映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

この愛のために撃て

2011年08月29日 | 洋画(11年)
 『この愛のために撃て』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)事前の情報がほとんど何もなかったところに、「ふじき78」さんが、そのブログ「ふじき78の死屍累々映画日記」の8月27日の記事において、「大傑作だ」とか「いやあ、おもろいよ」と述べていて、ちょうど夏枯れ状態でもあり、厳しい批評眼をお持ちの「ふじき78」さんがそこまで言うのであればと、早速映画館に出向いた次第。

 ところが同記事が言うがごとく、まさに「こんなにおもろいのにお客が5人」状態で、「ふじき78」さんがご覧になった翌日の土曜日の午後にもかかわらず、そして「こんな面白い映画なのに」、わずか10人ほどの観客、購入したチケットに記載されている〈整理番号1〉が泣きました。

 そこで、8月6日から公開されていて、もう公開最後の週に突入ですから、観客の少なさは仕方がないのかもしれないものの、ぜひこの映画を見る人が増えるようにと思い、こうしてブログの記事掲載を若干早めてみたところです(尤も、クマネズミのブログなど本当にとるに足りない存在ですから、そんなことをしてみても何の意味もないでしょうが!)。

(2)以上でおしまいにしてもかまわないのですが、自分の覚えということもありますから、「ふじき78」さんの記事に関し、少々コンメンタール的なものを(上滑りのものながら)でっち上げてみることといたしましょう〔上の(1)と下の(2)及び(3)において「」で引用した章句は、すべて「ふじき78」さんのブログ記事からのものです〕。

 ただ、この映画は、「映画の面白さが凝縮して」いて、それも『アリス・クリードの失踪』と同様、事前に関係情報を持たなければ持たないほど面白いですから、未見の方は以下を読まれないことをお勧めいたします。

a.まず主人公ですが、彼について「ふじき78」さんは、「元CIAとかじゃなくって、縁側でスイカ食ってるのが似合いそうなおっさん」とされています。



 確かに主人公のサミュエルジル・ルルーシュ)は、諜報機関などに関与したことはなく、単に病院の看護助手であり、看護師に昇格しようと試験勉強中なのです。
 さらに彼には、こよなく愛する妊娠中の妻ナディアエレナ・アナヤ)がいて、仕事と家庭とで大層充実した毎日を送っています(下記の(3)を参照)。
 ただ、物語の初めの方で、こうした至極幸せそうなシーンが出てくると、それがサスペンス物と謳われている場合には、観客としては次にくるものに対して身構えなくてはならないでしょう〔例えば、『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』参照〕。

b.次の「奇しくも相棒になってしまう犯罪者の男」については、主人公が「冴えない」のに対して、まさに「怪しい犯罪者くささとプロフェッショナルが同居しててかっこいい」のです。



 映画の冒頭は、このサルテロシュディ・ゼム)が2人の男たちに追われて、街中を逃げ回る姿が描き出されます。挙句、オートバイに撥ねられて瀕死の重傷を負ってしまい、病院に担ぎ込まれますが、その病院というのが、なんと主人公サミュエルの勤務先なのです。

 サルテを演じるロシュディ・ゼムが、悪人顔の上、腹に怪我をしていることもあって、その後も実業家殺しの容疑者というTVニュースが流れたりもするので、観客の方はスッカリ彼のことを悪人と思いこんでしまいます。でも、『悪人』に関する記事でも触れたように、とどのつまり“悪人”とは何なのかと問われると、本当のところは困ってしまうのですが。

c.さらに、「誘拐された妻」ですが、サルテに関する病院での出来事を、サミュエルが妻に向かって得意然と話し出したところ、突如として侵入してきた男に殴られ意識を失い、その間に妻が誘拐されてしまいます。



 物語の発端としてこうした突然の出来事をもってくるのは、このところ当たり前のようになっていますが、最近の例としては、『復讐捜査線』において、父親のメル・ギブソンが娘と一緒に自宅を出たところ、いきなり銃撃されて娘が吹き飛ばされるシーンが印象的です。

d.なぜサミュエルの妻が誘拐されたのかというと、病院で治療を受けているサルテを外に連れ出させるためで、3時間以内にそれが出来なければ妻を殺すという電話が彼の元にかかってきます。
 やむなくサミュエルは、レントゲンを撮るという口実でなんとかサルテを連れ出し、ついにはサルテのマンションにまで行き着きます。
 ただ、サミュエルは、サルテを信用できないので、その場所でサルテに隠れて警察に通報してしまいます。
 すると警察がやってくるのですが、ここでとんでもないことが起こります。事の真相はこの段階ではまだ十分に明かされませんが、観客の方は「思わぬ展開にビックリ」し、「次の一手が気になる」ことになります。

e.そしてここからが、「ノンストップ」で、「ハラハラドキドキする」シーンの連続になります。
 サミュエルが、「誘拐された妻の安否」を「常に第一に考え」て、「ひたすら走る、逃げる、ビビる」のです。

 特に、「地下鉄のシーンが凄」く、到底「逃げオオせられはしないだろう」と思わせて、見ている方は手に汗を握る思いをすることになります。
 サミュエルは、地下道に降り、改札口を飛び越えて地下鉄の駅の構内を所狭しと逃げ回ります。追っているのは警官たちで、駅本部にある監視カメラの映像にサミュエルの姿が映し出されるたびに、その所在地を無線で知らされますから、サミュエルはどんどん追い詰められます。

 こうした追いかけゴッコは、ハリウッド映画なら派手なカーチェイスにするところでしょうが(注1)、こうした走りの方がずっと「緊迫感」があるというのも不思議なところです。車という機械を使うよりも、人間の足という自然のものを使った方がリアルさが出るということなのでしょうか?
 あるいは、追う側の「顔が獰猛なドーベルマンみたい」だからなのでしょうか?
 なお、この点については『アンダルシア』についての記事の中でも触れたところですが、追っかけゴッコの「緊迫感」の点では、こちらの映画の方が数段上だと思われます。

f.そして、「奇しくも相棒になってしま」ったサルテが放った奇手によって、サミュエルとサルテは、追手の総元締めである警察署に入り込むことに成功し、目的をそれぞれ達成してしまうのです。

 ここまでは、サムエルとサルテは、ただ逃げ回るだけでした。言ってみれば、“水平方向の流れ”に従っていました。ですが、ここに至ると、警察署の中を容疑者で溢れさせ、そうした流れを“滞留”させることによって、2人はそれぞれの目的にアプローチできるようになるといえるでしょう。

g.この映画を製作したのは、あの『すべて彼女のために』と同じフレッド・カヴァイエ〔両作とも監督・(共同)脚本〕。それがハリウッドにリメイク作(『スリーデイズ』)を作らせたほど優れているのですから、この映画についても、「すごく計算された脚本」であることは間違いなく、結果として面白いものとなっているのも十分にうなずけるところです。
 ただ、この作品のラストはあまりいただけないのでは、という気がしました。フランス映画特有の、その後は観客の想像に任せるというのではなく、ハリウッド映画のように、事件のその後を描いてしまっているのですから(注2)。

(3)ここで一点だけ自慢話をしておきましょう。
 というのも、主人公のサミェルに扮するジル・ルルーシュは、「ふじき78」さんをも含め酷評が相次いだにもかかわらずクマネズミは評価した例の『アデル』において、カポニ警部として活躍していたのです!



 といっても、皆さんが酷評していたのは監督のリュック・ベッソン(あの『96時間』も監督しました)に対してであり、出演者ではなかったようで、さらには、クマネズミの『アデル』を取り上げた記事においても、カポニ警部の“カ”の字も記載されてはいないのですが!

 なお、ジル・ルルーシュは1972年生まれですからまだ39歳、「ふじき78」さんが、「縁側でスイカ食ってるのが似合いそうなおっさん」とか、「永島敏行と蛭子能収を足して2で割ったみたい」、「お父さん然としたおっさん」と形容されるのはすごくよくわかるものの、実際にはそれほど年を食ってはいません〔ちなみに、「永島敏行と蛭子能収の」年齢を「足して2で割」ると得られる平均年齢は60歳です!〕。

(4)福本次郎氏は、「映画全編を貫く疾走感と予断を許さない意外な展開の連続は、ラストまで衰えず感覚を刺激し続ける」として60点をつけています。



(注1)『ボーン・アイデンティティ』のパリ市内でのカーチェイスが思い出されるところです。

(注2)特に、事件の首謀者が禁固18年を食らいながらも、わずか8年程度で仮出所してしまうのは、フランスではありうることなのでしょうか?



★★★★☆





象のロケット:この愛のために撃て
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ツリー・オブ・ライフ

2011年08月28日 | 洋画(11年)
 『ツリー・オブ・ライフ』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。

(1)『イングロリアス・バスターズ』で快演を披露したブラッド・ピットや『ミルク』のショーン・ペンらが出演し、またカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した作品でもあることから、随分と期待を込めて見に行ってきました。
 ですが、こちらが思っていた映画とは大違いの内容です。

 この映画は、ビッグバンから現在の人類に至る大きなマクロの流れと、その中でのブラピ一家という個別的なミクロの展開が、ミックスしています。
 前者についていえば、様々の実に美しい映像が映し出されますし、後者の方も、父親のオブライエン(ブラッド・ピット)を中心とする一家5人が生活する姿が、まさに中流の生きかたそのもののように描き出されていきます。

 とはいえ、しばらく見ているうちに、ミクロのブラピ一家の内実は、むしろどこにでもありそうなものではないか、その意味でかなり抽象的ではないか、またマクロの流れに関する映像は、普段NHKTVのドキュメンタリー番組などでよく見かけるものと大差ないのではないかと思えてきて、全体としてこの映画になかなか乗り切れないものを感じてしまいます。
 それに、例えば、冒頭にヨブ記からの引用(注1)が掲げられ、すぐその後で、人の生き方には二通りあるなどということがジェシカ・チャステインによって述べられ(注2)、ラストでもコラールが歌い続けられるといったように、各場面が宗教的なもの(特にキリスト教)に強く関連付けられているような感じがするものの(注3)、キリスト教のことなど普段あまり考えたこともないクマネズミには、どうしても違和感を拭い去ることはできません。

 下記の(3)で述べる要因(クマネズミの愛好するクラシック・ギター!)から★一つ追加はいたしますが、クマネズミとしては、全体としてそれほど優れた作品と言えないのではないかと思いました。


(2)でも、そう簡単に言い切ってしまえない何かが、本作品にはあるようにも思います。
 それが何だか結局はよくわからないものの、もう少し詳しく見ていきましょう(以下は、感想というよりも、むしろ作品内容をなぞっているだけの単なるメモ書きにすぎません)。

イ)まず、ブラピ一家についてです。
 この一家の出来事としては、最初に唐突に、19歳になった次男が亡くなったという知らせを、ジェシカ・チャステインが受け取って不安に駆られる場面が描かれます。



 さらに、その連絡が飛行場にいるブラピに入りますが、あまりのことに、彼はその場に座り込んでしまいます(注4)。


 次いで、大人になった長男ジャックショーン・ベン)が登場します〔以降のブラピ一家に関する映像は、おそらくはジャックの回想の中のものではないか、と考えられます(注5)〕。



 現在のジャックは、一方で、第一線の建築家として忙しく活躍しているものの(注6)、他方で、自分がいまそこに存在すること自体に懐疑を持っているようです。
 そして、そういう思いを彼に抱かせる根源的な原因が、どうやらジャックとその父親との関係にあるようなのです。というのも、回想しながらチェックするとでもいうように、ジャックの幼い時分の家族の様子が、何回となく画面に映し出されるからですが。

 まず、母親のジェシカ・チャステインが妊娠して、赤ん坊が生まれ、洗礼を受け、両親と子供たちは楽しげに戯れたり、というように、家族を巡っていろいろな物事が典型的に進行します。
 ただ、暫くしてジャックが少年になると、父親のブラピはジャックに対し、返事の際は「Yes,sir」と言え、というように、いろいろ口煩く注意をするようになります。
 果ては、今部屋に流れている曲の名前を訊ねたりもするのです(でも、そんな子供に、「ブラームスの交響曲第4番」を当てさせるのは、やり過ぎと言うものでしょう!)。

 ソウしたことが度重なって、ジャックは父親に対して酷い敵愾心を抱くようになります(その背景の一つには、音楽的才能のある次男R.L.が、自分より優しい扱いを父親から受けているとのヤッカミもあるようです。そういう気持ちの表れとして、上記の次男の死亡の知らせを聞くシーンが、最初に描き出されているのかもしれません)。

 他方で、ブラピの方にも理屈はあります。世の中で成功するには、強い意志が必要なのだ、音楽家になろうとしてなれなかった自分のようになるな、云々というわけです〔ここには、息子に何かを伝えたいとする父親の姿勢がうかがわれ、それは邦画でも見かけるところです―このブログのこの記事の(3)などをご覧下さい〕。



