映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ファミリー・ツリー

2012年05月31日 | 洋画(12年)
 『ファミリー・ツリー』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)本作は、『スーパー・チューズデー』で監督・出演したばかりのジョージ・クルーニーの主演作であり、かつアカデミー賞の5部門にノミネートもされましたから、期待して見に出かけたのですが、残念ながら思ったほどではありませんでした。

 原題は「The Descendants」ということで、ハワイのカメハメハ大王の血を引く弁護士の主人公マットジョージ・クルーニー)が、一方で不慮の事故で意識不明のこん睡状態に陥ってしまった妻の世話に当たらなくなるところ(注1)、他方で、先祖から引き継いだ土地の処分をどうするかという問題にも直面しています。

 マットは、妻がそんな状態に陥ってしまったために、まずこれまで仕事に集中して顧みなかった家族の問題にぶち当たります(注2)。
 オアフ島の自宅にマットと一緒に住んでいる次女スコッティは、言葉遣いが乱暴になるは学校で問題を引き起こすは、と荒んできますが(注3)、別のハワイ島の全寮制の高校にいる長女アレックスシャイリーン・ウッドリー)も、アルコール依存症気味ではあるし、またわけのわからないボーイフレンド・シドとも付き合っています。
 母親が重体に陥ったことから長女を家に連れてくると、彼女は、妻が浮気をしていたことをマットに告げてしまいます(注4)。それで、頭に来たマットは、妻の浮気相手スピアーマシュー・リラード)が出向いているというカウアイ島に向かいます。

 そのカウアイ島は、マットが先祖から引き継いでいる広大な土地キプ・ランチがある島で、近く開催される親族会議では、その土地についてマットは自分なりの判断を提示する必要があるのです(親族たちは、売却益のおこぼれに早くあずかろうとしているようです)。

 さあ、マットはスピアーと対決するのでしょうか、また祖先から引き継いでいる土地をどう処分しようとするのでしょうか、……?

 見ている間中、この作品は、御当地映画とどこが違うんだという気がしてなりませんでした。とにかくハワイの3つの島の素晴らしさを観客に見せることに重点が置かれているように思え、映画を見た人は、皆がアロハシャツを着て四六時中ハワイアンが流れているようなハワイに行ってみたくなること必定です(注5)。
 そんな中で、明日をもしれぬ重篤な妻を抱えた主人公のマットなのですが、なぜか、妻を病院に置きっ放しにして(注6)、ハワイ島に行くはカウアイ島に行くはで大活躍です(カウアイ島では、スピアーの探索で探偵まがいのことまでします:注7)。
 加えて、母親の喪失に迫られた子供たちも、確かに荒んだ行動はするものの、決して則は超えず、家族の崩壊というにはほど遠い感じ。
 それに、原題の「The Descendants」ですが、確かに、血の繋がりがなく、おまけに浮気をしてマットとは別れる気でもあった妻はあまり関係はないのかもしれません。とはいえ、余りにも一族の圏外に彼女が置かれ過ぎているのではという感じもしました。

(2)さて、上で申しあげたようにマットは、妻の浮気相手・スピアーを追ってカウアイ島に行った際に、自分が祖先から受け継いでいる広大な土地を見に行きます(注8)。



 そこには自然がそのままで残されているものの、親族の大部分が売却先として適当だと考えている開発業者のホリツァー(注9)に売却してしまえば、その素晴らしい自然は破壊されてしまうでしょう。
 でも、信託期間が7年後には切れてしまうために、いずれは処分せざるを得ないということのようなのです。

 しかしながら、ここら辺りの事柄がどうも理解しがたい感じがするので(「信託期間」?「7年後」?信託期間が終わると?)、ネットで少し調べてみましたら、大変興味深い記事が見つかりました(注10)。
 同記事では、本作の法律面につき助言をしたハワイ法科大学のランダール・ロス教授(ハワイ州の土地信託の権威)の話を伝えているところ、その概要は次のようです。
 「原作では、マットの祖父が亡くなったとき(あるいはそれに類似することが起きたとき)に終了する信託(trust)の取り決めがなされていたとされているが(注11)、それには疑問があるので、脚本では法律的な原則を付け加えた方が良いと助言した。
 すなわち、永久拘束禁止則(the rule against perpetuities)といわれるのがそれで、信託が永遠に続くのを妨げるべく、その上限を設けるものであり、多くの州で立法化されている。
 伝統的には、「lives in being plus 21 years」とされ(注12)、実際には、多くの信託で期間はおよそ100年とされ、本作ではそれが150年に切り上げられている。それで、映画では、あと7年で信託が終了するとされているのだ。
 ただ、映画では触れていないが、その原則を廃止して信託期間が永遠に続くことを認める州が出てきており(注13)、映画の完成後にハワイ州でもそのようになった。
 なお、マットがキプ・ランチの売却を拒否した際の動機については、映画では明確にされていないが、疑問がある。
 というのも、マットは、ただ一人の「受託者(trustee)」として、受益者(beneficiaries)にとって最善の利益をもたらすように行動しなくてはならない義務を負っているのであって、スピアーを窮地に立たせようとして(注14)、あるいは開発業者からの提案が魅力的であると知っていながら、売却を拒否してしまうことは、受託者に与えられている裁量の範囲を逸脱しているのではなかと考えられる。
 ただ、後者についてマットは、先祖は開発よりも保存を望んだだろうと反論するかもしれないが」。

 マットは、先祖から譲られた自然豊かな土地を守ろうとして売却話を拒絶するのですが、ちょっと考えてみると、そんなことをしても最長で7年間しか今の状態を継続できないわけで、その後は信託は精算されますから、相続人達がオーナーとして処分できることになるわけです。
 ソウなった暁には、一括して開発業者に任せる場合よりも事態が悪化してしまう可能性の方が高いのではないでしょうか(注15)?

 マットは、「受託者」として当然負うべき義務を果たさないどころか、自分の権限を振り回して物事を悪い方向に持って行こうとしているだけではないのかと思えてきます。

(3) 以上を要すれば、マットの家庭の崩壊の話それ自体はどこにでも転がっていそうなものであり、もう一つの土地売却の話も映画の中だけでは理解し難しく、その上これら二つがうまく有機的な繋がりをもって描き出されてはいないのではとも思いました(注16)。
 どうしてこの程度の作品でアカデミー賞の5部門にノミネートなのか不思議な気がしたところです。

 それでも、主演のジョージ・クルーニーの演技は素晴らしく、なかでも、妻の浮気を知ってその真相を確かめるべく友人宅に向かってカーブのある道を駆けている姿は、一見の価値があるのではと思いました。



(4)渡まち子氏は、「ジョージ・クルーニーが絶妙の演技をみせる「ファミリー・ツリー」。ほろ苦いドラマだが後味はさわやか」であり、「誰もが欠点を持ち、誰もが完全には正しくない。互いを補いあう家族だからこそ、それでいい。映画全編をそっと包み込む、柔らかなハワイアン・ミュージックがそう告げている」として80点をつけています。




(注1)担当する医師の話によれば、状態は悪化していて、余命は数日、せいぜい数週間とされています。
 さらに、妻は尊厳死を望んでおり、また臓器提供の意思も表明しているとのこと。

(注2)妻の実の父親も、「娘はよく働いていた。だけどお前は、娘に金を使わせなかった。もっと自由に金が使えていたら、そして娘をもっと幸せにしてくれていたら、娘もあんな事故に遭わなくても済んだ」などとマットに愚痴を言います。

(注3)でも、柄の悪い言葉遣いをしたり、おかしな写真を同級生に見せたり、変なメールを送ったりする程度のこと。

(注4)アレックスは、「クリスマスに、ママは男といたんだよ。それでママと喧嘩したの。パパは気が付かなかったよね、仕事ばかりしていたから」と言い放ちます。

(注5)特に、劇場用パンフレットは、マウイ島やカウアイ島の地図付きであり、その他のハワイ情報も満載です!

(注6)妻の浮気の話を知って、昏睡状態で横たわっている妻に向って、「君は大嘘つきだ。私の人生を台無しにしている」などと詰ったりしていますから、マットが病室に籠り切りにならないのも分かりますが、他方で、浮気相手のスピアーに妻のことを知らせて見舞ってもらおうともします。それは、妻が会いたいだろうと思ってのことですから、妻に対する優しい気持もいまだ十分に持ってもいるのです。

(注7)スピアーが滞在しているカウアイ島のコテージの前の生垣からのぞき見をして、スピアーが妻と子供と3人でそこにいることを知ります。

(注8)ハワイの土地制度の歴史については、このサイトの記事によれば次のようです。
 ハワイ王国のカメハメハ3世(治世は1832年~1855年)の時に制定されたマヘレ法(1848年)によって、ハワイの全ての土地は、カメハメハ王と245人の族長の間に分配され、さらに王の領地の大半はハワイ政府の所有する官有地とされ、その結果、王領23.8%、官有地37%、族長領地39.2%という割合になったようです。
 さらに、1850年には、外国人による土地私有も認められたため、法律に強く、ある程度資金もあったハオレ(白人)たちは、対外債務を抱えていたハワイ政府から、格安で王領地や官有地の売却を受け、1862年までにはなんとハワイ全土の75%がハオレの個人所有になったとのこと。

(注9)開発業者ホリツァーの義弟がスピアーで、スピアーが不動産業者であることから、その開発業者に売却すれば、スピアーが土地の売却等を任せられるだろうことも判明してきます。マットは、スピアーが、土地のことから自分の妻に近づいたのではと疑います。

(注10)アメリカの雑誌「Forbes」のネット版に掲載されたDeborah L. Jacobs氏(Forbes Staff )による「George Clooney Makes Estate Planning Sexy」(2012.2.23)。

(注11)原作〔カウイ・ハート・ヘミングス著『ファミリー・ツリー』(堤朝子訳、ヴィレッジブックス)〕によれば、マットの銀行家の曽祖父が、カメハメハ大王最後の直系子孫と結婚して30万エイカーの土地を持つことになり、曽祖父は1920年にそれを信託財産にして亡くなり、それをマット達が受け継いだが、「昨年、父が亡くなり信託期間が終了しました」とのこと(同書P.61~)。

(注12)「信託の存続期間に上限がある。受益者とその相続人の生存期間にプラス21年で私的信託は終わる。その時点で信託は解消され清算されなければならない。これが私的信託の永久拘束禁止則(rule against perpetuity)である」(同志社大学法科大学院教授・藤倉皓一郎氏による「アメリカ法における私と公―公共信託の理論」から)。

