映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

カノジョは嘘を愛しすぎてる

2013年12月27日 | 邦画(13年)
 『カノジョは嘘を愛しすぎてる』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)友人の紹介で見に行ったのですが、映画館が女子高生であふれていたのには驚きました。でも、原作がベストセラー漫画(青木琴美作)で、映画の主人公を人気の佐藤健が演じ、ヒロイン役がオーディションで選ばれた女子高生なのですから当然かもしれません。

 本作の冒頭では、渋谷にあるビルの屋上にいる主人公・アキ佐藤健)のところに、ヘリコプターが空から舞い降りてきて、中から大人気のバンドCRUDE PLAY(通称クリプレ)の4人が出てきます。



 中の一人が、「リーダーを迎えに来た」と言うと、アキは「ヘリで来るなよ、タクシーでよかった」と答えます。そして、バンドのベーシスト・シンヤ窪田正孝)が、「僕はここで。先にパーティー会場に行っている。後は、昔の4人で楽しんで」といってその場を離れます。残った4人は、「アルバムV3達成!」とシャンパンで乾杯します。

 この場面は、アキがどういった位置にいるのかを暗に示しています。すなわち、アキは、クリプレの影のリーダー的な存在であり、またシンヤを除くメンバーと昔は仲良しだったようなのです(注1)。



 ただ、冒頭のシーンの最後に、「あの頃の僕は大体が不機嫌だった。しかし、その理由ははっきりわからなかった」というアキの音声が被って、タイトルクレジットが流れます。

 続いて、アキは音楽スタジオでキーボードに向かいますが、「何も持っていなかった頃より、僕は空っぽだ。本当に欲しかったものを何一つ持っていないからかもしれない」と彼の喋る音声が流れます。
 そして、自分の部屋に戻ると、そこには恋人の茉莉相武紗季)がベッドにいて、「できた?あたしの曲」と尋ねるので、アキは「もう高樹(音楽プロデューサー:反町隆史)のゴーストはやらないって言ったよね」、「モウこれ以上は無理だ。高樹とお前が寝ているところを想像すると、頭が狂いそうになる」、「鍵は置いていって」と答えて部屋を飛び出してしまいます。

 そんなアキが、自分の部屋のソバの隅田川の川べりで手すりに持たれながら鼻歌を口ずさんでいると、青果店の娘で高校生のリコ大原櫻子)が、押してきた自転車を倒してしまい、荷台にあった箱から果物や野菜が転がり落ちてしまいます。



 それを拾ってあげるアキが、唐突に「一目惚れって信じますか?」と尋ねると、リコは、「信じます。だって、一目惚れしちゃった。今の鼻歌に鳥肌が立った。名前を教えてください」と答えます。 それに対してアキは、なぜか「シンヤ」と嘘を答えてしまうのです(注2)。



 そんな出会いからアキとリコとのラブストーリーが始まるわけですが、はたして二人は上手くゴールに到達できるのでしょうか、………?

 本作では、酷く屈折した心の持ち主の主人公と、純真そのもののヒロインとの組み合わせが物語の展開をなかなか面白くしています。さらに、その背景として渋谷とウォーターフロント周辺というのもよくマッチしています。最近のラブストーリーとしてはまずまずの出来栄えだと思いました(注3)。

(2)アキとリコとが初めて出会うまでの経緯などは実に手際よく描かれていて感心します。
 飛躍の多い展開も見られるところ(注4)、本作は台詞の多い(歌の少ない)ミュージカルではないかと思えば、それらに一々突っ込まずに楽しく見ることが出来そうです。

 でも、最後のアキとリコによる「ちっぽけな愛のうた」で大きく盛り上がるのですから(注5)、その後のシーンやエンドロール後のおまけシーンはなくもがなという感じがするところです。

 もう一つ残念だったのは、クリプレの演奏のTV録画収録風景をリコたちが見るときに、彼らが実際には演奏していないこと(あるいはCDで聞く演奏とだいぶ違うな)に気がついて、おかしいな、自分たちもああなるのかな、嫌だなと思うシーンがあれば、その後違った展開になるかもしれないと思える点です(注6)。

 とはいえ、本作に登場するクリプレや「MUSH&Co.」(リコとその仲間の2人)のように、ライブ活動をするバンドがスタジオ・ミュージシャンにまるきり依存してしまうのかどうか、よくわからないところです(注7)。

(3)渡まち子氏は、「人気俳優の佐藤健と、オーディションで選ばれたシンデレラ・ガールの大原櫻子の相性がよく、3回登場するキス・シーンは原作ファンならずともうっとりするはず。加えて、大原櫻子のびやかな歌声と素朴な笑顔が大きな魅力だ」として55点をつけています。
 ただ、柳下毅一郎氏は、「例によってセリフですべて心情を説明する副音声映画であるうえに、物語も別に起伏がないので本当につまらない。俳優は平凡。演奏は口パク。単純につまらない」と酷評しています(注8)。
 とはいえ、例えば、柳下氏は、「ゴージャスな美形ばっかり出てくる少女漫画の映画化にしてはびっくりするほど高級感がない下町人情話が展開する」と述べていますが、確かにヒロインは「青果店」の娘(柳下氏は「八百屋の娘」としていますが)ながら、「下町人情話」に特有の人の良い一族郎党とか近所の八つぁん熊さんなどは一切登場しないのですから、ちょっと言い過ぎではないかと思いますが。



(注1)さらに主人公・アキは、時間が空くと隅田川の川べりで、ラジコンヘリを飛ばすのが趣味でもあります。リコとの初めての出会いの前にもラジコンヘリを飛ばしていましたが、酷く苛ついて墜落させ、壊してしまいます。

(注2)このシーンの最後には、「付き合い始めたあの頃は、これっぽっちも好きじゃなかった」とか、「全部嘘。でも、彼女は僕のことを正直な人と言うんだ」といったアキの音声が流れます。

(注3)佐藤健は、最近では、『リアル~完全なる首長竜の日~』を見ました。
 なお、佐藤健は、これまた青春音楽映画である『BECK』に出演していて、同作でもギターを弾くものの、むしろ「天才的な歌手」であることが前面に出され、さらにまたラブストーリー絡みでもありませんから、本作と比較しても仕方がないでしょう〔ただ、本作の主人公アキは「天才サウンドクリエーター」とされ、また、音楽プロデューサー・高樹はリコについて「天才を見つけちゃった」と言ったりして(同じ言葉を、高樹は茉莉にも以前言ったことがあるようです)、両作で「天才」という言葉が大安売りとなっています。音楽畑では「天才」があちこちでみかけられるようです!〕。

(注4)なにしろ、例えば、アキがリコと出会うのと時を同じくして、高樹が、川べりで歌うリコの歌声を聴いて、すぐにデビューさせようとするのですから!
 その上、リコとその仲間2人とのバンド「MUSH&Co.」のプロデューサーにシンヤが名乗りを上げるのです。

(注5)アキは、茉莉の言う条件を飲んでリコと別れることにしたのですから、さらにはリコがシンヤの曲を歌っている姿を見て感じるところ(リコは、もう蛹からかえったアゲハチョウのように一人で飛び立てる)があったのですから、最後の「ちっぽけな愛のうた」は2人の別れの最終仕上げであって(♪……/手のひらに掴んだ夢を/今は追い続けていこう/一人でもきっと越えてゆける/……♪)、それ以降の展開は考えられないのではないでしょうか?たとえアキがロンドンから戻ってきてリコを再度愛するようになるにしても、それは別の物語でしょう。

(注6)「MUSH&Co.」のデビュー・ライブ演奏をリコとその仲間がすっぽかして、リコはアキと一緒にロンドンに旅立つというのはどうでしょう(でも、これだと茉莉との約束をアキは破ってしまうことになってしまい、またリコの独り立ちもご破算になってしまいますが)。

(注7)クリプレがスタジオで練習をしている時に高樹が現れたので、メンバーが「今度の曲は自分たちで演奏してみたい」と言うと、高樹は「冗談言うな。誰が素人の演奏に金など払うか。だが、練習するのは悪くない。弾くふりがうまくなるからな」と言い放ちます。
 これに対してメンバーは怒り狂いますが、リーダーのシュン三浦翔平)は、「クソみたいな演奏しか出来ない俺達が悪いんだ」と宥めます(なお、クリプレの場合に問題となるのは、後から加わったベーシストのシンヤはプロですから、ドラマーのテッペイと、ギタリストのカオルでしょう)。

 とはいえ、CDやTV等では、スタジオ・ミュージシャンを使った演奏で済ますことが出来ますから、問題はライブ演奏ではないかと思われます。

 「MUSH&Co.」の場合、高樹から「デビュー決定、おめでとう」と言われて、仲間の一人が「自分たちは演奏を始めて少ししか経っていない」と言うと、高樹は「演奏なんか出来なくても関係ない。後ろでプロがやってくれる」と答えます。
 実際にも「MUSH&Co.」のデビュー・ライブ演奏では、仲間の2人の他に、バックに2人ほどスタジオ・ミュージシャンが立っています。

 ただ、何人もギタリストがステージに立っていてもそれほどおかしくないかもしれませんが、ドラムスの場合、ライブではどうするのでしょうか?
 現実の話として、下手くそな演奏しか出来ないバンドがメジャー・デビューすることはそんなに多くないのではとも思えるのですが。

(注8)つまらないことながら、クリプレや「MUSH&Co.」が広い意味で「口パク」であることは映画の中で言われていることですから、ことさら非難するに値しないと思われますが(元々、映画における演奏シーンが「口パク」ではなくリアルなものだとは、一般に思われていないのではないでしょうか)。


★★★☆☆



象のロケット:カノジョは嘘を愛しすぎてる
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ジ、エクストリーム、スキヤキ

2013年12月17日 | 邦画(13年)
 『ジ、エクストリーム、スキヤキ』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)少々時間的な余裕ができたので、何の気なしに近くの映画館で見てきましたが、拾い物でした。

 本作のストーリーはごく単純で、40歳間際の洞口井浦新)が、学生時代の親友・大川窪塚洋介)のところに15年ぶりに突然現れ、大川の同棲相手の倉科カナ)と、洞口と昔付き合っていた京子市川実日子)を巻き込んで、車で海岸に向かい、公園でスキヤキを一緒に食べて帰るというものです(注1)。




 洞口は、大学を出て会社に就職して10年以上勤務したものの肌が合わずに辞め、その後はなんとなくブラブラして、最近自殺を計ったものの失敗したという過去があり、その他の者も皆先行きに大きな不安を抱えていて、それで楽しかった大学時代のつながりを求めてしまうようです(楓だけは違いますが)。
 なにか、中年一歩手前の人たちの気分の一端を表しているのかもしれないと思えて、興味を引かれました。

(2)本作を制作した前田司郎監督(注2)が原作・脚本を担当した『生きてるものはいないのか』では、「映画に登場する人物は、とにかくなんだか分からない原因で次から次へと死んでいくのです」が(注3)、本作でも死の匂はうかがわれます。
 本作の冒頭では洞口の自殺シーンがあり、また既に亡くなっている洞口らの共通の友人で自殺した峰村(写真でしか登場しません)の影が彼らの話のそこここに現れ(注4)、さらには大川の彼女・楓は先天性の病気で死を予期しているようなのです(注5)。

 といって本作は決して暗鬱な雰囲気の作品ではなく、映画撮影用機材を物色しに「かっぱ橋」界隈(注6)を歩いているシーンとか旅館の風呂場シーンにおける洞口と大川のやり取りなどなかなか秀逸で、むしろコメディ作品と言った方がいいかもしれません。

 でもまた、4人それぞれが抱える悩みも大きく、結局のところ不安と楽しさがゴッタ煮になっている作品ということで、特別仕立ての「スキヤキ」映画ではないでしょうか(注7)!

