映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ダウト

2009年03月29日 | 洋画(09年)
 渋谷のル・シネマで「ダウト―あるカトリック学校で」を見てきました。
 
 メリル・ストリープとシーモア・ホフマンが競演するというので、是非見てみたいと思っていた作品です。
 期待に違わず、それぞれの俳優が持ち味を遺憾なく発揮して、なかなかの出来映えの作品になっていると思いました。
 特に、メリル・ストリープは、最近の「マンマ・ミーア」とは打って変わって酷く地味な役(教会に併設されているカトリック学校の校長)ですし、「カポーティ」とか「その土曜日、7時58分」のホフマンも神父役で、二人の演技力の幅の広さに驚きました。

 この作品は、映画の監督が書いた戯曲『ダウト-疑いをめぐる寓話』(2005年)―ピューリッツァー賞(戯曲部門)やトニー賞演劇作品賞を受賞―に基づいて制作されているとのことで、確かにその骨格は実にしっかりしたものといえます。
 ただ、主な登場人物が2名で脇役が2名というごく少人数の構成で、場面の切替もソウ多くはありません。やはり舞台同様、人の動きとか背景などというよりも、むしろ台詞が中心の映画になってしまいます。
 そうなると、キリスト教に詳しくない者にとっては理解が困難になってしまうところ、この映画は教会の実態(よくいわれる少年への性的虐待)の暴露というよりも、もっと一般的なこと、すなわちキチンとした証拠が何もなくとも強固な信念で他人を裁いてしまうことの問題を取り上げているようにも思われます。
 もっと言えば、ブッシュが始めたイラク戦争に対する疑問の提起なのでしょう。なにしろ、大量破壊兵器を保有しているという疑いだけであれだけの戦争を仕掛け、にもかかわらず、最終的にはそんな兵器は存在しなかったことが判明してしまったわけですから!

 勿論、様々な次元で読み解いていけばいいわけで、そうしたことが出来るのがこの映画の長所ではないかと思われます。
 ただ、ラストでの校長の振舞いは、演劇的にはあり得るでしょうが、映画としてはヤヤ説明不足で唐突な感じがしました。
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ヤッターマン

2009年03月25日 | 邦画(09年)
 「ヤッターマン」を丸の内ピカデリーで見てきました。

 30年前のTV漫画の実写化ながら、その番組を知りませんでしたから見るつもりはなかったところ、世評が頗る高く(「公開2日間で約38万人を動員、公開9日間で早くも興収10億円を突破し、2週連続で週末動員No.1を記録」したとのこと←2週間で120万人を動員したとされています!)、出かけてみた次第です。

 ドウカナと思いつつ見てみたら、実に面白い作品で、とホトホト感心してしまいました。

 「映画ジャッジ」で読むことの出来る映画評論家たちも、皆マズマズの評価を与えているようです。
 前田有一氏の「激映画批評」は、「私は、今の日本の若手女優の中で福田沙紀ほど可愛らしい人はまれだと思っていたが、その福田を蹴散らすほどの魅力を、フカキョンは本作で振りまいている」などとして85点を与え、福本次郎氏の「見映画批評」も、「思わず笑い声をこらえきれなくなるシーンにたびたび遭遇した」として60点を与えています。
 服部弘一郎氏の「速映画批評」も、「原作を基準にこのドロンジョを見れば、これはどう考えてもミスキャストでミスマッチ。しかし僕にはむしろ、この似合わないキャスティングこそがこの映画の肝だと思う」としています。
 ただ、最後の服部氏は、「この映画で最も残念なのは、上映時間が長いこと。この程度の話なら、もっとテンポアップして1時間25分ぐらいに縮めてほしかった」と述べています。ですが、私は、この映画の「上映時間が長い」とは思いませんでした。あるいは、私が原作を全然知らないせいでしょうか、次々と繰り出されるシーンが新鮮で面白く、次回作の予告のところまでアッという間でした。

