映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

森のカフェ

2015年12月22日 | 邦画(15年)
 『森のカフェ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

(1)若い哲学研究者が主人公の映画だと聞き面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、タイトルが映し出された後、主人公の哲学研究者・松岡管勇毅)のモノローグ。
 「近所が騒がしいので引っ越した。この新しい家の周囲は緑が多く、時々こだまが窓から流れてくる気配がする。けれど、論文が書けないのは相変わらず。医者に根を詰めるなと言われているものの、寝ているわけにはいかない。とはいえ、こうも書けないのでは、のんびりしているのと同じ。気晴らしに出かけることにした」。

 次いで、「哲学者と妖精、そしてコーヒー」という字幕が映し出されます(注2)。

 松岡は、机の上のパソコンをたたんで、家を出て、付近の公園を散歩します。
 「陽の光が恋しかった。ここ数日、家に閉じこもっていたから」とのモノローグ。
 しばらく歩くと、木々の間に椅子とテーブルが設けられているところに出ます。



 松岡は「この場所が好きだ」と言いながら、椅子に腰を掛け、分厚いノートと万年筆をかばんから取り出してテーブルに並べます。

 ですが、「こうしても書けないことに変わりはない。今日はよしとしよう」とつぶやくと、画面の焦点がぼやけてきます。
 すると突然、若い女性(若井久美子)が現れ、「いらっしゃいませ。森のカフェにようこそ。何になさいますか?」と尋ねるのです。



 松岡は「わけが分かんない。とにかく今は忙しい」と答えるのですが、その女性は「だからといって、無銭飲食していいことにはなりません。いまから注文してください」と言います。
 松岡は「いつからここがカフェに?メニューは?」といぶかしがると、彼女は「本日オープンしたばかりですから、メニューはありません」と答え、松岡が「じゃあキャラメル・マキアートを」と注文すると、彼女は、ポットに入ったコーヒーをカップに注いで、「森のカフェのオリジナルブレンドです」といって差し出します。
 松岡は、「勝手なカフェだな」といいながらもそのコーヒーを飲みますが、次第に眠くなって寝てしまいます。
 しばらくして目を覚ますと、彼女もコーヒーも消えています。松岡は「森の妖精にからかわれたのか」とつぶやきます。
 さあ、彼女は一体何者なのでしょうか、………?

 本作は、若い哲学研究者が論文作成に悩んでいる時に、郊外の森で出会った妖精かと見紛う女子大生が歌う歌を耳にして、論文を無事に仕上げることが出来、また女子大生の方もその歌の歌詞の続きを書けた、といったストーリーです。主人公の専攻する哲学方面の議論がなされたりするとはいえ、むしろ本作は、ヒロインが歌う歌と、東京の西部にある森林の素晴らしい光景とが主役の作品ではないかと思いました。

(2)本作で強く印象に残ったのは、主人公の松岡が散歩をする木々の鬱蒼と茂る公園の光景です(注3)。こんなにもたくさんの樹木がある公園が住まいの直ぐソバにあり、サンダルでも履いて出かけて行き、森の中に置かれている椅子に座って静かに読書でもできたらどんなに心が落ち着くことか、と溜息が出てしまいます。
 そして、そんな森の中なら、若井久美子が扮する妖精が登場するのも十分あり得ることだと思えてしまいます。
 まして、ギター伴奏であんなに綺麗な歌声を聞かせてもらったら(注4)!

 でも、問題点もあるでしょう。
 主人公の松岡は、大学院の博士課程にいて、大学で哲学を教える熊谷教授(永井秀樹)の指導のもとで博士論文の作成にいそしんでいる最中ではないかと推測されます。
 ただ、映像を見ていると、熊谷教授の「哲学」の講義の出席しているのは女子学生ばかりの感じがします(注5)。
 全体の印象からしても、松岡が通っている大学は女子大のように見えるのですが、仮にそうだとしたら、そうした大学の大学院にどうして男性の松岡が所属しているのか、よくわかりませんでした。

 そんなつまらないことはさておき、松岡が博士論文として取り組んでいるテーマは、デカルトが打ち立てた「心身二元論」の克服というような問題のように思われます(注6)。
 ただそれは、これまで大哲学者が総力を上げて取り組んでもなかなか解けなかった難問ですから、松岡が書きあぐねてしまうのも無理はありません。
 そうしたところに、若井久美子が扮する妖精が出現して、「風のにおいと ぼくらがいることの謎は 誰にもとけやしないさ」、「いつのまにか 言葉が なにかを見えなくしている」などと歌い、挙句、「あなたの心は壊れていない。無い物が見えるのじゃなく、他の人が見えていない物が見えるだけ。あなたが誰かを見ているとしたら、誰かがあなたに会いに来ているということ。見えている限りその人はいる」とまで忠告するのです。
 この忠告に触発されて、松岡は論文作成に拍車がかかります。
 ただ、論文の審査会では、清水教授(志賀廣太郎)が、「君は、物と知覚は同一である、見えることは在ることだ、と言いたいわけだ」とまとめ、「じゃあ、幽霊はどうなる、ハムレットは父親の幽霊を見たが、それは在るのか無いのか?」と質問すると、松岡は、「私の説からは、他の物と同じように存在します。ただ、存在の仕方がいささか変わっているだけのことです。コーヒーもペンも、自然科学の真実によって存在するのではなく、生きることの中で存在するのです」と答えます(注7)。

 哲学に素人のクマネズミにはなかなか議論に付いて行くのが難しいところですが、よくわからないのは、例えば、若井久美子の妖精は松岡にとってどのような位置づけにあるのかという点です(注8)。
 あるいは松岡は、自分が森でうたた寝をしていた間に見た夢の中の出来事にすぎないと思っているのかもしれません。ただ、松岡はそのことを友人の橋本一郎)に話しているようですから(注9)、単なる夢・幻とは思っていないフシがあります。
 または、松岡が彼女を妖精だと考えているとしたら、そして自分の説に従って妖精として存在する者だとみなしているとしたら、友人の悟とどう違うのでしょうか?悟の意見は煩いと言って撥ね付けるのに対して(注10)、どうして彼女の意見の方は受け入れようとするのでしょうか?
 そうではなくて、常識的に松岡が、彼女は実在の人間(付近の女子大生)だとわかっていながら(注11)、ふざけて妖精のように取り扱っているだけだとも考えられます。ただ、そうだとしたら、悟とはどこがどう違うからそう考えるのでしょうか?

 ここで問題となりそうな事柄は、清水教授が言うような「幽霊が存在すると信じるか、否か」といった二者択一で片付くものではないのではないか、「在る」(あるいは、「実在する」)といった言葉の意味合いなどについて、もっと多方面から検討した上で判断する必要があるのではないか、という気がします(注12)。

 とはいえ、本作は「哲学的コメディ」とされているのですから(注13)、そんな難しそうな問題は脇にどけておき(少なくとも、クマネズミには手に余ります!)、綺麗な森のなかでの松岡と妖精との戯れを愉しめば良いのではないかと思います(注14)。

(3)フリーライターの遠藤政樹氏は、「おしゃれで楽しく、そしてちょっとシニカルでビターな味わいが楽しめる。リズムや長さも心地よく、劇中歌が思いのほかクセになる」と述べています。



(注1)監督・脚本は榎本憲男

(注2)本作は、この他、「もう一つのカフェ」とか「So What?」など幾つかの章に区切られています。

(注3)この景色については、榎本監督が初日舞台挨拶で、「東京のずっと西の方」「シブリっぽいところ」「『耳をすませば』のモデルになっているところ」と述べています。
 ネットで調べてみると、こうした記事から、京王線の「聖蹟桜ヶ丘」駅を起点とする一帯であることが分かります。
 でも、アニメ『耳をすませば』(この拙エントリの「注1」で若干ながら触れています)では、少女があまり森のなかに入っていかないので、ネット掲載の画像でも森のなかの様子がよくわかりません。一度現地を探検してみる必要がありそうです。

(注4)何しろ、若井久美子は音大出身で、東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』(2015年)でコゼット役を演じているのですから。
 なお、彼女が本作で歌う歌「いつのまにかぼくらは」の歌詞は、公式サイトの「music」に掲載されています。

(注5)少なくとも、テストに合格せず補講を受けるのは女子学生だけだと思います。

(注6)病気で入院した熊谷教授に代わって補講をする松岡が選んだテーマが「心身二元論」であり、彼は、「それは、物の世界を力学的に説明し、生き物を死んだ物として扱う世界観だ」などと話し出します。

(注7)松岡が主張しているのは、劇場用パンフレットに掲載されている榎本監督のエッセイ「哲学について私が知っている二三の事柄」に従えば、「知覚の因果説」に対する批判というように思われます。
 あるいは、「実在論」に対する「現象主義」ということになるのかもしれません。
 そしてここまでくると、映画『幻肢』(この拙エントリをご覧ください)で取り扱われたラマチャンドランの説などに話は接近してきます〔なにしろ、その映画では、「幻肢」によって「幽霊」を説明する論文を作成する研究者が登場するのです(ただ、こうした説明方法では、「知覚の因果説」によることになるかもしれませんが)〕!
 更に進めば、この拙エントリで取り上げましたメルロ=ポンティの「知覚の現象学」にもアプローチできるかもしれません!
 といいましても、クマネズミは哲学には全くの素人、これ以上深入りすることは出来ません。

(注8)他にも考えられる問題としては、例えば、森のカフェで松岡と若い女性がツーショットで映し出される場面がありますが、これは誰のどのような視点からのものと考えればいいのでしょうか?通常の映画の場合は、“神”の視点ということでお約束事として扱われますが、本作のような“哲学的”なテーマを取り扱っている場合には、一度検討してみてもいいのかもしれません(むしろ、松岡と悟のツーショットの方を問題とすべきかもしれませんが)。

(注9)友人の悟から、「そんなわけないだろう。そもそも、そんなメルヘンチックなこと言っている場合なのか?」と叱責されてしまいます。

(注10)悟の方は、すでに論文を仕上げているようです(松岡における悟の位置づけから、このことが意味するのは、現在の哲学界の空気を読んだ上で書かれる論文なら既に作成済みだ、ということでしょうか)。

(注11)松岡は、その女性に対して、「幻覚が酷い」と打ち明け、彼女が「お酒?」と尋ねると、彼は「頭がおかしい」と答えます。ただ、こんなことは、彼女を悟と同じ“幻覚”だとみなしているのなら、松岡は言わないでしょう(なお、その女性は、映画の中では、森野洋子という名の女子大生ともされています)!

(注12)さらに言えば、妖精まがいの女性は、松岡に対して、松岡が医者から処方してもらっている薬を飲まないように勧めますが、統合失調症による幻覚は、はたして清水教授の言う「幽霊」と同じように取り扱えるものでしょうか?
 そもそも、統合失調症による幻覚症状が現れた場合、患者は、それが存在するものだとして付き合っていけばそれでかまわないのでしょうか?医者が処方する薬を飲むことによって幻覚症状が収まってしまう患者も多いのではないでしょうか(だからこそ処方されるのではないでしょうか)?そして、薬によって消えてしまう“幻覚”ならば、果たして「実在する」ものだといえるのでしょうか?

〔追記:上野昴志氏は、ここに掲載されている記事の中で、「論文審査の場で、志賀廣太郎の教授が、かつて東大総長についた某映画評論家そっくりの演技を披露する」と述べていますが、そういえばまさのその通りでした!〕

(注13)劇場用パンフレットの「Introduction」の冒頭に記載されています。
 また、公式サイトの「introduction」にも、「まずは楽しく笑って見ていただき」と述べられています。

(注14)なにしろ、松岡と悟との関係の合わせ鏡のように洋子(若井久美子)には友人の由美伊波麻央)がいるのですから!