(3)本作の洞口のように、自殺を図ったとされる人物が実は生きていて物語に登場するというストーリーは、最近レンタルできるようになったDVDで見た『ペタルダンス』を思い起こさせます



 同作は、ジンコ宮崎あおい)と素子安藤サクラ)が、6年前の大学時代に友人だったミキ吹石一恵)が海に飛び込んだものの救出されたとの話を聞いて、ジンコが連れてきた原木忽那汐里)の運転で、北にある地元に戻って、3人でミキに会うというお話です。

 ただ同作は、ミキの自殺未遂の話ばかりでなく、原木も、その友人がある時会って以来音信不通になってしまったという事情を抱えていたり、ジンコと原木が知り合いになったというのも、駅における原木の行動を自殺と勘違いしたことがきっかけだったりと、全編にわたって死の影が強く漂っていて、かなりコミカルな感じがする本作とは雰囲気が違っていることもたしかでしょう。

 とはいえ、両作ともロードムービー的ですし、飛行機に一定の役割が与えられていたり(本作では旅客機ですが、同作ではグライダー)、登場する4人のうち一人が異質な人物(本作では楓、同作では原木)だったり、会話が自然な感じがしたり(ただ、本作では脚本にある台詞に沿って会話がなされますが、同作では脚本に頼らずにアドリブとのこと)するなど、類似点も多く見られます。

 あるいは、本作の登場人物が40歳間際であるのに対して、同作の登場人物は30歳くらいだという点が、作品の与える印象がかなり違っていることの大きな要因なのかもしれません。

(4)なお、本来的な作品の成り立ちから言えば、冒頭で自殺した洞口が蘇生し大川に電話をかけて、その後4人で旅行に出かける、という物語の流れに違いないところ、あるいは、ラストで東京に戻った洞口が、他の3人がそれぞれの家に戻ると独り取り残されてしまい、一時は皆でスキヤキ鍋をつつきながらこれから頑張ってやっていこうと思ったにしても、やはり自分はまだ“デボン紀”にあるという気分からそんなに簡単には脱却できずに(注8)、自殺を図ってしまうというストーリーが考えられないわけでもない、とも思えてきます(注9)。
 ただ、仮に、冒頭のシーンが4人による旅行の後の出来事だとしても、自殺した洞口が蘇生してまたまた大川に電話するとしたら、このサイクルは無限に続いてしまうことになります。あるいは、大川が作った大きなブーメランが、投げた海岸に戻ってくるというのは(注10)、そのことを意味しているのでしょうか?

(5)小梶勝男氏は、「(前田監督が脚本を書いた)「世之介」と印象は逆でも、登場人物を見つめる温かく、優しいまなざしは変わらない。それがまた、胸に染み入る」と述べています。




(注1)最近では、井浦新は『千年の愉楽』などで、窪塚洋介は『モンスターズクラブ』で、市川実日子は『マザーウォーター』で、倉科カナは『みなさん、さようなら』で、それぞれ見ています。

(注2)前田司郎監督は、自身の小説を映画化した『大木家のたのしい旅行』の脚本を担当し、また『横道世之介』の脚本も手がけています。

(注3)本作の前半に、洞口と大川が公園で寝転んで空を飛ぶ旅客機を見るシーンがありますが、旅客機が空から墜落していく様が描かれている『生きてるものはいないのか』のシーンを思い出しました。

(注4)ラストの方でも、車の中にムーンライダーズの曲が流れると、京子が「峰村君が勧めてくれたバンド」などと言ったりして、何かというと3人の会話の中で峰村のことが思い出されます。

(注5)旅館で風呂に浸かっている時に、洞口が大川に「楓ちゃんと結婚する気あるの?」と尋ねると、大川は洞口に、「あいつ、死ぬんすよ」、「先天性の何かだって」と答えます。

(注6)実際には、上野駅から「かっぱ橋道具街」に行く途中の「仏壇通り」(浅草通りの)界隈ではないかと思われます。言ってみれば、二人は、秋葉原の「電気街」に行こうとして「かっぱ橋道具街」へ来てしまったと思ったものの、実際は「仏壇通り」だったということでしょうか。

(注7)最初の方で、大川は豚肉の入ったスキヤキを食べていて、楓が「これスキヤキじゃないよ」と言うと、大川は「スキヤキでしょ?」と答えますが、彼らのスキヤキはなんでもありということではないでしょうか?
 あるいは、歌詞に出てこないスキヤキがタイトルになって欧米で大ヒットした坂本九の「SUKIYAKI」にもなぞらえられるのかもしれません(彼らは、スキヤキ鍋を食べながら、15年以上昔で今やその実体のない思い出に囚われているのですから)。

(注8)旅館での洞口と京子との会話で、京子が「遠くになっちゃった。あのときが“デボン紀”(「地質時代」の最初の方の「古生代」の4番目:4億年くらい前)で、今がモウ現代」と言うと、洞口は「俺はまだ“デボン紀”終わっていない」と応じます。
 洞口は、自分の「モラトリアム期間」はまだ終わっていないと言っているわけで、京子は「まだ決まっていない不確定な真っ暗な方を見て行かなくてはいけないと思う」と批判します。ですが、京子自身も今回の4人の旅行を十分楽しんでいるのであり、あるいは皆モラトリアム人間なのかもしれません(楓は違うのでしょうが)。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「前田司郎インタビュー」で、前田監督は、「「死に向かっていく話」として見る人がいてもいいんじゃないか」とも述べています。

(注10)大川が投げたブーメランが一瞬視界から消えてしまったのを見て、洞口が「一回こっきりで後戻りできない人生みたいじゃないか」とわかったような口を利くと、実際にはブーメランは離れた海岸に突き刺さっているのです!



★★★★☆



象のロケット:ジ、エクストリーム、スキヤキ
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かぐや姫の物語

2013年12月07日 | 邦画(13年)
 『かぐや姫の物語』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)高畑勲監督が、製作期間8年、総製作費50億円を費やして作ったアニメだということで、映画館に行ってきました。

 本作は、原作の『竹取物語』にかなり忠実に従いながらも(登場人物を若干増やしていますが)、なぜかぐや姫は地球にやってきて、物語の最後に月に帰還することになるのかという点につき独自のアイデアを入れ込み(注1)、なかなか見応えのあるアニメに仕立てられています。
 特に、キャラクターと背景とが同一の水彩画風に描かれ、キャラクターはスケッチ画風の粗い線で描かれているのは、他のアニメでは余り見られない新鮮さがあります(注2)。
 ただ、どれもこれも大層綺麗な画像であることは間違いないものの(注3)、それを137分間も見せ続けられるといささか辟易しますし、また喧騒の都と鄙びた田舎というおなじみの構造を持ち込まれると(注4)、またあのいわゆる環境派の作品かという気にもなってきてしまうのですが(注5)。



(2)本作を見て、以前このエントリで取り上げた問題にまたまた逢着してしまいました。
 すなわち、本作における高畑勲監督の役割はどんなことなのかということです。
 同じジブリの宮駿監督の『風立ちぬ』の場合は、同氏の漫画から出発していますし、脚本なども担当しますから余り疑問に思わないのですが、高畑監督の場合、絵を描きませんから、未熟なクマネズミには、アニメーションを制作するといってもその役割がよくわからない感じがしてしまうのです(注6)。
 まして今回の作品の場合(注7)は、『サマーウォーズ』の細田守監督と違って、原作を創作したわけでもなく、古典の『竹取物語』に明確に依っているのですから。

 でも、同エントリでも申し上げましたが、「現在制作されているアニメでは、誰が画面を描いているかはさして重要ではなく、実写映画との違いは、極端にいえば、手書きのキャラクターが画面で活躍するということだけ」なのであって、アニメの監督も実写映画の監督も同じ立場にあるといえるのでしょう。

 そして、高畑監督のこれまでの話などからも(注8)、その役割がわからないでもないながら、やはりアニメの制作の主役は漫画家なのではないのかなと思えてしまうのですが。

(3)ところで、本作の元になった『竹取物語』に関しては、在野の古代史研究者・宝賀寿男氏(注9)が著した『神功皇后と天日矛の伝承』(法令出版、2008.4)に、実に興味深いコラム記事が掲載されています(P.184~P.189)。



 すなわち、「〈コラム2〉かぐや姫の物語」では、「このよく知られた物語にはモデルがあり、そのモデルが記紀の三韓征伐で有名な神功皇后だった」とあり(注10)、さらに、概略次のように述べられています。
イ)『古事記』や『日本書紀』には「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)という女性が登場するが、人名対応から見て神功皇后にあたる。
ロ)『日本書紀』では、神功皇后のプロフィールについて、幼時から聡明・叡智で、かつ父がいぶかしく感じるほど容貌が優れて美しいとまで書かれている。
ハ)かぐや姫が「竹の筒」から生まれることは、迦具夜比売命の曾祖母あるいは姉妹とされるのが竹野媛(たけのひめ)といい、丹波の大豪族丹波大県主・竹別(たけのわけ)一族の出自であったことにつながる。
ニ)神功皇后が先祖ゆかりの異国の地たる韓土へ征討に行くという伝承が、『竹取物語』では、天皇に求婚された姫が故地の月という異郷に帰ることになっている。
ホ)かぐや姫に求婚した5貴人は、文武天皇(8世紀初め頃)の朝廷の重臣に関連し(注11)、また仲哀紀(注12)に神功皇后の重臣として見える武内宿祢(注13)と4人の大夫にも関連する。
 例えば、『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」は、仲哀紀に見える大伴武以(たけもち)の子孫の大納言大伴御行である(注14)。
ヘ)『竹取物語』は、武内宿祢の後裔と称する紀氏一族の手により作られたものか(文武朝の重臣のなかには5貴人との関連が考えられなさそうな大納言紀麻呂(きのまろ)という者がおり、また、紀氏一族は藤原氏に冷遇されていた)。

 勿論、『竹取物語』については、その成立年や作者について何もわかっていませんから(注15)、本作のように描くことは十分可能なのですが、こうした宝賀氏の見解をもよりどころとしながら、物語の後半の舞台を、例えば奈良(またはその周辺)とし、寝殿作りの屋敷とか牛車が行き交う大路があったりする京よりはズッと古い都の様子を描くこともあるいはできるのかな、と想像してみるのもまた楽しいのではないでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「日本映画としてはとてつもない規模の作品ながら、親しみやすさと哀しさ、オリジナリティと革新性をみせつける、とんでもない秀作アニメ。高畑勲監督の渾身の1本に仕上がった」として75点をつけています。
 また、相木悟氏は、「巨匠だからこそ造りえた、贅沢かつ冒険心に溢れた一級品であった」と述べています。
 さらに、映画評論家の森直人氏は、「高畑は、この14年ぶりの新作で孤高のアニメーション作家の凄(すご)みをさらに強めた。最近「かぐや姫の物語」ほど、ラジカルな表現を備えた商業アニメは他に見当たらないのではないか」と述べています。
 読売新聞の近藤孝氏は、「かぐや姫の怒りの感情が、これほど簡潔な線の勢いで表現されるとは。ベタッと塗った映像に慣れた目には新鮮に映る。アニメーションの技術と思想が高度に結びついたまれにみる作品だ」と述べます。



