『偽りなき者』を渋谷のル・シネマで見ました。
(1)本作はデンマーク映画。
主演のマッツ・ミケルセンはカンヌ国際映画祭で主演男優賞を獲得しました。
映画の舞台は、デンマークの田舎の小さな町。
主役のルーカス(マッツ・ミケルセン)は42歳。離婚した上に、勤めていた中学校の閉鎖で失業中。
ただ、幼稚園の口が見つかり、いまでは園児と仲良く遊ぶ毎日。
他方で、昔からの仲間たちと近くの湖で戯れたり、また森に入って猟銃で鹿狩りをしたりしています。
ところが、親友テオの娘で園児のクララにちょっと冷たい態度をとったところ、彼女は、性的虐待を受けたというようなとんでもない嘘を園長に吐きます。
園長グレテは事を重大視し(注1)、ついには警察まで介入することになります。
ルーカスはいったいどうなってしまうのでしょう、……?
幼い女の子が吐いたちょっとした嘘がもとで一人の大人の人生が大きく狂ってしまうという有様が大層リアルに描かれていて、デンマーク映画の質の高さをまたまた認識しました(注2)。
マッツ・ミケルセンは、ナチスに対する抵抗運動を描いた『誰がため』で見ましたが、本作では、初めのうちは園児と一緒になって遊びながらも、事件が起こると一転して親友からも見放されて(注3)、苦悩することになる役柄を、実に見事に演じています。
(2)本作については、『フライト』についてのエントリの「注11」でほんの少し触れましたが、両作はある程度比較できるかもしれません。
まず、『フライト』では、公聴会において機長のウィトカーは嘘を吐かずに真実を証言しますが、本作のクララは、園長などに問い詰められると、吐いた嘘を肯定します。
そのため、本作では、その後に起きた波紋の広がりを描いて行くわけですが、他方の『フライト』では、機長ウィトカーを巡る個人的な話に縮小してしまいます(注4)。
すなわち、本作では、幼稚園に勤務する男を巡って起きたごく小さな事件にもかかわらず、その社会的に大きな影響がじっくりと描かれているのに対して、『フライト』では、航空機の墜落事故という大きな事件が起きたにしては、ラストの方では、ごく個人的な小さなレベルの話になってしまっている感じです(注5)。
こうなるのも、本作が、『フライト』のように、道徳的なメッセージ(注6)を観客にあからさまに提示しようとはしていない点にあるのではないか、とクマネズミは思っています。
(3)本作のある意味で衝撃のラストについては、色々の解釈があるようです(以下は大きなネタバレになりますので、ご注意ください)。
確かに、ルーカスが抱いた幻想(あるいは妄想)とも受け取れますが、狩猟のために森に入ったルーカスめがけて、実際に銃弾が撃ち込まれたとみてもかまわないのではないでしょうか?
事件があった次の年、息子マルクスの成人(注7)を祝うパーティー(マルクスに猟銃が手渡されます)に、ルーカス(注8)の仲間が夫婦でこぞって参加して祝福するわけですが、その様子を見れば、警察に捕まったルーカスは、とっくに釈放されていたことが分かります。
でも、それはおそらく天下晴れての無罪放免ということではなく、証拠不十分ということではなかったかと推測されます。
なにしろ、クララの証言しか存在しないのですから。
状況証拠と思われる証言(「ルーカスは、家の地下室で悪いことをしている」)も、ルーカスの家には地下室がないのですから、いい加減なものです(注9)。
でも、純粋無垢で嘘を吐くはずがないと信じられた幼い子供の言うことは間違いないと、周りの大人たちは一度は皆そう考えたのですから(注10)、嫌疑不十分で釈放されたルーカスに対して、決して許さないと考える人たちがいてもおかしくありません。
彼らは、ルーカスがこの町にいる限り、また同じような犯罪が起こる可能性があるとして、彼を排除しようと考えるかもしれません(注11)。
ソウいえば、本作の英題は「The Hunt」(原題「Jagten」の英訳)であり、本作の中では、ラストの他にもう一か所、鹿を撃つ場面が描かれます。
そこでは、ルーカスは、まったく無防備な鹿を猟銃でいとも簡単に仕留めます。
鹿のような動物は、熊などと違って、猟銃を手にする狩猟家にとっては実にたやすい標的なのでしょう。
それと同じように、ひとたび疑惑をもたれて傷を持ってしまったルーカスを打ち倒すのは、たとえ再び元の仲間たちに囲まれていようと、鹿よりもズッと簡単なのではないでしょうか?
