映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

バビロンの陽光

2011年06月30日 | 洋画(11年)
 『バビロンの陽光』をシネスイッチ銀座で見てきました。

(1)この映画は、今まで見たことのないイラク映画ということで興味があったものの、劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューによれば、イラクには映画館がなく、また2003年以降わずかに3本しか映画が製作されていないとのこと。映画が盛んな隣国イランとは酷く状況が違うようです。

 この映画も、湾岸戦争(1991年)の時に行方不明になった父親イブラヒムを探す息子と、その祖母の姿をドキュメンタリー・タッチで描いているだけの、単純と言えば単純な作りの作品です。

 ですが、それは外見だけのこと。実際には様々な厳しい現実を捉えていて、見る者に深い感動を与える作品です。
 例えば、
イ)舞台となるのは、イラク戦争でフセイン政権が倒れた直後の2003年のイラク。バグダッドへ向かう方角には、まだ盛んに黒煙が上がっていますし、時折テロのために道路が封鎖されたりします。

ロ)祖母と子供のアーメッドは、クルド人。アーメッドはアラビア語を話せますが、祖母はクルド語だけ。祖母は息子イブラヒムを捜し出したい一念で長い距離をも厭わず旅を続けるものの、12歳のアーメッドは未だ子供、様々なことに興味があり、スグに祖母の視野から外れてしまいます。



ハ)2人は、イラク北部からバグダッドを経由して、父親が収容されているという南部のナシリアの刑務所に行こうとします。
 始めは周囲が砂漠ばかりの中を徒歩で、途中からは軽トラックに乗ってバグダッドまで行き、そこからはバスで向かいます。ただ、車と言っても廃車寸前で、何度も故障しては立ち往生します。



 この地図は、ブログ「ピカソ・マニマニア」の6月20日の記事に掲載されているものを借用させていただきました。

ニ)ナシリアの刑務所に行くと、そこはほとんど破壊されていて、むろんイブラヒムなど見つかるわけはありません。
 そこで今度は、周辺にあるという集団墓地の方を探すようになります。
 ですが、フセイン時代に虐殺された人たちが埋められているとされる集団墓地は、次々に見つかっており、かつ夥しい数の遺骨が発掘されるものの、それぞれの身元を特定するのは酷く難しいようです(劇場用パンフレットによれば、300の集団墓地から数十万者もの身元不明遺体が発見されているとのこと)。

ホ)イブラヒム捜索に際しては、途中でムサという男が、彼ら2人に協力するようになります。
 なぜわざわざそんなことをするのかと訝しがる祖母に対して、ムサは、以前強制的に軍隊に徴用されてクルド人を襲撃したことがあると告白してしまいます。



 それを聞いた祖母は、憤激してムサを遠ざけますが、ムサは彼らから離れようとはせずに、何とかイブラヒム捜索をサポートしようとします。祖母も根負けしてムサを許しますが、結局は自分たちだけで捜索したいと言って別れることになります。
 なお、このムサについて、劇場用パンフレットに掲載されている東京外大教授・酒井啓子氏のエッセイでは、フセイン政権の下では抑圧されていた「シーア派」ではないかと述べられています。

ヘ)結局、持病があって薬を飲み続けていた祖母は、イブラヒム捜索の途中で死を迎え、アーメッドは一人取り残されてしまいます。
 丁度、バビロンの「イシュタル門」のところで、その背後に大きな夕日が映し出されます。



 この映画では、アーメッドが、何度も「バビロンの空中庭園」のことを口にします。それは伝説にせよ、南部に向かっての旅の途中で、遠くにウルの「ジッグラト」が見える映像があり、それにこの復元された「イシュタル門」ですから、早く政情が安定して、イラクの古代遺跡を巡る観光旅行が出来るようになればと思うこと頻りです。

ト)映画産業のない国のことですから、この映画に出演している祖母やアーメッドは、無論一般人ですが、トテモそうは思えないほどのリアリティのある演技をし、映画全体がまるでドキュメンタリー作品であるかのように見えてきます。

(2)この映画では、主人公の祖母とアーメッドが「クルド人」であることが重視されています。
 このサイトによれば、クルド人とは、「トルコとイラク、イラン、シリアの国境地帯に跨って住む中東の先住民族で、人口は約3000万人と言われてい」るとのこと。
 さらに、クルド人の祖先が建国した「メディア王国は紀元前6世紀の半ばに、ペルシャ人によって滅ぼされ、以後クルド人はペルシャ、アラブ、トルコ、モンゴル、ロシア、そしてイギリスやフランスによる分割支配を受け」、「現在、クルド人は世界最大の「独立した祖国を持たない民族」だと言われてい」るとのことです。

 では、彼らは何によって民族として一体感があり、周りと距離を保っているのでしょうか?映画との関連で少し述べてみましょう。

イ)宗教かというと、大部分はイスラム教にしても、それ一色というわけでもなさそうです(注)。
 映画では、時間が来ると祖母はメッカに向かって熱心に祈りを捧げますが、途中で乗せてもらった車の運転手は、イスラム教徒ではないのでしょうか、その姿を侮蔑的に見るだけです。

ロ)言語でしょうか。Wikipediaの「クルド人」の項によれば「言語的には、インド・ヨーロッパ語族イラン語派のクルド語に属する」とのこと。
 映画では、祖母はクルド語しかできず、イラクの北部の田舎から中心部に出てくると、他の人とのコミュニケーションが全くできなくなってしまいます(日本語の標準語と東北弁などの方言との開き以上のものがあるような印象を受けます)。
 ただ、孫のマーメッドになると、アラビア語が使え、祖母も彼を頼りに市、また彼も都市の住民からアラビア語を褒められると得意になったりします。

ハ)肌の色といった外見上のことでしょうか。
 これは、この映画を見ただけではなかなか判断がつきそうもありません。
 また、歴史的・文化的な違いもあることでしょう。とはいえ、この映画はクルド人が住む北部の居住地域を描いているものではありませんから、これも具体的なところは分からないままです。

 いずれにせよ、「極東ブログ」のこの記事の冒頭で言うように、クルド人を巡る問題が「非常に難しい問題」であることは間違いありません。

 としても、映画は、イラク北部に居住するクルド人の祖母と孫とが主人公ですが、孫のアーメッドが何度も「バビロンの空中庭園」のことを口にし、ラストで「イシュタル門」が大きく映し出されたりするのを見ると、北部のクルド人地区に住む人々も、古代のシュメール時代の意識に戻って、イラクとして新しい国作りをしていこうではないか、と言いたいのかもしれません。


(注)本文記載のサイトによれば、「かつてはペルシャから伝わったゾロアスター教(拝火教)」だったが、「7世紀にアラブ人によって征服されてからはイスラム化が進み、現在では75%がスンニ派、15%がシーア派だと言われてい」るとのこと。さらに、「このほか、キリスト教やユダヤ教、アレヴィー教(シーア派とゾロアスター教、トルコのシャーマン信仰との融合宗教)やイェズディー教(シーア派とキリスト教、ゾロアスター教、ユダヤ教の融合宗教)のクルド人たちもい」るようです。


(3)福本次郎氏は、「映画はフセイン政権崩壊直後のイラクを舞台に少数民族という微妙な立場の祖母と孫が辿る行程を通じ、親が子を思う心と子が親に抱く理想、そして彼らを見つめる人々の視線を描く」、「アーメッドと祖母の道程は無常と絶望に満ちている。それでも盗んだり騙したりする人間がいなかったのは、この救いのない物語に一条の希望の光をもたらしていた」として70点をつけています。



★★★★☆



象のロケット:バビロンの陽光
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特別展「写楽」

2011年06月28日 | 美術(11年)
 2週間前に終わってしまいました東京国立博物館での特別展『写楽』ですが、東洲斎写楽の浮世絵のほとんど大部分を見ることができるというので、かなり盛況だったと思われます。
 クマネズミも、このブログで以前写楽を取り上げたことでもあり(一昨年11月18日の「夢と追憶の江戸」展に関する記事をご覧下さい)、会期終了間際ながら見に行ってきました。

 とはいえ、写楽の作品(140点、残りは5点)のみならず、参考となるものもあわせて200点以上も浮世絵ばかり見ますと、いい加減うんざりしてきます。
 特に、写楽のものは、特徴のある第1期のもの(大首絵)だけで十分ではないか、と思いたくもなります。というのも、第2期以降になるとかなりの作品が全身像となって、あまり写楽の特徴が生きてこないようにも見えるからですが。
 それに、どれもこれも役者絵として随分類似していて、余り変化がないのではないかと感じられます。

 しかしながら、そんなことはなく変化は見られるのであり、たとえば最後の第4期の作品について、「衣装や人物の線は単調になり、背景の樹木は描写に対する意識が薄れたような簡略な描写に変化している」、「我々を魅了する写楽の個性は急速に消えていった」、「作品の中に個性豊かな生命力が消え去っていたことが感じられる」などと評する向きもあります(注1)。



 (上記の評言は、上の第4期の「二代瀬川雄次郎の升屋仲居おとわ」について述べられています)

 ただしかし、写楽はわずか10か月程度しか浮世絵制作に従事していませんでしたから、果たしてそんな短い期間の事柄についてそのようなことが言えるのかどうか、むしろ写楽が直後に姿を消したという事実を以て作品を見るからそう見えるだけのことではないのか、などと素人ながら疑問に思えてきます。

 たまたま同じ頃、書店に置かれていた富田芳和著『プロジェクト 写楽』(武田ランダムハウスジャパン、2011.4)を、タイトルの面白さにも惹かれて読んでいました(注2)。



 そうしたところ、驚いたことに同書では、第1期は、役者の顔の特徴をつかむための時期(注3)、それ以降は、その原型のできた顔を使ってブロマイド(全身像)の制作にあたった時期(注4)と分けることができる、と述べられているのです。
 たとえば、