(注1)原作の『竹取物語』にある「昔の契りありけるによりてなむ、この世界にはまうで来たりける」とか「かぐや姫は、罪をつくり給へりければ、かくいやしきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪のかぎり果てぬれば、かく迎ふる」をどう高畑氏が解釈したのかの詳細については、同氏による「企画書」(劇場用パンフレットに掲載)を見ていただきたいのですが、要すれば、かぐや姫は「「愛」を享受するため」に地球にやってきたのであり、帰ることになったのは、「ある時点で、姫が心の中で「死にたい!」と叫んでしまったから」、ということでしょう。

(注2)とはいえ、映像としての斬新さという点では、『Short Peace』の方に軍配があがるのでは、と思います。

(注3)ただ、かぐや姫が怒って屋敷を飛び出していくところは実に荒々しい表現で描かれていて、こうした描き方は前作『ホーホケキョとなりの山田くん』でも見られるものの(例えば、いなくなったのの子を探しに一家が車を走らす場面など)、より高度に洗練されたものになっているように思いました。



(注4)例えば、公式サイトの「プロダクションノート」には、「『ハイジ』と『かぐや姫』には多くの共通点がある。共に自然に囲まれて山でのびのびと育った少女。しかし、周囲の大人の意思により山を離れて都会へ出てくることになる。二人は都会で暮らしながら、山での生活、自然への思いを募らせていく」云々と述べられています。
 ちなみに、原作の『竹取物語』では、かぐや姫は鄙びた田舎で育ってから都に出てきたようには書かれていませんし、またその話のかなりの部分は5人の貴人とかぐや姫とのやりとりですから、本作の前半の大半は今回創作したものといえるでしょう。

(注5)ここは政治的な議論をする場ではないので指摘するにとどめますが、高畑氏は宮駿氏らと一緒に、12月3日に発足した「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」の「呼びかけ人」になっています(この記事)。

(注6)こうした疑問は、高畑氏にもぶつけられているようで、「ほぼ日刊イトイ新聞」掲載のこの記事(2004.7.29)では、同氏は「こういう話をしていると、「あなたは、絵を描かないのに、 なぜアニメーション監督をやっているのか?」というような疑問を持つ人がいるかもしれません。ぼくは最近いつも、そう聞かれたときには、「ディズニーという人もそうなんです」と答えています」と話しています。

(注7)高畑監督の前作『ホーホケキョとなりの山田くん』の場合も、いしいひさいち氏の4コマ漫画に依っています。



 なお、このアニメでは、桃の中からのぼるが、そして竹の筒の中からのの子が生まれる様が描かれています!

(注8)上記「注6」で触れた記事で、高畑氏は、「絵描きではないにしても、絵への感覚を研ぎ澄ませて「絵がわかる」という状態を持っていれば……「さまざまな才能と組むことができる」のですね。しかも、自分で描かないという立場であれば、才能を持っている人を自分の色にねじふせて絵を描かせるのではなくて、「その人の絵の才能を発揮してもらう」という方向にもっていけるのではないでしょうか。いや、もっていくしかないんです」とか、「ぼくは、自分が絵を描かないでアニメーションの演出をやっていることは、決して弱点とは言えないのではないかと思っていますし、実際にそういう立場で作品を作ってきました」と述べています。
 さらに、この記事では、「できるだけ、捨てる絵を減らすために、スタッフに描いてもらう絵は、はやい段階でまちがいのない方向へと導かなければならない。それが設計ということで、ぼくらの場合では、できるだけ緻密な「絵コンテ」をつくる、ということなのです」とか、「そういった設計をすることについては、絵が描けるか描けないかというよりは、むしろある種の想像力があるか、計算ができるかどうかという問題です」などと述べています。

(注9)宝賀寿男氏の著作については、これまで本ブログにおいて、このエントリこのエントリ(いずれも『巨大古墳と古代王統譜』)、さらにはこのエントリ(『越と出雲の夜明け―日本海沿岸地域の創世史―』)、そしてこのエントリ(『神武東征服」の原像』)で触れてきたところです。

(注10)『神功皇后と天日矛の伝承』では、神功皇后は、津田史学の流れがまだ主流を占める戦後の古代史学界でその実在性が否定されてきたが、それは誤りであって、実は日葉酢媛であり、ただ記紀にあるように垂仁天皇の2番目の皇后ではなく、成務天皇(4世紀中頃)の皇后であった、とされています。

(注11)Wikipediaによれば、江戸時代の国文学者・加納諸平が指摘しています。

(注12)『日本書紀』のうち仲哀天皇(上記「注10」で触れる成務天皇の次の天皇で4世紀後半)の事績を述べている部分。

(注13)宝賀寿男氏の著書『古代氏族の研究② 葛城氏―武内宿祢後裔の宗族』(青垣出版、2012.10)においては、「武内宿祢は非実在の人物で古代の7雄族の祖として後世に蘇我馬子や中臣鎌足など、1人ないし複数の人物をモデルにして創作されたものだと、津田亜流の学究の多くから考えられている」が、「これは皮相的な見方にすぎ」ず、「記紀の記事をそのまま素朴に受け取り、全面否定につなげる例の手法であって、合理的な解釈とは言い難い」と述べられているところです(P.25)。

(注14)宝賀寿男氏の最新の著書『古代氏族の研究④ 大伴氏―列島原住民の流れを汲む名流武門』(青垣出版、2013.10)においては、「御行(みゆき)」に関して、「壬申の乱(672年)が起きると、大伴氏では一族をあげて大海人皇子側につき大活躍をする」のであり、「大伴長徳の子の御行(みゆき)も功があって、功封百戸を賜り、後に氏上や大納言となって、その死後には正広弐右大臣を贈られた」と述べられています(P.73)。

(注15)Wikipediaによれば、『竹取物語』は「遅くとも平安時代初期の10世紀半ばまでには成立したとされ」ているようで、その作者としては、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、空海などが挙げられているとのこと。



★★★☆☆



象のロケット:かぐや姫の物語
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ペコロスの母に会いに行く

2013年12月04日 | 邦画(13年)
 『ペコロスの母に会いに行く』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1)本作は、ペコロス(小さなタマネギ)という愛称の主人公・雄一岩松了)が、10年前に認知症を発症した母親・みつえ赤木春恵)を介護する様子を描き出した作品です。

 舞台は長崎。主人公の雄一は、広告代理店に勤めながらも、勤務は適当に流して、漫画を書いたり音楽活動をしたりするダメサラリーマン。
 その上に、母親が認知症ですから大変です。
 雄一が仕事で出かけ1人でいる時にオレオレ詐欺の電話がかかってくるのですが、みつえは、他のことに気を取られて受話器を置いて別室に行くと、電話のことを忘れてしまいます。
 これは実害がなくていいのものの、ダメだといくら雄一が言っても、駐車場で雄一が帰ってくるのを待ち構えていたり、既に亡くなっている夫のためといって酒屋に酒を買いに出たりしてしまいます。



 そこで、雄一と息子のまさき大和田健介)は、ついにみつえを介護施設に入れることにします。
さあ、うまくいくでしょうか、………?

 本作は、進行する認知症の母親を息子が介護するという大層厳しい状況を描きつつ、さらには母親の幼い頃や戦後の苦しい時代のエピソードがしばしば挿入されるものの、全編にわたり実に優しい眼差しに溢れ、見終わるとほのぼのした感じなります(注1)。

 主人公の雄一を演じる岩松了は、持ち味のひょうひょうとした雰囲気を出しながら味わいのある演技を披露しますし、また母親役の赤木春恵も、89歳とはとても思えないしっかりとした演技で観客を驚かせます。

(2)介護施設を描いたものとしては、最近では『ばしゃ馬さんとビッグマウス』があります(注2)。その中で、主人公のみち代(麻生久美子)が、シナリオを書くための取材ということで、ボランティアとしてごく短期間ながら働いたりします。
 ただ、その映画で描かれる介護施設では、入所している老人たちが簡単にはみち代を受け入れてくれず、おまけに早々に退散せざるを得ない事件が起こったりします(注3)。

 これに対して、本作で描き出される介護施設は、実に和やかな雰囲気が漂い、大きな問題は何も起こらなそうな印象を受けます(注4)。

 とはいえ、認知症の場合、実のところ病気は次第に進行し、記憶についても、初めのうちは最近起きたことを忘れてしまいますが、次第に過去のことも忘れてしまうとのこと(注5)。
 みつえの場合、上で触れたように、オレオレ詐欺の電話がかかってきてもそのこと自体を忘れてしまったりしますが、どうやら病気の初期症状のように思われます。
 その代わりに、過去のことはかなり鮮明に覚えています。本作では、みつえの幼い時分のエピソードや、夫・さとる加瀬亮)との結婚にまつわる出来事などが思い出として度々挿入されます(注6)。
 挙句は、みつえの目には、過去の人々(注7)が実在するかのように見えているようなのです(注8)。

 こうした有り様を見て、雄一は、映画のラストの方で、「ボケても、悪いことばかりじゃないかもしれない」とつぶやきます。

 確かに、認知症の場合そうした側面はあるのでしょうし、本作がその点を強調するのは斬新な視点とも言えるでしょう。
 でも、実際には病気はどんどん進行して、大層厳しい局面に至るのも事実のようです。
 「ハートウォーミングコメディ」として本作はまずまずの出来栄えとは思いますが、それはそれとして、他方で現実の有り様も忘れるべきではないのではと思います。

(3)読売新聞編集委員の福永聖二氏は、「森崎監督は、介護という深刻になりがちな題材を、少しも湿っぽくなく描き出した。優しさに満ちた秀作だ」と述べています。
 また、映画評論家の秦早穂子氏は、「同じ長崎生まれ、85歳の森崎東監督の確かな目が光り、赤木春恵89歳、初の映画主演という。日本人が本来持つ明るさ。溢れる生命力。断ちがたき親子の情。そこに、なんの理屈があろう」と述べています。




(注1)ただ、雄一の妻でまきおの母親である女性のことが、映画の中では触れられていないようなのはどうしてでしょうか?