★★★☆☆☆


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杉原千畝 スギハラチウネ

2015年12月15日 | 邦画(15年)
 『杉原千畝 スギハラチウネ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『イン・ザ・ヒーロー』で好演した唐沢寿明の主演作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、昭和30年(1955年)の東京。外務省の一室。
 外務省の関満滝藤賢一)が、外国人(実はニシェリミハウ・ジェラフスキ)の杉原との面会要請に対し、「センポ・スギハラですか。そのような者は、現在も過去にもおりません」と答えます。さらに、その外国人は、「何かの間違いでは?リトアニアで確かにあの人に会った。世界の何千という人が覚えている。再会する約束をして、この査証をくれました。センポが私たちに命をくれたのです」と粘るものの、関満は「お引き取りください」とにべもありません。

 次いでタイトルが映し出され、副題として「Persona non grata」とあります(注2)。

 そして画面は、昭和9年(1934年)の満州国に。
 走る列車の中で、満州国外交部の杉原千畝唐沢寿明)が食堂車を通って客室の中に逃げ込みます。
 その後をピストルを持った男が追いかけてきて、杉原は捕まりそうになるところ、女(実は白系ロシア人のイリーナアグニェシュカ・グロホフスカ)がその男をビンで殴って杉原を救出します。
 杉原は、「サンキュー、イリーナ」と言って、彼女が途中まで着かかっていたドレスの背中のボタンをとめます。

 さらに、満州国ハルピン(注3)で。
 杉原と関東軍将校の南川塚本高史)が話しています。
 南川が「あなたほどソ連に精通している人はいない。素晴らしい情報ですな。ただ、あなた方外交官はいつも平和主義だが、男子たるもの戦わねばならないのだ」と言います。

 南川が立ち去った後、現れたイリーナが「なぜあんなやつと?」と尋ねると、杉原は「確実な方法をとった。利用するだけだ」「それにしても、なんとかしてモスクワに行きたいものだ」と答えます。それに対して、イリーナは、「ロシアは消えてしまった。戻る事はできない。私はもう必要ない。今夜が最後よ」と言います。

 その夜、鉄道の操車場の近くで潜んで事態の推移を見守る杉原。
 さあ、一体何が起こるのでしょうか、杉原がこれからどんな役割をはたすことになるのでしょうか、………?

 本作は、ユダヤ人救出に助力した外交官として知られる杉原千畝の半生を映画化したものですが、第2次世界大戦の複雑な動きの中で描き出さざるをえないため、どうしてもそちらの説明に時間をとられてしまい、杉原の動きとなると、通り一遍で表面的なものになってしまっているきらいがあります。もっと杉原本人の行動に寄り添った形で描いた方が面白いものが出来上がったのでは、と残念に思いました(注4)。

(2)本作の主人公の杉原千畝がユダヤ人救出劇で成し遂げた功績については、昨年の夏に来日して安倍総理と面会したシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の名誉理事長レオ・メラメド氏が、救出されたユダヤ人の一人だったことからも(注5)、決して過去のものではないことがわかります。

 また、杉原のヴィザ発給について、日本政府が完全にNOと言ったわけではないという指摘がなされていますが(注6)、反論もなされていて(注7)、「どうして政府の許可を待たずに独断でユダヤ難民にヴィザを発行し続けなければならなかったか」(注8)を解き明かそうとする本作の立場も十分にありうるものと思います(注9)。

 とはいえ、問題点もあるように思われます。
 本作は、タイトルこそ「杉原千畝」とされていますが、彼自身については、総じて表面的なところにとどまる描き方がされているような感じを受けます。
 例えば、本作では、本省との電報のやり取りは1回だけ描かれていたように思いますし、ヴィザ発給も淡々と行われたように見えます(注10)。



 とはいえ、ヴィザ発給に関する本省とのやり取りは本作における一つの要といえますから、もう少し味付けがあっても良かったのではないでしょうか(注11)?

 また、上記(1)で触れた昭和9年のエピソードですが、杉原が危ない橋を渡っている様子がヴィヴィドに描き出されていて、映画の出だしとしては悪くないように思います。
 ただ、問題の夜にソ連兵らの行動を見て、杉原が「彼らは機関車を盗んで、それを鉄屑にして再度日本に売る気だ」と言ったり、突然、南川が率いる関東軍が登場してソ連兵らを撃ち殺したりするものの、それがどんな意味を持っているのか、映画からではよく理解できませんでした(注12)。

 さらに、最初の結婚については一切触れられていません(注13)。
 それに、「満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻とその一族に渡したため」、千畝は「無一文にな」り、幸子との再婚後の「赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった」とされています(注14)。
 ですが、映画からそんな様子は微塵も感じ取ることは出来ません。
 むしろ、小雪が演じる妻・幸子は、日本人妻としてかなり類型的で非個性的に描かれているように思いました。



 素人考えながら、本作が、早稲田大学を中退してハルピン学院に入学した辺りから描き始め、より杉原本人に寄り添うようにして映画を制作していったらどうだったでしょう?
 特に、ハルピン学院で学んだ根井・在ウラジオストック総領事代理(二階堂智)の役割は、ユダヤ人救出劇の上で大きなものがあるのですから(注15)、その時代の杉原を描くことに意味があるのではと思えます。
 尤も、様々の関係者が存命中でもあるのでしょうから、本作以上に人間関係に入り込んで描き出すのは難しいのかもしれませんが。

(3)渡まち子氏は、「映画は生真面目な作りだが、決して退屈ではない。それは杉原千畝その人の人生があまりに劇的だからだ。歴史の裏側で活躍した日本人を知るいい機会である」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「エア御用プロパガンダの様相を呈するライバル東映の「海難1890」に比べ、「杉原千畝 スギハラチウネ」は見事な出来映えである。それはチェリン・グラック監督が日本育ちとはいえ外国人で、ある程度客観的な視点でこの史実を描くことができたからだろう」として75点をつけています。
 読売新聞の多可政史氏は、「他のホロコーストを題材にした映画に比べ、ユダヤ人虐殺の残酷なシーンは、その事実が伝わる程度にとどめた印象だ。チェリン・グラック監督は、目を背けたくなる映像の多用に頼らず、極限に生きた人間の物語という筋を通し、戦争を語りきっている」と述べています。



(注1)監督は、『サイドウェイズ』のチェリン・グラック

(注2)「Persona non grata」については、本作の公式サイトの「杉原千畝 資料館」の「「ペルソナ・ノン・グラータ」とは?」をご覧ください。

(注3)英語名はHarbinで、例えばWikipediaも「ハルビン市」となっていますが、本作では「ハルピン」とされているので(例えば、公式サイトの「杉原千畝 資料館」)、ここでも「ハルピン」とします。

(注4)出演者の内、最近では、唐沢寿明は『イン・ザ・ヒーロー』、小雪は『探偵はBARにいる』、大島・駐独大使役の小日向文世は『予告犯』、塚本高史は『恋愛戯曲~私と恋におちてください。~』、濱田岳は『予告犯』、二階堂智は『セイジ-陸の魚-』、幸子の兄・菊池役の板尾創路は『at Home アットホーム』、滝藤賢一は『予告犯』、満州国外交部の大橋役の石橋凌は『ハラがコレなんで』で、それぞれ見ました。

(注5)石井孝明氏のこの記事を参照しました。

(注6)例えば、この記事における元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の発言(「例えもし日本国がNOと言ったのを杉原さんが書いたとして日本政府は当然NOと言いますよね。だから杉原さんはそんなことは分かってるんで、NOと言ってきたら出すわけがないんで、YESと言ったから出したんです」)。

(注7)例えば、この記事では、「……杉原副領事は同指示(訓令)に従わず、行先国の入国許可未了の者、所持金の不十分な者に対しても査証発給を継続したため、本省より同訓令を厳守するよう注意を受けている」とする外務省欧亜局西欧第二課の見解(1994年)を引用しています。

(注8)本作の公式サイトの「イントロダクション」より。

(注9)本件については、当時の外務省からの訓令にある条件(「避難先の国の入国許可を得ていること」と「避難先の国までの旅費を持っていること」)をどの程度厳しく解釈するかに依っているような気がします。それを厳密に解釈すれば、杉原の大量ヴィザ発給は本省訓令違反になるでしょうが、形式的なものと解釈すれば、暗に本省もユダヤ人受け入れやむなしと認めていることにもなるように思えます。
 この場合、形式上の目的地はオランダ領事代理のヤンが与えていますし、旅費についてはユダヤ人組織による支援があったようですから。
 それと、杉原が発給したヴィザは、「滞在拾日限」の通過ヴィザ(「Transit Visa」)に過ぎませんから、形式がまずまず揃っていればかまわなかったのかも、とも思えるところです。
 いずれにせよ、根井・在ウラジオストック総領事代理やJTB社員の大迫濱田岳)らが存在しなければ(モット言えば、日本政府の黙認でしょう)、このユダヤ人救出劇は成功しなかったでしょうが、それでもまずリトアニアで杉原がヴィザの大量発給を行わなければ何事も起こらなかったわけですから、杉原の功績は大きなものがあるように思います。

(注10)この記事によれば、杉原は、少なくとも2回ヴィザの発給に関し外務省本省と電報のやり取りをしており、また、ヴィザの発給も随分の回数に分けて行われているようです。



(注11)なお、この記事には、「日本の通過ビザさえもっていれば、ソ連側もソ連通過ビザを出す、との確認が取れていた」(P.9)とのこと。そこで、日本のヴィザがとれれば、ユダヤ人たちは救われることになるのでしょう(でも、米国に入国したい場合には、米国のヴィザはどうするのでしょう?)。

(注12)本作の公式サイトの「杉原千畝 資料館」の「「北満鉄道譲渡交渉」とは?」には、「千畝が白系ロシア人ネットワークによって北満鉄道内部のあらゆる情報を調べあげたことにより、ソ連側の提示金額が大幅に引き下げられて1935年3月23日、決着に至った」と記載されていますが、映画で描かれているエピソードとこの記述とがどのように具体的に結びつくのか、よくわかりませんでした。

(注13)Wikipediaの杉原千畝に関する記事によれば、「1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚」したとのこと。
 なお、上記「注11」で触れた記事によれば、「クラウディアがユダヤ系ロシア人であった可能性」があるとのことですし(P.6)、「杉原がクリスチャンとなった動機は、クラウディアの影響が決定的であ」ったとも書かれていますから(P.7)、杉原の生涯を描く際には前妻のことは見落とせないように思われます。
 尤も、同記事では、「杉原に伝わった情報が、このロシア人妻を通じてソ連側に漏れているという疑いもかけられたようである」とされており、また彼女は「オーストラリアのシドニー郊外の聖セルギウス養老院にて、93歳で亡くなった」ともされていることから(P.8)、あるいは本作に登場するイリーナにクラウディアのイメージが投影されているのかもしれません(千畝の諜報活動に協力したイリーナも、ユダヤ人科学者とともにアメリカに渡ったとされています)。
 〔この点については、ブログ『佐藤秀の徒然幻視録』の本作に関するエントリにおいて、「イリーナって千畝の最初の妻、クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワをデフォルメしたものだろうか」と指摘されているところです〕

(注14)前記「注13」で触れているWikipediaの記事によります。

(注15)本作では、杉原と根井が一緒に写っている写真が映し出され、また二人はハルピン学院の自治三訣「人の世話にならないよう、人の世話をする用、報いを求めないよう」(元々は後藤新平が提示したもの←この記事)を、別々の機会に口にするのです。



★★★☆☆☆



象のロケット:杉原千畝 スギハラチウネ
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流れ星が消えないうちに

2015年12月08日 | 邦画(15年)
 『流れ星が消えないうちに』を新宿の角川シネマで見ました。

(1)最近見た『グラスホッパー』に主役の恋人役で出演していた波瑠が主演の作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、夜中の誰も見当たらない道を、ナップサックを背負った若い男性が走っているシーン(注2)。
 空には月が出ているものの、次第に雲に覆われていきます。

 次いで、布団の中の奈緒子波瑠)のモノローグ。「どうして私は玄関でないと寝られないのだろう。何度考えても、答えにたどり着いたことはない。ウトウトするとすぐに、この世にはいないかつての恋人の名を口にしてしまう。おやすみ、加地君」。
 そして、家の玄関先で寝ている奈緒子の姿が映し出されます。

 画面には、いろいろの星座の絵が映し出され、それに星空が重なっていきます。

 さらに夜、外濠辺りを中央・総武線が西に向かって走る姿が映し出された後、夜道を奈緒子が歩いていて、やがて門扉を開けて家に入ろうとします。



 すると、物陰から男が現れ、「お帰り」と挨拶します。
 奈緒子が驚いてその男の顔を見て、「お父さん!なんでここにいるの?鍵は?」と言うと、父(小市慢太郎)は「忘れた」と答え、奈緒子が更に「なんで電話をしないの?」と尋ねると、父は「電話したがつながらなかった」と応じます。

 奈緒子は、仕方なく玄関を開けて父を招じ入れますが、玄関の布団を父に見られてしまいます。

 家に入ってから、奈緒子が「出張?」と訊くと、父は「家を出てきたんだ」と言って、奈緒子が温めたレトルトのグラタンを、ビールを飲みながら食べ始めます。

 さあ、九州で母と妹の絵里黒島結菜)と一緒に暮らしているはずの父は何故家を出てきたのでしょう、そして奈緒子はどうして玄関先で寝ているのでしょう、………?

