映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

鍵泥棒のメソッド

2012年09月29日 | 邦画(12年)
 『鍵泥棒のメソッド』を渋谷のシネクイントで見ました。

(1)本作は、内田けんじ監督の作品であり、また堺雅人と香川照之という芸達者な俳優が出演すると聞いて、映画館に出かけました。

 物語の冒頭は、雑誌編集長の香苗広末涼子)のオフィス。
 突然彼女が立ちあがって、「私、結婚することにしました。お相手はまだ決まっていません。誰かお知り合いの男性を紹介してください。健康で努力家であればかまいません。1か月で相手を探し、次の1か月で恋愛し、そうして12月14日に結婚します」などと宣言します。
 これに対して、社員の皆が拍手。



 次いで、高級外車の中で、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番を聴く殺し屋・コンドウ香川照之)。
 男が団地から出てくると、コンドウは、車を降り、その男を捕まえナイフで刺してトランクに放り込んで発進します。
 途中で映画の撮影にぶつかって渋滞に巻き込まれイライラしますが、ふと外を見ると大衆浴場の煙突が。



 さらに、オンボロのアパートの狭い汚い部屋で、仰向けに転がっている役者志望の桜井堺雅人)。
 どうやら首つりに失敗した直後のようで、急に泣き出します。
 財布から有り金を取り出すと千円ちょっとあり、さらには大衆浴場の入場券まで出てきます。
 それらをひっつかんで桜井は外に出ます。



 以上のような3人がひょんなことから関係を持ってしまい大騒動に巻き込まれるわけですが、最後まで非常に楽しく見ることができました。さすが、『運命じゃない人』、『アフタースクール』の内田けんじ監督だなと思いました。

 堺雅人は、昨年は『日輪の遺産』『ツレがうつになりまして。』で随分と楽しませてもらいましたが、本作を見ると、どうやら今年も昨年以上に楽しませてもらえるようです。

 香川照之は、すぐ前に見た『るろうに剣心』の悪徳商人役でその演技力をいかんなく発揮しているところ、本作においても、様々の面を併せ持つコンドウの役柄を実にうまく演じ分けています。

 広末涼子は、一昨年の『FLOWERS-フラワーズ-』以来ですが、こうしたコミカルな要素を持つキャラクターをも実にうまく演じられることが証明されました(注1)。

(2)本作のタイトルに「泥棒」とあるので(注2)、クマネズミは、昨年末の『サラの鍵』以来興味を持つようになった「」(注3)に着目いたしました。
 ただ確かに、銭湯で意識を失ったコンドウから桜井が盗み取ってしまうロッカーの鍵は、その後の展開にとって重要ではあるものの(それがなければ、桜井はコンドウになりすますことはできませんでしたから)、単なる鍵にすぎませんし、そのロッカーに入っていたコンドウのマンションの鍵や車の鍵も単純な鍵にすぎません。
 本作における鍵は、むしろ普通の鍵の形をしていない鍵の方が重要なのではないでしょうか(注4)?
 すなわち、銭湯で滑って倒れて意識を失い、記憶を失ってしまったコンドウが、記憶を取り戻す際の“鍵”となったのは、コンドウが愛好するベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番です。
 この曲を、たまたま香苗の父親が特に愛好していて、亡くなったばかりの父親を偲ぶべく香苗がそのレコードをターンテーブルに乗せたことによって、その部屋にいたコンドウが記憶を取り戻すのです。
 まさに同曲は、コンドウの記憶の箱を開くための“鍵”と言えるでしょう(注5)。

(3)渡まち子氏は、「売れない役者と伝説の殺し屋が入れ替わるサスペンス・コメディ「鍵泥棒のメソッド」。優れた脚本といい役者で、最後の最後まで楽しめる」として80点をつけています。
 また、暉峻創三氏は、「派手な映像への依拠は排しながら、重要なことは台詞ではなく、できる限り小道具などの視覚的存在や音響の現前によって観客に突きつけていく姿勢。それが一見あり得ない物語の向こう側に内田けんじ映画だけに可能なリアリティーを作りだしている」と述べています。



(注1)尤も、『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(2007年)で証明済みかもしれませんが。

(注2)なお、本作のタイトルに「メソッド」とあるのは、『マリリン』についてのエントリの(2)で触れた「メソッド演技法」によっているのではと思われます。
 ちなみに、映画の中で、コンドウが桜井に向かって、「お前は、ストラスバーグの本のはじめの8ページしか読んでいない」と言っているところ、このサイトの記事によれば「実際に訓練を受けた人でなければその内容は殆ど解」らないとのこと。素人ながら桜井の部屋に置いてあった演技の本を読破して身につけてしまったコンドウよりも、むしろ、すぐに投げ出してしまった桜井の方が普通なのかも知れません!
 なお、映画では、リー・ストラスバーグメソードへの道』とかエドワード・D・イースティメソード演技』(劇書房、1995)などが映し出されていたように思います。

(注3)さらに、拙ブログのこのエントリの(2)やこのエントリの(4)もご覧ください。

(注4)といって、本作の英題「Key of Life」の「Key」などには何の関心もありません!

(注5)ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番(昔はブダペスト弦楽四重奏団が演奏するレコードを持っていましたが)は、クマネズミも以前から愛好しているので、この点だけからも本作は◎と言えます!
 劇場用パンフレットの「Director’s Interview」において、内田けんじ監督は、「香苗=モーツアルト、コンドウ=ベートーベンという漠然としたイメージは脚本執筆中もずっと意識していたことです。ちなみに桜井は、なんの葛藤もないけど、シンプルで深いバロック。天使のイメージ」と述べているところ、香苗が働くオフィスの場面で、『フィガロの結婚』の序曲が流れたりするとはいえ、「弦楽四重奏曲第14番」以外の点は別にどうでもいいことです!



★★★★☆



象のロケット:鍵泥棒のメソッド
コメント (4)   トラックバック (45)

るろうに剣心

2012年09月26日 | 邦画(12年)
 『るろうに剣心』を渋谷TOEIで見ました。

(1)映画『BECK』で好演した佐藤健が出演するというので見に出かけたのですが、まずまずといったところでした。

 舞台は、明治11年の東京。
 人斬り抜刀斎を偽って名乗る男(吉川晃司)が現れ、警察官などを殺して手配されています。その際に、偽抜刀斎が「神谷活心流」と名乗るものですから、亡くなった父からその流派を受け継ぐ娘の神谷薫武井咲)は、なんとか偽者を捜し出して汚名をそそごうとしていました。
 ですが、実際に対決すると、とても薫の歯が立つ相手ではありません。そこに本物の抜刀斎(今や緋村剣心佐藤健)が現れ、危うく薫を救い出してくれます。
 さて、薫が住んでいる地域は、悪徳商人の観柳香川照之)が、アヘンの取引を大々的行うための港にしようと目を付けていました。まずは薫の神谷道場を取り壊そうと観柳一味が乗り込んで狼藉を働いていたところ、またもや本物の抜刀斎が現れ、一味を一網打尽にします。
 ですがそれで引っ込む観柳ではありません。さらに汚い手を打ってくるので、意を決した抜刀斎は、……?

