆目わかりませんでした〔逆に言えば、チョン・ヨンドクに扮した俳優チョン・ジェヨンの演技が素晴らしいということなのかもしれませんが!〕。
 つまらないことを挙げれば、ソンマンの家を密かに調査していたユ・ヘグクは、逆にソンマンに襲われて腹を錐で刺されますが、何とか逃げ切ります。ですが、そんな重傷を負いながら、山道を走ったりして逃げおおせることは可能でしょうか?

 それに、韓国映画でいつも躓いてしまうのは、登場人物の名前です。字幕にカタカナで表記されてはいるものの、この映画のように多くの人物が登場し、類似する名前がしばしば表示されると、誰のことを指しているのか混乱してしまいます。

 とはいえ、若い時分の元気あふれる刑事役と30年後の村の権力を一手に集めた村長役とを演じ分けているチョン・ジェヨンの演技は素晴らしい出来栄えですし、主役のユ・ヘグクに扮しているパク・ヘイルと検事役のユ・ジュンサンの溌剌とした感じもよく、イ・ヨンジに扮したユソンも大層魅力的です。




(2)この映画を見ると、映画ファンならばあるいは『八つ墓村』を思い起こすかもしれません。
 たとえば、「産経新聞」の11月12日の記事も、この映画を取り上げて、「横溝正史の推理小説「八つ墓村」を想起させる雰囲気もあり」と書いているところです。
 そこで、この小説は3度も映画化されたところ(注)、やはり、原作に忠実とされる市川作品をチラッとのぞいてみましょう。



 すると、確かに、映画『八つ墓村』では、田治見家の先の当主(岸部一徳)が32人もの村人を惨殺した事件を引き起こしたとされていますから、これはこの映画における祈祷院での大量死事件に対応するかもしれません。
 また、映画『八つ墓村』では、田治見家の土蔵にある長持ちの蓋を開けて着物を取り出すと、地下へ下りる階段があり、その先は鍾乳洞の洞窟につながっています。これは、この映画において、ユ・ヘダクが泊まった雑貨店の部屋からソンマンの家に通じる地下通路に相当していると見なせるでしょう。



 さらには、映画『八つ墓村』では、東京から来た寺田辰弥(高橋和也)と探偵の金田一耕助(豊川悦司)が謎を解いていきますが、この映画においてユ・ヘダクとパク検事が協力して事件の解決に当たるのに対応していると考えられます。
 もっと言えば、映画『八つ墓村』で描かれる岡山県八つ墓村と、この映画で描かれる村とは、同じように都会からかなり離れた山間部に位置するという点でも類似しているでしょう。

 でも、映画『八つ墓村』は、映画の中で起きる7件の殺人事件の犯人探しが主な目的のサスペンス・ドラマでしょうが、この映画の方は、村長一味が怪しいことは最初から観客に明らかであって、興味はそれがどんな内容でいかにしてその悪事が暴露されるのか、という点にあり、純然たるサスペンス物とは言えないと思われます。
 また、映画『八つ墓村』は、400年前の裏切り行為とか、100年ごとに起きる8人の殺人事件とか、千佳の洞窟に置かれている先の当主のミイラ像などを持ち出してきて、オドロオドロしい様を強調しますが、この映画は、そんな古い昔のことは一切関係しません。あくまでも現代の物語とされているのです。

 というようなことから、この韓国の映画を『八つ墓村』に結びつける必要性は乏しいのではないかと考えられます。

 なお、どうでもいいことながら、今回、市川崑監督の『八つ墓村』をDVDで見てみましたが、確かに、セットにはお金がかかっていることがうかがえ、山の景色とか竹林を風が揺らす様などに市川崑色を見出すことができるものの、俳優の動きとか台詞回しなどは余りに新劇調で(たとえば、「濃茶の尼」を白石加代子が演じていますが、その演技は舞台のものでしょう、という感じがしました)、これでは横溝正史の小説が醸し出す雰囲気とはかなり違ってしまうのではと思いました。


(注)次の3作品が制作されました。
 . 松田定次監督、1951年。
 .野村芳太郎監督、1977年。
 .市川崑監督、1996年。


(3)渡まち子氏は、「韓国映画らしい過剰なまでの暴力シーンや流血描写が盛り込まれているが、それがすべて必然に思える濃密なストーリー」であり、「すべてが終わった後、村長の家のテラスから下界の村を見つめるヨンジのまなざしが、この物語の最後にして最大の情念」、「この物語は、男たちに運命を弄ばれた女性の長い長い復讐譚のような気がしてならない」として70点を与えています(「濃密度」でも★5つ!)。




★★★☆☆




象のロケット:黒く濁る村
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ノーウェアボーイ

2010年12月05日 | 洋画(10年)
  『ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ』を吉祥寺で見てきました。

(1)一応はビートルズ・ファンでもあることから、ジョン・レノンの青春時代を描く映画だということで、映画館に出かけてきました。
 ただ、ビートルズ・ファンといっても、単に彼らの曲が好きだったというにすぎませんから、個々のメンバーの生い立ちなどマッタク知りません。この映画を見て、なるほどそうだったのかと驚いている始末です(ビートルズに「Strawberry Fields Forever」という曲があり大好きなのですが、“Strawberry Field”がリバプールにある孤児院の名前だったとは!←映画の冒頭で分かります)。

 さて、物語は、叔父叔母の下でジョンが奔放に暮らしているところから始まります。
 3人が住む家は、イギリスの都市の風景としてよく見かけるもので、2階建で屋根に煙突がついて、2戸で一つになったものが長屋のようにいくつも連なっています。そこの居間で、叔母さんは堅そうな本を読みながら、ラジオでチャイコフスキーを聞いています。
 と、そこへ叔父が帰ってきて、彼にハーモニカを与えると同時に、2階のジョンの部屋でもラジオが聞けるように装置を取り付けてくれます(1階と同じ番組しか聞けませんが)。
 が、幸せそうなジョンの顔が映った途端に、突然叔父さんが倒れこみ、慌ただしく事態が進み、叔父さんの葬儀になってしまいます。
 これが彼の人生を象徴するかのような出来事で、ラストでは、実の母親と叔母とが和解し3人で仲良く安楽いすに座ったのも束の間、実の母親が車に跳ねられて死んでしまいます〔最近見た『乱暴と待機』では、同じように突然家から走り出た浅野忠信が車に跳ねられ高く舞い上がりはするものの、助かって事態はいい方向に進みますが、この映画ではそれとはまるで正反対のことが起こります!〕。
 この二つの大きな出来事の間に、ジョンが、自分の保護者がなぜ母親ではなくて叔母なのか、実の父親はなぜ自分の周りにいないのか、といったことを探りだしていくと同時に、ビートルズの前身である「ザ・クオリーメン」を結成していく様子が描かれます。