 本作は、最愛の人を事故で亡くしてしまった主人公が、その精神的ショックによって、玄関先に敷かれた布団の中でしか眠れない状態になっているところ、恋人の親友とか父親や妹などとのコミュニーケーションを通じて、次第に立ち直っていく様子がじっくりと描き出されていて、ロケ場所としてクマネズミのよく知る三鷹駅周辺が使われたりしていることもあって(注3)、全体として地味な作品ながらまずまず面白く見ることが出来ました(注4)。

(2)上記の(1)で触れているように、奈緒子は、玄関先に敷かれている布団でないと寝ることが出来ませんが(注5)、その理由はなかなか理解しにくいものの(ご本人がわからないと言っているのですから)、物語の出だしとしては悪くないように思います。
 奈緒子は恋人の加地葉山奨之)を失って大きなショックを受けた身、本来的には部屋に塞ぎこんで誰とも会いたくないはずです。
 でも、それでは映画のストーリーとしては何も展開していきません。
 当然のことながら、玄関先は人が出入りする場所(注6)。否応なしに、奈緒子はその家に出入りする人たちとコンタクトを持つこととなり、いろいろな出来事に巻き込まれることになります。
 よく考えられた導入部ではないかと思いました。

 また、奈緒子の恋人だった加地が、高校の文化祭で教室に小型のプラネタリウムを作成し、その中で奈緒子に対し愛の告白を行い(7注)、流星発生装置によって映し出される流星に願いをかけるという展開も、なかなか斬新ではないかと思いました(注8)。

 ですが、問題点もあるでしょう。
 例えば、加地は、奈緒子を日本に置いて、どうして外国に一人で旅行に行ったりしたのでしょう?
 もしかしたら、加地は外国旅行が趣味なのかもしれません。でも、いくら旅が好きだからといって、恋人を置き去りにして自分だけで外国旅行を楽しむものでしょうか(注9)?
 あるいは、加地はなにか悩みを抱えていて、その解決を図るべく一人旅に出たのかもしれません。でも、それなら、まずもって恋人の奈緒子に打ち明けるはずではないでしょうか?

 それに、主人公・奈緒子の世界が、どう見ても狭すぎるのではないのか、と感じます。
 これは、一つには、武蔵野市と三鷹市の協力を得てロケ場所をこの地域に限定したため、仕方がないのかも知れません。
 とはいえ、この映画で見る限り、奈緒子の世界は、高校時代からの加地と入江甚儀:注10)、それに父と妹の絵里くらいに限られています(注11)。



 どうして、例えば、大学のゼミや部活の仲間とか、バイト先の仲間といった身内的ではない人物が登場しないのでしょう?
 巧を始めとして、映画に登場する人たちは皆、奈緒子のことを心配してその立ち直りをいろいろサポートしてくれます。
 ですが、奈緒子の身近にいる人々は、皆どことなく甘えん坊の雰囲気を漂わせています(注12)。

 結局は、時間が事態を解決するのでしょうが、奈緒子は、家の中では寝場所を玄関先から移動できたとしても、早いところこの狭い世界から抜け出さないならば、社会的には依然として“玄関先”の布団にくるまったままの状態にある、といえるのではないでしょうか(注13)?



(注1)監督・脚本は柴山健次
 原作は、橋本紡著『流れ星が消えないうちに』(新潮文庫)。

(注2)本作の後半にも同じようなシーンが挿入され、走っているのが巧であると分かります。
 走っているのは、玉川上水に沿った道。

(注3)例えば、奈緒子が自転車に乗って信号待ちをしているところに「安全パトロール」の車がやってきて、車の中にいた父が奈緒子に声をかけるシーンがありますが〔運転しているのは斎藤さん(古舘寛治)〕、その場所は、井の頭公園から三鷹駅までの玉川上水沿いの御殿山通りで、すぐそばにむらさき橋があります。
 また、奈緒子が巧と突きを見ながら散歩をする前に、巧に電話する場所は、三鷹駅を南北に結ぶ地下通路のうちの西側の方でしょう。

(注4)出演者の内、最近では、波瑠は『グラスホッパー』、黒島結菜は『at Home アットホーム』、古舘寛治は『トイレのピエタ』で、それぞれ見ました。

(注5)原作も、「半年前から、玄関で寝ている」というのが書き出しです。

(注6)父が奈緒子に、「玄関は人が出て行く場所。また、入ってくる場所でもある」と言ったりします。

(注7)加地は、奈緒子が「牡羊座」であることを知った上で、「牡羊座」について、「見かけは地味だが、ギリシア神話で最も偉い神様のゼウスの化身とされていて、すごい星座」「魅力を秘めている星座」「牡牛座流星群は昼間なので見えないが、その素晴らしさを僕はちゃんと知っている」などと解説します。

(注8)ただ、なぜかプラネタリウムの投影機や流星発生装置が奈緒子の家の押し入れに置いてあり(加地が作ったものですから、加地の家にあるべきでしょう)、それを家の天井に映して皆で見るというラストシーンは、それでも悪くはないとはいえ、やや少女趣味的な感じがします。

(注9)もっと言えば、奈緒子の方から、旅行に同行することをどうして求めなかったのでしょう?
 奈緒子が働いていて時間がとれないというのであれば話は別ですが、奈緒子は大学生という設定なのですから、いくらでも対応できるはずでしょう。

(注10)巧は、加地とは高校時代から親友で、加地が亡くなった後、入れ替わるように奈緒子の恋人となりました。



(注11)巧の方も、その姉・瑞穂(西原亜希)とボクシングジムの先輩・山崎(八木将康)くらいです。

(注12)妹・絵里は、好きな男子生徒と仲違いしたこともあって上京しましたし、加地の親友だった巧は奈緒子に厳しいことも言えず、肝心の父も、長年勤めてきた会社を辞めて新たに事業を立ち上げることで母と対立して家を飛び出してきたというのでは、頼りになりません。

(注13)奈緒子は、高校のクラス会に出席しても、クラスメイトが言っている話を耳にすると(「奈緒子、よく楽しそうにしてられるね」「一緒に死んだ女性は加地君の彼女?」など)、簡単に傷ついてしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:流れ星が消えないうちに

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FOUJITA

2015年12月03日 | 邦画(15年)
 『FOUJITA』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)オダギリジョーの久しぶりの主演映画ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1920年代のパリの裏街の風景で、屋根では猫が鳴いています。
 小屋のようなアトリエの中では、フジタオダギリジョー)がタバコを吸いながら、キャンパスに向かって絵を描いています。描かれているのは、女性の横顔の輪郭線。
 そばには自画像が置かれており、フジタは近寄ってきた猫を抱き上げます

 次いで、パリ市街。屋根から突き出ている煙突がたくさん見え、レストランの外ではギャルソンがタバコを吸っています。
 そこに、調子のよくなさそうなトラックが1台走って来て、止まってしまいます。
 仕方なしに、荷台に積まれている大きな絵(注2)を降ろして、二人で運んでいきます。
 それを見ていた果物屋の店主が妻に、「あれは、画家のフジタの絵。この男の絵は売れている。描かれているのは、モンパルナスの女王と言われているキキだ」などとしゃべります。

 再び、アトリエのフジタ。
 お湯を沸かしています。
 蓄えの切れたものを隣の家に借りに行こうとして、外に出て階段を登って行くのですが、なぜかためらって戻ろうとします。
 そこへ、先ほどのトラックの男がやってきて、「先生、キキの絵を届けてきました。領収書です」と大声で言うものですから、フジタは慌ててそれを制して階段を降ります。

 隣の家の中。
 フジタの2番目の妻・フェルナンドマリー・クレメール)が(注3)、日本人画家の小柳福士誠治)に、「オイシイサケ」と言うと、小柳が「それは名前ではない。美味しい酒という意味」と訂正します。フェルナンドは、さらに「良かったらここで描いて。あたしが絵を売ってあげる」と付け加えます。

 そのフェルナンドがフジタのアトリエにやってきて、「あなたは意地が悪い。あたしを悪者にしたいのでしょう」と言います。
 これに対して、フジタが「君を強制しているわけではない」と反論すると、フェルナンドは、「絵が売れるようになって偉そうにしている。誰のおかげ?フランス女のキッスの仕方を教えたのは誰?」と叫びます。
 さあ、これからフジタはどうなるのでしょうか、………?

 本作は、画家・藤田嗣治を描いた作品ながら伝記映画ではなく(注4)、時系列的な説明はほとんどなされませんから、ある程度その事績を知っている必要があるような作りになっています。毀誉褒貶の激しい藤田ですが、本作のように、1920年代の藤田と1940年代の藤田とを大きく比較して描き出すという手法は興味を惹かれたところであり、また主演のオダギリジョーの熱演もあり、大変面白く映画を見ることが出来ました(注5)。

(2)本作では、映画の中ほどで(注6)、何の説明もなしに、それまでパリで生活していたフジタが、いきなり青森の古びた旅館に滞在している姿が描き出されます。
 それも、戦争中で、陸軍美術協会のトップとして陸軍少将の待遇を受けている身です。
 そして、『アッツ島玉砕』(1943年)とか『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945年)などといった戦争画の大作を制作するのです。



 同時に、フジタは5番目の妻・君代中谷美紀)と鎌倉へ出かけたり、田舎の疎開先(注7)で一緒に暮らしたりします。



 フジタは、パリで名の知れた画家の仲間入りをしましたが(注8)、それがどうしてこのような戦争画を描くに至ったのかが、この作品のテーマの一つとなっているように思われます。
 ただ、本作はフジタの履歴をなぞることを考えていませんから、これらの絵の前に描かれた戦争画は登場しません(注9)。
 1920年代にパリで描かれた絵画と1940年代に日本で描かれた絵画とがいきなり対比されているような感じを受けます。
 そうした視点に立つと、夜汽車の中でフジタが、仲間の画家に、「私はやっぱり情景的なものでは描いた気にならない。近くで人を描かないと駄目だ。戦争でもそう」と言っているのが分かるような気がしてきます。
 なにしろ、本作に登場するパリ時代の画にはどれも女性が描かれていますし、この映画で取り上げられている戦争画でも人がたくさん描かれています(注10)。
 にもかかわらず、両者の画の間に大きな違いが出てきているのは、この映画で対比されているように、西欧と日本の人々の暮らし向きの違い、あるいは置かれている環境の相違といった点が大きいように思えてきます(注11)。

 なにしろ、パリ時代のフジタは、「フーフー(お調子者)と呼ばれてもかまわない、すぐに私のことを覚えてくれるから」と言いながら、人々の間に入っていき、仲間と大騒ぎをしていました。



 他方、日本でのフジタは、まるで水墨画の中の登場人物であるかのように(注12)、大層静謐な暮らしを送る孤独な人間として本作では描かれています。
 あたかも、そうした画家が描くから、あのような戦争画が生まれたのだと言いたげな感じがしてきます。

 そして、映画は、戦争画の最後の大作の『サイパン島同胞臣節を全うす』(注13)から、エンドクレジットのバックに映し出されるノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁に描かれたフレスコ画(1966年)(注14)へと移行します。
 この壁画にもたくさんの人物が描かれており、「近くで人を描かないと駄目だ」と言うフジタの究極の作品なのかもしれません。

 本作は、日本とフランス(あるいは、西欧)との違いについて、これまでいわれてきた様々の見解にさらに付け加えられる一つなのでしょうが、絵画と映像という斬新な観点からのものであり、クマネズミにとっては大層興味深い作品でした。

