映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊

2017年07月29日 | 洋画(17年)
 『パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)本作のものすごい宣伝に容易く煽られてしまって(注1)、それでもできるだけ遅くなってからと、映画館に出向いてみました。

 本作(注2)の冒頭では、夜間、火が灯る灯台のある岬の先の海で、少年のヘンリーが小舟を漕いでいます。月明かりの下、彼は手にする地図を広げます。
 次いで、ヘンリーは、ロープの一方の先を足に、他方に石を巻きます。そして、その石を海に投げ入れて、海の底に向かいます。
 少年がたどり着いたのは難破した海賊船のフライング・ダッチマン号。
 すると、その船は海上に浮き上がり、ヘンリーも立ち上がります。
 そこに、大人の男が登場します。
 ヘンリーが「父さん?」と尋ねると、男(注3:オーランド・ブルーム)は、それには直接答えずに、「何してる?」「俺の姿を見ろ。住む世界が違っているのだ。母さんの下へ帰れ」と言います。
 それに対し、ヘンリーは「諦めない」「父さんは呪われている」「“ポセイドンの槍”を見つければいいんだ」と言います。
 すると、男は「そんなものは見つからない」「伝説にすぎない」と応じます。
 ですが、ヘンリーは「ジャック・スパロウジョニー・デップ)もいる」「必ず迎えに来る」と言い張ります。
 しかし、なおも男は「許してくれ」「呪いは解けないんだ」「運命なのだ、忘れてくれ」と言って、ヘンリーにネックレスを渡しながら「愛してる」と告げます。

 海賊船は海の中に沈み、ヘンリーは元の小舟の中に戻っています。

 次いで9年後。
 青年となったヘンリーブレントン・スウェイツ)は、英国軍の軍艦・モナーク号に水兵として乗っています。
 その軍艦は、今、海賊船を追跡中。
 艦長が「追い詰めろ」と命じると、ヘンリーは、一介の水兵であるにもかかわらず、艦長に向かって「駄目です。この洞窟の先は魔の三角海域です。私は呪いを学びました」「進路を変えなくてはいけません」と進言しますが、逆に、反逆者として捕まえられて船の牢屋にブチ込まれます。

 軍艦は、最初の進路を進んで洞窟の中に入っていきます。
 すると、見張りから「何か浮かんでいます」「右舷に船です」「難破した船です」との連絡が入ったと思う間もなく、その船が攻撃をしてきます。
 艦長は「大砲を撃て」と叫びますが、すでに間近に相手の船が迫り、その乗組員が軍艦に乗り込んできて、水兵たちは見る間に殺られていきます。
 襲いかかってきたのはサラザール(注4:ハビエル・バルデム)が率いる亡霊たちの軍勢。



 サラザールは、艦長を殺した後、牢屋にやって来て、その壁に貼られているジャック・スパロウの手配書を指差し、ヘンリーに「我々は呪いにとらわれている」「スパロウを探し出せ」と言い、さらに「サラザールからの伝言だ」「我々が日の目を見る時に、ヤツの死が訪れる」と付け加えます。

 こんなところが、本作の最初の方ですが、さあこれからどんな物語が展開するのでしょうか、………?

 本作は、大ヒットシリーズの第5弾目。最初のうちはバラバラな感じがする様々のエピソードが、主人公のジャック・スパロウが上手く絡んでくることによって、次第に一つの焦点に結びついてきて、4作目までを全く見ていないにもかかわらず、本作だけでもなんとかついていくことができました。それにしても、よくもこれだけのお話を一つの映画の中に盛り込んだものだと感心してしまうほどであり、ストーリーはあれよあれよと急展開します。でもそれが、CGを使った大層ファンタジックな映像の中で描き出されていて、本シリーズの人気の高さもなんとなく分かる感じがします。
 実に楽しい映画で、それはそれで構わないとはいえ、ただこうも金のかかったお伽噺を見せられると、いったい本作の持つ意味合いは何なのかと考えてしまうところです。

(2)本作は、シリーズの第5作目であるにもかかわらず、これまでの4作を全く見ずに(注5)、本作の予告編だけを見て映画館に入りました。
 でも、それほど混乱もせず見終えることが出来ましたから、映画全体が上手く仕上がっているのでしょう。

 さらに言えば、
 海賊船同士や軍艦との戦いが随分とリアルに描き出されていて、特に、サラザール率いる幽霊船のサイレント・メアリー号が相手の船を飲み込んでしまうような戦いぶりは凄差を感じました。

 また、ジャック・スパロウとカリーナカヤ・スコデラリオ)が、それぞれギロチンと絞首台に連れて行かれ(注6)、処刑寸前になって、ヘンリーやジャック・スパロウの仲間たち(注7)によって救出されるシーンは、次々と場面が思いもよらない方向に変化して、スリルと面白さを味わうことが出来ます。

 総じて、本作では、海賊船の冒険が描かれていることもあって、冒頭から広々とした海のシーンが大層巧みに映し出されています。
 特に、海が2つに割れて“ポセイドンの槍”が姿を現す場面は、例えば、飛躍しますが、『偉大なる、しゅららぼん』で琵琶湖が割れて道が出現するシーンを思い出したりしました。



 とはいえ、
 何隻もの大型帆船が登場し、ある場合には相互に戦ったりするので、最初のうちは、一体どれが味方でどれが敵なのかがわからなくなってしまう感じです(注8)。

 また、映画の主人公はジャック・スパロウとされています。



 ですが、本作では、彼はあくまでも“狂言回し”であって、むしろ、ヒーローはヘンリーであり、ヒロインはカリーナのように思えます。



 なるほど、ジャック・スパロウは、ギロチンにかけられたり、金庫を銀行から盗み出そうとしたり、“海の死神”のサラザールに付け回されたり、いろいろ活躍はします。ですが、それらはあくまでも脇のエピソードであり、本筋は、ヘンリーが、『ガリレオ・ガリレイの日記』(注9)を持つカリーナの助力を得て、“ポセイドンの槍”を探し出し、父親ウィルの呪いを解くことにあるように思われます。
 そういった構成も、本作のストーリーを複雑なものにする一つの要因になっているようにも思います。

 さらに言えば、アイデアが既存のものから借りてきているものがあるように思います。
 例えば、これはすでに指摘されていることながら、ジャック・スパロウらは、セント・マーティン島に設けられた銀行から金を奪い取ろうとして、銀行ごと馬に引っ張らせて街中を引きずり回すことになりますが、この場面は、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロの目抜き通りを主人公のドミニクと元警官のブライアンが乗る2台の車が10tもの重量の金庫を引き摺リながら走り回る『ワイルド・スピ-ド MEGA MAX』のシーン(注10)をすぐに思い起こさせます。

 でもまあ、面白ければなんでも良いかもしれません。
 ただ、こうした映画を2億ドル以上もかけて制作するのは、いくらそれ以上の興行収入を見込めると言っても、どうなのかなと思ってもしまいますが。

(3)渡まち子氏は、「これでもか!と言うくらい、スピーディかつド派手なアクションを見ていると、この“てんこもり”感とサービス精神こそパイレーツなのだと懐かしさに浸ってしまった」として70点を付けています。
 前田有一氏は、「良くも悪くもない、ごく普通のポップコーンムービー。それも自動販売機で売ってるような大量生産のポップコーンである」として40点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「ここにはミュージシャンでもある50歳を過ぎたアイドル、ジョニーの遊び心が溢れ、彼と共に大海原へ乗り出す喜びが味わえる」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。



(注1)この記事によれば、公開されて2週連続1位で、「夏休み本番を前に累計興収は早くも26億円を突破したよう」だとされています。
 なお、 7月の22日・23日については、本作は第3位となっています(興行通信社調べ)。

(注2)監督はヨアヒム・ローニングエスペン・サンドベリ
脚本はジェフ・ナサンソン
 原題は「Pirates of the Caribbean  Dead men tell no tales」。
(邦題の副題「最後の海賊」は誰を指しているのでしょう?また、公式サイトの「Introduction」でも、「すべての謎が明かされる<最後の冒険>が、ついに幕を開ける!」と述べられていますが、“最後の冒険”とはどのような意味でしょう?)

 なお、出演者の内、最近では、ジョニー・デップは『ブラック・スキャンダル』、ハビエル・バルデムは『悪の法則』、ジェフリー・ラッシュは『英国王のスピーチ』、ブレントン・スウェイツは『マレフィセント』、カヤ・スコデラリオは『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』、キーラ・ナイトレイは『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』で、それぞれ見ています。

(注3)ヘンリーの父親のウィル。呪いによって、幽霊船フライング・ダッチマン号に閉じ込められています。
 なお、その妻でヘンリーの母親のエリザベスを演じているのはキーラ・ナイトレイ(本作では、ラストでほんの少々登場するに過ぎませんが)。

(注4)“海の死神”と呼ばれ(少年のジャック・スパロウにハメられて、“魔の三角海域”に閉じ込められてきました)、サイレント・メアリー号の艦長。

(注5)勿論、前の4作を見ているに越したことはないのでしょうが、あるいは、ヘンリーの両親のウィルとエリザベスが活躍する第3作目『ワールド・エンド』を見ておいた方が良いのかもしれません。

(注6)絞首台の女性というと、まるで雰囲気は異なりますが、『声をかくす人』を思い出します。

(注7)航海士のギブスケヴィン・R・マクナリー)ら。
 ジャック・スパロウと一緒になって盗み出した金庫の中に何も入っていないことがわかると、彼らは、頭にきてしまい、ジャック・スパロウの元を離れてしまいます。ですが、ヘンリーの説得によって、ジャック・スパロウらの救出に当たります。

(注8)まずは、ウィルの乗る「フライング・ダッチマン号」。次いで、海賊船を追いかける英国の軍艦の「モナーク号」。それから、“海の死神”のサラザールが乗る幽霊船の「サイレント・メアリー号」。そして、ジャック・スパロウと対決してきたキャプテン・バルボッサ(ジェフリー・ラッシュ)の乗る「アン女王の復讐号」、最後にジャック・スパロウの「ブラックパール号」。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「キーアイテム」によれば、「秘かに〈ポセイドンの槍〉を探していたという天文学者ガリレオが記述した天文ガイドであり、〈槍〉にたどり着くための、そして〈槍〉の謎を解くための“鍵”が秘められている」とのこと。

