映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

セールスマン

2017年06月30日 | 洋画(17年)
 『セールスマン』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、テヘランの小劇場における戯曲『セールスマンの死』の舞台風景。
 あるアパートの一室が前面に広がっていて、寝室や居間が見え、背景には「CASINO」や「BOWLING」などを表示するネオン看板が見えます。舞台には、誰もおりません。

 場面は変わって、主人公のエマッドシャハブ・ホセイニ)とその妻ラナタラネ・アリドゥスティ)の夫婦が住むテヘランのアパート。
 人々が大声で、「みんな逃げて!」「早く、とにかく逃げて」「アパートが壊れる」と言っています。エマッドが窓を開けて、「何があったんです?」と尋ねると、男が、「わからん。とにかく逃げるんだ!」と答えるものですから、エマッドは「ラナ、ラナ、急げ」と家の中に向かって叫びます。
 どうも、このアパートの隣の工事によって、エマッドらが住むアパートが倒壊しそうな様子です。
 家の中でエマッドが、「全部は持ち出せない。必要なものだけにしろ」と言うと、ラナは、「ガスの臭がする、ここは危険だわ」と応じます。

 次いで、エマッドが国語を教えている学校のクラス。



 生徒が教科書の小説を読むと(注2)、他の生徒が「真実の話?」と質問します。エマッドは、「真実ではないが、雰囲気とか人間関係といったものがリアルなのだ」などと答えます。
 次いで、生徒がエマッドに、「先生の芝居は?」と質問すると、エマッドは、「来週からだ」と答え、逆に「『セールスマンの死』は読んだか?」と訊いたりします。
 さらに生徒が、「先生の役は?」と尋ねると、エマッドは「セールスマンだ」と答えます。
 そして、終リの合図があったので、エマッドは「次回までに、小説の内容をまとめてくるように」と言います。

 さらに、小劇場における『セールスマンの死』の稽古の場面。
 その劇の主人公ウィリー(エマッドが演じます)の情婦役のサナムミナ・サダティ)が、ウィリーから「出て行け」と言われると、「裸のままじゃ、出ていけないわ」と返事をしながら(注3)、ウィリーの息子・ビフ役のシヤワシュメーディ・クシュキ)の前に、浴室から現れるところを演じています。
 ですが、サナムが、「裸」と言っているにもかかわらずコートを着て現れるので(注4)、シヤワシュが我慢しきれずに笑ってしまいます。すると、サナムは猛烈に怒り、劇場に来ていた息子の手を引いて帰ってしまい、稽古は中断してしまいます。

 次の場面では、劇団仲間のババクババク・カリミ)の案内で、エマッドとラナが、引越し先のアパートを見に来ます。
 ババクが「2人には広いだろ」と言うと、エマッドは「もうすぐ3人になるぞ」と返します。
 エマッドが「いつから空き家に?」と訊くと、ババクは「3週間前」と答えます。
 ババクが「駐車は外に」と言うので、エマッドが「礼金を作るために車は売る」と答えると、ババクは「礼金はいらない」と応じます。
 早速、エマッドとラナはここに引っ越します。

 こんなところが本作の初めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開されるのでしょうか、………?

 本作は、一応のところサスペンス物であり、国語の教師でありながら小劇場の俳優でもある主人公が、同じ劇場の女優でもある妻を襲った犯人を探し出そうとします。彼らの小劇場では、二人が出演する『セールスマンの死』が上演されます。自ずと、実際の夫婦と舞台の夫婦とがシンクロするように見えてきて、犯人の追求とともに、見ている者の興味を引くことになります。

(2)本作では、急遽引っ越しをしたアパートの浴室にいたラナが、ドアホンの音で夫が帰ってきたものと思い込んで、玄関のドアを開けっ放しにして浴室に引き返したところ、見知らぬ男に襲われてしまいます。
 隣の住民が浴室に倒れているラナを発見したりして、一時は大騒動になりますが、ラナの方はできるだけ何もなかったことにしようとします(注5)。他方、エマッドは、妻を襲った男を探し出そうと躍起になり、次第に夫婦の間に亀裂が出来るようになっていきます。

 アスガー・ファルハディ監督の作品は、これまで『彼女が消えた浜辺』、『別離』、そして『ある過去の行方』と見てきましたが、本作と同様、サスペンス的な雰囲気がどの作品にも漂っています。
 『彼女が消えた浜辺』では、主人公のセピデーが連れてきたエリタラネ・アリドゥスティ)が、突然皆の前から姿を決してしまいますし、『別離』でも、家政婦ラジエーは、主人公のシミンの夫・ナデルによって、本当に階段から突き落とされて流産したのかという点が焦点の一つとなります。
 また、『ある過去の行方』では、主人公のマリー=アンヌが再婚しようとしている相手のサミールの妻が自殺を図った真の理由は何かが問題になります。
 ただ、本作もそうですが、『ある過去の行方』についての拙エントリの「注7」で申し上げましたように、ファルハディ監督の作品におけるサスペンス的な側面は、物語に観客を引き込む要素に過ぎず、いずれの作品においても、そのはっきりとした解決は目指されていないように(あるいは、解決すること自体が作品の狙いとなっているのではないように)思われます。

 さらに、本作を含めたファルハディ監督の作品においては、本作に見られるような夫婦間の亀裂の深まりといった点がうかがえるように思われます。
 なにしろ、『ある過去の行方』や『別離』では、離婚調停(あるいは離婚裁判)が描かれているのですし、『彼女が消えた浜辺』では、主人公のセピデーは、失踪したエリを離婚した友人のアーマドに紹介しようとしていたのです(ところが、エリには婚約者がいたことが次第にわかってきます)。

 以上はこれまでの作品との共通点ですが、逆に、本作の特色といえるのは、全体が、戯曲『セールスマンの死』の上演と関連付けながら描き出されている点であり、大層考えられた構成になっています。
 上記(1)に記した場面では、イランでこの戯曲が上演されることの意味合いの一端がうかがわれます(注6)。
 また、暴漢に襲われた後に出演したラナの状況も描かれます(注7)。
 そして、この戯曲のラストの場面が本作の中で描き出されますが(注8)、エマッドとラナの状況をいかにも暗示しているように読み取れます(注9)。

 ただ、本作の主人公は、本作のタイトルである「Forushande(salesman)」(注10)ではなく、俳優であり教師でもある人物で、その意味でここにはズラシがあります。それでも、本作の全体は、戯曲『セールスマンの死』で覆われているように感じるところです。
 一方で、その対応関係がいろいろと考えられて興味深いのですが、他方で、やや凝り過ぎなのかな、という気もするところです。

 それはともかく、『彼女が消えた浜辺』でその美しさに圧倒されたタラネ・アリドゥスティの、ほぼ10年後の相変わらずきれいな姿を見ることが出来たのは、願ってもないことでした。



(3)渡まち子氏は、「政治的な流れが受賞に大きく影響したのは確かだが、それを差し引いても、社会風刺と人間の深層心理を緻密なドラマで描いた秀作であることに間違いない」として75点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「これまでのファルハディ監督の作品同様、脚本が素晴らしい。心理サスペンスをちりばめながら、2人の感情の葛藤と同時にイラン社会の実相を巧みに複合的に織り上げている」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「経済的に発展しても、潜在意識では古い価値観に縛られ、矛盾の中を生きる現代イラン人の実像をあぶり出す。ファルハディ監督の社会への冷徹な視線が貫かれている」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『ある過去の行方』のアスガー・ファルハディ
 原題は「Forushande」。

 出演者の内、最近では、シャハブ・ホセイニは『別離』、タラネ・アリドゥスティ(以前の表記はタラネ・アリシュスティ)は『彼女が消えた浜辺』で、それぞれ見ました。

(注2)Gholamhossein Saediが書いた短編集『The Mourners of Bayal』(1964年)に収められている短編「The Cow」のようで、これは、1969年に映画化されています(この記事:本作の後半で描かれる授業において、教室のスクリーンに上映されているのは、その映画なのでしょう←1971年のヴェネチア映画祭でFIPRESCI賞を受賞しています)。

(注3)映画のシナリオ(ペルシャ語)でどうなっているのかわかりませんが、戯曲の台本(このURLで読むことが出来ます)では、第2幕に登場するThe Womanが、「But my clothes, I can’t go out naked in the hall!」と叫びます。

(注4)イランでは検閲が厳しく、台本通りの格好はできないようです(第2幕に登場するThe Womanについては、上記「注3」で触れている台本のト書きでは、「She is in a black slip」とされています)。
 なお、映画の中では、『セールスマンの死』の開演に際し、助手がエマッドに「開演後、検閲官が来る。3箇所ほど問題があるので、説得してくれないか」と依頼します。

(注5)ラナは、エマッドがせっかく探し当てた真犯人に対して、何も話を聞かずに、「帰っていいですよ」と言うくらいです。

(注6)イランの検閲制度とか、娼婦役を演じるイラン女優の気持ち、といったものが垣間見られるように思われます。

(注7)ラナは、世間に何も知られることがないように、暴漢に襲われたあとの舞台にすぐに出演します。ですが、ウィリーの妻・リンダを演じているラナは、セリフに詰まってしまいます。「どうした?何か言え」と小声でささやくウィリー役のエマッドに対し、「なんと言って良いのかわからない」と小声で答え、舞台から降りてしまいます。エマッドは、観客に向かって、「すいません。妻が病気で。10分間休憩といたします」と謝ります。楽屋で、ラナはエマッドに、「観客の一人が、じっと私を見るの。あの日の男の目なの」と訴えます。



 なお、ここで演じられていたのは、戯曲『セールスマンの死』の第1幕の真ん中ぐらいのところ(「人々が俺を見て笑う」とウィリーが言います)。

(注8)舞台では、戯曲の主人公・ウィリーが棺の中で横たわっています。
 そして、棺のそばに跪く妻のリンダが、「家のローンは払い終わった。なのに家には誰もいない」と言うところでこの劇は終わって、暗転し、再び明かりが点くと、出演したエマッドやラナたちが舞台に再登場し、観客の拍手を受けます。
 なお、上記「注3」で触れている台本によれば、リンダのセリフは次のようです。
「I made the last payment on the house today. Today, dear. And there’ll be nobody home. We’re free and clear. We’re free. We’re free... We’re free...」。

(注9)夫のエマッドは、戯曲の主人公のウィリーと同じように、自分の意志だけでドンドン先に進んでしまい(ラナが「(真犯人の)家族に事件のことを話したら、私たちはおしまいよ」とエマッドに警告するにもかかわらず)、真犯人を見つけ、その真犯人に復讐するわけながら(エマッドは、真犯人を殴りつけてしまいます)、そのために真犯人が死に瀕してしまう結果を招き、妻・ラナの気持ちも、エマッドからから決定的に離れてしまいます。二人はまさに、棺のウィリーとその前のリンダと似たような状況にあるといえるでしょう。

(注10)エマッドが探し出した真犯人が「行商人」なのです(劇場用パンフレット掲載の山崎和美氏のエッセイ「映画『セールスマン』が映し出す原題イランの家族と女性」の「注釈2」に依れば、「(Forushandeは)「モノを売る人一般」を意味し、「物売り」「行商人」「販売員」「店員」などを指す」とのこと)。



★★★★☆☆



象のロケット:セールスマン


パトリオット・デイ

2017年06月28日 | 洋画(17年)
 『パトリオット・デイ』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、パトリオット・デイ(4月15日)の前日の夜。
 ボストン警察の警察官たちが、ある部屋のドアの前にいます。

 巡査部長のトミーマーク・ウォールバーグ)がやってきて「容疑者は?」と訊くと、一人が「中です」と答えます。トミーは、ドアに向かって「ハロルド、開けろ!」と叫び、さらに「中で音がした」と言ってドアを叩きます。それでもドアは開きません。

 トミーは、「最後のチャンスだ」と言って、ドアに体当りします。そして、ドアを脚で蹴破って中に入り、中にいたハロルドレット・キッド)に「服を着ろ」と言い、仲間の警官に「あいつに服を着させろ」と命じます(トミーは、ドアを足で蹴った際に膝を痛めてしまいます)。
 頭から血を流しているハロルドの話からすると、女にアイロンで殴られたようなのです。

 その時、ボストン警察警視総監のエドジョン・グッドマン)が、現場の状況の視察に現れます。トミーはエドに対して状況を説明し、「こんな仕事はご免です」などと陳情すると、エドは、「しばらくしたらマラソンが始まる」、「それが終わったら、お仕置きは終わる」、「あと1日だ」と言います(注2)。

