映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

孤高のメス

2010年06月29日 | 邦画(10年)
 『孤高のメス』を渋谷TOEIで見ました。予告編を見たときから、この映画の真摯さが伝わってきたからですが。

(1)実のところ、この作品のストーリーは極めて単純です。
 20年ほど前、ある地方都市の市民病院に、米国帰りのバリバリの外科医・当麻(堤真一)が赴任し、それまでこの病院では手がつけられなかった外科手術を次々に成功させ、挙句は肝臓移植手術までやってしまうというお話です。
 これを、仕事中に亡くなった同病院の看護婦・浪子(夏川結衣)の息子(成宮寛貴)―新米の医者―が、遺品の中にあった母親の日記を読むという構図で描き出しています。



 こうした単純なストーリーになるのは、この映画では、手術シーンがこれまでの映画では見られなかったほどたっぷりと詳細に描かれているためだと思われます。



 まず、市民病院で行われていた従来のお粗末極まりない手術の様子が描かれます〔これまでこんなに酷い外科手術の有様を描いた映画は見たことがありません!間違えて切断してしまった血管から激しく血液が噴き出るシーンでは、背筋がゾーッとなりました〕。
 次いで、当麻は、着任早々にもかかわらずすぐに手術着に着かえて、従来ならこの病院ではできないとして大学病院に送り込んでいた患者の手術を成功させてしまいます。
 最後に、この映画のハイライトである肝臓移植手術です。肝臓には血管がたくさん結びついていて、病んでいる肝臓を取り出して新しい肝臓を移植するには、まずそれらを一つ一つ塞ぐ必要があり、そのために膨大な時間がかかるとのことですが、映画では、まるで当麻に扮する堤真一が実際に執刀しているが如くにリアルに描かれているので、とても驚きました。

 こうしたことから、通常の映画ならばもっと濃密に描かれたであろう様な事柄は、ほとんど触れられません。
 たとえば、主人公の外科医・当麻の年齢は40歳台と思われるところ、その経歴とか家族状況の説明はありません。この市民病院に単身で乗り込んできて、いきなり手術を手がけます。



 また、当麻医師のよき協力者になった看護婦・浪子についても、小さな子供を一人で育てていますが、夫がどうなったのかの説明はありません〔なお、脳死状態の息子の肝臓を移植することに同意した音楽教師(余美貴子)の家も母子家庭ですが―浪子の家と隣同士なのです―、そのいきさつの説明も行われません〕。



 そして、通常の映画パターンならば、こういう設定をとると、当麻と浪子との間に恋愛感情が生まれて、紆余曲折はあるものの最終的には結婚に至るなどといったストーリーが思い浮かびますが、肝臓移植手術が終わると、なんと当麻医師は至極あっさりとこの市民病院を立ち去ってしまうのです。
 浪子の方も、当麻との別れに際しては、通常の医師と看護婦の関係を超えない範囲での挨拶しかしません。

 とはいえ、濃密な接近があってもしかるべきにもかかわらず、このように未練のないあっさりした関係にしかならなかったのかの背景理由については、映画製作者側に文句を言うよりも、むしろ観客の側であれこれ考えを巡らせればいいのでしょう。

 ということで、この映画では、『オーケストラ!』とか『のだめカンタービレ』で音楽の演奏シーンが重要な役割を演じているのと同じように、手術のシーンがそれ自体において特筆されるべきであって、それが評価されるのであれば映画としても成功したことになるでしょう〔逆に、クマネズミはそうは思いませんが、外科手術はあくまでも一つの設定条件にすぎず、やはり人間関係の方を重視すべきだとする見方からすると、映画としては出来が悪いということになるでしょう〕。

(2)手術の場面のリアリティという点でクマネズミが思いつくのは、『チーム・バチスタの栄光』(2008年)です。
 この作品は、バチスタ手術という心臓手術をとりあげていて、実際にも、心臓の一部を切り取ったり、それを縫合したりするところが描き出されていて、従来のものよりもずっとリアリティに富んでいると思われます。
 ただ、この映画の焦点は、手術シーンよりもむしろ、それまでずっと成功してきたバチスタ手術がここにきて連続して失敗しだしたのはなぜか、その原因を阿部寛と竹内結子が暴き出すという謎探しにありますから、今度の『孤高のメス』と比べれば今一の感があります。



(3)映画評論家の間では意見が分かれるようです
 一方で、小梶勝男氏は、「成島監督は地域医療という真面目で地味なテーマを扱うに当たり、意識的に「分かりやすさ」を強調し、エンタティンメントとしても成立させようとしたのかも知れない。その代わり、徹底して手術場面のリアリティーにこだわったのだろう」し、「主人公同様、極めてバカ正直に医療問題に切り込みながら、十分に面白い作品になっている」として78点を、
 福本次郎氏は、「医学に対する真摯な使命感に支えられた主人公は、女だけでなく男も惚れる、まさに絵にかいたようなヒーローだ」が、「都はるみファンという以外にもう少し人間的な部分も見せてほしかった」として70点を、
それぞれ与えていますが、他方で、
 渡まち子氏は、「主人公を支える周囲のスタッフは、決して天才的な医師や看護師ではない。当麻の存在によって医療そのものを見つめなおしていく努力型の人間たちが、主人公をサポートしている点に、物語の誠実さがある。だがもう一つの柱である肝臓移植に関しては、あまりに描写が浅い。ドナー提供というデリケートな問題をあっさりとスルーするので、考える余地さえなかった」として55点を、
 前田有一氏も、「大学病院からきた無責任な派遣医師のステレオタイプな人物造形、都合よく罰が当たる展開などは白けてしまう。さらに問題なのは、後半にある脳死臓器移植手術。ここまで、そこそこのリアリティを誇ってきたこの佳作が、とたんにインチキくさくなってしまうのが残念であった。とくにこのテーマ最大の争点である、脳死判定の困難さを華麗にスルー。結果として、いいとこ取りのありがちな創作美談にとどまってしまった。もしこんな展開で感動を呼べると思っているのなら、現実のドナーをバカにしているようなものだ」として55点しか与えていません。

(4)特に、前田氏は、「脳死の判定はきわめてデリケートかつ困難で、脳死と診断されながら回復した例がいくつもあ」りながら、そうした「マイナス点がまるで伝わっていない現状、国民も国会議員も問題点をほとんど理解せぬまま法改正が強行される現状については、著しくアンフェアであり、承服でき」ず、にもかかわらず、「偏った思想によるこうした映画に感化されて、もし臓器提供希望者が増えようものなら、きっと様々な問題が起こるだろう」とまで述べています。
 確かにそうした問題があり、かつその問題は非常に複雑で微妙だと思います(注)。
 ただ、2時間強にすぎない映画にあれもこれも求めるのはどうかなという気がします。この映画は、政治的なプロパガンダの作品ではないのですから、そうした問題があることは重々分かっていながらも、あえてそうした問題には触れずに、むしろ、外科手術の素晴らしさの面を強く描き出そうとしているのではないか、この映画を評価するに際しては、描かれてはいないことではなく、描かれていることを評価すべきではないかとクマネズミは思っています。

 さらに前田氏は、「とくに本作は未成年がかかわるだけに、たちが悪い」と付言していますが、臓器提供者が未成年であろうが成年であろうが、脳死判定の問題を議論する場合には変わりがないのではと思われ、「たちが悪い」とまで言えるのだろうかと思いました。
 なお、2009年の法改正により、平成22年7月17日からは、本人の臓器提供の意思が不明な場合にも、家族の承諾があれば臓器提供できることになり、従って15歳未満の脳死患者からの臓器提供も可能となります。


(注)この映画の医療監修を担当した順天堂大病院肝胆膵外科教授の川崎誠治氏は、当然のことながら前田氏とは別の見解をとっています。


★★★★☆

象のロケット:孤高のメス
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書道ガールズ(下)

2010年06月27日 | DVD
 前日取り上げた『書道ガールズ』に関連することを、以下では若干取り上げてみましょう。

(1)前日の記事の(3)で触れた映画評論家の福本次郎氏は、『書道ガールズ』についての論評の末尾で、「男子部員は添え物扱いだが、彼らが活躍する日は来るのだろうか。。。」と述べているところ、仮にそんな日がやってきたらこんなことになるかもしれないと思わせる映画が『書の道』といえるでしょう!
 昨年末に公開されていて、その際は見逃したものの、早くもDVD化されているのでTSUTAYAから借りてきて見てみました(注1)。



 この作品は、昨日の記事で取り上げた『書道ガールズ』とは、類似する面と相違する面とをあわせもっています。
イ)『書道ガールズ』は女子高生が中心的でしたが、こちらの『書の道』は男子大学生のお話です。

ロ)『書道ガールズ』では、売れっ子の成海璃子をはじめとするフレッシュな女優陣が大活躍しますが、こちらの作品でも、主な登場人物の5人の大学生(一人は主人公の友人でボクシング部)を「今をときめく演技派イケメン男子」が演じているのです(と言っても、クマネズミは初めて見る顔ばかりです!)。
 ただ、『書の道』では、意図的にこういた俳優を使っているのでしょうが、いわゆる書道のイメージからは随分と外れていると感じざるを得ません。何しろ、それこそ現代風のイケメンの皆が、きちんと正座して筆を持って静かに書を書くのですから!