 映画に描き出される叔母と母親とは、姉妹なのですが性格も趣味もまるで正反対なのです(いってみれば、静対動)。



 同様に、「ザ・クオリーメン」のメンバーとなるポ-ル・マッカートニーとジョン・レノンも、むしろ相反する点の方が多いかもしれません。ポ-ル・マッカートニーは、既に母親を亡くしているとはいえ、左利きながらギターの腕前ははるかにジョンに勝っていますし、ジョンは歌詞作りを得意としているようですが、ポールは曲作りの方です。



 こうしたコントラストの強い関係の間をぬいながら、ジョンは傷つきつつも大人になり、ついに叔母のもとを離れてハンブルグへ行く、というところでこの映画は終わります。
 この映画は、下記(4)で紹介する評論家が言うように、ことさらジョン・レノンの伝記映画と捉える必要がないほど、それ自体として自立しているすぐれた作品だと思われます(むろん、ジョン・レノンの青春時代を描いた映画だということが予め分からなければ、見に行かなかったかもしれませんが)。
 特に、西欧では、子供が大人になる際の大きな関門は父親とされているところ、この映画には、ジョンに立ち向かう男性は、学校の先生以外にはありません。叔父にしても、実の母親の内縁の夫にしても、かなり控えめです。
 代わりに、ジョンに向かってくるのは2人の女性。ひとりは父親のように厳格な叔母、もう一人は友達のように奔放な母親。これら二人の女性の間で、ジョンは大いに悩みながら成長するわけですが、そのプロセスが実によく描けていると思いました。
 結局は、同性の男性との対立と違って、異性である女性との関係ということで、ジョンの内面に歪みをもたらさずに、むしろイメージの豊穣さをもたらしたのではないでしょうか?

 この映画でジョンの叔母を演じたクリスティン・スコット・トーマスは、『ずっとあなたを愛してる』において主役の女性を演じて深い感銘を受けたところですが、この映画においても、その持ち味をいかんなく発揮しています。

(2)この映画を、クマネズミの貧弱なストックから無理矢理『青春デンデケデケデケ』(大林宣彦監督、1992年)を探し出してきて比べたりすると、世の中から大顰蹙を食らってしまうことでしょうが、それでも雰囲気は幾分か近いものがあるのではないでしょうか?
 DVDをTSUTAYAから借りてきてもう一度見てみますと、こちらの映画の物語は、おおよそ次のようです。

 主人公・藤原竹良(林泰文)は、高校入学直前(1965年の春)に、ビートルズの曲を知っていたにもかかわらず、ベンチャーズの「パイプライン」をラジオで聞いて、そのトレモロ・グリッサンド奏法に衝撃を受けてしまい、高校に入ると仲間4人で直ちにバンドを結成します。4人は、アルバイトで資金を貯めて楽器を購入し、「ロッキング・ホースメン」と名乗り、スナックのクリスマス・パーティでデビュー。高3の文化祭における演奏のあと(「最初で最後の晴れ舞台」)、主人公は大学受験のために東京に向かいます。

 むろん、主人公をジョンと並べても仕方がないものの(注)、それでもジョンがエルビス・プレスリーに衝撃を受けたのと同じように、主人公は、1965年3月28日の昼下がりに、日本では大人気を博したベンチャーズ(「エレクトリック・サウンドの製造元」)から衝撃を受けます(「電撃的啓示」)。
 また、映画で取り扱われるのは両者とも大体高校時代、4人の仲間でバンドを結成し、スナックとかクラブで演奏を披露します。その際、ジョンは、ギターの腕前が自分より優るポールをバンドに引き入れますが、この映画の主人公も、ギターのうまい白井(浅野忠信)をメンバーにしてリードギターを担当してもらいます。
 演奏の仕方は、ジョンの「クオリーメン」の方はヴォーカルが主体ですが、「ロッキング・ホースメン」は、ベンチャーズと同様にインストルメンタルが主体です(主人公のヴォーカルで、ビートルズの「I Feel Fine」を演奏したりしますが!)。
 とはいえ、高校生活が終わるのに合わせて、主人公は「ロッキング・ホースメン」を抜けて東京に向かいますが(同バンドのメンバーから「終身バンドリーダー」の称号を授与されます)、「クオリーメン」の方は、そこからハンブルグへ向かい、そして大飛躍が始まるのです!


(注)なにより、『ノーウェアボーイ』では、ジョンと叔母と実母との関係が中心的に描かれますが、こちらの映画では、主人公の父親は高校の生物の教師であり、母親も元教師という具合に、家庭的には何の問題もないのです。


(3)友人からの情報で、かわぐちかいじ氏の漫画『僕はビートルズ』(原作 藤井哲夫:講談社)が出ていることが分かり、早速その2巻を読んでみましたが、未だ物語の最初の方で、これから話が展開するのでしょうが、なんとなく面白くなりそうな予感がします。



 ただ、過去へのタイムスリップの仕方がこのように古典的で単純だと、もう少ししたら矛盾が生じてこないとも限らないのではと思えてしまいます。なにしろ、現代人が、過去にタイムスリップして、その過去を弄くってしまうのですから、その後の展開は、彼らが知っているものとは次第にズレてきてしまうのではないでしょうか?

 この漫画は、現代の日本人が過去(昭和36年)にタイムスリップしてしまう物語ですが、ひょっとしたら、映画『ノーウェアボーイ』は、過去のジョン・レノンが現代にタイムスリップするものといえるかもしれません。なにしろ、この映画を見て、「ザ・クオリーメン」の曲を求めに走る人が多数出てこないとも限らないのですから!