(注2)この点については、「ふじき78」さんが既に指摘しているところです。

(注3)入所者の老人が吐瀉物まみれになってしまいますが、みち代はそれに対して何も対応できませんでした。

(注4)本作の介護施設では、入所者らが歌を合唱するくらいなのです。それに、本田竹中直人)の母親は女学生時代の恋人に恋心を抱いているようで、また人形を背中におぶって歩きまわっている老女(白川和子)もいたりして、多士済々の老人が楽しげに徘徊しています。
 こうなるのは、一つには、ロケの場所がデイサービス施設(北九州市の「さくら館」)であることも与っているのではないでしょうか?
 (どちらかといえば、『きいろいゾウ』でムコ(向井理)が介護士として働く特養ホーム「しらかば園」の描き方に近いのかもしれません)

(注5)例えば、このサイトの記事には、「認知症のごく初期では、まず近時記憶(数分前のことを覚えている)があやふやになり、やがて短期記憶(数日内のことを覚えている)が働かなくなりますが、遠隔記憶(それ以前のことを覚えている)には問題がないことが少なくありません」などと述べられています。

(注6)思い出のシーンから描き出されるみつえは、大家族の長女として生まれたために、畑仕事を手伝わされたり大勢の兄弟の面倒を見させられたりするなど、大層苦労し、さらには長崎に投下された原爆のキノコ雲も目撃しています。また戦後になると、結婚した夫・さとるがアル中で、みつえはDVを受けたりし、決して平坦な道ではありませんでした。



 さらに、音信不通になっていた親友・ちえこ原田知世)と遊郭でばったり出会ったりもします。
 本作の初めの方で、幼いみつえとちえこが、学校の窓から、音楽の先生(宇崎竜童)が合唱で「早春賦」を指導しているのを覗いたりするシーンがありますが(昭和18年の天草)、ちえこは被曝して10年後に亡くなっています(なお、みつえの若いころを演じるのが原田貴和子ですから、本作では姉妹共演ということになります)。



(注7)夫・さとる、幼馴染みのちえこ、それに8歳で亡くなった妹・たかよが、幻覚としてみつよに現れます。

(注8)上記の「注5」で触れたサイトの記事からすると、みつえは「アルツ八イマー型認知症」(「症状は記憶障害に始まり、初期には抑うつがみられたり、進行すると徘徊や妄想、幻覚がみられたりすることもあります。最終的には脳全体が萎縮するので身体機能そのものが低下しますが、表情はおっとりとして幸せそうなケースもみられます」)なのかもしれません。



★★★☆☆



象のロケット:ペコロスの母に会いに行く
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ルームメイト

2013年11月29日 | 邦画(13年)
 『ルームメイト』を渋谷TOEIで見ました。

(1)北川景子深田恭子との競演の映画というので映画館に行ってきました。

 映画の冒頭では、雨の中、まず萩尾春海北川景子)と工藤謙介高良健吾)が救急車に急ぎ搬送される場面が描かれ、ついで、大きなシャンデリアのあるバーの暗闇を懐中電灯で照らしながら警察の男たちが進んでいくと、床にナイフが落ちていて大量の血痕があり、その先のソファーの上では男が惨殺されて横たわっています。
 「なんだこれは、酷えな」と男たちが言っていると、ドアの向こう側で赤いドレスを着た人物が通り過ぎます。「女だ!探せ!」との声。
 他方で、床に落ちているノートブックを刑事(螢雪次朗)が拾って目を通します。

 そして、場面はそれより3カ月前の病院へ。
 どうやら春海は、交通事故に遭ってこの病院に運ばれ、ようやく意識を取り戻したようです。尋ねられると「萩尾春海、23歳」と答え、記憶は回復しながらもどうしてベッドに横たわっているのか覚えていません。
 そこへ工藤ともう一人の男が現れ、事故のことを謝罪します。工藤が運転する車に春海は轢かれたとの話で、もう一人は保険会社の長谷川尾上寛之)。



 2人が帰ったあと、看護婦の西村麗子深田恭子)が現れ、「保険会社に言いくるめられてしまうよ」などと言い、そうこうするうちに2人は親密になります。

 しばらくして春海は退院しますが、派遣社員として勤めていた会社を解雇され今後のことを不安に思っていたところ、麗子が現れ、「私も病院を辞めることになった」、「2人でルームシェアすれば、家賃が半分になる」などと言うので、春海が暮らしていたやや古ぼけたマンションで一緒に生活をすることになります。



 こんな春海が、どうして映画の冒頭のような事態を迎えることになるのでしょうか、その現場にいない麗子はどうしたのでしょうか、………?

 本作は、かなり複雑に書かれている推理小説を原案としながら、それを実に手際よくまとめて2時間弱のホラー・サスペンス映画に仕立てあげているだけでなく、今が旬の女優、北川景子と深田恭子とが力一杯競演しているのですから、見応え充分といったところです(注1)。

(2)ここからはネタバレになってしまいます。本作を未見の方は、以下を読むことなく、急ぎ映画館に行かれることをお勧めいたします〔本作の原案とされている推理小説(注2)についても同様ですので、未読の方はまずは同書をお読みください〕。

 さて、本作の原案のミステリーは、かなり複雑に書かれています。
 ごくごくかいつまんで申し上げれば次のようです。

 不動産屋で偶然知り合った大学生1年生の春海と麗子は、ルームシェアをすることになるのですが、麗子が多重人格(解離性同一性障害)でした(注3)。
 麗子は、自分を多重人格にした殺人事件を引き起こした男を殺すよう“共犯者”に依頼します(注4)。
 “共犯者”は、麗子を愛していたために、依頼通り男を殺したところ、麗子に「愛していない」と言われ、怒って麗子を殺してしまいます。
 この事件を、春海は先輩の工藤謙介(注5)と2人で追跡します。
 ところが、事件の真相を追っていくと、春海自身が多重人格者であり、彼女のもう一つの人格である兄(既に病死)が“共犯者”として麗子を殺したことがわかってきます(注6)。

 この推理小説では、多重人格者が2人も登場しますし、複数の男がかなりの役割を持って活躍します(注7)。
 それを本作では、小説の春海と麗子という2人の多重人格者を1人だけに絞り込み、なおかつ工藤謙介も副次的な扱いとして、また昔のことはともかく(注8)、最近時点で殺されるのも男女1人ずつにしています(注9)。
 やや難点も見られる小説を原案としながら(注10)、全体をかなりスッキリした筋立てにしていると思います。

 ただ、本作では、原案のミステリーにはない人物、絵理が登場します。
 一見すると、彼女を巡る話は余計なエピソードのように思えるところ、そうすることで本作の謎はかなり深まることにもなりますから(注11)、それほどの問題はないでしょう。

 とはいえ、絵理の境遇は春海とかなり類似しています(注12)。
 この重なり合いの構造は、春海が3カ月という間を置いて病院のベッドに横たわるというところにも見受けられます。
 これは、人格の重なり合いがシチュエーションの重なり合いとも連動しているようにも思え、全体としてなかなか良く練られた作品という印象を持ちました。

(3)渡まち子氏は、「ルームシェアした女性が恐ろしい素顔を持つことを知るサスペンス・スリラー「ルームメイト」。美女二人の競演が華やか」として55点をつけています。
 前田有一氏は「二人の人気女優を全面にだしたプロモーションからお手軽なお気軽2時間サスペンスだと思っているミステリファンがいたら、ぜひそのなめた態度のままご鑑賞いただきたい。きっと、満足していただけるはずである」として75点をつけています。
 相木悟氏も、「なかなかに拾い物の一作であったのは確か。何より原作読者も存分に楽しめる娯楽作に仕上げたサービス精神は、大いに賞賛したい」と述べています。



(注1)最近では、北川景子は 『謎解きはディナーのあとで』で、深田恭子は『夜明けの街で』や『ステキな金縛り』で、それぞれ見ています。

(注2)今邑彩著『ルームメイト』(中公文庫)。

(注3)ホスト人格の青柳麻美、春海のルームメイトの麗子、銀座のバー・アリアドネに勤めているマリとカオリ(P.210)、人妻(ある男と内縁関係)の平田由紀、それに子供のサミー(6歳で成長が止まっているとのこと。麻美は幼いころ米国ミネソタ州に住んでいました)。

(注4)原案のミステリーでは、サミーが隣家の青年ボブに性的いたずらをされ、そのことを知ったサミーの両親をボブは殺してしまいます。それを知ったサミーは精神的な打撃を受け、多重う人格になります。そして、そのボブが、来日して英会話スクールの校長となっているのを知ったマリが、“共犯者”をそそのかして殺させます。

(注5)原案の推理小説では、工藤謙介は、「学部は違うが、春海が所属している写真部の部長」(P.66)。

(注6)原案のミステリーの「モノローグ4」(文庫版にする際、著者が掲載をためらったラスト)によれば、春海にはもう一人工藤謙介の別人格が生まれていたようです。

(注7)原案の小説では、工藤謙介は、春海と一緒に、京都や綾部まで麗子のことで調査に行ったりしますし、また工藤謙介の従兄弟でフリーライターの武原英治も本件の調査に乗り出します。

(注8)原案の推理小説で青柳麻美の幼い時分に起こったことは、本作では春海に起こります。すなわち、春海は、中学生の時に母親の愛人にレイプされ、そのことが世間に知られて愛人が自殺したことを母親になじられたために、マリという人格になって母親を殺してしまいます。

(注9)原案のミステリーでは、麗子のみならず、英会話スクールの校長とかフリーライターの武原英治も殺されます。

(注10)原案の小説においては、青柳麻美は42歳であり18歳の娘麗子もいることになっていますが、いくら若作りだといえ18歳の春海に、娘と同年齢と見なされるにはかなり無理があり、また、春海の別人格である兄・健介は、マリとベッド・インしますが(小説の冒頭の「モノローグ1」)、精神はともかく体まで男性になるわけではないでしょうから、マリにおかしいと疑われるのではないでしょうか?

(注11)例えば、このエントリの(1)の最初のほうで書いた「赤いドレスを着た人物」とは、いったい誰でしょう?

(注12)本作の絵理は中学生で、市長選での候補者となる山崎田口トモロヲ)に暴行されたことから、別人格の「マリ」を作り出し、山を殺害しようとします。



★★★★☆



象のロケット:ルームメイト
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四十九日のレシピ

2013年11月26日 | 邦画(13年)
 『四十九日のレシピ』を渋谷TOEIで見ました。

(1)本作を制作したタナダユキ監督の前作『ふがいない僕は空を見た』がなかなか面白く、さらには永作博美が出演するというので映画館に行ってきました。

 主人公の百合子永作博美)は、夫・浩之原田泰造)に愛人がいることがわかると、捺印した離婚届を残して、故郷の実家に戻ります。
 そこには、つい最近妻の乙美を亡くしたばかりの父親・良平石橋蓮司)がいるものとばかり思っていたら、既に若い女の子のイモ二階堂ふみ)が上がり込んでいるではありませんか。



 乙美は生前、依存症の少女たちの更生施設でボランティア活動していましたが、そこにいたイモは乙美の世話を受けたことから、乙美先生の「四十九日」をやるためにやって来たと言うのです。
 良平と百合子は、わけがわからないまま、乙美が作成した「暮らしのレシピ」カードの中にある「四十九日のレシピ」に従って、大宴会を催すことにしますが、さてどうなることやら、………?