(注13)このサイトの記事も、アメリカにおける同じような動きを述べています。

(注14)上記「注9 」を参照。

(注15)ここで引用した「Forbes」の記事においてロス教授は、信託期間が終わると、従兄弟達は土地の共有者(co-owners)になり〔法律用語では「tenancy in common 」〕、それぞれが財産の部分所有者になるものの、それは分割できない持ち分(an undivided interest)であり、反対者が一人でもいたら売却も何もできなくなってしまい、従兄弟達の間で喧嘩騒ぎが引き起こされる可能性がある、と述べています。

(注16)妻が事故に遭遇して昏睡状態になったという事情から親族と会ったりするうちに、マットは売却話に乗らないことを決めますから、あながち二つの話につながりがないわけでもないでしょう。ですが、土地の売却を拒否することがそれほどご大層なこととは思えないところです。




★★★☆☆





象のロケット:ファミリー・ツリー
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ル・アーヴルの靴みがき

2012年05月29日 | 洋画(12年)
 『ル・アーヴルの靴みがき』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)本作は、フィンランドのカウリスマキ監督の作品で、前作『街のあかり』(2007年)をDVDで見て印象深かったので(注1)、この作品もと思いました。

 物語は、コンテナに隠れて密入国しようとしたアフリカの少年を、主人公をはじめとするル・アーブルの街の人の協力で、少年が希望するロンドンに出国させるというごく単純な人情話です。
 ただ、それを、劇場用パンフレット掲載のメッセージで監督自身が述べているように、「このとかく非現実的な映画」の中で描き出すことにより、人々の思いやりの深さが却って浮き彫りになっていて感銘を受けました。

 例えば、
・主人公マルセルアンドレ・ウィルム)はかなりの歳なのですが、とても靴みがきを業とする者とは思えないほど、外見はバリッとしています(注2)。どうも若い頃パリにいたようなのです(注3)。
・アフリカから来た少年イドリッサは、主人公と出会うといきなりフランス語で話し出すのです(ただこれは、フランスの旧宗主国からやってきたと考えればいいのでしょうが:注4)。



・マルセルは、収入が少ないために近所のパン屋や八百屋に借金が溜まっていて嫌がられているところ(注5)、彼の妻アルレッティカティ・オウティネン)が入院したことやイドリッサを匿っていることが知れると、街の人々の態度が途端に一変し、そればかりか、入院中のマルセルの妻を見舞いに行ったパン屋の女将は、カフカの『短編集』の朗読までしてあげるのです(注6)!
・マルセルは、ダンケルクにある難民キャンプに行ってイドリッサの祖父に会おうとしますが(ロンドンにいる彼の母親の住所を知るために)、その所長に対し、自分は当人の弟で弁護士だと言い張るところ、いくらなんでも「白子」だから色が白いというのは言い訳として凄まじすぎます。
・アフリカの少年の捜索を知事から厳命されたにもかかわらず、警視モネジャン=ピエール・ダルッサン:注7)は少年の脱出を見逃します。



・医者に余命いくばくもないとされた主人公の妻(注8)は、驚いたことに完全に治ってしまうのです(注9)!




 ただ、こんなところをいくらご都合主義だ何だと批判しても全然始まりません。
 監督が先刻ご承知で意図的にそのようなストーリーにしていることはみえみえですから。
 むしろ、このように「非現実的」な雰囲気の中でストーリーを展開することによって、人々のお互いの思いやりの深さとか、さらには人々が移民に対して日々どのような態度で接しているのかも逆によく見えてくるといえるでしょう。

 なお、本作には往時の日本映画的な雰囲気がかなり漂っているところ、さらに、マルセルの自宅の食卓の上にはなぜかお猪口が置いてあったり、ラストでは庭の桜が咲いていたりもして、日本に対する監督のこだわりがうかがわれるところです。

(2)本作の主人公に扮するアンドレ・ウィルムは、カウリスマキ監督の2作品に出演しているとのことですが、未見です。
 ただ、その妻を演じるカティ・オウティネンが主演の『浮き雲』のVTRをこのほど見てみました。

 物語は、有名だったレストランの給仕長のイロナ(カティ・オウティネン)は、夫でバスの運転手のラウリ(カリ・ヴァーナネン)と幸福な生活を送っていたところ、ラウリは不況のため解雇され、他方、イロナも、レストランのオーナーが代わったため辞めざるを得なくなって職探しの身に、さらに色々の難題が2人に降りかかるものの、レストランの前のオーナーに偶然出会って話をしたことから、資金援助を受けられることになり、レストランの開業にこぎつけるに至る、というものです。

 ラスト近くまでは、厳しい現実に次々に打ち負かされる2人をこれでもかと見せつけられて、映画を見る者はやるせない気持ちで一杯になってしまいますが、ラストに至り、『街のあかり』と同様に、心の中の希望の光が灯されたような感じになります(前のオーナーがアトになって資金援助するくらいなら、どうして当初乗っ取りにあったときにその資金を出さなかったのか、とも言いたくなりますが、そんな野暮なことは言いっこなし)。

 本作も、ロンドンに向かう船の甲板に出てル・アーヴルの港を眺めるイドリッサを見ると、それらの作品同様の感慨に浸されます。

(3) 本作では、移民問題が一つのテーマとなっています。
 マルセルが匿うイドリッサは、脱走した不法移民としてモネ警視が捜査しますし、マルセルはダンケルクにある不法移民キャンプを訪れたりします。



 さらに映画では、TVニュースの映像として、機動隊が不法移民が住んでいる場所を急襲してそこを閉鎖してしまった様子を映し出します(そこにいた300人は行き場がなくなってしまった、ともされています)(注10)。

 こうした流れは、先般のフランス大統領選挙でも争点の一つとなり、次のような報道もありました。
 「サルコジ氏は6日、仏テレビの討論番組で「フランスには移民が多すぎて住宅、職場、学校が機能しない」と、移民が経済・社会問題の原因との説を展開し、「(新しく入国する)移民の数を半減させる」と表明した。 サルコジ氏自身、ハンガリー系移民2世だが、発言はイスラム系移民を念頭に置いたものとみられる。2日には、サルコジ氏の側近であるゲアン内相が最大野党・社会党候補のオランド前第1書記(57)が掲げる 「外国人への地方参政権付与」にかみついた。「外国人の地方議員によって、学校食堂でイスラム教の戒律に沿った食事の提供を義務づけられたり、男女が同時にプールを使用できなくなるのはごめんだ」と述べた」(3月9日毎日新聞)。

 実際には、大統領選ではサルコジ氏が敗れ、移民規制に消極的なオランド氏が新大統領に選出されましたが、不法移民取締強化の流れは底流として続くのではないかと思われます。

 さらに、カウリスマキ監督は、劇場用パンフレット掲載のメッセージにおいて、「何とかして諸外国からEUへやってこようとする難民たち」に言及しているところ、次のような新聞記事に遭遇しました。
 昨今のギリシャはきっと財政問題でテンヤワンヤになっているに違いないと思っていましたら、5月23日の朝日新聞記事によれば、どうもそればかりでもなく、移民問題も重要のようです。
 すなわち、ギリシャ国家警察の広報担当は、「アフリカ、南アジア、中近東。三つの地域からの移民が、海から陸から押し寄せてくる。これは我が国だけではなくて欧州全体の問題だ」と述べています。
 これは、「欧州の政府債務危機の震源地であるギリシャだが、移民にとっては豊かな「先進国」であり、欧州の玄関」とみられているため。
同紙によれば、「昨年ギリシャで拘束された不法移民は約10万人。国籍は111に上った」が(ギリシャでは、「警察当局によると、70万人の不法移民と100万人の外国人住民が暮ら」し、これは「人口の2割近くにあたる」)、さらに、 「トルコとの国境は約230キロ。ギリシャ紙によると、昨年10~12月に欧州全域に入ってきた不法移民3万人のうち、75%はここを越えてきた人々」とのこと。

 どうやら、本作のイドリッサのように直接フランスに入り込もうとするだけでなく、ギリシャなどを経由して「EUへやってこようとする難民たち」も大勢いるようです。

 なお、日本については、『サウダーヂ』を取り上げたエントリの(2)において若干触れておりますので参照していただければ幸いです。

(3)渡まち子氏は、「フィンランドの巨匠アキ・カウリスマキの新作「ル・アーヴルの靴みがき」は心温まる現代のおとぎ話。移民問題を“善意”を主人公に描ききる名人芸に唸る」として75点をつけています。




(注1)このブログで『ヤコブへの手紙』を取り上げたエントリの(3)を参照して下さい。

(注2)だいたい、駅で客を待っている時も、普通であれば低い腰掛に座っているところ、マルセルは、もう一人のチャングと並んで突っ立っているのです。そして、上から見下ろしながら、前を通過する人々の靴の汚れ具合に厳しい目を走らせています。

 そうしたところに、カバンを大事そうに抱えた男が客となりますが、途中で周りにいる男たちに気がついて立ちあがって画面から消えてしまったところ、銃声が聞こえます。その男は、カバンが原因で殺されてしまったものと推測されるものの、この話は以後映画の中では展開されません〔ただ、「佐藤秀の徒然幻視録」の5月8日のエントリには、「マルセルに酒を振る舞うバーの店主クレールエリナ・サロ)の夫らしい」との注目すべき記載が見られます。なお、この男は、IMDbのキャストではL'Italien とされていて、『街のあかり』で強盗団のボスを演じていたイルッカ・コイヴラが演じています。このサイトの記事によれば、本作の冒頭のシーンとこの作品との繋がりも見出されるようです〕。

 なお、マルセルと一緒にいるチャングですが、彼の話によれば、自分はIDに記載されているチャングではなくベトナム人なのだ、このIDを取得するのに8年間もかかった(南仏では簡単に手に入るらしい)とのこと。

(注3)主人公マルセルは、イドリッサに、「若い頃パリにいた」などと話しますが、劇場用パンフレットに掲載されている秦早穂子氏のエッセイ「カウリスマキは前進する」によれば、カウリスマキ監督の『ラヴィ・ド・ボーム』(1992年)のマルセル(「パリで雑文などを書いていた自称芸術家」)が「パリから移り住んできた」とのこと。そして、その作品でマルセルに扮しているのが、本作でマルセルを演じているアンドレ・ウィルムです。

