『あなたを抱きしめる日まで』を渋谷のル・シネマで見ました。
(1)今回のアカデミー賞の作品賞にノミネートされた作品(注1)というので、映画館に足を運びました。
舞台は2002年のイギリス。
ロンドン近郊に娘のジェーン(アンナ・マックスウェル・マーティン)と暮らすフィロミナ(ジュディ・デンチ)は、50年前にアイルランドで産んだ子供・アンソニーのことを思い出して涙に暮れています。実は当時未婚だったがために、修道院に入れられて(注2)、そこで出産したのですが、アンソニーが3歳になった時に密かに養子に出されてしまい、以来気がかりだったにもかかわらず、消息がわからないのです。
娘・ジェーンが、パーティー会場で知り合った元ジャーナリストのマーティン(スティーヴ・クーガン)にこのことを記事に書いてくれないかと話したところ、彼は一度断ったものの、定職がない身でもあり、ものになるかもと思い直して引き受けることに。
さあ、フィロミナとマーティンのコンビは、子供を探し出すことができるでしょうか、………?
本作で焦点が当てられる二人は、年齢も教育も関心事項も大きく異なるものの、アイルランドから、果てはアメリカにまでわたって子供を探していくうちに、お互いに対する見方が次第に変わっていくのですが、その過程がなかなか巧みに描かれていて、大層面白く見ることが出来ました。
主演のジュディ・デンチは80歳ながら、本作でも元気ハツラツとした姿を見せており、その巧みな演技には舌を巻きます(注3)。
(2)本作を見ながら、DVDで見たことがある『オレンジと太陽』(2012年)を思い出しました。
同作は、主人公の社会福祉士・マーガレット(エミリー・ワトソン)が、児童養護施設にいた子供たちがオーストラリアに密かに送り込まれていたことを突き止めるという話です。
どちらも実話に基づく作品であり、その話の出発点がイギリスであり、また子供の移送に教会が絡んでおり、さらには男女の二人組(注4)で調査を行いますし、構造的に様々の点で大変良く似ているなと思いました。
とはいえ同作の場合、子供が移される場所が本作のようにアメリカではなくオーストラリアだったり、さらには、子供が、本作では養子としてアメリカの夫妻にもらわれていきますが、同作では、労働力要因としてオーストラリアに移送されたりと、本作と違うところがいろいろあります。
特に、同作の主人公マーガレットは、本作のフィロミナのように自分の子供の消息を探すわけではないという点が大きく異なっています。
むしろ同作の場合、オーストラリアに移送された子供たちのことが専ら取り上げられ、主人公はその子供たちの親を探し出すことに尽力するのです。
これに対して、本作で、フィロミナの息子・アンソニーが描かれていないわけではないものの(注5)、『オレンジと太陽』と違って(注6)、中心は子供の親であるフィロミナとなります。
これは、『オレンジと太陽』が、大勢の子供の海外移送という問題を映画で告発するという点に力点が置かれているように見えるのに対し、本作はむしろ、子供を探す過程におけるフィロミナとマーティンの関係の変化の方に関心が向けられている、という違いによるのではないかと思いました。
(3)そのフィロミナとマーティンの関係ですが、彼女は元看護婦でごく普通の老婦人ながら、彼はオックスフォード大卒の教養あふれる中年の元ジャーナリスト(注7)であり、彼女は敬虔なカトリック教徒ながら、彼は宗教を捨てています。
言ってみれば、フィロミナは労働階級に属し、マーティンは中流階級に属しているわけですから、通常であれば余り接点がないところです。
それがひょんなきっかけで、二人で車(注8)に乗ってアイルランドの修道院に行ったり、アメリカまで飛行機で出かけたりして、次第にそれぞれの考え方などが変わってくるのです。
こんなところを見ると、本作は、つい最近見たばかりの『ネブラスカ』(父親と疎遠にしていた息子が、米国内を車で移動していく内に、父親のことを理解していくという話)のようなロードムービーではないかとも思えてきます(注9)。
とはいえ、フィロミナがロマンス小説を愛好する性癖は、旅が終わっても何一つ変わらないのですが(注10)。