(4)映画評論家の品田雄吉氏は、「いわれない告発にじっと耐えるミケルセンの演技は、人間としての誇りを必死の思いで保持しようとする姿勢を見事に体現して、第65回カンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞したのもうなずける」、「もし自分がこの共同体の一員だったなら、と考えさせずにはおかない作劇と演出。訴求力の強い映画である」と述べています。
(注1)本作において、やり過ぎではないかと思えるのは園長グレテの行動です。
園長にしてみれば、取扱いが酷く難しい性的虐待問題だけに、事が大きくなる前に十分な措置を取っておくべきだと判断したのでしょう、クララの言うこと(調査員のヒアリングの際は、質問に頷くだけのものですが)を絶対視し、客観的な裏付けを求めることなく、すぐさま園児の父兄などに話をし(それも誇張して)、果ては警察にまで事件を通報してしまいます。
ただ、過剰に見えるこんな行動を園長がとってしまうのは、あるいは、劇場用パンフレット掲載の大辺理恵氏のエッセイ「「偽り」の在処」に述べられている1997年の事件(「ある男性の先生が幼稚園で20名にものぼる子どもたちにみだらな行為を行ったという罪で3年半の懲役刑を科せられた」)を踏まえてのことかもしれません。
(注2)クマネズミは、これまで、本文で触れる『誰がため』の他に、『未来を生きる君たちへ』、『光のほうへ』を見ました。
(注3)無二の親友テオも、自分の娘が被害者であることから、ルーカスに対し「今度娘に触ったら、脳天に銃弾を撃ち込んでやる」などと言いますし、マルクスが「父を助けて」と訪れた時も、友人たちと一緒になって彼を道路に叩き出してしまいます。
(それでも、ルーカスの毅然たる態度に、最後にはルーカスを信じるようになり、一人家の中に引っ込んでいるルーカスに食事を届けに行きます)
(注4)『フライト』のラストの方では、機長ウィトカーが5年の刑期で刑務所に入り、そのためもあってアルコール依存症から脱出できたことを囚人の前で話したり、また、自分が不利になることを省みずに勇気を以て真実を述べたことから、離反していた息子が刑務所に面会に訪れたりするシーンが描かれます。
(注5)『フライト』では、機長ウィトカーは、真実を述べたことによって刑務所入りにはなったものの、親しい人たちなどからは勇気ある行動として称賛されています。
ただ、話はこれで止まらないはずです。映画では描かれませんでしたが、機長が自分の非を認めることによって、墜落事故で犠牲となった乗客に対して会社が支払わなければならなくなる損害賠償額は莫大な金額に上って、会社の存続が危うくなるかもしれません(そうなれば、会社従業員の解雇といった事態につながるかもしれません)。
それに、墜落の本当の原因とみられる機体整備不良の問題がうやむやとなってしまい、第2、第3の事故が起こる可能性もでてくるでしょう。
機長ウィトカーの行動は、クララが嘘を吐いたこととは比べ物にならないほどの社会的な影響力があったと思われるところです(でも、映画では何も描かれませんでした)。
(注6)“アルコールは控えめに”とか、“嘘を吐くな”といったような。
(注7)上記「注1」で取り上げた大辺氏のエッセイによれば、「デンマークで狩猟をするには、免許を取る必要があり、取得試験に挑戦する資格は16歳になっていれば与えられる」とのことですから、マルクスは16歳になって試験に合格したのでしょう。
(注8)ルーカスは、息子マルクスだけでなく、幼稚園の同僚のナディアとともに式に臨みます。
ナディアとは事件の前に深く知り合い、離婚して一人身だったルーカスは、一緒に暮らしてもと思っていたところに事件が起こり、ナディアをも遠ざけていました。
なお、このナディアは、デンマーク人ではなく外国人(東欧からでしょうか)とされ、幼稚園の同僚たちとも、難しい話となると英語で会話します。
ルーカスも、途中から幼稚園の教師になりましたから、ある意味で他所者同士ということで、二は急接近したのかもしれません。
(注9)ルーカスの無実を信じている親友のプルーンが、仲間にそんなことを話しています。
(注10)すでに公開が終了しましたが映画『約束』で描かれている「名張毒ぶどう酒事件」では、奥西死刑囚がたった一度した自白(その後、否定)によって死刑判決を受ける経緯が描かれているとのことですが(未見です)、最初にした証言の重みがうかがわれるところです(本裁判の問題点については、ここでは控えます。また、本作のクララは幼児ですから、余り比較する意味合いはないのかもしれませんが)。
(注11)ここのところは、全く状況は異なりますが、『脳男』において染谷将太が扮した志村のことを思い出してしまいました(志村は、社会に復帰するものの、結局「脳男」に殺されてしまいます)。
★★★★☆
象のロケット:偽りなき者
(1)本作はデンマーク映画。
主演のマッツ・ミケルセンはカンヌ国際映画祭で主演男優賞を獲得しました。
映画の舞台は、デンマークの田舎の小さな町。
主役のルーカス(マッツ・ミケルセン)は42歳。離婚した上に、勤めていた中学校の閉鎖で失業中。
ただ、幼稚園の口が見つかり、いまでは園児と仲良く遊ぶ毎日。
他方で、昔からの仲間たちと近くの湖で戯れたり、また森に入って猟銃で鹿狩りをしたりしています。
ところが、親友テオの娘で園児のクララにちょっと冷たい態度をとったところ、彼女は、性的虐待を受けたというようなとんでもない嘘を園長に吐きます。
園長グレテは事を重大視し(注1)、ついには警察まで介入することになります。
ルーカスはいったいどうなってしまうのでしょう、……?
