映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

オリエント急行殺人事件

2017年12月14日 | 洋画(17年)
 『オリエント急行殺人事件』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、鐘の音が聞こえると思ったら、エルサレムの「嘆きの壁」が映し出されます。時は1934年(注2)。
 壁の前には警官が立っていますが、その前を男の子が走ります。
 男の子は階段を駆け上り、ホテルのレストランの給仕に卵を届けます。
 ウエイターがボイルされた卵を2つ、席に着いているポアロケネス・ブラナー)に出します。
 ですが、そのサイズが違っていたためにポアロの気に召さなかったのでしょう、その男の子はまた走り出し、「今度は、完璧に同じかな?」と言いながら別の卵を持ってきます。
 ポアロは、小さな物差しで卵のサイズを測り、「同じ卵を産めない雌鳥が問題だ」と言います。
 その時警官が現れ、「3つの宗教が絡んだ事件の解決をお願いします」と言うので、ポアロは立ち上がって出ていきます。

 ポアロは、現場に出向く際に、道路に落ちていた動物の糞の塊に片足を入れてしまいます。すると彼は、「これではバランスが悪い」と言いながら、他方の片足も糞の中に入れ、「これで良い」とつぶやくのです。

 ポアロが嘆きの壁に出向くと、大勢人々が集まっていて、さらにラビと司祭とイマームの3人が嘆きの壁の前に立っています。どうやら、この3人のうちの誰かが宗教遺物を盗んだ犯人ではないかとされているようです。
 でも、ポアロは、「宗教遺物を盗んで利益を得るのは誰か」「この3人の聖職者にはそんな関心は薄い」「利益を得るのは、宗教遺物を警備していた警察官だ」「このフレスコ画が酷く汚れているのは、彼がブーツを履いているからだ」と言って、警察官の持ち物を調べてみると、失われた宗教遺物が出てきます(注3)。

 次いで、ポアロは、ボスポラス・フェリーに乗船し、港を眺めています。
 すると、男(医師のアーバスノットレスリー・オドム・ジュニア)が乗り込んできて、船員に、「イスタンブールで乗り継ぎがある。間に合うか?」「怒鳴っても無駄だけど」と言います。
 また、女(メアリデイジー・リドリー)を見かけたポアロが、「バグダッドから?」「チケットを見ました」「家庭教師は楽しめましたか?」と尋ねると、女は「生徒に対しては厳しく教えます」と答えます。
 そして、ポアロは、女が男に「すべてが終わったら、誰もわたしたちを邪魔できない」と言っているのを耳にします。

 こうしてポアロはイスタンブールに着き、そこで休暇を過ごそうとするのですが、領事から「事件です」と電報を見せられ、急遽、オリエント急行に乗り込んでロンドンに向かうことになりますが、さあこれから物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、アガサ・クリスティの有名な推理小説(1943年)を実写化したものです。同推理小説は、1974年にも実写化され、またイギリスのTVドラマ『名探偵ポワロ』の中でも取り上げられています。ですから、ストーリーはよく知られているとは言え、ジョニー・デップなどの著名俳優がたくさん出演して描き出される本作を見ると、やはり映画に引き込まれます。ただ、雪崩で停まってしまった列車の中は明かりがなく、おまけに暖房も停まってものすごく寒いのではないのかなど、ついつい余計なことを考えたりしてしまうのですが。

(本作はサスペンス物にもかかわらず、以下では色々とネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作を見ていると、些細ながらもいろいろ疑問な点が浮かばないわけではありません。
 例えば、本作では、ポアロらが乗る車両とそれに接続する食堂車くらいしか描かれませんが、他の車両も付いていて、そこには乗客もいると思われるところ、ほとんど描かれないのはどうしてでしょう(注4)?

 また、本作では、12という数字が重要な意味を持ってきますが(注5)、クローズアップされる登場人物は16名もいます。この中から、探偵のポアロと、その親友で鉄道会社のブークトム・ベイトマン)、それに殺されたラチェットジョニー・デップ)を除くと、残りは13名。まだ1名余計です。それは一体誰なのでしょう(注6)?

 さらには、ポアロらが乗った列車は雪崩に遭遇して立ち往生してしまいます。蒸気機関車は雪に埋まってしまい、動かすことができません。そうなれば、常識的には、照明とか暖房とかは止まってしまうのではないでしょうか(注7)?

 加えて言えば、ラストにおけるポアロの解決の仕方もよくわからない感じがしてしまいます(注8)。

 でも、そんなつまらないことなどはどうでもいいでしょう。
 本作は、蒸気機関車の牽引する豪華列車内での殺人事件を巡って、ジョニー・デップなどの豪華配役陣が披露する見ごたえある演技を堪能すればそれで十分のように思われます。
それに、その列車は、イスタンブールを出発してヨーロッパを横断するという雄大なものであり、本作の中で描かれる景色もまた見ごたえがあるように思います。

 なお、本作のラストの描き方から、続編が制作されるように思えるところ、実際にもそうした動きになっているようです(注9)。

(3)渡まち子氏は、「訳ありの乗客たちを演じるのは、ほとんどが主役級の俳優だ。犯人を知っていても、結末が分かっていても、十分に楽しめるのは、彼らの演技合戦が素晴らしいからに他ならない。まるで古典芸能を見ているような豊かな気分になる」として75点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「65ミリのフィルムによる鮮明で美しい映像を駆使して進行する謎解きと乗客の反応。状況説明は丁寧だが、描写があまりに細かくて全体像がぼやけ、原作を知らないと話が見えない不安が残る」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「謎解きの前段となる“アームストロング事件”の説明が駆け足でわかりづらいのが気になるが、お正月映画らしい華やかな娯楽大作である」と述べています。



(注1)監督は、主演のケネス・ブラナー
 脚本はマイケル・グリーン
 原作は、アガサ・クリスティ著『オリエント急行の殺人』(ハヤカワ文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、ケネス・ブラナーは『マリリン 7日間の恋』、ペネロペ・クルスは『悪の法則』、ウィレム・デフォーは『きっと、星のせいじゃない。』、ジュディ・デンチは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ジョニー・デップは『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』、ジョシュ・ギャッドは『美女と野獣』(2017年)、デレク・ジャコビは『グレース・オブ・モナコ』、ミシェル・ファイファーは『わたしの可愛い人―シェリ』、デイジー・リドリーは『スター・ウォーズ フォースの覚醒』で、それぞれ見ました。

(注2)原作小説には、本作の冒頭で描かれるエピソードは書かれてはおりません(原作小説の冒頭では、ポアロは、シリアに派遣されているフランス軍の中で起きた事柄をうまく解決したとされているにすぎません)。

 また、1974年版の冒頭は、1930年のニューヨーク州ロングアイランドのアームストロング邸。幼児・デイジーが誘拐されたとの新聞記事に続いて、デイジーが男たちによって連れさられる姿が映し出されます。最後は、デイジーは死体で発見されたとの報道。そして、時点は5年後のイスタンブールとされ、メアリーヴァネッサ・レッドグレイヴ)がボスポラス・フェリーに乗り込み、それを先に乗り込んでいるポアロアルバート・フィニー)が見ています。そのポアロに、見送りのフランス軍将校が近づいて、「将軍が、フランス軍の名誉を守ってくれたと感謝しておりました」等と話します。

 さらに、TVドラマ『名探偵ポワロ』で取り上げられた「オリエント急行の殺人」の冒頭では、いきなりポワロデヴィッド・スーシェ)が中尉の嘘を糾弾すると、ポアロの目の前で、その中尉は拳銃で自殺してしまいますが、その時の有様を、ボスポラス・フェリーの船上でポワロが思い返しています。そして、その背後から、フランス軍の将校が、「わたしたちの部隊の事件を解決してくれて感謝しているとの上官の言葉をお伝えします」「ですが、中尉が、一度の過ちで支払った代償は不当だと思います」「あれは事故だったのです」「善人が犯した判断ミスです」と言います。これに対し、ポワロは「人には選択肢があり、彼はウソを付くことを選び、裁きを受けることになった」と言います。

 わざかな冒頭部分を取り上げたけながら、原作小説の映画化に当たり、本作を含めて様々な工夫をこらしていることがわかります。
 それでも、原作小説と、1974年版とTV版とは、どれもシリアにおけるポアロとフランス軍との関係を描いているのに対し、本作では、エルサレムにおける宗教遺物の盗難事件をポアロが解決する様子を描いています。
 本作がわざわざこうした作り方をしているのを見ると、ブログ「佐藤秀の徒然幻視録」の12月8日の記事が述べているように、「まさかドナルド・トランプ大統領は本作の前宣伝のためにイスラエルの首都承認宣言したのか、と一瞬思ってしま」います(ちなみに、トランプ大統領がイスラエルの首都をエルサレムと認める旨を宣言したのは日本時間で12月7日)!

(注3)ポアロによるこの解決法は、なんだか、本作のラストでポアロが展開する第1の推理(外部者の犯行説)に類似している感じがします。また、この解決法では、エルサレムの3宗教間の関係には何も踏み込まないわけですから、エルサレムにおける3つの宗教の間のバランスが保たれたことになるのでしょうか(尤も、現状でバランスがとれているというのであれば、この解決法でかまわないことになりますが)?

(注4)雪崩で立ち往生したオリエント急行は、はっきりとはしませんが、少なくとも4両編成くらいであり、映画で中心的に描かれる車両にいた者たち(15名)よりも多い乗客が乗車しているのではないかと思われます(機関士とか食堂車の料理人などのスタッフは除いても)。
 ですが、雪崩で埋もれた列車が動き出す際に、危ないからとトンネルの中に誘導されるのはその車両の人達だけです。他の車両にいる人達はどうしたのでしょうか?
 ちなみに、Wikipediaのこの記事によれば、「登場時のオリエント急行は寝台車2両、食堂車1両、荷物車(兼乗務員車)2両の編成」だったが、「1909年にはR型の増備に伴い、オリエント急行の寝台車は3両に増えた」とのこと。本作の時点では、少なくとも5両編成だったものと考えられます。
 また、ポアロの親友のブークは、途中で部屋をポアロに譲り、自分は他の車両に移ってしまいます。

 尤も、このブログ記事によれば、1974年版について、「編成は機関車寄りから荷物車、食堂車、個室寝台車、特別車。各1両でたった4両編成。乗客は15名」だとされていますから、あるいは本作も同じように設定されているのかもしれませんが。

(注5)何しろ、ラチェットは12箇所刺されて殺されたのですから!
 といっても、例えば、本作のポスター等で描かれているのは9人ですし、「CAST」で映し出されている登場人物は12人ながら、そこにはポアロもラチェットやブークも入っていたりするのです(尤も、そんなところで12人だけを取り上げたら、それこそネタバレだと難詰されるでしょうが!)。



(注6)バレエダンサーのエレナルーシー・ボイントン)の夫であるルドルフセルゲイ・ポルーニン)が、アームストロング事件に直接関わりを持とないものとして、除外されるのでしょうが、実際には、病んでいるエレナに代わってルドルフが犯行に加わったようです。
 ただ、本作では、12人の乗客等がアームストロング事件にどのようにかかわっているかについては、大層駆け足で描かれるためになかなか見分けるのが難しく、さらには犯行の際に誰がどうしたのかについてもあっさりと描かれていますから、あまり良くはわからないのですが。

(注7)このサイトのベストアンサーの記事によれば、「客車など牽引する車両の電源は、機関車からは供給されずそれぞれの車両でまかな」うとされていますが、ただ、暖房については、「客車の暖房に関しては蒸気機関車から蒸気が供給される形で暖房が行われて」いるとのべられています。
 仮にそうであれば、雪崩で蒸気機関車が立ち往生してしまった段階で、少なくとも、客車の暖房は止まってしまうことになるものと思われます。そうなれば、ポアロが、あのように客車内を優雅に歩き回ることもできなくなってしまうのではないでしょうか?



(注8)ポアロは、ラチェット殺人事件について、2つの推理をして、最初の推理(外部犯行説)は否定し、2番目の推理(内部犯行説)を述べ、ただしその後どうするのかは12名の乗客の判断に委ねます。
 ポアロは、それまでは、「世の中には善と悪しかないのだ。その中間なんてものはありはしないのだ」と言い切っていたのですが、ラチェット殺人事件については、司直に委ねることなく列車を離れてしまいます。
 ですが、12人の乗客が犯した犯行は、そんなに判断が難しいものでしょうか?
 元々、ラチェットが、デイジー・アームストロングを誘拐して殺した真犯人だと分かったら、彼らは、どうしてその時点で警察に彼を突き出さなかったのでしょう?あるいは、事件から時間がかなり経過してしまい、司直に委ねても満足の行く処罰が得られないと判断されたのかもしれません。でも、そのあたりが本作では何も描かれてはいないので、見る方としては、どうして12人もの人たちが寄ってたかってラチェットを殺してしまったのか、どうも釈然としないものを感じざるをえないところです。

(注9)この記事によれば、「20世紀フォックスは続編の準備に着手しており、次作はクリスティの「ナイルに死す」を題材にするという。前作に続きマイケル・グリーンが脚本を執筆し、ブラナーがポワロ役と監督、プロデューサーとして続投する予定」とのこと。



★★★☆☆☆



象のロケット:オリエント急行殺人事件


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人生はシネマティック!

