映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN

2015年08月28日 | 邦画(15年)
 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)原作漫画が大人気と聞いて映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「100年以上前に、巨人たちが現れ、人間を食べ、文明は崩壊した。その侵攻を防ぐために、人は巨大な壁(注2)を3重に築いた。しかし、100年間壊されなかったといえども、今壊されないとは言い切れない」とのナレーションが入ります。

 そして、画面は、3つ構築されている壁のうち一番外側の壁の近くに設けられている市場。
 貧しい店が連なる商店街にある燃料屋の店番をしていたアルミン本郷奏多)は、親友のエレンが仕事を辞めたと聞くと、店の外に飛び出し、染物屋の娘のミカサ水原希子)を連れて草地を走ります。
 不発弾が埋まっている丘に行くと、エレン三浦春馬)が不発弾の上に立っています。

 エレンは「(不発弾が)爆発すればいい」などとつぶやきます。



 それを無視して、アルミンが「またクビだって?」と尋ね、ミカサが「どうして長続きできないの?」と聞くと、エレンは、「壁の外に行ってみたくはないか?壁の中で生まれて死んで、それでいいのか?俺は嫌だ」と答えます。
 そして、不発弾に付着している土を剥がしてみると、ビキニ姿の女と海の絵が現れます。
 アルミンが「この青いのは海だよ。実際に在ったのかな?」と言い、ミカサも「本当に壁の向こうにあるの?あの空の鳥、海を見たことがあるのかな?」と言います。



 その後、3人は巨大な壁の近くまで行きます。
 ミカサは、「こんなに間近に壁を見るのは初めて」と言い。アルミンも、「壁に登ったりしたら死刑だよ」と言いますが、エレンは、「巨人なんて本当に信じているの?この百年、巨人を見た者はいないのに」と応じます。
3人は警備兵に捕まりますが、3人をよく知るソウダピエール瀧)にとりなしてもらいます。
 ソウダは、「近々、壁外調査のために調査隊が結成される。エレン、お前どうだ。新しい土地が見つかれば、どこに住もうが自由だ」とエレンに言いますが、その時、近くの壁が崩れ、大きな音とともに超大型巨人が壁の向こう側に出現します。

 さあ、この先一体どうなるのでしょうか、………?

 本作は、2部作の前篇であり、いろいろな謎は後編で解明されるのでしょうから、短兵急に感想を述べるべきではないでしょうが、映画化のために改変されている点を含めて、全体的な評価は、後編の出来栄え如何にかかっているでしょう(注3)。

(2)本作について言えば、映画の最初の方で壁の向こう側に出現する超大型巨人は、それこそものすごく巨大であり、かつまた筋肉組織がむき出しに描かれていて、確かにずいぶん迫力があります。
 また、原作漫画には存在しないシキシマ長谷川博己)が、立体機動装置(注4)を使って縦横に空中を飛び回って巨人をなぎ倒すシーンはなかなか面白いと思いました。



 また、兵器班長のハンジ石原ひとみ)も、特異な性格付けがなされていて興味深いものがあります(注5)。また、エレンに対する対抗心をむき出しにするジャン三浦貴大)の存在も、注目されます。

 とはいえ、登場人物が「人類が滅びる」などといって事態の重大さを訴えますが、登場する巨人やそれに抵抗する部隊の規模がひどく小さなもので(注6)、全体としてチャチな感じがつきまといます(注7)。

 それと、巨人たちの侵入を防ぐための壁を破壊する超大型巨人と、壁に開けられた穴から現れる巨人たち(単に生殖器のない裸の大きな人間に過ぎません)との外見のあまりの違いには戸惑ってしまいます。
 そこには、ラストに描かれる不可思議なシーン(注8)とも相まって、きっとなにか大きな秘密が隠されているのでしょう!

 なお、原作の本のはじめの方しか読んだことがないクマネズミにしても、本作は、原作にずいぶんと改変が加えられている感じがします。
 例えば、原作漫画の第1巻第1話で早速巨人が登場し、第2話ではエレンの母親カルラが巨人に食べられてしまいます。そして、それがきっかけとなって、エレンは巨人をなんとしても駆逐しようとするのです。
 これに対して、本作では、上記(1)に書いたように、主人公のエレンは、両親はいないものの、巨人を目の当たりにしたことはなく、その存在を信じていなかったのです。壁の外に行きたいというのも、巨人を倒すというより、むしろ、見知らぬ世界を見てみたいという欲求が強かったからだと思われます。
 他にも、様々な改変点があるものと思います。
 ですが、そうだからといって本作の出来栄えが低下するものでもないでしょう。漫画は漫画の世界であり、映画は映画の世界であって、それぞれはあくまでも別のものとして受け止める必要があるように思います。

(3)このところ、2部作物をいろいろ見てきました。
 その中で、特に『ソロモンの偽証』の前編後編への期待を盛り上がらせました。でも、後編では新しい事柄が殆ど付加されず、なんだかはぐらかされた感じを持ってしまいました。
 他方、『るろうに剣心』(注9)は、前編に登場するトップ同士(佐藤健演じる緋村剣心と藤原竜也演じる志々雄)の頂上決戦を後編に持ってきたこともあって、前編での盛り上がりを後編まで維持し続け、見終わった後も満足感の残る仕上がりとなっているように思いました〔これは『寄生獣』の前編後編との関係についても言えるでしょう(10注)〕。

 本作の場合、面白いことは面白いにしても、『るろうに剣心』や『寄生獣』、『ソロモンの偽証』ほど前編が盛り上がりを見せているわけでもなく、ただ疑問に思える点がいろいろ投げ出されているようにみえることから、後編でよほど頑張ってもらわないと高い評価は得られないと思えるのですが、はたしてどんなことになるのでしょう?

 なお、人間が人間以外のものによって捕食(注11)されるという点で、本作は『寄生獣』に類似しているように見えます。ただ、『寄生獣』の場合は、人間に寄生する生物が外形だけは人間の姿になって人間を捕食するという点で不気味であったのに対して、本作の巨人は、人間の外形をしているために、裸の姿で人間を丸ごと貪り食う様は一層グロテスクな感じがしてしまいます(注12)。

 また、「進撃の巨人」というタイトルの意味合いが、前編だけではイマイチよくわかりません。
 前編からすれば、人類を襲う巨人に対する人類側の攻撃ということで、副題の「ATTACK ON TITAN」は理解できますが、それなら「巨人への進撃」あたりでかまわない気がします(実際のタイトルとしてはおかしなものながら)。
 でも、「進撃の巨人」とすると、“進撃する”巨人という感じになってしまい、主たる視点が人類から巨人側に移ってしまうのではないでしょうか?
 尤も、このサイトの記事が言うように、原作漫画の展開に連れてその意味合い・解釈が変化してきているとする見解もあるようですが(注13)。

(4)渡まち子氏は、「前篇では、巨人との戦いの行く末やエレンの過酷な運命の全貌は見えてこなかった。巨人が人間を喰うという圧倒的な理不尽と絶望に、後篇でどう落とし前を付けるのかを、見守りたい。後篇に期待大!である」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「なにしろ巨人の登場シーンは大迫力だし、スパイダーマンを彷彿とさせる立体機動の表現も頑張っている。人間を食らうシーンはあえて嘘っぽい絵づくりにして残酷度を抑えた配慮も好感が持てる。ただ、そうしたルックスの良さが、演出、演技、シナリオに足を引っ張られてしまい、恐怖や驚きも半減してしまったというだけだ。だから、本作にはまだまだ挽回の目はあると見る。頑張ってほしい」として40点をつけています。



(注1)監督は、『のぼうの城』の樋口真嗣
 脚本は、渡辺雄介町山智浩
 原作は、諫山創著『進撃の巨人』。

(注2)「巨大な壁」で思い出されるのは、例えば、『パシフィック・リム』で描かれる「命の壁」と称される防護壁とか、『ワールド・ウォーZ』で映しだされる巨大な壁です(ここらあたりについては、この拙エントリの「ロ」や関連の注記をご覧ください)。

(注3)出演者のうち、最近では、三浦春馬は『永遠の0』、長谷川博己は『この国の空』、水原希子は『トリック劇場版 ラストステージ』、三浦貴大は『リトル・フォレスト』、桜庭ななみは『謎解きはディナーのあとで』を、國村隼は『寄生獣』、石原さとみは『幕末高校生』、ピエール瀧は『寄生獣』で、それぞれ見ました。

(注4)このサイトの記事が参考になります。

(注5)ハンジは、巨人の急所(後頭部の下部)を調査団にレクチャーする一方で、「巨人に性器はない」とか「巨人が欲しい、やりたい!」などと言ったりするのです!

(注6)なんだか、人類側を統率している者が、クバル國村隼)一人しかいないような印象を受けてしまいます(クバルは、憲兵団の主管にすぎないのでしょうが、他の政府要人が登場しないので)。

(注7)この点は、観客の方で想像力を働かせて、これはあちこちで出現しているはずの事態のほんの一部を描いているのだとみなすこととすれば、補えるものと思いますが。
 また、出演者が日本人俳優だけながら、エレンとかアルミンなどという名前が付けられていますから、描かれているのは、特殊日本の出来事ではないと想像する必要もあるでしょう。

(注8)エレンと思しき人物がジロッと目を開けます。

(注9)実際には、『京都大火編』と『伝説の最期編』の2部作の前に、『るろうに剣心』が作られていますが。

(注10)染谷将太扮する新一と、浅野忠信扮する後藤との対決。

(注11)人間が食べられるという点については、『鈴木先生』についての拙エントリの「注7」で触れた武田泰淳の『ひかりごけ』や、最近の『野火』でも取り上げられていますが、それらは戦争中の極限状態で起きたこととして描かれていて、本作や『寄生獣』のようなSFファンタジーの世界とはずいぶんと異なっています。

(注12)その他にもいろいろ相違点があるでしょうが、例えば、『寄生獣』に登場する寄生獣は、人間を凌駕する知性の持ち主ですが、本作の巨人はただ人間を捕食することしか興味がない酷く愚鈍な生き物のように描かれています。

(注13)その記事によれば、大体のところ、「進撃の巨人=超大型巨人」(第1巻)→「進撃の巨人=エレン」(第2巻)→「エレンが巨人達を進撃させる=進撃の巨人」(50話以降)という具合に解釈が変化してきているとのことです。



★★★☆☆☆



象のロケット:進撃の巨人 ATTACK ON TITAN
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野火

2015年08月25日 | 邦画(15年)
 『野火』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)『鉄男』の塚本晋也監督の作品ということで、映画館に足を運びました。

