映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

マーガレット・サッチャー

2012年03月31日 | 洋画(12年)
 『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)クマネズミは、元来、伝記物は嫌いですが(取り上げる人物を美化するだけに終わってしまいますから)、この作品は、長年見続けてきているメリル・ストリープ(注1)がアカデミー賞主演女優賞(3回目!)を受けたということで、彼女を見ようと足を運んだ次第です。
 そうしたところ、この作品における彼女の目を見張る演技には驚いてしまい、深く感動いたしました。
 メリル・ストリープは現在62歳ですから、その25歳くらい上の老婦人のメイクをし、かつ演じるわけですが、とても演じているのが彼女とは思えないほど真に迫っているように思われました〔といって、その姿には何とも言えない気品が漂っていて、クマネズミの大嫌いな「ソックリさん」に堕していないのはさすがです(注2)〕。




 さらに、本作は、通常の伝記物のように、幼少期から努力を重ね、遂には首相に上り詰め、そして引退する、といった成功譚を描く構成にはなっておりません。もちろん、数々のエピソードは描き出されはするものの通り一遍であり(注3)、終始、83歳の現在の時点にたちつつ、年老いて半ば認知症になっている女性(最近のことは忘れてしまっていても、過去のことは明瞭に覚えているようなのです)の視点から過去を振り返ります。

 その際、すでに9年ほど前に亡くなった夫のデニスジム・ブロードベント)が幻覚となって彼女の周囲に出現し、彼女に話しかけます(注4)。



 象徴的なのは本作の冒頭のシーンでしょう。警護の眼が離れている隙に、老いたマーガレット・サッチャーは、独りで外出してスーパーで牛乳を買ってくるのですが、戻ってきて夫と朝食を取ります。デニスがパンにバターを塗ると「too much butter」と注意しつつ、「今日は、牛乳が49ペンスと高かった」と報告するのです。そして、彼女が「節約しなくては」と言うと、夫は「車を売るとか、下宿人を置くとか」と答えますが、部屋の外で声がしてマーガレットがそちらの方に気を取られると、その隙に夫は消えてしまいます(注5)。

 あるいは、こんなシーンがあります。
 デニスの声がマーガレットに絶えず聞こえてくるものですから、ある時彼女は、家に置かれている音の出る器具のスイッチを全部入れ、なおかつそのボリュームを酷く上げてしまいます。こうすることでデニスの声が聞こえなくなると、マーガレットは、「私は正常」と呟きます。

 そして、ラスト近くのシーンでマーガレットは、デニスの靴や服を黒いビニール袋にすべて放り込み、さらにトランクにも服などを入れて、「あなたのトランクに全部詰めたわ」と言うと、デニスはそのトランクを持ってドアから出て行ってしまいます。それを見たマーガレットは、慌てて「行かないで、私を独りぼっちにしないで」と懇願しますが、デニスは「大丈夫だよ、君は一人で生きていける」と言いつつ消え去ってしまいます(注6)。

 要するに、登場人物や舞台となる家などの雰囲気は頗るリアルなタッチで描かれているのですが、構成は随分とファンタジック〔和製英語のようです(注7)〕なものとなっているわけです(注8)。
 さらに、マーガレットには双子の子供がいて、娘キャロルは彼女の家によくやってきますが(注9)、頼りにしていた息子マイクの方は一家で南アフリカにいて、顔を出すことがありません。夫に死なれ息子にも見放された一人の老婦人の孤独な姿が執拗に描き出され、これではトテモ伝記物とはいえないのではと思いました。

 本作は、マーガレット・サッチャーという超有名人の場を借りつつも(普通人を取り上げても物語になりませんから!)、現役から引退してかなりの日時が経過した人間が迎える有様(注10)をリアルかつファンタジックに描き出していて、クマネズミは、なかなか興味深く見終えることができました(注11)。

 なお、本作の邦題は「鉄の女の涙」との副題が付いているところ(注12)、そしてデニスがトランクを手に提げて出て行ってしまうと、マーガレットの目から涙が流れ落ちますが、それはあの「鉄の女」と言われたサッチャー首相も家に戻れば普通の女だったという意味でのご大層な“涙”ではなく、単に夫ともう会えなくなってしまうことの寂しさからくる遺された妻の普通の“涙”ではないでしょうか?というのも、このときマーガレットは、首相を退いてから20年以上経過しているのですから。

(2)本作は、フーバーFBI長官を描いたクリント・イーストウッド監督の『J・エドガー』に類似しているといえるかもしれません。そこでも、フーバーFBI長官の事績を描くというよりもむしろ、その人間関係の方に焦点をあてているように思われましたし、それに、老齢のJ・エドガーが自叙伝を口述筆記させている時点から過去を振り返るという構成になっていましたから(注13)。
 さらに、晩年になると、J・エドガーは、周囲の批判をものともせずに、従来の手法(政府要人の盗聴)に固執したところ、サッチャー首相も、与党内の根強い反対にもかかわらず人頭税などの政策遂行に邁進したがために辞任を余儀なくされます。

 こうした映画の構成になっていることや、特にそれぞれの事績について映画で新しい解釈が提示されていないのも、もしかしたら、どちらも原作なしにいきなり脚本家が脚本を書き、それに従って映画が製作されているからではないかと思われます。

 でも、『J・エドガー』では、エドガーを演じているディカプリオ(37歳)が前面に出てしまっている感じで、本作のように、メリル・ストリープが老いたマーガレットの後ろに隠れてしまうのとはレベルが違っている感じがしました(それは、二人の俳優としての年季とか力量の違いによるのかもしれません)(注14)。

 なお、『J・エドガー』によれば、副長官のクライドが最後まで付き従っていたものの、J・エドガーは最後まで結婚しませんでした。本作におけるマーガレットも、結婚して子供はいましたが、愛する夫デニスに5年前に先立たれていますし、頼りにしていた息子は南アフリカに行ってしまいます。両作の主人公とも、家族の愛情という点では、寂しいものがあったといえるかもしれません。

(3)渡まち子氏は、「英国の経済を立て直しながら、格差社会を作った張本人。むしろ否定的なイメージが先行するサッチャーの政治的な立ち位置は、いずれ歴史が判断するだろうが、あらゆる困難に立ち向かった一人の女性の凛とした姿は、観る人すべての心に深く刻まれる」として70点をつけています。
 他方、前田有一氏は、「すでに認知症になって表舞台に姿を見せない1人の女性に対し、その弱さを強調した物語化は、見ていていたたまれないものがあるし、個人的にはもっと政治家としての凄みを見たかった気がする」として45点しかつけていません。

 なお、テーラー章子氏は、「鉄の女と呼ばれた元英国首相マーガレット・サッチャーをメリル・ストリープが演じた。声、発音、イントネーション、スピーチ、顔つき、歩き方やしぐさまで、全くそっくりで本人と見分けがつかない。これで、今年のアカデミー主演女優賞は決まりだ。ストリープが受賞するに違いない」として80点を付けています。
 しかしながら、その映画評の大半を映画ではなくてサッチャー首相批判(そこから大きく現状批判まで発展します)に充てています。
 例えば、サッチャーのような「保守派政治家が政権を取ると、いかに権力者、資本家、経営者が肥え太り、庶民が窮民に陥るかを絵に描いたように明確に見せてくれた首相は他に居ない」→「自由な市場に任せておけばすべての経済活動は解決するとし、「生産性に応じて報酬がもたらされる」と考える新自由主義は、2008年リーマン・ブラザーズの経営破綻が金融システム全体を崩壊させたように、理論的にも現実的にも破綻している」→「八方塞りの経済情勢のなかで、いまになって、やっぱりマーガレット・サッチャーが良かったみたいな、彼女のような強い指導力が再評価される流れが出てくるとしたら、それは間違いだ。彼女の時代を懐かしがるのは、余裕のある金融企業家や資本家だけで良い」などなど。
 マア、映画を見て思い浮かんだことなら何を書いてもかまわないものの、こうした極めて政治色の強いプロパガンダめいた文章をこんな場で長々と書き記すことには問題があるのではと思われます。
 それに、こうした日本でいえばいわゆる“小泉改革”批判は、現在マスコミや論断で一世風靡している感じですが、そんな右へ倣えの考え方をもってしては、到底現状の「八方塞りの経済情勢」を打破することが出来そうにもないことも明らかではないでしょうか?




(注1)最近では、『恋するベーカリー』、『ジュリー&ジュリア』、『ダウト』を見ています。

(注2)サッチャー首相とダンスをするレーガン大統領が登場しますが、短い時間でよかったと思います。

(注3)この点については、下記(3)で触れる前田有一氏が言うように、「イギリスの長い歴史の中で、サッチャー首相の統治時代は、稀に見るほど波乱万丈であった」のは確かでしょう。
 例えば、フォークランド紛争(1982年)、IRAによる爆弾テロに遭遇(1984年)、ビッグバン(1986年)などなど。
 とはいえ、これらの事柄に少しでも入り込もうとすれば、それぞれが一つの映画作品(まずは大部の研究書でしょうか)になってもおかしくないくらいの出来事ですから、全体を見通す際には本作のように通り一遍片のものとなっても、それはそれで仕方のないところでしょう。

(注4)幽霊のように出現する夫デニスですが、マーガレット以外には誰も見えないのですから、彼女の幻覚ではないかと思われます。たとえば、こうしたサイトの記事を見ると、認知症に幻覚が伴う場合がかなり見られるようです(ただ、劇場用パンフレット掲載のフィリダ・ロイド監督インタビュー記事では、「亡霊」とされていますが)。

(注5)マーガレットが一人で外出したのを見逃したことを警護の警察官同士で咎め立てしている声のようです(また、「薬で、1時間ほど頭がスッキリするんだ」などと言ったりもています)。

(注6)これでマーガレットの病気が治るわけでもなく(だいたい、デニスは靴を履いていないのです!)、その日のスケジュール(彼女の肖像画の除幕式)などすっかり忘れて、別の部屋に入っていきます(バッハの平均律曲集第1番が流れておしまいとなります)。

(注7)この点については、例えば、このサイトの記事を参照。

(注8)劇場用パンフレット掲載のフィリダ・ロイド監督インタビュー記事では、「これは純粋に想像の産物です」と述べられています。

(注9)キャロル・サッチャーは、母親の行動について、こまごまとした注意をするものですから、マーガレットは嫌がっているようです。
 冒頭シーンのあと、キャロルは「今日、外に出たの?一人で外に出ないでと言ったでしょ!」というと、マーガレットは、「牛乳を買うことぐらい出来る!あなたはいつもガミガミ言うだけ。他にやることないの?私はそんなことは言わなかった」と応じます。
 また、キャロルは、マーガレットがスグに忘れてしまう現在の状況について、「マークは南アフリカよ、ママももう首相じゃない、そしてパパも亡くなった!」と言いますが、マーガレットは呆然としながらも、「あなたは疲れた顔をしている、もっとよく寝なくては」と答えます。

(注10)劇場用パンフレット掲載のフィリダ・ロイド監督インタビュー記事では、「キャリアが終わって用済みにされ、老いに直面する私たちみんなの話でもある」と述べられています。

(注11)劇場用パンフレット掲載のフィリダ・ロイド監督インタビュー記事では、「これが政治映画でないことはすぐにわかりました」と述べられていて、おそらくこの点が、映画におかまいなく自分の政治論を語ってしまうテーラー章子氏とは違って控えめ(?!)な下記(3)で触れる前田有一氏には不満だったのでしょう(大いに政治論を披歴すべく、手ぐすねひいて待ち構えていたに違いありません!)。

(注12)原題は『The Iron Lady』。

(注13)フーバー長官が亡くなったのは77歳で、本作のサッチャーが83歳とすれば、両者に5歳ほどの差があるものの、ほぼ同年齢のところから過去を振り返っているといえると思われます。

(注14)ディカプリオとストリープとは25歳ほどの開きがあります。




★★★★☆




象のロケット:マーガレット・サッチャー

ポエトリー

2012年03月28日 | 洋画(12年)
 『ポエトリー アグネスの詩(うた)』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)久し振りで韓国映画でも見ようかということで、映画館に行ってみました。
 見てみると、ドギツさが売り物のいわゆる韓流映画とはまるで違う、実に落ち着いた素晴らしい出来栄えの文芸作品でした。
 なにしろ、主役ミジャは60代の女性(演じる女優ユン・ジョンヒも67歳!)、日本のカルチャーセンターに相当する「文化院」に行って、「詩」に関する講座を受け、自分でそれまでやったことがない詩作をしてみようという話なのです(注1)。



 そのうえ、右腕がビリビリ痺れるからと出向いた病院で、診察の際に基本的な単語(注2)が出てこないことが何度もあるため、精密検査を受けたところ、アルツハイマーの初期症状だと診断されてしまいます。
 他方で、彼女は、介護士として老人の世話をしていますが、収入はかなり少なく、そのうえ釜山で働く娘の子供(中学3年生)を預かってもいます。



 そうしたところに、その孫が仲間の5人と一緒に、ある女子生徒・アグネス(注3)に性的暴行を加えていて(注4)、その女子生徒は自殺してしまうという事件が持ち上がります(注5)。
 他の5人の男子生徒の保護者達は、学校同様、この事件を穏便に済まそうとして、被害者の遺族と示談しようとします。
 ところが、主人公ミジャには、もとよりそんな示談金(注6)など支払う余裕はありません。
 いったい彼女はどうするのでしょうか?
 また、彼女の詩作はどういう結果となるのでしょうか?

