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駆込み女と駆出し男

2015年06月16日 | 邦画(15年)
 『駆込み女と駆出し男』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)『夏の終り』で好演した満島ひかりが出演しているというので、遅ればせながら、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の当初の時点は天保12年(1841年)(注2)。
 冒頭では、女義太夫ら十数人が腰縄でつながれ、市中を引き回された上に、日本橋の袂で3日間の晒しの刑に遭っています。
 老中水野忠邦の天保の改革で出された質素倹約令に反したためです。

 主人公の中村信次郎大泉洋)は、手拭いを頭に江戸の街を端唄を口にしながら歩いていますが、この晒しの刑を見ている人だかりの後ろから、お上による風俗取締りを批判する声を上げます。
 それを咎めた小役人が信次郎を捕まえようとするので、彼は急いで逃げ出します。
 ここで、タイトルクレジット。

 次いで場面は、舟着場の舟から荷を下ろす光景。お吟満島ひかり)が、帳面を見ながらチェックしています。
 その店の店先に回ると、ちょうど貸本屋(高畑淳子)が来ていて、本が並べられています。
 お吟は、「滑稽本ばかりだね」とつぶやきながら、女中たちに向かって「好きなのを持って行っていいよ」と言い、貸本屋に「馬琴は?」と尋ねると、貸本屋は、「28年間、八犬伝を書き続けています」などと答えます(注3)。

 それからお吟は、仏壇と神棚を拝んで、「お供はいらないよ」と言って店を出ていきます。
 お吟が現れるのは、高級座敷鮨の「いさご」。
 そこでは、浮世絵師の渓斎英泉山路和弘)(注4)が、芸妓の背中にエロティックな絵を描いていたりします。
 お吟は、旦那の堀切屋三郎衛門堤真一)の隣に座ると、その顔を見て「働き詰めに働いた男の顔」と言い、堀切屋が「いい顔かい?」と訊くと、お吟は「ええ」と答えます。



 そして、「ちょいと荷降ろしの様子を見てきます」と立ち上がり、出口で「いさご」と書かれた提灯を手にして、「六郷の渡しから鎌倉までどのくらいかかる?私は今晩ここに来なかった。いいね、おじさん」と言いながら立ち去ります。

 こうして鎌倉に急ぐお吟と、鉄練りじょご戸田恵梨香)とが途中で偶然に出会って、ともに東慶寺に駆け込もうとするのですが、さてその首尾や如何に、………?



 本作は、一方で、様々の女たちの東慶寺に駆け込む理由がどれも簡単なものではなさそうであり、他方で、鳥居耀蔵とか曲亭馬琴などの歴史上の著名人が登場もしますし、全体として随分と間口が広げられていて、とりとめのない感じがします。それでも、大泉洋扮する戯作者と戸田恵梨香の鉄練り女とのラブストーリーに満島ひかりの妾の物語が絡んでくる話と次第にわかってくると、そうしたとりとめのなさも逆に面白く思えて来るのですから不思議です(注5)。

(2)本作は、本作の原案とされる井上ひさし著『東慶寺花だより』(文春文庫)に収録されている「東慶寺は何だったのか」という井上ひさしの講演録にあるように、「女性のための幕府公認のアジール」である東慶寺を巡る物語です(P.441)。
 “アジール”について、井上ひさしは、「もともとは、ギリシア語」で、「日本語では、隠れ場所、聖域、尊い地域、保護区、治外法権の避難所といった意味にな」ると述べています(p.440)。
 そんなところから、一時は歴史学者を中心にこの言葉がよく使われるようになりました(注6)。
 ただ、今では余り言われなくなった感じがするところ、それは、松岡正剛氏がこの記事の冒頭で言うように、「いま、アジールが何かがわからなくなっている。世の中に逃げ込む場所がなくなりつつある。アジールはしだいに縮小してマンガ喫茶などとなり、さらには内面化して鬱病に転化したりもする」せいなのかもしれません(注7)。
 それにもともと、「治外法権の避難所」といった事々しい性格を持っていたのでしょうか?
 本作を見てもわかるように、外の一般の世界が、ごく一定部分(東慶寺においては「縁切り」)について、その力を及ぼさないようにするというだけのことであり(注8)、結局は外の世界に丸々依存して維持されているシステムではないかと思われます。
 その中においても、様々な秩序が維持され(注9)、一定の決まりがあり(注10)、結局は外の世界とそれほど違ったものでもないように思われます(注11)。
 本作では、ご政道に批判的な信次郎が逃げ込める場所、ご禁制のマリア像を隠し持てる場所などとして東慶寺(あるいは御用宿の柏屋)が描かれていますが、果たしてそんな大層な場所だったのでしょうか(注12)?