 次いで、夜中の10時頃。
 パトリック・ダウンズクリストファー・オシェイ)とジェシカ・ケンスキーレイチェル・ブロズナハン)の家。

 ジェシカが、「フラナガンさんが、このペンダントを私にくれた。奥さんを亡くして可哀想なので、ハグしてあげたの」と言います。
 また、ジェシカが「卒論の方は?」と訊くと、パトリックは「全然進まない」と答えます。

 さらに、パトリックは、「明日やれることは3つある。マラソンを見ること。マラソンに出ること。そして野球を見て、レッド・ソックスを応援すること」と言います。ジェシカが「そうね、レッド・ソックスね」と応じると、パトリックは「ソックスの発音が違う」と言って、何度も直させます。

 夜中の11時頃。
 MITの研究室の一つでは、ロボットの操作が行われていて、MITの警備担当の警察官・ショーンジェイク・ピッキング)がやってきます。「ロボットに触ってもいいかい?」などと言いながら、そこにいた中国人留学生のラナ・コンドル)に、 ザック・ブラウン・バンドのコンサートに行かないかと誘うと、彼女は「行くわよ」と応じます。

 午前0時頃に、トミーは自宅に戻ってきます。
 音を立ててしまい、寝ていた妻のキャロルミシェル・モナハン)が起きてしまいます。
トミーが「仕事に出るまで、あと4時間だ」と言うと、妻は「起こさないで」と答えます。
 それで、トミーは「ご免、寝ててくれ」と言って、居間で一人でビールを飲みます。

 こうして、ボストンは4月15日のパトリオット・デイの朝を迎えるわけですが、さあ物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、2013年4月15日のパトリオット・デイに行われたボストン・マラソンで起きた無差別テロを再現する劇映画。
 主人公の警察官は複数の警察官を統合したキャラクターながら、FBIの特別検察官らが実名で登場するなど、かなりのドキュメンタリータッチで、爆発から犯人逮捕までの経緯が描き出されます。
 劇映画さながらの迫力とサスペンスで見るものを飽きさせません。ただ、愛とか勇気、希望といった言葉があふれかえるラストの方はなくもがなという気がしたところです(アメリカ映画だから仕方がないと言えば、それまでですが)。

(2)本作では、最初の方で、ボストンで暮らす様々な人達が営んでいた生活ぶりが映し出されます。それが、ごくごく平凡なものとして描かれているだけに、テロリストの運び込んだ爆弾が爆発したあとの様変わりした状況と対比されると、テロ行為が如何に理不尽なものなのかという思いが、なお一層観客に募ってきます。

 また、本作は、実際に起きたテロ事件をドキュメンタリータッチで描いているとはいえ、犯人の割り出しから逮捕に至るまでの102時間のプロセスは、二流のサスペンスドラマを遥かに上回るドラマチックなものとなっています。

 巨大な倉庫に設けられた捜査本部で、FBI特別捜査官のリックケヴィン・ベーコン)の指揮のもと犯人の特定が急ピッチでなされていきます。



 その一方で、犯人のタメルランセモ・メリキッゼ)とジョハルアレックス・ウォルフ)のツァルナエフ兄弟は、次の目的地のニューヨークに行こうとして、まずMITを警備していたショーンから銃を奪い(注3)、さらに中国人留学生のダン・マンジミー・O・ヤン)が運転するメルセデス・ベンツを強奪します(注4)。
 それでも、GPSによってその車が発見され、巡査部長のジェフJ.K.シモンズ)らによって取り囲まれ、激しい銃撃戦になり(注5)、ついには解決に至ります。



 それにしても、この映画で、愛とか希望などといった言葉が溢れかえるのはどうなのでしょう?
 なにしろ、最後の方でトミーが、「悪魔と闘う武器は一つしかない、愛です。悪魔は愛を追い払えない。愛の力で闘うんです」などと語ったりするのですから(注6)。



 それに、本作のモデルとなった人々のメッセージが映画のラストで映し出されますが、例えば、パトリック・ダウンズ(注7)は、「ふたりの男が憎悪から犯行を計画したが、愛がそれをはね返した」と述べ、中国人留学生のダン・マンも、「この街が好きだ。困難にもみんなが力を合わせて立ち向かう。いつも希望を持ち、善が必ず悪に勝つと信じることだ」と述べています。

 勿論、登場人物や関係者が「愛」といった言葉を持ち出すのは十分に理解できますし、また実際にもそのように言ったのでしょう。
 でも、本作の物語は、テロの実行犯の一人ジョハルが捕らえられた時点で、実質的には終わっているのではないでしょうか(注8)?
 事件に巻き込まれた人々の日常とか、犯人特定のプロセス、そして犯人の補足までを、これだけ事実に即して描いた本作ですから、それを観客がどう捉えるかはすべて観客に任せる方が、本作のようにその方向性まで指定するような描き方をとるよりも、返って感動が盛り上がるのではないかとクマネズミは思うのですが、どうでしょう?

(3)渡まち子氏は、「何よりも、テロには決して屈しないと決意したボストン市民が一致団結して戦うクライマックスは感動的である。特殊能力を持つ一人のスーパーヒーローが活躍するのではなく、テロによって傷ついたボストンの街を愛する平凡な市民それぞれが、自分の役割を愚直に果たすことで最大の勇気と奇跡を呼び寄せた」として70点を付けています。

 前田有一氏は、「全体的に、詳細が判明していない部分は無理して描こうとせず、わかっていることを極力丁寧に見せたという印象。誠実な映画づくりと感じる。唯一の問題は、この映画はあくまでアメリカ人向け、あるいは被害者にシンクロできる立場の人を優先した映画であるということ」として65点をつけています。

 山根貞男氏は、「現実の事件の映画化は珍しくないが、虚実の混在を徹底した作り方がアメリカ映画らしい。と同時に、監視カメラの驚くべき遍在ぶりが、アメリカの徹底的な監視社会化を告げる」と述べています。

 毎日新聞の高橋諭治氏は、「極めて総合力の高い実録サスペンスだ」と述べています。



(注1)監督は、ピーター・バーグ
 脚本は、ピーター・バーグ他。
 原題は「Patriots Day」。

 なお、出演者の内、最近では、マーク・ウォールバーグは『ザ・ファイター』、ケヴィン・ベーコンは『スーパー!』、ジョン・グッドマンは『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』、J.K.シモンズは『ラ・ラ・ランド』で、それぞれ見ました。

(注2)トミーは不祥事を仕出かし、停職処分を食らっていたようです。
 なお、本作には、実在の人物が実名で登場しますが、トミーについては、劇場用パンフレットのインタビュー記事によれば、何人かの警官を合成したフィクションの人物とのこと(ピーター・バーグ監督は、「3人全員を登場させる時間はなかったから、誠意を持って彼らをひとりの警官として描き、マークに演じてもらうことにしたんだよ」と述べています)。

(注3)その際、ショーンは、激しく抵抗したために射殺されてしまいます。

(注4)ダン・マンは、パトリオット・デイの朝、スマホで中国に住む両親と話したり、最近買ったメルセデス・ベンツを写したりし、それが終わると、ジョギングを始めます。
 夜になって、MITの構内に駐車していたメルセデス・ベンツの中にいたところを、ツァルナエフ兄弟に見つかり、車を強奪された上に、人質になってしまいます。
 彼がスキを見て車から逃げ出し、コンビニから警察に連絡を取ってトミーらに助け出されるまでは、とても緊迫した状況が続きます。

(注5)なにしろ、ツァルナエフ兄弟はたくさんの爆弾を車に搭載していて、それを警官隊に投げつけるものですから、警察側も、簡単には彼らを捕まえることが出来ません。

(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、ピーター・バーグ監督は、「僕にはもっと大きなテーマがあった。愛は憎悪を打ち負かすということ、事件を乗り越えるのは可能だということだ」と述べています。

(注7)本事件で左脚を失っていますが、3年後のボストン・マラソンに出場して完走しています。

(注8)なお、本作では、ツァルナエフ兄弟の犯行の動機は殆ど描かれません。ただ、車の中で、ダン・マンに対して、「9.11は、米国政府がビルを爆破したんだ」「この国は嘘だらけだ」「皆、マスコミに踊らされている」などと語りますが。
 また、タメルランの妻キャサリンメリッサ・ブノワ)は、爆弾の在り処を問う謎の取調官に対して、「イスラムの妻にとって、結婚とは戦いであり服従なのだ。夫に従わなければ、妻は地獄に堕ちる」と言って、答えることを拒みます。



★★★☆☆☆



象のロケット:パトリオット・デイ

22年目の告白

2017年06月24日 | 邦画(17年)
 『22年目の告白―私が殺人犯です―』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)TVドラマ『リバース』(注1)に出演していた藤原竜也の主演映画ということで映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、1995年1月の阪神淡路大震災の模様と、その年に起きた連続殺人事件(5人が殺されました)が早回しで映し出され、それから15年が経過した2010年4月27日に時効となったことが告げられます。

 次いで、2017年。
 刑事の牧村伊藤英明)と春日部竜星涼)が、路地でヤクザ(早乙女太一)を追っています。



 春日部が「待て」と後ろから追いかけ、牧村が先回りして、ヤクザを殴り倒します。
 春日部が「お前の店、橘組の系列だろ」と言い、牧村も「人生、やり直せ」と諭すのですが、ヤクザは「お前らに何がわかる」と反抗的な態度を示します。
 その時、牧村の携帯に課長(矢島健一)から、「お前、今どこにいるんだ。TVが大変なことになっているぞ」との電話が。
 それで、牧村らはその現場を離れます。

 牧村らが署に戻ると、TVが点けられていて、画面では、「あの事件の犯人が、自分から現れ、告白本を出す」とのことで、「会見場は物々しい雰囲気です」とアナウンサーが伝えています。
 そして、「前日に時効が成立した犯人が姿を表しました」と伝えると、課長は牧村に、「22年前、お前が捕まえられなかった犯人だ」と言います。

 会見場では、犯人だと名乗り出た曽根崎藤原竜也)が話しています。



 「1995年、私は苛立っていた」、「無能な警察は、私のもとにたどり着けなかったのだ」、「あの事件のすべてを今から語る」と言って、告白本を読み始めます。

 1995年1月の足立区での最初の殺人事件のことが語られると同時に、当時駆け出しの刑事だった牧村が先輩刑事の平田満)とともに現場に駆けつける様子が映し出されます。
 滝は牧村に「初めてだったな。熱くなるんじゃないぞ」とアドバイスします。

 曽根崎は、「3つのルールを設けた」、「第1は、被害者に最も親しい者に目撃させる」、「第2は、殺害は背後から縄を締める絞殺による」、「第3は、目撃者は殺さず生かしておく」などと語ります。

 さらに曽根崎の話は続き(注3)、「5番目の事件で、始めて目撃者(牧村)が被害者(滝)と逆転した。それでピリオドを打つことにした。この間、誰も私にたどり着けなかった」、「この告白本が私の罪滅ぼしだ」と述べた後、最後に「はじめまして。私が殺人犯です」と言って話を終え、タイトルが流れます。

 さあ、この後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、すでに時効が成立している5件の殺人事件について、自分が犯人だと述べている告白本を出した主人公をめぐるお話です。韓国映画をリメイクしただけあって、殺人現場が映し出されたりしてグロテスクな内容ながらも、話が2転3転して、最後まで飽きさせません。出演する俳優も、皆、力演していて、まずまず面白いエンタメ作品といえると思われます。ただ、時効が成立してから7年も経ってからどうして主人公が告白本を出すことになったのかが、イマイチよくわかりませんでした(話を現在時点にするためにこうするしか仕方がないのでしょうが)。

(2)本作は、韓国映画『殺人の告白』(2012年)のリメイクとされています(注4)。
 同作は未見なので、この記事などでそのあらすじを見てみると、本作は、かなりのところ『殺人の告白』に類似していると言えそうです。