 本作の主人公ミジャは、なかなかユニークで可愛らしい性格を持つ女性として描かれています。
 一方では、カルチャーセンターに行って真面目に「詩作」を勉強するかと思えば、他方では随分と派手な服装をして、カラオケ屋で一人カラオケをしたり、かつまた孫と家の前でバドミントンに興じたりするのです。
 さらには、アグネスの母親に会って示談に応じてくれるよう独りで頼みに行くのですが、途中で出会った女性と田園風景の素晴らしさなどを楽しく語ってしまい(注7)、実際には母親に会わずに帰ってきてしまいます。ですが、その時に出会った女性が、マサニ会うべき母親であることがあとでわかったりしてドギマギしてしまいます。
 こんな主人公を演じるのがユン・ジョンヒ。実に16年ぶりの映画出演とのことですが、ブランクを全く感じさせないほどの演技力でミジャになりきっているように見えました。

(2)ただ、本作でよくわからないことの一つは、結局は示談がアグネスの遺族との間に成立したように見えるものの(注8)、ラストの方では、主人公の孫は警察に連行され、それを見ても主人公は何も言わないことでしょうか。
 示談が成立したとしたら、相手の親は警察に訴え出ないでしょうし、仮にそれが原因で女子生徒が自殺したとしても、そんなに簡単に警察は連行できないのではと思われるところです(彼女の自殺と性的暴行を受けたこととの直接的な繋がりの証明が難しいのではないでしょうか)。
 とはいえ、日本でも、集団強姦の場合は非親告罪とされますから(wikipediaによります)、韓国でもあるいはそうなのかもしれません。そして、本作の場合は、このまま示談が成立して事件がうやむやのうちに葬られてしまえば、孫のその後に大きな禍根を残すのではないかと考えたミジャが(注9)、知り合いのパク刑事(注10)にどのようにすべきか相談するなかで事情を話したのかもしれません(仮にそうだとしたら、示談金の割り当て分を支払った上でのことになりますから、ミジャの気概を示しているのでしょう)。それで、あとのことは自分らに任せて、ということで警察は孫を連行したとも考えられるところです。

(3)この映画でもう一つ問題となるのは、日本でも俳句や短歌を作る場合によく言われるように(注11)、ありのままをありのままに表現しなさい、という詩作の極意のようなことが、カルチャーセンターの講師によって何度も言われることかもしれません。主人公は、それを文字通りに受けとめて林檎を見たりするのですが(注12)、当然のことながら詩などできるはずもありません。
 さらには、「いつになったら詩が浮かんでくるのか?」というミジャの質問に、講師が、「皆、自分の中に詩を持っている」とか、「自分から求めなくてはならない。そのためには歩き回って探すことも必要。でも、遠くではなく近いところにあるはず」などと答えるために、ミジャは家の周りの木々を見上げたり花を眺めたりしますが、何も感じないようです。



 また、主人公は、詩の朗読会にも顔を出して「詩」とは何かをつかもうとしますが(上記のパク刑事はそんな朗読会の常連で、いつも卑猥な話をして聴衆を笑わせます)、はかばかしい成果は得られない感じです(注13)。

 このあたりのことは、あるいは、谷川俊太郎氏がいう「詩作品」と「詩情」との違いからくることかもしれません。
 谷川氏は最近のエッセイ(注14)の中で、「詩作品は時代によって言語によってその形は多種多様」だが(日本の場合は、「自由詩、短歌、俳句、歌詞など」)、「形になっていない詩情というものは、いたるところにひそんでいる」と述べています。さらに、「詩作品は変化しますが、詩情は変化しない」とも、「詩情というこのとらえ難いものが太古から人に、喜怒哀楽とはまた違った深い感情を与えてきた」とも述べています。
 とすれば、本作におけるカルチャーセンターの講師が、「詩作品」と「詩情」という二つの意味を合わせ持つ「詩」という一つの言葉を使って説明するがために、生徒にとって理解が困難になっているのではないでしょうか?
 ミジャの場合も、暫くすれば、林檎や木々などを見て何らかの「詩情」は湧くようになるでしょうが、それを「詩作品」にまで昇華させることがなかなか難しいということなのかもしれません(「詩情」は感情に基づきますが、「詩作品」を作成するのは知的で技術的な作業によるものでしょうし。ただそうはいっても、例えば「自由詩」とはいったい何でしょうか、どんな定義が与えられるでしょうか?)。

 それはともかくとして、カルチャーセンターの講義の最終日に、詩を講師に提出できたのはミジャ一人。ですが彼女は、自分の詩『アグネスの詩(うた)』と花を講師の机の上に置いたまま、皆の前から姿を眩ましてしまいます(注15)。
 ミジャは、アグネスの家を訪れたとき、農家の壁に彼女の写真が何枚も貼られているのを見て感銘を受け、それ以来アグネスのことに真剣に向かい合い、そうすることで詩が作れるようになったのでしょう(注16)。でも彼女は、その詩を一つ作れば自分の役割は終わったと思えて、アルツハイマーも進行していることもあり、自ら姿を掻き消したのではないかと考えられます。

(4)渡まち子氏は、「一篇の詩に辿り着くまでの美しく残酷な魂の旅を描く」作品で、「最小限に抑えられた感情表現に深い陰影を見る」として75点をつけています。




(注1)ミジャにすれば、小学3年生の時、秋の詩大会に向けて作った詩を見て、先生が「将来は詩人になるだろう」と言ったことが、一つの拠り所となっているようです。

(注2)「電気」とか「石鹸」、「財布」、「ターミナル」などといった基本的な単語を、ミジャは忘れてしまっています。

(注3)自殺した女子生徒の実際の名前はヒジンで、アグネスは洗礼名。
なお、父親はバイクの交通事故で以前に死亡していて、農業を営む母と二人で暮らしていたとのこと。

(注4)アグネスが付けていた日記にそのことが記載されており、それを読んだ親が学校に通報、学校側も生徒を質して確認したとのこと。

(注5)映画の冒頭では、近くの大きな川にその遺体らしきものが静かに流れて行く光景が映し出され、ミジャが診察を受けた病院のシーンでは、彼女が診察を終えて玄関の外に出てくると、女子生徒の遺体を運んだ救急車が到着したばかり、母親が大声をあげて泣き叫ぶ姿を訝しそうに眺めているミジャが映し出されます。さらに、ヘルパー先の「会長」の娘に、その時の様子をミジャが話したりもしています(娘は煩がって取り合おうとはしませんが)。
 これらはどれも、アグネスの死にミジャの孫が関係しているのが判明する前のことながら、何度も、それでいて実にさりげなくアグネスの死の意味を観客に伝えていて、監督の手法に感心するばかりです。

(注6)交渉でまとまったのは、3,000万ウォン(現在のレートで大体200万円くらいですから、6人の保護者が均等に負担するとしたら、1人当たり約30万円でしょうか)。

(注7)ミジャが、「道に落ちていたアンズを拾って食べた」と言うと、その女性は、「木になっているアンズは渋いが、落ちているアンズは美味しい」と応じ、また今年の収穫具合を尋ねると、「まあまあ。でも方策だと値が落ちるし、凶作だと生活が苦しいから大変」と答えます。

(注8)ミジャは、一度は断ったヘルパー先の「会長」の性的な要求に応じることで現金を得て、示談金の割り当て分の500万ウォンを支払います。

(注9)アグネスの追悼をしている教会に出向いたミジャが、そこに飾られていたアグネスの写真を家に持ってきて孫に見せますが何の反応もなく、孫は、相変わらず仲間と一緒になってゲームセンターでゲームにうつつを抜かしています。

(注10)ソウルで勤務していたときに内部の不正告発をして地方に追われたとのこと。

(注11)たとえば、ホトトギス派の「客観写生」やアララギ派の「写実」など。

(注12)カルチャーセンターの講師が、「あなたたちは林檎を見たことがない」と述べたことから、ミジャは、家に帰って台所で林檎を見つめるものの何も浮かばず、最後には、「リンゴは見るよりも、皮を剥いて食べる方がいい」など呟く始末です。

(注13)朗読された詩が素晴らしかったことから、ミジャは作者の女性に詩作の極意を尋ねますが、彼女も「大事なことは感じることだ」と言うばかりです。
 また、朗読会後の懇親会でのことですが、丁度現役詩人を伴って顔を見せたカルチャーセンターの講師に、「心に詩を閉じ込めておいて、それを自由に飛び立たせればいい、と先生は言ったが、なかなか難しい」とミジャが言うと、「詩は死んだ」と叫んだりする現役詩人は、「そんなことを話しているのか」と講師に苦言を呈したりします。

(注14)雑誌『図書』(2012年3月号、岩波書店)の巻頭エッセイ「詩の未来」。
 なお、谷川氏のエッセイは、「デジタル化された情報言語過剰な時代に、究極のアナログ言語である詩作品の生き残りは難しくなってきています」との文で結ばれています。

(注15)映画は、『アグネスの詩(うた)』が朗読される中、アグネスが飛び込んだ橋が映し出され、さらには笑顔のアグネスまでもが画面に大写しになり、ラストは、冒頭と同じ大きな川が流れる光景となってオシマイ。
〔この『アグネスの詩(うた)』の訳文は劇場用パンフレットに掲載されているのかなと思いきや、当てが外れてしまいました。なお、このサイトでは機械翻訳による訳文が掲載されています。あるいは香りだけでも味わえるかもしれません〕 

(注16)本文で申し上げたことに即して愚問を呈せば、ミジャはいったいいつの間に「詩作品」を作成する技術を習得したのでしょうか?一番のやり方は、これまでの詩作品をできるだけたくさん読むことと思われますが、ミジャの場合、朗読会で他の人の詩作品に触れるくらいのように見えます。



★★★★☆



象のロケット:ポエトリー アグネスの詩

セイジ 陸の魚

2012年03月26日 | 邦画(12年)
 『セイジ-陸の魚-』を新宿テアトルシネマで見ました。

(1)この映画は、西島秀俊森山未來という旬の俳優が出演し、さらにTVドラマ『白洲次郎』の主役を圧倒的な演技力で演じた伊勢谷友介が監督だというので、見に行ってきました。

 物語は、“” (二階堂智)が昔のある出来事を思い出すという形をとって描かれます。すなわち、20年前の鮮烈な思い出がある場所に“僕”が出かけていき、そのままその当時の“”(森山未來)に入れ替わります(注1)。
 当時、就職が内定した“僕”は、あちこち自転車旅行をしていましたが、あるところ(注2)で車と接触し自転車が壊れてしまい、仕方がないので、事故を引き起こした車に乗って、とある湖のそばに建つドライブイン「House475」に行きます。
 自転車が壊れたせいもあって、なんとなくドライブインに逗留しているうちに、そこの仕事を手伝う破目に。
 店内には、4人ほどの常連客がいつもたむろし〔接触した車を運転する男カズオ新井浩文)もその内の一人〕(注3)、さらには、雇われ店主としてセイジ西島秀俊)という青年がいて、翔子裕木奈江)がオーナーであることも分かってきます。
 ただ、セイジという青年がどのような経歴を持つのか、翔子とはどんな関係なのか、などはっきりしないまま映画は進行していきます。
 そうしたところ、突然、悲劇が!セイジが普段から優しいまなざしを向けていた幼いりつ子の両親が何者かに鉈で惨殺され、りつ子も片腕を失ってしまうのです〔りつ子は、その後祖父(津川雅彦)のもとで暮らしますが、周囲の出来事に対して完全に無反応となります〕。

 この事件を契機に、「House475」に係わる人達のそれまでの関係が微妙に変化していきます。そして、りつ子はどうなるのでしょうか、セイジの果たした役割は、20年後にその場所を訪れた“僕”は何を目にするのでしょうか、……?

 奥日光のダム湖の側を舞台とする利点を生かして、色々な自然の中に人物を配して描くとともに、そうした状況だからこそ起きたかもしれない惨劇を巡る様々な人達の動きを映し出して、なかなか興味深い作品だなと思いました。

 西島秀俊は、『真木栗ノ穴』(このエントリの(2)で触れています)や『休暇』の演技が印象的でしたが、本作においても、内に秘めたものを強烈に持っていながら寡黙な男という難しい役に実にピッタリという感じでした。



 森山未來は、注目された『モテキ』とは打って変わって、本作では狂言回しの役柄であり、それも就職先が内定した大学生なのですが、社会人直前のなんとなく重圧を感じているモッサリした青年を巧みに演じているなと思いました。



 驚いたのは裕木奈江の出演です。もう芸能界から引退してしまったのかなと思っていたところ、こんなところで見ることになるとはと思いました(注4)。でも、女優としてシッカリとした演技をしていると思います。




(2)種々の分野で才能を発揮しているマルチタレントの伊勢谷友介の監督作品(脚本にも参加)ですから、すでに映し出している映像を思いもよらないところで再度映し出したりするなど、決して一筋縄ではいかない描き方がされています。

 さらに興味深いのは、原作(注5)との相違点でしょう。
 例えば、原作では“僕”の描き方は映画よりも曖昧で、「House475」に遭遇するのも、単に自転車旅行で疲れ果てたところに、「ぽつんと、と佇むように建っていた」ドライブインが目に入ってきただけのことで、映画のような衝突事故など起きません(注6)。
 その事故を引き起こしたカズオについては、原作では「ぴかぴかに磨き込まれた左ハンドルの真っ赤なセダン」を運転する男とされますが(P.20)、映画では酒屋の業務用の車を乗り回している男に過ぎません(注7)。
 その他にも、映画におけるセイジは、「幼い妹がいた」とか(注8)、さらには「親を殺して少年院に入っていて、その最中にその妹はひとりぼっちで死んだ」、などといった話を“僕”に話しますが、それらの事柄は原作では見当たりません。
 ただ、こうした相違点は、小説と映画の違いから来るのではとも言えて、映画ではリアルな雰囲気を出すために、小説の読者の想像に任せていた点を、色々とあからさまにする必要があるのでしょう(登場人物のとる行動の動機を説明しておくことも、ある程度必要でしょうし)。

 とはいえ、どうして二階堂智の“僕”が「House475」に行こうと思ったかという出発点については少し検討する必要がありそうです。
 原作では、「十年前」の「忘れがたい奇蹟の物語」を語るというだけで特段の事は何も起こりませんが(P.10)、映画の冒頭では、「忘れていたあの男から企画書が届いたから」と語られています。それも、「20年も昔の話だ」と言って物語られるのです。
 ここには3つほど注目される点があると思われます。

イ)映画では20年前(1990年夏)の忘れてしまった話とされていますが、原作では10年前の忘れがたい思い出とされる点です。原作では、事件当時10歳くらいだったりつ子(「小学三年生」)が、今では短大を出て幼稚園で働いているということに繋がってきます。
 他方、映画では、最後に“僕”が問題の湖の桟橋で、20年振りにりつ子と話す姿が描かれますが、現在何をしているのかは曖昧にされています(注9)。

ロ)原作では、この話を「“奇蹟”の物語」とし「“奇跡”の物語」とは書かれていませんが、他方映画ではもともと「きせき」という言葉は使われていなかったように思われます。
 さらに、原作のラストの方では、りつ子はミッション系の短大に行き、今働いている幼稚園もキリスト教関係とされています(P.127)。
 そして、なによりも、原作では、「……だって、私、神様を目の前で見たんだもの」と、幼稚園を探し当てて会いに来た“僕”に対して、りつ子は呟くのです。
 こんなところから、原作小説は、大きくは「神」を巡る物語と解釈出来るように思われます。

 他方、映画にあっては、りつ子は湖畔で“僕”に呟くものの、「私の神様は私の心の中で生きています」などと言うのであって、「神の奇蹟」(“神を見た”)という視点は排除されているように思われます。