(4)映画評論家・渡まち子氏は、「天才ジョン・レノンの黎明期を描くが、青年の孤独と成長の物語として普遍性があ」り、「本作はビートルズ誕生秘話というより、ジョン・レノンがジョン・レノンになる前、居場所がないと感じている一人の青年が、自分の複雑な過去に向き合い、大人になる瞬間を描く青春ストーリーとして味わいたい」として60点を与えています。
 また、評論家・粉川哲夫氏は、「おそらく、本当のジョンにはもっと「天才」の屈折や嫌味も強烈にあったのだろうが、この映画が描く「ジョン」は、どこにでもいそうな青年である。猛烈面白いが保育能力にムラがある実母、その姉で「賢母」の役割を果たす育ての親、ぼんやりとした記憶を残して消えた実父への思慕、バンドの結成、ポール・マッカートニーとの出会い・・・みな事実にもとづいているが、それとは無関係に惹き込んでいくドラマの魅力」云々と述べています。



★★★★☆



象のロケット:ノーウェアボーイ
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リミット

2010年11月21日 | 洋画(10年)
 予告編で見て面白そうだと思い、『リミット』を見に渋谷シネセゾンに行ってきました。

(1)物語は、イラクでトラック運転手をしていたポール・コンロイが、テロリストに誘拐されて、棺の中に押し込められ、砂漠に埋められたのですが、その棺の中でコンロイが目を覚ますところから始まります。
 といって、映像は一度もその外に出ることはなく、そこから終わりまで90分間、すべてこの棺の中のシーンなのです(「ワン・シチュエーション・スリラー」というようです)。
 ごく短い時間だけ携帯電話の画像に登場する女性はいますが、あくまでも登場人物はポール・コンロイただ一人。従ってキャストといっても、そのポール・コンロイに扮するライアン・レイノルズだけで、残りは声のみの登場です。
 こんな極端な設定の映画ですから、単調で退屈するかと思いきや、そこは様々の手を使って観客の興味をつないでいくので、90分間飽きることはありません。

 全体的な状況としては、誘拐犯の方は、コンロイを棺に閉じ込めておくことによって、逃亡を防ぐだけでなく、指示に従わないと砂の中に埋めてしまうという脅しをかけることができます。というのも、棺の中で確保されている空気の量には限りがあり、コンロイの方も悠長にしてはいられませんから。
 それに、室内に監禁する場合と比べて、砂の中に埋められた棺の中には、外界の物音がほとんど侵入してきませんから、おのずと誘拐犯の命令に集中することになってしまいます。

 より個別的な点では、誘拐犯は、棺の中に、携帯電話、ジッポーライター、ナイフ、ウイスキーの入った小さな容器、鉛筆、懐中電灯といった必要最小限のものを置いています。
 要するに、これらのものを駆使して、誘拐犯の要求を関係者に伝え、一定の時間までにそれを実現させろ、ということでしょう。
 そこで、コンロイはアチコチに電話をかけまくりますが、肝心の彼の妻はズット外出中だっりして、なかなか思うように行きません。
 一体全体、彼はうまく救出されるのでしょうか、……。

 なかなかうまい設定で、最後まで息が吐けません。
 ただ、これだけ同じ状況を長く見せられているとイロイロな疑問が浮かんできてしまいます(誰しも考えることに過ぎませんが)。
・携帯電話が十分通じる深さのところに埋められているわけで(数十センチとされています)、だとしたらナイフを使って棺の一部を壊して(粗末な板で作られた箱に過ぎなさそうですから)、そこを梃子にしてなんとか地上に脱出出来ないものでしょうか?
・特に、途中で、蛇が棺の中に入り込んできますが、コンロイはそれを外に追い払うことだけに夢中になってしまうところ、蛇が逃げ出した穴の先は、狭いにしても脱出口になるのではないでしょうか(蛇は自由に地上と行き来をしているはずでしょうから)?

 そして一番分からないのは、ラストのシーンです(ここからはネタバレになってしまいますのでご注意下さい)。
 携帯電話から発信される電波によって、コンロイの位置がアメリカの救出班の方で確認され、埋められている附近が空爆されます。
 ただ、その衝撃によって棺の一部が壊され、ドンドン砂が上から落ちてきて、コンロイは砂に埋まっていきます。
 こに、救出班から「今助ける」との連絡が入り、砂にかなり埋まってしまっているコンロイも、期待に胸をふくらませます。
 ですが、突然、「間違えた、マーク・ホワイトの棺だった、すまない」との連絡がコンロイに入って、それでおしまいなのです。

 クマネズミは、最初は、一大悲劇を見せられたという気分になり、その衝撃で声も出ませんでした。なにしろ、あれだけ棺の中で格闘したにもかかわらず、結局は生き埋めになってしまうのですから。
 また、クマネズミは、最初は、この映画は、人質救出のための訓練状況を描いたもので、最後になれば、“すべて訓練だった”という種明かしがなされるのでは、とタカを括っていました。
 ですから、コンロイが砂に埋まっていくのを見ていながら、酷く戸惑ってしまいました。

 ただ、暫くすると、「マーク・ホワイト」で誰だっけと思い直し、そう言えば、最初の頃、FBIが救出したことのある人質の名前として言われていたのではなかったか、と思い出します。
 そうだとすれば、何でこんなところにその名前が飛び出すのでしょうか?
救出班は、別の場所に埋められていた別の人物の棺を開けたということなのでしょうか?
 ですが、コンロイの携帯電話の電波から場所が特定されたとしたら、場所のズレはそれほどあるとは思えないところです(最新の技術では、数メートルの誤差では?)。
 また、マーク・ホワイトは既に救出されて大学に通っていることになっていたはずです。あるいは、その情報は、コンロイを勇気づけるために、電話口の担当者がでまかせをいったのでしょうか?
 あるいはそうかもしれません。人質で救出された者のことをそのような符号で言っていたのかも知れません(今回も、救出班が救った人なのですから、マーク・ホワイトなのでしょう)。
 ただ、別の場所で別の人物が救出されたとしても、コンロイはどうして砂に埋まっていくのでしょうか?誰かが掘り出そうとしているからこそ、棺が次第に壊れていくのではないでしょうか?
 仮に、そうではないとしても、地下数十センチのところに埋められているだけで、そして棺が半ば壊れかかっているのであれば、コンロイは自力で脱出できるのではないでしょうか?

 意表を突くシチュエーションで、それだけで十分に見応えがある作品だとは思うものの、細部にヤヤ難点があるのではと思ったところです(一体、彼は助かったのでしょうか、ダメだったのでしょうか?)。

(2)受ける印象が、『フローズン』となんとなく似ているのではと思いました。
 一方は、ストップしてしまったスキーリフトの上、他方は砂の中に埋められた棺の中と、非常に厳しい状況に置かれ(「ワン・シチュエーション」!)、そこからの脱出も、一方は地上15メートルの高さと狼の群れのために、他方は周りが砂で取り囲まれているために、それぞれ酷く困難なわけです。
 ただ、一方は、さらに携帯電話をロッカーに置いてきてしまい使えない状況ですが、他方はむしろ使えるようにそばに置いてあるという具合。とはいえ、これは誘拐犯の要求を伝達させるためのものであり、実際に自分の救出に使おうとすると、相手側がいなかったり、相手側がコンロイが置かれている状況をなかなか理解してくれなかったり、とうまくいきません。最後のシーンを見ると、むしろなかった方が良かったかもしれません。
 なお、『フローズン』と比べて思いついたのは、コンロイの場合、トイレの問題はどうなったのかという点です。ただ、今回の映画の場合、登場人物は一人の男性だけですが、他方の『フローズン』では女性が一人混じっていましたから、この問題がクローズアップされたのかもしれません!