 本作については、それほどの事件が起こるわけでもなく、良い人がたくさん描かれているとはいえ、画面に余り登場しない人物ながら生前の人間関係を通じて浮かび上がる彼女の存在感が大きく、画面の隅々まで染み通り、全体としてほのぼのとした好ましい気分を味わうことが出来ます。

 永作博美は、夫との関係に悩む百合子の役を好演していますし、石橋蓮司はいつもながらの味わい深い演技。



 それに二階堂ふみは、日系ブラジル人のハルを演じる岡田将生と一緒になって、不思議な雰囲気を醸し出し、さらには、良平の姉・珠子を演じる80歳の淡路恵子の活躍も見られます(注1)。



(2)タナダユキ監督の前作『ふがいない僕は空を見た』の主人公・里見(田畑智子)と同じように、本作の主人公・百合子も子供がいないことで悩み、不妊治療をしたりした挙句、夫と上手く行かなくなり、故郷に戻ってきます。
 ただ、前作のようには、そのことが中心的に描かれているわけではなく、むしろ、突然父親・良平のもとに現れるイモとハルの不思議な印象の方が見る者に残ります。

 というのも、いくら生前に世話になったからといって、また生前に乙美先生から頼まれたとはいえ、突然、「四十九日」の準備のために若い女の子が、見ず知らずの家に上がり込んでくるものでしょうか(特に良平は、イモとは初対面なのです)?
 そして、イモは、戸棚からいとも簡単に「暮らしのレシピ」を探し出してきて、良平に見せたりするのです。



 また、乙美先生から譲り受けたという黄色いビートル(注2)に乗って現れるハルという日系ブラジル人も、イモの手伝いとしてやってきたとの触れ込みながら、誠に胡散臭い人物に思えます。
 なにしろ、途中で現れ、「四十九日」の直前に、良平に別れの挨拶もせずに立ち去ってしまうのですから(ビートルを百合子に譲った挙句に)。それに、日系3世にもかかわらず、ブラジル・ポルトガル語を余り発しもしませんし(尤も、岡田将生が演じているのですから仕方がありませんが)(注3)!

 ただ、それらのことは、制作者側もよく承知していて、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」には、「原作で描かれている“ハルとイモは生まれ変わりかもしれない”というファンタジー的要素は、映像化するにあたり、より地についた人間として脚色」と述べてあります(注4)。

 確かに、本作では、ハルも良平などと一緒のところが随分と描かれていますし、イモにしても、原作のように突然消えてしまうのではなく、仲間の女の子たちと一緒に良平の家から帰っていきます。 特に、原作の最後の方で、良平がイモとハルについてあれこれ考える場面が描かれていますが(注5)、本作にはそんなシーンはありません。

 まあ、色々と解釈できる余地を残して描かれていると言うべきでしょうか。

(3)下記の(4)で触れる評論家の前田有一氏は、「この映画は震災後にその影響を受けて企画されたもので、家族「以外」の絆によって癒される人々が主題として描かれている。それが2013年らしい家族映画だと、作り手はそういいたいらしい」が、「震災を経て日本人は、逆に家族至上主義へと回帰したのであ」り、「だから、2013年らしい映画をというのなら目指す方向が正反対である」と主張します。
 確かに、劇場用パンフレット掲載の監督インタビューにおいて、タナダユキ監督は、「(脚本の)黒沢さんから“人を救えるのは血のつながった家族だけではない”という話にすべきではないかという提案があり、賛成しました」と述べています。
 ただ、そうであるなら、本作は、2013年に必要な映画という意味で「2013年らしい映画」なのではないでしょうか?
 というのも、前田氏の言うように、現状が仮に「家族至上主義へと回帰」しているとしても、それをそのまま描くのではなく、そんな現状に対して「家族「以外」の絆」が必要だと映画が主張しているのは、「時代をみる大局的な視点が少々ずれている」ことに当たらないのではと思われるところです。

 もっといえば、前田氏は、日本が「家族至上主義へと回帰」したのは、「9.11で同じ方向に進んだアメリカ人のケースと同じ」であり、それは「ここ数年のハリウッド映画が家族大事大事といい続けているのを見れば誰でもわかる」とまで述べています。
 ですが、もしかしたら話しは逆で、「ここ数年のハリウッド映画が家族大事大事といい続けている」のは、家族の破壊が9.11以降より一層進んでいるからこそ、その現状を変更したいがためにそうした傾向の映画が沢山制作されているのではないか、とも考えられるところです。
 前田氏が、「人間はカタストロフィに直面すると血のつながりを求めるようにできている」のだから、「震災を経て日本人は、逆に家族至上主義へと回帰した」のだと大上段から決めつけてしまっているのは、あるいは、現状をありのままに見たくないからこそではないのか、「時代の先を見る目」が感じられないのはどちらの方なのだろうか、と思ってしまいます(注6)。

(3)渡まち子氏は、「父娘役の永作博美と石橋蓮司が共に味のある演技をみせるが、個性的な役をいつも絶妙に演じる若き演技派の二階堂ふみのハジケっぷりと、時折みせる寂しげな表情に注目だ」として60点をつけています。
 また、前田有一氏も、「女性監督らしく、細やかな人間観察によるエピソードが心に響くドラマだが、まだまだ不器用で細部が荒っぽいのと、時代をみる大局的な視点が少々ずれているので傑作になれずにいる、惜しい一本である」として60点をつけています。



(注1)最近では、永作博美は『八日目の蝉』で、石橋蓮司は『俺はまだ本気出してないだけ』とか『人類資金』で、二階堂ふみは『地獄でなぜ悪い』で、岡田将生は『謝罪の王様』で、原田泰造は 『アントキノイノチ』で、それぞれ見ました。

(注2)VW社の小型車(ドイツ本国での生産はすでに終了しましたが、ブラジルでは現地法人が「フスカ」という名称で生産を続けているようです)。

(注3)さらにいえば、ハルが日系ブラジル人であれば、その地にはブラジル人仲間がいたことでしょうから、良平の姉・珠子たちが習うとしたら、フラダンスよりも、むしろブラジルのサンバの方がふさわしいのではと思えるところです。でも、あるいは、ハルはその地で仲間を持っていないのかもしれません。

(注4)タナダユキ監督も、本文で触れるインタビューにおいて、「最初に脚本の黒沢久子さんと相談したのは、生身の人間が演じるからリアリティを大事にしようということ」だと述べています。

(注5)本作の原作は、伊吹有喜著『四十九日のレシピ』(ポプラ文庫)ですが、そのP.287では、イモが消えてしまったあと、良平が、「そうか、お前、鬼の扮装で現れたのか、たしか、何かの写真に一枚、鬼の格好したやつがあったな。お前、あの格好で来たんだな、ばれたら困るから。お前だったのか、乙美。そうか………そうだろう?」とつぶやく場面があります〔なお、「鬼の扮装」と良平が言うのは、本作と違って原作においては、イモはガングロ・ファッション(「極限まで日焼けしたと思われる褐色の肌に黄色い髪、目の周りを銀色の線で縁取った娘がそこに立っていた」P.12)で最初に現れたことに対応しています。また、乙美の鬼の写真については、P.220〕。
 また、ハルに関してもP.288で、良平は、「お前………お前も来たのか?違うか?姉さんのピンチに黙っていられずに。そうだろう?お前はやさしい子だからな」とつぶやきます〔ここの「お前」は、前妻で百合子の母親である万里子が産んだ第二子・ハルミ(流産したか死産だったようです。P.170)を指しています〕。

(注6)とはいえ、クマネズミは、映画に政治的なテーマを読み込んで、それを自分の政治的な立場から批判するといった姿勢は好みません。映画には様々なテーマがあふれていて、一方的に一つのテーマを持っていると決めつけることなど出来ない相談ではないかと思われるからです。




★★★★☆



象のロケット:四十九日のレシピ
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清須会議

2013年11月22日 | 邦画(13年)
 『清須会議』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作を制作した三谷幸喜監督の前作『ステキな金縛り』がまずまず面白かったこともあり、映画館に足を運んでみました。

 本作で専ら描かれるのは1582年6月の清須会議で、それは織田信長が本能寺の変で急死した後、織田家の継嗣問題と領地再分配問題を解決するために開催されたものです。
 でも、その帰趨については皆がよく知るところでしょうから(注1)、本作に対する関心は、むしろどの俳優がどんなメイクや衣装、それにどんな演技で主な登場人物である4人(柴田勝家丹羽長秀羽柴秀吉池田恒興)を演じるのかとなるでしょう。



 そうなると、やはり柴田勝家の役所広司が抜きん出ていて、佐藤浩市の池田恒興、小日向文世の丹羽秀長はまずまずといったところ、大泉洋の羽柴秀吉については意見が別れるところではないかと思います(注2)。
 確かに、大泉洋の秀吉もありとは思えるところ、なんだかこれまでのイメージも被ってきて、随分と軽っぽい感じがしてしまうのが問題であり、例えば、元々耳がとびきり大きい瑛太ならどうかなと思ったりしました。



 ただ、総じていえば、華々しいチャンバラ・シーンのない至極真面目な時代劇ながらも、要所要所に笑いの要素を散りばめ、さらには中谷美紀とか鈴木京香剛力彩芽といった女優陣も張り切っていて(注3)、なかなか見応えのある作品になっていると思いました。



(2)本作では、三谷幸喜監督が様々な工夫を凝らしています。
 例えば、
イ)日の進み具合については、「一日目」「二日目」……という具合に字幕が入るものの、肝心の武将たちの名前については、他の時代劇のような字幕は入りません。
 とはいえ、信孝信雄については、その発音が近いために(「ノブタカ」「ノブカツ」)音声だけでは紛らわしく、字幕の必要性が高いでしょうし、また信孝・信雄・信包・秀信(三法師)らの関係についても系図的な説明がある方が、観客にとって随分とわかりやすくなるものと思います。
 でも、三谷監督は、この映画を見に来るほどの観客ならばそんなことは予めよくわかっていることだろうとして、敢えて煩わしい字幕を挿入しなかったのでしょうし、それは一つの見識だと思います。

ロ)本作に登場する人物は、大体が現代語でしゃべっていますが(注4)、これは本作の原作である小説『清須会議』(三谷幸喜作、幻冬舎文庫)が、当時使われた言葉で作られたであろう文書の「現代語訳」として作られていることからくるものと思います(注5)。
 他方、三谷監督は、インタビュー記事では、「ビジュアルには相当こだわり」、例えば「頭頂部の髪を剃った部分「月代」」について、「肖像画で見ると、髪の生え際はかなり後ろな」ので、「既製の鬘ではなく、特殊メイクで作ってもら」ったんだ、と述べています(注6)。
 そこまでビジュアルにこだわるのであれば、話す言葉についても、当時を再現する方向でやってもらったらどうか、という気もしてきます。
 としても、そんなことをしたら、現代の観客は到底理解できなくなってしまうでしょう。
 逆に、ビジュアルも喋り方に合わせて現代風のものにするといったことも考えられるかもしれません。例えば、ジーパンを履いた羽柴秀吉という具合に。
 でも、そんなことをしたら、浮ついた現代の新劇でも見ている感じになってしまい、おそらく受け入れられないことでしょう。
 様々の選択肢があるとはいえ、本作のやりかたは、三谷監督の歴史に対するこだわりと理解ノシやすさ・面白さをミックスさせたものとして、適切なものと思います。

ハ)上で触れたインタビュー記事において、秀吉には「指が6本あったという伝説」があり、本作では「その再現にも挑戦し」、「劇中で秀吉は常に手袋をしてい」るが、「ワンシーンだけ、手袋を外しているシーンがあ」る、と三谷監督は述べています(注7)。
 見終わってからこのインタビュー記事を知り、予告編を見直したりしてみると、大泉洋の秀吉は確かに右手に手袋をしています。



 ですが、クマネズミは、映画を見ている最中はそんなことに露ほども気が付きませんでしたから、手袋を外している「ワンシーン」がどこにあったのか気付くわけもありません!