 そういうことでもあるので、TSUTAYAから原作のTVアニメ版―2008年のリメイク版もありますが、30年前のアニメの方です―を借りてきて見てみました(勿論、そのDVDのコピーもとった上で)。
 福本氏が、「元ネタを知っている者にとってはつい懐かしさがこみ上げてくるほどの完成度」というのも分かりましたし、服部氏が、「これは原作アニメの持ち味をいかに実写にするかという、その変換方程式を楽しむ映画なのだ。原作を踏まえた上で、…批評的なツッコミを入れながら鑑賞するのが、この映画に対する最も正しい接し方」というのも分かりました。
 ただ、そうだとすると、なんでそんな原作アニメに忠実な実写映画をわざわざ製作する必要があるのだと言いたくもなってきます。原作が漫画であれば、そのキャラクターを実際に動かしてみたいという気持ちになるのもわからないわけではありません。ですが、本件については、原作が実にヨクできたアニメですから、キャラクターを動かすという要素は2次的なものといえましょう。
 かつ加えて、今回の映画はCGを実に沢山使っています。それだったら、少なくとも背景などは、何のことはない“アニメ”と同じ次元のものだといえるのではないでしょうか?

 マアそんなヤボなことは言わずに、十分フカキョンを楽しめばお釣りが来るというものです!!
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チェ 39歳別れの手紙

2009年03月22日 | 洋画(09年)
 「チェ 39歳別れの手紙」を銀座シネスイッチで見てきました。

 アルゼンチンの大学生チェ・ゲバラが友人と一緒に南米大陸をモーターバイクで走破した模様を描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004年、ロバート・レッドフォード制作総指揮)が、行動力溢れる若者を活写していてとてもよかったこともあり、少し前にこの映画のパート1の「28歳の革命」を見ました。
 ですが、それほどでもないような感じがし、パート2の「別れの手紙」はパスするつもりでした。ところが、暫くすると、やはりそれも見なければ何か中途半端な気がしてきて、ようやっと公開終了間際に映画館に足を運んだ次第です。

 ただ、この映画は、2つのパートを全部見たとしても、様々な問題があるように思われます。
たとえば、
・チェ・ゲバラは、写真でしか知りませんが、どう見てもハリウッドの俳優の誰よりも姿・行動が遙かに格好良く、本来的に映画化は無理ではないのかと思われます(今回の俳優ベニチオ・デル・トロは、遠目にはよく似ているものの、それだけのことに過ぎません)。
・フィデル・カストロについては、それを演じる俳優の外見は非常によく似ているものの、チェ・ゲバラを引き立てるためか、映画の中では酷く小人物に描かれていて、これではキューバ革命を指導した人物とは思えません(加えて、そのように描かれてしまうと、行動をともにしたチェ・ゲバラの行動自体が重みを持たなくなってしまいます)。
・パート1は、キューバ革命が成就するまでが描かれているためにそれほどでもないのですが、パート2になると、失敗するボリビアの革命が描かれているためもあって、総じて暗い陰鬱な作品となってしまっています。
・チェ・ゲバラは、元々喘息もちであり、かつ39歳で射殺されてしまうわけですから、そんなに明るくは描けないのでしょうが、残された写真の雰囲気とか、ラテンアメリカ人の陽気さなどからすれば、もっと豪放磊落さがあってしかるべきではないかと思いました。

 とはいえ、こうした映画を見ますと、同じような少人数で出発しながら、なぜキューバ革命は成功しボリビアの革命が失敗したのか、などといったことを考えてみるようにもなります(映画からそんなことを考えるのは、頗る危険でしょうが!)。
 たとえば、軍事力による革命を目指す場合、いくらその方面で優れていても、やはり彼らを取り巻く労働者・農民層の広範なサポートが不可欠であり、キューバではそれを獲得できたが(当初は17名のゲリラで出発したとのこと)、ボリビアではほとんど支持されなかったのではないか、それはおそらく、ボリビアの底辺を形成する先住民族のインディオたちにとっては、革命といっても、上層部の白人の中での争いに過ぎないと思われたためではないか、就中、チェ・ゲバラといった外国人勢力が革命軍の主力を形成していたことが致命的なのではないか(革命が成功しても、別のキューバ系の白人―チェ・ゲバラはアルゼンチン出身―に取って代わられるだけのことにすぎないと、インディオたちに思われたのではないか)、そうした社会構造的な違いがあるにもかかわらず(キューバでは反米ということで広範な支持が得られたようです)、キューバで成功した手法をそのままボリビアでも採ればうまくいくだろうとしたところに敗因があるのではないか、などなどです。