 あるいは、『ソウ(SAW)』と比べてもいいかもしれません。
 主人公が置かれているのは、今回の映画では棺の中ですし、『ソウ』では密閉された浴室なのですから(それも、足首に鎖を嵌められて動ける範囲が限られているという状況を見れば、棺の中とほぼ同じでしょう)、「ワン・シチュエーション」という点からすると同じかもしれません。
 なにより、誘拐犯の過酷な要求にうまく答えられないと、置かれた状況から脱出できないのですから、両作品は類似していると言えるでしょう。
(それに、『リミット』では、コンロイが指を切り落としますが、『ソウ』でも、浴室に置かれた男の一人が足を切断します)
 ただ、『リミット』では、登場人物がコンロイ一人なのに対し、『ソウ』の方では、拉致された2人だけでなく、浴室には誘拐犯とか病院の雑役係なども登場するのです。もちろん、『リミット』でも、携帯電話の声を通して様々な人物が登場するものの、やはり画面には一人の男しか映っていないという点が重要なのではと思います。
 加えて、『リミット』では終始棺の中の映像しか映し出されませんが、『ソウ』の方では、拉致に至るまでの経緯などが詳細に映像で描き出されます(アマンダが拉致されて、首枷を外すために残虐なことまでしてしまう場面など)。
 結局のところ、両者を比べる意味はあまりないのではという気がします。

(3)前田有一氏は、「おそろしいほどに強烈かつ斬新な映画である。これほどに制限された舞台設定で、おもしろい映画を作る、おもしろい脚本を作るというだけでも大変なことなのに、そこに2010年の今、世界に公開するにふさわしい時代性豊かな社会派のテーマを盛り込んである。こんな離れ業ができる脚本家、映画監督がいったい世界中に何人いるだろう」として98点もの高得点を、
 渡まち子氏も、「究極の一人芝居で描く生き埋め脱出劇だが、緊張感が持続して、まったく退屈しない」、「何より、たった一人で過酷な環境の中で演じきったライアン・レイノルズの熱演が光った。ついでに、映画館にいながらにして閉所の息苦しさを味わえるという、困った面白さも」として80点の高得点を、
それぞれ与えています。



★★★☆☆



象のロケット:リミット
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隠された日記

2010年11月20日 | 洋画(10年)
 久しぶりのカトリーヌ・ドヌーブ出演作ということで、『隠された日記 母たち、娘たち』を銀座テアトルシネマで見てきました。

(1)物語は、カナダのトロントで暮らすオドレイ(マリナ・ハンズ)が、故郷アルカション〔ボルドーの西の大西洋岸にある小さな町〕に戻ったときから始まります。久しぶりに戻ってきた娘を駅で出迎えたのは父親だけ。家ではさすがに母親マルティーヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が出迎えるものの、よそよそしさが漂っています(再会した娘に対して、「仕事が忙しいのなら来なければよかったのに」などと母親は言うのですから!)。
 父親は、そんな二人の間に立って調整しようとしますが、余りうまくいきません。
 母親が自分に対して冷たい態度を取るのかなぜなのか、というのがオドレイの疑問ですし、観客にとっての疑問ともなります。
 そうこうするうちに、オドレイが、隣に建っている祖父の家〔祖父が亡くなってからは無人〕の中を片付けている最中に、台所の戸棚の奥から、祖母ルイーズ(マリ=ジョゼ・クローズ)が付けていた日記が見つかります。
 映画は、それ以降、この祖母を交えての話に広がります。
 といっても、祖母は、母親がまだ幼い頃(50年も昔)に家を出てしまって行方不明になっていますから、映像で登場しますが、オドレイの想像したものに過ぎず、顔つきは日記に挟まれていた写真のまま、行動も、日記に書かれていることからオドレイが頭に描き出しているものです。
 それでも、縛りを逃れ自由を求めて祖母は家を出て行ったのだな、自立した女性になるようにと祖母が母親に言ったことから、母親は医師になったのだな、などといったことが次第に分かってきます。としたら、仕事をしようとカナダに渡った自分に対して、なぜ母親は冷淡なのだろうか、と娘の疑問は深まるばかりです。

 とはいえ、ここで終われば、この作品は、女性の自立という観点から、祖母ルイーズ‐母親マルティーヌ‐娘オドレイの3代にわたる女性の姿を描き出したものと言えるでしょう。
 ただ、そうした作品ならば、これまで世の中に随分と出回っているのではないでしょうか?

 この映画は、そこにとどまらないで、さらにもう一つの事情を最後になって明らかにします。
 この点に関しては、下記の(4)でも触れるように、評論家の粉川哲夫氏が、「最後に明かされる事件は必要なかったのではないか?」と述べています。
 確かに、かなり前のことを今更持ち出すことにどんな意味があるのかと問われれば、黙るほかありませんし、なにより余りにも唐突なのです。
 ですが、自分の母親なのにマルティーヌはこれまでなぜ探そうとしなかったのか、少なくとも祖父の葬儀に際しては調査すべきではなかったのか、元々家出が明らかになったとき、決して貧しい家ではなかったのですから探そうとすれば簡単に見つかったのではないか、などなど変な感じが見ながらしていましたから、何かこうした落とし所でも持ち出してもらわないと、観客としては宙ぶらりんのまま映画館を後にせざるを得なくなります。

 この映画は、このほかにもオドレイの妊娠、生まれてくる子供の父親がカナダからオドレイの家までやってくる話、オドレイが母親マルティーヌにプレゼントする奇抜なドレス、などなど実に盛り沢山の話題が詰め込まれていて、それらを一つ一つ反芻しながら意味合いなどを考えたりすれば、さらに楽しく過ごせるでしょう。