(注4)映画を見ている際には気が付きませんでしたが、劇場用パンフレットに掲載されている「Story」によれば、アフリカ中部に位置するガボンからやってきたとのこと。
 ただ、Wikipediaによれば、産油国で中心国レベルの国民所得があり、中国からの移民を受け入れているとのこと。そんな国から、教育程度が高そうなイドリッサが、危険なコンテナを使って(酸欠になる恐れがあります)フランスに不法に入り込もうとするのかと、疑問が湧いてしまうところですが、これもよくわかった上での設定なのでしょう。

(注5)所持金がないために、パン屋からパンを持ち出そうとして、「そんなことをしたら万引きだ」とパン屋の女将に言われてしまい、またマルセルが近づくと、八百屋はシャッターを下ろしてしまいます。
 さらには、あろうことか靴屋の店先で営業をしようとしたために、マルセルは靴屋の店員に大層邪険に追い払われてもしまいます。

(注6)マルセルの妻アルレッティの評判はものすごく高いものの(バーの女将クレールは「あなたには過ぎた人よ」とマルセルに言います)、それにしてもという感じです(わざわざ、カフカの『短編集』が画面に大写しにもなるのです)。

(注7)少年時代をル・アーヴルで過ごした画家のクロード・モネにちなんでのことだと思われます。

(注8)妻のアレッティが、病室で手渡されたレントゲン写真を見ながら、「わずかな望みもない?」と医者に尋ねると、医者は「奇跡でも起きなければ」と答えるくらいなのです。

(注9)マルセルは、妻のアルレッティから、「あなたといると心が乱されるから、これから2週間は会わない、2週間経ったら黄色い服を持ってきて」と言われてしまいます。
 2週間目の日には、抜け出せない用事のため、マルセルは黄色い服をイドリッサに届けてもらいますが、翌日、マルセルが病院に行くと、なんと彼女が別室でその服を着て待ち構えているのです!
 なお、マルセルの抜け出せない用事というのは、イドリッサがロンドンに向かうに必要な費用3,000ユーロを捻出すべく、リトル・ボブのロック・コンサートを開催すること(といっても、1945年生まれのロッカーの姿も凄まじいものがあります!)。

(注10)こうした記事も関連するのでしょう。
「フランス移民当局は22日、母国の戦乱を逃れたアフガニスタン人らが移住先のフランス北部カレーに築いた「不法移民キャンプ」を強制撤去、276人を取り調べた」(2009年9月23日産経新聞)。



★★★★☆





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ポテチ

2012年05月24日 | 邦画(12年)
 『ポテチ』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)本作は、映画『ゴールデンスランバー』などの制作に携わった3人〔伊坂幸太郎(小説家)+中村義洋(監督)+斉藤和義(ミュージシャン)〕の組み合わせで、わずか8日間で撮り上げた作品です(企画段階を入れても3か月とのこと)。
 原作が中編のこともあって、上映時間は68分とかなり短いものの、逆にそうした作品の中に様々な要素が凝縮して詰め込まれている感じです。

 物語は、現代版「とりかえばや」といったところで(注1)、主人公の忠司濱田岳)は、空き巣を稼業とする30間近の青年ですが(注2)、健康診断を受けたら、自分が母親の実の子供ではないらしいことがわかり、空き巣稼業における兄貴分で探偵もする黒澤大森南朋)に調べてもらったところ、……。



 他方、生まれ故郷のヒーローであるプロ野球の尾崎選手の自宅に、同棲中の彼女・若葉木村文乃)(注3)と一緒に空き巣に入った忠司は、たまたまかかってきた電話から、尾崎選手が恐喝を受ける羽目になるのを未然に防いでしまいます。

 こうしたことを見ていた黒澤は、尾崎選手から金を巻き上げようとした男女二人組を逆に使って、試合に出そうとしない監督を脅すことによって、尾崎選手が試合に出れるようにし、彼はチャンスで試合に代打出場するのですが、……。

 短い時間内に起承転結を付けるためでしょう、ご都合主義的なところ(皆がダンゴのようにからまりあってしまう)はうかがえるものの、それこそアッという間にエンディングになりますから(エンドクレジットは最後まで見る必要があります)、そんなことはどうでもよくなってしまいます。
 見て損のない大層面白い映画だと思いました。

 主役の濱田岳は、最近では『ロボジー』で見たばかりですが、本作の忠司のような曲がったことが大嫌いながら“空き巣”という役柄にまさにピッタリという感じです。

 また、黒澤役の大森南朋も、『東京プレイボーイクラブ』で難しい役に巧みに扮していたところ、本作でも、知的な冷静さを身につけた“空き巣”役をこの人ならではの演技でうまくこなしています。

 さらに、音楽担当の斉藤和義氏については、ちょうど5月2日のフジTV「笑っていいとも」の「テレホンショッキング」に出演したことを日曜日(5月9日)の総集編で知り、また同日夜には、同氏のライブ「45STONES」の模様がWOWOWで再放送されたのを見たところです。

(2)主役の忠司は、なかなか変わった性格付けがなされていて、本作のタイトルとなっている「ポテチ」を巡り、それがよくわかるように作られています(注4)。
 あるとき忠司は、コンビニでポテトチップスを購入してきますが、頼まれたものとは異なる塩味を若葉に渡してしまいます。それに気づいた若葉は、「コンソメ味じゃないじゃん!」と騒ぎますが、「マッこれでいいか」とどんどん塩味の方を食べてしまいます。
 それを見ていた忠司は、突然眼から涙を流してしまうのです。



 おそらく忠司は、頼まれたコンソメ味の方を差し出しているにもかかわらず、若葉はどうして間違っている方の塩味で満足してしまうのだろう、なんで間違ったままにしておくのだろう、という思いが高じてしまったのでしょう(注5)。
 こんなに一本気で、素直な性格ながら、忠司は“空き巣”なのですから、誠におもしろい設定です。

 ただ、本作でちょっと説明不足と感じさせるのは、兄貴分の黒澤が、忠司から依頼のあった調査の結果が忠司にショックを与えたことについて、「俺にはわからない」などと冷血漢のような反応をすることです。
 それでいて、忠司のために尾崎選手が試合に出場できるように手を打つことまでするのですから、観客の方こそ、黒澤の気持ちが「わからない」と言いたくなってしまいます。
 そこで、原作(新潮文庫版)にあたってみると、本文はまさに映画と同様なのですが、ミステリ評論家・佐多山大地氏による「解説」には、「黒澤」が同じ文庫版に収められている『サクリファイス』にも登場すると述べられているではありませんか(P.333)!
 早速読んでみましたが、確かに黒澤が登場し、「本業は空き巣で、副業は探偵だ」とされているものの(P.53)、残念ながら、黒澤の心の機微にわたる部分は読み取れませんでした(注6)。

 そこで、もう一つ、佐多山氏によって黒澤が「主役級の人物」とされているこれも新潮文庫版の『ラッシュライフ』を読んでみました(注7)。
 長編のためザッとしか見れませんでしたが、黒澤はどうやら仙台にある大学を卒業したようなのです(大学の同級生・佐々岡が一部上場の企業に就職したということは、所属していたのは文科系の経済学部あたりでしょうか)。
 とはいえ、「この世の全てではなくとも、大抵のことは金で解消されると思っていた」などとあるばかりで(P.367)、複雑な心の動きは書き込まれていない感じです。

 ただ、驚いたことに、本作の忠司と全く同じ青年(「タダシ」)が冒頭近くに登場し、万有引力の法則めいたことを発見したのを黒澤に報告する場面が描かれているのです(P.57)。
 そのタダシに、黒澤は、自分の年齢を「三十五」と答えています(P.56)。

 こうして見てくると、まさに佐多山氏がいうように、伊坂幸太郎氏の小説については、「作品間で関係(リンク)したところがあ」るようで、個々の登場人物のことよりも、むしろそうした方面を探っていくのが楽しみになってきます(注8)。
 としても、佐多山氏自身が言うように、「このようなリンクの例をいちいち拾い上げてみせるのは野暮の極み」なのでしょうが(P.333)!

 ただ、新潮文庫版の『ラッシュライフ』の解説を書いている池上冬樹氏は、「伊坂幸太郎の作品では、作品同士がリンクする。本書は2作目になるが、本書の細部が、短編小説や後の長編で利用されている」とし、「伊坂作品同士がリンクして、ある程度の作品数が揃うと、ウィリアム・フォークナーのヨクナパトーファ・サーガのような世界がひらけるのではないだろうか」としており(P.467~)、そうなってくれば「野暮の極み」などと卑下するまでもないかもしれません。

 そして、そこから更に飛躍すれば、伊坂幸太郎氏の小説を映画化した作品(注9)相互間にもリンクが広がって(注10)、映画の世界においても、もしかしたら“センダイ・サーガー”といったものが出来上がるかもしれないな、とも思えてきます(注11)。

(3) 渡まち子氏は、「わずか68分の中編映画「ポテチ」は、サックリとしたポテトチップスのような味わい」として50点をつけています。




(注1)映画では、赤ん坊の取り違いが発生した件数が30件とされていたところ、新潮文庫版の原作では、1957年~1971年の間の件数が32件とされています(P.315)。

(注2)映画でどう話されていたのかよく覚えていないところ、原作では、「(尾崎が)俺と同い年。三十間近」と忠司は若葉に話しています(P.251)。

(注3)以前、中村親分中村義洋監督)と一緒に空き巣に入った家でも、作業の途中で電話がかかってきて、中村親分と忠司を慌てさせます。
 というのも、その家に住んでいるはずの男に女が留守電で、「私ね、面倒だから死ぬことにしたから、女を弄びやがって、このクソ男!」、「私、飛び降りちゃうから」などと言って騒ぐのです。驚いた忠司は、女が飛び降りると言っているビルを探し出して、なんとか自殺を思いとどまらせます。なんと、その際の女が若葉。

(注4)さらに、なんでいい歳の青年が「空き巣」をやっているのか、どうしていろいろなことを黒澤に頼むのか、などを説明するためなのでしょう、忠司は小中学校時代にろくに勉強しなかったように描かれています。
 それで、三角形の内角の和が180度になることを、今の歳になって初めて自分で見出すといったような具合なのです(原作では、さらにピタゴラスの定理まで自分で発見します!)。
 でも、いくら数学が苦手でも、ニュートンの「ニ」の字も、またその万有引力の話も知らないなどといったことがありうるでしょうか(リンゴが下に落ちるのは地球の中心にそれを引っ張るものがあるからだ、ということを大真面目に黒澤に話すのです)?
 とりわけ、忠司は、健康診断で判明した自分の血液型は、母親の血液型からは生まれそうもないと分かるくらいの知識を持っているのですから。 
 さらにまた、今やDNA鑑定で親子の関係がはっきりする、という知識も持っているのです!