 本作(注1)の冒頭では、小屋の中で分隊長(山本浩司)が田村一等兵(塚本晋也)を、「バカヤロー、食糧も集められない肺病病みを飼っておく余裕はない。防空壕は掘れるのか?無理だろ。分隊を離れろ!病院に行って来い」と怒鳴りつけています。
 曹長が芋をいくつか田村に渡して、「大事に持っていけ」と言います。
 そこで田村は、銃を担いでジャングルの中を一人で歩いていくことに。



 やっとの思いで病院が開設されている小屋にたどり着き、中に入ると、傷病兵が大勢苦しがっています。
 田村は、軍医に「肺が悪いために、分隊長から入院を命ぜられました」と申告し、食糧の芋を差し出します。
 ですが田村は、少しの間病院にいたものの、軍医から「原隊復帰だ。退院だ、出ろ!」と言われてしまいます。

 それで、場面は再び分隊の小屋。
 田村は、分隊長に、「なんで戻ってくるんだ、治っていないだろ、5日分の食糧を持っていったのだから、5日置いてもらえ!」と殴られます。

 そのことを病院で田村が軍医に言うと、軍医は「あんなの5日分とはいえない!」と殴られます。

 それでまたまた分隊に戻ると、分隊長は「帰れと言われて、帰ってくる奴があるか!どうやっても入れてもらえなかったら、死ぬんだよ。手榴弾があるだろ」と怒鳴ります。
 田村は、「病院に行ってまいります。入院出来ない場合は自決いたします」と言って、小屋を後にします。
 外で防空壕を掘っている兵士から、「そっちとこっちじゃ、どっちがいいかわかったもんじゃない」と言われます。

 こうして、田村はまたまた病院に行くのですが、はたして彼の前にはどんな運命が待っているのでしょうか、………?



 本作は、大岡昇平の原作を、現在の時点では望みうる最高のレベルで映画化したものではないか、当時のフィリピンの戦場の実態を描くものとしてはいろいろ問題があるのかもしれませんが、当該小説の醸し出す雰囲気を十二分に描き切っている優れた作品ではないか、と思ったところです(注2)。

(2)大岡昇平の原作小説の映画化については、先行作品として、市川崑監督の『野火』(1959年)があります。
 本作を見終わってから、TSUTAYAで1959年版のDVDを借りて見てみました。

 すぐに気が付くことは、『日本のいちばん長い日』の1967年版と2015年版の違いと同じように、本作はカラーですが、1959年版はモノクロですし、また1959年版の出演者は大層著名な俳優(船越英二ミッキー・カーチス滝沢修など)であるのに対し、本作はそれほどでもありません。

 さらに、冒頭部分を比べてみると、1959年版の場合、分隊長は田村を怒鳴る際に、「どうしてお前には、わが中隊の現状が飲み込めないのか」として、「タクロバン地区の敗勢を挽回するため、わが混成旅団は西海岸に敵前上陸してきた。その際、兵隊たちの3分の2は名誉の戦死を遂げた」云々と、客観状況を田村に向かって縷縷説明します。
 他方で、本作の冒頭部分では、(1)に記したように、そんな状況説明は何も行われません。
 確かに、1959年版の方が、観客にとってはずいぶんとわかりやすいとはいえ、原作小説にあっても、そのような客観情勢については地の文で行われているのであり(文庫版P.9)、実際の会話としては、本作の方がずっとリアルなものと考えられます(インテリの田村は、そんな事柄についてはよく知り抜いていることでしょうし!)。

 そういえば、田村が病院を離れて歩いている時に3人の日本兵(中の一人が中村達也)を少し離れたところに見つけますが、1959年版では、田村が「日本兵だ」とわざわざ口に出して言うのです(注3)。これも、内心そう思うとしても、そして観客にとってはわかりやすさを増すにしても、そばに誰もいない人間が口に出すことは考えられない台詞ではないでしょうか?

 総じて、1959年版は、観客に状況をわからせようといろいろ工夫がなされているように思えるのに対し(注4)、本作は、状況説明的なものは一切省いて、よりリアルな映像にしようと務めているように思われます(注5)。

 そうなるのも、1959年版の場合、ロケ地が日本国内であることは明らかですから(注6)、映像だけで状況を観客にわからせるのは難しいと考えられたのではないでしょうか?
 これに対して、本作の場合、「田村のみのシーンや実景のほとんどは、カメラマンら最小限の人数でフィリピン・ロケを敢行」して撮影されていますから(注7)、あえて状況を説明するまでもないと考えられたのかもしれません。

 このロケ地の問題ですが、1959年版を見た時に覚える違和感がこれに起因するように思います。出演者はそれぞれ皆一生懸命演じているにもかかわらず、全体としてなんだか空々しく感じてしまうのです。
 でも、あるいは、1959年版の場合、状況設定こそが重要で、その中で各人がどのように行動したかを離れたカメラの目で客観的に描いているように思えるために(注8)、ロケ地に余りこだわらなかったのかもしれません(注9)。

 これに対して、本作では、原作を読んだ時に印象に残ったこと(注10)を映像化しようとしているために、フィリピンでのロケこそが重要であり、その映像さえあれば、状況説明は不要と考えられたように思われます。

 他に、1959年版を見た時に印象に残る点は、船越英二が演じる田村の若さです。映画製作時、船越が35歳くらいですから、50歳台半ばの塚本晋也からすると20歳ほども若いのです。



 とはいえ、原作者の当時の年齢(35歳)とか当時の日本の兵隊の年齢の上限からすれば(注11)、1959年版の方がありうる姿と考えられるにもかかわらず、本作を見ると、塚本晋也が田村を演じたからむしろ良かったという感じになってしまうところが不思議です(注12)。

 それと、1959年版は、教会から逃げ去る青年が「私の覘いを避けるためであろう、S字を描いて駈けていた」(文庫版P.98)のをそのまま再現するほど原作に忠実でありながら、原作の末尾の「37狂人日記」~「39死者の書」のところはカットしてしまっています。
 こうすることによって、映画で描かれた物語が、主人公の妄想の産物であることの可能性がなくなってしまっているように思われます。
 他方、本作では、戦後田村が日本に帰還して、自宅でこの物語を描いている姿がラストで描き出されます。
 これは、「私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である」とする原作小説の設定(文庫版P.191)とは異なりますが、でも、原作小説にある「あるいはこれもすべて私の幻想かもしれない」とするフレーズ(文庫版P.203)が成立する可能性は残しているように思われます。

 全体として、クマネズミには、大岡昇平の『野火』の映画化としては、本作の方に軍配を上げたいなと思うところです。

(3)渡まち子氏は、「低予算の自主映画とは思えない強烈なインパクトを残す本作、戦後70年という節目の年だからこそ、この映画の底知れない恐ろしさ、戦争の狂気が胸に迫る」として70点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「南方戦線での地獄のような過酷な現実はしばしば聞くところだが、本作はそんな狂気に満ちた戦争の実態を凝縮して描き出して心に響く。塚本監督のいつもの揺れ動く映像は抑えられているが、フィリピンや沖縄のロケ撮影による風景や暑さが効いていて、1つの世界に巧く仕立て上げている」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 山根貞男氏は、「声高なメッセージを言葉で語る映画ではない。だが、非情に徹した描写の底から、静かな叫びが響いてくる。これが戦争だ、と。塚本をはじめ、リリー・フランキー、中村達也、森優作らが、鬼気迫る力演で不気味さを放つ。まさにその怖さが映画の核心を体現している」と述べています。
 砂川公子氏は、「元兵士の加害者の意識という心の内側にまで迫ったところに、塚本監督の独自の表現上の輝きがある」などと述べています。



(注1)製作・監督・脚本は、『KOTOKO』の塚本晋也
 原作は大岡昇平著『野火』(新潮文庫)。
 ちなみに、英題は「Fires on the Plain」

(注2)出演者のうち、最近では、塚本晋也は『KOTOKO』、リリー・フランキーは『トイレのピエタ』、中村達也は『るのうに剣心 京都大火編』で、それぞれ見ました。

(注3)その前の教会のシーンでも、入口の階段に死体がいくつも転がっているのを見て、1959年版の田村は「日本兵だ」と口にしますが、本作では死体の映像だけですから、観客にはどうしてそんなものがいくつも重なっているのかよくわからないままです。

(注4)また例えば、1959年版のラストには、「1945年2月 比島戦線」との字幕が映し出されます。

(注5)例えば、田村らの敗残兵たちが国道を越えてパロンポンに抜けようとして起きた戦闘場面に関し、1959年版では、国道を米軍が何度も行き交う様とか、国道前の沼地の様子などが予め俯瞰的に描き出され、その上での戦闘場面ですから状況がよく分かりますが(戦車が4両位出現し敗残兵をなぎ倒します)、他方本作においては、暗闇の中を兵隊たちが匍匐前進していると、突然サーチライトが照らされていきなり戦闘場面となってしまいます。敵側は描かれず状況が判然としないながらも、戦争のリアルな恐ろしさという点では本作の方が勝っているように思います。



(注6)風景や木々などが日本でよく見かけるもののように思われますし、雨も熱帯のスコールというよりは秋雨のような感じがします。どこがロケ地かはっきりしませんが、一部では富士山の裾野が使われているように思われます。

(注7)このインタビュー記事より。

(注8)この記事では、塚本監督は、「市川監督版のカメラは、主人公たちの心の中に迫っていくような感じだったので、自分が原作を読んだときに受けた印象のまま、挑んでみたいという気持ちがずっとありました」と述べています。
 確かに、1959年版では、例えば冒頭で、田村と分隊長の顔をそれぞれ長く大写ししたり、また所々で主人公のナレーションが入ったりします。でも、クマネズミには、「主人公たちの心の中に迫っていくような感じ」とまでは思えませんでした。

(注9)いってみれば、風景と登場人物とはなじまずに別物のように感じられてしまうのです。
 なお、ロケ地を国内にしたのは、単に、海外渡航の自由化(1960年)以前だったので、海外ロケが難しかっただけなのかもしれませんが。

(注10)塚本監督は、上記「注7」で触れたインタビュー記事に、「大自然の美しい描写と、その中で土色のドロドロとした愚かしい動きをしている人間の対比が、すごくくっきりと印象に残りました」と述べています。

(注11)Wikipediaの「召集」に関する項には、「1943年10月、兵役法改正により、徴兵による兵役の年限は従来の40歳までから満45歳になる年の3月31日までと延長された」と記載されています。

(注12)他にも、伍長役の中村達也は50歳ながら、当時40歳前の稲葉義男よりも様になっているように思いました
 なお、安田役のリリ―・フランキーは50台前半で、滝沢修とほぼ同年代です。