(3)渡まち子氏は、「おかっぱ頭と猛特訓したというフランス語のセリフで熱演する主演のオダギリジョーの抑えた演技となりきりぶりに、感心した」などとして65点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「映画は前半と後半で一対の絵画を見るような印象が強く、両者を貫くフジタの生きざまを見るものが想像するのをうながしているようで面白い」として★4つをつけています。
 秦早穂子氏は、「一見、やさしげな口調で女たちに接する彼と戦争を描く男。人間を凝視する冷徹さと複雑さは、どこか似通っている。藤田嗣治は、絵画だけを信じた」などと述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「いい画は、いつかは物語を超えて生き延びる。劇中、フジタがそんなことを言う場面がある。彼が肯定する「絵空事」の力が、映画そのものと反響し合っているかのような一本である」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『泥の河』の小栗康平

(注2)フジタが描いた『ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)』(1922年)。

(注3)フジタの最初の妻は日本人で、3番目の妻が本作に登場するユキアナ・ジラルド)。

(注4)小栗監督は、公式サイトに掲載されているインタビュー記事の中で、「資料はざっと読んで、早く事実から離れる。それがシナリオを書く作業の始まりでした」と述べています。

(注5)出演者の内、最近では、オダギリジョーは『深夜食堂』、中谷美紀は『渇き。』、加瀬亮は『海街diary』、岸部一徳は『人類資金』、福士誠治は『スイッチを押すとき』で、それぞれ見ました。

(注6)小栗監督は、上記「注4」で触れたインタビュー記事の中で、「二時間強の映画になりましたが、20年代のパリと戦時の日本とをそれぞれ一時間ずつ、ほとんど真っ二つに断ち切ったように並置して、描いています」と述べています。

(注7)映画では明示されませんが、このブログによれば、神奈川県藤野町(現在は相模原市緑区の一部)が藤田嗣治の疎開先。
 なお、映画の中で、「慈眼寺の鐘が金物供出に出された」と馬方の清六岸部一徳)がフジタに言いますが、同寺は、藤野町のある津久井郡の相模湖町にあります(この記事)。

(注8)フジタがパリ時代に描いた画としては、映画の中では、『五人の裸婦』(1923年)などが映し出されます。



(注9)このブログの記事によれば、藤田嗣治には、『南昌新飛行場焼打』(1938年~1939年)、『哈爾哈河畔之戦闘』(1941年)、『十二月八日の真珠湾』(1942年)といった戦争画もあります。

(注10)本作で取り上げられなかった『南昌新飛行場焼打』で中心となって描かれているのは戦闘機ですし、『哈爾哈河畔之戦闘』では戦車、『十二月八日の真珠湾』ではハワイの飛行場で、人物は中心的に描かれてはおりません。

(注11)象徴的と思えるのは、君代が絶えずきちんとした着物姿で映し出されるのに対して、「フジタ・ナイト」の仮装舞踏会で、花魁に扮したキキが高下駄をうまく履けず腰が砕けてしまい、それをフジタが下から支えようとするところではないでしょうか。
 なお、小栗監督は、上記「注4」で触れたインタビュー記事の中で、「1920年代のパリでの裸婦と戦時中の「戦争協力画」との、絵画手法のあまりの違いに、あらためて驚かされたのです。この両者を分かつものはなにか。文化としての洋の東西、私たちが西洋から受け入れてきた近代の問題など、そっくりそのまま私自身に引き戻される課題でした」と述べています。

(注12)特に、夜間にフジタが、棚田の畦道を歩くシーンが印象的です。
 また、本作では、疎開先でフジタが出会う人物として、馬方の清六とか小学校の先生の寛治郎加瀬亮)が登場します。清六は、寛治郎に2度目の赤紙が来ているかもしれないとフジタに伝え、出征直前の寛治郎はフジタにキツネの話をします。あるいは、キツネは、古くからの日本を象徴しているのかもしれません(ただ、ラストの方で突然飛び跳ねるキツネが映し出されますが、あるいは寛治郎の戦死を暗に意味しているのでしょうか?)。

(注13)軍が画家を集めた会議において、本作のフジタは、サイパン島で日本人女性が崖から飛び降りるところを写した写真や動画を見ます。でも、これらは米軍側が撮影したもののはずです。仮に入手出来たとしても、そんなものを軍部が民間人に見せるとはとても思えないため、とても不思議なシーンになっています(実際のフジタの画の中に、バンザイクリフから投身する者の姿が描かれているので、一概にこのシーンを幻想によるものとも思えないところです)。



(注14)例えば、この記事が参考になるでしょう。



★★★★☆☆



象のロケット:FOUJITA
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恋人たち

2015年12月01日 | 邦画(15年)
恋人たち』をテアトル新宿で見ました。

(1)7年前に見た橋口亮輔監督の『ぐるりのこと』が大層素晴らしかったので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、風呂に入っているアツシ篠原篤)が、独り言を喋っています。
「あいつから婚姻届書くように言われ、時間をかけながら書いた」「タバコを吸うのをあいつが嫌っていたから、タバコを止めると宣言した」「書き終わって、あいつが風呂に入って一人になった途端、結婚するんだと、ベランダに行って一本吸った」「そっこうバレて、こいつ癇癪起こすなと思ったら、あいつ、少しずつ減らしていけばと言った」「結婚したら嬉しいんじゃなかと思った」などなど。



 次いで、早朝、タバコを吸いながら瞳子成嶋瞳子)が、雅子さんを歓迎する人々が写っているビデオをTV画面で見ています。
夫が起き出してきたので、「うるさかった?」と言ってタバコを消します。
 夫がトイレに向かうので、瞳子は「お母さん(木野花)が入っているよ」と注意します。



 さらに、アツシが乗る橋梁点検の船とか(注2)、瞳子が働く弁当屋の模様が映し出された後、弁護士事務所で依頼人と話している四ノ宮池田良)の場面。
 アナウンサーと自称する女(内田慈)が、「成田別居してます。結婚詐欺だ」などとまくし立てるので、四ノ宮は「判例を調べてみます」と応じます。



 これで、本作を構成する3つの話に登場する3人が映し出されましたが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では3つの物語が交互に綴られており、物語相互の関係は希薄ながらも(注3)、どれも類似する雰囲気を漂わせていて、全体で一つの作品を作り上げているように見えるところに感心しました。そして、それぞれの物語で中心となる人物は、オーディションで選ばれた知名度の低い俳優が演じているにもかかわらず、それぞれ「恋人」を失いながらも立ち直っていく様子をなかなかうまく演じていたりもして、全体として『ぐるりのこと』に勝るとも劣らない優れた出来栄えだなと思いました(注4)。

(2)登場する3人は、それぞれ恋人のことで痛手を被ります。
 アツシは、愛妻が3年前に通り魔に殺され、そのショックで仕事に出たり出なかったりしている模様です。
 また、瞳子は、鶏肉卸業の藤田光石研)と不倫の関係を持ちますが、実際の藤田の酷い有様を知って元の生活に戻りますし、同棲していた同姓の恋人と別れた四ノ宮は、親友の山中聡)に接近しようとするも、聡の子供の事で素っ気なく対応されてしまいます。
 でも、それぞれ厳しい事態を迎えるとはいえ、最後までそれを引きずることなくポジティブな姿勢で明日に向き合っていこうとする姿が描かれており、見終わると「いい映画を見たな」という感じにさせてくれます。

 印象的な場面としては、例えば、アツシが国民健康保険のことで区役所の窓口に行った際のシーン。
 滞納している保険料を支払って保険証をもらおうとするのですが、窓口の健康保険課職員・溝口山中崇)の対応が酷く冷淡なのです。
 事情があって1万円しか支払えないとアツシが言っても、溝口は残りの滞納分の支払いを確約しろと言い張り、挙句、1週間しか有効期間のない保険証を交付する始末です(注5)。
 これにはアツシも、切れる寸前にまでなって、窓口からなかなか立ち去ることが出来ません。
 本作がアクション物ならば、アツシが、隠し持っていたマシンガンを振りかざして健康保険課の職員を全員射殺してしまうところかもしれません。無論、そんな事態にはならずに、アツシはぐっと我慢して引き上げるのですが。

 また、瞳子が、藤田に連れて行ってもらった養鶏場の裏手の高台に登って、綺麗な夕日を見ながら野外放尿します。
 このシーンは、自分にもこれから新しい人生が開かれるとの期待が膨らんで開放感に浸されたことを表しているものと思われますが、瞳子の期待が藤田の実像を見ることで見るも無残に崩れてしまうシーン(注6)と対比されて、強く印象に残ります。

 さらには、四ノ宮が、聡の影の頭の部分を松葉杖(注7)の先でなぞる場面も、その聡に対する想いをとてもうまく表している感じがしました。

 これらの以外にも印象的な場面は数多くあります。
 総じて言えるのは、どの場面も、よく見かけるもの(あるいは見かけうると思わせるもの)となっていて、見る者に大層リアリティを感じさせるという点でしょう。
 それでいて、本作では物語が描かれていて、ラストのアツシの姿は、明日があることを見る者に充分納得させます。

(3)渡まち子氏は、「好みとしては断然「ぐるりのこと」が好きだが、「ぐるりのこと」が完璧に計算された作品だとしたら、本作は原石のような面白さがある」として60点をつけています。
 中条省平氏は、「とくに凄いのは、素人とプロの中間というべき3人の主役で、その演技の不思議な迫力に圧倒される。素人に潜在する演技力をここまで引きだした点で、監督の演出力にも驚かされる。そして、個々の愛の物語をこえて、ここには現代日本の絶望感が息苦しいまでにみなぎるが、ラストの船からの眺めの連続に、解放感と希望がかいま見える」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 森直人氏は、「圧巻だ。市井の人々の疎外された思いや鬱屈(うっくつ)を描きながら、日本社会の全体像を見据えるスケールとボリュームがある。同時に、生き難き者たちの心の奥底まで一緒に降りていく覚悟がある」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「何があっても生きていくほかない。市井の人の哀感とかすかな希望をこれほど見事にすくいとった映画が、今、生まれたことがうれしい」と述べています。



(注1)原作・脚本・監督は、『ぐるりのこと』の橋口亮輔

(注2)アツシは、小さなハンマーで叩くことによってコンクリートのヒビ割れ状況がわかるという能力を持っています。会社の上司は、「この人は天才だから」と言っています。
 それにしても、橋口監督は、『ぐるりのこと』の法廷画家(リリー・フランキーが扮します)といい、余り知られていない職業を探し出してくるものです。

(注3)アツシが、殺された妻のことで弁護士の四ノ宮と相談するシーンが設けられているとか、アツシの上司(黒田大輔)がアツシの住まいにやってくるときに持参する弁当が、瞳子のアルバイト先の弁当屋の物のように思える、といった希薄な関係は描かれています。

(注4)出演者の内、光石研は『天空の蜂』、藤田の愛人役の安藤玉恵は『ピース オブ ケイク』、木野花は『娚の一生』、アツシの同郷の先輩役のリリー・フランキーは『バクマン。』、山中崇は『ふがいない僕は空を見た』で、それぞれ見ました。

(注5)保険料の計算は元々複雑で、なおかつ地方自治体によっていろいろ異なっているので、素人にはよくわかりませんが、アツシが言うように「前年の所得が100万円くらい」であれば、保険料の減額措置が受けられ、そんなにたくさん収めなくても済むのではないかと思われるところです。少なくとも窓口の職員は、そういうことを優しくきちんと説明した上で、滞納者の保険料の支払いを促すべきではないでしょうか?何にせよアツシは自主的に支払おうとしているのですから、溝口のような高圧的な対応は言語道断です(それに、短期の国民健康保険証はあるにしても、1週間のものなど存在するのでしょうか?)。

 話は異なりますが、年収100万円くらいでアツシはあのアパートの生活を維持できているのか、やや不思議な気がします。バス・トイレ付きで、普段は使わないもう一部屋(妻の遺骨や位牌などが置かれていて、アツシは部屋に入っていくことが出来ません)がありますから、家賃はある程度かかるのではないでしょうか?それを6万円だとしても年間72万円かかりますし、食費が月2万円ならばそれで24万円。結局、残るのは4万円しかなく、それで光熱費・雑費を支払えるのでしょうか(電気・ガス・水道で月1万円は必要なのでは)?