2017年11月30日 | 洋画(17年)
 『人生はシネマティック!』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て面白いと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「1940年 ロンドン」の字幕。
 銃弾を製造しているところを写している映画が映画館で上映されています。
 その映画の中では、製造に従事している女たちが口々に話しています。
 「ジムが行方不明なの」
 「朝までに100万発よ」
 「今日はもう10時間働いています」
 情報省映画局の局長・スウェインリチャード・エ・グラント)が映画館にいて、観客の反応を見ています。

 次いで、本作では乗合バスが映し出され、「ブルームズベリーはここで降りてください」との声が。
 主人公のカトリン・コールジェマ・アータートン)がバスを降ります。
 周囲では、爆撃後の消火活動が行われています。

 カトリンは、許可証を見せて建物の中に入っていきます。
 そこは映画プロダクションのベイカー・プロの事務室。
 スウェインが「朝まで100万発じゃあ、観客もブーイングだ」と言うと、脚本を書いているパーフィットポール・リッター)は「脚本の問題だ」と応じます。
 特別顧問で脚本家のバックリーサム・クラフリン)が、「もっと意見を出してください」「もっと戦意を高揚させる映画を作りますよ」と言います。
 そこへ、カトリンが顔を出すと、バックリーは「ようこそ、ミス・コール」「ご主人は空軍?」などと言って出迎えます。
 カトリンは、「夫は、空襲監視員のボランティアをしています。スペイン戦争で足を負傷し、徴兵されていません」と答えます。
 バックリーが「この広告コピーは君が書いたの?」と尋ねると、コピーライターの秘書をしていたカトリンは「皆、徴兵されてしまっていて」と答えます。

 カトリンが自分のアパートに戻ると、夫のエリスジャック・ヒューストン)に「採用されたわ。週給2ポンドで」と報告します。
 エリスは「君は僕の専属モデルだ」と喜びます。
 そのあとで、空襲監視員のエリスは「そろそろ監視塔に行かなくては」と言って出ていきます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあここから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、第2次大戦下のロンドンが舞台。「ダンケルクの戦い」で活躍した姉妹を描く戦意高揚映画の制作を巡るお話で、主人公の女は、初仕事ながら他の二人の男と脚本作りに邁進します。主人公は、愛する夫がありながらも、次第に脚本家の一人に惹かれていって、云々という次第。戦時下のお話ですから、様々な事件が起き、また女性の社会進出にも焦点が当てられていて、なかなか面白く見ることができました。

(2)本作で描かれるようなカトリンを中心とする三角関係は、ラブストーリー物ではよく見かけるように思います。
 最近で言えば、例えば、『南瓜とマヨネーズ』が挙げられるでしょう。
 同作では、家でブラブラしているミュージシャンのセイイチ太賀)をサポートしているツチダ臼田あさ美)が、昔の恋人のハギオオダギリジョー)とヨリを戻してしまうという具合に物語が展開します。これに対して、本作では、足が悪く家にいる画家の夫エリスを支えて脚本家の仕事を得た妻のカトリンが、同僚のバックリーとの恋に陥るのです。



 とはいえ、物語の時代背景はまるで異なっていて、『南瓜とマヨネーズ』は天下泰平の現代日本ですが、本作は、第二次大戦中のイギリスです(注2)。

 それも、主人公のカトリンや同僚のバックリーとかパーフィットは、情報省映画局の方から、戦意高揚映画のための脚本を書いてくれと委託されるのです。
 その際の題材として提案されるのがダンケルクの戦い。

 ダンケルクの戦いと言われて思い出すのは、NHKの海外ドラマとして放映された『刑事フォイル』の第2話「臆病者」(第3回と第4回放送分:2015年9月に放映)に登場する漁師のデビッド・レーンを巡る話です。
 彼は殺人事件の容疑者として警察に捕らえられていましたが、ダイナモ作戦が発動されると、デビッドの父親のイアンが、フォイルマイケル・キッチン)に掛け合って、デビッドを釈放させ(注3)、2人は漁船を操ってダンケルクの海に向かうのです。デビッドは実際には無実でしたが、ダンケルクから救出した兵士15名を運んできた漁船には、銃弾に倒れた彼の遺体が乗せられていました(注4)。

 本作において、カトリンらが脚本を書くことになったダンケルクを巡る物語も、同じダイナモ作戦に従って、双子の姉妹が父親の漁船でダンケルクに行って、兵士を救出するというもの(注5)。
 その映画『ナンシー号の奇跡』の制作にあたっては、様々な部署からイロイロな横やりが入ってきて、その都度、カトリンらは脚本の手直しに追われます。
 そればかりか、カトリンとバックリーは、ロケ地とかスタジオでの撮影に立ち会ったりもします。
 その間、2人はいろいろ対立して仲違いをしますが、関係も次第に深まっていきます。
 本作では、そこらあたりがなかなかうまく描かれているように思いました。

 さらに言えば、本作では、むしろ、女性陣に焦点が当てられていて、女性が物語の全体を引っ張っていくような感じがします。
 例えば、主人公のカトリンは、脚本家として次第に男の脚本家と対等になっていきますし、彼女の周りには、情報局の局員のフィルレイチェル・スターリング)とか、俳優・ヒリアードビル・ナイ)のエージェントのソフィーヘレン・マックロリー)といった女性がいます。
 それに、カトリンらが脚本を書いた映画『ナンシー号の奇跡』で中心的なのは、兵士を救出する漁船に乗った姉妹(ステファニー・ハイアンとクラウディア・ジェシー)です(注6)。

 他方で、本作に登場する男性陣は、どうも冴えない感じがします。
 例えば、カトリンの恋人になるバックリーは、当初、カトリンを見出したものの、最初のうちは、女性だからということでそんなに期待はしていませんし(注7)、性格もやや歪んでいてカトリンに厳しく当たったりします。
 また、カトリンの夫は、カトリンが映画制作にのめり込んでいるのを見て、別の女と浮気をしてしまいます。
 さらに、『ナンシー号の奇跡』に出演する老優のヒリアードも、過去の栄光をなかなか忘れることができません(注8)。



 こうした特色を持った本作ですが、はたして、カトリンとバックリーの愛は上手く成就するのでしょうか、………?

(3)渡まち子氏は、「虚構である映画をなぜ人々は愛し、求めるのか。その答えは本作の中にある。映画を愛し、人生を愛することを教えてくれるこの作品が、たまらなく好きになった」として75点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「戦争で増した女性の社会進出、映画に加わる女性の視点が興味深いが、メロドラマ的な魅力も十分」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「あくまで人間臭く、最後にはほろりとさせられる“映画賛歌”である」と述べています。



(注1)監督は、『ワン・デイ―23年のラブストーリー』のロネ・シェルフィグ
 脚本はギャビー・チャッペ。
 原題は「Their Finest」。

 なお、出演者の内、最近では、ジェマ・アータートンは『アリス・クリードの失踪』、サム・クラフリンは『あと1センチの恋』、ビル・ナイは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ジャック・ヒューストンは『リスボンに誘われて』、エディ・マーサンは『戦火の馬』、ジェレミー・アイアンズは『アサシン クリード』で、それぞれ見ました。

(注2)ドイツ軍の空襲によって、老優ヒリアードのエージェントだったサミーエディ・マーサン)が死亡しますが、ヒリアードも顔を背けたくなるような損傷を負った遺体でした。
 なお、エージェントの仕事を引き継ぐソフィーは、サミーの姉という設定です。

(注3)父親のイアンは、船は息子のデビッドがいないと操縦できないとフォイルに主張しました。

(注4)父親のイアンは、釈放された息子のデビッドを必ず連れて帰るとフォイルに約束していたのです。

(注5)ただし本作では、当初、この話は実話とされたものの、実際には、船のエンジンが故障して途中まで行ったに過ぎず、それでも、その時遭遇した船に溢れていた兵士を乗り移させて帰還した、とされています(実際の話は、取材に行ったカトリンに姉妹が話します)。

(注6)TVドラマ『刑事フォイル』でも、フォイルの乗る自動車の運転手・サムハニーサックル・ウィークス)が色々と活躍します。

(注7)バックリーは、カトリンについて、せいぜい女性の台詞を担当する人くらいにしか見ていませんでした。

(注8)さらに言えば、アメリカの戦争参加を促そうとする陸軍長官(ジェレミー・アイアンズ)の指示により、急遽出演が決まったアメリカ人俳優のランドベックは、イケメンながらも、空軍大尉で演技はからきし下手くそです。



★★★☆☆☆



象のロケット:人生はシネマティック!

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KUBO/クボ 二本の弦の秘密

2017年11月26日 | 洋画(17年)
 『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(吹替版)を新宿バルト9で見ました。

 〔お知らせ〕本作についてのエントリが、クマネズミのブログの方からTBを送ることができる最後のものになってしまいました(明日からはTB機能が撤廃されるというので、大慌てで以下のエントリをアップいたしました)。
 TBは、映画感想を書き連ねているブログにとって、極めて重要な機能と思っているところながら、昨今の諸事情からすれば、撤廃されてしまうのも、誠に残念ですが仕方がないのでしょう。
 今後、このままgooブログを継続するべきか、それともTB機能が有効な他のブログに乗り移るべきなのか(移行するにせよ、乗り換え先のブログでも、早晩TB機能が撤廃されてしまうかもしれません)、年末までの1ヶ月の間、よく考えてみようと思っているところです。


(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「まばたきをしてはならぬ」との声がするとともに、月が出ている空ながらも、大粒の雨が降りかかります。
 嵐の大海原を漕ぎ進む一艘の小さな船が見えます(注2)。
 その船では、女が三味線を持ってスクッと前方を見て立っています。
 再び、「全てに気を配れ」「いくら奇妙なものであっても」との声。
 船に立つ女がバチで三味線を弾くと、波が二つに割れて、その前に大きな岩山が出現します。
 そして、「心せよ。束の間でも目を他にやれば、我らが英雄は滅びるであろう」との声。

 船は、大波に沈められてしまったようです。
 次いで、海岸に打ち寄せられた女。
 赤ん坊の鳴き声が聞こえるので、女は布に包まれた赤ん坊のもとに這い寄ります。

 「この子の名はクボ」「その子の祖父が、あるものをその子から奪った」「それは始まりに過ぎなかった」との声。
 そして、タイトルが流れます。

 海岸のそばの洞窟の中。折り紙が、上から落ちてきて、クボ(注3)が目を覚まします。
 周りに折り紙がたくさん落ちているので、クボは拾い集めます。
 それから、薪に火をつけ、鍋を温め、食事の用意をします。
 クボは、寝ている母親を起こして、食事を与えます。
 次いで、母親を連れて、クボは洞窟の外へ。
 クボは、折り紙を折っていくつも動物を作りますが、母親の方は、焦点の合わない目をして、黙ったまま座っています。

 クボは、三味線を背負って、海岸近くの岩山を降りて、野原を通り過ぎ、橋を渡って小さな村の中に入っていきます。
 市が立っているようで、人々が集まっています。
 魚などを売るものたちや、将棋を指す男たち。

 おばあさんのカメヨ(声:小林幸子)がクボを見つけて、「クボじゃないか?」と声をかけます。
 クボの方が、「今日はどう?」と聞き返すと、カメヨは「悪くない。銭が2個と白い玉」と答えます。
 そして、「あれをやってくれよ」「今日は、お話をおしまいまでやってくれるのかい?」と言います。
 すると、クボは三味線を弾きながら、「まばたきをしてはならぬ」「見えるものすべてに注意せよ」と語り始めます。



 同時に、折り紙の武人・ハンゾウ(注4)が踊り始めます。
 クボは、「ハンゾウは、最果ての国を彷徨っていた」「3つで1つの武具を求めて」「折れずの刀、負けずの鎧、そして壊れずの兜」「月の帝はバケモノを差し向けた」「ハンゾウはそれらを次々と打ち破った」と語ります。村人が集まって、クボの物語に耳を傾けます。

 こんなところが、本作の始めの方です。さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、アメリカで制作された日本を舞台にしたストップモーション・アニメーション。三味線を弾いて折り紙を操る少年が主人公で、父母を奪った闇の力に立ち向かうべく、猿とクワガタとともに旅に出ていろいろな冒険に出会うという物語。様々の日本の風物とか文化を大層上手に取り入れながらも、戦いの場面などは圧倒的な迫力を持って見る者に迫ってきます。昨今の流れに従って、家族愛の物語となっていて、主人公に対応する女の子が登場しないのは残念なところながら、大人が見ても十分な作品に仕上がっていると思いました。

(2)本作を見た時に思い出したのは『怪物はささやく』です。
 本作では、最初の方で、クボとその母親が、海岸近くの洞窟の中で暮らしている様子が描かれますが、同作でも、コナー少年と母親が2人で暮らしています。
 その上、本作の母親は、精神的に変調をきたしていて、クボが何かと面倒を見ていますが、同作の母親も末期がんを患っているのです。
 さらには、本作では、クボが、母親から聞いて村人の前で語る物語が重要な役割を果たしますが、同作でも、イチイの木が変身した怪物が話す物語が重要な役割を果たします。

 そして、同作では、イチイノキの怪物の話す3つの物語とコナー少年が話す最後の物語によって、コナー少年が次第に現実(特に母親の死)をありのままに受け入れていくという成長譚が描かれます。
 それと同様に、本作においても、サルとクワガタ(声:ピエール瀧)、さらには折り紙のハンゾウを伴って「3つの武具」を求め歩く旅の物語とか、クボの残った片方の目を奪おうとする叔母(声:川栄李奈)との戦い、はては祖父である月の帝との死闘を通じて、クボが次第に成長する様が描かれているように思われます。



 結局、本作においては、残った片目をクボが守り通すことによって、クボは、現実の世界の有様をしっかりと見届けることが出来るのでしょう。
 まさに、「見えるものすべてに注意せよ」なのです。

 本作は、こうしたストーリーを、上記(1)で記したような嵐の大海原とか、「折れずの刀」を奪おうとした際に出現する骸骨のモンスター(注5)、ラストの月の帝が変身したムカデのような巨大怪物等々の迫力あるものを繰り出して描いていき、最後まで観客をぐいぐい引っ張っていきます。

 とはいえ、少々疑問も残りました。
 一つは、月の帝が、叔母(又は、闇の姉妹)を使ったりしてまで、なぜクボの片目(ひいてはクボの命まで)を奪おうとするのか、という点がよくわかりませんでした(注6)。
 さらに言えば、クボの母親は、月の帝によって、ハンゾウを殺すために差し向けられたにもかかわらず、その命令に背いてハンゾウとの恋に走ったために、叔母によって殺されてしまうのですが、その話自体もよくわからないところです。

 母親が叔母の攻撃を食い止めている間にクボはその場を離れ(注7)、しばらくして雪原で気がつくのですが、あるいはそれ以降の話は、クボの夢の中の話なのかもしれません(注8)。
 もしかしたら、クボの成長を願う母親が作り出した物語をクボが夢で見ているのでしょうか?