 この場合、1959年版の滝沢修が扮する安田は、いかにも意地悪そうな顔つきをしているがゆえに、部下の永松(ミッキー・カーチス)に人非人の行為を強いてもありえないことではないという感じがしますが、リリー・フランキーの安田の場合は、いかにも人が良さそうに見えるだけに、見ている方は常識が揺さぶられ一層恐ろしくなってしまいます。



★★★★☆☆


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この国の空

2015年08月21日 | 邦画(15年)
 『この国の空』をテアトル新宿で見ました。

(1)脚本家の荒井晴彦氏の監督作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、昭和20年の東京・杉並(注2)。
 雨が激しく降る音がし、またヴァイオリンの音が流れています。
 次いで、雨が降っている庭の防空壕が映し出されます。

 娘の里子二階堂ふみ)が、防空壕の扉を開けて、「中に水が溜まっている。汲み出さないといけない」と指摘すると、母親の蔦枝工藤夕貴)が「女二人では無理」と答えます。
 それを耳にした隣家の市毛長谷川博己)が「どうしました?」と尋ねます。
 里子が「防空壕に水が溜まってしまって」と答えると、市毛は「ウチのを使えばいい。昼間はたいてい留守にしていますから」と申し出ます(市毛の妻と娘は疎開しています)。
 その申し出に二人は感謝しますが、里子が「昨晩、ヴァイオリンを弾いていませんでした?」と尋ねると、市毛は「聞こえましたか」と答え、さらに里子は「縁側のガラス戸に紙が貼ってありませんね」と言います。市毛が「檻の中にいるみたいで嫌なんです」と答えると、里子が「今度、私がやります」と言います。

 別の日、里子が、市毛の家でガラス戸に紙を貼りながら、「あの曲はなんというのですか?」と尋ねると、市毛は「メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト」と応じます。里子が「一度ちゃんと聞かせて欲しい」と言うと、市毛は「ちゃんと弾けないから、銀行員になったのですから」と答えます。
 そして、紙が貼られたガラス戸を見ながら、市毛が「なんだか物哀しい感じですね」と言うと、里子も「そうですね。ガラス戸が怪我をして繃帯を巻かれているみたい」と応じます。



 また別の日に、里子が「市毛さんは戦争に行かなくっていいのですってね」と言うと、市毛は「ずるいと思ってるでしょ」と応じ、里子が「違います。丙種と聞きましたが、昔病気なさったの?」と尋ねます。
 これに対して市毛は、「当時は、体力の劣るものは皆丙種。それに、検査を受けたのは静岡で、周りは皆体格のいい百姓だった」と言います。
 そして、「今年38だから、もう引っ張られはしないでしょう」と市毛が付け加えると、里子は「父が結核で死んだ年。私が12の時」、「祖父からの家作が3件世田谷にあって、その家賃で暮らしています」などと言います(注3)。

 こんな風に里子と市毛は親しく話しをするようになりますが、さあ二人の関係はこの後どのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、先日見た『日本のいちばん長い日』の庶民版という感じで、空襲下にある東京・杉並で暮らす主人公一家を巡るお話です。母親と暮らす主人公の若い女性が、隣に住む男性に惹かれるところ、そうこうするうちに終戦を迎えてしまいます。主人公を演じる二階堂ふみはなかなか良くやっていますが、例えば、映画用にあつらえた様子が歴然としているセットで演じられると、仕方がないこととはいえ、何もかもが作り物ではないかという感じがなんとはなしにつきまとってしまいます(注4)。

(2)本作の脚本・監督が荒井晴彦氏だと聞いて、これまで見た脚本作品の『さよなら歌舞伎町』とか『海を感じる時』のように性的なシーンがいくつも盛り込まれた映画になるのかな、あるいは『戦争と一人の女』や『共喰い』と同様に、性的シーンのみならず体制批判的・反戦的な要素も加味された作品になるのかな、と心して見たものの、実際にはそういった面はずいぶんと押さえ込まれた描き方がされていて、少々面食らってしまいました。

 それでも、本作について荒井監督自身が、「戦時下の19歳の女の子のロスト・ヴァージンを描いただけ」と言っているように(注5)、里子が市毛と関係をもつ場面が描かれたり、井戸で里子が全裸になって体を洗うシーンが映し出されたりします(注6)。
 また、荒井監督は、「〔ラストのシーン(注7)に〕戦後に生まれて育ってきたわれわれの世代からの「戦後批判」が重ねられるんではないかと思った」と述べており(注8)、その政治姿勢を引っ込めたわけでもなさそうです。
 とはいえ、せいぜいそのくらいのところであり、これまで荒井氏の脚本に特色的と思えた面が、本作ではずいぶんと抑制気味に取り扱われていて、その分クマネズミには好ましい作品だなと思えたところです。

 そういえば、荒井氏は『大鹿村騒動記』の脚本も書いていて、そこでは300年の伝統がある大鹿村歌舞伎を現代において引き継いでいく意義といったものがコミカルに描かれていたなと思い出し、人をあまり先入観で推し量ってはいけない、と自戒したところです。

 ただ、今どきそんな古い家が存在しないでしょうから仕方がないことながら、里子の住む家や隣の市毛の家などが、スタジオ内に作られたセットであることが如実に感じられて、どうも映画の中にうまく入り込めませんでした。



 むろん、セットにしても、当時の新興住宅地の家を資料に基づいて上手に再現したに違いないでしょう(注9)。しかしながら、例えば、防空壕はどの家も皆庭に作ったのでしょうか(注10)、また庭がのっぺりとしすぎていて、なんだか土の下にコンクリートの床があるような感じがします(あのようなところでトマトが育つものでしょうか)。
 こうしたものは、演劇の舞台と同じで、大体のところが当時のものと合致していれば、あとは想像力で補うこととして構わないわけでしょう。でも、ちょっと違和感を覚えると、物語自体にもいささか胡散臭さを感じることになります。
 例えば、本作では19歳の里子と38歳の市毛との関係にもっぱら焦点が当てられているところ、44歳の工藤夕貴が扮する母親・蔦枝とか、46歳の富田靖子が扮する叔母・瑞江とかと市毛との関係は、どうして何も描かれていないのでしょう(注11)?
 特に、蔦枝に関しては、里子と一緒に田舎に食糧の買い出しに行った際、河原で上半身裸になって体を洗うシーンが設けられていますが、それを見ると、むしろ彼女と市毛が関係を持ったほうが自然なのではと思えてしまいます(注12)。

 それと、最後に茨木のり子氏の詩「わたしが一番きれいだったとき」が里子によって朗読されますが、なんだか良い雰囲気で展開してきた映画が、最後になってさらに一歩ダメ押しされるような感じがして、なくもがなと思いました(注13)。

(3)渡まち子氏は、「戦争終結が決して単純な平和に結びつかず「これから自分の戦争が始まるのだ」と予見するラストは、この映画が成瀬の代表作「浮雲」のプロローグのように思えてならない」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「戦争というものは、当事者以外にとっては滑稽でばからしいものであると気づかせてくれる点でこの映画にはある種の価値があろう。しかし、このどこかノーテンキなシュール感は好みが分かれるはずだ」として40点をつけています。
 白井佳夫氏は、「やがて敗戦を知ったヒロインが、いつか彼の妻子が帰る日を予感するクライマックス。その横顔のストップモーションに、茨木のり子の詩を重ねた映画オリジナルのラストが、胸をうつ。まるで、今の日本そのものをも、見据えたような」として★4つをつけています。
 小梶勝男氏は、「戦闘場面はないが、まぎれもなく戦争映画だろう。戦時下の日常とはこうだったのかと、ふに落ちる気がした。それは我々の日常とも地続きでつながっている。名脚本家として知られる荒井晴彦の傑出した監督作だ」と述べています。
 佐藤忠男氏は、「高井有一の小説を荒井晴彦が脚本化し監督も務め、あの敗戦にいたる日々を彷彿(ほうふつ)とさせた傑作である」と述べています。



(注1)監督・脚本は荒井晴彦
 原作は高井有一著『この国の空』(新潮文庫)。

(注2)原作小説では架空の「碌安寺町」とされていますが、劇場用パンフレット掲載の「物語」では「善福寺町」と記載されています。

(注3)念の為に、雑誌『シナリオ』9月号に掲載の本作のシナリオをチェックしてみたところ、掲載のものは「初稿」段階のシナリオにすぎず、出来上がった映画とは相当違っていることが分かり、驚きました(同誌に掲載されている「鼎談『この国の空』をめぐって」において、荒井監督は、「敢えて「シナリオ」では初稿を載せようと」と述べていますが、その意図はよくわかりません)。

(注4)出演者の内、最近では、二階堂ふみは『私の男』、長谷川博己は『ラブ&ピース』、富田靖子は『きみはいい子』、近所の一人暮らしの老人役の石橋蓮司は『紙の月』、近所に住む画家役の奥田瑛二は『ミロクローゼ』で、それぞれ見ました。
 二階堂ふみは、本作で渾身の演技を披露して素晴らしいと思いましたが、相手役の長谷川博己は、銀行員という設定ですから仕方ありませんが、ちょっと優男すぎるのではと思いました。

(注5)雑誌『映画芸術』2015年夏号掲載の特別対談「少女の性の電圧を見つめる」より。

(注6)その他、里子が畳の上をゴロゴロ転がるシーンがありますが、「からだが火照ってしまう」様子を描いているように思われます(上記「注5」で触れた特別対談「少女の性の電圧を見つめる」における荒井監督の発言)。
さらに、原作小説で「身体が火照っているせいなのか、と里子は縁側へ出て、俯伏せに身体を横たえた。肌が床板にぴったりと貼付き、身体の芯の暑さが吸い出されて行くようであった」と書かれている箇所(P.270)が映像で映し出されもします。



(注7)「里子は私の戦争がこれから始まるのだと思った」との字幕が出て、里子の顔がストップモーションでクローズアップされていきます。
なお、字幕のフレーズは、原作小説には見出されません。

(注8)劇場用パンフレット掲載の「脚本・監督荒井晴彦に聞く」より。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「制作記」において、プロデユーサーの森重晃氏は、「この時代の普通の家って資料もほとんど残っていないんです」としながらも、「里子たちが暮らす家は、関東大震災以降に建てられた(当時の)新興住宅地という設定なので、大体築15~20年という設定です。周囲に板塀を作ることで、ずいぶん雰囲気も変わりました」と述べています。
 なお、上記「注5」で触れた「特別対談」において、作家の松浦寿輝氏は、「ちょっとセットっぽい印象があって、それがむしろとてもよかった」と述べています。

(注10)例えば、このサイトの記事のように、床下に作る場合もあったのではないでしょうか?

