映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

CASSHERN

2009年07月29日 | DVD
 5月17日のTBSTV「情熱大陸」にて映画監督・紀里谷和明氏が取り上げられたので、早速録画して時間があったら見てみようと思っていましたが、ついついそのままになっていたところ、意を決して最近になって見てみました。

 この番組自体が、今度の「Goemon」の一つのPVなのでしょう。監督が、中学2年生の時に単身渡米して、あとはがむしゃらに自分を信じて生きてきた人物であるかの様に描き出されています(「和」の精神から最も遠いところにいる人物でしょうか)。
 ただ、実際にも、写真家、PV制作者としてかなりの実績を残してきたことは間違いないようです。にもかかわらず、日本ではこうした「独学」の人(独りよがりの人)を正統的ではないとして酷く嫌ってしまうのでしょう(なにしろ、下積みの苦労を何もしていない人ですから!)。

 そこで、評論家達に酷評された前作の「CASSHERN」もDVDで見ることにしました(実際には興業成績は良好で、制作費が6億円のところ、興行収入は15億円とのこと!←「Goemon」は15億円)。

 確かにこの映画も、「Goemon」と同様、平和、平和とうるさいくらい登場人物に言わせていながら、実際の画面では戦闘場面ばかりというイヤらしいところがあります(ハリウッド的にメッセージ性を強調したいがためなのでしょうが)。
 特に、大亜細亜連邦共和国とヨーロッパ連合の両陣営による長く続いた戦争という古色蒼然とした設定に、大亜細亜連邦共和国内の反乱と、さらには新造人間との争いまで加わるのですから!
 ただ、時代劇の「Goemon」と違い近未来SFということで、CG画像をたくさん取り入れてもマッタク違和感がありません。
 また、上記の「インスタント沼」など本当にアチコチの映画にヨク出演している麻生久美子が、この映画でもヒロインを演じている点も興味深いものがあります。

 そんなことはともかく、「Goemon」について、あるブログは、「全体にフォーカスの緩んだ、ぼけたような映像で、赤一色かと思えば濃い灰色の世界に変わったりはするが、いずれも色彩の変化に乏しいイメージの連続である」云々とし、「これは意図的なものなのか、あるいはVFX技術が未熟で、このような画面しか作れなかったのか。いずれにしても、特撮大国日本の名は、遥か昔の伝説に過ぎなくなってしまった」と批判しています。
 また、粉川哲夫氏も「Goemon」について、「VFXとしての質がそれほど高くないので、その質にあわせてナマの映像の質を落としている。画面が全体に暗く、レゾルーションが粗いのも、そのためだ」云々とかなり否定的です。

 ただ、こうしたVFXは、前作の「CASSHERN」とマッタク同様で、制作費が低いせいによるところもあるでしょうが、専ら監督の意図するところではないかと考えられます。
 それに、「色彩の変化に乏しいイメージの連続」等といった点は、「ブレード・ランナー」などのSF映画の伝統にも繋がるのではないかと思われます。

 いずれにせよ、「Goemon」については、前田有一氏の「監督独特のビジュアルセンスはそのままに、退屈しらずのアクション時代劇として成立しているアクションシーンは、これが実写映画だったことを忘れるほどのクォリティだ」とする批評が当たっているのでは、と思っているところです(尤も、前田氏は、「キャシャーン時の批判を研究したか、ある種のまとまりの良さが見受けられる点」が残念だとして60点しか与えていませんが!)。

闇の子供たち

2009年07月26日 | DVD
 映画「闇の子供たち」のDVDを見ました。

 映画で取り上げられる題材がセンセーショナル過ぎるのではと思えて劇場には行かなかったのですが、これまでタイを舞台とする映画をいくつか見たこともあって、こうした映画も見ておく必要があるのではと思い、TSUTAYAから借りてきました。

 予想したように、タイにおける幼児買春、臓器売買など目を背けたくなるようなシーンが頻出します。闇の組織の人間が、エイズに罹った幼児を生きたままゴミ袋に入れて捨て、ゴミ収集車がそれをゴミ処理場に運ぶなど、とても信じられないことです。

 この映画は、そうしたことを背景に、日本から派遣されている新聞記者(江口洋介)とかカメラマン(妻夫木聡)、あるいは現地のNPOに加わるためにやってきた若い女性(宮崎あおい)などの活躍を描きます。

