映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

脳内ポイズンベリー

2015年06月02日 | 邦画(15年)
 『脳内ポイズンベリー』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)真木よう子(注1)の主演作というので映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、いちこ真木よう子)が駅の階段を駆け降りてくると(注3)、ボタンが落ちてしまい、それを下にいた早乙女古川雄輝)が拾い、彼女に手渡します。
 いちこが「どうもありがとう」といったところで、タイトルクレジット。



 次いで脳内会議の光景。



 議長の吉田西島秀俊)が、「では多数決を取ろう」と言って、「(この男に)話しかける方が良いと思う人」と言うと、石橋神木隆之介)とハトコ桜田ひより)が挙手をし、「話しかけない方が良いと思う人」と言うと、吉田と池田吉田羊)が手を挙げます。
 吉田が、浅野和之)に挙手を促すと、岸は「私は記録係ですから。この男は早乙女亮一。フリーター男。飲み会で一度同席」と答えます。
 石橋が吉田に「なんで反対なの?」と尋ねると、吉田は「キャラじゃないから」と応じます。
 電車が接近してくるのがわかり、慌てて吉田が「もう一度決を取る」と言うと、今度は賛成が3人となります。
 岸が「少し接触してみても良いのでは」と言い、吉田も「賛成。多数派に従う」と言います。

 それで、場面は元に戻り、いちこは歩を進めて、早乙女に「あのう、こんにちは。この前はどうも。偶然ですね」と挨拶します。
 そこでお互いに話をしようとするのですが、電車が入ってきて騒音がすごく、何を言っているのかわかりません。
 でもとにかく、二人は食事をすることになって、それから、………?

 本作で描かれるような騒々しい会議は誰の脳内でも普通に行われていることかもしれませんが、こうした面白い構成をとることによって、二人の男の間で揺れ動く女心の状況が随分と巧みに捉えられているのでは、と思いました。さらに、主演の真木よう子は、『さよなら渓谷』や『そして父になる』でも大層好演でしたが、本作ではその可愛らしさがうまく引き出されているように思いました(注4)。

(2)いちこは、早乙女と一緒に牛丼屋で食事をした後、早乙女の部屋に行って結ばれることになりますが、出版社の越智成河)がいちこに好意を持っているようなのです。ありきたりの三角関係かもしれないとはいえ(注5)、この3人の関係がどうなるのか、なかなかおもしろくストーリーが展開されます。

 ただ、本作に問題点があるとしたら(こうしたファンタジー物についてあれこれ言ってみても、仕方ありませんが)、例えば次のようなことでしょうか。
イ)本作で専ら描き出されるのは女性の脳内会議であるにもかかわらず、その議長の吉田がなぜ男性なのでしょうか(更に言えば、石橋と岸も男性で、男性が過半数を占めているのはどうしてなのでしょうか)?
 とはいえ、脳内会議のメンバーは、「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」「理性」という5つの思考を擬人化したキャラクター」にすぎません(注6)。それを男女のどちらに割り振ろうとも、それぞれが話す内容は性・ジェンダーを超えたものであり、余り問題ないかもしれません。
 でも、本作の場合、「衝動」のハトコが“ゴスロリ娘”(注7)とされていることには意味があるのではないでしょうか(例えば、早乙女の脳内会議における「衝動」としてハトコを想定できるでしょうか)?
 そして、他の4つの「思考」の意見を取りまとめて脳内会議の結論を下す役目の「理性」の吉田が男性であることにも何かしら意味があるように思えてしまいます。

ロ)その吉田ですが、「脳内会議をうまくまとめられずオロオロする議長」として描き出されているところ、その様子は、「自分に自信がなく優柔不断な主人公・いちこ」とウリ二つの感じがします(注8)。
 ということは、吉田の脳内にもさらなる脳内会議が設けられていて、いつも喧々諤々の議論がなされているということでしょうか(その脳内会議の「理性」も、さらにその脳内に会議を持っているかもしれません)?



ハ)そんな混ぜっ返しはともかく、よくわからないのは、脳内会議が紛糾し「限界MAX」状態になると登場する「黒いちこ」です(注9)。
 これは「本能」を表しているようでありながら(注10)、「衝動」のハトコとどこが違うのでしょう?なぜ、「衝動」とは別に「本能」なるものが現れるのでしょうか?
 それにもともと、「衝動」が脳内会議のメンバーとして「理性」の吉田のもとに置かれているというのも、よくわからない感じがするところです(注11)。
 ここは、「衝動」と「本能」を合体させ「情動」といったようなものとして、それと「理性」とを対立させたらどうか、とも考えられるところ、ただそんなことをしたら、脳内会議のメンバーが4人になってしまい(注12)、娯楽映画として随分と寂しい画面になってしまうことでしょう!

(3)渡まち子氏は、「本作では5つの擬人化した感情の内面を掘り下げるより、アラサー女性が自分の力で一歩前に踏み出す異色ラブコメを目指しているのだろう。最終的にヒロインが下す決断には、ちょっと胸がすく思いだった」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「よくできた舞台劇のような映画「脳内ポイズンベリー」は、恋愛ものでありながら主人公の悩める女子に男性でもたやすく共感できる、上手な作りになっている」として70点をつけています。



(注1)最近では、『まほろ駅前狂騒曲』で見ました〔多田(瑛太)が思いを寄せる女性の柏木役〕。

(注2)監督は、『キサラギ』や『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』の佐藤裕市
 脚本は、『重力ピエロ』や『プリンセス トヨトミ』の相沢友子
 原作は、水城せとな同名マンガ(集英社:未読)。

(注3)この場面について、「真木よう子のおっぱいがはねる!」などと騒ぐ輩が随分といるようです!