(注11)上記「注5」で触れた雑誌に掲載の「連続斗論14 この国の空」の中で、西部邁氏は、「当時の四十を超えた女性は、お婆さんの匂いが出る年齢ですよ。今の四十過ぎの女性とは比べようもない。~もうじき自分は無残な死に方をするなと思っている男にとっては、女の美しさもある種、抽象化、観念化されていて、すでに男性を知っている未亡人より、まだヴァージンの少女に美しさを感じたんでしょう」と述べていますが、そんなものでしょうか?

(注12)しかしながら、その際蔦枝は、「里子は大人になった。それを一番感じているのは市毛さん。市毛さんは見ている。あなたの近くには市毛さんしかいない。市毛さんがいてくれて喜んでいる。でも、あの人に気を許してはいけない」などと言って、市毛に向けて里子をけしかけている感じなのです(この場面は、原作小説の第3章でも同じように描かれています。ただし、原作小説では、里子は、蔦枝によってブラウスを脱がされてしまいますが)。



 むしろ蔦枝は、瑞江が密かに豆を食べてしまったことで激しく言い争いをするなど、性欲よりも食欲の方に関心があるように描かれているように思えます。

(注13)なんだか、園子温監督の『ラブ&ピース』のラストで流れる忌野清志郎の「スローバラード」と同様、よく知られた凄くいい詩(歌)であることは間違いないにしても、逆にそうだからこそ、わざわざそんな詩(歌)をラストに持ってきてダメを押さなくともいいのではという感じです。



★★★☆☆☆



象のロケット:この国の空
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日本のいちばん長い日

2015年08月18日 | 邦画(15年)
 『日本のいちばん長い日』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)終戦記念日にちなんで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1945年4月5日で、重臣会議(注2)を終えて部屋から出てきた重臣たちが話しています。
 東條英機中嶋しゅう)が「海軍出身の総理では、陸軍はそっぽを向く」と言うと、木戸幸一矢島健一)が「陸軍がそっぽを向くとは?」と質し、岡田啓介吉澤健)も「そっぽを向くとは何事だ」と同調します。
 元海軍大将の鈴木貫太郎山崎努)が「私は、固辞しました」と答えると、木戸は「思うところを何でも陛下におっしゃってください」と言います。



 次の場面では、昭和天皇本木雅弘)が、鈴木に対して、「組閣を命ずる」と言うと、鈴木は「自分は77歳の老齢で、耳も遠く首班としては不適当です」と答えます。
 更に、天皇が「耳が聞こえなくてもいいから是非に」と言うと、なおも鈴木は「軍人が政治にかかわらないことをモットーとしてきました。この件は拝辞することをお許し願います」と答えます。
 ですが、天皇は、「鈴木がいて阿南がいたあの年月が懐かしい」、「もう人がいない。たのむから承知してもらいたい」と言います。

 鈴木の家の場面。
 鈴木は「困ったことになった」とつぶやきます。
 息子の小松和重)が、「農商省を辞めて父さんの秘書官になる」と言います。
 鈴木が「また狙われるな」と言うと、妻のたか西山知佐)が「あの時も助かったのですから、大丈夫ですよ」と答えます。
 一が「問題は陸軍大臣ですね」と尋ねると、鈴木は「お上は、阿南が懐かしいと言われた」と答えます。

 次いで、鈴木は陸軍省に向かい、前陸相の杉山元帥に阿南陸相(役所広司)を打診し、組閣が進められます。



 さあ、8月15日の終戦に向けてこれからどんなドラマが展開するのでしょうか、………?

 本作で描かれている事柄自体は、最近も玉音放送の原盤が宮内庁から公開されたりして(注3)、ずいぶんと知られており、新鮮味は余り感じられません(注4)。
 ただ本作は、1967年版のリメイクで、その時の配役をWikipediaで見ると、そうそうたる俳優の名前が上がっていて(笠智衆とか三船敏郎など)、実に壮観です。それに比べると、本作はイマイチの感は免れないながらも、鈴木貫太郎を演じた山崎努や、阿南惟幾を演じた役所広司、昭和天皇に扮した本木雅弘(注5)などはなかなかの演技を見せています(注6)。

(2)本作は、岡本喜八監督による1967年版のリメイクとのことですから、その映画もなんとかできないかと思っていましたら(以前、DVDで見たことはあるものの、細部は忘れてしまいましたので)、ちょうど終戦記念日の昼間にNHKBSで放映するというので、録画して見てみたところ、取り扱っている中心的な出来事は同じとしても、両者はまるで違う作品だなとの感を深くしたところです。
 なにしろ、本作の冒頭は、上に書きましたように1945年の4月の鈴木内閣発足ですが、前作は、ポツダム宣言が発せられた7月26日から始まるのです。
 また、本作では、上でも書きましたように昭和天皇が主要な登場人物の一人としてかなりの時間映し出されますが、前作においては、一度もはっきりとは映し出されません(注7)。
 それに、前作では、阿南陸相や鈴木首相の家族のことは殆ど描かれませんが(注8)、本作では、家族とトランプに興ずる阿南陸相とか、私邸で着替えをする鈴木首相とかが描かれたり、また昭和天皇と阿南陸相と鈴木首相との近しい関係も映し出されたりします(注9)。
 もっと言えば、前作では、横浜警備隊による襲撃(注10)とか、厚木航空隊事件や児玉飛行場の話(注11)など終戦時の混乱がいろいろ取り上げられていますが、本作では横浜警備隊の話がほんの少し描かれるに過ぎません。逆に、本作では東條英機が3回ほど登場しますが、1967年版では目につきません。

 要すれば、1967年版の作品は、8月14日から15日にかけての実に長い1日を、様々の場所からどちらかと言えば客観的に(いわばドキュメンタリータッチで)捉えようとしていると思えるのに対し(注12)、本作は、終戦にまで至るプロセス(特に、政治の)を、できるだけ等身大の人間の視点から描き出すことに重点をおいているように思えました(注13)。

(3)本作を見ていると、あれだけの国民を巻き込んだ大きな戦争を終わらせるのは並大抵のことでは出来ないのだな、どうしても様々な手続きが必要になってくるのだな、でもそれにしてもずいぶんと各種の重要会議が設けられ、会議続きの有り様だったな、と思えてきます(注14)。
 本作の冒頭では、「重臣会議」が登場しますし(注15)、しばらくすると「陸軍三長官会議」なるものも出てきます(注16)。
 さらに、「最高戦争指導者会議」があり(注17)、また「閣議」(注18)や「御前会議」(注19)が何度も映し出されます。
 映画で見るだけでこのくらいですから、先の戦争の遂行に関し、実際にはもっとたくさんの重要会議が設けられて開催されていたものと思われます(注20)。
 にもかかわらず、いやだからこそかもしれませんが、例えば陸軍と海軍との激しい確執は最後まで継続しましたし、またポツダム宣言の受諾にも余計な日数がかかってしまいました。

 こうしたことになるのも、各分野の最高責任者が最終的な決定を下して物事を推進していくというよりも、関係者皆の合意のもとに物事が進められていくという日本の組織のあり方にもしかしたらよるのではないか、実際には、戦争遂行について誰が最終的な決定権を持つのか曖昧のままに(例えば、軍部と政府の役割分担が明確でないままに)戦争に突入してしまい、関係者皆の合意を得るために各種の類似する会議がバタバタと設けられたのではないか、と思われます(ずいぶんと大雑把な見方に過ぎませんが)。

 こうした有り様は、なにも当時のことにかぎらず、例えば、2020年の東京オリンピックに向けた新国立競技場の建設問題についても、新たな会議が設けられ(注21)、どこが最終的に責任を持つのかが曖昧のままとなって、重大な問題点が指摘されたにもかかわらず、いつまでたっても当初計画の見直しができないことになってしまいました。

(4)渡まち子氏は、「リメイクであること、結果がわかっている歴史的事件であることを差し引いても、緊張感を途切れさせない演出は、見ごたえがある仕上がりだ」として70点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「みごとなロケセットと撮影のなかで展開されるエリートたちの葛藤に、歴史の感慨よりも、ただ、むなしさを感じる」として★3つをつけています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「透徹した視線で史実を重ね、日本の運命を描いた。ただそれゆえ、徹底抗戦を唱える青年将校たちが最後に見せる情念の爆発は、弱まったように感じた」などと述べています。
 立花隆氏は、雑誌『文藝春秋』9月号に掲載されたエッセイ「あの夏の記録」の中で、「部分部分での努力の跡は認めるものの、全体としてイマイチだった。役者にしても役所広司、山崎努、堤真一には努力賞が与えられるが、本木雅弘の昭和天皇と松阪桃李の青年将校は疑問続出だ」と述べています。


(注1)監督・脚本は、『駆込み女と駆出し男』の原田眞人
 原作は、半藤一利氏の『日本のいちばん長い日』(文春文庫)など。
 ちなみに、英題は「The Emperor in August」。

(注2)下記の「注15」を参照してください。

(注3)玉音盤については、例えばこの記事を参照してください。

(注4)例えば、川田稔著『昭和陸軍全史3』(講談社現代新書、2016.6)の末尾に、「軍部主流がなお本土決戦に固執するなか、天皇の「聖断」というかたちでの戦争終結方法が、木戸や鈴木首相らによって図られることとなる」(P.407)とあるように、木戸内大臣(1967年版では中村伸郎が、本作では矢島健一が扮しています)をもクローズアップすることが考えられるのではないでしょうか?