 上の第1期の「藤川水右衛門」と下の第2期の「子育て観音坊」とは、同じ「三代目坂田反五郎」の役者絵なのです。



 確かに、先ず第1期の大首絵を見てから、次に第2期の全身像を見れば、これは同じ役者のものだなとはスグに分かります。
 
 なるほど、そうであれば、どの浮世絵も似たり寄ったりの絵になっているのが納得できるな、後期になると衰退が見られるなどといった解説は眉唾なのかもしれないな(注5)、写楽の浮世絵を西洋の近代絵画と同じような視点から見るのは元々無理があるのだな、などと思いました(注6)。


(注1)展覧会カタログP.212。
  この部分は、東京国立博物館の絵画・彫刻室長田沢裕賀氏が執筆。

(注2)NHKの番組名のようでしたので。
 なお、NHKといえば、5月8日の「NHKスペシャル」で、写楽の正体を追いかける番組が放映されました(「浮世絵ミステリー 写楽~天才絵師の正体を追う~」)。
 その番組の結論としては、本文冒頭で触れた記事で取り上げた中野三敏氏の「斎藤十郎兵衛」説ですが、なかなか興味深い内容でした(この番組については、例えば、「観たい・聴きたい・読みたい」というブログの記事を参照して下さい)。

(注3)同書では、第1期で写楽によって描かれた役者絵について守られた原則は、次の2点だとされています。
 「1.異なった役者は、特徴を明確化してはっきりと描き分ける。
  2. 同一の役者絵は、一目瞭然にわかるように、まったく同じかたちに描く」(P.83)。
 要すれば、「コピーのための原型をつくった」わけです(P.106)。

(注4)同書では、「第2期以降(第1期の1部も含む)は基本的に、原型のコピー・アンド・ペーストによる制作に入る」とされています。
 そして、「日本の写楽論者はしばしば、第1期に写楽の“芸術表現”を開花させ、第2期以降、とりわけ第3期に、短期間に大量の作品を描くことに疲れ切り創造性を失っていった、というような解釈を与えてきた」が、そんな解釈は「まったく不合理である」とも述べられています(P.201)。

 なお、写楽が第2期以降「役者絵としての職人的な技術を向上させ」たのは、同書によれば、「写楽の第2期以降の商品化のために、役者絵のプロ絵師が助っ人をした」ことが反映している、とされています(P.202)。
 そして、同書では、こうした事業の全体(「約10ヶ月で約150点の役者絵を制作して販売展開する」)をプロデュースしたのが版元の蔦屋重三郎だというのです(P.144)。

(注5)同書では、「写楽は、第3期、第4期になると、役者と舞台が厳密に照合出来ないものが現れてくる。これは、写楽が衰退期に入り、作画に集中力を欠くようになったからだ」などといった説明がなされてきたが、「写楽の絵はあとの時期になるにしたがい、厳密にどの舞台かという情報を盛り込むことが、だんだんと重視されなくなっていく」だけのことだ、と述べられています(P.225)。

(注6)ただ、同書は、従来からの時期の分類(第1期~第4期)によって記述されているところ、第2期以降の期に関しては、それぞれの説明が与えられていないように思われます。だったら、前期(従来の第1期)と後期(第2期~第4期)の分類で十分なのではないでしょうか? 

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軽蔑

2011年06月26日 | 邦画(11年)
 『軽蔑』を角川シネマ有楽町で見てきました。

(1)細かなところはほとんど忘れてしまいましたが、かなり昔、中上健次の原作(1992年)を読んだこともあって、映画館に出向きました。

 映画のストリーは大体次のようです。
 新宿歌舞伎町のトップレスバーでポールダンスを踊っている真知子鈴木杏)に入れ込んでいるカズ高良健吾)は、ある事件を引き起こしたことから、真知子を連れて自分の田舎に引きこもります。真知子は、「五分と五分」でなら一緒に生活してもいいと言いますが、カズの田舎に行くと、土地持ちで立派な邸宅に住んでいる両親は、ダンサーとの結婚に反対しますし、カズの遊び仲間も自分を蔑んでいる感じで、居心地の悪さを感じてしまい、東京での前の生活に戻ります。



 その間、カズは、一方で賭博によって多額の借金を負い、他方で再度歌舞伎町に行き真知子を連れ戻してきます。二人は、田舎で正式に結婚をするものの、カズの幼馴染の金貸し・山畑大森南朋)から借金の返済を迫られます。



 これまでのように父親(小林薫)に頼ろうとしたところ、冷たくあしらわれ、また真知子が歌舞伎町で貯めたものを、さらにはカズの祖父のかっての愛人(緑摩子)が自分の持つ店を差し出しても、到底足りるような金額ではないのです。
 切羽詰まったカズは、仲間とともに山畑の事務所を襲いますが、逆にそのことが大変な結果をもたらし、そして、……。

 映画は、現在最も売れている俳優の一人、高良健吾と、クマネズミにはあまり馴染みのない鈴木杏との異色の組合わせがメインとなって展開します。
 高良健吾は、『蛇にピアス』(注1)、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』、『白夜行』などどれをとっても大層印象的な演技を披露しているところ、本作においても、地方の資産家のボンボンで、親から「神の子」(神に祈願してようやく授かった子供)だと言われて育ったカズにピッタリはまっています。



 また鈴木杏も、自分とは合わないと思いつつも男に惹かれてしまうという役を体当たりで演じていて実に魅力的です。



 前半のカズと真知子とがカズの田舎に高飛びするまでは、専ら二人だけの愛の逃避行といった感じですが、それが後半になると、厳しい現実と衝突して最後には悲劇を迎えてしまうわけで、よくある話と言ってしまえばそれまでながら、全体としてマズマズの出来栄えの作品ではと思いました。

 ただ、問題点もないわけではないでしょう。
 物語では、大都市の歓楽街と地方都市との対比が重要な要素と思えるところ、前者はすぐに新宿歌舞伎町と特定できるのに対し、後者は、その地を知らないものにはどこの地方都市なのか全く分からないように制作されています。
 むろん、中上文学を知る者には、和歌山の新宮あたりなのではと推測はつきますが、どうしてそれをすんなり明らかにしないような映像の作りになっているのか、理解しがたい感じもします(注2)。


(熊野川河口付近)

 というのも、このお話が作られた20年ほどの昔にあっては、東京近郊の地方都市ではなく、紀伊半島の奥にある新宮あたりとなると、なかなか簡単には東京から行けそうもなく、そのために地方独特の雰囲気が依然として残っていたのでは、と思えるからなのですが。

 その点は、カズが「神の子」とされ、彼を取り巻く皆が彼をサポートしてしまうところにも、背景として効いてくるのではないでしょうか?関東の地方都市あたりではみかけないような一族に生まれた子供だからこそ、「神の子」と言われても変な感じがせず、一方で儚げですぐにもどこかへ行ってしまいそうな感じながら、他方で周りの者の注目をいつでも浴びてしまうような存在になっているのでは、とも思えます(これには、新宮市の背景に熊野三山が控えていることも、大きく与っているのではないでしょうか)。

 なお、ラスト近くでカズは、真知子の腕の中に傷ついた体を横たえますが、場所は新宮駅前の商店街のようです。



 こうした地方都市の駅前商店街は、今はどこでも同じような作りになっている上に、昼間でも大変閑散としているのではないでしょうか(これは、『書道ガールズ』の舞台となった「四国中央市」でも同様でした)。

(2)中上健次の原作との違いをあげつらうことは何の意味もないとはいえ、違いから映画の持つ意味合いを何か探ることもできるのでは、とも思われます。

イ)原作は、終始真知子の視点に立って書かれているところ、映画は客観的な第3者の立場に立って描かれるのが普通ですから、そうもいきません。
 この映画では、たとえば、カズが元恋人と車の中で関係してしまうシーンには、むろん真知子はいないわけですから、カズの視点というわけでしょうし、父親に向かって土下座して金の融通を頼みこんでいるシーンもそうでしょう。
 他方、真知子が金貸しの山畑にイタリアンレストランで会うシーンとか、土地の銀行員とバス停で会ったりするシーンなどは、真知子の視点と言っていいでしょう。
 これらは、物語の進行上、登場人物の語りで対処することもできるとはいえ、このように描き分けた方が物語が生きてくるものと思われます。

 そして、映画全体としては、カズの方に比重が置かれているように思われます。
 ただ、ラスト近く、一緒に列車に乗って東京に高跳びしようと言いながら、カズは、発車間際になって列車から降りて真知子だけを東京に向かわせます。
 この場合、まずはカズの視点というわけでしょう、走り去る列車の窓を激しく叩く真知子を黙って見送るカズが描かれます。
 その後、カズが傷ついて商店街をふらつきながら歩いていると、戻ってきた真知子がカズを抱きとめます。その際に、もう一度さっきの新宮駅での別れの場面が、真知子の視点に立って描かれる映像―駅に佇むカズを列車内から捉えている映像と、そのカズを見ている真知子の映像―が差し挟まれます。

 これはいったいどういうような意味合いを持つのでしょうか?
 この映画ではここまで、同じ場面を別の視点からとらえ直すことはされていないように思われますから、突然こうした映像が差し挟まれると、観客としては随分と違和感を持ってしまいます。
 それもごく短いカットですから、何のためにこうした映像が必要なのかな、と訝しく思うところです。

ロ)あるいは、突然、傷ついたカズのところに真知子が現れると、それもまた唐突過ぎると観客に思われかねないところから、真知子の映像を差し挟んだのかもしれません。
 こうしたところは、原作とはかなり違った物語の終わり方を映画が行っているために起きたことでしょう。
 原作においては、金貸しの山畑はカズによって殺されはしませんし、カズは自殺したようにも描かれており(毒を盛られたという仲間もいますが)、さらに真知子が以前のように歌舞伎町に戻ってポールダンスをしているところで終わっています。

 一方、映画では、原作と違って随分と陰惨な暴力沙汰が描かれ、結局カズの死に至ってしまい、そこでジ・エンドとなります(注3)。
 こうなるのも、原作が、真知子の視点に立ち、カズと「五分と五分」で生活しようと懸命に生きようとする真知子の姿が主に描かれているのに対して、映画では、カズをむしろ前面に出し、カズと真知子のラブストーリーという面を強調しようとしているからでしょう。