幼い女の子が吐いたちょっとした嘘がもとで一人の大人の人生が大きく狂ってしまうという有様が大層リアルに描かれていて、デンマーク映画の質の高さをまたまた認識しました(注2)。
マッツ・ミケルセンは、ナチスに対する抵抗運動を描いた『誰がため』で見ましたが、本作では、初めのうちは園児と一緒になって遊びながらも、事件が起こると一転して親友からも見放されて(注3)、苦悩することになる役柄を、実に見事に演じています。
(2)本作については、『フライト』についてのエントリの「注11」でほんの少し触れましたが、両作はある程度比較できるかもしれません。
まず、『フライト』では、公聴会において機長のウィトカーは嘘を吐かずに真実を証言しますが、本作のクララは、園長などに問い詰められると、吐いた嘘を肯定します。
そのため、本作では、その後に起きた波紋の広がりを描いて行くわけですが、他方の『フライト』では、機長ウィトカーを巡る個人的な話に縮小してしまいます(注4)。
すなわち、本作では、幼稚園に勤務する男を巡って起きたごく小さな事件にもかかわらず、その社会的に大きな影響がじっくりと描かれているのに対して、『フライト』では、航空機の墜落事故という大きな事件が起きたにしては、ラストの方では、ごく個人的な小さなレベルの話になってしまっている感じです(注5)。
こうなるのも、本作が、『フライト』のように、道徳的なメッセージ(注6)を観客にあからさまに提示しようとはしていない点にあるのではないか、とクマネズミは思っています。
(3)本作のある意味で衝撃のラストについては、色々の解釈があるようです(以下は大きなネタバレになりますので、ご注意ください)。
確かに、ルーカスが抱いた幻想(あるいは妄想)とも受け取れますが、狩猟のために森に入ったルーカスめがけて、実際に銃弾が撃ち込まれたとみてもかまわないのではないでしょうか?
事件があった次の年、息子マルクスの成人(注7)を祝うパーティー(マルクスに猟銃が手渡されます)に、ルーカス(注8)の仲間が夫婦でこぞって参加して祝福するわけですが、その様子を見れば、警察に捕まったルーカスは、とっくに釈放されていたことが分かります。
でも、それはおそらく天下晴れての無罪放免ということではなく、証拠不十分ということではなかったかと推測されます。
なにしろ、クララの証言しか存在しないのですから。
状況証拠と思われる証言(「ルーカスは、家の地下室で悪いことをしている」)も、ルーカスの家には地下室がないのですから、いい加減なものです(注9)。
でも、純粋無垢で嘘を吐くはずがないと信じられた幼い子供の言うことは間違いないと、周りの大人たちは一度は皆そう考えたのですから(注10)、嫌疑不十分で釈放されたルーカスに対して、決して許さないと考える人たちがいてもおかしくありません。
彼らは、ルーカスがこの町にいる限り、また同じような犯罪が起こる可能性があるとして、彼を排除しようと考えるかもしれません(注11)。
ソウいえば、本作の英題は「The Hunt」(原題「Jagten」の英訳)であり、本作の中では、ラストの他にもう一か所、鹿を撃つ場面が描かれます。
そこでは、ルーカスは、まったく無防備な鹿を猟銃でいとも簡単に仕留めます。
鹿のような動物は、熊などと違って、猟銃を手にする狩猟家にとっては実にたやすい標的なのでしょう。
それと同じように、ひとたび疑惑をもたれて傷を持ってしまったルーカスを打ち倒すのは、たとえ再び元の仲間たちに囲まれていようと、鹿よりもズッと簡単なのではないでしょうか?