(注5)昭和天皇を演じた俳優としてこれまで印象に残っているのは、ソクーロフ監督が制作した『太陽』(DVDで見ました:この拙エントリの(3)をご覧ください)のイッセー尾形と『終戦のエンペラー』の片岡孝太郎であり、前者のイッセー尾形の演技には独自のものが感じられ捨てがたいものがあります。
 本作における本木雅弘の演技は驚くほど自然なものであり、御前会議等での発言にずいぶんの説得力を与えています。



(注6)出演者の内、最近では、役所広司は『渇き。』、山崎努は『駆込み女と駆出し男』、堤真一(迫水・内閣書記官長役)は『海街diary』、松阪桃李(畑中・陸軍省少佐役)は『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』で、それぞれ見ました。
 この他、松山ケンイチ(横浜警備隊長役)、戸田恵梨香(保木・NHK放送局員役)、キムラ緑子(陸軍大臣官舎の女中)なども出演していました(それぞれ、『春を背負って』、『予告犯』、『海街diary』で見ています)。

(注7)劇場用パンフレットのインタビュー記事において、原田監督が、「(前作では)昭和天皇(八代目・松本幸四郎、後の初代・松本白鸚)は引きの画や後姿といった形でした映されなかった」と述べているように。

(注8)鈴木首相(笠智衆)に関しては、横浜警備隊が私邸を襲撃した際に、女中(新珠三千代)が登場したり、避難先の弟の家の様子が映し出されたりはしますが。

(注9)鈴木首相が宮内省侍従長だった時、阿南は侍従武官で、同じ職場にいました。
 そんなこともあって、劇場用パンフレットのインタビュー記事において、原田監督は、「昭和天皇と阿南惟幾陸相、そして鈴木貫太郎首相の3人を中心とする“家族”のドラマを狙いとしていきました」と述べているのかもしれません。
 さらに原田監督は、このインタビュー記事においては、「鈴木貫太郎首相を父、阿南さんを長男、昭和天皇を次男とする疑似家族の話でもあると感じました」と述べています。

(注10)横浜警備隊は、佐々木・陸軍大尉をリーダーとして勤労動員中の生徒達によって編成されたもので、鈴木首相や平沼枢密院議長などの私邸に放火しました(Wikipediaのこの項の「その他の動き」によります)。
 なお、1967年版では天本英夫が、本作では松山ケンイチが佐々木隊長に扮していますが、1967年版では佐々木隊長は何度も登場するのに対し、本作では松山ケンイチはほんの数十秒ほどしか映し出されません。

(注11)このサイトに一部が掲載されている北沢文武著『児玉飛行場哀史』(2000年:未読)の「「いちばん長い日」考」(P.171~)が参考となると思います(どうやら、1967年版で描かれていることはフィクションのようです)。

(注12)なにしろ、1967年版では、映画が始まってから20分位は8月14の御前会議に至る経緯が解説的に描かれ、次いでタイトルクレジットが入り、そこから8月14日から15日にかけての模様がじっくりと2時間描かれるのです。

(注13)鈴木首相を演じた山崎努や、阿南陸相を演じた役所広司の演技は、前作の笠智衆や三船敏郎の演技に比べると、ずいぶんと納得がいく感じがします。

(注14)1967年版でも、下村情報局総裁(志村喬)が、「あらゆる手続きが必要だ。何しろ大日本帝国のお葬式だから」とすごく印象的な台詞を発していますが。

(注15)Wikipediaによれば、「後継の内閣総理大臣の選定や国家の最重要問題に関しての意見具申を行った会議。天皇の諮問に答える形で、必要に応じて内大臣が召集し主宰した。構成員は、重臣と呼ばれた内閣総理大臣経験者と枢密院議長で、これに主宰者の内大臣が加わった」とのこと。
 それで、本作の冒頭のように、内閣総理大臣経験者として東條英機や岡田啓介、内大臣として木戸幸一、そして枢密院議長として鈴木貫太郎が出席していたわけです。

(注16)Wikipediaによれば、日本陸軍の三長官とは、陸軍大臣、参謀総長、教育総監のこと。
 本作では、鈴木が、次期陸相として阿南を考えている旨を杉山・元陸相(川中健次郎)に告げると、杉山は「すぐ陸軍三長官会議を開いて結論を出します」と答えます。
 それで、杉山は、梅津参謀総長(井之上隆志)や土肥原教育総監(清水一彰)を集めて協議をし、阿南の陸相就任に同意するも、戦争の完遂が第一などの条件を付けます。

(注17)Wikipediaによれば、従来の大本営政府連絡会議を改称して設置されたもので、構成員は、首相、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)とされています。
 本作では、6月22日開催された会議の模様(昭和天皇が戦争終結に言及とか)や、8月9日の会議の模様(ポツダム宣言受諾の件などを議論)が映し出されます。

(注18)本作では、松代への宮城移転問題が議論されたり、『一億総蹶起の歌』を歌ったりする場面とか、ポツダム宣言の訳文を検討する場面、8月10日の御前会議直前までの閣議の模様や、終戦の詔書の内容を検討する閣議が描かれています。

(注19)鈴木内閣の時には、御前会議は3回開催されています。
 本作においては、6月8日の会議については昭和天皇の言葉の中で言及され、ポツダム宣言受諾に関する8月10日(前日真夜中までの閣議に引き続いて開催され、「聖断」が下されました)と8月14日の会議(「再度の聖断」)の模様が映し出されます。



(注20)例えば、大本営会議とか、最高戦争指導者会議構成員会合。
 後者については、上記「注17」の最高戦争指導者会議の6名の構成員だけによる秘密会議(陸海軍務局長らの幹事を除く)で、5月中旬には「ソ連を仲介とする和平交渉開始を申し合わせた」とのことながら(上記「注4」で触れた川田稔著『昭和陸軍全史3』P.406)、本作では描かれません。

(注21)例えば、国立競技場将来構想有識者会議とかデザインコンクール審査委員会(委員長が安藤忠雄氏)。



★★★☆☆☆



象のロケット:日本のいちばん長い日

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お盆の弟

2015年08月14日 | 邦画(15年)
 『お盆の弟』を新宿のK’s cinemaで見ました。

(1)脇役として活躍している渋川清彦(注1)が主演の映画だということで映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、主人公のタカシ渋川清彦)がスーパーで野菜を選んでいると、近所の女(稲川実代子)がやってきて言葉をかけてくるので、「兄が具合が悪くて」と答えると、女が「大腸がんだって?」、それから「見たわよ、映画「ピッチャー」」と言うものですから、「いや「キャッチャー」」と応じます(注3)。

 スーパーを出たタカシは、自転車に乗り、玉村町役場の前を通って玉村八幡宮にやってきます。



 そして、本殿の前で「今日も1日よろしくお願いします。今考えている新作の企画が通りますように。妻とヨリを戻せますように」と祈ります。

 その後、タカシは家に戻って食事の支度をしていると、兄のマサル光石研)が帰ってきます。



 マサルが殆ど食べないものですから、タカシが「規則正しく食べないと駄目だと言われている」と言うと、マサルはいきなり、「お前、裕子渡辺真起子)さんとはどうなっているんだ?俺の看病で戻ってきて2ヶ月も経っている。いつまでいるんだよ」と尋ねます。
 タカシが「兄ちゃんが良くなるまで」と答えると、マサルは「良くなるわけがない。出て行けというつもりはないが、お前らもう駄目なのか。お前の荷物がどんどん送られてきている」、「全く、料理ばっかりうまくなって」、「やっぱ、仕事が無いのが原因か?」などと言います。

 タカシは、1ヶ月ほど前、裕子から「兄さんの看病であんたがいなくても、やってやれないことはなかった。一人でいることが清々しかった。だから別れることを考えて欲しいの」と言われたことを思い出します。



 他方で、タカシは、同じように故郷に戻っている親友のシナリオライター・藤村岡田浩輝)を説得して、起死回生の次回作を制作しようとしています。



 さあ、話はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、売れない映画監督の主人公が、大腸がんを患っている兄の看病をするということで、群馬の実家に戻っている際に起きた出来事を巡って展開されます。主人公は、自身が離婚の危機にあるにもかかわらず、兄の相手を見つけようとしたり、また次回作の映画製作を夢見て、同じくシナリオライターでありながら群馬に引っ込んでいる親友と構想を練ったりしているわけです。モノクロ映画であり、また出演するいろいろな役者が芸達者なこともあって、渋いながらも大層味わいのある作品に仕上がっていると思いました(注4)。

(2)本作は、映画監督が主役の映画とは聞いていたので、フェリーニの『8 1/2』(1965年)とか北野武の『監督・ばんざい!』(2007年)とかと似たような傾向の作品かなと思っていたのですが(注5)、確かに主人公・タカシは映画監督ながら、昔に1本撮っただけのことで、今では全く売れずに、出来上がった脚本を知り合いのプロデューサー(田中要次)に読んでもらっても、すげなく突き返されてしまうほどです。映画の撮影風景は1回映しだされますが、むろんタカシが監督をしているわけではありません。

 むしろ、本作では、監督業とは関係のないところで引き起こされる出来事が次々に映しだされます。
 そして、それで描き出されるのは、40間際の男の“自立”といったことではないかと思われます(注6)。
 例えば、タカシは、不本意な離婚の危機にあるにもかかわらず、「病気すると、身辺に誰かいないと困るでしょ」と言って兄のマサルのために女性を見つけてやろうとし、挙句は、自分に好意を抱いている涼子河井青葉)を兄に紹介し、結局、2人は結婚してしまい、タカシとは別の生活を営むことになってしまいます。
 でも、そうなることで、兄に生活費を頼ることができなくなり、アルバイトをしながら映画製作に挑むという自活の道を歩み出すことになります。

 また、親友のシナリオライター・藤村も、タカシが間接的に後押しした結果、伴侶を得て家業の焼きだんご屋に専心することとなり、タカシには、「俺はもう無理。友人の脚本家を紹介するし、何だったら自分で書いた方がいい。とにかく、ちゃんと人と向かい合う必要がある」と言い放ちます。
 これまで、自分がたてた企画に従って藤村が書いたシナリオをいくつも会社に提出してきたところ、良い返事をもらえなかったとのことですから、もしかしたらタカシにとって、今後映画製作の面で新しい局面が開けてくるかもしれません。

 そして妻の裕子も、タカシが不在だったことによってシングルマザーに目が開き、ファイナンシャル・プランナーの資格を獲得し自立できるようです。
 幸い、慰謝料も養育費も要らず、タカシが気にかけている娘とは好きなだけ会わせてくれるとのことですから、タカシも吹っ切れて自分の生活を取り戻せるのではないでしょうか。

 要すれば、タカシは、あれこれ動きまわって、結局、自分の親しい人たちの“自立”を促してしまっただけのことかもしれませんが、反面それによって、自身の“自立”も図られたことになったものと思われます。

 ただ、そうは言っても、長い間かかって蓄えたものを全部使い果たしてしまった感じでもあり、タカシには、今後生きていくための蓄えとして何が残っているのか、少々疑問に思えてしまいますが。でも、それが“自立”ということなのかもしれません(注7)。

