映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

マンチェスター・バイ・ザ・シー

2017年05月30日 | 洋画(17年)
 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)アカデミー賞の主演男優賞と脚本賞を取った作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」(注2)という町の漁港から船が、外洋に向かって出ていきます。操舵室にはジョー・チャンドラーカイル・チャンドラー)がいて、舵を操っています。また、船尾の方には、ジョーの弟のリー・チャンドラーケイシー・アフレック)と、ジョーの一人息子のパトリック(幼い頃:ベン・オブライエン)がいて、ふざけ合ったりしています。



 リーが、「地図のように全体を見ていけば、物事がうまく進む」と言うと、パトリックが「地図を読めるの?」と尋ねます。リーは、「そうだ。お前のパパは全く良いやつだが、そこがわかっていない」と答えます。それから、リーが、「パパと俺のどちらかを選べといったら、どちらを選ぶ?」と尋ねると、パトリックは「パパ」と答えます。

 次の場面は、真冬で雪が降っている中、リーがアパートの周囲の雪かきをしています。
 場所は、ボストン郊外(注3)。
 リーはこのアパートの「便利屋」といったところで、そのメンテに関し様々なことをしています。雪かきの他にも、部屋の天井に取り付けられている扇風機の修理とか、ゴミ出しなどなど。

 例えば、浴室の水漏れのことで、リーはオルソン夫人(ミッシー・ヤガー)の部屋にいます。
 オルソン夫人が「何回直せばいいの?」と怒るものですから、リーは「配管工を呼びます」と答えます。そして、浴槽を見て「さっき、シャワーを使いましたか?」と尋ねます。彼女がが「使った」と答えると、リーは「シャワーを使ってみて、水が階下に漏れるかどうか見てみましょう」と言います。すると、オルソン夫人は、「私がシャワーを使っている最中に、漏れている箇所を探すの?」「よくもそんなことが言えるのね!」「いますぐ出ていかないと警察を呼ぶわよ」と猛烈に怒り出します。

 その後で、リーは上司(ステファン・ヘンダーソン)から、「どうして無礼な口の利き方をする?挨拶一つもない」「とにかく、オルソン夫人に謝ってくれ」と注意されますが、リーが「遅刻もせずに、アパート4棟の面倒を何から何までみてる」と反論すると、上司は「わかった、わかった、自分で話すよ」と矛を収めます。

 また、バーで独りで酒を飲んでいる際、リーは、前のカウンターに座っていた2人の客に近づいて、「前に会ったことがあったか?」と尋ね、その客が「いいや」と答えると、「どうして俺のことを見ていたんだ」と難癖をつけて殴りかかって喧嘩となります。

 これが本作の始めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開していくのでしょう、………?

 本作は、ボストンで働く主人公は、故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーで暮らしている兄の急死を聞いて、急ぎ戻りはするものの、兄の遺児の後見人になるのを嫌がったり、早くその街を出たがったりします。というのも、主人公は、過去に、その街である重大事を引き起こしていたからであって、云々という物語。
 最初のうちは、回想シーンにいきなり移ったりすることが多く、筋をつかむのに骨が折れましたが、話がわかってくると深く引き込まれてしまい、主人公の内面が次第にほぐれてきて、兄の遺児らとの関係も変化する最後の方になると、深く心を動かされました。さすが主演男優賞と脚本賞を獲得した作品だな、と納得したところです(注4)。

(2)上記(1)で触れたバーでの喧嘩の後のこと、リーがアパートの周囲の雪掻きをしていると、携帯に「ジョーが危篤」という連絡が入ります。リーは「今すぐそちらに向かう。1時間半で着く」と答え、ボストンからマンチェスター・バイ・ザ・シーへ車で向かいます。