ハ)『書道ガールズ』では、皆とのコミュニケーションがうまく取れない生徒とか、家庭の事情で書道部を続けられない生徒も出てきますが、最後はまっすぐに一致団結して「書道パフォーマンスス」に挑みます。
 こちらの映画では、事故で腕が十分に動かなくなったキャプテンが精神的に落ち込んで、自分の作品ばかりか他の仲間の作品まで引き裂いてしまうという事件が起きます。また、主人公の学生は、ボクシング部を退部して書道部に入りますが、ボクシングに未練があるようです。
 といった具合に、『書道ガールズ』よりも、主人公たちの内面がある程度ながら重視されているように思われます。



ハ)『書道ガールズ』のクライマックスは、最後の方で開催される「書道パフォーマンス甲子園」です。他方『書の道』でも書道パフォーマンスのシーンはあるものの、単なる一つのエピソードにすぎ、ません。とはいえ、躓いて墨を紙の上にぶちまけてしまうシーンは、こちらでもキチンと描かれています。



ニ)『書道ガールズ』では、主人公の書道部は優勝できませんでしたが、こちらでは、目標とした「全国大学書道展」において、4人の部員による共作が「団体賞」を獲得しました。

ホ)『書道ガールズ』では、書道部の顧問に臨時講師の男性(金子ノブアキ)が就いて「書道パフォーマンス甲子園」に向けて指導するところ、こちらでは書道部の先輩で今では大学の講師を務めている女性(平田弥里)が、書道展に向けて指導をします。



 ここには男性と女性という違いが見られるものの、どちらもメインイベントが終わると、その場所に長くとどまってはいないという点は類似しています。
 また興味深いことに、目標に向かってそれぞれの書道部を指導するに際して、どちらの指導者もまず体を鍛えることから始めるのです(特に、こちらでは、書道展の締め切り1週間前まで筆を握らせてもらえません。ただ、鍛錬の細部は異なってはいるものの、なぜかランニング重視という点では一致しています)。

 これは、最近DVDで見た『グラキン★クイーン』でも同じ感じです。なにしろ、伝説のカメラマンの下で修行をする高校生カメラマンのニコは、カメラを持たせてもらえず、連日讃岐うどんを作らされるばかりなのですから!

ヘ)『書道ガールズ』では、舞台が高知県の四国中央市であることが強調され、町おこしとしての「書道パフォーマンス甲子園」が提唱されますが、こちらではそうした社会とのつながりはほとんど描かれてはいません。

 全体として見ると、『書の道』は、大学生の内面がある程度ながら描かれている分だけ社会的な視点がなくなっているのではないかという感じがします。

(2)他に『書道ガールズ』を見て思いついたことと言えば、例えば次のようなものがあります。
イ) 最近、『劇場版TRICK』が公開されたところ、TVドラマや映画作品として人気のある「トリック」シリーズでは、仲間由紀恵が演じるヒロイン・山田奈緒子の母親(野際陽子)が書道教室の先生なのです。



 上記の画像は、『トリック劇場版2』のものです。

ロ)最近その個展が開かれ話題を呼んだ画家の会田誠氏には、なんと「書道教室」なる作品があります。



 この作品について、作家自身は次のように述べています(注)。
 「かなり純度の高い、現代美術そのもの、みたいな作品だと思います。でも外国人には何にも伝わらないだろうなあ…。なぜこれをエリオットさんが選んだのか謎です。僕は日中韓にしか存在しない書道という芸術ジャンルの非普遍性に興味があるようです」。

 さらに、安積桂氏のブログ「ART TOUCH」には、概略次のような記事があります。
 「《書道教室》では、文字の図形的絵画的なものが、文字の言語的なものを抑圧し、文字と言葉の結びつきを壊している」。「《書道教室》は巨大である。……《書道教室》は大きすぎて読めない。一階に降りる階段の横の壁いっぱいに掛けてある。……少し、離れて全体を見渡したが、絵だか文字だか判らない」。しかしながら、「《書道教室》には二つの自己否定の契機がある。一つは、手書きの文字が巨大すぎて、手書きが不可能なことだ。それから、もう一つは、手書きの書を教える塾の看板が手書きではなく、コンピュータのフォントで切り抜かれていることだ」。

 「二つの自己否定の契機」があったりすると、このブログの管理者・安積桂氏にとっては、「会田の最高傑作は依然として《書道教室》である」ということになるようですが(5月19日の記事より)、そこらへんの事情が素人にはよく飲み込めないながら、この作品が、現代芸術において注目すべき作品なのだろうな、となんとなく予感させるものがあるのではと思っているところです。

ハ)『書道ガールズ』関係で、さらに若干興味を引く点としては、実際に開催されている「書道パフォーマンス甲子園」の報道には日本テレビが力を入れてきており、この映画の制作においても日本テレビが強力にバックアップしてきたにもかかわらず、読売書法会ではなく毎日書道会の名がクレジットに挙げられ、書道の指導には石飛博光毎日書道会理事(創玄書道会理事長)が当たっている点でしょうか。



(注1)「書道」を題材にした映画やドラマの公開がこのところ相次いでいることについては、朝日新聞の記事を参照。
(注2)ビエンナーレ・オブ・シドニー (本年5月12日~8月1日)に展示される本作品に関するメール・インタビューの中で、会田氏が述べています。
また、「阿部知代アナの@artlover」のvol.15では、この作品は「看板屋に発注」したものだと会田氏は語っています。
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書道ガールズ(上)

2010年06月26日 | 邦画(10年)
 世評の高い『書道ガールズ!!わたしたちの甲子園』を、遅ればせながらシネマート新宿で見てきました。平日の夕方でしたが、観客はまだかなり入っていたのには驚きました。

(1)『書道ガールズ』のタイトルから、例の『スウィングガールズ』(2004年)と大同小異かなと思っていました。
 実際にも、楽器を手にしたことのない地方の高校生が、ジャズの有名ナンバーを立派に演奏するようになるという後者のストーリーと、僅かの部員しかいない四国の高校書道部の生徒が、他の高校の書道部と競うまでになるという前者のストーリーは、一定の目標を皆が協力して達成するという点で、かなり類似しているといえそうです。
 ただ、後者は、ジャズの演奏自体にかなりの重点が置かれているのに対して、この映画は、書道の上達という面もさることながら、「書道パフォーマンス甲子園」に至るまでの過程における様々のエピソードの方に重きが置かれているように思われるところです。

 ここで、「書道パフォーマンス甲子園」に触れておきましょう。
 「書道パフォーマンス甲子園」と聞いて、高校野球のように甲子園球場で書道大会を開催するのかなと漠然とイメージしていたところ、実際には、「まんが甲子園」などと同じように、書道を他の高校と一定の会場で競うことだとわかりました(この映画の場合、他に四国の3校が、主人公たちのいる高校の体育館にやってきて、熱戦を繰り広げます)。
 また、その競う書道も、普通イメージするような半紙や書初用紙に漢字を書き並べるというものではなく、「書道パフォーマンス」とのこと。紙は、半紙ではなくその数十倍の大きさ。同時にかけられる音楽に乗って、そこに数人がかりで極太の筆で文字を書き連ねます。
 この映画を見て、これならスポーツの要素があって、野球のように競い合えるものだな、ということがよくわかりました。

 さて、映画の方です。それまでは書道家である父に従って、一人筆を持って半紙に立ち向かっていた主人公の里子(成海璃子)は、数々の賞をもらっていたにもかかわらず、何か違和感を持ち始めていたところ、偶々書道部の顧問に就任した臨時講師(金子ノブアキ)が行う「書道パフォーマンス」に出会って目が開かれ、云々と映画は進展していきます。



 ある意味でよくあるスポ根ものの作品と言えるでしょうが、ラストの「書道パフォーマンス甲子園」への盛上りに向かって淀みなく映画が作られていて、見終わるととてもスッキリした感じになりました。