(4)渡まち子氏は、「悲しみに耐えてきた老婦人の強さを、告発調の社会派ドラマに傾くことなく、庶民目線の優しいまなざしで描いている点が素晴らしい」として75点をつけています。
また相木悟氏は、「ライトな肌ざわりながら、ズシリと重いテーマが沈殿する新感触の社会派ドラマであった」と述べています。
(注1)原題は、ズバリ主人公の名前を持ってきて『Philomena』。
(注2)ここらあたりの事情は、『マグダレンの祈り』(2003年)と類似しているようですが、未見です。
(注3)ジュディ・デンチは、最近では『ジェーン・エア』とか『マリリン』などで見ました。
なお、先月末のこの記事によれば、「(ジュディ・デンチは)視力をほぼ失い、台本も読めなくなっていることを「デイリー・メール」紙が報じた」とのことです。
(注4)『オレンジと太陽』では、マーガレットがオーストラリアの修道院を調査する際に、男性のレン(デビッド・ウェナム)が同行します。
(注5)本作では、アンソニーがゲイであることが判明しますが、上記「注4」で触れたレンも実はゲイなのです。ただ、アンソニーの場合は個人的なこととして描かれるのに対し、レンの場合は、オーストラリアの修道院における特殊な生活(男性の修道僧の社会)が大きく影響しているような感じを映画からは受けます。
(注6)上記「注4」で触れたレンは、調査の過程で、自分を生んだ母親がイギリスの田舎にいることを知り、会いに行くことになりますが、同作においては、レンが母親の家に入るところまで描かれるものの、母親の姿は映し出されません。
(注7)マーティンは、BBCの記者から労働党政府の広報担当に就いていましたが、ちょっとしたことで詰め腹を切らされ辞任したばかりで、職を探していたところでした。
ロシア史の本を書こうと考えていたり、T.S.エリオットの本から場に応じた一文〔『四つの四重奏』に含まれる『リトル・ギディング』―この作品については、長畑明利・名古屋大学教授による興味深い論考がネットに公開されています(当該一文は、この論考のページ番号64で触れられています)―より〕を引用したりするなど、中々の教養を身につけた人物とされています。
(注8)マーティンは、アイルランドに行くためにBMWの車を借りてきます。
そういえば、『ネブラスカ』でも日本車(スバル)が登場しましたし、本作では、さらにマツダの車も登場します。尤も、同作では、ラストでスバルを売り払ってGMのピックアップが購入され、また本作でも、アメリカを移動するのに二人が使うのはフォードの車ですが。
(注9)現に、劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事において、脚本をも担当したスティーブ・クーガンは、「全く違うふたりが旅を通じて、相手を受け入れ、自分の人生の見方を変えるようになるという、ある種のロードムービーだね」と述べています。
(注10)とはいえ、マーティンは、フィロミナが読んだロマンス小説のあらすじを細かく話すのに最初は閉口していたものの、旅の終わりには、受け入れるようになっていますが。
★★★★☆☆
象のロケット:あなたを抱きしめる日まで
(1)今回のアカデミー賞の作品賞にノミネートされた作品(注1)というので、映画館に足を運びました。
舞台は2002年のイギリス。
ロンドン近郊に娘のジェーン(アンナ・マックスウェル・マーティン)と暮らすフィロミナ(ジュディ・デンチ)は、50年前にアイルランドで産んだ子供・アンソニーのことを思い出して涙に暮れています。実は当時未婚だったがために、修道院に入れられて(注2)、そこで出産したのですが、アンソニーが3歳になった時に密かに養子に出されてしまい、以来気がかりだったにもかかわらず、消息がわからないのです。
娘・ジェーンが、パーティー会場で知り合った元ジャーナリストのマーティン(スティーヴ・クーガン)にこのことを記事に書いてくれないかと話したところ、彼は一度断ったものの、定職がない身でもあり、ものになるかもと思い直して引き受けることに。
さあ、フィロミナとマーティンのコンビは、子供を探し出すことができるでしょうか、………?