 この物語も、ある意味で、『カフェ・ソサエティ』についての拙エントリの(2)で触れた「二都物語」といえるかもしれません。
 ただ、本作は、ディケンズの『二都物語』のようにパリとロンドンを巡る歴史絵巻ではありませんし、『カフェ・ソサエティ』のようにロサンゼルス(ハリウッド)やニューヨークといった都市の様子を描き出すことを狙いとするものでもありません。なによりも、ボストンは、人口60万人を超える大都市であるにしても、マンチェスター・バイ・ザ・シーは、人口5千人ほどの小さな町なのですし。
 それでも、本作の主人公のリーは、何らかの理由で故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーを離れてボストンで暮らしているものの、兄・ジョーの急死で急遽故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに出向き、そしてまたボストンに戻ることになるのです。
 それに、ボストンでのリーの暮らしぶりとか、マンチェスター・バイ・ザ・シーでの出来事といったものが映画の中でじっくりと描き出されてもいるので、「二都物語」的な感じがするところです。

 加えて、本作では、リーを巡る人間関係で、ことさら「二」が強調されているようにも見えます。
 本作で中心的に描かれるのは、リーと、兄・ジョーの息子のパトリックルーカス・ヘッジス)の二人の関係です(注5)。



 また、その背後にあるのは、リーと兄・ジョーと二人の関係(注6)。



 さらには、リーとその元妻のランディミシェル・ウィリアムズ)との二人の関係もあるでしょう(注7)。

 リーにしても、マンチェスター・バイ・ザ・シーでの出来事の前までは、上記(1)の冒頭で見るように兄・ジョーやその子供のパトリックと一緒に遊んだり、友人を大勢自宅に招いたりして(注8)、ごく普通に振る舞っていました。ですが、その重大事が起こった後は、自分の殻に閉じ込もってしまい、ボストンにいる時は、仕事で必要最小限の付き合いをするだけですし、マンチェスター・バイ・ザ・シーに戻った時も、わずかの人と1対1で話をするだけでした(注9)。

 もう少し本作について言うと、映画で描き出される場面の時点が、最初のうちはなかなか掴み難い感じがしました。
 例えば、上記(1)の冒頭で記した場面と、次のリーが雪掻きをする現在時点の場面とでは、時点が8年ほど違っているようですが(注10)、突然画面が変わるので、つながりがよくわかりません。
 でも、途中から、なぜリーがマンチェスター・バイ・ザ・シーを離れざるをえなかったのかがわかってくると、最初の場面の意味合いも理解できるようになり、逆に、これはこれで脚本構成(あるいは編集)の一つの巧みなやり方なのだなと思えてきます。

 また、本作の山場のところで流れる曲名は何かなとネットで調べてみましたら、レモ・ジャゾット作曲の『アルビノーニのアダージョ』(1958年)であることがわかりました。
 メロディそのものはよく耳にするものの、名前まで知らなかったのですが、さらにWikipediaによれば、「トマゾ・アルビノーニの『ソナタ ト短調』の断片に基づく編曲と推測され」てきたが、「この作品はジャゾット独自の作品であり、原作となるアルビノーニの素材はまったく含まれていなかった」とのことで、驚きました。
 こうした曰くのある曲をこの場面に使うことに何か意味が込められているのかなとも、見る者に考えさせるところです(注11)。

 なお、本作でアカデミー賞の主演男優賞を獲得したケイシー・アフレックについては、クマネズミはこれまで数少ない作品しか見ておりませんが、本作における演技は、この人以外にありえないと感じさせるほど素晴らしいと思いました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「ボソボソと口ごもりながら話し、視線を落として猫背で歩くリーは、まるで自分で自分を罰しているかのように、影が薄い主人公だ。最小限のセリフと、表情や仕草だけでリーの絶望を演じ切ったケイシー・アフレックの抑えた演技が素晴らしい」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「ケネス・ロナーガン監督の長編3作目だが、とてもそうは思えないほどドラマの組み立てがうまい。とくに年齢なりに人生経験を組み立ててきた大人が見れば、この映画の良さはすぐにわかる」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「アカデミー賞に相応(ふさわ)しい緊密なシナリオを、脚本家自身が堅実な演出を積みかさねて見応え十分な作品に仕上げた。とくに素晴らしいのは役者たちだ」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 稲垣都々世氏は、「声を押し殺して泣いた。人が生きていくとはこういうこと。もがき、苦しみながらも生きようとすることの重みが、静かに心に染み入ってくる」と述べています。
 藤原帰一氏は、「演出は上手と言えませんが、ここまで俳優と脚本がいいとそれだけで映画になってしまう。「ムーンライト」と並んで、アメリカ映画における人間描写の深まりを感じさせる作品です」と述べています。



