映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

偽りなき者

2013年03月27日 | 洋画(13年)
 『偽りなき者』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作はデンマーク映画。
 主演のマッツ・ミケルセンはカンヌ国際映画祭で主演男優賞を獲得しました。

 映画の舞台は、デンマークの田舎の小さな町。
 主役のルーカスマッツ・ミケルセン)は42歳。離婚した上に、勤めていた中学校の閉鎖で失業中。
 ただ、幼稚園の口が見つかり、いまでは園児と仲良く遊ぶ毎日。
 他方で、昔からの仲間たちと近くの湖で戯れたり、また森に入って猟銃で鹿狩りをしたりしています。

 ところが、親友テオの娘で園児のクララにちょっと冷たい態度をとったところ、彼女は、性的虐待を受けたというようなとんでもない嘘を園長に吐きます。
 園長グレテは事を重大視し(注1)、ついには警察まで介入することになります。
 ルーカスはいったいどうなってしまうのでしょう、……?

 幼い女の子が吐いたちょっとした嘘がもとで一人の大人の人生が大きく狂ってしまうという有様が大層リアルに描かれていて、デンマーク映画の質の高さをまたまた認識しました(注2)。

 マッツ・ミケルセンは、ナチスに対する抵抗運動を描いた『誰がため』で見ましたが、本作では、初めのうちは園児と一緒になって遊びながらも、事件が起こると一転して親友からも見放されて(注3)、苦悩することになる役柄を、実に見事に演じています。




(2)本作については、『フライト』についてのエントリの「注11」でほんの少し触れましたが、両作はある程度比較できるかもしれません。
 まず、『フライト』では、公聴会において機長のウィトカーは嘘を吐かずに真実を証言しますが、本作のクララは、園長などに問い詰められると、吐いた嘘を肯定します。
 そのため、本作では、その後に起きた波紋の広がりを描いて行くわけですが、他方の『フライト』では、機長ウィトカーを巡る個人的な話に縮小してしまいます(注4)。
 すなわち、本作では、幼稚園に勤務する男を巡って起きたごく小さな事件にもかかわらず、その社会的に大きな影響がじっくりと描かれているのに対して、『フライト』では、航空機の墜落事故という大きな事件が起きたにしては、ラストの方では、ごく個人的な小さなレベルの話になってしまっている感じです(注5)。
 こうなるのも、本作が、『フライト』のように、道徳的なメッセージ(注6)を観客にあからさまに提示しようとはしていない点にあるのではないか、とクマネズミは思っています。

(3)本作のある意味で衝撃のラストについては、色々の解釈があるようです(以下は大きなネタバレになりますので、ご注意ください)。
 確かに、ルーカスが抱いた幻想(あるいは妄想)とも受け取れますが、狩猟のために森に入ったルーカスめがけて、実際に銃弾が撃ち込まれたとみてもかまわないのではないでしょうか?

 事件があった次の年、息子マルクスの成人(注7)を祝うパーティー(マルクスに猟銃が手渡されます)に、ルーカス(注8)の仲間が夫婦でこぞって参加して祝福するわけですが、その様子を見れば、警察に捕まったルーカスは、とっくに釈放されていたことが分かります。
 でも、それはおそらく天下晴れての無罪放免ということではなく、証拠不十分ということではなかったかと推測されます。
 なにしろ、クララの証言しか存在しないのですから。
 状況証拠と思われる証言(「ルーカスは、家の地下室で悪いことをしている」)も、ルーカスの家には地下室がないのですから、いい加減なものです(注9)。

 でも、純粋無垢で嘘を吐くはずがないと信じられた幼い子供の言うことは間違いないと、周りの大人たちは一度は皆そう考えたのですから(注10)、嫌疑不十分で釈放されたルーカスに対して、決して許さないと考える人たちがいてもおかしくありません。
 彼らは、ルーカスがこの町にいる限り、また同じような犯罪が起こる可能性があるとして、彼を排除しようと考えるかもしれません(注11)。

 ソウいえば、本作の英題は「The Hunt」(原題「Jagten」の英訳)であり、本作の中では、ラストの他にもう一か所、鹿を撃つ場面が描かれます。
 そこでは、ルーカスは、まったく無防備な鹿を猟銃でいとも簡単に仕留めます。
 鹿のような動物は、熊などと違って、猟銃を手にする狩猟家にとっては実にたやすい標的なのでしょう。
 それと同じように、ひとたび疑惑をもたれて傷を持ってしまったルーカスを打ち倒すのは、たとえ再び元の仲間たちに囲まれていようと、鹿よりもズッと簡単なのではないでしょうか?

(4)映画評論家の品田雄吉氏は、「いわれない告発にじっと耐えるミケルセンの演技は、人間としての誇りを必死の思いで保持しようとする姿勢を見事に体現して、第65回カンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞したのもうなずける」、「もし自分がこの共同体の一員だったなら、と考えさせずにはおかない作劇と演出。訴求力の強い映画である」と述べています。



(注1)本作において、やり過ぎではないかと思えるのは園長グレテの行動です。



 園長にしてみれば、取扱いが酷く難しい性的虐待問題だけに、事が大きくなる前に十分な措置を取っておくべきだと判断したのでしょう、クララの言うこと(調査員のヒアリングの際は、質問に頷くだけのものですが)を絶対視し、客観的な裏付けを求めることなく、すぐさま園児の父兄などに話をし(それも誇張して)、果ては警察にまで事件を通報してしまいます。
 ただ、過剰に見えるこんな行動を園長がとってしまうのは、あるいは、劇場用パンフレット掲載の大辺理恵氏のエッセイ「「偽り」の在処」に述べられている1997年の事件(「ある男性の先生が幼稚園で20名にものぼる子どもたちにみだらな行為を行ったという罪で3年半の懲役刑を科せられた」)を踏まえてのことかもしれません。

(注2)クマネズミは、これまで、本文で触れる『誰がため』の他に、『未来を生きる君たちへ』、『光のほうへ』を見ました。

(注3)無二の親友テオも、自分の娘が被害者であることから、ルーカスに対し「今度娘に触ったら、脳天に銃弾を撃ち込んでやる」などと言いますし、マルクスが「父を助けて」と訪れた時も、友人たちと一緒になって彼を道路に叩き出してしまいます。
 (それでも、ルーカスの毅然たる態度に、最後にはルーカスを信じるようになり、一人家の中に引っ込んでいるルーカスに食事を届けに行きます)




(注4)『フライト』のラストの方では、機長ウィトカーが5年の刑期で刑務所に入り、そのためもあってアルコール依存症から脱出できたことを囚人の前で話したり、また、自分が不利になることを省みずに勇気を以て真実を述べたことから、離反していた息子が刑務所に面会に訪れたりするシーンが描かれます。

(注5)『フライト』では、機長ウィトカーは、真実を述べたことによって刑務所入りにはなったものの、親しい人たちなどからは勇気ある行動として称賛されています。
 ただ、話はこれで止まらないはずです。映画では描かれませんでしたが、機長が自分の非を認めることによって、墜落事故で犠牲となった乗客に対して会社が支払わなければならなくなる損害賠償額は莫大な金額に上って、会社の存続が危うくなるかもしれません(そうなれば、会社従業員の解雇といった事態につながるかもしれません)。
 それに、墜落の本当の原因とみられる機体整備不良の問題がうやむやとなってしまい、第2、第3の事故が起こる可能性もでてくるでしょう。
 機長ウィトカーの行動は、クララが嘘を吐いたこととは比べ物にならないほどの社会的な影響力があったと思われるところです(でも、映画では何も描かれませんでした)。

(注6)“アルコールは控えめに”とか、“嘘を吐くな”といったような。

(注7)上記「注1」で取り上げた大辺氏のエッセイによれば、「デンマークで狩猟をするには、免許を取る必要があり、取得試験に挑戦する資格は16歳になっていれば与えられる」とのことですから、マルクスは16歳になって試験に合格したのでしょう。

(注8)ルーカスは、息子マルクスだけでなく、幼稚園の同僚のナディアとともに式に臨みます。
 ナディアとは事件の前に深く知り合い、離婚して一人身だったルーカスは、一緒に暮らしてもと思っていたところに事件が起こり、ナディアをも遠ざけていました。
 なお、このナディアは、デンマーク人ではなく外国人(東欧からでしょうか)とされ、幼稚園の同僚たちとも、難しい話となると英語で会話します。
 ルーカスも、途中から幼稚園の教師になりましたから、ある意味で他所者同士ということで、二は急接近したのかもしれません。