(注6)瞳子は、呆けたようになって、自分が働いていた時に上司に言われた話をし、更に「その話は、後で聞いたら口説き文句だったとのこと。そしてそれが今のダンナ」と言います。

(注7)四ノ宮は、階段を仲間と一緒に歩いている時に、後ろから誰かに押されて転げ落ち、脚を骨折してしまいます。突き落とされる前に、依頼人の自称アナウンサーのことを酷くバカにして仲間と喋っていましたから、あるいはその女かもしれませんが、映画では犯人はわかりません(冗談ですが、『グラスホッパー』に登場する「押し屋」を思い出してしまいました)。



★★★★★☆



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グラスホッパー

2015年11月28日 | 邦画(15年)
 『グラスホッパー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)伊坂幸太郎氏の原作を映画化した作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ハロウィンで大混雑する渋谷ハチ公前のスクランブル交差点。
 百合子(注2:波瑠)が信号待ちをしています。



 そばにカボチャのお化けに扮した子どもがやってきたので、飴をあげます。

 その時、交差点の近くで駐車していた車の中の男が、携帯で「お前は救世主だ」との指令を受けると(注3)、汗をダラダラかきながら薬を飲み込んで車を発進させ、信号が「青」でスクランブル交差点にいた群衆の中に突進。
 百合子はその車に跳ね飛ばされ地面に倒れます。
 カボチャのお化けに扮した子どもが現れ、落ちていた指輪(注4)を拾います。
 交差点の上空ではバッタの群れが乱舞しています。

 次いで、遺体安置所で百合子の遺体のそばに佇む鈴木生田斗真)。
 鈴木が、遺品の中にあった指輪ケースを開けると、中は空。
 鈴木が、事故のあったスクランブル交差点に行き、百合子が倒れていた地面の辺を見下ろしていると、「本当の犯人は別にいる。フロイラインの寺原親子を調べろ」と書いた紙が落ちてきます。

 「1日目」の表示があり、積乱雲が映し出され、ベランダの鉢植えにはバッタが。
 鈴木は部屋で、一人で食事をしています。
 次いで、鈴木が渋谷で、痩せる薬のキャッチセールスをしている場面。
 そこにメッシュの女(佐津川愛美)が現れ、「こんなやり方じゃあ誰もゲットできない。教え子の顔忘れているんだもの。中学の理科、こいつに習った」と、あっけにとられる鈴木に向かって言い放ちます。
 鈴木のそばにいたフロイラインの幹部の比与子菜々緒)が、「知らなかった。道理で使えない新人だなと思った」と言います(注5)。



 比与子は、薬について詳しく説明すると言ってメッシュの女をフロイラインの事務室に連れて行きますが、飲み物に睡眠薬を入れて眠らせます。
 さあ、これから物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、3人の全く異なるタイプの殺し屋が登場してなかなか興味深いとはいえ、彼らと主人公の元教師との繋がりが至極希薄で、なんだかバラバラな物語を見せられた感じがしてしまいます。それに、タイトルになぜグラスホッパーが用いられるのかについても、いまいちチピンときませんでした。クマネズミは、『ゴールデンスランバー』とか『ポテチ』のように面白いのかなと思っていたところ、やや期待はずれの作品でした(注6)。

(2)確かに、自殺屋と呼ばれる殺し屋の浅野忠信)とか、押し屋と呼ばれる殺し屋・槿吉岡秀隆)は、見る者の意表をつく存在と言えるでしょう(注7)。
 また、ナイフを使う殺し屋の山田涼介)も、動きが素晴らしいですし、シジミの泡をしみじみと見つめる場面はユニークです(注8)。

 とはいえ、本作の主人公の鈴木が、肝心の鯨と蝉に絡む場面が映画では全く映し出されないために(注9)、見ている方は、何故この3人がことさら映画で描かれるのかよくわからなくなります。
 鈴木と鯨、蝉をつなげる者として、裏社会のドンの寺原会長(石橋蓮司)が考えられないこともありません。でも、そのためには、もっと彼を大きな存在として描く必要があるのではないでしょうか(注10)?何しろ、稀代の殺し屋が何人も付け狙う標的なのですから。



 さらに、この寺原会長を潰そうとするグループ(注11)が、会長と同じくらい簡単にしか描かれないのも、不可解な感じがするところです(注12)。

 それにそもそも、「グラスホッパー」というタイトルの意味がよく理解できません。
 思わせぶりにバッタの大写しや大群の様が何度も描き出され、また「群生相」(注13)といった言葉で凶暴化したバッタのことを説明したりしますが、ストーリーとどのように関係するのか、よくわかりませんでした(注14)。

(3)渡まち子氏は、「実は私は、映画化された伊坂幸太郎作品とは相性が良くないのだが、本作には不思議と惹かれてしまった」として65点をつけています。



(注1)監督は、『脳男』や『スープ・オペラ』の瀧本智行
 脚本は、『ツレがうつになりまして。』や『日輪の遺産』の青島武
 原作は、伊坂幸太郎著『グラスホッパー』(角川文庫)。

(注2)百合子は、中学校の給食栄養士で、同じ中学校で理科の教師である主人公・鈴木の恋人。

(注3)指令を出した男が、裏社会のドンである寺原会長のドラ息子(金児憲史)。寺原会長の力によって、この事件はもみ消されてしまいます〔原作では、息子自身が車を運転して鈴木の妻を轢いています(文庫版P.18)〕。

(注4)その指輪は、鈴木が、その日の昼間に百合子にプロポーズした際、彼女の指にはめたもの。映画のラストにも登場します

(注5)鈴木は、百合子の事故死の後中学を辞め、「フロイライン」という会社にそれまでの履歴を隠して潜り込んだようです。

(注6)出演者の内、最近では、生田斗真は『予告犯』、浅野忠信は『岸辺の旅』、麻生久美子は『ラブ&ピース』、吉岡秀隆は『小さいおうち』、波瑠は『みなさん、さようなら』、菜々緒は『神様はバリにいる』、鯨の父親役の宇崎竜童は『ペコロスの母に会いに行く』、村上淳は『新宿スワン』、石橋蓮司は『この国の空』、金児憲史は『日輪の遺産』、佐津川愛美は『悪夢のエレベーター』で、それぞれ見ました。

(注7)ただ、鯨は、標的に催眠術をかけて自殺に追い込むように見えるところ、こうした技法をどのように習得したのか描き出してほしいものだと思いました。



 また、「押し屋」については、その存在が裏社会で知れ渡っているのであれば、寺原会長の息子がいくら奔放だとしても、独りで交差点の車道寄りのところに立つという無防備なことはしないのではと思いました。

(注8)蝉の相棒で殺しを請け負う交渉人の岩西村上淳)も、実在しないミュージシャンの言葉を絶えず引用するユニークな存在となっています。

(注9)ラストの方で、鯨と蝉の亡霊に鈴木は遭遇するものの、お互いに見ず知らずの他人に出会った風情です(前を行く鈴木を見て、蝉が「なんだあいつ?」とつぶやきます)。
 原作の方では、蝉は、「押し屋」を探し出だすため鈴木の後を追いかけ、比与子に捕らえられている鈴木を救出するというストーリーになっていて(文庫版P.231~)、かろうじて鈴木と蝉とはつながっています(それでも、鈴木と鯨はつながりませんが)。

(注10)彼の周囲には彼を警護する者しかいないように見え、単なるヤクザの一親分に過ぎない感じがします。“裏社会のドン”というのであれば、大きな組織体のトップであり、いくら病身とはいえ、たえず様々の仕事をこなしているのではないでしょうか?

(注11)最後の方で、槿の妻とされているすみれ麻生久美子)は、鈴木に、自分たちのことにつき、「あなたが潜り込んだ組織(フロイラインでしょうか)の敵」であり、「寺原親子の度を過ぎた悪意から人々を守るためのアンダーグラウンドの互助会」だと述べています。

(注12)槿たちのグループに属すると思われるメッシュの女が、いとも簡単に寺原会長や比与子を殺してしまうのを見ると、一体この作品は何を描いているんだという気がしてきます〔原作でも、槿の仲間が寺原をアッサリ毒殺(「毒の入ったお茶を飲んで」)しています(文庫版P.311)〕。

(注13)このWikipediaの記事では「群生相」となっていますが、原作では「群集相」となっています(文庫版P.158)。

(注14)「グラスホッパー(トノサマバッタ)は密集して育つと、黒く変色し、凶暴になる。人間もしかり……」と、公式サイトの「STORY」に記載されています。
 原作では、トノサマバッタの「群集相」について話す槿は、「群集相は大移動をして、あちこちのものを食い散らかす。仲間の死骸だって食う。同じトノサマバッタでも緑のやつとは大違いだ。人間もそうだ」と言って、「人もごちゃごちゃしたところで暮らしていたら、おかしくなる。人間は密集して暮らしている。通勤ラッシュや行楽地の渋滞なんて、感動ものだ」と付け加えます。
 こうした説明からすれば、渋谷のスクランブル交差点が象徴する如く、今の人間社会(特に大都会)そのものが「群集相」の下にあると言っているのでしょう。
 現に、鈴木が「人はその、群集相ばっかりってことですか」と問うと、槿は「都会は特に穏やかに生きていくほうがよほど難しい」と答えますから(文庫版P.160)。
 ただ、そうだとしたら、鈴木も、さらには事故死した百合子も、またカボチャのお化けになった子どもだって皆群集相の下にあることになりますが、 彼らは、普通の人間と違い“黒く変色”しているのでしょうか?
 そうではなくて、鯨や蝉、槿などの殺し屋が「群集相」の下にあると考えられるかもしれません。
 ですが、槿の説明に従えば、そんな単独で動いている個人ではなく、一つの集団として「群集相」はあるのではないでしょうか(イナゴの大群のように「大移動」するのですから!)?
 それに、鯨や蝉などの殺し屋の来歴の詳細が描かれていませんから、本当に「群集相」と言えるような状況に置かれていたのかどうかもわからないように思われます(それに、彼らが「ちゃごちゃしたところで暮らしていた」としたら、ものすごく大勢の「殺し屋」がこの世に出現していることになるのではないでしょうか?)。
 なんだか、ジンギスカンの蒙古軍のような場合に、この「群集相」がうまく当てはまるようにも思えますが、はたしてモンゴル帝国の時代にスクランブル交差点のようなものがあったのでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:グラスホッパー
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起終点駅 ターミナル

2015年11月17日 | 邦画(15年)
 『起終点駅 ターミナル』を渋谷TOEIで見ました。

(1)佐藤浩市の主演の映画だということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は北海道で、冒頭は、吹雪の中の駅で呆然と立ちつくす主人公・鷲田完治佐藤浩市)の姿。



 そして、25年前の旭川地方裁判所の場面。
 事務室で事務官が「東京での夏休みは如何でした?」と尋ねると(注2)、鷲田は「こちらの夏が懐かしかった」と答え、さらに事務官は「今度は雪を見ることになりますよ。2年なんてすぐですよ」と言います。
 それから、法廷の場面。
 鷲田が、裁判長として、「それでは、被告に対する覚醒剤取締法違反事件に対する審理を始めます」と宣言した後、被告の結城冴子尾野真千子)の顔を見て驚きます。



 いったい鷲田は冴子とどんな関係があったのでしょう、………?

 さらに、2014年の時点で鷲田は釧路で法律事務所を開いていますが、国選弁護しとして担当した覚醒剤取締法違反事件の被告の椎名敦子本田翼)が、執行猶予付きの判決を受けた後、鷲田の家にやってきます。



 さあ、敦子は何のために鷲田の家にやってきたのでしょうか、………?

 本作は、主な舞台を釧路としながら、裁判官時代の主人公と学生時代の恋人との関係が、裁判官を辞めて弁護士になった主人公と被告との関係に重なるように描き出され、なかなか興味深い内容になっていて、さらに出演者のそれぞれも好演しているとはいえ、北海道新幹線の開業を前にしたJR北海道のPR映画のような雰囲気が濃厚に漂っていて、ちょっと引けてしまう感じにもなりました(注3)。

(2)本作では、佐藤浩市と尾野真千子との関係が、25年後の佐藤浩市と本田翼との関係に上手く重ねられて描かれています。
 まさに定石通りに、最初の関係は悲劇として、そして2番目の関係は喜劇(むしろ、明るいハッピーな物語)となっています(注4)。
 そんな点を考えつつ、映し出される北海道の様々な風景を味わいながら、佐藤浩市の落ち着いた深みのある演技や本田翼のみずみずしい演技などを見ることが出来ます。

 とはいえ、本作についてはいろいろの疑問点も湧いてきます。
 例えば、主人公の鷲田と冴子との関係はどうも不可解な感じがします。
 いったいどうして冴子は、鷲田が司法試験に合格すると、いともアッサリと身を隠してしまったのでしょうか?
 それは、鷲田の今後の飛躍に負担にならないようにという思いからなのかもしれないとはいえ、すっきりしないものが残ります。
 そして、10年後に再会して、鷲田が一緒に暮らそうと言うのに対して、なぜ自殺で答えるのでしょうか?今度も鷲田に負担にならないようにしたいというのであれば(注5)、再度10年前と同じように身を隠せば十分ではないかと思われるところです。

 また、本作の舞台とされる時点ですが、鷲田と敦子の関係が描かれるのは「平成26年春」(2014年)とされ、鷲田と冴子が再会するのがその25年前の1988年、そして鷲田と冴子が出会うのが学生運動のさなかの「昭和53年春」(1978年)とされています。
 ですが、学生運動が燃え盛ったのは、原作にあるように「1960年代後半」のことではないでしょうか(注6)?