 これでは、中上健次の原作の持つ意味合いが薄れてしまっているのではないかと評する向きもあるでしょう。とはいえ、映画が原作と違ってしまうのは当然であり、むしろエンターテインメントとしての映画という点からは、十分納得できることではないかと思います。

(3)渡まち子氏は、「作品の手触りがあまりに古臭」く、「本作の高良健吾と鈴木杏は大胆なベッドシーンも含めて熱演なのだが、どこか冷めて線が細い現代の若者というムードが漂う。そんな“今”の俳優と、中上作品の世界の情念そのものが、すでにフィットしなくなっているのかもしれない。廣木作品の特徴である、疾走する場面は、破滅へ向かう物語の中、行き場のない純愛に殉じるようで美しく、記憶に残るシーンだった」として50点をつけています。
 また、前田有一氏は、「男と女は対等な関係を保ったまま愛し合えるのか。できる、と信ずる女の純愛を描いた『軽蔑』は、ヒロインを演じる鈴木杏の、初めてのヌードを含めた熱演が見もののドラマである」として55点をつけています。
 これに対して、福本次郎氏は、「刹那的な物語やカメラワーク、音楽の使い方など、映画は70年代を思わせる雰囲気をまとっている。だが、社会に対する問題提起ではなく、カズの資質に収れんさせているところが潔い。結局、カズの生き様は何の教訓も残さない、その純文学的な非生産性が非常に魅力的に映る作品だった」として70点をつけています。


(注1)『蛇にピアス』については、『婚前特急』を取り上げた記事の(2)において触れています。

(注2)原作でも、カズは「田舎に行こう」と言うだけであり、舞台となる都市の特定はされていないので、あるいは映画もそれを尊重したのかもしれません。
 ただ、逆に、劇場用パンフレットのProduction Noteでは、新宮でロケが行われたことが明示されていますし、カズが働く酒屋のライトバンのドアには「熊野酒蔵」のネームが入っていたり、また真知子と土地の銀行員とが会う場所も「浮島」とはっきり書かれた停留所のベンチですから、分かる人には分かるように作られているのでしょう。

(注3)「文藝別冊 中上健次〈増補新版〉路地はどこにでもある」(河出書房新社、2011.5)に掲載されている「廣木隆一監督インタビュー/映画『軽蔑』を語る」の末尾には、監督の談として、「ぼくの中では、ラストシーンはタイトル通りのことなんですけど。世の中の全部、世の中のものごとすべてを軽蔑しようという、真知子の視線で終わりたいという、というのがありました」と記載されているところ、ここまでカズの視点の割合が高いものですから、そんなことをいわれても、という感じです。





★★★☆☆




象のロケット:軽蔑
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クロエ

2011年06月25日 | 洋画(11年)
 『クロエ』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)物語は、大学教授の夫に不倫疑惑を抱いた医師の妻が、娼婦を使って夫を誘惑させて真実をつかみ取ろうとするものの、……、といった展開をしますが、この映画は、ストーリー構成から配役、そして舞台となる建物といった点で、なかなか見応えのある作品だなと思いました。

 まず、次のような点に興味を惹かれました。

イ)妻キャサリンジュリアン・ムーア)が、夫デビットリーアム・ニーソン)を驚かせようと、夫に黙って盛大な誕生日パーティを企画したことがまさに裏目に出て、学生からのごく簡単なメッセージとツーショットの画像が夫の携帯電話にあっただけで、簡単に夫を疑ってしまう、という導入部はなかなかヨクできているなと思いました。
 おまけに、大学教授の夫が、大学でオペラ『ドン・ジョバンニ』に関する講義―それも、主人公の女性遍歴の数について!―をしている場面まで挿入されているのですから、観客もさもありなんという思いに囚われます。

ロ)そのパーティ会場である自宅の豪勢なことといったら(ただ、大学教授と医師の夫婦ですから、これでも中の上といったところなのでしょうか)!
 逆に、こんなに広大な空間を持つ超モダーンな家にわずか三人しか住んでおらず、それぞれが自分の部屋に籠もってしまえば、相互のコミュニケーションが酷く希薄になるでしょうし、キャサリンが自分の悩みを解消する術もなく孤独感を募らせるのも当然では、と思われます。
 キャサリンを演じるジュリアン・ムーアは、表向きは産婦人科医として活躍していながらも、心の中に深い孤独感を抱え持っているという役を実に巧みにこなしており、さらには50歳を超えていながらも実に官能的なシーンも演じていて目を瞠りました。



ハ)特に、キャサリンが溺愛する息子マイケルが、自分に一言の相談もなく女友達を自室に連れ込んだりというように、親離れをし出しているために、キャサリンは一層孤独の闇に落ち込むことになるのでしょう。なにかというとマイケルの行動に、これまでと同じように口を挟もうとしますが、自分たちだってそういうことをしてきたではないか、とデビットからたしなめられる始末です。
 ですから、キャサリンは、デビットに僅かな疑惑を感じると、普通では有り得ない極端な行動をとってしまいますが、それもまたありうるのかな、と思えてきます。

ニ)デビットの行動を探らせるためにキャサリンが雇うのが娼婦クロエで、アマンダ・セイフライド(注1)が演じています。『ジュリエットからの手紙』とは180度違った役どころであり、なかなか一筋縄ではいかない行動をとりますが、彼女はそれを実に魅力的に体当たりで演じています。
 アマンダが上手いなと思ったのは、マイケルとベットインしながらキャサリンの服や靴を見るシーンです。息子のマイケルはキャサリンの代わりにすぎないのだということを、特徴のある眼で示しているのでしょう。



ホ)この映画でも、キャサリンの妄想(デビットとクロエの密会)が映像となって映し出されます。孤独感に苛まれて欝状態に陥って、ちょっとしたことで妄想を抱いてしまい、さらにそれをクロエによって刺激されるのですから、一気にそれが膨張するのもうなずけるところです。
 なおこのところ、こうした映像を見せる作品が増えている感じで、『アジャストメント』のマット・デイモンも、当選確実と思われていた上院選に落選してしまったことから酷く落ち込んで、そのことでパラノイアになってしまったのでは、そして、あの映画の「運命調整局」の話はすべて彼の妄想なのでは、とも受け取れますし、『ブラック・スワン』もギリギリのところまで追い込まれたナタリー・ポートマンの妄想シーンが随分の割合を占めていると思われます。


(2)この映画は一応ハッピーエンド的なラストを迎えますが、とはいえ、デビットは、何の罪もないのにキャサリンから疑われたのですから、いくらそれが誤解に基づくものだとわかったとはいえ、わだかまりが残ってしまうのではないでしょうか?
 それに、息子マイケルが大学を卒業して自立してこの家を離れたら、キャサリンの孤独感はまたもや深まってしまうのではないか(この広い家にはたった二人しか住まないことになるのですから!)、とも思えてきます。
 目の前の問題は除去されたとはいえ、厳しい現実が改善されたわけではないのですから。

 というところから、ラスト近くでデビットは、妻のキャサリンと喫茶店でクロエに会うことになりますが、その際クロエを始めて見るといった態度をとりますが、そしてそのためにキャサリンは、すべてはクロエの嘘だったと悟るのですが、もしかしたらその態度は、デビットの完全な演技によるものではないでしょうか?
 というのも、

イ)デビットは、大学でオペラを講義していましたから、演技の意味を十分わきまえているでしょう。

ロ)クロエの話に拠りますが、彼女がデビットを連れ込むのは植物園ながら、人がほとんど来ない場所だとクロエ自身が保証するのですから、キャサリンがその光景を、妄想にしても思い描けるはずはないのではないでしょうか?



ハ)キャサリン達のいる喫茶店にクロエが入ってきたときに、彼女はデビットを見てハッと驚きます。これは、一度以上デビットに会っているからこその身振りなのではないでしょうか(一度も会っていなければ、誰だこの人はと不審な目つきをするだけではないでしょうか)?

ニ)元々、雇い主であるキャサリンに対し思いを寄せることは、娼婦家業を営んでいるプロのクロエにとっては、タブーの行為ではないでしょうか?

 仮に上記のように考えられるとすれば、キャサリンの妄想と考えられる映像も、あるいは実際のものかもと思え(注2)、そうなると、クロエのキャサリンに対する思いも作り物であって、狙いはキャサリン達の一家からとことん絞りとること、となるかもしれず、それはあと一歩のところ成功するかに見えましたが、……。


(3)この映画でガラスが大きな役割を演じていることは、スグに分かります(注3)。
 なにしろ、映画の最初の方で、キャサリンがクリニックの窓から外を眺めているときに、下の道路で商売をしているクロエを見つけるわけですから。



 また、自宅で開いたデビットの誕生日パーティで、キャサリンが夫からかかってきた電話を受けながら、階下のパーティの様子をガラス越しに見る場面もあります。



 さらに、居間のガラス越しに夫の書斎が見え、夫がパソコンで誰だか分からない相手にメールを打っている姿を、キャサリンは寂しそうに眺めていたりします。

 こうした場面の舞台となっているのは、キャサリン達の自宅ですが、劇場用パンフレットに掲載されているProduction Notesによれば、「建築家ドリュー・マンデルが建てたトロントの“ラヴィーン・ハウス”」を使用したとのこと。

 早速ネットで調べてみますと、いくつかのサイトで、Drew MandelのThe Ravine Houseが取り上げられています。
 たとえば、このサイトでは、“ラヴィーン・ハウス”の画像が何枚も掲載されていますし、またこのサイトでは、建築家Drew Mandelの写真が掲載されており、このサイトでは、映画に彼のデザインした建物が使われることになったことを巡って彼とのインタビューが掲載されています。



 なお、キャサリンがクラシック・コンサートから家に戻る場面がありますが、このサイトによれば、会場の「Royal Conservatory of Music」を出て、「Philosopher’s Walk(哲学者の道)」を経て(注4)、すぐ向い側にある「ROM(ロイヤルオンタリオ博物館)」の前を通ることになるようです。

