映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ひつじ村の兄弟

2015年12月25日 | 洋画(15年)
 アイスランド映画『ひつじ村の兄弟』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)カンヌ国際映画祭「ある視点部門」でグランプリを獲得した作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は北アイスランド。
 冒頭では、随分となだらかな山を背景にした牧草地をグミーシグルヅル・シグルヨンソン)が歩いています。2頭の羊を見つけ、抱きついて、「ルリカよ、モット食べろ」と言います。
 さらに、隣の牧場〔兄のキディーテオドル・ユーリウソン)が管理しています〕との境にある柵を治したりしていると、隣の牧場の中に羊の死骸を見つけます。
 そして、そのソバにいた1頭の羊を、グミーは抱え上げてキディーの家に届けます。

 別の日でしょうか、グミーは、自分の羊のうちの1頭をバギーカーに乗せて家を出ます。



 すると、隣の家のキディーのバギーも羊を乗せて出てきて、グミーを追い越します。



 二人は、今年の羊の品評会に自分の自慢の羊を出そうというのです。

 品評会の結果は、僅か0.5点の差でキディーの羊がグミーの羊をおさえて優勝します。
 面白くないグミーは、皆が品評会の後のパーティーを楽しんでいる最中に、その会場を抜けだします。
 というのも、キディーとグミーは兄弟とは言いながら、この40年間互いに反目しあっていたからです(注2)。

 品評会の会場を去る際に、グミーは、優勝したキディーの羊を触ってみて「なんだか元気がないな」とつぶやきます。
 そして、連れて戻った自分の羊をバスタブに入れて、ゴシゴシ洗います。
夜になると、グミーは、隣家のキディーの羊小屋に忍び込んで、優勝した羊の歯茎とか目を入念に調べます。

 翌朝、グミーはトラクターに乗って近所の家に行き、そこの主人に「キディーの羊が病気にかかっている。スクレイピーだ。よりによって、優勝した羊が」と告げます。

 スクレイピーにかかっているとなると、不治の伝染病ですから、この辺りで飼育されている羊を全て殺処分しなければなりません。
 さあ、どうなるのでしょうか、………?

 アイスランド映画は始めてながら、隣り合わせの牧場で羊を飼う兄弟を巡って描かれる本作では、長い年月にわたる兄弟間の確執が、恐ろしい伝染病に羊が感染してしまう事態を迎えて次第に変化していく様子が映し出され、なかなか興味深い作品になっています。それにしても、なだらかな山間に広がる牧場は広大で、実にゆったりとした印象を見る者に与えるものの、冬の吹雪となるとそのすさまじさは想像を絶し、アイスランドの地理上の位置というものに思いを致させます。

(2)グミーとキディーの確執の原因が何なのか本作では描かれていませんが(注3)、低い山が連なるあまり変化のないベッタリとした風景を見ていると、それが40年も続いてしまったのも分かるような気がしてきます。
 加えて、兄弟はどちらも結婚はしておらず、更には家政婦も雇っていませんから、仲を取り持つ人が誰も見当たらないことになります(注4)。



 でも、完全に関係が途切れてしまっているわけでもなさそうで、グミーは、それとなくキディーに気を使ったりします(注5)。
 キディーも、自分の羊がスクレイピーにかかったのはグミーのせいだとして(注6)、グミーの家に銃弾をぶち込んだりするものの、ギミーの地下室に隠されているものを発見した時は、自分と同じ思いを弟がしていると悟り、二人の間の確執が解けていくのです。
 ここらあたりの描き方が本作の優れているところではないかなと思いました。
 それに、本作にはユーモアも見受けられます(注7)。

 アイスランドの片田舎という地域性に依存した作品ながらも、かなりの普遍性を同時に備えたものになっていると思いました(注8)。
 ただ、せっかくのアイスランド映画ですから(注9)、若い女性として獣医のカトリンシャルロッテ・ボーヴィング)が少々登場するだけというのは寂しい気がしました。

(3)『週刊文春』掲載の「シネマチャート」では、例えば、森直人氏は、「牧歌的どころかハードコアな抉り方に驚く。酪農の現実問題と共に、密着性の高い辺境の人間関係に迫る。後半は圧巻だ」として★4つをつけています。
 遠山清一氏は、「作品冒頭の牧歌的な情景の中で不仲な二人が、ひつじたちに気を配る姿から悲惨な出来事をとおして命を懸けた和解を示唆していくストーリー展開に希望への光と温もりを感じさせられる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、アイスランドのグリームル・ハゥコーナルソン
 原題は「Hrútar」(英題は「RAMS」)。

(注2)風貌からすると、二人とも65歳以上の老齢者のように見えます。

(注3)グミーの話によれば、父親が兄の相続を認めなかったために、キディーの管理する土地の所有権はグミーが持っているとのこと。そんなことからすると、遺産相続に絡んで確執が生じたのかもしれません。

(注4)ギリギリで連絡をする必要がある場合には、キディーが飼っている犬が手紙などを相手に届けています。

(注5)キディーが酒を飲み過ぎてグミーの家の前で倒れこんでしまった時には、グミーは、キディーを家の中に入れて、服を脱がせてソファーに寝かせ、その上に毛布をかけてやったりします。

(注6)どうやら、自分の羊がキディーの羊に負けたのを妬んで要らぬ告げ口をグミーがしたんだと、キディーは考えたようです。

(注7)例えば、上記「注4」の時とは別に、キディーが酒を飲み過ぎて家のソバの雪の上で倒れこんでしまっているのを発見したグミーは、ショベルカーを持ち出してきて、そのアームの先端に取り付けたバケットの中にキディーを入れ込むと、そのままショベルカーを動かして街の病院の玄関先まで行き、そこにキディーを置いたまま、再び自分の家に戻ってきてしまいます。

(注8)といって、国境を接する2つの国の間のいがみ合いまでもこの映画から読み取っていく必要性もないように思われます。

(注9)何しろ、アイスランドで知っていたのは、地熱発電と金融危機ぐらいなのですから。



★★★☆☆☆



象のロケット:ひつじ村の兄弟
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森のカフェ

2015年12月22日 | 邦画(15年)
 『森のカフェ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

(1)若い哲学研究者が主人公の映画だと聞き面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、タイトルが映し出された後、主人公の哲学研究者・松岡管勇毅)のモノローグ。
 「近所が騒がしいので引っ越した。この新しい家の周囲は緑が多く、時々こだまが窓から流れてくる気配がする。けれど、論文が書けないのは相変わらず。医者に根を詰めるなと言われているものの、寝ているわけにはいかない。とはいえ、こうも書けないのでは、のんびりしているのと同じ。気晴らしに出かけることにした」。

 次いで、「哲学者と妖精、そしてコーヒー」という字幕が映し出されます(注2)。

 松岡は、机の上のパソコンをたたんで、家を出て、付近の公園を散歩します。
 「陽の光が恋しかった。ここ数日、家に閉じこもっていたから」とのモノローグ。
 しばらく歩くと、木々の間に椅子とテーブルが設けられているところに出ます。



 松岡は「この場所が好きだ」と言いながら、椅子に腰を掛け、分厚いノートと万年筆をかばんから取り出してテーブルに並べます。

 ですが、「こうしても書けないことに変わりはない。今日はよしとしよう」とつぶやくと、画面の焦点がぼやけてきます。
 すると突然、若い女性(若井久美子)が現れ、「いらっしゃいませ。森のカフェにようこそ。何になさいますか?」と尋ねるのです。



 松岡は「わけが分かんない。とにかく今は忙しい」と答えるのですが、その女性は「だからといって、無銭飲食していいことにはなりません。いまから注文してください」と言います。
 松岡は「いつからここがカフェに?メニューは?」といぶかしがると、彼女は「本日オープンしたばかりですから、メニューはありません」と答え、松岡が「じゃあキャラメル・マキアートを」と注文すると、彼女は、ポットに入ったコーヒーをカップに注いで、「森のカフェのオリジナルブレンドです」といって差し出します。
 松岡は、「勝手なカフェだな」といいながらもそのコーヒーを飲みますが、次第に眠くなって寝てしまいます。
 しばらくして目を覚ますと、彼女もコーヒーも消えています。松岡は「森の妖精にからかわれたのか」とつぶやきます。
 さあ、彼女は一体何者なのでしょうか、………?

 本作は、若い哲学研究者が論文作成に悩んでいる時に、郊外の森で出会った妖精かと見紛う女子大生が歌う歌を耳にして、論文を無事に仕上げることが出来、また女子大生の方もその歌の歌詞の続きを書けた、といったストーリーです。主人公の専攻する哲学方面の議論がなされたりするとはいえ、むしろ本作は、ヒロインが歌う歌と、東京の西部にある森林の素晴らしい光景とが主役の作品ではないかと思いました。

(2)本作で強く印象に残ったのは、主人公の松岡が散歩をする木々の鬱蒼と茂る公園の光景です(注3)。こんなにもたくさんの樹木がある公園が住まいの直ぐソバにあり、サンダルでも履いて出かけて行き、森の中に置かれている椅子に座って静かに読書でもできたらどんなに心が落ち着くことか、と溜息が出てしまいます。
 そして、そんな森の中なら、若井久美子が扮する妖精が登場するのも十分あり得ることだと思えてしまいます。
 まして、ギター伴奏であんなに綺麗な歌声を聞かせてもらったら(注4)!

 でも、問題点もあるでしょう。
 主人公の松岡は、大学院の博士課程にいて、大学で哲学を教える熊谷教授(永井秀樹)の指導のもとで博士論文の作成にいそしんでいる最中ではないかと推測されます。
 ただ、映像を見ていると、熊谷教授の「哲学」の講義の出席しているのは女子学生ばかりの感じがします(注5)。
 全体の印象からしても、松岡が通っている大学は女子大のように見えるのですが、仮にそうだとしたら、そうした大学の大学院にどうして男性の松岡が所属しているのか、よくわかりませんでした。

 そんなつまらないことはさておき、松岡が博士論文として取り組んでいるテーマは、デカルトが打ち立てた「心身二元論」の克服というような問題のように思われます(注6)。
 ただそれは、これまで大哲学者が総力を上げて取り組んでもなかなか解けなかった難問ですから、松岡が書きあぐねてしまうのも無理はありません。
 そうしたところに、若井久美子が扮する妖精が出現して、「風のにおいと ぼくらがいることの謎は 誰にもとけやしないさ」、「いつのまにか 言葉が なにかを見えなくしている」などと歌い、挙句、「あなたの心は壊れていない。無い物が見えるのじゃなく、他の人が見えていない物が見えるだけ。あなたが誰かを見ているとしたら、誰かがあなたに会いに来ているということ。見えている限りその人はいる」とまで忠告するのです。
 この忠告に触発されて、松岡は論文作成に拍車がかかります。
 ただ、論文の審査会では、清水教授(志賀廣太郎)が、「君は、物と知覚は同一である、見えることは在ることだ、と言いたいわけだ」とまとめ、「じゃあ、幽霊はどうなる、ハムレットは父親の幽霊を見たが、それは在るのか無いのか?」と質問すると、松岡は、「私の説からは、他の物と同じように存在します。ただ、存在の仕方がいささか変わっているだけのことです。コーヒーもペンも、自然科学の真実によって存在するのではなく、生きることの中で存在するのです」と答えます(注7)。

 哲学に素人のクマネズミにはなかなか議論に付いて行くのが難しいところですが、よくわからないのは、例えば、若井久美子の妖精は松岡にとってどのような位置づけにあるのかという点です(注8)。
 あるいは松岡は、自分が森でうたた寝をしていた間に見た夢の中の出来事にすぎないと思っているのかもしれません。ただ、松岡はそのことを友人の橋本一郎)に話しているようですから(注9)、単なる夢・幻とは思っていないフシがあります。
 または、松岡が彼女を妖精だと考えているとしたら、そして自分の説に従って妖精として存在する者だとみなしているとしたら、友人の悟とどう違うのでしょうか?悟の意見は煩いと言って撥ね付けるのに対して(注10)、どうして彼女の意見の方は受け入れようとするのでしょうか?
 そうではなくて、常識的に松岡が、彼女は実在の人間(付近の女子大生)だとわかっていながら(注11)、ふざけて妖精のように取り扱っているだけだとも考えられます。ただ、そうだとしたら、悟とはどこがどう違うからそう考えるのでしょうか?