 それから、冒頭のシーンはどこの駅なのでしょうか?
 冴子が列車に飛び込んでしまう駅は、跨線橋が設けられているそれなりの構造をしています。ですが、冒頭で鷲田が、列車が行ってしまった線路の先を見ながら佇んでいる駅は、どうみてもごく小さな無人駅のような感じがしてしまいます。
 そんな小さな駅しか設けられていない町に、冴子のいるスナック「慕情」などが集まった飲み屋街があるとはとても思えません(注7)。

 それに、ラストで、東京で行われる息子の結婚式に出席するために、なぜ主人公は、わざわざ鉄道を利用すべく釧路駅に出向くのでしょうか?
 なにより、そう描かれることで、原作とラストが全く異なってしまうのです(注8)。
 また、釧路から東京に向かう場合には、常識的には飛行機を利用するものと思います(注9)。まして、息子の結婚式が間近に迫っているのですから。
 こんなことになるのは、来春3月36日の北海道新幹線の開業を控えて、鉄道の良さをプレイアップしたいとするJR北海道(注10)の意向を踏まえて本作が制作されているからではないか、と勘ぐってしまいたくなります。

 まあ、これらは些細な点かもしれません。ですが、そう言ってしまうためには、他方で、もう少し目を引くような出来事(注11)が描かれている必要があるのでは、とも思いました。

(3)渡まち子氏は、「これはいったいいつの時代?と思わず首をかしげたくなるほど、古色蒼然としたドラマだが、時の流れに取り残された男の再生の物語には、その方がむしろしっくりくるかもしれない」として60点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「監督は、「深呼吸の必要」や「山桜」などで知られる篠原哲雄。気負いのない演出で、日常的な生活感から人生の機微をじんわりと広げて、観客の心に沁み渡らせる手腕はさすがである」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「1988年は平成となる前年だ。ぎりぎり昭和という時代設定がうまい。恋人の死で時間を止めてしまった鷲田が、昭和から平成へ、時代に乗り移れなかった男に思えてくる。同じように、乗り移れない部分を抱えた人々は少なくないだろう」などと述べています。



(注1)監督は、『小川の辺』などの篠原哲雄
 脚本は、『柘榴坂の仇討』などの長谷川康夫
 原作は、桜木紫乃著『起終点駅 ターミナル』(同タイトルの小学館文庫に所収の短編)。

(注2)原作では、旭川時代の鷲田は、任地の旭川で妻や息子と一緒に生活していました(文庫版P.127)。
 これに対して本作では、「家族は旭川?」と尋ねる冴子に、鷲田が「家族は東京。単身赴任だ」と語っており、彼は、夏休みをとって東京の家族のもとに行っていたのでしょう。

(注3)出演者の内、最近では、佐藤浩市は『バンクーバーの朝日』(『ギャラクシー街道』でもカメオ出演していますが)、本田翼は『ニシノユキヒコの恋と冒険』、鷲田弁護士に開所顧問になるようしつこくつきまとう大下役の中村獅童は『銀の匙 Silver Spoon』、釧路における鷲田宅の隣りに住む老人の息子役の音尾琢真は『ジーン・ワルツ』、尾野真千子は『きみはいい子』で、それぞれ見ました。

(注4)この拙エントリの「注2」で触れたカール・マルクスの言葉より。

(注5)寝物語で、「ここを出て、どこか小さな町で法律事務所を開いて、一緒に暮らそう」と言う鷲田に対して、冴子は、「誰かの負担になるのなら寒すぎる」と言っています。おそらく、冴子は、鷲田が冴子のことを考えて無理をしているのだと思っているのでしょう(劇場用パンフレットに掲載の「特別対談2」の中で、篠原監督は、「(佐藤浩市から)完治は冴子に別れを告げるつもりなんだけど、ここに来てまだ決断できないんだと(いうことで、雪の中でタバコを吸いたいという提案があった)」と述べています。そんなところを冴子は察知したのでしょう)。

(注6)文庫版P.116には、「1960年代後半、完治は学生運動の真ん中にいた」と記載されています。
 確かに、本作に映し出されるタテカンなどには“三里塚闘争”のことが書かれています。
 とはいえ、よくわかりませんが、その当時の闘争は「1960年代後半」のものに比べたらセクト色が相当強まっていて、映画で描かれているような牧歌的なものではなかったのではないでしょうか(劇場用パンフレット掲載の川本三郎氏のエッセイ「悲しみが二人を近づける」でも、「年齢からいって、いわゆる全共闘世代らしい」と述べられています)?
 なお、完治が参加していた学生運動の時点を本作が10年繰り上げたのは、本作の現時点を「2014年」にするためと、敦子の年齢を、彼女を演じる本田翼の年齢(23歳)に近いものにするためではないかと推測されます(本作では、鷲田が旭川から釧路にやってきて住み着いた年数を、原作の「30年」から「25年」に短縮しています←下記の「注11」を参照)。

(注7)原作では、冴子がいるところは「留萌」とされているところ(文庫版P.119)、同駅は決して無人駅ではありません(この記事を参照)。
 ちなみに、劇場用パンフレット掲載の「Location」によれば、スナック「慕情」の撮影場所は、釧路市の「有楽街センター」にある「スナック八重ちゃん」とのこと。
 こんなところから、原作では留萌とされていた冴子の住所地が、映画では釧路とされているのかな、とも思えますが、釧路は釧路地方裁判所が管轄しており、鷲田が旭川から月1で出張する場所としては考えられないところです(この映画を全て釧路を巡るお話と考えれば、タイトルも受け入れやすい感じもするのですが。ただし、根室本線が釧路駅に通っているとはいえ、その終点は根室駅です)。

(注8)原作の鷲田は、2度にわたって息子から電話がかかってくるものの、最終的には欠席の旨を伝えておりますし(文庫版P.126とP.150)、ラストでも鷲田は、相変わらず釧路の裁判所への急な坂道を上っていくだけなのです。

(注9)旭川裁判所の事務官が、東京高等裁判所の裁判官に任命された鷲田に対して、「飛行機の手配をしましょうか?」と尋ねます。住んでいるところが、旭川から今や釧路に変わっているとはいえ、飛行機が常識でしょう。
 尤も、その際鷲田は、「いや、一度は列車で東京まで帰ってみたい」と答えるのです。その気持を、25年間も保ち続けていたというのでしょうか?

(注10)JR北海道は、エンドロールに「特別協力」として記載されています。

(注11)例えば、もう一歩踏み出して、敦子は、25年前に鷲田と冴子の間にできた子供であって、冴子は妊娠したがために、鷲田に黙って身を隠したとするストーリーにしたらどうでしょうか(原作では、冴子は30歳とされていて、鷲田が旭川から釧路にやってきて住み着いた年数と同じなのです)?
 尤も、そうなると、鷲田が敦子に抱く感情は恋愛ではなくて父親としての愛情ということになってしまい、鷲田と冴子の関係がそこに2重写しになるのも薄れてしまいますが。
 あるいは、劇場用パンフレット掲載の「特別対談1」で、原作編集担当の幾野克哉氏が、「初稿時は桜木さん、鷲田完治が大下一龍に殺される話にしていました」と述べているところ、確かに、このくらいの展開が描かれていたら、もっと印象深い映画になっていたのかもしれません。
 なお、原作者の桜木氏は、幾野氏に「桜木さんにアクションシーンは求めていません」と言われて書き直したわけですが、いったいこの“原作編集担当”って何なのでしょうか?『バクマン。』の服部(山田孝之)的な存在なのでしょうが、それは漫画の世界であって、そんな人が小説の世界でも存在するとは思ってもみませんでした。



★★★☆☆☆



象のロケット:起終点駅 ターミナル

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ギャラクシー街道

2015年11月03日 | 邦画(15年)
 『ギャラクシー街道』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)三谷幸喜監督の作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の時点は2265年。
 先ず、ハンバーガーショップで人々が忙しく立ち働く様を描くアニメが流れた後のシーンでは、「サンドサンドバーガー・コスモ店」の店主・ノア香取慎吾)が、帰国申請書を封筒に入れて切手を貼っています。店の隅では、店員のハナ大竹しのぶ)が椅子に座ってタバコを吸っています。

 スペース国交省のハシモト段田安則)が、店の席に座りながら、この付近の現状について報告書を作成しています。



 その内容がナレーションで流れて、「太陽系、第5惑星(木星)と第6惑星(土星)の間に浮かぶスペースコロニー「うず潮」、それと地球を結ぶ幹線道路のギャラクシー街道、その中央にあるハンバーガー店のサンドサンドバーガー・コスモ店」、「ここにはシャトルバスの停留所が置かれているため客がいるとはいえ、いつもまばら。継続すべき理由はない。即刻撤退すべき」云々。

 次の場面では、ノアが「週刊少年ジャンプ」を読んでいたり、ノアの妻・ノエ綾瀬はるか)が「ごめんなさい、遅くなっちゃって」と言いながら店に出てきたり、ハナがフライを揚げていたりします。



 別の場所では、客引きのゼット山本耕史)が、医者のムタ石丸幹二)に対して、「何も気にする必要はありません。今日は、非常に珍しいSES(スーパーエロティカストレート)の日。すべてのものにエロスが萌えています」云々と売り込みにかかっています。

 カエル型宇宙人のズズ西川貴教)が、レジのノエにハンバーガーを注文すると、背後でノアが、「帰ってもらえ、あいつらは好きになれん。席がびしょびしょになる」と言います。
 ノエが「歌がうまい」と言ってズズを擁護すると、ノアは「ブルーシートを使え」と指示します。

 そして、コンピュータの堂本博士(ホログラムによって顔だけが見えます:西田敏行)に向かって、ノアが悩み事を打ち明けています。「そろそろ踏ん切りをつけたい。帰国申請書が受理されればアースに帰れる。それに、ノエには男がいる。今日もなかなか戻ってこなかった。男と会っているんだ」云々。

 という具合に映画は展開していきますが、さあこの後どうなるのでしょうか。………?

 本作は、「コメディ」と銘打たれている作品にもかかわらず(注2)、まるで面白くありません。
 全体的には、先月末、渋谷や六本木で見受けられたハロウィンの仮装・コスプレを見ているような感じで、やっている(あるいは、作っている)ご本人たちは面白いのかもしれませんが、それを見ている者にとっては、一体何でそんなことをしているのだろうと酷く訝しく思えるだけでした(注3)。

(2)三谷監督自身は、この記事において、「「ギャラクシー街道」はこれまでの僕の映画とは、かなり雰囲気が違う」、「僕は、これまで大宇宙を舞台にした映画の中で、もっともチマチマした作品を作ってみたかったのだ」として、「爆笑にはならないけど、そんな「説明のつかないこと」と「説明のつかないことへの戸惑い」から生まれる小さな笑い。それがこの作品のテイスト」なのだと述べています。ですが、とにかく笑えるシーンが殆ど見当たらないのですから、「テイスト」を云々する以前の話ではないかと思えてしまいました。

 確かに、見る前のクマネズミは、三谷監督が当該記事で、「今までだったら、もっと彼ら(ノアとノエ)にはドラマチックな事件が起きただろうし、様々な異星人を巻き込んでのドタバタ、そして様々な伏線が一つにまとまっての大団円と、例えばそんなストーリーになっていたはず」と述べているような「全体を引っ張るストーリー」、それもとびきり面白い「ストーリー」を期待していたところです。
 ですが、三谷監督自身が言うように「今回はなにもない」のです。
 本作を構成する個別のエピソードのそれぞれが、他のエピソードと殆ど関係しないで展開されるだけなのです(注4)。
 だったら、個別のエピソードのそれぞれが眼を見張るような面白いものになっているかというと、そういうこともなく(注5)、「ごくごく日常的なものばかり」です(注6)。

 三谷監督は、「喜劇にはいろんなジャンルがあるわけで、喜劇作家としては、これも有意義な経験」であり、「僕は楽しんで台本を書いたし(注7)、役者さんは素晴らしかった」と述べています。
 きっとそうに違いありません。
 でも、そうした作品を見せられる観客のことまで、三谷監督は本当に考えていたでしょうか(注8)?