 このサイトによると、ROMは酷評されているようですが、随分と斬新でモダーンな建物で、上記の“ラヴィーン・ハウス”といい、本映画によって、トロントにある現代建築のいくつかを見て愉しむことが出来ます。

(3)渡まち子氏は、「サスペンスや官能という点では弱いのだが、スタイリッシュな映像を撮るカナダの鬼才アトム・エゴヤンは、鏡を効果的に使って美しい心理ドラマとして仕上げている。欲求不満の人妻の夢をかなえる娼婦という単純な構図ではなく、やがて自我と愛に目覚める女の執念がクライマックスで炸裂。その後の、平穏な家族を見て、安易なハリウッド的収束かとがっかりしかけたが、最後の最後にジュリアン・ムーアが後ろ姿を見せたとき、秘めた愛情が垣間見えて物語に含みを持たせた」として55点をつけています。


(注1)Wikipediaも「サイフリッド」と表記していますが、公式サイトや劇場用パンフレットなどではすべてセイフライドなので、それに従っておきます(いずれにせよ、正しい発音を日本語で表記することは無理な話でしょうから)。

(注2) どうもこのところ、ソウした解釈が成り立つようなストーリーが多いのでは、と思っているところ、ただなんでもかんでも「妄想」で片づけてしまうと、すべては夢物語でしたという解釈と同じように、身も蓋もなくなってしまうので、ここでは逆に、妄想ではなくて真実の映像なのかもしれないと考えてみたわけですが。

(注3)劇場用パンフレットには、評論家・北大路隆志氏のエッセイ「ブルジョワのガラスが砕け散るとき」が掲載されています。そこでは、現代にあっては、「誰もが秘密のない透明性に支配された世界を生きる」が、本作は、「ブルジョワ社会における“透明性”なる理念は虚構である」と主張するのだ、と述べられています。

(注4)Wikipediaで「Philosopher’s Walk」を検索すると、京都の「哲学の道」に関する記事であり、こちらについては別の「Philosopher’s Walk(Toronto)」の項に掲載されています。




★★★★☆





象のロケット:クロエ
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さや侍

2011年06月22日 | 邦画(11年)
 『さや侍』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)これまで松本人志の監督作品は肌が合わないのではと思って敬遠してきたものの、今回の作品は、従来のものとはだいぶ趣が違っているとのことなので、それならと映画館に出かけてきました。
 実際見てみると、わけのわからなさはほとんど見当たらず、落ち着いて鑑賞することができ、ほっとしたところです。

 お話は、脱藩者として捕えられた野見勘十郎(野見隆明)は、30日以内に、同藩の藩主(國村隼)の若君を笑わせないと切腹しなくてはならないことになり、毎日一つずつ技を披露していきますが、若君は全然笑顔を見せず、とうとう30日目になって、……。

 いろいろ興味をひかれる点があると思います。たとえば、
イ)主人公・野見が披露する芸は、最初のうちは、腹踊りとか、どじょうすくいなどレベルが酷く低いものの、途中からは相当大規模な仕掛けを施した芸となります。大部分は、笑いを取る芸というよりも、真面目な芸そのものであり、ですが、それを余りに真剣にやるとなんだかわずかながらもおかしさが伴ってくるといった感じです。
 たとえば、「土とん」は、息継ぎ用の竹だけが地表に見えて野見自身は地面に埋められるところ、その息の継ぎ方(取り付けられている紙の動きでわかります)でおかしみを誘うといったものです。

ロ)最初のうちは、野見と一緒に牢の中に入っている娘のたえ熊田聖亜)に、こんな屈辱を受けるくらいなら自害すべきだと責められます。ですが、途中から、逆にたえの方が、野見の一徹さに打たれて、父親に協力するようになります。たえ役の熊田聖亜の凄さは、そんな切り替えを実にうまく演じてしまっているところにも表れていると思います。



ハ)野見とたえという父娘の関係は、最近見た米国映画、『Somewhere』とか『ソリタリー・マン』でも描かれていて、日米で同じようなテーマを扱っているのだな、と興味をひかれました(『プリンセス トヨトミ』でも父子の関係を取り上げています)。

ニ)主役の野見隆明は、毎日一つずつ芸を披露することをやっていくうちに、演者自身もかなり真剣ないい顔つきになってきているのが不思議です。これは、主人公が、次第に真剣に芸に取り組みだすと、自分に対しても真剣に向かい合わなくてはならなくなる、そしてついに自分は武士なんだということを見出すに至る、という物語の展開からすると、随分と観客を納得させるものであり、ラストのシーンも生きてくると思いました。

ホ)毎日一つずつ見せる芸の一つに人間大筒があるところ、これは、DVDで見たフランス映画『ミックマック』に登場する人間大砲を思い出させます(注)。





ヘ)ラストでは、途中で出会った僧(竹原ピストル)が、野見から託された手紙をたえに読んで聞かせますが、次第にメロディーに乗ってきて、「あなたが父の子に生まれたように/めぐり、めぐり、めぐりめぐって、/いつか父があなたの子に生まれでるでしょう」などと歌うと、実に感動的です。

ト)そのままで終わってしまっては自分らしくないと思ったのでしょうか、松本監督は、ラストの後では、野原に建てられた父親の墓石の前で祈るたえの前に、若君と父親とが現れ3人で踊り出すシーンを映し出します。ここには監督の余裕さえうかがわれるところです(ダメ押しとして、現在のその墓石のところを監督が自転車に乗って通りかかるシーンが挿入されます!)。

 話としては、なんだか『最後の忠臣蔵』のような感じもします。
 そこでは、主君が遊女に産ませた可音が嫁ぐと、主命を果たしたとばかり切腹をして武士であることを天下に示します。他方この映画でも、主人公は、さや侍ながらも最後は武士であることを示します。

 主役の野見隆明に関しては、最初のうちは何か固さが感じられたものの、たとえば「襖破り」の際は圧倒的な気迫を受け取りました(尤も、そうでなければ、あれだけたくさんの襖を次々に打ち破ることなど出来ないでしょうが!)。
 また、その娘たえ役の熊田聖亜の実に落ち着き払った演技も、特筆に値するでしょう。


(注)『さや侍』では、大砲が発射されると、砲弾となった野見は、ほんの僅かの距離しか飛ばず、スグに海の中に落ちてしまいます。
 他方、『ミックマック』の場合、川向こうにある復讐相手の兵器会社に乗り込むために、こちらの河岸から人間大砲を発射しようというわけですが(距離140m)、1回目はトラブルのため真上に打ち上げられ、砲弾となった仲間は川に落ちてしまうものの、2回目は主人公バジルが砲弾となって、見事に成功します。


(2)そこで松本監督の長編第1作『大日本人』(2007年)です。『さや侍』の印象がよかったからなのでしょう、このDVDも面白く見ることができました。



 『さや侍』とは違う点はいろいろあるでしょう。たとえば『大日本人』では、
イ)主人公は、「電変場」で電気を与えられると大男に変身できて、怪獣と戦うことのできる男・大佐藤(松本人志)ですが、映画はその男に対するインタビューを収録しているドキュメンタリー作品、という格好をとっています。

ロ)時代設定は現代であり、また舞台も東京と名古屋です。

ハ)大佐藤には、別居中の妻と8歳になる娘がいて、時々会ったりするところ、画面では娘の顔にはモザイクがかけられており、『さや侍』の“たえ”のような重要性は映画の中では与えられていません(あるいは、“たえ”に相当するのは、大佐藤を操縦する女性マネージャーでしょうか)。

ニ)松本人志が演じる大佐藤は6代目であり、祖父に当たる4代目は養護施設に入っています。おそらく、4代目は戦前派、既に死んでしまった父の5代目は団塊の世代、そして6代目が今の世代というように、現在の日本社会を構成する主な世代をそれぞれで象徴させているのでしょう。
 加えて、最後に登場する赤い怪獣(北朝鮮を象徴?)に対しては、大佐藤は戦わないで逃げ出してしまうのですが、4代目は憤然として戦おうとして簡単にやられてしまうところ、それを救ったのがアメリカからやってきたスーパー・ジャスティス一家なのです。
 こうしてみると、全体として、現代の社会・政治状況をわかりやすく反映させている映画の作りになっていると言えるのでしょう。

 これらの点は『さや侍』では見出し難いものの、とはいえ、『大日本人』では、「締ルノ獣」、「跳ルノ獣」、「匂ウノ獣」、「睨ムノ獣」、「童ノ獣」といった怪獣が次々と登場して大佐藤と戦います。これは、若君を笑わせようとして次々に披露される20以上もの芸と通じるところ(同じ範疇に属するパターンをいくつも映し出す点)があるのでは、と思いました。
 さらにいえば、『大日本人』では、主人公は日本人であることを自覚するに至るところ、『さや侍』でも、武士であることを主人公が自覚しますから、そうしたところを見れば、共通すると言えるかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「随所にトンデモない設定が仕込まれてはいるが、よくよく考えれば、起承転結に添ったこの映画、映画の常識を打ち破ることからスタートしたはずの松本監督は、3作目で“基本”の重要性に気付いたのかもしれない」。「「大日本人」「しんぼる」と不条理劇を作ってきた松本監督は、今回は、演出法でそれまでの映画のセオリーを“ぶっ壊す”。映画の真ん中に野見隆明を放り込んで放し飼いにしたところに、本作最大の“個性”があった」として60点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「主人公が生みだす凍りついた場の空気はそのまま現代の芸人たちが無名時代にライブで体験してきた試練。彼と協力者がネタを思いつき芸に昇華させる過程で、松本人志は“笑い”の本質に迫っていく」などとして50点をつけています。



★★★☆☆



象のロケット:さや侍
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愛の勝利を

2011年06月19日 | 洋画(11年)
 『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』をシネマート新宿で見ました。