(注10)こちらで見ることが出来ます。



★★★☆☆☆



象のロケット:パイレーツ・オブ・カリビアン 最後の海賊


メアリと魔女の花

2017年07月26日 | 邦画(17年)
 アニメの『メアリと魔女の花』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思って、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、赤毛の少女が燃え盛る建物から逃げ出す様子が描かれます(注2)。
 追手が近づくと、少女の前にホウキが現れます。少女はそのホウキを掴まえ、それに跨って逃げます。その後をバケモノのような生き物が空を飛んで追いかけますが、大爆発が起き、少女は吹き飛ばされ、ホウキとともにどんどん落下していきます。
 とうとう森の中に落ちてしまいますが、少女が持っていた袋から5つの光るものが飛び出て、周囲に光を放ちます。ホウキは、樹木の根もとにもたれかかると、その樹木の枝葉によって覆われてしまいます。
 ここで本作のタイトルが流れます。

 次いで、山の側に設けられている大きな屋敷。2階の窓から、本作の主人公のメアリ(声:杉咲花)が顔を覗かせたかと思うと、ベッドに倒れ込んで「退屈」と呟きます(注3)。



 下の階からお手伝いさんのバンクス(声:渡辺えり)が「メアリさん、片付けは終わりましたか?」の声が。
 メアリは、「今、やってます」と答え、大きな箱を持ち上げようとすると、底が抜けてしまい、余計に散らかってしまいます。
 メアリは、姿見に向かって、「始めまして。転校してきたメアリ・スミスです」などと自己紹介の練習をしたりします。
 すると、バンクスが「降りてきてください」と言うので、メアリは下に降りていき、「お早うございます、シャーロットおばさん」と挨拶をします。
 シャーロット(声:大竹しのぶ)が「美味しいお茶だったわ」と言って、カップを渡そうとするのを、メアリが受け取ろうとして落としてしまいますが、バンクスがかろうじてカップを受け止めます。
 メアリは「何かすることは?」と尋ねます。でも、シャーロットは「年寄りの家で退屈ね」「テレビもないし」と答えるばかり。



 そしてシャーロットは、「悪いわね、お葬式は夕方には終わると思うから」と言って出ていきます。

 メアリは、庭に出て庭師のゼベディ(声:遠藤憲一)に「私にも手伝わせてください」と言って、ダリアの花の茎を支柱に結わえ付けようとしますが、きつく締めすぎて花が折れてしまいます。
 ゼベディは「子供と犬は庭仕事に向かない」と嘆きます。
 それでメアリは、ホウキを見つけ、庭の掃除をしますが、…。

 そこに、自転車に乗った少年のピーター(声:神木隆之介)が現れ、笑いながら「猿かと思った」と言うと、メアリは「レディに向かって失礼じゃない」と怒ります。

 この後メアリは、猫のティブとギブに導かれて森の中に入り込んで、不思議な花に出会いますが(注4)、さあ、これから物語はどのように綴られていくのでしょうか、………?



 本作は、イギリスの作家が書いた児童文学をアニメ化した作品。そこら辺にいる普通の女の子のメアリが、森の中で不思議な花「夜間飛行」を見つけ、それを摘んで家に持って帰ってきたところから、大冒険に巻き込まれます。勿論子供向けのアニメでしょうが、メアリが、魔法のホウキに跨って雲の上にある魔法の大学にまで行ったりするのですから、描き出される世界が大きく、大人が見てもまずまず楽しめる作品になっています。

(2)本作を制作した米林宏昌監督の作品については、これまで『借りぐらしのアリエッティ』と『思い出のマ―ニー』を見ています。
 前者では、郊外にある古ぼけた邸宅の床下に住んでいる小人の少女・アリエッティと、その家に病気療養しに来た少年・翔との交流が描かれています。
 また、後者では、両親を亡くし養母の元で暮らしていた12歳の少女・杏奈と洋館に住むマーニーという少女との交流が描かれます。

 本作を含めた3作を比べてみると、本作の主人公のメアリは、アリエッティや杏奈とほぼ同年齢の女の子です(注5)。
 また、アリエッティは小人の少女ですし、マーニーは杏奈の祖母なのですから、魔女が登場する本作同様、3作ともファンタジックな作品といえるでしょう。
 さらに、3作とも、自然の描写はとても素晴らしいものがあります(注6)。

 とはいえ、魔女が登場し、主人公メアリも魔女さながらに冒険をする本作に比べたら、これまでの2作はずっとリアルな感じがします。
 それに、主人公の年齢設定の微妙な違いによるのでしょうが、アリエッティと少年・翔との関係や、杏奈と少女・マーニーとの交流は、大人に近いものを感じさせるのに対し、本作におけるメアリとピーターとの関わりは、一緒に冒険する友達同士といった幼い感じがしてしまいます。
 加えて言えば、3作とも、外国の作品を原作としているとはいえ、これまでの2作は舞台を日本に移し、日本的な要素をかなり取り入れていましたが(注7)、本作については、あくまでも舞台は外国となっていて、日本的なものは殆ど感じられません(注8)。

 それはともかく、本作について言えば、マダム・マンブルチューク(声:天海祐希)が校長のエンドア大学という魔法世界の大学が雲の上に設けられているというのは、大層面白い着想です。クマネズミは、『モンスターズ・ユニバーシティ』を思い出しました(注9)。

 また、キャラクターの中では、メアリが困っている時に突然ホウキを持って出現する番人のフラナガン(声:佐藤二朗)が面白いなと思いました(注10)。

 それに、本作に特徴的なのは、大きな爆発が2度も描き出されている点でしょう。
 最初の爆発が見られるのは、上記(1)でも記したように、赤毛の魔女がエンドア大学から逃げ出す際のことです。2番目の爆発は、本作のラストに近いところで起きます。
 いずれも、エンドア大学の校長のマダム・マンブルチュークの右腕とも言うべきドクター・デイ(声:小日向文世)の実験が絡んでいます。

 ただ、クマネズミには、このドクター・デイの存在が、いまいちピンときませんでした。
 というのも、本来的に魔法と科学とは対極的なものであるにもかかわらず、ドクター・デイは「魔法科学者」とされているからですが。
 ただし、錬金術から科学が生まれたと言われたりするように、その区別がそれほどはっきりしているとは思えません(注11)。ですが、ドクター・デイが、一方で黒板に数式を書いて理論を構築しながら、もう一方で“実験”によってその理論を実証しようとしている姿勢は、いわゆる「魔法」ではなくまさに「科学」そのものであって、「魔法」はこうしたものから超越したところにあるのではないかと思えるのですが(注12)。
 ですから、校長のマダム・マンブルチュークがどうしてこうしたドクター・デイと手を組んでいるのか、いまいちよくわからない感じがしてしまいます(注13)。

 さらに言えば、最後に、メアリが「魔法なんかいらない!」と言って、実験台の中のピーターを救い出しますが、ここで問題なのはドクター・デイの似非実験なのであって(注14)、魔法そのものではないような気がします(注15)。こんなことで魔法が生み出すファンタジックな世界が消えてしまったら、この世の中はどんなに味気ないものになってしまうでしょう!

(3)渡まち子氏は、「発展途上のメアリの姿に、新しい一歩を踏み出したアニメスタジオ、ポノックが重なって見える。これからどんな独自色を打ち出してくるのか、期待したい」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「(本作は、)幼稚園児から低学年くらいの女子なら普通程度に楽しむことはできる。一方、男子と、「ジブリアニメよ再び」を期待する大人の観客の満足は得難いものがあるだろう」として40点を付けています。
 日本経済新聞の古賀重樹氏は、「驚きにはやや欠けるが、誠実な仕事ぶりで、安心して楽しめる」として★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 毎日新聞の最上聡氏は、「美しい背景、分かりやすい登場人物、メッセージが良い。もっと物語にカタルシスがほしいのと、ほうきで空を飛ぶ場面に浮遊感を求めるのはない物ねだりだろうか」と述べています。



(注1)監督は、米林宏昌(脚本も)。 
 脚本は、坂口理子
 原作は、メアリー・スチュアート著『メアリと魔女の花』(角川文庫)。

(注2)後に、この赤毛の少女(声:満島ひかり)は、実は魔女で、大叔母のシャーロットであり、燃えている建物はエンドア大学であり、さらに赤毛の少女は、不思議な「夜間飛行」の花を盗み出して逃げていることがわかります(下記の「注13」を参照)。

(注3)メアリは、両親の仕事の都合で、大叔母のシャーロットの家に夏休みの間預けられることになったようです。

(注4)メアリは、青く光る不思議な花を一輪摘んで持って帰り、それをゼベディに見せると、彼は「この花の名は夜間飛行だ。この森にしかない花。7年に1度花を咲かせる」「かつて、魔女が探し求めた花」などと説明します。

(注5)Wikipediaの記事によれば、アリエッティは14歳、杏奈は12歳で、メアリは11歳。
もっと言えば、アリエッティは小人族に属していますし、杏奈は「みんなは、目に見えない魔法の輪の内側にいる人たち。私は外側の人間」と呟くような少女であり(『思い出のマーニー』についての拙エントリの「注3」もご覧ください)、さらに本作のメアリはピーターに「赤毛の猿」とからかわれる女の子というように、3人共“普通”から逸れた女の子として描かれています。

(注6)『借りぐらしのアリエッティ』では、小人のアリエッティが走る庭の草むらの微細な描写などが素晴らしいですし、『思い出のマーニー』でも、杏奈とマーニーが一緒に歩く森の中の有様などが印象的です。そして、本作では、ほうきに乗ったメアリが上空から見る地上の森林の描き方などが凄いなと思いました。
 それに例えば、本作におけるマダム・マンブルチュークの部屋の細部の描き方は、『借りぐらしのアリエッティ』におけるミニチュアサイズの大きさに作られたドールハウスに通じる感じがします。

(注7)と言っても、タイトルからもわかるように、両作とも、話の中身を完全に日本に移し替えているわけではありません。

(注8)ですが、外国風に見えるのは外見だけなのかもしれません。本作を制作したのはあくまでも日本人ですし、登場人物にしても、監督等のスタッフがこれまで属していたジブリが作り出してきた作品からの影響が大きく伺えるわけですから、むしろ日本的な作品といえるかもしれません。

(注9)ただ、『モンスター・ユニバーシティ』について、いったいモンスターはその大学で何を学ぶのかと疑問に思ったのと同じように〔同作についての拙エントリの(2)をご覧ください〕、本作のエンドア大学で、魔法使いたちはどんな教育を受けるのでしょうか?
 それに、エンドア大学については、どうしてエンドアという呼称が付けられているのかわかりませんし、教室で見かける生徒数に対して、教授陣が酷く手薄のような気がします(校長のマダム・マンブルチュークがメアリに構内を見学させますが、実際のところ、ドクター・デイしか見当たりません)。
 さらに、生徒は「選ばれた魔法使い」だと校長は言っているところ、どうやって選考するのでしょう?また、その中には男性の魔法使いもいるのでしょうか?
 なお、メアリは、自分が魔女ではないと自覚しているのですが、大叔母のシャーロットは魔女であり、メアリにも魔女の血はある程度流れているはずです。魔女になるためには、もっと近親者である必要があるのでしょうか?