 ただ、実にいろいろな事柄を1本の映画の中に押し込もうとしたために、焦点がかなりボケてしまい、話題性はあるものの映画のドラマとしての出来はあまり評価できないところです。

 たとえば、最後の方で、幼児買春撲滅を謳うNPOを潰すために闇の組織からスパイとして送り込まれた男が、NPOの集会を混乱させるために突然発砲して、監視に来ていた警察と銃撃戦になりますが、なぜわざわざそんな過激な手段に訴えるのか、そしてその結果がどうなったのか、映画からはよくわかりません。

 そのあとで、なぜか闇の組織が警察によって摘発されて、囚われていた子供たちが解放されますが、その経緯は何も説明されません(そんなことが簡単にできないからこそ、この映画では、江口洋介の新聞記者たちは、事実を報道することに力点を置くのだと言っています)。

 また、江口洋介はラストで自殺しますが、その理由は、彼自身が幼児性愛者だったからと仄めかされても(カーテンで隠れされた壁に、多数の幼児を殺害した幼児性愛者の記事がいくつも貼り付けられています)、彼のそれまでの生き方が映画では何も描き出されてはいませんから、単なるエピソードとしか受け止められません。

 さらに、妻夫木聡のカメラマンは冒頭に現れるために、これから彼が活躍するのかなと思っていたら、そのあと1時間20分近くは全然登場せず、やっと後半3分の1くらいに出てくるものの江口洋介の手足となって動くだけの役回りなので、いささか驚きました。

 宮崎あおいのボランティアも、幼児売春を行っている店の前に停められている車で店の人たちの動きを見張っていたら、いくらなんでも闇の組織の人間にすぐに見つかってしまうのでは、と思ってしまいます。

 要すれば、描き出された問題があまりにも深刻なために、それを背景に人間のドラマを描こうとしながらも、結局はその問題に飲み込まれてしまっただけではないのか、という感想を持ちました。

それでも恋するバルセロナ

2009年07月20日 | 洋画(09年)
 『それでも恋するバルセロナ』を渋谷のル・シネマで見ました。

 予告編からするとたわいのない映画ではと躊躇したものの、ウッディ・アレン監督の作品は出来るだけ逃さないようにしているので、今回も出かけてきました。

 実際のところは、現地の画家(ハビエル・バルテム)が、「うまいものを食い、おいしいワインを飲んで、それからセックスを」などとイトモあっけらかんにアメリカから来た二人の女性(スカーレット・ヨハンセン、レベッカ・ホール)を誘う辺りから、この映画はチョット変わっているなと思えてきて、前半は全然姿が見えなかった画家の元妻(ペネロペ・クルス)が、登場するやいなやすさまじい演技をしだすと、これはコメディー・タッチのファンタジーではと理解でき(舞台をいつものNYからスペインに移して、ファンタジー性を強めたのでしょう)、総じて随分とリラックスして楽しめました。
 まあ、「情熱」と「観光」の国スペインというごく定型的に設定された舞台で演じられる美女3人を巡るおちゃらけたお話、といった映画といえるでしょう。

 ですから、この映画について、「人を愛し、人を傷つけ、そして求めていたものと違う結果に自分もまた傷つく。そんな恋愛遍歴を重ねる女たちを通じて、男と女、女と女、さらに結婚とは何かを問う」などと言われると(福本次郎氏)、それほどのご大層な映画なのかしらと思えてきます。

 そうした観点から見れば、福本氏の言うように、「そこには共感できる要素は何もな」いかもしれません。ですが、まずはこの映画の会話に笑ってしまうことが必要なのではないのかと思いました(とはいえ、こちらは、会話の細部が分からないために十分には笑えませんでしたが!)。それを踏まえた上で、ガウディの教会(サグラダ・ファミリア)とかグエル公園などといったバルセロナの風景を楽しめば良いのでしょう!