 しかしそうはいっても、自分に出来ないことを子供に強いるなんて、と思うのが普通でしょう。
 ジャックは、他の家に忍び込んで、その家の主婦の下着を盗んだりするなど、いろいろな悪さをするようになります。

 そうこうするうちに、ブラピは、27件もの特許申請しているにもかかわらず敗訴が続き、さらに悪いことには、勤務していた工場が閉鎖されて職を失ってしまいます。
 こうなると、ブラピは、無力感にとらわれるとともに、これまで自分が思いあがっていたことに気が付き、逆に、自分に誇れるものは子供たちだけだ、と言うようになります。

 ここで突如として、映画は現在のジャックに戻り、それも荒涼とした岩山をさ迷う姿なのです。



 さらには、そこに立てかけてある木の門をくぐり抜けます。すると、突然、いろいろな人々がジャックの周囲を歩きだし、なんとその中には、昔のブラピ一家も混じっているではありませんか(注7)。



 さらに画面は変わって、再び、現代建築のビルの中にいるジャックに戻ります。

 ジャックから見たように描き出されているブラピ一家の様子については、次のようにもいえるのでしょうか。すなわち、家族のためによかれと情熱をこめてブラピがしたことが、逆に裏目に出てしまい、家族から反目を買うことになってしまうものの、やはり結局は皆がそれぞれ許し合い、そして今の自分はそれでかまわないのだという思いに至る、というように。

ロ)こうした一家の背景となるものが、ビッグ・バンから現在にまで至る大自然の大きな変化といったものでしょう。
 まず、巨大な星雲が爆発し、火山から溶岩が流れ出て、水蒸気爆発しているようです。
 それから、ユタ州のキャニヨンのような荒涼たる地表が現れ夜明けを迎えたりする一方で、海の中では、海藻が大きく揺れる中、クラゲとかウミウシのようなものが蠢いていたり、恐竜が現れるかと思うと、サメとかエイが泳ぎ、血液が血管を流れるうちに、心臓も鼓動し出します。
 全体として、ビッグバンから生命の誕生、そして人類までの道のりが(途中、大隕石が地球に衝突しますが、これによって恐竜などが絶滅したのでしょう)、混沌としたたくさんのイメージの集合でもって、かなり抽象的に描き出されている、といえるのではないかと思います。

 ビッグバンからの進展が、地球科学で想定されているような一直線のものとして描き出されるのではなく、このように様々な変形を凝らし複雑に入り組んだものとして映し出されると、それはそれで随分と興味をひかれます(尤も、恐竜のCGは余計でしょうが←数少ない観客サービスでしょうか?)

ハ)こうしたマクロの大自然の動きと、先のミクロのブラピ一家の暮らしとを、ある意味でつなぎ合わせる接点となっているのが、何回も映し出される森の描写ではないでしょうか(それと、海中の藻も)?
 ただ、その際専ら焦点を当てられるのは、西欧的な垂直に天に伸びる樹木から形成される森であって、アジア的な風にそよぐ柔らかい森の光景ではありませんが(この映画で風にそよぐのは、大きな花が咲いている木の場合です)。

ニ)ということで、あと何回か本作品を見て、細部に今少し目を向けることができるようになれば、いろいろ議論できるようになるかもしれませんが、さりとて、わざわざそんなことをしようという気も今のところ起きてこないといった感じです。

 それでも、俳優達は頑張っているなと思いました。
 ブラッド・ピットは、口やかましく様々なことを言い募り、自分の思う方向に家族をもっていこうとする権威主義的な父親ながらも、実のところは家族のことを深く愛している人物という大層困難な役を巧みに演じていると思いましたし、ショーン・ベンが演じる長男ジャックも、映画の中では殆ど会話のシーンがなく、専らその醸し出す雰囲気で気持ちを表さなくてはならないという、これも難役ながら、説得力ある演技力でこなしています。さらには、クマネズミには初めてのジェシカ・チャスティンも、プラピに振り回されながらも、どこまでも優しく子供達に接する母親役としてうってつけだなと思いました(本作品を制作したテレンス・マリック監督による未公表の次回作にも、出演しているようです)。


(3) この作品では、音楽が欠かせない要素になっていると考えられます。
 マクロのシーンでは、スメタナの「モルダウ」やベルリオーズの「レクイエム」などが使われ、ミクロのシーンでは、元々音楽家の道を志していたことから、ブラピが、教会のオルガンでバッハの「トッカータとフーガ」を弾いたり、自宅のピアノでモーツアルトのソナタを弾いたりする場面があるだけでなく、驚いたことに次男はクラシック・ギターを練習してもいるのです!
 さらに次男が、テラスでレスピーギの「シチリアーナ」を爪弾いていると、それを聞きつけた父親のブラッド・ピットが、ピアノで低音部分を弾きだし、綺麗な二重奏となっています(注8)。
 また、エンドロールでは、最初のうち、F.ソル(このブログの昨年4月17日の記事をご覧ください)のギター曲の「月光」(Op.35-22)が流れたりします。

 おそらく、ブラピ一家の様子が描かれている1950年代は、今と違ってクラシック・ギターに対する一般の関心がズッと高かったころではないかと思われます(注9)。
 そして実際には、次のような事情もあるとのことです(注10)。
 すなわち、テレンス監督(注11)には、音楽的な才能を持った弟ラリー・マリックがいました。ただ、20代の前半でスペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアに弟子入りしたものの(注12)、思ったほど上達しないことに落ち込んで、自殺してしまったようなのです(1968年)。

 むろん、そんな実話があろうとなかろうと映画を見る上で何の足しにはなりませんが、こうした人を寄せ付けなさそうに思える映画に対する突破口としては、興味が惹かれるエピソードではないでしょうか。


(4)福本次郎氏は、「カメラは彼らの姿を散文的にスケッチしていくが、隅々にまで精密な美しさと静謐な躍動感が行きとどいたしっとりとした映像は、ストーリーを頭で理解するのではなく、心で感じ取ることを観客に要求する。今まで見た記憶がない、ため息が漏れる圧倒的な映像体験だった」として90点もの高得点をつけています。
 また、渡まち子氏も、「キューブリックの「2001年宇宙の旅」にも似て、哲学的な物語とめくるめく映像美の間に、生きるとは何かという問いが封じ込められている。混迷する現代に生きる観客それぞれの心の中に浮かび上がってくるのは、その問いの答えではなく、より良い人間でありたいという祈りなのかもしれない」として70点をつけています。



(注1)「わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え」(第38章第4節)と、「かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった」(第38章第7節)。〔口語訳旧約聖書

(注2)冒頭で、母親が、“生きる道には二つある。世俗の道と神の恩寵の道。前者は、周りに愛があろうとも、利己的・威圧的で自分の意志に人を従わようとするが、後者は、不幸なこと、人に疎まれることをおそれない。自分は、後者を選んだ”といったような意味合い(大体ですが)のことを述べたりします。
 実際には、彼女は次のように述べているようです。
 There are two ways through life. The way of nature and the way of grace. You have to choose which one you will follow. …….
(例えば、このサイトの記事の初めの方を参照)

(注3)そもそも、タイトルの「The Tree of Life」からして、旧約聖書の創世記第2章からの引用のようです〔アメリカ標準訳 (1901年版)〕。
 And out of the ground made Jehovah God to grow every tree that is pleasant to the sight, and good for food; the tree of life also in the midst of the garden, and the tree of the knowledge of good and evil.

 さらに、様々のマクロの映像と一緒に、「主よ、なぜです。あなたはどこに。」とか、「あなたにとって、私たちとは?答えてください」、「あなたに縋ります」、「嘆きをきいて」などといった問いかけの言葉などが挿入されたりします。

 ただ、キリスト教とこの映画の各場面との関連性についていろいろと探り出したとしても、それは部外者による単なる解説に過ぎず、だから何なのかという思いに囚われてしまうので、これ以上の追求は控えることと致します。

(注4)次男が死んだのは、1970年代前半と推定され、当時はベトナム戦争の末期でもあることから(まだ18歳以上の男子に対する徴兵制が設けられていました)、その戦争で死んだとも考えられますが、映画では何も説明されません〔本文の(3)をも参照してください〕。
 なお、ブラピは、「あいつに謝る機会がなかった」、「みじめな思いをさせた、自分が憎い」などと自分を責めますが、なんとなく『オカンの嫁入り』で、桐谷健太が、自分のせいで祖母が亡くなってしまったとして、「何よりも悲しいのはもう会って謝れなくなってしまったことだ」、と言っていたのに通じるのかな、などと密かに思ったりしました。

(注5)といっても、例えば、上記の飛行場におけるブラピの映像が誰の視点によるものなのかは、判然としませんが。
 また、最後の方の場面で、ジャックの前に現れるたくさんの人の中にブラピ一家が混じっていて、かつその中に幼いころのジャック自身がいるとなると、これがジャックの回想なのかどうかよくわからなくなってきますが。

(注6)全面ガラスで覆われた超近代的なビルが立ち並ぶビルのオフィスで、ジャックは仕事をしていますが、そうした建築物をズッと小型化したものが、映画『クロエ』の舞台となっているキャサリンの自宅とはいえないでしょうか〔同映画に関する記事の(3)をご覧ください〕?

(注7)もしかしたら、天国への入口なのかもしれませんが、映画では、次男の死以外の死は明示的に描かれていませんし、なにより、なぜブラピ一家は何十年も前の姿なのか、そしてそこになぜ少年時代のジャック自身が入っているのか、よくわからないことだらけです。

(注8)このサイトの記事を参照。

(注9)1944年、51歳の時に、セゴヴィアはニューヨークに転居し(62歳でマドリッドに定住するようになるまで)、充実した演奏活動を行うようになりました。そういうことが、当時のラリーの背景にあるのではと推測されます。

(注10)たとえば、このサイトの記事を参照。
 ただ、こちらの記事によれば、元々の出典は、ジャーナリストのピーター・ビスキンド〔ドキュメンタリー映画『イージー・ライダー☆レイジング・ブル』の原作者(?〕)の書いたものによるようです。
 なお、同記事によれば、テレンス・マリックは3人兄弟で、テレンスが一番上で、2番目が自殺したラリー、3番目がクリスで、オクラホマ州で石油生産を行っていたときに自動車事故に遭遇したとのこと。

(注11)テレンス・マリック監督は、大変な寡作で、これまでに本作を除き4本しか制作していません。



 ちなみに、プロデュースも手掛けており、そのうちの1本が例の『アメイジング・グレイス』とのこと!

(注12)本文のすぐ前で触れたソルの「月光」は、沢山あるソルの練習曲の中からセゴヴィアが選んだ20曲(『セゴビア編による ソルの20の練習曲』)の中に入っています。




★★★☆☆



象のロケット:ツリー・オブ・ライフ
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トランスフォーマー3

2011年08月27日 | 洋画(11年)
 『トランスフォーマー ダークサイド・ムーン』を吉祥寺で見てきました。

(1)映画の評判が大層よさそうなので、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』と同様、シリーズの他の作品は見ていないのですが、映画館に出かけてみました。

 物語の方は、邪悪なエイリアンが地球を乗っ取ろうと攻めてくるのを、主人公らの必死の闘いで撃退するという、マアお定まりの至極単純なストーリーに過ぎません。
 そのため、今回の映画は、第1作、第2作を受けての完結編ながら、これを単独で見ても、冒頭でこれまでの経緯を極く簡単にですが描いてくれていることもあって、舞台設定のあらましはスグに飲み込めます。




 もう少し映画の内容に近づくと、人類を支配しようとする邪悪なエイリアン(メガトロン)だけでなく、なぜか人類と共に彼らと闘ってくれる善良なエイリアン(オートボット)もいるという点が、このシリーズの特色でしょう。
 それに、エイリアンが、瞬時に車などに変形できる金属生命体であるのも、特異な点でしょう。とはいえ、ガンダムのモビルスーツに、車の部品が所狭しと貼り付いている感じの外形は、かなり滑稽です(といっても、これは部品を貼り付けているのではなく、エイリアンの体の各部が部品に変形しているのでしょう。そうでなければ、瞬時に車に変形できないでしょうから;注1)。



 それに、エイリアンは、善と悪のサイド共に英語が堪能でコミュニケーションに何の不自由もなく、また目に相当する部分を破壊されると視界が遮断されてしまう欠陥を持つなど、人間の単なる相似形でしかないという点も、ナンダかなあという気にさせます(エイリアンは遠い異星からやってくるのですから、本来なら思いもよらない姿形をしているのではないでしょうか。尤も、それでは映画のわかりやすさが犠牲になってしまうでしょうが!)。



 どうやら、エイリアンといいながら、実のところは、人類のうちの邪悪な者たちと善良な者たちの誇張された姿にすぎないように思えてきてしまいます(注2)。

 こうしたエイリアン達と絡むのが、主人公のサムシャイア・ラブーフ)です。
 サムは、大学を卒業して就活中ながら、会社社長ディランパトリック・デンプシー:実は邪悪なエイリアンと通じています)の秘書をしているカーリーロージー・ハンティントン=ホワイトリー)と恋愛関係にあるというわけです。
 サムは、一方で、恋人がディランに取られないように頑張らなくてはならず、他方で、上記のエイリアンの戦いに呑み込まれてもいきます。さらに、地方からサムの状況を見にきた両親も絡んできて、気の休まる暇もありません。



 サムの両親は、彼の窮状などそっちのけ、自分たちのことしか考えない実に愉快な存在なのですが、さらにまた、サムが就職することになる会社の副社長があのジョン・マルコヴィッツですから、サムの大変さはいや増すばかりです。
 なにしろ、この副社長は、常に新しいことを追求しなくてはならないなどと言いながらも、自分は、女性職員の実に些細なこと(自分が嫌いな色のジュースを飲んでいるなど)を見とがめてしまうような狭量な性格の持ち主なのですから!