(注5)原作では、さらに次のようなエピソードも挿入されています(P.243)。
 部屋の冷蔵庫に置いてあるアイスクリームを取り違えないために、カップにそれぞれの名前を書くように言われた若葉が、「間違えたってたいしたことないって」、さらに「もし何だったら、わたしのアイス、食べちゃってもいいし」と言うと、忠司は「俺はそういうの許せないんだ」と応え、若葉を「げんなり」させます。

(注6)なお、『サクリファイス』には、「地元のプロ野球チームの、あの監督を見ろよ。シーズン中だってのに、若い女を自分の宿泊所に呼んだり、やりたい放題じゃねえか」などといった台詞が書かれていたりします(P.75)!

(注7)残念ながら、映画化された『ラッシュライフ』(堺雅人主演:2009年)は未見です。

(注8)たとえば、このサイトを参照してください(ただし、掲載の表においては、「サクリファイス」や「ポテチ」などの作品は『フィッシュストーリー』に含められています)。

(注9)Wikipediaによれば、映画化されたのは、本作も含めて8作品とされています〔しかしながら、そこには2006年の『チルドレン』が入っていませんから、9本となるのでしょうか(WOWOWで放映されたものが劇場公開された場合、どのように数えるべきなのでしょう?)〕。

(注10)たとえば、本作においては、尾崎選手を恐喝しようとした2人組を脅しつける際に、黒澤は小説『サクリファイス』で展開されている話(小暮村の“こもり様”)をしています。これは、原作では見られない場面であり、映画面におけるリンクの広がりのようにも思えます。

(注11)しかしながら、例えば、映画『重力ピエロ』では、原作小説に登場する黒澤が見当たらないのです。




★★★★☆



象のロケット:ポテチ
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少年と自転車

2012年05月23日 | 洋画(12年)
 ベルギー映画『少年と自転車』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作は、文部科学省選定(少年向き)等とされていて躊躇はしましたが、評判が良さそうなので映画館に行ってみました。

 物語の主人公は、もうすぐ12歳となるシリル



 彼は、一緒に暮らしていた父親によって突然保護施設に預け入れられたため周囲となじめず、あるとき密かに自分たちのいたアパートに戻って、父親と愛用の自転車を捜そうとします(注1)。
 ですが、シリルを探しに来た学校の先生達に見つかり、アパート内にある診療所に逃げ込みます。そこにも、シリルを追ってきた先生達が現れたため、彼は、受診に来ていた女性サマンサセシル・ドゥ・フランス)にしがみついてしまいます(注2)。
 そして、愛用の自転車がどんなに大切なものなのかを先生達に訴えます。そこで、シリルに事態を飲み込ませるために、先生達は彼を元の家に連れて行きますが、そこは完全な空き室となっていて、父親はおろか自転車さえも見当たりません。

 暫くして、サマンサが彼の自転車をもって保護施設に現れます。診療所で彼女にしがみついてきたシリルの話をそばで聞いていて、探したところ見つかったというわけですが、シリルは、その際、サマンサに週末だけ里親になってくれるように頼み込み、承諾してもらいます。

 それから、シリルはサマンサと一緒になって父親(ジェレミー・レニエ)を探し回り(注3)、とうとうレストラン「アカシア」で働いているところを見つけ出します。ですが、彼は、「自分には面倒見切れない、もう来ないでくれ。電話もしない」とシリルに告げ、奥に引っ込んでしまいます。
 それで酷く落ち込んだシリルは、今度は、町の不良仲間に引き入れられて事件を起こす羽目になってしまいます(注4)。そして、……。

 上映時間が87分と短いために、説明し切れていない部分があるものの(注5)、親に見捨てられた少年が、子供のいない女性との関係を通じて次第に立ち直っていく様子がなかなか上手く描き出されているのではないかと思いました。

 サマンサ役のセシル・ドゥ・フランスは、『ヒア アフター』でマット・デイモンの相手役として印象的でしたが、本作においても、どんな仕打ちをされてもあくまでシリルを守るという母親以上の女性を確かな演技で演じています。

 また、シリルの父親役のジェレミー・レニエは、『ロルナの祈り』や『しあわせの雨傘』(長男ローラン役)でお馴染みのところ、本作における陰のある役柄をうまく演じています。



(2)本作は、両親から見放されてしまい頼れる者がいなくなってしまった小学生くらいの幼い子供が、なんとかして頼れる者を見出そうとする映画だと思われます。
 通常の場合なら、子供にとって両親は何の理由もなしに頼れる存在ですが、それを欠くと一体誰を頼ったらいいのでしょう。昔だったら、両親の親類縁者というところながら、核家族化が進んでいる国では、そんなに簡単にはいかないでしょう。
 シリルが最初に選んだのがサマンサ。
 でも、実際にどういう人間なのか直ちにはわかりませんし、サマンサの部屋をのぞくと男性がベットで一緒に寝ていました。
 そこで、次にシリルが選んだのが、不良少年仲間のリーダーの青年ウェス



 家にまで案内され何かと面倒を見てくれ、さらには寝たきりの祖母に優しくふるまっているその姿を見て、シリルはすっかり信頼を寄せてしまいます。
 サマンサは、シリルがウェスと付き合っていることを知って、夜間シリルが家を抜け出さないように閉じ込めますが、事件の夜、ウェスとの約束の時間を守ろうと、シリルはサマンサの腕を傷つけてまで家を抜け出てしまいます。
 しかしながら、シリルはウェスからも見放されてしまいます。にもかかわらず、サマンサはしっかりと自分を受け入れてくれるのを見て、シリルは遂にサマンサに全幅の信頼を寄せるようになります。



 なお、本作のように少年が事件を引き起こしてしまう映画として、最近のものとしては、デンマーク映画『未来を生きる君たちへ』において、本作のシリルとほぼ同じくらいの年格好と推測されるクリスチャンとエリアスが、粗暴な男の車を爆破してしまうという事件を引き起こします。
 この映画にしても本作においても、少年たちが犯した犯罪行為はテロ事件であったり強盗傷害事件であったりするものの、おそらく刑事罰が適用されない年齢以下とされているためでしょうが、厳しい罰を受けることなく通常の生活を取り戻している感じです(注6)。

(3)渡まち子氏は、「育児放棄された少年と彼に関わる大人たちを描く「少年と自転車」。少年が里親と自転車で川辺を走る場面が素晴らしい」として70点をつけています。
 また、土屋好生氏は、「怒りと悲しみにうちひしがれた少年の鬱屈した内面に肉薄する。感傷を排し事実のみを積み上げるリアリズム演出で」とし、「常に子供に向き合い時に並走する親の志こそ親子関係の要諦であることが、確かな手ごたえを持って伝わってくる」と述べています。





(注1)シリルの父親は、行き先の住所も電話番号もシリルに告げずに、1ヶ月ほど前、元のアパートから姿を消してしまいます。
 彼は、失業し妻に逃げられて、その間、自分の母親にシリルの世話をしてもらっていたところ、その母親が亡くなってしまったために、シリルを施設に預けざるを得なくなった感じです。加えて、父親がレストランで職を得た近くの町では、自宅に女がいましたから、その関係でもシリルを引き取ることはできなかったのでしょう。

(注2)というところから、サマンサは、同じアパートに住んでいて、もしかしたらシリルの顔くらいは知っていたのかもしれません。
 なお、サマンサは、町で美容室を営んでいます。

(注3)劇場用パンフレットには、自分の自転車を売る張り紙がガソリンスタンドに貼ってあり、それで新しい住所がわかった、と書いてあります。
(それで、父親の自分に対する態度の一端をシリルは知るようになるというわけですが、映画では、シリルはあくまでも「自転車は盗まれたんだ」と言い張っていたように思われます)
 ただ、クマネズミの見たところでは、ガソリンスタンドに貼ってあった張り紙には、「BMB bike」とあり、それは父親が使っていたオートバイのことではないかと思いました。
 というのも、ガソリンスタンドの店員に、シリルが父親の特徴を言うとすぐに分かって、張り紙のことを教えてもらったことからすれば、父親は給油でたびたびこのガソリンスタンドを利用していたのではないかと推測されるからですが。
 それに、シリルの乗っていた自転車は売られていて、それをサマンサが買い戻したにしても、張り紙をして売るほど大した製品でもなさそうにも見えますし。
(この点は、DVDがレンタルされるようになったら確かめてみたいと思います)

(注4)不良仲間のリーダーの青年ウェスが、シリルの歓心を買うべく、パンクした自転車の修理代を持ったり、家でゲームをやらせたりします。
 その挙句、自分になびいてきたことが分かると、一方で、里親を俺に替えないかと言いつつ、他方で、自分が勤める書店の店主を襲う訓練をシリルに施します(ウェスは、町では、薬の密売人とみなされています)。
 ウェスは、あくまでも、自分は手をくださぬようにして、逃げてきたシリルが「店主の息子に顔を見られた」と告げると、金をシリルに渡して、「自分は何も知らない。すべてはお前が全部したことだ。俺の名前を出したらお前を殺す」といって立ち去ってしまいます。
 シリルは、受け取った金を父親のところに持って行って手渡そうとしますが、父親は受け取らずに、また中に引っ込んでしまいます。
 金はそこに投げ出されたまま、シリルは自転車でサマンサの家に戻ります。

(注5)たとえば、サマンサには恋人がいたのですが、あるとき、恋人から、「俺とシリルとどっちを選ぶのか」と問われ、彼女は「シリル」と答えるのですが、その背景は十分に説明されているとは言えないのでは、と思われます。

(注6)本作の場合、襲撃された当事者の一人(書店主の息子)は、謝罪に応じないとされていても、もう一人(書店主)が示談に応じたことから、シリルが直接謝罪し、サマンサが賠償金を支払うことで解決をみます。
 ただ、納得しない書店主の息子は、町でシリルを見つけると追いかけ、窮したシリルが木に上ると、下から石を投げつけ、その石に当たったシリルは落下して気絶してしまいます。その後は何事もなかったかのようにサマンサの家に自転車で戻っていきますが、何か悟るところがあったような雰囲気が漂っています。
 一方では、自分の犯した行為に対して罰を受けたんだとわかったのかもしれません。
 他方で、自分が死んだものとみなして、書店主やその息子が取り繕うとしている様を耳にして、大人の世界の実態が分かってしまったのかもしれません。