(3)日経新聞の古賀重樹氏は、「大崎(監督)と足立(脚本)の実人生の要素が詰まっているというが、私小説ではない。画面の中の誰もが不器用ながら奮闘する。人生賛歌なのだ」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 森直人氏は、「温度感はぬるま湯でも、タカシの状況は結構どんづまりだ。それでも本作は一筋の光明を探り、笑いの精神を失わず、飄々とした味わいに満ちている。モノクロ映像でつづられる、その描出の深みは絶品」と述べています。
 樋口尚文氏は、「そんな素直で普通すぎる主人公が映画監督の資質にふさわしいかどうかは置いておくとして、しかし『お盆の弟』にあってはその素朴さゆえに垣間見える彼の心のさざなみが観る者をとらえて放さない。デカくてものものしい、または子ども向けの企画ばかりが闊歩しがちな邦画メジャーでは、逆にこういう滋味ある作品はこしらえ難いだろう」と述べています。



(注1)渋川清彦は、『ラブ&ピース』とか『深夜食堂』(第2話「とろろご飯」)などで見ています。

(注2)監督は大崎章、脚本は『百円の恋』の足立紳

(注3)本作を制作した大崎監督も、タカシと同様に群馬県出身で、本作が『キャッチボール屋』(2005年)以来の監督第2作目(この点でもタカシと似ています)。
 ちなみに、主演の渋川清彦も群馬県出身。

(注4)出演者の内、最近では、光石研は『バンクーバーの朝日』、渡辺真起子は『2つ目の窓』、河井青葉は『マエストロ!』(『私の男』、『さよなら歌舞伎町』と順調に出演しているものと思われます)、田中要次は『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、稲川実代子は『百円の恋』で、それぞれ見ました。

(注5)そういえば、ウェス・アンダーソン監督の『ライフ・アクアティック』も主人公(ビル・マーレイ)が映画監督でした〔この拙エントリの(3)をご覧ください〕。

(注6)ラストでタカシは、お盆に両親の墓参りに行って、「死ぬまでになんとかあと1本、いや2、3本。来年40だし、死ぬほど頑張ります」と墓に向かって誓います。

(注7)なお、このインタビュー記事を読むと、映画のキャラクターに、大崎監督とか脚本の足立氏の行状がずいぶんと反映しているようです。
 それなら、大崎監督の次回作がどんなものになるのかずいぶんと楽しみになります。
 尤も、本作自体が、タカシが映画の中で実現しようとしている“次回作”なのかもしれませんが!



★★★★☆☆



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人生スイッチ

2015年08月11日 | 洋画(15年)
 『人生スイッチ』を渋谷のシネマライズで見てきました。

(1)このところ見ていなかったアルゼンチン映画で、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、6つの話から構成されるオムニバス映画ですが、その第1話「おかえし」は次のように始まります(注2)。
 一人の美女が飛行場でチェックインをします。
 係りの者から、「マイルは発生しません。3番ゲートです」と言われます。
 次いで、飛行機の中。



 さっきの女が荷物を機内の収納棚に入れようとするのを、近くの男が助けてくれます。
 飛行機が飛び立つと、その男が女に声をかけます。「仕事?観光?」
 女は、「両方かしら。モデルなの」と答えます。
 男が更に、「広告の撮影?」と尋ねると、女は「ファッションショーよ」と答えます。
 今度は逆に、彼女が「そちらは何の仕事?」と訊くと、男は「クラシックの音楽評論」と答えます。
 すると、彼女は、「初恋の相手が音楽家。未だ勉強中。何度か自作の曲を送ってきたけれど出版されなかった。パステルナークというの」と言います。
 これを聞いて男は驚き、「墓掘り人と自己紹介すべきだった。彼が音楽院に提出した作品をさんざん酷評したことがある。あの作品はあまりに酷かった」と言いますが、女は「結局うまく行かず別れた。今でも好き。いい人だし」と応じます。
 ところが、この話を小耳に挟んだ近くの席の女が、「パステルナークは、小学校の教え子だった。問題ある子だったから、彼を留年させた。30年間の教師生活であんな子はいなかった」と言い出し、それを機に「私が店長のころ、お話の男が働いていたが、客とよく揉めるのでクビにした」などという話が次々にあちこちで持ち上がってきます。
 それで、最初の男が、「待ってくれ、パステルナークの知り合いは?」と機内の乗客に尋ねると、周りの皆が手を上げるのです。

 さあ、一体どうしてこんなことになったのでしょうか、そしてこれからどんなことが起こるのでしょうか、………?

 本作は6つの話から構成されたオムニバス形式の作品です。どれも、些細な事が出発点となっているにもかかわらず、最後はとんでもない結果がもたらされるというストーリーで、それぞれドキッとするオチがついていて、まずまず面白く映画を見ることが出来ました(注3)。

(2)本作の邦題は「人生スイッチ」とされていて、本作の公式サイトの「STORY」の冒頭には、「私たちの日常の中には、切り替えてはいけないスイッチがある。それは身近にあって、うっかり押したときには、時すでに遅し。何がきっかけで押してしまうのか、押したらどんな世界が待っているのか―覗いてみよう」と述べられていて、各話も「スイッチ1」「スイッチ2」……と紹介されています。
 また、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「“最終ボタン”で幕を開ける傑作人生劇場」において、映画ライターの森直人氏は、「本作全体を鑑賞してみると、“人生スイッチ”とは、取り返しのつかないほどの悲劇や破滅に展開する“怒り”の感情だと言い換えることができる」とし、第1話について、「パステルナークが行使したのは最終ボタンだ。~そして我々観客は気づく「物語が始まる前から、スイッチはすでに押されていた」ということに」と述べています。

 とはいえ、「人生スイッチ」とは邦題にすぎず、原題(英題)は「Wild Tales」です(注4)。
 何も“スイッチ”にこだわることなく、単に“怒り”を巡るお話と受け取ればいいのでは、という気がします。

 例えば、第1話のパステルナークですが、彼が怒りを溜め込んでいるにしても、小学校で留年させられてからのものであり(あるいは、もっと以前に彼を怒らせた人が、飛行機の乗客に混じっているかもしれませんが)、そんなに長い間“スイッチ”を入れっぱなしにしていたのでしょうか?
 また、第2話で破天荒な行為に及ぶのは、怒ってしかるべきウェイトレスではなく、彼女から酷い話を聞いた料理人なのです。そして、その料理人は、怒りの“スイッチ”が入ってあのような行為に及んだとは思えないのですが(注5)?



 さらに、第5話となると、轢き逃げ事故を引き起こした息子の父親は、弁護士らの話にいいように振り回されていたにもかかわらず、検察官が発したちょっとした言葉を手がかりに形勢を逆転しますが、それは冷静な判断によるものであって(注6)、突然の怒りにとらわれてのものでもないようにも思えます(注7)。

 とのもかくにも、“スイッチ”にあまりこだわらないで本作を男女の関係の話を集めたものと見れば(注8)、最後の第6話こそが山場といえるかもしれません。なにしろ、結婚式における花婿の理不尽な行為に怒った花嫁が、結婚式をめちゃくちゃにしてしまいますが、最後の最後にはヨリを戻し、映画全体のオチも“ハッピー”なものとなるのですから。



(3)渡まち子氏は、「些細な事から最悪の事態へと転がり落ちていく人々を6つのエピソードで描くブラック・コメディ「人生スイッチ」。怒りが爆発したときのパワーがハンパない」として70点をつけています。
 前田有一氏は、「日常をちょいと離れてビターなお話を体験することで、自分の暮らしについて安心感を得たり、あるいは改めて見直したいと思わせてくれる点で、面白い上に多少の役にも立つオモシロ映画といえるだろう」として70点をつけています。
 小梶勝男氏は、「小説ならロアルド・ダール、漫画なら藤子不二雄(A)のブラックユーモア短編集を思わせる。そんな6本の短編オムニバスだ」と述べています。
 林瑞絵氏は、「ブラックユーモアに笑いながらも、「個」を犠牲にして成り立つ現代社会への辛辣な眼差しにも気がつく。怒りの反乱に溜飲が下がる思いもする」などと述べています。



(注1)本作の監督・脚本は、ダミアン・ジフロン

(注2)第1話については、今月一杯、本作の公式サイト経由で、無料視聴することが出来ます。

(注3)出演者の内、第4話の主人公を演じるリカルド・ダリンは、『瞳の奥の秘密』で見ました。



(注4)原題は「Relatos Salvajes」(英題 Wild Tales)。
 なお、各話のタイトルは次のようになっています。第1話「おかえし(Pasternak)」、第2話「おもてなし(Las Ratas:The Rats)、第3話「エンスト(El Mas Fuerte:The Strongest)」、第4話「ヒーローになるために(Bombita:Little Bomb)」、第5話「愚息(La Propuesta:The Proposal)」、第6話「Happy Wedding(Hasta Que La Muerte Nos Separe:Until The Death Do Us Apart)」.
 「人生スイッチ」という邦題は、商業政策上から仕方がないのかもしれませんが、第1話の「おかえし」というタイトルは、他の話にも共通していますし、第2話の「おもてなし」は、昨今の日本における使われ方と幾分違っているように思われます。また第4話の日本語タイトルも意味不明です。
 各話のタイトルくらいは忠実に翻訳すべきではないかと思うのですが?

(注5)どんどん恐ろしいことを行う料理人は、特段、怒りに任せているというふうではなく、極めて冷静に振舞っているように思われます(「世界は悪党が支配している」などと言ったりします)。
 「人生スイッチ」などと言うと、先に見た『インサイド・ヘッド』のように、脳内の司令室にボタンが設けられているイメージになりますが、果たしてそんなものでしょうか?

(注6)あるいは、第5話では、ひき逃げされた被害者の夫が、犯人に仕立て上げられた使用人を怒りに任せて襲撃する点が問題なのでしょうか?