 二つ目は、クボが父母に会いたいと願うのはよくわかるものの、彼の成長にとって重要な役割を果たすのは異性との出会いではないでしょうか?
 本作におけるクボの年齢ははっきりとはしませんが、三味線を弾き、物語を語れるとなれば、現代ならば高校生くらいか、それ以上でしょう。
 にもかかわらず、本作では、母親とか叔母といった親族を除いて、クボに適うような異性は誰ひとりとして登場しません。
 あるいは、本作も、今流行りの家族第一主義の流れに沿った作品なのでしょうか(注9)?
 でも、異性に出会わなければ家族も構成できないと思えるのですが(注10)。

 三つ目は、本作でクボは、3つの武具(注11)を求めて様々な戦いをし、それを手に入れ(注12)、それを持って月の帝に戦いを挑みますが、実際の戦いにおいて役に立ったのは、それらの武具ではなくて、クボがいつも手にしている三味線なのです。こうなると、この3つの武具を求めた意味はどこにあるのか、酷く疑問に思えてしまいます。
 あるいは、3つの武具は、それ自体に意味があるのではなくて、それを手に入れる過程でクボが成長することに意味があったと言うべきなのかもしれませんが(注13)


 まあ、それらのことはどうでもよく、ストップモーション・アニメとして描き出された素晴らしい世界を目で味わうことができれば、それで十分というべきなのでしょう(注14)。

(3)渡まち子氏は、「単なる悪者退治や復讐ではなく、許しというフィルターを経て、物語を語り継ぐことの素晴らしさに至るストーリーは、近年のアニメーションの中でも出色だ」「極上の芸術品に酔いしれる103分だ」として80点を付けています。
 金原由佳氏は、「クボが三味線の音で自在に動かす折り紙の百変化が実に楽しい。一枚の紙に命が吹き込まれ、愛らしい動物にもなれば、猛々(たけだけ)しい武器にも変わる。紙を扱う繊細な手や指の動きはアニメであることをすっかり忘れさせられるほど優雅だ」と述べています。



(注1)監督はトラヴィス・ナイト
 なお、本作の吹替版でクワガタの声を担当するピエール瀧は、『アウトレイジ 最終章』に出演していましたし、また、叔母(あるいは、闇の姉妹)の声を担当する川栄李奈は、『亜人』で戸崎(玉山鉄二)の秘書を演じていました。

(注2)公式サイトの「Production Notes」の「3」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 1」)によれば、このシーンは、葛飾北斎の「神奈川沖波裏」(画像はこちら)とのこと。

(注3)クボは片方の目しかなく、眼帯をつけています。公式サイトの「Production Notes」の「4」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 2」)によれば、クボの眼帯は、伊達政宗と柳生十兵衛三厳を思わせるように作られたとのこと。

(注4)公式サイトの「Production Notes」の「4」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 2」)によれば、ハンゾウは、『七人の侍』の三船敏郎に似せて作られているとのこと。

(注5)公式サイトの「Production Notes」の「3」(あるいは、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes 1」)によれば、これにインスピレーションを与えたのは、歌川国芳の「相馬の古内裏」(画像等はこちら)とのこと。

(注6)いったい、どうして、クボの祖父は月の帝(Moon King)なのでしょう?
 劇場用パンフレット掲載の「Characters」き記載されている「月の帝」では、「天上界の主」「強大な力を持ち、クボの右目を狙うため闇の姉妹を動かしている」「かつては娘たちを天上界から地上界へと降ろし、多数のサムライを殺すように命じていた非道な男」と述べられています。
 この説明でも、どうして月の帝がクボの目を奪おうとするのか全くわかりませんし、それに、「多数のサムライを殺すように命じていた」と述べられていますが、なんのためにそうするのでしょう?

(注7)クボの背中に羽が生えて、クボは空に舞い上がります。

(注8)何しろ、これ以降に登場するのは、実際のところ、クボに近しい者ばかりなのですから!

(注9)『怪物はささやく』でも、原作ではリリーという少女がしばしば登場するのですが、映画ではほんの僅かしか登場せず、ほとんど無視されています。本作においても、クボのガールフレンド的な存在は全く描かれていいのです。

(注10)ラストで、クボは、父母の墓に向かって、「僕の物語は続いていくでしょう」「2人に会うことができて感謝しています」「3人でご飯を食べて幸せだった」「でも、母上と父上に会いたい」「そうしたら、物語を締めくくることが出来る」と言うと、川の向こう側に2人が立っているのが見えます。
 でもこれでは、クボは自立した大人になることができないのではないでしょうか?父母のことは思い出としておきつつも、前に向かって新しい道をつき進んでいく必要があるのではないでしょうか?

(注11)「折れずの刀」(sword unbreakable)、「負けずの鎧」(breastplate impenetrable)、そして「敗れずの兜」(helmet invulnerable)。

(注12)「折れずの刀」は骸骨のモンスターの頭蓋骨に突き刺さっていたのをクボが引き抜きますが(アーサー王の伝説とか、ワーグナーの楽劇に登場するジークムントなどと類似しています)、「負けずの鎧」は湖の底の方にあって大きな目玉の怪獣(オディロン・ルドンの「目玉」を思い出させます:例えば、こちらをご覧ください)が守っています。クボは見てはいけない目玉を見てしまい危うかったものの、クワガタが目玉を矢で射たためになんとか助かります。
 最後の「壊れずの兜」は、クボがよく出入りする村の目につくところに吊るされていることがわかります(これは、「灯台下暗し」の教えを説いているのでしょうか?)。

(注13)もう一つ挙げるとすれば、主人公のクボの設定がよくわからない感じです。
 月の帝を父とする母親と、地上に住んでいたと思われるハンゾウとの間の子供ですから、ある程度の魔力を持っているのでしょうが(折り紙でできた動物などを操ることができます)、いくらなんでも祖父の月の帝と対等以上に戦えるとは思えないところです(3つの武具を身に付けることによって、それが可能となるのでしょうか?でも、最後にはそれらを取り払ってしまいますが?)。

(注14)それと、吹替版の最後に流れる吉田兄弟が演奏する「While my Guitar Gently Weeps」も素晴らしいと思いました(こちら)。



★★★★☆☆



象のロケット:KUBO/クボ 二本の弦の秘密


婚約者の友人

2017年11月11日 | 洋画(17年)
 『婚約者の友人』を銀座シネスイッチで見ました。

(1)フランソワ・オゾン監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は、1919年のドイツのクヴェードリンブルク
 黒の服装のアンナパウラ・ベーア)が、街を歩いています。
 アンナは、花屋で白い花を12ペニヒで購入し、それを手に持って歩き続けます。
 ジョウロに水を入れて墓地の中を進み、婚約者だったフランツの墓の前に着きます。

 アンナは、既に墓にバラの花が手向けられているのを見つけます。
 そばで作業をしている男に、「誰が花を?」と訊くと、その男は「外国人だった」と答えます。

 アンナは、「ホフマイスター診療所」との看板のある家のドアを押して、中に入ります。
 そこは、フランツの父親・ハンスエルンスト・ストッツナー)が営む医院で、身寄りのないアンナは、ハンスとその妻のマグダマリエ・グルーパー)と一緒に暮らしています。

 アンナがマグダに「心当たりは?」と尋ねると、マグダは「わからない。ハンスには内緒にして」と答えます。アンナがハンスの様子を尋ねると、マグダは「診察室に籠もりきり」と答えます。

 診察室では、ハンスが患者のクロイツヨハン・フォン・ビューロー)に「また痛むか?」「そのうちに踊れるようになる」と言うと、クロイツは「最近、街でお見かけしませんね」と尋ねます。それに対し、ハンスは「最愛の息子だった」「治療を続ければ、1週間で治る」と答えます。
 クロイツは改まった調子で、「アンナのことですが、彼女はあなたを父親のように慕っています」「彼女は息子さんの婚約者ですが、私と結婚させてください」とハンスに願い出ます。

 診察室から出てきたクロイツを見かけて、アンナが「こんにちは」と挨拶すると、クロイツは「乗馬はどう?」と尋ねます。アンナは「止めたの。気分が失せて」と答えます。それに対し、クロイツが「愛する人を亡くしたけれど、生きていくんだ」と言うと、アンナは「フランツも、同じことを手紙に書いていた」と答えます。さらにクロイツが、「気持ちはわかる」「でも、フランツのことを忘れさせる」と言うと、アンナは「私は忘れたくない」と答えます。

 ハンスとマグダとアンナが夕食をとっています。
 マグダが「土曜日の舞踏会はどうするの?」と尋ねると、アンナは「行きたくないと」答えます。
 ハンスが「クロイツとは?」と訊いた時、ドアをノックする音がします。
 アンナが立ち上がってドアを開けると、男が慌てて立ち去るところでした。

 翌朝、アンナがフランツの墓に行ってみると、見知らぬ男(ピエール・ニネ)が墓の前に立っています。アンナが遠くから見ていると、その男はしばらくして立ち去ります。



 ハンスの診察室。
 その男が診察室の中に入ります。
 ハンスが名前を尋ねると、彼は「アドリアン・リヴォワール」「パリからです」と答えます。それに対しハンスが、「フランス人か。すまんが診察はできない。帰ってくれ」「フランスの男はみな、私の息子を殺した犯人だ」と言うと、アドリアンは「そのとおりです。僕も兵士でした」「人殺しです」と答えて診察室を出てしまいます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これからどのように物語は展開するのでしょうか、………?

 本作の当初の舞台は、1919年のドイツの古都。最愛の息子を第1次大戦で亡くした老夫婦とその息子の婚約者とが一緒に暮らしているところに、息子の友人だったというフランス人の若者が現れて、云々という物語。婚約者とフランス青年との間に親しい感情が醸成するものの、彼には秘密があるらしいこともわかってきて、全体としてオーソドックスなラブストーリーながらも、サスペンス物的な要素も加わって、なかなか見ごたえのある作品になっているように思いました。

(2)本作の舞台の1919年というと、第1次大戦が前年の11月に終わったばかりであり、同盟国側のドイツも連合国側のフランスも、まだ殺伐とした雰囲気が漂っていたものと思われます。
 本作においても、一方で、アドリアンが宿泊していたクヴェードリンブルクのホテルのレストランでは、フランツの父親ハンスと似たような世代のドイツ人らが「ラインの守り」という軍歌を歌い、他方で、アンネが入ったパリのレストランでは、フランス軍の兵士が姿を見せると、客が「ラ・マルセイエーズ」を高唱するという具合です(注2)。
 そんな中でハンスは、ひとたびアドリアンの話を聞くと、周囲の人々に「息子を戦地に送り出したのは我々ではないのか」と言ってまわり、反仏の姿勢を改めさせようとします。
 また、アンナもフランツアントン・フォン・ラック)も、フランス語ができ、ヴェルレーヌの「秋の歌」を一緒に口ずさんだりします(注3)。
 それに、ドイツにやってきたアドリアンも、ハンスらとドイツ語で会話をしています。



 第1次大戦ではお互いに銃を向け合いますが、実際には両国の間で交流が相当進んでいたように思われます。

 そういう背景があって、実のところは、ハンスのもとに謝罪のためにやってきたアドリアンですが、ハンスに会うと、自分はフランツとパリで友達だったと嘘をついてしまいます(注4)。
 この後、アンナも、ハンスとマグダにアドリアンのことで嘘をつきます(注5)。

 こうして、本作は、嘘というものに焦点が当てられていくように思われます(注6)。
 確かに、嘘は本作において大きなテーマなのでしょう。
 ただ、クマネズミには、本作は、アンナが自分を取り巻く状況から脱出しようとする物語のようにも思えました。

 アンナは両親がおりませんから、婚約者の家で暮らすことができたのでしょうが、いつまでもそのままでいられないこともよく承知していたことでしょう。
 それに、このままクヴェードリンブルクにいたら、周囲からの圧力もあって、クロイツと結婚させられるかもしれない恐れも感じたでしょう。
 いい機会があれば、アンナは、ハンスたちの元を去るつもりだったのではないでしょうか?