ハ)そして、映画でいわれる「企画書」です。
 もとより、原作にはそんなものは見当たりません。としたら、特に「忘れていたあの男」(→セイジでしょう)からのものとすれば、それはいったい何だろうかということになるでしょう。

(3)元々、監督の伊勢谷友介については、印象的なTVドラマ『白州次郎』(2009年)もさることながら、その前に開催された「NO MAN'S LAND」展に作品を展示していることでも関心を持っていました(注10)。

 その彼がこのところ取り組んでいるのが「リバース・プロジェクト」。そして、そのサイトでは、この「No Man’s Land」展だけでなく、本作も取り上げられているのです。
 ただ、「No Man’s Land」展に関しては、若干ながら「様々な廃材で家具を作」るというプロジェクトとの関わりが記載されているところ、本作についてはそうしたものが見当たりません。
 そこで、このサイトに掲載されている彼のインタビュー記事をも拠り所にしながら、少々検討してみましょう。
 まず、同記事においては、「人間の生活によって本来の姿から変わり果てた地球と社会の環境を見つめ直し、未来の人類の生活を新たなビジネスモデルとともに創造する」のが「リバース・プロジェクト」とされ、伊勢谷監督は、「僕が持っているテーマは、リバースプロジェクトでの活動をふくめて“人類が地球に生き残る”ということ」だと述べています。
 更に、同監督は、「いま地球では、人間が生きていくうえでの一番の敵が僕たち自身になってしまっているんです。それに気づかないまま、この環境をなんとなく続けていくことは、人類を絶望たらしめることになる。だけど、この状況をあきらめずに行動することが、僕自身の正義です」と述べています。

 こうした見解は、本作において動物愛護団体の女性が、有害動物駆除反対の署名を求めたのに対して、セイジが、「人間が多すぎるのだ、本気でこのままじゃ駄目だというのなら、さっさと首を吊って人間を一人減らせばいいんだ」などと反撃するところに通じているのではと思えます(注11)。

 ここから更に飛躍すると、りつ子を“再生”させるためにセイジが取った驚くべき行動も、そうした考え方の延長としても見ることが出来るのかもしれません(注12)。

 こうしてみると、二階堂智の“僕”がセイジから渡された企画書とは、もしかしたら映画の企画書であって、それによって作られたものが本作であり、さらにいえば“僕”≒伊勢谷友介ということではないでしょうか(注13)?





(注1)殆ど類似したところのない2人の俳優が20年前と今とを演じるというのは、観客してはなかなか馴染めませんが、そんなことを言い立てても仕方がないでしょう。

(注2)劇場用パンフレットの12ページ掲載の地図からすると、撮影は、鬼怒川温泉の奥にある川俣ダム周辺で行われたようですが、問題のドライブイン「House475」の「475」の由来はよくわかりません。「国道475号」は「東海環状自動車道」ですし、栃木県には「県道475号」は見当たりませんから。

(注3)『生きてるものはいないのか』に出演していた渋川清彦が常連客の一人に扮しています。

(注4)それでも、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』(2006年)で彼女を見たはずですが。

(注5)辻内智貴セイジ』(光文社文庫:単行本は、2002年筑摩書房刊)〔文庫で120ページほどの中編です〕。

(注6)この事故の原因は、基本的には、カズオの前方不注意でしょうが、それを“僕”はブレーキが壊れていて利かなかった」とカズオを擁護するような発言をします。こんなところにも、映画における“僕”の曖昧な正確が現れているように思われます。

(注7)後になると、カズオが酒屋の手伝いをしている姿まで映し出されます。

(注8)セイジの妹・絵美(当時5歳)を写した8㎜フィルムを“僕”が見てしまうのですが、機械の発熱でフィルムが燃えてしまうというハプニングまで起こります。

(注9)現在は営業していないように思われる「House475」の背後から突然りつ子が現れるところなどから、もしかしたら幻影なのかもしれませんが。
 なお、原作では「十年前」のことですから、お互いにスグに分かりましたが、映画の場合は、“僕”が女性の義手を見てりつ子と確認したように思われました。

(注10)クマネズミのブログの記事では触れていなかった同展の「リバース・カフェ」の様子については、例えばこの記事を参照。

(注11)この映画で描かれるセイジは、やや格好良すぎるきらいがないわけでもありません。
 この動物愛護団体の女性に対する言葉もそうですが、他にも例えば、森山未來の“僕”に、「飯食ってクソするのは、面倒くさい。生命維持装置で生かされているみたいなもの」だとか、「俺は一瞬でいいから生きたいと思うよ」などと格好のいい言葉を投げつけます。
 でも、こうした言葉を吐けるからこそ、上記注のような行動に出れたのだとも考えられるところですが。
 なお、翔子は、セイジについて、「セイジ君は、“陸の魚”なの」、「この世で生きることを諦めてしまった生き物なの」などと言いますし、りつ子の祖父は、「セイジには物事が見えすぎる。そうなると、その先には絶望しかない。わしらみたいな人間は、ある意味、鈍感だからやっていける」と述懐します。

(注12)セイジは、無反応のりつ子が寝ている部屋に入ると、いきなり手にしていた斧で自分の左腕を切り落としてしまうのです(原作では「手首」とされていますが、映画では、むしろ前腕の中間あたりのように思われます)。
 そして、その際に浴びた血しぶきで、りつ子は次第に表情を取り戻していきます。
 というところから、半ば死んでしまっているりつ子の“再生”には、ありきたりのことでは駄目で、同じ位の痛みを伴う犠牲が必要なのだ、といった考え方が窺えるような気がします(そこから、絶望に向かっている人類や地球を救うためには、なまじのことでは駄目であって、なんらか痛みを伴う措置が必要なのだという考えになってくるのではないでしょうか)。

(注13)映画における“僕”(広告代理店勤務)は、大体43歳くらいで、伊勢谷友介よりも7歳ほど年上になりますが、「十年前」の話とする原作であればほぼ似通った感じとなるでしょう(原作では、“僕”は出版社に勤務しています)。さらに、原作の「あとがき」によれば、作者の辻内氏がこの小説を書いたのが「三十代半ば頃」としています。




★★★★☆




象のロケット:セイジ 陸の魚

戦火の馬

2012年03月22日 | 洋画(12年)
 『戦火の馬』を吉祥寺オデヲン座で見ました。

(1)この映画は、“おすぎ”が、『週刊文春』の映画欄で、『ヒューゴの不思議な発明』を酷評するのとは反対に、下記(3)で触れるようにすごく高く評価していたところ、実際には『ヒューゴの不思議な発明』が素晴らしい出来栄えだったことから、それでは本作はどうかなと確かめたくなったので出かけてみた次第です。
 案の定というか、やはりというか、本作は、クマネズミにはとても合いませんでした。

 舞台はイギリスで、お話は、馬の出産のシーンから始まります。そして、農耕馬を購入して畑を耕させるはずだった父親テッドピーター・ミュラン)が、何を思ったか、サラブレッドの血が入った美しい馬を高値で買ってきてしまいます。実は、その馬こそ、息子アルバートジェレミー・アーヴァイン)が生まれるところを遠くから見ていた馬だったのです。
 そうしたことから、アルバートは、この馬・ジョーイの世話にありったけの情熱を傾けますが、ちょうど第1次世界大戦が勃発、父親はジョーイを騎兵隊の将校に売却してしまいます。
 ここからがジョーイの大冒険となります。

 まずは、騎兵隊の突撃で敵ドイツ軍に突っ込みますが、待ち受けていた機関銃に騎兵隊は壊滅。かろうじてジョーイともう1頭の黒馬トップソーンが生き残ります。



 そこでドイツ軍兵士の若い兄弟が2頭を世話することになるものの、兄弟は脱走の咎で銃殺されてしまいます(注1)。
 その際、2頭は風車の中に匿われていて、ドイツ軍には見つかりませんでしたが、今度は風車のそばの家で祖父と暮らすエミリーによって発見されます。ですが、暫くするとここにもドイツ軍がやってきて、有無を言わさず2頭は連れて行かれてしまいます。



 そこでは輜重隊に組み入れられ、重い大砲を山の上まで持ち上げなくてはなりません。
 過酷な仕事に堪えられなくなった黒馬はダウンしてしまいますが、ジョーイは耐え忍び、逆に世話係だったドイツ兵はジョーイを解き放ちます。
 さあ、ジョーイはアルバートのところに無事辿りつけるでしょうか、……?

 とはいえ、色々なブログが言うように、やっぱりこれでは馬版の『マイウェイ 12,000キロの真実』ではないでしょうか?
 あの過酷なノモンハン事件で、「長谷川+ジュンシク」(オダギリジョー+チャン・ドンゴン)(注2)は生き残り、捕虜収容所に送られます。他方で、まさにジョーイとトップソーンは、乗っていた将官が機関銃にやられてしまうものの、無傷で生き残ります。
 さらに、「長谷川+ジュンシク」は、ソ連軍の兵士としてドイツ軍との戦いの前線に送られますが、そこでも生き延びて山を越えてドイツ軍の中に逃げ込み、今度はノルマンディー上陸作戦に遭遇し、結局長谷川だけが生き延びます。
 他方、ジョーイとトップソーンは、ドイツ軍の輜重隊でこき使われるものの、そしてトップソーンはついに倒れてしまうものの、ジョーイは元気であり、前線から脱出して、ついにはイギリス軍の下にもどります。
 本作は第1次大戦が舞台ですし、『マイウェイ 12,000キロの真実』は第2次大戦ですから状況は大違いのはずながら、それにしても随分と類似するところがあるなという気がしてしまいます。

 さらに言うと、本作の場合、その映画の中で類似するシチュエーションを繰り返してもいるのです。
 すなわち、映画の最初の方は、ジョーイをテッドが購入してくる“馬の競り”の場面がありますが、映画の最後の方では、またもやジョーイを競る場面が描き出されます(将校用の馬以外は、一般の競売とされたようです)。最終的に競り落としたのはエミリーの祖父でしたが(注3)、アルバートが懇請すると気前よくあげてしまいます(それで、アルバートはジョーイを故郷に連れ戻すことができました)。
 さらに、ドイツ軍の輜重隊で、重い大砲を引っ張り上げるジョーイの姿は、映画の最初の方で、荒れた土地を開墾すべくアルバートと一緒になって鋤を引っ張る姿と同じように思えます。
 もっといえば、最初の戦場で、イギリスの騎兵を乗せて機関銃の方向に突っ走る様子は、ソンミの戦場で機関銃弾が飛び交う中を駆け抜けるジョーイと重なってくるのではないでしょうか?

 このように、本作は外に向いても内に向いても繰り返しの多い、ある意味で単調な作品と言えるのではないかと思います。

 それでも、第1次大戦の塹壕戦の悲惨な有様は、これまでも何度も映画化されていますが(注4)、本作からも見る者によく伝わってきます(これも、『マイウェイ 12,000キロの真実』の戦闘場面の大迫力に類似しているといえるでしょう)。
 既に10年前ほどの日露戦争などで機関銃の威力は十分に知られていたにもかかわらず、なぜ両軍は、何度も同じような突撃命令を出して無駄な戦死者を増やしていったのか、全く理解できないところで、そうした感想(戦争とは死ぬことなのだ!)を見る者に持たせる意味は大いにあるのではないかと思われます。

 しかしながら、基本的には子供向けと考えられる本作についてあれこれつまらない問題点を指摘してみてもあまり意味がないと思われ、そうであればマズマズの仕上がりになっているということにしておきましょう。

(2)本作は、まさに馬が主役の映画で、馬がまるで人間のように感情豊かに振る舞う様が描かれています。
 でも、動物があたかも人間であるかのような行動をするのは面白いことなのでしょうか?
 例えば、2頭がドイツ軍に捕まり、黒馬が馬具をつけられるのを嫌がった時に、ジョーイは自ら進んで模範を示しますし(それで黒馬も馬具を付けることになります)、また疲れきって動けなくなった黒馬に代わって自ら大砲を山頂に引き上げる役目を買って出たりするのですが(他にも、イギリス軍のタンクを狭い場所に誘い、タンクが傾斜で前方に傾いた瞬間、その上を乗り越えて去って行ったりします)、余りにわざとらしく失笑を禁じ得ませんでした。

 他方で、先日見た『恋人たちのパレード』は、大恐慌時代のサーカス団の話ですが、白馬やら象などの動物が登場するものの、それほど違和感を覚えないのは、「調教」によって動作を動物に覚え込ませるからであって、動物の自然の感情から人間らしく動き回るわけではないことが見る者に分かるからなのかもしれません。

 その意味で、本作は、流行のペット映画にも似て、違和感しか覚えないところです。

 ソウは言っても、ソンミの英独両軍が対峙する戦場で、鉄条網にからめとられて身動きが取れなくなったジョーイを、両軍から1名ずつ兵隊が出て、鉄条網をカッターで切り取りジョーイを解放してあげる場面とか(注5)、また、イギリス軍のところに逃げ戻ったジョーイが、破傷風のためにあわや射殺という時に(注6)、アルバートによるフクロウの鳴き声が聞こえるという場面などは、人間の感情を動物が表現するというものではありませんから、そのご都合主義的なところに目をつぶりさえすれば、なんとか受け入れ可能です。

(3)渡まち子氏は、「安心感満載の“優等生”のような作品だが、見終わった後に残る心の温かさが本作の力が本物であることを証明している」として80点をつけています。
 本作についての評価は云々しないとしても、渡氏が、「美しい栗毛の馬ジョーイの大きな瞳の中に、アルバートを慕う愛情や同じ軍馬である黒馬トップソーンへの友情が確かに見える。同時に愚かな戦争を繰り返す人間への憐憫も」とまで言うのは、御自分の思いを余りに対象物に入れ込み過ぎているのではと思います。
 また、“おすぎ”は、3月8日号の『週刊文春』の「Cinema Chart」において、「久しぶりのスピルバーグ節を大いに楽しみました。ジョーイを演じる馬の演技に大感動!!映像も美しく、文句なくお奨め!!」と述べ、☆5つをつけています。どうも映画に対する感覚が、クマネズミとはまるで逆のように思われるところです(だからといって、“おすぎ”を非難するわけではありません。映画の感想に関しては、100点から0点のものまで様々の評価がある百家争鳴の状況の方が健全なことは間違いありませんから!)。





(注1)兄弟で従軍していたところ、兄は後方部隊に残り弟だけが前線に送られることになります。前線に行けば死が確実なことから、兄は弟を後から追いかけて、戦場を離れ付近の風車小屋の中に逃げ込みますが、ドイツ軍の捜索で簡単に見つかってしまいます。