 主演のカトリーヌ・ドヌーブは、還暦を過ぎて70に近いというのにその美貌は衰えてはいません。太ってはしまいましたが、それは貫禄を与え、存在感が一層増しています。
 実質的な主役である娘のオドレイを演じるマリナ・ハンズも、相当難しい役柄を実にうまくこなしていると思いました。

(2)この映画は、3代に渡る家族、それも女性を中心においた家族を描くという視点からすると、邦画の『Flowers』に類似するところがあるかもしれません。
 ただ、この邦画は、6人の女優の競演という色彩が強く、かつまた「女性とは子供を産んで育てること、家族を作り上げることが幸せなのだ」というメッセージ性が感じ取れるので、この2つを並べると違和感を覚えてしまいます。
 あるいは、最近DVDで見たフランス映画『夏時間の庭』(2008年)にも類似しているでしょう。祖母から長女(ジュリエット・ビノシュ)、それに長男の娘という流れが描かれており、長男の娘が最後に、祖母が長年暮らしていた邸宅が売却されるのを見て涙するところは、今回の映画でオドレイがルイーズのことを想うのとパラレルな関係なのかもしれません。
 ですが、この作品は、祖母から遺された財産の処分を巡っての話が中心となっていて、女性の自立という観点はあまり見ることはできませんので、類似性はそれほど意識されないところです。

 『隠された日記』は3代に渡る女性たちを描いているとはいえ、祖母ルイーズの姿は、娘オドレイが日記や写真から想像したものでしかありません。そいういことからすれば、やはり映画の中心は、母親マルティーヌとオドレイとの関係といえるでしょう。
 そこで、母娘の希薄な(むしろ対立する)関係という点を捉えると、むしろ、大森美香監督の『プール』(2009年)になんとなく似ているような気がします。
 『プール』においては、自分を祖母のところに置きざりにして、タイのゲストハウスで働く母親(小林聡美)の真意を問いただそうと、娘が母親のところにやってくるのですが、はかばかしい答えが得られないまま、その娘はまた日本に帰る、といったあってなきがごとしのストーリーが描かれています。
 娘の年齢が、今回の映画のようには高くないので、あまり“女性の自立”といった観点は強調されていない感じながら、母親がまさに自分の生き方を通そうとしていますから、その意識は強いと言えるでしょう。
 もう一つ上げるとしたら、『オカンの嫁入り』かもしれません。その映画では、母親(大竹しのぶ)と娘(宮崎あおい)とが、それぞれ抱える問題に相手がどう対応するのか、それによって2人の関係がどうなっていくのか、という点がじっくりと描かれています。
 今回の映画のように娘が家を飛び出してしまうことはなく、母親と娘は一緒の家に暮らしてはいるものの、ストーカーによって引き起こされたトラウマによって娘は家に閉じこもりがちですし、母親の方も自分の重大な病気のことを娘に告げてはいませんし、突然随分と年下の青年(桐谷健太)との結婚話を持ち出したりしますから、相互のコミュニケーションがうまく取れているとはいえません(前半では、娘は、いつも母親に腹を立てているように描かれています)。
 その関係の修復に寄与したのが桐谷健太であり、娘もいつまでも母親に頼ってばかりはいられないと、トラウマのために乗れなかった電車にも乗れるようになって、次第に自立の方向に向かっていきます。こう見てくると、この映画も、極めて日本的な枠組みの中ですが、今回の映画との共通項を探し出すことができるように思われます。

(3)映画では、隣家の老婦人との談笑中、オドレイが突然に、「竹下しづの女」の俳句、「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてっちまおか)」を口ずさむので驚きます。オドレイの高い教養を示唆しているのでしょうが、俳句の世界的な広がりを実感します。
 ちなみに、「竹下しづの女」〔明治20(1887)年~昭和26(1951)年〕は、福岡県稗田村(現:行橋市)生まれで、『ホトトギス』同人であり、上記の俳句は大正9年(1920)、作者34歳の時の作です。
 下記の評論家・粉川哲夫氏は、映画では「"Night is too short And what if I abandoned it..."」という台詞だと述べていますが、サンフランシスコ在住の俳人・青柳飛氏による訳、「short summer night ―shall I throw away a baby crying for my milk」の方がわかりやすいのではと思われます。
 としても、「須可捨焉乎(すてっちまおか)」と「shall I throw away」との間には、意味の把握だけでなく表記の違いという点からして、もの凄く大きな懸隔があるのだなと思ってしまいます(逆に、外国の詩の日本語訳にも様々の問題がつきまとうのでしょう)。

(4)映画評論家・渡まち子氏は、「切なくて衝撃的な事実を受け入れた時、母からも娘からも捨てられたと思いこむことで、心を武装して生きてきたマルティーヌは、初めて涙を流すことができ た。好感が持てない母親を演じるドヌーブが、さすがの貫録で上手さを見せる。謎解きを主眼にはせず、女性史を寡黙に語りながら、母と娘の小さな前進をみつめる物語として味わいたい」として60点を与えています。
 評論家・粉川哲夫氏は、「この映画は、50年代に自立を果たせなかった女性の娘が自立し、さらにその娘が両親への依存をはねのけて移住してしまうが、それが子供の母になりそうな事態に陥ったとき、単なる「自立」というコンセプトではうまくいかないことを描く。これは、大きなテーマであり、描きがいのあるテーマだ。しかし、それが最後までは追及されない」のであり、「かなりいい線で進むが、最後がつまらなかった」が、「「つまらない」というのは、それが終盤で急に推理ドラマに変容してしまうところである。50年代のフランスの女性の位置を批判的に描いているのはいいが、最後に明かされる事件は必要なかったのではないか?」と述べています。