 ただ、同作と比べると、問題になると思われるのは、例えば、次のような点でしょう。
イ)韓国でも、現時点では、殺人罪についての時効は日本と同様に廃止されています。
 ただ、廃止されたのは2015年であり、『殺人の告白』が制作された時点(2012年)では時効制度が実施されていました(注5)。
 他方、日本においては、2010年の刑事訴訟法改正によって時効が廃止されていて、映画制作時点の2017年では、すでに殺人罪についての時効がありません。
 両作とも、映画の中で取り扱われる5件の殺人事件が起きるのはかなり昔のことであり、時効の廃止と直接関係しないとはいえ、時効を巡る映画作品が、それがすでに廃止されている状況下で公開されるのか、それともその前に公開されるのかによって、観客に与えるインパクトは違ってくるようにも思われます。
 なにしろ、時効が有効であれば、類似の事件がいつ起きても不思議ではありませんが、すでに廃止になっていれば、類似の騒ぎが起きるとしても、かなり古い事件を巡るものとなり、その場合には、よほどの大事件でもない限り(大量殺人事件とか猟奇殺人事件など)(注6)、本作のような大騒ぎにはならないように思われます。

ロ)『殺人の告白』では、時効が成立してから2年経過して現時点の騒ぎとなるようです。
 他方、本作では、時効の成立から現時点まで7年も経過しています。
 犯人が告白本を引っさげて記者会見するのは、社会に大きな騒ぎを引き起こすのが目的なのですから、時効成立後できるだけ早い方が得策のはずです。
 他方で、告白本を執筆して出版にまでこぎつけるのにも時間がかかることでしょう。
 そう考えると、『殺人の告白』の2年というのは、十分納得できる時間だと思えます。

 他方、本作の7年という時間は、現時点で『殺人の告白』と同じようなシチュエーションを描き出そうとした場合には止むを得ないと思いますが、やや長過ぎる感じがするところです(注7)。
 5人を連続して殺したという事件自体は、まれに見る凶悪犯罪であり、当時の人々ならさぞかし大騒ぎすることでしょうが、それから22年も経過してしまった現時点で、あのような告白本とともに真犯人が名乗り出たとしても、はたして映画で描き出されたような大騒ぎの状況になるのか、疑問に思えるところです。

 でもまあ、それらのことはどうでもいいでしょう。
 むしろ、本作の後半の展開の方に、これでいいのかなと思うところがいくつかあるように思いました。ただ、そんなことまでここに記したら、本作の真骨頂であるどんでん返しの面白さが雲散霧消してしまいますから、このあたりで止めておきましょう。

 本作の出演者の内、藤原竜也については、冒頭で取り上げたTVドラマ『リバース』とは違って、輪郭のくっきりとした、とはいえ大層難しいキャラクターである曽根崎を随分と楽しんで演じているように見受けましたし、静的な曽根崎とは対照的に動的な牧村刑事に扮する伊藤英明も、説得力ある演技を披露しています。

(3)渡まち子氏は、「なかなか意欲的なリメイクであることは認めるが、終盤の展開は、どうも納得できない。自分への罰、あるいは歪んだ虚栄心、はたまた心の奥底のトラウマが判断を狂わせたと考えるべきなのか」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「藤原竜也は作品選びのセンスが良いのだろう、出演作品が大外れすることはまずない。韓国映画「殺人の告白」の日本映画版リメイクにあたる「22年目の告白-私が殺人犯です-」も、その主演映画として抜群の出来栄えである」として85点を付けています。
 森直人氏は、「監督は「SR サイタマノラッパー」で注目された入江悠。自主映画出身の俊英が、メジャーで剛腕を発揮した。観客を驚かせたいという健全な遊び心やサービス精神も詰まっている。これから観る人は幸せだ」と述べています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「テンポのいい展開で犯行や被害者遺族の悲嘆と怒り、メディアの狂乱ぶりを見せるが、後半に大ブレーキ。説明調で筋立てにも詰めの甘さが目立ち、テレビの2時間ドラマのラストシーンのよう」と述べています。



(注1)本年の4月期にTBSTVで放映された湊さかえ原作のミステリードラマ(この記事)。
 主演の藤原竜也の他に、小池徹平、市原隼人、三浦貴大、戸田恵梨香、門脇麦などが出演します。
 全話を録画して見たのですが、「僕の親友を殺したのは誰だ?」ということで最後まで引っ張っていきます。ただ、解明される真相は、死んだ親友(小池徹平)に深く関わる人達が、その死にも深く関わっているようでありながらもそうでもない感じでスッキリとせず、また主演の藤原竜也の役柄が狂言回し的で傍観者気味に事件を見ている雰囲気で、これもどうかなという感じがしました。

(注2)監督は、『太陽』の入江悠
 脚本は平田研也と入江悠。

 出演者の内、最近では、藤原竜也は『僕だけがいない街』、伊藤英明は『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、夏帆は『高台家の人々』、野村周平は『帝一の國』、平田満は『愚行録』、岩松了は『トイレのピエタ』、岩城滉一は『土竜の唄 香港狂騒曲』、仲村トオルは『64 ロクヨン 前編』で、それぞれ見ました。

(注3)曽根崎が語る5つの殺人事件のあらましは、以下のとおりです。
 第1の事件では定食屋の店主が、第2の事件では会社員が、それぞれの妻の目の前で絞殺されます〔第2の事件の夫婦の娘・美晴夏帆)は、今は書店で働いています〕。
 第3の事件では、銀座ホステスが、彼女を愛人としていた橘組組長(岩城滉一)の前で殺されます〔彼女の息子が戸田丈早乙女太一)〕。
 第4の事件では、病院の院長(岩松了)の妻が殺されます。
 第5の事件では、滝刑事がガス爆発で殉職し、これを牧村刑事が目撃します。

(注4)この記事によれば、『殺人の告白』は、「映画『殺人の追憶』(2003年)のモチーフとなった“華城連続殺人事件”からインスピレーションを得て作られた」とのこと。
 なお、「華城連続殺人事件」とは、「1986年から1991年にかけて10名の女性が殺害された連続殺人事件」のようです。ただし、その事件は、「2006年4月2日に時効が成立し、未解決事件」になっているそうです(『殺人の告白』は、当該事件の“10名の連続殺人”という点を取り出した上で、制作されているのでしょう)。

(注5)ただし、殺人罪などの時効は、2007年に、それまでの15年から25年に延長されています(日本でも、同様の延長が2005年に行われています)。

(注6)例えば、この記事をご覧ください。この記事を見ると、本作のような未解決で時効を迎えた大量殺人事件は滅多に起こるものではない感じがします。
 なお、1995年に「八王子スーパー強盗殺人事件」が起きましたが、発生日時が同年の7月30日午後9時ごろであり、時効廃止の刑訴法改正が4月27日施行のため、時効の適用はなく、現在も捜査が続けられています。

(注7)本作では、7年間という年月がどうして必要だったのかに関して、説得力ある説明が与えられていないように思いました。


〔追記〕2010年の「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」の附則第3条第2項では、「同法の施行前に犯した人を死亡させた罪であって禁錮以上の刑に当たるもので、この法律の施行の際その公訴の時効が完成していないものについても、適用する」と規定されていて、施行時点(2010年4月27日)で時効が完成していない事件については遡及的に適用することとしています(この遡及適用の規定は合憲であるとする最高裁の判決が、2015年12月に出されています←この記事)。
 そこで、2004年の刑事訴訟法の改正によって、翌年から時効期間が15年から25年に延長されましたが、その際も、同じように遡及的に適用することとされていたら、本作で取り扱われる1995年に起きた5件の殺人事件についても、時効期間が25年となっているはずです。
 ですが、2004年の刑訴法改正にあたり、遡及適用は規定されませんでした。
 そのため、本作で描かれる連続殺人事件の内の5件については、犯罪が行われてから15年目の2010年4月27日に時効が成立しました。
 ただし、最後の6番目の殺人事件〔牧村の妹・里香石橋杏奈)が殺されます。なお、里香の婚約相手が小野寺野村周平)〕については、里香が殺されたのが1995年4月28日であるために、2010年の刑訴法改正法附則第3条第2項が適用されて、時効の対象とはなりません。




★★★☆☆☆



象のロケット:22年目の告白 私が殺人犯です


怪物はささやく

2017年06月18日 | 洋画(17年)
 『怪物はささやく』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、教会の鐘の音がした後、教会が壊れて、その前の墓地が地中に落下していくと思ったら、主人公のコナー少年(注2:ルイス・マクドゥーガル)がベッドで「ママ」と言って飛び起きます。
 そして、モノローグで「物語の始まりは、多くの物語と同じ」「子供と大人の狭間にいる少年が悪夢を見る」。
 コナーは窓の外を見ています。



 次いで、タイトルロールが流れます。

 朝になって、コナーは着替えをし、キッチンでパン焼き機にパンを入れ、洗濯物を洗濯機に入れます。そして、冷蔵庫から「吐き止め」を出し、焼きあがったパンを食べ、靴下を履きます。
 ベッドにママ(フェリシティ・ジョーンズ)が寝ているのを確認してから、登校するために家の外へ。

 学校のクラスでは、先生が「 e は自然対数の底であって、…」と教えています。
 その時、コナーのもとへ「放課後また会おう」と書かれたペーパーが回ってきます。
 雰囲気を感じて、先生が「コナー、疲れているように見えるが、大丈夫か?寝てないんじゃないか」と尋ねますが、コナーは「大丈夫です」と答えます。

 放課後になって、学校の裏庭でコナーは、同級生のハリージェームス・メルヴィル)によって、「何がそんなに楽しそうなんだ」などと言われて殴られます。ハリーの仲間が2人ほどいますが、見ているだけ。

 コナーは家に戻り、ママが「お祖父ちゃんの映写機」と言うプロジェクターを点けて、2人で『キング・コング』を見ます。

 夜になってコナーは、自室の机に向かってノートに絵を描いています。
 時刻が12時6分になると、鉛筆が独りでに転がって床に落ちたり、外では風が吹き出したりします。
 コナーが窓を開けて外を見ると、大きなイチイの木が怪物(リーアム・ニーソン)に変身してこちらに向かって歩き始めます。
 怪物と向かい合うコナーに対して、怪物は、「さらいに来たぞ。なぜママのもとに逃げないんだ?」と訊きます。コナーは、それに対して「ママに手を出すな!」と叫びます。



 すると、怪物は、「3つの物語を聞かせる。それを話し終わったら、お前が4つ目を話す。物語が真実であり、隠しているのは悪夢だ」などとコナーに言います。
 そして、コナーは机の前にいる自分に戻っています。

 これが本作の初めの方ですが、さあ、これから本作はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、ダークファンタジーの世界的ベストセラーを実写化した作品。難病の母親と暮らしている主人公の少年のもとに、ある夜、怪物が現れて3つの物語を話すからお前も4つ目の物語を話せと言うところから、この映画は始まります。映画で描き出される物語の中で語られる物語というように、作品全体が入れ子構造になっていますが、その意味するところは深く、少年を主人公とする映画とはいえ、大人の鑑賞にも十分に耐えるものだなと思いました。

(2)本作は、末期がんの症状を示すママの現実を主人公の少年が次第に受け入れていくという、一種の成長譚だと思われます。
 その際に中心的な役割をはたすのが、怪物が話す3つの物語です。
 第1の物語は王国の権力をめぐる物語、第2の物語は薬の調合師と牧師を巡る物語、そして第3の物語は透明人間の物語。
 怪物が3つの物語を話すと、怪物は、今度はコナーに4つ目の物語を話すように求めます。

 怪物の話を聞いたり、自分の話をしたりすることによって、コナーはママの現実をしっかりと受け止めることが出来るようになり、以後、地に足を着けて堅実に生きていくことでしょう。
 なかなか良く出来た全体の構成だと思われます。

 ただ、問題点がないわけではない感じがします。
 例えば、
イ)怪物は絶えず「真実を言え」とコナーに言いますが、怪物が話す物語が真実だと、コナーくらいの歳の少年にどうして分かるのでしょう?コナーには、単なるおとぎ話のようにしか思えないのではないでしょうか(注3)?

ロ)怪物は、コナーに真実の物語を求めますが、未成年だとしても、コナーには抱えている問題がいくつもあるはずで(注4)、そのうちのどれを話せばいいのか、本当のところはコナーにはわからないのではないでしょうか?それに、怪物が話すような物語を話せと言われたら困惑してしまうのではないでしょうか(注5)?そもそも、ここでいわれている「物語」とは、一体何なんでしょう?