(注2)クマネズミとしては、戦場を東から西に渡り歩いて生き残った東洋人兵士がいたことは事実としても、それを映画化するにあたり、一人の東洋人を「韓国人+日本人」という二つの人格に振り分けて映画では描いていると考えています。

(注3)祖父の口ぶり(「戦争はすべてを奪ったが、孫娘はこの馬を残した」)からは、エミリーが既に亡くなってしまったようにうかがわれましたが。

(注4)2007年の『魔笛』では、第1次大戦が舞台となっていました。

(注5)まるで2006年の『戦場のアリア』を彷彿とさせます。

(注6)『アリス・クリードの失踪』で誘拐犯の1人を演じたエディ・マーサンが、もう少しでジョーイに向けて引き金を引こうとします。





★★★☆☆




象のロケット:戦火の馬

ヒューゴの不思議な発明

2012年03月20日 | 洋画(12年)
 『ヒューゴの不思議な発明』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)この映画については、『サラの鍵』や『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を取り上げたエントリにおいて大いなる期待を表明していたところ、その期待以上の優れた出来栄えだと思います。
 それでも、この映画を見た大半の方が、「始めの方はやや冗長」との感じを持ったようです。ですが、クマネズミには、初めの方があるからこその後半ではないかと思えました〔特に前半の、様々の時計の内部の仕掛けの様子とか、ヒューゴ少年の父親(ジュード・ロウ)との交流シーンなどは、短いながらもよかったのではと思いました〕。
 何にせよこの映画には、すぐ前に見た『メランコリア』同様、単純に感激してしまいました。

 物語の時期は1930年代、舞台はパリの駅(注1)。主人公のヒューゴ少年(エイサ・バターフィールド)は、その駅の時計台の中に隠れて住んでいます。



 この駅には沢山の時計が取り付けられていて、それらは壁の裏側に設けられた機械部分によって動きますが、大小様々の沢山の歯車からなる装置の有様は、本作の見所の一つといえるでしょう(ヒューゴ少年は、ゼンマイを巻くだけでなく、それらの点検保守を行っています)。
 ある時、駅構内に設けられている玩具屋に忍び込んでいたところ、主人のジョルジェベン・キングスレー)に捕まり、大事にしていたノートを取り上げられてしまいます(注2)。



 ヒューゴ少年は、なんとかしてそのノートを取り返そうとジョルジェが住む家の辺りをうろついたりします。そんなことをしている内に、彼は、その家に住むイザベルクロエ・モレッツ)という少女と知り合いになります。

 この間に、ヒューゴ少年の事情が次第に明らかにされていきます。
 時計職人の父と二人で暮らしていたときに(注3)、父親が、博物館の屋根裏から機械人形を持ち出してきて修理をします(その時に、父親が機械人形のことについて様々のことを書き記したのが、ジョルジェが取り上げたノート)。



 しかしながら、父親は突然の火事で死んでしまい、ヒューゴ少年は一人取り残されます。
 そんな彼を引き取ったのはおじさんのクロードで、彼の職場である駅の時計台の裏で一緒に住むことになります。ですが、クロードもある時から帰ってこなくなり(その後水死体が発見されます)、ヒューゴ少年は時計のゼンマイを巻くなどの仕事を続けながら一人で生活しています(注4)。

 ヒューゴ少年は、イザベルと親しくなってくるとこうした事情を打ち明け、またイザベルを自分の部屋に連れて行き、機械人形を見せます(注5)。
 そして、イザベルの胸にかけられていた鍵を機械人形の背中の穴に差し込むと、その機械人形はある絵を描き出します。
 その絵こそは、ジョルジが戦前に製作した映画の一場面だったのです。



 ここから(注6)、パパ・ジョルジがジョルジェ・メリエスとして映画史上著名な監督であることが分かって、云々という後半のストーリーは、もう煩瑣になることもあり、映画史に詳しいブログに譲りましょう。

 ジョルジ・メリエスを巡る部分は歴史的事実に基づくとのことですが、にもかかわらず映画全体が頗るファンタジックに描かれて3Dの目を瞠る作品にまで仕上げられているのは、実にすごいことだなと思いました。

 ヒューゴ少年に扮したエイサ・バターフィールドは、『縞模様のパジャマの少年』(このエントリの(2)で触れています)で見て、ユダヤ人強制収容所の側で暮らすドイツ軍将校の子供という随分厳しい役柄をきちんとこなしているなと思いましたが、本作でも孤児という前作とある意味で類似する役柄を的確にこなしているなと思いました。



 また、イザベル役のクロエ・モレッツは、すでに『キック・アス』や『モールス』でお馴染みですが、エイサ・バターフィールドと同年(1997年)の生まれにもかかわらず、背の高さといい随分と大人だなという感じがしました。



 ジョルジェ(→メリエス)に扮したベン・キングスレーは、『エレジー』の演技が印象的ですが、本作においてもその存在感は揺るぎがありません。



 ヒューゴ少年の父親を演じているジュード・ロウは、まさかこうした役で登場するとは思いませんでしたから驚きでした。ですが、彼が家族と共に来日したときの様子をTVの芸能ニュースなどで見ますと、見た目よりも随分と家庭的であり、そうしたところが本作にも上手く出ているのではと思います(今度の『シャーロック・ホームズ』での活躍が期待されます)。

(2)既にあちこちで指摘されていることとは思いますが、実は、この作品には、映画の原案・絵コンテともいうべき風変わりな原作〔ブライアン・セルズニック著:分厚い翻訳本が出ています(注7)〕があるのです。“風変わり”というのは、普通の本とは逆に、この本のメインとなっているのは、たくさん掲載されている挿画と静止画、それに写真であって、それらの間に若干の文字が書かれているからです(注8)!
 また、“絵コンテ”というのは、少しずつの改変はあるものの、本作はそのほとんど忠実な実写化といえるからです。

 確かに原作の場合、例えば、本編「Ⅰ」の冒頭には太陽のイラストが2枚ほど挿入されていますが、映画は、エッフェル塔を中心とするパリ市の俯瞰で始まります。ですが、原作においても、満月のイラストの後は、パリ市の俯瞰図なのです。そして、映画と同じように、挿入されているイラストは鉄道の駅→そこを歩くユゴー少年→ジョルジェの玩具屋→ユゴーが所持していたノートと展開していきます(ユゴー少年のノートが取り上げられるまでは、原作の「Ⅰ」の「1 盗み」で取り扱われているところ、60ページの内実に56ページがイラストなのです!それに、イラストの描き方は、映画のクローズアップのように、空の上から次第に主人公に近づいてその顔のクローズアップを描いたりするなど、映画的な技法をふんだんに取り入れています)。

 そうなると、本作のクリエイティブなところを何処に見出したらいいのか、もっといえば映画製作においてスコセッシ監督の貢献はどの部分にあるのか、ということがあるいは問題になるのかもしれません(注9)。

 でも、例えば、原作の場合、本編の前に、H・アルコフリズバ教授の手になる「はじめに」が置かれていて、これからユゴー少年を巡る物語が始まる旨が述べられています。そして、ラストに至ると、そのアルコフリズバ教授とは、ユゴー少年のことであると明かされ、そして末尾で彼は、自分の手で自身の新しい「からくり人形」を作ったことが、そしてゼンマイで動く「その人形のつづったのが、この物語だ」と述べられるのです!
 ところが、映画ではこうした構成をマッタク取ってはおらず、通常の物語のように進行していきます。映画のラストでは、ヒューゴではなくイザベルがこの物語を本にしていて、それによって語られているように描かれています(注10)。
 原作では、メリエスのことにも重きが置かれているものの、なによりユゴー少年の成長(それも父親が探し出したからくり人形を契機にしての←結局は父親の手によってということでしょうか)が全編を通じて描かれているように思われます。ですが、映画にあっては、むろんそういう点にも配慮はされていますが(特に前半において)、むしろ初期の映画製作を映像として映し出すことの面白さに重点が置かれているようにも思われます。

 そういうところから、本作のアイデアのかなりのものは原作に拠っているにせよ、やはり映画は映画であって原作とは別物と考えるべきなのでしょう。

(3)上記で、原作におけるユゴー少年と父親との親密な関係に触れましたが、もう少し申し上げると、例えば彼は、次のようにからくり人形が書くであろうメッセージについて考えています。
 修理(注11)の間に「父さんはいくつか部品を取り替えて、からくり男が新しいメッセージを書くようにしてくれているかもしれない」、「きっと、からくり男のメッセージは、僕のすべての疑問に答えてくれる」(P.141)。
 これは、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』における父親の残した「」に対するオスカー少年の思いと酷く類似しているように思えるところです(注12)。
 そして、その雰囲気は、本映画にも濃く引き継がれていると思われます。

(4)本作でクマネズミが一番期待していたのは、その「」です。
 これまでの場合、『サラの鍵』にしても『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』にしても、鍵が先ず手元にあって、それを差し込むべき鍵穴のある場所(『サラの鍵』では、弟が潜む納戸)へ行くのが難しかったり、鍵穴を探し出すのが大変だったり(『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』では、“Blackさん”の持ち物でした)したのですが、本作の場合は、鍵穴は機械人形の背中にあるものの(注13)、ソコに挿入すべき鍵が見当たらず、それを探すことがそれこそ“キー”となります。
 そして、ヒューゴ少年とイザベルとの交流が深まってくると、途端にソレがイザベルの胸にぶら下がっていることが分かり、ソレを差し込むと、機械人形が動き出します。

 いずれにせよ、本作には、「鍵」のあり方の第6番目のもの(鍵穴だけあって鍵自体が見つからない)が示されているといえるのではないでしょうか?

 なお、本作では、これ以外にも「鍵」に関係したことがいくつか登場します。
 例えば、ヒューゴ少年とイザベルが、パパ・ジョルジェによって取り上げられたノートを探して、タンスの上にある箱に気付きます。そこには鍵が掛けられているところ、イザベルが、その箱を取り出して下に降ろそうとして乗っていた椅子から落ちてしまいますが、その拍子に箱は床に落ちて壊れてしまい、中のものが外に飛び出してしまいます(注14)。
 パパ・ジョルジェが中から鍵を閉めて引き籠もっていた部屋の鍵を、ヒューゴ少年は針金を使って簡単に開けてしまいます(注15)。

 これらにあっては「鍵」は見当たりません。とすると、ここには、第7番目の「鍵」のあり方が示されているといえるでしょう(“幻の鍵”?)。

(5)渡まち子氏は、「世間から見放され居場所がなかった孤独な少年と、世間との絆を断ち切っていた映画の魔術師の交流は、どこか寂しげな影を持つファンタジーだ。映画愛と人間 愛が立体的にスクリーンに立ち現れたこの夢の万華鏡は、私たち観客に、映画のマジックの本当の喜びを教えてくれる。これはスコセッシの新境地ではない。集 大成なのだ。紛れもない傑作だと断言したい」として絶賛して90点を付けています。
 また、前田有一氏も、「映像、ストーリー、演出。そして人々の共感を得るに値するテーマ性。「ヒューゴの不思議な発明」には死角がなく、誰にでも高い満足度を与えてくれるだろう」として85点もの高得点を与えています。
 他方で“おすぎ”は、3月8日号の『週刊文春』の映画欄で、本作に対して「とにかく退屈」として★2つしか付けていませんが、無論どのような感想を持とうが自由ながら、“おすぎ”老いたり、の感を深くします!




(注1)劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」によれば、モンパルナス駅を中核にして、色々の駅の要素を取り込んで作られているようです。

(注2)ノートは、ジョルジェの「このノートをどこで盗んだ?」という質問にヒューゴ少年が何も答えなかったがために取り上げられてしまいますが、ヒューゴ少年には答えられなかったと思います。
 というのも、むろん、ノートに記載されている事柄は、父親と自分との間だけの秘密だと彼が考えていたためでしょうが、さらには、父親が博物館の屋根裏から(密かに)持ち出してきた機械人形に関するものだからですし、その父親が今は死んでしまったため、自分が保護者なしで駅の壁の中で暮らしていることがバレるからでもあるでしょう(この時点では、保護者のクロードおじさんがいるはずのところ、帰ってこなくなっていました)。

(注3)機械人形がロンドン製であることが分かると、ヒューゴ少年は、「母さんの故郷だ」と言います。おそらく、早くにイギリス人の母親を亡くしてしまったのでしょう。

(注4)映画からすると、保護者のいない孤児を孤児院に送り込むのが鉄道公安官の職務の一つとなっていたようです。ヒューゴ少年は、自由を束縛されるのを酷く恐れて、犬を連れた鉄道公安官に捕まらないようにこっそり隠れて生活していますが、見つかると一目散に走って逃げ出します。
 なお、本文の(2)で取り上げる原作〔下記「注7」参照〕の方では、鉄道公安官は、むしろヒューゴ少年が駅の構内で食料品を盗み取っていることの方を重視しているようで、「こいつは泥棒だ」とか、「おまえのいく場所は監獄しかない」などと言い放ちます(P.420、P.460)。

(注5)映画では、家を見せてくれというイザベルの要求を一度は断りますが、イザベルの胸にかけられている鍵を見て、自分の家に連れて行くことにします。他方、原作においては、イザベルの胸の鍵に気がついたユゴー少年は、その鍵を奪い取って自分の部屋に逃げ帰るものの、後を追いかけてきたイザベルに捕まってしまいます。

(注6)原作でも、「この物語りはここで終わりだ」として前半の「Ⅰ」は閉じられ、後半の「Ⅱ」が引き続いて始まります。
 こんなところから、『メランコリア』の第1部と第2部との関係が思い起こされます。
 すなわち、『メランコリア』の第1部が結婚披露宴という世俗の中でのジャスティンを描き、第2部が惑星メランコリアの地球衝突という状況におけるジャスティンとクレアの姉妹に焦点が当てられているのと類似するように、この映画の前半部分は、駅構内にいる人達とヒューゴ少年の交流が描き出され、次の後半部分はメリエスが製作した映画作品を巡るヒューゴ少年らの動きにスポットが当てられているように感じられます。

(注7)金原瑞人訳『ユゴーの不思議な発明』(アスペクト、2008.1.1)



(注8)本文533ページの内、実に66%が、挿画と静止画、それに写真で占められています。
 なお、この計算は、原作の末尾に「人形は158枚の絵を描き」(P.519)とあり(実際は、原作者セルズニックの手になるもの)、それにメリエス製作の映画に係わるイラスト(メリエスが描いたもの)の7枚、及び写真(10枚)を加えた175枚(ページ数はその倍)という数字に基づいています。

(注9)同じようなことは、漫画を原作とする『スマグラー』でも見られ、同作を取り上げたエントリの(2)で「原作漫画と映画との距離がかなり狭まっている」と申し上げたところです。

(注10)すでに、例えばこちらのサイトで指摘されているところながら、邦題の頗るおかしな点もここらあたりに起因します。
 すなわち、原作のタイトルが「ユゴーの不思議な発明」とされているのは、その物語が、ユゴーが製作した自身に準えたからくり人形が描き出したイラストに基づいてユーゴが語っているものだからなのですが、映画では、そこのところが抜け落ちてイザベルが語るお話という構成になっているために、タイトルにもかかわらずヒューゴが発明したものなど何も存在しない、という奇妙な事態となっているのです。
 勿論、映画製作者の方はソコのところをよくわきまえていて、原題を「Hugo」としているところ、なぜか血迷った配給会社は、原作の邦題をそのまま借りてきて(それも、仏語読みの「ユゴー」を英語読みの「ヒューゴ」に読み替えることまでして)タイトルとしてしまいました。いくら観客動員数を引き上げたいとしても、許されないことではないでしょうか?