 ですからこの映画は、トランスフォーマーに滑稽実を感じてしまうこともあり、全体としてコメディではないか、とも思えました(注3)。

 でも、この映画は筋立てというよりも、3Dを見てみたいということで出かけたもので、その点で言えば、3Dは昨年9月に見た『ヒックとドラゴン』以来ながら、専用メガネも随分と軽くなり、また画像自体も一段と見やすくもなり、悪くはないなと思いました。
 といっても、別にわざわざ3Dにせずとものストーリーだな、という感じがしてしまうのは相変わらずですが。

 なお、これまでに3Dは、『クリスマス・キャロル』と『カールじいさんの空飛ぶ家』や『アバター』を見ています。本来的には、IMAXを見るべきでしょう。ですが、そこまでお金をかけるのもいかがかと思え、実のところはIMAX方式の映画館まで行くのが遠くて大変なため、また別の機会としました。

 それでも、微細なところまで拘って作成されているCG画像の出来栄えは素晴らしく、おそらくこの一作を見れば、後1年くらいはSF物を見なくても済みそうだという気にはさせられます(昨年1月に見た『アバター』の時もそう思いました。なお、その後で見た『ヒックとドラゴン』は、何も3Dだからということで映画館に出かけたわけではありません)。

(2)上で、トランスフォーマーたちが、どうも人間のように見えてきてしまうと申しあげましたが、ソウ見てしまえば、この間の『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』でミュータントが活躍する世界までホンの一歩といえるでしょう。
 その映画においても、ミュータントが支配する地球を作ろうとするセバスチヤン・ショウたちと、人間と協力し合ってそれを阻止しようとするチャールズ・エグゼビアたちのミュータントたちが存在するのですから。
 おまけに、この映画で、人類の味方と思われたオートボットの司令官のセンチネルプライムが裏切る様は、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』のエリック・レーンシたちを髣髴とさせるものがあります。センチネルプライムだったと思いますが、人間はオートボットのことを「機械めが」としか思っていない、といったような内容のことを言うわけで、それは、ミュータントたちが人間たちから受ける差別に悩むのと同じことのように思われます。

 そして、この映画と『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』との類似の極めつけは、両者にケネディ大統領の姿が映し出される点でしょう。前者にあっては、アポロ計画(人類の月面着陸)の推進者として、後者にあってはキューバ危機の当事者として。
 ただ、後者ではすべてニュース映画からの映像のところ、前者では、当初ニュース映画からの映像ながら、途中からなぜかソックリサンに代わるのです。こんなところで実話性にこだわっても意味がないように思えるものの、あるいはユーモア精神の表れと見るべきなのでしょうか?

 逆に、この映画と『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』との相違点といったら、トランスフォーマーに「」の区別がなさそうな点でしょうか。ミュータントには、ミスティークといった魅力的なミュータントが登場しますが、戦闘員だからでしょうか、女性的な感じが漂うトランスフォーマーは見つかりません(注4)。
 でも、トランスフォーマーは、金属を身にまとうとはいえ生命体なのですから、「繁殖」は極めて重要な点であるはずです。この点はどうなっているのでしょうか?
 オートボットは、センチネルプライムに打ち勝ち人類の危機を救ったにせよ、このままでは次第にその数を減らすだけのことになってしまいます(メガトロンの軍団ディセプティコンには何体かやられているのですから、死を免れている存在ではないでしょう。としたら誕生だってありうるはずですが?)。(注5)

(3)渡まち子氏は、「シカゴの街が壊滅状態になり、悪の金属生命体が巨大ビルに巻きついて、建物をなぎ倒していくド迫力。3Dによる大がかりな破壊シーンが延々と続くのに、ほとんど眼が疲れないのだからお見事というしかない。2時間34分の驚異の映像体験。間違いなく料金の元が取れる」として65点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「ラスト30分はスクリーン上で何が起きているかを正確に把握できないほど混沌としているが、それでも画面の隅々にまで神経の生き届いた表現力はCGの最新技術力の見本市のよう。このスケールの大きさが、他国やTVの追随を許さないハリウッドの底力なのだ」として50点をつけています。


(注1)「変形」→「transformation」→「転形」→「転形問題(transformation problem)」と連想が働くと、これはマルクスをもってしても解決できなかった難問なのですから、そんな簡単にエイリアンが自動車などに「変形」出来るわけがないとも思えるのですが!

(注2)アムロ達の地球連邦軍とシャアらのジオン公国軍とのモビルスーツによる戦いを連想すればいいのでしょうか。

(注3)さらには、すべてが片付いた後に、サムはカーリーに「どんなことでもするよ」と言うと、彼女は「私を離さないで」と言います。実際にどう喋っているのかは聞き取れなかったので、ここは想像でしかありませんが、もしかしたら、カズオイシグロの作品を原作とする映画『わたしを離さないで』の引用なのではないかとも思ってしまいました。
 ただ、その作品のパロディというには、もう少し検討する必要がありますが。でも、トランスフォーマー→ミュータント→クーロン人間という関係性を辿ることくらいはできるでしょう!
 さらに、原題の「Never Let Me Go」は「Let Me In」を思い起こさせますから、あるいは『モールス』までも行き着くのでは?

(注4)そればかりか、驚いたことに、この映画には、若々しく魅力的な雰囲気を持つ女優は、ロージー・ハンティントン=ホワイトリー以外に登場しないのです(もちろん、国家情報局長官ミアリングを演じるフランシス・マクドーマンドや、サムの母親役ジュリー・ホワイトといった貫禄ある女優も登場しますが、この場合は失礼ながら対象外とさせていただきます)。

(注5)この点で、高野和明著『ジェノサイド』(角川書店、2011.3)は、さすがに周到です。同書には、現生人類より知性がはるかに進化している「ヌース」が登場するところ、「生殖の相手」となる超人類をモウ一人(「エマ」)ちゃんと用意しているのです。
 なお、同書は、『本の雑誌』の2011年上半期ベスト10の1位だけあって、無類の面白さを持っています(とはいえ、超人類の精神構造を、現生人類である作者はどうして推し量れるのかといった問題点をいくつか抱え込んでいるのでは、とも思いますが)。



★★★☆☆



象のロケット;トランスフォーマー ダークサイド・ムーン
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一枚のハガキ

2011年08月24日 | 邦画(11年)
 『一枚のハガキ』をテアトル新宿で見てきました。

(1)上映開始からそんなに日が経っていないときに映画館に行ってみたら、1時間前で立ち見とのことで、別の作品に切り替え他日を期したのですが、2週間経っても相変わらず満席に近い状況なのには驚きました。
 99歳になる新藤兼人監督の最後の作品とされていることもあり、また終戦記念日間際に公開が始まったという事情があるのでしょうが、中高年向きの映画の上映がそんなに多くはないという状況をも反映しているかもしれません。




 物語は、戦争末期、言づてを戦友・定造(六平直政)から頼まれた主人公・啓太(豊川悦司)が、終戦後暫くして、戦死した定造の家にまで尋ねていき、一人で貧しい百姓屋に住む戦友の妻・友子(大竹しのぶ)と会って、ついには一緒に生活するに至る、というものです。

 戦友が主人公に見せる妻からのハガキ(「今日はお祭ですが あなたがいらっしゃらないので 何の風情もありません」)のことや、主人公が100分の6の確率で生還していることなどは、すべて新藤監督の実体験に基づいていると後で分かり、驚きました。



 でも、映画は、実話に基づいている点を強調することはなく、むしろ、予想に反して、随分と簡素化・抽象化された作りであり、様式化された映像になっています。

 例えば、定造やその弟の出征風景です。



 いかにもこの映画のために新たに作られたセットだとわかる農家の前で、二回ともマッタク同じ光景が繰り返されるのです。むろん送られる兵士は、兄と弟というように異なりますが、その他の登場人物や式次第は同一なのです。
 これは、当時、日本の随所で見られた光景を抽象化したものと思われ、『キャタピラー』で見られる随分と侘びしい出征風景(昨年12月19日の記事の(2)を参照)と比べても、また残されている当時の写真(例えば、このサイトのもの)を見てみても、かなり様式化されている感じを受けます。
 大体、誰も見ている人などいるはずのない方向に向かって、皆が横一列に並んでいるのからしてそんな印象を受けますし、式を取り仕切る地区の警防団長〔大杉漣〕が行進する際の腕の振り方も実に滑稽だったりします。

 また、コメディ・タッチなところも随所に見受けられます。
 特に、戦争未亡人の友子に横恋慕している警防団長の仕草が、何かと笑いを誘います。
 例えば、手ぬぐい頬被り姿で、友子の家の雨戸の節穴から中の様子を覗いたり、友子と主人公が食事をしているときに突然入り込んできて主人公と交わす会話も、滑稽味に溢れています。

 それに、過去の新藤監督作品への言及もなされているようです。
 スグニ思い浮かぶのは、『裸の島』(1960年)の水を桶で運ぶシーンです。あるいは、『裸の島』の殿山泰司乙羽信子の夫婦と、この映画の六平直政(豊川悦司)と大竹しのぶの夫婦との類似でしょう。




 とはいえ、どうかなという点もないわけではありません。
a.監督・原作・脚本の新藤兼人氏が伝えたい事柄が、余りにもあからさまに描かれているのではないのか、と思いました。すなわち、劇場用パンフレットに掲載されているインタビューに拠りますが、「戦争反対」とか、「どんなことがあっても人間は立ち上がれる」といったメッセージを、新藤氏は、底辺に蠢いている個別的な人間の生き様を描き出すことを通して、観客に送りつけているものと思われます。
 むろん、そうしたメッセージを伝えるべく、様々な工夫はこらされてはいるものの、作品の幅とか奥行きが狭まってしまったきらいがあるのではないか、と思っています(元々、制作者の言いたいこととかメッセージや主題などを作品に探る作業だって、大学入試までの話ではないでしょうか?)。

b.時に、演劇を見ているような感じになることがあります。特に、大竹しのぶは、豊川悦司と対峙して自分の思いをぶちまけるときなどは、確かに真似の出来ない素晴らしい演技なものの、他方からすると大層誇張した動きであり、それをスクリーンの中で見る場合、いささかやり過ぎではないかと思えてきます。



c.ラストで、友子の家の焼け跡を二人で開拓して麦を植え、それがよく実った風景が描き出されます。ただ、啓太は漁師の業しか手に付けていないはずですから、いくら友子がいるとはいえ、そんな簡単なものなのでしょうか?
 それに、この場面は、啓太が「一粒の麦を撒こう」といったことに対応するのでしょうが、ただそれは何か農作物を育ててみようといったぐらいの意味合いでしょうから〔この点については、下記(2)をご覧下さい〕、実際に麦畑にするまでもないのでは、と思えてしまいます(自給自足的な生活を営んでいる二人の生活にとっては、まず米を作る方が先ではないでしょうか)。

d.つまらないことながら、友子の義理の母親(倍賞美津子)は自殺しますが、その直前に、友子に内緒で貯めた60円(今の20万円くらいでしょうか)の隠し場所を教えます。旦那(柄本明)が心臓麻痺で倒れて亡くなったときは、お金がないというので、すべて役所で面倒をみてもらったために、棺桶も僧侶も用意できませんでしたが、自分の時にはこのお金を使ってくれ、と言ってるようなものではないかな、と思ってしまいます(実際、友子はそのようにします)。

e.主人公の啓太は復員して、自分の家の戻ると、父親が自分の妻と出来てしまって、大阪に出奔してしまい、もぬけの殻。ふぬけになって4年経過後、啓太は叔父に、「市役所へ行って、ブラジルへ行く手続きをしてきた」と言います。仮にそれが1949年とされているとしたら、実際にブラジルへの移民が再開されたのが1953年のことですから、時期的には合わないことになります(第二次世界大戦の勃発に伴って、ブラジルは、1942年に枢軸国と国交断絶をしたために、移民は中断していました)。

 といっても、いずれもツマラナイことばかりです。
 むしろ、新藤監督の前作『石内尋常高等小学校 花は散れども』(2007年)に出演していた俳優が再び集められて、それぞれが気合いの入った演技しているのですから、実に見応えがあります。
 この映画で定造の父親を演じている柄本明は、前作の主役の校長を演じていましたし、豊川悦司は東京から帰ってきた脚本家、大竹しのぶは、豊川悦司を慕いながらも結婚の申し出は拒絶する田舎料亭の女将、六平直政も故郷の村の収入役、というように、前作でも皆主要な役に就いていました(大杉漣は、生徒の一人ながら、顔面に戦火による酷い火傷の跡が残る印象的な役柄を演じています)。

(2)それにしても、啓太が発する「ここを畑にして、一粒の麦をまこう」という台詞は、何か引っかかるものがあります。なにしろ、映画における種まきのシーンでは、啓太は、いうまでもなく一粒どころか、沢山の種を手づかみして撒いているのですから!