(注10)ただ、こんなにもメアリ寄りの行動をしてしまうと、雇い主のマダム・マンブルチュークから酷く叱られることになるでしょうが。

(注11)例えば、クラークの三法則の3番目は、「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」というものです。

(注12)メアリが見つけた『呪文の真髄』という本の中にある“すべての魔法を解く呪文”にピーターが手を触れると、ドクター・デイの実験によって変身させられた動物たちが元の姿に戻ります。ということは、ドクター・デイのやっていることは、もしかしたら、「科学」ではなく「魔法」であり、だからこの呪文によって元に戻るのではないでしょうか?

(注13)マダム・マンブルチュークとドクター・デイは、もともとは優しい教育者だったものの、「夜間飛行」を手に入れてからは、変身術という究極の魔法を手に入れるべく変わってしまったとされています。この時、若いシャーロットがエンドア大学で学んでいて、ドクター・デイのたくらみを知って、「夜間飛行」を盗み出して逃げるのです。

(注14)実験成功に必要とされた「夜間飛行」を入手したにもかかわらず、ドクター・デイは、実験に失敗してしまうのですから。

(注15)ドクター・デイのたくらみは、人を自在に魔法使いにならせる変身術を作り出すというもののようですが、エンドア大学にはこれまでにも魔法使いの子孫が次々と入学してきているようであり、なぜそんな術をわざわざ作り出す必要があるのかよくわかりません。あるいは、この世を魔法使いで一杯にしようとでも考えたのでしょうか?でもそんな事態になったら、魔法使いのことを崇める普通の人が見当たらなくなってしまい、自分たちの存在価値がなくなってしまうのではないでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:メアリと魔女の花


裁き

2017年07月21日 | 洋画(17年)
 インド映画『裁き』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)評判を耳にして、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、インドのムンバイにある小学校の教室らしき部屋の光景(注2)。
 一人の生徒が「蝶が、葉や花の上を飛ぶ……」と本を読み上げると、先生のカンブレヴィーラ―・サーティダル)が「よろしい」と言い、さらに「空欄を埋めて」と言って、本を見ながら「インドで一番大きな州は―」、「一番大きな大陸は―」などと言うと、生徒が、「ラージャスターン州」とか「アジア大陸」などと答えます。
 それから、カンブレは「宿題を忘れるなよ」と生徒に言って、その場所を出ます。

 カンブレは街中を急ぎ足で歩き、大きな道路に出ると、丁度やって来たバスに乗り込みます。バスの座席に座っていると携帯が鳴り、カンブレは「今向かっている。5分ほどで着く」と答えます。
 バスを降りたカンブレは、「◯◯虐殺抗議集会」との横断幕のある通りを通って、集会が開かれている会場の舞台の上にあがります。
 司会が、「続いて、民衆詩人のカンブレさんです」と聴衆に紹介します。
 カンブレは、「兄弟たちよ聴け!」「ここは大混乱だ」「反乱の時が来た」「敵を知る時だ」「土地を追われるぞ」「目を開け!」「善き人は忘れられる」「敵はすべてを滅ぼす」などと歌い上げます。



 その時、何人かの警官が「止めろ、止めろ」と言いながらやって来て、集会を中止させます。

 場面が変わって警察署。
 捜査官のシェルクのところに、弁護士のヴォーラーヴィヴェーク・ゴーンバル)がやって来ます。
 ヴォーラーが「逮捕されたカンブレに面会したい」と言うと、シェルクは「ここにはいない。ここには留置場がないので」と答えます。
 さらに、ヴォーラーが「どんな罪で逮捕したのだ?」と尋ねると、シェルクは「彼には伝えてある」と答えます。
 ヴォーラーが「逮捕状があるなら見せてくれ」と求めると、シェルクはその書類を見せます。
 その書類に「自殺幇助」とあるので、ヴォーラーが「誰が自殺したのか?」と尋ねます。
 シェルクは「スラムから来た下水清掃人の男だ」と答え、「カンブレらは、そのスラムで公演した際に、「すべての清掃人は自殺すべき」と歌い、公演の2日後にその男が自殺した」「証拠があるから我々は彼を逮捕した」と説明します。

 次いで、裁判所。
 護送車が入口に着いて、バックドアからカンブレが現れ、建物の中に入りますます。
 中では、次々に案件が処理されています。
 カンブレの件が回ってきて、弁護士のヴォーラーがカンブレの保釈を求めると、裁判官は「保釈は無理だ」と答えます。さらに、ヴォーラーが「今後の公演に条件をつけてもかまいません」と求めますが、裁判官は「出来ない」と答えます。
 それで、ヴォーラーは頭を下げて引き下がり、カンブレも出ていきます。

 こんなところが本作の初めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょう………?

 本作は、インドのムンバイにある裁判所に関わる人々の動きを捉えた作品です。メインとなるのは、ある下水清掃人の自殺を幇助したとして捕らえられた民謡歌手に関わる裁判です。と言っても、本作で専ら描き出されるのは、その事件の真相というよりもむしろ、その裁判に関わる弁護士、検察官、裁判官、警察官らの動きの方です。その事件の裁判が進行する中で、同時に、弁護士等の個人的な生活も焦点を当てられ、そうすることによって、インドの現状といったものが浮かび上がってくるわけで、なかなかユニークな作品ではないかと思いました。

(2)本作についてのあるポスター(注3)には、民謡歌手のカンブレが手を上げて歌っている姿が真ん中に大きく描かれています。



 こんな画像を見ると、本作は反骨の歌手のカンブレを主人公とする社会派の作品のように思えてしまいます。
 確かに、本作では、不当に逮捕されたこの歌手を巡る裁判の模様が描かれています(注4)。
 ですが、実際のところは、カンブレだけでなく、その裁判に携わる裁判官とか、検事、弁護士などの生活に対しても、同じように焦点が当てられているのです。むしろ、カンブレの事件は、そうした人たちの姿を描くための場を提供している感じがするほどです。

 まずは、カンブレの事件を担当する弁護士のヴォーラーと女性検事のヌータンギーターンジャリ・クルカルニー)。



 ヴォーラーは、日本で言えば人権派の弁護士であり(注5)、依頼人のカンブレの弁護を行い、なかなかの能力を発揮するとはいえ、本作では、彼の私生活にも焦点が当てられます。
 例えば、自身が運転する車の中でジャズを流して聴いたり、クラシック音楽が流れる高級スーパーで高級ワインを購入したりします。
 加えて、両親と一緒に暮らす家の中の様子が描かれたりもします(注6)。

 また、ヌータンは、裁判では淡々と事務的に検事の仕事をこなしますが、そこを離れると、同僚と裁判官についての噂話などをしたり(注7)、通勤の列車の中で、隣に座った女性と夕食のおかずをどうするのかといったことについて話をしたりします(注8)。

 さらに、なかなか公正な判断をする裁判官のダーヴァルテープラディープ・ジョーシー)。



 彼は、夏休み休暇を使ってリゾート地に親戚一同でバス旅行に出かけた際に、親類の男と、その男の病気の息子について熱心に話します(注9)。

 この他、カンブレの事件の被害者とされる下水清掃人の妻のシャルミラー・パワルウシャー・バーネー)たちが住む荒れ果てたアパートの模様も描き出されます(注10)。

 このように、カンブレの裁判が進行すると同時に、裁判に関係する人たちの生活の様子も次第に具体的に明らかにされていきます。
 そうなれば、インド事情に詳しい人ならば、例えば、各人がどのカーストに属していて、そこにどんな差別問題が含まれるのかもわかることでしょう(注11)。
 でも、クマネズミのように、インドの事情に疎く、カースト制などの具体的な実態がわからなくとも、様々な人達が重層的に巧みに描き出されている本作を見れば、インド社会の実に複雑な構造の一端を垣間見られたなという思いを抱くことができるでしょう。

 カンブレは、ヴォーラーの尽力もあって一度は保釈されるものの、再度、反体制的な歌を集会で歌ってしまい、またもや逮捕されてしまいます。
 ヴォーラーは保釈を請求するものの、裁判所は夏休みに入り、1か月間休廷ということに。
 ラストでは、リゾート地に出かけた裁判官のダーヴァルテーは、椅子に座ってうたた寝をしているところを子供たちに悪さをされて飛び起きるのですが、さて、カンブレは、そしてインドはこの先どのようになるのでしょう?