 そこにアドリアンが現れました。
 最初のうちは、アンナは、アドリアンンの話でフランツのことを思い出していました。
 ですが、単なるフランツの友人にしてはその言動に不審な点があるようにも感じられたのではないでしょうか(注7)?
 それで、アンドリアン宛に出した手紙が宛先不明で戻されてきて、マグダが「フランスに行ってアドリアンを探して連れ戻してきて」「名前も元の住所もわかっているから、探し出せる」「人生はこれから。チャンスを逃さないで」と言い出すと、アンナは、それを奇貨として、早速フランスへ行って事情を調べてくることになります。

 おそらく、マグダは、フランツの成り代わりのアンドリアンとアンナが一緒になって自分たちのそばで暮らしてくれたら、と願ったのでしょう。
 でも、アンナの方は、これはクヴェードリンブルクからの脱出の機会になるかもと受け止めたのかもしれません。

 結局、アンドリアンには、幼馴染の婚約者ファニーアリス・ドゥ・ランクサン)がいて、もうすぐ結婚式が執り行われることになっているとわかります。
 アンドリアンに対する想いが強くなっていたアンナですから、その事情がわかった時はショックだったでしょう。
 それに、アンドリアンによってクヴェードリンブルクから引き上げてもらうというアンナの期待も潰えてしまいました(注8)。

 でも、よく考えてみれば、そんなことをしたら、この先フランツの影から抜け出せないことになってしまいかねません。むしろ、アンドリアンからも離れることができたことによって、アンナはようやく独り立ちできることになるのではないでしょうか?
 それが、ルーブル美術館でマネの「自殺」の絵を前にして、「生きる希望が湧くの」とアンナが呟いた意味合いなのではないかなと思った次第です(注9)。



(3)渡まち子氏は、「戦争と戦争の間に挟まれた不安な時代を背景に、嘘の功罪を描くオゾン流のミステリアスなメロドラマだ。アンナを演じるドイツ人女優パウラ・ベーアの、複雑で繊細な表情が心に残る」として70点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「映画は、第1次大戦後の憎悪し合うドイツとフランス両国が互いに認め合って許しを求める姿を描いているが、その姿は憎しみの連鎖が至る所に見られる今日の世界にこそ必要だろう」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 林瑞絵氏は、「人間らしさを失う戦争の時代、たしかに人は一編の詩、ひとつの旋律に救われることがあるのだ。鋭い洞察力を持つ皮肉屋の俊英監督が、円熟期に入り慈悲深い眼差(まなざ)しを手に入れた」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『彼は秘密の女ともだち』のフランソワ・オゾン
 原題は「Franz」。
 原案は、エルンスト・ルビッチ監督の『私の殺した男』(1932年)。

(注2)さらには、アドリアンが、道路で酔いつぶれているドイツ人の若者を介抱しようと近寄りますが、その若者は、介抱するのがフランス人だとわかると、「触るな!」と怒り出します。

(注3)アンナがアドリアンに話したところによれば、「内緒話はフランス語だったの」とのこと。

(注4)アドリアンはハンスらに、「パリであったのが最後。ルーブル美術館へ行きました」「そこでは、彼のお気に入りのマネの絵をしばらく眺めました」などと言います。
 また、回想シーンでは、フランツがヴァイオリンを演奏していると、アドリアンが手の位置などを直してあげるところが映し出されたりします。



(注5)更には、アンナはアドリアンに対して、フランツの両親はアドリアンの言い分を了解し許していると嘘をつきます。

(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、フランソワ・オゾン監督は、「戯曲〔モーリス・ロスタンが書いた戯曲「私の殺した男」(1930年)〕とルビッチ版では、フランス人青年の秘密は、冒頭で神父に罪を告白するシーンで明らかになる。僕は彼の罪よりも嘘の方に興味を惹かれた」と述べています。

(注7)というのも、アドリアンは、きちんとハンスの家に現れないで、一度目は逃げ去ったりしていますが、その後姿をアンナは見ています。アンドリアンがフランツの大親友というのであれば、クヴェードリンブルク到着後ただちにハンスの家に顔を出すはずでしょう。
 それに、元々アンナは、フランツからアンドリアンについて何も知らされていなかったのです。フランスで見つけた友達ならば、アンナに手紙で知らせてきても良かったはずです。その点をアンナがアンドリアンに尋ねると、アンドリアンは「友情だけだ」とそっけなく、風で木の葉のそよぐ音が聞こえると、「忘れてた、風でそよぐ木の葉の音」などと言って話題をそらす感じです。

(注8)アンナは、アンドリアンを岩場に案内し、「ここでフランツからプロポーズされた」と明かしますが、途中で洞窟のようなところを通過します。洞窟を抜けて明るいところに出るシーンは、クマネズミには、アンドリアンが自分を今の世界から連れ出してくれるのをアンナが期待していることを象徴しているように思えました。

(注9)もしかしたら、アンナは、自分がこれまで関わった男、フランツとアンドリアンが目の前から消えてくれたことによって〔フランツは空砲を所持していて自殺同様の状態だったですし、アンドレアンは母親を喜ばせようと自分を殺しているのですから〕、これから自由にパリで行きていけると思ったのではないでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:婚約者の友人


バリー・シール

2017年11月09日 | 洋画(17年)
 『バリー・シール アメリカをはめた男』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)トム・クルーズの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ジミー・カーター大統領の演説(注2)のシーンが入って、「Based on true story」の字幕。

 次いで、時点は1978年。
 TWAの旅客機のコックピットの操縦席に、パイロットのバリー・シールトム・クルーズ)が座っています。
 退屈しきったバリーは、隣の操縦席にいるパイロットが寝込んでいるのを見て、自動操縦のスイッチをオフにしてしまいます。すると、旅客機は大きく揺れ出し、酸素マスクまで上から各座席に落ちてきます。バリーは、機内放送で白々しく「乱気流でした」とアナウンスします。

 バリーの自宅は、ルイジアナ州のバトンルージュにあり、帰宅すると、妻のルージーサラ・ライトト・オルセン)が出迎える暇もあらばこそ、すぐにベッドに入って寝てしまいます。

 ある時、バリーはホリディ・インにチェックインします。
 その後、ホテルのバーの椅子に座っていると、シェイファー(実は、CIA局員:ドーナル・グリーソン)が近づいてきて、「バリー?」と話しかけてきます。
 シェイファーは、なおも、「ここで木曜日に稼いでいるだろう?」「キューバ亡命者のためにキューバ産の葉巻を密輸入しているのでは?」「興味深い経歴だな」「TWAの最年少パイロットなんだろ」「中米では、革命の匂いがしないか?」「我々は、そこで国を作っている」「君の手を借りたい」と話します。
 流石にバリーも、「CIAだな」と小声で言って、驚きます。

 シェイファーは、バリーを飛行場の格納庫に連れていき、バリーのために用意した小型飛行機を見せます。
 バリーは、「高速の双発機だ!瞬時に時速500kmになる」「信じられない」とその飛行機に魅せられてしまいます。

 シェイファーは、「民主主義の敵が相手だ」「奥さんのルーシーにも、このことは秘密だ」と付け加えます。
 バリーが「合法なのか?」と尋ねると、シェイファーは「正義の味方という意味ではそうだ」と答え、「乗り心地を試してみないか」と誘います。
 そこで、バリーは、その小型飛行機を操縦してみます。



 家に戻ったバリーは、妻のルーシーに、「自分でビジネスをする」「IFC(注3)と言うんだ」と告げます。
 すると、ルーシーは「あなたは、TWAのパイロット」「それで家族を養っているの」「IFCなんてインチキ臭い」と文句を言います。
 それでも、バリーはTWAを辞めてしまいます。

 「CIA ‘78」との字幕が映し出されて、CIAに移籍したバリーの操縦する小型飛行機が低空を飛んで、中米のグアテマラ、ホンジェラス、エルサルバドルの革命軍の様子を写真撮影します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、ここからどんな物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、CIAにスカウトされ、またコカインの密輸に手を出し、ホワイトハウスにも雇われた実在の男のバリー・シールを描いた作品。隠す場所がなくなるくらいの大量の札束を手にするまでの主人公の破天荒な物語は、いつものトム・クルーズの面目躍如と行ったところながら、他方で、本作では、中南米諸国とアメリカとの政治的な関わりについてもある程度ウエイトを置いて描かれていて、単なる娯楽映画に終わっていないところは、評価すべきかもしれません。

(2)バリーに扮するトム・クルーズは、これまでの作品と同じように、なかなか格好良く描き出されています。
 例えば、バリーは、革命軍の様子を低空飛行で撮影する際に、地上からの射撃によって片方のエンジンが破壊されてしまっても、なんとか帰還しますし、あまりにもたくさんのコカインを積み込んだために離陸が危ぶまれながらも、そして樹木に機体をこすりつけながらも、なんとかジャングル内の狭い空地から小型飛行機を飛び立たせることに成功し、目的を達成してしまうのです。
 それに、アーカンソー州の司法長官のもとに手錠姿で引き出されながらも、そこに集まってきた職員らに軽口を叩きながら、結局は解放されることになるのです(注4)。

 何と言っても凄いのは、危険な飛行を達成するたびに得る札束の多さです。
 コカインをコロンビアからアメリカに密輸することの報酬が2000ドル/キログラムですから、お金は貯まる一方です。

 ここで思い出すのがTVドラマの『Breaking Bad』(注5)。
 同作においては、高校の化学の教師ウォルター(注6)が、自分が肺がんであることを告知され、その治療費と家族の将来に当てるための資金とを捻出するために、高校時代の教え子ジェシーと覚醒剤の製造に乗り出すというお話ですが、製造したものが上手く捌けだすと(注7)、本作と同様に、札束がみるみるうちに貯まるようになります(注8)。

 また、本作においては、バリーをFBIとかDEA(アメリカ麻薬取締局)などが追い詰めますが、同作においても、ウォルターの義理の弟ハンクがDEAの捜査官であり、ウォルターの製造する高純度の覚醒剤をなんとか取り締まろうと躍起になっています。

 さらに言えば、主人公の家族の反応も、両作である程度類似するところがあるように思います(注9)。

 それはさておき、本作においては、トム・クルーズのいつもの笑顔や軽妙さなどがいろいろ窺えるとしても、最後がいつものようにならないところは、事実に引き寄せられて仕方がないとはいえ、やや拍子抜けしてしまうところです(注10)。

 なお、本作においては、当時の中南米の政治情勢の一部が描き出されていて、興味を惹かれます。
 例えば、バリーは、パナマに侵攻したアメリカ軍によって拘束されてアメリカで一時期服役したことがあるノリエガ将軍とCIAとの間を取り持ったり、ニカラグアのサンディニスタ政権と戦っているコントラに武器を運んだりします。

(3)渡まち子氏は、「ノリはあくまでも軽く、トム・クルーズはあくまでも俺様スター。社会派映画でありながら、コミカルな味付けの風刺をたっぷり込めた歴史秘話的エンタテインメントとして楽しめる」として65点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「バリー・シールの破天荒な悪行をハリウッドの快男児トム・クルーズが軽妙に演じ、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』で彼と組んだダグ・リーマンが監督して生まれたウソのようなホントの話」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 真魚八重子氏は、「トム・クルーズは近年、頭が切れ腕も立つ超人的な役柄が多く、浮世離れした印象が定着している。その彼が人間臭いバリー・シールを演じるところが面白い」と述べています。



(注1)監督はダグ・リーマン
 脚本はゲイリー・スピネッリ。
 原題は「American Made」〔なお、元々の原題は「Mena」(バリーの家族は、当局の追求を逃れるために、ルイジアナ州のバトンルージュからアーカンソー州のミーナに引っ越します。)でしたが、最終的に「American Made」(「アメリカ製」でしょうか)に変更されました〕。

 なお、出演者の内、最近では、トム・クルーズは、『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』で見ました。

(注2)1979年の「信頼の危機」と題する演説の一部(Wikipediaのこの記事に掲載)。
 「アメリカのデモクラシーに対する最大の脅威についてお話しましょう」「その脅威は目に見えません」「それは、信頼の危機です」「国民の大部分が、これからの5年間はこれまでの5年間に比べて事態は悪化すると信じています」云々。

(注3)Independent Flight Consultant。

(注4)州の司法長官のデイナジェイマ・メイズ)は、「アーカンソー州は、一生、刑務所から出られないようにする」とバリーに断言したにもかかわらず、知事から電話がかかってくると、バリーを無罪放免にしてしまいます。その間、部屋の外にいたバリーは、取り囲んだ職員らに対して、「皆さん一人一人にキャディラックをやろう」などと軽口を叩きます。



(注5)海外のTVドラマは殆ど見ていなかったのですが(例外は、『Downton Abbey』)、デープ・スペクター氏によるこの記事を読んで触発され、『Breaking Bad』のDVDをTSUTAYAから借りて見たところ、そのあまりの面白さについハマってしまい、全話を見ることになってしまいました。

(注6)主人公のウォルターを演じるのは、『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされたブライアン・クランストンですが、トム・クルーズとは対照的に酷く地味な感じの男優です。

(注7)ウォルターは、大層才能のある化学者で(研究仲間との行き違いで、興した会社を去って高校教師になっています)、純度の極めて高い覚醒剤・メタンフェタミンを自分の手で製造することができ、一度それが市場に出回ると、高い値段で捌くことが出来る、という設定になっています。

(注8)最後には、8千万ドルものお札が、レンタル倉庫に隠されていたり、7つのドラム缶に分けられて地中に埋められたりします。

(注9)本作においても『ブレイキング・バッド』においても、主人公の妻(本作ではルーシー、『ブレイキング・バッド』ではスカイラー)は、お金が潤沢になるのを見て怪しみ、「汚いお金なら嫌だ」と夫の行動をなかなか受け入れようとしませんが、大金によって事態が改善されてきて、さらに事情が説明されると、次第に状況を受け入れるようになります(特に、会社経理を長くやっていたスカイラーは、資金洗浄に力を発揮します)。



 また、近親者の一人〔本作ではルーシーの弟JBケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)、『ブレイキング・バッド』では主人公の義理の弟ハンク〕が、麻薬組織の手の者によって殺されます。

(注10)トム・クルーズの作品を熱心に見ているわけではありませんから、おいそれとは言えないのですが、死の瀬戸際まで追い詰められても決して死なない男の役を演じることが多いように思います。確かに、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』のように何度も死んで何度も蘇るといった作品はあるにしても、本作のようにあっけなく殺されておしまいという作品は、トム・クルーズにしては珍しいのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:バリー・シール アメリカをはめた男

新感染 ファイナル・エクスプレス

2017年10月21日 | 洋画(17年)
 韓国映画『新感染 ファイナル・エクスプレス』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)公開されてからかなり時間が立ちますが(注1)、評判が大層高いので映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、高速道路の料金所の出口で車を停めさせて、防疫の作業員が車に消毒液を噴霧してから通過させています。
 トラックの運転手が「なんだよ?また豚を埋めてんのか?」と訊くと、作業員は「何かが漏れたらしい」と答えます。
 運転手は「また豚だったら、ただじゃおかないぞ」などと文句を言って、一般道に出てトラックを走らせますが、隣の運転席に置かれていた携帯をとろうとして目を前方から逸らした時に、突然ドンという音がして何かにぶつかった感じがしたので、車を停めます。
 鹿が轢かれて道路に倒れています。
 運転手は、トラックを降りてその場を確認して、「なんてこった」「ついてないな、まったく」と言いながら再びトラックに乗って、発進させます。
 しばらくすると、道路に倒れていた鹿が、体をピクピクさせたかと思うと勢い良く立ち上がります。ただ、その目は白く濁っています。