 マア、話の筋としては随分と他愛ないものながら、チャンバラのシーンがとても斬新でスピード感に溢れ、ついつい引き込まれました(注1)。

 主演の佐藤健は、『BECK』でのミュージシャンといい、本作での剣客といい、いずれも様になっていて、なかなかの演技力の持ち主だと思います。



 また、偽抜刀斎役の吉川晃司のアクションの凄さについては、すでに『必死剣鳥刺し』で証明済みですが、本作でもその才能をいかんなく発揮しています。



 さらに、観柳役の香川照之も、悪徳商人にうってつけの演技を披露します。



 ヒロインの武井咲は、クマネズミは初めて見ますが、まだ18歳とのこと、これからが楽しみな女優です。

 こうした4人にさらに、蒼井優、江口洋介らが加わるのですから堪えられないところです。
 蒼井優は、本作では、観柳の愛人で、なおかつ強力な麻薬「蜘蛛の巣」を作ったりする女医役ですが、いつものナヨヤカな感じとは違った雰囲気を出しており、新生面が拓けていいのではと思いました。
 また、江口洋介ついては、その扮する斎藤(今や藤田五郎)は、10年ほど前の鳥羽伏見の戦いで幕府軍として抜刀斎と相対するものの、維新後は警察官として新政府に仕えているという役どころですが、いつものように頑張って演じています。

(2)もう一人、『汚れた心』で印象的な演技を披露した奥田瑛二が陸軍卿・山県有朋役で登場します。



 山県は、陸軍省における式典で(注2)、大勢の陸軍幹部を前にして、「維新が成って10年、この国は新しい歩みを続けている」と至極真っ当な演説をするところ、奥田瑛二の醸し出す雰囲気から(注3)、そして山県有朋についての先入観もあって、そうは言ってもそれはあくまで建前であって、一歩裏に回れば、例えば観柳などと通じて悪事を働いているのではと思いたくなってしまいます。
 ですが、かっての部下だった緋村剣心を捕えて自らの陣営に取り込もうとするも(注4)、彼にすげなく断られると、山県は、しつこく一騎打ちをしようとする藤田五郎を制し、「もういい、すまなかった、釈放しろ」と、報復することもなくいともあっさりと諦めてしまうのです(注5)。

 そんなところが気になって(注6)、山県有朋についてほんの少しですが調べてみました。
 クマネズミが山県有朋について持っていた感じは、権謀術策に長けた男、日本を先の大戦に至らしめた陸軍の基幹部分を作った男、などといったマイナスイメージでした(注7)。
 ですが、このところ、そうした山県有朋に対する見方を見直すべきだとする研究がいろいろ行われているように見受けられます(注8)。
 特に、松元崇氏の『山縣有朋の挫折――誰がための地方自治改革』(日本経済新聞出版社、2011.11』が注目されます(注9)。
 同書においては、山県有朋について、「通常の日本人のレベルを超えたマキャベリ的な現実政治家であった」として(P.172)、例えば彼が「導入し、その後軍部独創の道具になってしまった軍部大臣現役制も、もともとの山縣の思惑は、政党内閣が力を持ってきた明治末年の状況の中で、自らの育てた陸軍が政治によって壟断されないようにとの防御的なものであった」と述べられています(P.174)。
 さらに、同書が中心的に取り上げている地方自治に関しては、明治21年に山県は、「江戸以来の自治を尊重しながら近代的な地方自治制度を導入しようとしたのであ」り、「地方自治制度導入の過程で山縣が見せたリーダーシップは、「彼は政治家として記憶すべき一の成功もなく失敗もなし」といった記述とはかけ離れたものであった」と述べられています(P.94及びP.96)(注10)。

 こうした柔軟な見方に立てば、あるいは本作(及び原作漫画)における山県有朋の描き方も、至極当を得たものと言えるのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「映画ならではのカタルシスとして、やはりアクションシーンのスピード感ははずせないが、香港など海外で活躍しているアクション監督の谷垣健治が担当しているだけあり、切れ味鋭い動きは見応えがある。個人的には“ござる”を連発するセリフまわしに違和感があるが、けれん味たっぷりの次世代型アクション時代劇の勢いを感じる娯楽作だ」として65点をつけています。
 また、前田有一氏は、「主要なキャストの再現性と佐藤健の魅力で十分という方に向いている作品」として55点をつけています。



(注1)本作のアクション監督は、『カムイ外伝』の谷垣健治氏ですから当然でしょうが(ちなみに、谷垣氏は、『孫文の義士団』においてスタントコーディネーターを務めています)。

(注2)式典で挨拶する山県の正面には、陸軍の旭日旗が日章旗とともに立てられているものの、幹部の制服は海軍の白服のようで、どんな式典が想定されているのかよく分かりません。
 尤も、劇場用パンフレットに掲載されている「Production Sketches : Characters &Costumes」の「山県有朋」の項において、「陸軍の衣裳は嘘でも白である必要があった」と述べられているところからすれば、こうした細部にこだわっても意味がないでしょう。

(注3)さらには、下記「注4」に記載しましたように当時40歳にすぎない山県有朋を、62歳の奥田瑛二が演じているためでもあるかもしれません。

(注4)緋村剣心は、Wikipediaによれば明治11年(1878年)には29歳(1849年生まれ)ながら、10歳ほど年上の山県(1838年生まれ)が陸軍卿(当時の政府要人は皆年齢がかなり若かったようです)ですから、陸軍の幹部にいきなり就くことは可能だったと思われます。
 他方、藤田五郎(以前の斉藤一)は、Wikipediaによれば1844年生まれですが、新撰組隊士であったためでしょう、警部止まりでした。

(注5)原作漫画でも、「官憲の栄誉や権力のためでなく 人がしあわせに暮らせる世を創りそして守るため 剣をとって戦った それを忘れてしまったら 山県さん 維新志士(われわれ)はただの成り上がり者ですよ」という緋村剣心に対して、山県は、警察署長に「わかっています どちら(横暴な剣客警官隊とそれを掣肘した剣心とで)に非があったかは 町衆の反応を見れば一目瞭然」と優しく言います(集英社文庫版1のP.77)。

(注6)加えて、たまたま雑誌『文学界』10月号に掲載された柄谷行人氏の講演録「秋幸または幸徳秋水」を読みましたら、「大逆事件を強行した元老山縣有朋は、以後、力を失い、中江兆民と親しかった元老西園寺公望が力を持つようにな」ったと述べられていることも(同誌P.174)、山県に興味をもったきっかけです。
 ただ、この点について最近の著書では(2,3冊見たに過ぎませんが)、下記「注7」で触れる井上氏の著書において、大逆事件と南北朝正閏問題の「二つの事件は山県に衝撃を与えた」と述べられている程度です(P.144)。柄谷氏は、「大逆事件に対する山県の関与を描いている」(同書P.17)松本清張作『小説東京帝国大学』にでも依拠しているのでしょうか。 

(注7)井上寿一著『山県有朋と明治国家』(NHKブックス、2010.10)でも、「既存の山県像は「軍国主義者」」とあります(P.9)。

(注8)上記「注7」で触れた井上氏の著書とか、伊藤之雄著『山県有朋 愚直な権力者の生涯』 (文春新書、2009.2)など。

(注9)同書についての書評は、例えば、これが挙げられます。

(注10)ところが、明治38年の日露戦争に向けて、「必要な地租増徴を実現すべく、山縣有朋は権謀術数の限りを尽くしたのであり」(P.158)、その過程で、「地方自治の父としての姿を消していってしまう」のであり(P.160)、「地方自治は、山縣に見捨てられてしまった」と述べられます(P.161)。
 なお、上記「注7」で触れた井上氏の著書では、山県は「国政に対する民権運動の影響力の拡大をあらかじめ封じ込めるために、地方自治制度を確立しようとした」と述べられていて、江戸の自治との繋がりの視点が見られません。
 また、松元氏の著書においては、欧米の地方自治制度との繋がりにも触れられているところ、井上氏の著書ではそうした記述もなされておりません。



★★★☆☆



象のロケット:るろうに剣心
コメント (2)   トラックバック (46)

デンジャラス・ラン

2012年09月24日 | 洋画(12年)
 『デンジャラス・ラン』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『アンストッパブル』のデンゼル・ワシントンと『リミット』のライアン・レイノルズが出演するというので、映画館に行ってみました。

 物語は、まず、南アフリカのケープタウンに設けられているCIAのSafe House(注1)という隠れ家を管理するマットライアン・レイノルズ)が、暇をもてあまし、恋人に電話をかけたりしている様子から始まります。
 次いで、CIAから極めつけの危険人物としてつけ狙われている元CIA工作員のトビンデンゼル・ワシントン)が、ある男から最高機密の入ったカプセルを買い取るシーンへ。
 ですがそのあと、トビンは、強力な殺し屋一味に激しく追跡され、たまらず米国領事館に逃げ込みます。
 血眼になって探していた男が自分から政府の囚われの身になったのですから、ワシントンのCIA本部は大騒ぎ。まずは、トビンをSafe Houseに護送して、彼からなんとしてでも一連の情報を聴取しようとします。



 そこへ、なぜか、さきほどの殺し屋一味が乗り込んできて、警固の者らを皆殺しに。トビンの命も風前の灯。
 という時に、トビンはマットを説得して(注2)、危機一髪で脱出に成功します。
 ですが、まだまだトビンに対する追跡は続きます、さていったいどうなるでしょうか、……?