 ここで問題となりそうな事柄は、清水教授が言うような「幽霊が存在すると信じるか、否か」といった二者択一で片付くものではないのではないか、「在る」(あるいは、「実在する」)といった言葉の意味合いなどについて、もっと多方面から検討した上で判断する必要があるのではないか、という気がします(注12)。

 とはいえ、本作は「哲学的コメディ」とされているのですから(注13)、そんな難しそうな問題は脇にどけておき(少なくとも、クマネズミには手に余ります!)、綺麗な森のなかでの松岡と妖精との戯れを愉しめば良いのではないかと思います(注14)。

(3)フリーライターの遠藤政樹氏は、「おしゃれで楽しく、そしてちょっとシニカルでビターな味わいが楽しめる。リズムや長さも心地よく、劇中歌が思いのほかクセになる」と述べています。



(注1)監督・脚本は榎本憲男

(注2)本作は、この他、「もう一つのカフェ」とか「So What?」など幾つかの章に区切られています。

(注3)この景色については、榎本監督が初日舞台挨拶で、「東京のずっと西の方」「シブリっぽいところ」「『耳をすませば』のモデルになっているところ」と述べています。
 ネットで調べてみると、こうした記事から、京王線の「聖蹟桜ヶ丘」駅を起点とする一帯であることが分かります。
 でも、アニメ『耳をすませば』(この拙エントリの「注1」で若干ながら触れています)では、少女があまり森のなかに入っていかないので、ネット掲載の画像でも森のなかの様子がよくわかりません。一度現地を探検してみる必要がありそうです。

(注4)何しろ、若井久美子は音大出身で、東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』(2015年)でコゼット役を演じているのですから。
 なお、彼女が本作で歌う歌「いつのまにかぼくらは」の歌詞は、公式サイトの「music」に掲載されています。

(注5)少なくとも、テストに合格せず補講を受けるのは女子学生だけだと思います。

(注6)病気で入院した熊谷教授に代わって補講をする松岡が選んだテーマが「心身二元論」であり、彼は、「それは、物の世界を力学的に説明し、生き物を死んだ物として扱う世界観だ」などと話し出します。

(注7)松岡が主張しているのは、劇場用パンフレットに掲載されている榎本監督のエッセイ「哲学について私が知っている二三の事柄」に従えば、「知覚の因果説」に対する批判というように思われます。
 あるいは、「実在論」に対する「現象主義」ということになるのかもしれません。
 そしてここまでくると、映画『幻肢』(この拙エントリをご覧ください)で取り扱われたラマチャンドランの説などに話は接近してきます〔なにしろ、その映画では、「幻肢」によって「幽霊」を説明する論文を作成する研究者が登場するのです(ただ、こうした説明方法では、「知覚の因果説」によることになるかもしれませんが)〕!
 更に進めば、この拙エントリで取り上げましたメルロ=ポンティの「知覚の現象学」にもアプローチできるかもしれません!
 といいましても、クマネズミは哲学には全くの素人、これ以上深入りすることは出来ません。

(注8)他にも考えられる問題としては、例えば、森のカフェで松岡と若い女性がツーショットで映し出される場面がありますが、これは誰のどのような視点からのものと考えればいいのでしょうか?通常の映画の場合は、“神”の視点ということでお約束事として扱われますが、本作のような“哲学的”なテーマを取り扱っている場合には、一度検討してみてもいいのかもしれません(むしろ、松岡と悟のツーショットの方を問題とすべきかもしれませんが)。

(注9)友人の悟から、「そんなわけないだろう。そもそも、そんなメルヘンチックなこと言っている場合なのか?」と叱責されてしまいます。

(注10)悟の方は、すでに論文を仕上げているようです(松岡における悟の位置づけから、このことが意味するのは、現在の哲学界の空気を読んだ上で書かれる論文なら既に作成済みだ、ということでしょうか)。

(注11)松岡は、その女性に対して、「幻覚が酷い」と打ち明け、彼女が「お酒?」と尋ねると、彼は「頭がおかしい」と答えます。ただ、こんなことは、彼女を悟と同じ“幻覚”だとみなしているのなら、松岡は言わないでしょう(なお、その女性は、映画の中では、森野洋子という名の女子大生ともされています)!

(注12)さらに言えば、妖精まがいの女性は、松岡に対して、松岡が医者から処方してもらっている薬を飲まないように勧めますが、統合失調症による幻覚は、はたして清水教授の言う「幽霊」と同じように取り扱えるものでしょうか?
 そもそも、統合失調症による幻覚症状が現れた場合、患者は、それが存在するものだとして付き合っていけばそれでかまわないのでしょうか?医者が処方する薬を飲むことによって幻覚症状が収まってしまう患者も多いのではないでしょうか(だからこそ処方されるのではないでしょうか)?そして、薬によって消えてしまう“幻覚”ならば、果たして「実在する」ものだといえるのでしょうか?

〔追記:上野昴志氏は、ここに掲載されている記事の中で、「論文審査の場で、志賀廣太郎の教授が、かつて東大総長についた某映画評論家そっくりの演技を披露する」と述べていますが、そういえばまさのその通りでした!〕

(注13)劇場用パンフレットの「Introduction」の冒頭に記載されています。
 また、公式サイトの「introduction」にも、「まずは楽しく笑って見ていただき」と述べられています。

(注14)なにしろ、松岡と悟との関係の合わせ鏡のように洋子(若井久美子)には友人の由美伊波麻央)がいるのですから!



★★★☆☆☆


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アンジェリカの微笑み

2015年12月18日 | 洋画(15年)
 『アンジェリカの微笑み』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本年4月に亡くなったポルトガルのオリヴェイラ監督が101歳の時に制作した作品(2010年公開:注1)というので、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、詩人のアンテロ・デ・ケンタルの言葉(注3)が引用された後、河沿いに走る道路と市街(注4)の夜の景色を対岸から撮っている映像が、タイトルクレジットの背景としてしばらく流れます。

 次いで、雨が降る中、石畳の道を車が走ってきて、FOTO GENIAの看板のある家の前で止まります。
 車から傘をさした男が降りてきて呼び鈴を鳴らしますが、何の反応もありません。
 ようやく3回目で2階に明かりが点き、傘をさしながら女がベランダの戸を開けて出てきて、階下の男に向かって「どなた?」と尋ねます。
 それに対し男は、「ポルタス館の執事だが、奥様が写真屋を呼んできてと言っています」と答えます。
 すると、2階の女は、「もう夜中よ。それに夫はポルトに外出中で、明後日にならないと帰らない」と言います。
 そこへ別の男が通りかかり、「趣味で写真を撮っている男を知っている。ユダヤ人だが」と言うので、困っていたポルタス館の執事は「是非お願いします」と言って、その男を車に乗せます。

 更に画面は、下宿先に一人で住んでいるイザクリカルド・トレパ)の部屋。
 イザクは、中央に置かれたテーブルの上でラジオらしきものを修理しています。ですが、なかなかうまく行きません。いらついて、同じ机の上にあった数冊の本を下に落としてしまいます。その中には、表紙に“ダビデの星”が描かれている本があります。
 そこへ下宿の女主人ジュスティナアデライド・テイシェイラ)がやってきて、「下にポルタス館の執事が来ている。そこの奥様が娘の写真を撮って欲しいそうで、あなたに来てもらいたいとのこと。あの方のご主人はとても偉い方だ」というので、イザクは「行きます」と答えます。

 雨の坂道をイザクが乗った車が登って行き、ポルタス館に到着します。
 「結婚したばかりの妹のアンジェリカピラール・ロペス・デ・アジャラ)が亡くなり、母が思い出に写真を、と言っています」と、尼僧(アンジェリカの姉マリアサラ・カリーニャス)がイザクに告げます。

 カメラ(注5)の入ったかばんを下げたイザクは、姉マリアとともに館の中に入っていきますが、さあどんなことになるのでしょうか、………?



 本作は、若い二人の純愛を幻想的に描き出していて、とても101歳の監督の手になるとは思えないほどのみずみずしさを湛えています。その上、ショパンのピアノ曲(注6)が流れる中に、いろいろな対立構造がうかがわれ、なかなか興味深い作品となっているなと思いました。

(2)本作の主人公イザクが、姉のマリアらに連れられて部屋の中に入って行くと、周囲の椅子に親族が座って見守る中、アンジェリカの遺体は白い衣装に包まれて寝椅子に横たわっています(注7)。



 アンジェリカの死に顔は大層穏やかなのですが、イザクが写真を撮ろうとしてファインダーを覗きピントが合った瞬間、驚いたことに、アンジェリカが目を開けてイザクに微笑みかけるのです!
 見ている方としては、本作はホラー映画なのか、はたまたコメディ映画なのかと思ってしまいますが、ファインダー越しに見る微笑むアンジェリカの美しさに見入ってしまい、イザクがたちどころにアンジェリカに心奪われてしまうのもよく分かる感じになります。
 そして、イザクの目にアンジェリカの幻影が映るようになって、二人で河や市街の上空を飛んだりするのですが、その姿は、実に単純な映像ながらも、それこそ幸福感にあふれています。

 他方、イザクの下宿先の女主人ジュスティナは、いかにも下世話な庶民代表という顔。下宿人たちが話す高級な話(注8)には乗らないものの、イザクについては母親のように接します。なにしろ、ポルタス館に行った日から、イザクは彼女が用意する朝食をほとんどとらなくなってしまったのですから(注9)、心配するのも無理はありません。
 そればかりか、イザクが夜中に発するうめき声で夜も眠れないほどだ、ともジュスティナは他の下宿人に言い、イザクには「こんな生活を続けていてはダメ。体に注意しなくては」と注意します。

 そのイザクが暮らす下宿の河を隔てた対岸に古くからのぶどう畑があり、イザクが双眼鏡を使ってよく見ると、その畑で鋤を振るい労働歌を歌いながら昔ながらに働く労働者が何人もいます。イザクは、慌てて部屋を飛び出し彼らのそばまで行き、その働く姿をカメラに収めます。
 そして、ぶどう畑からもう一度自分の下宿のある対岸を見ると、下宿よりやや離れたところにカトリックの教会が見え、アンジェラの葬列が古くからのしきたりに従って進んでいくのが見えます。

 他方、イザクは、石油関係の仕事をしているということですし、また下宿のベランダから見えるすぐ下の道路には、タンクローリー車が何台も轟音を立てて走ってもいますし、また下宿人たちが食堂でする会話の中でも、「現在の経済危機で、河の開発計画が中止になった」とか「大気汚染が問題」といったことが話題になりますから、現代的要素のまっただ中にいる感じでもあります(注10)。

 こうした様々に対を成すものが、何か時間が止まっているような殺風景な感じのイザクの部屋の映像(注11)と、その外の日常的な動きのある光景の映像とが交互する中で描かれていて、なんとも言えない不思議な雰囲気を見ている者にもたらします。