 ここで、タイトルが流れます。

 ソウルにある証券会社。
 ファンドマネージャーのソグコン・ユ)が電話で、「今、手を引かないと、証券が紙切れになってしまう」「関連株を全部投げろ」「個人投資家が買うだろう」などと仕事の話をしています。
 他方で、ソグは、プサンにいる別れた妻とも電話で話しています。
 ソグは「子供は俺が育てる」と言いますが、別れた妻の方では、「スアンが明日来るって言っている。父親なのに知らないの?連れてきてよ。明日はスアンの誕生日なのよ」と言います。

 ソグが家に帰ると、彼の母親が出てきて、「ご飯は?」と尋ねると、ソグは「いらない」と答えます。
 幼い娘のスアンキム・スアン)が出てきて、「プサンに行くって、ママと話した」というと、ソグは「来週なら行けるよ。パパは今忙しい」と答え、さらに「誕生日おめでとう」と言って、プレゼントをスアンに渡します。
 スアンが包みを開けると、Wii ゲーム機が出てきますが、スアンはあまり喜びません。
 なんとそれは、子供の日にソグが買って与えたのと同じゲーム機(スアンの机の上に置いてあります)だったのです。
 スアンは、「明日、プサンに行きたい」「一人で行ける」「パパを困らせない」と言います。
 ソグの母親は、「ご飯を食べながら2人でよく話し合いなさい」と忠告します。
 そして、「お前が学芸会に来なかったから、スアンは寂しがっていた」と付け加えます。

 ソグは、部屋で学芸会のビデオを見ます。
 スアンが舞台で歌を歌っているものの、途中で歌が止まってしまいます。

 結局、ソグはスアンを連れてプサンに行くことになりますが、さあ、この後物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、主人公とその子供がたまたま乗り合わせた釜山行きの特急列車にゾンビが出現し、乗客や車掌らが次々とゾンビ化し、また列車が向かっている先々の都市においてもそこの住民が大量にゾンビ化している中、主人公らが必死になって生き延びようとする姿が描かれています。襲いかかるたくさんのゾンビからいかにして生き抜くかを描いている映画はいくつもありますが、本作は、その事態を特急列車という大層狭い空間の中に持ち込んだ上で主人公らの行動を捉えていて、そのスピード感・切迫感がただごとではなく、最後まで息も吐けないほどの面白さです。

(2)ゾンビが大量に出現する映画として、最近では、『ワールド・ウォーZ』と『アイアムアヒーロー』を見ましたが、前者においては、ブラッド・ピットが扮する元国連職員のジェリーの一家が、後者でも、主人公の漫画家(大泉洋)と2人の女性(有村架純と長澤まさみ)が中心的に描かれます。
 他方、本作においては、主人公のゾクとスアン以外の登場人物にも、随分と焦点が当てられていて、物語の幅を大きくしています。



 例えば、サンファマ・ドンソク)とソンギョンチョン・ユミ)の夫婦。
 体つきのがっしりした筋肉労働者然のサンファは、妊娠中の可愛い妻のソンギョンを必死で守ろうとします。



 また、高校生のヨンソグチェ・ウシク)とジニアン・ソヒ)。
 野球部員のヨンソグはバットを手にして、恋人のジニを救出しようとします。



 他方で、バス会社の幹部のヨンソクキム・ウィソン)は、自分が助かることしか考えておらず、他の人がどうなろうと知ったことではないといった態度を最後まで取り続けます。

 彼らは、ゾクとスアンが乗車したソウル5時30分発プサン行きの特急KTX101号に乗り合わせます(注3)。
 時速300kmでプサンに向かって進む列車の中では、12号車に乗り込んだ女性客がゾンビ化し、彼女に噛まれた女性乗務員も感染し、さらにどんどん感染者が拡大し、後方車両に迫ってきます。
 息詰まるのは、サンファが、迫ってくるゾンビたちに噛まれながらも客室への侵入を防いでいるにもかかわらず、ヨンソクが自分たちだけが助かろうとして、ソグたちが逃げ込もうとする通路のドアをなんとか閉めようとする場面でしょう。
 まさに、「前門の虎、後門の狼」といった感じです。

 ただ、本作に出現するゾンビの扱いは、これまでのものとはどこか違う感じがします。
 というのも、『アイアムアヒーロー』にしても、『ワールド・ウォーZ』にしても、最初のうちは、本作と同じように、主人公らは、ゾンビ化した人間の襲撃から逃げようとむやみと走り回るだけでしたが、そのうちにゾンビらに向き合って撃ち殺したり、はてはゾンビに攻撃されないワクチンを求めたりします。
 要するに、両作においては、ゾンビに向かい合って抵抗することによって、主人公らは活路を見出そうとします。
 ですが、本作の場合、民間人が乗車する列車の中の場面がほとんどで、本来的に乗客らは何の武器も持っていないわけですから(野球のバッドで対抗しても、たかが知れています)、ゾンビに襲われると車内を走って逃げるしか手はありません。
 本作では、最後までそうした状態が続きますが、はたして列車が目的地に到着した後に、人間がゾンビの来襲に対抗できるのかどうか、本作では何も示されないままで終わります。

 なお、主人公のゾクは、証券会社のファンドマネージャーとして仕事を猛烈にこなす仕事人間であり、そのために家族を省みていないという、お定まりの設定になっています。
 屈強なサンファや野球部員のヨンソグも、あるいは悪役を一手に引き受ける会社役員のヨンソクにしても、典型的な人物設定と思えます。
 ですから、本作から、韓国の政治や経済に対する風刺的なものを読み取ったりしても、あまり意味がないような気もしてきます(注4)。
 そんなことよりも、本作の息も吐けない面白さをそのまま受け止めた方が時間の無駄にならないように思えます。

 ところで、冒頭のシーンでは、上記(1)で見るように、トラックに消毒液がかけられますが、それは、トラックがこれから行こうとしている地域をウイルスから守ろうとしてなのでしょうか、それとも、ウイルス汚染地域から来たトラックを殺菌しようとしてなのでしょうか?
 また、トラックが衝突した鹿は、トラックとぶつかったことでゾンビ化したのでしょうか、それともぶつかる前からゾンビ化していたのでしょうか(注5)?

(3)渡まち子氏は、「この移動型密室ゾンビ・サバイバル・ホラー、世界中の映画祭で評判というのが納得の、見事な出来栄えだ。群れになって襲い掛かるゾンビと、醜いエゴまるだしの生存者たち。どっちが怖い? ぜひ映画を見て確かめてほしい」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「思わせぶりな社会派の香りを漂わせつつも、エンタメとしての見せ場をこれでもかと詰め込んである。なくなったゾンビ映画の祖ジョージ・A・ロメロ監督作品のような、王道でありながらもローカルな韓国らしさをふんだんに漂わせる。ゾンビ映画の新作としては、非常に良くできた部類に入るだろう」として75点を付けています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「日本の新幹線に引っかけた題名はダジャレのようだが、中身の充実ぶりは目覚ましく、このジャンルにおいては最上級の出来ばえと言い切れる娯楽大作である」と述べています。
 安部偲氏は、「アクション、恋愛もの、ミステリーなどさまざまな韓国映画がこれまでに日本でもヒットしてきているが、この映画は名作と呼ばれる映画の中でも、特に見る価値があると思う。おそらく実際に見て劇場を後にするころにはゾンビ映画ながら感動してしまった自分に気づくに違いない」と述べています。



(注1)日本での劇場公開日は9月1日。

(注2)監督はヨン・サンホ
 脚本はパク・ジュソク。
 英題は「Train to Busan」。

(注3)KTXについてはこちらの記事を。

(注4)プサン市に通じるトンネルの入口では、軍隊が、迫ってくるゾンビたちを銃を構えて待ち受けています。おそらく、プサン市は安全地帯になっているのでしょう。
 こうした状況から、朝鮮戦争における「釜山橋頭堡の戦い」に言及するレビューもあるようです(例えば、こちら)。ですが、朝鮮戦争の際でも、本作のようにプサン市まで戦線は後退しなかったように思いますし、なによりも、肝心の「仁川上陸作戦」に相当するものはどのように考えるのでしょうか?
 それに、主人公らの乗ったKTXはどこで誰が運行をコントロールしているのでしょうか、またゾクはソウルの会社の部下からの電話を受けたりしていますから(キム代理から、「今回のゾンビ騒動の発端は、ブクたちが株で仕掛けたユソン社だといわれています」「僕達に責任はないですよね」といった電話があります)、ソウルが壊滅したわけでもなさそうです。
 そうしたことから、本作の状況は、朝鮮戦争時とは異なっているようにも思えるのですが、実のところはよくわかりません。

(注5)鹿がゾンビ化するくらいなら、映画にはもっとゾンビ化した熊とかイノシシなどが登場しても良さそうに思われますが。



★★★★☆☆



象のロケット:新感染 ファイナル・エクスプレス


ドリーム

2017年10月13日 | 洋画(17年)
 『ドリーム』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)アカデミー賞の作品賞にノミネートされた映画ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「実話に基づく物語(Based on true events)」の字幕が。
 そして、廊下を歩きながら、「14、15、16、素数(17)、18、素数(19)、20 」などと呟いている幼いキャサリンが映し出されます。
 場所は、ウエスト・ヴァージニア州のホワイト・サルファー・スプリングス市。時期は1926年。
 別室では、小学校の校長でしょうか、「ウエスト・ヴァージニア州立大学付属の高校が、黒人に合った学校としてはベストです」と言うと、キャサリンの親でしょう、「娘はまだ8歳ですよ」と答えます(注2)。

 次いで、キャサリンが入学した学校での授業風景。
 先生が「この方程式を解いてみて」と黒板に書かれた算式を指差すと、キャサリンが前に進み出て、「2項の積がゼロならば、どちらかの項はゼロですから、…」と言いながら、黒板を使って方程式をどんどん解いてしまい、先生が驚きます。

 1961年のヴァージニア州ハンプトン(注3)。
 周囲に人家の見えない道路のわきに、車が停まっています。
 ドロシーオクタヴィア・スペンサー)が車の外に出て、あちこち点検しながら「エンジンかけてみて」と言うと、運転席にいて何事か考え事をしていたキャサリンタラジ・P・ヘンソン)が、しばらくして「聞こえた」と応じ、エンジンをかけようとしますがかかりません。
 ドロシーは「スターターだわ」と言い、メアリージャネール・モネイ)は「こんなに遅刻していたら、解雇される」と嘆きます。

 そこへパトカーがやってきます。
 警官が「こんなところでエンスト?」と尋ねると、メアリーが「車がここを選んだのです」と答えるものですから、警官は「舐めてるのか?」と怒り出します。
 でも、3人がNASAで働いていることがわかると、警官の態度が一変し、「宇宙飛行士に会ったことがあるのか?」などと訊いてきたりし、車が動くようになると、「先導してやるよ、遅刻するんだろう」と申し出て、研究所までパトカーがエスコートすることになります。

 画面では、ロケットの打上げのニュース映像。
 「離陸は成功」「後は分離だ」「118秒経過」「ブースター分離」「成功だ」「スプートニクが軌道に乗った」などの音声が入ります(注4)。
 このニュース映像を見ていたのは、NASAの宇宙特別研究本部の幹部たち。
 「忌々しい犬どもめ」と吐き捨てたりします。
 彼らのトップ(注5)が、「大統領は、これ以上の遅れは許さない」と皆に言い渡します。
 また、本部長のハリソンケビン・コスナー)は、「解析幾何学が出来るものがNASAにはいないのか?」と尋ねます。

 次の場面は、宇宙特別研究本部が置かれているラングレー研究所の西計算グループの部屋。
 大勢の黒人女性が机に向かって、計算する仕事を行っています。
 そこに上司のミッチェルキルスティン・ダンスト)が入ってきて、ドロシーに「解析幾何学が出来る人を探している」と言うと、ドロシーは「キャサリンならうってつけです」と答えます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、1960年代初頭、アメリカの有人宇宙飛行計画の実現に大きな貢献をした3人の黒人女性数学者の姿を、実話に基づいて描き出したものです。前回取り上げた『亜人』とは正反対に、本作は、“女性の力、万歳”といった感じです。なにしろ、男性職員ができない難しい計算をやってのけてしまったり、航空宇宙技術士になろうとしたり、出始めのコンピュータの取扱いに精通してしまうのが、皆女性なのですから。この映画のようなハッピーエンドならば、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』のようなハッピーエンドよりも、ずっと心が和んできます。

(2)宇宙開発の世界では、いろいろな計算ミスによって大きな損失がもたらされているようです。
 例えば、1996年6月に、ESA(欧州宇宙機関)が打ち上げたアリアン5の1号機が打ち上げ後40秒ほどしてから爆発しましたが、原因の一つはオペランド・エラーとされています(注6)。
 また、1999年12月には、計算単位が「ヤード・ポンド法」でなされていたのを「メートル法」によるものと誤解していたがため、NASAは火星探査機を失うという事故が起こっています(注7)。
 さらには、最近の事例では、2016年3月に、JAXAがX線天文衛星ASTRO-H「ひとみ」を失った事例があるでしょう。
 この事故では、数値の正負を誤って入力したため異常な噴射が起きました(注8)。