★★★☆☆




象のロケット:隠された日記

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クロッシング

2010年11月14日 | 洋画(10年)
 予告編でこれは優れた作品ではないかと思えたので、『クロッシング』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)映画は、ニューヨ-ク市警に勤務する3人の警官の話です。と言っても、3人は、別々の部署に所属するために、邦題は“クロッシング”となっているものの、予想に反して最後まで密接に絡むことはありません(原題は「Brooklyn’s Finest(ブルックリンの警察官)」)。
 それでは、オムニバス形式の映画かというと、そうした構成にもなっておらず、ですが3人の警官の話が相互に巧みに綴り合わされて、全体として緊密なひとつ流れを形成しているように受け止めることが出来ます。
 それというのも、3人が立ち向かう地域が同一で、それもニューヨーク・ブルックリン地区の犯罪多発地域だからでしょう。そこは、罪のない住民が警察官によって射殺されたとして、警察に対するデモが頻繁に行われている地域でもあり、一人一人の警察官の対応がなかなか難しのです。
 この映画で描かれる犯罪は、大部分は黒人によって行われるものです(それも、麻薬にかかわっていますから、目を剥くような多額のお金が絡んできます)。
 そして登場するのが、あと7日で退職予定の警官エディ(リチャード・ギア)、麻薬捜査官サル(イーサン・ホーク)、潜入捜査官タンゴ(ドン・チードル)。
 黒人の犯罪者を取り締まるエディとサルは白人ながら、タンゴは黒人です。ただ、タンゴは、上司の白人の副所長らと鋭く意見対立しますから、映画全体としては白人と黒人の厳しい対立が見えてきます(何しろ、監督アントワン・フークアが黒人なのです)。
 また、それぞれが女性問題を抱えています(独身のエディは黒人娼婦に入れあげていますし、サルの妻は湿気の多い住まいのため喘息が悪化しており、タンゴの妻は離婚しようとしています)。ここには、男対女の現代的構図が見られるでしょう。
 こうした背景の中で、3人それぞれがそれぞれの事件とのっぴきならない関わり合いを持ち、犠牲者も出ることになります。

 各々の事件は、個別に取り出せばありきたりといえるでしょう。ですが、この作品のような描き方をして一続きで見ると、一段とリアリティが高まって見る者に衝撃を与えます。
 特に、サルと親しい同僚の麻薬捜査官が、潜入捜査官とは知らずにタンゴに発砲してしまったり、エディが踏み込んだビルの見張りをしていた男がサルを撃ってしまったりという“クロッシング”が起こるのですからなおさらです。

 出演する俳優が豪華なこととも相まって、警察物として近頃出色の映画と言えるのではないでしょうか。

 出演者の中では、麻薬捜査官サルを演じるイーサン・ホークが印象的です。



 彼については、『その土曜日、7時58分』(2007年)や『ニューヨーク、アイラブユー』を見ましたが、今回の映画では、喘息の妻のために新しい家に引っ越そうとして、捜査で踏み込んだ先に無造作に転がっている現金に手をつけようとしてしまう薄給の警察官の役を見事に演じています。
 普段は寡黙で大人しそうに見えながら、何かを思いつめると、それに向かってとんでもないことをしてしまうと言った役柄に、その風貌がよく似合っていると思いました。

 リチャード・ギアの作品はあまり見ていませんが、6人の俳優がそれぞれのボブ・ディランを演じている『アイム・ノット・ゼア』(2007年)に出演しているのを見て、こんな映画にも出演するのだな、と驚いたことがあります。ですから、今回のような酷く地味な映画に出演していても驚きませんが、ある事件の解決に功績があったにもかかわらず、とても浮かない顔をして引き揚げる様子に、彼の映画人生が凝縮されているような感じを受けました。



 もう一人のドン・チードルは、DVDで見た『ホテル・ルワンダ』が印象的で、この映画でも処遇が恵まれていないことを上司に訴える際の演技は優れていると思いましたが、潜入捜査官として日々危険な淵に立っている様子の方は、今一突っ込みに物足りなさが残りました。




(2)警察官を描く映画は随分とたくさん作られています。
 ここでは比較的最近の作品を取り上げてみましょう。
 アメリカのものでは、『バッド・ルーテナント』(2009年)をDVDで見ました。
 これは1992年のオリジナルのリメイク映画。舞台は、オリジナルのニューヨークからニュー・オーリンズへ移ります。主人公のテンレス・マクドノー(ニコラス・ケイジ)は、ドラッグやギャンブルに溺れ、拳銃を突きつけて売人からヤクを取り上げたりするフザケた悪徳警官ながら、アフリカからの不法移民の一家が殺害された事件の指揮をとったりして、最後は昇進して一応のハッピーエンドです。
 とはいえ、彼の愛人はドラッグを止める努力をしているものの、彼は相変わらずラリって捜査をしているのですから、しばらくしたらそのつけを払わずにはいられなくなるでしょう。
 このテンレス・マクドノーは、『クロッシング』における麻薬捜査官サルに近いところにいると言えるでしょうが、そのいい加減なところは、ひたむきなサルと比べると、南部器質丸出しと言えるのかもしれません。

 日本のものでは、何と言っても『踊る大捜査線』でしょうが、DVDで『笑う警官』(2009年)を見てみました。
 ただこの映画は、北海道警察の不正経理問題を背景としているものの、そのことで道議会の委員会に証人として出席をする警察官に対して、いきなり道警幹部から射殺命令が出されたり(いくらなんでも、そんなことまでするでしょうか?)、またその警察官を救おうとして同僚・有志の集まるバーBlackBirdのシーンが余りにも演劇の舞台然としていて見ている方がズッコケてしまったりと、かなりレベルの低い出来上がりになっているのでは、と思いました。
 とはいえ、実は、証人の警官(宮迫博之)と彼を救おうとする警官(大森南朋)は、かつて娼婦人身売買事件に関して潜入捜査をしたことのある仲だったというところから、『クロッシング』のタンゴ(ドン・チードル)とつながってくることはくるのですが。

(3)映画評論家の渡まち子氏は、「映画は、一人一人の正義を束ねることが出来なければ、どうなるのかを容赦のない筆致で描き切った。これが今のアメリカの閉塞感なのかと思うと陰鬱な気持ち になるが、徹底的に甘さを排除したアントワン・フークアの演出は、凄味がある。信仰心が厚いサルが言う「欲しいのは神の赦しじゃない。神の助けなんだ!」 という言葉は、彼らの人生の中での神の不在の証。目の前の現実と、己が信じる正義の間で揺れる警察官の苦悩が胸を打つ」として70点を与えています。
 また、評論家の粉川哲夫氏は、「3人の警官を描いた3本の映画を1本にまとめたようなところがあり、また、3人を並行的に描きながら、ときどき気になるすれちがい(「クロッシング」)を 見せ、最後に同じ場所に誘導する(しかし「グランドホテル」方式に出会わせるような野暮なことはしない)といった見る者の気をそそる作り方をしている」と述べていますが、凄く要領の良いまとめ方だと思います。
 ただ、「この映画は、マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』のシーンの多くが、見方によっては、主人公トラヴィス・ビックルの「夢想」と「幻想」を描写したものである――という解釈が成り立つのと似たような意味で、リチャード・ギアが演じる老警官エディの「夢想」の映像化であるといえなくもないのである」と述べていますが、「「夢想」の映像化」と言ってみても、そう言ったことでこの映画に対する理解度が深まったりするのであれば別ですが、取り立てて何ももたらさないのであれば、そう言ってみるまでもないのではと思われるところです。