(注11)原作では、からくり人形の修理は、博物館の屋根裏で父親が一人で行いますが、映画の場合は、父親が機械人形を自分らの家に運び込んで、ヒューゴ少年と一緒に修理をします。

(注12)特に、そうした期待が直接的には外れてしまう点においても!『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』の場合は、鍵を差し込む先は父親の物ではありませんでしたし、本作の場合も映画の1場面に過ぎず、どうしてそんな絵を人形が書いたのか、少年はすぐには理解出来ませんでしたから。
 さらに、原作において、博物館の屋根裏部屋にあるからくり人形のことを話している際の父親とユゴー少年との話は、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』における「第6行政区」を巡って父親とオスカー少年が話している姿を彷彿とさせます。
 モット言えば、ユゴー少年が、「夜になると、父さんが本を読んでくれた。ジュール・ヴェルヌのわくわくする冒険小説やアンデルセンの童話」と思い出すのは(P.155:ただし映画のヒューゴ少年も、イザベルに「パパとよくジュール・ヴェルヌの本を読んだ」と言いますが)、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』のオスカー少年が、ホーキング博士の本をパパがよく読んでくれた、と思い出すのにヨク対応していると思います。

(注13)劇場用パンフレット掲載の「Story」では「胸」となっていますが、そこはゼンマイを巻くための「ねじ」(あるいは「かぎ」)を差し込む口が開いているのではないでしょうか?

(注14)箱の「中のもの」とは、実に夥しい数のイラストで、それらはメリエスが製作した映画の絵コンテで、メリエス自身の手になるものでした。
なお、原作においては、その内の7枚が挿入されています。

(注15)ヒューゴ少年は、一度鉄道公安官に捕らえられて牢屋に監禁された際に、その技術を使って牢屋から逃げ出すのに成功します(原作では、鉄道公安官がユゴー少年を連れて行こうと牢屋から出したときに逃げ出しますが)。




★★★★




象のロケット:ヒューゴの不思議な発明

生きてるものはいないのか

2012年03月19日 | 邦画(12年)
 『生きてるものはいないのか』を渋谷ユーロスペースで見ました。

(1)この映画は、『ヒミズ』で一躍世界的に注目されることにもなった染谷将太が主演する映画だということで見に行ってきました。

 物語(注1)の舞台は関西方面にある大学構内で、はじめのうちは、学生たちが食堂とか校庭などで実に他愛のないおしゃべりをしています。あるところでは、女子学生2人と男子学生とで、別れる別れない、生まれてくる子供をどうするか、といったことを巡り議論していますし(注2)、別のところでは、結婚披露宴での出し物のことなどをについて、3人ほどの学生が話し合いをしています(注3)。
 また、病院の医療事務員のところに、刑務所を出所したばかりとおぼしい男が訪れたりします(注4)。
 こうした物事の間には、余り相互の関連性がなさそうに見えます(注5)。

 そんな酷く平和で長閑な光景が繰り広げられているわけながら、驚いたことに、突然、そこにいる人たちが一人一人苦しみ出して死んでしまうのです(注6)。



 それまで何の兆候もなかったかというとそうでもなく、例えば、「運転手が運転中に倒れて、JRが止まったらしい」、「人が死んでいるらしい」くらいの情報は微かにこの大学にいる学生達の間にも入ってきます。
 また、空に“空飛ぶ円盤”らしき物体が飛んでいる映像が挿入されたりもします。
 病院の医師達も、「外は大変なようだ。外科医はみんな出払った」と喋ったりしています。

 でも、映画に登場する人物は、とにかくなんだか分からない原因で次から次へと死んでいくのです(注7)。
 ただ、染谷将太は、食堂のウエイターをアルバイトでやっている男性という役柄ですが、こうした事態にもかかわらず、結局のところ彼一人は死に至ることもなく、彼がその後を追ってきた女性も死んでしまうと(注8)、周りは死体ばかりといった状況になります。空は黒い煙で覆われ、モノレールも止まり、鳥ばかりか飛行機までも落下します。日が落ちて黒雲が横に流れていく凄惨な有様を、染谷将太はたった一人で眺めています。

 映画は、様々な死に方を描き出すことに一つの眼目があるようにも思われます。
 何らかのウィルスによる死ではないために、実に色々な死に方が描き出されているからです。ある者は咳き込んでから、他の者は震えが来てから死にます。肛門を押さえながら「見守って欲しい」と言う者も、首を絞められて殺される者もいますし、側にいた女性に「僕と付き合って下さい」とか「Thank you世界!」言いながら死ぬ者もいます。

 しかし、もう少し考えてみると、この映画では、何かの明確な因果関係から死が導かれるのではなく、なんだかわけが分からない死が突如人々に訪れるのですが(注9)、もしかしたらそういうことって世の中にしばしば起きているのかもしれません。むしろ、ある出来事の原因がはっきりと分かっていることの方が少ないのではないでしょうか(昨年の3.11にしても、なぜあの時にあそこであんな大地震が起きたのかは、結局は十分に説明できないのではないでしょうか)(注10)?
 この作品における大量死をそんなことの象徴として捉えてみると、一概に“不条理劇”と言って放り出さなくても済むのかな、と思ったりしています。

 本作における染谷将太は、主演といっても数多く登場する人物の一人であり、『ヒミズ』のように目立った行動はしません。でも、なんだか彼の周りにはオーラが漂っている感じで、そのせいでは勿論ありませんが、最後に一人で生き残るわけです。

 なお、本作には、もう一人お馴染みの村上淳(注11)が出演しています。彼が扮する男は、どうやら電車事故に遭遇したらしく、もう一人の男とふらつきながらこの大学の病院を目指していますが、途中で倒れてしまいます。
 本作は、若手の俳優や実際の学生が出演していて、彼らも実によくやってはいますが、こうしたベテラン俳優が登場すると、画面がグッと引き締まる感じがします。

(2)ある意味で、この作品は、突然変異ウィルスが蔓延する状況を描く『コンテイジョン』と類似する状況といえますが、こちらでは、引き起こされる大量死の原因は何も特定されず(注12)、またこんな場合なら救出に当たるはずと思われる医療チームの姿もまったく見当たりません。
 もしかしたら、惑星の地球衝突という終末的な状況を描く『メランコリア』に似ているのかもしれません(注13)。空から飛行機が墜落したりしますから。でも、その映画のようにワーグナーの豪壮な音楽が流れるわけでもありません。

 とにかく不可思議な印象を見る者に与える映画でした。

(3)渡まち子氏は、「常に時代を切り裂いてきた石井監督は、何か新しい映像表現の突破口を見いだそうとしているようだ。ともあれ、10年ぶりの新作のインディーズ・スピリッツを評価したい」として55点を付けています。
 また、映画監督の緒方明氏は、雑誌『映画芸術』2012年冬号掲載の「ローーリング・アンビバレンツ・ホールド」において、「一見とらえどころのない茫漠とした映画に見えるが終わってみればかなり重量級の作品を見たという実感がズシリと伝わってくる不思議な作品だ」などと述べています。




(注1)もともとは前田司郎氏(劇団「五反田団」を主宰)の戯曲で、映画化に当たり同氏が脚本を担当。ただ、クレジットには、さらに「脚色 石井岳龍」とありますから、この映画を製作した石井岳龍監督の手が相当加えられているのでしょう。

(注2)妊娠している女子学生は、子供は産みたいが相手の男子学生とは一緒になりたくないので、養育費を負担して欲しいと言っている模様。他方で、この男子学生が今付き合っている女子学生は、彼にお金がなく養育費など支払えるはずがないことを知っているので、生まれてくる子供を自分たちの方で引き取る、などと言い出します。
 一見すると、シビアな印象を受けますが、演じている俳優達の雰囲気や、それに、ウエイターの染谷将太に注文するのが、「アイスクリーム付きの抹茶キャラメルラテ」とか「黒糖パフェ」などというのでは、どうでもいい話をダラダラ続けているとしか見えません。

(注3)都市伝説に興味を持つ学生のサークルのメンバーのようです。中の1人の女子学生は都市伝説関係の雑誌を読んでいますが、そこには、この大学の大学病院の地下室でなされているとされる実験についての記事が掲載されています。

(注4)実は、この男(渋川清彦)は、映画の冒頭に現れ、学生に病院へ行く道を尋ねています。学生は、「あっちの方向ですが、間違えると大変です」と答えます。



 なお、医療事務員は、やってきた医師にこの男を兄と紹介しますが、その医師が「お兄さんと似ていない」と言うと、「父が違うんです」と逃げます(その医師は、どうやら医療事務員に気があるために、そんなプライベートな質問をするのでしょう)。

(注5)ただ、その出し物を相談している結婚披露宴とは、どうやら、別れる別れないを相談している学生たちを巡るもののようです(上記「注2」で触れた男子学生と、彼が今付き合っている女子学生との)。

(注6)上記「注3」で触れた雑誌を読む女子学生は、他のメンバーが、披露宴での出し物の練習をしに体育館へ行ったにもかかわらず残っていたところ、突然咳き込み出して倒れて、あっという間に死んでしまいます。これが、この映画における大量死の始まりとなります。
 また、上記「注5」で触れた結婚する予定の学生たちに関しては、まず男子学生が倒れた後、それを見た女子学生が、「大好きな夫の隣で死ねるの、それだけでもよかった」と言って遺体の側に倒れ込みます。



 としたところ、そこにやってきた病院に入院している若い女性患者が、その女子学生に馬乗りになって首を絞めて殺してしまいます。
 ウエイターの染谷将太がとがめると、「苦しがっていたから」とアッサリ答えます。

(注7)登場人物の一人が、「この病院の地下3階にある実験室で米軍が製造していたウィルスが原因といわれているが」と言うと、別の人が、「ソレって都市伝説だ!」と答えます。

(注8)この女性とは、上記「注6」で触れた女子学生を殺してしまう入院患者です。
 ウエイターの染谷将太が、彼女の後を追おうとすると、一定の距離を置くならかまわないと言って食堂を出て大学の外の道を歩き出します。
 どうやら海に向かっている感じなので、彼が「海が好き?」と聞くと、「明石。入院する前に家族と行ったから」と答え、今度は彼女の方から「海って遠いの?」と尋ねると、彼は「全然遠いよ」と言います。



(注9)なにしろ、劇場用パンフレットに掲載された監督インタビューで、石井監督が「撮影の時に「ところで、何で死んじゃうんですか?」と一度聞かれましたけど、理由はないって答えました(笑)」と述べているのですから!

(注10)地震の予知が殆ど出来ないのも、詳細なレベルで地震が引き起こされる原因が特定できていないからかもしれません。
 なお、地震予知ということで「地震発生の確率」とされているものは、類似の規模の過去における頻度を将来に投影したものと思われるところ、非科学的とされる「○○年周期説」を科学的な装いで言い換えたに過ぎないような感じがしてしまうのですが。

(注11)最近では、『ヒミズ』(金貸し業者の用心棒)とか『家族X』(引越トラック運転手)など様々な映画に出演していますが、なかでも『ヘブンズ ストーリー』における復讐請負人・カイジマに扮した演技が印象的でした。

(注12)『コンテイジョン』の場合は、病原体が特定されてワクチンが製造され、全世界に配給され、2000万人もの死をもたらした感染症のそれ以上の蔓延が阻止されて人類の滅亡に至らなかった様子まで描き出されています。

(注13)同作品では惑星の地球衝突までが描かれているため、本作品のような人類の大量死の有様は描かれてはいませんが、あるいは“終末”という点で類似しているのでは、と思いました。




★★★☆☆






メランコリア

2012年03月14日 | 洋画(12年)
 『メランコリア』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編で凄そうな作品と思えたので見たのですが、実際にもなかなかの出来栄えで大層感動しました。

①予告編には映画の冒頭の序章の一部が使われていて、メインタイトルが現れてからが本編となります。そこまではオペラの序曲といった感じでしょう、本編全体の展開振りが、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲が大きく流れる中で、ゆったりと映し出されて予告されます。
 特にそこでは、ブリューゲルの「雪中の狩人」が使われるなど、絵画的なイメージが横溢しています(注1)。
 序章の最後に、地球(日本列島が見える感じです)と大きな惑星が衝突して、ゆっくりと地球が大きな惑星の中に飲み込まれていく様子が映し出されますが、ため息が出るように美しいものです。



②次いで、「メランコリア」のメインタイトルが現れて始まる本編は、「第1部ジャスティン」、「第2部クレア」と分けられていて、前者は、主人公ジャスティンキルスティン・ダンスト)の結婚披露宴、後者は惑星メランコリアの地球接近(第1部でも、僅かながらの兆候が描かれますが)が中心的に描かれます。いってみれば、第1部は、常識的な世界に生きる様々の人間の俗な有様を、結婚披露宴という儀式の中で凝縮させて描き出しており、第2部は、有り得ないような自然の出来事が迫ってくる中における4人の動きを映し出します。

