映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

私の中のあなた

2009年10月31日 | 洋画(09年)
 「私の中のあなた」を有楽町の「TOHO シネマズ 日劇」に行って見てきました。

 予告編からすれば、お定まりの感動もの(若い子が不治の病で死を迎えるというよくあるストーリー)だからわざわざ見ても仕方ないのではと思っていましたが、何かと評判がいいので映画館に足を運んでしまいました。

 実際のところ、やっぱりこうした映画こそ、うるさいことは何も言わずに、“おすぎ”のように、「姉ケイトの苦悩、家族というもの…愛というもの…死というもの…をラスト30分、号泣し、スクリーンが見えにくい状態で考えさせられました」と言ってみたり、前田有一氏(85点)のように「ぜひ大切な人とともに見て、生と死について議論をかわしていただきたい。そういう楽しみ方が、一番適している」と格好よく言ってしまうかすればいいのでしょう。

 ですから、福本次郎氏(50点)の、「家族の意見の食い違いを表現するのに、やたらと現在と過去を混在させる編集法は、見ていて混乱するだけ。せっかくサラが頭を丸めたのだから、彼女の髪の伸び具合で時間の経過を示すくらいの親切さがほしい」といった意見は、ピントが外れていて、なくもがなということになります。

 結局の所、私も大変感動しましたが、でもそれだけでは、せっかく見たのに詰まりません。
 少しコメントすれば、
・白血病に罹っている姉のケイトについて、映画「ちゃんと伝える」とは全く違って、厳しい症状の場面が繰り返し描き出されます。こうしたシーンがきちんと描かれているからこそ、海岸に行きたいとのケイトの願いを家族全員の協力で実現させたときの場面が非常に感動的になります。
・母親役のキャメロン・ディアスは、自分の髪の毛を剃って丸坊主になる場面まで設けて、この映画に全力投入していて感動的です。
・妹のアンを演じるアビゲイル・ブレスリンは、「リトル・ミス・サンシャイン」とか「幸せの1ページ」でお馴染みですが、可愛らしさの中に大人びたものも感じさせ、その演技に唸らされます。
・ただ、いま少しわからないのは、妹アナは、白血病の姉を救うべく試験管ベービーとしてもうけられたにしても(SF的な設定になっています)、その事実をなぜ本人が知っているのか、という点です。両親や医者が口を閉ざしてさえいれば、本人は自分が生まれるにいたった経緯など分からないのではないかと思われます。
それが、この映画では、妹のアナはその事情をよく承知しているばかりか、これまでの自分に加えられた治療行為を証明する書類まで持って弁護士のところに行くのですから、いくらSF的な設定がとられているとはいえ、余り説得的ではないように思われます。


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あの日、欲望の大地で

2009年10月28日 | 洋画(09年)
 「あの日、欲望の大地で」をル・シネマで見ました。
 前田有一氏が80点もの高得点を付けていることもあり、見てきました。

 最初のうちは、次々に画面が変わるのでイライラしてしまいますが、いくつかのエピソードを分断して編集していることが飲み込めてくると気にならなくなり、それもトレーラーハウスの爆発事故を引き起こしたのが娘時代のシルヴィアだったことを効果的に映し出すための手法だと分かってくれば、マア納得できるというものです。

 とはいえ、生後2日の自分の娘を置いてシルヴィアは家出してしまいますが、シルヴィアが、自分も母親と同じような行動をとってしまったと自覚し、さらに自分の娘が同じ過ちを繰り返してしまうのを恐れたらしいというのでは、かなり薄弱な動機のように思われるところです。

 この点については、60点の福本次郎氏が、「赤茶けた荒涼とした大地と陰鬱な雲に覆われた街、トレーラーハウスに通う人妻と奔放なセックスにふける女。舞台となる風景は対照的でもそこで繰り広げられる欲望は相似形をなす。それは彼女たちが血のつながった母娘だから」と述べています。
 ですが、仮にそうだとしても、今頃“血の繋がり”を持ち出すとは随分古臭いストーリーだ、と言えるでしょう〔それも「相似形」と言うだけでは、何の説明にもならないと思いますが〕!

 そういえば、母親とメキシコ人とのトレーラーハウスにおける「奔放なセックス」は、『チャタレー夫人の恋人』における夫人と森番とが、その小屋で繰り広げたものに類似していますし〔それぞれの夫の状況も酷似しています〕、娘時代のシルヴィアとボーイフレンドとの関係は、シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』めいてもいます。

 内容がかくも古臭い上に、娘時代のシルヴィアと大人になってレストランに勤めているシルヴィアとが同一人物である点は、やや違和感があるものの受け入れ可能ながら、ボーイフレンドについては、飛行機の操縦士姿の大人の彼が青年時代とはあまりに容貌が違っていて、とても同一人物とは思えず、最後まで違和感が残ります(尤も、大人になってからの登場時間はごくわずかにすぎませんが)。

 それに、娘時代のシルヴィアが導火線を用いてトレーラーハウスに火を点け、それが単なる火災でとどまらずに思いがけずガス爆発が起こって母親たちを殺してしまうわけですが、シルヴィアの心のトラウマになってしまうだけにしては大きすぎる事件ではないでしょうか?
 さらに、導火線の跡は爆発炎上しても残るはずではとも思え、そうであれば第三者の存在が疑われてしかるべきでしょう。にもかかわらず、この大事件が単なる「事故」で済まされてしまった、という点もあまり納得できませんでした。

 という具合に、見ながらいろいろ疑問を感じました。
 にもかかわらず、監督がさまざまな工夫を凝らしてこの映画を製作しているという熱意が、十分に観客に伝わってきますので、全体としてそれほど悪い印象は残りません。さらにまた、見終わってから色々反芻してあれこれ議論できるというのも大きな楽しみではないでしょうか?

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クヒオ大佐

2009年10月25日 | 邦画(09年)
 「クヒオ大佐」を渋谷のシネクレストで見てきました。

 私としては、『南極料理人』に引き続いて堺雅人の演技が秀逸であり、かつ作品自体としても面白く、全体に大層優れた映画だなと思ったところです。

 「映画ジャッジ」の評論家諸氏では、福本次郎氏が、「映画は主人公の内面に深く踏み込もうとはせず、行為だけからは彼の人となりがイマイチ見えてこない」と相変わらずピントが外れた論評で40点です。こうした映画で「彼の人となり」とか「クヒオの素顔」を求めても仕方がないでしょうに!
 また、渡まち子氏は、「バレバレの嘘を平気でつく幼稚な発想や、夢と現実の区別がつかない体験談など個性あふれる見所に対し、クヒオの背景や心理描写が浅いのは残念だが、付け鼻とおかしな日本語で熱演する境雅人の曖昧な笑顔が抜群にハマッていて、大いに楽しめた」として70点を与えています。「クヒオの背景や心理描写」に関心が行ってしまう点は問題ですが、マアマアのところでしょう。

 この映画に関する論評では、小梶勝男氏のものが最高でしょう。彼は、「日本人なのにアメリカ人と名乗って女性を騙した実在の結婚詐欺師を、堺雅人が付け鼻と片言の日本語で演じる。岡本喜八作品にも通じる映画らしい映画」だ、「詐欺の話で、ラブストーリーであるにもかかわらず、ラストに近づくと、怒濤のように「活劇」となっていく。その感覚が、岡本作品と通じるところがあるのだ。今年見た日本映画の中では抜群にいい」として90点もの高得点を与えているのです!