 マア、こうした愚にも付かないことを考えさせてくれただけでも良しとしなければならないでしょう!
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告発のとき

2009年03月21日 | DVD
 この作品は、イラク戦争から米国に帰還しながらもスグに行方不明になってしまった息子を捜す父親の話です。父親は元軍人、長男を軍隊内での航空機事故で亡くしながら、さらに次男も失ってしまうという厳しい運命に晒されます。

 この映画では、こうした役柄なら彼以外には考えられないと思わせる素晴らしい演技をトミー・リー・ジョーンズは披露していて、大変感動しました。

 なお、次男の携帯電話機に残されていた酷く歪んだ画像から、イラク戦争の悲惨な状況を伝えるという手法は、直接的な描写よりもむしろ見る者に強いインパクトを与えるようです。

 また、イラクにいる次男から「助けてくれ」という連絡が入ったときに、父親は詳しい状況がわからず適切に対応できませんでした。
 話が頗る飛躍してしまいますが、これは、少し前の時津風部屋の力士暴行死事件において、犠牲者の少年が虐待に耐えきれず部屋を脱走して実家に帰ってきたにもかかわらず、父親が元の部屋に連れ戻してしまったこととも類似しているのでは、と思ったりしました(詳しい状況はわからないながら、辛い鍛錬をなんとか克服しなければ駄目な人間になってしまう、という思い込みが力士の父親にあったのではないでしょうか?)。
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ラ・ボエーム

2009年03月18日 | 洋画(09年)
 「ラ・ボエーム」を新宿のテアトル・タイムズスクエアで見てきました。

 この映画は、オペラ自体を実写化したものです。即ち、音楽と歌はオペラどおりで、ただ歌手が動き回るところを劇場の舞台ではなく実際の現場としているわけです(といってもそこもセットですから、舞台とどこが違うのか、と問われると返答に窮してしまうでしょう!)。

 以前見た映画「魔笛」の場合には、第1次大戦中の出来事のようにして描いていました。といっても、そのオペラは、お話自体が頗るファンタジックなものですから、そんなにリアルな感じは受けません。
 ところが、この「ラ・ボーエム」は、パリの貧乏学生の生態を描いているので、このように映画化するとかなりリアルな感じが増大します。といって、このオペラのストーリーは他のオペラと同様ごく他愛ないもののため、実写化するとかえってその荒唐無稽さが強調されてしまうようです。

 ですが、私の場合、大昔ブラジルにいたときに暇に任せてオペラのレコードを随分と聴き、中でも「ラ・ボエーム」は一番のお気に入り、今度の映画を見ながらも、当時の雰囲気を懐かしく思い出したところです(有名なアリアを聴くと、ブラジリアの臭いが漂ってくるような感じになるのです!)。
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ジェネラル・ルージュの凱旋

2009年03月15日 | 邦画(09年)
 「ジェネラル・ルージュの凱旋」を吉祥寺プラザで見ました。

 確かに、なかなか見応えがある映画だなと思いました。
 “つぶあんこ”氏が☆4つも与えて「良作」としているのは、推測するに、救急医療センターという現在大きな注目を集めている部署の問題を全面的に取り上げることによって、前作に比べてリアリティーが著しく増し、それを通じてこの作品が市場万能主義・効率性重視という方向性を強く批判しているためではないでしょうか〔ただ、“つぶあんこ”氏が、「とにかく詰め込めるだけ詰め込まれたクライマックスの詰め込み感が、緊急事態である現場の臨場感をも表現しており目が離せなくなる」と高く評価するシーンは、私にはかなり冗長に思えましたが〕?

 また、今回引き起こされる殺人事件は、前作の医療過誤の中での殺人と違って、屋上から突き落とすというごくありきたりの手法によるものですから、その意味でも現実的といえるでしょう〔ただ、犯人の告白によって殺人事件だったことが判明する、という程度のインパクトのない小さな事件になっているので戸惑ってしまいますが〕。

 そうなると阿部寛・竹内結子のズッコケコンビの活躍する余地が狭くなって、変な場面も減り、かなり真面目な仕上がりになってしまっているように感じられます〔竹内結子につき「ビジュアル演技ともにヒロインの器にない」と不当にも決めつける “つぶあんこ”氏にすれば、だから良かったというわけでしょう。むしろ、「脇に回る主役コンビの活躍シーンも増える」などと、一つの文章の中で矛盾することも平気で述べてはいますが!〕。