(注9)ルーカスの無実を信じている親友のプルーンが、仲間にそんなことを話しています。

(注10)すでに公開が終了しましたが映画『約束』で描かれている「名張毒ぶどう酒事件」では、奥西死刑囚がたった一度した自白(その後、否定)によって死刑判決を受ける経緯が描かれているとのことですが(未見です)、最初にした証言の重みがうかがわれるところです(本裁判の問題点については、ここでは控えます。また、本作のクララは幼児ですから、余り比較する意味合いはないのかもしれませんが)。

(注11)ここのところは、全く状況は異なりますが、『脳男』において染谷将太が扮した志村のことを思い出してしまいました(志村は、社会に復帰するものの、結局「脳男」に殺されてしまいます)。




★★★★☆




象のロケット:偽りなき者

愛、アムール

2013年03月25日 | 洋画(13年)
 『愛、アムール』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)前作『白いリボン』に引き続いてカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したハネケ監督の作品(アカデミー賞の最優秀外国語映画賞も受賞)というので、映画館に足を運びました。

 前作は随分と見応えのある作品ながら難解でもあったために覚悟していたところ(注1)、本作で描かれている事柄自体は実に単純です。

 映画は、パリのマンションで暮らす音楽家の老夫婦を巡って描かれます。
 ある朝、ちょっとしたことで妻・アンヌエマニュエル・リヴァ)が病気であることがわかり(頸動脈が詰まっているようです)、手術を受けたものの、5%の失敗例に入ってしまい、右半身が動かなくなります。



 以後妻は車椅子の生活となり、夫・ジョルジュジャン=ルイ・トランティニャン)の世話を受けることに。



 妻が「二度と病院に戻りたくない」と強く言うので、夫は妻の面倒を自宅で見ますが、マンションの管理人夫婦が感嘆するほどかいがいしく妻の介護にあたります。
 ときどき娘・エヴァイザベル・ユベール)も状況を見にやってきます。



 ですが、妻の病状は次第に悪化していき、そして……?

 話自体は今やあちこちに転がっている平凡さだと思えるものの、演じる俳優(注2)の抜きんでた演技力と、全体をどこまでも静謐にとらえようとするカメラワークなどが相俟って、最後まで画面に引込まれてしまいました。

(2)重篤な老人を自宅で在宅介護するのは非常に大変なことでしょうが(老老介護の場合はなおさら)、この夫婦の場合、妻に対する夫の強い愛情がそれをなんとか可能にし、さらには、マンションの管理人夫婦の好意などもあって、どうにか進められていきます。
 ですが、一見すると平穏そうな彼らの生活を揺り動かし脅かすものとして、外部からは娘エヴァと鳩や看護師(注3)が入り込んできますし(注4)、内部では妻の病の進行があります。

 娘のエヴァは、そんな彼らの暮らしを懸念して時々やってくるのですが、彼女自身様々の問題を抱え込んでいるようで(注5)、散々心配だけして帰ってしまう感じです(注6)。
 また、は、2回ほど彼らが住む部屋に外から入り込んできてしまいます(注7)。

 こうした外部からの侵入者は、なんとか食い止めることができても、アンヌの容態の方は、病院に入院しているわけではないためどんどん悪化してしまいます。
 これ以上、こうした状況を継続できないと悟ったのか、ジョルジュは最後の一線を越えてしまいます。
 そして、後に残されたものは、映画では最初に示されるアンヌの遺体。
 結局そこまで行かなければ、究極的な平穏な生活は得られないということなのでしょうか(注8)?

(3)これまで何度か申しあげたようににこだわってきたクマネズミとしては(注9)、本作で寝室の鍵のかけられる場面が2回(注10)ほど出てくる点が気にかかります(注11)。

 一度目は、エヴァがドアをノックするのを聞いて、アンヌが寝ている寝室にジュルジュは鍵をかけてしまいます。
 ジョルジュが留守電にも出ないようになってしまったので、エヴァが心配してやってくるわけですが、初めのうち、「ママの容態は日に日に悪くなってきている、誰にも会いたがらない、もう放っておいてくれ」などと言って、ジョルジュは、アンヌに会わせないようにします。
 ですが、アンヌが催促すると、ようやくジョルジュは鍵を開けてエヴァにアンヌの状態を見せ、この場はひとまず収まります。

 二度目は、直接鍵をかける場面は描かれませんが、アンヌの寝室にテープで目張りをしているのですから、そうする前にジョルジュはドアに鍵をかけたはずです(注12)。
 この鍵の場合は、なんだか『サラの鍵』を思い起こさせます。
 というのも、ドアの鍵を開けて発見されるのが両方とも遺体なのですから。
 でも、状況はかなり違っています。
 『サラの鍵』の場合は、サラは幼い弟を助けようとして閉じ込めたのですが、本作の場合は、死んだ妻の遺体を封印したのです。そのため、『サラの鍵』の方では、なんとか早く扉を開けなくてはなりませんでしたし、逆に本作の場合は、封印はできるだけ長く解かれない方がよかったのでしょう、まるでその部屋が墓所であるかのように(注13)。

(4)渡まち子氏は、「老いと病を通して究極の夫婦愛を描いた「愛、アムール」。名優二人の存在感とハネケ監督らしからぬ物語に驚く」として75点をつけています。
 また、前田有一氏も、「時間の密度を濃く、もう少々コンパクトにおさめてくれればという気はするものの、それでも相変わらず見事な人間ドラマを作り上げる。2作連続でカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞も納得の傑作である」として85点をつけています。




(注1)前作のみならず、『ピアニスト』(2001年)や『隠された記憶』(2005年)なども、クマネズミにとってはなかなか難しい作品でした。

(注2)なにしろ、妻アンヌ役のエマニュエル・リヴァ〔『二十四時間の情事』(1959年)など〕は86歳ですし、夫ジョルジュ役のジャン=ルイ・トランティニャン〔『男と女』(1966年)など〕は82歳、娘エヴァ役のイザベル・ユベール〔『ピアニスト』(2001年)など〕にしても60歳なのです。
肝心のミヒャエル・ハネケ監督は71歳。

(注3)2人目の看護師の女性を、アンヌに対する扱い(アンヌの髪を梳かすやり方など)が余りにぞんざいだとして(「患者は抵抗する力がないのだ」とジョルジュは言います)、解雇してしまいます〔看護師の方は、自分のプライドをいたく傷つけられたのでしょう、最後に悪罵(「老いぼれのクソ爺!」)を放って立ち去ります〕。

(注4)他にもう一人、映画の最初の方で、妻の教え子のアレクサンドルの演奏会シーン(シューベルト晩年の「即興曲」)があります。ただ、ここでは、聴衆の中にいるジョルジュとアンナを映すだけで、演奏シーンはありません。
 その後、アンヌが右半身麻痺の状態になってからアレクサンドルは、一度マンションを訪れますが、そのときは、アンヌの要望で、部屋にあるピアノでベートヴェンの「パガテル」を演奏します。
 暫くして、彼は、完成したCDをアンヌに贈りますが、すべてシューベルトの曲でした。ジョルジュがそれをかけますが、アンヌはCDを止めてと言います。アンヌにとって、アレクサンドルは「パガテル」を弾く印象が強かったのでしょう。
 なお、アレクサンドルには、実際のピアニストのアレクサンドル・タローが扮しています。

(注5)エヴァがジョルジュに話すところによれば、エヴァの夫・ジョフは、ヴィオラ奏者と関係があったものの、彼女が自殺したために自分の所に戻ってきたとのこと。

(注6)母親の容態を見に訪れたとき、エヴァは、余りに衰えた姿を目の当たりにしてショックを受け、ジョルジュに様々なことを言いますが(「なぜ入院させないの」、「もっといい治療法があるはず」など)、逆にジョルジュは、エヴァが突然現れて居丈高に言うために腹が立ったようで、「自分で探して見るがいい」などと答えます。
 また、エヴァが「これから先は?」と聞くのに対し、ジョルジュは「看護師、医師、美容師が来る、これでいいかね?」と答え、さらに彼女が「このままじゃダメ。本気で話し合いましょう」と言うと、ジョルジュは「本気で話し合うとは?ママを引き取るとでも?」と聞き返し、これにはエヴァも黙ってしまいます。

(注7)ジョルジュは、最初に飛び込んできた鳩については、ただ見つめるだけで、外に逃がしてあげます。
 二度目は、ジョルジュがアンヌの寝室に目張りをした後のことです。その際は、ジョルジュは鳩を捕まえ、優しく抱いています。結局は逃がしてあげるのでしょうが、あるいは、アンヌの生まれ代わりの姿と思ったのかもしれません。

(注8)アンヌが亡くなった後、キッチンで物音がするので、ジョルジュが見に行くと、驚いたことに、アンヌが食器を洗っていて「あともう少しよ、靴を履いていて」と言うではありませんか。二人は外出の用意をして、玄関を開けて外に出ます。
 再び、平穏な生活が二人に戻ってきたようです!