 とはいえ、問題がないわけではないでしょう。
 「楽しんで書いたものでなければ、それを見た人は何も感じない」という臨時講師の指導によって、里子は、当初は軽蔑していた「書道パフォーマンス」に、次第にのめりこんでいきます。
 確かに、半紙に臨書したりするのは、至極窮屈で個性を押しつぶすもののようにも思え、楽しくもないかもしれません。ただ、楽しければいいとする指導方針には違和感を感じるところでもあります。様々な決まり事をマスターして得られる喜びもまたあるはずだからです〔ある意味で、クラシック音楽とポピュラー音楽との関係に類似する、といえるかもしれません〕。

 更に言えば、「書道パフォーマンス」によって制作された作品は、ポスターの大きなもの、よく見かける横断幕にすぎないものであって、とても書道の作品として残るようなレベルではないのでは、と思ったりしました。勿論、従来の「書き初め」などでも標語が使われている場合もあります。
 ただ、「書道パフォーマンス」の場合には、書かれた文字自体の素晴らしさというよりも、標語の内容を人々に訴えかけることの方に重点が置かれているのでは、と思いました(映画の「書道パフォーマンス甲子園」において、主人公たちが書いた標語は「再生」ですが、自分たちの町の活性化に頑張ろうというアッピールがマズ第一にあるのではないでしょうか?)。



 また、「書道パフォーマンス甲子園」の開催は、高校の置かれている町の活性化を狙いにしているところ、画面に見られる四国中央市の町の様子はとても酷いものです。日中、町中を歩く人はほとんどおらず、それもそのはず通りの両サイドに並んでいる店の大半はシャッターを下ろして営業活動をしていないのです。これでは、いくらパフォーマンスをやって人を集めようとしても、土台無理があります。
 勿論、人が集まらなければ営業はできないでしょうが、営業していなければ人は集まりません。こうした催し物をやれば街の活性化がもたらされるのだとするのは、余りに単純な考えだと言えるのではないでしょうか?

 そういう問題点はあると思いますが、この映画に出演する5人の若い女優は、いずれもはりきって演技していて、観客に爽やかさを感じさせてくれます。
 特に、成海璃子を映画で見たのは昨年4月の『罪とか罰とか』以来ですが、とても17歳とは思えないほど落ち着きのある演技で、これからのさらなる飛躍が期待されます(若干、古風と思える顔立ちが、今後どのように変化していくのでしょうか?)。




(2)ここでは、この映画を見て思いついたことなどを述べてみようとしましたが、例によって長くなりそうなので、明日の記事に回すことといたします。
 そちらもご覧いただければ幸いです。

(3)この映画に対して、評論家は総じて大変好意的です。
 渡まち子氏は、「ヒロインの里子は、書道の才能はあるが、書の師である父の支配下にあるような自分を解放できずスランプ状態。頑なな態度で周囲と衝突するのだが、自分が本当に楽しめる書を、仲間との書道パフォーマンスの中に見つけていく。自分が何を求めているかを手探りで求め、自我を確立する様子は、セオリー通りだが、その素直な描写は好感度が高いものだ」として75点を、
 福本次郎氏は、「勝ち負けではない、最後まであきらめずに頑張る、仲間を信じる行為が尊いという主張はすがすがしかった。ただ、成海璃子が演じた役柄は、剣道を書道に変えただけで「武士道シックスティーン」と同じで新鮮味に欠けるのが気になった」として70点を、
 町田敦夫氏も、「自らの友情と町の活気を取り戻すために奮闘する美少女たちの墨だらけの顔が、ことさらに輝いて見えるのだろう。視野の狭かった里子が、様々なできごとを経て成長していく姿にも好感。代役なしで書道シーンに臨んだキャストが、最後の大会で大書する「再生」の一文字が熱い」として70点を、
それぞれ付けています。


★★★☆☆

象のロケット:書道ガールズ
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春との旅

2010年06月24日 | 邦画(10年)
 『春との旅』を吉祥寺バウスシアターで見てきました。

 実は、公開直後に同じ映画館に出向いたのですが、同時に「爆音映画祭」を開催していて音漏れがありますなどと言われてしまったので、見るのを遅らせたものです。
 実際のところも、実に静かでしっとりとした作品ですから、音漏れのない環境で見ることができてよかったと思いました。

(1)さて、映画の方ですが、出演者には名だたる俳優が目白押しといった感じで、それだけでも十分に見ごたえがあります。主人公・忠男は仲代達也、その兄弟に大滝秀治と柄本明、姉に淡島千景、弟嫁に田中裕子、忠男の娘の元の夫が香川照之といった豪華メンバー(ほかにも、菅井きん、小林薫、美保純、戸田菜穂)。

 物語は、孫娘・春(徳永えり)と二人で暮らす老いた漁師の忠男が、春の勤め先がなくなってしまうのを機に、自分は身内の誰かに面倒を見てもらう一方で、孫娘は東京に出して独り立ちさせようと決め、二人で身内を訪ねる旅に出ます。
 ですが、どこでも色よい返事はもらえません(注)。
 とうとう娘の元の夫のところまで行きますが、そしてそこでは現在の嫁さん(戸田菜穂)から一緒に暮らしましょうとの申し出を受けるものの、いくらなんでもそれはできないと、また元の家に向かうのでした。ですが、……。

 妻に先立たれ孫娘と二人きりに取り残された老人が、蓄えもなしにこれからどうやって生きていくのか、身内に頼っても、特に今の不景気の時にはいい顔をしてくれず、かといって公的な機関は空きを待つ人が多数、ときたら、いったいどうしたらいいのか、と厳しい現実を突きつけられ暗い気分にさせられます。
 ですが、この映画は、老人をどんなことがあっても面倒を見ようと決意を固める孫娘を配することで、明るい春の希望の光が射してくるようで、実に感動的です。

 主演の仲代達也の演技はいうまでもなく立派なものですが(いつもそのオーバーな演技に辟易してしまうところ、この映画ではあまりそんな感じはしませんでした)、孫娘を演じる徳永えりも、豪華メンバーに押しつぶされることなく実によくやっていると思いました。特に、監督の注文のようですが、とても現代の19歳の女性とは思えないほど、歩き方などに田舎丸出しのダサイ感じを至極上手に出しているのには感心しました。

 勿論、問題がないわけではないでしょう。
 たとえば、旅の途中で、鳴子温泉とか仙台駅前が出てきて、彼ら2人が現在どこにいるのかが観客にようやく理解できるのですが、そこをそれだけ明確にするのであれば、彼らの出発点や途中の地点がどこなのかもはっきりさせるべきではなかったか、と思います。
 むろん、具体的な地名を明らかにしないで描いていく方法もあるでしょう。ただそうならば、仙台駅前のシーンなどない方がすっきりします。
 それに、忠男と春が暮らしてきた北海道の町の具体的な様子は、この物語にとってかなり重要ではないかと思えるにもかかわらず(忠男が元気なころはニシンが獲れたものの、今では小学校が廃校になるくらいに寂れてしまったようです)、ほとんど映画では描かれません。
 そして、その町を離れて二人は身内を訪ね歩きますが、いったいどういう経路でどのくらいの日数をかけて仙台に辿り着いたというのでしょうか?

 また、忠男は左足が悪いとされていて、時々転んだりするものの、その病名は明らかにされません。ただ、民宿で春のいない隙にカップ酒を貪るように飲む様子とか、弟(柄本明)と口論した際に、“足を切って頼ってくるなら面倒は見る”と弟に言われていること、などから糖尿病を患っていて歩行障害の症状が表れているのではと思えるところ、そうだとしたら実際にあれほど歩けるものなのか、特に我が家に帰還できる直前に死んでしまいますが、それほど病状が悪化していたのか、と不思議に思ってしまいます。

 とはいえ、何もかも映画で説明してもらう必要はないわけで(観客が自分で補えばいいのですから)、小林薫は、またずっと横顔しか映らないチョイ役にもかかわらず(クレジットで初めてわかります)、実にうまく演じていますし、さらに香川照之も、忠男の自殺した娘の元夫という難しい役どころをさすがの演技力でこなしているなど、見どころがあちこちに転がっていて、おすぎがいうように「秀作」といえるでしょう。


(注)こうした粗筋から、忠男とその身内との関係を父と3人の息子との関係に置き換えれば、シェイクスピアの『リア王』に基づいて制作された黒澤明監督の『』(1985年)と類似する構図に思い当たることでしょう。それも、『乱』の主役を演じているのが、他ならぬ仲代達也なのですから〔尤も、クマネズミは、映画『乱』が嫌いなのですが〕!