(4)映画評論家の品田雄吉氏は、「いわれない告発にじっと耐えるミケルセンの演技は、人間としての誇りを必死の思いで保持しようとする姿勢を見事に体現して、第65回カンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞したのもうなずける」、「もし自分がこの共同体の一員だったなら、と考えさせずにはおかない作劇と演出。訴求力の強い映画である」と述べています。
(注1)本作において、やり過ぎではないかと思えるのは園長グレテの行動です。
園長にしてみれば、取扱いが酷く難しい性的虐待問題だけに、事が大きくなる前に十分な措置を取っておくべきだと判断したのでしょう、クララの言うこと(調査員のヒアリングの際は、質問に頷くだけのものですが)を絶対視し、客観的な裏付けを求めることなく、すぐさま園児の父兄などに話をし(それも誇張して)、果ては警察にまで事件を通報してしまいます。
ただ、過剰に見えるこんな行動を園長がとってしまうのは、あるいは、劇場用パンフレット掲載の大辺理恵氏のエッセイ「「偽り」の在処」に述べられている1997年の事件(「ある男性の先生が幼稚園で20名にものぼる子どもたちにみだらな行為を行ったという罪で3年半の懲役刑を科せられた」)を踏まえてのことかもしれません。
(注2)クマネズミは、これまで、本文で触れる『誰がため』の他に、『未来を生きる君たちへ』、『光のほうへ』を見ました。
(注3)無二の親友テオも、自分の娘が被害者であることから、ルーカスに対し「今度娘に触ったら、脳天に銃弾を撃ち込んでやる」などと言いますし、マルクスが「父を助けて」と訪れた時も、友人たちと一緒になって彼を道路に叩き出してしまいます。
(それでも、ルーカスの毅然たる態度に、最後にはルーカスを信じるようになり、一人家の中に引っ込んでいるルーカスに食事を届けに行きます)
(注4)『フライト』のラストの方では、機長ウィトカーが5年の刑期で刑務所に入り、そのためもあってアルコール依存症から脱出できたことを囚人の前で話したり、また、自分が不利になることを省みずに勇気を以て真実を述べたことから、離反していた息子が刑務所に面会に訪れたりするシーンが描かれます。
(注5)『フライト』では、機長ウィトカーは、真実を述べたことによって刑務所入りにはなったものの、親しい人たちなどからは勇気ある行動として称賛されています。
ただ、話はこれで止まらないはずです。映画では描かれませんでしたが、機長が自分の非を認めることによって、墜落事故で犠牲となった乗客に対して会社が支払わなければならなくなる損害賠償額は莫大な金額に上って、会社の存続が危うくなるかもしれません(そうなれば、会社従業員の解雇といった事態につながるかもしれません)。
それに、墜落の本当の原因とみられる機体整備不良の問題がうやむやとなってしまい、第2、第3の事故が起こる可能性もでてくるでしょう。
機長ウィトカーの行動は、クララが嘘を吐いたこととは比べ物にならないほどの社会的な影響力があったと思われるところです(でも、映画では何も描かれませんでした)。
(注6)“アルコールは控えめに”とか、“嘘を吐くな”といったような。
(注7)上記「注1」で取り上げた大辺氏のエッセイによれば、「デンマークで狩猟をするには、免許を取る必要があり、取得試験に挑戦する資格は16歳になっていれば与えられる」とのことですから、マルクスは16歳になって試験に合格したのでしょう。
(注8)ルーカスは、息子マルクスだけでなく、幼稚園の同僚のナディアとともに式に臨みます。
ナディアとは事件の前に深く知り合い、離婚して一人身だったルーカスは、一緒に暮らしてもと思っていたところに事件が起こり、ナディアをも遠ざけていました。
なお、このナディアは、デンマーク人ではなく外国人(東欧からでしょうか)とされ、幼稚園の同僚たちとも、難しい話となると英語で会話します。
ルーカスも、途中から幼稚園の教師になりましたから、ある意味で他所者同士ということで、二は急接近したのかもしれません。
(注9)ルーカスの無実を信じている親友のプルーンが、仲間にそんなことを話しています。
(注10)すでに公開が終了しましたが映画『約束』で描かれている「名張毒ぶどう酒事件」では、奥西死刑囚がたった一度した自白(その後、否定)によって死刑判決を受ける経緯が描かれているとのことですが(未見です)、最初にした証言の重みがうかがわれるところです(本裁判の問題点については、ここでは控えます。また、本作のクララは幼児ですから、余り比較する意味合いはないのかもしれませんが)。
(注11)ここのところは、全く状況は異なりますが、『脳男』において染谷将太が扮した志村のことを思い出してしまいました(志村は、社会に復帰するものの、結局「脳男」に殺されてしまいます)。
★★★★☆
象のロケット:偽りなき者