 そこで劇場用パンフレットを見ると、おそらく新藤監督の筆によるものと思われますが、「新約聖書ヨハネ伝第十二章 一粒の麦地に落ちて/死なずば多くの実を/結ぶべし」との添え書きを付けて、麦の穂の挿絵が掲載されています。



 また、同パンフレットの「新藤兼人、映画人生75年」と題するページには、「監督作品」のみならず「主な脚本作品」が掲げられていますが、その中の「1958年」のところに、「『一粒の麦』監督:吉村公三郎」との記載があります(注1)。
 となると、啓太のその台詞には、監督の重い思いが込められていると受けとめるべきかもしれません。

 とはいえ、実際の聖書では、「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」(第24節)となっています(注2)。
 これを新藤監督のように、真ん中部分を省略してしまうと(あるいは、後半の「死なば」を「死なずば」と言い換えてしまうと)、撒いた種が枯れなければ実る、というような至極当たり前のことを言っているに過ぎないのでは、と受け取られかねません。

 でも、おそらくそういうことではないでしょう。新藤監督が「一粒の麦」に込めている思いとは、たった一粒でも枯れずに頑張っていると、遂には多くの実が得られる、といったようなことではないでしょうか(注3)?
 そう捉えれば、友子は、戦争によって二人の夫を失い、何もかもをなくしてしまったように見えるにもかかわらず、ここまで一人で頑張ってきたからこそ、こうした豊かな実りに出会えたのだ、だからラストの友子の笑顔なのだ、ということになるのでしょう。

 ただ、聖書に述べられている意味合いは、一粒の麦でも地中に撒かれたら多くの実に結実するが、撒かれないのであれば一粒のままで終わってしまう、さらには、自分(キリスト)は十字架に掛けられて死ぬものの、そのことによってで多くの人々が救われるのだ、といったようなことになると思われます(注4)。
 仮にこうした方向からこの映画を見ることができるとしたら、友子の良人の定造やその弟(更には義理の父母までも)が死んでしまったからこそ、まさにそうした犠牲があるからこそ、ここにこんなに豊かな収穫が得られて自分たちが生きながらえていける、というようなことにも、もしかしたら繋がってくるのかもしれません
 要すれば、元の聖書からすれば、「死」とか「犠牲」が強調されることになるのではないか、と思われるところ、ただその場合には、映画の焦点は、友子ではなく定造やその弟の方に移動してしまう恐れがあるでしょう。

(3)渡まち子氏は、「監督自ら「最後の映画」と語るこの物語では、どれほど深い悲しみや怒りの中からでも、立ち上がることができるのが人間だとも教えてくれる。思いのたけを吐き出し、すべてをリセットした後、啓太と友子は桶で水をくみ作物を育てる。名作「裸の島」を思わせる、水を運ぶシーンの力強さこそ、生を肯定するメッセージなのだ」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「凡百の作品で描かれてきた、生を愛おしむ美しさと死なねばならなかった無念を通じて戦争の愚かさ批判する姿勢を、この映画はじっくりと構えたカメラに収めることで強烈に浮き彫りにする」として60点をつけています。


(注1)実際には、コンクールで入選した脚本(千葉茂樹氏による)を元にして、新藤兼人氏が補筆したとのこと。
 その映画は、福島から集団就職をした金の卵と言われた中学生たちの話で、菅原謙二や若尾文子らが出演しています。見ていませんから推測ですが、集団就職する中学生の一人一人を「一粒の麦」に譬えているのではないでしょうか?

(注2)ここに記載したのは文語訳です。新共同訳では次のようになっています。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

(注3)本文にも書きましたように、劇場用パンフレットに掲載されている新藤監督インタビューの末尾には、「『一枚のハガキ』もどんなことがあっても人間は立ち上がれる、という人間の力強さを描いています」とあります。

(注4)「デジタル大辞泉」では、「一粒の麦」の意味として、「人を幸福にするためにみずからを犠牲にする人。また、その行為」とあります。




★★★☆☆



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ミラル

2011年08月21日 | 洋画(11年)
 『ミラル』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)パレスチナを舞台とする作品ですが、予告編で見て良さそうだなと思い、また、『潜水服は蝶の夢を見る』(2008年:昨年9月12日の記事の中でも、若干触れています)の監督ジュリアン・シュナーベルの作品でもあることから、映画館に行ってきました。

 映画は、病院でヒンドゥという女性の遺体を布で丁寧にくるむ作業の場面から始まり、ラストも、ヒンドゥの盛大な葬儀の場面です。
 それでは映画はヒンドゥに関するものなのかというと、そんなことはなくあくまでもミラルの物語です。では、ヒンドゥとミラルとの関係は?

 1948年のイスラエル建国直前のエルサレムで、街を歩いていたヒンドゥ(ヒアム・アッバス)は、ユダヤ民兵組織によって両親を殺されたりした孤児達の集団に出会います。その子供達55人を、彼女は、空き家になっていた祖父の家に引き取って養育するのですが、その家の名称が「ダール・エッティフル(子供の家)」とされ、ミラル(フリーダ・ピント)も後日そこで育てられることになるのです(同施設は寄宿舎の付いた学園といえ、その後も拡充され、現在は3,000人もの子供達を収容するまでになります)。



 というのも、ミラルには父親ジャマール(イスラム教導師)がいたのですが、母親を亡くしたこともあって、普段からよく出入りをしていて、ヒンドゥの運営方針に共鳴していた「ダール・エッティフル」にミラルを預けることとしたようです(あるいは、後で分かるのですが、ジャマールがミラルの本当の父親ではなかったことにもよるのかもしれません)。



 ミラルは、「ダール・エッティフル」で暮らすうちに、1987年の第1次インティファーダ(民衆蜂起)に遭遇します。そのため学校は閉鎖され、ミラルらは難民キャンプに派遣されて、難民の子供達に対する教育活動に従事していましたが、イスラエル軍による様々の理不尽な行動を目の当たりにします。
 そういうこともあって、ヒンドゥが強く禁じていたにもかかわらず、ミラルは、政治活動に参加するようになって、ハーニという青年を知ります。

 ミラルはまだ若かったこともあるでしょう、性的に惹かれる面はあるにしても、むしろハーニの理想主義的な姿勢に惹かれて、彼の所属する組織に入り込むことになります。
 とはいえ、彼は、組織の中では現実主義の穏健派で、イスラエルとの両立を図ろうとしています。そのこともあって、ミラルは、自爆テロのような超過激な行動には踏み込みませんが、逆にハーニは、イスラエルとの軍事的な対決を望む過激派に殺されてしまいます。
 傷心のミラルを受け入れてくれたのは、やっぱりヒンドゥでした。奨学金でイタリアに行ってさらに勉強をするように忠告します。

 日本ではとても考えられないような厳しく複雑な状況下において、いかにミラルが大人に成長していったのか、それにヒンドゥがどのようにかかわったのかが、随分と説得力を持って描き出されているように思いました。

 ただ、この作品にも問題点はあるのではと思います。
 映画の舞台となるパレスチナを巡る歴史的事実が、当初のイスラエルの建国以降、当時のニュース映像をも交えながらかなり丁寧に(言ってみれば教科書風に)描かれているのです。
 特に、六日戦争といわれる第3次中東戦争のことが当時の映像で出てきます。この戦争で、ミラルの住む東エルサレムもイスラエルの占領下に置かれることになるわけですから、当然とはいえ、やはり舞台の背景に止め置くことができなかったのか、と思ってしまいます。
 というのも、『戦場でワルツを』(1982年のレバノン内戦を巡る作品)など、種々の映画とか本といった形でパレスチナ問題は取り上げられてきているからでもありますが。
 でも、そうした厳しい現実が映画の中で描き出されているからこそ、若いミラルが、父親やヒンドゥの説得を振り切ってパレスチナ人の政治組織に加わろうとするのも、よく理解出来るのでしょう。自分も何かしないではいられないという気持ちが嵩じて、ミラルは、ビラを届ける役目を引き受けるのですが、途中の検問に引っかかってその内の1枚を警察に押収されてしまいます。そのことからミラルは警察に連行され、拷問まで受けてしまいます(後日、証拠不十分で釈放されますが)。

 警察から釈放された後、ミラルは、ハイファにある親戚筋の家で暫く暮らすことになります。そこで彼女は、その家の青年サミールを通じて、ユダヤ人の若い女性リサと知り合いになります。ユダヤ人とパレスチナ人が鋭く対立していることから、当初ミラルは、リサが遊びでサミールと付き合っているに違いないと思っていたものの、次第に真剣に交際しているのだと分かってきて、見方を変えるようになってきます。
 このエピソードは、何かとってつけたようなところがあって、ミラルの心境の変化を描き出すために作られたのでは、という印象を受けないでもありません。
 でも、厳しく敵対する人達の間でも恋愛関係が結ばれるとしたら、そして両者がディスコで踊りまくっている姿を見たら、単純過ぎるでしょうが、人間という存在の将来に少しは希望を持つことが出来るな、と思わせる話でもあるでしょう!

 さらに、パレスチナとイスラエルとの和平交渉が1993年に合意に達する様子が映画では描き出されますが(注1)、ミラルはなぜかその場にいて目撃しているのです。まさか、秘密の交渉が行われたオスロにミラルが行ったわけではないでしょう。とすると、彼女が、友達のツテで通訳と偽って中に入り込んだホテルの会議場は、どこにあるものを指しているのでしょう?
 まして、そこでベテランの女性ジャーナリストと知り合いになって、ジャーナリストの心構えなどを話してもらったのですから、彼女にとっては重要な機会だったのではと思われます(のちにミラルは、イタリアに留学し、そこでジャーナリストとしてデビューすることになるのですから)。

 また、映画は、ヒンドゥとミラルだけでなく、さらにミラルの母親のナディア(注2)や、ナディアが刑務所で知り合うファーティマ(注3)という2人の女性をも描いていることから、どうしても男性の影が薄くなってしまいます。
 それに、映画で主に使われるのが英語という点も気になるところではあります。普通の人々がそんなに英語で話すのか、と言う感じになりもしますが、マアこれは大目に見なくてはならないでしょう(そういうこともあって、この作品も実話に基づくと銘打たれていることには抵抗があるのです。相互理解の大変な障壁と思われるコミュニケーションが、難なくできてしまうのですから!)。

 とはいえ、映画は、厳しい現実の中で生きる女性たちの姿をヴィヴィッドに描き出す一方で、ミラルとハーニ、それにサミールとリサ(さらにいえば、ヒンドゥと、その施設を支援している米国陸軍大佐エディ)という何組もの恋愛を描き出していて、奥行きを備えた見ごたえのある作品になっているものと思います。

 主役のミラルを演じるフリーダ・ピントは、『スラムドッグ$ミリオネア』で、主人公ジャマール(ここでもジャマール!)の恋人ラティカを演じましたが、この作品では、3年ほどの間に随分と大人になって魅力を増した姿で登場し、さらに拷問を受けるシーンまで演じるなど幅も広がってきているようです。

 また、ヒンドゥ役のヒアム・アッバスも『扉をたたく人』で、故国シリアに帰還させられる息子を追いかける母親役を演じていましたが、ここでは信念を持って孤児たちの教育に身を投じている姿を力強く演じています。
 なお、米国陸軍大佐エディの叔母ベルタの役で、『ジュリエットからの手紙』で大活躍のヴァネッサ・レッドグレイヴが、ホンの僅かの間ながら出演しているのを見るのも嬉しいことです。




(2)映画で中心的に描き出されている「ダール・エッティフル」を見ながら、そういえばこれは日本の「エリザベス・サンダースースホーム」と同じような施設ではないか、と思い至りました。
 詳しくは、Wikipediaの記事をご覧になっていただければわかりますが、日本にも沢田美喜(岩崎弥太郎の孫娘)という傑出した女性が存在し、混血孤児を施設に集めて、生活の面倒を見るだけでなく、教育も施しました(2010年現在1400人の出身者)。