(注1)監督・脚本は、ケネス・ロナーガン
 原題は「Manchester by the Sea」。

 出演者の内、最近では、ケイシー・アフレックは『インターステラー』(主人公の息子役)や『キラー・インサイド・ミー』、ミシェル・ウィリアムズは『テイク・ディス・ワルツ』、カイル・チャンドラーは『キャロル』で、それぞれ見ました。

(注2)ほとんど情報を持たずに映画館に行ったものですから、てっきり、著名なサッカークラブがあり、先般テロ事件(5月22日)が起きた大都市の「マンチェスター」を巡るイギリス映画なのではと思っていましたが、見てしばらくしたら、マンチェスター・バイ・ザ・シーというのは、アメリカ東海岸にあるボストン近くの漁港の町(ボストンの北東)の名前であり、本作もれっきとしたアメリカ映画であることがわかり、驚きました。

(注3)時点は現在時点。なお、下記「注9」をご覧ください。

(注4)アカデミー賞の作品賞には『ムーンライト』が選ばれましたが、同作も確かに優れているとはいえ、クマネズミに投票権があるとしたら、「作品賞」としては本作を推したいところです。

(注5)下記「注6」に記すように、リーはパトリックの後見人に指名され、弁護士から、ボストンを引き払ってマンチェスター・バイ・ザ・シーの方に住居を移すように求められます。ですが、リーはそれを受け入れることが出来ず、兄・ジョーの残した財産を処分して、パトリックについては、別の州にいる親族のもとで面倒を見てもらうことを考えます。これに対して、パトリックは、自分の生みの母・エリーズグレッチェン・モル)の元で暮らそうとします(エリーズは、アルコール依存症で、ジョーと別れていました)。しかしながら、これもうまく行かず、結局、パトリックは、リーの取り計らいによって、ジョーの親友のジョージC・J・ウィルソン)の養子となって、そこで暮らすことになります。
 パトリックの面倒を誰が見るのかという問題に対するリーの取り組み方が、最初と最後の方ではかなり異なってきますが、その違いにはリーの心のほぐれが感じられるところです。

(注6)兄のジョー(「うっ血性心不全」のため、余命が5~10年だと医者から言われていました)は、その遺言書において、リーがマンチェスター・バイ・ザ・シーで引き起こした事件を知りながらも(むしろ、知っていたがために)、リーを自分の息子・パトリックの後見人に指名していました。そうすることによって、ジョーは、リーの立ち直りを期待したのかもしれません。

(注7)偶然出会ったリーとランディとの会話のシーンは、とても感動的です(ランディは友人と一緒だったのですが、その友人は2人で話せるようにその場を離れます)。



 ランディが、「あの時、心が壊れたの(my heart was broken)。ずっと壊れたまま。あなたの心も壊れた。あなたに酷いことをした。ごめんなさい。愛してるわ。でも手遅れね。死なないで」と言うと、リーは、「俺は大丈夫。話せてよかった。もう何も思っていない」と応じるのです。

(注8)家の地下室で、リーとその仲間たちが、酒を飲みながら卓球に興じたりして、皆が大声で喚き散らしていたために、ランディから「うるさい、静かにして!」とたしなめられるほどでした(それで、皆を帰した後、飲み足りないと、リーはアルコールを買いにコンビニまで歩いていったのですが、………)。