 小梶氏は、「主演の堺雅人は、何と付け鼻に片言の日本語で、嘘くさいキャラクターを嘘くさいまま、見事に演じきってしまう」と述べます。まさに、あんな姿恰好では、余程のバカでない限り騙されることはないでしょう。これでは映画が成立しないのではと思いながらも、次第に、登場人物たちが騙されるばかりか、見ているこちらの方も、もしかしたらこんな話は起こりうるのかもしれないと思えてきます。

 あるいは、この映画は、監督と観客の騙し合いが狙いなのかもしれません。

 冒頭に、いきなり「第一部 血と砂と金」とのタイトルがあらわれ(注)、湾岸戦争のドキュメンタリ映像が流され、その上で、外務官僚たちの日本の戦争協力を巡っての激しい論争が描かれます。アレッこれは「クヒオ大佐」という映画ではなかったのかしら、これは何か別の映画の予告編なのかしら、と観客をひどく戸惑わせておいてから、暫くすると「第二部 クヒオ大佐」というタイトルが、それも小さく表示されます。
 やれやれ。でも今の映像は何だったのかしら、という不思議感覚は最後まで消えません。

 映画の本編は、冒頭シーンの派手さとは打って変わって、詐欺師の生活ぶりを描いていながらも、極度に地味な場面が続きます。何しろ、クヒオ大佐は、零細な「弁当屋の女社長」から少額のお金を巻き上げて、安アパートで生活しているにすぎないのですから!
 唯一派手派手しいのは銀座のバーの情景ながらも、クヒオ大佐が飲み代を支払う場面は描かれません。ストーリー重視の立場からすれば問題があるかもしれませんが(銀座での飲み代を支払えるほど、クヒオ大佐は稼いでいないはずですから)、この映画としては、銀座のママとそのお客〔クヒオ大佐というよりも、むしろ会社の金を横領した常連客〕との騙し合いの様子が描き出されていれば十分でしょう。

 それがラスト近くになってくると、調子が冒頭に戻って、「クヒオと女性たちが揉み合い、走り、最後は米軍のヘリまで登場」、その「米軍ヘリからプールサイド、そしてパトカーの車内と続くラストのシークエンスの圧倒的な面白さ」に「ワクワクさせられる」ことになります。
 ここでも、突然米軍ヘリが登場しますから、アレッと思うものの、冒頭で湾岸戦争の映像を見ていますから、こんなシーンもあってもおかしくないなと思っていると、トドノツマリは、パトカーの中でのクヒオ大佐の妄想に過ぎないことがわかってジ・エンド。

 この映画には、クヒオ大佐と3人の女性、監督と観客という関係のほかに、もうひとつ騙し騙されの関係があるようです。それが米国と日本との関係でしょう。日本は、表向きは米国に忠実に従っているものの、実際のところはお金で済むところはお金で済まそうと虎視眈々とうかがっており、他方で、米国も、日本が思い描いているような格好の良さを示していながらも、いろいろなルートで多額のお金を奪い取っている、という関係ではないか、と映画が言っているようでもあります。

 とにかく、初めから一気にアクセルをふかせたかと思うと急にブレーキを踏み、そうこうしているうちに、またもやアクセルがいっぱいに踏み込まれるという、すごくメリハリの利いた構成の中で、騙し騙されの関係がいろいろなレベルで仕掛けられていて、随分と面白い映画に仕上がっているなと感心いたしました。

(注)小梶勝男氏によれば、「第一部 血と砂と金」とは「岡本喜八監督の「血と砂」から取ったタイトルであることは明らか」で、この映画の「吉田大八監督は、岡本喜八を意識して本作を撮ったのだろう」とのことです。
 そこで、岡本監督の『血と砂』(1965年)をDVDで見てみました。
 確かに、『血と砂』は、荒涼とした「北支」における日本軍の戦いを描いていますから、湾岸戦争におけるイラクのクエート侵攻と類似するところはあるでしょう。さらには、三船敏郎とか佐藤允などが活躍する「活劇」ですから、雰囲気も「クヒオ大佐」のラストとある程度は合致しているでしょう。
 ただ、岡本作品は、軍隊の音楽隊の少年兵が三船の指揮の下、ある陣地の奪取を命じられ、結局は全員戦死してしまうという戦争の悲劇を描いたもので、トーンは総じて「クヒオ大佐」の本編とは別物であって、小梶氏のように「岡本喜八を意識して本作を撮った」とまで言えるのか疑問です。

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カムイ外伝

2009年10月21日 | 邦画(09年)
 吉祥寺で「カムイ外伝」を見てきました。

 この作品は、映画評論家の間では総じて評判が悪いものの、昨年10月に出版された法政大学教授・田中優子氏が著した『カムイ伝講義』(小学館)(注)を読んだこともあり、また『ウルトラミラクルラブストーリー』で主演の松山ケンイチが出演していることもあり、見に行ってきた次第です。

 実際に映画を見てみますと、主演の松山ケンイチの動きが素晴らしく、相手役の小雪もかなり頑張っています。特に、剣戟の場面が全体のかなりの割合を占めていて、それが昔の時代劇のチャンバラ・シーンとはかけ離れたスピードとスケールで行われるものですから、最後まで息吐く暇がありませんでした。特に、ラストの伊藤英明との壮絶なアクション・シーンは出色です。
 ストーリー的にやや難はあるものの、アクション・シーンの面白さから、娯楽映画としては及第点だなと思いました。

 ですから、私としては、小梶勝男氏の論評に近いものを感じました。
 小梶氏は、「忍者アクションとしてのレベルの高さに驚いた。カムイ役の松山ケンイチを始め、役者たちの動きが実にいい。ワイヤーワークも素晴らしい。日本映画では余り例がない凄いアクションではないか」と述べて73点を与えています(尤も、「スタッフは豪華だが、ドラマとしてはまとまりがなく、主役のカムイがどんな人物なのかすら、よく分からなかった」と述べていますが)。