(3)映画評論家の土屋好生氏は、「終幕にミラルは恩師ヒンドゥに救われる。暴力の応酬、報復に次ぐ報復という悪循環を断ち切るべく平和を希求する人間として生きる道を模索するのだ。その真摯な態度はジャーナリストの道を選んだミラル(=原作者ルーラ・ジブリール)の生き方そのもの。ジュリアン・シュナーベル監督はそこに明日へのほのかな希望を見いだし、この映画に結実させたに違いない。いささか教科書的で隔靴掻痒の感はぬぐえないけれども」と述べています。
 また、政治学者の藤原帰一氏は、「いい映画だけど、アメリカでは評価されない。アメリカのユダヤ社会はイスラエル以上にアラブ社会への偏見が強いからです。『パラダイス・ナウ』がアカデミー外国語映画賞の候補になったとき騒ぎになったけど、この『ミラル』に対してもセンチメンタルだとか立場が偏っているとか、悪評ばかり。 これ、違うと思います。センチメンタルどころか、針の穴を通すような微妙な地点に身を置いて、パレスチナ紛争を描いた作品」と『週刊AERA』8月8日号で述べています。



(注1)この映画の本当の問題点は、ここにあるのかもしれません。
 というのも、この映画は、あくまでもイスラエルとパレスチナとの武力対決を排除し、両者の平和共存を志向するものであって、だからこそオスロ合意の場面をラストに持ってきているものと思われます。また、ミラルもその恩師のヒンドゥも、また恋人のハーニ、父親のジャマールも皆、穏健派の平和共存路線賛成者なのです。
 ですが、オスロ合意は、すぐに行き詰ってしまい、現実には、2000年の第2次インティファーダ発生によりイスラエルとPLOとの和平交渉決裂して以降、「分離壁」が設置されるなど、事態は悪化の方向をたどっている感じです。
 そういう現時点から見ると、映画で描かれていることは、遠い昔の話のように見えてしまいますが、逆にまた、帰るべき原点の一つになりうるのかもしれないとも思われるところです。

(注2)ナディアは、継父から性的虐待を受けて家を飛び出し、つまらないことで刑務所に入る羽目になるも、出所後ジャマールと結婚。ミラルを生みますが、酒に溺れ、結局入水自殺してしまいます。

(注3)ファーティマは看護師でしたが、捕虜になる運命にあったパレスチナ人の負傷した兵士を密かに逃がしたことがばれて、病院を追われます。その後過激な行動に走り、爆弾を映画館に仕掛けるに至ります。ですが、不発だったため捕えられてしまい、裁判で無期懲役刑を言い渡されます。
 そのため、ファーティマはナディアと知り合いになるわけです。さらに、ファーティマに面会にきた兄のジャマールに、知り合ったナディアの面度を見てくれるように頼んだことがきっかけとなって、ナディアはジャマールと結婚するわけです。




★★★☆☆




象のロケット:ミラル
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モールス

2011年08月20日 | 洋画(11年)
 『モールス』を新宿のシネマスクエアとうきゅうで見てきました。

(1)この映画は、ヴァンパイア物があまり好きではないので圏外に置いておいたのですが、『キックアス』のクロエ・モレッツが主演し、評判もわるくはなさそうなのでドウしようかなと思っていたところ、夏休み中の水曜日にテアトル新宿で『一枚のハガキ』を見ようとしたものの一時間前で立ち見といわれてしまい、それではと「シネマスクエアとうきゅう」に回ってなんとか中に入ることが出来、この『モールス』を見た次第です(この映画館も、水曜日はレディースデイのため、女性客でほぼ満席でした!)。

 映画のオリジナルとされるスウェーデン映画『ぼくのエリ』を見ていませんし、ヴァンパイア物は殆ど知りませんから大きな口は叩けませんがが、評判が良いのは分かる気がします。
 劇場用パンフレットに掲載されている柳下毅一郎氏のエッセイを見ると、オリジナルの「エリ」の方は実は男性(「第2次性徴を迎える前の少年」)のヴァンパイアだったようで、それならこのリメイク版のように、明確に女の子にする方がよいのではと思いました。
 また、そのヴァンパイアを演じるクロエ・モレッツも、『キック・アス』とは随分と違い落ち着いた雰囲気を出して好演していて、作品毎にドンドン成長しているのだなと思わせました。



 ただ、なんだかこの映画の主役はクロエ・モレッツ演じるアビーというよりも、むしろコディ・スミット=マクフィー演じるオーウェンの方ではないか、との印象を持ちました。



 登場している時間もオーウェンの方が長そうな感じですし、何よりその性格がかなり複雑に描かれているのではと思いました。
 例えば、「エリ」の外見は女性ながら実は男性だったというオリジナルの設定が、アビーからは失われて、むしろオーウェンの方に移されているような感じです。
 むろん、彼が「女の子」として苛められるのは、単に弱虫だからでしょうが、何回もそう言われると、雰囲気的にも「女の子」的な感じが漂いだしてきます(ただ、実際には、隣家の夫婦の様子を望遠鏡で盗み見たりしているので、れっきとした男性の設定なのでしょう:注1)。

 また、オーウェンは、彼のことをそっちのけで離婚の話し合いを良人と電話でしている母親の元に置かれているのです(オーウェンが学校から戻ってきても、母親が家にいないことがどうも多そうで、実に孤独です)。

 それに、オーウェンは、アビーと付き合うことによって、目が開かれた感じになります。例えば、彼を絶えず苛める3人組に対して、アビーの忠告に従って長い棒で対抗しようとします。



 さらには、アビーがヴァンパイアであることや、殺人を犯していることを知りながらも、警察に届けようとはしません(自分以外にアビーを保護できる人間はいないのだ、と次第に理解するようになるのでしょう)。

 他方、アビーの方は、オーウェンと付き合っても、その性格や行動はそれほど影響を受けないように見えます。それは、オーウェンよりも遙かに長い年月を生きているのですから、当然でしょうが。
 (なお、クロエ・モレッツがヴァンパイアの本性を現して、木に登ったり、通りかかった女性から血を吸ったりするときの様がコマ落としで描かれますが、スピード感というよりも滑稽感を伴ってしまいます。)

 劇場用パンフレットのIntoruductionによれば、スティーヴン・キングは「この20年でNo.1のスリラー」と述べているそうですが、クマネズミがこうしたヴァンパイア物に「スリラー」的なものをマッタク感じないのは、あるいはキリスト教国(注2)で生まれなかったことによるのでしょうか?
 特に、アビーがヴァンパイアだと分かったオーウェンは、父親に電話で、「絶対的な悪という物は、この世に存在するの?」などといった疑問を投げかけますが、こんな内容のことは日本の子供なら絶対に話さないでしょう。オーウェンがこうなってしまったのは、母親が敬虔なキリスト教徒で、いつも食事の前などに神に向かって祈りを捧げているせいなのかも知れませんが(注3)。

 なお、原作小説のタイトルは『MORSE 』ながら(今回の邦題と同じ)、映画の原題は『Let Me In』となっているのですが(オリジナル映画の原タイトルは『Let the Right One In』)、これは映画の場合、アビーとオーウェンが、モールス信号を使って壁越しにコミュニケーションをとることに、ほとんど重要性を与えられていないのに対して、“Let me in”という言葉は大層重要な意味を持っていることから、原題の方がずっとふさわしいと思われます(注4)。
 というのも、アビーは、オーウェンの家に遊びに来た時に、“Let me in”と言うのですが(注5)、オーウェンが何も言わないのでそのまま家の中に入ると、アビーは体中から血を噴き出してしまいます。そこで急いでオーウェンが、「入っていいよ」と言うと、その症状が治まるのです。
 どうもアビーは、なにやら呪文が唱えられないで結界を跨いで中に入ると死んでしまうようなのです。

 そうしたことから、ラストについては別様もありうるのでは、と思ってしまいました。
 すなわち、仮にそうだとしたら、アビーは、あれだけたくさんの人間を殺しているのですから、そしてこれからも殺さなくては生きていけないのですから、ここはオーウェンに勇気をふるってもらって、アビーが結界を跨ぐ際に呪文を唱えないようにして殺してしまうというラストも考えられるのでは、と思ったところです。

 とはいうものの、この映画は、これまでクマネズミが見た映画にかかわりのある俳優が随分と出演しています。
 いうまでもなく『キック・アス』のクロエ・モレッツが主演で、『扉をたたく人』で主役を演じていたリチャード・ジェンキンスがアビーの父親(実際は保護者)役ですし、



 また、『キラー・インサイド・ミー』に出演していたイライアス・コティーズが一連の殺人事件を追う警察官の役を演じています。



 そして、それぞれが熱演していることもあり、好みではないヴァンパイア物ではありますが、おしまいまで飽きずに面白く見ることができました。それには、無論、『クローバーフィールド』のマット・リーヴスが監督したことも大きく与っていることと思われます。

(2)映画は、ヴァンパイア物ですから、当然に血のが強調されることになります。なにしろ、映画の初めの方では、リチャード・ジェンキンス演じる父親(実際は保護者)が、殺した男を木の枝に吊るして、首から血液を絞りとる光景が描き出されるのですから。
 そうだとすると、夥しい血が流れる映画『冷たい熱帯魚』についての記事で触れたフランシス・コッポラ監督の『ドラキュラ』でもかまいませんが、ここでは、なんだかアマンダ・セイフライドの『赤ずきん』(原題も“Red Riding Hood”)と比べてみたくなります(と言って、こちらの作品自体は見逃してしまったので、予告編などからの推測にすぎませんが〔10月に出されるDVDで、より詳細を確認することにいたします〕。



 というのも、
a.両者とも、前の映画で評判を呼んだ若い女優が主演を務めています。
 『モールス』のクロエは、言うまでもなく『キック・アス』ですし、『赤ずきん』のアマンダは『マンマ・ミーア』(あるいは『ジュリエットからの手紙』でしょうか)。

b.『モールス』は、スウェーデン映画のリメイク作ですし、『赤ずきん』の方はグリム童話に基づく作品で、そのお話自体は何度も映画化されています。
 それに、『モールス』に登場するヴァンパイアは人間の血を吸う話ですし、『赤ずきん』に登場する“人狼”も人を食べるわけで、両者ともかなりよく似た話だと思われます。

c.なによりも、上で述べたように、『モールス』はヴァンパイア物ですから、当然に血の赤で溢れているところ、『赤ずきん』も、主人公ヴァレリーは赤い頭巾をいつも被っているのです(そういえば、アビーもヴァンパイアの姿になっているときは、頭巾をかぶっています!)。

 と、ここまで辿ってきたものの、実を言えば、こんなことを言ってみたくなったのも、蓮實重彦著『赤の誘惑』(新潮社、2007年)の「誘惑」に負けてしまったからなのですが。非才のクマネズミにはここから先にはとても進むことはできませんので、以降は同書に従って、目眩く「赤の氾濫」を味わいつつ(注6)、「フィクション論」へと進んでいただければ、と思います(注7)。

(3)渡まち子氏は、「ハリウッドらしい長所が光るのは、主役の二人に抜群に上手い子役をキャスティングできたことだ。クロエ・グレース・モレッツの射るような、それでいて哀し げな瞳。コディ・スミット=マクフィーのピュアな存在感。この組み合わせが、身の毛もよだつ恐怖を無垢な初恋の成就へと昇華する。孤独な少年は、少女がこ の世ならぬ存在と知ってなお、受け入れることによって、確かに成長する。オリジナルにあった“饒舌な余白”のトーンはないが、少年少女の目線がより強く なったことで切なさとけなげさが前面に出た」として65点をつけています。



(注1)望遠鏡で隣家を覗くというのは、ヒッチコックの『裏窓』などでお馴染みですが、クマネズミとしては『ディスタービア』(2007年)が印象的でした。『モールス』では単にオーウェンが隣家の様子を覗いているだけながら、『ディスタービア』では、隣家の男が連続殺人事件の容疑者ではないかとの疑惑を持つようになるのですから。

(注2)冒頭、病院の中にあるテレビ受像機にレーガン大統領の演説風景が映し出されますが(この映画の設定が1983年!)、その中ではフランスの政治学者トックビルの言葉―アメリカの強さは教会を見れば分かる、と言ったような内容―が引用されています。
 不思議なことに、劇場用パンフレットに掲載されている映画評論家・樋口泰人氏のエッセイの冒頭でこのレーガン演説を取り上げているものの、そこではキリスト教には一切触れられていないのです。

(注3)父親が電話を通して話している内容からすると、この点が両親の離婚の原因の一つにもなっているようです。そして、これは、『陰謀の代償』の記事の中で触れた映画『ストーン』に登場するロバート・デ・ニーロの妻にも当てはまる姿でもあります。

(注4)オリジナル映画のタイトル『ぼくの「エリ」 200歳の少女』は、その意味からふさわしくありませんし、上記の柳下毅一郎氏によれば、内容的にもネタバレという点でも間違っていることにもなります。

(注5)ここの部分の字幕では、「中に入ってもいいよ、って言って」となっていたように思います(うろ覚えですが)。とすると、そんなものを映画にタイトルには出来ないでしょうから、『モールス』でも仕方がないのかもしれません!