 ですが、そんなことよりなにより、この映画はとにかく音楽なのです!!
なんといっても、スパニッシュ・ギターの調べが全篇に流れているのですから! 映画評の中には、「全編フラメンコ・ギターの音色が情熱的に躍る」などと言っているものもありますが、BGMのうち3曲ほどはクラシックギターの曲なのです。

 とりわけ、重要なシーンに流れるアルベニスの「グラナダ」は、ワーグナーのライトモチーフの役割を果たしているような感じです(映画で流れる演奏は、フラメンコ奏者によるものか、やや荒っぽく、もう少し繊細な感じを出すべきではないのかと思いましたが。と言っても、この曲は難曲で、とても手が出ません)。
 また、時折「聖母の御子」が流れます。この曲は一般にカタロニア民謡とされていますが、リョベートがギター曲にしたもので、以前私も練習したことのある名曲です(左手の押さえにくいところがあって、私にとってうまく演奏するのはなかなか難しい曲です)。

 これらの曲が流れる上に、美人女優が何人も画面に登場するのですから、私にとってこの映画は堪えられず、とにかく◎といえます!

平岡正明

2009年07月19日 | 
 評論家の平岡正明氏が、先月9日に68歳で亡くなりました。  

 ジャズ評論から出発しながらも、歌謡曲・浪曲・新内~落語~映画などなど実に幅広い分野にわたり、鋭利な評論活動を展開してきました。  

 読書の達人・松岡正剛氏は、彼について、「何の主題を書いても読者をスウィングさせられる」「秘芸の持ち主」だと喝破しているところ(『千夜千冊』の第771夜)、むしろ何を書いても“革命の精神”に裏打ちされていると言えるかもしれません。

 例えば、29歳で出版した『地獄系』(芳賀書店、1970)には、「革命家の資質をひとことでのべれば、ひとたび自分の興味をとらまえた主題について、だれがするよりも徹底的に考察することだ」などと、自身を「革命家」と捉まえています。  

 そうして、生前最後の著書の『昭和マンガ家伝説』〔平凡社新書、2009.3;〕の中では、長編漫画『虹色のトロツキー』(安彦良和著:中公文庫コミック)を取り上げています。  この漫画は、ロシア革命の立役者の一人であるトロツキーを満州に招聘する謀略「トロツキー計画」を軸に、日蒙混血の青年ウムボルトを主人公として描いているところ、平岡氏は、トロツキーの「永久革命論と石原莞爾の最終戦争論を比較することを俺はやったのだが、両者が満州で交叉するという想像力はなかった」、「まことに複雑、雄大な構図の巨編漫画」であり、「奔放な妄想による世界革命論ではないか」と絶賛しています。  

 なお、主人公のウムボルトはノモンハン事変(1939年)で斃れますが、7月5日の読売新聞書評でも取り上げられた田中克彦著『ノモンハン戦争』(岩波新書)を読んだばかりなこともあって、この漫画のことを思い出し、それがまた平岡氏の著書でも取り上げられているので驚いた次第です(注)。  

 (注)『千夜千冊』の第430夜でも、この漫画が取り上げられ、冒頭から「どうやってこの傑作の興奮を案内しようかとおもっている」と書かれています。

ディア・ドクター

2009年07月15日 | 邦画(09年)
 有楽町のシネカノンにて「ディア・ドクター」を見ました。

 予告編などから、もしかしたらこの映画はニセ医者の話で、最初は周囲に気づかれなかったもののある時点でその事実が明るみになって云々、という筋立てなのではと思っていました。
 ところが、鶴瓶扮する主人公がニセ医者であることは、映画を見ているとそんなに時間が経過せずとも観客に分かりますし、看護師(余貴美子)や営業マン(香川照之)もハナから知っているように描かれています。そればかりか、村の人々がある程度気づいているような素振りをします。
 そうだとするとこの映画は、いつどういう経過で真実が明かされるのかというサスペンス的な要素は重要ではなく、何か別の狙いを持っているのではと見る者に思わせます。
 予告編でも強調されているように、一つは“嘘”を巡るお話といったことでしょう。主人公は、ニセ医者という大きな“嘘”をつきながらも―毎日の診断が、細かい“嘘”の集積となるでしょう―、八千草薫の病状について周囲に“嘘”をつき通そうとする、という具合に“嘘”の中にさらに“嘘”があるという構造になっているようです。

 とはいえ、主人公の人間性・人柄によって、それが悲惨な状況に陥る前に事態が丸く収まるように描かれている点で、訴えかけるものがやや弱いような感じがしてしまいます〔「ゆれる」の場合には、香川照之は本当に真木よう子を殺したのかどうか等に関する解釈は、観客が様々に受け取ることが出来るように描かれていました〕。