 ところが、他の映画評論家の見解はまるで違うようです。
 特に、前田有一氏はこの作品に30点しか与えていないところ、まず「日本映画界の重鎮・崔洋一監督、そして日本一の人気脚本家・宮藤官九郎。……どう見ても彼らの得意分野とはズレたコンセプトによる映画化で、いずれも力を発揮できていない印象」で、彼らならば「たとえ一度も時代劇を撮ったことがなくてもそれなりのものは作れるし、手堅い脚本だって書けるだろう」が、「本作の場合は残念ながら裏目」に出ていると述べます。

 ですが、元々、時代劇と現代劇のどこが違うというのでしょう。過去をタイムマシンで見たわけではないのでしょうから、どんな時代劇といえども現代の観点からしか作り得ないはずです。
それに、崔洋一監督は、俳優として『御法度』(監督大島渚)に近藤勇役で出演していますし、宮藤官九郎も『真夜中の弥次さん喜多さん』(2005年)の監督・脚本を手掛け、『大帝の剣』(2007年)に出演もしていますから、二人は決して時代劇の門外漢ではありません。
 その上、この二人が協同して脚本を作り上げていますから、「どう見ても彼らの得意分野とはズレたコンセプトによる映画化」であり、「一流のスタッフをそろえても、不慣れなものを作らせればいいものはできない」とまで言うのは、誤った先入観に基づいているとしか言いようがありません。

 続けて前田氏は、「唯一気を吐いていたのが、アクション監督・谷垣健治によるソードアクション」と述べますが、こうした書き方だと、アクション・シーンについては崔洋一監督が谷垣氏にすべて任せ切ってしまっているように受けとられますが、そんなことはあり得ないはずです。
 とりわけアクション・シーンが多いこの映画においてそんなことをしたら、いったい崔洋一氏の役割は何だったと言うのでしょうか?

 さらに、他の評論家の評価も総じてかなり低いものです。

 福本次郎氏は、「差別される人々の心情を語ってこそカムイの渇望が表現できるはずなのに、中途半端なアクションシーンばかり繰り返され、肝心のカムイの怒りや苦しみが見えてこ」ず、「原作の読み込みが足りず完全な失敗作に終わってしまった」として、40点しか与えません。

 渡まち子氏は、「消化不良のアクションだけが目につく時代劇」であり、「映画で描かれるそれは、CGやワイヤーアクションに迫力と工夫が足りない。特に渡り衆のサメ退治の場面のCGは苦笑を誘う。必殺忍法は、カムイの得意技・変移抜刀霞斬りなどが登場するが、もう少しバリエーションがほしかったところか」と、アクション・シーンについて小梶氏とは正反対の評価で、55点です。

 山口拓朗氏は、この二人の論評を合わせたような見解で、一方において「この映画が、そんなカムイの逼迫した心情を描き切っているかといえば、残念ながら答えはノーだ」とし、また他方において「唯一の見せ場となるアクションは、決して完成度が高いとはいえないワイヤとCGが邪魔をして、失笑とツッコミを誘う滑稽なシーンも少なくない」として、評点は50点です。

 以上からすると、この映画を評価する人もしない人も、ストーリーに難点があることではほぼ一致しているようです。

 そこで、この映画の原作となった白土三平の漫画『カムイ外伝-スガルの島』(小学館)が、書店でちょうど売り出されていたので買って読んでみたところ、映画はこの漫画をかなり忠実に実写化していることがわかりました(福本氏は、「渡衆」と名乗るサメ狩り集団の「リーダーたる不動がカムイを始末するために派遣された「追い忍」に突然変ぼうするというあほらしさ」と述べていますが、コレは原作に従っているまでのことであって、スタッフに対して「原作の読み込みが足り」ないと叱責できるほどご自身で読み込んでいるとはとても思えません!)。
 ただ、その結果、ヒロインは小雪とされているものの、松山ケンイチと小雪のラブシーンはなく、また、二人の格闘場面が何回もあるのに、ラスト近くになって小雪が漁民たちと一緒に簡単に毒殺されてしまうのは、いくら原作に忠実とはいえ見ている方は拍子抜けしてしまいます。
 また、心境著しい佐藤浩市が殿様役として出演しているものの、原作と同様、存在感が乏しい役回りしか与えられていないのも残念です。

 ですから、映画として見た場合、ストーリーに問題がないこともないわけです。ただ、漫画も、そしてそれに基づく映画も、その重点はアクションにあって筋立ての方にないのではと思えるところです。

 それに、福本次郎氏は、「「」階級のカムイと、一応「人」の農民、権力を握る殿様。同じ赤い血が流れる人間なのに、生まれついた身分で運命は全く違ったものになる」が、「差別される人々の心情」が語られていないと述べていますが、そんな「心情」などこの映画の中でわざわざ語らずとも、時代背景として観客はよく承知しているのではないでしょうか(少なくとも福本氏は!)?

 それよりなにより、この映画で追及されているのは、漫画では静止画の連続としか描けない剣戟シーンをあえて実写化して、スムースな動きとして捉えることではないでしょうか?

 そのアクションについては、「CGやワイヤーアクションに迫力と工夫が足りない」との意見が多いようですが、崔洋一監督が力を込めて描いており、私としては小梶氏の言うように、素晴らしい出来栄えだと言いたいところです。

(注)全体としては素晴らしい出来栄えの田中氏の著書について、1つだけ問題点を申し上げると、そのp.327に「階級制度を捨てたかに見える日本には、まだ公式な階級制度が一つだけ残っている。天皇制だ。生まれたときから自らの身分と職務が決まっており、それに従って教育され、それに従って結婚し、それに従って生きる」云々とありますが、これでは「天皇制」と「天皇家」を同一視し、あまつさえ一家族が「階級」を形成するというとんでもないことになってしまいます(本書の基になった法政大学における講義については、Web版「カムイ伝から見える日本」で概要を読むことができます)。


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ギター合宿

2009年10月18日 | 音楽
 私が通っている加藤ギター・スクール恒例の合宿が、今年も先週の連休に開催されました。

 合宿先のペンションが赤城山の麓にあるため、車で行くには関越道を通らなくてはならず(高崎JCTから「北関」に入ります)、それも時期が秋の連休中ということもあり、いつも高速道路の出発点から大変な渋滞に巻き込まれます。
 今回は特に、高速料金の大幅引下げが既に実施されていますから、これまでにも増して混雑が予想されました(平日ならば2800円位のところが、1600円で済みます〔練馬~駒形〕)。
 それで11日の日曜日は、朝5時起きして準備に取り掛かり、8時には家を出ました。

 台風18号が本州を縦断した直後の晴天続きということもあって、やはり例年通り関越道は渋滞の連続、結局、途中の嵐山SAを過ぎるあたりまでノロノロ運転せざるを得ません(通常ならば1時間くらいで行けるところが、結局4時間かかりました!)。
 ただ、何回も同じ時期に同じ場所に出向いていますから、ひどい渋滞は織り込み済みで、ソレをなんとかやり過ごすために、車内で聞くCDを何枚も用意します。今回は、スガシカオ「FUNKAHOLiC」、くるり「魂のゆくえ」、コブクロ「CALLING」といったところを聞きながら、4時間を過ごしました。