 騒々しい映画を普段見つけているせいか、こうした物語的な起伏が少なく動きも総じて少ない作品を見ると、逆に心が洗われるような感じがしてきます。

(3)渡まち子氏は、「100歳を越えた巨匠が最後に残したのが、こんな甘美なラブ・ストーリーだとは。この不可思議な世界観は唯一無二のものだ」として65点をつけています。
 中条省平氏は、「今年106歳でついに亡くなったマノエル・ド・オリヴェイラ監督の最後から2番目の長編。非の打ち所のない完成度の高さと、変幻自在の手管の妙を共存させ、見る者を映画的至福の境へと誘ってくれる」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 山根貞男氏は、「一番の驚きは全編のみずみずしさで、101歳の作品とは思えない。青年と美女の時空を超えた滑空が示すように、映画の自由奔放さを確信する巨匠の精神が若々しいのである」と述べています。
 小梶勝男氏は、「スクリーンの中で、世界は詩となり、生と死が曖昧な中、美だけが静かに輝きを放つ。映画の、そしてオリヴェイラの魔力というほかない」と述べています。



(注1)日本では、新藤兼人監督が100歳で亡くなり、99歳の時の作品『一枚のハガキ』が遺作となりました。

(注2)監督・脚本は、『夜顔』のマノエル・ド・オリヴェイラ
 原題は「O Estranho Caso de Angélica 」(英題は「The Strange Case of Angelica」)。

(注3)「遥かなる天の百合よ 枯れてもまた芽生えよ 我らの愛が滅びぬように」(公式サイトの「ストーリー」より)。

(注4)ロケ場所は、ポルトガル北部に流れるドウロ河と河沿いの町レグア

(注5)本作でイザクが使用するカメラはデジタルではなく、フィルムを使う旧来の小型一眼レフ。
 カメラは古いものの、そして携帯こそ登場しないとはいえ、イザクが乗ってポルタス館に行く車は新しい型ですし、映画の時点は現代なのです。

(注6)ショパンのピアノソナタ第3番など(マリア・ジョアン・ピレシュ演奏:彼女の演奏映像はこちら)。
 クリスチャン新聞の遠山清一氏は、「ショパンのピアノソナタ3番ロ短調3楽章「ラルゴ」の旋律にのって、死者の美しさに囚われた魂が、夢の中でアンジェリカとの“完全愛”を確信するイザクの悩ましさと憧憬が美しく描かれていく」と述べています。

(注7)時計の音が午前3時を知らせます。

(注8)下宿人の一人が「イザクには絶望が現れている」と言うと、他の下宿人が「誰もイザクの過去を知らない。オルテガ・イ・ガセットが「人は人と人との環境である」と言っている。人は過去の延長だ(その過去を知らないのだからイザクのことはわからない)」と混ぜっ返したりしますし、また下宿人の技師がブラジルの女技師クレメンティナを連れて来て、物質と反物質などの話をします(なお、反物質という言葉を聞いて、イザクは耳をそばだてます。あるいは、アンジェリカに結びつけているのでしょうか)。

(注9)たまに食堂に顔を出しても、イザクは心ここにあらずといった感じでコーヒーを飲むだけで、他の下宿人が話している話題に入り込もうとはしません。
 なお、イザクの住んでいる下宿では、ヨーロッパのホテルと同じように、朝、コンチネンタルの朝食(パン+コーヒー)が食堂に用意されます。

(注10)対岸のぶどう畑にも、現代のブルドーザーが入ってきて畑を機械で耕したりしますし(イザクは、その様子もカメラに収めます)。

(注11)イザクは、その部屋で写真の現像をし、出来上がった写真をロープに洗濯バサミで吊るします。その中のアンジェリカの写真を見ると、アンジェリカがイザクに微笑みかけるのです。
 なお、イザクの部屋の映像は、ベランダへの出入り口を画面の中央に据えるアングルが多用されていて、動きの少ない画面がより一層固まったような感じになります(イザクがベランダを向いていない場合でも、ワードローブの鏡が画面の中央に置かれます)。





★★★★☆☆




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杉原千畝 スギハラチウネ

2015年12月15日 | 邦画(15年)
 『杉原千畝 スギハラチウネ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『イン・ザ・ヒーロー』で好演した唐沢寿明の主演作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、昭和30年(1955年)の東京。外務省の一室。
 外務省の関満滝藤賢一)が、外国人(実はニシェリミハウ・ジェラフスキ)の杉原との面会要請に対し、「センポ・スギハラですか。そのような者は、現在も過去にもおりません」と答えます。さらに、その外国人は、「何かの間違いでは?リトアニアで確かにあの人に会った。世界の何千という人が覚えている。再会する約束をして、この査証をくれました。センポが私たちに命をくれたのです」と粘るものの、関満は「お引き取りください」とにべもありません。

 次いでタイトルが映し出され、副題として「Persona non grata」とあります(注2)。

 そして画面は、昭和9年(1934年)の満州国に。
 走る列車の中で、満州国外交部の杉原千畝唐沢寿明)が食堂車を通って客室の中に逃げ込みます。
 その後をピストルを持った男が追いかけてきて、杉原は捕まりそうになるところ、女(実は白系ロシア人のイリーナアグニェシュカ・グロホフスカ)がその男をビンで殴って杉原を救出します。
 杉原は、「サンキュー、イリーナ」と言って、彼女が途中まで着かかっていたドレスの背中のボタンをとめます。

 さらに、満州国ハルピン(注3)で。
 杉原と関東軍将校の南川塚本高史)が話しています。
 南川が「あなたほどソ連に精通している人はいない。素晴らしい情報ですな。ただ、あなた方外交官はいつも平和主義だが、男子たるもの戦わねばならないのだ」と言います。

 南川が立ち去った後、現れたイリーナが「なぜあんなやつと?」と尋ねると、杉原は「確実な方法をとった。利用するだけだ」「それにしても、なんとかしてモスクワに行きたいものだ」と答えます。それに対して、イリーナは、「ロシアは消えてしまった。戻る事はできない。私はもう必要ない。今夜が最後よ」と言います。

 その夜、鉄道の操車場の近くで潜んで事態の推移を見守る杉原。
 さあ、一体何が起こるのでしょうか、杉原がこれからどんな役割をはたすことになるのでしょうか、………?

 本作は、ユダヤ人救出に助力した外交官として知られる杉原千畝の半生を映画化したものですが、第2次世界大戦の複雑な動きの中で描き出さざるをえないため、どうしてもそちらの説明に時間をとられてしまい、杉原の動きとなると、通り一遍で表面的なものになってしまっているきらいがあります。もっと杉原本人の行動に寄り添った形で描いた方が面白いものが出来上がったのでは、と残念に思いました(注4)。

(2)本作の主人公の杉原千畝がユダヤ人救出劇で成し遂げた功績については、昨年の夏に来日して安倍総理と面会したシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)の名誉理事長レオ・メラメド氏が、救出されたユダヤ人の一人だったことからも(注5)、決して過去のものではないことがわかります。

 また、杉原のヴィザ発給について、日本政府が完全にNOと言ったわけではないという指摘がなされていますが(注6)、反論もなされていて(注7)、「どうして政府の許可を待たずに独断でユダヤ難民にヴィザを発行し続けなければならなかったか」(注8)を解き明かそうとする本作の立場も十分にありうるものと思います(注9)。

 とはいえ、問題点もあるように思われます。
 本作は、タイトルこそ「杉原千畝」とされていますが、彼自身については、総じて表面的なところにとどまる描き方がされているような感じを受けます。
 例えば、本作では、本省との電報のやり取りは1回だけ描かれていたように思いますし、ヴィザ発給も淡々と行われたように見えます(注10)。



 とはいえ、ヴィザ発給に関する本省とのやり取りは本作における一つの要といえますから、もう少し味付けがあっても良かったのではないでしょうか(注11)?

 また、上記(1)で触れた昭和9年のエピソードですが、杉原が危ない橋を渡っている様子がヴィヴィドに描き出されていて、映画の出だしとしては悪くないように思います。
 ただ、問題の夜にソ連兵らの行動を見て、杉原が「彼らは機関車を盗んで、それを鉄屑にして再度日本に売る気だ」と言ったり、突然、南川が率いる関東軍が登場してソ連兵らを撃ち殺したりするものの、それがどんな意味を持っているのか、映画からではよく理解できませんでした(注12)。

 さらに、最初の結婚については一切触れられていません(注13)。
 それに、「満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻とその一族に渡したため」、千畝は「無一文にな」り、幸子との再婚後の「赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった」とされています(注14)。
 ですが、映画からそんな様子は微塵も感じ取ることは出来ません。
 むしろ、小雪が演じる妻・幸子は、日本人妻としてかなり類型的で非個性的に描かれているように思いました。



 素人考えながら、本作が、早稲田大学を中退してハルピン学院に入学した辺りから描き始め、より杉原本人に寄り添うようにして映画を制作していったらどうだったでしょう?
 特に、ハルピン学院で学んだ根井・在ウラジオストック総領事代理(二階堂智)の役割は、ユダヤ人救出劇の上で大きなものがあるのですから(注15)、その時代の杉原を描くことに意味があるのではと思えます。
 尤も、様々の関係者が存命中でもあるのでしょうから、本作以上に人間関係に入り込んで描き出すのは難しいのかもしれませんが。

(3)渡まち子氏は、「映画は生真面目な作りだが、決して退屈ではない。それは杉原千畝その人の人生があまりに劇的だからだ。歴史の裏側で活躍した日本人を知るいい機会である」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「エア御用プロパガンダの様相を呈するライバル東映の「海難1890」に比べ、「杉原千畝 スギハラチウネ」は見事な出来映えである。それはチェリン・グラック監督が日本育ちとはいえ外国人で、ある程度客観的な視点でこの史実を描くことができたからだろう」として75点をつけています。
 読売新聞の多可政史氏は、「他のホロコーストを題材にした映画に比べ、ユダヤ人虐殺の残酷なシーンは、その事実が伝わる程度にとどめた印象だ。チェリン・グラック監督は、目を背けたくなる映像の多用に頼らず、極限に生きた人間の物語という筋を通し、戦争を語りきっている」と述べています。



(注1)監督は、『サイドウェイズ』のチェリン・グラック

(注2)「Persona non grata」については、本作の公式サイトの「杉原千畝 資料館」の「「ペルソナ・ノン・グラータ」とは?」をご覧ください。

(注3)英語名はHarbinで、例えばWikipediaも「ハルビン市」となっていますが、本作では「ハルピン」とされているので(例えば、公式サイトの「杉原千畝 資料館」)、ここでも「ハルピン」とします。

(注4)出演者の内、最近では、唐沢寿明は『イン・ザ・ヒーロー』、小雪は『探偵はBARにいる』、大島・駐独大使役の小日向文世は『予告犯』、塚本高史は『恋愛戯曲~私と恋におちてください。~』、濱田岳は『予告犯』、二階堂智は『セイジ-陸の魚-』、幸子の兄・菊池役の板尾創路は『at Home アットホーム』、滝藤賢一は『予告犯』、満州国外交部の大橋役の石橋凌は『ハラがコレなんで』で、それぞれ見ました。

(注5)石井孝明氏のこの記事を参照しました。

(注6)例えば、この記事における元ウクライナ大使の馬渕睦夫氏の発言(「例えもし日本国がNOと言ったのを杉原さんが書いたとして日本政府は当然NOと言いますよね。だから杉原さんはそんなことは分かってるんで、NOと言ってきたら出すわけがないんで、YESと言ったから出したんです」)。

(注7)例えば、この記事では、「……杉原副領事は同指示(訓令)に従わず、行先国の入国許可未了の者、所持金の不十分な者に対しても査証発給を継続したため、本省より同訓令を厳守するよう注意を受けている」とする外務省欧亜局西欧第二課の見解(1994年)を引用しています。