 次いで、原作とかなり違っている点を挙げるとしたら、例えば次の2つでしょう。
イ)原作のラストは、本作のラストのエピソードは書かれていません(注6)。
 本作のようなエピソードをラストに付け加えることによって、怪物が話す3つの物語、あるいは怪物自体の出所が明示されることになり、見ている方も「ああ、そういうことか」と簡単に納得してしまうでしょう。
 それは、コナーと母親との強いつながりを示してもいるわけで、十分意味があるのでしょう。
 でも、そのように明示してしまうことによって、見る方の選択肢が狭められてしまうようにも思われます。あるいは、そのエピソードのようなことを考える観客もいるでしょうが、もしかしたら、3つの物語等はすべてコナー少年の無意識が創り出したもの(注7)、さらには、ユングの「元型」のように集団的な無意識が生み出したもの、などなど様々に考える観客も出てくるのではないでしょうか?
 クマネズミには、このエピソードはなくもがなという感じがしました(注8)。

ロ)原作では、リリーという少女がしばしば登場しますが、本作ではほんの少しだけ登場するに過ぎません(注9)。こうした少女をコナー少年の近くに配することで、映画はより幅が広くなり、またファンタジー性も増すように思われますが、なぜ役割を小さくしてしまったのでしょう(注10)?

 とはいえ、本作は、怪物が語る物語をアニメ化したり、怪獣をSFXによってかなりリアルに描き出したりしてもいて、コナー少年に扮するルイス・マクドゥーガルの秀逸な演技と合わさり、なかなか面白い作品に仕上がっているなと思いました(注11)。

(3)渡まち子氏は、「幻想的なアニメーションの素晴らしいビジュアル、怪物の声を担当するリーアム・ニーソンの深くしみいるような声、コナーを演じるルイス・マクドゥーガル少年の繊細な演技が心に残る」として85点を付けています。
 真魚八重子氏は、「監督のJ・A・バヨナは子どもの不幸を容赦なく描く。本作もファンタジーの域を超えて、現実的な避けがたい絶望がたちこめ、哀切極まりない。そんな寒々しさの合間を、孤独な者の心に寄り添うように妖しく美しいアニメが彩る」と述べています。
 毎日新聞の鈴木隆氏は、「物語はファンタジーというより厳しく現実的。それを和らげることなく少年の目線で描き切った。それでも、母親に抱かれているような感覚が全編を包んでいるから不思議だ」と述べています。



(注1)監督はJ.A.バヨナ
 脚本は、原作を書いたパトリック・ネス
 原作はパトリック・ネス著『怪物はささやく』(創元推理文庫)。
 (元々、英国の女性作家のシヴォーン・ダウトがガンにために47歳で亡くなった際に、原案がドラフトで遺されていて、それを米国の作家のパトリック・ネスが完成させました)
 原題は「A Monster Calls」.

 出演者の内、最近では、シガニー・ウィーバーは『宇宙人ポール』、フェリシティ・ジョーンズは『博士と彼女のセオリー』、トビー・ケベルは『悪の法則』(トニー役)、リーアム・ニーソンは『沈黙-サイレンス-』で、それぞれ見ました。

(注2)コナー少年は、12歳ほどとされているようです。

(注3)原作では、怪物が、自分が話した物語について説明をするところが書かれています。
 例えば、コナーが「どっちもほんとなんて、ありえないよ」と言うと、第1の物語について、怪物は「ありえるさ。人間とは、実に複雑な生き物なのだからね。女王は善良な魔女であり、同時に邪悪な魔女でもあった」、「王子は殺人者であり、同時に救世主でもあった」と答え、さらにコナーが「何が言いたいのかよくわからない」と言うと、怪物は「人間の心は、毎日、矛盾したことを幾度となく考えるものだ」などと答えるのです。最後に、コナーが「じゃ、どうしろって?」と尋ねると、怪物は「真実を話せばいいんだよ」と答えるのです。
 常識的には、こうしたコナーの対応の方が普通に思え、経験の少ない少年は、怪物の説明に心から納得できるのでしょうか?

(注4)例えば、コナーは、ママに自分がハリーにいじめられていることを話していません。また、祖母(シガニー・ウィーバー)と気が合わないことはママも感づいているでしょうが、きちんとは話していないようです。それに、米国で別に暮らしているパパ(トビー・ケベル)のことについても話すことがいろいろあるでしょう。



(注5)実際にも、4番目の物語は、いわゆる物語の形式を踏まえてはおらず、コナー少年の真情の吐露にすぎません。
 その点からすれば、怪物が話す3番目の物語も、誰からも無視されていた透明人間が他人から見えるようになろうとしたという骨組みが語られるだけで物語とは到底言えないでしょう(実際には、コナーがハリーを倒す場面に連続的につながってしまいます←下記の「注11」もご覧ください)。

(注6)原作のラストは、「コナーは母さんを抱き締めた。二度と放してなるものかと抱き締めた。そうすることで、今度こそ本当に母さんの手を放すことができた」と書かれています(P.250)。

(注7)本文の(1)に記したように、怪物は、コナーがノートに絵を描き出した途端に出現するのですから(本作では、コナーがノートに四角い枠取りをすると、それが窓になって、その窓から教会とか墓地とかが見え、そしてイチイの木が怪物に変身するのです)。

(注8)劇場用パンフレット掲載の「About The Production」の中で、バヨナ監督は、(パトリック・ネスの脚本について)「この物語は死の暗い側面を描いているけれど、最後には“希望”が見える」と述べています。前回取り上げた『ちょっと今から仕事やめてくる』の拙エントリの「注6」で触れた「希望」がここでも登場します!

(注9)と言っても、クマネズミには、リリーが本作の何処に登場していたのか判然としないのですが(配役名までクレジットに掲載されているので、どこかに登場はしていたのでしょうが)。

(注10)おそらく、コナーと母親との関係をより一層強調するためなのでしょう。
 加えて、リリーについて、原作では、「コナーとリリーが生まれる前から、母さん同士が友達だった。だからコナーにとってリリーは、別の家で暮らしているきょうだいみたいなものだった」、「コナーとリリーはただの友達で、二人のあいだにロマンチックなことは何もなかった」、「母さんの“話”」は「だれも知らないはずだった」のに「リリーの母さんはまもなく知ることにな」り、「そのあとすぐ、リリーも」、「おかげで、みんなに知れ渡った」、「(だから)リリーを許す気になれない。ぜったいに」などと書かれてもいますし(P.46~P.47)。

(注11)つまらない事柄ですが、コナー少年が、怪物に唆されて家の中にある家具をかなり破壊しますが、これは『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』に登場するデイヴィス(ジェイク・ギレンホール)、さらには恋人の息子のクリス(ジューダ・ルイス)を思い起こさせます(両作とも、古い時計が壊されます)。
 また、コナー少年は、3番目の物語の中で、自分をいじめるハリーに体当たりを食らわして倒してしまいますが、これは『ムーンライト』の「2.シャロン」におけるシーン―シャロン(アストン・サンダース)がイジメの張本人であるテレル(パトリック・デシル)を、椅子で思い切り殴り倒しすシーン―を彷彿とさせます〔尤も、シャロンはそのために少年院送りになりますが、コナーの方は、教頭(ジェラルディン・チャップリン)に、「校則に従えば、即刻退学。でも、できません。あなたを罰して何になるというの」と言われます〕。



★★★☆☆☆



ちょっと今から仕事やめてくる

2017年06月16日 | 邦画(17年)
 『ちょっと今から仕事やめてくる』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、南の島の夜の景色(注2)。
 満天の星のもと、ヤシの木の生えている海岸。
 後ろ向きの女の子が、「私が死んだら、あの星になるの?」と訊くと、ソバのこれまた後ろ向きの父親らしい男が、「先ず生きなきゃな」と答えます。すると、女の子は「生きるってどういうこと?」と尋ねます。これに対して男は「希望を持つこと」と答えます(注3)。
 そして、タイトルが流れます。

 次いで、青山隆工藤阿須加)の部屋。
 蟻がたかっているブドウの入った箱などが酷く乱雑に置かれています。
 隆は、起き出して靴下を履き、TVで歌われている歌(注4)について「バカじゃないの」「でも、俺のことかも」と呟きます。

 隆が勤める会社の営業部の場面。
 部長の山上吉田鋼太郎)が、「お早うございます」と言うと、部下が「それでは朝の体操!」と叫び、皆が席の前に立ち上がって体操をします。その後、壁に貼ってある「社訓」(注5)を皆で唱和します。
 隆のモノローグ、「就活をしまくった俺は、この会社の内定をもらった時は喜んだ」。

 部長が「最多契約者17件、五十嵐!」と言い、報奨金を渡して皆に拍手を促すと、五十嵐黒木華)は「有難うございます」と言って頭を下げます。



 隆のモノローグ、「営業部長にとっては成績が全て」。

 部長が隆に「青山、大東広告からクレームだ。ロゴの字体が違うと言っている」と言うので、隆が「斎藤さんが、…」と言いかけると、部長は「今はお前の担当だ。ちゃんとチェックしろ」と怒ります。
 隆のモノローグ、「会社に貢献したいという気持ちはある。しかし怒鳴られると、…」。

 帰りがけに部長は、五十嵐に「今朝の報奨金はデートに使うのか?」と言ったり、隆に「さっきのミスの分は給料から引いておく」、「データをまとめて明日の朝一で報告してくれ」と言います。
 隆のモノローグ、「3ヵ月連続で残業は150時間を超えた。しかし、残業代は出ず、すべて基本給の内」。

 一人で会社に残って作業していると、母親(森口瑤子)から電話がかかってきます。
 母親が「食べたいものがあれば送るから」「今度いつ帰ってくるの?」と言うのに対し、隆は「わかった」「忙しいから切るよ」などと返事をします。

 山梨の実家では、母親が「1年半も帰ってこない」と嘆くと、父親(池田成志)は「忙しいんだよ」と応じます。


 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、ブラック企業に就職して生きていく気力が失せてしまった青年のもとに謎の男が現れて、という物語。青年が謎の男のことを調べると3年前に自殺していた人物ということが判明するのですが、付き合っていくうちに次第に青年は前向きに行きていこうとするようになります。こう書くと、いかにも今時ありがちな作品と思えるでしょう。正直のところ、小生も最初はそう思っていました。でも、しばらくすると、現代の若者の暮らしぶりの一端を捉えてもいる感じもしてきて、そう捨てたものではないなと思えてきます。全体として、出演者の一生懸命さがこちらに伝わってくる作品ではないでしょうか。

(2)映画に人生訓話めいたものを期待しないクマネズミにとっては、監督の姿勢(注6)とか、特にラストのバヌアツのエピソードには関心がもてませんが、それでも本作はそれほど捨てたものではないのかな、とも思いました。

 第1に、本作から、ブラック企業の実態の一端を垣間見られる感じがします。
 労働基準法もなんのその、とにかく契約を取ってこいという部長の方針の凄さは、その怒鳴り声によってよくわかります(注7)。
 そして、あのように毎日怒鳴られっ放しで、なおかつ夜遅くまで残業させられたら、隆でなくとも、「人は生きるために働くとしたら、俺は生きているといえるのか?」などと思いたくもなってくるでしょう。
 ただ、この会社のブラックさを徹底して描き出すためには、例えば、隆がこの会社を辞める際には、もっと激しく部長に迫るようにしたら、より説得力が出てきたのではないでしょうか(注8)?



 それと、五十嵐についてですが(注9)、黒木華クラスの女優を使うのであれば、「枕営業」によって成績を挙げている様子を描いてみたらどうだったでしょう(注10)?