(注4)出演者の内、古川雄輝は『まほろ駅前狂騒曲』、西島秀俊は『セイジ-陸の魚-』、神木隆之介は『るのうに剣心 伝説の最期編』で、それぞれ見ています。

(注5)いちこは30歳で、そのことを23歳の早乙女に言うと、彼が「えっ、30?うっそごめん、ないわー」と反応したものですから、いちこはフラれたものと誤解して急いでその場を立ち去り、家で泣き明かします。他方で、いちこが書く携帯小説を出版社で担当している編集者の越智(31歳)が、取材ということでいちこを誘って鎌倉に行き、突然いちこにキスしたりします。
 若々しく芸術家風で格好のいい早乙女と、堅実で誠実な越智との間で、30歳のいちこは激しく揺れます。

(注6)本作の公式サイトの「イントロダクション」より。
 「衝動」とか「記憶」が「思考」なのかどうかという点は、ここでは問わないことといたしましょう〔例えば、本文の(3)で触れる渡まち子氏は「5つの擬人化した“感情”」としています〕。

(注7)本作の公式サイトの「キャスト&スタッフ」より。

(注8)ここらあたりの引用も、本作の公式サイトの「イントロダクション」より。

(注9)例えば、最初に早乙女の部屋に行った時、いちこは乱雑に散らかった部屋を綺麗に片付けてから帰ろうとしますが、脳内会議は、このまますんなり帰るべきなのかどうかで紛糾してしまい、結局「限界MAX」状態になってしまいます。すると、突然「黒いちこ」が現れ、「あんたたち、騒いでいるだけで何もしていない。バッカじゃないか、寝てろ!」と叫び、机を叩くと、会議のメンバーは皆床に倒れてしまいます。
 そして、「本能」に乗っ取られたいちこは、早乙女に対し、「このまま帰るのは嫌。あなたのことを好きになった」などと喋り出すのです。

(注10)劇場用パンフレットの「COSTUME」では、「黒いちこ=本能」とされています。
 ただ、本作の場合(上記「注9」の続きになりますが)、「本能」が支配するいちこが、早乙女に対し、「私のこと好きでなければ帰ります」とか、「ちょっとだけ試してみたら?ダメだったら途中でやめてください」などと、かなり「理性」的な(ああだこうだ的な)物言いをするのです。
 でも「本能」と言ったら、例えば、『寄生獣 完結編』において田宮良子が見せるような有無を言わせない「母性“本能”」的行動(赤ん坊を突き落とそうとする倉森を一瞬に刺し殺して、赤ん坊を奪い取ります)を思い描いてしまいます。

(注11)たまたま、大井玄氏の『呆けたカントに「理性」はあるか』(新潮新書、2015.5)を読んでいましたら、次のような箇所に遭遇しました。
 「デカルト、カントは、理性が神から人間にだけ授けられた能力であって、他の動物には与えられていないと思っていました」(P.101)。
 「しかし、理性をそのように定義すると、重度の知的障害者や重度の認知症高齢者は人間ではなくなるという矛盾が生ずることに」なります(同)。
 これに対し、「「状況判断を行い生存に有利な行動をする能力」として理性を解釈し、その意味において、人間と同様に動物も「理性」をもっている、と断言したのが、イギリス経験論哲学者デイヴィッド・ヒュームでした」(P.102)。
 さらに、「デカルトとカントのもうひとつの間違いは、理性を使って意思決定するうえで、情動もかかわっている事実を無視したことでしょう」(P.129)。
 ここで「情動」については、「「快」「好き」という内部感覚」とか「「不快」「嫌い」という、感覚」、だけでなく、「行動も、さらにそれを起こしている生理的変化もすべて「情動」というのです」(P.60)。
 そして「ヒュームは、行為が、欲望や対人関係において生じる情動に左右されるのを見抜いていました。彼は、理性だけではいかなる行為をも生じないし意志作用も生じないと主張し」ました(P.131)。

 こういう点からしたら、「衝動」あるいは「情動」が「理性」とは別物であるとする方が、説得力があるように思えます。
 〔なお、「理性」をめぐる議論は、経済学の新古典派の純粋理論が想定する“合理的な”経済人をめぐる批判にも類似するように思われます。素人ながら、クマネズミには、議論するフィールドがどの範囲まで取り扱っているのかによって見方が異なってくるのであり、正しいか間違っているかという問題ではないのでは、と思えるのですが〕

(注12)脳内会議のメンバーを4人とすると、決を取る場合2対2になって決められない事態となりかねません。ただ、「記憶」に投票権を与えないようにするとか、議長の「理性」は、多数決ではなく、「ポジティブ」、「ネガティブ」、「記憶」の意見を聞いた上、自分で総合的に判断するというようにしてみては、とも思うのですが。



★★★★☆☆



象のロケット:脳内ポイズンベリー