(注9)「二」についてもう少し言えば、例えば、パトリックの彼女はシルヴィー(カーラ・ヘイワード)とサンディー(アンナ・バリシニコフ)の二人いますし、サンディーの母親・ジル(ヘザー・バーンズ)とリーは、その家で二人で向かい合わせに座ったりします(尤も、リーが世間話もしない硬い態度をとるので、ジルの方で音を上げてしまいますが)。

(注10)IMDbのこの記事(Synopsis)によれば、本作の現在時点は、冒頭のシーンから「roughly eight years」経過しているとのこと。すなわち、本作の冒頭シーンにおけるパトリックは小学校に通っていましたが、本作の現時点では高校の最上級生のようです(ラストの方で、リーが「ボストンで、予備の部屋の付いたアパートを探している。お前がボストンの大学に通うかもしれないから」と言うと、パトリックは「大学に進学しない」と答え、それに対しリーは「それじゃあ物置に使おう」と応じます)。

(注11)逆に、アチコチの作品で使われている通俗的な曲なので(例えば、この記事をご覧ください)、本作の山場の雰囲気が損なわれてしまったのではないか、との意見もあるようです(例えば、この記事)。

(注12)元々はマット・デイモンが自分で監督・主演をやるつもりだったところ、スケジュール調整がうまく行かずに、ケイシー・アフレックに譲ったとのこと(この記事)。ケイシー・アフレックが演じているところをマット・デイモンに置き換えてみたらどんな感じになるかを想像してみるのも、楽しいかもしれません(クマネズミには、とても憎めそうにない顔つきをしているマット・デイモンに、他人を拒絶しているリーの雰囲気を、ケイシー・アフレックほど巧みに演じられるとは思えないのですが)。



★★★★★☆


象のロケット:マンチェスター・バイ・ザ・シー


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カフェ・ソサエティ

2017年05月26日 | 洋画(17年)
 『カフェ・ソサエティ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)ウディ・アレン監督の最新作ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、プール付きの豪邸におけるパーティ-の模様が映し出されます。
 場所はハリウッド・ヒルズにあるフィル・スターンスティーヴ・カレル)の邸宅、時代は1930年代後半。
 フィルは大物エージェント。人々が彼の周りに集まっています。
 そこに、ニューヨークで暮らすフィルの姉・ローズジーニー・バーリン)から電話がかかってきます。
 「ローズよ」「誰?」「あんたの姉よ」「ここの電話番号を知らないはずだが?」「メイドに聞いた」「要件は?」「ボビーがハリウッドに行く。仕事を見つけてやって」「ボビー?」「ボビーは私の息子。あんたの甥。あんたしか頼れないの」「力になれるとは思わないが」といった会話がローズとフィルとの間で交わされます。

 ボビージェシー・アイゼンバーグ)の家族について説明が入ります。
 “父・マーティケン・ストット)は貧弱な宝石商を営む。父と母・ローズはよく喧嘩をした。特に、フィルのことについて。
 姉のエヴェリンサリ・レニック)は、教師のレナードスティーブン・クンケン)と結婚していたが、レナードは共産主義者。
 兄のベンコリー・ストール)は、レストランに勤めていることになっていたものの、ギャングであり裏稼業で稼いでいた。”

 次の場面では、予め約束した日に、ボビーは、叔父のフィルの事務所に行き、秘書(ヴォニークリステン・スチュワート)に取り次いでくれるよう依頼すると、「会議中なのでお待ちを」と言われてしまいます。
 戻ってきた秘書が、「金曜日にまた来られますか」と尋ねるので、ボビーは「今から3日後ですね」と念を押して、その場を立ち去ります。そして、3日後にボビーが出向くと、ヴォニーは「ごめんなさい、フィルはアカプルコに行っています」と言うのです。