 なお、このシーンからは、『マーガレット・サッチャー』で、夫のデニスがカバンを持ってドアから外へ出て行ってしまうシーンを思い出しました。シチュエーションはかなり違うものの、同じ老齢者の妄想を描いている点で似ているからでしょうか。

(注9)このエントリの「注3」をご覧ください。

(注10)ここでも、鳩の場合と同じように“2”です。
〔本作におけるアレクサンドルの演奏は“2”回ですし、看護師も“2”人出てきますが!〕

(注11)なお、本作の初めの方では、アレクサンドルの演奏会から家に戻ると、玄関の鍵穴がドライバーでこじ開けられた形跡があるのを二人は見つけます。寝ている間に侵入されたらと不安に駆られるアンヌと、演奏会からいい気分で帰ってきたばかりなのだから明日にしようと言うジョルジュとの間でちょっとした意見の対立があります。

(注12)冒頭で、その部屋を救急隊員たちがこじ開けるシーンが描かれますが、なかなか開けることができませんでした。

(注13)最初のシーンで映し出されますが、アンヌの遺体は、綺麗なドレスを着せられており、周りは花で取り囲まれています。
 ですが、有名なゾシマ長老ではありませんが、ものすごい腐臭のために、部屋に入った皆は辟易することになります〔亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟3』(光文社古典文庫)第3部第7編「1腐臭」〕。



★★★★☆



象のロケット:愛、アムール

キャビン

2013年03月20日 | 洋画(13年)
 『キャビン』を新宿のシネマカリテで見ました。

(1)たまにはいつもと違った傾向のものを見ようと、評判のホラー映画を見てきました。
 シチュエーションは、元気溢れる大学生(男3人と女2人)が山奥の別荘にやってくるというお馴染みのもの(注1)。
 大学生達が別荘の中を探検すると、地下室への扉が見つかります。
 その扉を開けて降りて行くと、地下室には実に様々な古い物が置かれています。
 女子学生のディナが、1903年に書かれたノートを見つけ、男子学生マーティが読むなと止めたにもかかわらず、書かれていたラテン語の文章を読み上げてしまいます。



 すると、山小屋の周囲の地中から何者かが這い出して彼らに襲いかかり、大学生は一人一人と殺害されていきます。
 とここまでは、誠にありきたりの流れですが、実は、こうした様子をつぶさに監視カメラでのぞき見ている組織があるのです。
 ここからは、ここまでの普通すぎるストーリーがトンデモナイものに変身して、先が読めなくなります。
 この監視している組織はいったい何なのでしょうか、何のためにそんなことをしているのでしょうか、そして大学生たちの運命は果たしてどうなるのでしょうか、……?

 最初のうちは定番中の定番のホラー映画と見せかけておきながら、途中からそれをひっくり返すべく制作者側が様々の卓抜なアイデアを繰り出し、全体として実に面白い映画に仕上がっているなと思いました。

 出演者の中では、監視組織の一人シッターソンを演じるリチャード・ジェンキンスが、『扉をたたく人』や『モールス』でお馴染みです。

(2)〔この映画は、何の情報も持たずに(特に予告編も見ずに)見た方が遥に面白いですから、本作をご覧になっていない方は、以下は一切読まないで(つまらない内容ながら)、まずは映画館に足を運んでください〕

 映画の冒頭では、管制官のシッターソンらが登場し、自動販売機でコーヒーを飲んだり、「ストックホルムは失敗、日本は失敗ゼロ、次はアメリカだ」などとわけのわからないことを話しながら、電動カーで管制室に入って行きます。

 それから、問題の大学生らが山小屋に行くための準備をしている場面に移るわけですが、最初から気の抜けたコーラを飲まされるような感じがしてしまいます。
 というのも、シッターソンが着用している半袖のワイシャツはなんだかよれよれの感じがし、もう一人の男性の管制官ハドリーも実に冴えない感じですし、女性技術者リンとか新入りのトルーマンなども含めて、全体の雰囲気がどうも中小企業然としているからですが。
 さらに、これはホラー映画のはずなのに、どうしてこんな管制室が登場乗するのだろうと、何だろうこの映画は、という気に観客はなっていきます。

 そして、準備ができた大学生達が乗る車が出発すると、近くの建物から見張っていた仲間が、管制室にいるシッターソンらに、「出発した」と連絡するところ、あれだけ監視カメラをあちこちに仕掛けることができるのであれば、大学生の家くらいさらに監視カメラを設置することなどたやすいはずではないかと、(見終わってからですが)思ったりしてしまいます(経費節減の折から、人力に頼らざるを得ないのでしょう)。

 そして、管制室にいて監視カメラの映像で大学生達の行動を覗き見ている管制官シッターソンらは、全世界規模で同じようなことをやっていると思われますが、どんな組織なのか皆目見当もつきません。
 管制室での話や映像からは、アメリカだけでなく、他にストックホルムとか東京にも支部らしきものが設けられているようです(注2)。
 でも、そんな大規模な組織にしては、ラストに思いがけない俳優が登場して、プロジェクトの全貌を説明するところからすれば(注3)、本部はシッターソンが働くところに設けられているようにも見えるものの、それにしてはどうもチャチイなという感じがしてしまいます。

 このアメリカの管制室の能力が高くなさそうなのは、完璧に作られているはずのシナリオが、大学生らが思いがけない行動をとると、次々に狂ってきてしまい、簡単に制御不能となってしまうところからも分かります(注4)。
 なかでも、他の4人の大学生が死に処女・ディナの一人だけが助かるのであればプロジェクトは成功だというので、管制室で職員一同が祝杯をあげるのですが、その段階で、4人のうちの一人がまだ死んだと確認されていないことが、注意していれば分かったはずなのです(注5)。
 その点をないがしろにしたがために、大破局に陥ってしまうのですから、ケアレスミスは注意しなくてはなりません!

(3)渡まち子氏は、「定番ホラーかと思いきや驚きの仕掛けがある異色スリラー「キャビン」。ありがちな導入部からありえないラストまで退屈させない」として65点を付けています。
 前田有一氏も、「「キャビン」は、どこからみても異形な映画。変化球のみで構成されたトンデモ作だが、だからこそ「普通」に飽きてる人には最高の刺激となる。その魅力は、あらゆるホラー映画を見てきた人でも、絶対に先読みできないハチャメチャな展開。しかしナンセンス系ではなく破綻なく世界観をまとめている「定石外し系」の傑作である」として90点をつけています。




(注1)最近見た映画では、DVDですが、ノルウェー映画『処刑山 デッド・スノウ』が同じようなシチュエーションです(こちらは、男4人と女4人)。

(注2)ストックホルムに北欧支部が設けられているとすれば、そこにストックされている怪物の中には、上記「注1」で触れた映画に登場する妖怪や、『トロール・ハンター』に登場するトロールといったものがきっと入っていることでしょう!

(注3)この女性は、単なるアメリカ支部長にすぎないのかもしれませんが。
なお、この女性に扮する女優は、『宇宙人ポール』にも出演しました。

(注4)たとえば、大学生達が車で逃げる際に通過するトンネルを爆破して封鎖しようとしましたが、なかなかうまく爆破できません。

(注5)死者が出るたびに、壁に取り付けられているハンドルをハドリーが押し下げると、死者の血が汲み取られる仕組みが差動します。ただ、マーティについては、その場面が映し出されていなかったように思います。ということは、……。




★★★★☆




象のロケット:キャビン

フライト

2013年03月18日 | 洋画(13年)
 『フライト』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、予告編で、旅客機が上下さかさまになって飛ぶ(背面飛行)シーンが映し出され、いったいどんなわけでそんな曲芸を演じることになるのかという点に興味がひかれて映画館に出向きました。

 映画は、デンゼル・ワシントン扮するベテランのパイロット・ウィトカーを巡るお話です。
 彼は、アトランタ行きの飛行機に酷い睡眠不足状態で搭乗し(注1)、嵐の乱気流を見事突破してホッとするのもつかの間、今度はメカニッカルな問題(尾翼とエンジンにトラブルが発生)によって機体が制御不能となって、どんどん降下してしまいます。
 そんな緊急事態を、長年の経験から培われた優れた操縦技術と勘とによって乗り越え、なんとか草原に不時着でき、犠牲者はわずか6名でした。
 本来ならばウィトカーは英雄となるはず。
 ですが、直後の検査でアルコールと覚醒剤(注2)が検出されてしまい、一転して窮地に立たされます。
 果たして彼はこの窮地を脱することができるでしょうか、……?