 極め付きの優秀なCIA工作員だったものの、今やCIAから厳しく追われる身のトビンと、まだホンの駆け出しで一流になることを望むCIA職員との二人三脚という異例の組合わせ、それにCIA内部の裏切り者の存在という要素が加わって、なかなかスリルのある面白い作品になっていると思いました。

 主役のデンゼル・ワシントンは、本作では悪役を演じていることになっていますが、やはりその醸し出すオーラから、心底は正義の味方なのではと見る者に思わせます。
 またライアン・レイノルズにも、言われたとおりに素直に動く輩ではない雰囲気が漂っていますから、最後までハラハラドキドキさせる作品になっていました(注3)。



 なお、本作には、サム・シェパードがCIA副長官役で健在ぶりをアピールしているところです(注4)。




(2)以下は、かなりネタバレになってしまいますのでご注意いただきたいのですが、いくつかの場面がこれまでに見た映画のシーンを思い出させてくれ、そういう点からも楽しめたところです。

 例えば、Safe Houseは『外事警察』に登場し、その作品でも、せっかく主人公の住本(渡部篤郎)が韓国から連れてきた朝鮮人科学者・徐(田中泯)をSafe Houseに匿っておきながら、韓国のNIS(国家情報院)の隊員と思われる武装集団にいとも簡単に襲撃・拉致されてしまいます。

 また、諜報機関の中の裏切り者については、『フェアウェル』の主人公が逆スパイであり、最後に彼は、西側に潜入しているソ連スパイのリストを西側の連絡員に渡し、それによってソ連のスパイ網が壊滅することになりますから、CIAの汚職職員に関する情報の入ったマイクロチップを巡る本作の物語と類似していると言えそうです(注5)。

 さらに、CIAのアフリカ支局長キャサリンヴェラ・ファーミガ)がデヴィッド(主任工作員)に撃たれるところは、『この愛のために撃て』で、女刑事が、警察内の悪徳刑事にいともあっさりと撃ち殺される場面を思い出しました。

(3)渡まち子氏は、「迫り来る敵も怖いが、一緒に逃げる相手はそれ以上に恐ろしい。逃亡劇という手垢のついたジャンルを、そんなユニークなバディ・ムービーの設定で転がしてみせたのはスウェーデン人監督のダニエル・エスピノーサだ。キャスティングの良さと、たたみかけるアクション、スリリングな逆転からクールなラストまで、手 堅い演出で楽しませてくれた」として65点をつけています。
 また、青森学氏は、「誰を信じれば良いのか分からない観るものを疑心暗鬼に誘い込むストーリーテリングは見事だったと思う」として85点をつけています。




(注1)原題になっています。

(注2)この場面とは違いますが、ラストの方でトビンは、「自分は一度だけ無関係のものを殺したことがある、それは内部告発者の乗った飛行機を墜落させるために飛行場の管制官を殺した時だ」という経験をマットに話したりします。

(注3)こうしたベテランと新米の組み合わせは、『アンストッパブル』のベテラン機関士のフランク(デンゼル・ワシントン)と新米車掌ウィル(クリス・パイン)との組合せとそっくりです(特に、黒人と白人の組合せという点が)。

(注4)『マイ・ブラザー』に関するエントリの(2)をご覧ください。

(注5)トビンは、最後になって、所持していたマイクロチップをマットに渡し、マットはその後上級工作員に昇進しますが、他方でマイクロチップに保存されていたファイルをマスコミ各社に流したことから、汚職CIA職員が摘発されることになります。
 なお、『フェアウェル』の主人公グリゴリエフ大佐は、その行為が発覚して殺されますが、本作の主人公トビンも射殺されてしまいます(にもかかわらず、その「続編」が企画されているニュースが飛び込んできました!:ということは、トビンはデヴィッドに撃たれたとマットに思わせて、実は防弾チョッキなどで防いだというところかも。あの最強の元CIA工作員が、デヴィッドごとき者に背後から簡単に撃たれるはずがないとは思いましたが、……)。
 また、物語の最後で、マットは本件について報告書を副長官に提出しますが、副長官は、「不祥事の面倒から避けなくてはいけない」と言って、その報告書の一部の書き直しを要求します。こんなところは、最近見た『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』を思い出してしまうところです(そこでは、警察で保管されていた拳銃が犯行に使われたことなどを警察上層部が隠蔽しようとしたことが描かれています)。



★★★☆☆



象のロケット:デンジャラス・ラン
コメント (4)   トラックバック (45)

踊る大捜査線 The Final

2012年09月19日 | 邦画(12年)
 『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)これまで同シリーズの3作(『踊る大捜査線 The Movie』、『踊る大捜査線The Movie2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』、そして『踊る大捜査線 The Movie3 ヤツらを解放せよ!』)を見ているので、その最終話ならば是非、と映画館に出かけました(以下は、サスペンス映画にもかかわらず、かなりネタバレしていますのでご注意ください)。

 映画の冒頭、いきなり湾岸署の青島係長(織田祐二)と女性刑事のすみれ深津絵里)が、ハッピを着て唐揚店を切り盛りしています。「人情だけでは食ってはいけない」などと店の客と話したりしているので、夢の中の展開なのかな、あるいは退職後のシーンなのかな、と思っていると、唐揚店の向かいにある喫茶店の息子が指名手配犯で、青島らは変装して張り込みをしている状況なのが分かってきます。



 その事件もめでたく解決して、青島らが湾岸署に戻ってくると(12月21日とされます)、早速殺人事件が発生します。その殺人事件で使われた拳銃が、6年前に起きた誘拐殺人事件で使われたのと同じで、かつ警察に押収保管してあったものですから大変なことに。
 捜査はすべて本庁捜査一課(小栗旬扮する鳥飼監理官が責任者)の方で仕切ることとなり、所轄の署員は外されてしまいます。



 そうしたところに、第2の事件が発生。
 さあいったいどうなるのでしょうか、……?