 業を煮やしたボビーは、母親・ローズに電話して「3週間たっても会えない」と嘆くと、兄のベンが「面白い街だぞ。電話番号を教えてやるから、女を紹介してもらえ。20ドルだ」と言います。ボビーは、「お金を出して寝ても、楽しくない」と応じます。
 父親・マーティが「フィルは冷たいやつだ」と言うと、母親・ローズは「フィルは忙しいのよ」と答えたりします。

 ここで、ベンとその仲間が、車のトランクから死体を引きずり出して穴に落とし、その上から生コンクリートをかけてコンクリート詰めにするシーンが挿入されます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作の時代は1930年代。ニューヨークからハリウッドにやって来た主人公の青年が、そこで美しい女性と出会い恋に目覚めますが、結局うまく行かなくなり、再びニューヨークに戻って大成功するものの、……というお話。黄金時代の1930年代のハリウッドとニューヨークの有様が二都物語のように映し出され、それを背景に甘くも悲しいラブストーリーが綴られていきます。相変わらずポンポン勢いの良い会話が飛び交い、またオールドファッションのジャズがふんだんに流れて、いかにもウディ・アレン監督の作品だなという感じがして、まずまず楽しめました。

(2)ウディ・アレンのこれまでの作品では、いろいろな都市が舞台となっていますが(注2)、本作のように、一つの作品の中で二つの都市を取り上げている映画は、余り見かけないように思います(尤も、クマネズミが彼の作品をことさらに見るようになったのは、せいぜい2006年の『マッチポイント』あたりからにすぎず、ごくごく狭い範囲に過ぎませんが)。
 それでも、『ブルージャスミン』(2014年)では、主人公のジャスミンケイト・ブランシェット)のニューヨークにおける豪奢なセレブぶりと、サンフランシスコにおける零落した生活ぶりとが対比的に描かれています。ただ、その作品の場合、ニューヨークのシーンは、ジャスミンの回想の中で捉え返されているに過ぎません。
 これに対して、本作においては、まず、ボビーのロサンゼルス(ハリウッド)での暮らしぶりが描かれた後に、ニューヨークでの物語が映し出されるのです。
 とはいえ、本作の場合、フランス大革命期のロンドンとパリを舞台に描かれているディケンズの『二都物語』ほど波乱万丈の物語というわけではありません。それでも、ロサンゼルス(ハリウッド)とニューヨークという二つの都市がほぼ同じウエイトで描かれています。

 そして、この2つの都市をつなぐのが、本作の主人公のボビーと、彼の愛するヴェロニカ。
 と言っても、ヴェロニカは、実際には2人の女性なのです。
 ハリウッド時代にボビーが付き合ったヴェロニカは、ヴォニーという愛称で呼ばれています。
 そのヴォニーは、ある男とボビーの二股をかけていて、最後にボビーは振られてしまいます(注3)。



 これに対して、ニューヨークでボビーが出会ったヴェロニカブレイク・ライブリー)は(注4)、ボビーとの間で子供ができると家庭に入り貞淑な暮らしぶりを見せるのです。



 あるいは、ヴォニーとヴェロニカで、ハリウッドとニューヨークを象徴させているのかもしれません。

 他方で、ボビーは、ハリウッドでは、フィルの事務所で雑用をこなしているにすぎませんでしたが(注5)、ニューヨークに戻ってからは、支配人となったクラブ「レ・トロピカ」が大当たりをして、一躍名士になります。



 図式的に言えば、ヴォニーの持っているハリウッド性(注6)といったものが、ボビーのニューヨーク性(注7)とぶつかりあってバランスが取れずに2人の関係は崩れてしまいますが、反対に、優れたニューヨーク性を持つボビーは、ハリウッド性を前面に出さないヴェロニカと釣り合ったのでしょう、その関係は保たれて子供までできるのです(注8)。