(注8)本作の公式サイトの「イントロダクション」より。

(注9)本件については、当時の外務省からの訓令にある条件(「避難先の国の入国許可を得ていること」と「避難先の国までの旅費を持っていること」)をどの程度厳しく解釈するかに依っているような気がします。それを厳密に解釈すれば、杉原の大量ヴィザ発給は本省訓令違反になるでしょうが、形式的なものと解釈すれば、暗に本省もユダヤ人受け入れやむなしと認めていることにもなるように思えます。
 この場合、形式上の目的地はオランダ領事代理のヤンが与えていますし、旅費についてはユダヤ人組織による支援があったようですから。
 それと、杉原が発給したヴィザは、「滞在拾日限」の通過ヴィザ(「Transit Visa」)に過ぎませんから、形式がまずまず揃っていればかまわなかったのかも、とも思えるところです。
 いずれにせよ、根井・在ウラジオストック総領事代理やJTB社員の大迫濱田岳)らが存在しなければ(モット言えば、日本政府の黙認でしょう)、このユダヤ人救出劇は成功しなかったでしょうが、それでもまずリトアニアで杉原がヴィザの大量発給を行わなければ何事も起こらなかったわけですから、杉原の功績は大きなものがあるように思います。

(注10)この記事によれば、杉原は、少なくとも2回ヴィザの発給に関し外務省本省と電報のやり取りをしており、また、ヴィザの発給も随分の回数に分けて行われているようです。



(注11)なお、この記事には、「日本の通過ビザさえもっていれば、ソ連側もソ連通過ビザを出す、との確認が取れていた」(P.9)とのこと。そこで、日本のヴィザがとれれば、ユダヤ人たちは救われることになるのでしょう(でも、米国に入国したい場合には、米国のヴィザはどうするのでしょう?)。

(注12)本作の公式サイトの「杉原千畝 資料館」の「「北満鉄道譲渡交渉」とは?」には、「千畝が白系ロシア人ネットワークによって北満鉄道内部のあらゆる情報を調べあげたことにより、ソ連側の提示金額が大幅に引き下げられて1935年3月23日、決着に至った」と記載されていますが、映画で描かれているエピソードとこの記述とがどのように具体的に結びつくのか、よくわかりませんでした。

(注13)Wikipediaの杉原千畝に関する記事によれば、「1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚」したとのこと。
 なお、上記「注11」で触れた記事によれば、「クラウディアがユダヤ系ロシア人であった可能性」があるとのことですし(P.6)、「杉原がクリスチャンとなった動機は、クラウディアの影響が決定的であ」ったとも書かれていますから(P.7)、杉原の生涯を描く際には前妻のことは見落とせないように思われます。
 尤も、同記事では、「杉原に伝わった情報が、このロシア人妻を通じてソ連側に漏れているという疑いもかけられたようである」とされており、また彼女は「オーストラリアのシドニー郊外の聖セルギウス養老院にて、93歳で亡くなった」ともされていることから(P.8)、あるいは本作に登場するイリーナにクラウディアのイメージが投影されているのかもしれません(千畝の諜報活動に協力したイリーナも、ユダヤ人科学者とともにアメリカに渡ったとされています)。
 〔この点については、ブログ『佐藤秀の徒然幻視録』の本作に関するエントリにおいて、「イリーナって千畝の最初の妻、クラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワをデフォルメしたものだろうか」と指摘されているところです〕

(注14)前記「注13」で触れているWikipediaの記事によります。

(注15)本作では、杉原と根井が一緒に写っている写真が映し出され、また二人はハルピン学院の自治三訣「人の世話にならないよう、人の世話をする用、報いを求めないよう」(元々は後藤新平が提示したもの←この記事)を、別々の機会に口にするのです。



★★★☆☆☆



象のロケット:杉原千畝 スギハラチウネ
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裁かれるは善人のみ

2015年12月12日 | 洋画(15年)
 『裁かれるは善人のみ』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)評判が良いのを耳にして、これもまたひどく遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、北極圏の海岸の酷く荒涼とした風景がじっくりと映し出されます。朽ちて竜骨や肋骨がむき出しになった船が、何艘も波打ち際に横たわっています(注2)。

 海岸近くの2階建ての大きな家から主人公のコーリャアレクセイ・セレブリャコフ)が出てきて、外階段を降りて車に乗ります。
 車は街中を通って、駅に。
 列車が到着し、降りてきたディーマウラディミール・ヴドヴィチェンコフ)は、出迎えのコーリャと抱きあい車に乗ります(注3)。



 ディーマは一旦ホテルにチェックインした後、再び車に乗ってコーリャの家に向かいます。

 途中で、警官のパーシャアレクセイ・ロージン)が車を止め、仲間のステパニッチが車の修理をして欲しいと言っている、とコーリャに伝えます(注4)。
 コーリャは、今日はお客があるから無理だと伝えてくれ、とパーシャに言います。
 車の中で、コーリャはディーマに、「ステパニッチはケチな警官。汚職の金を貯めれば5年で車が買えるのに」と話します。

 コーリャの家では、妻のリリアエレナ・リャドワ)と息子のロマセルゲイ・ポホダーエフ)がコーリャたちを待っています。



 リリアが「お早うは?」と訊くと、ロマは「さあね」と答え、さらにリリアが「顔は洗った?猿じゃないのよ」と言うと、ロマは「猿はあんただ。目障りだ」と応じます(注5)。
 そこへ車が到着したので、ロマは勢い良く飛び出して、土産を渡すディーマと抱き合います。

 家の中に入って、ロマがコーリャに「一緒に連れていってよ」と頼むと、リリアは「テストの勉強があるのでは?」と言い、コーリャが「母さんの言うことに従いなさい」というので、ロマは「母さんじゃない」と言って席を外してしまいます。
 ロマを追ってコーリャが席を外した後、ディーマがリリアに「調子はどう?」と尋ねると、リリアは「まあまあ。家を探している。町を出たいの」と答えます。

 この後、ディーマがわざわざモスクワからやってきた理由が明らかにされますが、一体物語はどのように展開するのでしょう、………?

 本作は、ロシア北部の小さな町を舞台とし、自分の土地を強権的な市長に取り上げられそうになった主人公が、モスクワから友人の弁護士を呼んで対抗するものの、徹底的に叩きのめされるという救いのない物語が映し出されますが、強欲な権力対無辜の市民というありきたりな図式に収まらない人間模様を描いていて、140分の長尺ながら、最後まで見る者を飽きさせません。

(2)強欲な市長のヴァディムロマン・マディアノフ)は、コーリャの土地を酷く安い価格で買い上げて再開発しようとし(注6)、それに不服なコーリャは裁判を起こし、1審で負けたためにモスクワからディーマを呼んだのでしょう。
 ディーマも、コーリャの家に着くと、「市長についておそろしい秘密をつかんだ。控訴審で望む判決は得られないだろう。しかし、この情報をネタに奴に考えさせる。急所をつかんで考え直させ、叩き潰す」と大層強気の姿勢を見せます。

 確かに、市長は、ディーマにその情報を見せられると、1年後の市長選のこともあり、慌てふためきます(注7)。
 しかし、権力を持つ市長がそんなに簡単に引き下がるはずがないのは火を見るよりも明らか。
 ディーマも、夜、コーリャの家にやってきた市長の態度を見れば、一筋縄ではいかないことはすぐに分かるのではないでしょうか(注8)?
 にもかかわらず、ディーマは、市長らに簡単に拉致され手酷く傷めつけられると(注9)、すぐさま尻尾を巻いてモスクワに退却してしまいます。
 そのくらいの度胸しかないのなら、どうしてディーマはあのような強気なことをコーリャに言って安心させたのでしょうか?

 そして、本作の転回点とも思えるのが、そんなひ弱な男にもかかわらず、ディーマに心が傾いてしまったリリアが、ディーマの宿泊するホテルに行って、すぐにベッド・インしてしまうことでしょう。
 いくら、コーリャがしがない自動車修理工で飲んだくれだとしても、またロマが自分に少しも懐かないといっても、そしてディーマがモスクワの人間で格好良く見えるとしても、そんなに簡単になびいてしまうものでしょうか?

 それはさておき、この情事が本作にとって重要と思えるのは、悪徳な権力側対イノセントな庶民というそこまでの常識的な構図が破れてしまって、権力側も庶民も同じ穴のムジナではないかという感じが漂ってくるからです(注10)。
 そうなれば、庶民の方では依って立つベースがなくなってしまい、権力側の傍若無人な振る舞いを為す術もなく見守るだけとなってしまうでしょう。

 映画のラストは、コーリャの家があった辺りが整地されて新しくロシア正教の教会が建てられており(注11)、また海岸にはレビヤタン(注12)と思しきクジラの巨大な骨格とか朽ちた船がいくつも転がっている様が映し出されることになります。

(3)中条省平氏は、「監督の、いやロシアの有意の人々にとって、この国への絶望がどれほど深いものか、息苦しくなるほど身に染みて感じられる」が、「これでもかこれでもかと不幸が連続する物語は単調に通じ、登場人物たちの造形もいささか型どおりのような気がする」として★3つをつけています。
 藤原帰一氏は、「小さな町の小さな事件。でも、ひとりひとりの人間にはいろいろな謎が潜んでいるわけで、丁寧な人間描写から深みが生まれます。普通なら文学の特技ですが、 それを映画によって実現したのがこの作品の功績。映画だってまだまだできることがある。現代映画への信頼を取り戻させてくれる作品」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「楽しさも感動もなく、不快感がこみ上げる。だけど映像から目をそらすことができなかった」、「悲しみを閉じこめたような青ざめた空気感の映像美。吹きすさぶ寒風に身をさらす気分になり、苦い後味がいつまでも残る」と述べています。



(注1)監督・脚本は、アンドレイ・ズビャギンツェフ
 本作の脚本は、カンヌ国際映画祭で脚本賞を授賞。
 英題は『LEVIATHAN』。

 なお、本作は、公式サイトの「イントロダクション」によれば、「アメリカで実際に起きた土地の再開発をめぐる悲劇的な事件(2004年のキルドーザ事件)をベースに、無実の罪を問われて財産を奪われた男の物語「ミヒャエル・コールハースの運命」、旧約聖書「ヨブ記」、そしてトマス・ホッブズによって書かれた国家についての政治哲学書「リヴァイアサン」などから着想を得て作られた」とのこと。

(注2)ラストに映し出される光景と同じような感じがしますが、ラストでは、冒頭では見られなかったクジラの骨格が海岸に置かれています。

(注3)ディーマはモスクワの弁護士。20年前、軍隊に入っていた時、コーリャはディーマの上官だったようです。

(注4)コーリャは自動車修理工。警官たちの車をよく修理しているようです。

(注5)リリアはロマにとって継母。ロマは、リリアを母親と認めようとはしません。
 ただ、この点を本作のように強調するのであれば、実母とロマの関係を一度くらい描き出してみても良かったのでは、と思いました。

(注6)市側の買取価格(約140万円)はコーリャの要求額の5分の1ほど(公式サイトの「ものがたり」によります)。

(注7)市長は、一旦は、コーリャの要求額を支払うことをディーマに約束します。

(注8)翌日、ディーマは、市長の不法侵入を告訴しようと警察、検察、裁判所に出向きますが、それらを完全に掌握する市長の差し金によって(特に、裁判所は、市長の思うがままの判決を出すようです)、どこも担当者が不在ということで告発状を受け取ってもらえません。

(注9)ディーマは、身を守る算段を何もせずに、よくも秘密情報を市長に見せてしまったものだと思います。そんなディーマは、何の疑いもせずにアッサリと市長の車に乗り込んでしまい、挙句、殺される一歩手前のところまで追い込まれます。

(注10)客観的に見れば、リリアの不倫は悪徳ではないでしょう。
 でも、例えば、ロマにとっては考えられないことであり、にも関わらず、コーリャはリリアとよりを戻そうとし、その現場をロマは目撃してしまうのです(家を飛び出したロマは、海岸でクジラの骨格を見ながら考え込みます)。