 これらは、コンピュータ時代に入ってからの事例ですが、それでも数値計算が重要な役割を果たしていることがわかります。
 まして、本作のような、コンピュータ時代に入るか入らないかの時期における数値計算は、格段に重要だったように思われます。
 本作は、そんな時代にNASAを支えた3人の黒人数学者を取り扱っている作品です。

 キャサリンは、早熟の天才であり、解析幾何学に習熟していて、条件が変わった場合に、打ち上げられた宇宙船が地球上のどこに着水するのかたちどころに計算してしまう能力を持っていて、ハリソンに重宝がられます。



 ドロシーは、コンピュータがNASAに導入される初期からフォートランを勉強し、同僚の女性らにもコンピュータ時代の到来に対処するようにアドバイスします。



 さらに、メアリーは、エンジニアになるために必要だったカリキュラムを、黒人が入れない学校で習得できるよう裁判長を説得して、単位を得ることに成功します。



 ただ、本作は、そんな彼女らが挙げた事績だけを描いているのではなく、その人間的な側面をも上手く取り上げています。
 例えば、キャサリンとジムマハーシャラ・アリ)とのラブストーリー。
 出会った時に「女にそんな大変な難しそうな仕事をやらせるなんて」と言ってしまってキャサリンを怒らせて失敗してしまうジムながらも、その誠実な人柄で劣勢を挽回して結婚に至る物語は、誠に心を和ませます。

 それに、彼らが受けた差別的な扱いも、色々描かれています。
 例えば、ドロシーは、管理職になりたいとの希望を、上司のミッチェルから簡単に却下されてしまいますし(注9)、メアリーは、NASAで風洞実験などに携わっていて、エンジニアになりたいとの希望を持っているものの、重大な障害があってそれが難しいようです(注10)。

 とはいえ、大層つまらないことながら、一つ疑問が残りました。
 本作では、キャサリンが、仕事の途中で、トイレに行くために、書類をたくさん抱えながら、黒人用のトイレが設けられている西計算グループの建物に駆け込む姿が何度も描かれます。
 たいそう忙しいにもかかわらず、キャサリンの勤務時間にかなりの空白があるのに気がついたハリソンは、キャサリンに理由を質して、ようやく実状を理解します。
 そうして、ハリソンは、「COLORED WOMEN」と書かれていた表示版を叩き壊してしまいます。
 ハリソンの行動は、白人としてすごく格好の良いものです。
 ですが、そんなことをしたら、キャサリンのような黒人女性が入れるトイレがこの研究所内になくなってしまうだけのことではないでしょうか?
 重要なのは、キャサリンが働く建物内にあるトイレの方を黒人が使ってもかまわないようにすることではないかと思われます。

 それはともかく、本作のラストでは、キャサリンは、ラングレー研究所に置かれている宇宙特別研究本部でこれまで通り働くことになりますし、ドロシーは計算グループの管理職(「計算室長」)に就任します。また、メアリーも、黒人初の航空宇宙エンジニアになることができます。
 これは、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』のエンドロールと同じようなハッピーエンドに思えるとはいえ、同作におけるそれは酷く取ってつけた感じなのに対し、本作のそれは十分に納得できるものでした。

(3)渡まち子氏は、「本作は、いくつもの“最初の扉”を開けたアフリカ系アメリカ人の女性たちのチャレンジを痛快なエピソードでテンポ良く描いてみせた快作だ。人種差別や性差別は今も社会にはびこり、アメリカが今までになく不安な時代を迎えている今だからこそ、彼女たちの知的な勇気がより輝いて見える」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「宇宙飛行士を乗せて飛び立つロケットに黒人女性の誇りと夢を重ね、優れた能力で不遇の時代を切り開く女性たちにエールを送るドラマは、見る者をすがすがしい感動に誘い込む」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「差別され、仕事の機会を奪われてきた黒人女性が、自分の力によって活躍の場を見いだしてゆく。ここまで都合よく話が進んでいいものかという気もしますが、都合のいい展開のおかげで幸せな気持ちになるのも事実。生きる元気が湧いてくる映画です」と述べています。
 朝日新聞のクロスレビューでは、村上明子氏は「こうやって差別と闘った女性たちがいたから、今の私たちがある。自分たちと地続きの歴史を感じました」、小西未来氏は「「ドリーム」はNASAの宇宙開発史や、人種・女性への差別問題に触れながら、エンターテインメント性もある。新しいタイプの映画だと思います。ファレル・ウィリアムスの音楽も素晴らしい」、森本あんり氏は「この映画の後にも見えない差別の現実は続いていたのです」と述べています。



(注1)監督は、『ヴィンセントが教えてくれたことセオドア・メルフィ
 脚本は、セオドア・メルフィ(『ジーサンズ はじめての強盗』の脚本)とアリソン・シュローダー。
 原作は、マーゴット・リー・シェタリー著『ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち 』(ハーパーBOOKS)。

 なお、本作の邦題については、当初は『ドリーム 私たちのアポロ計画』でしたが、公開にあたっては副題が削除され、単に『ドリーム』となっています。これは、本作で中心的に描かれるのが、アポロ計画の前のマーキュリー計画(そのあいだに、ジェミニ計画があります)ですからある意味で当然とはいえ(尤も、キャサリンは、アポロ計画にも大きく関与しています)、でも『ドリーム』ではなんのことやらさっぱりです。映画の中の3人の数学者は、決して夢を描いていたわけではなく、現実的に着々と地歩を築いています。もう少し、原題の『Hidden Figures』にちなんだものにできないのでしょうか(といって、邦訳の副題「ドリーム NASAを支えた名もなき計算手たち」では、よくわかるものの、長すぎるかもしれません)?

 また、出演者の内、最近では、オクタヴィア・スペンサーは『ヘルプ 心がつなぐストーリー』、ジャネール・モネイマハーシャラ・アリは『ムーンライト』、キルスティン・ダンストは『アップサイドダウン 重力の恋人』で、それぞれ見ました。

(注2)この記事によれば、当時、同地方では、小学8年生以上の黒人に対しては公的教育が施されておらず(キャサリンは、1926年当時、既に小学6年生だったようです)、それ以上の教育を受けるためには、別の場所の学校に行かざるを得なかったようです。
 そして、キャサリンは、10歳で高校に入り、14歳でウエスト・ヴァージニア州立大学に入学しています。

(注3)そこには、NASAのラングレー研究所があります。

(注4)ニュース映像を見ているのが1961年であれば、ガガーリンのボストーク1号に関するものがふさわしいと思われますが、映画ではスプートニクに関するものが取り上げられていたように思います(あるいは、クマネズミの勘違いかもしれません)。

(注5)NASAの副長官のジェームズ・ウェッブだと思われます。

(注6)この記事では、「64ビットの浮動小数点数を16ビットの整数に変換する過程でエラーが生じた」とされています(また、この記事を参照)。

(注7)この記事が参考になります。

(注8)例えば、この記事。より詳しくは、こちら〔「入力する際に負値を正値に直さなければならないところを実施しなかった」「当該作業者は、ツールの使用経験はあったが、本作業は初めてであり、符号を直すことを知らなかった」(『X線天文衛星ASTRO‐H「ひとみ」 異常事象調査報告書』のP.64)〕。

(注9)ドロシーがミッチェルに「管理職へ昇格したい」と告げると、ミッチェルは「黒人グループは管理職に向かない」と答え、さらにドロシーが「前職がいなくなってから1年経っている」「私が、その空白を埋めている」と言っても、ミッチェルは「すべて決まっていることだ」と答えるだけです。

(注10)メアリーがエンジニアの資格を得るためには、一つを除いて十分な経歴を持っていました。その一つというのは、白人しか入れない大学で行われている講座を習得することでした。メアリーは、夜間講座を受けるという条件で裁判長の了解を得て、晴れてその講座に出席することができます。



★★★★☆☆



象のロケット:ドリーム


パターソン

2017年09月21日 | 洋画(17年)
 『パターソン』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)予告編で見て良さそうだなと思い、映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭では、「月曜日」の字幕が映し出され、主人公のパターソンアダム・ドライバー)とその妻・ローラゴルシフテ・ファラハニ)がベッドで眠っています。
 パターソンは、目を覚まし、小机に置かれている時計を見ると朝の6時10分。
 その時計を腕にはめ、ローラにキスをします。
 ローラが「素敵な夢を見た。双子がいるの」「子供を作るなら、双子が良い?」と尋ねると、パターソンは「いいね」と答え、ローラは「私達一人に一人ずつ」と言います。

 パターソンは、起き出して朝食をとりますが、机の上にあった“オハイオ印のブルーチップ・マッチ”を見ます。
 それから、昼食の入った小さな手提げを持って家の外に出て、勤務先に向かいます。

 パターソンの声。
 「我が家には沢山のマッチがある。いつもマッチを手元に置いている」。

 パターソンは、ベンチに座る老人に挨拶をして道を進みます。
 そして、バスの車庫に入り、バスに乗ってその運転席に座ります。



 パターソンは、運転席で小さなノートを開いて、そこに詩を書き付けます。
 「家には沢山のマッチがある」「今お気に入りのマッチは、オハイオ印のブルーチップ」「以前は、ダイアモンド印だったけれど」

 パターソンの運転するバスは、車庫を出て通りを進みます。
 バスは、合図があって停留所に着き、数人の乗客が降り、2人の少年が乗ってきます。
 そのうちの1人の少年が、「パターソン市にはハリケーン・カーターが住んでいた」「デンゼル・ワシントンそっくりだった」「バーで数人を射殺したために、刑務所行きになった」などと、もうひとりの少年に話します(注2)。
 また、「ハローウィンはどうするの?」「影になるとおもしろいかも」等と話し、2人は学校近くの停留所で降ります。

 パターソンの声(注3)。
 「それは、オハイオ印のブルーチップを見つける前のこと」「そのマッチは素晴らしいパッケージの小箱」「ブルーの濃淡と白のラベル」「言葉がメガホン形に書かれている」「これが世界で最も美しいマッチだ、と叫んでいるようだ」
 パターソンは、名所の「グレートフォールズ」(注4)を前にしたベンチに座って、ノートに詩を書き付けています。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから映画はどのように綴られていくのでしょうか、………?

 本作は、自治材するアメリカの都市・パターソン市でバスの運転手をしている主人公・パターソンの1週間について描き出している作品。作品の中で起こる目ぼしい出来事はごくわずか、総じて平穏無事な日常生活が続いていくだけの映画ながら、パターソンの詩のみならず、アメリカの詩人の詩がいくつか読み上げられたりすることもあり、この作品自体が一つの詩になっているような雰囲気が醸し出され、なんともいい気分にさせられます。

(2)ジム・ジャームッシュ監督の作品は、いくつか見ているものの、どれもよくわからない感じがつきまとい、特に最後に見た『リミッツ・オブ・コントロール』はとても理解できませんでしたので、本作もおそるおそる見たところ、あにはからんや、大層愛すべき作品に仕上がっていて、逆に驚きました。

 とはいえ、映画の中では出来事らしい出来事は何一つ起こらず(注5)、パターソン市に住むバスの運転手の日常が、ある週の月曜日から翌週の月曜日まで淡々と描かれているだけであり、その点からしたら、いかにもジム・ジャームッシュらしい作品と言えるのでしょう。

 それだけでなく、本作においては、詩が重要な役割を演じていて、パターソンが書く詩がいくつか文字で示されますし(注6)、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「パターソン、ウィリアムズ、パジェット」において、早大教授の江田孝臣氏は、「(本作は、)20世紀アメリカ詩を代表するウィリアム・カーロス・ウィリアムズ(1883-1963)の長編詩「パターソン」に想を得ている」と述べています。
 もしかしたら、パターソンがノートに書き留める詩は、どれもウィリアム・ウィリアムズの影響を強く受けたものかもしれませんし、更に言えば、本作自体が、彼の「パターソン」という詩を様々に踏まえて作られているのかもしれません。なにしろ、江田氏によれば、「詩の舞台も主としてニュージャージー州の古い産業都市パターソンであり、(詩の)主人公の名前もまたパターソン」なのですから(注7)。

 また、本作では、「対」ということことさらなに関心が持たれている感じです。
 上記(1)でみたように、本作ののっけから「双子」という言葉が出てきますし、パターソンのバスに乗ってくる少年2人もお互いによく似ています。
 それだけでなく、パターソンが通りすがりに挨拶する老人も双子のようですし、また、車庫を出て家に帰る途中でパターソンが出会う「ママを待っている」と言う少女も、ママと一緒に、双子の姉の方が現れます(注8)。

 さらに本作には、双子以外にも対となる組み合わせが多く登場します。
 例えば、パターソンとローラの組み合わせが、各曜日の始めに映し出されますし、夜になると、パターソンと愛犬のマーヴィンとが一緒にバーまで出かけます。
 また、ラストの方では、パターソンと日本の詩人(永瀬正敏)が同じベンチに座って詩の話をします(注9)。



 こうしたことも、ジム・ジャームッシュらしさなのかもしれません(注10)。

 本作で気に入った点を上げれば、例えば、次のようでしょう。

 先ず、登場する俳優が気に入りました。
 『スター・ウォーズ フォースの覚醒』のカイロ・レンとは打って変わって、本作におけるアダム・ドライバーは、物静かで知的で、それでいてどこにでもいるバスの運転手という役柄を、実に雰囲気良く上手く演じています。
 また、『彼女が消えた浜辺』でその美しさに驚いたゴルシフテ・ファラハニは、本作では、家にあるカーテンなどのインテリアの制作に余年がなかったり、購入したギターを弾きながら歌ったり、カップケーキを作って売りに出したりと、ドンドン前向きに行動するとても可愛らしい妻を演じています。



 さらに、本作の舞台であるパターソン市は、買っては産業都市として盛んだったものの、今では産業が衰えて寂れてしまったとされていますが、画面に映る市の様子からすると、とても落ち着いた雰囲気のある都市のように思え、気に入りました(注11)。
 なにしろ、豊かな水量を誇る滝まであるのですから。