(2)この映画で大層驚いたことは、86歳の淡島千景のすこぶる元気な姿です。



 それも、昔のように背筋をきちんと伸ばし、弟役・仲代達也に向かって実にはっきりと喋るのです(あのようにズケズケ言われたら、誰だって頭が上がりません!)。むろん、昔のような独特の声ではなくなりましたが、旅館を一人で取り仕切っている女将の風情が十分にくみ取れる姿でした(79歳の八千草薫よりも溌剌としている感じでした!)。

 そんなことが気になったのも、逆に主演の仲代達也の方が、まだ78歳でこれからとも言えるにもかかわらず、『老化も進化』(講談社+α新書、2009.6)なる本を出して、「老化」とか「人生も終盤を迎え」などと姦しく、挙句は同書の最終章は「グランドフィナーレの幕が上がる」と銘打ってしまっているからです〔尤も、その言葉は、亡くなった仲代達也の夫人・宮崎恭子氏の手帳の最後のページに書かれていたフレーズに基づくものですが〕(注)。
なにより、この映画で兄・重男を演じている大滝秀治が85歳なのです!


(注)同書の第1章「妻に先立たれるということ」は、1996年に亡くなった仲代氏の夫人のことが綴られていますが、仲代氏の様に、夫が、自分より先に亡くなってしまった妻の思い出を書いたものとしては、最近では、評論家・川本三郎氏の『いまも、君を思う』(新潮社、2010.5)があります〔他にも、西部邁氏の『妻と僕』(飛鳥新社、2008)、古くは江藤淳氏の『妻と私』(文藝春秋、1999)〕。


(3)映画評論家の論評は少ないものの、渡まち子氏は、「家族、失業、高齢化社会。物語からはさまざまな問題が浮び上がるが、祖父と孫という大きな年齢差の二人がコンビを組むことで、どこかトボけた面白味も。自分の過去に向き合い、後悔してもそれを口に出して言えない男の旅は、観客に生きる難しさを教えるものだ。脇役まで実力派俳優が固めていて、決して華やかではないこの作品を陰からサポートしている」として60点をつけています。


★★★★☆



象のロケット:春との旅
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マイ・ブラザー

2010年06月22日 | 洋画(10年)
 『マイ・ブラザー』(原題は「Brothers」)を恵比寿ガーデンシネマで見てきました。
 予告編で見たときからこの映画はいい作品ではないかと思っていましたので、公開されると早速出向いてみました。

(1)実際にも、マズマズの出来栄えだなと思いました。.
 戦争で傷つく若者と彼を支える家族とに関わりを取り上げているのですから、普通の描き方でも十分なところ、この映画ではさらに、兄と弟との関係、父親とその息子たちとの関係(ある意味で映画『エデンの東』以来おなじみのものとなっていますが)などが濃密に描かれているので、一層感動が深まるように作られています。

 簡単に内容に触れれば、海兵隊に所属する出来が良く父親の自慢の息子サム(兄)、強盗の罪で服役し最近出所したばかりの不肖の息子トミー(弟)、それに兄嫁のグレースが主な登場人物です。サムは、急に戦地アフガニスタンに出向いたと思ったら、戦死〔乗っていたヘリコプターがタリバンの攻撃で墜落〕の訃報がグレースのもとに届きます(注1)。トミーは、兄夫婦の子供の面倒を見ているうちに、グレースとの関係が親密になりかかるところに、突然トミーが帰還します。そこで、……というように、話は進行します。

 最近『ニューヨーク、アイラブユー』で見たナタリー・ポートマン演じるグレースが、当初は嫌っていたトミーを次第に憎からず思うようになっていく様子、折角恐ろしい戦地から帰還できたというのに弟が自分の妻を寝とったのではないかという疑念にさいなまれて荒れていくサム(トビー・マグワイア)の姿、自分はどこまでも父親に嫌われていると思い続けるトミー(ジェイク・ギレンホール)の荒み方、など実に念入りに描かれていて、そこにサムの戦地における悲惨な体験までも加わるのですから、漠然と見ていると何となく感動してしまいます。

 ですが、いろいろ問題があるのではと思います。
 弟のトミーと兄嫁のグレースは、お互いに思いを募らせてキスをするところまで至りますが、それ以上は踏み込みません。
 ある意味で、その点が、この映画の限界なのではという気がしないでもありません。兄夫婦の二人の子供たちは、十分にトミーに懐いていますし、なにより長年トミーを嫌っていたグレースが、トミーのことを悪い人ではないと思うようになったのですから、2人が愛し合うようになるのは自然の成り行きではないかとも思われるところです。
 その一歩手前でブレーキがかかることで、いくら兄サムになじられてもトミーはそれを毅然と跳ね返すことができ、そのことを通じてサムのトミーに対する信頼が蘇り、、最終的なサムの立ち直りを予感させるところにつながっていくのでしょう。
 しかしながら、映画的にはそうだとしても、それでは十分に詰め切れていないのではという違和感が残るのもやむを得ないのではないでしょうか?

 また、帰還したサムは、最終的には精神病院に入院することになります(いわゆるPTSDによるのでしょう)。そこで妻のグレースが、夫のサムに向かって、戦地で起きたことをすべて話してしまうべきだ、と言います。そうすれば強いストレスから解放されると信じて。そこで、やっとのことで、サムは自分が犯した恐ろしい出来事を告白することになるのですが、この映画は、そのことによって、あたかもサムが、そしてサムとグレースの夫婦が救われるだろうとの期待を観客に懐かせてしまいます。
 ですが、果たしてそんな告白によってサムはPTSDから救われるのでしょうか?そこにはかなりの飛躍があるのでは、と思えて仕方がありません。

 さらに、この映画では、サムが出向くアフガニスタンで戦うタリバン兵が出てきます。ところが、これらの兵士を演じる俳優については、劇場用パンフレットでは一切何も触れられてはおりません(おそらくクレジットでも)。まあアメリカに敵対する勢力に関することですから、ある意味で仕方のないことかもしれませんが、そうした扱いに対応するのでしょう、実に型どおりに非人間的な敵兵士像になってしまっています。アメリカ人兵士は、一人一人の背後に家族がいて、一人一人が様々なことに悩む姿が描かれるのですが、その一方でタリバン兵は、十羽一絡げの「その他大勢」扱い、非人道的なことばかりをする姿しか描かれません。

 よく考えてみると、何もタリバン兵による非道な仕打ちをサムが受ける場面をわざわざ設けずとも、この映画は十分成立するのではないでしょうか?単に、乗っていたヘリコプターが撃墜され、かろうじて助かったサムがケガの治療で1年くらい入院生活を送らざるを得なかったという状況でも、トミーとグレースの接近という事態はあり得るでしょうから(注2)。

 以上のような点が引っ掛かり、サムを演じるトビー・マグワイアやトミー役のジェイク・ギレンホールの熱演もあって映画全体の出来栄えはまずまずだとは思いますが、今一乗り切れませんでした。


(注1)つまらないことですが、米軍によるサムの戦死の確認方法がかなり杜撰な感じです。映画では3人もタリバンに拉致されるのですから、乗員数と死体の数との不一致にスグニ気がつくでしょうし、現地がタリバン支配地域でそうした確認が困難というのなら、戦死と断定するのにもっと時間をかけるべきではないでしょうか?
(注2)ヘリコプターの墜落という事故に遭遇すれば、それだけでサムのようなPTSDの症状を呈することは十分考えられます。


(2)この映画でサムとトミーの兄弟の父親役には、あのサム・シェパードが扮しています。以前ヴィム・ヴェンダーズ監督の『アメリカ、家族のいる風景』(2005年)で主役を演じていたときからそれほど経過してはいないのに、随分と老けてしまったなという印象を受けました。
 ところで、その映画も家族にまつわる話で、家族を顧みないで映画俳優として生きてきた男(サム・シェパード)が、急に気が変わって、砂漠ロケの真っ最中に30年ぶりに母を訪ねていくと、その母が、「ある女から電話があって子どもがいると伝えてきた」と話し、そんならその女の元に行くかということになって、と物語は進みます。
 今回の映画で描かれているしっかりとした家族とは180度異なる有様ですが、これもまたアメリカの家族の一つの典型なのかもしれません。