(3)渡まち子氏は、「他民族国家で長い歴史に培われたインド社会に、現代の人権問題や法制度をぶつけるというバリバリの社会派ドラマでありながら、映画のタッチは乾いたユーモアを感じさせる独特な作風だ。各地の映画祭で高い評価を得たという若き映画作家タームハネー監督の視点の鋭さを感じさせる」として70点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「物語はカンブレの裁判を描いているとはいえ、映画が焦点を当てるのはインドの裁判所であり、そこからインド社会の縮図が巧みに浮き彫りにされる」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「その日常生活にリアリティーがあるために、裁判だけでなくインド社会全体が不条理な存在として見えてくる。現実の手ざわりがこわくなる映画でした」と述べています。
 暉峻創三氏は、「その非中心化された構造と、異なる階層に属する者が一堂にそろう例外的な場としての法廷の姿を通じて、階級社会の不条理が怒りとも諦めともつかぬ感情と共にじわじわ炙りだされる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、チャイタニヤ・タームハネー(同氏についての記事はこちら)。
 原題は「Court」。
 邦題として抽象的な「裁き」が使われていますが、映画の内容からしたら、タイトルとしては、原題のように「裁判所」という具体的な感じがする言葉を使う方が適当のように思われます。

(注2)と言っても、黒板はありませんし、机や椅子もなく、生徒は床に直に座っています。先生も、1段高いベッドのような場所に胡座をかいて座りながら教えています。なんだか私的な塾のような雰囲気です。

(注3)インドで使われたもののようです。

(注4)裁判において、検察官のヌータンは、カンブレが自殺を唆す歌を歌ったがために、当該下水清掃人が自殺したのだ、と主張します。これに対し、弁護士のヴォーラーは、カンブレがそのような歌を歌ったという証拠はないし、また当該下水清掃人が死んだのは事故によるものであり、自殺したのではない、と主張します。

(注5)本作の中で、ヴォーラーは、「ムンバイ報道協会」の会合で、2007年の爆弾事件に絡んで逮捕された男の事例を取り上げた報告(被告は、アリバイがあったために釈放されたものの、2週間後に新しい容疑で再逮捕され、その件も無罪を勝ち取ったにもかかわらず、釈放された途端にまた逮捕された)を行ったり、カンブレの保釈のために10万ルピー(18万円ほど)を支払ったりもするのです。

(注6)ヴォーラーが、食卓の上に書類を広げて仕事をしていると、母親が「食事の机で仕事をしないで」と注意します。それに対して、ヴォーラーが「時間がなかったんだ。すぐに終わるから」と言うと、母親は「いつものセリフが出た」と応じます。
 また、食事中に友人のスポードシリーシュ・パワル)が現れると、ヴォーラーは一緒に食べるように勧め、その際母親はスポードに、「この子、恋人がいるの?家では何も話さないのよ」と尋ねます。すると、ヴォーラーは、「会って4回だけの人につまらない話をして」と母親を怒ります。

(注7)同僚が「ハヌマーン寺院」(例えば、この記事を参照)の建設のことを話したり、ヌータンは「裁判官のサダーヴァルテーは鋭いけど、すぐに判決を下すべき」「カンブレの事案などは20年の懲役でおしまい」「判事になれたらお祝いして」等と話したりします。

(注8)先ずヌータンの方から、列車で隣に座って新聞を読んでいる女性に向かって、「あなたの着ているサリーは素敵だ」と話しかけると、その女性は「綿製なので着心地が良い」と答え、今度はその女性が「今晩の夕食はどうするの」とヌータンに尋ねます。ヌータンは「私の夫は糖尿病なの」「それで、油のものとか甘いものを減らすと、子供たちが不平を言う」「娘がオリーブ油を使ったらいいと言うの」と言うと、その女性は「高価なものだから、いつも使ったら破産してしまう」と答えたりします。
 ヌータンは、家に帰ると、子供に「宿題は出たの?」と訊いたり、買い物に行ったり、TVを見ている夫に料理を作ったりもします。

(注9)ダーヴァルテーがその男に、「君の息子について医者はなんと言っている?」と尋ねると、彼は「はっきりとしたことは何も」と答え、続けて「息子は、学校に行っていない。一箇所にじっと座っていることが出来ないから」「最近、セラピストを見つけたものの、パパとママとしか言わない」と言うと、裁判官は「彼の名前を変えたほうが良い」「良い占い師に相談しなさい」と言い、さらに「ざくろ石の指輪を彼の中指にはめたら効果がある」などと忠告します。

(注10)下水清掃人の妻のシャルミラー・パワルは、裁判所に証人として出廷しますが、その後、ヴォーラーは、彼女を車に乗せてその住んでいるところに送り届けます。
 その車の中で、彼女は「あと何回法廷に呼ばれますか?」と尋ね、ヴォーラーが「あと1、2回」と答えると、彼女は「呼ばれると職を失ってしまう」と言い、それに対しヴォーラーが「お金が必要ならば用立てする」と応じると、彼女は「お金ではなく仕事が必要なんです」と言います。

(注11)本作の劇場用パンフレットに掲載のインタビュー記事の中で、監督は「(民謡歌手の)カンブレは、伝統的にカースト制度の外側に置かれている「不可触民」という最下層に属してい」ると述べており、また、同パンフレット掲載の石田英明氏のエッセイ「『裁き』の背景」には、弁護士ヴォーラーについて、「ヴォーラーという姓は(隣接州の)グジャラート州の商人カーストに多い名前」であり、また死んだ下水清掃人に関して、「下水の清掃作業は伝統的に特に地位の低い被差別カーストが担ってきた仕事である」と述べられています。



★★★★☆☆



ありがとう、トニ・エルドマン

2017年07月18日 | 洋画(17年)
 『ありがとう、トニ・エルドマン』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)予告編を見て面白そうと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、一軒の住宅が映し出され、車から降りた郵便配達員が、その家のドアのベルを鳴らします。
 しばらくしてドアが開けられて、ヴィンフリート(注2:ペーター・ジモニシェック)が姿を見せます。
 郵便配達員が「お届け物です」と言って荷物を渡そうとすると、ヴィンフリートは「誰が注文したのやら」と訝しがって、中に引っ込んで誰かと連絡を取ります。
 中から「トニ、何か注文したのか?」との声がし、ヴィンフリートは郵便配達員に「弟は、ムショ帰りの勝手なやつなんだ」「昨日は、犬の餌の缶詰を全部食べやがった」と言います。
 そして、また家の中で「トニ、ちょっとこい。いい加減にしないと追い出すぞ」、「また、通販で注文したな」「玄関で郵便配達員が待ってるぞ」という声がして、今度は、かつらや入れ歯を付けてトニに変装したヴィンフリートが現れて、「アダルトグッズなんて頼んでいない」と言います。
 郵便配達員は、「中は見てませんよ」と言いながら、荷物をトニにわたします。
 トニは郵便配達員に、「さっきの兄貴も実は俺なんだよ」と明かします。

 ヴィンフリートが家の中に入っていくと、少年が現れたので、「レッスンは明日だろ?」と言います。すると、その少年は、「実は、ピアノのレッスは止めると伝えに来た」「練習する時間がなくて」と答えます。
 それに対し、ヴィンフリートは「やっぱり無理か」「だけど、ピアノはどうなる?」「お前のために買ったのだから」と言うも、「冗談だよ」と付け加えます。

 次いで、ヴィンフリートは、トニの変装をしたままで、老犬のヴィリーを連れて母親の家に行きます。
 彼は、外からガラス窓を叩いてから家の中に入ります。
 家の中では、年老いた母親が椅子に座っています。
 母親は、ヴィリーがぐったりしているのを見て、「早く安楽死させたら?」と忠告するのですが、ヴィンフリートは、「親にも出来ないのに」と答えます。
 母親は、また、「お隣が、日を遮るので生け垣を切るって」と言いますが、それに対してヴィンフリートは、「ああ、切ればいいさ」と応じます。

 以上は、本作の本の初めの部分ですが、さあこれからどんな物語が描かれることになるのでしょう、………?

 本作はドイツ映画で、企業コンサルタントとしてルーマニアのブカレストで働く娘のことが心配になった父親が、突然彼女の様子を見に連絡なしで現地に行ってしまって、云々というお話。父親が悪ふざけ大好き人間ということで、面白いエピソードがいくつも設けられているだけでなく、最初はあまり上手くいってなかった父親と娘の関係が次第に改善していく様子も上手く描かれていて、まずまずの出来栄えの作品ではないかと思いました。ただ、大の大人の娘を心配するいつまでも子離れしない父親ってなんだろうという気もしましたが。

(2)父親と娘の関係が描かれている映画は昔から多いようで(注3)、最近では、例えば、『美女と野獣(2017)』とか『アサシン クリード』、『五日物語―3つの王国と3人の女―』、『お父さんと伊藤さん』などがあるでしょう(注4)。
 それぞれの作品は、どれも特色ある父娘関係を描いていますが、本作でもまた一風変わった親子関係が描かれます。

 なにしろ、父親ヴィンフリートは、娘のイネスサンドラ・ヒュラー)を驚かせる出現の仕方をするのです。
 例えば、最初は、事前に何も連絡しないで、イネスの職場(注5)の入り口で、彼女がドアから入ってくるのを待っています(注6)。



 次は、ドイツに帰ったはずにもかかわらず(注7)、イネスが、仲間のステフルーシー・ラッセル)やタチアナハーデウィック・ミニス)とレストランで食事会をしている最中に、変装した姿でヌッと顔を出すのです(注8)。
 最後は、イネスの誕生日パーティー(注9)に、毛むくじゃらの精霊クケリ(注10)の被り物をして現れます。

 このように父親のヴィンフリートが娘の周辺に何度も現れるのは、娘の状況を酷く心配してのことでしょう。ヴィンフリートは、勤務地ブカレストから久しぶりに戻ってきた娘・イネスの様子が昔の彼女とだいぶ違っていると感じ、これは職場に何か問題があるのではないかと推測し、矢も盾も堪らずにブカレストに赴くことになります。
 もしかしたらヴィンフリートは、イネスが、専ら経済合理性を追求するコンサルタント業に忠実であろうとする余り、精神的な不安定性を抱え込んでいるのでは、と見抜いたのかもしれません。
 ただ、ヴィンフリートは娘の仕事内容がわかるわけでもなく、娘の後を追いかけているだけのことですが、結果的には、イネスが見ようとしない現地の実情といったものに娘の目を向けさせることになります(注11)。

 そうしたヴィンフリートに付き合っていくうちに、次第にイネスの心もほぐれていく様子が、上手く描き出されているように思います(注12)。



 とはいえ、本作では、こうした父娘関係が専ら描かれているというわけではなく、イネスがブカレストの会社で行っているコンサルタントとしての仕事の様子も、きちんと描かれています(注13)。
 それで、上映時間が、この種の作品としては長尺の162分ながらも、十分のリアリティをもって見る者に訴えかけてきます。
 ただ、いくら娘の身の上が心配になるからと言って、すでに一人前の大人になっているイネスに対して、ここまで親が介入するのかなという思いも抱いてしまいましたが(注14)。

(3)渡まち子氏は、「複雑で曖昧、だからこそリアルな、奇妙奇天烈なこの怪作は、オフビートな人生讃歌の物語と言えよう」として65点を付けています。
 中条省平氏は、「笑いにまぶしてはいるが、これは父と娘の感情の食い違いとそこからの解放を描く、しごく真っ当な家族の映画なのだ。ふざけているように見えて、次第に私たち日本人にも通じる感情のドラマが迫ってくる」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「長い映画です。短いことの多いコメディーと違って2時間42分、それも長さを忘れさせるというより長さを意識させる映画なんですが、その時間に身を任せると、父と娘の姿が立体感をもって浮かんでくる。笑って泣いてそのまま終わるのではなく、後を引くコメディーです」と述べています。
 林瑞絵氏は、「演劇界の名優ふたりが、まるで観客もその場を共有するような生々しい空気感を体現。おかしみと悲しみを同居させ、人生の機微を見事に映し出す。映画ファンなら必ずや覚えておきたい新星の名は、ドイツ人女性監督マーレン・アデ」と述べています。