(注11)新しく作られた教会では、市長がなんども相談していた司祭が、「教会はロシアの魂」「神は力ではなく、真実に宿る」「ロシア正教の教えを守り、真実を守ることが大切」などと説教をします。
 そこには、市長とその妻が子どもを連れて列席しています。

(注12)公式サイトの「キーワード」によれば、「旧約聖書に登場する海の怪物。リヴァイアサンは英語表記に準じている」とのこと。



★★★☆☆☆



象のロケット:裁かれるは善人のみ
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ラスト・ナイツ

2015年12月10日 | 洋画(15年)
 『ラスト・ナイツ』を新宿バルト9で見てきました。

(1)クマネズミは、この映画を制作した紀里谷和明監督のこれまでの作品について、世に言われるほど酷くないと思っていて、本作も悪くないのではと期待し、ひどく遅ればせながら映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、領主のバルトーク卿(モーガン・フリーマン)のモノローグで、「暗黒の戦国時代に、選びぬかれた騎士の一団が誕生した。何年にもわたる戦いの中から帝国が生まれ、様々の肌の色や信条の持ち主が取り込まれた。しかしながら、その中で騎士の魂は失われていった。だが、この騎士団は違った」と語ります。
 画面では、隊長のライデンクライヴ・オ―ウェン)以下の騎士団に、待ち伏せていた山賊たちが襲いかかるものの、逆に騎士団は敵をなぎ倒していきます。



 追い詰めた山賊の頭目に対し、ライデンが「剣を収めれば見逃してやる」と言うと、相手は切りかかってくるので、仕方なくライデンは斬り倒します。

 場面は変わって、雪の中、疾駆する馬。
 馬に乗る者はバルトーク卿の城に入り、「皇帝の使者だ」と告げます。
 ライデンが出てきて「私が受け取る」と対応すると、使者は「皇帝の書状を領主の部下には渡せない」と拒みます。
 使者が、さらに「お前の名は?」と尋ねると、ライデンは「ライデン隊長だ」と名乗ります。
 すると使者は、「その名はよく知っている。ご無礼を謝る」と言って、皇帝の文書をライデンに渡します。

 皇帝からの書状を受け取って読んだバルトーク卿は、書状を放り出し、ライデンに向かって、「都に上り、大臣のギザ・モットアクセル・ヘニー)に会えとの命令だ。これは、奴に賄賂を渡せということだ。だが、賄賂を支払うつもりはない」と言います。



 ライデンが、「それなら、もっと早く立ち上がるべきだったのでは?殿下のプライドが傷ついただけのことでは?」と言いますが、バルトーク卿は、「あんな男が公然と賄賂を要求するとは、国は危うい」と応じた後、腹を押さえてしゃがみ込みます。
 ライデンが近寄ると、「診察は受けた。このことは他言無用だ」と言います。

 結局、バルトーク卿は、ライデンらの騎士団を従えて都に旅立ちますが、さあ、都では一体何が待ち受けているのでしょうか、………?

 本作は、日本の『忠臣蔵』を西欧中世の騎士の世界に置き換えて映画化したもので、舞台として映し出される中世の世界の重厚さ、それに的確な演出や出演者の素晴らしい演技によって、とても引き締まった充実した映像・内容になっており、ストーリーはよくわかっているはずながら、知らず知らずのうちに作品の中に引き込まれてしまい、圧倒されてしまいました(注2)。

(2)この映画を見ると、よく知る『忠臣蔵』との違いが少々気になります(注3)。
 例えば、『忠臣蔵』でも本作でも、家臣団の復讐は、主君の事件があってからしばらく時間が経過してから実行されます。その間、大石内蔵助にしても、ライデンにしても、相手方の警戒心を解くために腐心します。ただ、『忠臣蔵』では、大石内蔵助は祇園一力茶屋で大層派手に遊んでいたとされますが、本作では、随分とうら寂しい飲み屋で独り酒を煽っているにすぎないシーンが多いように思います(注4)。

 また、『忠臣蔵』では、天野屋利兵衛という町人が、討入り時に赤穂浪士達が使う様々な武具を隠し持っていたとされますが、本作ではそのような民間人は登場しません。ギザ・モットの城を攻撃しようと騎士団が立ち上がると、どこからともなく剣や甲冑などが持ち込まれてきます。

 さらに、『忠臣蔵』では、大石たちは、浅野家の再興がかなわないことを知って討入りを実行に移しますが(注5)、本作の場合は、首相が亡くなってギザ・モットが首相になり、皇帝の命令で警護の兵隊(注6)の数を大幅に減らさざるをえなくなった頃を見計らって、ライデンらは立ち上がります。

 でも、想定される世界が違っているのですから、いろいろ差異があって当然でしょう(注7)。

 そんなことより、前半のライデンがバルトーク卿の首を跳ねることになるまでの経過や、後半のギザ・モットの城にライデンの騎士団が攻撃をしかけ彼を打ち倒すまでの展開という2つの山場は、見る者を引き込まずにはおられません。
 特に、ライデンとイトー伊原剛志)との一騎打ちは、ソードアクションとして1級品ではないでしょうか(注8)?

 それと、本作に見られるグローバルなキャスティングには驚きました。
 主役のライデンを演じるクライヴ・オーウェンこそ英国出身ですが、例えば、その主君であるバルトーク卿には米国の黒人俳優モーガン・フリーマンが扮していますし、ライデンらの復讐相手のギザ・モットを演じているのはノルウェー出身のアクセル・ヘニー、彼を警護するイトーには日本の伊原剛志、皇帝にはイラン人のペイマン・モアディ、良識派の領主・オーガストには韓国人のアン・ソンギ、といった具合です。



 こうすることで、元々の史実(赤穂事件)に拠りつつも、それを『太平記』の世界の中で描いた『仮名手本忠臣蔵』と比肩しうる幻想的な世界(舞台は西欧の暗黒時代としても、相当する国は存在しません)を作り出すことが出来たのでは、と思えました。

 総じて言えば、やはり本作の世界は個人主義的で、『忠臣蔵』は集団主義的だなという感じがし(注9)、また本作の世界はタテの動きが多いのに対し、『忠臣蔵』はどちらかと言えばヨコの感じがするように思いました(注10)。

(3)渡まち子氏は、「ともあれ、「GOEMON」「CASSHERN」のようなトホホ感がないだけありがたいし、記念すべきハリウッド・デビュー作に“日本”をぶつけたところに監督の武士道(騎士道)があると解釈したい」として60点をつけています。



(注1)監督は、『GOEMON』や『CASSHERN』の紀里谷和明

(注2)出演者の内、最近では、モーガン・フリーマンは『LUCY ルーシー』、伊原剛志は『超高速!参勤交代』、ペイマン・モアディは『別離』で、それぞれ見ました。

(注3)と言っても、『忠臣蔵』は様々な形で物語られていますから、クマネズミが密かにイメージしている個人的な『忠臣蔵』との違いに過ぎませんが。

(注4)本作では、さらに、ライデンは、バルトーク卿から授けられた剣を売り払ったり、またバルトーク卿の娘リリーローズ・ケイトン)が娼婦になっているのを知りながら助けなかったりします(これらの場面を、ギザ・モットの護衛官イトーが密かに見ているのを、ライデンは承知しているのでしょう)。

(注5)ブログ『ふじき78の死屍累々映画日記』のエントリで「ふじき78」さんは、「領主領家再興」の話が本作においては全く無視されているという点を疑問視されています。
 実に鋭い指摘ながら、バルトーク卿が、自分には後を継ぐ者がおらず、10代目の自分でバルトーク家は終わるとライデンに言っていたりするので、クマネズミにはあまり気になりませんでした。

 なお、バルトーク卿は、実質的に自分の後を継ぐ者はライデンだとして自分の剣を与えますが、ライデンにはナオミアイェレット・ゾラー)という妻がいますから、仮にそうなった場合には、新しい家を起こすことになるでしょう。
 また、ライデンには大石主税に相当する息子は想定されていません。あるいは、騎士団最年少の騎士ガブリエルノア・シルヴァー)が考えられているのでしょうか。

(注6)ギザ・モットは、妻のハンナパク・ション)の父親であるオーガスト卿に、自分の警護のために兵を差し出すよう命じています。
 なお、ギザ・モットは、ハンナに対しDVを振るったりして、かなりの性格破綻者として描き出されています(浅野内匠頭を“虐める”吉良上野介というイメージに相当するのでしょう)。

(注7)もっと挙げれば、例えば、『忠臣蔵』では、赤穂浪士の討ち入り直前、大石内蔵助は浅野内匠頭の正室・瑤泉院のところへ最期の挨拶に行きますが(いわゆる「南部坂雪の別れ」)、本作では、ライデンがバルトーク卿の死を報告した時に、卿の妻のマリアショーレ・アグダシュルー)がライデンの頬を打つシーンがあるいは対応するのかもしれません。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビューで、イトー役の伊原剛志は、「イトーの最後の“やられ方”に関しては、僕から監督に提案しました。……イトーの刀は折れてしまうけど、バルトークから授かったライデンの刀は折れずにイトーの体を貫いた。つまり、イトーは実力でライデンに屈したのではなく、主君の違いによる剣の力と正義の力に負けたのだと」と述べています。

(注9)『忠臣蔵』では、赤穂浪士は全員が同じ装束に身を包み、山鹿流の陣太鼓によって皆が動きます。これに対して、本作では、騎士団は比較的統制の取れた動きをするとはいえ、例えば、ライデンは独りでイトーと対峙し、また独りでギザ・モットを打倒します(『忠臣蔵』では、お項浪士たちが皆発見された吉良上野介の回りに集合します)。

(注10)『忠臣蔵』は、歌舞伎で上演されることが多いためか、なんとなく横長の印象を持っていますが、本作では、バルトーク卿とライデンの打首が最初と最後にあったり(切腹にも介錯はありますが、基本は腹を水平に切ることでしょう)、ギザ・モットの城を攻撃する際にも上下の動きが多いように感じたりしました。



★★★★☆☆



象のロケット:ラスト・ナイツ
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流れ星が消えないうちに

2015年12月08日 | 邦画(15年)
 『流れ星が消えないうちに』を新宿の角川シネマで見ました。

(1)最近見た『グラスホッパー』に主役の恋人役で出演していた波瑠が主演の作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、夜中の誰も見当たらない道を、ナップサックを背負った若い男性が走っているシーン(注2)。
 空には月が出ているものの、次第に雲に覆われていきます。

 次いで、布団の中の奈緒子波瑠)のモノローグ。「どうして私は玄関でないと寝られないのだろう。何度考えても、答えにたどり着いたことはない。ウトウトするとすぐに、この世にはいないかつての恋人の名を口にしてしまう。おやすみ、加地君」。
 そして、家の玄関先で寝ている奈緒子の姿が映し出されます。

 画面には、いろいろの星座の絵が映し出され、それに星空が重なっていきます。

 さらに夜、外濠辺りを中央・総武線が西に向かって走る姿が映し出された後、夜道を奈緒子が歩いていて、やがて門扉を開けて家に入ろうとします。



 すると、物陰から男が現れ、「お帰り」と挨拶します。
 奈緒子が驚いてその男の顔を見て、「お父さん!なんでここにいるの?鍵は?」と言うと、父(小市慢太郎)は「忘れた」と答え、奈緒子が更に「なんで電話をしないの?」と尋ねると、父は「電話したがつながらなかった」と応じます。

 奈緒子は、仕方なく玄関を開けて父を招じ入れますが、玄関の布団を父に見られてしまいます。

 家に入ってから、奈緒子が「出張?」と訊くと、父は「家を出てきたんだ」と言って、奈緒子が温めたレトルトのグラタンを、ビールを飲みながら食べ始めます。

 さあ、九州で母と妹の絵里黒島結菜)と一緒に暮らしているはずの父は何故家を出てきたのでしょう、そして奈緒子はどうして玄関先で寝ているのでしょう、………?