 本作の前半では、酷い乱気流を機の速力を一杯に引き上げて乗り切ったり、機体の降下を背面飛行(注3)することで食い止めたりするなど、大変緊迫感のあるシーンが続き、後半になると、一転して、窮地に追い詰められた機長のウィトカーが苦悩する様が描かれており、全体としてまずまずの仕上がりとなっています。

 主演のデンゼル・ワシントンは、最近では『デンジャラス・ラン』で見ましたが、本作の運輸安全委員会公聴会において証言するシーンは、さすがオスカーを2つも獲得しているだけの凄い演技だなと思いました。



 本作にはほかに、ウィトカー側の弁護士・ヒュー役にドン・チードル(注4)が出演しています。



 また、事故後入院した病院でウィトカーが出会う麻薬中毒のニコールに扮するケリー・ライリー(注5)なども出演しています。

(2)本作は、クマネズミにとってやや違和感を持つところがありました。
 一つは、以前だったら白人が占めている位置に黒人が実にすんなりと嵌まっていて、アメリカにおける人種問題などどこ吹く風といった感じなのです。
 すなわち、黒人機長のウィトカーの下には、白人の副操縦士が入っていますし、またウィトカー側の弁護士として黒人のヒューが就きます。
 最早、大統領が黒人の時代なのですから、こんな姿は、運輸安全委員会調査班のリーダーが女性であるのが当然であるように(日本だったら当たり前とは言えませんが)、米国ではごく普通のことなのでしょう。

 もう一つは、なんだかコカインが自然の感じで登場することです。
 すなわち、運輸安全委員会公聴会の当日、泥酔状態のウィトカーを立ち直らせるべく、彼の親友ハーリンジョン・グッドマン:注6)が呼ばれますが、ハーリンが鞄から取り出すのがコカイン。
 パイロット組合幹事のチャーリーらの前で、これを鼻から吸引すると、見る間にウィトカーは蘇ります。
 こんな映像を見ると、コカインが米国では厳しく規制されていないのかと疑ってしまうところ、そんなことはないはずです。
 でも、ウィトカーについては、アルコール依存症が大きく取り上げられるものの、コカイン中毒の方は殆ど問題視されません(注7)。

(3)そんなこんなで、本作は、アルコール依存症の恐ろしさを訴えた作品と言えるかもしれません。とにかく主人公のウィトカーは、強いウオッカをあちこちで飲みまくります(注8)。
 でもそれくらいでは、洋画はさることながら、邦画でも『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』などで描かれているように、ありきたりすぎます(注9)。
 それに、ウィトカーが搭乗する飛行機が墜落するのは、ウィトカーがアルコールのせいで操縦を誤ったからではなく、むしろ彼の類い希なる腕で大部分の乗客は助かるのですから、アルコール依存症の怖さを訴えるにしてはおかしな感じがしてしまいます。

 そこで、ジョージ・ワシントンの桜ではありませんが、本作では、“嘘をつかないという英雄的行為”、“正直であることの大切さ”が描き出されているとも見ることができます(注10)。でも、それもありきたりではないでしょうか(注11)。

 むしろ本作は、飛行機が草原に不時着するまでの緊迫する機内の様子を生き生きと描き出した前半が見どころではないか、とも思えるところです(注12)。

(4)渡まち子氏は、「奇跡の不時着でヒーローになった男の真実の姿を描く人間ドラマ「フライト」。パニックから法廷、そして人間の心の闇と、ストーリーは意外なルートをたどる」として75点をつけています。
 また、前田有一氏も、「デンゼル・ワシントンも相変わらず文句のつけようのな演技をしており、とくに終盤、神に力を与えてくれと思わずつぶやいてからのシークエンスには圧倒される。共感度100パーセントの、見事な場面である」などとして80点をつけています。



(注1)ウィトカーは、客室乗務員のカテリーナと、搭乗直前までホテルで一緒に過ごし、セックスしたり酒を飲んだりしていました。

(注2)酷い睡眠不足状態だったために、目を覚ますべく、ウィトカーは搭乗前にコカインを吸っていました。

(注3)背面飛行については、こちらの記事を参照。

(注4)ドン・チードルは、 『クロッシング』における捜査官タンゴの役が印象に残っています。

(注5)ケリー・ライリーは、『シャーロック・ホームズ』でワトスンの婚約者の役を演じていました。

(注6)ジョン・グッドマンは、最近では、『アルゴ』と『人生の特等席』が印象に残ります。

(注7)あるいは、ウィトカーと病院で親しくなるニコールが麻薬中毒患者であることで、その点は描かれているという訳なのでしょうか。

(注8)劇場用パンフレットに掲載されているピーター・バラカン氏のエッセイ「ウィップ・ウィトカーの心情に寄り添うロック、ソウルの名曲」によれば、映画の冒頭で流れる曲は「アルコール」というタイトルだそうです。

(注9)いくら断酒していても、アルコール依存症の者が一口でも酒を口にしたら、目につく酒びんをすべて空にしてしまうという光景は、様々の映画で描かれていることでしょう。
 本作では、随分と手が込んでいて、ウィトカーは、公聴会が開催されるホテルに宿泊するのですが、予め備えつけの冷蔵庫からはアルコールの類いは一掃されています。にもかかわらず、たまたま仕切りドアに鍵がかかっていなかったために、隣室にウィトカーが何気なく入ったところ、そこに置かれていた冷蔵庫にはたくさんの酒びんが置かれていたのです!

(注10)公聴会で、ウィトカーは、不時着した機体から酒が入っていたボトルが2本見つかったことに関し、同乗した客室乗務員カテリーナが飲んだと思うかと何度も尋ねられ、愛人のカテリーナの画像が彼の前のスクリーンに大写しになっていたこともあって、ついに真実を口にしてしまいます。
 カテリーナはこの事故で死んでいるので、さらには、ウィトカーに関する検査報告を弁護士ヒューが潰してしまったことにもよって、一言「飲んだのはカトリーナだと思う」と言いさえすれば、ウィトカーは無罪放免となるにもかかわらず。

 こうしてウィトカーが勇気を持って真実を証言したことによって、ウィトカーは一方で刑務所に入ることになるものの、他方で、彼から離れていたニコールや彼の息子などが、彼のもとに戻ってくるのです。
 何もそんなにすべてをハッピーエンドに持って行かずともという感じながら、一つのお話としてそれもいた仕方がないのでしょう。

(注11)最近見たデンマーク映画『偽らざる者』においても、幼い女の子の吐いた嘘が大きな波紋を巻き起こします。

(注12)もう一つ上げるとすれば、機長ウィトカーの操縦能力によって、102名の乗客乗員のうち96名が救出されたにもかかわらず、そして飛行機の墜落の原因が機体の整備不良であることが明らかになったにもかかわらず、機長が飛行中にアルコールを飲んだ点が断罪され、刑務所行きになってしまったことかもしれません。
 むろん、なにはともあれ酒気を帯びて飛行機を操縦すること自体は断罪されるのでしょうが(自動車の運転の場合でも、事故を引き起こさずとも、酒気帯び運転ということだけで処罰を受けますから)、この場合は特別ではないでしょうか?
 なんだか、小さなマイナスの結果だけを拡大して捉えて、大きなプラスの結果の方は無視するような姿勢と思えてしまうのですが。
 とはいえ、ウィトカーが飲むアルコールの量はただごとではなく、また、普通の場合だったら、酒気帯びで6名も死者が出たりしたら「無期懲役」だそうですから、5年ほどの刑期ということで特別な事情が考慮されたと考えるべきなのでしょう。




★★★☆☆



象のロケット:フライト

脳男

2013年03月16日 | 邦画(13年)
 『脳男』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)生田斗真が出演する映画は、これまでも『源氏物語』などを見てきましたが、所属するのがアイドル事務所のせいでしょうか、いろいろの制約を受けている感じが強く、いずれもイマイチの感じでしたが、本作では彼がこれまでになく頑張って持てるものを発揮していて、全体として大層面白い映画に仕上がっているなと思いました。

 映画は、あとで爆弾魔とわかる緑川二階堂ふみ)が、女占い師の舌を切断する場面から始まり、精神科医の真梨子松雪泰子)がプレゼンをしている場面を挟んで、その女占い師が乗り込んだバスが大爆発を起こし、それを真梨子が間近に見るという場面に続きます。
 一連の爆弾事件が起きているところ、茶屋刑事(江口洋介)らが事件に関する有力情報を元にある倉庫に踏み込むと、一人の男(生田斗真)が見つかり、彼を逮捕します。
 その男は、自分は鈴木一郎だと名乗りますが、それ以上の情報は得られません。
 そこで、茶屋刑事は、鈴木の精神鑑定を真梨子に依頼します。
さて、鑑定の結果はどうなるのでしょう、鈴木はいったい何者なのでしょう、そして緑川はどこに、……?