(3)映画評論家は総じて好意的だと思われます。
 町田敦夫氏は、「大きな困難に直面した家族が、愛の力で再生できるのかを問う普遍の物語だ。誤解してならないのは、「愛の力で再生する家族を描く映画」ではなく、あくまでも「それができるかを問う映画」だということ」だ、として70点を、
 渡まち子氏は、「映画は、戦争や戦場を直接的に描かないことで、悲劇はどんな人間にも起こりうると感じさせる。と同時に、どれほどのダメージからも生まれ出る希望があり、必ず帰る場所があるのだと、ジム・シェリダンは訴えているのだ」として60点を、
 福本次郎氏も、「戦争がもたらす黒い影といった題材にいまさら新鮮味はない。いや新鮮味がないことで、この作品はいまだ戦争の悲劇が繰り返されている愚かさを改めて告発しようとしているのだ」として60点を、
それぞれつけています。クマネズミにはヤヤ甘めのレビューだなと思えるのですが。


★★★☆☆


象のロケット:マイ・ブラザー
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パーマネント野ばら

2010年06月20日 | 邦画(10年)
 同じ原作者の映画『女の子ものがたり』が大変良かったこともあり、また菅野美穂の8年ぶりの主演映画ということもあって、『パーマネント野ばら』をヒューマントラストシネマ・有楽町で見てきました。

(1)余り先入観を持たないように映画を見ようとしたために、映画が始まるまでは、“パーマネント”の意味するところがよく分からないでいたところ、開始早々、これは「パーマ 野ばら」あるいは「美容室 野ばら」なのだとわかった次第です!

 それはさておき、主人公のなおこ(菅野美穂)は、離婚して一人娘を連れて高知の田舎町に舞い戻り、母親(夏木マリ)の経営する美容室の手伝いをしています。
 そこに来るお客さんの様子を見ただけで、『川の底からこんにちは』の女性従業員のことが連想され、あるいはひょっとしたらその映画と同じ雰囲気なのかもしれないと思い始めます。
 なにしろ、彼女たちは、昼間からこの美容室にたむろしてして、町の男たちを肴にあることないこと大声でだべっているのですから!
 それに、母親の今の旦那(宇崎竜童)は、別の女性のところに入り浸りで、なおこが戻ってくるよう頼みに行っても、「男の人生は真夜中のスナックや」という屁理屈を言って戻ろうとはしません。
 また、なおこの友達のみっちゃん(小池栄子)は、フィリピンパブを経営していますが、その夫が酷いダメ男で、店の従業員と浮気するは、どんどん金を使うはで、いつも大わらわです。
 また、そのお父さんは、薪として売るべく、チェーンソーで電柱を切断して(昔は実益から、今はわけも分からずに)、町中停電してしまいます。
 さらに、これもなおこの友達のともちゃん(池脇千鶴)も、いろいろなダメ男から暴力を受けてきたので、これまでとは違った殴らない男を選んだと思ったら、ギャンブル狂で、負けが込んだ途端に行方不明となってしまいます。
〔『女の子ものがたり』に登場する親友3人娘が思い出されるところです!〕

 ですが、『川の底からこんにちは』と似ているのもそんなところで、なおこが現在付き合っている高校教師のカシマ(江口洋介)が登場してくると、様相は一変してしまいます。
 このカシマは、まるで授業を受け持っていないかのように、いつでもなおこのもとに現れるのです。そして、優しくなおこの話を聞いてくれます。
 ただ、近くの温泉場の旅館になおこと行っても、夜中に知らないうちにいなくなってしまったりします。なおこが、余りの寂しさにカシマに電話をするのですが、なにか普通の電話の雰囲気とは違います。
 と思っていると、なおこの高校時代の回想シーンで、カシマの遺影が飾られた葬式の光景が描き出され、どうやらカシマは海で遭難したようなのです。
とすると、現在のなおこの恋人のカシマとは?……。
 ですが、こんななおこのことを、町中の人はやさしく受け入れているようです。ナンノカンノ言いながら、町の女は誰も、「そばに好きな男がいたら、人生毎日正月」の精神で男を許してしまうのです。

 過去の男に執着していながらも、現実には小さな娘を育てている女性という極めて難しい役柄を、さすがに菅野美穂はうまく演じていますし、小池栄子も、最近のどの映画にもまして力いっぱい「みっちゃん」の役を演じています。また、殴られたり騙されたりしながらも男に感謝してしまうという女性を演じる池脇千鶴も素晴らしいものがあります。

 漫画の持っている素晴らしく詩的なところが、映画の性質上仕方がないのでしょうが、幾分説明的になってしまっているきらいがあるとはいえ、こうした配役陣に支えられて、感動的な作品に仕上がっているものと思いました。

(2)この映画の原作は、映画『女の子ものがたり』の原作漫画を描いた西原理恵子が描いた漫画です(新潮文庫)。
 ただ、前回の場合、原作にはない漫画家(深津絵里)が登場したりしますが、今回作品は、原作漫画からそんなに大きく逸脱していません。
 とはいえ、みっちゃんは、原作では、「私のことなんか誰もみてくれてないし、ほめてもくれへん」と自分で言ってしまうほどブスなのですが、それを映画では小池栄子が扮しているのですから、大違いといえば大違いでしょう。
 ともちゃんの旦那についても、原作では単に「山の中の一軒家でのたれ死んだ」とされていて(どうやら“薬”をやっていたようです)、映画のように、賭け麻雀狂で、借金に追われて山に逃げ込んで云々とは描かれてはいません。
 一番大きな違いは、映画に登場する高校教師のカシマについてです。漫画では、要所要所に登場しますが、いつも夜の場面で、さらには「私の好きな人」とだけあって、どこまでも漠然としか描かれてはいません。名前も職業も明示されませんし、それも「おっちゃん彼氏」とみっちゃんから言われるように初老の男性なのです。
 そして、漫画のラストでは、海岸で「好きな人」と会っている最中に現れたみっちゃんに、「わたしくるってる?」と言うところからすると、なおこのつきあっている初老の男性は、なおこの妄想の中にしかいないのでしょう。
 これに対して、みっちゃんは、「そんあやったら、この街の女はみんな狂うとる」と答え、さらにはなおこの母親も、「女は年いくとどれもこれも立派な妖怪やわっ」などと言っているところから、街中でそういうなおこを優しく受け入れていることがよくわかります。




 こうして、漫画は漫画で、映画とは別の一つの美しい詩的世界を作り上げているものと思います。

(3)映画評論家はまずまずの評点を与えています。
 渡まち子氏は、「自分につくささやかな嘘は、皆が共有するオープンな秘密。そんな設定が納得できる小さなコミュニティの揺るぎない優しさが心にしみるのである。菅野美穂の独特の浮遊感がいいが、原作者の出身地である高知県でロケしたという、港町の風情も魅力的だった」として65点を、
 福本次郎氏は、「出てくる男たちは甲斐性なしの人間ばかり。こんなクズどもは放っておいたほうがよいと思えるのに、それでも彼女たちは見捨てない。愛されるよりも愛することを選び、情けない男のために尽くすことが習い性になった女たちの 「いつも恋していたい」という言い訳がいとおしい」などとして50点を、
それぞれつけています。



★★★★☆


象のロケット:パーマネント野ばら
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トロッコ

2010年06月19日 | 邦画(10年)
 落ち着いた文芸物でも見たいものだと思い、『トロッコ』を銀座のシネスイッチで見ました。

(1)この映画は、いうまでもなく、芥川龍之介の短編『トロッコ』を原作としています。ただ、舞台を日本から台湾に移したこともあって、原作とはかなり味わいの異なった作品に仕上がっています。
 まず、原作は、良平という8歳の少年一人のお話ですが、映画では、同じ8歳の少年・敦のみならず、凱という次男坊も登場します。
 また、映画は、急死した台湾人の父親の遺骨を携えて、2人の少年とその母親が、台湾の田舎にいる祖父・祖母のもとに出かけるところから始まります(注1)。台湾の実家では、台北で離れて暮らす弟夫婦が待ち構えてもいます。
 したがって、映画の構図としては、家族、それも海を越えた家族のつながりが前面に出てきます〔老齢の義理の親たち―祖母は病身でもあります―の面倒を今後どう見ていくのか、という難問が具体的には起こります〕。
 このほか、家族の中での子供の位置も注目されるところです。というのも、敦は、母親に愛されていないのではないか、自分や弟の凱は厄介者として台湾に置き去りにされるのではないか、という疑いをひそかに持っているのです(注2)。

 とはいえ、敦が父親から渡された写真に、トロッコを押す祖父の姿が映っているところから、原作とのつながりが出てきます。
 二人の兄弟は、写真に似たトロッコを探し出して、そこに現れた青年とともに、それを押しながら森に中に入っていきますが、……。