 そんなこんなで、正午頃、ようやっと目的地手前にあるソバ屋に到着〔このソバ屋「大富屋」は、舞茸の天ぷらの付いた「せいろ」が有名なお店で、合宿に参加する生徒の集合場所になっています〕、皆で一緒にうどんやソバを食べてから、合宿先のペンション「がるば」に向かいます。

 午後は、ペンションに併設されている音楽室にて、生徒や講師の方が出演するコンサートが、3時半から5時くらいまで開催されました。
 私も出演しましたが、何しろ聴衆は教室の生徒だけなのでそんなには上がらないとはいえ、やっぱり家で練習している時のようにはいきません。まあアマチュアですから、演奏がうまくいこうがいくまいが何の問題もないところ、先の発表会でもうまくできなかった曲が今度もということになると、やはり落ち込んでしまいます!
 コンサートのトリは、講師の川村先生による「アルハンブラの思い出」ほか。

 コンサートの後は、演奏した曲の録音です。場所と機材が良好な条件で録音されたものを聞くと、自分の演奏を隅々まで客観的にチェックすることができ、演奏の向上につながる、というのが加藤先生の考えです。
 確かに、演奏しながら耳に入ってくるものは、こうして録音されたものとはまるで違っていることに驚きます。もしかしたら、演奏最中は、自分に都合の良いように聞こえるよう自分でフィルターをかけてしまうのかもしれません。加えて、頗る性能の良い機材で録音すると、通常ではあまり気にならない音までキチンと入ってしまうのですからなおさらです。

 私が録音した曲はやや長めでしたので、続けて3回も緊張しながら演奏すると、ひどく疲れてしまい、弾き直して録音すべき個所がたくさんあっても、気力が続かなくなってしまいます。
 それでもなんとか録音が済むと、7時からようやく夕食です。ペンション「がるば」では、自分の畑で採れた食材をふんだんに使った美味しいフランス料理が出されます。久しぶりに会った人たちと、ワインなどを飲みながら談笑するのは、この上なく楽しいものです。

 そうしておしまいは、加藤先生を中心にしたミニ・コンサート〔画像は、去年の合宿の際の加藤先生〕。
 加藤先生の独奏があったり、川村先生等のプサルタリーとの合奏があったりして、またたくまに9時を過ぎてしまいます。

 それにしても、ギターの素晴らしい独奏とか、ギターとプサルタリーとの息の合った合奏を、こんなに少ない人数で、こんなに近くで、それも大層親密な雰囲気の中で聴くことができるというのは、なんと贅沢な時間の過ごし方でしょう!まるで、バロックかロココ時代の宮廷にいるかのようです。普通は、音楽会といったら、300人とか500人もの人が集まります(シンフォニーならば2,000人といったオーダーでしょう)。ただ、そんな大人数の入るホールでしたら、ギターとかプサルタリーの良さは十分に発揮されません。それがここでは、演奏者とさほど変わらない人数の聴衆しかいない中で、素晴らしい演奏をそばで直接耳にすることが出来るのですから、これ以上のことを望むべくもありません!

 その夜は早めに就寝し、翌日は、帰りの渋滞に巻き込まれないよう、朝9時にペンションを出発したところ、お昼前には自宅に帰り着きました。

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リミッツ・オブ・コントロール

2009年10月17日 | 洋画(09年)
 「リミッツ・オブ・コントロール」を吉祥寺バウスシアターで見ました。

 この映画の監督であるジム・ジャームッシュの作品について、初期の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を見ていいなと思い、その後も「ブロークン・フラワーズ」とか「コーヒー&シガレッツ」を見たりしていましたので、この映画もぜひ見てみたいものだと思っていました。

 この映画のストーリーはすこぶる単純で、殺し屋の主人公が、スペインに飛んで依頼通りに人を殺すというだけのものです。そればかりか、殺される人物がいる場所にまで主人公の辿り着く過程が、繰り返し延々と、それも動きと言葉を極端に抑制して描かれているために、見る人によっては頗る退屈な映画になると思われます。

 ですが、この「繰り返し」という点は、「ブロークン・フラワーズ」でもおなじみの手法(「コーヒー&シガレッツ」も、ある意味では同じ手法と言えるでしょう)なので、彼の作品を見ている人にとってはそれほど違和感がないのかもしれません。

 とはいえ、まず主人公が喫茶店でエスプレッソを2つ頼み、そこに組織からの指令を伝える連絡役の人物が現れて何事か話をし、最後に指令書の入ったマッチを交換して別れるというシーンが、連絡役の人物を様々に変えながらも、しつこいくらい繰り返されるのです!

 こうなると、数次にわたる連絡の積み重ねの末に実行される殺人は、さぞかしすごいことになるのではと観客も身構えるようになります。ですが、その殺人自体は頗る簡潔に描かれます(たとえようもなく警戒が厳重な住居に、どうやって主人公が侵入できたのかという誰でも興味を持つ点は、ナント省略されてしまっています!)。

 これでは、見ている方は大いに肩透かしを食らった感じを持ちます。ですが逆に、そんなことを期待すべきではなかったのかもしれないと思い直して、むしろ、そこに至る過程を反芻するようになります。

 この映画には様々の連絡役が登場しますが、どうも主人公がマドリッドにある美術館で見た絵に関係しているように描かれているな〔たとえば、ギターが描かれている絵を見ると、そのあとでギターを抱えた連絡役が登場します〕、ただそうだとしても、主人公が興味を持つ絵画は前もって決められてはいないでしょうから、それと組織からの指令とが直接的に連接するとは考えられないし、どうもそんなに理詰めで考えても仕方のない作品なのかもしれない、これはこれでそのまま素直に受け止めればいいのかもしれない、ですが仮にそうだとしても、この作品はいったい何なのだ、と考えてしまいます。

 ここまでくると、あとは評論家諸氏の出番となるでしょう。

 ただ、福本次郎氏は、例によって「結局、男の彷徨を通じて何が言いたかったのかほとんどわからなかった。「想像力を使え」というのがこの作品のテーマなのは確かだが、……、どんな解釈もなりたつ展開は、「中心も端もない宇宙」のごとくとらえどころのない茫洋としたものだった」と、相変わらず自分では考えようとせず、評論家としての仕事を放棄してしまいます。