 本作は、冒頭のバスの迫力ある爆発シーンとか、病院で次々と爆弾が爆発するシーン、ラストの鈴木と緑川の対決シーンという具合に見所の多い映画となっているとともに、主演の生田斗真の頑張りによって、その姿形のかっこよさをも十分味わえる作品になっているように思われます。
 さらに生田斗真だけでなく、松雪泰子(注1)や江口洋介(注2)、二階堂ふみ(注3)などもそれぞれ大層頑張っているなと思いました。

(2)ただ、ストーリーの展開に関してはイマイチの感が否めません。
 例えば、鈴木と緑川とはどういう因縁で死闘を演じなければならないのかという点になると、正義と悪との対決という構図によるだけのことではないのかと思えてきます(注4)。

 さらに言えば、生田斗真が演じる「脳男」の鈴木自体には、よく分からない感じが残ります。
 彼は、まるで人工知能で出来たコンピュータ人間のような気がしますが、そしてそれはかまわないとしても、あれだけ何回となく車に撥ねられるにもかかわらず、足を折るくらいで他に著しいダメージを受けずに、暫くしたらけろっとして医師・真梨子の前に現れるというのはどうしてなのでしょうか(いったいその骨格はどんな物質からできているのでしょう!)?

 映画では、鈴木一郎が、痛みを感じず感情が欠落している人間らしいことが説明され、また祖父(夏八木勲)のもとで英才教育が施され、かつ体の鍛錬が行われたことも描かれます。
 でも、それくらいでは、車をも跳ね飛ばす体を持っていることの説明にはなりません。
 また、劇場用パンフレットでも、「並外れた記憶力、知能、肉体を持ちながら、人間としての感情を持たない美しき殺人者「脳男」」とか、「身体は鋼のようで」と書かれているにすぎません。

 こうなると、原作本(注5)に何かしらの手がかりを求めざるを得なくなります。
 でも、原作本においても、「脳男」の鈴木一郎の肉体がそのように途轍もなく屈強だとは何ら説明されておらず、映画のような場面は何一つ書き込まれていないのです。単に、鈴木と茶屋刑事が緑川に飛びかかるだけのことです(文庫版P.342)。

 確かに、本作における鈴木と緑川の対決シーンは、なかなか迫力があって素晴らしい出来栄えであることは間違いないものの、「どうしてそうなるの?」との感想を抱いてしまうのも仕方がないのではないでしょうか?

 ただ、こう申し上げるからと言って、映画は原作どおりに描くべきだと言いたいわけでは決してありません。

 元々、本作に関しては、原作本と比べると設定やストーリーが随分と違っています。
 すなわち原作本の場合、例えば、
・緑川は男性(注6)。
・緑川が引き起こした5件の爆弾事件のうち、当初の二つでは人が死んでいない(女性占い師は難を逃れる)(注7)。
・緑川の起こした事件には下敷きとなるもの(『ヨハネ黙示録』)があった(文庫版P.335)。
・映画に登場する染谷将太が演じる志村(医師・真梨子がそのカウンセリングを担当)とか太田莉菜が扮する水沢ゆりあ(緑川を神のように慕う女)は登場しない。

 としても、本来的に原作と映画とは全く別物ですから、どんなに原作を作り変えてもそのこと自体に問題があるはずもありません。
 ですが、作り変える以上は、新しく作られる世界で引き起こされることについては、その世界で辻褄が合うように上手く説明してもらいたいものだと思います。
 本作の場合、上に掲げた諸点については、ことさら説明してもらわずともかまわないでしょう(注8)。
 ただ、「脳男」である鈴木一郎が、自動車に何度もぶち当てられてもほとんどダメージを受けない点に関しては、何かしらもう少し説明が聞きたくなります。
 なにしろ、原作本では、「整形手術でも身体全体の骨格を変えることはできません」などと鈴木が言っているくらいなのですから。

 とはいえ、痛みを感じず感情が欠落しているという点にしたって、いくら懇切丁寧に説明されても、元々があり得ない話なのですから、説明自体時間の無駄なのかもしれません。車がぶつかっても壊れない体についても、あれこれグジャグジャ言わず、説明抜きに鈴木はそうした体なのだとみなしてしまえばいいのかもしれません(注9)!

(3)渡まち子氏は、「心身ともに痛みを感じない特異体質の主人公を、生田斗真がいっさい瞬きをしない無表情で演じきった。ハリウッドでも大活躍の日本人撮影監督・栗田豊通による、ハイクオリティな映像が大きな見所になっている」として60点をつけています。
 また、前田有一氏も、「偽善と悪、正義の違いなど哲学的なテーマは突っ込み不足で物足りないものの、そのあたりは邦画だからこんなものかという感じ。キャラクターの魅力だけで十分な面白さがあるので、いわゆるサイコキラーものが好きな人にはぜひ見てもらいたい。日本映画でもこれだけユニークなキャラクターを生み出すことができるようになった。現実社会が本物サイコパスだらけのアメリカ様にはさすがにかなわないが、それでもなかなかの出来。おすすめである」として75点をつけています。




(注1)松雪泰子については、最近では『スマグラー』で頑張っていたところ、本作でも緑川に捕らえられて診察椅子に固定されたり、後ろ手に縛られて車の中に入れられたりするなど随分と頑張っています。




(注2)江口洋介については、最近では、『洋菓子店コアンドル』や『るろうに剣心』で見ましたが、本作における役柄は、これまでと打って変わって体育会系でいつも苛立っていて怒ってばかりいるわけながら、意外と似合っているのでは、と思いました。




(注3)二階堂ふみについては、『ヒミズ』を見ただけですが、本作でも、末期がんに侵されていながらモルヒネを打って鈴木一郎と対決するという壮絶な役柄を的確にこなしています。




(注4)要すれば、公式サイトにおいて「心に底知れぬ深い闇を持つ連続爆弾魔」とされている緑川と、「自らの正義のためには殺人をも厭わない美しき殺人者“脳男”」とされている鈴木一郎とが、死力の限りを尽くして対決するということに尽きていると思われます。でもそれだけでは、何も物語を語る意味がなくなってしまいます。

(注5)首藤瓜於著『脳男』(講談社、2000年刊)。ただし、以下では講談社文庫版によります。

(注6)原作本では、ほとんどのところで「緑川」としか書かれていないのですが、4件目の事件の後容疑者が絞られた段階で、「名前の分からない三人の男が残った」とされ、さらに「最後にひとりだけ残った。それが緑川だった」とありますから、緑川は男性だと推定されます(文庫版P.34~P.35)。