 最近、NHKTVのドラマ『火の魚』(3月13日再放送・注3)で見かけた尾野真千子が、義理の両親等との関係で悩むだけでなく、2人の幼い子供をこれからどうしようかと思案する母親・夕美子役を大変見事に演じているな、と思いました。
 また、トロッコを押して森の中へ入っていく時の高揚した気持ちと帰りの必死の思いなどを、二人の子役はよく出していると思いましたし、台湾の俳優の日本語が達者なことにも驚かされます。

 映画では、結局、義理の両親は、弟夫婦のいる台北に行こうとしませんし、残って面倒を見るという夕美子の申し出も断って、自分たちだけで暮らしていくことになりますが、それでは一時しのぎにすぎないでしょう。
 また、夕美子は子供たち二人を連れて日本に帰ることになりますが、そしてライターとしてこれまでそこそこ仕事をしてきてはいますが、実際問題として生活がかなり苦しくなるのは目に見えているのではないでしょうか?
 台湾の緑に溢れた自然がたっぷりと描き出され、また現地の子供たちと兄弟とが生き生きと遊びたわむれる様子も描かれ、義理の両親も実に優しく接してくれ、まるで台湾はユートピアのようなのですが、実際には重い現実が背後にあるのだということも、明示的に描かないからこそ逆に見る者に十分に伝わってきて(注4)、文芸映画として良くできていると思いました。


(注1)父親の不在という点では、あるいは、映画『海角七号』において、日本人の教師が、愛する台湾人の女性を置き去りにして日本に帰国してしまったことと対応しているといえるかもしれません。
(注2)敦が夕美子を見る目つきは、明日取り上げる予定の『パーマネント野ばら』の中で、引越し用トラックの運転席で、幼いなおこが若い頃の母親を見たときの目つき(自分は母親たちに余計者だと思われているとの疑いを持った目つき)に似ているな、と思いました。
(注3)読売新聞の11日の記事によれば、『火の魚』は、国際コンクール「モンテカルロ・テレビ祭」でフィクション番組テレビ映画部門の最優秀賞にあたる「ゴールドニンフ賞」を受賞したとのこと。
(注4)義理の父親が、日本軍に3年も従事していたのに日本国籍がないという理由で軍人恩給の適格者から外されたと憤る場面が描かれてはいますが。


(2)芥川龍之介の短編『トロッコ』は、だいたい次のようです。
 この短編は、「小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった」というところから始まります。その工事現場で使われる土砂運搬用のトロッコに非常に興味をもっていた良平は、ある日、トロッコを運搬している土工と一緒に、トロッコを押すことになります。最初は有頂天なのですが、次第に帰りが不安になってきたところ、途中で土工に、遅くなったから帰るように言われます。一人暗い坂道を一心に駆け抜け、家に着いたとたん、良平は泣き出してしまうのでした。
 という小さい時の体験を、大人になった良平が回想するという構成をとっています。その短編の末尾は次のようになっています。
 「良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………」〔『蜘蛛の糸・杜子春』(新潮文庫)収録〕

 この作品は、中学校の国語の教科書に掲載されて、国語の試験問題でいろいろ取り上げられているようです。たとえば、芥川龍之介は、この短編を書いて何が言いたかったのかとか、「塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している」とは何を言っているのか、などなど〔中にはこんな問題もあります〕。
 ですがこの短編は、むしろ、末尾の思わせぶりな書き込みさえなければ、と思っています。このお話の意味合いなどをあらかじめ明示的に作者が書いてしまっては、それを読む者の想像力を何も刺激しないのではないでしょうか?

(3)映画評論家はまずまずの評点を与えています。
 渡まち子氏は、「日本と台湾を結ぶ父親がいなくなっても、優しい絆は確かにある。「また、いつでもおいで」。おじいちゃんのその言葉に涙が溢れた。日台双方の俳優の自然な演技と、名カメラマンのリー・ピンピンの美しい映像が堪能できる至福を静かに味わいたい」として70点を、
 福本次郎氏は、「映画は、他人を思いやる余裕をなくした日本人母子が、山深い台湾の小さな村で生活する人々との交流の中で、疲れてざらついた心を癒していく過程を描く」として50点を、
それぞれつけています。


★★★☆☆


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プレシャス

2010年06月17日 | 洋画(10年)
 映画『プレシャス』に出演したモニークという俳優が、アカデミー賞助演女優賞を獲得しているというので、それならばいい映画に違いないと見込んでTOHOシネマズ・シャンテで見てきました。

(1)この作品の主人公プレシャスは、恐ろしいほどの肥満体質に加えて、読み書きが出来ず、いつも一人でいます。
 おまけに16歳という年齢でありながら、映画の開始の時点では2度目の妊娠中。それも、母親がとっかえひっかえする父親のレイプによるとのこと〔最初の子供―なんとダウン症なのです!―は、お祖母さんが養育中〕。
 失業していて麻薬中毒の母親は、そんな事情もあってか、彼女に酷く冷たく当たります。
 さらに、プレシャスは、通っていた学校を妊娠のせいで停学になり、オルタナティブ・スクールに通うことになります。
 そこでプレシャスは若い女性教師レインと出会うのですが、これが彼女の転機になります。その親身な指導のおかげで彼女は読み書きを覚え、次第に希望の光を見出し始めます。
 とはいえ、そのまま一本調子で進むわけではなく、ラスト近くになると、プレシャスは、父親にレイプされた際にエイズをうつされたことがわかったり、マライア・キャリー扮する市福祉課職員の前で母親と対決するなどのさまざまの試練が待ち受けています。



 ですが、主役を演じるガボレイ・シディベの類い稀なる資質によるのでしょう、そんな厳しい状況に置かれているプレシャスにも何かいい未来があるのかもしれないと、観客に希望を持たせてくれます。

 また、プレシャスが出会う教師レインを演じたポーラ・パットンは、黒人ですがなかなかの美貌で、教師役としての演技も素晴らしいものがありました。



 確かに、プレシャスの母親を演じたモニークは、難しい役を実にうまく演じていますが、映画からは、こちらのポーラ・パットンの方が強い印象を受けました。



 なお、映画の設定は、1987年のニューヨークのハーレムとなっているところ、米国社会の詳しい事情のわからない者にとっては、20年前と今との差はあまり分かりません。このお話は、まさに現代の状況ではないかと思えてしまいます〔黒人極貧層を巡る状況は、現在でもあまり変わってはいないのではないでしょうか?〕。

(2)プレシャスは、通常の学校では授業についていけないこともあって、「イーチ・ワン・ティーチ・ワン」というオルタナティブの学校に入りますが、そこで先生が、各人にアルファベットを順番に黒板に書かせるシーンがあります。
 ところが、驚いたことに、皆、筆記体ではなく活字体でアルファベットを書くのです。

 しばらく前のことになりますが、日本でもそんなことが言われていて、3月15日のTV番組「ズームイン」では、この話題が取り上げられました(注)。
 本家でも分家でも、同じ事態になっているのかもしれません。
 尤も、日本の場合、パソコンの普及で、筆記体アルファベットどころか、易しい漢字さえも、書く必要がなくなってきたためもあって書けなくなっているようで、むしろそちらの方を嘆くべきなのかも知れません。


(注)同番組では、「今、英語の筆記体を書けない若者が増えているそうです。学力が落ちているわけではなく、英語が得意でも筆記体だけ出来ないのです。2002年から学習指導要網が変わり、筆記体は教えなくなってもいいことになったため、この時、中学生だった、現在の22歳より下の世代は筆記体を学校で習ってこなかったのです」云々という問題意識から、この話題を取り上げたようです。


(3)映画評論家は、この映画に対して、総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「主人公を演じる新星ガボレイ・シディベの問答無用の力強さ、彼女を導く教師役ポーラ・ハットンの凛とした美貌。そして、嫌悪感そのものを体現するような母親役モニークの凄みはどうだ。怠惰で暴力的、精神的に病んでいるとしか言いようのない母親メアリーの終盤の独白は、すさまじい迫力で圧倒される」として80点もの高得点を、
 福本次郎氏も、「映画は彼女に明るい未来を示唆するような甘い結末を用意するわけではない。それでも運命は切り開いていくものだという人生の真実をプレシャスは学び、己の力で歩きだす決心は前向きな希望を与えてくれる」として80点を、
それぞれ与えています。

 ただ、前田有一氏は、「別に実話じゃないのだし、下手な先入観を持たぬためにもテーマの普遍性を強調する意味でも、舞台はもっとぼかしてもよかったろうと思う」として60点しか与えていません。
 とはいえ、「舞台設定をぼかす」ことによって「テーマの普遍性が強調」されるというのは、前田氏の酷い思い込みであって、逆に時代性を強調することによって、テーマのリアルさが強調され、ひいてはその普遍性も確保されるのではないかと思われます。
 さらに、「87年のハーレムというのは、今の日本人からするとあまりに遠い世界で現実味がない」と前田氏が言うのは、どういう意味合いなのでしょうか?ハーレムの年々の変貌ぶりなど知らない日本人が大部分であって(アメリカ人だってそうかもしれません!)、20年前のハーレムの世界が「あまりに遠い世界で現実味がない」などと言いうる日本人は、前田氏を含めごくわずかではないでしょうか?