 映画の冒頭の唐揚屋を見て、さすが「The Final」だけあってお祭り気分一杯だな、本篇に入ればさぞかし面白い展開になるのだろう、と随分期待しましたが、あにはからんや、以後の展開はかなり地味なものとなります。
 クマネズミの方は、最後なのだからドッカーンと大きな花火が打ち上げられるに違いないと思い込んでいたところ(注1)、製作者の方では、シリーズのこれまでの作品で見られた警察組織内部のエリート組と非エリート組、本部(警察庁・警視庁)の上層部と警察署の現場(所轄)といった対立構造の解決を、この映画で最後的に図ろうとしたようです。
 ですが、そんな対立構造はどの組織にもあることであって、簡単に解決がつく問題ではないはずです。本作では、本庁の審議菅・室井柳葉敏郎)と湾岸署の係長・青島とが手を携えて警察内部の改革に手をつけようとするところ(委員会を設けて検討する)で終わっていますが、きっと当たり障りのない報告書がまとめられるだけでしょう(注2)。




(2)とはいえ、本作においては、確かに事件自体の解決には、湾岸署の係長・青島の活躍に負うところが大ながら、事件の背景に関しては、本部の上層部と地区警察署の現場といった本シリーズでおなじみの対立構造(組織問題)というよりも、本部の中の問題(注3)とか捜査方法の問題などの方に重点が移されてしまっているような感じを受けます。
 というのも、
イ)本作で取り上げられる事件が警察官の犯行であることを隠蔽するために、捜査を本庁だけで行うこととし、その際に、身代り犯をでっち上げようとしたり、それが難しいとなると、長官自身の責任を部下の者(室井審議官と青島)に負わせようとしたりします。
 これらのことについては、所轄の警察署はほとんど関与しておりません。

ロ)今回の事件の発端は6年前の誘拐事件であり、その際に誘拐された子供が誘拐犯に殺されたのは、犯罪捜査規定に従って事件の担当を交渉課から捜査一課に移したことにあるとされています。
 ただ、交渉課も捜査一課も警視庁本部内のものであり、また交渉打ち切りの指示をしたのも当時の警察庁次長であり、いずれも地区警察署の現場ではありません。
 また、6年前の事件において交渉を打ち切ったのは、内部規定の問題(特にその運用の仕方の問題)であって、組織の問題ではないように思われます(注4)。

ハ)今回の事件を引き起こしたのは、首謀者とみられる鳥飼管理官(注5)や実行犯の小池課長(小泉孝太郎)、久瀬警部(香取慎吾)は皆本庁の人間ですし、誘拐された子供の父親は当時交渉課の課長だった真下署長(ユースケ・サンタマリア)です。

(3)織田祐二が扮する青島係長は、本作でも自転車に乗ったり走ったりして大活躍しますが(注6)、やはりもうそろそろ管理職としてデスクワークが向いている年頃なのではという感じであり、織田自身にもそうした雰囲気が漂い始めています(注7)。
 また、深津絵里のすみれも、OD2において銃撃により負傷し、本作ではその傷が痛むために職務に耐え得ないとして、密かに刑事課長(佐戸井けん太)に辞表を提出します。
 また、「スリーアミーゴス」の二人(北村総一朗斉藤暁)も、本作では完全に引退していて(注8)、「指導員」の腕章をつけて後進の指導に当たっているだけの存在になってしまっています。
 そんなところからも、本シリーズはそろそろおしまいにした方がいいのでは、という感じになってきます。

 なお、前作OD3に関する本ブログのエントリにおいて、引越しが最大のスペクタクルになっていることなどについて、「おそらくこの背景には、本シリーズの根本的な見直しがなされたのではないでしょうか?そして、次からは新しく出直すという意味での「湾岸署の引越し」ではないでしょうか?」、そして「次の『踊る大捜査線4』が心待ちになってしまいます!」と申し上げましたが、残念ながら本作は、OD4ではなく「The Final」となってしまいました。

(4)渡まち子氏は、「物語は、例によって現場で奔走する青島たちの思いを上層部が踏みにじるシリアスパートと、それぞれに出世した湾岸署のメンバーたちのとぼけたやりとりのコミカルパートを織り交ぜながら進んでいく。それにしても、キーパーソンの久瀬という男の描きかたが甘いのは残念」などとして60点をつけています。



(注1)下記の(4)で触れる渡まち子氏も、「ファイナルなのだがから、もうちょっとスケールの大きさがほしかった」と述べています。
 ただ、本作の脚本を担当した君塚良一氏は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、「今回は“原点回帰”ではなく、『踊る』のスタンダードを作るというつもりで書きました」、「今回の『踊る』のテーマが、僕の中ではぼんやりと“永遠に終わらない”仕事なんです。たぶん、湾岸署の人たちは、ずっと毎日、こんなことをやっているんだろうなって」などと述べているところですが。

(注2)下記の(4)で触れる渡まち子氏も、「ファイナルでもそのゴールはほとんど見えず、正義の入り口に立っただけだ」と述べています。
 なお、一連の検察不祥事、特に大阪地検の証拠改竄事件を契機に検察組織の改革が行われていますが、内部改革の場合、結局はおざなりのもので終わってしまうのが通例ではないでしょうか。
 たとえば、石塚健司著『400万企業が哭いている―ドキュメント検察が会社を踏みつぶした日』(講談社、2012.9)を読みますと、2011年10月から東京地検特捜部で独自捜査を行ってきた「特殊・直告第一班」と「特殊・直告第二班」が統合されましたが(この記事を参照)、その直前に、旧来の手法(自分たちで練り上げたシナリオに沿って事件を作り上げる)を使った事案が訴訟にまで持ち込まれた様子がよくわかり、これでは内部でいくら組織をいじくってもたかが知れており、さらにはその組織に所属する人たちの考え方を変えない限りダメなんだなとわかります(本書全般については、この記事を参照)。

(注3)そういうところから、警察行政人事院(!)の横山・情報技術執行官(大杉漣)が登場するのでしょうが、いくら警察組織を守るのが職務とされているとはいえ、警察庁長官に対して辞表の提出を勧告できる存在とはいったい何なのかと酷く訝しく思ってしまいます。

(注4)特に、そのことで子供が殺されたとして鳥飼らが組織のあり方を告発するのは的外れではないかと思われます。
 また、そのときの容疑者の二人を、証拠不十分として無罪の判決が出て釈放されたからとして、久瀬警部らが殺してしまうのは、いくら何でも行き過ぎではないでしょうか?明白な証拠に基づいて容疑者を起訴できなかったのは警察捜査自体の不徹底さの問題であって、それを度外視して私的制裁を加えてしまうのは、いかなる意味でも許されることではないと思います。

(注5)6年前の誘拐殺人事件において殺された子供の母親が、彼の実の姉とされています。本作では、そのことが最後になって彼の口から明かされますが(当時捜査本部の置かれていた北品川署に勤務していた女性職員の証言で、彼が捜査本部に顔を出していたことも明らかになります)、彼の採用時の身元調査によって、実の姉が殺人事件関係者であることは警察の方で既に把握しているのではないでしょうか?

(注6)古傷の腰痛からでしょう(OD1において、事件の犯人の母親に包丁で腰を刺され重傷を負ってしまいます)、走りながら転んでしまいます(この場面が、予告編では銃声の後に映し出されるので、クマネズミは、青島が射殺されてジ・エンドになるのかなと思っていたほどです)。

(注7)でも、青島が慕う和久平八郎は、退職するまで一介の刑事でしたから、青島も無理に昇進することもないのかもしれませんが。

(注8)刑事課長だった袴田小野武彦)は副署長に昇進していますが、退職も間近でしょう。



★★★☆☆



象のロケット:踊る大捜査線 The Final 新たなる希望
コメント (3)   トラックバック (39)

テイク・ディス・ワルツ

2012年09月15日 | 洋画(12年)
 『テイク・ディス・ワルツ』を渋谷ル・シネマで見ました(すでに同館での上映は終了していますが)。

(1)『ブルーバレンタイン』や『マリリン』で印象深かったミシェル・ウィリアムズが出演する映画というので映画館に行ってきましたが、まあ可もなし不可もなしという感じでした。

 映画は、カナダのトロントに住む28歳のマーゴミシェル・ウィリアムズ)を巡る物語。



 彼女は、結婚して5年になる夫のルーセス・ローゲン)と幸せに暮らしていますが、毎日の同じような暮らしに倦怠感を抱きつつあり、また夫が料理本の制作に没頭していて自分のことをあまり顧みてくれなくなっていることにも寂しさを感じてきています。
 そんな時に、旅行中(注1)に偶然知り合った若いダニエルルーク・カービー)が、なんと彼女達の家の斜め前に住んでいることが分かります。



 この青年は、近くの湖に来る観光客目当てのリキシャで生活費を稼いで、残りの時間を趣味とする絵画の制作に当てています。
 最初に出会ったときからときめくものを感じていたマーゴは、次第にダニエルと会う機会が増えて、……。