(注7)「連続爆破事件は三度目にしてついに死者を出したのだった」(文庫版P.21)。

(注8)ですが、志村染谷将太)を巡る映画のエピソードについては疑問を感じますが。
 志村は、8年前に真梨子の弟を殺害して刑務所に入ったのですが(そのことで真梨子の母親は精神に変調をきたしています)、真梨子のカウンセリングを受けて出所し社会復帰したものの、幼児虐待の性癖は治っておらず、再び少年を監禁虐待していたところを鈴木に見つかって殺されてしまいます。
ただ、こういうストーリーにすると、精神科医によるカウンセリングが何の効果も持たないことを批判していると受け取られる恐れが出てくるのではないでしょうか(志村を殺したことについて、鈴木は責めを負わないことでもあり)?
 まして、志村が殺されたことを知った母親が、それまで拒否していたカウンセリングを受けようと言い出すのですからなおさらです(カウンセリングを皮肉っているとしか思えないところです)。
 さらに加えると、茶屋刑事は真梨子に鈴木の精神鑑定を依頼する理由として、真梨子が爆発現場にいたことを持ち出しますが(そんな医師ならば、よもや容疑者側に有利な鑑定をするはずがない、と言います)、それも精神科医による精神鑑定に対するあからさまな批判ではないでしょうか?
 といっても、反精神医学的な姿勢を取り入れているだけで、内容的な批判は何もされていないのですから無責任な気がします。

(注9)鈴木を、サイボーグ、あるいはミュータントと考えればいいのかもしれません。でもそうなると「脳男」というネーミングが適当なのかどうか。



★★★☆☆



象のロケット:脳男

草原の椅子

2013年03月13日 | 邦画(13年)
 『草原の椅子』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)佐藤浩市が主演というので映画館に出かけたのですが、なかなかの出来栄えだと思いました。
 ただ、映画館の入りは悪く、平日の最終回とはいえ10名ほどでは、“邦画の隆盛”とはとても言えないお寒い状況ではないかと思いました。

 物語は、妻と別れ大学生の娘と二人で暮らしている50歳の遠間佐藤浩市)が主人公。



 彼は、取引先のカメラ販売店社長の富樫西村雅彦)と友人として付き合うことになります。



 その一方で、ひょんなことから縁のない子供・圭輔の面倒を見る羽目になり(注1)、さらには、陶磁器の店を出している女性・貴志子吉瀬美智子)と知り合うようになります(注2)。



 圭輔の養育で行き詰った時に、遠間は、富樫や貴志子、それに圭輔と一緒に、写真集で知ったパキスタンのフンザ(地球に残された最後の桃源郷とされているようです)を訪れることにします。
 さあ、そこで問題の解決を見い出せるでしょうか……?

 この映画の俳優陣は、やや野暮ったい感じの(それでいて頗る魅力的な)佐藤浩市(注3)が主役で、さらにはかなり風変りな俳優の西村雅彦(注4)とか38歳の吉瀬美智子(注5)が出演しているところからもわかるように、大層地味で、トンデモ女を演じる小池栄子(注6)の話を除いては、話自体も至極真面目、これでは映画が大衆受けしないのではという感じです。

 でも、遠間と貴志子はバツイチですし(注7)、富樫は浮気が妻にばれたりし、また圭輔はDVによって満足に口がきけないという設定(注8)になっているなど、今の世の中でよく見かける家族状況をふんだんに取り入れています。
 こういう現代的な視点は、現代の家族に焦点を当てていると称する『東京家族』では全く見られないもので、それだけでも本作を高く評価してあげたい気になります。

(2)とはいえ、様々の設定はいかにも現代的ながら(注9)、お話自体は随分と幻想的な(悪く言えば、おとぎ話的な)感じがします。
 色々な出来事がいちどきに遠間の周辺で起きたり、富樫の父親が、これまた『東京家族』ばりに瀬戸内海の島に住んでいたりというように(注10)。

 さらに、幻想性を増すのが、二つの写真(その一つは写真集ですが)です。
 一つは、瀬戸内海の島で撮影されたもので、野っ原に身障者用の椅子(注11)が置いてあるところを映した写真(これは、富樫の店に展示されています)。
 もう一つは、パキスタンのフンザを撮った写真集(AKIRA扮するプロの写真家が、現地に出かけて撮影してきたとされます)。

 前者の瀬戸内海の小島では、そこに連れて行ってもらった圭輔が、皆の愛情に包まれて言葉を発するようになりますし、後者のフンザは、その地を訪れることで、遠間たちは再出発をしようとするきっかけをつかむことになります。



 ただ実際には、そんな場所へ行ったからといって本当に何かが変わるわけのものでもないでしょう。特に、フンザの場合、いくらその地が桃源郷だとしても、遠巻きに眺めるだけで(写真を撮ったりするだけで)中に入り込まないのであれば、写真集を日本で見るのとあまり違いはないのではないでしょうか?

 でも、人が生きていく上で何か踏ん切りとなる出来事も必要でしょう。そうしたものを、こうした旅行や場所が象徴的に示しているとも考えられます(注12)。
 そんなこんなで、幻想的な物語なのではないかな、そして幻想的だからといって本作の出来栄えが悪いわけでもないのではないかな、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「不器用な大人たちが傷ついた少年との出会いで新たな人生に踏み出す「草原の椅子」。桃源郷・フンザの映像が素晴らしい」として60点をつけています。



(注1)遠間の娘・弥生黒木華)のアルバイト先の店長〔妻(小池栄子)と離婚〕が世話していた4歳の圭輔(妻の連れ子とされています)を、短期間(店長の出張中)だからというので遠間が面倒を見ることになりますが。

(注2)遠間が、タクシーの窓からちらりと貴志子を見たのがきっかけです。

(注3)佐藤浩市については、『最後の忠臣蔵』についてのエントリの(1)で触れましたが、最近では『のぼうの城』における正木丹波守がよかったと思います。
 本作では、そのもっさりとしたところが、圭輔の養育に次第にのめり込んでしまう遠間に合っているように思われ、さらにその確かな演技力も相俟って、主役として本作の出来栄えを支えているなと思いました。

(注4)西村雅彦については、『Dear Heart』についてのエントリでも触れました。
 本作では、妻に石油をかけられてしまったり、突然遠間に「親友になって」と言い出したりするという富樫の役柄にぴったりの感じがしました。

(注5)吉瀬美智子については、最近では、『死刑台のエレベーター』での演技が印象的でした。
 本作では、和服にはやや背が高すぎるのかなという感じもしますが、思慮深く落ち着いた役柄を的確にこなしています。

(注6)小池栄子については、最近作としては、『グッモーエビアン』の先生役を見たばかりです。

(注7)遠間は、妻に男を作られて逃げられたことになっていますが、それ以前には彼がいろいろ浮気をしていたようです(このことは、妻のみならず、娘も気が付いていました)。
 また、貴志子は、旧家に嫁いだものの子供に恵まれず、不妊治療も失敗してその家に居づらくなって出たのだと遠間に話します。

(注8)母親(小池栄子)は双極性障害であり、満足に育児をしなかったようで、その影響をもろに圭輔が被ってしまいました。
 なお、この母親は、遠間が圭輔の面倒を見ていることが分かると、彼の会社までやってきて、涙を流しながら礼を述べつつ「近いうちに圭輔を引き取りに来る」と言いながらも、暫く経つと今度は遠間の家に乗り込み、「引き取ることはできない」と言いだし、挙句は、彼が風疹で寝込んでいたことが分かると、烈火のごとく怒りだして彼を打ちすえて家を飛び出ていきます(お中の胎児に悪影響があるとして)。
 こうした両極端を表す女性を、小池栄子は実に巧みに演じて素晴らしいなと思いました。

(注9)上記「注8」で触れたように、今まさに大流行を見ている「風疹」まで取り入れているのですから(この記事によれば、「過去5年間と比べて最悪のペースで流行している」とのこと)!
 とはいえ、遠間と貴志子とが付き合いだして暫くしてから、夜、それぞれの家で同じ写真集を見ながら同じラジオ番組で同じ曲(矢野顕子が歌う『中央線』)を聞くというのはどうでしょう。
 今時、普通の会社員(それも働き盛りの50代の)が夜ラジオ放送に耳を傾けるものなのか、甚だ疑問なのですが。
 ただこれも、頗る幻想的な本作故、二人の思いが一致していることを象徴するためのシーンとして、あえてラジオを持ってきたと考えられないこともありません。
 なにしろ、『中央線』の歌詞には、「今頃君は 流れ星くだいて 湯舟に浮かべて 僕を待っている」などといったフレーズが入っているのですから。

(注10)これで、富樫の父親が、富樫の住む大都会(大阪、あるいは東京)に様子を見に瀬戸内海の小島からやってくれば、第三の『東京物語』が作られることになるでしょう(特に、富樫を演じる西村雅彦は、『東京家族』において長男役を演じていることでもあり!)。