 第2に、本作は、危うく駅のホームから転げ落ちて入ってきた電車に惹かれるところだった隆を、間一髪で助けたヤマモト福士蒼汰)とは一体誰なのか、を解き明かしていくミステリ仕立てになっています。
 何しろ、肝心なときには、ちょうどいいタイミングで出現し、適切なアドバイスをするのですから。それに、隆は、偶然にも霊園行きのバスの中にヤマモトを見出したりもするのです。



 加えて、吉田鋼太郎や黒木華といった脇役陣もさることながら、ヤマモトを演じる福士蒼汰と隆役の工藤阿須加がかなり力のこもった演技をしているので(注11)、ついつい熱心に見てしまうことになります。

 ただ、そうであるにしても、隆にとって、バヌアツに行くことが問題の解決になったのかどうかは、疑問が残るような気がします(注12)。

(3)渡まち子氏は、「ユニークかつ直接的なタイトルが何より印象的だが、重い題材を軽妙な語り口で描くスタイルが面白い。謎めいたヤマモトをさわやかに演じる福士蒼汰、ヤマモトに振り回されながら懸命に生きる生真面目な隆を演じる工藤阿須加の主役二人は好演」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「それこそ本編が始まる前から誰もがおやっ?と思う、そんな要素を持った映画である。そういう仕掛けはやりようによってはとても効果があるのだが、この映画はそのあたりがうまくない。ミステリ好きの一鑑賞者としては、少々残念である」として55点をつけています。
 暉峻創三氏は、「ヤマモトの超然たる存在感(時に風を伴って出現する演出も素晴らしい)がそれだけで存分に人々を救済する力に満ちているだけに、日本社会と対置された理想郷として提示されるバヌアツの場面は、やや蛇足だった感も否めない」と述べています。



(注1)監督は、『ソロモンの偽証 前編・事件』などの成島出
 脚本は、成島出と『草原の椅子』の多和田久美
 原作は、北川恵海著『ちょっと今から仕事やめてくる』(メディアワークス文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、福士蒼汰は『無限の住人』、黒木華は『海賊とよばれた男』、森口瑤子は『太陽』、小池栄子は『ブルーハーツが聴こえる』、吉田鋼太郎は『帝一の國』で、それぞれ見ました。

(注2)場所はおそらくバヌアツであり、言葉もビスラマ語だと思われます。

(注3)このシーンは、ラストの方でもう一度繰り返され、そこから父親のように見える男はヤマモトだとわかります。

(注4)歌詞は、「月曜日の朝は、死にたくなる。火曜日の朝は、何も考えたくない。水曜日の朝は、一番しんどい。木曜日の朝は、少し楽になる。金曜日の朝は、少し嬉しい。土曜日の朝は、一番幸せ。日曜日の朝は、少し幸せ。でも、明日を思うと一転、憂鬱」。

(注5)例えば、「遅刻は10分で千円の罰金」とか「有給なんていらない。体がなまるから」。

(注6)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューで、成島監督は「「ソロモンの偽証」はどんなに辛くても“死ぬな”という話ですよね。こっちは“希望はあるよ。見失っているだけだよ”という話で、そこがいいなと思いました」と述べています。
 例えば、本作の冒頭の場面と同じような場面が最後の方にも映し出されますが、そこでヤマモトに、「生きていれば辛いことがある。けれど、どこかに希望がある」、「なければ探せばいい、なければ作り出せばいい。それもなければ、一からやり直せばいい」などと言わせてもいます。
 でも、こうしたセリフはなくもがなであって、映画全体から感じ取りたい人には感じ取らせればいいのではないでしょうか?
 それに、隆はバヌアツに行って、本当に希望を見出すことが出来るのでしょうか?

(注7)勿論、弊害もいろいろ出てくるのであって、例えば、自分をよく見せようとして、他の社員が自分より大きな契約を取ってくるのを妨害すべく、PCに保存されている書類を密かに書き換えてミスを犯させる事件が、この会社に発生します。

(注8)隆は、部長から「これだから、最近の若いやつは使えないんだ」、「社会というものがわかってない」、「テメエの人生は負け犬で終わる」、「結局逃げるだけ、甘いんだよ」、「次の仕事が簡単に見つかると思ったら大間違いだぞ」などと思いっ切り怒鳴られますが、部長に対し「就活の時、この会社に簡単に決めてしまいました」、「懲戒解雇でもかまいません。3ヵ月前までは、このビルの屋上から飛び降りることを考えていましたから」、「自分に嘘をつかないで生きていきたい」、「青い空をいつも笑って見ていたい」と言い返すだけに過ぎません。

(注9)原作本では男性であるのを、本作ではわざわざ女性に変更したとのこと。

(注10)尤も、本作全体が持っている“爽やかさ”を著しく削いでしまうかもしれませんが!
 それに、これまでに出来上がっている黒木華のイメージにも合わないのかもしれません。

(注11)劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、「今回は福士蒼汰、工藤阿須加が他の仕事で忙しく、集中してリハーサル期間が取れなかったので、クランクインの5か月前から、二人のスケジュールが合う日をリハーサルに充てて、飛び飛びにリハーサルを行った」とのこと。

(注12)隆を呼び寄せた方は、自分が希望してバヌアツに行って、現地の子供たちに進んで算数の授業をしているのでしょう。でも、隆の方は、呼ばれたからとにかくバヌアツに行っただけのことですし、そこで何をしたいのかという“希望”があるわけではないでしょう。
 これでは、都会の生活は非人間的であり、田舎の生活が人間的だとする、あまりにも単純な物の見方の一つの現われのように思えてしまいます。
 隆は、山梨でぶどう園を営む両親の下を離れてわざわざ東京に出ていったのでしょう。バヌアツに行くのも、山梨の実家に戻るのも大した違いはないように思われます。東京でモット頑張る手もあるのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:ちょっと今から仕事やめてくる


2017年06月13日 | 邦画(17年)
 『』を新宿バルト9で見ました。

(1)河瀨直美監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、階段をゆっくりと降りていく男(中森永瀬正敏)の後ろ姿が映し出されます。どこかの劇場でしょう、男は席に着くとイヤホンを耳に当てます。
 イヤホンからは、「テスト、テスト、イヤホンの聞こえは良いですか?この声はテストアナウンスです」などという声が流れます(注2)。

 そして場面は、外の通りの様子(注3)。人々がせかせかと道路を歩いています。
 バス停では、停車したバスから降りてくる人々と、そのバスの乗ろうと待っているサラリーマンたちが、タクシー乗り場にはタクシーを待つ人もいます。様々な音とか声がします。
そういう人々の姿を読み取りながら、女(美佐子水崎綾女)が道路を歩いていきます。

 次いで、劇映画『その砂の行方』の中の場面。
 木々の向こうには、穏やかな入江が見渡されます。近くに見える大きな家の庭には、背の高い樹木が植えられています。
 家の縁側に置かれた籐椅子に座る妻・時江神野三鈴)に向かって、夫の重三藤竜也)が「どうですか?」と訊くと、認知症の時江は「つまんない」と答えます。

 それは、モニター会の会場に設けられているスクリーンに映し出された映画の一シーン。
 音声ガイド制作に携わる美佐子が、スクリーンのそばで、自分が書いたナレーションを読み上げます。美佐子の反対側には、視覚障害者が数名モニターの席に着いていて(その中には、中森もいます)、美佐子のナレーションを聞いています。



 美佐子が勤務する映画会社の上司の智子(女優の時江でもあります:神野三鈴)が、「まず、ここまでにしましょうか」と言い、「まちこちゃん、何かありますか?」と尋ねます。
 まちこと言われた視覚障害者は、「“くろがみ”じゃなくて、“くろかみ”です」と応じます。
 他のモニターも、「チョット聞き取れない」「“砂像”と言われても、馴染みがない」「“すな”といった方が、…」「“サゾウ”と言われると、イメージが止まってしまう」などと言います。
 こうした意見に対し、美佐子は「検討します」と答えます(注4)。

 視覚障害者の明俊(智子の夫:小市慢太郎)が「「厚い雲の向こう、…」というところは良かった」と言うと、美佐子は「ガイドを沢山入れましたが、伝わったかって心配でした」と応じます。
 これに対して、中森が「伝わったかって、押し付けがましいことじゃないですか?」、「今のままなら邪魔なだけです」と指摘します。他のモニターも、「言葉がいっぱい入ってきてしまって」と賛同します。美佐子は「私は皆さんのためにと思って」と反論しますが、逆に、中森から「それが押し付けがましいっていうこと」と言われてしまいます。
 美佐子は「次回までに検討し、中森さんの邪魔にならないようにします」と答え、智子も「中森さんの言葉には、しっかりと向かい合ったほうが良いと思う」とアドバイスします。

 これが本作の始めの方ですが、さあ、この後、物語はどのように展開するでしょうか、………?

 本作は、映画の音声ガイド制作に携わる若い女と、弱視の天才カメラマンとを巡るラブストーリー。音声ガイドを制作するにあたっては、視覚障害者にそれを聞いてもらって手直しをする作業が必要で、その際にカメラマンと若い女性が知り合うのです。クマネズミは、視覚障害者のためにそんなに繊細な作業まで行われているなんて全く知りませんでしたから、本作はその意味で興味を惹かれましたが、それだけでなく、河瀬直美監督の初期の頃の映画作品の感じも幾つかの点で感じられたりするのも(例えば、『萌の朱雀』の舞台と同じような感じの過疎の山村が映し出されます:注5)、とても面白いと思いました。

(2)本作では、美佐子が、パソコンで映画作品を見ながら台本を作り、それをモニター会で視覚障害者のモニターに聞いてもらって手直しをしていくという、音声ガイド制作のプロセスが丁寧に描き出されています。
 美佐子は、上記(1)で見るように、最初、映画の画面に描き出されていることを目一杯視覚障害者に伝えようとして、盛り沢山な内容の台本を作ります。すると、モニターの視覚障害者から、返って邪魔なだけと批判されます。
 そこで、今度は、できるだけ説明を削ぎ落とした台本を持っていくと、それでは何もわからないと、言われてしまいます(注6)。

 美佐子の上司の智子は「映画というのはものすごく大きな世界。それを言葉によって小さくしてはいけない」などと美佐子に忠告しますが、本作を見ていると、この音声ガイド制作が、とても繊細な神経を要する大変困難な作業であることがわかってきます。



 でも、そうした困難さを乗り越えた優秀な音声ガイドに依れば、視覚障害者は、正常人が見て取ることの出来ないものまでも映画から受け取れるのでしょう。

 こうして美佐子は、劇中映画の監督・北林(出演者の重三を演じてもいます:藤竜也)にインタビューしたりして(注7)、音声ガイドの仕事や、ひいては自分自身のこと、特に家族のこと(注8)を見つめ直すようになっていきます。

 美佐子にとって決定的なのは、モニター会で中森と出会ったことでしょう。
 最初のうちは、自分が作成した台本について執拗に批判してくる人だと思ったのでしょうが、中森が出した写真集『flow』(注9)を見たりするうちに興味が出てきて、智子の代わりに拡大読書器を届けに中森のアパートを訪ねたりします(注10)。
 そうした中で、美佐子は成長していきますが、中森の方も大きく変化していきます。



 最初の内、中森は、弱視が進行するにもかかわらず、相変わらずカメラマンとして、愛用の二眼レフカメラのローライフレックスを手放さずに写真を取り続けています(注11)。



 ですが、色々の出来事があり(注12)、特に、美佐子との出会いがあったことによって、中森は自分の生き方を変え、ローライフレックスを捨て、更には杖を突きながら歩行するようになるのです。

 そうして、こうしたこと全体が、本作では、そのタイトルとなっている「光」、特に夕日の光で包まれて描き出されている感じがします。何しろ、中森が暮らす部屋には、西日が一杯に差し込んでくるのですから。
 ある意味で、『追憶』で描き出される夕日と似ているかもしれません。
 ただ、『追憶』の夕日は過去からのものであるのに対して(注13)、本作の夕日の光は未来に向いているのではないでしょうか(注14)?