(注6)蓮實重彦氏の著書では、シャルル・ペローの『赤頭巾』やアンデルセンの『赤い靴』のみならず、例えば、森鴎外の『かのように』が、「薄暗がりの中に「ぼうっと明るくなっては、また微かになって」ゆく小さな「赤」の誘惑によって始まっている」こととか(P.106)、正岡子規の『墨汁一滴』に、地球儀を巡って「日本の国も特別に赤くそめられてあり」と述べられていることなど(P.186)、さまざまの「赤」が溢れかえっています。
 さらに、文学だけでなく、「18世紀の経験論から批判哲学を経由して20世紀の分析哲学にいたるまで、引用された語彙としての「赤」の系譜ともいうべきものが脈々と息づいているという事実」(P.274)とまで述べられているのです!

(注7)とはいえ、「「―ひとは誰でも自分の思想を完全に言葉に再現することはできない」というニーチェのアフォリズムをあまりにも軽視しすぎ」る姿勢は、「「私はフィクションの概念について論文を書いている」という命題をめぐって、それが「真剣」で「文字どおり」のものであるが故にフィクションではないと断言したサールと同じ素朴さを露呈させている」(P.283)などと蓮實氏に言われてしまうと、手も足も出なくなってしまいますが。




★★★☆☆






象のロケット;モールス
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2011年08月17日 | 洋画(11年)
 『卵』を銀座テアトルシネマで見てきました。

(1)いよいよ『蜂蜜』→『ミルク』と見てきたユシフ3部作の最後の作品というわけですが、作品毎にユシフの年齢が上がってきて、『卵』では30代の後半辺りといった年格好でしょうか。

 冒頭、老女が、手提げを持って森の方から畑地を真っ直ぐに手前に向かって歩いてきて、そのまま別の方向にある林の方へ歩き去る場面が映し出されます。
 そして「Yumurta(卵)」というタイトルが現れ、男がベッドに腰を掛けて酒を飲んでいると、電話がかかってきます。どうやら男の田舎からのようで、むこうで何事かがあったようなのです。
 そして、画面は、男の営む古本屋の店先。かけられているレコードからピアノ曲が流れる中、若い女が店にやってきて「料理本はある」などと言いながら、手にしていた酒瓶と交換に本を持って店を出て行きます。

 どうもここまでが導入部ながら、前2作同様、初めのうちは状況が全然分からないままです。
 ですが、暫く時間が経過すると、冒頭で畑の中を歩いていた老女が主人公ユシフの母親で、彼女が亡くなったという知らせの電話が、イスタンブールで古本屋を開業しているユシフの元に、田舎のティレから届いたのだ、という事情が分かってきます。

 それで、ユシフは車でティレに向かうのですが、当初はイスタンブールからトルコ東部のティレに向かうという事情がわからないものですから、なんで夜に出発しながら、暫くすると朝になったり昼過ぎになったりするのだろうと、不思議な感じに囚われます。
 さらに、ユシフの母親が暮らしていた家での葬儀の後、皆が棺とともに墓地に向かいます。埋葬が終わって、独り取り残されたユシフが周囲を見回すと、森の木々が風に大きくそよいでおり、ユシフは木の根元に横になったりもします。

 大体こんな調子で映画は進んでいきます。
 さらに、ユシフが田舎町を歩いていると、昔なじみの友達に出会ったりします(注1)。そんなところでの話からすると、ユシフは、この街から大都市に出て、詩人として成功していることになっているようです(処女詩集『BAL(蜂蜜)』をいつも携行していますし、ティレの友人にも配ったようですし、その詩集で受賞したことを伝える新聞記事が家の冷蔵庫に貼ってあったりします)。
 他方、この街には良い思い出がなさそうで、ユシフは、家を出た後これまで一度も戻ってきていないようです。

 この映画における出来事といえば、二つあげられるでしょう。
 一つは、ある家の庭先で、男が滑車を回しながら綱のような物を編んでいる光景を見つめていたら、ユシフは、『ミルク』でも見られた「てんかん」の発作を起こしてしまうのです。滑車を回していた男が、事態に驚いて水をユシフに与えたりするうちに気がつきます。依然として持病は治っていないように思われます。

 もう一つは、ユシフの母親の面倒を見ていたアイラという若い女性との出会いです。親戚筋の娘ということで、ユシフが母の葬儀で戻ってくると、食事のことなどイロイロ世話を焼いてくれます(注2)。



 初めのうち彼女は、酷く遠慮していましたが、次第に打ち解けてくると、町の電気屋の彼氏がいるものの(注3)、自分としては大都市に出て大学に入りたいとのこと。それに、ユシフの母親から、ユシフのいい話を随分と耳にしているようで、彼に悪い気を持っていないような感じです(例えば、母親は、ユシフと一緒に3人で、思い出のある湖や山に行ってみたいと話していた、とアイラは言いますし、ユシフ用にと母親が編んでいた編み物を、アイラが引き続き編んでいたりします)。

 さらにアイラから、母親の願いを聞かされ、是非母親の言うとおりにすべきだと言われます。しかし、ユシフは、そんなことはしたくありません。というのも、羊の生贄を神に捧げてくれという願いでしたから。
 それでも、ユシフは故郷を去る直前になって、母の願いを受け入れ、アイラと一緒に羊の生贄の儀式をすることになります。
 ただ、羊を手に入れるために、思いがけずホテルに泊まらざるを得なくなり、たまたまそこで執り行われていた結婚式を一緒に見たりするうちに、ユシフとアイラは次第にお互いを意識するようになっていきます。
 それでも、儀式が終わると、見送るアイラをティレに残して、ユシフはイスタンブールに戻ろうとするものの、急に降り立ったティレ近くの草原で、実に不思議な経験(大型の牧羊犬に襲われて、一晩そこを動けませんでした)をすると、元の母親の家にUターンします。
 すると、そこにアイラが、手に鶏の卵を持って現れ、一緒に朝食を取り始めます。
 おそらくは、二人の間に愛が育まれることになるのではないでしょうか(でも、遠くで雷が鳴っていたりして、先行きのことは分かりませんが)。

 ユシフ3部作の制作順序は、劇場用パンフレットにあるDirector’s Commentによれば、『卵』→『蜂蜜』→『ミルク』 で、決して『卵』が最後につくられたわけではないにせよ、3部作全体として、幼いユシフが遂に愛する人を見出す物語と考えれば、『卵』はまさに完結編となり、それに相応しい出来栄えではないか、と思いました。
 『卵』でユシフを演ずる俳優も、『ミルク』で描かれた寡黙で本と詩を愛する青年がそのまま壮年になった雰囲気を誠に上手く醸しだしていて、また相手役のアイラを演ずる俳優も瑞々しく美しく、『卵』単独でも実に優れた作品になっていると思いました。

(2)3部作全体の流れを見てみましょう。
a.タイトルのこと
 『蜂蜜』→『ミルク』→『卵』というように、従来からすると意想外のタイトルといった感じを受けますが(原題も同じです)、「蜂蜜」はユシフと父親との関係、「ミルク」は母親との関係、そして「卵」は恋人(アイラ)との関係を象徴していると言えるのではないでしょうか。

b.主題的なこと
 そうであれば、主に描かれているのはいうまでもなくユシフの成長の軌跡であり、ただ、『蜂蜜』では、父親と濃密な関係を持っていながらも父親が失踪してしまい、『ミルク』では、母親とべったりの生活をしていながらも母親が男に走ってしまいます。最後の『卵』では、ユシフは、愛する人を見出すようですが、果たしてその先どうなるのか、と思わずにはいられません。

c.疾患のこと  
 というのも、一つには、ユシフは、幼い時分には吃音症があり、青年期にはてんかんの発作を起こしていて、それがどうも壮年期でも治ってはいないようだからでもありますが。

d.詩のこと
 また、ユシフは、青年期になると詩に打ち込み、雑誌にも詩が掲載され、その処女詩集は評判を呼んだようですが、壮年期になるとスランプに陥っていて、ほとんど詩を書いてはいないようです。古本屋というだけで、これからうまく生活していけるのでしょうか?

e.映画の冒頭のこと 
 『蜂蜜』の冒頭では、木を登っていた父親が落下するというシーンが置かれていましたが、『ミルク』の冒頭でも、女性を木の枝に逆さに吊るし、下で薪を焚いて悪霊を燻り出す儀式めいたシーンが描かれています。
 他方、『卵』の冒頭は、そういった特異な場面ではないものの、上で述べたように、老女が一人畑を歩くシーンが設けられています。
 それぞれ、これは一体何を意味するのだろうと見ている方を訝しい思いにさせますが、映画を見ているうちに大体こんなことなのかなと納得いくようにはなるので、一つの編集テクニックと考えればいいのでしょう。

f.森の樹木のそよぎ
 アジアの映画の一つの特色とも言えるのではないかと、クマネズミが密かに思っている木々のそよぎですが、森を舞台とする『蜂蜜』はもちろんのこと、小都市の周辺部の生活を描いている『ミルク』でも、何度か木々がそよぐシーンが見られます。
 『卵』になるとさすがに減ってしまうものの、それでも上で述べたように、母親を埋葬した墓地の周囲の木々がそよぐシーンが描き出されています。

g.ファンタジックなこと
 この点については、『ミルク』に関する記事の(2)のdでも触れましたが、『卵』でも、ないわけでもなさそうです。

 一つは、上記したように、何故か分からないままに、ユシフは、牧羊犬に襲われてその場から動けなくなってしまうのです。そして、牧羊犬と顔を見合わせた後、ユシフは突然泣き出してしまいます。
 あるいは、亡くなった母親が、ユシフをティレから立ち去らせないようにしたのかもしれません。20年近く母親から離れていて、最後も看取らなかったことに思い至り、ユシフは涙にくれたのでしょうか。
 ですが、その結果として、ユシフはアイラとすぐに再会できたのですから、あるいはアイラのことを母親は言いたかったのかもしれません(または、女性のこととなると、土壇場で逃げ出してきたこれまでの自分の不甲斐なさを思って、泣き出したのかもしれません)。

 もう一つは、ティレの女友達(注4)が、送ってもらった詩集の中で「井戸」の詩が良かったと言うのと前後して、ユシフが井戸に落ちて出るに出られずに、井戸の上に上着をかざすことで助けを呼ぶシーンが映し出されますが、これが詩の内容に対応しているとも思われるところです。

h.伝統的なこと
 『蜂蜜』では、アララット山で行われる祭りの光景が映し出されますし(ユシフと母親が、父親に関する情報が得られるのではないかと出かけます)、『ミルク』では、煙責めで体内から悪霊を追い払おうとする冒頭のシーンでしょうか、そして『卵』では、羊の生贄を捧げる場面でしょう(専用の祭場が設けられており、また10名くらいの女性が羊の肉を裁断したりしています)。

i.現代的なこと
 当然のことながら、3部作が進行する中で、設定される時点は次第に現在に近づいています。それで、例えば、『蜂蜜』では運搬手段としてロバが登場するものの、『ミルク』になるとサイドカーを着けたオートバイにユシフは乗っていますし、『卵』でもユシフは自家用車を使ってイスタンブールから故郷のティレまで戻ったりします。
 また、『ミルク』では、電話でミルクの配達注文を聞いたりしていたものが、『卵』になると、ユシフは、携帯電話を使ってイスタンブールに連絡したりしています。

 このユシフ3部作は、個々の作品を単独で取り出しても、それぞれ実に優れていますが、3部作全体としてみても、一人の男の精神的な成長の軌跡が、周囲の人達の関係(特に肉親との)やトルコの東部という独特の雰囲気の中で落ち着いて濃密に描き出されていて、大変感動的です。

(3)福本次郎氏は、「主人公の苦悩、死者の願い、周囲の人々の思い、それは懐かしさなのか後悔なのか。相変わらず映画はその答えを導くことに興味はなく、さまざまなメタファーで観客のイマジネーションによりかかる」、「さまざまな苦楽を体験した後にやっと至る心境。感情を抑制した寡黙な映像はユシフの歩んだ半生を反映しているようだった」として50点をつけています。



(注1)その内の一人で居酒屋を営む男は、「ティレに居残り組は2人しかいないよ」などと述べますが、雰囲気的には、この作品とは何の繋がりもないものの、『ソリタリー・マン』で、落ちぶれたマイケル・ダグラスが出会うクラスメート(ダニー・デヴィート)を思い出させます。