 とは言え、そうしたことなどどうでもいいことでしょう。本作は、歴史研究ではなく、歴史ファンタジーなのですから。
 とにもかくにも、本作で描かれる3人の人物に興味を惹かれます。

 まず、大泉洋が扮する中村信次郎ですが、本居宣長が国学者・歴史学者でありながら医者でもあったように、戯作者でありかつ医者でもあります。そんなところから、信次郎と100年ほど時代を遡るとはいえ、なんだか平賀源内を彷彿とさせるところがあるように思えてきます。
 平賀源内は多才の人であり、風来山人の名で春本の『長枕褥合戦』などを著した戯作者でもあっただけでなく、蘭学者の杉田玄白と親交がある医者でもありました(注13)。
 他方、信次郎も、まだいずれも駆出しながら、医者として鉄練りじょごの顔面の傷を治したり、戯作者として『蚤蚊虱の大合戦』(注14)を書いたりしています。
 この信次郎を大泉洋が演じるわけですが、一方で、自分が書いた戯作をものすごい早口で説明したり、清拙和尚麿赤兒)に医学的知識を試される場面(注15)で丁々発止のやり取りをしたりし、他方で、東慶寺に滞在する女が病気になった時の滑稽な治療の様子(注16)など、観客を笑わせる演技も十分です。



 『清須会議』での羽柴秀吉役といい、クマネズミには、大泉洋はむしろ時代物が似合っているように思われました(本数はごく少ないのですが)。

 その信次郎が診察し治療にあたることになるお吟は、演じる満島ひかり自身が言うように(注17)、いかにも「あだっぽい」女に描かれており、また満島ひかりもそれを実に巧みに演じているように思います。
 時代劇を演じる満島ひかりは『一命』で見ましたが、その時も極貧の生活で病に伏せる哀れな妻の役を見事に演じていました。
 彼女も、現代劇もさることながら、大泉洋と同じく時代劇に合っているようです。

 他方、鉄練りじょごですが、東慶寺で暮らすようになってからは、信次郎の指導を受けながら薬草の栽培・採集に努めています。こんなところは、本草学を学んだ平賀源内的側面を持っているように思えます(注18)。



 こんな鉄練りじょごを演じる戸田恵梨香は、あまり時代劇めいた演技はしておらず(注19)、とはいえ、じょごは、男の職場である鉄練りにおいて男以上の腕を持ち、なおかつ東慶寺では本草学を学んだりするのですから、むしろ近代的な雰囲気を持っているように思え、戸田の演技は、むしろじょごにふさわしいような感じがします。

 こうしたメインの3人の他に、本作では、つい最近『あん』で見たばかりの樹木希林(注20)が、男優がふさわしいと思える柏屋源兵衛に扮していますし、また山崎努曲亭馬琴役を演じたりしています。
 ストーリーの方で様々な話が綴られているところに、出演する俳優の方も数が多く多彩ですから、十分に楽しめる映画に仕上がっているように思いました。

(3)渡まち子氏は、「冒頭から長いセリフの応酬で、いかにも演劇風なのが最初は鼻についたが、大泉洋をはじめ、ワケ有り女を演じる戸田恵梨香、満島ひかりらの熱演にいつしか魅了され、143分はあっという間にすぎていった」として65点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「離縁を求めて行動を起こした女たちの姿がいきいきと描かれ、女優たちの好演もあってスピード感のある軽快な時代劇になった」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 小梶勝男氏は、「登場人物の会話のリズムがいい。かなり早口で、最初は全部は聴き取れない。だが、江戸の雰囲気や話し手の勢いが伝わってきて、気にならない。このリズムが、役者たちも、それを追うカメラも、すべてを引っ張って生き生きと動かしているようにさえ思える」と述べています。
 稲垣都々世氏は、「確かに、脇役の造形や展開など、いつもより脚本に粗さはあるが、全体のスピード感に溶け込んであまり気にならない。ここでは監督の映画への愛と知識がうまく機能し、過去への追従ではない、エネルギッシュで緊迫感みなぎる「らしさ」が濃厚に感じられる」と述べています。



(注1)本作の監督・脚本は、『わが母の記』や『RETURN(ハードバージョン)』の原田眞人

(注2)ラストの方は1843年。

(注3)曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は、天保12年(1841年)8月20日に本編(第百八十勝回下編大団円)が完成します。

(注4)アニメ『百日紅』で葛飾北斎の家に居候をしていた善次郎がのちの渓斎英泉です。

(注5)出演者の内、最近では、大泉洋は『青天の霹靂』、戸田恵梨香は『アンダルシア 女神の報復』、御用宿柏屋番頭の妻役のキムラ緑子は『RETURN(ハードバージョン)』、堤真一は『神様はバリにいる』で、それぞれ見ました。