 それはともかく、昨年出版された『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄著、山川出版社)(注8)を見ると、その著『日本史』において「フロイスは秀吉には一つの手に六本の指がある(注9)と書いた」と述べられています(P.571)。
 さらに、同書では、「前田利家の伝記である「国祖遺言」に、秀吉は六本指であると記述されていた」と述べられ、該当部分(「太閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候」云々)が引用されています(P.571~572)。
 その上で、服部氏は、多指症についての情報もあり、「同時代人による証言が複数揃った以上、もはや疑ってはならない。六本指だった秀吉は、大道芸でそれを活用したのかもしれない」と結論づけています(P.573)。

 おそらく、三谷監督は、こうしたことも背景にして秀吉のビジュアルを作り上げているのではないかと思われます。

(3)渡まち子氏は、「有名な会議とはいえ、派手なアクションや情熱的なロマンスがあるわけでもない、本作の清須会議は、映画としてはすこぶる地味な題材。それを日本映画が誇る豪華キャストを集めて、抱腹絶倒の歴史エンタテインメントに仕上げてみせた」として70点をつけています。
 また、前田有一氏も、「時代劇ファンが求める「本格」とは、ルックスではなくそこで描くテーマにこそある。それをこの、おバカしたての時代劇は実証して見せた。この時代と武将についての予備知識はある程度必要で、かつ思い入れが強い人ほど楽しめる。三谷監督らしい、年末年始にぴったりな良質な時代劇である」として85点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「何をおいても、138分間じっくり歴史喜劇を堪能させてもらった。結構でござんした」と述べています。



(注1)尤も、信長や信忠、明智光秀がどこを所領していてそれが誰のものになったかまで詳しく知っている人は少ないと思いますが、映画でもその点は余り突っ込みません(ただ、原作小説では、「四日目」の「十六 前田玄以による本会議議事録二(現代語訳)」において、P.229以下17ページにわたって詳しく記述されています)。

(注2)最近では、役所広司は『わが母の記』、佐藤浩市は『人類資金』、小日向文世は『アウトレイジ ビヨンド』、大泉洋は 『探偵はBARにいる2』で、それぞれ見ました。

(注3)最近では、中谷美紀は『リアル~完全なる首長竜の日~』、鈴木京香は『セカンドバージン』で、それぞれ見ています。
 なお、剛力彩芽は、テレビドラマでは見ているものの、映画としては『カルテット!』以来です。

(注4)例えば、「五日目」のお市様と秀吉との会話は、概略次のようです。
 お市様「私は、柴田と祝言をあげます。お祝いの言葉は?」、秀吉「おめでとうございます」、お市様「私にできることはこれしかない」、秀吉「そこまでして私を苦しめたいのですか?」、お市様「私は生涯あなたを許せない。夫を殺し、息子を殺したお前を。あなたが嫌がる相手に嫁ぐのです」、秀吉「そこまで嫌われたら私も本望です」。
 (原作小説のP.281に同じシチュエーションが描かれていますが、映画ではずっと簡略化された会話になっています)

(注5)同小説は、冒頭の「燃え盛る本能寺本堂における、織田信長断末魔のモノローグ(現代語訳)」の節から始まり、末尾の「秀吉の妻、寧の日記。六月二十八日分抜粋(現代語訳)」の節で終わります。

(注6)さらに、例えば、鈴木京香のお市様と剛力彩芽の松姫(三法師の母)は、眉毛がなくお歯黒をしています。

(注7)原作小説では、「二日目」の「二十一 秀吉の妻、寧の日記。続き(現代語訳)」において、「夫は本来暗い人間である。生まれながらに右手に障害を持っていたこともあり」云々と述べられているくらいです(P.120)。

(注8)本書は、昨年の毎日出版文化賞(人文・社会部門)を受けていて、選考委員の白石太一郎氏は、「中世史料に多くみられる河原ノ者、非人、声聞師などについてその実相を明らかにするとともに、秀吉を被差別民から天下人にまで上りつめた脱賤の具体的な事例として取り上げている。さらに秀頼誕生の謎についても、大胆だが説得力のある推論を提起する」などと述べています。
 また、法政大学教授の田中優子氏も、「本書では、被差別民が多くの分野での職人として社会を支えてきたことが見えて来る。ヨーロッパ人宣教師を始めとする当時の人々の記録を重要視することで、見事に人間を浮かび上がらせた」などとして高く評価しています。
 他に、東大の五味文彦氏は、「大胆な論と丁寧な史料の検討がなされており、読み応えがあるとともに、今後に大きなインパクトをあたえる本となるであろう」と述べています。

 ですが、歴史に驚くほど該博な知識を持つクマネズミの友人は、服部英雄氏について、「的確な史料批判ができない人」であり、本書で「ルイス・フロイスの『日本史』を同時代史料として信頼しすぎるのも、同書が伝聞書きのものであるだけにどうかと思う」などと言っているところです。
 〔前者の点については、例えば本書のP.42に「(佐々木哲氏の著書によれば、近江の六角氏には)系図には記されないけれど、義久―義秀という当主がいた」との記載があるが、まともに認める歴史学者や系図研究者のいない沢田源内の『江源武鑑』が主張するところに従う佐々木哲氏の見解を無批判的に受け入れるものであり、これでは服部氏は史料批判ができないと判断されても仕方がない、と友人は言っています。〕
 「若き日の豊臣秀吉、すなわち木下藤吉郎は賤の環境にあった」(P.561)とか「秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロである」(P.600)といった服部氏が本書で提起する仮説は、単なる一つの考え方と受け止めておいた方がいいのかもしれません。

(注9)原文のポルトガル語では、「Tinha seis dedos em uma mão」。



★★★★☆



象のロケット:清須会議
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ばしゃ馬さんとビッグマウス

2013年11月12日 | 邦画(13年)
 『ばしゃ馬さんとビッグマウス』を渋谷のシネクイントで見ました。

(1)久しぶりに麻生久美子が出演する映画だというので映画館に出向きました(注1)。

 主人公は、プロの脚本家を目指し、“ばしゃ馬”のようにせっせと脚本書きに精を出す34歳の馬渕みち代麻生久美子)。



 ですが、応募するどのコンクールも第1次審査に通らない有り様。
 それでもめげずに、友人マツモトキヨコ山田真歩:注2)とまじめにシナリオスクールに通うところ、全然脚本を書かないくせに酷く自信を持つ28歳の天童義美安田章大)と出逢います。
 みち代は、大口を叩く(“ビッグマウス”の)天童を毛嫌いするのですが、天童の方は逆にみち代に一目惚れ。



 さあ、この恋は、そしてみち代のプロの脚本家になるという夢は成就するのでしょうか、………?

 ことさらな出来事が何も起こらず随分と地味な作品ではあるものの、脚本家志望者を巡る物語を監督自ら脚本を書いて映画化した入れ子構造となっていて興味深い上に、主演の麻生久美子の好演もあって、まずまず面白く仕上がっています。

(2)本作の序盤では、雑誌『シナリオ』がずらっと並んでいたりする本棚がある狭い部屋で、パソコンに向かって脚本書きに精を出すみち代が描かれます。
 脚本が完成したのでしょう、プリントアウトする一方で、コーヒーを入れたりカップ麺を作ったりします。
 ついで、自転車に乗って郵便局に出向き、出来上がった脚本の入った封筒を“簡易書留”にして「東都テレビ ドラマ脚本賞係」宛に送ります。
 しばらくしてからでしょうが、本屋に入り、雑誌『シナリオ』を立ち読みし、コンクールの第1次審査を通らなかったことを知り、家に戻ってベッドで泣くところでタイトルクレジットが入ります。

 映画の導入の部分で、淡々とした進行ながら、みち代の現在置かれている状況が観客に鮮明に簡潔に印象づけられます。

 また、映画の中盤では、脚本を書くために老人ホームに取材しようとして、みち代は、元恋人で役者志望だったにもかかわらず今は介護士をしている松尾岡田義徳)のところに出向き、ボランティアとして同じ老人ホームで働くことになります。
 ですが、その仕事もうまくいかず、介護士を主人公とする脚本も、頼みにしていた監督からすげなく突き返されてしまいます。
 それで、松尾の部屋に行って、「夢を諦めるのってこんなに難しいの?でもまだ諦めきれない」などと心情を吐露し、感情が高ぶってきてあわや二人の関係が以前に戻ろうかという時に、みち代は「いいの?また好きになっちゃうよ」と言い、松尾も冷静さを取り戻します。



 これまでの吉田恵輔監督の作品では重点的に取り扱われていた男女の関係が、本作では随分と淡白に描かれていて観客はやや不満な感じを持ってしまいますが(注3)、それでもこの二人だったらこうなるかもしれないな、と妙に納得してしまいます。

 言うまでもなく、観客に与える印象は、脚本のみならず、出演する俳優の演技力や、全体を統括する監督の力量などによるものでしょうが、本作の出来栄えがまずまずだと思えるのは、その脚本自体がうまく書けていることが大きいのではないでしょうか。

 ただ、これだけみち代や天童の生活がリアルに描かれていると、映画の先の二人のことが気にもなってしまいます。
 みち代の方は、これまでの自分をさらけ出した脚本(「凡人だった僕へ」:実は、本作それ自体とされています)がコンクールの第1次審査にも引っかからなかったことがわかると、10年来の夢を諦めて、東京の下宿先を綺麗に片付けて田舎に戻ることになります。
 実は、彼女の実家は地方で旅館を営んでいるのです。
 両親(注4)も、早いところ戻ってきて家業を手伝ってくれるようみち代に言ってきたところです。
 地方の日本旅館の先行きは決して平坦なものでないでしょうが、とりあえずは落ち着き先があるので一安心といったところです(注5)。

 もう一方の天童は、彼が書いた脚本も、みち代にはよく書けていると言ってもらったものの、やはりコンクールに落選してしまいます。
 彼は、みち代よりも年が若いこともあり、まだまだ頑張ることでしょう(注6)。
 ただ彼の場合、その関西弁から出身地は関西方面なのでしょうが、母親(秋野暢子)が、ソープランドの受付として東京に出てきてしまっていて、みち代のようには帰るべき実家を持っていないのです。
 彼は、これまで同様、中華レストランでアルバイトをしながら脚本書きに邁進することになるのでしょうが、芽が出なかった時は一体どうなるのでしょう(注7)?

(3)渡まち子は、「シナリオライターを目指す男女の騒動を描く「ばしゃ馬さんとビッグマウス」。イタいもの同士のかけあいとやるせなさがしみる」として65点をつけています。
 また、相木悟氏は、「夢に向かって歯を食いしばってがんばっている人々の心をえぐる、快作かつ問題作であった」と述べています。



(注1)麻生久美子の映画は、『グッモーエビアン』以来(『舟を編む』でポスター出演していましたが)。
 なお、本作は吉田恵輔監督の作品で、これまで『さんかく』などを見ています。

(注2)『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』で主役のアユムを演じています。

(注3)劇場用パンフレットに掲載されている脚本の仁志原了氏と脚本も担当した吉田恵輔監督の対談において、吉田監督は、「今考えると、もともと男2人の話だったこともあって、脚本上のラブストーリー要素は薄かった」と述べています(「男2人の話」というのは、本作の主人公みち代は吉田監督がモデルで、天童は仁志原氏がモデルとされていることを指しています)。

(注4)父親は井上順、母親は松金よね子が演じています。

(注5)さらには、「旅館を手伝うだけでなく、同時に介護の勉強でもしようかと思っている」とみち代が言っていることでもありますから。

(注6)2度ほど天童が書いた脚本を読んだみち代から、「天童くんは、私より才能がある」とも言われていますし。

(注7)まして、その母親が年をとって彼を頼ってきた場合にはどうするのでしょう(まさか、天童が脚本を書くために取材したホームレスになるわけでもないでしょうし、また生活保護に頼ってしまうわけでもないでしょう)?