(3)渡まち子氏は、「豪華キャストの群像劇であることは、いつもと同じだが、今回はずいぶん残念な出来栄えだ。笑えず、泣けず、感動できずで、ファンはがっかりするだろう」として30点をつけています。



(注1)本作の監督・脚本は、『清須会議』や『ステキな金縛り』などの三谷幸喜
 三谷監督の映画作品は、これまで殆ど見ておりますが、DVDで見た初期の『ラジオの時間』や『みんなのいえ』こそ手放しで面白かったものの、続く『The有頂天ホテル』や『ザ・マジックアワー』、『ステキな金縛り』はどうかなといった感じでした。とはいえ、2年前の『清須会議』は、設定の面白さが引っ張っていながらも、なかなか面白い出来栄えでした。それで本作にも期待したのですが、…。

(注2)本作の公式サイトの「Introduction」では「シチュエーションコメディ」とされています。劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interviw」においては、インタビュアーが「スペース・ロマンティック・コメディ」とし、また三谷監督は「群像劇という形式を用いたラブコメ」と答えています。
 なにはともあれ、とにかく「コメディ」なのでしょう。

(注3)出演者の内、最近では、香取慎吾は『人類資金』、綾瀬はるかは『海街diary』、警備隊のハトヤ隊員役の小栗旬は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』、ノアの元恋人・レイ役の優香は『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、遠藤憲一は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、ピエロ役の浅野和之は『脳内ポイズンベリー』、山本耕史は『ステキな金縛り』、大竹しのぶは『トイレのピエタ』、西田敏行は『ラブ&ピース』で、それぞれ見ました。

(注4)例えば、上記(1)で触れた客引きのゼットと医者のムタが絡むエピソードは、ムタとイルマ田村梨果)の話に展開するとはいえ、ノアとかノエなどは絡んでこずに、それはそれでおしまいになってしまいます。
 なお、劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interviw」において三谷監督は、「今回はエロスの世界にも入り込んでいます。あの星の人から見たら赤面するような、モザイクをかけないといけないようなシーンすら出てくる」と述べていますが、観客の地球人が見ると、とてもエロスを感じることは出来ません。



(注5)例えば、三谷監督は、「(リフォーム業者・メンデス役の)遠藤憲一さんの出産シーンなど、派手な笑いもあるけれど」と述べているところ、ひょろ長い男優が卵を生むシーンなどに「派手な笑い」があるとはとても思えません。



 劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interview」においても三谷監督は、「(遠藤憲一さんは)笑いのセンスも抜群で、あれほど現場で笑いを堪えたのは久々です」と述べています。ですが、あのシーンでそうだとしたら、このところの作品で笑えるシーンが少なかったようにクマネズミに思えるのもむべなるかな、というところです。

(注6)例えば、三谷監督は、「初めて会った宇宙人に握手を求めたら、いきなり1メートル近い舌でぺろりと鼻を舐められるという、いかにもSFコメディ的なシーン」と述べていますが、嫌悪感の方を先に覚えてしまい、「小さな笑い」にもならないのではないでしょうか?

(注7)劇場用パンフレット掲載の「Director’s Interview」においても三谷監督は、「今までの映画の中で、いちばん楽しんで作ることが出来ました」と述べています。

(注8)三谷監督は、当該記事の末尾の方で、「試写会の反応を見ると、案の定、抵抗を感じた方がいらっしゃるようだ。すごく楽しめたという意見もあれば、まったく笑えなかったという人も」と述べているところ、「すごく楽しめたという意見」の方に、実際のところどの点が楽しめたのか聞いてみたい気がしてしまいます(もちろん、映画の感想は十人十色ですから、そうした方がいらっしゃるのは事実でしょう)。



★★☆☆☆☆



象のロケット:ギャラクシー街道

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バクマン。

2015年10月30日 | 邦画(15年)
 『バクマン。』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『モテキ』の大根仁監督の作品とのことで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、『週刊少年ジャンプ』の編集部の部屋。様々なものが机の上などにめちゃくちゃに積み上げられていて酷い有様。
 そこへ電話がかかってきて編集者の服部山田孝之)が出ます。「少年ジャンプの編集部です。はいはい、こちらで大丈夫です。正面入って受付で」。
 別の編集者が、「持ち込みか。昔なら大学生、今じゃ高校生だ」と。

 それから、1968年に創刊され1995年に653万部まで発行部数が伸びた『週刊少年ジャンプ』について解説が入り、「いまだ漫画界の王者」と述べた後、「この日、二人は初めて書いた漫画を編集部に持ち込む」と結ばれます。

 次いで、画面は高校のクラス。
 担任が話しているにもかかわらず、真城サイコー佐藤健)はノートにマンガを描いています。そんなサイコーをクラスメイトの亜豆小松菜奈)が見ています。



 更に画面では、サイコーと高木シュージン神木隆之介)が教室で話しています。



 サイコーが描いた漫画を見ながら、シュージンが、「それにしても上手いな。よし決めた。お前と組む。漫画家になってくれ。俺には絵が下手という致命的な欠点がある。しかし、俺には文才がある。だから、俺が原作で、お前が作画だ」とサイコーに言います。
 しかし、サイコーは、「断る。漫画家で飯が食えるのは10万人に1人。編集者に捨てられるだけ」と答えます。

 二人が教室を出て階段を降りると、亜豆に遭遇。
 ちょうどいい機会とばかりにシュージンが、「僕達漫画家になります。亜豆さんは声優を目指しているよね。俺達の漫画がヒットとしてアニメになったら、亜豆さん、声優やってくれない?」と持ちかけてしまいます。
 すると亜豆は、「私も頑張る。二人も頑張って!」と応じます。
 それで、サイコーは、「お互いの夢が適ったら俺と結婚して下さい」と告白してしまいます。
 これに対し亜豆は、「私もずっと真城君のことを思ってきた。だから、待ってるね」と返事します。
 さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、漫画週刊誌に自分たちの漫画が掲載されて読者アンケートで第1位をとることを夢見る少年二人を描いた漫画の実写化です。なにはともあれ、『モテキ』の監督が制作した作品ですから、マンガを書き続けるという甚だ見栄えのしない作業をヴィジュアル的に大層興味深い映像に作り込み、またW主演の二人も、『るろうに剣心』で大活躍しただけあって、染谷将太とのアクション場面なども素晴らしく、全体としてとても面白い映画に仕上がっているなと思いました(注2)。

(2)実際にも、染谷将太が扮する新妻エイジが、サイコーとシュージンとペンで闘うシーンは、『るろうに剣心 伝説の最後編』で描かれる剣心(佐藤健)と志々雄藤原竜也)との対決を思い起こさせます(注3)。
 そう思ってみれば、本作における亜豆も、『るろうに剣心』における神谷薫武井咲)のような感じで、お互いに想い合っていながらもサイコーの仕事場には入り込んできません。
 また、『るろうに剣心 伝説の最後編』における比古清十郎福山雅治)は、本作における漫画家・川口たろう宮藤官九郎)と似たような位置を占めているようにも思われます(注4)。

 さらに本作では、W主役の二人のみならず、脇を固める俳優が豪華なことも目を引きます。
 特に、そんなに出番があるわけではないものの、サイコー・シュージンのライバルでもある新人漫画家たちにもそれぞれ個性的な役柄を与えて、漫画界の現状をある程度描き出そうとしているのには感心しました(注5)。



 なお、本作を制作するにあたっては、原作から読み取れる“入れ子”構造(注6)をどうするのかという点が議論の一つになったのではと思いました。ただ、映画を見てみると、その点に考慮が払われているようには思えません。 
 ですが、この糸井重里氏との対談を見ると、大根監督ははじめからその点をよく認識していたことがわかり(注7)、にもかかわらずあえてそこは外したように考えられます。
 まあ、現在の映画界にあっては仕方のないところでしょう。

 また、下記の(3)で触れる前田有一氏は、「個人的にこの原作のなにが優れていたかといえば、週刊少年ジャンプの歴史を作ってきた当事者による、リアルな回顧録そして裏事情。作り手としてのマンガ文化への愛情である。たとえば週刊少年ジャンプ編集部がどういうシステムで新連載を決め、それを発展させ、そして切るか。その競争の中でどう漫画家を見いだし、育てているか。そのトリビアとお仕事マンガとしての面白さ、ディテールが第一の魅力ではないか」とした上で、「残念なことに、映画版ではこの部分の魅力がごっそりぬけ落ちている」と述べ、「やはり映画より原作を読んだ方がいいなという印象である」と結論づけています。
 でも、漫画を読んで「リアルな回顧録そして裏事情」などが十分に読み取れるのであれば、なにも映画でそれを再確認するまでもないのではないでしょうか?
 映画見て楽しむということは、そうした「トリビア」とか「ディテール」を知ること(知識を身に付けることではなく)ではないように思われるところです。

(3)渡まち子氏は、「仕事、恋、友情、ライバルと、サイコーとシュージンが、悩みながら成長していくのは直球の青春映画。同時に、漫画家という特殊な職業のハウツーとしても面白くできている」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「原作の魅力のどこを映画にするかという選択眼。二人の主人公の成功物語と苦労話との比重。この2点で失敗している点が、この映画版の問題点である」として40点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『モテキ』の大根仁
 原作は、大場つぐみ・小畑健の『バクマン。』(集英社)。

(注2)出演者の内、最近では、佐藤健は『るろうに剣心』、神木隆之介は『脳内ポイズンベリー』、染谷将太は『寄生獣 完結編』、桐谷健太は『くちびるに歌を』、新井浩文は『寄生獣 完結編』、皆川猿時は『土竜の唄 潜入捜査官Reiji』、宮藤官九郎は『ナニワ・サリバン・ショー 感度サイコー!!!』、山田孝之は『新宿スワン』、リリー・フランキーは『野火』、小松菜奈は『予告犯』で、それぞれ見ました。

(注3)もちろん、剣心と瀬田宗次郎神木隆之介)との対決もありました。

(注4)『るろうに剣心 最後の伝説編』における比古清十郎は、剣心の育ての親であり、後に剣心が彼のもとに戻ってくると奥義を伝授します。
 本作の川口たろうも、サイコーの叔父であり、幼い彼がよくその仕事場に出入りしていました(実際に、その仕事場をサイコーは引き継ぎます)。彼が幼い時分に過労で亡くなってしまいますが、漫画家の生き様をサイコーに見せつけたものと思われます。



(注5)平丸一也新井浩文)は、お金に酷く煩い天才漫画家ですし、中井巧朗皆川猿時)は、背景画が得意な漫画家ながら途中で撤退してしまいます。また、福田真太桐谷健太)は、熱血の漫画家といったところ。
 ただ、彼らが病み上がりのサイコーを助けるためにその仕事場に集結するシーンが設けられているのは、『週間少年ジャンプ』のキーワードとされる友情・努力・勝利を具体的に描き出すためなのでしょうが、その仕事場にアシスタントがいないことが明らかになってしまい、いったいそれで週刊誌の連載ができるのか、と見る者に思わせてしまうのではないでしょうか(少なくとも福田真太については、アシスタントを抱えている様子が描かれています)?
 それに、それまでは、そういったアシスタント的な作業は誰がやっていたのでしょうか、どうやらシュージンがやっていたようですが、彼は漫画を描くのが酷く下手だったのではないでしょうか、それにシュージン自身は原案を考えるので手一杯なのではないでしょうか、といったいろいろな疑問も湧いてきます。
 尤も、こうしたシーンは、ストーリ―の展開を2時間で上手く着地させるためには必要なのでしょうが。