 それに、この映画は、主人公を演ずる鶴瓶の演技力というよりも、むしろ鶴瓶という落語家自身の人間性・人柄に相当依存しているように思われます。
ですが、程度問題ながら、フィクションとしての映画に“地”が全面的に出てしまうのは“禁じ手”ではないのか、“嘘”を演技力で“真実”らしくみせるのが映画ではないのか、演技力という点では研修医を演じる瑛太がかなり優れているな、などと余計なこと事を考えてしまいます。
 〔なお、『週刊文春』の「本音を申せば」で小林信彦氏は、「テレビでちらちらと見かける風貌からして、人気はあるのだろうが、この人は善人ではない、と思っている。その暗さが、「ディア・ドクター」では、アップの眼鏡の奥の細い目に生かされている」と述べて、普通の受け取り方とはかなり違う人物像を提示しています!こちらは、撮影ロケ地の村人全員と親しくなった、などというマスコミ情報を鵜呑みにしているだけで、小林氏のような、長年鋭く人を見てきた情報通の話の方が信用できるのかもしれません!〕

 しかしながら、ラストの入院シーンでお茶を配るところがあります(それも鶴瓶が八千草薫に)。私が一時入院していたときにも、マッタク同様に朝昼晩3回、お茶が派遣職員によって配られました(その後暫くしてから食事が始まります)。
この場面がキチンと描かれていたことから、何はともあれ私にとっては、この映画は○となりました〔ですが、このシーン自体は、見る者に一意的な解釈を迫っていて、蛇足ではないかと思っているところですが!〕。

 それから、八千草薫と井川遥との親子関係において、親は子供が立派になるよう最大限のサポートをしながらも、だからといって子供の負担になるようなことはしたくない、というように描かれているところ、その点は随分と共感するところがありました(マア当たり前と言えば当たり前の親心なのでしょうが)。

 総じて言えば、この映画では、八千草薫の存在感と演技力に一番目を惹きつけられました〔小林信彦氏が鶴瓶について言うのを真似ると、彼女は、いつまでも“可愛らしく弱々しいお嬢さん俳優”で通っているものの、実は随分と強かな計算の出来る女性ではないか、と思っています〕。

 なお、NHK番組「鶴瓶の家族に乾杯」で、大女優で年齢もかなり離れている八千草薫に対し、鶴瓶が随分親しそうに接していたのにチョット違和感を感じていたところ、この映画を見て腑に落ちました。

ウルトラミラクルラブストーリー

2009年07月12日 | 邦画(09年)
 渋谷のユーロスペースで「ウルトラミラクルラブストーリー」を見てきました。

 6月上旬のTV番組「タモリ倶楽部」において、鉄道マニアで俳優の原田芳雄氏が、寝台特急「カシオペア」に乗車したときの様子を実に愉快に話していたところ(何しろ鉄道マニアが殺到して、滅多に切符が入手出来ないそうです!)、この列車に乗ろうとしたのも、映画の撮影で青森に行っていたのが契機になったとのことでした。

 そこでどんな映画なのかなと調べてみたら、「人のセックスで笑うな」で好演した松山ケンイチが主役で、また滅多矢鱈と邦画で見かける麻生久美子が出演する作品であるとわかり、かつまた、「青森出身監督×青森出身俳優×全篇津軽弁×オール青森ロケ」というキャッチフレーズでもあり、そんなことなら是非見てみようと思いました。

 この映画では、松山ケンイチが生命力溢れた動きをするのに対して、麻生久美子の静謐な演技が対照的で(躁と欝との関係のように見えました)、また、所々シュールな映像が挿入されていながら、見る者はそれを違和感なく受け入れることが出来、それでいて不思議な感じが残ったままで映画館を後にしますから、振り返って様々に解釈したくなる、そんな作品でした(例えば、映画では、農薬が様々な形で登場しますが、これをどのように解釈するのかが一つのポイントではないかと思いました)。

 津軽弁に関しては、冒頭、野菜の作り方を話している声がカセットテープから流れてくるシーンがあり、殆ど内容が聞き取れないためこれは大変な映画かなと思ったところ、出演する原田芳雄にしても藤田弓子、渡辺美佐子にしても、いわゆる「田舎言葉」(演劇で使われる方言)に近く、かつまた発音が標準語的ですから、映画を見る際の障害にはなりませんでした(青森出身の松山ケンイチも、農山村に残る純粋の津軽弁―殆ど理解不能です―ではありません。麻生久美子の役は、東京から流れてきた人という設定です)。