 本作は、最愛の人を事故で亡くしてしまった主人公が、その精神的ショックによって、玄関先に敷かれた布団の中でしか眠れない状態になっているところ、恋人の親友とか父親や妹などとのコミュニーケーションを通じて、次第に立ち直っていく様子がじっくりと描き出されていて、ロケ場所としてクマネズミのよく知る三鷹駅周辺が使われたりしていることもあって(注3)、全体として地味な作品ながらまずまず面白く見ることが出来ました(注4)。

(2)上記の(1)で触れているように、奈緒子は、玄関先に敷かれている布団でないと寝ることが出来ませんが(注5)、その理由はなかなか理解しにくいものの(ご本人がわからないと言っているのですから)、物語の出だしとしては悪くないように思います。
 奈緒子は恋人の加地葉山奨之)を失って大きなショックを受けた身、本来的には部屋に塞ぎこんで誰とも会いたくないはずです。
 でも、それでは映画のストーリーとしては何も展開していきません。
 当然のことながら、玄関先は人が出入りする場所(注6)。否応なしに、奈緒子はその家に出入りする人たちとコンタクトを持つこととなり、いろいろな出来事に巻き込まれることになります。
 よく考えられた導入部ではないかと思いました。

 また、奈緒子の恋人だった加地が、高校の文化祭で教室に小型のプラネタリウムを作成し、その中で奈緒子に対し愛の告白を行い(7注)、流星発生装置によって映し出される流星に願いをかけるという展開も、なかなか斬新ではないかと思いました(注8)。

 ですが、問題点もあるでしょう。
 例えば、加地は、奈緒子を日本に置いて、どうして外国に一人で旅行に行ったりしたのでしょう?
 もしかしたら、加地は外国旅行が趣味なのかもしれません。でも、いくら旅が好きだからといって、恋人を置き去りにして自分だけで外国旅行を楽しむものでしょうか(注9)?
 あるいは、加地はなにか悩みを抱えていて、その解決を図るべく一人旅に出たのかもしれません。でも、それなら、まずもって恋人の奈緒子に打ち明けるはずではないでしょうか?

 それに、主人公・奈緒子の世界が、どう見ても狭すぎるのではないのか、と感じます。
 これは、一つには、武蔵野市と三鷹市の協力を得てロケ場所をこの地域に限定したため、仕方がないのかも知れません。
 とはいえ、この映画で見る限り、奈緒子の世界は、高校時代からの加地と入江甚儀:注10)、それに父と妹の絵里くらいに限られています(注11)。



 どうして、例えば、大学のゼミや部活の仲間とか、バイト先の仲間といった身内的ではない人物が登場しないのでしょう?
 巧を始めとして、映画に登場する人たちは皆、奈緒子のことを心配してその立ち直りをいろいろサポートしてくれます。
 ですが、奈緒子の身近にいる人々は、皆どことなく甘えん坊の雰囲気を漂わせています(注12)。

 結局は、時間が事態を解決するのでしょうが、奈緒子は、家の中では寝場所を玄関先から移動できたとしても、早いところこの狭い世界から抜け出さないならば、社会的には依然として“玄関先”の布団にくるまったままの状態にある、といえるのではないでしょうか(注13)?



(注1)監督・脚本は柴山健次
 原作は、橋本紡著『流れ星が消えないうちに』(新潮文庫)。

(注2)本作の後半にも同じようなシーンが挿入され、走っているのが巧であると分かります。
 走っているのは、玉川上水に沿った道。

(注3)例えば、奈緒子が自転車に乗って信号待ちをしているところに「安全パトロール」の車がやってきて、車の中にいた父が奈緒子に声をかけるシーンがありますが〔運転しているのは斎藤さん(古舘寛治)〕、その場所は、井の頭公園から三鷹駅までの玉川上水沿いの御殿山通りで、すぐそばにむらさき橋があります。
 また、奈緒子が巧と突きを見ながら散歩をする前に、巧に電話する場所は、三鷹駅を南北に結ぶ地下通路のうちの西側の方でしょう。

(注4)出演者の内、最近では、波瑠は『グラスホッパー』、黒島結菜は『at Home アットホーム』、古舘寛治は『トイレのピエタ』で、それぞれ見ました。

(注5)原作も、「半年前から、玄関で寝ている」というのが書き出しです。

(注6)父が奈緒子に、「玄関は人が出て行く場所。また、入ってくる場所でもある」と言ったりします。

(注7)加地は、奈緒子が「牡羊座」であることを知った上で、「牡羊座」について、「見かけは地味だが、ギリシア神話で最も偉い神様のゼウスの化身とされていて、すごい星座」「魅力を秘めている星座」「牡牛座流星群は昼間なので見えないが、その素晴らしさを僕はちゃんと知っている」などと解説します。

(注8)ただ、なぜかプラネタリウムの投影機や流星発生装置が奈緒子の家の押し入れに置いてあり(加地が作ったものですから、加地の家にあるべきでしょう)、それを家の天井に映して皆で見るというラストシーンは、それでも悪くはないとはいえ、やや少女趣味的な感じがします。

(注9)もっと言えば、奈緒子の方から、旅行に同行することをどうして求めなかったのでしょう?
 奈緒子が働いていて時間がとれないというのであれば話は別ですが、奈緒子は大学生という設定なのですから、いくらでも対応できるはずでしょう。

(注10)巧は、加地とは高校時代から親友で、加地が亡くなった後、入れ替わるように奈緒子の恋人となりました。



(注11)巧の方も、その姉・瑞穂(西原亜希)とボクシングジムの先輩・山崎(八木将康)くらいです。

(注12)妹・絵里は、好きな男子生徒と仲違いしたこともあって上京しましたし、加地の親友だった巧は奈緒子に厳しいことも言えず、肝心の父も、長年勤めてきた会社を辞めて新たに事業を立ち上げることで母と対立して家を飛び出してきたというのでは、頼りになりません。

(注13)奈緒子は、高校のクラス会に出席しても、クラスメイトが言っている話を耳にすると(「奈緒子、よく楽しそうにしてられるね」「一緒に死んだ女性は加地君の彼女?」など)、簡単に傷ついてしまいます。



★★★☆☆☆



象のロケット:流れ星が消えないうちに

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黄金のアデーレ 名画の帰還

2015年12月05日 | 洋画(15年)
 『黄金のアデーレ 名画の帰還』を渋谷のシネマライズで見ました(注1)。

(1)『マダム・マロリーと魔法のスパイス』のヘレン・ミレンの主演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、オーストリアの画家・クリムトが、絵(注3)を制作しているシーン。金箔を半分に切って、刷毛でキャンバスの上に置いています。
 クリムトが「もう少し左の方へ」と言うと、モデルのアデーレアンチュ・トラウェ)(注4)は左へ動きます。



 さらに、クリムトが「アデーレ、落ち着かないね」と言うと、アデーレは「心配しているの。これからのことで」と答えます。

 舞台は変わって、1998年のロスアンジェルス。
 マリアヘレン・ミレン)が、姉のルーズの棺が収められたお墓の前で、「私たち姉妹は、お互いに愛し合っていましたが、実際は競争していました。でも、勝ち残ったのは私の方です」などと挨拶して、葬儀参列者が笑います。



 葬儀からの帰り道で、マリアは親友のバーバラフランシス・フィッシャー)に、「あなたの息子さん(ランディライアン・レイノルズ)は弁護士では?うまくいってるの?」と尋ねると、バーバラは、「パサデナで事務所を開いたものの、うまくいかなくて。奨学金の返済に追われている」と答えます。
 マリアは、さらに「姉が遺した所持品の中に手紙が見つかり、誰か信頼できる人のアドバイスが必要なの」と付け加えるので、バーバラは「じゃあ、私が息子に電話しておく」と答えます。

 そのランディは、仕事を求めて大きな法律事務所を訪問した後(注5)、マリアの家に向かいます。



 家で、マリアは、姉ルイーズが持っていた1948年の手紙(注6)をランディに見せます。
 さあ、これから物語はどのように進展していくのでしょうか、………?

 本作は、画家クリムトが描いた『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』という絵画の返還を巡って、ナチスの席巻するオーストリアから逃れてアメリカで暮らす老齢の女性が、前世紀の末にオーストリア政府を訴え、とうとう8年後にウィーンでの調停裁判で勝利するまでを描いています。
 ヘレン・ミレンは、主役の意志強固な女性にまさにうってつけの女優であり、また彼女をサポートする弁護士役のライアン・レイノルズも好演していて、まずまず面白く映画を見ることが出来ました(注7)。

(2)このところ、『ミケランジェロ・プロジェクト』、『FOUJITA』、そして本作と、戦争と絵画を巡る映画を立て続けに見た感じがあります。
 尤も、『ミケランジェロ・プロジェクト』と本作は、戦争に翻弄される絵画を巡る話であり、『FOUJITA』は戦争に翻弄される画家を巡る話ですが。
 それにしても、いずれも第2次世界大戦が関係しています。
 翻って昨今の対テロ戦争ですが、絵画が登場する機会は余りなさそうに思えます。
 あるいは、関与するイスラム世界では絵画が重要視されていないためかもしれませんが、あるいは絵画のポジションが昔に比べて総じて低下してきているためなのかもしれません。

 そんな駄弁はともかく、本作は、マリアとランディのタッグが、様々な困難を乗り越えて最終目的に突き進んでいく様子がうまく描き出されていて、思わず見入ってしまいます。

 でも、わかりづらいところがいくつかあります。
 まず、問題となっているアデーレの肖像画ですが、公式サイト掲載の「マリア・アルトマン」に関する年譜では、1938年にナチスがオーストリアに入ってきた際に、「肖像画を含む価値ある家財道具がナチスに奪われる」とされていながら、1943年に「オーストリア国立ベルベデーレ美術館に展示される」と記載されています(注8)。
 本作の中でも、アデーレが身に着けていた豪華な首輪は、ゲーリング元帥の妻に送られたとされているところ(注9)、なぜ、アデーレの肖像画は、例えば、『ミケランジェロ・プロジェクト』で描かれたような運命(岩塩坑に隠匿されるなど)を辿らなかったのでしょうか(注10)?