(注6)網野善彦著『無縁・公界・楽』(平凡社選書、1987年)の「無縁・公界・楽」の章では、戦国時代の「「無縁」「公界」「楽」という言葉でその性格を規定された、場、あるいは人(集団)の根本的な特質」が8項目にわたって述べられていますが、そうした戦国時代における“アジール”ともいうべき「場、あるいは人(集団)」の特徴の「すべての点がそのままに実現されたとすれば、これは驚くべき理想的な世界といわなくてはならない」、「まさしくこれは「理想郷」であり、中国風に言えば「桃源郷」に当たる世界とすらいうことができよう」と述べられています(P.125)。
 こんなところから、一定の歴史学者が重視したように思われます。

(注7)尤も、こうした研究によれば、「アジ―ルとしてのホームレス」という視点があるようです。

(注8)本作で描かれているところによれば、鳥居耀蔵北村有起哉)は東慶寺を潰してしまおうとしましたし(史実でしょうか?)、現に明治維新以降は、「駆け込み寺」としての役目は持ちませんでした(寺法は廃止され、尼寺でもなくなります)。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「豆知識」によれば、駆け込んだ女が支払う金額の多寡によって、寺の中での格付け決めらました。

(注10)劇場用パンフレット掲載の「豆知識」によれば、厳しい寺法が敷かれ、例えば男子禁制であり、病気になっても、原則、外には出られなかったりします。

(注11)むしろ、一般社会よりも一層厳しいかもしれません。
 網野善彦著『無縁・公界・楽』では、「一種の「牢獄」という見方も成り立ちうる」と述べられています(P.25)。

(注12)尤も、東慶寺には重要文化財の「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱」があり、その箱の上面には「IHS」(イエズス会の紋章)が描かれています。ただ、これだけから、東慶寺が隠れキリシタンを匿っていたことにはならないように思われます。

(注13)ここらあたりは、Wikipediaの「平賀源内」の項によります。
 なお、本作の原案である『東慶寺花だより』の著者・井上ひさしは、平賀源内を主人公にした戯曲『表裏源内蛙合戦』を書いています!

(注14)『東慶寺花だより』(文庫版)のP.29~P.33にその滑稽本の内容が掲載されています。

(注15)『東慶寺花だより』(文庫版)のP.61~P.64に対応しています。

(注16)おゆき神野美玲)へのハチミツ浣腸の場面(これは原作では見かけません)など。
 なお、本作では、おゆきの妊娠問題で開かれる「大審問」が大きな見せ場となっているところ、『東慶寺花だより』にはそんな場面は書かれていません。こんなところもあって、同書は原作ではなく「原案」とされているものと思われます(ただ、「大審問」と言ったら、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」をイメージしてしまう人が多いでしょうから、言葉を変えた方がいいように思います)。

(注17)劇場用パンフレット掲載の「Interview」より。

(注18)『東慶寺花だより』(文庫版)に登場する「おきん」が元鉄練り職人ですが、本作のじょごとはかなり違った描き方がされています。
 なお、同書では鉄練りについて、「舟型の炉を築いて砂鉄と炭を入れ、炉の両端に取り付けたふいごから風を送り込んで炭を燃やし、その熱で砂鉄を溶かす作業のこと」とされています(P.108)。

(注19)劇場用パンフレット掲載の「Interview」で、戸田恵梨香は、「時代劇特有の所作とか、そういうものは今回まったくやらせてもらえなかった」と述べています。

(注20)ちなみに、本文で触れている松岡正剛氏は、その記事の中で、『あん』の主人公の徳江が長年入っていた施設のことを「同種の負の寄せ集め」の「強制的アジール」だと書いています。ただ、こんなことを言い出せば、網野善彦著『無縁・公界・楽』が述べていることですが、「幕府や一般初版において罪人を収容する牢獄そのものが、裏返された「自由」の場であったということも可能にな」り(P.28)、アジールの意味が混乱してしまうのではないでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:駆込み女と駆出し男


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4 コメント

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Unknown (atts1964)
2015-06-18 11:43:46
作品としての爽快感は言うまでもないんですが、東慶寺がいかに存在していたかは、寺野管理者、周りの住民の知恵と工夫で、縁切り寺としての役割を存続していたんでしょうね。
つぶそうと思えばひとたまりもなかった感じはしました。
こちらからもTBお願いします。
Unknown (クマネズミ)
2015-06-18 20:53:45
「atts1964」さん、TB&コメントをありがとうございます。
おっしゃるように、「東慶寺」は“駆け込み寺”といえども、決して別世界(極端に言えば理想郷)ではなく、それを取り巻く一般世界と密接に関係している存在ではなかったかと思います。
Unknown (ふじき78)
2015-06-25 01:09:39
> そうしたとりとめのなさも逆に面白く思えて来るのですから不思議です

この点を「だから、ちょっと物足りなさを感じた」と思うのと「とりとめのないのもまた面白い」と思うのと、半々みたいな感じでした。
Unknown (クマネズミ)
2015-06-25 04:57:16
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
そうですね、「ちょっと物足りなさを感じた」と思うのと、「とりとめのないのもまた面白い」と思うのと、それらの「半々」よりちょっと後者寄りに感じた次第です。

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