 そして、この映画全体が醸し出す雰囲気そのものが気に入った次第です。

(3)渡まち子氏は、「この穏やかな映画は、平凡な日常の美しさと奥深さをつかめたなら、人生はきっと豊かなものになると教えてくれる。イングリッシュ・ブルドッグの名演と、まったりと流れる音楽が隠れた魅力だ」として70点を付けています。
 山根貞男氏は、「小さなエピソードの数々が、夫婦の日常を豊かに織り上げる。平凡な人生の非凡さを軽妙洒脱に描くわけで、並の手腕ではない。そんなジャームッシュに敬意を表すかのように、終盤、永瀬正敏が詩人の役で登場し、いい味を醸す」と述べています。
 藤原帰一氏は、「この映画は、ジム・ジャームッシュが、昔から歌い続けてきた歌。変化も発展もないその歌が、限りなくいとおしい。この監督と同時代を生きることのできた幸せに感謝します」と述べています。
 日本経済新聞の古賀重樹氏は、「物語性が希薄なジャームッシュ映画の根底にあるのは詩心だと思う。この作品も詩についての映画というより、この映画自体が詩なのだ」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『リミッツ・オブ・コントロール』のジム・ジャームッシュ

 なお、出演者の内、最近では、アダム・ドライバーは『沈黙-サイレンス-』、永瀬正敏は『』、ゴルシフテ・ファラハニは『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』(魔女)シャンサの役)で、それぞれ見ました。

(注2)ここらあたりは、この記事が参考になります。

(注3)以下の文章は、その前、バスの運転席でノートに書きつけられた詩の続き。
 詩の全体は、この記事の中に掲載されています(「Love Poem – by Ron Padgett」)。

 なお、「オハイオ印のブルーチップ・マッチ」の画像は以下のようです。



(注4)この記事が参考になります。

(注5)本作の中で描かれる出来事と言えば、例えば、次のようなものです。
・パターソンの運転するバスが、電気系統の故障で動かなくなります。
・愛犬のマーヴィルが、パターソンが詩を書き記していたノートを食いちぎってしまい、読めなくなってしまいます。
・ローラが購入したギターが届きます。
・パターソンが通うバーで、マリーチャステン・ハーモン)とエヴェレットウィリアム・ジャクソン・ハーバー)のあいだで別れ話が持ち上がり、エヴェレットが拳銃を取り出して自殺しようとしますが、それはおもちゃでした。

(注6)全部で7つありますが、すべてロン・パジェットこちらに履歴などが)によるものです。
 その全ては、この動画の中に出てきます(「Love Poem」「Another One」「Poem」「Glow」「The Run」「Pumpkin」「The Line」)。

(注7)ウィリアム・ウィリアムズの詩については、この記事が参考になると思います(そこでは、「沢崎順之介訳『パターソン』[思潮社]、p.79-111」が引用されています)。

(注8)その少女にパターソンは、「エミリー・ディキンソンが好きなバスの運転手さん」と言われます。

(注8)永瀬正敏が演じる「日本人の詩人」は、「ウィリアム・C・ウィリアムズが暮らした街が見たかったのでパーソンズ市にやってきた」とか「アレン・ギンズバーグもこの街の出身」などと言います。そして、パターソンにノートを贈り、パターソンはそこに詩「The Line」(「古い歌がある 祖父がよく歌っていた 君は魚になりたいか? その歌はそれを繰り返す 僕の頭に響くのは魚の歌 ただその1行だ それ以外の歌詞は必要ないかのように」)を書き留めます。

(注10)とはいえ、他の映画とは雰囲気の異なる点を、単に「ジム・ジャームッシュらしい」と言っているに過ぎませんが。

(注11)本文の(2)で触れた江田孝臣氏のエッセイでは、「パターソン市は失業率が高く、治安はマンハッタンなどに比べて格段に悪いので、注意が必要である」と述べられています。



★★★★☆☆



象のロケット:パターソン


ワンダーウーマン

2017年09月16日 | 洋画(17年)
 『ワンダーウーマン』を、渋谷シネパレスで見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、本作の主人公のダイアナガル・ガドット)のモノローグ。
 「世界を救おうとしたあの頃、世界は美しかった」「しかし、私は何も知らなかった」「より近づいてみると、その中では闇が渦巻いていた」「今の私は、昔の私ではない」。
 そして画面は、地球全体の画像からだんだん地球に接近し、さらにパリが映し出され、遂にはルーヴル美術館の上空にたどり着きます。

 ダイアナが、同美術館の中庭にあるルーヴル・ピラミッドのそばを歩き、美術館の中に入っていきます。
 他方、ウェイン・エンタープライズ(注2)のマークのあるバンも美術館の中庭に停まっていて、警備員が車を降り、後部のドアを開けて、中からアタッシュケースを取り出します。

 警備員の届けたアタッシュケースが、職員の手を経て、執務室にいるダイアナに手渡されます。
 その中には、古い写真と、「原版を手に入れた。いつの日か、あなたの物語を聞かせてくれ」との手紙(注3)が入っています。
 写真には、昔のダイアナ自身と4人の男が写っています(注4)。
 そして、ダイアナが自分の画像に見入っていると、幼い頃のダイアナに映像が移行します。

 舞台は、アマゾン族が暮らすパラダイスの島・セミッシラ。
 画面では、幼いころのダイアナが市場のようなところを走り抜けます。
 周りの女たちから、「こんにちは、ダイアナ様」と声をかけられます。
 彼女はドンドン走って、女戦士たちが戦いの訓練をしている場所を見下ろす岩場にたどり着きます。
 ダイアナが、戦士たちの動作を真似て手足を動かしているのを、戦士の訓練を指導・監督するアンティオペ将軍(ロビン・ライト)が見咎めます。

 ダイアナは、彼女を追ってきた家臣らから逃げるため城壁の下に飛び降りようとしますが、その手を母親のヒッポリタ女王(コニー・ニールセン)に握られ、捕まえられて宮殿に連れていかれます。
 途中で、一行はアンティオペに出会います。
 アンティオペが、「私が鍛えます。万一の侵略の際に、自分自身の身を守る術を」と言うと、姉でもあるヒッポリタは、「まだ子供よ。それも、この島でただ一人の子供」「訓練はダメ」と答えます。

 それでも、ダイアナに対するアンティオペの訓練は継続されますが、さあこの後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、DCコミックスのスーパーヒーローの物語を実写化したもの。女性だけのアマゾン族が平和に暮らしていた島に小型飛行機が墜落し、それに乗っていたパイロットとともに、アマゾン族のプリンセスが第1次世界大戦末期の人間界に行って、云々というお話。主人公は、驚異の身体能力と、投げ縄や剣・盾などを縱橫に使いながら、近代兵器で装備されたドイツ軍、ひいては軍神アレスに立ち向かうという、まずまず面白い着想の物語です。主演の美女は、30歳過ぎながら、こうした分野で今後どんどん活躍していくことでしょう。

(2)予告編をいい加減に見ていたがために、クマネズミは、本作ではてっきりギリシア神話の世界が描かれるとばかり思い込んでいたところ、アマゾン族が暮らす島・セミッシラの近海に小型飛行機が墜落して、それに乗っていたスティーブクリス・パイン)がダイアナによって助け出され、その後、スティーブの案内でダイアナが第1次世界大戦中のイギリスに行く、という物語の展開には目を見張りました。



 まあ、神話の世界に話が限定されてしまったら、今時そうした映画を制作する意味についてあれこれ議論せざるをえず、大層面倒くさくなりますから、本作のように、いきなり現代社会、それも戦争のさなかのヨーロッパにダイアナを放り込んでしまうのは、確かにうまいやり方でしょう。
 ただ、第1次大戦というと、今の日本人にとっては、第2次大戦に比べて、持っている知識が相当に貧弱であり、かなり間遠な感じがしてしまうのではないでしょうか?なにしろ、戦場の大部分がヨーロッパなのですから(注5)。
 例えば、ルーデンドルフ総監(ダニー・ヒューストン)が登場しますが、エーリヒ・ルーデンドルフという大将(注6)が第1次大戦の時にドイツ軍に実在していて、本作のルーデンドルフ総監の行動もある程度実在の人物を踏まえていることなど(注7)、戦史に通じていないとなかなかリアルに把握し難いのではないでしょうか(注8)?

 このルーデンドルフ総監が、まずはダイアナと対峙します。
 総監は、マル博士(エレナ・アナヤ)が作った毒ガスを吸って強力なパワーを身につけていて、ダイアナが倒そうとした軍神アレス(注9)そのものに見えます。
 ところが、ダイアナがゴッドキラー(注10)でルーデンドルフを倒しても、戦争は終わらないのです(注11)。
 戦争の張本人の軍神アレスは別にいるようです。
 そして、軍神アレスが成り代わっている人物が登場すると、ダイアナは、その人物に戦いを挑みます(注12)。
 ただ、どうしてルーデンドルフ総監を軍神アレスの成り代わりとせずに、わざわざ別の人物を登場させるのか、あまりよくわからない感じがしました(注13)。

 他にも、本作にはチョットわからないところがあります(注14)。
 例えば、スティーブは、パラレルワールドからダイアナたちの島にやってきたようにも思えますが(下記のKGRさんのコメントをご覧ください)、どういう方法によっているのかについては、本作の中で何も説明されていません。
 スティーブがダイアナを連れて元の世界に戻る場面をも見ると、そのやり方について、スティーブが何らかの知識を持っているようにも思えてきます(注15)。
 ただ、仮にそうだとしたら、どうしてダイアナの母親のヒッポリタがダイアナに、「人間の世界に行ったら、2度とこの島には戻れない」などと言うのでしょう?その方法をスティーブから聞き出せば、ダイアナは再度セミッシラに戻ることが出来るのではないでしょうか?
 また、スティーブは、毒ガス弾を大量に積んだ爆撃機を、なぜ別の宇宙に放り込んでしまわなかったのでしょう(注16)?

 でも、本作にとり、それらのことはどうでもいいでしょう。
 何しろ本作において、ダイアナというスーパーヒーローが華々しく登場し、彼女に神をも打ち倒す力があることが上手く描き出されさえすれば、観客は、次回作を待ち望むことになるでしょうから。そして、それらの点については、本作はまずまずのレベルに達しているように思われました。
 それに、本作の主演のガル・ガドットですが、ミス・イスラエルでもあったことから、その美貌は折り紙つきであり、さらに、12年間ダンサーをしていたそうで(注17)、戦闘シーンにおける体のキレも抜群。これからの活躍が期待されます。



(3)渡まち子氏は、「最強美女戦士の深い慈愛という通奏低音が、本作を崇高なヒーローアクション映画に引き上げている」として85点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「女性のダイアナが凛々しく戦えば、スティーブは自己犠牲で理想の男性の存在を証明する。これが本物のフェミニズム映画だ!」として★3つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「悪を倒せば世界が平和になると考えるワンダーウーマンは、戦争を否定しながら正義の戦争を進めるアメリカの二面性を象徴しています。よくできた映画だけに、考えこんでしまいました」と述べています。



(注1)監督はパティ・ジェンキンス
 脚本はアラン・ハインバーグ

 なお、出演者の内、最近では、クリス・パインは『イントゥ・ザ・ウッズ』、ロビン・ライトは『誰よりも狙われた男』、ダニー・ヒューストンは『ビッグ・アイズ』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、この記事が参考になるでしょう。

(注3)ウェイン・エンタープラオズのマークの入った用紙に手書きで書かれているので、「私」とは会長のブルース・ウェインなのでしょう。

(注4)この写真は、本作のラストでもう一度映し出され、ダイアナはウェイン会長に返事を書きます。

(注5)と言っても、Wikipediaのこの記事によれば、兵士の戦死者だけでも900万人以上も出ている大変な戦争でした。
 日本も参戦していて、中国山東省青島とか南洋諸島を攻略しています。

(注6)Wikipediaのこの記事を参照してください。

(注7)実在のルーデンドルフは、上記「注6」で触れた記事によれば、一時は休戦に傾いていたものの、ウィルソン米国大統領の要求内容が厳しいことがわかると、「徹底抗戦を主張して休戦反対派に転じた」とのこと。これは、本作のルーデンドルフ総監が、休戦派の者らを殺害してしまう姿に通じるものがあります。

(注8)勿論、そんな知識がなくとも、本作を楽しく見ることができます。

(注9)ゼウスの息子とされ(ダイアナも、母親ヒッポリタがゼウスに願い出て授かった娘ですから、2人は兄妹の関係にあるとも言えるでしょう)、父ゼウスとの対立から、人間界に戦争をもたらしています(なお、この記事も参考になります)。

(注10)神をも倒すことの出来る最強の剣だと言われています。ただ、これには秘密があるようです。

(注11)ダイアナがスティーブに、「ルーデンドルフを殺した。でも戦争は続いている」、「軍神アレスが死んだはずなのに」と言うと、スティーブは「皆が善人じゃないんだ。それが人間なんだ」と答えます。すると、ダイアナは、「こんな世界はありえない。わけも分からずに殺し合うなんて」、「こんな世界は、私の母が言ったように、救済するに値しない」と言います。それに対して、スティーブが「皆の責任なんだ。僕にも責任がある」「この戦争を終わらせたい。力を貸してくれ」と要請すると、ダイアナは首を振るばかりです。

(注12)ダイアナは、上記「注11」に書きましたように、これ以上戦争に関わりたくないと思ったものの、スティーブが自身を犠牲にすることを厭わずに戦争の阻止に向かって突き進んだことを知ると、軍神アレスに闘いを挑むのです。

(注13)ラストの方で、軍神アレスは「人間は、滅亡するのが望ましい」、「私は、人間の本性を知っている」、「人間は最強の悪を生み出す」「人間の生み出したものをすべて破壊すれば、元の楽園に戻る」「人間には守る価値などないぞ」などとダイアナに言いますが、そんな大言壮語は、ルーデンドルフとは別の人物にわざわざ言わせずとも、酷く不合理な戦争の様子が本作では描かれているのですから、こうした場面はなくもがなではないかと思ってしまいました。
 尤も、軍人アレスが成り代わっている人物がスティーブだ、などということにでもなれは、俄然話は面白くなるのでしょうが!