(1)この映画は、表題から、ムッソリーニと一緒に終戦直後に銃殺された愛人のことを描いた作品ではないか、と思っていましたが、実際に見てみると、主人公の女性は、第2次大戦が始まる前にすでに死亡していたようです。
 「劇場用パンフレット」からすると、ムッソリーニはかなりの漁色家で、描かれている女性はその内の一人のようです(現在のイタリア首相のベルルスコーニ氏は、ムッソリーニと風貌も似ており、その衣鉢を継いでいるのかもしれません?)。

 映画は、社会主義活動家のムッソリーニが、トリノで警官隊に追われたのを助けた若き女性イーダジョヴァンナ・メッツォジョルノ)が主人公。その後2人はミラノで再会して激しい恋に落ちます。



 当初ムッソリーニは、左派系新聞の編集長をやっていましたが、第1次大戦で負傷したことで英雄扱いされてからは、次第に政治の世界の中心的な存在となります。
 そうなると、私生活で襟を正す必要があるのでしょう、正妻をそばに置き、イーダ(及び生まれた子供)を遠ざけるようになります。
 逆にイーダの方も意地を張るようになって、なんとかムッソリーニに近づこうとします。
 ですが、彼は、はじめはイーダをその妹の家に隔離し、それでも難しいことが分かると、ついに彼女を精神病院に幽閉してしまいます。
 彼女は、実際には精神病患者ではありませんから、なんとかしてそこを抜け出ようとしますが、取り巻く壁は大層厚く、10年以上も閉じ込められた挙句、とうとう1937年に亡くなってしまいます。

 この映画はいろいろ興味深い点があると思われます。
イ)ファシズムの元祖ともいうべきムッソリーニですが、最初はマルクス主義者として社会主義革命を目指していたことは知りませんでした(そういえば、ナチス〔Nazis〕とは国家社会主義ドイツ労働者党でした!)。

ロ)イタリアでは、修道院に精神病院が併設されていたようですが、イーダが隔離されたサン・クレメンテの精神病院は、ヴェニスのサン・マルコ広場から船で簡単にいける島に設けられていた施設で、元は修道院だったようです(現在は、五つ星ホテル)。
(なお、イタリアの精神病院の事情については、『ボローニャの夕暮れ』でも触れました)。



ハ)ムッソリーニが「未来派」の展覧会に行く光景が描かれています。

 なお、未来派には属しませんでしたが、同時代のデ・キリコに関するパリの展覧会についてのBlack Dog氏の記事がここで見られ、クマネズミもDowland名でコメントを送っているところです。ちなみに、下記の画像は、構図がデ・キリコの「街の神秘と憂鬱」(1914年)と類似しているのではないでしょうか?





ニ)ムッソリーニは独裁者として何度も演説をしますが、その場面では当時のニュース映画の映像がそのまま使われています。
 なお、この映画でムッソリーニの役を演じている俳優フィリッポ・ティーミは、顔つきが実際のムッソリーニとはまるで違い、当初は、ニュース映画で見られる実際のムッソリーニとの連続性が感じられませんでしたが、次第に、逆にそのことが、この映画の緊張感を一層高めているのではと感じてきました。

ホ)加えて、この俳優フィリッポ・ティーミは、イーダとムッソリーニの子供の青春時代をも演じています。周りから囃し立てられて、ムッソリーニの物真似をするうちに、自身の精神に変調をきたしてしまうという大層難しい役柄です。



ヘ)精神病院での娯楽として野外映画会が催された折に、チャップリンの『キッド(The Kid)』(1921年)が上映され(一部は映画の中に取り込まれて映し出されます)、この映画を見ていたイーダは、ズッと会えずにいる自分の息子のことに思いが馳せ涙を流しますが、非常に感動的な場面と言えるでしょう。
 この場面に限らず、イーダを演じるジョヴァンナ・メッツォジョルノは、この映画で持てる力を思う存分発揮しており、目に焼き付きます。




 映画では、独裁者ムッソリーニが登場するために、際物的な感じを受けますが、実際に見てみると、むしろ理不尽な扱いを受けたイーダの激しい戦いぶりが終始描かれていて、それもなかなか凝った映像がいくつか作り込まれていたり、また当時のニュース映画も巧みに織り込まれてもいたりするので、際物として葬り去るのは惜しい気がし、正当に評価すべきではないかと思っています。

(2)上で述べたように、映画では、あの独特の風貌をしたムッソリーニが、独特の顔つきと姿勢でバルコニーから国民に向かって演説をする姿が、当時のニュース映画を使って映し出されます。



 これは、ヒトラーの演説風景(ニュルンベルグにおける党大会におけるものなど)彷彿とさせます。



 他方で、三国同盟の片割れであった大日本帝国においては、彼らに匹敵する人物と言えば東条英機首相でしょうが、その演説風景としてすぐさま思い浮かぶのは、明治神宮外苑競技場における出陣学徒壮行会(1943年10月)におけるもの(訓示)くらいでしょう。ただそれも、書かれたものを読み上げながらですから、とてもムッソリーニやヒトラーに太刀打ちなどできるはずもありません。




(3)渡まち子氏は、「黎明期の映画作品をコラージュしながらその裏側に大衆の心理や反ファシズムの思想を込めたマルコ・ベロッキオ監督の演出には冴えが見られる。イーダの愛の深さと孤独な姿を、壮麗な雪景色や鮮烈な未来派のアートを背景に描くなど、随所にアーティスティックなこだわりも。歴史から抹殺された悲劇の女性を演じるジョヴァンナ・メッツォジョルノが圧倒的に素晴らしい」として65点をつけています。
 他方で、福本次郎氏は、「当時の空気を濃密に封じ込めた映像は圧倒的な迫力を生む。さらに過剰なまでに説明的な音楽が平和とは程遠い激動の時代を表現しようとする。その一方で薄暗い夜や室内のシーンが多く、ほとんどのカットで俳優の顔に照明が当たらないため表情が読み取りづらいのはどうしたことか」と40点しか付けていません。
 福本次郎氏は、後者の点について、さらに「暗過ぎて見づらいようでは本末転倒ではないか」と述べていますが、まさにそのようなライティングだからこそ、この映画の異様な雰囲気が醸し出されているのでは、と思えるところです。


★★★★☆




象のロケット:愛の勝利を
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マイ・バック・ページ

2011年06月18日 | 邦画(11年)
 『マイ・バック・ページ』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)こうした40年ほども昔の、それも学生闘争という特殊な事柄を扱った映画なら、入りがかなり悪いのではと思っていたところ、日曜日に見たせいかもしれませんが、吉祥寺の映画館でもかなり観客が入っていました。
 おそらく、人気の高い妻夫木聡や松山ケンイチが出演するというので、若い観客が随分と見に来ていたのではと思われます。

 映画を見てみますと、実際にあった赤衛軍事件(注1)を巡るお話で、主人公の沢田妻夫木聡)は、事件に関与したことで逮捕され、勤めていた新聞社も辞めざるを得なくなってしまいます。
 他方、その事件の首謀者である梅山松山ケンイチ)は、実際には手を下していなかったことから、京都にいたカリスマ的な運動家の指示に従ったまでなどと、警察に捕まってからもなんとか言い逃れようとするものの、裁判で15年の実刑を食らってしまいます。
 こうした背景の中で、沢田は、あくまでも心情左派的な行動をとろうとし、また梅山は、銃器を奪取してカリスマ運動家として世の喝采を浴びようと画策します。

 とはいえ、当時の事情や雰囲気をある程度知らなければ、なんでそんな特異な行動を2人が取ろうとするのか、若い観客にはなかなかついていけないのではないか、と思われます。
 というのも、沢田の行動は、当時の朝日新聞の持っていた雰囲気の中で許されていたものでしょうし(この映画の中でも描かれている1971年の「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」掲載号回収事件くらいから、どんどんその傾向は右旋回していきますが)、梅山の銃器奪取という行動も、三里塚闘争など一連の出来事を踏まえないと唐突過ぎるのではと思われますから。

 でもこの映画では、そうした時代状況と密接に絡みつく事柄ばかりを読み取るべきではないのでしょう。むしろ、この映画については、様々の次元から議論できるといえるでしょう。
 例えば、当時の学生運動や左派の活動をよく知る人は、自分が見聞きしたこととこの映画の映像とを比べて批判できるでしょうし、あるいは歴史的な視点から、当時の学生運動とか新聞社のあり方といった点を議論できるかもしれません。
 あるいは、青春の一時期に何事かに邁進することの意義のような点を取り上げればいいかもしれません。
 また、この映画からは、原作者が述べている「ジャーナリストとしてはあくまでも(取材源の)犯人を秘匿するのか、それとも市民として犯人を警察に通報すべきなのか」(P.126)という問題提起―現在でも依然として未解決の―を読み取ることもできるでしょう。
 ただ、それらについては、既に様々なブログで論じられているようですから、ここで屋上屋を重ねるまでもないと思います。

 この映画では、沢田は、最初のうち、梅山が引き起こす事件についての語り部的な存在であり、言ってみればこの映画の狂言回しのような役割を果たしていますが、ラストまで見てみると、決してそうではなく、ジャーナリストとしての沢田の生きざまをこの映画が描きたかったのだな、と思えてきます。



 先輩が止めるのを聞かずに、CCRの歌が好きで、宮澤賢治の童話を愛読しているということで梅山をどこまでも信じてしまう、心の優しい沢田を、妻夫木聡は大変巧みに演じていると思いました。
 また、もう一方の梅山役の松山ケンイチも、大言壮語ばかりしている偽者の革命家ながらも、実際に「雨を見たかい」や『銀河鉄道の夜』が好きで沢田を信じさせるものを持っている若者でもあるという難役を、いかにもという感じで演じていて感心いたしました。




(2)本作品については、社会学者の大澤真幸氏の論評(注2)がなかなか興味深い点を指摘しています。
 すなわち、同エッセイによれば(かなり大雑把な要約にすぎませんが)、
イ)沢田は、当初は梅山を信じたものの、後になって「裏切られた」と思ってしまうわけだが、そうした2人の「関係は、多くの一般の日本人と連合赤軍との関係を先取りしていた」といえよう(後者の場合、「連合赤軍と名乗る活動家たち」が「あさま山荘にこもり、警察と銃撃戦をした」が、「彼ら活動家をひそかに応援していた日本人はすくなからずいたはず」だが、「連合赤軍のメンバーが逮捕された後」、「総括」のことを知って「状況は一変した」)(注3)。