 なお、評論家の福本次郎氏は、「退屈しないけど意味不明だった」と述べ(「意味」については自分で考えるべきでしょう)、ブログ「蚊取り線香は蚊を取らないよ」の“つぶあんこ”氏は星一つ(「メジャー1作目にして既にマンネリ」との注記←“マンネリ”とはそれこそ意味不明)ながら、一方で映画ライターの渡まち子は「この作品が好きかと問われると疑問なのだが、何か新しい流れが生まれる気配を感じてしまう」と述べているところ、このあたりが私の実感に近いところです。

レスラー

2009年07月08日 | 洋画(09年)
 「レスラー」を渋谷のシネマライズで見ました。

 私自身プロレス自体に全然興味を持ちませんから、パスしようと思っていたのですが、“つぶあんこ”氏の評価が「★★★★★+★★(プロレス好きなら更に+★★★)」と途方もなく高いために(75点の評価は前田氏ならば当然でしょう!)、見てみる気になりました。

 実際に映画を見ると、それほどの時間が経たないところで、この映画のストーリーの全体はキチンと見通せます。
ですから、「映画は虚構の中にしか居場所がない男の不器用な生き方を通じて、人生の悲哀をしみじみと描く」(福本次郎氏)とか、「自らの生き様を貫き通す中年レスラーの悲哀が感動を呼ぶ」(渡りまちこ氏)、「愚直なほど不器用で潔く、それでいて豊かなランディの人生」(山口拓朗氏)といったありきたりの批評に直ぐに繋がってしまいます。

 むろんそうした批評も当たっていないわけではありませんが、そんな筋立てを追うよりも、むしろ、56歳のミッキー・ロークの途方もない演技、控室におけるプロレスラー同士の会話、薬物使用の実態などのそれこそ「デティール」が実に素晴らしい出来映えに仕上がっていることを楽しむべき作品ではないかと思いました。

 なお、この映画については、先頃プロレスラーの三沢氏が試合中に亡くなったことに絡ませて議論する向きもあるところ、経済評論家の山崎元氏は、そのブログで概要次のようなことを述べています。

 「レスラー」が、主題として、自分の「職」が人間にとってのアイデンティティとして大切であること描いた映画なのだと受け止めると、少し危ない。というのも、最新号の「経済セミナー」に玄田有史氏と湯浅誠氏の対談が載っているが、この中で湯浅氏は「日本社会は働くことが人々のアイデンティティーになり過ぎている」と言っているがその指摘は正しいからだ。さらに、失業の際の喪失感が異様に大きく、仕事を失うと自分を失ったように思うことが多い、というのもその通りだろう。さらには、働いていない人間には価値がないのだと考える、第三者及び、それ以上に本人の先入観が問題なのだ。世間も、失業者・無業者に厳しい。こうした社会的な価値観は解毒する必要がある、云々。

 こうした見解にさぞかしズキンと来る人も多いと思われますし、そういえば、映画「剣岳」も、日本人が感動する“「職」に対する誠に真摯な姿勢”(そして、その背後の「アイデンティティー」)を描き出した作品だ、とも受け取れるところです!

劔岳 点の記

2009年07月05日 | 邦画(09年)
 「劔岳 点の記」を渋谷TOEIで見ました。

 公開後暫く経つのに観客が多かったのには驚きました。木村監督による八面六臂のPR活動も大いに与っているのでしょうが(ラジオにまで出演しています!)、とにかく邦画が盛況なのは何よりです。

 映画自体の仕上がりも素晴らしく、浅野忠信香川照之の演技も出色であり、そのほかの配役も総じて良かったと思いました。 また、至極単純な筋立てながら、陸軍測量部と山岳会との初登頂競争の物語に引っ張られ、最後にチョットしたどんでん返し(一部の見方からすれば、努力が水泡に帰してしまう訳ですから)もあったりして、なかなか楽しめる作品だなと思いました。