(注11)富樫の父親は、身障者一人一人の障害の特質に応じて一つ一つ椅子を手作りしているとされています。
 様々の問題も、その問題を抱える人それぞれごとに解決法も違ってくるのでしょう。
 ですから、フンザという桃源郷に出かけて行っても、この映画のようにそれぞれが抱える問題がいっぺんに解決するというのは、幻想的だと言わざるを得ないところです。
 でも、それが映画で描かれる“お話”というものではないかとも思われるところです。

(注12)たとえば、富樫は、フンザの長老が「正しいやり方を繰り返しなさい」などと当たり前のことを言ったのを踏み台にして、「東京から撤退すると決めた!」などと叫びます。
 でも、それは、以前から内心決めていたにもかかわらず、単に言い出せなかった事柄にすぎないのではないでしょうか?
 さらに、貴志子も、長老が言ったことなどによりながら、遠間に、一緒に圭輔の面倒をみようと言いますが、フンザへの旅に加わりたいと言った時には(あるいは、その前にも)、内心そう決めていたことではなかったかと思われます。
 二つの場合とも、はっきりと決めるための契機を探していただけのことであり、言ってみれば、どこであっても何であってもよかったのかもしれません。
 しかし、そう言ってしまっては身も蓋もありません。この映画を見る観客が、この映画の象徴的な雰囲気を感じ取ればそれでいいのではとも思えるところです。



★★★★☆



象のロケット:草原の椅子

横道世之介

2013年03月10日 | 邦画(13年)
 『横道世之介』を渋谷のHumaxシネマで見ました。

(1)出演している俳優陣に興味を惹かれて見てきました。

 映画は、主役の横道世之介高良健吾)が、法政大学に入学すべく、長崎から上京して新宿駅前に現れるところから始まります。
 その後世之介は、入学式で知り合った倉持池松壮亮)とサンバサークル(「ラテンアメリカ研究会」)に入ったり、パーティーーガールの千春伊藤歩)にのぼせたり、はては友達の加藤綾野剛)との関係で祥子吉高由里子)と知り合いとなります。
 はたして世之介の大学生活はどのように展開するのでしょうか、……?

 劇場用パンフレットで「観客全員にとって世之介は、思い出すたびにニヤニヤと微笑んでしまう大切で愛しい存在」とされているものの、映画を見る限り(注1)、世之介は、祥子が言うように「普通だよ」、「普通すぎて笑っちゃう」と言うべき人物としか思えないところです。
 それでも、彼を取り巻く人物がなかなか興味深く描かれていたり、どきっとする出来事があったりして、160分の長尺ながら飽きさせませんでした。

 高良健吾は、最近では『苦役列車』を見ましたが、本作では人の良い世之介を誠に巧みに演じています。



 吉高由里子は、『婚前特急』や『ロボジー』と同じように、持ち前の明るさをふんだんに振りまいて、これからも大いに期待されます。



 綾野剛は、『その夜の侍』『新しい靴を買わなくちゃ』などで見ましたが、脇役ながらなくてはならない存在となっています。



(2)本作の話の大部分が1987年の学生生活を巡っており、それ自体は何の問題もないものの、それをなぜ2013年の「今」ではなく(注2)、10年も前の2003年の時点で昔のことを回想するという作りになっているのか、なんだか不思議な気がしました(注3)。

 おそらく映画では、世之介が事故に遭遇するが35歳の2003年とされているため、その年に彼の友人たちが彼のことを回想するという構成にしたのでしょう。
 でも、友人たちが世之介を思い出すのに、彼の事故を知ることが契機とされているわけでもないように思われます(注4)。
 だったら、映画における「今」をわざわざ10年前としなくともという感じにもなります。

 そこで、原作本〔吉田修一著『横道世之介』(毎日新聞社刊、2009年)〕にあたってみました。
 すると同書では、事故当時の世之介の年齢は40歳となっているではありませんか(文春文庫版P.299)!
 もう少し調べてみると、原作は、当初毎日新聞に連載され、連載期間が2008年4月1日~2009年3月31日ですから、1987年に18歳だった世之介がちょうど40歳になる頃です〔尤も、原作小説においては、年代が明示的に記載されているわけではありませんが(注5)!〕。
 すなわち、世之介が事故に遭遇するのは、小説が連載されている「今」においてなのです。
 これなら、違和感は持ち得ないでしょう。

 なぜ映画の方は回想する時点を、2013年の現在時点ではなく、小説が書かれていた2008年でもなく、今から10年も前の2003年に遡らせたのでしょうか?
 わざわざそんなことをせずとも、例えば、世之介が事故に遭ったのを45歳としてみても、何ら問題はないのではとも思えます(注6)。

 考えられるのは、回想する友人たちの事情でしょう。
 特に、友人の倉持については、35歳(注7)の2003年に、中学生の娘が警察に補導されてしまうという問題が起きています(注8)。映画の中で倉持は、18歳の男に娘と付き合うなと言い渡します。
 これを45歳時の出来事とすると、娘の年齢は20歳を越えており、変な男と付き合っているからといって警察に補導などされないでしょうし、そんな男と別れろと頭ごなしに親が言うことも難しいでしょう。
 それなら原作では?
 そこでも映画と同じような場面が出てきます。
 しかしながら、原作小説においては、倉持が世之介のことを回想する時点が、2008年ではなく2003年頃とされているようなのです(注9)。

 それで、さらに他の回想場面を小説に当たってみると、友人の加藤がベランダでワインを飲みながら思い出し笑いをするのは、いつのことか特定されませんが、常識的には小説の「今」、すなわち2008年夏でしょう。
 また、祥子が世之介のことを思い出すのも、小説の「今」の時点だと考えられます(注10)。

 おそらく、本作の制作者は、回想の時点を原作小説のようにばらばらにすると錯綜してしまい観客の混乱を招きかねないとして、映画の「今」の時点を、世之介の事故と一緒に2003年に統一してしまったのではないかと想像されます。
 でもそうすると、逆に、同じ年に2つも事件(世之介の事故と智世の補導)が起きるような作り方はご都合主義とも見られてしまうおそれもでてくるのではないでしょうか?

 映画と原作とは全く別物ですから、何も本作においても原作のような時間の流れにすべきだとは思いません。ただ、2003年が特別な年であるのならともかく、わざわざ映画の「今」をその時点に合わせる必要もないのかなと思いました。

(3)渡まち子氏は、「160分の長尺が本当に必要か?!との疑問は残るが、見終われば、皆を笑顔にした横道世之介の存在がたまらなく愛おしかった。クセのある役が多い高良健吾が、珍しく、天然の好青年を演じていて新鮮だ」として60点を付けています。
 また、前田有一氏は、「意外と映画にすると難しいのが青春小説で、『パレード』『悪人』の原作者・吉田修一による「横道世之介」を映画化した本作もその一つ。平均以上の出来栄えなのに、どこかもやっとした印象なのはなぜなのか」云々として55点を付けています。



(注1)原作では、例えば世之介は、入学式が行われた武道館で場所が分からなくなり、あるドアを開けたところ壇上で挨拶をする総長の頭の上に出てしまうというヘマをやらかしますが(文庫版P.21)、映画では取り上げられません。

(注2)2、3年のズレならともかく(制作から公開までに時間がかかることもあるでしょう)。

(注3)ここでの年号表記は、劇場用パンフレットの「SRORY」に記載されているものを使っています。ただし、映画において年号は一切表示されませんし、かつまた、同じパンフレットの「PRODUCTION NOTES」なかで、「西ヶ谷プロデューサーと沖田監督は明確には数字を打ち出さないことにこだわった」とも書かれていますから、以下で述べることは余り意味がないのかもしれません。

(注4)特に、世之介の事故のニュースをラジオで読み上げるDJの千春は、以前、大学生の世之介を知っていたにもかかわらず、何の思い出も浮かんでは来ないようです。
 また、世之介の友人だった倉持とその妻・唯は、たまたま通りかかった法政大学の校舎が高層ビルになっていたことから世之介を思い出したりします。

(注5)原作者の吉田修一氏の生まれが1968年であり、実際にも法政大学経営学部を卒業していることなどから、横道世之介が1987年に18歳だと想定することもそんなに行き過ぎだとは言えないでしょう。
 ちなみに、原作の「8月 帰省」の章にでてくるポート・ピープル(映画でも描かれます)ですが、このサイトの記事によれば、「我が国に到着するボート・ピープルも漸減したが、1987年を底に再び増加し、1989年にはいわゆる偽装難民を除いても10隻694人が到着して第2のピークを示した」とのことですから、原作は様々の社会的背景を描き込んでいるものと思われます。

(注6)世之介が遭遇する事故は、2001年1月26日に起きた「新大久保駅乗客転落事故」を踏まえており、このサイトの記事によれば、「JR山手線の新大久保駅で、ホームから転落した男性を助けようとした韓国人留学生のイ・スヒョンさん(当時26)と、 カメラマンの関根史郎さん(当時47)の2人が線路に降り、3人とも電車にはねられて死亡し」たとのこと。
 ですから、事故に遭遇する世之介の歳を45とする方がむしろうってつけなのではないでしょうか?