 この対比が至極興味深いのですが、まず興味を惹かれるのが、第1部の結婚披露宴における主要な登場人物の振る舞いです。
 例えば、花婿のマイケルアレクサンダー・スカースガード)は、直前に購入したリンゴ園の写真を見せて、「リンゴの木が君を幸せにする」などと言いますが(注2)、ジャスティンは、その写真を置いたままどこかへ行ってしまいます。
 また、この披露宴を企画して進行に当たっている花嫁ジャスティンの姉クレアシャルロット・ゲンズブール)は、ジャスティンに「今夜は、馬鹿な真似はしない約束よね」と念を押したにもかかわらず、彼女に振り回され続けて、「時々あなたが堪らなく憎くなる」と非難がましく言い放ちます(注3)。
 さらに、姉クレアの夫ジョンキーファー・サザーランド)は、披露宴会場として自分の豪壮な邸宅(18ホールのゴルフコースを備えていることが自慢のようです)を提供していますが、「このパーティにいくらかかったか、普通の人なら一財産だ」などとジャスティンに言います。
 ジャスティンの父親デクスタージョン・ハート)は、一方で匙を隠して騒ぎ立てたり、他方でスピーチで「愛する娘よ、輝いている」などと述べたりします。
 デクスターの元の妻でジャスティンの母親ギャッピシャーロット・ランプリング)は、披露宴におけるスピーチで、「私は、結婚制度も何も信じていない。せいぜい今のうちに楽しんで」などと元夫に当てつけがましく述べます。
 ジャスティンが勤める広告会社の上司ジャックステラン・スカースガード)は、披露宴におけるスピーチで、「彼女は広告業で才能があるから、これまでのコピーライターではなくてアートディレクターにする」と発表し、以後も尊大な上司風を吹かし続けます(注4)。

 更に興味を惹かれるのが、主人公のジャスティンがかなりの鬱病だという点です。第1部の披露宴においても、主役にもかかわらずジッとしていられずに、顔つきが酷く暗くなって、何度も宴会場を抜け出したりしています(注5)。

 結局、ジャスティンの考えられないような振る舞いから、結婚披露宴は台無しになってしまい(結婚は解消となります)(注6)、招待客は皆帰って(注7)、ジャスティンや、その姉のクレア、クレアの夫のジョン、そして二人の子供のレオが残される中で、映画は第2部に入り、惑星メランコリアが次第に接近してきます。

③第2部の舞台も、第1部と同じジョンの邸宅。ただ、劇場用パンフレット掲載の「Story」によれば、第1部と第2部との間には7週間の隔たりがあるとのこと。

 ジャスティンが邸宅に戻ってきますが(いったい何処に行っていたのでしょう?)、タクシーにも乗れないほど重篤な様子で(体に力が入らず、風呂に入ることも出来ません)、眠り続けます。
 他方で、クレアは、惑星が地球に衝突するからと不安になって騒ぎますが、ジョンは、「そんなことを言っている科学者はいない、地球の側を通過するだけだ」などと言って安心させます(注8)。
 ジャスティンも、クレアと一緒に庭のブドウを摘んだりしているうちに次第に回復し、クレア達と一緒に空を見上げて接近してくる惑星を見上げたり、ある時は川縁で全裸になって空を仰いだりします(その様子を、クレアは覗き見しています)。

 今夜惑星が通過するという日になると、これまで無断欠勤したことのない執事リトル・ファーザーイェスパー・クリステンセン)がジョンの邸宅から姿を消します(その結果、周囲にいるのは4人だけになってしまいます)。
 惑星が地球の近くを通過するのを見たいと言っていたレオを起こし、ジョンは、テラスに置いてある望遠鏡を覗いたりします。
 画面には大きくなった惑星が映し出され、また息苦しくもなってきますが、ジョンは、「惑星が地球の大気を吸い込んでいるだけで、惑星は時速10万キロで地球から遠ざかりつつあるから大丈夫だ」などと言っています。
 ところが翌朝になって、外の椅子で眠っていたクレアが起き出して周囲を見回すと、いるはずのジョンがいません。
 探しに行くと、厩舎でジョンが事切れていました(何かのためにクレアが買って、鍵を掛けた抽斗に仕舞っていた毒薬を仰いだようです)。
 ジョンの死体に藁を掛けてあげたクレアは、惑星が大きくなっているのを確認して泣き出してしまいます。
 馬はどこかへ走り去ってしまい、車も動かすことが出来ず、残る3人は邸宅の外には出れません。

 クレアは最後の時を覚悟しますが、手を繋いで一緒にワインを飲むといった儀式めいたことをしてそれを迎えようと提案します。
 他方、ジャスティンは、「ベートーヴェンの第9を流したり、キャンドルを灯したりするのもいいけど、そんなことは最低」と言い放ち、またもやクレアに「あなたが堪らなく憎い」と言われてしまいます。
 ジャスティンは、怖がるレオに「魔法のシェルターをつくればいいの」と言って、2人で森に入って木の枝を何本も集め、その皮をナイフで剥ぎ取ります(注9)。



 それらをテントの格好に立て3人は中に入って、惑星が衝突する瞬間を待ちます。サアどうなるでしょうか、……?

(2)とはいえ、惑星メランコリアは、突然大接近したかと思うと、また遠ざかったり、そしてまた近づくなどと、自然界では有り得ないような動きをすることから〔3月16日追記:この点については、下記の「佐藤秀」さんのコメントを参照〕、その名称からも簡単に予想がつきますが、ジャスティンに間隔をおいて訪れる欝状態を象徴しているもといえそうです。
 となると、第1部は、世俗の間における鬱病患者ジャスティンの動きを客観的な目から描き出し、第2部はそれを内面から象徴的に捉えたものといえるかもしれません。
 そうなれば、ラストの大衝突の映像も、現実に起こったことというよりも、むしろ、鬱病状態に患者が陥った様を具象的に描き出している、ということなのかもしれません(注10)。

 ただ、第2部のタイトルがクレアとなっていて、実際にもクレアが中心的に描かれていますから、ジャスティンの精神状態だけを表しているとばかりもいえない感じもします。
 それに元々、そうした精神状態を描くだけであれば、何もこんなに大掛かりなことをせずともと思えますし、またそうすることにどれほどの意味があるのか疑問なしとしません(注11)。

 そこから、惑星メランコリアが鬱状態を象徴しているなどといった解釈をせずに、やはりこの作品を通常のSF物(近未来?)と捉え、実際に起こりうる惑星と地球との衝突を描いていて、迫り来る大きな危難に対して人はどう対応するのかを描き出していると考えてみたら(注12)、あるいはそうしたシチュエーションを背景にした姉妹の葛藤を描こうとしているとみたら(注13)、さらには、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲が全編にわたって流れていることから、そのオペラで描かれる「愛の死」という観点から捉えてみたらどうかな(注14)、など様々に考えられるのではとも思えてきます。

 というように、本作に関しては、第1部と第2部との関係、更には第2部自体をどう捉えるのかが興味を惹きます。
 大袈裟に構えれば、ゲーテの『ファウスト』の第1部と第2部との関係に準えることが出来るかもしれません。というのも、その第1部は、ファウストとグレートヒェンとの恋物語であり、本作の第1部で描かれる結婚披露宴に対応し、その第2部は、皇帝に仕えるファウストの大旅行とか大事業や死の物語であって、本作の第2部で描かれる惑星メランコリアの地球衝突とジャスティンらの死に対応している感じがします(むろん、酷く大雑把過ぎる捉え方で、直ちに異論が出されることでしょうが)。
 『ファウスト』の第1部が比較的分かりやすいのに対し第2部が難解なのも、本作と類似しているといえるでしょう。

 あるいは、本作の第2部でジャスティンがクレアに、「最後の時には第9でも?」と皮肉を込めて言いますが、ベートーヴェンの第9交響曲の第1楽章~第3楽章と第4楽章との関係を、本作の第1部と第2部との関係に準えても面白いかな、とも思っています(なにしろ、第2部は、第9の第4楽章のソリストの数と同じ4人が登場人物ですし、それも男2・女2なのですから!)。

 それはさておき、第2部の解釈に当たっては、ある意味で、劇場用パンフレットに掲載されているラース・フォン・トリアー監督のインタビュー記事で尽きているのかもしれません。
 何しろ、そこでは、「この映画は、精神分析医のうつ病についての所見から発想を得たのが始まりだ」とか、「憂鬱は、ある意味恋に落ちるのと同じような甘い痛みなんだ。惑星メランコリアと地球の衝突はその象徴なんだよ」、「僕にとっては、ジャスティンは、メランコリアを体現したものなんだ」、「このメランコリアは、姉妹のひとりの象徴だというアイデア」などと述べられていて、本作は全体として鬱病患者を描き出したもの、といってしまえそうに思えてきます。

 製作者の意図は、いうまでもなく大層重要で、映画を見るに際し貴重な手がかりとなることは確かです。でも、それが明かされて、そしてそれですべてが解明されておしまいだとしたら、こんなつまらない話はありません。こうした作品の製作に当たっては、製作者がすべてをコントロールできるものではなく、製作者の意図とは大きく外れたものが観客に伝わるからこそ映画にする意味があるのだとも思われます。そういうところから、ここではほんの少々ながら製作者の意図なるものを括弧に入れて考えてみてはどうかな、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「全編に流れるワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の優雅なメロディや、絵画のようにシュールで美しい構図は、まさにアートと呼ぶにふさわしい。破壊的にもかかわらず、不思議な幸福感に包まれるラストもまた、印象に残る。もっとも話そのものはミもフタもない上に、2部構成で冗長。技巧的な語り口は面白いが、作品の評価は激しく分かれそうだ」として65点をつけています。




(注1)ここらあたりは、第1部において、ジャスティンが、部屋に飾られている抽象画の画集(カンディスキーとかマレーヴィチなど)を、ブリューゲルカラヴァッジョなどの画集に置き換えるあたりに対応しているのでしょう〔もしかしたら、序章が超スローで描かれているところから、未見ながら『ブリューゲルの動く絵』(本作でジャスティンの母親に扮しているシャーロット・ランプリングが出演しています!)とは逆に、動くものを静止させる方向に描き出そうとしているともいえるのかな、と密かに思っています〕。

 なかでも、花嫁衣装を身にまとったジャスティンが川の中をゆっくりと流れて行く様は、劇場用パンフレット掲載の滝本修氏のエッセイ「処罰と顕示/映画『メランコリア』の核」で指摘されているように、ジョン・エヴァレット・ミレーが描いた著名な作品「オフィーリア」そのものでしょう。



 さらに、同じジャスティンが木々の枝とか蔦を引きずりながらスローに走る様は、クマネズミには、松井冬子の「陰刻された四肢の祭壇」と類似の感じを呼び覚まします(丁度いま、横浜美術館で「松井冬子展」が開催中でもあり!)。





 なお、ジャスティンは、第1部で、「私思うように動けない。灰色の毛糸が絡まって足を取られ、すごく重く引っ張られて進めない」とクレアに打ち明けますが、彼女がゆっくりと走る姿は、あるいはそれを映像化したものかもしれません。

(注2)マイケルは、人前でスピーチをしたことがないとして、わずかに「I love you」と言って、「僕は誰よりも幸せな男だ、というのが偽りのない言葉だよ」と付け加えるくらいですが、人柄がいい点は間違いなさそうで、結婚解消の憂き目を見るとは思いもよらなかったでしょう!

(注3)でも、翌日、皆が帰った後に2人で乗馬を楽しんだ際、ジャスティンが「努力したのよ」というと、クレアも「そうね、頑張ったわ」と許しています。

(注4)彼は、披露宴の席で、2日前に雇い入れた若者をジャスティン担当に指名し、「ジャスティンは、必ずコピーを思いつく、その瞬間を逃すな」と命じます。それ以来、その若者は、ジャスティンにまといつきます。
 なお、どこまでも上司風を吹かすジャックに対して、ジャスティンは悪態を吐き解雇されてしまいますが、彼女はジャックに対して皿を投げつけます。

(注5)ジャスティンは、一度などは衣装を全部脱いで風呂につかったりします〔ギャッピーまで風呂に入ったのを見て、ジョンはクレアに、「君の家族はみな異常だ、信じられない!」と叫びます〕。
 さらに驚いたことに、ジャスティンは、上記の「注4」で触れた若者と、邸宅の前に設けられたゴルフコースにあるバンカーの中でセックスに及ぶのです(あとでその若者が、一緒に事業をやっていこうと提案したのに対し、ジャスティンはすげなく断りますが)!

(注6)そもそも、宴会場に花嫁花婿を運ぶ車が大きすぎて前に進むことができず、結局2人は途中から歩かざるを得なくなって、開始時刻に2時間以上も遅れて会場に到着するという出来事があって、最初からケチのついた結婚ではあったのですが!
 なお、マイケルが、ジャスティンとの別れ際に、「別の可能性もあった」と話すと、ジャスティンは、「そうね、でも分かっていたでしょ」と言い、それに対してマイケルは「そうだな」と応じます。

(注7)ジャスティンは、部屋まで用意してこの邸宅に泊って自分の話を聞いてほしいと父親に頼みこんだにもかかわらず、父親は置手紙をして立ち去ってしまいます。すべてにニヒルな態度を示す母親(ジャスティンに、「夢を見るのをやめて、早くこんなところから出ていくのよ」と言います)、逆に娘にきちんとした態度をとらず安逸な方に走りがちに見える父親との間で育ったことも影響して、ジャスティンは鬱病になったのでしょうか。

(注8)他方で、ジョンは、クレアには内緒で、食糧など備蓄用物資を倉庫に運び込んだりもしています。

(注9)第1部で、クレアの息子レオの部屋に入ったジャスティンは、レオから「いつシェルターを作るの?」と言われ、「たくさん作らなくちゃ」と答えていますから、2人の間では普段から“シュルター”の話をしていたようです。

(注10)だいたい、あのように地球より遙かに巨大な星が、太陽系の外から地球に接近してきたら、その引力で地球の公転や自転は大いに変化してしまうでしょうし(その前に、「惑星メランコリア」自体が、木星や土星の引力の影響を受けることでしょう)、地上の物体は、その引力によって、衝突よりかなり前に壊滅的に崩壊してしまうのではないでしょうか?
 なにより、「惑星メランコリア」と命名されていますが、どの恒星の「惑星」なのでしょうか?
 あるいは、太陽系の外の星ではなくて「小惑星」の一つ?でも、それらは地球よりもズット小さな物ばかりです。

 そこで、映像とは逆に、地球に「小惑星」の中の大きな物が衝突するお話としてみたらどうでしょう。過去にもそうした物が地球に衝突したことで、恐竜が絶滅したとされているようですから。
 ただその場合に問題なのは、衝突する場所が予め特定されるでしょうから、そこの住民は避難しさえすれば、映画のような事態にはならない可能性があるということでしょう。

(注11)劇場用パンフレットに掲載されているラース・フォン・トリアー監督のインタビュー記事で、監督は、「憂鬱に支配された人間は、普通の人間よりも大きな可能性を秘めている。彼らは、最悪の状況を常に想定していて、実際に悲惨なことが起こったときには、普通の人々よりもずっと冷静に対応できるんだ」と述べていますが、だからどうだというのでしょう。
 まさか、世の中の人は皆鬱病になるべきだというのではありますまい。