★★★★☆




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わが母の記

2012年05月17日 | 邦画(12年)
 『わが母の記』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)本作は、前回取り上げた思想劇とも言うべき『モンスタークラブ』とは対極を成すような作品で、著名な作家とその母との人間的な関係が大層古典的に描き出されます。
 観客も、前記の映画で9割近くが学生でしたが、こちらは半分以上が中年過ぎで、中には相当高齢の方も混じっていました。

 物語は、二人の姉妹の手を引いて軒下で雨宿りをする母親と、それを向かい側の軒下で雨宿りをする少年が見ているというシーンで始まります。
 服装などからすると大正年間の浜松でのことのようです。
 実は、軍医の父親が台湾に赴任したのを追って家族も台湾に移り住みますが、主人公の長男・洪作役所広司)だけは日本に残されて、曾祖父の妾のおぬいばあさんのところに預けられて育てられたのです。
 冒頭のシーンは、このこと(洪作が母親から見捨てられたこと)を象徴するものとして描かれています。

 その父親(三國連太郎)も亡くなり(注1)、遺された母親・八重樹木希林)が田舎(伊豆の湯ヶ島)で一人で暮らすことになるものの、ボケが出始め、洪作の姉達が面倒をみたり、東京の洪作の家に連れてきたりしますが、どうもうまくいきません。
 今度は、洪作の娘・琴子宮崎あおい)(注2)がお手伝いさんと一緒に軽井沢の別荘で面倒を見ることに。



 この間、母親に見捨てられたという恨みを心に抱いている洪作は、なかなか親身になれないのですが、あるとき、幼い時分に洪作が書いた詩(自身では忘れてしまっています)の書かれたしわくちゃの紙を、母親が後生大事に持っていて、それどころか暗記までしているのを知り、さらには自分が一緒に台湾に行けなかった理由をも知るに至り(注3)、それまでのわだかまりが急速に晴れていきます。
 母親の方も、ボケによる徘徊も少なくなり静かに暮らすようになって、……。

 母親・八重の子供は洪作と二人の姉達であり、また洪作の子供も3人が皆娘という具合で、映画には女性が溢れかえります。
 でもやはり中心となるのは母親・八重であり、それを演じる樹木希林の見事な演技でしょう。
 彼女は、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007年)でも死に至る母親役を演じていましたが、本作もそれに優るとも劣らない演技だと思います。

 主演の役所広司は、『キツツキと雨』における飄々とした味のある演技とはまた違って、さすが文壇の重鎮だなと思わせる重厚な演技を披露していますし、琴子を演じる宮崎あおいの華やいだ演技も印象的です。



 とりわけ興味深かったのが、『森崎書店の日々』の主役を演じた菊池亜希子が、本作で洪作の二女・紀子に扮していることでした。



(2)しかしながら、原作は、作家井上靖の自伝的な作品(映画と同タイトル)ですが(注4)、本作とでかなりの違いが見出されます(注5)。
 確かに、主人公洪作の父親との確執を暗示するシーンは、原作でも書かれているものの(注6)、映画で描かれているような母親との確執とか、それが氷解していく場面は、原作にははっきりと見当たらないように思われます。
 少なくとも、洪作の少年時代の詩を八重が口にするシーンとか、徘徊する八重を探し当てて洪作が背中に背負う沼津御用邸裏の海岸でのシーンなどの山場は(注7)、映画に見られるものの原作では見当たりません。

 原作で中心的に語られているのは、例えば、次のような事柄だと思われます。
・「その頃、私たちは母が何回も同じことを繰り返すことを、母のそのことへの執心によるものと解釈していたが、その後私たちは考え方を改めていた。何か特殊な形で母の心を刺戟したものだけがレコードの盤面に記録され、記録されたとなると、あとは機械的にそれはある期間執拗に何回でも回転し続けているのである」(P.63)。
・「人間年齢をとると次第に子供に返って行くと言われるが、私たちの眼に母はまさにそのようなものに見えた。母は七十八、九歳の頃から自分が歩いてきた人生を、少しずつ消しながら逆に歩み始めたのである」(P.77)。
・「いまの母の心を捉えているものはこの人生において愛別離苦だけになってしまっていると言えるかも知れないのである」(P.106)。
・「そうした母を動かしているものはいったい何であろうかということになるが、それを本能か、本能と言わないまでもそれに近いものとするなら、一応の解釈はつくように思われる」(P.156)。

 言ってみれば、映画では動的でドラマティックな物語が描かれているのに対して、原作では、原作者の冷静で静的な時々の観察が淡々と述べられている、といったところでしょうか。

 いうまでもありませんが、原作と映画とは別物ですから、原作に基づきながらどのような映画作品を作ろうともかまいませんし、そもそも原作そのままでは映画的な盛り上がりに欠けてしまうことでしょう。
 とはいえ、本作の場合、息子の母親との確執を映画の中で解消させて物語にまとまりをつけるべく、余りにも作り物めいたエピソードをいくつも仕立てあげてしまったきらいがないとも言えないのではないでしょうか?
 だいたい、洪作が母親を背負うシーン(沼津御用邸裏の海岸における)がありますが、なんだか例の銅像を思い起こさせて、余りいい気分はしません。



 なお、最近刊行された水村美苗氏の小説『新聞小説』(中央公論新社)は、高齢の母親とその娘たちとの確執が描かれていて、主人公の美津紀は、「そんな母の死をはっきりと願うようになったのは、父が肺炎にかかった時からであった」(同書P.185)とまで述べるのです(注8)。
 現代における老人問題を描き出すのであれば、少なくともここら辺りまでは踏まえた上でないと、単なる綺麗ごとのお話で終わってしまうのではないかと思われます。

(3)渡まち子氏は、「凄味ともいえる愛情で息子に接していた母・八重とともに、常に寄り添い夫を支える控えめな妻・美津のしたたかさ。女たちの優しさと怖さを感じさせる物語だ」として70点をつけています。


(注1)洪作は、父親が重篤との連絡を受け実家に戻った際、病床にある父親が手を差し出すので、それを握り返しました(妻にそのことを話した際に、「そしたら突き放されたんだ」と付け加えます。妻が「最後の親愛の情ですよ」と言うと、洪作は「親子といったものは、そんなに単純じゃない」と言い返します)。
 未だ大丈夫と思って仕事のため東京の自宅に戻ったら、父親の訃報が届きました。
 なお、古美術商の妹(南果歩)からは、「タバコケースをポンポン叩く仕草が父親そっくりね」などと言われてしまいます。

(注2)三女の琴子は、家族の皆が地父親の著書の検印で大わらわになっている最中に、自分の部屋に閉じこもり、カタツムリを写真撮影しているような女の子として描かれています。

(注3)家族全員が一度に死んで家が絶えてしまうことのないよう、住まう場所を分散させたのだとわかります。

(注4)以下の原作からの引用は、講談社文庫版によります。

(注5)なによりも家族の構成が、映画では八重の子供は、洪作を除いて二人とも女であり、また洪作の3人の子供もすべて女ですが、原作では、「私」は4人兄弟であってスグ下に弟がいますし、「私」の子供も男2、女1です。

(注6)上記「注1」参照。
 なお、原作において本件は、「父親が私の手をそれと感じるか感じられぬような微かな突き返し方に於て、急に近まった私との距離をふいにまたもとに戻してしまったということだけは確かであった」云々と述べられています(P.16)。

(注7)徘徊する八重を探すに当たっては、大衆食堂にいた「クールなダンプ男」(橋本じゅん)が大活躍しますが、これも映画でのお話。
 また、軽井沢で、姿を消した八重が近くの神社の本堂の軒下にうずくまっていて、それを皆が探し当てる場面も原作にはありません。

(注8)さらに、母親が死に近づいてもなかなか死なないのに業を煮やして、美津紀は、「死なない。母は死なない。家の中は綿埃だらけで、洗濯物も溜まりに溜まり、生え際に出てきた白髪をヘナで染める時間もなく、もう披露でもうろうとして生きているのに母は死なない」、「ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?」とまで思い詰めます(同P.252書)。




★★★☆☆



象のロケット:わが母の記
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モンスターズクラブ

2012年05月15日 | 邦画(12年)
 『モンスターズクラブ』を渋谷ユーロスペースで見ました。

(1)本作は、アメリカの爆弾魔“ユナボマー”を踏まえた、一種の思想劇といえる作品でしょう。

 主人公の良一瑛太)(注1)は、山の奥深いところに設けられている小屋に独り籠もりきりになり、爆弾を製造しては要人に送りつけているのです。

 その生活振りが描き出される中で、彼の考え方がナレーションで語られていきます〔その考え方は彼の日誌に綴られる一方、爆弾の送り先にも「声明文」(注2)として送りつけられます〕。
 つまり、産業テクノロジー社会に生きる我々は、自然の本能とはまったく違った行動をとるように改造されてしまっている、だから現代人は欲求不満に陥り、年間3万人を超える人間が自殺するのだ、これを解決する方法は、産業テクノロジー社会を放棄することでしか有り得ない、云々というわけです。
 こうしたものは、一時の新左翼などがよく語っていたような見解といえるでしょう。でも、余りにも大雑把な議論で(注3)、今時そんなチャチなものは通用するはずもありませんが、とにかく良一はせっせと爆弾を作り続けます。

 ところが、その山小屋に、特異な姿をした男が侵入してきます。最初は、バイクの事故で死んだはずの良一の弟のケンタKenKen)であり、次は自殺した兄のユキ窪塚洋介)(いずれも死んだ人間ですから、亡霊、あるいは良一の妄想でしょう)(注4)。
 二人は良一の行為の意味を問い(注5)、特に兄のユキは激しく彼を追い詰めます(良一が、自分の考えに疑念を抱いていることの表れでしょう)。



 例えば、「お前は、まだ皆を愛している」、「本当の自由が欲しければ、消えるしかかないんだよ、それが一番危険で美しいんだ」、「お前は下ばかり見ているが、俺たちは一番下の下、一番下から上を見ているんだ」、「下からいくら爆弾を送っても、頂上には届かない」、「しかし、上に行けば酸素は薄くなり、ピラミッドの上は地獄で、いずれ奴らは滅びる」、「お前が帰る場所はもうないんだ、こっちに来いよ」などなど。

 その後良一はどうなるでしょうか、彼の救いは妹のミカナ草刈麻有)のようですが(注6)、彼女はどうなるでしょうか、……?