(注6)『週刊少年ジャンプ』に自分たちの漫画が掲載されることを描いている原作漫画自体が、実際の『週刊少年ジャンプ』に連載されました。

(注7)大根監督は、自分が書いた脚本の初稿を見せがら、「あんたら(ジャンプ編集部)は、所詮、漫画家を使い捨てとしか考えていないのだ」という漫画家のセリフの後に、誰のセリフかわからないとしながら、「東宝だってそうだ、監督を使い捨てとしか考えていない。1本ヒット作を出せば3本作らせるけど、そこまでで結果を出さなければ切るじゃないか。安定しているのは山崎貴と三谷幸喜だけって、どういうことだ」というセリフがそこに書かれている旨を糸井重里氏に語っています(25分辺り)。



★★★★☆☆



象のロケット:バクマン。

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罪の余白

2015年10月16日 | 邦画(15年)
 『罪の余白』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)予告編につられて映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、幾つも仕切られた水槽の中にいるベタ(闘魚)を見る安藤内野聖陽)とその娘の加奈吉田美佳子)。
 安藤が「オス同士だと殺し合いを始める。闘魚だからしょうがない。だから、1匹ずつ別々に入れている」と言うと、加奈は「もっと広い場所に入れれば殺し合わないかも」と答えます。
 そして、安藤が「どれにする」と訊くと、加奈は「青のがいい」と答えます。

 次いで、女子高校の教室。授業開始前の時間。
 真帆宇野愛海)が「写メ見てよ」と吉本実憂)に見せると、咲は「グロすぎ」と答えるので、真帆は「やっぱナチュラルメイクの方がいいのかも」と言います。
 また咲は、「キリストってクリスマスに生まれたんだって、すごくない?」と言ったりします。

 場面は変わって、安藤が勤める大学の駐車場。
 安藤が駐車した後に、同僚の早苗谷村美月)の車が隣に入ってきますが、危なっかしい様子なので、安藤が運転を代わって早苗の車を駐車させます。
 安藤が「週末にベタを買いました」と言うと、早苗が「今度、うちのムスメとお見合いさせません?」と尋ねるので、安藤は「オスとメスとで殺し合いをしませんか?」と答えます。

 再び、教室の場面。
 咲が加奈を見ながら、「ベランダの手すりに5秒立つの、加奈が嫌だっていうの」と言うと、真帆が「七緒の胸にある十字架焼くのは?」(注2)と尋ねます。
 加奈が黙っていると、咲は「そういうことは大声で言わないで。あたしたち、強制しているわけじゃないし。加奈どうする?一回やってみる?」と言います。

 他方、大学では、安藤が教壇に立って「ダブルバインド」について講義をしていて、「二重に縛られるということ」などと解説をしています。



 再び、教室の場面。
 加奈が、教室の外側に設けられているベランダの手すりの上に立っています。
 これを見た生徒たちが、「加奈、なにやってるの!」と叫ぶ間もなく、加奈は手すりから下に落ちてしまいます。

 事件を聞いた安藤が病院に駆けつけますが、さあ一体どうなるのでしょう、………?

 本作は、最愛の娘を亡くした行動心理学者が、事件の真相に迫ろうとして娘のクラスメートと対決するという内容で、美少女コンテストでグランプリの吉本実憂がなかなかの演技を見せるとはいえ、“驚愕の心理サスペンス”(注3)と銘打たれるほどの心理戦でもないような感じがします(注4)。

(2)心理サスペンスとして本作の鍵となるのは、安藤が大学で講義する「ダブルバインド」ではないかと思われます(注5)。
 その講義と重なるように、加奈が学校のベランダの手すりから落ちます。



 まるで、ダブルバインドの陥穽に加奈が落ちたかのごとくです(注6)。
 その前のシーンで、咲が加奈に対して「罰ゲームとして、手すりに5秒立って」と言いながらも、すぐに「強制しているわけじゃない」とも言うからですが。

 しかしながら、「ダブルバインド」というのは、Wikipediaでは、「ある人が、メッセージとメタメッセージが矛盾するコミュニケーション状況におかれること」とされており、それを提唱したグレゴリー・ベイトソンは「その状況におかれた人が統合失調症に似た症状を示すようになる」と指摘しているとのこと。
 さて、咲が加奈に言った「手すりに5秒立って」と「強制するわけではない」という二つのメッセージは“矛盾”するのでしょうか(注7)?
 クマネズミには、咲は、自己防衛のために付言しただけであって、決して「手すりに立つな」といったわけではないように思われます。咲の言葉は、加奈にとり「とにかく手すりに立ちなさい」という命令に聞こえたに違いありません。
 ですから、加奈は、矛盾する二つのメッセージを受け取って混乱してしまい(「統合失調症に似た症状を示」して、でしょうか)、それで下に落ちたわけではなく(注8)、単に、手すりの上から下を見て立ちくらんでしまい足を踏み外しただけではないでしょうか?

 仮にそうだとすると、加奈の死は事故によるものであり、確かに、咲によるイジメが契機といえるかもしれないとはいえ(注9)、父親が形相を変えて追求するまでもない事件のように思えてきます(注10)。

 それと、咲が安藤の激しい追求を受けるに値する人物だとしたら、なぜそんな少女が形成されるに至ったかについて、何らかの背景が描かれてしかるべきではないかとも思いました。



 こうした場合、通常描き出されるのは異常な家庭環境といったところですが、本作において咲が親のことに言及するのは、真帆に「来週から親が出張するから、いつでも家に来ていい」と連絡するときだけです。
 咲は、一体どんな環境でどのように育ってきたのでしょうか(注11)?

 なお、つまらないことながら、谷村美月が演じる早苗は、安藤の同僚とされていますが、実のところ年齢が下でも安藤の上司という立場にあって、安藤は最後まで丁寧語で対応します。おそらく、早苗は抜群の能力があって若くして教授か准教授になっていて、講師の安藤よりも地位が上なのでしょう。でも、それにしては、いくら安藤に恋心を抱いているとはいえ、終始オドオドしている感じであり(注12)、とても才能に溢れる研究者のように見えないのには(注13)、違和感を覚えました(注14)。

(3)渡まち子氏は、「心理戦を期待すると肩すかしをくらうが、第13回全日本国民的美少女コンテストでグランプリに輝いた吉本実憂が、美しいルックスとは裏腹に他人を操る邪悪な少女を怪演。そのギャップを楽しめるのが一番の見どころだろうか」として50点をつけています。
 秋山登氏は、「重要なのは、この物語の背後に病的なもの、ないしはその気配が潜んでいることである。そこにはまぎれもない現代という時代の影が色濃くさしている」と述べています。
 遠山清一氏は、「(安藤と咲の)二人のバトルは原作の緊張感とテンポの良さをみごとに描いている。だが、心理バトルの果てに起きた事件の咲と真帆の心の変化と行動は割愛されている。そこにも“罪の余白”の揺らぎがあると思われるだけに惜しまれる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『スープ~生まれ変わりの物語~』の大塚祐吉
 原作は、芦沢央著『罪の余白』(角川文庫)。
 なお、原作は、2011年の第3回野性時代フロンティア文学賞受賞作。
 ちなみに、著者のインタビュー記事では、スティーヴン・キングの『ニードフル・シングス』(映画化もされているようです)に影響を受けたと述べられていますが、未読です。

(注2)七緒葵わかな)はクラスで数少ないクリスチャンであり、いつも十字架のペンダントを胸につけています。咲はそういう笹川を嫌っていたようで、また笹川の方も咲を疑いの目で見ています。

(注3)映画の公式サイトの「INTRODUCTION」より。

(注4)出演者の内、最近では、内野聖陽は『悪夢のエレベーター』、谷村美月は『白河夜船』で、それぞれ見ました。

(注5)なにしろ、主題歌が金魚わかなの歌う『ダブルバインド』なのです!
 ちなみに、歌詞はこのサイトで(ただし、この歌詞は、“ダブルバインド”のうちの“バインド”という部分に囚われた内容ではないかと思われます)。

(注6)原作においては、この「ダブルバインド」について、「どちらかに従うことが、もう一方に反することになる二つの命令。それを向けられた人間の判断力を奪う、心理的手法」と述べられています(原作では、これは大学の講義ではなく、安藤が加奈に教えたことになっています)(文庫版P.63~P.64)。
 ただ、「心理的手法」とありますが、どういうことでしょう?相手を混乱した状況に追い詰めることを目的として取られる手法だという意味でしょうか?むしろ、ダブルバインドというのは、統合失調症などの心的障害に陥った人の状況を解明するために見出された学説ではないでしょうか?

(注7)なお、咲が大手芸能マネージャー(加藤雅也)から、「君くらいのルックスの子はたくさんいる。君は何も特別な存在じゃない。むしろ、我々の方で、君を特別な存在にするんだ」と言われた後、スカウトの女性からは「あの人があれだけ最初に熱心に話すことはない」等と言われます。
 これはダブルバインド的な雰囲気を持っているように見えます。ただ、二人が咲に言っているのは「命令」のメッセージではありませんし、咲はこのプロダクションと契約しない自由を持っているのですから、グレゴリー・ベイトソンの言うダブルバインドとは異なっているのではないか、とクマネズミは思います(むしろ、「タテマエ」と「ホンネ」の概念枠で理解できる状況ではないでしょうか)。

(注8)咲が、ダブルバインドという「心理的手法」(上記「注6」を参照)を知っていて、それに基いて加奈を混乱した状況に追い詰めたというのであれば、咲には加奈に対して殺人の故意があったことになります。でも、クマネズミにはそのようには考えられません。

(注9)咲の加奈に対するイジメは、口頭によるもの(加奈の日記には、例えば「咲に死ねって言われた」と書き込まれていました)とか仲間はずれにすぎず、昨今マスコミを賑わしている自殺を引き起こすほどの酷いものではないように思えるのですが。

(注10)あるいは、加奈には自殺願望があったとも思えます(加奈の日記には、「お母さんを殺したのが私なら、私が死んでもお父さんは悲しまないかもしれない」とあり、また上記「注5」で触れている主題歌にも、「もし生まれ変わったら この鎖解いて 自由な道を歩けるといいな 小さな希望この胸に抱いて 目を閉じる…」とありますし)。
 でもそうだとしたら、咲が責任を感じる必要はそれほど大きくないでしょう。
 むしろ、咲が言うように、安藤は父親としての自分をより一層責めるべきなのかもしれません(安藤が咲と真帆を追い詰める様子は、『天空の蜂』に登場する三島が、自分の息子の自殺を周りの者が止められなかったとしてとんでもない計画を実行してしまうのに似ているような感じがしてしまいます)。

(注11)原作では咲の両親が登場しますが、咲がオーディションに合格したにもかかわらず必要な50万円を出してくれなかった件(P.42~P.44)など、ほんの僅かです。

(注12)ですから、早苗が咲と対峙した時、咲から「余計なことに干渉する暇があったら、自分のことをよく考えてみた方がいい」などと高飛車に言われてしまうのです。

(注13)早苗は、安藤と同じ心理学者であるにもかかわらず、専門的な知識に基づいたアドバイスをするなどして物語に関与するわけではありません(単に、安藤の食事の心配をするだけの存在のように見えます)。

(注14)原作の早苗は、例えば、会合で自己紹介した際に、「対人関係が苦手で心理学を志しましたが、やはりまだ人の感情を汲み取ることが上手くできずにおります」と述べますし(文庫版P.16)、さらには、「(早苗は)自分と同じ症状を持つ人たちがいることを知った。アスペルガー症候群、高機能自閉症―障害だったのだ、と思うと気持ちが少し軽くなった」とも書かれています(文庫版P.93)。
 それに、ベラを安藤に教示したのは早苗で、それで安藤はベラを購入し自宅の水槽で飼育するのですが、映画の早苗は安藤の部屋にやってきても、ベラに関心を示さないのです。
 なお、映画では冒頭にベラを映し出して、“闘い”が映画全体のキーワードとなるかのような雰囲気を醸し出しますが、その後登場するベラはいつも1匹であり、闘っている様子は映し出されません。それに、映画は、わが子の無念を晴らそうとする父親と、わが子の死に関係する少女との闘いが描かれているのであって、ベラのオス同士の闘いとは様相が違っているような気がします。



★★☆☆☆☆



象のロケット:罪の余白
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