(注7)第5話はルーマニア映画『私の、息子』を思い出させます。

(注8)例えば、第1話では、最初のモデルの女は、パステルナークの親友と浮気したということですし、第2話における被害者は、ウェイトレスの父親を自殺に追い込み、母親を誘惑してきた男とされています。また、第3話のラストでは、黒焦げの死体を見て「心中ですかね?」と警官が言いますし、第4話では主人公は離婚訴訟に巻き込まれてしまいます(ただ、主人公は、刑務所で誕生日を妻と娘に祝ってもらいますが)。
 尤も、第5話は、あまり男女関係は取り扱われていないように思われます(轢き逃げをした息子の母親も登場するものの、大きな役割は果たしません)。



★★★☆☆☆



象のロケット:人生スイッチ
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インサイド・ヘッド

2015年08月07日 | 洋画(15年)
 『インサイド・ヘッド』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)本作は、『脳内ポイズンベリー』を見た際に、アメリカでも類似の映画があるとして取り上げられていたことから、興味を持っていました。

 字幕版だからいきなり本作が映し出されることになるのだろう、と期待していたら、やっぱりそんなことはなく、まず監督の挨拶があり、次いでDREAMS COME TRUEの主題歌「愛しのライリー」が歌われ、そして日本人の顔の写真が次々と映し出され、最後に短編映画『南の島のラブソング(LAVA)』が上映された上で(注1)、やっとこさ本作となります。

 本作(注2)の冒頭では、「人の頭のなか、どうなっているか知ってる?」とのナレーションがあって、赤ちゃんのライリーの顔が映しだされます。両親がライリーを覗き込みますが、まずライリーの頭の中にヨロコビ(Joy:黄色)の感情(emotion)が生まれ、頭の中の司令室(Headquarters)で彼女がボタンを押します。



 すると、ライリーは笑い、黄色い玉(ball)が作られ、レールを転がります。それはどうやら記憶の玉のようです。
 33秒経つとカナシミ(Sadness:青)が現れ、彼女がボタンを押すとライリーは泣き出します。



 ついで、ライリーの頭の中の司令室には、イカリ(Anger:赤)、ビビリ(Fear:ラベンダー)、ムカムカ(Disgust:ライトグリーン)といった感情が登場してきます(注3)。



 彼らがボタンを押すことで記憶の玉が作り出されますが、特別な記憶には特別な玉(core memories)が作られます。そして、それらはいくつかの島にまとめて蓄えられて(注4)、全体でライリーの個性(personality)が形成されます。

 さて、ライリーは、米国中部のミネソタ州でずいぶんと楽しい生活を送ってきましたが(注5)、11歳の時に、父親の転職で、一家は西部のサンフランシスコに引っ越すことになります。
 ライリーも転校せざるを得ず、その感情は大きな影響を受けることになります。



 特に、それまでヨロコビは、カナシミがやたらと動き回らないよう注意を払ってきたのですが、どうも手に負えなくなってしまったようです。さあ、一体どんなことが起きるのでしょうか、………?

 本作は、すぐ前に見た『脳内ポイズンベリー』とずいぶんと類似した設定がとられてはいるものの、主人公の年齢が同作に比べてずいぶんと幼いことなどいろいろ違いもあり、さらにアニメだけあって大層冒険心あふれる映像ともなっていて、それなりに楽しめる作品に仕上がっていると思いました。

(2)本作を見ると、どうしても『脳内ポイズンベリー』と比べたくなってしまいます。
 例えば、『脳内ポイズンベリー』が実写であるのに対し本作はアニメですし、また『脳内ポイズンベリー』では、「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」「理性」という5つの思考面を擬人化したキャラクターが登場するのに対し、本作では「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ムカムカ」「ビビリ」といった感情面を擬人化したキャラクターが登場します。
 さらに、上で申し上げたように、『脳内ポイズンベリー』の主人公(真木よう子)は30歳であり、これに対して本作の主人公(と言っても、真の主人公はヨロコビでしょう)は11歳とかなり幼いことから、『脳内ポイズンベリー』で引き起こされる事件が主人公をめぐる恋愛であるのに対して、本作ではライリー一家の引越しとなっています。

 そんなところから、本作では、ヨロコビとカナシミの大冒険がなかなか面白いとはいえ(注6)、クマネズミとしては、やはり『脳内ポイズンベリー』に軍配を上げたくなってしまいます。

 もう少し申し上げれば、
a.本作のように、それぞれの感情をキャラクターとして擬人化して描こうとすれば、これは『脳内ポイズンベリー』でも同じこととはいえ(注7)、それぞれのキャラクターが、ライリーと同じようにその頭の中にさらに5つの感情を持つことになってしまうのではないか、でもそれでは至極複雑なプロセスになってしまうのではないのか(その5つの感情が更にそれぞれ5つの感情を持つとしたら、…)、と思えます(注8)。
 その上、本作では、ライリーのみならず、父親とか母親の脳内の状況をも描き出しているので、確かにその方が正確でしょうが、かなりうっとうしい感じがしてしまいます。

b.本作では、『脳内ポイズンベリー』で中心的な役割を果たしている「理性」(西島秀俊)が見当たりません。
 この点は、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注11」で触れましたように、制作者たちが、もしかしたら、「理性だけではいかなる行為をも生じないし意志作用も生じないと主張」したイギリス経験論哲学者デイヴィッド・ヒューム以来の考えに従っているのかもしれません。
 でも、ヒュームの言うように、たとえ「理性は情念の奴隷である」としても(注9)、人の頭の中に「理性」が全然見当たらないわけのものでもないと思われます。
 劇場用パンフレットに掲載されているエッセイ「感情は自分の思い通りにならない。だから感情たちの動きは面白い」において、筆者の心理学者・植木理恵氏は、「人は小学校5年生くらいになると、からだと共に、頭の中の機能も急速に発達します。その時、それまで物事を「好き」「嫌い」といった具体的かつ単純に全て解決できていたものが、急に「抽象的」な考えが頭の中に忍び込んでくる」と述べているところ、その“「抽象的」な考え”こそが「理性」の働きによるものではないでしょうか?
 例えば、ライリーは家を出てミネソタに戻ろうとしますが、旅費がないために母親のハンドバッグからクレジットカードを盗んで、それで切符を買ってバスに乗り込みます。確かに、家出をしようという行為は感情によるものとしても、長距離バスの切符を購入するためにクレジットカードが必要だという判断、そしてそれを母親の目を盗んでハンドバッグから抜き取ってしまうという行為などは、理性的であり、客観的な冷静な認識に基づいたものではないでしょうか?

c.本作には、『脳内ポイズンベリー』でキャラクターとして登場している「ポジティブ」「ネガティブ」「衝動」「記憶」も、キャラクターとしては見出されません。
 ただし、「記憶」は、本作では玉となって貯蔵されていて、必要に応じて取り出せるシステムになっています。
 また、もしかしたら、「ポジティブ」は「ヨロコビ」に、「ネガティブ」は「カナシミ」に相当するかもしれません。とはいえ、映画の中での「ポジティブ」「ネガティブ」は「思考」の一種であり、「感情」として描かれていないようにも思われます(注10)。
 更に言えば、「衝動」が本作における「感情」全体に相当するのかもしれません(注11)。
 それに、『脳内ポイズンベリー』には「本能」として「黒いちこ」が登場しますが、「本能」になると本作の範囲をはるかに超えたものといえるでしょう(注12)。

 全体として本作の作りは大企業的で規模が壮大ではあるものの、中小企業的な感じが否めない『脳内ポイズンベリー』の方が、本作の及ぶ領域を超えてしまっているようにも思えるところです(注13)。

(3)渡まち子氏は、「頭の中の感情たちを主人公にしたファンタジー・アニメーション「インサイド・ヘッド」。映像も美しいが、何と言っても物語が深い」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「水城せとなの「脳内ポイズンベリー」を彼らがリサーチ済みだったかどうかはともかく、映画として先を越されてしまったのは事実。しかも、対象年齢が異なるとはいえ純粋なコメディーとしての面白さで、あちらより劣るのだから後発としては残念感が漂う」として60点をつけています。
 藤原帰一氏は、「そう、これは人間にとって悲しみとは何かという、哲学的な問いを抱えた映画なのです。子ども向けのアニメで哲学、ですよ。すごいすごい」と述べています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「擬人化された感情が、冒険を繰り広げる。発想の卓抜さと巧みな話術に脱帽だ」が、「もちろん、感情は五つだけではない。人間の気持ちは、微妙で複雑な感情から成っている。テーマパークのような頭の中は明快だが、その分、深みには少々欠ける気がした」と述べています。



(注1)最近、各地の火山活動が活発化しているようにみえる日本においては、短編『LAVA』は、時宜にかなった作品と言えるかもしれません!
 非常にセンスあふれるアニメと思いましたが(火山島と火山島との恋なんて!)、ただ舞台とされるのがハワイだとすると、「マントルの高温岩体の噴出口であるハワイ・ホットスポット上を海洋地殻が移動することにより形成したと考えられている」ことからしたら(Wikipedia)、このアニメのストーリーのようなことは起こりにくいのでは、と少々疑問を感じました。

(注2)監督・原案・脚本は、『カールじいさんの空飛ぶ家』のピ―ト・ドクター
 共同監督・原案はローニー・デル・カルメン

 原題は『Inside Out』。
 なお、邦題のように「インサイド・ヘッド」とすると、「頭の内部」とはならずに「内部の頭」といった意味になって、よくわからなくなってしまうのではないでしょうか〔原題だと「裏返しにする」という意味で、頭の裏側を明らかにするといったような意味合いになるものと思われます(さらに、この原題について深読みしたければ、例えば、このサイトの記事のようにも考えられるでしょうが、クマネズミは、なにもそこまで考えることもないのではと思ってしまいます)〕

(注3)ムカムカについては「毒を防ぐ」(“She basically keeps Riley from being poison, physically and socially”)、イカリについては「不公平が我慢ならない」(“He cares very deeply about things being fair”)、ビビリについては「危険から身を守る」(“He's really good at keeping Riley safe”)、などと説明されます。

(注4)司令室の窓から見ると、『家族島(Family Island)』、『正直島(Honesty Island)』、『ふざけ島(Goofball Island)』、『ホッケー島(Hockey Island)』、『友情島(Friendship Island)』といったものが見えます。
 ただ、これらの島からライリーの個性が形成されているとすると、彼女は嘘も吐かないし意地悪もしない極めて品行方正な女の子ということになりますが、いくら11歳だとしてもそんなものでしょうか?