 元々、爆弾を送りつけるというテロ行為がなぜ産業テクノロジー社会を放棄することにつながるのかヨク理解できませんし(注7)、また後半でその議論がはっきりと打破されているわけでもなさそうながら、こうした思想劇を描いた映画が昨今余り見られない中では(むろん、クマネズミが知らないだけのことでしょうが)、注目に値するのでは、と思いました。

 瑛太については、『僕達急行』や『一命』、『まほろ駅前多田便利軒』などでお馴染みですが、本作においても、ラストの渋谷スクランブル交差点でのシーンなど随分と印象的な演技を披露します。




(2)本作を理解しようとする際の一つの補助線として、例えば次のような図式を考えてみてはどうでしょう(注8)?

「良一の声明文 ― 漱石の『草枕』」 ⇔ 「ユキの批判 ― 宮沢賢治の『告別』(注9)」

 すなわち、上記(1)で簡単に触れた「良一の声明文」と『草枕』(良一が山小屋で読み耽っています)とは対になって、良一の爆弾製造に潜む考えを表しており、これらは、良一の考え対するユキの批判や宮沢賢治の詩『告別』(声明文と入れ替えに箱の中に入れられます)―世界から身を引き離すのではなく、世界の中に自分から降りていく―に対応するのではないか、と想定してみるわけです。
 良一の考え方とそれに対するユキの批判は上で少し触れましたので、以下では『草枕』と『告別』について簡単に見てみることにします。

イ)『草枕
 劇場用パンフレットに掲載されている「Director’s Interview」において、豊田利晃監督は、「本編で良一が夏目漱石の「草枕」を読んでいるのは、グレン・グールドがずっと読んでいたからなんです」と述べています。

 カナダのピアニスト、グレン・グールドが『草枕』にゾッコンだったことはよく知られていて、横田庄一郎著『「草枕」変奏曲』(朔北社)によれば、カナダCBSの放送で、「『草枕』が書かれたのは日露戦争のころですが、そのことは最後の場面で少し出てくるだけです。むしろ、戦争否定の気分が第一次大戦をモチーフとしたトーマスマンの『魔の山』を思い出させ、両者は相通じるものがあります。『草枕』は様々な要素を含んでいますが、とくに思索と行動、無関心と義理、西洋と東洋の価値観の対立、モダニズムのはらむ危険を扱っています。これは20世紀の小説の最高傑作のひとつだと、私は思います」と述べているようです(注10)。

 より具体的に『草枕』と本作との関連性を窺うには、最近刊行された安住恭子著『『草枕』の那美と辛亥革命』(白水社、2012.4)が参考になるでしょう(注11)。
 同書では、「『草枕』は二つの意味で闘う小説であった」とされ(同書P.118)、「一つは、ただ人情だけを描いて事足れりとしている在来の小説であり、もう一つはこの時代そのものである」と述べられています(P.115)。

 前者に関しては、漱石は「人の世がほとほと住みにくいと思った画工が、俗な浮世を離れ、「非人情」の芸術世界をめざして、とある山間の温泉へと旅する」物語を描き出すことによって(P.98)、「美を表現する小説」として『草枕』を作り上げたのだとされています(P.118)。
 ここで取り上げられる『草枕』の「画工」は、俗世間から離れて山小屋に閉じこもり、「非人情」の世界について考えを巡らす良一の姿と、ある意味でダブってくるといえるのではないでしょうか?

 また後者に関しては、さらに、「『草枕』執筆当時は、単なる拝金主義批判ではなく、資本主義がもたらす文明というものが人間をどのように追い詰めていくか、という考察にまでなっている」として、『草枕』の「最後の停車場のシーン」が引用されています(P.117)。
 特に、「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付け様とする」といったところは(注12)、例えば良一の声明文の「システムはプロパガンダを用いて、人々が与えられた決定で満足に感じるように仕向けるという解決法を試みている。それは人類への屈辱にほかならない」などといった考え方に、ある程度通じるところがあるようにも思われます。

ロ)『告別
 雑誌『映画芸術』の本年春号(第439号)掲載の瀬々敬久氏の本作に関するエッセイ「地上の修羅と中空の世界」では、宮沢賢治の「生前唯一出版された詩集「春と修羅」」のモチーフは「死からの再生」であり、そこにある「「わたくし」はテロリストの「わたくし」と非常に近い」といえるが、「「告別」が所収されている、続く「春と修羅 第二詩集」のモチーフは明らかに違」っていて、宮沢賢治は「より大地の営み、人間の具体の生活といったものに近づいている」と述べられています(同誌P.122)。
 具体的に『告別』を見てみると、例えば、「おれは四月にはもう学校には居ないのだ/恐らく暗くけわしいみちを歩くだろう」とあって、宮沢賢治が百姓になるべく花巻農学校の教師を辞めるようと決めたことが表現されています(注13)。
 こうした点は、良一が、閉じこもっていた山小屋を立ち去って渋谷の雑踏の中に入り込む姿に対応しているのではないかとも考えられるところです。

 とはいえ、余り杓子定規にこの図式を当て嵌めるわけにもいかないようにも思われます。
 『草枕』ではラストで、『魔の山』のラストに類似して(注14)、満州に出征する久一(ヒロイン那美の従兄弟)の姿が描き出され、決して「非人情」の世界に閉じこもりきりではないのであり、また『告別』も、「すべての才や力や材というものは/ひとにとどまるものでない/ひとさえひとにとどまらぬ」などとあって社会批判的な要素も織り込まれているのです(注15)。

(3) このほか、本作の様々の場面は様々に解釈できるでしょう。
 例えば、ラスト近くになって、良一は、自分の顔にチーズを塗りたくって兄ユキや弟ケンタと同様の外見となります。
 さらに、爆弾をリュックに入れて山小屋を後にしようとしますが、外では警察が待ち構えています(注16)。
 警察の面々は、チーズを塗りたくってお化けのような良一の顔を見てギョッとしてしまい、その隙をついて良一は逃げ出してしまいます。
 ですが、常識的には、5,6人もの警察の人間が、雪山を逃げる一人の男を取り逃がすはずなどあり得ないでしょう(元々、爆弾犯容疑者を捕えようとしたら、機動隊が出動するのではないでしょうか?)。
 というところから、警察の人間を見た瞬間に良一は爆弾を爆発させてしまい、その場面以降は、幽霊となった良一の思いが描かれている、と解釈してはどうかなと思ったりしました(あるいは、その場で警察に取り押さえられ、その場面以降は、捕まった良一の妄想とみることもできるかもしれません)。




(注1)長男でもないのに「一」が付くのはと思い、これは良一が爆弾の入った小包の送り主名として記載する「鈴木一郎」の名前を逆にしたものなのかなとも勘ぐりましたが、このサイトを見るまでもなく、「一」が付いたら長男というわけでもないでしょう。

(注2)声明文全体は、劇場用パンフレットに掲載されています。

(注3)例えば、声明文の冒頭は、「現代社会に生きる人間は 規則や規定のひもで縛られており 自分とはまったく関係のない人物によって運命を左右されてしまう」とありますが、そんな大雑把な物言いなら、「現代社会に生きる人間」にかぎらず、どんな人間社会にも当てはまってしまうのではないでしょうか(例えば、「出世街道をまっしぐらに進というゲームを 飽きもせず続けて一生を過ごす人々」など、いつの世にも掃いて捨てるほど見出せるのでは?)?
 現代の産業テクノロジー社会を「放棄」しなければならないとするなら、それが、例えば“中世社会”とは違って、人間のあり方のどの点についてどんな深刻な問題を引き起こしているのかを、モット詳細に議論する必要があるのではないでしょうか?

(注4)良一の家族は、父親(國村隼)の死んだあとをついだ兄ユキが自殺し、母親(松田美由紀)も癌で、弟ケンタがバイク事故で死んで、残っているのは良一と妹のミカナの2人きりとなっています。

(注5)弟のケンタは、「兄貴はいつだってそうだ。奪い返さないで、すぐに諦める」などと良一を批判します。



(注6)妹のミカナも山小屋に現れますが、良一はいい顔をしません。それでも、「大学の学費ぐらい何とかするから大学に入れ」と良一が言う、ミカナは「進学止めて働こうかな」と逆らいます。これに対して、良一が「親父の金があるのだから奴隷になるのを急ぐことはない」と批判すると、ミカナは「働いて家族を作りたいの」、「奴隷だと思ったら死ねばいいんじゃない」などと反論するので、良一は怒って「とっとと帰れ」とミカナを追い出します。



(注7)劇場用パンフレットに掲載のジャーナリスト・大野和基氏のエッセイ「ユナボマーの思想」には、“ユナボマー”に関してながら、爆弾を使った理由として、「最終的に自分の考えができるだけあまねく世間に知られるという目的を達成するためのもっとも早道だと判断したから」と述べられています。
 でも、そうしなくては知られないような考え方など無価値なものと言うべきでしょう(同氏は、「インターネットの発達は社会を非常に便利にしたかもしれないが、その分思考力や記憶力の低下につながっていることも否めない」などとして、「彼の主張は否定できない」と言っていますが、そんな議論は、大昔、漫画についてよく言われたことでしかありません!)。
 それに、大野氏によれば、“ユナボマー”が自分の「マニュフェストを大手の新聞社に送りつけ、それを掲載したら爆弾キャンペーンをやめると意思表示した」とのことですが、それって、自分が否定する「産業社会」を丸ごと前提にした話ではないでしょうか?