 これに対して、渡まち子氏は、「映画は論文ではないのですべてを説明する必要はない。語られない部分に対して想像力を刺激してくれれば、その作品は十分に魅力がある。ジャームッシュのこの新作はまさにそんな1本だ」と想像力の活性化を提唱します。
 渡氏は、まさに評論家の仕事をしようとしています。ただ、その姿勢は買うものの、「刺激」を受けた結果どうなったのかは示してはくれません。
〔ここでこんなに想像力のことを持ち上げるのであれば、渡氏は、どうして「プール」についてはその力を発揮しなかったのでしょうか?やはり、ジャームッシュという名前に惹かれてしまうとしか考えられないところです〕

 最後に山口拓朗氏ですが、「受け身で見ている限り、この映画を見たことにはならない。想像力を使うことで何かが見えてくる、いや、想像力を使わなければ、何一つ見えてこないぞ、というメッセージである」と述べており、非常に前向きなので期待を持たせます。ところが、何が見えてくるのか山口氏も明らかにはしません。ただ「自分自身の未開の感性や想像力を掘り起こしたいという人にとっては、何かしらのインスピレーションを与えてくれるだろう」ということです。
 そうであれば、結局のところ、明示できないものの“何かしらのインスピレーション”があったと納得できるかどうかが、この映画を高く評価するかどうかの分かれ目となるのでしょう。

 といって、何かインスピレーションを受け取ることは、そんなに難しくはないでしょう。あの「おすぎ」までもが、「ストーリーは頭に入ってこなくても、なんとなく大好きになっている映画」と述べているくらいなのですから!

のんちゃんのり弁

2009年10月14日 | 邦画(09年)
 渋谷のユーロスペースで「のんちゃんのり弁」を見ました。

 この映画の監督の緒方明氏が以前制作した「いつか読書する日」(主演・田中裕子、2005年)が非常に素晴らしかったものですから、今度の作品も随分期待して見に行きました。

 映画を見ていますと、イロイロな疑問点が見つかります。
 例えば、あれほど独り立ちしたいと絶えず願っている主役の小卷(小西真奈美)が、働きに出もせずにどうしていい加減な男性と若くして結婚してしまったのかがヨク分かりませんし、また弁当屋を開く前にもかなりの数のお弁当を作っていながら(お米を相当使っているはずです)、その材料費は誰が賄っているのか(時々は代金らしきものをもらっているようですが)不思議に思えました。

 とはいえ、そういった疑問を持ちながらも、マアそんなこともあるのかなと余り躓かずに通り過ぎることはできます。ただ、見終わってしまうと、全体としてあまりにも単純で常識的な映画で、様々の要素が重なり合って描かれている「いつか読書する日」のような作品を期待していただけに、かなりがっかりしてしまいました。

 もちろんこの作品はコメディで、シリアスな内容の「いつか読書する日」とは性格を異にしています。ですから、小梶勝男氏が言うように、「喜劇には達者な役者も欠かせないが、小巻の母親役の倍賞美津子、居酒屋の主人の岸部一徳、小巻の幼なじみの村上淳、ダメ亭主の岡田義徳らが、自然に下町の風景に溶け込んでいて、物語もテンポよく進む。緒方明監督の演出は非常にバランスがよく、見せたいところは思い切りよく見せ、大袈裟になるぎりぎり手前で抑制する。押し引きの呼吸がとてもいい」とは、私も思いました。
 ですが、どこまでも手堅く手堅く制作されているがために、コメディのもつ破壊力・爆発力といったものは失せてしまっていて、その意味でもつまらなかったといえます。

 どうしてこんなことになってしまったのかを探るべく、原作の漫画を読んでみました(注)。
 すると、「女の子ものがたり」のように、映画制作にあたって著しく改変した点がほとんど見当たらないのです(小巻の弟夫婦までもお母さんの家に入り込んでくるといる話が省略されていたりはしますが)!

 なにより、「ととや」の主人(岸辺一徳)が言うキメの言葉(「「家で食うのとかわんない」なんていわれちゃ、お金取れませんから」とか「あちこち食べ歩いてごらんなさいよ。まだまだ奥さんの知らなかった「感動の味」ってのが見つかるよ」など)は、ほとんど漫画に出てくるのです。

 ただ、主人公の小巻が作るお弁当の扱い方が違っています。
 映画では、4層~6層にもなる超豪華な「のり弁」が何度も大写しになります。他方、漫画に登場するのり弁はごく普通のもので、それもそんなに数多くの画面で登場するわけではありません。
 そこで、監督の意図したところかどうか分かりませんが、この映画の陰の主役はこの「のり弁」なのでは?そしてそういった辺りから、この映画についての評価を考え直してみたらどうでしょうか。

 福本次郎氏は、この映画については、「のり弁」に関してだけ論評して、「お惣菜としてではなく、ご飯そのものにさまざまな具材を混ぜ込み、栄養のバランスを取ろうとするお弁当。表層は海苔が敷き詰められているために見た目の美しさはないが、断面は色も種類も違う混ぜご飯が幾層にも重なってそれぞれのうまみを引き立てあう「小巻風のり弁」は、子役俳優が食べている姿を見ているだけでよだれがわいてくるほど」と述べています。
 当初、この論評では、「キャデラック・レコード」に関し福本氏がタバコに拘ったのと同じことになるのではと思いましたが、もしかしたらこういう態度こそがこの映画についてはふさわしいのかもしれません!

 なお、こうした「のり弁」を考案したのはフードスタイリストの飯島奈美氏で、なんと『かもめ食堂』や『めがね』、『南極物語』や『プール』の料理をも手がけているのです!
 劇場用パンフレットには飯島氏の話が掲載されていて、そこには「原作のマンガ通りに作ることを心がけました」とありますが、映画の画面でお弁当の「断面をくっきり見せる」ために様々な工夫を凝らしているようで、その結果あのような超豪華「のり弁」になったのでしょう。


(注)4巻の単行本は絶版でしたが、映画の公開にあわせて「新装版」(上下)が刊行されました。ただ、それは3巻までを収録しているに過ぎません。映画に関係するのは3巻までですからソレでもかまわないわけですが、念のためネットで探してみましたら、「eBook」から出ていることがわかり、はじめて電子書籍というメディアを使って4巻目も読んでみました(400円)!目が疲れるのではないかという先入観があったものの、以外と読みやすいので驚きです。

理系・文系(下)

2009年10月12日 | 
4.『文系?理系?』
 としたところ、最近、志村史夫著『文系?理系?』(ちくまプリマー新書120、2009.10)という中高生向きの新書が出版され、ナントその中でも「地球温暖化問題」(注1)が取り上げられているではありませんか!