 だんだんと夫からマーゴの気持ちが離れていき、小さなことからダニエルの方に心が移っていく様子がじっくりと描かれているとは思いました。
 とはいえ、なんとなく夫につまらなさを感じてきた妻が、たまたま出会った男が芸術家で、さらには自分に強い関心を持ってくれているということになると、もう結果は見えたも同然。行きつくとこまでいって、そしてやはり、……となり(注2)、あまり新鮮味を感じず、とりわけ、28歳にもなった人がこんな甘ちゃんでいいのかとも思いました。

 総じて、設定が現実からかなり浮き上がっている感じがクマネズミにはします(省略部分は、観客が想像力で補えばいいということなのかもしれませんが)。
 夫ルーは料理本を書いているとされるのですが、それだけでこうした生活(妻は勤めもせずに、時々は水中エアロビクスの教室に通ったりしています)を維持できるのでしょうか。
 また、ダニエルも、リキシャからの上がりだけで生活しているようですが、それでアトリエのある広い一軒家を持っているというのもよくわかりません(無論、その家を所有しているわけではなく借りているのでしょうが、それにしても)。
 さらには、マーゴとルーとの離婚の手続きに関しても、映画では何も触れられていません。実際には、財産分与等で相当な時間と労力が必要なはずですが、いとも簡単にマーゴはルーからダニエルに乗り換えてしまっている感じです。

 とはいえ、マーゴ役のミシェル・ウィリアムズは、ヌードのシーンが何度もあるなどなかなか頑張っています。
 また、相手役のセス・ローゲンも、『50/50 フィフティ・フィフティ』とは打って変わって生真面目な役柄ながら、自分がマーゴを深く愛していながらも上手く表現できていない様を上手く演じていると思いました。




(2)本作を見ると、前に見た『ブルーバレンタイン』のことが思い出されてしまいます。
 その作品においてミシェル・ウィリアムズが扮するシンディは、看護師であり、朝早くから夜遅くまで病院で働いている一方、夫のディーンは、ちゃらんぽらんにペンキ塗りの仕事をするだけで、普段は朝からビールを飲みながら家にいます。ただ、ディーンは、娘(シンディが結婚前に付き合っていた彼氏との子ども)との時間を多く取りたいが故にそんな生活をしているのです。とはいえ、シンディは、もう一緒にはいられないとして、ディーンに離婚を告げ、ディーンも二人から去ってしまいます。
 かなり違っているところはあるものの、『ブルーバレンタイン』は、なんだか、本作のルーと別れてダニエルと一緒になった後のマーゴの姿を見ているような感じに囚われます(『ブルーバレンタイン』のディーンはミュージシャンを目指してもいましたから、本作のダニエルと通じるところがあるようです)。

 それはともかく、下の(3)で触れる前田有一氏は、マーゴについて、「はたからみれば理想的な夫婦関係なのに本人には何か気に入らない部分があり、よりにもよってよそ様にときめきを求めてしまうのが、まさにメンヘラ気質というもの」と述べていて(注3)、彼女が精神的に問題を抱えていることを見てとっています(注4)。
 ただ、仮にそうだとしたら、どうのこうの言うよりも、まずマーゴを精神科に連れて行くことが必要なのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「冒頭、お菓子を焼きながらふとその場にしゃがみこむマーゴ。その虚脱感は、ラストにも登場し、終わりなき欠落感は、凡百のホラー映画よりよほど戦慄を覚える。本能とモラル。そのどちらにも“永遠”などあり得ない。よくある浮気話にみえて、なかなかシビアで深い映画だ」として65点をつけています。
 また、渡辺洋子氏は、日本経済新聞で、「たかが浮気とはいえ人生の大きな転機。ここには総てを変えてしまう甘美な怖さがある、と若い夫婦を成長させた女性監督は穏やかに語りかける」と述べています。
 さらに、前田有一氏は、「いまは世界中が不安定な時代である。こういうときにはそこに生きる人間も不安になるのか、最近はメンヘラ女子などという言葉まで生まれるほど、精神的に病んだ人々が増えている。「テイク・ディス・ワルツ」は、そうした気質の女の子の悩みや行動原理を、極めてリアルに描いた珍しい映画。理解するためには、現代的な感性が必要となる作品である」としながらも45点をつけています。




(注1)マーゴは、フリーランスのライターとして、ノバスコシアにある古い要塞を訪れ、そこでダニエルと出会います。その時に見たペギーズコーブの灯台が強く印象に残っていたのか、その後何度も映像が映し出されます。
 そして、マーゴがダニエルと密かにデートしていた時に、彼女が「30年後の2040年8月5日にこの灯台でデートすることを約束して」と何気なく漏らした言葉を彼が覚えていたことが、彼女がルーを捨てて彼のもとに走る大きな要因になったようです。
 こんなストーリーを見ていると、なんとなく『ハナミズキ』の灯台(こちらは、カナダのハリファックスの灯台)を思い出してしまいます。

(注2)ラストの方では、冒頭と同じようなシーンが繰り返され(誰か男の下半身が映し出されるとともに、マーゴが台所に座り込んでしまいます。冒頭のはルーであり、ラストのはダニエルなのかもしれません)、またいつぞやはダニエルと一緒に楽しく乗っていたメリーゴーランド(スクランブラーと言うそうですが)に、マーゴが独りで乗っている姿が映し出されます。
 それで、マーゴはダニエルとも別れたように受け取れます。
 ルーに飽き足らなさを感じたのは、ルーの問題というよりもマーゴ自身の問題のように思われるところ、ダニエルだっていつまでもマーゴのことをかまってばかりもいられずに自分の絵画制作に没頭する時もしばしば出てくるでしょうから、やはりダニエルにもつまらなさを感じてしまうに違いありません。
 ですから、マーゴは独りになったと思われますが、あるいは、下記の(2)で述べるようにマーゴがメンヘルだとしたら、本作の出来事はすべてスクランブラーに乗っている時のマーゴの妄想に過ぎないのでは、とも思われるところです。

(注3)メンヘラについては、例えばこの記事を参照。

(注4)ダニエルと偶然乗り合わせた飛行機の中で、マーゴは彼に、「飛行機の乗り継ぎが不安なの、たどり着けるか不安で、迷子になったら空っぽの空港で淋しく死ぬのではないかと」と言ったり、「不安なままでいるのが怖いの、どっちつかずにいること、不安定な状態が怖いの」などと言ったりします。
 そんなところから、ダニエルは、女性の背後にもう一人の女性が張り付いている姿を描いた自分の絵を見せたりしますが、ダニエルもマーゴがメンヘルであることに気がついているような感じです。



★★★☆☆



象のロケット:テイク・ディス・ワルツ
コメント   トラックバック (17)

桐島、部活やめるってよ

2012年09月12日 | 邦画(12年)
 遅ればせながら『桐島、部活やめるってよ』を新宿バルト9で見ました。

(1)物語の舞台は現代の高校(山がすぐそばにある地方の高校でしょう)、登場するのはほとんどが高校2年生ながら、まずまずの作品に仕上がっています。
 とりわけ、
イ)映画のタイトルにもなっている桐島は、女子の人気が高く〔飛びきり美人の梨紗山本美月)が、部活が終わるまで体育館の外のベンチで待っているくらいです〕、成績優秀、合わせて運動能力も抜群(バレー部のキャプテン)でありながらも、「部活をやめる」との噂が学校中を駆け巡ります。
ですが、本作には御本人の登場は最後までありません。

ロ)そんな彼を皆が酷く頼りにしているため、その噂は様々な波紋を生徒たちに引き起こします。
 例えば、梨紗は、これだけ誠意を尽くしているのにもかかわらず、自分に重大なことを何も知らせてこない桐島に腹を立ててしまいます。
 バレー部は対外試合に臨んだもののの、桐島を欠いているため負けてしまいます。副キャプテンは、桐島に代わって出場した風助が問題だとばかりに、部活で彼一人だけを特訓し続けます(注1)。