(注5)ヨロコビの頑張りによって、頭の中の貯蔵所には、黄色い記憶の玉がずいぶんとたくさん蓄えられています。

(注6)その冒険を通して、ヨロコビは、それまでよそよそしく対処してきたカナシミの存在意義を見出して、感情の5つのキャラクターが一致団結するようになるのですから、ストーリーとしてなかなか良く出来ているなと思いました。

(注7)『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「(2)ロ」をご覧ください。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、プロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「もしもそれぞれのキャラクターがひとつの感情しか持ち合わせていなかったら、90分の映画として物語を語れなかったと思います」と述べています。

(注9)このヒュームの言明について、立命館大学教授・伊勢俊彦氏は、論文「ヒュームの情念論における人格と因果性」(このURL)において、「この言明は、理性の領域すなわち真理の認識と、行為を導く価値意識の領域を峻別し、行為の動機および理由を提供する役割を理性ではなく情念に帰するものと、多くの解釈者によって理解されてきた」が、「情念は理性に対して、行為の指導において優越するに止まらず、基本的な世界把握の形成において先行する役割を果たすのである」と述べています。

(注10)尤も、『脳内ポイズンベリー』についての拙エントリの「注6」で触れましたように、それらを「感情」とみなす評者も存在しますが。

(注11)ただ、『脳内ポイズンベリー』における「衝動」の役割が小さいために、よくわかりませんが。

(注12)例えば、本作においては、赤ん坊が泣くのはカナシミが登場してボタンを押すからだとされていますが、それよりも「本能」に従って泣いているのだ、とする方がしっくりするのですが。

(注13)ただし、このサイトの記事によれば、上記の「注8」で触れたプロダクション・デザインのラルフ・エグルストンは、「この映画は、心の中が舞台であって、頭の中が舞台ではありません」と言っています。
 すなわち、記者に従えば、「本作のタイトルは『インサイド・ヘッド(頭の中)』だが、ピクサーのフィルムメイカーが描こうとしたのはヘッドではなく心」であり、例えば、「“考えの列車”は、頭の中を走っている乗り物で、ライリーの思考はこの列車に乗って、彼女の感情や行動を決める司令部にやってくる」というわけです〔このサイトの記事によれば、“考えの列車”(train of thought)とは、頭の中を走り回って、空想や事実、意見、記憶といったものを運搬している列車のようです〕。
 確かに、そうであれば、『脳内ポイズンベリー』のように「理性」がキャラクター化されていないのもわからないわけではありません。
 でも、こうした見解によれば、時折“考えの列車”によって運ばれてくる「思考」を踏まえて、5つの感情が司令室で行動のボタンを押すことになるわけでしょうが、心と精神との関係とはそんなものなのでしょうか?



★★★☆☆☆



象のロケット:インサイド・ヘッド
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海のふた

2015年08月04日 | 邦画(15年)
 『海のふた』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)吉本ばなな氏の小説が原作ということで(注1)、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、都会の歩道橋を歩く主人公・まり菊池亜希子)の姿が映し出された後、海の場面となり、沼津からの高速船に主人公が乗っています。



 港に到着したまりは、船から降りると、港にいた青年に「おーい、オサム!」と声をかけます。

 まりはオサム小林ユウキチ)に、「おばちゃんが、この浜を一周すると気持ちが落ち着くと言っていた」とか、さらに「この海のそばでかき氷屋をするの。手作りのシロップをかけたやつ」と言います。
 オサムが「仕事は?辞めてきたの?」と訊くと、まりは、「なんか違ってたんだよね。私が誇れるのは、いくら食べてもかき氷を嫌いにならなかったこと」と答え、オサムは「バカじゃないの」と言います。

 まりは、父母のいる実家で暮らしながらかき氷屋の準備をし、さあこれから開店という時に、母の友人の娘であるはじめ三根梓)の面倒を見ることになります。



 まりのかき氷屋はうまくいくのでしょうか、まりとはじめとの関係はどうなるでしょうか、………?

 本作は、仕事をしていた東京から西伊豆の小さな町に戻って「かき氷屋」を始めた若い女性を巡って描かれます。ロケ地の土肥海岸の景色、また主役の菊池亜希子のいつもながらの自然な感じ(注3)、さらに主人公の実家に居候することになる少女を演じる三根梓のういういしさなどから、格別なことは何も起こらないながらも、なかなかの文芸作品に仕上がっています。

(2)クマネズミは、本作のロケ地である土肥には、かなり昔に一度だけですが行ったことがあります。その際の印象からすると、もっと人がいて開けていて、旅館があったり、土肥金山といった観光地があったりしたはずなのに、映画に映し出される土肥はずいぶんと寂れているなと思いました(注4)。
 そこで、ネットで地図を見てみると、映画が撮られているのは、海水浴客で賑わう土肥海水浴場よりやや北の方で、元の町の中心部(注5)ではないかと思われます。
 そんなところにまりはかき氷屋「なぎ堂」を出店しますし、メニューも「氷 糖みつ、氷 みかん水、エスプレッソ」の3つだけで、それも各500円とくれば、売上を期待する方が無理というものでしょう(注6)。
 それでも、まりは、店の内装は自分でこなし、客の入りは悪くとも(注7)、はじめと一緒に頑張ります。

 その“はじめ”について、まりは、かき氷屋の開店とそんな見ず知らずの少女の面倒を見ることの二つを同時になんて無理と思っていたものの、次第に心を通わすようになっていきます。
 ある時、はじめは、「最後に、海で泳いできます」というメモ書きを居間のちゃぶ台の上に置いて、海の中に入っていきます。まるで覚悟の入水をするような感じなのですが(注8)、次の場面では、クラゲに全身刺されてしまったということで、布団に寝ていて、まりが看病しています。
 その際、はじめはまりに、「クラゲがすごかった。でも、海にありがとうと言えたから。“海のふた”を閉めるってこういうことかな」と言います。

 ところで、本作のタイトルとなっている「海のふた」は、原作本の最初のページに記載されている歌(原マスミ作詞)のタイトルであり、歌の中で「さいごの人が海のふた しめずに そのまま帰っちゃったから ずっとあれから 海のふた あいたままだよ」などとうたわれているものです(注9)。
 この歌の中では、最後まで、海のふたは閉じられません。

 他方、本作においては、上で申し上げたように「海のふたを閉める」とはじめが言いますし、それも、恋人がボランティア活動をしているアフリカに行くと宣言する中で。
 まるで、海のふたが開いたままだと、「サクラ、ダリア、ケイトウ  ヒマワリ、ヒナギク、ヒナゲシ くり返し くり返し なぜまた咲くのか」(原マスミの『海のふた』より)という事態に陥りかねない、だから海のふたを閉めて、一つのけじめを付けて新しく出発する、とでも言うかのようです。
 同じ頃、オサムの家も、家業に見切りをつけて故郷を離れてしまいますし、また、まりも、小さなことですが、かき氷屋のメニューに「氷いちご」を付け加えることとします。
 ほぼ同じ時期に、登場人物が何かとけじめをつけている感じがします。
 まるでそれが「海のふた」を閉めることでもあるかのように(注10)。

 では、「あとがき」で吉本ばなな氏が、「この小説のすべてのページに彼(原マスミ)の歌が流れています」という原作小説においては、どうなっているでしょうか?
 確かに、原作小説においても、はじめがクラゲの出ている海に入ってクラゲに刺されて熱を出す場面が描かれています(P.149~)。そして、「私達は、今年、ちゃんと海のふたを閉めたっていうことなのかも」とはじめが言います。
 ただそれは、「今年も泳がせてくれて、ありがとう、今年もこの海があってくれて、ありがとう。そして来年もこの場所で泳ぐことができますように」という意味のようであり(P.151)、本作のようにけじめという意味合いをそれほど強く持ってはいないように思えます(注11)。
 むしろ、毎年の豊かな繰り返しが行われるように、取り敢えず、感謝の気持を込めて海のふたを閉めたという感じではないかと思えます。

 単なる拙い印象に過ぎませんが、原マスミの歌と本作との中間に原作小説があるような気がするところです(注12)。
 とはいえ、土肥の湾曲した入江を上から見た光景がラストの方で映しだされますが、まるで海のふたが大きく開いたままになっているように思えました。

(3)日経新聞の「」氏は、「都会から故郷の海辺の町に帰ってきた女性が、…田舎暮らしの現実と向き合い、成長していく。菊池亜希子の突き放したような演技がいい」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 産経新聞の「」氏は、「決してかき氷だけを食べて生きてはいけないと分かっていながら、あえて素朴な生き方を選択する主人公の思いを、長回しのショットを多用してしみじみと表現しており、心に染みいる」として★4つ(「見応え十分」)をつけています。



(注1)本年5月に見た『白河夜船』も、吉本ばなな氏の小説が原作でした。



 なお、このサイトによれば、映画化された吉本ばなな氏の作品は6本あるようです〔本作と『白河夜船』以外には『アルゼンチンババア』(2007年)を見ています〕。
 
(注2)監督は、『花宵道中』とか『裁判長!ここは懲役4年でどうですか』の豊島圭介
 脚本は、『四十九日のレシピ』などの黒沢久子
 原作は、吉本ばなな氏の『海のふた』(中公文庫)。

(注3)このサイトに掲載されているインタビュー記事で、主演の菊池亜希子は、例えば、「人ごとではない題材で性格も近かった」云々と述べています。
 また、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事においても、彼女は、「今回まりという女性を演じるにあたっては、“役作り”という作業は必要なかった」と述べています。
 なお、菊池亜希子は、最近では、『深夜食堂』(第3話の「カレーライス」)で見ました。

(注4)廃墟になった旅館を見て、まりが同じようなことを言うと、ススムは「話を作るな。この町はお前が出る時から寂れかけていたんだ。お前の思い出になっているものは、いいものばかりだ。そういうの、勘弁してくれよ」と怒ります(まりは、朽ちかけている神社についても、「昔は賑やかで、ずいぶんとここで遊んだ。神社の手入れをする人がいないというのは絶望的」と言ったりします)。

(注5)2004年4月までは「土肥町」でした(現在は、「伊豆市」の一部)。

(注6)原作では、氷の上にきび砂糖のシロップをかけた「氷すい」、みかんの濃縮ジュースを加えた「氷みかん」、南の島から取り寄せたジュースを使った「氷パッションフルーツ」、抹茶とあずきの「氷宇治金時」、それに麦茶とエスプレッソ(缶ビールも置いてある)という一応のメニューになっています(文庫版P.30)。

(注7)映画では、母親に連れてこられた女の子が、氷いちごがないことで泣きだしてしまいます。

(注8)はじめは、水着に着替えていませんし、元々満足に泳ぐことが出来ないとされてもいるので。

(注9)「海のふた」の歌詞はこちら

(注10)ただし、まりは、主のいないオサムの家の扉に張ってあった閉店を告げる張り紙を破り捨て、「休業中」の張り紙を貼り付けます。まるで、しばらくしたらオサムが戻ってきて、仕事を再開することを告げているかのように。
 あるいは、本作のまりは、はじめやオサムのようにはっきりとしたけじめをつけようとしてはいないのかもしれません。

(注11)もちろん、泳がせてくれた海に対して感謝することもけじめをつけることといえるでしょう〔原作では、はじめはまりに、「私はこの夏、海のふたをちゃんと閉めて終わりにすることは絶対にできないかもしれないけど」と言ったりもします〕。ただ、原作においては、はじめはアフリカに行きませんし(両親の家に一応は戻りますが)、オサムの家が夜逃げすることもありません、またまりが氷いちごをメニューに加えることもありません。

(注12)といっても、それで優劣がつくわけではなく、それぞれにそれぞれの良さがあるとクマネズミは思います。



★★★★☆☆



象のロケット:海のふた
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