 著者は、「大気中に占めるCO2の割合は、水蒸気の100分の1ほどの0.035%です。このようにわずかなCO2の増加が「地球温暖化」の主因になり得るのでしょうか。私は、さまざまな科学的見地からも歴史的事実からも、断じてあり得ないと思います」(P.147)と述べます。

 著者は、「マスコミの報道を鵜呑みにし、マスコミに振り回されることなく、ものごとを科学的に考える習慣をつけることも、さまざまな勉強の大切な目的の一つ」だとして、このように主張します(P.149)。
 要すれば、ワケの分からない人たちがマスコミを通じていい加減なことを主張しているが、「理系」の志村氏のように「科学的に考え」れば、その主張に問題があることがたちどころに理解出来るのであって、やっぱり「理系」的なものの考え方が必要だ、ということでしょう。

 でも、元々の「地球温暖化」の議論は、マスコミが言い出しっ屁ではなく、いわゆる「理系」の人たちが持ち出してきたはずでしょう?そして、上記の塩谷氏のような「理系」の人たちが、マスコミを通じてソレを増幅し早いとこ抜本的な対策を取らなければと声高に叫んでいるのではないのでは?その挙げ句が、「理系」の鳩山総理による「温室効果ガス25%削減宣言」でしょう!

 こういった動きに対して、同じ「理系」の志村氏(静岡理工科大学教授)が強く批判し、「ものごとを科学的に考える習慣をつけること」が重要だと主張しても、それを読む中高生たちは「科学的に考える」とはいったい何だということで一層混乱してしまうのではないでしょうか?

 むろん、志村氏は、「科学的態度」とは「きちんと筋道立てて考える」ことだと最初の方で述べていますから(P.32)、ここでもそういった幅広い意味合いで使っているのであれば、あるいは受け入れることもできましょう。

 ですがこの本は、全体として、「数学や物理などの理科系科目(特に数学)が嫌いな人、苦手な人」(P.12)である「文科系の人」に対して、それらが「好きな(嫌いではない)人、得意な(不得意でない)人」(P.11)である「理科系の人」に属する筆者が、中高生に対して、理科系的なものの見方は重要だし面白いよ、と主張しているのです(注2)。
 さらには、「「文科系の人」と「理科系の人」の〝筋道〟に違いがあ」って、前者の「基盤は〝個別的〟、〝地域的〟になる傾向があ」るが、後者の「基盤は、その理屈を考える自然科学から導かれる宇宙規模で普遍的な自然の摂理」であり(P.30~P.31)、特に、「数学」(なかでも微分・積分)は「筋道を立てて考えることを教えてくれる、またその訓練をしてくれる最たるもの」だそうです(P.177)。

 ここまでくれば、上記の「科学的態度」とは、やはり「数学が得意な人」のものの考え方だということになるでしょう。となると、「地球温暖化問題」を巡る論争は、同じ「理科系の人」の間での話ということになり、私のような「文科系の人」としては、「筋道」に違いがあるわけですから、この問題に対してどのような態度を取ったらいいのか、途方に暮れてしまいます。

(注1)「上」では「気候変動問題」としていましたが、「下」では一般によく使われる「地球温暖化問題」といたします。
(注2)本書では、「これから求められるのは「文芸理融合」型人間」だとか、「「理科系の人」には「文科系の素養」を大いに高めてただかなくてはなりません」などと述べられているものの、P.50以降本書の末尾までの全体の4分の3は、理科系科目に属するトピックしか取り上げられていません!
   

5.『理系バカと文系バカ』
 実は、冒頭で触れた小飼弾氏のブログでは、『日経サイエンス』に掲載された塩谷氏のエッセイに言及しているだけでなく、4月24日の記事においては、竹内薫著『理系バカと文系バカ』(PHP新書586、2009.3)が紹介されています(注1)。



 そして、この本でも「地球温暖化」の問題が取り上げられているのです!それも、なぜか上記の志村氏と同じように、著者の竹内氏も、「現在の地球温暖化問題については2つの疑問がある」として、「実際にCO2の濃度が上がっているのか」という点と、「それは人間のせいなのか」という点を挙げています(P.190)(注2)。
 その上で、こうした疑問を検討することによって「理系センス」が磨かれるとしています。

 ですが、そもそも「地球温暖化」を巡る議論は、「理系センス」を持った専門家たちが持ち出してきたわけですから、非専門家がこの問題に首を突っ込んでその乏しいセンスを磨いたとしても、行き届いた理解が出来るようになれるとはトテモ思えないところです。

 なお、本書は、科学・技術の分野で直ちに取り組まなければならない問題をいくつか取り上げていて、その点は高く評価できると思います(注3)。
 ですが、それだけを述べたのでは、いくら内容が良くとも一般人の興味を惹かないでしょう。そこで、「理系バカ・文系バカ」といったドギツイ言葉をちりばめながら面白オカシク話が進められています。
 ただそうなると、本書が「科学的根拠はいっさいない」(P.38)と批判する「血液型性格分類」とか、国民性や県民性を巡る議論といったものと同じ穴の狢になってしまうのではないでしょうか(注4)?

(注1)著者の竹内氏は、前者の疑問については「温暖化が進めば50年後ぐらいには平均気温はこうなる。温暖化が起きると台風などが増え、勢力も大きくなる」などといった、気候学者の説明を掲げ、後者の疑問については、人間も関係しているが、宇宙的な環境も関係している」とする地球物理学者や宇宙物理学者の説明を挙げています。
(注2)節の末尾に、「いずれにせよ、「環境問題」について、地に足のついた議論をするためには、理系的思考と文系的思考の両方が求められるだろう」と述べてありますが、とすると「理系センスを磨く」という話はどこへいってしまうのでしょうか?
 なお、「理系センス」を取り扱っている第4章には、「間主観性とは?」という節があって、「「物理学」には「間主観性」という考え方がある」と述べられているところ、「間主観性」といったら、一般的にはむしろドイツの現象学哲学のフッサールを想起すべきではないでしょうか?
(注3)著者が本書で特に言いたいのは、第3章で述べている点ではないかと思われます。
 すなわち、著者は、科学系論文数の伸び率の低下(P.137)、物理学専攻の学生数の激減(P.138)、技術者不足(P.143)、進学するにつれて理科離れ(「算数・数学離れ」も)が増えていくこと(P.145)、科学雑誌(科学書も)の売行きの悪さ(P.153)、といった日本特有の現象をいくつも指摘します。
 その上で、著者のような「サイエンスライター」とか「科学コミュニケーター」の「人材育成と格上げ」が「科学を社会に普及させるためには必要不可欠だ」と主張し(P.162)、さらには、「教育現場の雰囲気」にも問題があり、特に日本の奨学金制度の貧困さ加減についても指摘がなされています(P.174)。
 本書で指摘されている様々な問題点はまさにその通りだと考えられ、早いところ何らかの手を打たないと事態は大変なことになると思われます。その意味で、なにはともあれ、こうした本がベストセラーになったことは慶賀すべきと思います。
(注4)面白オカシイ話の方に興味が集中してしまい、上記注3で取り上げたような著者の言いたいことは二の次になってしまう恐れがないとは言えません。
現に、小飼氏は、「本書の主張も、本blogの主張とほとんど変わらない」とし、「「理系文系」問題というのは、実は適性の問題ではなく、教育コストの問題という結論に達する。そして日本は、理系教育コストが高く、そしてそれを当 然のこととして受け止めているふしがある。科学雑誌はなぜこんなバカ高なのだろう?なぜ奨学金制度がこれほどしょぼいのだろう?文理の分離は、実は格差の固定の一環なのである」と述べていて、本書を自分の「理系・文系」の議論の中に取り込んでしまっています(でも、「しょぼい」奨学金制度は、何も「理系」に限った話ではないのでは?)。