 総じて言えば、前作の「チーム・バチスタの栄光」の出来が酷かったので、今回の作品はそれと比べればかなり良くなっているはといえるものの、リアリティーが増した分だけ常識的な仕上がりになってしまっているのでは、と思えるところです。

 とはいえ、この映画は、堺雅人の好演がなければ、この映画は成り立たないのではとも思えるところで、これからの幅の広い活躍が期待されると思いました(「ジャージなふたり」的な軟弱路線ではなく、かなり引き締まった役もできるようです)。
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リアル鬼ごっこ

2009年03月14日 | DVD
 前田有一氏が70点を付け、「なかなかどうして、結構面白いですぞ」などと言っていたり、映画館で見た予告編からも何だか変わった内容ではないかと思っていたので、DVDで見てみた次第です。

 ただ、実際のところは、確かに「佐藤」の苗字を持つものが次々に死亡して云々という話自体は面白いものの、全体としては、いまSF映画で大流行の「可能的世界」を安易に取扱っているのではないかと思え、さらにはモウ1つの世界で君臨しているという王様やその王国が随分と貧弱であり、その世界で「佐藤」姓のものを追いかけるオニも単に走り回っているだけのお粗末さ、といった点から期待したほどの出来栄えではありませんでした。

 なお、Wowowのドラマ「パンドラ」で好演した谷村美月が、この映画でもヒロインを演じていて、何か素人っぽさが残っているところがいいのではないか、などと思いました。
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カフーを待ちわびて

2009年03月11日 | 邦画(09年)
 「カフーを待ちわびて」を渋谷のHUMAXシネマで見ました。

 いくら時間の感覚などが本土とは異なる沖縄の、それも離島でのお話とはいえ、この映画のように何でもありというのでは白けてしまい、あまりピンときませんでした。

 雑貨屋を営んでいる家で怠惰に生活している主人公(玉山鉄二)のところに、突然若い女性(マイコ)が現れ、詳しい事情も聞かずに主人公はこの女性を受け入れて、一緒の生活が始まります。その後様々の事情があって、この女性は主人公の家から追い出されますが、立ち去る前に書き残していた手紙を読んだ主人公は、隠された事情がわかってこの女性を追いかけて、…云々といったストーリーです。

 ただ、現れた女性がいくら美形だとしても、最初に話を聞かずに受け入れてしまうことなど常識的には考えられません。
 また、主人公の青年は、自分を一人で世話してくれていた母親が、彼を置いて別の男と島を出てしまった後も、母親が帰ってくるのを待ち続けて怠惰に暮らしているようなのです。ありええないことではないでしょうが、あまりにもネガティブな生活態度ではないでしょうか?などなど、共感できない点が見ている最中にいくつも現れてしまうのです。

 とはいえ、他方ではこうした作品にも共感してしまう人たちもいるようですから、私の感受性が鈍ってしまっているのかもしれません。
 主演の玉山鉄二は、映画「手紙」では頗る熱い演技を披露していたところ、この作品では、むしろかなり抑えた演技を見せています。としても、どちらの演技も、なにか演技してますという感じが漂っていて自然さを感じさせないのが不思議でした。
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オーストラリア

2009年03月08日 | 洋画(09年)
 「オーストラリア」を日比谷のTOHOシネマズで見てきました。

 あくまでも娯楽作品として見ると、なかなかヨクできた映画だと思いました。そして、颯爽として格好の良いニコール・キッドマンをまた見ることができたことを単純に喜ぶべきなのでしょう。

 とはいえ、日本軍は、オーストラリアに対しては空爆だけに止まって上陸をしなかったはずで、とりわけ、孤児収容所しかなく何ら戦略的価値のない島を空爆・占拠するなどありえないにもかかわらず、この空爆が映画の後半の大きな山場となっていますから、そう簡単に、ニコール・キッドマンを観たことで殆どを許してしまうわけにもいかないのでは、と思えるところです。

 そして、こうしたシーンなどから、この映画は、なんのことはない、オーストラリアPRのための単なる“国 策”映画なのではないか、と思えてきます。かなりいい加減なストーリーにもかかわらず、「オーストラリア」という至極ご大層なタイトルが付けられているのは、あるいはそうした背景があるからではないでしょうか?