(4)なお、この映画について、神戸女学院大学の内田樹教授は、そのブログにおいて、概要次のようなことを述べています(注)。
 「これまで作られたすべてのハリウッド映画は、本質的に「女性嫌悪」映画だったが、『プレシャス』はその伝統にきっぱりと終止符を打った。
 本作は、たぶん映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画である。
 本作の政治的意図は誤解の余地なく、ひさしく女たちを虐待してきた男たちに「罰を与える」ことにある。だが、その制裁は決して不快な印象を残さない。それは、その作業がクールで知的なまなざしによって制御されているからである。
 本作は、アメリカ社会に深く根ざし、アメリカを深く分裂させている「性間の対立」をどこかで停止させなければならないという明確な使命感に貫かれている。その意味で、本作は映画史上画期的な作品であると私は思う」。

 ここまで大仰に言えるのかどうかは別として、仮にそうであるならば、その日本版が、あるいはひょっとして石井裕也監督の『川の底からこんにちは』ではないかとも思えてきます。
 何しろ、同映画に登場する男性陣はみなダメ人間ばかりで、逆に女性陣は、主役の木村佐和子をはじめとして皆がんばりやで、シジミ工場の再生に取り組もうとしているのですから!社歌を歌う女性従業員の姿は、内田氏が言う「女性たちだけのホモソーシャルな集団」に該当しないでしょうか?
 それに、「男性のクリエイターが男性嫌悪的なドラマを進んで作り出すようになった」結果が『プレシャス』だとしたら、『川の底からこんにちは』を製作したのは、主に監督・脚本の石井裕也氏以下の男性スタッフで、その意味でも通じるものがあるといえるかもしれません。

 尤も、『川の底からこんにちは』のプロデュサーは女性(天野真弓)ですし、映画には男性陣もかなり登場します〔『プレシャス』では、先生のレインがレズビアンという設定をすることなどによって、徹底的に男性が排除されています〕、また「ダメ人間」の男性を、女性陣は「罰を与える」ことなく、結局は許してしまっている節も見受けられるところで、『プレシャス』ほどの筋が入った作品になってはいないといえるかもしれません。
 また、それが「辺境」に位置する日本という国で映画を製作することなのかもしれませんが!

(注)劇場用パンフレットにも、その中核部分が掲載されています。



★★★☆☆


象のロケット:プレシャス

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『グラキン★クイーン』―カメラの視線(下)

2010年06月15日 | DVD
 カメラの視線という点に関して、前日の記事で再度取り上げた映画『愛のむきだし』とは正反対の方向性を示していると思われるのが、映画『グラキン★クイーン』(監督・脚本:松本卓也)です。

 この映画については、友人が見に行ったと言ってくれるまで全然知りませんでした。それを聞いて慌ててネット検索したところ、以前シネマート六本木で1週間公開されたことがあり、最近では渋谷のUplinkでこれまた1週間だけ上映されたものの、今は東京では公開されていないようなのです。ところが、驚いたことに、この5月下旬にはDVDがレンタルできるようになりました。それではと、早速借りてきて見てみました。
 


(1)ストーリーはいとも簡単。史上最強のグラビアアイドルを目指す風変わりな女子高生・マリン(西田麻衣)と、ひそかに最強のグラビアカメラマンになりたいと思っている男子高生・ニコ(松本光司)が、喧嘩したり助け合ったりしながら、いつか最強のコンビとなろうと頑張っています。
 マリンは、「マリンビューティ歩き」なるオカシナ技法を編み出したりして、密かに鍛錬を続けています。また、マリンとニコは、伝説のカメラマン・木屋野が住んでいる瀬戸内の小島に行って、そこで修行を積みます。
 こうして二人は、名の通ったエージェントから東京に出てこないかと誘いを受けるまでになります。その誘いに二人の心は揺らいだものの、結局は、もう少し地方で鍛錬を積んでみようということになるのでした。

 映画の舞台は香川県、香川県のご当地映画といえば、最近では映画『UDON』(注1)でしょう。デジャヴかなと一瞬思ったのは、マリンが出場した「香川オリーブガールコンテスト」のシーンで、それが開催されたステージ(瀬戸大橋記念公園内のマリンドーム)は、なんと『UDON』でも見かけました(注2)。
 これだけでなく、讃岐うどんに関連付けたマリンの姿をニコが撮ったりと、この映画も『UDON』同様、地方色豊かな作品となっています(注3)。



 それに、全般的にコメディタッチに仕上げられています。たとえば、本名が木村千代子だから“チョッキーナ”といわれるプロのグラビアモデル(中島愛理)が登場しますが、じゃんけんのチョキを出したりチョッキを着たりして写真を撮られたり、マリン同様このコンテストの選に漏れ、怒って東京に帰る時に、「東京に“直帰”する」などとどうしようもないダジャレを言ったりします。
 マア、つまらないことは何も考えずに、単純に見て楽しむ映画といえるでしょう。

(2)ここで、前日取り上げたブログ「はじぱりlite!」における議論との関係をみてみましょう。
 この映画で中心的に取り扱われているのはグラビア写真です。
 それはまさに、「堂々と目の前に広がる風景を写しとること」を実践して制作されるものでしょう。すなわち、グラビアカメラマンは、グラビアアイドルに“堂々と”正面からカメラを向けて、どんどん撮影していくわけで、前日の記事で取り上げました「盗撮」とは完全にベクトルが逆を向いていると考えられます。

 さらに言えば、グラビア写真の撮影の場合、グラドルは決して「自然」の様ではなく、一定のポーズをとることが求められます。
 ポーズには過去からの蓄積があるようで、マリンとニコがその下で修行した木屋野(マリンたちが島を後にした後、急死してしまいます)の遺影が、ある程度こうした点を象徴的に示しているのではないかと思われました。なにより、グラドルを相手に撮ることを専門とするプロ・カメラマンが、今度は自分が被写体になると(この写真はニコが撮影しました)、1966年の資生堂ポスター(モデル:前田美波里)に若干ですが類似したポーズをとってしまうのですから!





 また、グラビア写真の場合、カメラマンは、いうまでもなく隠れた存在ではなく、表の存在ではあるものの、それだけに却ってグラビアアイドルの名前の陰に隠れて注目されない存在になってしまうことが多いのではないでしょうか(注4)?
 これに反して、盗撮の場合は、逆に、撮影する姿を悟られないようにするがために、かえって「監視」の目に曝されてしまうことにならないとも限りません。

 といっても、上で述べたように、マリンとニコは、瀬戸内の小島に行って修行を積んだりします。特に、ニコが木屋野に言われて取り組んだのは、撮影技法ではなく讃岐うどんの打ち方の習得でした。ただ、美味しい讃岐うどんが作れるようになると、カメラ撮影の腕の方も飛躍的に上達しているのです。
 ここらあたりは、前日の記事で触れた『愛のむきだし』において、ユウがロイドマスターの下で盗撮の修行をするのにヨク対応しているといえ、そうしてみれば、盗撮とグラビア写真の撮影とは、そんなに距離が遠いものとも言えないのかもしれません。

(3)最後に前回の議論と合わせて考えてみましょう。
 確かに、写真の本質が「自然」をありのままに撮ることであれば、「盗み撮ること」が写真の本質といえそうです。
 ただ、もっと大雑把に、写真とは単に「ものを写すこと」だと言ってしまえば、人工的に作られた姿などを正面から隠れることなく撮ることも写真の本質の中に入ってくるのかもしれません。
 なにより、当初の写真で中心的だったのは肖像写真だったのでしょうから(注5)。