6.おわりに
 「地球温暖化問題」は、専門家・非専門家がそれぞれ自分の得意とするアプローチで誠実に議論すれば(注1)、そのうちに解決の糸口が見えてくることでしょう。むしろ、理系・文系の話を持ち出すことによって、議論はヨリ混迷してしまうのではないかと思えます。

 ここでは「地球温暖化問題」に焦点をあててしまったために、専ら「理系」にかかわる議論になってしまいましたが(注2)、何はともあれ理系・文系にかかわる話は、総じてティー・タイムの話題にとどめておくべきではないでしょうか?

(注1)社会学者の宮台真司・首都大学東京教授の『日本の難点』(幻冬舎新書122、2009.4)の第5章「日本をどうするのか」では、次のように述べられています。
「最近「環境問題のウソ」を暴く本や言説がブームです。僕は爆笑します。「温暖化の主原因が二酸化炭素であるかどうか」は指して重要ではないからです。なぜなら、環境問題は政治問題だからです。そうである以上、「環境問題のウソ」を暴く本が今頃出てくるのでは、15年遅すぎるのです」(P.225)。
 要すれば、池田氏のように塩谷氏に噛みついたり、また志村氏や竹内氏のように、今頃になって「理系の人」の「筋道」に立ったり、「理系センス」を磨いたりして「地球温暖化の主因はCO2」との説に異を唱えても、それは最早時期遅れであって、「「負け犬が、今頃になって何を言っているんだ」というのが、欧州各国の日本政府や経済界に対する冷ややかな見方」であって、「そうした見方が完全に支配的である以上、日本の主張が国際政治を動かす可能性はありません」ということになるでしょう(P.230)。
 となると、9月24日の鳩山総理による国連演説(温室効果ガス25%削減宣言)についてはどう考えるべきなのでしょう?
 さすが「理系」の総理のことだけはあると絶賛すべきでしょうか(ニューズウィーク誌に掲載された米国在住の冷泉氏によれば「88点B+」とのことですが)?
 それとも、池田信夫氏のように、「物理的に不可能な目標を掲げ、「大和魂さえあれば何とかなる」と国民を鼓舞するのは、前の戦争に日本が突っ込んでいった時を思わせる」と嘆くべきでしょうか?
(注2)僅かな実例から一般論を引き出すのは危険なことながら、「理系・文系」の議論を持ち出すのは、どうやら「理系」の人が専らではないかと思われます。もしかしたら、塩谷氏が言うように、実力があるにもかかわらず「権力の座には遠かった」、とする事情が反映しているのでしょうか?

理系・文系(上)

2009年10月11日 | 
1.はじめに
 このところ、「理系」・「文系」という亡霊があちこちに出没して悪さ(?!)をしているようです。
 折も折とて、SE兼マンガ家よしたに氏が描く漫画「理系の人々」も、この10月6日より場所を変えて新たに連載されることになりました(コレまでの連載分はここで)。
 そこで、ちょっと目に止まったものを2回に分けて取り上げてみることといたしましょう。

2.政治の世界
 小飼弾氏のブログ「404Blog Not Found」の10月5日の記事に、『日経サイエンス』11月号には「理系政権?の持つ意味」というエッセイが載っているとあったので、早速読んでみました〔この論考は、日経新聞論説委員・塩谷喜雄氏が『日経サイエンス』で連載中のコラム「いまどき科学世評」に掲載〕。




 エッセイの冒頭、伊賀忍者と甲賀忍者の抗争めかして、「日本列島の支配をめぐって、闇に潜む2つの勢力が、暗闘を繰り返してきた」とあり、なんのことかと読者の気を惹きます。
 筆者の塩谷氏によれば、この2つの勢力は「力は拮抗しているのに、勝負は常に一方的だった」ようで、一方の「「文」を旗印に掲げる潮流」が「人心を集めて君臨してきた」のに対し、他方の「「理」を掲げる潮流」は、「検証の厳密さや合理性の尊重ゆえに、柔軟さを欠くとして権力の座には遠かった」とのこと(注1)。

 ナンダこれなら、従来より世間(特に、政治の世界)では「文系」が「理系」よりも幅を利かせてきた、という巷でよく耳にする話でしょう(注2)。

 とはいえ、その勢力分布図が、今回の鳩山由起夫氏の総理就任で、大いに書き換えられるかもしれないのです。何と言っても鳩山氏は、「東大工学部で計数工学を学び、米スタンフォード大学で博士課程を修了」(Ph.D.を取得)しているのですし、「副総理・国家戦略担当としてナンバー・2を務める」菅直人氏も「東工大卒」(理学部応用物理学科)なのですから!
 外国を見渡すと、サッチャー元英国首相は「オックスフォード大学で化学を学」び(専門はコロイド化学が専門)、ドイツの現首相のアンゲラ・メルケル氏も「物理学の学位」を得ているとのこと(現ライプツィヒ大学を卒業後、旧東ドイツの科学アカデミーで量子化学を研究、理学博士号を取得)。

 今回の民主党政権樹立によって、漸くわが国も西欧並みになったというところでしょうか(でも、アメリカやフランスの歴代大統領のうちに理系出身者がいたという話は、あまり聞いたことがありませんが?)。

 そしてどうやら塩谷氏は、「科学や技術の持つ普遍性や合理性を、政策判断に取り入れなかったことで、論理的結論を出さないまま既得権益を温存する政策ばかりが実行されてきた」これまでの状況が、今回の政権交代で「理系」が「権力の座」を占めたことによって、覆されるのではと強く待ち望んでいるようです。

 特にそれが期待されるのが「気候変動問題」の取扱い。何しろ、「科学を軽んじる言動を続けていた」ブッシュ前大統領と同じく、「麻生前首相も、経産省や経団連の説明を鵜呑みにして気候変動問題の本質的理解を避けた結果、世界から失笑を買う目標しか掲げられなかった」のですから!