(注1)監督・脚本はマーレン・アデ
 原題は「Toni Erdmann」。
 なお、この記事によれば、ジャック・ニコルソンが、本作のハリウッド・リメイク版に主演するようです。

(注2)おそらく60歳位(演じているペーター・ジモニシェックは71歳ですが)。また、妻とは離婚している模様。
 なお、娘のイネスは40歳間際といった感じでしょう(演じているサンドラ・ヒュラーは40歳です)。結婚はしていませんが、同僚のティムトリスタン・ピュッター)と愛人関係にあるようです(でも、本作で描かれる2人の性行為は、常識的なものではありません)。

(注3)劇場用パンフレット掲載の芝山幹郎氏のエッセイ「「スーパーシリアス」の面白さ」では、『晩春』(1949)、『花嫁の父』(1950)、『女相続人』(1949年)、『復讐の荒野』(1950)、『チャイナタウン』(1974)、『恋人たちの食卓』(1994)、『人生の特等席』(2012)といった作品が挙げられています。

(注4)『美女と野獣(2017)』ではモーリス(ケヴィン・クライン)とベル(エマ・ワトソン)の父娘、『アサシン・クリード』ではアラン(ジェレミー・アイアンズ)とソフィア(マリオン・コティヤール)の父娘、『五日物語―3つの王国と3人の女―』ではハイヒルズ国の国王(トビー・ジョーンズ)と王女・ヴァイオレット(ベベ・ケイブ)の父娘、『お父さんと伊藤さん』では、父親(藤竜也)と彩(上野樹里)の父娘。

(注5)イネスは、ドイツのコンサルタンと会社に所属していて、今はそこからルーマニアの石油会社に派遣されて、上司のゲラルトトーマス・ロイブル)らとチームを組んで、同社の経営計画を策定しています。その交渉相手は、同社の取締役のヘンネベルクミヒャエル・ヴィッテンボルン)。

(注6)イネスは、サングラスをしたヴィンフリートに気付くも、他の人と一緒だったこともあり、気付かないふりをして、エレベーターに乗っていってしまいます。
 後からイネスは、助手のアンカイングリッド・ビス)を寄越して、ヴィンフリートをホテル(5つ星のラディソン・ホテル)にチェックインさせ、またアンカを通じて、アメリカ大使館のレセプションに一緒に行かないかと伝えます。

(注7)ヴィンフリートは、「放っとけない」と言いながらも、「帰る」と言ってエレベーターで階下に降りていき、部屋のベランダから手を振るイネスに下から手を挙げて答えて、そしてタクシーに乗ったはずなのですが(その際には、イネスは涙を流したのでした)。

(注8)その際にヴィンフリートは、トニの変装をして、「シャンパンを一杯いかがですか?」「ティリアックを待っているところです」「私はトニ・エルドマンです」と言いながら、3人の会話の中に入り込むのです。
 トニは、「ここに来たお目当ては有名な歯医者。歯を作り直してもらいました」と言い、タチアナが「有名なイオン・ティリアックのお友達なの?」と尋ねるものですから、トニは「ドイツで一緒にテニスをしたことがあります」と答え、ステフが「ご職業は?」と訊くと、トニは「私は、ビジネスマンで、コンサルタントとコーチングをしています」と答えます。

(注9)この誕生日パーティーは、驚いたことに、ヌードパーティーになってしまいます。
 それでも、気を許して付き合っていたはずの女友達のステフは、「私は嫌よ」と言って帰ってしまいますが、上司のゲラルトは「一杯飲んできた」と言いながら、秘書のアンカはプレゼントの電卓を持って、裸になって参加します(同僚でボーイフレンドのティムは、「皆が裸になっているのなら電話して」と言って帰ります)。

(注10)例えば、この記事が参考になります。

(注11)「現地の実情」に目を向けさせるということは、イネスの思考回路から余計なものとして落ちてしまっている“人間性”、あるいは“ユーモア”といった要素を回復させることではないかと思われます。
 例えば、ヴィンフリートは、アメリカ大使館のレセプションで会って名刺をもらっただけの現地の女性・フラヴィアヴィクトリア・コチアシュ)の家にイネスを連れて行って、イースターエッグの色塗りをイネスにさせてみたり、はては、自分の伴奏で、イネスにホイットニー・ヒューストンの「Greatest Love of All」を皆の前で歌わせたりします。

(注12)でも、イネスは、今のコンサルタント会社を退職し、次にシンガポールのマッキンゼー社に就職するとされていますが、それではまた同じことになるかもしれません。

(注13)イネスが、上司のゲラルドらとチームを組んで対応しているのは、ブカレストにある石油会社の合理化計画。それは、既存の業務部門の切り離しが含まれ、リストラを伴うことになります。そうした厳しい計画を、その会社の幹部のヘンネベルクに受け入れてもらうにはどんな内容にすべきなのか、イネスはあれこれ考えることになります(まず、上司のゲラルドの了解を取り付ける必要があります)。

(注14)合鍵を使って部屋に入り込んだヴィンフリートが隠れているのを見つけたイネスが、たまらず、「パパは異常よ!」と怒りますが、当然でしょう。



 そして、これでは、例えば、大学の入学式どころか、入社式にまで列席する親が増えているという日本の社会現象に、ある意味で類似しているように思えてしまいます(これは、個人主義が充分に確立していないために、親離れ・子離れが進まない日本独特の現象ではないかと思っていましたが)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ありがとう、トニ・エルドマン


ジーサンズ

2017年07月10日 | 洋画(17年)
 『ジーサンズ はじめての強盗』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだなと思い、映画館に出かけました。

 本作(注1)の冒頭では、ジョーマイケル・ケイン)が、ニューヨークにある銀行・WSB(注2)に入っていきます。
 受付が「ようこそWSBへ」と言うので、ジョーが「何処で待ったら?」と尋ねると、ラウンジの椅子を示します。そこで、ジョーがその椅子に座って待っていると、振動型ポケベルの合図があり、面談室で銀行の担当者のチャックジョッシュ・ペイズ)と話すことになります。

 ジョーが、「家の差し押さえ通知が来た」と、黄色い封筒を見せます。そして、「返済額が3倍に膨らんでいる」と文句を言うと、チャックは「優遇期間が終わったからです」「新しい金利は高いのです」「そうなることは説明したはずです」と答えます。
 これに対しジョーは「そんなことはまず起こらないと言ったはずだ」と反論するのですが、チャックは「ありうると言いました」と応じます。ジョーが「家は手放せない」と言うと、チャックは「黄色の警告だからまだ大丈夫です」と付け加えます。

 その時、仮面を被った3人の強盗団が銀行に押し入ってきて、銃をブッ放ちます。
 強盗団は、「みんな、床に寝て、猫ちゃん座りをするんだ!」と叫びます。
 ジョーが、面談室に入ってきた一人の強盗に向かって「通帳をあげる」と言うと、強盗の方は、「要らない。俺たちは年寄りを敬うのだ」と答えます。
 そのやり取りの際に、ジョーは、強盗の首にチンギス・カンをあしらったタトゥーがあることを見つけます。
 強盗団は、銀行窓口にある現金をカバンに入れて、「90秒は連絡するな」と言って立ち去ります。

 ここでタイトルが流れます。
 次いで、ジョーが警察で、強盗の一人が首の周りに彫っていたタトゥーについて説明をしています。
 FBI捜査官のアーレンマット・ディロン)は、「そういった図柄を彫る刺青師を探す」「ただ、TVドラマよりも時間がかかる」などと言います。
 警察から戻る車の中で、ジョーが「首にぐるっと入れ墨をしていた」と話すと、同居している孫娘のブルックリンジョーイ・キング)は「超クールね」と応じます。

 これが本作の初めの方ですが、さあこれからどんな物語が展開するのでしょう、………?

 本作は、80歳を過ぎた仲良しの老人3人が銀行強盗を企てるというコメディです。演ずるのは、実際にも80歳を超えているモーガン・フリーマン、マイケル・ケインとアラン・アーキンの老優たちで、本当に銀行強盗をしてしまうのですから、ものすごい話です。その理由も、3人が永年勤務した会社で積み立てた年金基金が精算されてしまうなど理不尽な仕打ちを受けたからというもので、社会的な意味合いも少々ながら忘れていません。その結果がどうなるかは、まあ見てのお楽しみです!

(2)本作は、『お達者コメディ シルバー・ギャング(Going in Style)』(1979年)のリメイクとされています。
 ですが、同作は日本では未公開であり、またDVDにもなっていないように見受けられます。
 そこで、IMDbの『Going in Style(1979)』の「Synopsis」を読んでみると(注3)、同作と本作の違いがおぼろげながら分かる感じがします(同作がsynopsis通りに制作されているのかわかりませんので)。
 本作では、3人が強盗に走る社会的な背景が一通り描き出されているのに対し(注4)、同作では動機の点について酷く漠然としているようです。
 また、本作では、3人はそれぞれハッピーな結末を迎えるところ(注5)、同作では、ウィリーとアルはすぐに死んでしまい、ジョーも刑務所入りとなってしまいます(注6)。
 さらに言えば、同作の3人の俳優は皆白人のようながら(注7)、本作では黒人のモーガン・フリーマンが加わっています。

 そんなことはともかく、本作の3人の老人を演じる俳優は、実際に皆、80歳を超えているにもかかわらず、実に元気なので驚きます(注8)。



 日本人の俳優で当てはめるとしたら、例えば、仲代達矢(84歳)、加山雄三(80歳)、里見浩太朗(80歳)、といったところでしょうか?
 でも、この3人が銀行強盗をする姿などは、映画の中にしても、余り想像できない感じがしてしまいます。

 とはいえ、日本でも、老人パワーを見せつける映画が作られていないわけではありません。
 例えば、最近では、北野武監督の『龍三と七人の子分たち』(2015年)は、「藤竜也扮する龍三以下70歳超えの元ヤクザ8人が集って再度一家を結成し、悪事を働く現役ヤクザに目に物見せる」といった内容の作品。
 本作と比べて10歳ほど若い者が8人も集まるのですから(注9)、本作の銀行強盗など霞んでしまうような派手な事を仕出かします。