(注8)劇場用パンフレットに掲載されている岡村民夫氏のエッセイ「「草枕」から「告別」へいたる険しい道」が参考になりました。

(注9)宮沢賢治の詩集『春と修羅・第2集』に収録。
 その解釈としては、例えばこのサイトこのサイトがあります。

(注10)松岡正剛氏は、その「千夜千冊」の第980夜で、「横田さんは、50年間のグールドの前半生は『魔の山』に擬せられ、後半生は『草枕』に擬せられるのではないかと書いている」云々と取り上げているところです。
 ちなみに、松岡氏が当夜取り上げているのは、『グレン・グールド著作集(1・2)』。

(注11)同書は、漱石『草枕』のヒロイン那美のモデルとされる前田卓の波乱に富んだ生涯を描いています。

(注12)新潮文庫版『草枕』P.175。

(注13)『告別』には、「みんなが街で暮らしたり/一日あそんでいるときに/おまえはひとりであの石原の草を刈る」とあって、この詩が直接向けられている「おまえ」〔宮沢賢治の教え子である高橋武治(のちに清里武治)とされています〕に託して、宮沢賢治自身が立ち向かう先(開拓地)のことも書かれているようです。

 なお、本作ではこの詩は、良一が、喫茶店で働く妹のミナカに電話している際にナレーションで入ってきますから、直接的には、大学に行かないで社会に出てしまったミナカに対する「告別」の挨拶の意味合いを持っているようにも思われます。

(注14)『魔の山』の主人公のハンス・カストルプは、折から第1次世界大戦が勃発したために、山の上のサナトリウムを去って戦場へと向かいます。

(注15)「すべての才や力や材というものは/ひとにとどまるものでない」のが「生活のためにけづられたり」することによる部分もあるのであれば。

(注16)その後の展開の中では、妹のミカナが警察に通報したとされています(劇場用パンフレットに掲載されている「Director’s Interview」によれば、“ユナボマー”が弟の通報で逮捕されたのを踏まえているとのこと)。




★★★☆☆



象のロケット:モンスターズクラブ
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別離

2012年05月06日 | 洋画(12年)
 『別離』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)イラン映画で、昨年見て印象深かった『彼女が消えた浜辺』のアスガー・ファルハディ監督の作品であり、さらに様々の国際映画祭で受賞しているとのことでもあり、期待して見に行ってきましたが、マズマズの仕上がりではないかと思いました。

 冒頭から、裁判所における離婚調停の場面です。



 英語教師である妻シミンレイラ・ハタミ)は、前から請求していた海外移住の許可が下りたので外国へ出ようと言い出したところ、銀行で働く夫ナデルペイマン・モアディ)は、アルツハイマーを患っている父親を残してそんなことはできないと言い、さらに妻の方は、娘テルメーサリナ・ファルハディ)の将来を考えて海外移住を強く望むのですが、夫は娘を手放すことにも同意しません。それで、離婚調停というわけでしょう。
 でも、ことはそんなに簡単に進みませんし、娘も、なぜか夫のもとから動こうとはしないので(注1)、妻はとりあえず実家に戻ってしまいます。



 そこで、夫は、父親の介護のために家政婦ラジエーサレー・バャト)を雇うものの上手くいかず、ある時、怒って彼女をアパートの入り口から外へ追い出してしまいます(注2)。



 すると、その時突き飛ばされたがために階段を転げ落ちて流産してしまったと、家政婦の夫ホッジャトシャハブ・ホセイニ)から訴えられてしまいます。それも、胎児に対する殺人罪ということで(注3)。



 そんなことになったら大変です。夫ナデルも妻シミンもなんとか罪にならないよう奮闘するのですが、さてその結果は、……?

 前作『彼女が消えた浜辺』がミステリー的な要素を持っていたのと同様に、本作でも、家政婦ラジエーは本当にナデルによって流産したのだろうかということを巡っての謎の究明が見る者を引っ張ります(注4)。
 本作ではさらに、イランの人たちの暮らしがじっくりと描かれていて、興味深いものがあります。それも、家政婦を雇える中流層(ナデル達が住むアパートに備わっている電器製品とか家具調度品などは、日本とそれほど変わりがないように見えます)と、その家政婦を供給する貧困層(住まいもテヘランの周辺部にあって、ラジエーは、バスなどを利用して1時間半以上もかけてやってきます)の生活振りが対比的に描かれています。

 こう見てくると、本作では、色々なものが対になって描かれていることが分かります。
 まずは、ナデル達の中流層(核家族化が進展しています)とホッジャト達の貧困層(一族がそばで生活しています)。
 それに、
・銀行に勤めるナデルと失業中のホッジャト(ナデルは冷静沈着、ホッジャトは感情的)。
・英語教師であるシミンと家政婦のラジエー(海外に憧れるシミンと、敬虔なイスラム教徒のラジエー)。
・11歳のテルメーとラジエーの幼い子供ソマイェ(幼いながらも大人の行動をよく見ているテルメーと、悪戯盛りのソマイェ)。

 なお、前作でもゴルシフテェ・ファラハニーとかタラネ・アリシュスティなどに強い印象を受けましたが、本作でも主役のシミンを演じるレイラ・ハタミなど、出演している女性が皆凄く魅力的なことにも驚かされます。




(2)本作については、イランの法律等の事情について知らないためでしょう、クマネズミにはよく分からないことが散見されます。
 例えば、本作の出発点は、裁判所における離婚調停のように思われるところ、その内容は実際のところよく分かりません。

 どうやら、以前は夫ナデルの方も海外移住に賛成していたらしいのですが(許可申請は家族単位で行なうのではないでしょうか)、彼の父親がアルツハイマーに罹ったために(注5)、独りで置いてはいけないと反対し出したようなのです(注6)。

 ただ、こうした状況の変化に対して、妻シミンの態度が分かりません。アルツハイマーの義父をどうしようというのでしょうか?
 確かに、最早顔の判別が出来ない義父をいくら世話をしても甲斐がないかもしれず、シミンとしては、義父を医療施設に預けた上で自分たちは移住すればいいのだと考えているのでしょうか(彼らはそれぞれ仕事を持っていますから、そのまま残っていても大した世話ができるわけではないでしょうから)。
 でも、病気の父親を残して海外に行けないと夫が反対するのは、長年夫婦生活を営んで来たのであれば、妻はその気持ちを十分に理解出来るのではないかと思われます(結局は医療施設に入れるにせよ、そのまま放置する家族など通常では考えられないでしょうし)。
 もしかしたら、ナデルは、妻シミンがその仕事を辞めて、家で父の面倒を見てくれることを望んでいるのかもしれません。にもかかわらず、ようやっと移住許可が下りたのだから海外に出ようと妻シミンが強く主張することから、二人の間がぎくしゃくし出したのではと思われます。

 とにかくそれで離婚の話が持ち上がり、離婚自体はナデルは受け入れるものの、娘の親権を手放そうとはしないことから、シミンが裁判所に離婚調停を申し入れたのではと考えられます。
 しかしながら、この場合、相手のナデルは、自分の方に何らの落ち度がないにもかかわらず離婚に応じてもかまわないと寛容な態度をとっているのに、さらに子供の親権まで請求することなど出来るのでしょうか?
 ナデルは、子供の勉強を見たりして子煩悩であり、加えてシミンは、移住先での所得確保について現時点では何らの見込みも立ってはいないはずですから、それに子供の教育は海外で行う必要があるといった主張が認められるはずもありませんから、ナデルが子供の面倒を見ると強く主張すればそれでオシマイではないかと思われます。
 仮にそれでオシマイにならないとしても、ナデルが離婚自体を認めなければ、シミンは今度は裁判で離婚を認めてくれるよう申請するかもしれませんが、到底そんな請求は受理されないでしょう(注7)。
 でも、本作では、最後に、この離婚調停担当の裁判官の判断は、11歳とされるテルメーがどちらの親を選択するかに依存するかのような描き方がされています(注8)。

 こんなことから、全体としてどうもよく分からない感じが残ってしまいます。

(3)渡まち子氏は、「必死に生きようとすればするほど、他の誰かを傷つけてしまうのは、もはや業(ごう)というしかないが、それぞれの心の痛みが分かるがゆえに、私たち観客は この上質でスリリングな人間ドラマから、一瞬も目が離せない。アスガー・ファルハディ監督は、前作「彼女が消えた浜辺」でも現代社会の病巣をミステリアス に描いたが、本作ではより洗練され鋭さを増している」として90点を付けています。

 なお、本作については、前作の『彼女が消えた浜辺』と同様、沢木耕太郎氏が朝日新聞(4月27日夕刊)に論評を掲載しています。ただ、「この「別離」という映画には、イラン、あるいはイスラムという固有なものから入って、不変に達する回路が見事に用意されているのだ」と述べていることから分かるように、前作について「この作品で、ついに「イラン」というレッテルなしの、「普通」の映画に触れることができたように思える」と述べているのと同じ姿勢が窺えるところです。




(注1)娘のテルメーは、母親の元に行けばすぐに離婚となって、父親と別れて海外移住する羽目になるものの、父親の元にいる限り、母親は海外移住しないでしょうから、しばらくしたら元の家族に戻るのでは、と考えているのでしょう。

(注2)ある時、ナデルが勤務先から戻ると、いるはずの家政婦がおらず、父親がベッドに手を括りつけられたまま倒れているのを発見します。そのため、ナデルは、戻ってきた家政婦を家の中に入れずに外に追い出してしまうのです。

(注3)劇場用パンフレットに掲載されている貫井万里氏(早稲田大学イスラーム研究機構研究助手)のエッセイ「イラン映画の中の北と南」によれば、「イスラーム法では、胎児は受精後120日目以降人間と見なされる」とのこと。ラジエーは妊娠19週目ということで、殺人罪が適用される可能性があります。

(注4)この際争点となるのは、ナデルが、ラジエーが妊娠していることを知りながら彼女を突いたのかどうかと、さらには、仮に知っていたとしても、ナデルが突いたくらいでラジエーは階段を転げ落ちるかどうかという点です。

(注5)アルツハイマーというのは、突然に発症するものなのでしょうか?次第に病状が進展していくのが普通ではないでしょうか?でも、本作では、突然、そういう事態が父親に訪れたかのように見えます(Wikipediaでは「徐々に進行する点が特徴的」とされ、「国外移住すべく、1年半奔走して許可を取った」というのであれば、その間に誰かが気がついたはずではないでしょうか)。

(注6)仮に家族で申請している場合(夫婦が個々に申請することは余り考えられないのですが)、夫が反対したら妻だけ海外移住出来るのでしょうか?