 本作における主役の永瀬正敏の演技は、次第に視力が低下していくカメラマンという難役を、文字通り入魂の演技でこなしていますが、本作全体としては、音声ガイド制作者の美佐子の成長物語といった感が強く、美佐子役の水崎綾女が、とても瑞々しい演技を披露していて次作が期待されるところです。

(3)渡まち子氏は、「主観を排除し事実を正確に描写することで映画の輝きを言葉で伝える音声ガイドの難しさと素晴らしさが印象に残ったが、視覚障害者は目ではなく心で映画を“見る”というスタンスに、襟を正したくなった。暗闇で迷うことはあっても、コミュニケーションによって、きっと希望の光をみつけることができることを教えてくれる作品である」として70点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「視力が奪われることの苦しみとやり場のない怒りが身体を駆け巡るカメラマンの絶望を『あん』のときとはまた違った存在感を示して演じる永瀬。そしてそんな演技を他の出演者たちからも引き出す河瀬監督の演出力と透明感のある映像に見とれながら、ここには河瀬監督が考える映画のすべてがあると思った」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督・脚本は、『あん』の河瀨直美。河瀨直美監督の作品は、最近では、他に『2つ目の窓』や『朱花の月』とか『七夜待』を見ています。

 出演者の内、最近では、永瀬正敏は『ブルーハーツが聴こえる』、水崎綾女は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(ヒアナ役)、小市慢太郎は『ゾウを撫でる』、藤竜也は『お父さんと伊藤さん』で、それぞれ見ました。

(注2)この場面は、本作の劇中映画『その砂の行方』をバリアフリーで上映(美佐子の制作した音声ガイドの台本を樹木希林が読み上げます)する会の模様を映し出すラストの場面に繋がります。
 なお、『その砂の行方』のラストで映し出される砂丘は、『ゾウを撫でる』や『俳優 亀岡拓次』でも登場する静岡の中田島砂丘(前者についての拙エントリの「注3」や、後者についての拙エントリの「注12」をご覧ください)。

(注3)美佐子の住むマンション、中森が暮らすアパート、それに美佐子が勤める映画会社などは、奈良市街にあります(歩道橋などに書かれている地名などからすると)。

(注4)美佐子は、「砂像」を「砂で作った砂の像」などと書き直します。
 そして、ラストで樹木希林が読む台本では、「重三の手からスカーフが離れる。崩れる砂の女性像。跡形もなく消える。丘を登っていく重三。黙々と前に進む。夕日が強い光を放ち、肩越しに輝く」となっています(大体のところに過ぎませんが)。

(注5)『萌の朱雀』については、この拙エントリの(2)の末尾で、ほんの少し触れています〔付け加えると、本作に登場する美佐子の父親は失踪していますが、『萌の朱雀』のみちる尾野真千子)の父親・幸三國村隼)も失踪します(あとで自殺したことがわかります)〕。
 また、河瀬直美の作品でよく見かける印象的な木々の揺れは、本作でも見ることが出来ます(なお、この拙エントリの「注4」もご覧ください)。

(注6)中には、「前のより整理されていてスッキリした」「余白ができ、ジワーと感じる部分が出てきた」と評価するモニターもいますが、中森は、「今度のガイドは、初めてこの映画を見る人にとって酷いと思う。例えば、トップシーンについては空間を再現できない」と批判します。
 さらに、中森は、「ラストシーンでは、結局何も言わないんだ」、「逃げているんだ」と咎めます。これに対し美佐子は、「ラストは、見ている方に委ねたほうが良いかと」、「逃げてはいません。ただ、個人的な感情は避けた方が良いのかなと思ったのです」と反論します。すると、中森は「何も感じなかったんだ」と責めます。それに対して、美佐子は「それって、想像力の問題なのでは。中森さんの表情には、何の変化もありませんでした」と言ってしまいます。

(注7)美佐子が、北林監督に「重三は、監督の内面を表す存在ですか?」と尋ねると、北林監督は「そういうところもあるかな。爺さんであるところとか」と答え、さらに美佐子が「ラストシーンですが、「その表情は生きる希望に満ちている」とガイドするのは間違ってますか?」と訊くと、北林監督は「重三は、明日死んでしまうかもしれませんよ。生と死の狭間がだんだん曖昧になってくるんです」と、否定的なことを言います。
 それでも美佐子が「映画の中には希望がほしいんです」と言うと、北村監督は「重三が、あんたの希望になったら凄い」と言って立ち去ります。
 美佐子が「映画の中には希望がほしい」と言ったのは、あるいは、下記「注8」に記すように、彼女の母親が認知症であることを踏まえてのことかもしれませんが〔北村監督が制作した映画『その砂の行方』では、上記(1)で触れているように、重三の妻・時江が認知症なのです〕、もしかしたら、美佐子の映画に対する一般的な姿勢なのかもしれません。

(注8)奈良の山奥にある美佐子の故郷には、母親(白川和子)が一人で暮らしていますが、認知症の兆候が出てきているようです。母親の面倒を見てくれる隣人も、「お父さんが失踪した時の記憶が抜けている。そろそろ施設のこと考えた方がいいかも」と美佐子に言います。
 美佐子は、時々母親に会いに行くのですが、ある時、父親が失踪する際に家に残していった財布を見つけ、その中に、父親と自分が写っている写真があるのを見つけます。

(注9)この記事をご覧ください。

(注10)中森の部屋に入ると、天才写真家としてもてはやされた頃に撮影した写真でしょうか、たくさんの写真が所狭しと壁に掲げられています。
 そして、手紙がゴミ箱に捨てられているのを見つけた美佐子が、「これ間違って捨てられていますよ」と言うと、中森は「それは捨てていいんだ」と答えます。それに対して、美佐子が「このホテル、バリアフリーだから大丈夫ですよ」と言うと、中森は苛立って「向いてないよ、お前」と答えます。あとで中森は、「昔の妻の結婚式の招待状だ」と打ち明けるのです。

(注11)中森からローライフレックスを取り上げようとした写真仲間に対して、中森は「動かせなくなっても、俺の心臓だ」と言うのですが、相手は「もう止めなって」と忠告します。

(注12)例えば、中森が昼間だと思って電話したところ、実際は真夜中で、相手に心配されますし(「また徹夜しているんですか、いつ寝てるんです?」と言われてしまいます)、カメラを向けた相手に「いい天気ですね」と言うと、相手から「いいえ、今日は晴れてないと思います」と返されてしまいます。

(注13)『追憶』のラストで涼子安藤サクラ)が見る夕日は、昔、喫茶店「ゆきわりそう」の窓から涼子が見た夕日ではないでしょうか?

(注14)美佐子と中森は、中森が夕日を撮影した場所に一緒に出かけます。
 そこで、中森は愛用のローライフレックスを投げ捨てますし、それを見た美佐子は中森に口づけをします。
 また美佐子は、自分と父親が一緒の写真に写っている夕日が見える場所で、いなくなった母親に出会いますが、母親は「あのお日さんが山の中に沈んだら、お父さん帰ってくる」と言うのです。
 両方共、夕日に未来を託している感じがします。



★★★★☆☆



象のロケット:光


美しい星

2017年06月09日 | 邦画(17年)
 『美しい星』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)三島由紀夫のSF小説の映画化と聞いて、映画館に出かけました。

 本作(注1)の冒頭では、レストランにおいて大杉家の食事会が行われています(注2)。
 父親の重一郎リリー・フランキー)と母親の伊余子中嶋朋子)、それに長女の暁子橋本愛)が席について食事をしていますが、長男の一雄亀梨和也)が遅れているようです。
 シャンデリアが大写しになった後、重一郎が、携帯電話をかけている伊余子に、「出ない?」「来れないなら、最初からそう言えよ」と言い、やって来たウェイターに「水、三つ」と頼みます。
 伊余子は、ウェイターに「もう少し待っていただけます?」と言います。
 重一郎は、なおも「時間が自由になるから、フリーターなんだろ?」と皮肉を言うと、伊余子は「そんなこと言わないで」と応じます。
 伊余子は暁子の皿を見て、「食べないの?オッソブーコ」と言いますが、暁子は「チョット」と答えるだけです。
 そこに電話がかかってきて、重一郎は席を外して外に出ます。

 レストランの外で、重一郎は、「今日はチョット無理。もう一人がまだ来ていないんだ」「明日は?」などと携帯で言っていると、一雄が自転車で到着します。

 伊余子は、メッセンジャーのバイトの格好のままの一雄を見て、「着替える時間がなかったの?」と尋ねますが、一雄は「急かすから」と応じます。
 一雄は、暁子が残しているオッソブーコを口にしながら、「こういうイベント必要?」と訊きます。

 ここでタイトルが流れて、TVの画像。
 キャスターの今野羽場裕一)が、温暖化対策に関するニュースを読み上げています。

 屋外の広場では、重一郎が出番を待っています。
 アシスタントの玲奈友利恵)が天気図を持ってくると、重一郎は「ここ、どのくらい下がっているの?」と尋ね、玲奈が「1004ヘクトパスカル」と答えると、重一郎は「これくらいなら崩れない」と言います。
 ADの長谷部坂口辰平)が「あと5秒ほど」と告げ、今野キャスターが「次はお天気です。大杉さん」と振ると、TV画面に重一郎が映し出され、「今晩は」「もう1月と言うのにどうしたんでしょう」「各地で4月並の暖かさ」「明日はさらに気温が高くなります」などと説明します。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、50年以上前に三島由紀夫が書いたSF小説を映画化したもので、他の惑星から地球にやって来た異星人が日本で一家を形成し(母親だけは地球人)、温暖化等の進む地球に対して警告を発し、その阻止に向けて地球人を立ち上がらせようとするお話。異星人といっても外形は地球人のままですから、すべて彼らの妄想と受け取り(注3)、この話自体を他愛のないものとみなすことも出来るでしょう。でも、円盤が登場するSF物としてそのまま受け取っておく方が、ずっと面白いように思われます。

(2)本作は、SF物であり、異星人が地球にやってきて地球人を救おうとするという点で、前回取り上げた『メッセージ』とある程度つながりを持っているように感じました。
 無論、本作に登場する異星人は皆地球人になりすましていますから、同作に現れる異星人のヘプタポッドとは外形がまるで違います。また、同作で専ら焦点を当てられているのは、地球人が如何に異星人とコンタクトを取りその目的を理解するのか、という点であり、最初から異星人が地球人と滑らかにコミュニケートしている本作とは雰囲気が全然違います。
 とはいえ、同作では、異星人が主人公に自分たちの武器(言葉)を与えることによって、地球人の結束を図ろうとするのと同じように、本作の主人公の重一郎は、温暖化や異常気象といった様々の問題が起こる地球を救おうといろいろ活動するのです(注4)。

 そのクライマックスが、重一郎と一雄や黒木佐々木蔵之介)との、TVスタジオにおける対決のシーンでしょう(注5)。
 重一郎が、「太陽系連合は私の大事な家族です。私は、火星人として、お隣の星のことを放っておけません」と言うと、一雄は「自分たちのしてきたことを忘れるなんて、自分勝手過ぎません?」「気づかないふりをして、未来を犠牲にしたんだ」と反論します(注6)。
 それに対して、重一郎が「地球人の頃の話はよせ。父親として子供たちに借りを残したくないんだ」と言うと、黒木が入ってきて、「ご高説拝聴いたしました。あなたの本当の目的は?」と尋ねます。それに対し、重一郎は「太陽系連合として、地球をこの危機から救いたい」と答えます。
 すると、黒木は、「地球に救う価値はありますか?」と再度尋ねます。重一郎が「だってこんなに美しい星なんだから」と答えると、黒木は、「自然が美しいのではなく、人間が美しいと感じるのです」「ですが、その自然に人は人間を含めないのです」「私は、人間が滅びるのを助けたい。そうすれば、地球は本当に美しくなる」と言います。

 ここらあたりを見ると、主人公・重一郎の主張は西欧的な感じがし、むしろ、ネガティブな存在のように見える黒木の見解に、日本的な“滅びの美学”“滅びることの美しさ”といった原作者・三島由紀夫の思想の一端が伺えるようで(注7)、興味深いものがあります(注8)。

 なお、三島由紀夫の原作をパラパラと読むと、色々改変されている点が見つかります。
 特に、原作小説では、本作のような地球温暖化といった問題ではなく、核戦争の危機をめぐり異星人が地球人に対し警告をします。映画化にあたり話をヨリ現実的なものにしようと、本作の制作者側はこの問題を取り上げることとしたのでしょう。

 ですが、地球温暖化問題に関しては、米国のトランプ大統領が、米国製造業の国際競争力を弱めるものだとして、パリ協定脱退を発表したばかりです(6月1日)。
 この発表に対しては、米国国内はおろか、世界各国からも非難の声が寄せられています。
 でも、元々、CO2排出量と地球温暖化との関係は、確定的なものではない(科学的に因果関係が十分に証明されたものではない)ようですから(注9)、トランプ氏の方針をあながち非難するわけにもいかないようにも思われます(注10)。
 だからといって、地球温暖化問題の重要性が雲散霧消してしまったわけでもないでしょう。
 ただ、他方で、このところ北朝鮮の核兵器の開発が一段と進み、アメリカ本土に対する核攻撃が可能となるのもそんなに遠いことではないと見られています。それで、一時は、米国の北朝鮮攻撃が近々ありうるのではないか、そんなことになったら日本に北朝鮮のミサイルが飛来することも考えられるのではないか、などとする報道までもなされました。
 こんな状況からすると、皮肉にも、原作小説の核戦争の危機が間近という設定(無論、米ソ対立という状況は変化してしまっていますが)を取り入れたとしても、それほど非現実的な雰囲気にはならないのではないか、とも思えるところです。

 出演者については、皆なかなかの演技を見せており、特に橋本愛は、『Parks パークス』で見たばかりながら、主演のリリー・フランキーと『シェル・コレクター』で共演していることもあるのでしょうか、本作でも際立った存在感を醸し出していました(注11)。