ロ)沢田があとで後悔する破目になるのは、梅山は「理想を持たない革命家、革命家であることだけを目的とする革命家」である一方、沢田は、「社会を外から観察し続けるジャーナリストではあるが、しかし「理想」なるものに憧れている」のであって、「空虚な革命家梅山の中に、理想を読み込んでしま」い、「梅山に騙され」たからだ。

ハ)もっと言えば、「梅山のような凡庸な人物にも、ユートピア的な期待にあたるものが付着して」いて、「それこそが、宮澤賢治やCCRへの純粋な愛着」なのだが、「沢田はその部分を信じたのである」。

ニ)だから、「沢田が失敗した原因」は、彼の人を見る能力のなさにあるわけではなく、むしろ「他のジャーナリストが見ることができなかったものまでをも梅山の中に見出すことができたこと」にこそある。




 以上は、主に沢田についての一つの見方と言えるでしょう。それでは、梅山に関してはどうでしょうか?
 大澤氏は、最後に挙げた点を別な風にも述べています。
 「未来の方から遡及的に見返したときに十分にとらえられるような潜在的な期待が、まさに現在自体の中にあるのだ」。

 逆に言えば、仮に将来革命が成就した暁には、梅山の「宮澤賢治やCCRへの純粋な愛着」こそが、革命への希求を表していたと理解されるようになるだろう、ということになるのではないでしょうか?

 この点は、もしかしたら、自衛隊駐屯地で起きた事件について自分がわざわざ沢田に語ったにもかかわらず雑誌の記事として掲載されなかったことに関し、梅山が、自分こそが真の革命家だということを世の中にわからせることができたはずだったのに、と沢田を責めるところにもあるいは通じるのかもしれません。
 というのも、革命そのものではなくとも、そこに通じるとみなされる事件を引き起こしたことが分かってもらえれば、自分のこれまでの行動はすべて革命のためのものだったと世の中の人は理解するだろう、と梅山は言いたいのではと思われます。

 こうして考えてみると、確かに、梅山の独りよがりで貧弱な行動を映画で見てきた観客にとっては、自己を余りに過大視しているだけの単なる言い訳にしか思えませんが、ただまったくの遁辞ではないようにも思えてきます(注4)。

(3)映画には、主人公の沢田が映画館に入って川島雄三監督の『洲崎パラダイス赤信号』(1956年)を見るシーンがあります(注5)。
 この作品は以前自分でDVDに収録したことがあるので、棚の奥から引っ張り出して見てみると、映画で映し出されている場面は、冒頭の橋のシーンです(注4)。
 宿泊先に当てのない新珠三千代(蔦枝)と三橋達也(義冶)とが、これからどうしようかと言い争いをして、新珠三千代は、「あんた男でしょ。いやになっちゃう。いつでもあたしにばかり頼るのだから」と三橋達也を責めます(そして、新珠三千代は、折よくやってきたバスに乗り「洲崎弁天町」まで行きます。三橋達也も後を追いかけるのですが、……)。

 『洲崎パラダイス赤信号』で描かれている洲崎パラダイスは、映画で設定されている時代より10年以上も前に廃止されていますから、わざわざその映像の一部を取り入れたのは、時代の雰囲気を観客に分からせるためという訳でもなさそうです。
 おそらく、このサイトの記事が述べているように、原作者の川本三郎氏がその映画が「相当お気に入り」だからなのでしょう。

 ただ、『洲崎パラダイス赤信号』を見ると、本作品に足りないものも見えてきます。仮に、新珠三千代のような大人の女性が登場したら、映画の雰囲気ががらりと変わることでしょう。
 生憎とそんなことはなく、沢田が一緒に映画館に行くようになる相手は、週刊誌の表紙モデルですが高校生に過ぎませんし、また梅山の恋人も20歳の活動家なのです。



 年齢のことはともかく、もう少し女性の役割を大きなものにしたら、この映画もズッと深みを増しただろうにと思った次第です。

(4)映画評論家は、総じて好意的なように思われます。
 まず、福本次郎氏は、映画は「他の者ではない何者かになりたい2人が出会い、己を取り巻く世界と格闘しながら自分とは何かを問い続け、答えを探してもがき苦しむ姿を描く」として80点をつけています。
 また、渡まち子氏は、「薄気味の悪い活動家役の松山ケンイチが、終始、作品をリードしているかに見えるが、最後の最後に、妻夫木聡が涙を流す入魂の演技で一気に形勢が逆転する。苦い後悔と青春の終焉、人と距離を置いて生きる今の孤独な自分。それらすべてがないまぜになった、この泣くシーンは見事だ」として70点をつけています。
 ただ、前田有一氏は、「こうした過去話というものは、「かつて僕たちはこうでした。それなりに頑張ってました、てへへ」では仕方がない。シンパシーを感じられる同世代観客が楽しめるだけでは凡作であり、私としても高く評価はできない」ものの、「幸いにして『マイ・バック・ページ』は、似た過ちを繰り返す人々が目の前にたくさんいるという、偶然の社会情勢によって2011年の今、存在する意義を得た」として55点をつけています。


(注1)陸上自衛隊駐屯地で歩哨中の自衛官が殺された1971年に起きたテロ事件。 なお、詳しくは、ここで。

(注2)雑誌『ユリイカ』6月号「特集 山下敦弘」に掲載された「なんでおれ(たち)はあいつのことを信じちゃったのか?」。

(注3)原作本でも、連合赤軍事件について、「「連帯」や「変革」といった夢の無残な終わりだった」と述べられています(P.205).

(注4)この点は、『ミスター・ノーバディ』についての記事の(2)で取り上げた同じ大澤真幸氏の『量子の社会哲学―革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、2010.10)にも通じるのでは、と考えます。
 そこでは、量子力学との関連性が論じられつつ、「過去の中の「存在していたかもしれない可能性」を救済するということは、現在の体制そのものを変換することを、つまり革命を意味しているのだ」。「今、歴史の中で、輝かしい勝者や英雄として登録されていた死者も、革命の結果によっては、無視される敗者の方へ、遺棄されるクズの方へと配置換えになるかもしれない」云々と述べられています(P.234)。

 ですから、事件で果たした梅山の行動が、なんらかでも革命に連なるものと一度世の中に理解されれば、彼の過去の誇大妄想的な行動も、すべて革命的なものとみなされることになるのかもしれません。

(注5)この橋について、クマネズミには「永代橋」のように思えるところ、川本三郎氏は、『銀幕の東京』(中公新書)において「勝鬨橋」とし(P.40)、他方このサイトでは「吾妻橋」とされています。
 なお、『銀幕の東京』によれば、「洲崎」は、戦前は遊郭のあった場所で、それが3月10日の東京大空襲で焼け野原になったところに「特飲街」(いわゆる赤線でしょう)が出来たとのこと(P.44)。



★★★★☆





象のロケット:マイ・バック・ページ
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ソリタリー・マン

2011年06月15日 | 洋画(11年)
 『ソリタリー・マン』を渋谷のシアターNで見ました。

(1)この映画は、ハリウッド・スターのマイケル・ダグラスが嫌われ者の役を演じている点が、興味を引くところでしょう。

 以前は車のディーラーとして目覚ましい実績を上げたベン(マイケル・ダクラス)ですが、詐欺事件を起こし栄光の座から転落して、現在は一人ぼっちになっています。
 それでも、蓄えで食いつないでいられる間は、愛人のジョーダンメアリー=ルイーズ・パーカー)の娘(イモージェン・プーツ)にまで手を出してしまう奔放振りを示すこともできますが、蓄えが尽きてマンションから追い出されるとホームレスも同然。
 大学時代のクラスメイトで、今は大学のそばでレストランを経営している男(ダニー・デヴィート)のもとに転がり込むのがやっとの有様。ベンが羽振りのよかった時は、この男のことなど念頭にまるでなかったものの、現時点では、この男の方が着実に生きてきたことがわかります。



 彼は、落ちぶれてしまったベンに対しても実に暖かい態度を見せるのですが、娘がベンとベットをともにしたことを知った愛人・ジョーダンの怒りによって、ベンはそのレストランにもいられなくなります。
 その上、その愛人が手配した男に酷く殴られ、入院する破目にも。
このとき駆けつけてくれたのが、実の娘。彼女は、自分の友人にまでベンが手を出したために、縁を切ると宣告していたにもかかわらず。
 そして、最後には、別れた妻(スーザン・サランドン)も、なんとなく彼を支えてくれそうな雰囲気にもなって来るのですが、……。

 冒頭に「マイケル・ダグラスが嫌われ者の役を演じている」と申し上げましたが、ここで少しベンの行動について検討してみましょう。

イ)確かにベンは、様々の女性に手をつけますが、それはすべて相手との合意に基づいてのことであり、彼ばかりを一方的に攻めるのは酷な感じがします。
 ただ、付き合っている女性の娘とベッドインしてしまうのは仕方ないとしても、その後もベンがしつこくつきまとったがために、娘が真相を母親にバラしてしまい、結果として取り返しのつかない事態を招いてしまうのは、何度も修羅場を切り抜けてきたはずの色男ベンにしては、あるまじき行為でしょうが。

ロ)ベンが、実の娘の友人に手をつけたり、恋愛指南をした学生(ジェシー・アイゼンバーグ)の愛人にちょっかいをだしたりするのは、実にマメマメしい限りであり、ベンくらいの年の男では、普通、とても真似が出来ないのではないでしょうか?