(注1)「理系」の小飼弾氏のブログ(06年9月1日)は、「理系はよく内省する一方、視野が狭くなる傾向はあるかと思う。理系にとって、自分に見えない世界は世界ではないのだ。そこもまた、正しさはさておき過程と物語で見えないものを演繹する文系に付け入られる隙ではないのだろうか」と述べています。
(注2)小飼弾氏のブログ(08年10月7日)によれば、いつも「理系」が不利というわけではなく、例えば、「実際、「理系はもてない」というのは「まんじゅうこわい」のたぐいではないかというのがオレ統計。…文系と理系では理系の方がカレカノがいる率が高い」ようです!

3.気候変動問題
 塩谷氏は、「初の理科系政権」の活躍を「科学的に見守りたい」と、エッセイの末尾で述べているくらいですから、必ずやこの「気候変動問題」についても、十全な「科学的な認識」をお持ちのことと推測されるところです。

 ところが、やや昔のことになりますが、気鋭の経済学者・池田信夫氏がそのブログ(2008年7月20日)で、次のように塩谷氏の「気候変動問題」を巡る見解に激しく噛みついています(注1)。
「きょうの日経新聞の「中外時評」で、塩谷喜雄という論説委員が「反論まで周回遅れ」と題して、最近の温暖化懐疑論を批判している。彼によれば、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は第4次報告書で人為的温暖化の進行を「断言」したのだそうだ」。しかしながら、「原文を読むと、……むしろ慎重に「断言」を避けている」のであり、また、塩谷氏が「「査読つき論文誌では異論はゼロに近い」というのも嘘である」云々。

 仮に池田氏の言い分が正しければ(注2)、東北大学理学部卒である「理系」の塩谷氏は、「検証の厳密さや合理性の尊重ゆえに、柔軟さを欠く」というより、むしろ〝単に頭が固くて「柔軟性を欠」いている〟と批判されても仕方がないかもしれません。

 そして、「理系」「文系」という議論の仕方自体が疑問に思えてきます。「理系」の人だって、「自然科学や技術体系が持つ哲学的な意味、普遍性、国際性、合理性、論理性、予見性」といった特性を身につけていない場合もあるようですから!

(注1)あるブログによれば、池田氏が問題にしている日経新聞の「中外時評」(7月20日)に掲載された塩谷氏のエッセイ「反論まで周回遅れ―温暖化巡る日本社会の不思議」の冒頭は次のようです。 「科学的には決着している地球の温暖化について、ここに来て「温暖化と二酸化炭素の排出は無関係」と言った異論・反論が一部の雑誌メディアを騒がせている。……四半世紀の間、世界の科学者を集め、情報を積み重ねて気候モデルによる解析を続けてきた「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」は、昨年第四次報告書で人為的な温暖化の進行を「断言」した。これまで慎重に科学的な姿勢を貫き、断言を避けてきた組織が、ついに結論を世界に示してのだ。……IPCCはついに「断言」という伝家の宝刀を抜いた」。
(注2)あるいは、安井至・東大名誉教授の言うように、「「中外時評」の書き出しの文章である「科学的に決着した温暖化」という表現は、単独で読む限り、誤解を招くおそれがある」くらいが穏当なのかもしれません。  なお、本問題については、このブログに旨くまとめられていると思います。

キラー・ヴァージンロード

2009年10月07日 | 邦画(09年)
 「キラー・ヴァージンロード」を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

 今年はこれまで、品川ヒロシの「ドロップ」や木村祐一の「ニセ札」、ゴリの「南の島のフリムン」などというように、俳優・タレントによる監督第一作映画がいろいろ公開されています。
 私の方も、それらを何とか追いかけようとしてきたので(といっても、「ドロップ」と「さくらな人たち」の2つにすぎませんが←後者はDVDで)、この岸谷五朗による作品も見たいものだと思った次第です。

 さて、オープニングのダンスと歌のシーンを見ると、評論家の渡まち子氏が言うように、「これが“関所”だ。ここでノレた観客には楽しめる作品かもしれない」、とすぐにわかります。
 そして、続く「ひろ子」の部屋の場面になれば、〝流れに気楽に乗って行こう〟という気になって、旅行トランクに入った死体と一緒に女二人が逃げ回るという展開の中でどれだけ破天荒な面白さを観客に見せてもらえるのか、そこが勝負だな、と思いながら見ていました。

 私としては、ピークは「ゴリラバタフライ」で(この場面があるだけで、わたし的には本作品は○です)、それと樹海の中での上野樹里と木村佳乃の掛け合い漫才が出色だと思いました。木村佳乃の動きの良さ、巧みな台詞回しは、主演の上野樹里を食ってしまっています!

 ですから、この作品にわざとらしいテーマを持ち込もうとする後半のシーンになってくると途端につまらなくなってしまいます。例えば、祖父が、皆の幸福とひろ子の幸福との関係についていろいろ話す場面(回想シーンを含めて)などは退屈至極です。

〔10月8日号の『週刊文春』の「笑えない「芸人映画」ワーストワン決定戦」によれば、「「普通に」演出される後半は「普通に」笑って泣けるだけに、才気走って掘った墓穴がなんとも惜しい」とのことですが、話は全く逆ではないかと思います。どうして、新人監督が「普通」のことをしなくてはいけないのでしょうか?総じてこの記事は、悪意を持って貶めるためだけに書いている低レベルの論評ではないかと思いました←オダギリジョー「さくらな人たち」とか役所広司「ガマの油」が抜けていたりしますし!〕

 ただ、ドタバタだけでは逆に一本調子になってしまうでしょうから、こうした場面もある程度必要かもしれません。とはいえ、もっと刈り込んで、さらなる破天荒な仕掛けを持ち込むべきではないでしょうか!

 前田有一氏は、「二人の演技はすばらしいが、全体的に舞台演劇的なつくりで、映画としてはやや物足りない。とっぴなオープニングで不条理劇に巻き込む手法は常道だが、その後の展開がアイデア不足というか途中で種切れの印象で、引っ張りすぎの一発ネタの印象を脱しない」と述べていますが、この評は私からすると至極的を得ていると思います。
 特に、「舞台演劇的なつくり」という点は、上野樹里の演技(遠くを見る時や驚く時の)にも現れていると感じました。

 他方で、渡まち子氏は、「関所」の入り口で躓いてしまったせいか、「それぞれのエピソードはテンションが高いだけで、あまりにもつながりに欠けているので、ストーリーを追う気力が奪われた」などとして20点の評点しか与えません。
 とはいえ、この映画で「ストーリー」を持ち出してもお角違いもはなはだしいと思うのですが。

 なお、この映画も、二人の女性が大活躍しますから、登場する男性陣は、ひろ子の隣室の男をはじめとして駄目男ばかりになってしまいます(祖父を除き)。こう設定する方が映画を作りやすいのでしょうが、コメディの「男と女の不都合な真実」は、女性が中心の映画ながらマッチョな男性が登場するのですから、あるいは作りようなのかもしれません。