(注2)アイラがクラスメートと出会ったときに、そのクラスメートは既に大学に進学している話しぶりですから、アイラはおそらく20歳くらいの年齢では、と推測されます。

(注3)一緒に電気屋のオートバイで公園に行ったときに、アイラは、電気屋から「自分のことをどう思っているのか」と迫られますが、「いい人だと思っている」とだけ答え、電気屋をいたく失望させます。彼女がそう言うに至った事情として、電気屋はユシフの存在に思い至り、たまたま停電の修繕でユシフの家に入り込んだ時にアイラもその家にいるのを見て、酷く怒った顔つきになるのが見ものです。

(注4)彼女は、昔ユシフがティレにいた自分に付き合っていた女性で、話からすると、アンカラに出たものの、「ホームシック」でこの街に戻ってきて先生に就いているようです。彼女も、「この街はつまらない」と言いますが、既に結婚しているようで、ユシフとの関係も戻るわけではありません。




★★★★☆




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ミルク

2011年08月14日 | 洋画(11年)
 『ミルク』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)ユシフを巡る三部作のうち『蜂蜜』を既に見たところ、残りの2つの作品も限定された期間だけ上映されるというので、まず2番目の作品を見てきました。
 『蜂蜜』がユシフの少年時代を扱っているとしたら、『ミルク(Sut)』は青年時代、そしてもう一つの『卵』が大人の時期を扱っているため、2番目に見る作品としては適当でないかと思えたわけです。

 『蜂蜜』では、ユシフは6歳の少年で、途中で父親が亡くなってしまい、母親と2人で取り残されてしまいますが、映画の中で徴兵の通知がユシフのもとに届けられるので、『ミルク』のユシフはおそらく18歳ではないかと思われます。
 といっても、事前の身体検査で不合格となり兵役は免除されてしまいます。
 検査から家に戻ったあと、オートバイを運転している途中で転倒して地面に投げ出されてしまうのですが、その際に両足が痙攣し口から泡を吹いているのを見れば、てんかん持ちだという理由でユシフは不合格になったものと推測されます。

 また、その身体検査を受けるためにユシフは大きな都市に行きます。そしてその際に立ち寄った書店で、ユシフは女子大学生と出会い、検査の翌日に彼女の詩を見せてもらう約束を取り付けていたものの、検査で自分の疾患が明確になったことから、せっかくの約束を反故にして家に戻ってきてしまうのです。

 さらに、これも推測ですが、ユスフはそういう発作をこれまでも何度か起こしたことがあるのでしょう、高校を卒業したあとは大学には行かずに、母親と2人、余り大きくはない街のはずれにある貧相な一軒家で、生活をしています。生計の方は、母親と一緒に市場で物を売ったり(前の晩に母親が商売用の食べ物を作ります)、近所に牛乳を売り歩いたりして(牛を3頭飼っています)、立てているようです。



 どうもユシフは、他の若者の仲間には加わって遊んだりすることなく、元々口数が少ないこともあり、酷く地味な生活を送っている感じです。
 女性についても、上記の女子大生のように詩に興味があれば別ですが、他の女の子と二人きりになっても余り口をきこうともしません。
 こうしたユシフの唯一つの楽しみが、読書と詩作なのでしょう。
 彼の部屋には、本が随分と置いてあり、またドストエフスキーやランボーなどの肖像が貼ってありますし、机の上にはタイプライターがあります。母親の言によれば、朝起きてくるときは本を片手に持って食卓にやってくるようですし、何かというとタイプを打ってもいるのです。

 自分が書いた詩には自信があるのでしょう、雑誌に投稿したところ掲載されたので、それを持って、鉱山で働く親友のところまで出かけて行きます。その親友もユシフ同様詩作をしていて、雑誌に掲載されたユシフの作品を読んで感心した後、自分の詩も雑誌に投稿するよう依頼したりします。

 そんな暮らしを送っていたところ、母親の異変に次第に気づくようになります。家に戻ると、飲み残しのコーヒーカップが伏せてあったり、真新しい靴が玄関に置いてあったりします。
 先の兵役検査で家を離れていた際も、牛乳配達を変わりにやっておいてと頼んだにもかかわらず、母親はそれをしていないのです(そのために、以後の注文を断られてしまいます)。
 どうも、母親に男ができたようなのです。

 観客には、それが駅長だとわかりますが、そして2人が接近する経緯もわかりますが(注1)、ユシフにとっては、突然母親に裏切られたという思いが募ってしまうのです。
 ユシフは、男が乗る車の後を付けていって、男が湖で水鳥を射撃している背後から近づいて殺そうとまでしますが、思いとどまります。
 ですが、家に戻ると、母親が水鳥の羽を嬉しそうに剥いている姿を見て、心底ショックを受けてしまい、ユシフは親友のいる鉱山に働きに出てしまうのでした。

 全体として台詞は極端に少なく、状況について殆ど説明がないため観客の方で様々に推測する他はなく、目立つエピソードといえば母親の恋くらい、という大層地味な映画ながら、それでもユシフの心の変化がジックリと描き込まれているためでしょう、見ている方はゆったりとした気持ちで映画の中に入り込むことが出来ます。
 確かにスピード感のある映画はそれはそれで興奮しますが、また逆にこうした緩慢な時間を持った作品も得難いのでは、と思いました。

(2)最初に見た『蜂蜜』とすこし比べてみましょう。
a.両方の映画で、ユシフは何らかの疾患を抱えています。
 『蜂蜜』のユシフは吃音症であり、家で父親と話す場合は余り問題ありませんが、母親とか学校の仲間とかと喋る場合は余りうまくいかないため、いつも独りです。他方、『ミルク』のユシフもてんかん持ちであり、読書と詩作を好む随分と寡黙な青年として描かれています。

b.両方の映画で、ユシフと親との関係が問題とされています。
 『蜂蜜』では、ユシフは父親とは非常に密接な関係を持ちますが、母親とは余りうまくいきません。他方、『ミルク』では、父親はおらず、ユシフは母親べったりのところ、母親に男が出来たわかると殺意を抱くまでに嫉妬に駆られます。

c.両方の映画で、ユシフが住む家は周辺的なところに位置しています。
 『蜂蜜』でユシフが住む家は、父親が養蜂家のため森の縁にありますが、他方、『ミルク』でユシフが暮らしている家は、街にあるとはいえ、近代的なマンションが立ち並ぶ中心部ではなく、その一番外側と言えるようなところに設けられています。

d.両方の映画で、ファンタスティックな雰囲気が見られます。
 『蜂蜜』では、ことさらファンタスティックな要素が描かれているわけではありませんが、例えばラストでユシフが入り込む森からは大層ファンタスティックな印象を受けます。
 他方、『ミルク』では、ラスト近くで、随分と大きな黒いがユシフの家の台所で蠢いている様子が描かれています。これは、映画の冒頭で、逆さに吊り下げられた女の口から蛇が這い出てくる場面に通じるものがあるのではないでしょうか(女の下で薪を焚いて、煙で燻り出そうというのでしょう)?あるいは、ユシフが嫌悪する母親の女の部分を、蛇は表しているのではないでしょうか?
 また、湖畔でユシフが母親の相手と見られる男を殺そうとしますが、オオナマズを足元に見つけ、殺すことをやめてしまいます。こんなところにそんなに大きなナマズがと思ってしまいますが、むしろユシフは、そのオオナマズを抱き上げようとまでするのです(注2)。
 あるいは、自然とのコンタクトによって、人を殺すことの無意味さを悟ったのかもしれませんが、ある意味でファンタスティックなシーンとも言えるでしょう。

(3)福本次郎氏は、「映画は、多感な年ごろになった少年が外の世界の出来事に触れていくうちに大人になっていく姿をとらえる。カメラはじっと固定されたまま登場人物をフレームに収めるだけ。その冗長とも思える長まわしのカットは、ゆったりと流れる時間という芳醇に満ちている」、「ハリウッド的な作品の対極をなす映画作りの姿勢に別の意味での豊かさを感じた」として50点をつけています。
(なお、上記の福本氏の論評が掲載されている「映画ジャッジ」には、おなじタイトルとはいえ、なんとショーン・ベン主演の『ミルク』の写真が取り上げられています!)


(注1)この3部作の公式サイトの解説に「駅長」とあるのでここでもそれに従います。ただ、母親がこの男に好意を抱いたエピソードの一つに、郵便物を配達してユシフの家にやってきたところ、母親の目の前で転倒してしまった有様が実に滑稽だったことがあります。そういうシーンから、クマネズミは、彼は郵便局長ではないかと思ったのですが(また、ユシフが暮らしている小さな街に鉄道が通っているようにも思えないところです)。

(注2)実際にも、ヨーロッパには、体長1.5mクラスのオオナマズが生息しているようです。



★★★★☆



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復讐捜査線

2011年08月13日 | 洋画(11年)
 『復讐捜査線』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)メル・ギブソン(注1)の名前はよく耳にするとはいえ、その出演作をほとんど見たことがないので、ちょうどいい機会だと思って映画館に出かけてきました。

 冒頭、ボストン市警に勤務する刑事のクレイブン(メル・ギブソン)は、久し振りで帰宅した長女エマと一緒に、自宅のドアを開けて外に出ようとしたところ、「クレイブン」との叫び声とともにいきなり銃弾が飛んできて、長女が吹き飛ばされて死んでしまいます(注2)。
 ボストン市警は、てっきりクレイブン刑事を襲撃しようとして、誤ってエマを撃ってしまったに違いないと考え、大々的な捜査態勢を敷きます。
ところが、クレイブン刑事が、娘の持ち物をチェックしたところ、別人が登録している拳銃を見つけてしまいます。その登録者バーナムを探し出すと、彼は、会社の同僚でエマの恋人に違いないものの、何者かの脅しを受けていて何も話そうとはしません。
 クレイブン刑事は、警官殺しの線での捜査は市警に任せ、自分は、エマが襲撃の標的だったとみて独自の捜査に乗り出します。
 とはいえ、単身の捜査ではとても無理と思えるほど、疑惑の相手が大きいことがわかりだします。果たして、クレイブン刑事の復讐は成功するのでしょうか、……。

 娘がいきなり殺されたら、刑事でなくとも父親なら復讐を胸に誓うことでしょうが、それが30年のベテラン刑事なのですから、ドンドン真相に肉薄していきます。クレイブンが復讐を遂げるに至るまでのプロセスは、大層見ごたえのある映像の連続となっていて、見る者を飽きさせません。

 とはいえ、問題点もありそうです。
イ)クレイブンは、何かというと娘のことを思い出すのですが、決まって小さい頃の映像だけなのです。恋人だったバーナムの口ぶりからすると、クレイブンは高圧的な態度をとりがちなため、娘の方で父親を敬遠していたようです。
 おそらく、そうした態度は妻にも見せていたのかもしれません、彼の家庭には妻の姿はありませんから(病死だったら、彼女の写真がもっと飾ってあるのでは、と思われるところです)。
 というように、映画は娘の復讐劇ではあるものの、その家族の過去については、何も明らかにされませんが、ある程度は必要な情報なのではないでしょうか?