 また、アデーレが遺した遺言書が発見され、そこには肖像画は美術館に寄贈すると書かれているのです。それに従って、件の絵画は美術館の所蔵となっているのではと思われるところ、どうしてマリアが所有権を持つとされるのか、あまり良くわかりませんでした(注11)。

 さらに、マリアとその夫(マックス・アイアンズ)はやっとの思いでウィーンを脱出しますが、乗った飛行機の行く先はドイツ国内のケルンであり、ユダヤ人に対する取り締まりが一層厳しいと思える場所です。むしろ、そこからの脱出の方が大変なのではと推測されるところ、映画ではなぜかオミットされてしまっています(注12)。

 でもまあ、そんなところは本作にとってどうでもいいことなのかもしれません。
 戦前・戦後のオーストリアの人々、そしてそれを代表するオーストリア政府の自分たち家族に対する非道な仕打ちに対して立ち上がった一女性の姿が、本作では大層くっきりと描かれていて、それをヘレン・ミレンが見事に演じているのですから。

 そして、『ミケランジェロ・プロジェクト』で描かれているMonuments Menの精神からすれば、クリムトが描いた『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』はオーストリアの美術館で展示する方がベターだと思えますが(注13)、そんなことも本作にとっては二の次の問題なのでしょう。

(3)渡まち子氏は、「今まで避けてきた悲痛な過去に向き合いながら、裁判を戦い抜くマリアの姿は、実にりりしい。シリアスな中にも、そこはかとないユーモアを感じさせる演技は、さすがは名女優ヘレン・ミレンである」として70点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「「皆さんには高価な名画でも私には家族の形見」とランディの説得で証言台に立ち、静かに語るマリアの言葉は、やがて民族の誇りを踏みにじられたユダヤ人の悲しみと怒りをこめた弁護士ランディの最終弁論へと繋がって胸のすく結末が訪れる。許す、でも決して忘れないというユダヤ人の心情が伝わってくる」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)来年1月で閉館するシネマライズの最後の公開映画とのこと。

(注2)監督は、『マリリン 7日間の恋』のサイモン・カーティス
 原題は「Woman in Gold」。

(注3)後に『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ』(1907年)として知られることになります。
 なお、「Ⅱ」は1912年に制作されています〔追記:「Ⅱ」も「Ⅰ」と同時にマリア側に返還され、オークションの際に「Ⅰ」とは別の人に落札され、今はニューヨーク近代美術館(MOMA)に寄託されているようです〕。

(注4)アデーレは、本作の主役のマリアの母親の妹。
 なお、マリアの父親とアデーレの夫も兄弟で、2つの家族はウィーンで一緒に暮らしていました。

(注5)ランディは、パサデナの法律事務所をたたんで、ロス市内の法律事務所で働くことになります。
 なお、ランディは、正式にはランドル・シェーンベルクと言い、著名な音楽家のシェーンベルクの孫であり、またランディの父親も裁判官でした。

(注6)オーストリアの弁護士から姉のルイーズに宛てた手紙で、アデーレの遺言書に従ってその肖像画はオーストリアの美術館に寄贈されたものであり、オーストリア政府はその肖像画を手放すことはしないと決定した、という内容。但し、その弁護士は、遺言書そのものは見ていないと言っています。

(注7)出演者の内、ヘレン・ミレンは『マダム・マロリーと魔法のスパイス』や『ヒッチコック』、ライアン・レイノルズは『デンジャラス・ラン』や『リミット』、オーストリアの雑誌記者に扮するダニエル・ブリュールは『誰よりも狙われた男』や『ラッシュ/プライドと友情』、ランディの妻・パムに扮するケイティ・ホームズは『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』で、それぞれ見ました。

 〔追記:ダニエル・ブリュールが演じるオーストリアの雑誌記者は、本作では大した働きをしませんが、この記事によれば、実際には、本件でかなり大きな働きをしたようです(言われてみれば、ドイツ語の読めないランディがウィーンで資料探しなんてできるはずがありませんし)〕。

(注8)映画の中では、「1941年に美術館に送られた」とされていたように思います。
 1941年にしても1943年にしても(前者が搬送年で後者が展示年でしょうか)、アデールの夫の1945年の死より前のことです。この点が、下記「注11」で触れている事柄に関係してくるのでしょう。

(注9)また、マリアの家に入り込んできた親衛隊が、マリアの父親が愛用していたチェロがストラディバリのものであることを見ぬいて没収していましたし。

(注10)もしかしたら、ナチスはクリムトの奔放な作風を嫌っていたのかもしれません。
 なにしろ、マックス・エルンストやパウル・クレーなどの作品が「退廃芸術」だとされて、彼らは絵画を制作できなくなってしまったくらいなのですから。
 それとも、描かれている人物(アデーレ)がユダヤ人であるからでしょうか?
 公式サイト掲載の「プロダクションノート」の「実在のマリア・アルトマン」によれば、美術館に展示された時、タイトルが「Lady in Gold」に変えられたそうです。この記事によれば、描かれているのがユダヤ人であることを隠すために、そのようにタイトルを変えたとのこと〔そうであれば、米国での略称が今では「Woman in Gold」とされていますが(映画の原題にもなっています!)、ユダヤ人隠しが引き継がれているようにも思われます〕。

(注11)あるいは、事業を営んでいるアデーレの夫が全ての財産権を持っているのであって、夫が死なないかぎりアデーレは、肖像画を含めて家の財産は自分のものとならないということでしょうか。そして、アデーレは43歳で若死にしますから、たとえ遺言書があったとしても、財産を勝手に処分できなかったのかもしれません〔Wikipediaのこの項の記述によれば、アデーレの夫は、「これらの肖像画の所有権はもともと自分にあるとして、アデーレの遺言を実行に移さなかった」ようです〕。
 でも、アデーレは、自分を描いたものだから、この肖像画は自分のものだと思っていたのではないでしょうか(それで、夫の死後でいいから、肖像画を美術館に寄贈してくれと遺言したのではないでしょうか←上記「注8」が関係してくるでしょう)?

(注12)マリアと夫のケルン行きが、本文(2)の冒頭で触れたマリアの「年譜」にあるように1938年とすれば、まだナチスドイツはオランダに侵攻しておりませんから、そちらに逃げて、アメリカに亡命したのでしょう(この記事によれば、オランダからイギリスのリヴァプールを経由してアメリカに逃げているようです)。

 〔追記:この記事によれば、マリアの夫Fritz Altmannは、米国亡命後はオペラ歌手にならずに、まずはロッキードで働いた後、カシミアセーターなどの衣料品を扱う商売に従事し、1994年に亡くなったようです〕

(注13)現在は、ニューヨークのノイエ・ギャラリーで展示されています(例えば、この記事が参考になります)。



★★★☆☆☆



象のロケット:黄金のアデーレ 名画の帰還

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FOUJITA

2015年12月03日 | 邦画(15年)
 『FOUJITA』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)オダギリジョーの久しぶりの主演映画ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1920年代のパリの裏街の風景で、屋根では猫が鳴いています。
 小屋のようなアトリエの中では、フジタオダギリジョー)がタバコを吸いながら、キャンパスに向かって絵を描いています。描かれているのは、女性の横顔の輪郭線。
 そばには自画像が置かれており、フジタは近寄ってきた猫を抱き上げます

 次いで、パリ市街。屋根から突き出ている煙突がたくさん見え、レストランの外ではギャルソンがタバコを吸っています。
 そこに、調子のよくなさそうなトラックが1台走って来て、止まってしまいます。
 仕方なしに、荷台に積まれている大きな絵(注2)を降ろして、二人で運んでいきます。
 それを見ていた果物屋の店主が妻に、「あれは、画家のフジタの絵。この男の絵は売れている。描かれているのは、モンパルナスの女王と言われているキキだ」などとしゃべります。

 再び、アトリエのフジタ。
 お湯を沸かしています。
 蓄えの切れたものを隣の家に借りに行こうとして、外に出て階段を登って行くのですが、なぜかためらって戻ろうとします。
 そこへ、先ほどのトラックの男がやってきて、「先生、キキの絵を届けてきました。領収書です」と大声で言うものですから、フジタは慌ててそれを制して階段を降ります。

 隣の家の中。
 フジタの2番目の妻・フェルナンドマリー・クレメール)が(注3)、日本人画家の小柳福士誠治)に、「オイシイサケ」と言うと、小柳が「それは名前ではない。美味しい酒という意味」と訂正します。フェルナンドは、さらに「良かったらここで描いて。あたしが絵を売ってあげる」と付け加えます。

 そのフェルナンドがフジタのアトリエにやってきて、「あなたは意地が悪い。あたしを悪者にしたいのでしょう」と言います。
 これに対して、フジタが「君を強制しているわけではない」と反論すると、フェルナンドは、「絵が売れるようになって偉そうにしている。誰のおかげ?フランス女のキッスの仕方を教えたのは誰?」と叫びます。
 さあ、これからフジタはどうなるのでしょうか、………?

 本作は、画家・藤田嗣治を描いた作品ながら伝記映画ではなく(注4)、時系列的な説明はほとんどなされませんから、ある程度その事績を知っている必要があるような作りになっています。毀誉褒貶の激しい藤田ですが、本作のように、1920年代の藤田と1940年代の藤田とを大きく比較して描き出すという手法は興味を惹かれたところであり、また主演のオダギリジョーの熱演もあり、大変面白く映画を見ることが出来ました(注5)。

(2)本作では、映画の中ほどで(注6)、何の説明もなしに、それまでパリで生活していたフジタが、いきなり青森の古びた旅館に滞在している姿が描き出されます。
 それも、戦争中で、陸軍美術協会のトップとして陸軍少将の待遇を受けている身です。
 そして、『アッツ島玉砕』(1943年)とか『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945年)などといった戦争画の大作を制作するのです。



 同時に、フジタは5番目の妻・君代中谷美紀)と鎌倉へ出かけたり、田舎の疎開先(注7)で一緒に暮らしたりします。



 フジタは、パリで名の知れた画家の仲間入りをしましたが(注8)、それがどうしてこのような戦争画を描くに至ったのかが、この作品のテーマの一つとなっているように思われます。
 ただ、本作はフジタの履歴をなぞることを考えていませんから、これらの絵の前に描かれた戦争画は登場しません(注9)。
 1920年代にパリで描かれた絵画と1940年代に日本で描かれた絵画とがいきなり対比されているような感じを受けます。
 そうした視点に立つと、夜汽車の中でフジタが、仲間の画家に、「私はやっぱり情景的なものでは描いた気にならない。近くで人を描かないと駄目だ。戦争でもそう」と言っているのが分かるような気がしてきます。
 なにしろ、本作に登場するパリ時代の画にはどれも女性が描かれていますし、この映画で取り上げられている戦争画でも人がたくさん描かれています(注10)。
 にもかかわらず、両者の画の間に大きな違いが出てきているのは、この映画で対比されているように、西欧と日本の人々の暮らし向きの違い、あるいは置かれている環境の相違といった点が大きいように思えてきます(注11)。

 なにしろ、パリ時代のフジタは、「フーフー(お調子者)と呼ばれてもかまわない、すぐに私のことを覚えてくれるから」と言いながら、人々の間に入っていき、仲間と大騒ぎをしていました。



 他方、日本でのフジタは、まるで水墨画の中の登場人物であるかのように(注12)、大層静謐な暮らしを送る孤独な人間として本作では描かれています。
 あたかも、そうした画家が描くから、あのような戦争画が生まれたのだと言いたげな感じがしてきます。

 そして、映画は、戦争画の最後の大作の『サイパン島同胞臣節を全うす』(注13)から、エンドクレジットのバックに映し出されるノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の壁に描かれたフレスコ画(1966年)(注14)へと移行します。
 この壁画にもたくさんの人物が描かれており、「近くで人を描かないと駄目だ」と言うフジタの究極の作品なのかもしれません。

 本作は、日本とフランス(あるいは、西欧)との違いについて、これまでいわれてきた様々の見解にさらに付け加えられる一つなのでしょうが、絵画と映像という斬新な観点からのものであり、クマネズミにとっては大層興味深い作品でした。

(3)渡まち子氏は、「おかっぱ頭と猛特訓したというフランス語のセリフで熱演する主演のオダギリジョーの抑えた演技となりきりぶりに、感心した」などとして65点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「映画は前半と後半で一対の絵画を見るような印象が強く、両者を貫くフジタの生きざまを見るものが想像するのをうながしているようで面白い」として★4つをつけています。
 秦早穂子氏は、「一見、やさしげな口調で女たちに接する彼と戦争を描く男。人間を凝視する冷徹さと複雑さは、どこか似通っている。藤田嗣治は、絵画だけを信じた」などと述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「いい画は、いつかは物語を超えて生き延びる。劇中、フジタがそんなことを言う場面がある。彼が肯定する「絵空事」の力が、映画そのものと反響し合っているかのような一本である」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『泥の河』の小栗康平

(注2)フジタが描いた『ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)』(1922年)。

(注3)フジタの最初の妻は日本人で、3番目の妻が本作に登場するユキアナ・ジラルド)。

(注4)小栗監督は、公式サイトに掲載されているインタビュー記事の中で、「資料はざっと読んで、早く事実から離れる。それがシナリオを書く作業の始まりでした」と述べています。