 まあ、こうした映画が色々制作されて(注10)、見る方が元気づけられるのも悪くはないように思われます。

(3)渡まち子氏は、「主演全員がアカデミー賞受賞の名優なのだから、細かいツッコミどころは、ゆったりとかわして、余裕のお芝居で笑わせてくれる。もっとも内容は、弱者に冷たい高齢化社会を照射したもので、笑いごとではないのだが」として60点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「コーヒーにアップルパイを添える程度の余裕があればそれで十分、という姿勢の下、揃ってアカデミー賞受賞の老名優が見せる芝居は軽妙洒脱。3人が年下の監督の掌の上で踊っているように見えるのも愉しく、悪くない」として、★3つ(「見応えあり」)を付けています。
 稲垣都々世氏は、「茶目っ気たっぷりなオスカー俳優3人の素敵なアンサンブルが、温もりに満ちたユーモアを醸し出している」と述べています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「何気ない会話からエンディングまで、粋な魅力にあふれたクライムコメディー」と述べています。



(注1)監督はザック・ブラフ
 脚本は『ヴィンセントが教えてくれたこと』のセオドア・メルフィ

 出演者の内、最近では、モーガン・フリーマンは『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』、マイケル・ケインは『グランドフィナーレ』、アラン・アーキンは『サンシャイン・クリーニング』で、それぞれ見ました。

(注2)Williamsburgh Savings Bank(この記事)。

(注3)Synopsisのさらなる概要は以下のようです。
 ジョーとアルとウィリーが、NYのブルックリンにある狭いアパートに一緒に暮らしています。
 3人共年金生活者。怠惰な生活を打破しようと、ジョーが銀行強盗を思いつきます。
 アルは、開店資金の捻出に困っている甥のピートから銃を3庁盗み出します。
 銀行強盗は上手くいって、3人の手元には36,000ドルもの大金が。
 ですが、ウィリーは、成功のお祝いに一緒に公園に行った日に、心臓発作で死にます。
 ジョーとアルは、25,000ドルをピ―トとその家族に分け与え残る10,000ドルは生活費にしよう、と決めます。ただ、自分たちに残された日数が少ないことに気付いた2人は、残りはすべて使ってしまおうとラスベガスに向かいます。
 ところが、ビギナーズラックで、逆に71,000ドルに増えてしまいます。2人を取り巻く雰囲気が悪くなってきたので、2人は早々にベガスを引き上げNYのアパートに戻ります。
 それまで一睡もしていなかったので、2人は深い眠りに落ちます。目が覚めたジョーは、アルが睡眠中に死んでしまったのに気が付きます。
 警察の捜査が自分たちに近づいてきたのを懸念したジョーは、これまでの経緯、そして金額が全部で107,000ドルに上ることをピートに打ち明けます。さらに、すべての金は銀行の貸金庫にあると言い、ピートに、これらのことを誰にも言わないように求めます。
 ジョーは自分のアパートに戻りますが、翌朝警官に逮捕されます。
 ジョーは、銀行強盗のことは白状しますが、金の在り処については口をつぐんだまま。
 数週間後、ピートがジョーの説得に州刑務所にやって来ます。ジョーはピートに、残りの生涯を刑務所で過ごしても大したことはないから心配するな、遺産で楽しんでくれ、と言います。
 別れ際に、ジョーはピートに、「Besides, no tinhorn joint like this could ever hold me!」と言います(その意味は、「こんな牢屋などすぐに出てみせる!」でしょうか)。

(注4)3人がともに働いていた製鉄会社・セムティック社が他の会社に吸収合併されて、工場がベトナムに移転するだけでなく、年金基金は凍結され、年金の支払いがストップされることになります。



 加えて、ウィリーについては、腎臓病のため人工透析を受けているものの、医者から「透析の効果が薄い」「腎臓移植しかない」「ドナーを探すべき」「状況は一刻を争う」と言われています。
 また、ジョーは、離婚した娘と孫娘と同居しているところ、その家にかかる住宅ローンの支払額が大きく膨らんだために、返済できなくなり、差し押さえ寸前という状況です。
 ちなみに、ジョーの家は、ウィリーとアルが共同で住む家の真向かいにあるようです(3人は独身)。

(注5)特に、アルは、熟女のアニーアン=マーグレット)から猛烈なアタックを受けて、遂に結婚までしてしまうのですから!



(注6)このWikipediaの記事によれば、本作の脚本を書いたセオドア・メルフィは、「エンディングを原作よりも明るいものにすることを条件にその依頼を引き受けた」とのこと。具体的には、メルフィが、「この現代において、私は自分の心血を注いで書き上げた主人公たちが、最後に死ぬか投獄されてしまう映画なんて見たくないのです。私は彼らが成功する姿を見たいのです。今や誰もが銀行を憎んでいるのですから、銀行強盗をした主人公が幸せになった方が完璧な出来になると思います。だからこそ、3人には立派に強盗をやり遂げさせる必要があるのです。夕日の下で成功を喜んでもらう必要があります」とプロデューサーに言ったところ、了承されたとのこと。

(注7)ジョージ・バーンズ、アート・カーニー、そしてリー・ストラスバーグ。
 1979年には、それぞれ83歳、61歳、78歳と年齢はバラバラでした。

(注8)モーガン・フリーマンは1937年生まれ、マイケル・ケインは、1933年生まれ、そしてアラン・アーキンは1934年生まれ。

(注9)大体ですが、2015年当時、藤竜也73歳、近藤正臣73歳、中尾彬72歳、小野寺昭71歳、品川徹79歳、樋浦勉72歳、伊藤幸純73歳、吉澤健69歳。

(注10)例えば、『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』(2016年)、『グランドフィナーレ』(2016年)、『ミス・シェパードをお手本に』(2017年)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ジーサンズ  はじめての強盗


ハクソー・リッジ

2017年07月05日 | 洋画(17年)
 『ハクソー・リッジ』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)アカデミー賞の作品賞や主演男優賞などにノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「真実の物語」の字幕。
 次いで、画面には、兵士の死体が横たわっています。
 また、火炎に包まれる兵士の姿や担架で運ばれる兵士の死体。
 そして、主人公デズモンドアンドリュー・ガーフィールド)のモノローグ:「知ってるだろう、主は世界の創造主」「思いやりの溢れた方」「疲れた者に力を与える」など(注2)。

 次いで、「デズモンド、しっかりしろ!」と呼ぶ声がして、画面は16年前になります。場所は、米国ヴァージニア州リンチバーグ
 少年のデズモンドが兄のハルと走っていると、後ろのハルが「デズモンド!」と呼びます。デズモンドが「何?」と答えると、ハルは「待てよ。話がある」、「頂上まで競争だ」と言います。でも、デズモンドのほうが、兄のハルよりも早くに頂上にたどり着いてしまいます。
 二人が崖の上に出ると、大人の男が「リッジから離れろ!」「ドスの餓鬼どもめ」「気の触れた親父そっくりだ」と叫びます。

 その父親のトムヒューゴ・ウィーヴィング)は、酔っ払った足取りで墓地の中を歩きながら、「街はすっかり変わってしまった」「俺も戦場で死んだんだ」「俺たちは存在しなかったんだ」などと呟いたり、墓にウィスキーをかけたりしています(注3)。

 さらに、庭ではデズモンドとハルが殴り合いの喧嘩をしています。
 母親のバーサレイチェル・グリフィス)は「やめなさい」と叫びますが、トムは「勝った方を俺が殴れば平等だ」などと言って傍観しているだけです。
 そうこうしているうちに、デズモンドは、近くにあったレンガを手にしてハルを殴ってしまいます。
 トムは、慌ててハルを家の中に運びますが、意識を失っているようです。
 ハルをじっと見守っているデズモンドに対し、トムは「何をしたかわかるか?」「ルールだ、お前を罰してやる」と怒ります。
 ですが、バーサは「もういい加減にして。反省しているのだから」「ハルは大丈夫」と言います。

 そのあと、「十戒」のポスターの6番目(注4)を見ながら、デズモンドが「ハルを殺してたかも」と言うと、バーサは「殺人は最も重い罪。主を最も苦しめるもの」と応じます。

 また、2階でトムとバーサが大声で喧嘩しているのがわかると、1階の子供部屋にいるハルが「大嫌いだ!」と叫んだりします。
 泣いているバーサに対して、デズモンドが「父さんは僕らが嫌いなの?」と訊くと、バーサは「父さんは、自分が嫌いなの。戦争の前のパパを見せてあげたい」と応じます。

 ここまでは本作のホンの初めの部分ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、前の大戦における沖縄の前田高地の戦いでの実話に基づいて制作されています。米国の青年が、自分は銃を持って戦わないが衛生兵として従軍するとして兵役志願し、まれに見る激戦のさなかに、負傷兵を一人で次々と運び出して生還させたというもの。激しい戦闘の有様がとてもリアルに描き出され、その中での主人公の奮闘ぶりは感動的です。こうした戦争物では、敵側の日本兵の扱いが正視し難いものとなりがちながら、本作ではそうした面は随分と控えめになっていて、その意味でもなかなかの作品といえると思います。

(2)本作の関連情報をネットで探していると、映画『デズモンド・ドス―良心的兵役拒否者』(注5)に遭遇しました。
 同作は、デズモンド・ドス自身や彼に関係する人物の証言が集められているドキュメンタリーであり、見ていくと、冒頭で「真実の物語」とされているにもかかわらず、本作が事実に様々の脚色を加えていることがわかります(注6)。
 要するに、本作は、同作から伺える真相を大きな枠組みとして制作された劇映画ということでしょう。
 でも、本作が真実そのものから乖離しているからといって、本作が、エンターテインメントの劇映画として観客の興味を十分に惹きつける作品になっているのなら、問題があるわけではないでしょう。
 実際のところ、本作についてクマネズミは、最初から最後まで目を話すことが出来ませんでした。

 それで、劇映画としての本作の方に目を向けると、本作は、プロローグとメインの物語とエピローグから構成され、メインの物語も三つに分けることができます(注7)。
 最初のパートでは、デズモンドの少年時代から軍隊に入るまで、真ん中のパートは軍隊に入隊してから前線に出発するまで、そして最後のパートでハクソー・リッジでの戦いが描かれています。
 予告編からすると、3番目のパートが大部分なのかなと思っていましたが、実際に見てみると、第1と第2のパートのウエイトがかなりある感じでした。