ハ)そんな生徒たちの様子が、映画で複眼的に描き出されます。
映画の最初の方では、同じ「金曜日」の出来事(「桐島が部活をやめたらしい」との情報が飛び交う)が4回も違った視点から描かれて、同じ事件も違った人物からすると違ったように見えることが観客にわかるようになっています(これは、推理物で、同じ事件について違った証言がなされる場合にも使われる方法でしょう)。

ニ)高校の映画部では、指導担当の先生から制作のストップをかけられているにもかかわらず、生徒だけでゾンビ映画を撮ろうとします(注2)。



 そして、本作では、キャプテンの涼也神木隆之介)の頭の中で出来上がっているゾンビ映画の断片が映し出されるところ、バレー部の副キャプテンの内臓がえぐり取られるなどのシーンがあったりして、なかなか興味深いものがあります(『スーパーエイト』で子供たちが制作したゾンビ映画とか、『東京公園』で挿入されるゾンビ映画などが思い起こされます)。

ホ)亜矢大後寿々花)がキャプテンを務める吹奏楽部が、ワーグナーの曲(注3)を大層うまく演奏しています。




ヘ)そんな中にも愛情のもつれのようなことも描かれます。
 映画部のキャプテン涼也は、同級のかすみ(バドミントン部:橋本愛)に思いを寄せているものの(注4)、彼女は同級の竜汰と付き合っています。
 吹奏楽部のキャプテン亜矢は、同級の宏樹(野球部→帰宅部:東出昌大)に密かに好意を寄せているのですが、彼は沙奈が好きなのです(宏樹の関心を引こうとして亜矢がサックスを吹くシーンがありますが、なんとなく『スイングガールズ』の上野樹里を思い出させます)。

 本作に出演する俳優は若く、『スープ』に出演していた橋本愛を除いて初めて見る顔ぶれですが(注5)、暫くしたら皆活躍し出すのではないでしょうか。




(2)この映画の中心人物は、映画のタイトルにもなっている「桐島」ですが、最初にも申し上げたように、彼は本作には一切登場しないのです。
 そんなところから、クマネズミは、これは、上で触れた『東京公園』のエントリで取り上げましたロラン・バルトの『表徴の帝国』に通じるところがあるのでは、と思いました。

 くどくなって恐縮ですが、もう一度引用しておきましょう。
 「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、≪いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である≫という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、……、その中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市の一切の動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、〔非現実的で〕創造的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである」。

 その際には、三浦春馬扮する主人公の光司が、バルトの言う「空虚な中心」なのかもしれないと申しあげましたが、本作の「桐島」の方がもっとその言葉に相応しいのかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「アメリカ映画では当たり前の、学校内の格差を明言したことが起爆剤となり、物語は、屋上で繰り広げられるクライマックスのカタルシスとなって昇華される。神木隆之介、橋本愛、大後寿々花など、日本映画の将来を担う若手俳優たちがリアルな高校生に扮し、部活、友情、恋愛だけでなく、秘密や嫌悪、劣等感、孤独や不安まで見事に演じきった」として80点もの高得点をつけています。




(注1)劇場用パンフレットに、風助について「2年生。リベロ。同じリベロでありキャプテンでもある桐島を慕い尊敬していた」とあるところ、Wikipediaによれば「リベロはチームキャプテン・ゲームキャプテンともに務めることはできない」とされており、一般と違って高校生の場合は認められるとも考えられますが、「桐島」が格好良くてスポーツ万能だとしたら、そもそも「リベロ」だとは考えられないのですが?

(注2)涼也は父親譲りの8ミリカメラを所持して映画を製作しようとしていますが、こんなところは、『キツツキと雨』の中で、小栗旬扮する映画監督の幸一が、役所公司扮する克彦に「どうして映画なんかやろうとしたの?」と聞かれて、「おやじがビデオカメラを買って、俺が遊びで使いだした、まあそんなとこ」と答える場面を思い出しました(涼也は、宏樹に「将来は映画監督?」と尋ねられて、「無理」と答えますが、『キツツキと雨』の幸一のようになるのも考えられないわけでもないでしょう!)。

(注3)歌劇「ローエングリン」より「エルザの大聖堂への入場」。

(注4)涼也は、中学時代にかすみと同級だったものの、高校に入ってからは疎遠にしていたところ、塚本晋也監督の『鉄男』を見た映画館でかすみと偶然に出会い、話をするようになります。
 なお、『鉄男』については、このエントリの(3)で触れています。

(注5)『スープ』には大後寿々花も出演していたようですが、印象に残りませんでした。




★★★☆☆




象のロケット:桐島、部活やめるってよ
コメント (2)   トラックバック (37)

甲州三題

2012年09月10日 | その他
(1)このほど、東京大学名誉教授・黒田日出男氏の近著『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書:2012.6)を読みましたら、京都神護寺にある肖像画「伝源頼朝像」(国宝)は、実は「足利直義像」であって(注1)、源頼朝の「真像」は、山梨県甲府市郊外の甲斐善光寺にある彫像「源頼朝像」(山梨県指定文化財)だとされていて(注2)、酷く驚きました。
 だって、あの神護寺の肖像画こそ頼朝の姿だと学校の日本史の時間で習って以来、ずっとそう思い込んでいたものですから!



 そして、甲斐善光寺は、甲府に列車で行くたびに窓から見えていたにもかかわらず(注3)、信濃の善光寺を猿真似しただけのお寺にすぎず、そんな由緒正しい宝物など置いてあるはずもないと思って、ついぞ覗いたことはありませんでしたから!



 なお、黒田氏によれば、この彫像「源頼朝像」は、元々は北条政子の命で作られ、信州善光寺に置かれていたところ、川中島の決戦の際に武田信玄が甲府に善光寺を移したのに合わせて今のところにあるとのことです(その間、お寺が火災にあったりして頭部だけが持ち出されたとされています)。

(2)文化人類学者・中沢新一氏の近著『野生の科学』(講談社:2012.8)には、「甲州アースダイバー」なる論考が掲載されており、そこでは、甲斐善光寺周辺の甲府盆地北側山麓について、実に興味深い人類学的な事柄が考察されています。

 すなわち、中沢氏が東京について行った「アースダイバー」(注4)を甲府で試みてみたというわけです。すると例えば、甲斐善光寺より少し東に行ったところにある山梨英和大学の北側山麓には、「横根積石塚古墳群という特異な古墳群」がみつかります(注5)。
 さらに、中沢氏は指摘していませんが、甲斐善光寺より西に行ったところの山裾に甲府市斎場が設けられており、さらに西奥にはいくつかの墓地が設けられています(注6)。

 まさに、「甲府の北東の山麓部」には、「「生と死の交換」にふさわしい」「母胎を連想させる地形」の埋葬地が、「真珠の首飾りのように連なって分布してい」るのです(同書P.373)。

(3)同じ中沢氏の著書の第7章「二つの深沢七郎論」のうちの「デリケートな分類」では、山梨県石和町出身の小説家でギタリストの深沢七郎が、ギターについて、なんと「スポーツでは、やっぱりギターが好きです。ゲヒンでいいですね」と語っていたことが紹介されています(P.183)。
 まるで、M・フーコーが『言葉と物』の冒頭で紹介する分類のような感じですが(注7)、中沢氏によれば、「とてもデリケートで、しかも絶対的な正確さをもって遂行された」分類の仕方のようです。
 すなわち、「ギターを演奏している人は、地面を直接に蹴り立てて走る短距離走者や、リズムをつけて地面を蹴っていく三段跳びの選手や、ボールを直接に足で受けて思ったところに正確に蹴りだすサッカー選手の身体がしていることと同じことを、指先でやっている」のであり、その上に、野球のように「上品すぎない」し、「レスリングのように乱暴でもなく」、さらには、ギターは、ピアノのように「上品すぎて、つまらない楽器」でもなく、「ヴァイオリンは弦をこすって音を出すという点では、はるかにエロチックで「ゲヒン」」ながらも、「ギターのように「はじく」楽器のほうが、出てくる音に粒子性があって、より好ましい」とのことです。