(注5)出演者の内、最近では、オダギリジョーは『深夜食堂』、中谷美紀は『渇き。』、加瀬亮は『海街diary』、岸部一徳は『人類資金』、福士誠治は『スイッチを押すとき』で、それぞれ見ました。

(注6)小栗監督は、上記「注4」で触れたインタビュー記事の中で、「二時間強の映画になりましたが、20年代のパリと戦時の日本とをそれぞれ一時間ずつ、ほとんど真っ二つに断ち切ったように並置して、描いています」と述べています。

(注7)映画では明示されませんが、このブログによれば、神奈川県藤野町(現在は相模原市緑区の一部)が藤田嗣治の疎開先。
 なお、映画の中で、「慈眼寺の鐘が金物供出に出された」と馬方の清六岸部一徳)がフジタに言いますが、同寺は、藤野町のある津久井郡の相模湖町にあります(この記事)。

(注8)フジタがパリ時代に描いた画としては、映画の中では、『五人の裸婦』(1923年)などが映し出されます。



(注9)このブログの記事によれば、藤田嗣治には、『南昌新飛行場焼打』(1938年~1939年)、『哈爾哈河畔之戦闘』(1941年)、『十二月八日の真珠湾』(1942年)といった戦争画もあります。

(注10)本作で取り上げられなかった『南昌新飛行場焼打』で中心となって描かれているのは戦闘機ですし、『哈爾哈河畔之戦闘』では戦車、『十二月八日の真珠湾』ではハワイの飛行場で、人物は中心的に描かれてはおりません。

(注11)象徴的と思えるのは、君代が絶えずきちんとした着物姿で映し出されるのに対して、「フジタ・ナイト」の仮装舞踏会で、花魁に扮したキキが高下駄をうまく履けず腰が砕けてしまい、それをフジタが下から支えようとするところではないでしょうか。
 なお、小栗監督は、上記「注4」で触れたインタビュー記事の中で、「1920年代のパリでの裸婦と戦時中の「戦争協力画」との、絵画手法のあまりの違いに、あらためて驚かされたのです。この両者を分かつものはなにか。文化としての洋の東西、私たちが西洋から受け入れてきた近代の問題など、そっくりそのまま私自身に引き戻される課題でした」と述べています。

(注12)特に、夜間にフジタが、棚田の畦道を歩くシーンが印象的です。
 また、本作では、疎開先でフジタが出会う人物として、馬方の清六とか小学校の先生の寛治郎加瀬亮)が登場します。清六は、寛治郎に2度目の赤紙が来ているかもしれないとフジタに伝え、出征直前の寛治郎はフジタにキツネの話をします。あるいは、キツネは、古くからの日本を象徴しているのかもしれません(ただ、ラストの方で突然飛び跳ねるキツネが映し出されますが、あるいは寛治郎の戦死を暗に意味しているのでしょうか?)。

(注13)軍が画家を集めた会議において、本作のフジタは、サイパン島で日本人女性が崖から飛び降りるところを写した写真や動画を見ます。でも、これらは米軍側が撮影したもののはずです。仮に入手出来たとしても、そんなものを軍部が民間人に見せるとはとても思えないため、とても不思議なシーンになっています(実際のフジタの画の中に、バンザイクリフから投身する者の姿が描かれているので、一概にこのシーンを幻想によるものとも思えないところです)。



(注14)例えば、この記事が参考になるでしょう。



★★★★☆☆



象のロケット:FOUJITA
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恋人たち

2015年12月01日 | 邦画(15年)
恋人たち』をテアトル新宿で見ました。

(1)7年前に見た橋口亮輔監督の『ぐるりのこと』が大層素晴らしかったので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、風呂に入っているアツシ篠原篤)が、独り言を喋っています。
「あいつから婚姻届書くように言われ、時間をかけながら書いた」「タバコを吸うのをあいつが嫌っていたから、タバコを止めると宣言した」「書き終わって、あいつが風呂に入って一人になった途端、結婚するんだと、ベランダに行って一本吸った」「そっこうバレて、こいつ癇癪起こすなと思ったら、あいつ、少しずつ減らしていけばと言った」「結婚したら嬉しいんじゃなかと思った」などなど。



 次いで、早朝、タバコを吸いながら瞳子成嶋瞳子)が、雅子さんを歓迎する人々が写っているビデオをTV画面で見ています。
夫が起き出してきたので、「うるさかった?」と言ってタバコを消します。
 夫がトイレに向かうので、瞳子は「お母さん(木野花)が入っているよ」と注意します。



 さらに、アツシが乗る橋梁点検の船とか(注2)、瞳子が働く弁当屋の模様が映し出された後、弁護士事務所で依頼人と話している四ノ宮池田良)の場面。
 アナウンサーと自称する女(内田慈)が、「成田別居してます。結婚詐欺だ」などとまくし立てるので、四ノ宮は「判例を調べてみます」と応じます。



 これで、本作を構成する3つの話に登場する3人が映し出されましたが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では3つの物語が交互に綴られており、物語相互の関係は希薄ながらも(注3)、どれも類似する雰囲気を漂わせていて、全体で一つの作品を作り上げているように見えるところに感心しました。そして、それぞれの物語で中心となる人物は、オーディションで選ばれた知名度の低い俳優が演じているにもかかわらず、それぞれ「恋人」を失いながらも立ち直っていく様子をなかなかうまく演じていたりもして、全体として『ぐるりのこと』に勝るとも劣らない優れた出来栄えだなと思いました(注4)。

(2)登場する3人は、それぞれ恋人のことで痛手を被ります。
 アツシは、愛妻が3年前に通り魔に殺され、そのショックで仕事に出たり出なかったりしている模様です。
 また、瞳子は、鶏肉卸業の藤田光石研)と不倫の関係を持ちますが、実際の藤田の酷い有様を知って元の生活に戻りますし、同棲していた同姓の恋人と別れた四ノ宮は、親友の山中聡)に接近しようとするも、聡の子供の事で素っ気なく対応されてしまいます。
 でも、それぞれ厳しい事態を迎えるとはいえ、最後までそれを引きずることなくポジティブな姿勢で明日に向き合っていこうとする姿が描かれており、見終わると「いい映画を見たな」という感じにさせてくれます。

 印象的な場面としては、例えば、アツシが国民健康保険のことで区役所の窓口に行った際のシーン。
 滞納している保険料を支払って保険証をもらおうとするのですが、窓口の健康保険課職員・溝口山中崇)の対応が酷く冷淡なのです。
 事情があって1万円しか支払えないとアツシが言っても、溝口は残りの滞納分の支払いを確約しろと言い張り、挙句、1週間しか有効期間のない保険証を交付する始末です(注5)。
 これにはアツシも、切れる寸前にまでなって、窓口からなかなか立ち去ることが出来ません。
 本作がアクション物ならば、アツシが、隠し持っていたマシンガンを振りかざして健康保険課の職員を全員射殺してしまうところかもしれません。無論、そんな事態にはならずに、アツシはぐっと我慢して引き上げるのですが。

 また、瞳子が、藤田に連れて行ってもらった養鶏場の裏手の高台に登って、綺麗な夕日を見ながら野外放尿します。
 このシーンは、自分にもこれから新しい人生が開かれるとの期待が膨らんで開放感に浸されたことを表しているものと思われますが、瞳子の期待が藤田の実像を見ることで見るも無残に崩れてしまうシーン(注6)と対比されて、強く印象に残ります。

 さらには、四ノ宮が、聡の影の頭の部分を松葉杖(注7)の先でなぞる場面も、その聡に対する想いをとてもうまく表している感じがしました。

 これらの以外にも印象的な場面は数多くあります。
 総じて言えるのは、どの場面も、よく見かけるもの(あるいは見かけうると思わせるもの)となっていて、見る者に大層リアリティを感じさせるという点でしょう。
 それでいて、本作では物語が描かれていて、ラストのアツシの姿は、明日があることを見る者に充分納得させます。

(3)渡まち子氏は、「好みとしては断然「ぐるりのこと」が好きだが、「ぐるりのこと」が完璧に計算された作品だとしたら、本作は原石のような面白さがある」として60点をつけています。
 中条省平氏は、「とくに凄いのは、素人とプロの中間というべき3人の主役で、その演技の不思議な迫力に圧倒される。素人に潜在する演技力をここまで引きだした点で、監督の演出力にも驚かされる。そして、個々の愛の物語をこえて、ここには現代日本の絶望感が息苦しいまでにみなぎるが、ラストの船からの眺めの連続に、解放感と希望がかいま見える」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 森直人氏は、「圧巻だ。市井の人々の疎外された思いや鬱屈(うっくつ)を描きながら、日本社会の全体像を見据えるスケールとボリュームがある。同時に、生き難き者たちの心の奥底まで一緒に降りていく覚悟がある」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「何があっても生きていくほかない。市井の人の哀感とかすかな希望をこれほど見事にすくいとった映画が、今、生まれたことがうれしい」と述べています。



(注1)原作・脚本・監督は、『ぐるりのこと』の橋口亮輔

(注2)アツシは、小さなハンマーで叩くことによってコンクリートのヒビ割れ状況がわかるという能力を持っています。会社の上司は、「この人は天才だから」と言っています。
 それにしても、橋口監督は、『ぐるりのこと』の法廷画家(リリー・フランキーが扮します)といい、余り知られていない職業を探し出してくるものです。

(注3)アツシが、殺された妻のことで弁護士の四ノ宮と相談するシーンが設けられているとか、アツシの上司(黒田大輔)がアツシの住まいにやってくるときに持参する弁当が、瞳子のアルバイト先の弁当屋の物のように思える、といった希薄な関係は描かれています。

(注4)出演者の内、光石研は『天空の蜂』、藤田の愛人役の安藤玉恵は『ピース オブ ケイク』、木野花は『娚の一生』、アツシの同郷の先輩役のリリー・フランキーは『バクマン。』、山中崇は『ふがいない僕は空を見た』で、それぞれ見ました。

(注5)保険料の計算は元々複雑で、なおかつ地方自治体によっていろいろ異なっているので、素人にはよくわかりませんが、アツシが言うように「前年の所得が100万円くらい」であれば、保険料の減額措置が受けられ、そんなにたくさん収めなくても済むのではないかと思われるところです。少なくとも窓口の職員は、そういうことを優しくきちんと説明した上で、滞納者の保険料の支払いを促すべきではないでしょうか?何にせよアツシは自主的に支払おうとしているのですから、溝口のような高圧的な対応は言語道断です(それに、短期の国民健康保険証はあるにしても、1週間のものなど存在するのでしょうか?)。

 話は異なりますが、年収100万円くらいでアツシはあのアパートの生活を維持できているのか、やや不思議な気がします。バス・トイレ付きで、普段は使わないもう一部屋(妻の遺骨や位牌などが置かれていて、アツシは部屋に入っていくことが出来ません)がありますから、家賃はある程度かかるのではないでしょうか?それを6万円だとしても年間72万円かかりますし、食費が月2万円ならばそれで24万円。結局、残るのは4万円しかなく、それで光熱費・雑費を支払えるのでしょうか(電気・ガス・水道で月1万円は必要なのでは)?

(注6)瞳子は、呆けたようになって、自分が働いていた時に上司に言われた話をし、更に「その話は、後で聞いたら口説き文句だったとのこと。そしてそれが今のダンナ」と言います。

(注7)四ノ宮は、階段を仲間と一緒に歩いている時に、後ろから誰かに押されて転げ落ち、脚を骨折してしまいます。突き落とされる前に、依頼人の自称アナウンサーのことを酷くバカにして仲間と喋っていましたから、あるいはその女かもしれませんが、映画では犯人はわかりません(冗談ですが、『グラスホッパー』に登場する「押し屋」を思い出してしまいました)。



★★★★★☆



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