(注7)原作では、倉持は1年浪人して入学したために世之介より1年歳上とされていますが(文庫版P.24)。

(注8)倉持は大学1年で子持ちとなりますが、その娘・智世が産院の育児室にいるときに、世之介はその様子をカメラに収めています。それで、16歳の智世の事件がここでわざわざ取り上げられているのでしょう。

(注9)原作(文庫版)のP.70に「この4月から」とあり、それは智世が中学を卒業した年のことだと思われますから2003年頃であり、小説の「今」である2008年とは違っているように思われます。

(注10)細かいことを言えば、原作小説では、世之介の事故は2008年の11月に起きていて、祥子が思い出すのは翌年の2月ですが。




★★★☆☆




象のロケット:横道世之介

きいろいゾウ

2013年03月06日 | 邦画(13年)
 『きいろいゾウ』を渋谷シネクイントで見ました。

(1)本作は、宮崎あおい向井理という、それぞれ今が旬ながら如何にもの俳優がコンビとなって出演するというので、ちょっと躊躇したものの、タイトルに惹かれて見てみたところ、物語自体も、そして映像もさながら絵本のようで(その中にさらに原作者が制作した絵本まで登場します)、そうであれば宮崎あおいと向井理というコンビは、逆にうってつけなのかな、と思ったりしました。

 物語では、ムコ向井理)とツマ宮崎あおい)が都会を離れて三重の田舎で暮らしています(注1)。
 ムコは売れない小説家で、当面の日銭を稼ぐために昼間は特養ホーム「しらかば園」で介護士として働いています。
 そんなムコが、出来上がった小説を出版社に持っていくために上京するところ、ツマは、上京するのはそれだけではない、なにか秘密があるに違いない、と勘付きます。
 さあ、秘密とは、そしてこの話はうまく解決するのでしょうか、……?

 この映画には3組のコンビが登場します。
 まずは、ムコとツマの夫婦。
 それから、隣のアレチさんとその妻セイカさん(柄本明松原智恵子)。
 そして、東京の夏目とその妻・リリー・フランキー緒川たまき)。(注2)

 いずれのコンビも何かしらの問題を抱えてはいるものの、現実感が酷く乏しい感じがします。

 何より、ムコとツマはそれぞれ秘密を抱えており(注3)、さらにツマは『きいろいぞう』の絵本が大好きなだけでなく、庭に生えている植物(ソテツ)とか、家にやってくる動物(犬のカンユやヤギのコソク)との会話を楽しむのです(注4)。
 また、隣の夫婦については、妻のセイカさんが、食事に大量の「ミロ」(麦芽飲料)をふりかけてしまうなど、認知症が進んでいるばかりでなく、夫の方もセイカさんが病院に入ってしまうと一人では何もできないと大声で嘆く始末なのです。
 さらには、夏目の妻もムコと何かしらの関係があったがために、そして彼女の状態が悪化したために、夏目はムコに「助けてくれ」との手紙を書くのです(その差出人が記載されていない手紙を見て、ツマは何かを感じ取ります)(注5)。

 とはいえ、こうした様々な登場人物たちは、一方で本作の幻想性を高めているところ、他方で、ムコとツマのこの世のものとは思えないラブ・ストーリー(注6)を説得力あるものとして構築しているというべきでしょう。

 宮崎あおいについては、最近では昨年秋の『天地明察』で見ましたが、見逃した『北のカナリア』や4月に公開される『舟を編む』にも出ていて、このところ本当にたくさんの映画に見かけるので驚きです(注7)。



 また、向井理についても、『新しい靴を買わなくちゃ』で見たところ、そこでは中山美穂の引き立て役に過ぎないような感じながら、本作ではその良さがうまく発揮されているのではと思いました。




(2)西加奈子氏の原作本(単行本は2006年) を見ると、各章の初めの部分等が本文とは別にゴチックとなっていて、どうやらツマが大事にしている絵本の内容を表しているようです。
 さらに、絵本もそうですが、そればかりか目次の部分も平仮名表記になっているのも興味深いところです(注8)。
 こうやって、原作本が様々に表現上の工夫を凝らしているのを受けているためでしょう(注9)、本作においても、全体の映像が大層幻想的なものとなっている上に、絵本の画像が登場するだけでなく、動画としても描かれており、様々な工夫が凝らされています。

 また、本作で注目されるものの一つに、ムコの背中に彫られている鳥のタトゥがあります。
 このタトゥは、拙ブログのこのエントリで触れた『蛇にピアス』のものに感じが類似すると言えるかもしれません(彫られているのもが龍と鳥で違ってはいますが)。



 ただ、幻想的な本作ですから、ムコが問題を直視して立ち向かうと、背中の鳥はどこかへ飛び去ってしまうのですが!

(3)渡まち子氏は、「互いに秘密を抱えたまま結婚した男女が本当の夫婦になっていく物語「きいろいゾウ」。一見、ユルい癒し系映画だが、実はなかなかシビアなお話だったりする」として60点を付けています。



(注1)2人が三重の田舎で暮らす家は、なんだか『ツレがうつになりまして。』で宮崎あおいと堺雅人が暮らす一軒家のような感じがしますが、それは都会のど真ん中にある家です。

(注2)さらには、幼いながらツマのところによく現れる少年・大地と、彼に片思いの少女・洋子というコンビも登場します(大地も、国語の時間に恥をかいたことをきっかけに登校拒否をしています)

(注3)ツマは幼い頃心臓を患いましたが、最近までそのことをムコに言っていませんでした(ツマは「ムコが聞かなかっただけ」と涼しい顔ながら、「ツマは大事なことを何も言わない」とムコはそのことに拘ります)。
 他方、ムコには昔女性がいましたが、ムコはそのことを妻には言っていません。

(注4)ソテツの声を大杉漣が、カンユの声を安藤サクラというように、声の出演者の多彩さも本作で注目すべき点でしょう。

(注5)ムコと夏目の妻とは、昔なにがしかの関係があり、ムコの背中の鳥の絵は彼女の手になるものなのです。

(注6)なにしろ、ムコの背中から飛び立ったタトゥの鳥の羽根が、三重の田舎に独りで待っているツマのもとに空から舞い落ちてくるのですから!

(注7)宮崎あおいは、これまでの映画では見かけなかった性的なシーンにも本作で挑戦しているところ(ずっと初歩的なものですが)、女優としてレベルアップするにはもう一頑張りが必要なのではないでしょうか(もう27歳、いつまでもお姫様のような役柄をやっているわけにもいかないでしょう)。

(注8)実に面白いことに、本年年1月16日に発表された第148回芥川賞は、75歳の黒田夏子氏に与えられましたが、その受賞作『abさんご』が平仮名の多い特異な文体になっています(ちなみに、その冒頭は「a というがっこうとb というがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,a にもb にもついにむえんだった.」)。
 勿論、一方は子供向けの絵本であり、もう一方は大人向けの小説ですから、平仮名が多いというだけで比べても何の意味もないでしょうが。

(注9)さらに原作本では、「もくじ」と「第1章きいろいゾウ」との間に「必要なもの。」として、「朝食のトマトと岩塩」以下、様々なものが列記されています(原作本の最終章の後にも掲載されていますが、列記されているものの最後に「ぼくのつま」が書き加えられています)。

 また、本文は、ゴシック体のところ以外では、語り手がツマの部分と、ムコの日記の部分(新聞の文体のように短文が多い)とから構成されています(ただ、後半になると語り手がムコである部分が登場します)。
 なお、2人の会話がなくなって、ツマはムコが書いた日記を読むようになりますが、そのことはムコが気づいており、ムコが気づいていることを妻も知っているという関係になります。
 こうなると、まるで谷崎潤一郎の『鍵』の世界です(同小説については、『サラの鍵』についてのエントリの(2)でごく簡単に触れています)。




★★★☆☆



象のロケット:きいろいゾウ