 これは、深沢氏の言葉を中沢氏が自分の言葉で解釈しているわけですが、クマネズミが細々と続けているクラシック・ギターのことなどマッタク眼中にない点は誠に遺憾ながら、ギターのさらなる大きな可能性を評しているのだと深沢氏の言を受け止めれば、まあおおむね妥当ではないかとも思えるところです。

 なお、音楽の話が出たから申し上げると、昨年公開された映画の中でクマネズミが酷く感動した映画『サウダーヂ』の主役を演じたMCの田我流がセカンドアルバム「B級映画のように2」を出していると耳にしたので、CDを買い求めて聞いてみました。



 田我流が山梨県一宮町を根拠にしているというので(注8)、地方色溢れるラップが聞けるのかと思いきや、そうした色彩はほとんどなく、専ら天下国家の問題を取り上げている歌ばかりなので期待はずれの感が否めませんが、逆に地方にいるからこそ、映画『サウダーヂ』と同じように、現下の日本の大問題を根底から見据えることもできるのかなとも思い直しました(注9)。
 そして、本アルバムにも「Saudade」という曲があり、まさに「♪MAIN通りから裏路地のシミまで 感じたいのは生きるそのリズム 笑える話 エグイ現実まで 感じたいのは生きるそのMUSIC♪」ではないでしょうか?



(注1)さらに、神護寺にある「伝平重盛像」と「伝藤原光能像」は、それぞれ足利尊氏像同義詮像とされています。なお、この議論は、元々、美術史家の米倉迪夫氏の議論(『源頼朝像―沈黙の肖像画』平凡社ライブラリー)を、絵画史料論の立場から黒田日出男氏がより全面的に展開したものです。

(注2)ただし、この点は、専ら同氏の『源頼朝の真像』(角川選書:2011.4)において展開されています。

(注3)甲斐善光寺は、身延線の「善光寺」駅から徒歩10分弱のところにありますが、甲府駅から東の方に歩けば1時間弱で行けるようです。

(注4)「アースダイバーの方法は、地形に刻み残された神話的思考の痕跡を探り当てることをとおして、東京のような都市に生きる体験に深さと重層性を取り戻そうとする試みとして出発し」たのであり(同書P.358)、「「アースダイバー」の研究があきらかにしたのは、東京のような都市にあっても、かって聖地でもあったそれらの生と死のカタラクシー(交換)の場所が、固く、乾いた洪積台地と、柔らかく、湿った沖積低地の境目に、みごとに沿う形で分布していたという事実」であり、「そうした場所は、後々の時代になっても、かっての聖地の記憶を留めて、神社や寺院や広大な墓地のつくられる場所となり、安易な開発を阻んできた」のだ(P.361)。

(注5)たとえば、この記事を参照。

(注6)甲府市斎場のすぐ下にある大泉寺には、武田信虎、信玄、勝頼の墓があります(武田信玄の墓はあちこちに伝えられているようですが)。

(注7)そこでは、これ自体がボルヘスのエッセイからの引用ですが、「シナのある百科事典」からの引用として、「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳呑み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、……」と述べられています〔『言葉と物』(渡辺一民・佐々木明訳、新潮社)P.13〕。

(注8)ちなみに、一宮町は、上記の石和町などと合併して現在は笛吹市(甲府市の東隣)となっています。

(注9)「Straight outta 138 feat.ECD」の中で、ECD(石田義則)が「♪こちら大原交差点一宮までは国道20号線でつながってる♪」と歌っていますが、今や地方は中心部分とstraightにつながっているという意識なのでしょう!



コメント

闇金ウシジマくん

2012年09月05日 | 邦画(12年)
 『闇金ウシジマくん』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)真鍋昌平氏の原作漫画の最初の方(小学館:第1集~第3集)を以前読んだことがあり(注1)、社会性があって面白く、映画もいいかもしれないと思い見に行きましたが、実際のところはその際に受けた印象とは全然違う感じの作品でした。

 映画の冒頭からタイトルクレジットが入るまでは、原作漫画のように、「闇金」の恐ろしさが描かれています。
 なにしろ、パーティーにおいて、イベント・サークルのバンプスを運営するジュン林遣都)に、1分間で一本の酒びんを飲み干したら1,000万円融資してやるなどと豪語する金回りのいいはずの投資家(FXで儲けたようです)が、突然乗り込んできたウシジマ山田孝之)にとっつかまって、直ちに借金898万円を返せと言われ、その場にいた周囲の仲間に懸命に取りすがるものの、誰にも相手にされずに連れ去られてしまうのですから(注2)。
 その際に、ジュンはウシジマから、「金は奪うか奪われるかだ、媚を売ってもらうものではない」などと釘を刺されます。

 とここまでは、冷酷・非道なウシジマが、主役として物語全体を取り仕切っているように見えます。



 ですが、続くシーンになると、バンプスのジュンや、母親や弟と暮らすミコ大島優子)が専ら登場し、ウシジマの話は一歩も二歩も下がった感じになってしまいます。

 一方で、ジュンは、自分のイベント事業を拡大しようとし、そのためには近く開催される2,000人規模のイベントを成功させる必要があると熱心に動き回ります。ですが、まだ力の足りないジュンは、チケットを売りさばくのが大変なだけでなく、会場を抑えておくために多額の前払い金を要求されたりもして、資金不足に喘いでいます。



 そこで、とうとうジュンは、ウシジマの会社に行って借金を申し込むことになるのですが、50万円の融資希望額に対し初回は10万円だけしか貸してもらえず、それも10日で5割の金利をとられる物凄い条件でした。

 他方で、ミコはジュンの知り合いでもありますが、家では、母親がパチンコにのめり込んで金を使い果たし、その日の食べ物にも困る有様(弟がいつもお腹を空かしています)。それで、母親もウシジマに借金する破目になるものの、金利すら払えず娘のミコに泣きつきます。



 ミコは、昔の友達の冬美と遭遇し、“出会いカフェ”を勧められ、一線を超えないやり方で少しずつ稼ぎ出して、それで母親の金利分の月2万円を払うようになります(注3)。
 ジュンやミコのこんな綱渡り的な生活は長続きするはずもありませんが、さてどうなるのでしょうか、……?

 こうした話に、さらに肉蝮新井浩文)という矢鱈と暴力を振るう凶暴な男(注4)が絡んでくるので、一層ウシジマは後ろに引っ込むことになってしまいます。



 なにより、映画では、ウシジマの個人的な事柄に全然触れられていない上(注5)、冷酷な面構えは分からないでもないものの、登場するたびに同じ顔つきでは仮面を被っているのと同じに見えてしまいます。
 おまけに、バンプスのジュン絡みのエピソードでは、警察に恐喝罪で捕まってしまい身動きがとれなくなってしまうのですから、活躍のしようもありません(注6)。
 こんな作り方であれば、原作漫画のウシジマが持っている強烈な雰囲気が消えてしまい、いっそのことタイトルを「イベントのジュンくん」あるいは「ミコのどん底」とでもすればいいのにと思ったことでした(注7)。

 主役のウシジマを演じる山田孝之は、確かに存在感のある立ち居振る舞いではあるものの、いつも同じ顔つきでは見ている方は飽きてしまいます(注8)。
 とはいえ、『荒川アンダーザブリッジ』で活躍した林遣都は、携帯3台に3,000件のアドレスを持っているとするバンプスのジュンにまさに適役といえ(注9)、またAKB48の大島優子も“出会いカフェ”に入り浸るミコとして随分頑張っているなと思いました。