本作で焦点が当てられる二人は、年齢も教育も関心事項も大きく異なるものの、アイルランドから、果てはアメリカにまでわたって子供を探していくうちに、お互いに対する見方が次第に変わっていくのですが、その過程がなかなか巧みに描かれていて、大層面白く見ることが出来ました。
主演のジュディ・デンチは80歳ながら、本作でも元気ハツラツとした姿を見せており、その巧みな演技には舌を巻きます(注3)。
(2)本作を見ながら、DVDで見たことがある『オレンジと太陽』(2012年)を思い出しました。
同作は、主人公の社会福祉士・マーガレット(エミリー・ワトソン)が、児童養護施設にいた子供たちがオーストラリアに密かに送り込まれていたことを突き止めるという話です。
どちらも実話に基づく作品であり、その話の出発点がイギリスであり、また子供の移送に教会が絡んでおり、さらには男女の二人組(注4)で調査を行いますし、構造的に様々の点で大変良く似ているなと思いました。
とはいえ同作の場合、子供が移される場所が本作のようにアメリカではなくオーストラリアだったり、さらには、子供が、本作では養子としてアメリカの夫妻にもらわれていきますが、同作では、労働力要因としてオーストラリアに移送されたりと、本作と違うところがいろいろあります。
特に、同作の主人公マーガレットは、本作のフィロミナのように自分の子供の消息を探すわけではないという点が大きく異なっています。
むしろ同作の場合、オーストラリアに移送された子供たちのことが専ら取り上げられ、主人公はその子供たちの親を探し出すことに尽力するのです。
これに対して、本作で、フィロミナの息子・アンソニーが描かれていないわけではないものの(注5)、『オレンジと太陽』と違って(注6)、中心は子供の親であるフィロミナとなります。
これは、『オレンジと太陽』が、大勢の子供の海外移送という問題を映画で告発するという点に力点が置かれているように見えるのに対し、本作はむしろ、子供を探す過程におけるフィロミナとマーティンの関係の変化の方に関心が向けられている、という違いによるのではないかと思いました。
(3)そのフィロミナとマーティンの関係ですが、彼女は元看護婦でごく普通の老婦人ながら、彼はオックスフォード大卒の教養あふれる中年の元ジャーナリスト(注7)であり、彼女は敬虔なカトリック教徒ながら、彼は宗教を捨てています。
言ってみれば、フィロミナは労働階級に属し、マーティンは中流階級に属しているわけですから、通常であれば余り接点がないところです。
それがひょんなきっかけで、二人で車(注8)に乗ってアイルランドの修道院に行ったり、アメリカまで飛行機で出かけたりして、次第にそれぞれの考え方などが変わってくるのです。
こんなところを見ると、本作は、つい最近見たばかりの『ネブラスカ』(父親と疎遠にしていた息子が、米国内を車で移動していく内に、父親のことを理解していくという話)のようなロードムービーではないかとも思えてきます(注9)。
とはいえ、フィロミナがロマンス小説を愛好する性癖は、旅が終わっても何一つ変わらないのですが(注10)。
(4)渡まち子氏は、「悲しみに耐えてきた老婦人の強さを、告発調の社会派ドラマに傾くことなく、庶民目線の優しいまなざしで描いている点が素晴らしい」として75点をつけています。
また相木悟氏は、「ライトな肌ざわりながら、ズシリと重いテーマが沈殿する新感触の社会派ドラマであった」と述べています。
(注1)原題は、ズバリ主人公の名前を持ってきて『Philomena』。
(注2)ここらあたりの事情は、『マグダレンの祈り』(2003年)と類似しているようですが、未見です。
(注3)ジュディ・デンチは、最近では『ジェーン・エア』とか『マリリン』などで見ました。
なお、先月末のこの記事によれば、「(ジュディ・デンチは)視力をほぼ失い、台本も読めなくなっていることを「デイリー・メール」紙が報じた」とのことです。
(注4)『オレンジと太陽』では、マーガレットがオーストラリアの修道院を調査する際に、男性のレン(デビッド・ウェナム)が同行します。
(注5)本作では、アンソニーがゲイであることが判明しますが、上記「注4」で触れたレンも実はゲイなのです。ただ、アンソニーの場合は個人的なこととして描かれるのに対し、レンの場合は、オーストラリアの修道院における特殊な生活(男性の修道僧の社会)が大きく影響しているような感じを映画からは受けます。
(注6)上記「注4」で触れたレンは、調査の過程で、自分を生んだ母親がイギリスの田舎にいることを知り、会いに行くことになりますが、同作においては、レンが母親の家に入るところまで描かれるものの、母親の姿は映し出されません。
(注7)マーティンは、BBCの記者から労働党政府の広報担当に就いていましたが、ちょっとしたことで詰め腹を切らされ辞任したばかりで、職を探していたところでした。
ロシア史の本を書こうと考えていたり、T.S.エリオットの本から場に応じた一文〔『四つの四重奏』に含まれる『リトル・ギディング』―この作品については、長畑明利・名古屋大学教授による興味深い論考がネットに公開されています(当該一文は、この論考のページ番号64で触れられています)―より〕を引用したりするなど、中々の教養を身につけた人物とされています。
(注8)マーティンは、アイルランドに行くためにBMWの車を借りてきます。
そういえば、『ネブラスカ』でも日本車(スバル)が登場しましたし、本作では、さらにマツダの車も登場します。尤も、同作では、ラストでスバルを売り払ってGMのピックアップが購入され、また本作でも、アメリカを移動するのに二人が使うのはフォードの車ですが。
(注9)現に、劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事において、脚本をも担当したスティーブ・クーガンは、「全く違うふたりが旅を通じて、相手を受け入れ、自分の人生の見方を変えるようになるという、ある種のロードムービーだね」と述べています。
(注10)とはいえ、マーティンは、フィロミナが読んだロマンス小説のあらすじを細かく話すのに最初は閉口していたものの、旅の終わりには、受け入れるようになっていますが。
★★★★☆☆
象のロケット:あなたを抱きしめる日まで