(注12)上記「注10」で述べたように、「惑星」の地球衝突が本作のような形で起きるのかどうか疑問なしとしませんが。

 それでも例えば、アカデミー賞映画『タイタニック』(1997年)で描かれている状況を考えてみてはどうでしょう。沈みゆくタイタニック号のなかで人々がどのような行動をとったのでしょうか(丁度、その映画が、このほど3D作品として再度お目見えするそうですが)?
 あるいは、ジャック(レオナルド・ディカプリオ)とローズ(ケイト・ウィンスレット)を合わせた人格が本作のジャスティンなのかもしれません。
 また、ジョンのような俗物丸出しの典型的な行動をとる人物として、ローズの婚約者キャル(ビリー・ゼイン)を挙げることが出来るのかもしれません。

(注13)ラース・フォン・トリアー監督は、インタビュー記事の中において、ジャスティンの名前の由来が、マルキ・ド・サドにあることまで明かしています。としたら、ジャスティンは、マルキ・ド・サドの『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』(または『新ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』)によるのでしょう。
 河出文庫の『美徳の不幸』(澁澤龍彦訳)の「初版あとがき」において、訳者の澁澤氏は、「サドが生涯を賭けて追求した美徳と悪徳の哲学的イメージがジュリエットおよびジュスティーヌという対照的な二人の姉妹の人格のうちに結実せしめられている」云々と述べています。
 そうだとすると、少なくとも「対照的な二人の姉妹の人格」というレベルでは、本作のジャスティンとクレアという姉妹は、サドのジュスティーヌとジュリエッタという姉妹と共通点を持っていると考えられます。
 例えば、次のような第2部における2人の間の会話はどうでしょう。
「ジャスティン:地球は邪悪、燃えても問題ない。
 クレア:レオはどこで成長するの?
 ジャスティン:地球の生命も邪悪。
 クレア:他にも生命はいるかも?
 ジャスティン:他にはいない。
 クレア:そんなことは分からない。
 ジャスティン:私には分かる。地球にしか生命はいない。」

(注14)Wikipedeiaの「トリスタンとイゾルデ」のによれば、前奏曲のテーマとしてワーグナー自身が、「愛の憧憬や欲求がとどまるところを知らず、死によってしか解決しないこと」と述べているとのこと。
 そうであれば、第1部の結婚披露宴が「愛の憧憬や欲求がとどまるところを知ら」ない様子を描いていて、第2部が「死によってしか解決しない」点を描いていると言えないこともないのではと思われます。




★★★★☆





象のロケット:メランコリア

恋人たちのパレード

2012年03月11日 | 洋画(12年)
 『恋人たちのパレード』をシネマート新宿で見ました。

(1)主演が『リメンバー・ミー』で好演したロバート・パティンソンと、『おとなのけんか』で出色の演技を披露したクリストフ・ヴァルツが出演するというので、丁度時間が空いていたこともあり、映画館に足を運びました。
 ただ、そんなことでこの映画を見ようとするのはごく少数派であり、映画館は、ロバート・パティンソンが主演をつとめる『トワイライトサーガ・ブレイキングゾーン Part1』の人気にあやかりたいとのことで、同時公開しているものと思われます。



 でも、同じ映画館で上映された前回の『リメンバー・ミー』同様、実に寂しい入りでした(あるいは、映画館の問題があるかもしれません。シネマート新宿の7階のスクリーンは、実に小さく、おまけに館内が真っ暗にならず、映画に集中できないのです。それに、劇場用パンフレットも制作されておらず、公開する側の熱意が少ないことも与っているのかもしれません)。

 なお、ヒロインも、『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(2006年)のアカデミー賞女優リーズ・ウィザースプーンながら、あまり印象に残ってはいませんでした(その後、目ぼしい作品に出演していないもようです)。

 それはさておき、物語は、主人公のジェイコブロバート・パティンソン)が、コーネル大学獣医学部の卒業試験の当日に、両親が交通事故で亡くなってしまうという悲劇に見舞われるところから始まります(注1)。同時に、家が父親の債務(注2)によって没収されるという憂き目にも遭遇し、ジェイコブは、着の身着のまま線路を歩いていたところ、オーガストクリストフ・ヴァルツ)が団長のサーカス団「ベンジーニ・ブラザーズ・サーカス」に拾われます。
 1931年というアメリカ大恐慌のさなか、サーカス団を酷く厳しい姿勢で運営しているオーガストにとっては(注3)、こんな若者を雇う余裕はないところでしたが、彼の獣医としての腕前(卒業試験を受けていないため、まだ正式な資格は取得していなかったものの)を見込んだのでしょう。



 他方、ジェイコブに与えられた仕事は、飼っている動物の糞の世話などでしたが、他方で、最初から一座のスター芸人のマーリーナリーズ・ウィザースプーン)に惹かれるものを感じてしまいます。
 ところが、彼女は団長のオーガストの妻なのです(注4)。彼女の方も、彼女が乗っていた白馬の病気に対するジェイコブの対応ぶりから(注5)、彼を意識するようになります。
 そして、白馬の代わりとして購入した象のロージー(注6)が、あろうことかジェイコブが操れるポーランド語(母親がポーランド移民でした)の命令に従うことがわかって、ジェイコブのサーカス団での居場所が確固としたものになり、またマーリーナともより親しくなっていきます(注7)。



 しかし、鋭い感覚を持ったオーガストが、この事態を見逃すはずはありません(注8)。
 ジェイコブとマーリーナの関係は、果たしてどうなるのでしょうか、……?

 余り期待しないで映画館に入ったのですが、どうしてどうしてなかなかうまくまとまった作品に仕上げられているなと思いました(こうした感じは、『リメンバー・ミー』の時も味わいましたが)。
 大恐慌時のアメリカのサーカス団という大層珍しい設定が興味を引きますし〔列車にサーカス小屋の機材とか、動物、それに団員を乗せて移動し(団員は、貨車の中に設けられた部屋で生活しています)、小屋を建設できる野原が見つかると、列車を止めて、そこに大きなテント小屋を造って興業をするといったシステムになっています〕、まだTVなどの娯楽に乏しかった時代ですから、観衆もサーカスの様々の出し物に酔いしれた様が映画からよくうかがわれます。

 まあ、獣医の卵がサーカス団に拾われ、なおかつ象がポーランド語の命令に従う、といったことなどはご都合主義といってもいいかもしれませんが、敵役のオーガストを演じるクリストフ・ヴァルツの巧みな演技もあって、全体としてまずまずの面白さではないかと思いました。

(2)テイラー章子氏は、「話の筋は単純。総じて役者では、クリストフ・ワルツとリース・ウィザスプーンが良かったが、しかし、何と言っても一番素晴らしい役者だったのは、42歳の象TAIだ。打たれて、うちしおれて哀しがったり、2本足でらくらく立ってみたり、音楽に合わせてステップを踏んだり、とてもよく訓練されている。鼻でコミュニケーションをとったりするところも可愛くて微笑ましい」として75点を付けています。




(注1)ただし、実際の映画の冒頭には、90歳ほどになったジェイコブが、どこかのサーカス団のチケット売場に現れて、残っていた一人の団員に、自分の過去のこと(1931年に事故によって解散したベンジーニ・ブラザーズというサーカス団のこと)を物語るというシーンが置かれています。要すれば、メインの物語は、ジェイコブによる70年ほど前の出来事についての回想なのです。
 なお、彼によれば、妻は既に亡くなっており、今では5人の子供が順番で自分のいる老人ホームにやってくるとのこと。

(注2)医者であった父親は、一方では、貧しい者には診察代を請求せずに、代わりに鶏の卵などを受けとっているにもかかわらず、他方で、息子のジェイコブの学費のために家を担保に借金をしていたとのこと。

(注3)オーガストはゴロツキを雇っていて、冗員淘汰のため、余計な人間を走っている列車から外に突き落とさせたりしています。
 オーガストの話によれば、詐欺師の支配人をサーカス団から追い出して、自分がオーナーとなって才能ある芸人を雇い入れ、健全でペテンなしのサーカスを提供しようとやってきたとのこと。でも、それは建前であって、内実は火の車以上であり、酷いことにも手を下してきたようです。

(注4)マーリーナの話によれば、元々は、生後3日で新聞紙に包まれて捨てられていたところを拾われて施設で育てられたものの、その施設を逃げ出したら偶々このサーカス団に遭遇し、「オーガストと目があった瞬間、この人だと」と思って結婚したとのこと。
 なお、サーカス団の中では、彼女はお高い女で誰とも話さないから、声を掛けるなといわれています。

(注5)オーガストからは、「馬の変わりはいない、治すことが出来たらお前を雇ってあげよう」と言われていたにもかかわらず、その馬が「蹄葉炎」で治らないことが分かっていたジェイコブは、オーガストが持っていたピストルでその馬を射殺してしまいます。
 これを知ったオーガストは、自分の命令に従わない者は不要だとして、ゴロツキ達に命じて彼を列車の外へ放り出そうとしますが、すんでの事でオーガストは思いとどまります(大卒の獣医がいても悪くないと思ったのでしょう)。

(注6)象をサーカス団に連れて来た男は、「象使い」がいなければ象を売ることが出来ないと言ったため、ジェイコブは「自分が象使いだ」と名乗りでます。
 それで、ジェイコブは、象の世話をすることになりますが、オーガストは、手厳しく教え込まないと駄目だとして、ジェイコブもマーリーナもそんな動物虐待は出来ないと反対するものの、先の尖ったフックを使って象を動かそうとします。こんなところからも、ジェイコブとマーリーナの間には、親しみ以上の感情が形成されていくようです。

(注7)こんなところから、映画の原題は、サラ・グルーエンの原作小説と同様に“Water for Elephant”とされているようです〔ちなみに、ベストセラーの原作小説の邦題は『サーカス象に水を』(川副添智子訳、ランダムハウス講談社):書評は、たとえばこちらを〕。
 ともあれ、映画の邦題「恋人たちのパレード」では、なんのことやらサッパリ分かりません(マーリーナはサーカス芸人ですが、ジェイコブは裏方なのですからパレードしたりはしません!)。

(注8)団員達が町に出てバーで騒いでいたときに、禁酒法による手入れがあり、ジェイコブとマーリーナは一、緒に逃げる途中で物陰に隠れたときに、キスをするに至ります。でも、それ以上には進まなかったにもかかわらず、別のルートで小屋に逃げ帰ったオ-ガストは、何かあったに違いないと睨み、ことあるごとにそのことを仄めかします。その挙げ句に、……!





★★★☆☆



象のロケット:恋人たちのパレード

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

2012年03月10日 | 洋画(12年)
 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編からかなりいい映画ではないかと思ったのですが、実際に見てみてもなかなかの出来栄えの作品だと思いました。

 ある意味で、『サラの鍵』同様、「」を巡ってのお話と言えるでしょう。というのも、家に引きこもりがちで友達がいないオスカー少年(トーマス・ホーン)(注1)は、大好きな父親を突然大事故で亡くした後(注2)、1年経過して、クローゼットにあった古い花瓶に封筒(そこには“black”と書かれています)を見つけ、その中から鍵を取り出します。
 オスカー少年は、その鍵こそは父親が遺してくれたもの(注3)で、“black”とされる人物に巡りあえば分からなかったことが何もかも明らかになると考えます。
 そこで、管理人に貸してもらった電話帳から、ニューヨーク市内に住む“black”のつく人を書き出すと472人。オスカー少年は、その日から一人一人会いに行き出します(注4)。
 さあその調査行は、はかばかしい結果をもたらすのでしょうか、……?

 オスカー少年の精神状態がかなり複雑に描かれていて(アスペルガー症候群か、あるいは自閉症、そしてPTSD)、例えば外出するときは、タンバリンを叩きながら歩いたりします。
 こうした息子のことが心配なのでしょう、生前の父親(トム・ハンクス)は、様々な遊びを創作してオスカー少年の気持ちを外に向けようとします。中でも出色なのが、ニューヨーク市の「第6行政区」の探索(注5)。
 これに対して母親(サンドラ・ブロック)は、もちろん気がかりには違いありませんが、むしろ冷静に客観的に息子の行動を見ようとします。その結果、母親は自分のことを愛してくれていないのでは、とオスカー少年は誤解してしまうのです(注6)。



 こうした3人の関係に、更に祖母たちが加わって、一見すると狭そうな世界に入り込んでいるはずのオスカー少年の世界も、随分と濃密な人間関係の中にあるなと分かり、興味が湧いてきます。
 特に、オスカー少年が住むマンションの前の建物には、彼の大好きな祖母(ゾーイ・コールドウェル)がいますが、その隣室に間借りしている老人(マックス・フォン・シドー)が、後半はオスカー少年と一緒になって“black氏”調査にあたります。彼はどうもオスカー少年の祖父らしいのですが(注7)、一言も喋らないのでよく分かりません(注8)。とはいえ、謎めいた間借り人が加わることによって、単調な“black氏”調査にもアクセントがつき出します。




 本作は、いうまでもなく9.11を見すえた作品ですが、ただそのことに余り拘泥すると、持っている面白さを取り逃がしてしまうのではないかと思い、ここでは敢えてその点に触れないでおくことにします(また、通り一遍のことを述べてみても、きちんと整理がつくだけのことで、逆に9.11を取り逃がしてしまうことにもなりかねないのではとも思います)。
 政治的な意味合いといったことは下記(3)で触れる前田有一氏にでも任せることにして、より視線を下げてこの映画を見ると、父親との「第6行政区」調査行、間借り人の老人との“black”調査などなど、本作には少年が大好きな冒険の夢が一杯詰まっているのではないか、大人が見てもワクワクしてしまうのではないか、と思いました。
 まして、“black”調査の結果(注9)が最後には母親の真情(注10)にまで行き着くのですから、なかなか良くできた作品です。

 オスカー少年に扮するトーマス・ホーンは、本作が映画初出演ながら、そして極めて難しい役柄ながら、素晴らしい演技だったと思います。



 クマネズミにとって、父親役のトム・ハンクスは『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』(2008年)以来ですし、母親役のサンドラ・ブロックも『しあわせの隠れ場所』以来ですが、二人ともそんなに出番は多くはないところ、やはりその存在感はバツグンです。




 間借り人の老人役のマックス・フォン・シドーは、『ロビン・フッド』でラッセル・クロウのロビン・フッドが身を寄せるノッティンガム領主サー・ウォルターの役を重厚に演じていましたが、本作でも実に味わい深い演技を披露しています。