 最初のパートで山場となるのは、彼の妻となるドロシーテリーサ・パーマー)との出会いでしょう。
 デズモンドは、目の前で少年が車に足を轢かれる場面に遭遇し、自分のベルトを使って血止めをしただけでなく、その少年を病院にまで運ぶのですが、そこで出会った看護師のドロシーに一目惚れしてしまいます(注8)。
 それから結婚の約束をして(注9)、デズモンドが入隊すべくバスに乗って出発するまでが、ありきたりと言えばそれまでながらも、第3のパートと対比的になるよう、随分と微笑ましく幸せそうな二人の様子がなかなか上手く描かれているように思いました(注10)。



 次のパートの山場は、軍法会議でしょう。
 兵役に就くと、医療班ではなくライフル部隊に配属されたデズモンドは、銃を持つようにとの上官のハウエル軍曹(ウィンス・ヴォーン)の命令に従わなかったために、軍法会議にかけられてしまいます(注11)。
 ここでは、一方で、異質なものを理解せずに排除しようとする、何処の組織でも見られる行動原理が伺えますが、他方で、飲んだくれで息子たちと対立していた父親のトムの活躍が描かれていて、感動的な場面となります。

 そして、最後のパートが、本作全体の山場ともなるハクソー・リッジでの戦いの場面となります。
 両軍がまともに相まみえる戦争物の作品としては、最近では『フューリー』を見ましたが(注12)、そして同作でもかなり激しい戦闘場面が描かれていましたが、本作は、それを遥かに上回る厳しい戦闘の有様がリアルに描き出されています(注13)。



 そんな中で、デズモンドが、武器を持たずに負傷兵の救出に当たる姿は、見ているものの目を釘付けにします(注14)。

 それでも、次のようなことが思い浮かびました。
 本作は、あくまでもデズモンドの活躍に焦点を当てて描き出している作品ですから何の問題もないとはいえ、見ていながら、どうして米軍はあの崖の奪取にあれほどまでにこだわるのか、そもそもこの戦いの全体はどんなものなのか、ということが気になってしまいました(注15)。
 また、これまたどうでもいいことながら、デズモンドは負傷兵を崖の上から一人一人ロープで引き下ろしますが、それに気がついた崖の下にいる部隊からは兵隊が出てきて、降ろされた負傷兵を医務班のテントに運び込みます。ただ、なぜ崖の上に上がってデズモンドの作業を助けようとする兵士が一人も現れないのか、と不思議な感じがしたところです(注16)。
 それと、このハクソー・リッジ周辺の戦いは5月6日に終わりました。ですが、それは1945年3月26日から6月23日まで行われる沖縄戦の一部であり、その後1ヵ月以上戦いが続きます。にもかかわらず、本作では、沖縄戦全体の集結を意味する司令官の自決の場面が描かれます(注17)。確かに、その死によって沖縄におけるすべての戦いが終わるのですからかまわないとはいえ、ハクソー・リッジの戦いに焦点を当てるという本作の狙いからすればそれでいいのかな、とやや違和感を覚えたところです。

 でも、『沈黙-サイレンス-』で大層立派な演技を披露したアンドリュー・ガーフィールドが、本作では、その上を行くような一段と冴えた演技をしていて、これからが楽しみになります。

(3)渡まち子氏は、「圧倒的な暴力の中に、確かに存在した奇跡のような実話は、今までにないタイプの戦争映画に仕上がっている」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「「ハクソー・リッジ」は、とくに沖縄戦の当事者の一人である私たち日本人にとって、必見の傑作映画だと断言する」として85点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「デズモンドの「絶対に仲間を助ける」という強い信念と、「人を殺してはならない」という神の教え。それが平和の時代なら普通の若者だったはずの青年に力を与え、多数の負傷兵を救出する戦場の英雄を生んだ。信念と信仰の持つ力なのか」として、★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 柳下毅一郎氏は、「ドスの献身はほとんど狂気に近いものに見える。ギブソンが描いてみせるのは救うために人が傷つくことを願い、天国に行くために地獄を想像する倒錯した世界なのである」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「ドスが最後にみせる超人的な活躍はやや過剰だが、当初は最も弱そうに見えたドスが終盤は最強の存在に見えるというパラドックス。人間の弱さや恐怖心を受容し、支えることのできる社会(人間)こそ本当は強いのだと伝えてくる」と述べています。



(注1)監督はメル・ギブソン
 脚本はロバート・シェンカンとアンドリュー・ナイト。

 出演者の内、最近では、アンドリュー・ガーフィールドは『沈黙-サイレンス-』、テリーサ・パーマーは『きみがくれた物語』で、それぞれ見ました。

(注2)聖書・イザヤ書第40章第28節~第31節に基づくものだと思われます。
 その全体は、この口語訳によれば、「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」。

(注3)本作によれば、トムは、第一次世界対戦に従軍し、無事に帰還したものの心に深い傷を負ってしまいました(墓地に設けられている墓に3人の戦友のものがあると、トムは語ります)。

(注4)プロテスタントの場合、第六戒(The Sixth Commandment)は「汝、殺すなかれ」(Thou,shall not kill)とされています。
 なお、デズモンドの母親は、この記事によれば、プロテスタント系のセブンスデー・アドベンチスト教会を信仰し、デズモンドをも敬虔なその信徒として育て上げたとのこと。

(注5)このYouTubeで見ることが出来ます。
 なお、同作は、IMDbによれば「The Conscietious Objector」(2004年)とのタイトルであり、監督・脚本はテリー・ベネディクト〔彼は、『ハクソー・リッジ』のプロデューサー(produced by)として名前が記載されています〕。

(注6)例えば、最初の方に過ぎませんが、デズモンドには姉がいたこと、父親トムは大恐慌以来酒浸りだったこと、父親と叔父との喧嘩で父親が拳銃を出したものの、母親が間に立って拳銃を取り上げ、その日以来、デズモンドは、拳銃を持たないことに決めたこと、などが、同作では描かれています。
 なお、最後の点については、劇場用パンフレットの「staff profiles」掲載のデズモンド・ドスの経歴の中で、「(デズモンドが武器を持つことを拒否する上で大きな転機となったのは、)酔った父がケンカになった叔父に銃を向けたこと。映画ではそれが、父と母に置き換えられている」と述べられています(ただし、この経歴では、「(デズモンドは)戦争後は、戦争で負った傷の後遺症に苦しみながらも家具職人として働き」と述べられていますが、この記事では、「戦争が終わった後、デズモンド・T・ドスはまず大工仕事の再開を考えていたが、戦傷で残った腕全体へのダメージが元で断念せざるを得なかった」と述べられています)。
 また、本作の中では、砲弾であいた穴に身を隠している時、デズモンドが同僚のスミティルーク・ブレイシー)に、「母に向けられていた父の銃を奪って、父にそれを向けた」「心の中で撃った」「父が泣いた」「そして、2度と中に触らないと神に誓った」と話します。

(注7)劇場用パンフレット掲載の「production notes」には、「デズモンドが生きた3つの世界」という項があり、「本作では3つの全く異なる世界が登場する。1つはデズモンドが育った、ヴァージニア州の小さな町リンチバーグ。そして、1つは第二次世界大戦中の兵舎。最後に、沖縄の断崖ハクソー・リッジである」と述べられています。

(注8)本作では、献血をするという理由でデズモンドは看護師ドロシーに近づきますが、上記「注6」で触れた「staff profiles」掲載の経歴では、「実際には教会でドロシーと出会う」とされています(なお、映画『デズモンド・ドス―良心的兵役拒否者』によれば、デズモンドは、献血のために5kmの道を徒歩で往復することは厭わなかった、とされています)。

(注9)二人が結婚するのは、本作の場合、軍法会議が終わってからとなっていますが(結婚式を予定していた日にデズモンドは投獄されてしまい、出られなかったので)、上記「注6」で触れた「staff profiles」掲載の経歴では、「本格的な訓練が始まる前の42年にドロシーと結婚する」とされています。
 なお、ドロシーのことについては、この記事が参考になります。

(注10)デズモンドは、ハルと登った崖の上にドロシーを連れていきます。ドロシーが「登るのを助けて」と求めると、デズモンドは「ご褒美としてキスを」と応じます。

(注11)デズモンドの配属先の陸軍では、中隊長のグローヴァー大尉(サム・ワーシントン)などが、デズモンドを「良心的兵役拒否者」として、穏やかに軍隊から排除しようとしましたが、彼があくまでも「良心的協力者」だと主張したために、あやうく有罪になるところでした。ですが、父親が持ってきたマスグローブ准将(第一大戦で父親と一緒に戦ったことがあるとされています)の手紙に「軍隊で武器を持たないことも許される」と書かれていたことから、無罪の判決を得ます。

(注12)戦争物としては、その後に『野火』を見ていますが、同作ではまともな戦闘場面は殆ど描かれていません。
 なお、関連性があるのかどうかクマネズミにはわかりませんが、本作の冒頭でイザヤ書が引用されているのと同じように(上記「注2」で触れているように)、『フューリー』でもイザヤ書が引用されています(同作に関する拙エントリの「補注」をご覧ください)。

(注13)総じて本作においては、日本兵は靄とか煙の中に登場するので、正視し難い場面はそれほど多くはありません。
 ただ、本作では、白旗を掲げる日本兵が近づいてきて手榴弾を投げつける場面が描かれており、そんなことまでやったのかと違和感を覚えました。ですが、映画『デズモンド・ドス―良心的兵役拒否者』の中で、中隊長のグローヴァー大尉が、「3人の白旗を掲げる日本兵が20mくらいのところまで近づいてきて、持っていた手榴弾を投げつけ、5人の部下が負傷した」と話しています。

(注14)例えば、映画『デズモンド・ドス―良心的兵役拒否者』によれば、デズモンドが所属していたB中隊は、ハクソー・リッジの上の戦闘から、155人のうち55人が戻ってきたものの、100人は戻ってきませんでした。
 そこで、デズモンドの活躍が始まります。同作の中で、デズモンドは、例えば、「銃弾や砲弾が飛び交っている中では、できるだけ身を低くし小さくならなければいけません。負傷者を見つけたら、襟首を掴んで地面すれすれに力いっぱいその人を引きずります。突然、ウエスト・ヴァージニアで発見した“”もやい結びが頭にひらめきました。例のWループを神様が思い出させてくださったのです。すぐに2重のループを作り、負傷者の両足をそこに入れさせました」「私は、ずっと祈っていました。神様、もう一人助けさせてくださいと」などと語っています。