ロ)エマが勤務する会社が極秘に開発している核兵器がどんなものなのかも、はっきりとは説明されません(外国から核物質を持ってきて、外国製品として第三国に売り渡そうとしているようです)。ですが、この兵器についてエマは告発しようとしていたのですし、それに関連して、エマが社内に密かに導き入れた環境保護団体のメンバーも数人殺されてもいるのです。どんな兵器なのか、とても気になるところです。

ハ)超極秘の核兵器を民間で製造している会社のトップであるベネット社長(ダニー・ヒューストン)については、腹黒さは十分に描かれているものの、自宅の防備ということについて、随分とおざなりのように思えます。
 なにより、ラスト近くになって社長の邸宅にやってきたクレイブンは、エマと同じように放射性物質によって体を蝕まれつつあってフラフラになっているにもかかわらず、いとも簡単に用心棒を倒し、ベネット社長をも倒してしまうのですから。




ニ)エマの関与する問題が核兵器ということで、問題が国家レベルにまで大きく広がってしまい、復讐するといっても、クレイブン単独では手に余ってしまいます。
 そこで映画では、ジェドバーグレイ・ウィンストン)というフィクサーめいた人物が登場します。ただ彼は、ベネット社長の背後にうごめく真の悪人達と通じている一方で、クレイブンともウマが合うようなのです。



 といっても、この人物の存在が大きくなって魅力的になれば(哲学や文学を好む人物に設定されています)、主役のメル・ギブソンを食いかねないわけですが、かといって小さな存在(単なる殺し屋)にしてしまうと、ラスト近くでなし遂げた仕事に見合わない感じがしてしまいます。
 フィクサーと言ってもジェドバーグ一人なのですから、単にもう一人クレイブンが現れるというだけのことで、映画では、国家的な陰謀にどう対決するのかという問題が今一うまく解決していないように思えたところです。


 でも、ラストで、クレイブンが、病院に見舞いにきたエマとともに楽しそうに病院を出て行くところを見ると、映画の中で余りくだくだしく解説されずとも、これでいいのだと思ってしまいます。




 メル・ギブソンは55歳ですから、このところ警官物として取り上げている映画に登場する俳優たち、『クロッシング』のリチャード・ギア(61歳)、『陰謀の代償』のアル・パチーノ(71歳)、『ボーダー』(『陰謀の代償』の記事の中で取り上げました)のロバート・デ・ニーロ(67歳)らと比べたらまだ若いのですが、それでも髪の毛が薄くなって引退まで5年ほどといった感じが全体から滲み出ていて、なかなかの演技力だなと思いました。

(2)この映画では、エマの死に関与する人間は、殆ど皆銃で撃ち殺されてしまいます。映画を見ている方も、それからエマの関係者なら、誰もがそれでスッキリすることでしょう。
 とはいえ、それではたして復讐したことになるのか、という疑問も湧いてきてしまうのも否めないところです。

 そこでで、同じ系列に連なるかなと思って、最近レンタル可能となったDVDで『完全なる報復』を見てみました。



 『完全なる報復』も、『復讐捜査線』と同様、冒頭、3人で幸せに暮らしていたクライドジェラルド・バトラー:注3)の家族が2人の暴漢に襲われ、妻と子供がクライドの目の前で殺されてしまいます。
 捕まった暴漢の内、一人は死刑判決を受けますが、モウ一人は証拠が不十分ということで、地方検事ニックの判断で司法取引が行われ、短い刑期で済んでしまうのです。
 2人の暴漢はもとより、こうした司法制度のあり方にもクラウドは強い怒りを覚え、10年後にその復讐を次々と行っていきます。その挙げ句に、……。

 こうしてみると、両者はよく似たシチュエーションと言えそうです。
a.発端は、愛する子供(『完全なる報復』の場合は妻も)を理不尽に殺されたこと。

b.復讐に駆られる男は、専門分野で傑出した腕を持っていること。一方は30年のベテラン刑事ですし、モウ一方は、遠隔暗殺の分野でスゴイ能力を発揮するエンジニアとされています。

c.復讐の相手は、直接手を下した犯人だけでなく、その裏で犯人達を支えることになる人達にも向けられること。
 『復讐捜査線』では、ベネット社長がエマの殺害に使った殺し屋のみならず、クレイブンの銃はベネット社長にも向けられました(さらには、ジェドバーグによって、政界・官界で蠢く黒幕も倒されます)。
 他方、『完全なる報復』では、妻子の殺害に直接手を下した2人の犯人は言うに及ばず、司法取引などという姑息な手法に係わった人達(裁判官、地方検事ニックの上司や同僚など)が報復の対象とされます〔『完全なる報復』は、復讐もさることながら、そのために準備した様々な装置などを描き出すことに重点が置かれているのでは、と思ってしまうほどです!〕。

 どちらの作品でも、復讐の相手の範囲は拡大気味で、ほとんど皆殺されてしまうのですが、本当にそれで復讐の目的は達成されたことになるのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「放射能による被爆という事実が発覚してからは、にわかに現実味を帯びてくる気がするのは原発事故が今も収束しない日本ならではのリアリティで、戦慄が走る。あぁ、それなのに、このB級臭プンプンの邦題は何なんだ!中身は渋いサスペンスで、無念の死をとげた娘を思う父の愛が胸を打つ佳作だということを知ってほしい」として70点をつけています。


(注1)Wikipediaの記事によれば、彼は、『ビューティフル』に関する記事で取り上げた「双極性障害に罹っている」とのこと。

(注2)『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』でも、冒頭、幸せに暮らしている家庭が突然殺し屋に襲われ、夫と子供2人が銃弾の餌食となり、吹き飛ばされます。瀕死の重傷を負いながらも助かったた妹のために、兄・コステロ(ジョニー・アリディ)が、マカオの病院にやってきて、復讐を妹に誓います。

(注3)ジェラルド・バトラーについては、以前『男と女の不都合な真実』を見たことがありますが、そんな凡作とは異なり『完全なる報復』は彼の持ち味が遺憾なく発揮された快作と言えるでしょう。



★★★☆☆





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エッセンシャル・キリング

2011年08月10日 | 洋画(11年)
 『エッセンシャル・キリング』を渋谷のシアター・イメージフォーラムで見てきました(注1)。

(1)シアター・イメージフォーラムでは、『倫敦から来た男』とか『シルビアのいる街で』、『再生の朝に』というような、どちらかといえば一筋縄ではいかないような作品を見てきましたので、いくら「怒涛のノンストップ・アクション」などと公式サイトで謳われていても、単なるアクション物ではないのでは、と思っていましたら、案の定でした。

 ストーリーはそれほど複雑ではありません。アフガニスタンの谷間で、偵察行動をしている米軍兵士に見つかってしまったムハマンドヴィンセント・ギャロ)は、偶々入手したバズーカ砲でその3人の兵士を蹴散らし、走って逃亡しようとしますが、上空のヘリコプターに追われ、結局は応援に駆け付けた大勢の兵士によって捕まってしまいます。
 収容所では、ムハマンドは、他のテロ事件への関与を尋問されますが、終始無言を通したことから酷い拷問を受ける羽目になります。ですが、それにも耐えていると、今度は大型輸送機に乗せられて別の場所に移り、そこからトラックで移動しているときに、乗っていた車が崖から転落します。
 崖を落ちるトラックから遠くに投げ出されたムハマンドは、幸運なことに無傷で、かつ手錠の鎖も切れているのです。捜索する兵隊に見つからないように隠れながら、機会をうかがって、逆に、車を運転していた民間人(のように見える)2人を殺し、車の中に見つけた鍵を使って手錠を外すとともに、奪った車を運転して、現場を立ち去ります。
 ここからは、ヘリコプターと犬を使いながら彼を捜索する米軍(と思われます)と、逃げるムハマンドとの必死の攻防が続きます。
 やっとのことで、追跡を振り切ったものの、生きて家族のもとに帰還するには、まず食料が必要ですし、また現在の位置をも知らなくてはなりません。果たしてうまくムハマンドは逃げ切ることができるでしょうか、……。

 一人の男が何とかして逃げ延びようとする様を描き出すだけの映画にもかかわらず、罠に足を挟まれることとか、食べ物が何もないためアリとか木の革でも齧ってしまうこと、見とがめた樵を仕方なく殺してしまうこと、など随分とリアルな場面が連続していて、83分を飽きさせません。

 とはいえ、まず、この映画でムハマンドは、初めから終わりまで一切口を開きません。むろん台詞なしの映画ではなく、アフガニスタンで逃げ回っているときに、ヘリコプターから発射されたミサイルがごく近くで爆発したために、聴力(一時的に?)を失ってしまったためでもあります。



 そのまま彼は、終始無言を押し通すため、元々なぜアフガニスタンの谷間に隠れていたのか、なぜ追跡から逃げようとしたのか、などその背景は全く明らかにはなりません〔森の中を逃げ回るなかで、綺麗なチャドルを着た女性(妻なのでしょう)を夢に見たりしますが〕。
 ただ、時折、コーランの章句が読み上げられたり、モスクの場面などが回想シーンのような映像で映し出されますから、敬虔なイスラム教徒と思われますが(そうするとタリバンでしょうか)、バズーカ砲を入手するまでは武器を携行していませんでした(注2)。

 さらに、ムハマンドが輸送機で移送された場所がどこなのかも説明されません。なにしろ、彼が捕まったのは、荒涼とした中近東の谷間にもかかわらず、逃亡を図るのは一面の雪景色の森の中なのです。その二つをつなぎ合わせるのは容易なことではありません(注3)。
 〔以前、キューバのグアンタナモ米軍基地内の収容所が大問題となりましたから、あるいはキューバなのかなとも思いましたが、いくらなんでもキューバで雪景色というのはあり得ないでしょう!〕




 また、ラスト近くで、森の中に一軒家を見つけ近づくものの、ムハマンドは負傷しているためにドアのところで気を失ってしまいます。家の中にいた女性(エマニュエル・セニエ)が気がついて、見ず知らずのよそ者にもかかわらず、家の中に入れてあげ、負傷の手当てまでします。
 この女性が、ムハマンドが逃亡中で味わえた唯一の暖かさといえるでしょう。
 偶然でしょうが、この女性は聾唖者なのです。そうした障害を持っていることもあって、自分に必死に助けを求める男を親切に取り扱ったのかもしれません。ですが、旦那が戻ってくるといけないので、負傷のせいで体力がすっかりなくなっているムハマンドを、馬にまたがらせて家を立ち去らせます。



 なお、女性が聾唖者であることから、結果的には、ここでもムハマンドは何もしゃべらずに済んだわけです。

 単に逃げるだけの男が描かれている作品ながら、次々起こる緊迫した出来事に引きつけられ、また主演のヴィンンセント・ギャロの渾身の演技もあって、随分と見応えのある作品になっていると思いました。

(2)映画の冒頭、ムハマンドが3人の兵士をバズーカ砲で吹き飛ばす場面の背景となる谷間は、まるで『127時間』で見たユタ州のキャニヨンのようです(そのシーンは、イスラエルでロケ)。
 とはいえ、実際には、『127時間』の方は、岩に右手が挟まってしまって身動きが取れなくなった若い男・アーロンについてのもので、この映画のように森の中を縦横に逃げまわるムハマンドとは正反対のように思われます。
 ですが、よく考えてみると、ムハマンドの場合、何ら拘束は受けずに広大な大地に足を付けていると言っても、自分が何処にいるのかサッパリ分かっていませんし、もとより自分をサポートしてくれる人間とのコミュニケーションの手段など一切持っておりません。
 そうなると、むしろ、『127時間』のアーロンと状況が酷似している、と言うことも出来るのではないでしょうか?アーロンも、街にいる知人などと連絡を取ることが可能でありさえすれば、あの過酷な状況から簡単に脱出出来たでしょうから。
 要すれば、他の人間とのコミュニケーションが確保されているかどうかが一番の問題であって、それがなければ、いくら身体を自由に動かせるとしても、意味がないように思われるところです(ムハマンドの場合は、アーロンに比べて、動ける範囲がチョットだけ広いというだけのことではないでしょうか)。
 確かに、『127時間』と同じような状況を描いている『リミット』の場合は、携帯電話による外部とのコミュニケーションは確保出来ていますが、通信したい肝心の相手は、主人公のポール・コンロイの置かれている状況をマッタク理解しようとはしませんし、彼をそうした状況に置いた相手はテロリストなのですから、通信手段があるとしても実際には無用の長物になりかかっています。

 とはいえ、ムハマンドの場合、仮に携帯電話を持っていてそれで国元の家族と連絡が取れたとしても、東欧か北欧と思われる雪に埋もれた森林地帯から砂漠のアフガニスタンにまで戻るのは、並大抵のことではないでしょうが!

(3)福本次郎氏は、「孤独と絶望、寒さと飢え。男はこれらの精神的肉体的困難と直面しながらひたすら逃げる。地図もコンパスもなく、自分がどこにいるのかもわからない。それでも生きのびるために歩き、殺し、隠れる」、「戦争の悲劇を皮膚感覚で伝える作品だった」として70点を付けています。
 また、朝日新聞の8月5日の夕刊に、映画評論家の山根貞男氏の論評が掲載され、「実にシンプルな映画だが、波瀾万丈の展開を繰り広げる」、「受動性が人間の生の本能をかきたて強靱にする。ここで描かれるのはその過程にほかならず、映画としての刺激と挑発をもたらす」云々と論じています。



(注1)このサイトに掲載されているインタビュー記事においては、監督・脚本・制作のJerzy Skolimowskiは、「Does the title refer to Gallo’s character’s necessary killing in order to survive or could it mean ‘the essence of killing’?」との質問に対して、「It works both ways, and actually ‘The Essence of Killing’ was the alternative title, and at the last moment I chose Essential Killing. 」と答えています。

(注2)劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事において、Jerzy Skolimowskiは、主役のヴィンセントが「しゃべらないのにも訳がある。言葉を発するとその瞬間に彼がどこの国の人間でどのような文化的背景を持っているかが容易に推測出来てしまう」、「要するに、どんな人間なのか分からないのだ」と述べています。

(注3)上記注2のインタビュー記事において、Jerzy Skolimowskiは、ポーランドにあるCIAの秘密収容施設に言及していますから、ポーランドの森が想定されているのではと思われます(雪の森の中で逃亡するシーンのロケは、ポーランドとノルウェーで行われたとのこと)。




★★★☆☆




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