(2)『サラの鍵』を取り上げたエントリの(2)では、次の4種類のを取り上げてみました。
①開けるために使われる鍵 ……サラの弟が閉じ込められた納戸を開けるために使われる鍵
②封じ込めるためにかけられる鍵……知られたくない過去を封じ込めるための鍵(ジュリアはそれをわざわざこじ開けようとしました)
③かかっているようでいて、実はかかってはいない鍵……谷崎潤一郎の『鍵』にみられるもの
④なかったにもかかわらず新たに作り出される鍵……ユダヤ人としての母親サラのことが明るみに出ないように新たにその息子ウィリアムが設けた鍵

 本作でオスカー少年が持つ鍵は、どうやら上の4つのものとは違って、第5番目の鍵ともいうべき“差し込むべき鍵穴が見つからない鍵”でしょう。
 でも、その本来の鍵穴が見つかった時、オスカー少年が期待したものはそこになかったものの、その鍵穴を見つけたことによって、逆にオスカー少年の閉ざされた心が開いてしまい、最後まで秘密にしていたことを打ち明けるに至るというのも、実によくできたストーリーだなと思いました。
 それでは、『ヒューゴの不思議な発明』に見られるものはどんな鍵なのでしょうか、今から楽しみです。

追記:「鍵」を起点とするヨリ深い考察については、このサイトの記事をご覧下さい〕

(3)渡まち子氏は、「どれほど悲しみに打ちひしがれようと、子供を愛し守ることを決して止めない母の強さに私たちはノックアウトされる。そしてこれが、少年の心の再生をみつめると同時に、母の限りない愛を描いた物語であると分かり、ふくよかな感動に包まれるはずだ」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「単なる感動ドラマとしても、9・11事件以降のアメリカ社会に興味がある人にとっても、またはアカデミー賞の作品賞候補がどれほどのものかを知りたい人にとってもすすめられる佳作。あるいは私のように、ほとんど不要なまでに深読みをして勝手に楽しみたい人にもピッタリだ。「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」は、何だかんだ言っても今年を代表する作品であることは間違いない」として65点をつけています(注11)。




(注1)オスカー少年の年齢について、Wikipediaでは、原作小説においては9歳とされているものの、映画では11歳だと述べられています。一方、劇場用パンフレット掲載の立田敦子氏のエッセイ「答えのない世界に、問い続ける力」では「12歳になるトーマスのひとり息子」と述べられています。

(注2)オスカー少年は、父親の遺体が見つからず、空っぽの棺で葬式が行われたことに納得できません。父親の死から1年経過したにもかかわらず、母親が整理せずにクローゼットに掛けられたままになっている父親の洋服の臭いを嗅いでみたりします。

(注3)父親は様々の物を残してくれましたが、オスカー少年が秘密にしているものがあります。それは、偶々家に早く帰ったときに、父親からかかってきた留守番電話に残された声(「帰っているかい、いるなら出てくれ。事故らしいが大丈夫だ。何か分かったら連絡する」など8分間分)。オスカー少年は、その声が入っている電話機を外して戸棚に隠し、新しい電話機を取り付けます。

(注4)オスカー少年の計算によれば、一人あたり6分間として自由になる時間を充てると3年もかかってしまうとのこと。にもかかわらず、誰もが自分のことを話したがるので、どんどん時間が長くなってしまうようです。

(注5)実際には存在しなかった「第6行政区」の証拠を集めようと、二人で市内のアチコチに出かけたりします。父親によれば、セントラルパークは昔「第6行政区」の真ん中にあったとのこと。また、古いフィルムに写っている宝石店(Schee & Son:実は、父親が経営)も証拠だとのこと。
 こういう話には誰しも心を躍らせることでしょう(自分の家の庭から弥生式土器の破片が見つかったとしたら!)!

(注6)オスカー少年は、母親に対して、「あのとき、お父さんから家に電話があったにもかかわらず、お母さんは家にいなかったじゃないか」と責めたり、「あのビルにいたのがママだったらよかった」とまで言ったりします(でも本心でもなさそうです)。
 実際には、母親は父親と僅かながらも電話をしていたのですが。

(注7)映画では祖父の過去について殆ど分かりませんが、劇場用パンフレットに掲載されているマックス・フォン・シドーのインタビュー記事などから分かるのは、元はドイツ生まれで、ドレスデンの爆撃に遭遇して恋人と子供を失い、それで父親になるのが怖くて、妻(オスカー少年の祖母)から逃げていたとのこと。

(注8)祖父は、手のひらに“Yes”“No”の刺青をしていて、それを使ってコミュニケーションをとっています。

(注9)オスカー少年は、差し込むべき鍵穴を知っている人物アビー・ブラック氏に巡り会いますが、それは当初オスカー少年が考えていたようには、父親に繋がるものではなく、アビー・ブラック氏とその父親との関係に係わるものでした。
 でも、そのことがわかると、オスカー少年は、祖父にも言えなかった父親の留守番電話の秘密をアビー・ブラック氏似打ち明けて、心の重荷を解き放つに至ります。
 〔オスカー少年は、「パパは僕が家にいることが分かっていて、“Are you there?”と9回も呼んで、勇気を持って電話に出るようにかけてくれたにもかかわらず、僕はどうしても電話に出ることが出来なかった」と言います。〕 

(注10)母親は、オスカー少年の“black”調査に際しては、彼に先回りして調査先の人に会っていたことを告白し、オスカー少年は、母親が自分のことを粗略に扱っていたのではないことがわかり、二人の関係は一気に改善します。

(注11)ただ前田有一氏は、本作と『ヒューゴの不思議な発明』の「どちらにも間接的に戦争が暗い影を落としている点、しかも戦争に行った者であるとか、戦争を起こした側の話ではなく、それとは一見無関係な民間人の物語に なっているところが興味深い。民間人にとっては戦争は天災と同じ。彼らの物語は、厭戦感の強い反戦映画になるしかない宿命である」として、そこから、「戦争はつらい、被害も甚大だ──。決してその戦争の原因を見ようとはしない、それほどまでに疲れ切った厭戦気分。それが現在のアメリカ国民の共感ポイントということか」というところまで話は及びます。
 むろん、映画からどんなことをどんなふうに引き出そうとも見た人の自由ではありますが、クマネズミは、この映画を見て「厭戦感の強い反戦映画」とはトテモ思えませんでした。そもそも、前田氏のように、「戦争を起こした側」と「民間人」とを截然と分別できるのでしょうか(まして、ここで問題にしている「テロ戦争」において)?





★★★★☆



象のロケット:ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

ヤング≒アダルト

2012年03月08日 | 洋画(12年)
 『ヤング≒アダルト』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)最近、洋画は「TOHOシネマズシャンテ」でしか見ていない感じで、映画館の入口に掲示してある公開中作品のポスターからすると、どれもクリアしてしまっています!銀座周辺にはたくさん映画館はありますが、丁度こちらの趣向にあった作品が選ばれて公開されていることの他に、このところできるだけ渋谷近辺で見ようとしているために(平日の帰りができるだけ遅くならないように)、こんな結果になるのかもしれません。

 そんなつまらないことはサテおき、この映画の主人公メイビスシャーリーズ・セロン)は、大層魅力的な37歳ながらも、変に自己中で何でも自分の思い通りになると考えている、端から見ると実に鼻持ちならない嫌味な女性。
 彼女は、高校卒業後、ミネソタ州にある故郷の田舎町を出て、大都会(同州のミネアポリス)へ行き、ゴーストライターとして活躍しています(注1)。
 そんな彼女のところに故郷の田舎町から、子供の誕生パーティーへの招待メールが届きます。それも、彼女が高校時代に付き合っていたバディパトリック・ウィルソン)から。



 バツイチのメイビスは、現在、セックスフレンドに事欠かないものの、きちんとした恋人はおらず、このままで行くと独り身を通すことになりかねないとの危機感もあり、さらには、高校時代抜群だったその魅力は未だ十分残っているとの強い自信にも裏打ちされて、ここは一つバディをその妻ベス(注2)から奪ってしまおうと考え、故郷に戻ります(注3)。
 サアどんな騒動が持ち上がるのでしょうか、……?

 といっても本作は、コメディ一辺倒というシロモノではなく、仲間から暴行されて下半身が不自由になってしまったクラスメイトのマットパットン・オズワルト)も登場して(注4)、むしろ生真面目にお話は展開していきます。



 それも、現在、ゴーストライターとして書き続けている小説の最後の方の展開とシンクロさせながらのストーリの描き方は(注5)、なかなか面白いと思いますし、日本でいうなら一旗揚げようと上京する若者の姿とダブりますが(注6)、こんなにやたらと自己を押し出す女性は、日本はもとより米国だってなかなか見当たらないのでは、とも思いました。

 本作は、女性から見てもとんでもないと思うような女性を描いていますから、特に男性のクマネズミにとって理解云々という話に直ちにはならないものの、もう少し抽象的に捉えてみたらどうかな、例えば、権勢をふるえたのはそれなりのポストに就いていたからなのに、自分の実力によるものと勘違いして、定年でポストを離れたにもかかわらず、昔の職場にやってきて威張り散らしている昔の上司の姿(かつての部下は下を向いて冷笑しています)をメイビスにダブらせてみたら、あるいは面白いかもしれないのでは、と思ったりしました。

 主演のシャーリーズ・セロンは、『あの日、欲望の大地で』以来ですが、なかなか難しい役を十分説得力のある演技でこなしているなと思いました。



 なお、こんな役を引き受けるものですから、彼女は、次作の『スノー・ホワイト』で、白雪姫ではなく“邪悪な女王ラヴェンナ”の方を演ずる羽目になるのでしょうか(デモ、実際にも36歳では、白雪姫は無理というものでしょう!)?

(2)本作の主人公メイビスは、元々アルコール依存症気味ですし、さらにまたコーラの大ビンを、時と所を考えずにガブ飲みするなど、かなり荒んだ生活を営んでいます。
 でも、体形が気になる年頃なのでしょう、TVを見ながら体操をしたり、今回のお里帰りの際も、バディとのデートの前には何度もエステに行って“おめかし”に余念がありません。
 特に、バディの子供の命名式のパーティー出席に当たっては、絶対に彼を自分に取り戻すのだとの決意のもと、ツイードスカートと白いブラウスの上にカーディガンを羽織るという格好で、あまつさえ赤ちゃんへのプレゼントとして「ゲップタオル」まで持って現れます(注7)。



 こういったあたりはクマネズミにはなかなか理解が及びがたいものの、脚本家ディアブロ・コディとか衣装デザイナーなどの細心の注意によっていると思われ、なかなか興味をひかれるところでもあります。

(3)前田有一氏は、「「JUNO/ジュノ」がそうであったように、監督、脚本家、主演女優の誰が欠けてもうまくいかなかったであろう作品。「ヤングアダルト」は、その奇跡のコラボレーションが再びうまくハマった傑作である」として80点をつけています。
 渡まち子氏は、「まったく成長しないヒロイン像が新鮮な「ヤング≒アダルト」。美人女優のセロンが演じるからこそ説得力がある」として70点をつけています。




(注1)原題の「Young Adult」は「少女向け小説」という文学ジャンルを表していて、メイビスは、そのジャンルの小説(『花のハイスクール』)のゴーストライターです。
 なお、アメリカの場合、ゴーストライターの名前が表紙の裏に小さく記載されていることが、この映画を見てわかりました(でも、それだったら、ゴーストライターともいえないのではないでしょうか?)。
 また、田舎の町の書店で、自分がゴーストライターとして書いた小説本がうず高く積まれているを見て、メイビスが「サインしましょうか?」と書店員に尋ねると、彼は「返本できなくなるので困ります」と答え、メイビスを怒らせます(仕事の方でも、メイビスは、どうやら厳しい局面に立たされつつあるようです)。

(注2)バディの妻ベス(エリザベス・リーサー)は、同じ町の子持ち主婦3人とでバンドを組んで、ドラムスを担当しています。町のバーでそのバンドが演奏した曲目は、なんとメイビスがバディと昔よく聞いたもので、今回メイビスが故郷に戻る車の中でもその曲をかけていたのです!きっと、バディがベスにその曲を教えたのでしょう。すると、メイビスの立場は、……?
 実は、その演奏を聴いていたメイビスは、一度は唖然とするものの、自分の魅力が負けるはずがないとの自信で戦いに挑みます。でも、……。
 なお、このサイトによれば、ここで取り上げた曲は英国のTeenage Fanclubの“The Concept”とのこと。

(注3)故郷の町に戻って早速バディに電話を入れ、「すぐに出てこない?」と尋ねたところ、それはできないと断られ、結局、翌日の6時に、バディの指定する場所で会うことになりました(翌日も、すでに来て待っているかなとレストランを見回しても、彼はまだ到着していませんでした)。
 こんなところから、察しが良ければ、自分が介入する余地がなくなっていることにすぐに気がつくはずです。でも、自分のことだけを考えているメイビスには、事態を客観的に見る余地などもとよりあるはずもありません。その結果、……。

(注4)メイビスが故郷の町に到着した夜(バディとは会えません)、メイビスは、食事をするために入ったバーでマットと遭遇するのです。
 高校時代には、メイビスの眼中に彼のことは全く入っていなかったので、すぐには判別できませんでしたが、話していくうちに次第に分かってきます。そして、彼が、誤ってゲイだとして体育会系の者に酷い暴行を受けて、それ以来、身体障害者になっていることも(現在のところ、家の小さな醸造所でバーボンウイスキーを作っています)。
 マットは、メイビスの話を聞いて、「過去は過去だ、君は大人になっていない、他人の幸せを壊しに来た」と非難します。それは正しい見方なのですが、どうやらマットは、高校時代からメイビスに強い憧れを抱いていたようなのです。それで、……。

(注5)メイビスが書いている小説の主人公が恋するライアン(“永遠の恋人”としてなんとか引き留めねばと思っています)は、ラストに至ると、海にヨットに出て遭難して急死してしまいます。そして、主人公は、「外に飛び出すのだ、その町に別れを告げて、これからが人生のスタートなのだ」と思いますが、まさにメイビスの心境そのものなのでしょう。
 でも、マットは一夜の良い思い出を受けとったものの、バディは、追い詰められたメイビスから、いたちの最後っ屁 のごとくに重大な事柄をみんなの前で公表されて、いくら昔のこととはいえかなり傷ついたのではないでしょうか(妻のベスだって)?にもかかわらず、そんな人達を故郷に残し、自分だけは元の都会に戻って心機一転で新しい船出とは、メイビスも随分とノーテンキなものだという感じもしますが?

(注6)『アフロ田中』!

(注7)ここら辺りは、このサイトを参照しました。





★★★☆☆





象のロケット:ヤング≒アダルト