 すなわち、この映画は、壮大な自然を背景に展開するドラマであり、映画で描き出される景色を実際に見れたら素晴らしいなと何度も思いました。ですから、そのことだけでもオーストラリアのCM映画として意味があるのかもしれません。
 加えて、この映画の上映の直前に、世界遺産となっている公園の中にあるコッテッジなどを紹介する短いCM映画も上映されました(この映画館だけのことかもしれませんが)〔それにしては、コアラが登場しないのは解せませんが〕。

 さらに、この映画では、原住民のアボリジニや、以前にオーストラリアに移住した白人(罪人として流さ れてきた者の子孫もいるでしょう)、それに宗主国イギリスの人たちが、現在ではうまく関係を作って 暮らしているさま―この世の極楽なのかもしれません―が描き出されています(宗教的な対立もなさ そうです)。

 ただ、そこからはアジア人は締め出されているようです。中国系の料理人は映画に登場しますが、単 なる使用人であって、彼らと同等のものとしては描かれてはおりません。そして日本人です。あの小さ な島を無意味に占拠しに来た日本兵は、傷ついたアボリジニの若者を助けるどころか、なぜか射殺してしまう極悪非道な者として描き出されています。
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ギターとプサルタリー

2009年03月04日 | 音楽
 このところ、あちらこちらで「ギター&プサルタリー・コンサート」が開催されるようになってきました。

 あるいは、“プサルタリー”のことをご存知ないかもしれません。
 上の画像でお分かりのように、二等辺三角形の形をした木箱の上面に長さの異なる弦を何本も張ったもので、通常はヴァイオリンのように弓で弾きます(ただし、弓を2本使いますが)。
 
 元々は、ヨーロッパ生まれの楽器で、それが発達してチェンバロからピアノになったとされています。オーストリアのチロル地方などでは、民俗楽器としても生き残っているようです。
 私の先生のギタリスト・加藤誠氏がそれを探し出し、わが国での普及に努めています。

 ところで、加藤氏が演奏するギターは変わっています。大きさ・形は通常のクラシック・ギターそのものですが、そこには通常に比べてかなり細い弦が緩く張られています。
 加藤氏は、若い時にギターの弾き過ぎで腱鞘炎を患ってしまい、今でも右手中指が満足に曲がりません。
 ですが、腱鞘炎に罹ってもなんとかしてギターの演奏を続けたいという思いが強く、だったら指に負担をかけないで引くにはどうしたらいいのかと考え続け、その挙句行き着いたのが、細い弦を緩めに張るという方法でした。
 こうしますと、音量はかなり落ちてしまいますが、腱鞘炎の人でも、練習さえすれば誰にも負けない速さで演奏が可能となります。加えて、通常のギターでは味わえない非常に繊細で美しい音質が確保できるようになります〔元々、西欧音楽は、宮廷のサロンという少人数相手のものでしたから、音量よりも音質の方が大切と言っていいのかもしれません〕。

 としても、ただでさえ音量が小さいのがギターの宿命ですから、緩めの細い弦を使うことによってなお一層音量が減ってしまいますと、ほかの楽器と合奏しようとしても、かなりの困難が伴います。
 そこで、格好の楽器として選び出されたのが、この“プサルタリー”というわけです。
 ギターの弦とほぼ同じものを盤面にズラッと並べ、それを弓で擦るわけですから、音量は小さく、非常に繊細な音がします。加えて、ギターのように指で押さえて音の高さを変える必要はありませんから、演奏自体もかなり簡単といえます。
こうしたプサルタリーによってメロディーを弾き、ギターが伴奏するというのが一般的な形のようです。 

 “プサルタリー”は、わが国においては殆ど知られてはいませんが、3年ほど前に放送されたTV朝日「徹子の部屋」に出演した叶和貴子氏が、番組の中で紹介し演奏してみたことから、次第に知られるようになってきたようです。

 わが国で演奏される楽器の種類が増えるのは、それがどんなものであれ楽しいことですから、その普及を応援したいものです。

 なお、この楽器にご興味のある方は、次のホームページをご覧になられては如何?http://homepage2.nifty.com/psaltery/
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