(3)渡まち子氏によれば、「三島由紀夫自身が“へんてこりん”と形容したこの小説のテイストを壊さずに映画化したのが何よりも収穫だ。しかも、この突拍子もない物語の登場人物に、ひょうひょうとしたリリー・フランキーをはじめ、若手アイドルをちゃっかり組み込んで、スター映画に仕上げてしまった点を評価したい」として65点を付けています。
 中条省平氏は、「原作の主眼は宇宙人と地球人の思想闘争にある。映画でこの部分を大幅に削るのは理解できるが、物足りなさが残るのも事実だ」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 真魚八重子氏は、「三島由紀夫の異色SF小説を、鬼才吉田大八監督が映画化。設定や物語が突飛(とっぴ)なので、本作の展開についていくためには、共鳴や感応のような感覚を抱けないと、置いてきぼりになりそうだ」などと述べています。
 小島一宏氏は、「一家が覚醒したのは単なる思い込みか、それとも太陽系連合からの警鐘か。やや大風呂敷を広げすぎた感は否めないが、ラスト近くに映し出されるきらびやかな夜景を見ながら「人類はこれでいいのか?」とも思わされた」などと述べています。



(注1)監督は、『紙の月』の吉田大八
 脚本は吉田大八と甲斐聖太郎
 原作は三島由紀夫著『美しい星』(新潮文庫)。

 出演者の内、最近では、リリー・フランキーは『お父さんと伊藤さん』、亀梨和也は『バンクーバーの朝日』、橋本愛は『PARKS パークス』、中嶋朋子は『家族はつらいよ』、佐々木蔵之介は『超高速!参勤交代 リターンズ』、赤間麻里子は『RETURN(ハードバージョン)』で、それぞれ見ました。

(注2)後から到着する一雄が、運ばれてきたケーキに立てられているローソクの火を慌てて吹き消すシーンがあるところからすると、一雄の誕生日を祝っての食事会なのでしょう。

(注3)それまで普通の地球人として暮らしてきた大杉家の人々が、ある時点を境にして、自分は異星人であると“覚醒”するのですから、その時点で3人(重一郎、一雄、暁子)が集団催眠にかかったとも解することができるかもしれません。ただ、その場合には、なぜ母親・伊余子だけが催眠状態にならなかったのかわかりませんし、それに、3人は、時点はほぼ同じにしても、違ったシチュエーションで“覚醒”するというのも、集団催眠という視点では解けないように思われます(原作小説では、4人が別々に円盤に遭遇します)。

(注4)TVの気象予報士の重一郎は、例えば、担当している「お天気コーナー」の中で、「皆さんは、地球規模の温暖化を長い間放置してきてしまいました」「このまま行くと、取り返しのつかないことになります」「地球は一つの生き物なのです」「何をしなければいけないのか、皆さんで考えましょう」などと力説します。



(注5)黒木は、国会議員・鷹森春田純一)の第一秘書ですが、実際には異星人のようですし、一雄は黒木のもとで使われています。
 なお、黒木は原作では登場せず、原作で書かれている羽黒等の仙台に住む3人に変わる人物として描かれているように思われます。



(注6)本作においては、一雄の水星人としての使命がイマイチはっきりとしないように思われます(尤も、黒木が一雄に「人間が決められないことを決めてやる」こと以外に我々が地球ですることは何もない、と言うところからすれば、それがある意味で使命なのかもしれませんが)。

(注7)例えば、三島由紀夫の『金閣寺』とか『豊饒の海』の四部作。

(注8)原作小説でこのシーンに対応するのは、大杉家の応接間における重一郎と羽黒等の3人組との対決でしょう(第8章~第9章)。
 そこで注目されるのは、重一郎が次のように述べていることです。
 「時間の不可逆性が、人間どもの平和や自由を極度に困難にしている宿命的要因なのです。もし時間の法則が崩れて、事後が事前へ持ち込まれ、瞬間がそのまま永遠へ結び付けられるなら、人類の平和や自由は、たちどころに可能になるでしょう」、「未来を現在に於て味わい、瞬間を永遠に於て味わう、こういう宇宙人にとってはごく普通の能力を、何とかして人間どもに伝えてやり、それを武器として、彼らが平和と宇宙的統一に到達するのを助けてやる。これが私の地球へやってきた目的でした」(P.282~P.283)。
 ここで言及されている「宇宙人にとってはごく普通の能力」とは、まったく『メッセージ』で描かれているヘプタポッドの認識の仕方と同じでしょう!そして、同作で描かれているヘプタポッドの地球到来の目的も、原作小説で語られている重一郎の「地球へやってきた目的」と同一なのです。
 ただ、原作小説では、宇宙人の能力を人間に伝えることによって、「水爆戦争後の地球を現在の時点においてまざまざと眺めさせ、その直後のおそろしい無機的な恒久平和を、現在の心の瞬間的な陶酔の裡に味わわせてやる」のだと述べられています(尤も、これは、人間の想像力があまりに貧弱なためにうまくいっていない、と重一郎は述べますが)。
 これに対して、『メッセージ』では、ヘプタポッドの言語を主人公の言語学者・ルイーズに習得させることによって、彼らの世界認識の仕方をルイーズに伝え、それで彼女は地球人の一致団結を達成できるのです。
 原作小説がかなり悲観的なのに対し、『メッセージ』は楽観的だと言えるかもしれません。

(注9)実際には、本作の中でも、一雄がその下で働くことになる国会議員の鷹森は、重一郎の主張に批判的であり、「温暖化は、人為的なものではなく、長期的な気候変動によっている」と言ったりします(どうも、太陽光発電のシステムを売り込もうとする会社のバックアップを受けているようです)。

 なお、Wikipediaのこの項をご覧ください。そこでは、地球温暖化に対する様々の懐疑論が取り上げられており、さらにそれらに対する反論も案内されています。素人のクマネズミには、どちらの議論が正しいのか判断がつきません。ただ、これだけ色々議論されているということは、少なくとも、CO2排出量と地球温暖化との関係が確定的なものだと簡単に言い切ることが出来ないのでは、と思えるところです。

(注10)それに、パリ協定には、元々法的な拘束力がないようですし。
 この点について、この記事によれば、「温室効果ガスの排出量削減目標の提出や、実績点検など、パリ協定の一部は法的拘束力を伴う。しかし各国の削減目標には法的拘束力はない」とのこと。といっても、この記事のように、だから「パリ協定には意味がない」わけではなく、国際条約の中で、長期目標〔産業革命前からの平均気温上昇を2℃未満に抑えることとされ(1.5℃未満目標にも言及)〕を設定したことなど重要な点が決められている、とする味方もありますが。

(注11)ただ、橋本愛が扮する金星人の暁子は、重一郎と一緒になって地球温暖化等の問題に取り組むことはせずに、「美の基準を正す」という自分に与えられている使命を果たそうとします。大学のミスコンの話とか、ストリートミュージシャンの竹宮若葉竜也)とのエピソードは面白いものの、本作の流れからは一人だけ浮き上がってしまっている感じがします(原作小説の暁子は、ソ連のフルシチョフ首相宛の手紙を書いたりします)。



 なお、これで、『Parks パークス』に出演した3人の女優―橋本愛の他に、永野芽郁石橋静河―が、皆、すぐにその後に公開された映画に出演したことになります(クマネズミも、結局、それらの作品をすべて見たことになります←永野芽郁は『帝一の國』、石橋静河は『夜空はいつでも最高密度の青色だ』)。『Parks パークス』は、御当地物的な雰囲気がなきにしもあらずの作品ながら、こうしてみると、若手女優にとって節目となる重要な作品にいつの間にか持ち上げられつつある感じがします!



★★★☆☆☆



象のロケット:美しい星


メッセージ(2016)

2017年06月05日 | 洋画(17年)
 『メッセージ』(2016年)を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)アカデミー賞のいろいろな部門でノミネートされた作品(注1)なので、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、湖の畔に建てられている本作の主人公・ルイーズ・バンクスエイミー・アダムス)の家の場面。居間の机の上にはワインのボトルやグラスが。でも誰もいない感じです。
 そして、ルイーズの声が流れます。
 「あなたの物語が、この日始まったんだと思ってた」(注3)、「記憶って不思議。いろいろな見え方をする」。

 次いで、ルイーズの子供のハンナを巡る映像が幾つか。
 まずは、赤ん坊のハンナ。ルイーズは、ハンナの手を握ったり、抱き上げたりします。
 次いで、家の前に庭で遊んでいる幼いハンナ。ルイーズが「くすぐり銃だ、降参しろ」と言うと、ハンナは笑って逃げます。
 さらには、少女のハンナ。ルイーズに、「大好きよ」と言ったかと思うと、「大嫌い」と言ったりもします。



 最後に、ハンナが病院のベッドに横たわっています。坊主頭になっているのは抗がん剤の副作用でしょうか。ハンナは死んでいるのでしょう、ルイーズは「戻ってきて」と、ハンナの頭をなでながら泣きます。

 その後、ルイーズは、病院の廊下を悲しみにくれて歩いています。
 ルイーズの声。「でも、時の流れがなかったら?」、そして「見方が変わったのは、たぶん彼らが出現した日だ」。

 次いで、大学の大教室の場面。
 ルイーズは、教壇の椅子に座って教室を見回し、「お早う。ガラガラね。みんな何処へ行っちゃたの?」と呟きながら、「とにかく始めましょう。今日は、ポルトガル語についてです」と言います。
 さらに、「ポルトガル語は、中世のガリシア王国の時にその基盤ができました。そこでは、言葉は芸術表現とみなされていました…」と話し始めたところ、教室のアチコチで携帯の音がします。学生が、「先生、TVのニュースを点けてもらえませんか?」と求めます。
 仕方なくルイーズは、黒板の奥にある大きなディスプレイを取り出し、スイッチを入れます。
 ディスプレイにはニュース番組の映像が映し出され、レポーターが「モンタナ警察も到着してブロックしています」「政府の機密実験の可能性も考えられます」「世界の各地の出現し、これは北海道の映像です」「衝撃が走っています」などと叫んでいます。
 すると、大学にサイレンが鳴り響き、ルイーズも「今日の授業はおしまいね」と言い、キャンパスにいる学生たちは一斉に帰宅し始めます。空には、ジェット爆撃機が何機も飛んでいます
 ルイーズは車で自宅に向かいますが、カーラジオでは「地球外から来た可能性もある」「なぜ1度に12隻も来たのか」などと言っています。
 家に戻ったルイーズは、母親に電話し、「ニュースを見ただけ。そのチャンネルの情報は信用しないで」「私は元気。何も変わりはないので大丈夫」と話します。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれからどんな物語が始まるのでしょうか、………?

 本作は、突如、地球外の宇宙船が地球に12隻も出現したものの、その目的が皆目わからないために、女性の言語学者として著名な主人公が、その宇宙船に乗る地球外生命体との交渉に駆り出されて、云々というSF物語。地球外生命体の外形がどうなっているのか、彼らが使用する文字はどんなものなのか、結局彼らと人類との戦いになってしまうのか、などいろいろ興味を引く点が盛り込まれていますが、一番は、時間に関する考え方が彼らと人類とで異なっている点でしょう。勿論、従来のSF物と類似するところがいろいろあるとはいえ、最後までなかなか面白く見ることが出来ました。

(2)本作は、ごく大雑把にまとめれば、人類が、これまで接触したことのない地球外生命体とコンタクトをとって、その考えていることを理解しようとする物語、といえるでしょう。
 ある意味で、その行為は、一昔前の文化人類学者が、アフリカなどに残っていた未開の地に住む土着の人々のグループの中に分け入って、その文化を解明しようとするのに似ている感じがします(注4)。その際に鍵となるのは、それらの人々が使っている言語を理解することでしょう(注5)。
 本作でも、主人公のルイーズが大学で教鞭をとる言語学者とされていて、地球にやって来た地球外生命体の言語を理解する、というところに焦点が当てられています。



 ただ、文化人類学者等が未接触の人々とコンタクトを取ってその使われている言語を理解しようとするのは、調査対象が自分たちと同じ姿・形をしていることから、ある意味で当然とも言えるでしょう。
 でも、本作の場合、相手は、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』に登場するタコのような火星人と類似する異星人(ずっと巨大ながらも、頭部の下に7本の脚がついていて、それでヘプタポッドと呼ばれます)であり(注6)、そんな姿にもかかわらず彼らが言語を持っているに違いないと、関係する地球人はなぜ考えるのでしょうか?
 おそらくは、彼らが宇宙船(巨大な卵型をしていて、「the shell」と言われます)を使って出現したために、彼らは高度なテクノロジーを持った知性体ではないか、それに宇宙船が12隻同時に地球上に出現したからには彼ら同士でコミュニケーションをとっているのではないか、そうだとしたらコミュニケーション手段として何かしらの言語を持っているのではないか、と関係する地球人たちが感じたためではないかと思われます。

 それでも、彼らが、話し言葉と書き言葉(文字)を持っていて、話し言葉の解明は絶望的にしても書き言葉の理解ならなんとかなるだろうというところまで辿り着くのは、容易なことではないのではないでしょうか?
 というのも、ルイーズをヘプタポッドとの交渉チームに引き入れた現地の司令官のウェバー大佐(フォレスト・ウィテカー)は、彼らの音声らしきものを録音して、その解明をルイーズらに委ねるものの(注7)、ルイーズが実際に乗り出すまでは、彼らの「文字」の存在などわからなかったわけですから。

 それに、ルイーズがボードに「Human」と書いて示した時に、ヘプタポッドが墨のようなもので形作った輪っかが「文字」(それも表音文字ではなく「表義文字」)だとどうして分かるのでしょう?