(注14)他にも、本作では、ダイアナが、最後に軍神アレスを倒したことによって、世界に平和が訪れたように描かれているところ、実際の歴史においては、その後すぐにヒトラーなどが世界に台頭し、第2次大戦がもたらされました。
 となると、アレスのような軍神が他にいく柱も存在していることになるのかもしれませんし、あるいは戦争は、軍神の手によってではなく、スティーブが言うように、人間の手によって引き起こされることになるのかもしれません〔上記「注11」を参照してください。そこでスティーブが言いたいのは、戦争は軍神が引き起こすのではなく、人間自身が引き起こすのだ、ということでしょう〕。
 そうだとしたら、ダイアナが軍神アレスを倒したことにどんな意味があったのでしょう?

(注15)スティーブが、自分の世界にダイアナと一緒に戻る時は船を使いますが、ダイアナは何もせずにいて、彼女が目を覚ますと、乗っていた船はテムズ川を遡ってロンドンに到着する間際でした。これを見ると、2つの世界を移行する方法を知っているのはスティーブのように思えます。
 なお、最初の方でスティーブを追跡してきたドイツ軍も、船に乗って出現しましたから(彼らは、いったいどういう方法を使ってセミッシラに現れたのでしょう?)、あるいは、海を介して、スティーブの世界とダイアナの世界とがつながっているのかもしれません(ただ、スティーブの乗った飛行機が空から墜落してきましたから、2つの世界は、巨大な壁によって海から空まで仕切られているのかもしれません)。

(注16)あるいは、そんな爆撃機を放り込まれた世界の方で被害者が出てしまうことをスティーブは恐れたのでしょうか?でも、スティーブがダイアナの世界に現れた時のように、この爆撃機を別の世界の海に墜落させれば、何の問題もないと思われますが。

(注17)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事より。



★★★☆☆☆



象のロケット:ワンダーウーマン


エル(ELLE)

2017年09月12日 | 洋画(17年)
 『エル ELLE』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)主演のイザベル・ユペールがこの作品で様々な賞を受けているとのことなので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は、パリ郊外の高級住宅地。
 主人公のミシェルイザベル・ユペール)が、黒猫を家の中に入れようと庭に出るドアを開けたところ、突然黒いマスクをした男が侵入してきてレイプされてしまいます(注2)。
 その様子を黒猫が見ています。
 ミシェルは倒れたままながら、男は起き上がってズボンを上げて、外に出ていきます。
 ミシェルはゆっくりと起き上がりしばらく呆然としていますが、気を取り直すと、床に散らばっている壊れた食器をホウキとちりとりでかき集め、ゴミ箱に捨てます。



 さらに、着ているものを脱ぎ捨て、これもゴミ箱に捨てます。
 そして、バスタブに浸かった後、ベッドに座りながら携帯でスシ(注3)を注文します。

 そこに、息子のヴァンサンジョナ・ブロケ)が、「ご免、遅れた。残業だった」と言いながら家の中に入ってきます。
 ヴァンサンは、ミシェルの顔の傷を見て、「その傷は?」と尋ねますが、ミシェルは「自転車で転んだの」と答えます。それに対して、ヴァンサンが「自転車は汚れていないけど」と言うと、ミシェルは「どんな仕事なの?」と話をそらします。
 ヴァンサンは、「まだ応募しただけ(注4)。でも、昇進が望めるんだ」と答え、「プレゼントがある」と言いながら、彼女との2人の写真が入った写真立てをサイドボードの上に置き、「ジョジーアリス・イザーズ)は妊娠している」と付け加えます。
 ヴァンサンは、「子供が生まれたら、新しい写真を持ってくるよ」と言うのですが、ミシェルは取り合わずに、「家賃はどうなの?」と尋ねます。
 ヴァンサンが「援助なんて要らない」と答えると、ミシェルは「訊いただけよ」、「彼女は常識はずれ」「不潔な地域で育った人」と言います。
 ヴァンサンが「アーチストが多いところだ」と言うと、ミシェルは「3ヶ月分の家賃を支払うから、アパートを見せて」と応じます。

 次の場面では、ミシェルは引き出しから金槌を取り出し、ガラス窓から外を見ます。
 部屋の明かりを消し、ベッドで横になりながらTVを見ます。
 TVはつけっぱなしのまま、手に金槌を握りしめて寝てしまいます。

 さらに、ミシェルの会社の場面。
 ミシェルらは、怪物が女を襲うシーンのあるゲームをディスプレイで見ています。
 ミシェルが「オーガズムが弱すぎる。セックスを怖がっているみたい」と言うと、カートリュカ・プリゾール)が、「問題は他にある。リアリズムを求めても意味がない」「コントローラーに問題がある」「あなたが文芸部の出身だから、プレーヤーのことを考えていないんだ」と反発します。
 これに対し、ミシェルは、「多分、私とアンナアンヌ・コンシニ)は別の分野で会社を起こしたほうが良かったのでしょう」、「でもこの会社の社長は私」「とにかく、半年、遅れている」「ヤツの内蔵をえぐるのなら、血が流れていないと」と答えます。
 そして、皆に「良いわね」と言って仕事を続けさせます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語はここからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、小説を実写映画化したエロティックサスペンスで、主人公の女性の家に、ある日突然覆面の男が侵入し、彼女をレイプして立ち去ってしまうところから物語が始まります。主人公は犯人を突き止めようとしますが、思いがけないことが次々と起こりますから、130分の長尺ながら、最後まで見るものを飽きさせません。それに何より、主人公を演じるイザベル・ユペールが、とても64歳とは思えないみずみずしい演技を披露していることも、本作の面白さを倍加させていると思います。

(2)本作では、主人公のミシェルには、実に様々なファクターが盛り込まれています。
 まず、父親が39年前に大量殺人を犯して、終身刑で服役中(注5)。
 母親・イレーヌジュディット・マーグル)は、若い恋人と再婚しようとしています。
 自身は、夫・リシャールシャルル・ベルリング)と別れて、一人で広い大きな家で暮らしています(注6)。
 息子のヴァンサンがいますが、どうもしっかりとせず、妊娠している恋人のジョジーと暮らそうとしますが、ミシェルはジョジーを酷く嫌っています。
 また、親友のアンナとビデオゲーム会社を設立しているところ、ワンマン経営者振りを発揮して社員との関係がうまくいっていない感じです(注7)。
 その上、アンナの夫のロベールクリスチャン・ベルケル)と肉体関係を持っています。

 こんなミシェルが、上記(1)に書きましたように、自宅で何者かにレイプされてしまいます。
 ミシェルは、その件を警察に通報せずに(注8)、自分で探し出そうとしますが、自分の会社の社員とか隣人のパトリックロラン・ラフィット)まで含めると、怪しい人間は随分いそうです(注9)。

 それだけでなく、被害者であるミシェル自身が、どうも常識から逸脱している感じがします。
 例えば、元夫・リシャール、アンナ、その夫のロベールと一緒に食事をした際に、いともあっさりと「実は、襲われたの。自宅でレイプされた」と喋ってしまうのです(注10)。
 また、上で見たように、親友の夫・ロベールと肉体関係を持っていながら、このところは彼を避けるようになってきていて(注11)、むしろ前の家に住むパトリックの方に色目を使い出しています(注12)。
 なにより、自分をレイプした男に再度襲われた時に、犯人の顔を見てしまうのですが、ミシェルは取り立てて何もしないのです。

 こんなに様々のことが一人の人物の中に盛り込まれているのですから、普通だったら、酷くグロテスクでまとまりのつかないことになってしまうでしょう。
 ですが、主役をイザベル・ユペールが演じていることによって、ミシェルは、むしろとてもユニークで興味深い人物として浮かび上がってきます。



 イザベル・ユペールについては、最近作の『未来よ こんにちは』で見たばかりながら、同作でも、本作と同じような雰囲気を醸し出していたように思います(注13)。
 同作で、ユペールは哲学の高校教師・ナタリーを演じているところ、思索的というよりもむしろ行動的であり、いつもせかせかと動き回ります。
 夫から、「愛人ができたので家を出ていく」と言われても、ナタリーは、それで思い悩むというわけではなく、「馬鹿みたい」と言って態度を切り替えてしまいます。
 本作のミシェルも、レイプされた後、そのことにつきクヨクヨするわけでもなく、すぐに元の姿勢を取り戻して、息子と会ったり、翌日は会社に出社したりします(注14)。
 普通だったら大きくブレーキがかかるような出来事に遭遇した場合、『未来よ こんにちは』のナタリーにしても、本作のミシェルにしても、何事もなかったようにそれを素通りさせてしまう感じなのです。
 これは、主に、2人の登場人物に扮するユペールの顔の独特の表情から、そう感じるのかもしれません。そして、彼女の確かな演技力が(注15)、そうしたものを背後から支えていることも確かでしょう。

 次の出演作の『ハッピー・エンド』(注16)がとても楽しみとなりました。

(3)渡まち子氏は、「本作のヒロインに感情移入するのは難しいが、イザベル・ユペールの非凡な才能なしには成立しない逸品なのは確かだ。年齢を重ねるごとに魅力が増すフランスの大女優に脱帽である」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「絡みあった挿話にはそれなりに必然的な結末が示されるが、最終的に物語を牽引(けんいん)するのは、ミシェルという人物の不可思議な精神の屈折なのだ。そこを面白いと感じるかどうかは観客の判断に委ねられるだろう」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 秦早穂子氏は、「進んで挑戦するユペールは特異な彼女(エル)の性癖を表現するだけでなく、監督の思惑を遥かに超え、普遍の女の本性まで抉り出す。抑制された演技、知的で新しい」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「既存の価値観に斜めに切り込むような場面が次々と続き、その度に見る側は幻惑されていく。「どう生きるかは人に任せず自分で考えろ」と、老監督にハンマーで頭をたたきつけられるような衝撃作である」と述べています。



(注1)監督はポール・ヴァーホーヴェン
 脚本はデヴィッド・バーク。
 原作は、フィリップ・ディジャン『エル ELLE』(ハヤカワ文庫:なお、同文庫版では、作者名はフィリップ・ジャン←Philippe Djianの『Oh... 』)。
 原題は「ELLE」。

(注2)ミシェルは、アンナたちと食事をした際に、「木曜日の午後3時だった」と話します。

(注3)ミシェルは、ハマチとかホリデー巻き(例えば、こういったものでしょう)を注文します。
 なお、この記事の中では「スシ宅配専門店」が触れられています。また、この記事も参考になります。

(注4)どうやら、ヴァンサンは、ファーストフードの店員に応募したようです。

(注5)父親・ルブランの大量殺人事件が39年前とされ(ルブランから出された保釈申請の審理に関するTVニュースの中で、39年前の1976年12月に起きた事件のことが言及されます)、ミシェルがその当時10歳であったともされていますから、本作の現在時点でミシェルは49歳なのでしょう。

(注6)リシャールは、ジムで体操のインストラクターをしている若いエレーヌヴィマラ・ポンス)と関係があるようです。

(注7)ミシェルはアンナに、「カートだけでなく、他の社員も私を嫌っている」と言います。

(注8)39年前の父親の事件に際して警察がとった態度から、ミシェルは警察に対して不信感を募らせているのでしょう。

(注9)ミシェルは、母親・イレーヌが「再婚したらどうする?」と訊いた際に、「殺す」と答えていましたから、イレーヌがつきあっている若い男もミッシェルに良い感情を持っていなかったでしょう。

(注10)ですが、ミシェルは、他の3人の反応を見て、すぐに「言わなきゃよかった」と呟き、「いつ?」の質問には答えたものの(上記「注2」)、その後の「警察は?」などの質問には一切答えず、「この話はおしまい。注文しましょう」と話をそらししてしまいます。

(注11)ミシェルは、関係を迫ってくるロベールに、何度か「友達関係でいましょう」と言います。

(注12)ミシェルは、自分の家に、前の夫・リシャールとその彼女のイレーヌや、息子のヴァンサンとジョジーをディーナーに呼んだ際、前の家のパトリックとその妻のレベッカヴィルジニー・エフィラ)をも招待するのですが、食事の最中、テーブルの下で、ミシェルはパトリックの足に自分の足を絡ませたりするのです。

(注13)イザベル・ユペールは、『未来よ こんにちは』では、実年齢(64歳)より5、6歳若い50代後半の高校教師の役を演じていましたが、本作のミシェルは49歳ですから、実年齢よりも15歳位若い役を演じていることになります(尤も、本作撮影時点は、今よりも1、2年ほど前でしょうが)。

(注14)ユペールは、このインタビュー記事の中で、「ミシェルは、思い切った行動に出る女性で、つかみどころのない、複雑な人物です」と述べています。

(注15)ユペールでは、このインタビュー記事で、「脚本は作品の情報を俳優に知らせる材料ですが、撮っていると、脚本にない、誰も知らない何かが降ってくることがあります。偶然の光、音、リズムなどがイメージになり、ミラクルを作る。だから演者は、すでに知っていることを演じるより、やがてミラクルが起こると信じ、それを待つのが仕事なんです。すべて波まかせに進む船に乗り込むかのようです」と述べています。
 また、このインタビュー記事でも、「画家の(ピエール・)スーラージュが『探すことで、自分が探しているものが見つかる』と言っていますが、演じているうちに、意識せずとも役がおりてくる。映画がその人物像について教えてくれます」と述べています。
 本作においても、ミシェルを演じるユペールには、必ずや“何か降りてくる”ものがあったことでしょう。

(注16)関連情報はこちらで。



★★★★☆☆



象のロケット:エル ELLE