(注7)上記「注3」の貫井氏のエッセイによれば、「女性から離婚を請求する権利は、夫が性的不能か精神異常のばあいなど著しく制限されていた」ところ、「現在では、夫のDVや麻薬中毒、夫が扶養の義務を果たしていない場合には、女性から離婚を家庭裁判所に申し立てできるようになった」そうです。
 本作のケースは、言うまでもなくこれらのいずれにも該当しないでしょう。

(注8)本作ではテルメーの選択結果は示されませんが、その表情からすると、もしかしたら「お爺さん」と言ったのかも知れないな、と突拍子もないことを考えました。





★★★☆☆




象のロケット:別離
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SRサイタマノラッパー3

2012年05月02日 | 邦画(12年)
 『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』を渋谷シネクイントで見てきました。

(1)これまで、最初の『SR サイタマノラッパー』(DVDで)及び『SR サイタマノラッパー2 ~女子ラッパー☆傷だらけのライム』を見て愉しんだので、この作品も是非と思っていました。
 ただ、遅い7時半からの上映しかないということでちょっと躊躇っていたところ、土曜日からはもっと遅いレイトショーになってしまうため、慌てて先週木曜日に見に行きました。
 この2週間は、映画館は入江悠監督特集となっていて、これまでの2作品なども合わせて上映されていたり、渋谷駅や映画館前では、出演者などが呼び込みをかけていたりして、大変な盛り上がりとなっています。
 あるいは、上映終了後にトークショーが開催されるせいもあるかもしれませんが、実際にも、映画館は大変な盛況で、ほぼ満席でした。
 クマネズミが見た日は、マルチタレントのいとうせいこう氏と入江監督によるトークショーが行われ(下記(3)をも参照)、さらに、映画に登場するラップグループ「極悪鳥」のメンバーが会場に乱入し、果てはライブハウス然にラップが歌われて会場は大いに盛り上がりました。

 さて、物語の舞台は、第1作が埼玉県、第2作が群馬県で、この第3作目は栃木県。
 そして、主人公は、第1作で、埼玉深谷市(映画では福谷市)を本拠とするラッパーグループ“SHO-GUNG”を脱退して東京に修行に出たマイティ奥野瑛太)。
 彼は、音楽を本格的にやろうとして東京に出たものの、ラップグループ“極悪鳥”の使い走りを2年もやっていながら、まだステージに立てないでいます。
 同棲している女の子(一美)にも、いつになったらライブステージを見させてくれるのとなじられる始末。

 そうしたところ、「MCバトル」の企画があり、そこで決勝戦に出れたらステージに立たせてやるとの約束を“極悪鳥”のメンバーから取り付け、実際に勝ち進んでサア次は決勝戦というところで、メンバーのMC林道北村昭博)から電話が入り、事情があるから決勝では負けろと言われてしまいます(注1)。
 釈然としないながらも、決勝戦まで進んだからステージに立てると思っていたら、お前など仲間ですらないなどとMC林道に言われてしまい(注2)、切れたマイティは彼をメチャクチャに殴って逃亡することに。



 一美を連れて逃げた先が栃木県のどこかにある車修理工場。
 マイティは、少年ギャングを従えていますが、修理工場の等々力に押さえ込まれ、さらには産廃業者の紀夫にも牛耳られています。
 そして、彼らの音頭で、公民館裏の空き地で、大きなライブイベントをやる話が持ち上がり、マイティも協力させられます。
 ただ、ライブイベントといっても、出演者から20分の出演料5万円を巻き上げるぼったくりイベントなのです。そうともしらず、そのオーディションを受けにイック駒木根隆介)とトム水澤紳吾)がやってきます(注3)。



 二人は、オーディションで出会った栃木のラップグループ「征夷大将軍」と意気投合し、イベントには「征夷大SHO-GUNG」として一緒に出演します。

 さらに、このイベントTOCHIGI祭には、紀夫のオファーで「極悪鳥」も出演するために会場に向かっています。
 マイティは、イックとトムに上手く出会えるのでしょうか、「極悪鳥」と遭遇してしまわないでしょうか、……?

 本作は、主人公のマイティが何をやっても思う通りにならずにどんどん底なし沼に引きずり込まれていくシビアなストーリーの中で、最初から最後まで本格的なラップが溢れかえっており、全2作にも増して感動的な作品だと思いました。

 本作は、北関東三部作完結編ということで、あるいは「SRサイタマノラッパー」はこれで終了してしまうかもしれませんが、別の装いでもかまいませんから南関東編(埼玉→茨城→千葉)が望まれるところです。

(2)これまでの作品と簡単に比べてみると、第1作は、埼玉県福谷市(実は深谷市)の男子ばかりのヒップホップグループ「SHO-GUNG」の話であり、第2作も群馬の女子ばかりのグループ「B-hack」を巡るストーリーですから、マイティ独りに焦点を充てている第3作とそれらとはとは、だいぶ感じが違っているようにも見えます。

 ですが、第1作の冒頭の「SHO-GUNG」のメンバーによるラップ、第2作の駒瀬川の河原におけるラップ合戦に対応して、第3作でも、冒頭すぐに「極悪鳥」による激しいラップのシーンが設けられています。
 また、第1作では「SHO-GUNG」が、第2作においては「B-hack」が解散してしまいますが、第3作では、2年間も「極悪鳥」で見習い修行をしながらも、マイティはMC林道を殴って逃げ出さざるを得なくなり、そのステージに立てませんでした。
 さらに、第1作のラストでは、イックがトムに対して、「♪バイト レジ 打っているが 夢は捨てねえぞ」云々と歌いますし、第2作のラストでは、アユムが「♪あたしはラップが好き …… いつかまた動き出す……あたしは歌う! 明日は今日よりも輝く」と締めます。
 そして第3作でも、マイティはラストで、「♪いつも悪戦苦闘だが またやり直せばいい …… 見ろやってんぞ! 諦めだけはNG 現在 進行形 見とけ 俺のING!!」とラップで歌います。

 以上のように、本作は、関係する人の数が圧倒的に増え、また激しいアクションが伴ったりして物語性が増しているものの、重要な3つの山場で、やはり全2作と同じように構成されているのではと考えられます。

 前2作と比べての問題点を挙げるとしたら、女性の描き方でしょうか?女子ラッパーグループ「B-hack」を描いている第2作はいうまでもなく、第1作の千夏(イックらと同じ高校の同級生)と比べても、本作の一美の存在感はかなり弱いような印象を受けます。
 千夏の場合は、AV女優を辞めて地元に戻ってきたものの、その冷たい目に耐えきれず再び東京に行くのですが、その姿はイックと出会っても毅然としています。ですが、一美の場合、同棲相手のマイティやスナックママ(美保純)の言いなりになって動いていて(注4)、自分の意志を強く持たない女としか思えないのです。



 また、産廃業者・紀夫のところにあるうす汚い小屋には10名ほどの人間が閉じ込められていますが、紀夫によれば、「家出した者、借金が返せなくなった者などを買ったのであり、海外に売ったって何したって自由」とのこと。
 いわば現代版奴隷でしょうが、これを単なるエピソードとして本作に挿入する意味は何処のあるのか、やや疑問に思えます(彼らは前後のストーリーに何も係わらないわけで、取り上げるのであればきちんとした視点に立つべきではないかと思われます)。

 といっても、それらのことは、圧倒的なラップの力で消し飛んでしまい、残るのは素晴らしい映画を見たなと言う感動だけなのですが。

(3)まだ映画評論家諸氏による論評は余り見かけませんが、
イ)いとうせいこう氏は、4月26日のtwitterにおいて、「サイタマノラッパー3のアフタートークを入江監督と。近松の「大経師昔暦」の話をしようと思ってたら、入江君の方からそれを原作にした溝口の「近松物語」の話が先に出て驚く」、「「近松物語のラストでは処刑される男女が幸せそうなんです。マイティはどう見えましたか?」と入江監督に聞かれて気づいたのだが、カットのない長回しの中にいる主人公たちは絶対的時間に封じこめられ、道行のように“二人の永遠”を獲得する可能性がある」と述べています。
 確かにそんな可能性はうかがわれるものの、一美がマイティの刑務所に面会に来たところ、イックとトムの面会に妨げられてしまいますし、マイティは自分一人でやっていくと歌うのですから(♪お前らの助けはノーセンキュー!)、男と女が心中に至る「道行」のイメージとはなんだかそぐわない感じがしてしまいます。

ロ)「宇多丸」氏は、本年4月28日にオンエアされたTBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」(21:30-24:30)において、これまでの2作には3つの問題点があったとして、
・日本ラップで普通に盛り上がっている現場(クラブでのライブとかMCバトル)を回避してきたこと(これは、SRシリーズが戦略的にとってきた方法だろうが)。
・音楽映画として欠陥があること(ラップとビートがずれている)。
・現実の実力のあるラッパーをフィーチャーしている『サウダーヂ』が既に存在していること。
を挙げつつ、しかしながら、本作は、入江監督からの倍々返しの回答といえる素晴らしい出来栄えであり、特に、冒頭の「極悪鳥」のライブシーンは、前2作には見られなかった本格的なものだし、MCバトルのシーンも、マイティが2年間頑張っていたことがヨクわかる出来栄えで、その決勝戦進出にリアリティが感じられる、などと述べています(注5)。





(注1)決勝戦でのマイティの相手が、“極悪鳥”の今度のライブでジョイントを組むラップグループのメンバーであり、かつ金持ちだからという理由で。

(注2)楽屋に、決勝戦でマイティーと争った男が入ってきて、マイティーを見て、「こいつ、“極悪鳥”のメンバー?」と聞くと、MC林道は、「いやいや、そんなわけないだろ、俺らのファンだといって付いてきているだけ」などと答えます(MCバトル出場に際して、MC林道は、「出るなら絶対に優勝しろよ、おまえも一応メンバーだから」とマイティに言っていたにもかかわらず)。

(注3)イックとトムが国道沿いを歩いている姿は、第2作の冒頭の場面(イックとトムが、「伝説のタケダ先輩」がライブを繰り広げた聖地を探しに、地図だけを頼りに群馬にやってくる)に通じるものがあります。

(注4)一美は、スナックママから客を紹介されると、嫌々ながらも客をとってしまい、それに気づいたマイティは、スナックに乗り込んでスナックママを怒鳴りつけますが、相手から「食わせてもらっているくせに偉そうなこと言うんじゃないよ」と反撃されると、ブチ切れて灰皿で殴りつけてしまいます。
 なお、この件で、マイティは傷害罪で刑務所行きになってしまいます。

(注5)あわせて宇多丸氏は、二つのクライマックスについて、一つ目のTOCHIGI祭でのラップは、物語の展開をストップさせない長回しのシーンとなっているし、二つ目の刑務所の面会室のシーンは、面会にきたイックとトムが、マイティが言うことをすべてラップで答えていくうちに、マイティからラップが生まれる瞬間を描いている(さらにそこでは、3部作の完結編として、第1作のラップが取り込まれている)、などと絶賛しています
 ただ、宇多丸氏は、本作の問題点として、MCバトルの決勝戦でマイティは負けろとの指示をMC林道から受けますが、それは現実には有り得ないこと(決勝戦までのマイティのパフォーマンスを見れば、決勝戦での負け方にたいし観客は大きな疑念を持つはずだから)とか、主人公が次の行動に移る際に、周りの人物が一瞬間待ってあげてしまっている感じがすること、などを挙げています。
 なお、入江悠責任編集『SRサイタマノラッパー ―日常は終わった。それでも物語は続く―』(角川メディアハウス)に掲載されている宇多丸氏のエッセイ「「劇映画とヒップホップ」考」は、「8Mile」「ハッスル&フロウ」「サウダーヂ」と「SRサイタマノラッパー」を比較して考察しています。




★★★★☆



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