★★★★☆



象のロケット:クロッシング
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わたしの可愛い人

2010年11月09日 | 洋画(10年)
 予告編を見たところなんとなく文芸ものらしい雰囲気が漂っていましたので、『わたしの可愛い人―シェリ』を渋谷のル・シネマで見てきました。

(1)物語は、ココットと言われる高級娼婦が闊歩していたベルエポックのパリが舞台。
 すでに40代ながらも抜きんでたココットのレア(ミシェル・ファイファー)は、以前は同業者だったマダム・プルー(キャシー・ベイツ)から、その放蕩息子シェリ(ルパート・フレンド)の教育を依頼されます。レアとしては、簡単に切り上げるつもりだったにもかかわらず、なんと6年間も親密な関係が続いてしまいますが、とうとうシェリは、若い女性エドメと結婚することになります(エドメの母親は、娘を早いとこ厄介払いしたいと思い、マダム・プルーは多額の持参金が目当て)。
 ただ、ハネムーンから戻ったシェリは、妻エドメと愛人レアの間を行き来しようと考えていたところ、レアの方はそうした生活を望まず、結局、……。

 まあ20歳以上年齢差のある若い燕との中年女性の恋愛物語と言ってしまえばそれまでですが、ベルエポックのパリという設定によって、建物とか部屋の調度品や衣装が随分と凝っているのに目を見張らされます(印象派の絵画から飛び出してきたもののような感じを受けます)。



 加えて、出演者もなかなかの俳優が揃っています。
 主演のミシェル・ファイファーは、既に50歳を超えているにもかかわらず40代のレアを演じても何の問題も起きないどころか、その美しさは圧倒的で、これならシェリが6年間も関係を続けてしまうのも分からないわけではないと思えてしまいます。
 さらに、19歳から25歳のシェリを演じるルパート・フレンドも、すでに29歳ながら、そのイケメンぶりを十分に発揮していると言えるでしょう。
 また、シェリの母親役を演じるキャシー・ベイツも、『レボリューショナリー・ロード』で見かけましたが、お金に目がない俗物の女性役を実にうまく演じています。

 総じて見れば、娯楽映画としてはまずまずの作品だなと思いました。

(2)ただ、問題がないわけではありません。
 この作品は、フランスの女性作家コレットの『シェリ』(1920年)を原作としていますが、それをなんと、フランス人を一切使わずハリウッド映画仕様でこの映画は制作されているのです。
 そのためなのでしょう、映画の冒頭では、ココットについてひとしきり講釈がなされますし(実際のココットの写真が何枚も映し出されます)、ラストでは、“レアとシェリは分かれたままであり、シェリは出征するものの無傷で戻り、その後拳銃自殺をした”と告げられます。
 むろん、原作本にはそんな書き込みがあるはずがありません(注)。
 特にラストの点はハリウッド映画でよく見かけることながら、どうもアメリカ人は、登場人物のその後の動向について酷く関心があり、それが分からないと落ち着かず、従って一言触れないでは物語をおしまいにできないようなのです。
 逆に、フランス映画などでは、エンドのシーンをことさら曖昧にすることによって、登場人物のその後について観客の想像に任せるという手法が一般にとられるようです。
 こうした点から見ても、今回の映画はパリを舞台としているはずなのに、という印象が最後まで残ってしまいます。

 なお、こうした点は、評論家の粉川哲夫氏がつとに指摘しているところでしす。
 すなわち、この映画について同氏は、「サビの利いた声によるナレーションが一番印象的だった。(監督の)スティーヴン・フリアーズ自身が担当しているらしいが、冒頭で19世紀のベル・エッポック時代のパリの娼婦の「社会史」と王室との関係を皮肉たっぷりに紹介し、最後には、この映画の主人公シェリの行く末を10語に足りない言葉で片付ける。ベル・エポックが第1次世界大戦とともに終わり、レアとシェリは別離のまま、シェリが拳銃で頭を撃つというのだ」と述べています。

 さらに、粉川氏は次のようにも述べています。
 スティーヴン・フリアーズとクリストファー・ハンプトン(脚本)は、「フランスを題材にしながら、英語による舞台劇の映画化を画策したのだ。いわば、日本の「新劇」のシェイクスピアのように、「元」は関係ない新ジャンルの創造である」。
 西欧の戯曲を日本人が金髪の鬘をかぶって上演するのに類似する、というわけでしょう。
 とはいえ、「新ジャンルの創造」とまで言えるのでしょうか?
 最近の『終着駅―トルストイ最後の旅』にしても、ロシアを舞台とするものの、出演する俳優はロシア人ではありませんし、言葉も英語です。そういえば、大昔のオードリー・ヘプバーン主演の『戦争と平和』(1956年)にしたって、全部ハリウッド仕立てといえるでしょう。
 むしろ、『のだめカンタービレ』において、シュトレーゼマン役を竹中直人が演じている方が画期的なことではないでしょうか?なにしろ、新劇の舞台で行われていることが、ファンタジックなお話とはいえ、映画の中にまで取り入れられたのですから!

 また、粉川氏は次のようにも述べています。
 「原作とは関係ないと思って見ないとこの映画は見続けることが難しい。しかし、原作は存在するのだから、それに触れないわけにはいかない。この映画がつまらないのは、原作が、コレットの全盛期の1920年代を舞台にしているのに、映画は、それよりまえの「ベル・エポック」に時代をずらせている点であ」り、「最期まで「何なんだ?」という疑問が消えないのは、原作では、レアの老いへのあせりや不安がひしひしと伝わってくるのに、この映画ではそれが全く感じられないからである」。
 確かに、原作にはないシェリの後日譚を捏造してしまうのですから、もはやこの映画は原作とは何の関係もないと思われるものの、舞台を「「ベル・エポック」に時代をずらせている」ことや、「レアの老いへのあせりや不安が」映画からは感じられないことを、原作との違いで批判するのはいかがかと言う気がします。
 仮に、粉川氏が言うように、原作通りに「レアは、老いた自分を哀れみながら、若き恋人に抑えることのできない「欲情」を感じるのである」とするならば、どうしてシェリは拳銃自殺をする破目になるのでしょうか?シェリは、レアから離れて自立の道を歩みますが、やはりレアの美しさを忘れられないのではないでしょうか?シェリの目にうつるレアは、「老いた自分を哀れ」むレアではなく、いくつになっても光輝くレアなのではないでしょうか?