 それは、紙などに書き留められることなく、しばらくすると形を崩して消滅してしまうようですし、それに、ヘプタポッド同士でそれを使ってコミュニケーションをとっているようにも思えません。
 彼らにとって、“話し言葉”の他に、そのような“書き言葉”はどうして必要なのでしょう(注8)?

 ですが、それはどうでもいいことかもしれません。
 あるいは、ルイーズが言語学者であることから、あの輪っかのようなものは「文字」に違いないと閃いたのかもしれませんし。

 それになによりも、ヘプタポッドの文字を理解できるようになって、本作で一番興味をひく点、すなわち、彼らと人類とでは時間に対する見方が異なっているという点を、ルイーズがわかってくるのですから(注9)。

 この点については、劇場用パンフレットに掲載のReviewの「8 時間」において、映画評論家の小林真里氏が、「ルイーズは、地球上における過去から未来へ一方向で流れる時間軸(時間の矢)とは全く異なる「非直線的な」時間軸に生きるエイリアンから、彼らと同様に「未来がわかる」能力(武器)を授かる」と述べているところです。

 それで、ルイーズは、ヘプタポッドの言語(文字)を習得する過程で、次第に未来のことがわかるようになって、自分に生まれる子供(ハンナ)の未来の姿などについても、頭に思い描くようになるわけです。
 そうだとすると、本作の冒頭〔上記(1)をご覧ください〕で描かれるハンナの姿についての映像も、本作の物語を話しているルイーズの現在時点では、彼女の頭に思い浮かぶ未来の事柄ということに、あるいはなるのかもしれません(注10)。

 ただ、そうだとすると、時間を取り扱うSF物に特有のよくわからない点が本作に出てきてしまうようにも思われます(注11)。特に、未来のことが先取り的に現時点でわかってしまう点について(注12)。

 それでも、ヘプタポッド騒動が終わった後、ルイーズがイアン・ドネリージェレミー・レナー)に、「この先の人生が見えたら、選択を変える?」と尋ねると、イアンは「自分の気持ちをモット相手に伝えるかも」「ずっと宇宙に憧れてきたけど、一番の出会いは彼らとじゃない、君とだ」と答えて、2人は強く抱き合うのですが、これこそ、未来の脚本がすでに出来上がっている世界における恋愛なのかもしれないと、見る者に思わせる優れたシーンではないでしょうか(注13)?



 それはともかくとして、本作は、地球外生命体とコンタクトをとることはどういうことなのか、時間が直線的に流れるという認識の仕方とは違った認識方法がありうるのではないか、など、様々な点について見る者を色々考えさせるという点で、なかなか興味深い作品ではないかと思ったところです。

 なお、本作では、ルイーズを演じるエイミー・アダムスは、ほとんど出ずっぱりで、聡明で意志の強そうな言語学者の役柄を真摯に熱意を込めて演じていましたが、他方で、共演のジェレミー・レナーが扮するイアンが果たす役割がどうもはっきりしない感じでした(注14)。

(3)渡まち子氏は、「エイミー・アダムスをはじめ、実力派俳優たちの丁寧な演技が、深い人間ドラマを紡ぎ、生きることの意味を問う壮大な物語を作り上げた。またしても俊英ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の才能に驚かされた1本だった」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「(本作は、)未来に不安を持つ人すべてを励ます映画であるということだ。まさに、未来に希望などない時代ならでは。現代だからこそ登場した映画であるといえるだろう」として70点を付けています。
 藤原帰一氏は、「この「メッセージ」における友好的な宇宙人は、難民と移民が反発と排除を引き起こす時代において、他者と共存し、他者から学ぶことを選ぶお話として解釈することができるだろうと思います」と述べています。
 北小路隆志氏は、「優れたSF映画は僕らの日常を根底で支える「常識」に再考の機会を与える。世界が注目するカナダ人監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴの手腕が、ジャンルの枠組みの有効活用の点でも遺憾なく発揮され、近年まれなメジャー系SF映画の傑作が誕生した」と述べています。



(注1)作品賞、監督賞、脚色賞、美術賞、撮影賞、編集賞、音響編集賞、録音賞の8部門でノミネートされ、結局、音響編集賞に選ばれました。

(注2)監督は、『複製された男』や『プリズナーズ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ
 脚色は、エリック・ハイセラー
 原作は、テッド・チャンが書いた短編「あなたの人生の物語」〔短編集『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫)に収録〕。
 原題は「ARRIVAL」。

 なお、本作の出演者の内、最近では、エイミー・アダムスは『ビッグ・アイズ』、ジェレミー・レナーは『エヴァの告白』、フォレスト・ウィテカーは『大統領の執事の涙』、捜査官役のマイケル・スタールバーグは『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』で、それぞれ見ました。

(注3)「I used to think this was the beginning of your story」。
 この「your story」が、原作の短編小説のタイトル「Story of Your Life」につながっていくのでしょう。

(注4)啓蒙的な著書では、例えば、山口昌男著『アフリカの神話的世界』〔岩波新書:この拙エントリの(2)で触れたことがあります〕などでしょうか。

(注5)一昔前だったら、言語学者・金田一京助によるアイヌ語習得の話を持ち出せばよかったかもしれません。
 この記事によれば、戦後すぐの国語の教科書には、金田一京助の「心の小径」というエッセイが掲載されていて、そこでは彼のアイヌ語習得の取っ掛かりとなった出来事(金田一が、ノートに乱雑な線を書いてアイヌ人に示したところ、「ヘマタ!」と言われたので、「ヘマタ?」が「何?」を表す言葉だとわかリ、それ以後アイヌ語の語彙が増えていった←ここには、その時ノートに書いた図が掲載されています)が綴られていたそうです(ただ、ここには、このエピソードの意味について疑問が投げかけられていますが)。
 なお、金田一京助については、玉川上水緑道の拙宅の近くのところに「水難の碑」が設けられていて(この記事、及びこの拙エントリの「ト)」をご覧ください)、その碑には、彼の四女が玉川上水で溺死したことが記されていて、それで少し調べてみて興味を持ちました。

(注6)宇宙人の外形としては、本作のようなタコ型を含む動物型の他にも、人間型などがあるようです(この記事)。例えば、『PK ピーケイ』に登場する異星人は、地球人と全く変わらない姿・形をしていますし、『宇宙人ポール』に登場する異星人・ポールも人間型でしょう。
 なお、本作に登場する異星人・ヘプタポッドは、墨で書いた文字のようなものを使いますが、外形ばかりではなく、そんなところからもタコ型と言えるでしょう〔ただ、タコ・イカは、本川達雄著『ウニはすごい、バッタもすごい』(中公新書)によれば、海中でこそ、その形態の特徴を活かせるようです。ヘプタポッドも、なにかしらの液体の中で生息しているのでしょうか?でも、そうだとしたら、人間を超える知性の進化は望めないようにも思われますが〕。

(注7)実際には、その録音にはノイズが多い上に、どのような状況下で録音されたのか等についての情報が不足しているために、ルイーズはその解明を放棄することになります。

(注8)例えば、あのような広大な帝国を築き上げたインカ帝国には、文字が存在しなかったとされています(この記事の「言語」の項)。

(注9)ラストの方で、ルイーズは、ヘプタポッドのコステロと話をします(もう一人のアボットの方は、地球人が持ち込んだ爆薬によって死んでしまいます)。
 コステロは「ルイーズには武器がある」「武器を使え」と言い、それが何を意味するのかわからないルーズは(実は、ヘプタポッドの文字がルイーズに贈られた「武器」なのですが)、「あなた達の目的は?」と尋ねると、コステロは「今、人類を助けること」と答え、さらに「3000年後に人類の助けが要るのだ」と言います。それで、ルイーズは「未来がわかるの?」と驚きます。
 ただし、ここらあたりの会話は、話し言葉ではなく、お互いの「文字」のやりとりによって行われます。

(注10)あるいは、ルイーズが話している時点は、本作で描かれるヘプタポッドとのコンタクウトがあった時点よりもずっと後のことで、映画の冒頭で描かれるハンナの姿は、ルイーズの過去の経験とも解釈できますが(ラストの方で、ルイーズは、「あなた(ハンナ)の物語は、彼らが消えた日に始まったの」とも言っていますし)。
 それに、最初の方で「記憶」と言ってたりもしますし(「記憶」といえば過去のことについてでしょう。ただし、ヘプタポッドに認識には「過去」も「未来」もないことになっていますから、「記憶」自体があるのでしょうか)。

(注11)例えば、自由意思の問題はどうでしょう。
 上記「注9」に記したように、ヘプタポッドは、「3000年後に人類の助けが要るのだ」とわかって、「今、人類を助ける」ために地球にやって来たと言いますが、3000年後に人類によって彼らが助かるのであれば、人類はその時まで存続していたことになるわけで、なにも「今、人類を助ける」必要もないのではないでしょうか?
 ただ、今人類を助けること自体もペプタポッドは予めわかっているとしたら?その場合には、予め決められている脚本通りのことを、その出演者がこなしているだけのことになります。一体、それは何を意味するのでしょうか?
 また、ルイーズは、この騒動の1年後に顔を合わせるシャン上将(ツイ・マー)から携帯電話の番号を聞き出すと、物語の現時点でその携帯電話を使って、シャン上将に核攻撃の開始を思いとどまらせるのです。でも、ルイーズは、シャン上将の妻の最後の言葉(物語の現時点では、シャン上将以外に誰も知り得ないはずの)をどうして知り得たのかという点はともかくも(携帯番号を聞いた際に、教えてもらったのでしょう)、このエピソード自体、予め書かれた脚本に従っているだけのことではないでしょうか?

(注12)ルイーズに未来のことがわかるという場合、無数に起こるはずの未来の出来事の内どれについてルイーズがわかるというのでしょう?あるいは、ルイーズに引き起こされることだけに限定されるのかもしれません。でも、ヘプタポッドは、少なくとも3000年後のことがわかるのです(あるいは、彼らの寿命は3000年を超えるのかもしれません。ただ、それにしては、人間の爆弾で簡単に死んでしまうのですが)。
 ルイーズ自身に起こることだけに限定される場合にしても、自分の知りたい未来を、無数に漂う未来の出来事のうちからどうやって選択するのか、よくわからない感じです。
 それと、未来に起こる「出来事」と言う場合の出来事とは一体どういうものなのでしょう?出来事とは、時間の継起によってつなぎ合わされた一連のものではないでしょうか?その時間がリニアに流れて初めて、一つの出来事としてまとまって認識できるようになるのではないでしょうか?そうならずに、すべての物事が同時に起こっているとしたら、無数の出来事が同時に併置されている感じとなり、とても認識できないのではないでしょうか?
 ルイーズが、ヘプタポッドから贈られた彼らの言語を習得して、世界の認識の仕方が変わったとされていますが、そのルイーズが、ヘプタポッドが出現してから帰還するまでの出来事の経緯を語る場合には、従来のリニアに時間が流れる認識の仕方によっているのは、どうしてでしょう?

(注13)それでも、ある時、「未来に起こることを自分は知っている」とルイーズがイアンに言うと、イアンは酷く怒って、家を飛び出してしまうという未来を、予め結婚する時点でルイーズは知っているのですが。

(注14)例えば、原作では、ゲーリー・ドネリー(本作のイアン・ドネリーに相当します)の解説する「変分原理」にかなり重要な役割が与えられていますが〔ハヤカワ文庫版のP.224~P.226では、ゲーリーが図を用いてルイーズに説明しています〕、本作では同原理に関する事柄はカットされています。



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象のロケット:メッセージ(2016年製作)