ハ)元々、ベンは6年ほど前に心臓に問題があると診断され、以来精密検査を断って、むしろ残された時間を十分た楽しもうと生きてきたフシがあります。そうした点からも、彼の行動はそんなに非難されるべき筋合いのものではないように思えます。

ニ)ベンは、妻とは離婚していますが、彼女の部屋にベンが行くと、昔ベンと共に過ごしていた頃の調度品がそのまま使われていて、彼女は決してベンを憎んでなどいないことがわかります。

ホ)ラストでベンは、別れた妻の車に乗れば、暖かい棲み家が待っていることは十分に分かっていながらも、若い美貌の女が通るとどうしても目を向けてしまいます。雀百までといったところですが、また実に首尾一貫した行動ともいえるかもしれません。さあ彼はこの先いったいどうするのでしょうか、……。




 映画では、マイケル・ダグラスはもちろんのこと、そのほかの俳優もそれぞれ持ち味をいかんなく発揮していますが、やはり注目されるのがジェシー・アイゼンバーグでしょう。



 彼は、映画では、ベンの出身大学の後輩の学生を演じていますから、ハーバード大学を主な舞台とする『ソーシャル・ネットワーク』を引きずってしまっているのかしらと思いましたが、実際にはこの映画の方が先に制作されていて、日本での公開が逆になってしまったというところのようです。

 全体的にみると、ベンを演じるマイケル・ダグラスの存在感が突出してしまっているような感じながら、それでも脇を固める俳優陣は実に手堅く、まずまずの出来栄えの作品ではないか、と思いました。

(2)こうしてみると、なんだか『Somewhere』におけるジョニーの20年後の姿といった感じもしないではありません。
 その映画におけるジョニーの場合、賞を受け取りにイタリアに飛ぶくらい人気がある俳優ながら、付き合う女のどれとも心が通わず、別れた妻に連絡をとるも、色よい返事などもらえず、残るは娘だけといった状況でした。
 あるいはこれがこれから20年くらいたつと、ジョニーは人から忘れられてしまい、付き合う女に依然として事欠かないものの、やはり別れた妻がまだ忘れられず、また娘の存在が唯一の心の支えというように、本作品のベンと似たシチュエーションになっていないとも限らないのではないでしょうか?




★★★☆☆





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プリンセス トヨトミ

2011年06月12日 | 邦画(11年)
 『プリンセス トヨトミ』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見てきました。

(1)映画を見る前には万城目学氏の原作(文春文庫)を読まずにいて、予告編の感じだけから、実際の映画では大阪が東京支配に反旗をひるがえして反乱を起こすような、とても壮大な物語を見せてくるものとばかり思っていました。
 ところが、どうも期待だけが先走り過ぎたようです。
 というのも、
イ)「大阪国」の成立ちなどについて、色々のエピソードがあって面白いはずと思っていたところ、大阪国総理大臣・真田幸一中井貴一)が長々と演説するだけで、そこには映像としての面白みが全く感じられません。

ロ)わずか5億円の補助金で大阪国が運営されるほど至極小さな組織(事務職員もOJOにいるほんのわずかの人数です)にもかかわらず、府庁舎前に人々が結集するのがよくわかりません(せいぜい区役所前ぐらいなのでは)。

ハ)折角大勢の人々が府庁舎前に集まっていながら、起こる事件と言えば、会計検査院副長・松平元堤真一)が腕にかすり傷を負う程度というのは、なんともはやという気になります(注1)。

ニ)大阪というと、食い倒れでお好み焼きという定番と、さらに姦しい「大阪のおばちゃん」という定型が、ここでもやっぱり登場するのでは、見ている方としてはやり切れなくなります(後者は、『阪急電車』にも登場しました!)。



ホ)大阪国の幹部の名前が「真田」であったり「長宗我部」であったりするのはわかりますが、東京から調査にやってくる検査院調査官の名前が「松平」や「鳥居」(綾瀬はるか)というのも、ある意味でよくわかりません(徳川家は、豊臣家を倒しましたが、大阪や関西に敵対していたわけではないと思われます。むしろ明治維新政府の方が都を東京に移すなどして、大阪・関西方面の地盤沈下に大きく寄与したのではないでしょうか)。



ヘ)一番問題と思われるのは、ラブストーリーがうまく組み込まれていない点です。最低でも、大阪国のプリンセスの年齢をもっと引き上げて、東京から来た会計検査院調査官・旭ゲーンズブール岡田将生)と恋愛関係になるくらいのことは描き出してもらわないと、ファンタジーとしてもうまく成立しないのでは、と思われます(そういえば、渋谷ル・シネマで『ゲンズブールと女たち』が公開されています)(注2)。

ト)それに、大阪国の父親は子供に告げるべきものを何か持っていて、真田幸一もそれを自分の息子・大輔に語りますが、真田幸一は、その語り継ぎは、父親が自分の死期を悟った時に1回限り行われると自分で言いながら、その後死ぬ素振りをまったく感じさせませんが、これはどうしたことでしょう!

 総じて言えば、映画は、物語の基盤をなす骨格が描かれたにすぎず、この骨格に肉付けして描かれるはずの面白い物語の部分がそっくり抜け落ちてしまっているのでは、との印象を持ちました。
 それは続きがあるから?でも、映画は、調査が終わって堤真一らは新幹線で帰京してしまうのですから、そんなものなど望むべくもないのでしょう!

(2)いろいろ難癖ばかりつけましたが、実はこの映画は、一つ許せるものを持っているのです。そうして、それがクマネズミにとっては大きな要素なものですから、実際の評価はそんなには下がりません。

 その許せる点とは何か。実は、クマネズミにとっては、トンネルとか洞窟といった地下構造物が画面に登場すると、他の点はともかくも、何しろその作品を許したくなってしまうのです。
 例えば、3度も映画化されている『八つ墓村』とか、韓国映画『黒く濁る村』。

 本作品の場合、OJOと大阪城の真下にある大阪国の国会とがトンネルで繋がっています。そのトンネルが至極立派なのが玉に瑕ながら、やはりそれがあることで、この映画を許そうかという気になってしまいます(注3)。



 ところで、堤真一は、このところ映画でよく見かけますが、どうしてどれも女っ気に乏しい役柄なのでしょうか(この映画でも『SP革命篇』でも独身として描かれている感じですし、『孤高のメス』でもいい感じの間柄になっていた看護婦から身を引いてしまいます)?
 せっかく、綾瀬はるかと共演しているのに、怪しい場面など全くなく、せいぜいがソフトクリームを一緒に食べているくらいのことしか描かれていません。

 尤も、冒頭近くで、松平元は決して笑わない男だとわざわざ強調されていましたから、この映画は、彼を笑わせることが大きな狙いなのかしらと思っていたら、案の定、ラストで、眠りこける綾瀬はるかを見てニカッとするシーンがあり、これはさすが彼ならではの笑顔だなといたく感心いたしました。

 なお、ラストといえば、帰りの新幹線の車窓から、富士山の麓に十字架が沢山立ち並んでいる光景を堤真一が目撃しますが、これは、冒頭で綾瀬はるかが目撃するシーンに対応しているのでしょう。
 そこで、これは、彼ら三人の大阪出張はすべて、催眠術(集団の)をかけられて見た夢の中の話なのでは、と思ってみたらまた面白いのではないでしょうか?すなわち、往きに富士山の麓に十字架を見ることによって、三人は催眠術にかかり、また還りにそれを見ることで、催眠術からさめるという具合です。むろん、こうした催眠術を仕掛けたのは、大阪国です。

 とはいえ、このところ、『マーラー 君に捧げるアダージョ』でも『アジャストメント』でも、クマネズミのレビューは、“妄想”とか“夢”といったものに逃げ込もうとする傾向が強すぎる感じもします。といった次第で、これは単なるお遊びということにしておきましょう!

(3)この映画では、上に書きましたように、大阪国においては、父親が息子に伝えるべき如何にも重要そうな事柄がなにかあるかのように描かれています。
 ここで、なぜ父親から息子という男性路線しかないのか、父親から娘へは何も伝えないのか、シングルマザーに育てられた息子は、親のいない子供は?、などと茶々を入れても仕方のないところでしょう。何しろそれが大阪国なのですから!
 むしろ問題は、いったいここで伝えられるものは何なのか、ということでしょう。それさえわかれば、女性路線がなぜ存在しないのかなどといった疑問が解消するかもしれません。

 真田幸一の演説からすると、それは大阪国の存在・成立ちだと考えられるところです。
 ただ、そうだとすれば、個々の親子にとって随分と抽象的な事柄とはいえないでしょうか?わざわざ1時間という時間を設けて、大阪城の真下に設けられたトンネルという特別の場所において、親子が水いらずで話すというのに、余りに水臭い話の中身ではないでしょうか?そんな貴重な機会ならば、どうして自分たち自身の個別のこと、内密なことを話さないのでしょうか?
 それに、そんな事柄なら、何も無理して男性路線でなくとも、という気にもなってきます。

 さらに、ラストで松平元が大阪城下のトンネルを一人で歩いて行くと、途中からすでに亡くなっているはずの父親(平田満)が亡霊の姿で彼と一緒に歩きだします。それを松平元は感じ取りますが、別に両者の間で会話などなされているようには窺われません。
 これが象徴するように、父親から息子にわざわざ伝えるべきご大層なものなど、実際には存在しないのではないでしょうか(注4)?