(2)本作の大きな問題点は、闇金のウシジマのやることは、いかなる意味でも社会が到底受け入れられるものではないという点でしょう(注10)。
 だからといって、映画でそういうものを取り上げていけないわけではむろんありません。ただ、取り上げ方があるのではないでしょうか?
 例えば、バンプスのジュンは、あちこちから金を借りまくってなんとか2,000人規模のイベントを開催し成功させますが、直後にウシジマによってべらぼうな金額(1,000万円近い金額)の返済を請求されてしまいます。ですが、この金額の大部分は違法な契約によるものであり、ジュンはそんな契約を履行する必要は全くないと言えます(注11)。
 にもかかわらず、映画の描き方では、返済しないジュンの方が悪く、無法な取立てをするウシジマにあたかも理があるかのような感じになっています(注12)。

 闇金が課すトイチとかトゴといったべらぼうな金利は、公序良俗に反するものとして、訴えれば債務者は一切支払う必要のないものです。
 それでも、一方で、債務者がワラをもすがる思いでその条件を呑んで借りてしまうのは、それだけ債務者の事態が切迫しているからでしょうが、他方で、返済能力など全くないとみられるにもかかわらず闇金の方が貸してしまうのは、相手の足もとを見て、さらには相手の無知につけ込むアンフェアーな行為と考えられます。
 フェアーな関係ならば、契約を誠実に履行する必要があるでしょうが、闇金とその借り手のようなアンフェアーな関係ならば、契約の履行以前の問題といえるでしょう。

 にもかかわらず闇金が横行する背景には、とりあえず二つの問題が考えられます。
 一つは、本作のミコの母親のような、パチンコ依存症などを含めたギャンブル依存症といったものによって、返済限度を超えて多額の借金を抱え込んでしまう者(借金依存症ともいわれるようです)が多数存在することでしょう。
 こうした人たちについては、一方で闇金を規制することは当然でしょうが、他方で、依存症の治療に一層の力を注ぐことが基本的に必要なのではと思われます。

 もう一つは、法律による規制の存在です。
 2006年の貸金業法の改正によって、それまで消費者金融がよりどころとしていたグレーゾーン金利が解消され、かつ個人が融資を受けることのできる限度額が定められて、消費者金融から締め出される者が多数出てきてしまったことが背景にあるものと思われます。

 そこら辺りのことを考えるのに、こうした映画はあるいは意味を持っているのかもしれません(注13)。

(3)渡まち子氏は、「闇金そのものが違法であることに加え、暴力やエロスなど、かなりキワどい内容だが、終盤のアクションも含め、映画版らしい娯楽エンタテインメントになっている」などとして60点をつけています。



(注1)原作漫画は、平成22年度の小学館漫画賞(一般部門)に選ばれた作品で、また朝日新聞の書評欄(2010.10.24)で、ジャーナリストの佐々木俊尚氏が、同漫画について「ゼロ年代のロードサイドの心証風景を描いた作品として卓越した傑作」、「ロードサイド文化の勃興と中流基盤崩壊のリアリティーは、今後の日本社会を描いていくうえで避けては通れない。その意味でも本シリーズは記念碑的作品」と述べていたこともあって、少しだけ読みました(なお、佐々木氏が言う「ロードサイド文化」については、同氏のこの記事が参考になるでしょう)。

(注2)ただ、このエピソードは、ウシジマの存在を観客に印象付けるために、映画のために作られたもののように思われます。
 というのも、この投資家は、ジュンに1,000万円融資してやるというくらいですから、銀行口座などに多額の資金を持っていると見られ、ウシジマからの借金も、こんな夜中でなく昼間であれば耳をそろえて返済できるものと思われるからです(元々、そんな投資家に大きな資金を融通するのが闇金の本来の姿でもないように思われますし)。

(注3)利息分の取り立てに来たウシジマに対して、ミコは「なんで私が払わなくてはいけないの」と言うと、ウシジマは「親子だからだ」と簡単に言い返します。ウシジマは、こうしたごく小口の借金の取り立てに姿を見せるようです。

(注4)バンプスのジュンの手元に金があるのが分かると、肉蝮は、ジュンから100万円単位の大金を何度でもむしり取ろうと、半端でない凶暴性を発揮します。
 新井浩文は、『ヘルタースケルター』のオカマの錦ちゃんとは180度違ったこんな役を見事に演じています。

(注5)原作漫画では、ウシジマは、住んでいるマンションでウサギを何匹も飼っていたりしますし(第1集P.50)、背後に「相当の資産家」の占い師がいて、その「金主」から「月15%で借りて」いるとされています(第1集P.65)。また、彼の背後に、若琥会若琥一家二代目猪背組という暴力団が控えているようです。

(注6)尤も、金融業はあくまでも裏方であって、表だって活動するのは資金を借りて投資をする方ですから、元々ウシジマが活躍することなどあまり期待できないのでしょうが。

(注7)映画を見終わった後に、『公式映画原作本 闇金ウシジマくん 出会いカフェくん&ギャル汚くん』(小学館)を読んだところ、映画のストーリーは原作漫画とほぼ同一なことが分かりました(同書には、原作漫画の第4集、第5集及び第13集が収録されています)。
 とすると、映画について指摘したことは原作漫画自体の問題点といえるかも知れません。

(注8)劇場用パンフレットのProduction Notesには、TVドラマに関するものながら(映画の場合にもあてはまるでしょう)、山田孝之は「丑嶋のたたずまいをパーフェクトに再現した。短髪に髭とピアス、メタルフレームの眼鏡といったビジュアルはもちろん、喜怒哀楽を見せない表情の下に隠されたさっきと緊迫感を、そのギラつく眼光のうちに見事に表現して見せた」とありますが。

(注9)とはいえ、ラストの方で樹海の木に縛り付けられて取り残されるジュンは、原作漫画のように全裸でなければ画竜点睛を欠くというものです。

(注10)この点で、『闇金ウシジマくん』は、消費者金融(マチ金)を扱っている青木雄二氏の『ナニワ金融道』と違っているものと思います。
 なお、この記事も両者の違いを論じていて興味深いものがあります。

(注11)ジュンは、ウシジマとその仲間に取り囲まれて強制的に車で樹海に拉致され、その中の木に縛られて放置されてしまいますが、ウシジマ以下は明らかに殺人罪を犯していると考えられます。

(注12)ジュンの3,000件のアドレスの中に親身になってくれる友人が一人もいないという現実が明かされて、いかにジュンが駄目な人間なのかが強調されたりします。
 おまけに、ウシジマは、わけのわからない凶暴な肉蝮を投げ倒したり、あるいはミコにさらに金を貸し込もうとする部下をたしなめたりするものですから、なんだか正義派(約束した契約の履行を迫るだけの)のように見えてしまいます。

(注13)そして、そこら辺りのことを考える際に、ごく最近刊行された広島経済大学教授・増原義剛氏の『「弱者」はなぜ救われないのか―貸金業法改正に見る政治の失敗―』(きんざい、2012.9.3)は格好の著書と思います。
 本書は、2006年の貸金業法改正によって、「当時の消費者金融利用者1200万人のうち、緊急の場合の生活資金などに小口で借りてはきちんと返済していたとされる約500万人の健全な利用者の多くが行き場を失った」とみられることや(同書P.112では、健全な利用者は「1,000万人」とされています)、「「年収の3分の1」を超える貸し付けを禁じた「総量規制」により、多くの人たちにとって緊急時の借り先が失われ」、「この行き場を失った人たちの多くがヤミ金などに流れはじめている」と指摘されていること、すなわち、「下流で歯を食いしばって懸命に生きてきた人たちが、さらなる下流、最下流に転落していくきっかけを、新たな「規制」が生み出し」ていること(P.43)、こういったことを背景にして、当時、法律の改正作業に直接携わった著者が、誤った法改正をしてしまった事情等を明らかにして、かつ改善すべき方向性を示しているものです。




★★☆☆☆



コメント   トラックバック (11)