(注1)本広克行監督、2006年。
(注2)映画『UDON』では「さぬきうどんフェスティバル」の模様が描かれていて、マリンドームにおいては、主演のユースケ・サンタマリアと小西真奈美の司会のもとで、「さぬきうどん王選手権」が開催されました。
(注3)主人公の名前が「マリン」というのは、あるいは「マリンドーム」のように、香川県には「マリン」の付くものが多いことによっているのかもしれません。また、競演の男子高生が「ニコ」とされているのは、彼がいつも持っているカメラが「ニコン」であることに、またマリンの妹(飯田里穂)の名前が「ラム」というのも、伝説のグラドル「アグネス・ラム」にちなんでいるのかもしれません。
(注4)たとえば、ここで挙げたモデルの前田美波里とカメラマンの横須賀功光氏との関係はどうでしょうか?
 尤も、最近の篠山紀信氏の場合のように、青山墓地でのヌード撮影をして、その写真を公表したりすれば、警察の介入を招くという結果につながってしまうわけで(30万円の罰金)、であればカメラマンが隠れた存在になるものでもなく、ここらあたりの図式的な関係性は確信をもって言えるわけではありませんが。
(注5)1839年に公開されたダゲレオタイプは、当初、直射日光の元でも露光時間が10分程度もあって撮影する対象は限られていたものの、スグニ改良されて露光時間は2~3分となり、「肖像写真」が可能となって社会に浸透していった、とされています〔『写真の歴史入門―第1部「誕生」』(三井圭司/東京都写真美術館監修)P.17〕。
 ちなみに、東京都写真美術館では、「侍と私-ポートレイトが語る初期写真-」なる展覧会が開催されているところです。

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『愛のむきだし』再論―カメラの視線(上)

2010年06月14日 | DVD
 ブログ「はじぱりlite!」の6月6日の記事「カメラ、盗み見る視線」では、ロンドンのテイト・モダン美術館の企画展『Exposed―Voyeurism, Surveillance and the Camera』(注1)を見て触発された注目すべき議論が展開されています。



(1)ブログにおけるtrippingdog氏の議論は、あらまし次のようなものです。

 この企画展のテーマは、写真の本質を「盗み見ること」のうちに見出そうという、いささかショッキングで挑発的なものだ。というのも、一般に、カメラの本質は、「盗み見ること」などではなく、堂々と目の前に広がる風景を写しとることだと思われているから。
 だが、目の前の風景をそのまま「写す」ためには、写している主体であるカメラの存在が、その風景からできる限り差し引かれなければならないのだ。すなわち、自然を写すためには、カメラはできるだけその存在を消さねばならないことになる。
 こう考えていくと、写真の本質が「盗み見ること」にあると分かってこよう。
 そういう本質をあからさまに示しているのは、公共の視線からは隠され秘められた「女性の裸体」を写すことだろう(ただそれだけでなく、恐怖や暴力、死といったものに強く惹きつけられた写真もあるが)。
 このように、カメラを構える我々は、世界から遠ざかり存在を消そうとする。しかしながら、他方で、その一挙手一投足は、「監視カメラ」によって記録され、我々は紛れもない世界の一員として、そこに投げ込まれるのだ。
 要すれば、盗み見るという行為のうちには、現場から逃れることと、現場に捉われるということの二重性があるように思われる。逆に考えると、カメラという小さな道具は、監視する権力の片棒を担ぐことであると同時に、その権力の裏をかいて、そこから逃れるための突破口を開くことを可能にするかもしれないのだ。

(2)これは大変興味深い見解だと思います。
 そこからは、様々な連想が湧いてくるところ、以下では、誠に卑近な例示になってしまいますが、当ブログの関心事項である映画の方に話を引き寄せることといたしましょう。

 実は、先般の映画『愛のむきだし』に関する記事においては、専ら満島ひかりに焦点を当てたため全然触れなかったのですが、映画の前半では、主人公ユウ(西島隆弘)の「盗撮」行為がかなり描かれているのです。

 映画で辿られる経緯は次のようです。
 主人公ユウの父親テツ(渡部篤郎)―キリスト教会の牧師―は、情熱的な女性カオリ(渡辺真起子)が自分の下を去ると、ユウに「懺悔」を強要し出します。ユウは、愛する父との繋がりを保とうと、「懺悔」「告白」のネタとなる罪な行いを続け、遂には女性のスカート内部を隠し撮りする「盗撮」という犯罪行為に辿り着きます。
 これをユウが「告白」すると、テツは激怒します。ですが、テツに殴られながらも、自分の行為が父親の関心をいたく惹いたことに満足して、ユウは「盗撮」に一層はまり込みます。果ては、ロイドマスターと呼ばれる「盗撮」の師匠のところまで行き、その下で「盗撮」技法の修行を積み、ついには「盗撮」マスターへと成長します。
 そんなユウは、ある日、盗み撮りした写真の出来具合を競う仲間内のゲームに負け、罰ゲームとして女装して街中を歩いていた最中に、理想の女性ヨーコ(満島ひかり)と巡り合うのでした(ここまでが映画『愛のむきだし』の序論といえるでしょう)。

(3)この映画の「盗撮」について、もう少し見てみましょう。
 まず、上記ブログの論考においては、「カメラの発明とほぼ同時期に、盗撮のための道具が発明されてい」ることがこの企画展では示されている、と述べられています(注2)。
 『愛のむきだし』におけるユウも、ロイドマスターの下で受けた修行を通じて、三節棍の先端にカメラを仕込んでスカートの内部を撮影するやり方(下図)とか、女性の背後で側転しながら撮ったり、股間に正拳突きを繰り出して写したり、といった技法(中国の無影拳を活用した技法だとされます)を習得するのです。



 こうした様々な技法を身につけたユウは、仲間を引き連れて「盗撮」に励むことになります。
 ただ、ユウの行為は、性欲(「いわゆるポルノ写真に対する欲望」)を満たすために行われるものではなく、単に父親の関心を自分に惹きつけておくために行われているにすぎないのです。その意味では純粋「盗撮」といえるかもしれません。
 
 としても、いうまでもなく、この映画が取り上げている「盗撮」は、上記の論考が扱っている「盗み撮る」行為の中のほんの一部にすぎず、それも犯罪を構成するものです。
 なにより、「盗撮」をするユウたちは、堂々と被写体の前に姿を現すのです(ただ、カメラの存在は見えないようにして、「盗撮」行為であることがあからさまにならないようにしますが)。他方、普通に考えられる「盗み撮り」は、カメラはむろんのこと、カメラマンも被写体から隠れた位置に陣取ることになるでしょう。

 あるいは、この映画における「盗撮」行為は、別の何かを象徴すべく大袈裟に誇張して描かれているだけで、上記の論考との関連性を云々しても意味がないとも考えられます。ただ、監督自身は、このストーリーは実話(「盗撮」をする男が、ある宗教団体に拉致された妹を、何とかそこから離脱させたという)に基づくものである、と述べています。

 更に付け加えると、この映画では、ユウらの「盗撮」行為を密かに見張っている人物が描かれているのです。すなわち、テツの教会の信者を丸ごと自分たちのカルト宗教団体「ゼロ教会」に引き入れてしまおうと狙っているコイケ(安藤サクラ)たちです。
 コイケたちの行為は、カメラマンの「一挙手一投足」をも記録してしまう「監視カメラ」そのものではありませんが、ここには、一方で撮影するの姿を被写体の視線から隠して「盗み撮り」しながらも、他方でその行為自体は別の視線によって捉えられているという、「盗撮」-「監視カメラ」の構図に類似したものがうかがえるようです。

 なお、「監視カメラ」については、上記ブログの論考においては、「監視カメラは、その存在を隠すというよりはむしろ誇示することによって、私たち自身の内側に、「監視する視線」を植え付けていく機構」だと述べられています(注3)。
 興味深いことに、ゼロ教会のコイケたちも、ユウたちを見守っているぞという姿勢をあからさまに見せつけます。ただ、その存在によって、監視カメラは犯罪行為の防止に役立つのでしょうが、コイケたちの監視行為は、自分たちの存在をユウたちに認めさせることが目的であって、ユウたちの盗撮を止めさせることが目的ではありませんが。


(注1)この企画展の概要についてはここで、展示されている作品の一部分は、このサイトとかこのサイトなどで見ることができます。
(注2)テイト・モダン美術館のHPに掲載されている企画展ガイドによれば、つとに19世紀には、ステッキや靴の内部とかジャケットの内側に隠すことの出来るカメラが作られているようです。
(注3)映画の原作の『ゴールデンスランバー』(伊坂幸太郎著、新潮社)には、ある通り魔事件を契機に仙台市内に設置されたとされる「セキュリティポッド」がでてきます。それは、「昼夜問わず、街の通行人の映像は、圧縮画像としてポッド内に保存され、使用された携帯電話、PHSの発信者情報も記録される」というもの(P.25)。小説の設定では、仙台市はかなりの「監視社会」になっているようです。

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