★★★☆☆



象のロケット:ばしゃ馬さんとビッグマウス
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人類資金

2013年11月09日 | 邦画(13年)
 『人類資金』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)『許されざる者』で活躍したばかりの佐藤浩市が主演だというので、映画館に行ってみました(注1)。

 本作の冒頭では、1945年のこととして、映画『日輪の遺産』で描かれたのとほぼ類似する財宝(注2)が、東京湾に沈められます(注3)。
 ついで、時は2014年に。
 主人公の真舟佐藤浩市)が、正体不明の森山未來)に廃ビルに連れて行かれます。



 すると、“M”と呼ばれる香取慎吾本庄岸部一徳)とが現れ、東京湾に沈められた10兆円もの「M資金」をすべて盗み出してほしいという依頼がなされます(報酬は50億円だとして)。というのも、その「M資金」を管理する「財団」が日本にあるものの(注4)、資金の本来の趣旨を外れてマネーゲームに邁進してしまっているからだというのです。
 香取たちは一体何のためにそんなことをするのでしょう、そしてその盗み出しは果たして成功するのでしょうか、………?

 本作は、終戦間際から現代まで取り扱うタイムスパンは長く、また舞台も日本だけでなく、ロシアのハバロフスクからニューヨークの国連本部などとグローバルで、邦画にしてはスケールがかなり大きくなっているものの、如何せんそれらを背景にして語られる物語は面白みに欠け(注5)、出演する俳優陣は多彩でそれなりに頑張っているとはいえ(注6)、イマイチの感が残ります。

(2)本作は、「M資金」を巡る詐欺事件を描いているものとばかり思って映画館に出かけたのですが、そして映画の最初の方では、主人公の佐藤浩市が、詐欺話を仕掛けているところが映し出されますが、そんな詐欺話はすぐに終わってしまい(注7)、実際には、「M資金」なるものが実在するとしてストーリーの大部分が組み立てられているので、とても意外な感じがします。

 いうまでもなくそんなことは元々ありえないのですから(注8)、勿論この映画の物語自体もありえないものであり、そうだとしたら、この映画で望ましいとされていること(注9)自体も、いくら石が国連総会で立派な演説をするにしても、ありえないこととなってしまうのではないでしょうか?



 とはいえ、本作は、「M資金」なるものが実在すると仮定した上で物語が組み立てられているわけなのですから、そう正面から突き放すこともないでしょう。
 ただ、そうだとしたら、「M資金」を終戦間際に東京湾に沈める話を冒頭に持ってくるのではなしに、それが引き上げられて、どこかの金庫に格納される場面をまずもって描き出す必要があるのではないでしょうか(注10)?
 あるいは、沈められているままだとしても、それが海底に置かれている状況を映像で映し出すくらいはすべきではないでしょうか(注11)?

 それはともかく、本作によれば、なんだか「M資金」の金の延べ棒は「日本投資政策銀行」あたりに保管されているようなのです(注12)。そのため、同銀行は「M資金」に保証を与えており、その結果、それを担保とする融資願い(「財団」あるいはその傘下のヘッジファンドが行うもの)は、世界のどの金融機関においても無審査でただちに受理される、などとされています(注13)。
 とすれば、本作の世界では、「M資金」の実在がすでに全世界の周知の事実となっているわけでしょう。ただ、そうであれば、本作の冒頭で真舟たちが詐欺話をすることなど起こりえないのではないでしょうか(相手の無知につけ込んで騙すわけですから)?
 それに元々、政府関係機関らしき「日本投資政策銀行」が、投機目的のヘッジファンドを傘下に置く「財団」なるものに対して、いくら原資を保管しているからといって、その融資に無制限の保証を与えることなど考えられないのではないでしょうか?

 それもさておくとして、本作では、真舟らが、ハバロフスクに駐在する鵠沼オダギリジョー)を使って10兆円を盗み取る計画を実行しますが、公式サイトの「STORY」では「一つのミスから綻びが生じてしまう」とされています。
 ですが、500億円の融資願いが200通、200の銀行に対して提出され、その資金が口座に次々と入金されたことは真舟らが確認しており、真舟も50億円の報酬を受け取っているのですから(注14)、身分がバレることなどがあったにしても、計画自体は成功したというべきではないのでしょうか(注15)?

 クマネズミの理解力不足によるところが大きいのでしょうが、以上で挙げた他にもよくわからないことが次から次へと本作では起こるために(注16)、見終わっても、釈然としない気分のまま放り出される感じになります。

(3)渡まち子氏は、「ストーリーは、現代の金融資本主義の危うさや虚構の繁栄、真の豊かさなどを人間の良心に訴える形で語っていくものだが、何しろ、セリフのほとんど説明調なのでどうにもテンションが上がらない。クライマックス、森山未來が、長台詞の演説を熱演するのだが、これがまたテンポを削ぐ形になってしまうのがやるせない。これでは映画を見ているというより資料を読んでいるような気持ちになってしまう」として55点をつけています。
 また、前田有一氏は、「スケールの大きな話に海外ロケによる映像、アクションシーンをダンサーならではの華麗な身のこなしでこなした森山未來など、ところどころ光る部分はあれど、詰めが余りにも甘い。邦画としては異例と言っていいほど意欲的な挑戦だったが、これが限界というなら残念きわまりない」として40点しかつけていません。
 さらに、柳下毅一郎氏は、「なんにせよ、最後演説したら悪人が改心してみんな納得するという脚本を書いてしまった脚本家は、自分のやってることが幸福の科学の映画と同じレベルなんだというのを思い出してほしいものである」と述べています。



(注1)以下におけるストーリーの具体的な箇所は、大部分、雑誌『シナリオ』11月号掲載のシナリオによっています。
 なお、本作は、原作者の福井晴敏氏と阪本順治監督とが共同で脚本を書いています。

(注2)戦争中にフィリピンから日本に移送された金塊。『日輪の遺産』では200兆円とされていたのに対し、本作では10兆円(なお、同映画についての拙ブログの「注2」及び「注7」を参照)。

(注3)『日輪の遺産』では、金塊は、多摩の弾薬庫の奥に秘密裏に隠されます。

(注4)「財団」の初代理事長は笹倉雅実(金塊を東京湾に沈めた憲兵の大尉)、現在はその子供の笹倉暢彦仲代達矢)が理事長(“M”とされる香取慎吾は、さらにその子供の笹倉暢人)。
 ただ実際には、ニューヨークにある投資銀行が実権を握っていて、その総帥がハロルドヴィンセント・ギャロ)。

(注5)当初は、越中島で金塊を海に沈めるシーンがあったり、真舟と石とが財団の旧ビルから地下道を通って地下鉄のトンネル内に走り抜けたりするシーンがあったりして、これはと思わせますが、その後の物語のメインの方は、本文の(3)で触れる渡まち子氏がいうように、その「セリフのほとんど説明調」で単調であり、さらには、観月ありさが出演しているにもかかわらずラブ・ロマンス的な面が殆どなく(下記の「注6」を参照)、また真舟や石らを追う者が遠藤ユ・ジテ)一人というのでは、派手なアクションシーンも期待できず、どうにもこうにも仕様がありません。

(注6)特に、笹倉暢彦(仲代達矢)と笹倉暢人(香取慎吾)とをつなげる役割を果たす役柄の観月ありさは、アクションシーンもなんとかこなしているものの、その役の必要性が今ひとつ腑に落ちず、添え物的な感じしかしませんでした。



 彼女が扮する高遠美由紀は、防衛省情報局に所属し、笹倉暢彦が運営する「財団」を守る役目があるようです(従って、間接的にハロルドにも使われていることにもなります)。ですが、笹倉一族の係累であり、笹倉暢人と以前いい関係があったこともあり、真舟や石と一緒の行動をとることになってしまいます。
 これでは、彼女の存在意味が薄れてしまうのは当然ではないでしょうか?

(注7)学士会館の喫茶ラウンジで、真舟と酒田寺島進)が、ある会社の幹部に「M資金」の話を持ちだしているところに刑事の北村石橋蓮司)が現れ、御用となってしまいます。

(注8)Wikipediaの「M資金」の項には、「降伏直前に旧軍が東京湾の越中島海底に隠匿していた、大量の貴金属地金(内訳は金1,200本・プラチナ300本・銀5000トン)が1946年4月6日に米軍によって発見された事件」と記載されていますが、事実なのでしょうか?事実としたらその根拠は何なのでしょうか?
 仮に事実としても、例えば金地金1,200本くらいではせいぜい60億円くらいでしょうから、映画でいう「10兆円」には程遠いものがあります。
 なお、劇場用パンフレットに掲載されている「M資金」に関する記事においても、この事件のことが記載されていますが、そこでは「ほぼ事実といえよう」と述べられていますが、根拠が示されていません。

(注9)開発途上国の子供にPDAを配布すること。
 でも、開発途上国出身者の石が、主人公・真舟に対し、「携帯の契約件数は、とっくに50億を超えているにもかかわらず、世界の7割の人が、いまだに電話もかけたことがない」と嘆く場面があり、これが途上国へ「M資金」を使ってPDAを贈与するという話の背景となっていますが、これこそは先進国目線で開発途上国を捉えている見方の典型ではないかという気がします。なにも、電話をかけられないなら人間じゃないということでは全くないのですから!経済規模が小さなところでは、電話をかける必要性などあまりないのではないでしょうか?
 なお、スマホではなくあえてPDAにした理由として、本庄は真舟に対し、「PDAのほうが頑丈。スマホじゃ、乾燥地帯やスコールの中ですぐに壊れてしまう」などと説明します。ただ、現在では、スマホやタブレットの流れの中に飲み込まれてしまって、単独のPDAなるものは簡単に手に入るのでしょうか?

(注10)笹倉暢人は、真舟に依頼する際に、「昭和20年8月15日、あの海に沈められた金塊すべてを盗んでほしい」と言っています。まだ海底に沈んだままであるように語っていて、すでに引き上げられてどこかの金庫に秘匿されているものではなさそうなのですが。

(注11)憲兵の笹倉大尉は、岸壁に運ばれてきた大量の金の延べ棒の中から一本を取り出して海に中に投げ入れますが、その際に「これは見せ金だ。誰かが見つければ、ここに金塊があったことの証明になる」と言います。そうであるなら、投げ入れられた金の延べ棒はその後発見されているに違いありませんから、少なくともそのことを映画の中で描き出すべきではないでしょうか?
 なお、このサイトの冒頭の記事によれば、阪本順治監督は『週刊新潮』において、「戦後、米軍が越中島海底から金・銀・プラチナなど大量の貴金属を発見するという実際にあった事件などを引用し、本作にも金塊を土運船に引き上げるシーンを入れています。最近偶然に知り合ったスキューバ用具の関係者から「越中島海底にまだ土運船が沈んでいる」という話を聞きました」と述べていますが、少なくとも、本作においては「金塊を土運船に引き上げるシーン」など描かれてはおりません!