 さらに、立山信仰と修験者・猟師などの活動について知識があればモット楽しめたでしょうが、そうした方面に疎い私にとっては、やはり自然が良く撮られていて映像が綺麗だという点に大いに惹かれました。
 前田有一氏は、「その撮影風景を思えば「凄い」と思える映像が続出するが、実のところ、そうした観客の「親切な」想像力がなければ、さほどの驚きはない」と断定していますが、決してそんなことはないと思います。特に、立山から富士山が見える光景は凄いなと思いました(監督が事前に「撮影隊の苦労」を強調したのは、単にPRの仕方の問題に過ぎないでしょう)。

 なお、多少感じた疑問点を挙げるとしたら次のようなものなるでしょうか。
・撮影監督出身の監督が制作した作品だけに、どのシーンも実にヨクきっちりと画面に収まっているものの、かなり横長な画面だけに、尾根歩きといった「横」に動く場面が多く、山岳映画にもかかわらず「縦」の動きが十分に捉え切れていないのではと思われました。特に、ラストの山頂まで登り切る肝心のシーンがカットされてしまっているのは象徴的ではないでしょうか(それに、山頂に取り付くまでの雪渓斜面の急角度もあまり強調されていなかったように思われます←一番大変とされていたのにイトモ容易に登頂してしまった感じでした)?

・長治郎の息子の手紙とか先輩古田の手紙の読み上げなどかなり甘ったるい場面(あるい は定型的なシーン)が色々と挿入されているなと思いました。  
興業的観点から仕方がないとはいえ、極端に言えば、この映画から喋りの部分をかなりカットしてしまったら、随分と骨太の映画―人間と自然との格闘を劇映画として作ったという意味で―が出来上がったのではないでしょうか?

・流れる音楽がすべて通俗的なクラシック音楽というのも、かなり興味を削がれるところです(なぜ今時ヴィヴァルディの『四季』なのか、そのセンスが疑われます)。どうして現代の音楽家に作曲を依頼しなかったのでしょうか(木村監督が師と仰ぐ黒澤明も、こんな音楽の使い方はしていないのでは)?

・モットつまらないことですが、なぜ柴崎が選抜されたのかの説明があっても良かったのでは(実際の行動を見れば、大層優れた人物であることはヨク分かるのですが)?  
 また、陸軍の命令は“山岳会に負けるな”であったはずなのに、千年前の行者の登頂が判明すると、どうして“登頂はなかったことに”との態度に急変してしまうのでしょうか(四等三角点の設置しかできなかったために、元々『点の記』には記録されないにもかかわらず)、他の日本の山もそれまでに陸軍測量部が初登頂していたのでしょうか(なぜ剣岳初登頂にこだわるのでしょうか)?

サガン-悲しみよ こんにちは-

2009年07月01日 | 洋画(09年)
 渋谷のル・シネマで「サガン-悲しみよ こんにちは-」を見てきました。
 
 私は、サガンの小説は女子供の読むものとハナから見下してマッタク読んだことがなく、そのためこの映画にも余り興味が湧かなかったものの、マア文芸物が好きなこともあって足を運んだ次第です。

 実際のところは、写真で見るサガンに実によく似た女優が登場して、その人生をかなりリアルに描き出します。とはいえ、自分を支持してくれる人たちにいつも囲まれていないと不安になり(何度も結婚して子供までもうける一方で、一緒に暮らしてくれる女性をも求めます)、そういった人たちに要求する度合いが高いこともあって次第に取り巻き連中がいなくなり、最後は麻薬でボロボロになって孤独の内に死んでいくというサガンの人生自体には余り共感が持てません。
 (サガンは、作家デビューして直ぐに交通事故で瀕死の重傷を負いながらも、奇跡的に回復してその後もベストセラーを書き続けた訳ですが、それは、ジャンルは違うものの、メキシコの女性画家フリーダ・カーロにも似ているのでは、と思いました。)

 ただ、粉川哲夫氏が「サガンの人生のさわりをなぞっている感じで、彼女の心の振幅に共振するところが弱い」と言ったり、渡まち子氏が、「物語は終始彼女のスキャンダラスな側面ばかりを追い、唯一の才能である“書くこと”の苦悩や喜びをほとんどスルーしてい」と述べたりするのは、映画というメディアで芸術家の内面を描き出すのは本来的に困難だという点を無視するものではないかな、と思いました。

 そういうこともあって、実在の人物の伝記を描いた映画としては、マズマズの水準に達している作品ではないか、と思った次第です。