(注)これを書いた時点では勉強不足で知らなかったのですが、実は、コレット原作の小説『シェリ』には続編の『シェリの最後』があって(いずれも岩波文庫に工藤庸子訳で入っています)、その末尾においてシェリはピストル自殺するのです!



 ただ、だからといって、以下の文章を書き直す必要もないと思います。あくまでも映画は元の『シェリ』の映画化なのでしょうから。


★★★☆☆




象のロケット:わたしの可愛い人
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メッセージ

2010年10月27日 | 洋画(10年)
 『メッセージ そして、愛が残る』を、日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)かなり重厚な物語です。
 毎日忙しく働く弁護士の男ネイサン(ロマン・デュリス)の元に、ある病院の医師ケイ(ジョン・マルコヴィッチ)がやってきて、自分には人の死ぬ時期が分かると言い出します(死期が近づいた人には白い光がまといつくので判別できると言うのです)。
 そんな馬鹿なことをと、ネイサンは一笑に付しますが、彼が指さした人が実際に死ぬのを見て、逆に自分の死期も間近に違いないものと思い、別れてニューメキシコで暮らす妻クレア(エヴァンジェリン・リリー)と娘の元に行きます。
 実はネイサンは、幼い時分、湖の桟橋から落ちそうになったクレアを助けるべく、大人を呼びに道路に飛び出たところを車に轢かれ瀕死の重傷を負いながらも、生き返っているのです。
 そうした過去がありながら、クレアとの間にできた息子が原因不明で死んでしまうと、ネイサンはショックで、妻と娘から遠ざかっていたのです。
 ニューメキシコに行ったネイサンは、砂漠に咲いた月下美人の花をカメラに収めたているクレアの姿を見たりするうちに心が和んできて、残り少ない時間を再び家族と一緒に暮らそうと考えます。
 ただ、一緒に付いて行ってもらった医師ケイに連絡すると、戻ったはずの彼は、まだ家の近くのモーテルに滞在しているとのこと。いったいどうしてなのでしょうか?おまけに妻の姿を見ると、……。

 冒頭、いきなり子供が車にはねられるシーンがあって、そこから突然、現代のニューヨークに変わって、飛行機事故の犠牲者の遺族たちの要求をネイサンが撥ねつける場面が出てきたりして面喰いますが、全体として大変真面目な作品で、感銘を受けました。
 その後も、地下鉄の駅で男が突然ピストル自殺する場面とか、また若年性の癌に侵されている青年が映し出されるなど、厳しい場面の連続ですが、他方で、広大なニューメキシコの砂漠で花開いた月下美人は大層美しいものでした。

 出演者の中では、医師ケイを演じたジョン・マルコヴィッチは、死の近づいていることを伝達するメッセンジャーという役柄に、まさにうってつけの風貌だと思いました。



 また、クレアを演じたエヴァンジェリン・リリーは、『ハート・ロッカー』に出演していたとのことながら、あまり印象が残ってはいないものの、この映画ではその美しさを存分に発揮しています。

 とはいえ、問題がないわけではないでしょう。
 医師ケイは、本来ならば、白い光に覆われる死期の近づいた人にその事実を伝えるメッセンジャーなのでしょう。こうした事情は、ネイサンについては、結局のところ誤解だったにしても効果的でした。
 ですが、たとえばピストル自殺する男については、その人の死期が近いことをネイサンに教えはするものの、そのことを前もって当人に教えるわけではありませんから、メッセンジャーと言っても、誰に何を伝達しているのか理解しがたいところです。
 もしかしたら、死ぬまでの生を充実したものにすべく癌患者に死期を宣告する現代の医者の方が、本来的なメッセンジャーと言えるのかもしれません。

(2) そういう点からすると、この映画は、シオノギ製薬の動脈硬化警告CMに近いかもしれず(当人には見えない背中の張り紙で、その人の動脈硬化の様子がCMの主人公だけにはわかってしまうのですから!)、さらにまた、間瀬元朗の漫画『イキガミ』(小学館)の域には到達していないとも言えるかもしれません。



 その漫画(注)では、主人公の藤本賢吾は、「逝紙(いきがみ)」と呼ばれる死亡予告証を若者に配達する仕事をしているのです。対象者は、1000分の1の確率で選ばれますが、その紙を受け取ってから24時間以内に死を迎えることになります。
 すなわち、「国家繁栄維持法」という法律に従って、すべての国民は予防接種を受けなくてはなりませんが、その注射器には約0.1%の割合でナノカプセルが混ぜられていて、一定の時間が経過するとそれを体内に持つ者は死んでしまうのです。
 なぜそんなことをするのかというと、国民に「死」に対する恐れの念を抱かせることによって「生命の価値」を再認識してもらうためだ、とされています。

 こうした設定からすれば、漫画の主人公の藤本賢吾は、この映画の医師ケイに相当すると言えるでしょう。ただ、上述したように、ケイの場合、メッセンジャーとしての役割を十分に果たしていないように見えるのに対して、漫画『イキガミ』においては、主人公から「逝紙(いきがみ)」を渡されたものは確実に24時間以内に死ぬのです。
 こうしたシステムになっているのは、その24時間を該当者に有意義に使ってもらうためとされていますが、逆に自暴自棄的に犯罪に走る場合もあるとされます。例えば、同漫画のEpisode 1は、該当者が、もうどうなってもかまわないからと4年前に受けた苛めを復讐する話になっています。
 今回の映画の場合、ネイソンは、自分の死期が近づいていると自覚すると(それは誤解なのですが)、家族との関係を見直そうとはするものの、自暴自棄に陥ったりはしません。
 これらの点からしても、漫画『イキガミ』はかなり高い水準のものだと言えるのではないでしょうか?


(注)この漫画は、映画化され2008年に公開されています。監督が瀧本智行氏で、主演は松田翔太。


(3) 映画評論家の論評は余り見かけませんが、渡まち子氏は、「仏人俳優ロマン・デュリスが、母国語ではない英語の芝居に挑戦。セリフは最小限に抑えられているが、悲しみに満たされた人生をゆっくりと解放する主人公に はその寡黙さが効果的だった。さらにまるで催眠術のように静かで独特のテンポで話すジョン・マルコビッチの存在も効いている。撮影は名カメラマンのリー・ ピンピン。まるで掌の上の砂が指の間からこぼれ落ちるような悲しみと、生きることの輝きを見事に映像化していた」として60点を与えています。



★★★☆☆



象のロケット:メッセージ
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