(注12)笹倉暢人は、真舟に対し、「日銀や投資政策銀行に保管されている莫大な原資」と語っています。
 なお、「日本投資政策銀行」とは、実在の「日本政策投資銀行」(財務省所管の特殊会社で、政策金融機関)から連想された架空の銀行でしょう。

(注13)真舟が、ハバロフスクに駐在する鵠沼に対し、そのように語ります。

(注14)その資金を使って、イギリスの小さな石油会社の株の買い占めを行うことになります。

(注15)ただ、成功したとすると、「財団」の資金は底をついてしまったわけで、身動きが取れなくなってしまったとも考えられるところ、その理事長の笹倉暢彦は、息子の笹倉暢人のために、その資金を大きく動かしているようなのです(上記「注14」の株価の釣り上げに加勢しているようです)。
 尤も、10兆円を傘下のヘッジファンドを通じて市場で運用することにより、財団が運用可能な資金量はもっとずっと増えているのかもしれませんが(ただ、その場合には、笹倉暢人らが財団から盗み取ろうとする金額を10兆円に限定する意味がなくなってしまうのではないでしょうか?)。

(注16)一番わからないのは、「M資金」が、「日本のもの作り、人や企業を育て国益とするための投資ファンド」だったはずのところが、今や「カネでカネを買う投機ファンド」となってしまい本来の目的から外れたものになっているとして、「M資金」を自分たちで奪い取って、その資金を使って、PDAを開発途上国の子供たちに配布することによって、現在の市場の「ルール」を変換してしまおうと、笹倉暢人らが考えている点です。
 現在だって先進各国は、拙いやり方にせよ、様々の援助を開発途上国に対して行っているのであり、PDAの配布といってもその援助方法の一つに過ぎないのではないでしょうか(本作においては、これは単なる「援助」ではなく「投資」だとされていますが、これまでの政府の援助にしても単なる援助ではないはずです)?
 また、金融市場の投機ですが、仮に「財団」の10兆円が市場から引き上げられるとしても、残余の莫大な資金(例えば、膨大なオイル・マネーもあることですし、あのジョージ・ソロスは20兆円以上の資金を動かすことができたのではないでしょうか)で同じことはまた繰り返されるのではないでしょうか?



★★☆☆☆



象のロケット:人類資金
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R100

2013年10月29日 | 邦画(13年)
 『R100』を渋谷TOEIで見ました。

(1)松本人志監督の前作『さや侍』を見たこともあり、かなり評判が悪そうですが(注1)、映画館に行ってきました。

 本作では、主人公の片山大森南朋)が、クラブ「ボンデージ」に入会したところ、日常生活の思いもよらないところで、いろいろな「女王様」から酷い目に遭うようになります(注2)。しかし、彼はその強い刺激に酔いしれるのです。



 でも、勤務する家具店の中とか、果ては自宅にまで「女王様」がやってくるようになると、片山はとても耐え切れず、プレイの中止をクラブの方に申し入れます。ですが、最初の入会の決まりに「途中退会はできません」とあったことから(注3)、一向にプレイは中止されず、それどころか、………?

 どうしようもない酷い作品といった評価を目にすることもあり(注4)、心して見たのですが、わからない部分はいろいろあるものの(注5)、一応きちんとしたストーリーがあり、言われるほどむちゃくちゃな映画ではないのではないかと思いました(注6)。
 あとは、この映画を撮ることで監督は何を言おうとしているのかということでしょうが、まあ主人公が、ちゃんとしたところに勤めながらも虐められたいという欲求を持っている人物だというところから、経済的には先進国の仲間入りを果たしたものの自虐的な姿勢を拭い去れない戦後日本の姿をかたどっているのではないか、という気がします(注7)。
 全体として、前作の『さや侍』同様、まずまずの出来栄えではないかと思いました。

 主演の大森南朋は、『東京プレイボーイクラブ』で演じた勝利とは正反対の酷く困難な役柄ながら、実に上手くこなしていると思いました。

(2)本作について問題にするとしたら、下記(3)で触れる渡まち子氏が、「すべての不条理を一発で解決する“必殺技”」と言及している事柄(注8)をどう評価するのか、という点ではないかと思われます。
 この点について、一方で渡まち子氏は、「こんな“映画的”な仕掛けを施すようになったのは、監督としての進歩なのかもしれない」と評価しているところ、他方で、下記(3)で触れる相木悟氏は、「決定的にいただけないのが、劇中に仕組まれたメタ的な“ある構造”だ。挿入された当該シーンで訴えたかったこと、やりたかったことは分かる。でもほとんどの観客は、本シーンを監督の自己弁護、いわゆる卑怯な“言い訳”に解釈するであろう」と批判します。
 ただ、この記事によれば、松本監督自身が、「あえて監督の僕が言いますが、これはひきょうな映画でもある。めちゃくちゃにした責任を全部、僕がかぶりたくなかった。逆に言えば、本当にめちゃくちゃにするためには必要な仕掛けだったということです」と述べているのです。
 つまり、監督自身が、そう批判されることを百も承知でこの仕掛を施しているように考えられるのです。
 そうだとすれば、このブログの記事では、「松本人志監督がこの映画でメッセージをしたいのは、「映画にくる観客ってMでしょ?」だと断言する」と述べられていますが、それはそうかもしれないものの、さらに、水道橋博士が言うように、「このバカぶりを一般公開する映画のポジションそのものが世間及びに世界に対してM側(ボケ側=バカ側)であり、ツッコミ待ちを前提としている」とも考えられるのではないでしょうか?
 要すれば、松本監督自身が皆に酷評されてこっぴどく虐められたいのだとも考えられるところです。全国展開で公開したにもかかわらず、観客に入りが酷く悪いというのも、松本監督にとっては、本作で片山が女王様に突然足蹴にされるのと同じことなのかもしれません。
 でも、ひとたびそんなポジションをとってしまったら、松本監督の映画制作自体が否定されてしまうことになり、次回作の制作など考えられないことになってしまいます(既製の映画に「No」を叩きつけたところ、その規制の映画の中に自分自身の映画も入ってしまっている、という構図になりかねないのではないでしょうか)。
 さあ事態は今後どのように展開するのでしょうか?クマネズミとしては、次回作も大いに期待しているのですが。

(3)渡まち子氏は、「謎のSMクラブに入った男が不条理な体験をする異色作「R100」。ワケがわからない物語には、実は大きな仕掛けがある。おかげで過去作品の中で一番“映画らしい”かも」として40点をつけています。
 また、前田有一氏は、「万人向けどころか10人向けにもなっていないが、こういう映画は稀有であり、出てくる土壌まで否定してはなるまい。松本監督には、素人の批判意見に惑わさ れることなく、間違っても対抗心など抱くことなく、してやったりと心で笑ったうえで、ゴーイングマイウェイで次回作に取り掛かってほしい」として60点をつけています。
 さらに、相木悟氏は、「松本氏の根本意識に疑問は覚えるが、作品の発想自体は面白く、ここまで書いておいてなんだが、結果からいうと大いに楽しんだ」などと述べています。




(注1)例えば、この記事とかこの記事
 ただし、後者の「評価」で言及されているトロント映画祭に関しては、当初の「東スポ」の記事に右へ倣えした記事が溢れているところ、このブログ記事が言うように、その「東スポ」記事はたった一つの地元紙の評価だけを取り上げたにすぎず、この記事によれば、現地の評価は実際には様々のようです。
 なお、アメリカの映画情報サイトIndiewire による評価によれば、本作は「A-」とされています(このレビューは、劇場用パンフレットに翻訳が掲載されています)。

(注2)ここらあたりは、これまでの松本作品と類似の構造になっています(ただし、『しんぼる』は未見です)。
 すなわち、本作では、喫茶店で回し蹴りをする女王様(冨永愛)、寿司屋で寿司を叩き潰す女王様(佐藤江梨子)、家具店のトイレで鞭を振るう女王様(寺島しのぶ)、片山の妻(YOU)の病室に現れその声を真似る女王様(大地真央)、片山の自宅に出現して唾液を吐く女王様(渡辺直美)、それに丸呑みの女王様(片桐はいり)という女王様が次々に登場しますが、この構造は、『さや侍』における「若君を笑わせようとして次々に披露される20以上もの芸」に、さらには『大日本人』において「「締ルノ獣」、「跳ルノ獣」、「匂ウノ獣」、「睨ムノ獣」、「童ノ獣」といった怪獣が次々と登場して大佐藤と戦」うことに通じているものと考えられます〔『さや侍』についての拙エントリの(2)を参照〕。



(注3)クラブの支配人(松尾スズキ)が、入会にあたって説明するクラブのルールには、その他に、「日常生活の中で楽しんでもらうことになっている」「契約期間は1年間」などがあります。
 そして、片山は、このクラブのやっていることが不当なことだと警察に行って訴えますが、警察の担当者(松本人志)は、「自分の意思でそこへ行ったんですよね」「骨折などもないんですよね」「お互いに納得の上でということですよね」等と言って、片山の話は聞くものの、まともに取り合ってくれません。



(注4)上記「注1」に記載した記事のほか、例えばこのブログ記事

(注5)例えば、片山に「このままだと家族も巻き込まれて大変なことになるぞ」と忠告しに来た岸谷渡部篤郎)という男の役割がよくわかりません(「反社会勢力を撲滅する者」と自分で言いますが)。
 また、前田有一氏は、「その後の二人の驚愕のオチ、あれはいったいなんだろう。片桐はいり演じる女王様の存在は、あのラストシーンが見た目の(常識的な)意味とは異なるという伏線かもしれない」と述べています。ただ、「片桐はいり演じる女王様」は、片山が大切に思っている妻や義父(前田吟)を飲み込んで片山にダメージを与えるわけですから、他の女王様と類似の行動と思えるのですが、確かに「二人の驚愕のオチ」の解釈は難しいものがあります。
 あるいは、Sとなった片山とSそのもののCEOリンジー・ヘイワード)とが合体して、それこそ正真正銘のSを片山が身ごもったということになるのかもしれません〔クラブの支配人が、「「Mは、それが昂じるとSになる。そのSは、Sにひれ伏して巨大なSとなって身ごもる」(確かな内容ではありません)というような意味合いのことを言っていましたし〕。

(注6)相木悟氏が、「松本氏は、“映画という概念を壊す”心意気で、かつてないものをつくろうとしているのだろうが、これまでの作品も本作も大言のわりには、それほど革命的な代物ではない。むしろ、ありきたりである」と言うように。

(注7)前田有一氏が、「MなオヤジがいじめぬかれてSに変貌する様子は、主人公を「日本」に例えれば近年のネトウヨレイシスト化を茶化しているようにも見える。おそらく松本監督はああいう連中を何より嫌うだろう」云々と述べているように。
 とはいえ、その程度のことを言うのであれば、何もわざわざこうした映画にせずとも、もっと簡便な方法があるのではないかと思われるのですが(それに、すでに「“自虐”史観」などとさんざん論われてしまっていることですし)。

(注8)本作の途中で、この映画の試写を見ているプロデューサーら5人の男女が、映写室を出たり入ったりします。初めのうちは、試写室を出てくると、黙ってお互いに顔を見合わせるばかりですが、最後の方になると、「あのBondageという組織の目的が全然わからない」とか、「知らない人のモノマネができるって何なの?」、「100歳越えないとこの映画を理解できないと監督が言っているそうだが、100歳を越える人がこの世の中に何人いると思っているの?」などと批判を口にするようになります。本作に対し評論家などから投げつけられるであろう批判を先取りしている作りになっています。



★★★☆☆




象のロケット:R100
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