 また、別の元同僚は、「彼は一度の2人を腕に抱えていることもありました」、「彼の体重は70kgもなかったと思います。どちらかといえば小柄な男でした。だから余計に驚いたんです」などと語っています。
 結局、デズモンドは、12時間で75人を救出したとのことです(ただ、これは、彼が運び出した兵士の数であり、生き残ったかどうかは別だと思われます)。

(注15)このハクソー・リッジの戦いを含む全体の戦闘は、「前田高地の戦闘」とされていて、この記事によって、その全貌が分かります。
 その記事によれば、「この前田高地は、その日本軍第二線主陣地帯の核心にあたる地区で、首里地区防衛に関して特に重要な地位を占めていた。また米軍にとっても、眼前にそびえる絶壁の前田高地を奪取することが、首里攻略そして日本本土への進攻の第一歩として位置づけられ、日米両軍にとって沖縄戦の成否をかけた一戦となった」とされています。
 ただ、何も、北側から崖に取り付いて前田高地を奪取しようとするだけでなく、当然のことながら、米軍は、南側に回って背後から責め立てる方策も取られています。
 こうした全体の作戦の一環としてハクソー・リッジの戦いがあることを、もう少し映画の中で説明してもらえたら、また違った印象を受けることになったのかもしれません。
 尤も、本作では、地名らしきものにほとんど言及されませんから、制作者側としては、戦闘場面のみが重要だったのでしょう。

(注16)あるいは、部隊全員が、それまでの戦闘で疲労困憊してしまっていて、崖をよじ登る気力を持っている者など一人もいなかったのかもしれません。

(注17)本作では、自決をする司令官の名前が明示されてはおりませんが、6月23日に、参謀長と摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で割腹自決をした牛島満司令官ではないかと推測されます(この記事を参照)。



★★★★☆☆



象のロケット:ハクソー・リッジ


いつまた、君と

2017年07月03日 | 邦画(17年)
 『いつまた、君と―何日君再来』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て良さそうではないかと思って映画館に出かけました。

 本作(注1)の冒頭は、唱和15年の夏のとある喫茶店。
 アイスクリームが画面一杯に大写し。
 うつむいてハンカチを握り締める若い頃の朋子尾野真千子)。
 突然、向かい側に座る吾郎向井理)が、「つべこべ言うなよ」と言うので、朋子が驚いて顔を上げると、吾郎は「南京の揚げパン屋の売り声です」と説明。
 その間にも、机の上のアイスクリームが、ドンドン溶けていきます。
 吾郎は「それ食べないの?」と尋ね、アイスクリームを食べますが、朋子は見ているだけ。それで、吾郎は、朋子の前のアイスクリームまで食べてしまいます。

 レコードがかかって、店の中に曲が流れます。
 朋子が「ええ曲」と言うと、吾郎は「ホーリー ジュン ザイライ(何日君再来)」と応じます。
 さらに、朋子が「どういう意味?」と訊くので、吾郎は「今宵別れたら、いつまた君と会えるの」と答えます。
 そして、吾郎は「来週、南京に戻ることになりました」と言います。
 朋子は「除隊後は、日本の新聞社に入るとのことでは?」と聞き返しますが、吾郎は「止めました。先輩たちと和平のために働くことにしました。手をこまねいている訳にはいきません」と答え、さらに「南京は美しいところです」と言って、小さなスケッチブックを朋子に見せます。
 朋子が「綺麗なところですね」と言うと、吾郎は「見せたいな。朋子さんにも」と応じます。すると、朋子は「あたし、行きます。南京に連れて行ってください」ときっぱりと言います。



 次いで、唱和16年の南京。
 朋子が書斎に入っていくと、吾郎は机に向かって書物をしています。
 朋子のモノローグ:「私は、吾郎と南京で新婚生活を始めた」。
 吾郎が「見られているとやりにくい」「先に寝ていて」と言うと、朋子は「まだ、眠くありません」と答え、吾郎の後ろ姿を見つめます。

 ここでタイトルが流れます。
 そして、ベンチに座ってリンゴをかじる(吾郎の孫:成田偉心)。
 次いで、「何日君再来」を歌いながら、畑の中の道を走る理の姿。
 1軒の家に着いて、「ばあちゃん、いる?」「今日はブリを買ってきた。大根と一緒に煮て、食べようよ」と言いながら家の中に入っていき、祖母の朋子野際陽子)が床に倒れているのを発見します。
 理は、慌てて電話で救急車を要請します。
 朋子は、パソコンで手記を書いていたところでした。

 こんなところが本作の初めの方ですが、さあ、これからどんな物語が始まるのでしょうか、………?

 本作は、俳優の向井理の祖母の手記を映画化したもの。祖母役に尾野真千子、祖父役に向井理というキャスティングで、中国から着の身着のままで引き揚げてからの一家の苦難の歴史が描かれています。成功譚ではなく、ごくありふれた庶民の生活が描かれている点が評価できるでしょう。ただ、物語全体に起伏が乏しく、NHKの朝の連続TV小説のような雰囲気の作品です。例えば、南京や上海での生活とか、引揚船に乗るまでの話をきちんと描いて、引揚げ後と対比させるなどして、全体として話にメリハリを付けるべきではないかな、と思ったりしました。

(2)本作は、俳優の向井理の祖母・朋子の手記を映画化したものであり、ほとんど何も持たずに一家4人が中国から引き揚げてから、祖父・吾郎が死ぬまでを、ほぼ実話に沿って描き出している作品です。
 戦後すぐの食糧が乏しい大変な時代を描いた作品は、これまでにいろいろと作られているでしょう(注2)。でも、本作のように引揚者の困難な生活振りを真正面から描き出している作品は少ないように思われます。

 例えば、吾郎の一家は、愛媛にある朋子の実家に身を寄せますが(注3)、財産一つ持ってこない吾郎に対し、朋子の父親のイッセー尾形)は、「食い扶持ばかり増えて、往生する」など愚痴をこぼします(注4)。
 そこでの酷い扱いに耐えかねた一家は、茨城県に移り、運送業やタイル販売などを行いますが、いずれも失敗してしまいます(注5)。
 本作では、何をやってもうまくいかない吾郎の姿がなかなかリアルに描かれていると同時に、そんな夫ながらあくまでも支え続けた妻の朋子のけなげな姿も上手く描かれているな、と思いました(注6)。



 とはいえ、脚本を書いたのが、『ゲゲゲの女房』などTVドラマの脚本制作で活躍する山本むつみ氏だからというわけではないのですが、本作には、映画というよりもむしろ、NHKの朝の連続TV小説のような雰囲気を感じてしまいます。
 特に、原作が女性の手になるものだから仕方ないとはいえ、吾郎を中心とする物語でありながら、あくまでも朋子という視点から物語が綴られていることも与っているでしょう。

 それに、映画に大きな盛り上がりが見られないのが残念な気がしました。
 原作にどこまで書き込まれているのかわかりませんが、南京や上海での生活とか、引揚船に乗るまでの話をきちんと描いて、引揚げ後と対比させるなどして(注7)、全体として話にメリハリを付けるべきではないかな、と思ったりしました。

(3)渡まち子氏は、「物語として大きな盛り上がりに欠ける感は否めないが、だからこそ、(朋子と吾郎の夫婦は、)昭和を生き抜いてきた、すべての名もない庶民の代表のような存在に思える」として60点をつけています。



(注1)監督は、『神様のカルテ』、『洋菓子店コアンドル』、『白夜行』などの深川栄洋
 脚本は、山本むつみ
 原作は、本作を企画した向井理の祖母・芦村朋子が書いた『いつまた、君と~何日君再来』(朝日文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、尾野真千子は『ブルーハーツが聴こえる』、向井理は『信長協奏曲』、イッセー尾形は『沈黙-サイレンス-』、野際陽子は『トリック劇場版 ラストステージ』、駿河太郎は『湯を沸かすほどの熱い愛』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、この記事とかこの記事といったものが、参考になるのではないでしょうか。

(注3)朋子によれば、父親が田畑を用意していると言っている、とのことでしたが、実際には、彼らはギリギリの貧しい暮らしをしていました。

(注4)さらには、忠は「引き揚げモンは、米ドルの一つや二つは持っているというのに、一文無しや。エライ貧乏くじ引いてもうた」と吾郎に対して言います。

(注5)最後に、一家は、中国にいた頃に世話になった先輩の高杉駿河太郎)を頼って大阪に移り、そこで職を得ます。
 なお、朋子の娘・真美岸本加世子)が、その息子の理に「最初から大阪で暮らしてたら良かったのでは?」と訊かれて、「当時、大都会への転入は制限されていた」と答える場面があります。
 これは、この記事によれば、GHQの指示に基づく「都会地転入抑制緊急措置令」であり、「東京都区部などの指定された都市〔1都24市(人口10万人以上)〕への転入者を国民生活の再興のため必須の業務に従事する者などに限定するもの」でした。1946年に出され3年近く継続しました(昭和22年に法律となりましたが、その内容はこちら←ただ、その第2条に例外者が定められていて、第5項に「外国又は外地から帰還する者」とあり、吾郎らも申請すれば大阪に入れたようにも思われるのですが)。

(注6)例えば、タイル販売の事業が失敗すると、吾郎は「行きていくのは面倒だ。いっそ、ずっと休憩しようか。ナタ一丁あれば片がつく」などと落ち込みますが、朋子は「うちは、ちっとも面倒ない。ここはええとこよ。住みやすく、子供たちは元気」、「最近ええことがあった。父ちゃんが、前みたいに酔っ払わなくなった」などと言って、励まします。

(注7)本作では、南京での新婚生活が、本文の(1)で見られるようにほんの僅か描かれたあと、すぐに中国大陸を徒歩で歩く引揚者の群れの場面となり、次いで引揚船の船内の様子が描き出されます。
 本文の(1)で見られるように、吾郎は和平工作のために南京に渡ったはずですから、そして、映画から垣間見る限り、その生活ぶりはなかなかのものであった感じがしますから、引揚げ後の生活と上手く対比できるのではと思われます。
 少なくとも、吾郎と高杉の関係が中国ではどんなものであったのかぐらいは描く必要があるのではないでしょうか?





★★★☆☆☆



象のロケット:いつまた、君と 何日君再来