 昨年見た園子温監督の『ちゃんと伝える』も、タイトルから明らかなように、同じようなことが描かれていました。
 ただ、その映画についての記事の中で、クマネズミは、次のように書きました。
 映画のタイトルから、〝ちゃんと伝える〟べき事柄、例えば、〝自分はこのように生きてきた、自分はこのように考えている、こんなことをやり残した〟などといった親密な内容の事柄が、映画の中で口にされるのではないかと思っていたところ、実際にはそうしたご大層なことではなく、単に“癌で余命いくばくもない〟というくらいのことを伝えたいだけなのではないか、としか思えませんでした。

(4)渡まち子氏は、「国家予算が豊臣の末裔を守ることにどう使われているかを描かないことや、個性豊かなはずの大阪女をまったく無視したストーリー、商店街の少年と少女の物語に魅力がないことなど、ツッコミどころは多い。だが、後半に大阪中の男たちが集結する場面は、不思議と胸が熱くなる。登場人物の名前に、豊臣、徳川両陣営の歴史上の人物を配するなど、歴史好きをニヤリとさせる仕掛けも楽しかった」などとして55点をつけています。
 福本次郎氏は、「公然の秘密を自分だけが知らない不安と緊張がスクリーンからにじみだし大阪の街が異次元空間のように思えてくるほど不気味なリアリティを伴う演出にのめり込んでしまう。さらに歴史から隠ぺいされた出来事を人知れず守る人々の存在が、「ダ・ヴィンチ・コード」風のミステリアスな知的興奮を刺激する」として60点をつけています。


(注1)原作では、銃で撃たれるのは真田幸一の方ですが(P.455)、劇場用パンフレットに掲載されている脚本担当の相沢友子氏の談話によれば、松平元の心変わりを観客に受け入れやすくするように、彼が撃たれることにして、「病院で1ストロークを置いてから結論を出す展開にした」とのこと。なるほど、そうであれば納得がいきます。

(注2)原作では、「鳥居」は男性の調査官であり、「旭ゲーンズブール」が女性なのですが、映画ではそれが正反対になっています。おそらく、綾瀬はるかの出演が先に決まっていて、しかし綾瀬はるかが原作の「旭ゲーンズブール」(ハーバード大卒で、内閣法制局出向経験のある超エリート)を演じるには余りにもイメージが違い過ぎるということで、役柄が入れ替えられたのではと、単なる憶測ですが思われます。仮にそうであれば、観客側がとやかく言ってみても始まらないでしょう。

(注3)そういえば、大阪夏の陣で、プリンセス・トヨトミの祖先(国松)と松平元の祖先とが対峙するのが、大阪城の横穴(「真田の抜け穴」)でした!
 こうした「穴」を大阪国がプレイアップできるとしたら、東京から大阪にやってくる調査官達が、“鼻先の長い”新幹線に乗っていたり、車中などで“先の尖った”ソフトクリームを“舐めたり”するのと組み合わせれば、幼稚な精神分析は可能かもしれませんが、まあフロイトが登場する『マーラー 君に捧げるアダージョ』を引き摺りすぎている、と言われるのがオチでしょう!

(注4)原作によれば、より具体的には、「合図」(指定の「場所」にひょうたんが5個以上置かれる)を見たら大阪城に参集すること、とされています。ただ、そんな事務的なことを伝えるのであれば、5分もかからないでしょう。




★★★☆☆





象のロケット:プリンセス トヨトミ
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アジャストメント

2011年06月11日 | 洋画(11年)
 『アジャストメント』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)映画の原題は「Adjustment Bureau」ですから(原作のタイトルも「Adjustment Team」)、専ら運命の調整を業務とする人たちを描いている作品ではないか、と思われるかもしれません。
 ですが、「運命調整局」に勤める職員をメインとするには、ずいぶんとちゃちな仕事ぶりですし、なにより映画の内容にも余り沿いませんから、邦題を「アジャストメント」にしたのではと思われます。ただそうなると、邦題が何を意味しているのか映画を見ないことにはわからない、という仕儀になってしまいますが。

 実際のところは、「運命調整局」のことはサブとして、マット・デイモンとエミリー・ブラントとのラブ・ストーリーをメインと考えた方がわかりやすく、またそうだとすればまずまずの出来栄えなのかなと思いました。

 マット・デイモンは、このところ、『ヒア アフター』とか『トゥルー・グリット』などでよく見かけ、その生真面目な風貌から好感を持っているのですが、この映画でもその良さがいかんなく発揮されていると思いました。彼が演ずるデヴィット・ノリスは、最年少で下院議員に当選し、今度は上院議員にというところで過去の詰らないことが暴露されて、その快進撃も頓挫してしまいます。



 まさにそういうところに現れたエミリー・ブラントなのですから、マット・デイモンが、『ヒアアフター』の料理教室で出会った女性の場合とは違って(女性が自分の前から消えてしまうと、やはり自分はダメなのだと諦めてしまいます)、「運命調整局」の業務を出し抜いてなんとか彼女と一緒になろうとするのもよくわかります。
 他方、エミリー・ブラントは、『サンシャイン・クリーニング』では大きな失敗をしてしまう妹を演じていましたが、この映画では将来性あるダンサーのエリースを随分と魅力的に演じています(前衛的なモダンダンスをするには今少しという感じが否めないものの)。




 こうした2人の前に立ちはだかるのが「運命調整局」の職員というわけです。



 彼らは、自分たちのトップ“チェアマン”の壮大な意向を実現させるために、彼らが前もって定められているはずの定められた道からそれてしまうと、様々な手段を使って元の道に軌道修正しようとするのです。
 ですが、よく考えてみると、これでは大変おかしなことになってしまうのではないでしょうか?
 というのも、前もって定められていることをもって「運命」というわけですから、映画のように、ちょっと「運命調整局」の職員が居眠りをしてしまうくらいで「運命」が狂ってしまうのでは、とても受け入れ難い感じがしてしまいます。
 それも、マット・デイモンが出向く会社で「運命調整」をせざるを得ず、その時間に彼が会社に到着しないようにする必要があったから、というのですが、こうも「運命」が簡単に狂うようでは、調整しなくてはならない人が大勢出現して、とても調整局の職員ごときの手には負えない事態に陥ってしまうのではないでしょうか?
 というのも、現実の人々は、それぞれが孤立無援状態で独立して動いているわけではなく、相互に何重にも緊密につながりを持っているのであり、一つを調整したら、その歪みは他の人にも必ず及んでしまい、実際にはとても収拾がつかなくなってしまうのでは、と考えられるからです(定まった道からそれた人の軌道を修正するだけで済むはずがありませんから!)。

 ですから、こうした「運命調整局」の話は、彼ら2人のラブスト―リーを盛り上げるための単なる背景であって、それをも組み込んだ全体はよくあるお伽噺(たとえば、美女をわがものにするために様々な試練を克服する王子様のお話―ブリュンヒルデを見出すジークフリートなど)といってみたらどうでしょうか?

(2)この映画の原作は、文庫本(「ハヤカワ文庫SF」)で47ページほどの短い短編であり、かつ雰囲気もまるで違っています。文庫本の短編集を編集した大森望氏は、「小説版にはラブストーリー要素アクション要素も(ついでに“どこでもドア”要素も)皆無なのだ。本篇を読んでから映画を見た人は唖然とするのでは」と書いているほどです(P.456)!

 ちらっとその短編(浅倉久志訳)を覗いてみると、マット・デイモンに相当するのは不動産会社に勤務するエド。すでにルース(エミリー・ブラントに相当?)と結婚しています。エドは、運命調整局の書記の失敗によって、脱力化された区域に入ってしまい調整中の作業を目にしてしまいます。運命調整局の御大は、エドの釈明を聞きいれ、脱力化されるのは免れて帰宅しますが、……。

 この短編を読んでみてちょっと不思議に思うのは、運命調整局の話は、すべてエドが物語っているだけという点です。そして、エドの行動に疑問を持った妻のルースに、「あのいまいましい事件ぜんたいがぼくの心の産物」とまで言うのです。これは、自分たちのことをしゃべったら脱力化するぞと運命調整局の御大から脅かしを受けて、エドが必至になって考えついた言い訳なのかもしれませんが、他方で、もしかしたらエドが語る運命調整局の話は、すべてがエドの妄想と言えるのでは、とも思えてきます(注)。

 となると、この映画においても、少なくとも運命調整局の職員が登場する場面は、未来の出来事ではなくて(未来の出来事にしては、持ち物や服装などが酷く古臭い感じがします)、すべて上院選落選で酷く落込んでしまったマット・デイモンの妄想だった、と考えてみたらどうなるでしょうか?
 さらには、エミリー・ブラントも、彼の妄想の中の人物にすぎない、としてみたらどうでしょうか?なにしろ、マット・デイモンが奈落の底にあるというお誂えの時に、彼女はこともあろうに男子トイレの中から忽然と現れるのですから!
 あるいは、皆同じ格好をしている運命調整局の職員というのは、どこかの精神病院の職員であり、妄想を抱きがちなマット・デイモンの行動をずっと監視している人たちだ、と考えてみたら?

 この映画は、観客の方であまり詰らない“妄想”に耽らずに、そのままロマンティックなラブ・ストーリーとして楽しむべきなのでしょうが、こんな事を考えながら見てみるのも、あるいは面白いかもしれませんよ!


(注)ここらあたりは、粉川哲夫氏の「シネマノート」4月15日掲載のレビューにある「原作では主人公のパラノイアとして描かれる」をヒントにしています。
 なお、当該短編において、運命調整局の御大は、エドを解放する際、ルースにこの一件を「たんなる一過性の心理的発作―現実逃避だと思わせなければいかん」と述べていますから、エドの「ぼくの心の産物」という言い訳は、その御大の言葉に沿ったものと一応は考えられます。
 とはいえ、だからこの言い訳が実際を表してはいない、ということにもならないでしょう。




(3)渡まち子氏は、「物語は「ボーン」シリーズのようなキレのいいアクションとはほど遠いものだ。誰からも支配されない自分自身の“運命”を取り戻す目的も、世界や人類を救うのではなく、あくまでも愛のため。このこじんまりとした物語は、紛れもなく恋愛映画」であり、「映画は最終的に、あきらめずに闘えば道は開けるというまっとうなメッセージへと辿り着く。意外なほど健全で前向きな作品なのだ」として60点を付けています。
 また、福本次郎氏は、「これはコンピューターに頼る現代社会のメタファー」であり、「作品はデヴィッドとエリースの逃避行を擬して、戦わなければ人生すら権力に操作されれかねない恐怖を描き切っていた」として60点を付けています。
 他方、前田有一氏は、「サスペンスとして本作が致命的なミスをしているとすれば」、それは「「調整局」の正体を、登場直後に明かしてしまっている点であ」り、「この瞬間、「人知を超えた能力を持つ組織」から逃げ切って愛を成就させられるか、との重要な(かつ唯一の)スリルが失われた」などとして40点しか付けていません。



★★★☆☆




象のロケット:アジャストメント
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