 さらに言えば、叔父のフィルと兄のベンも、この図式に載せることができるかもしれません
 まず、この映画に登場するフィルは、ハリウッドでエイジェンシーとして水を得た魚のごとく活躍しています(注9)。



 また、ギャングのベンは、本作の全体のトーンからすると、なんだか酷く異質な感じがするとはいえ(注10)、でも、ニューヨークに戻ってきたボビーを援助する必要不可欠の登場人物でもあるのです(注11)。

 あるいは、このハリウッド性やニューヨーク性といったものは、ウディ・アレン監督の中にある2つの傾向なのかもしれません。
 本作のような二都物語を制作することによって、80歳を超えているウディ・アレン監督は、自分というものを観客にさらけ出しているようにも思えます(注12)。

(3)渡まち子氏は、「本作はパンチ不足で物足りなさが残るが、シャネルの華やかな衣装と、アレンと初コラボの名撮影監督ビットリオ・ストラーロが映し出す魔法のような光が、人生のほろ苦さを雄弁に語っている」として60点を付けています。
 樋口尚文氏は、「これは辛うじてその残り香を知るアレンが、むちゃで活気ある都市の黄金期を礼賛するファンタジーなのだ」として★3.5(★4つのうち)を付けています。
 ロサンゼルス映画批評家協会会長のクラウディア・プイグ氏は、「ストーリーの軽妙さは魅惑的に見えて、新鮮味を欠く。ウディ・アレン監督の初期作品にありがちな感じを与えるため、熱烈ファンは魅了されるだろうけれど」として★2つ(★4つのうち)を付けています。
 渡辺祥子氏は、「片や80歳過ぎの監督ウディ、片やもうすぐ80歳の撮影監督ヴィットリオ、というベテラン映画人が楽しみながら作ったように見える人間臭い世界」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「シニカルなユーモアが利いたセリフとジャズの音色は、安定のアレン節。人生の選択をめぐる展開は甘さと苦さのブレンドが絶妙で、どこか中ぶらりんなラストも人生の滋味を感じさせる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『教授のおかしな妄想殺人』などのウディ・アレン

 出演者の内、最近では、ジェシー・アイゼンバーグは『グランド・イリュージョン』、クリステン・スチュアートは『アクトレス 女たちの舞台』、スティーヴ・カレルは『フォックスキャッチャー』、ブレイク・ライブリーは『ロスト・バケーション』、コリー・ストールは『ブラック・スキャンダル』、パーカー・ポージーは『教授のおかしな妄想殺人』で、それぞれ見ました。

(注2)アメリカの諸都市のみならず、ロンドン、パリからバルセロナ、ローマといったところまで。

(注3)ヴォニーについてモット述べれば、ボビーがハリウッドに来た最初の頃、ヴォニーは、フィルに命じられて、著名な俳優たち(スペンサー・トレイシー、ジェーン・クロフォード、ロバート・テイラーなど)の豪邸をアチコチ案内します。その際、ボビーに「この内のどれに住みたい?」と尋ねられると、ヴォニーは、「ビバリーヒルズは嫌い」と答え、さらに「女優志望では?」と問われても、「馬鹿な夢だとすぐに気づいた」と応じます。でも、フィルと結婚して、ニューヨークのボビーの店にやってきた時は、ハリウッド俳優たちのゴシップについて、自分からドンドン喋る女になっていました(女優にならなくとも、ヴォニーのハリウッド性が満開です)。

(注4)ヴェロニカは、市の広報係に勤務していて、ボビーと出会った時は離婚したばかりで、ボビーが午前1時半にもかかわらず誘うと応じたのです。その際、ジャズを演奏しているバーに行くのですが、ヴェロニカは、「ユダヤ人は異国的だ」とか「ユダヤ人は強引だ」などと言ったりします(ヴェロニカも、ボビーを憎からず思ったのでしょう)。

(注5)ボビーは、しばらくすると、ストーリーアナリストというポストに昇任しています。 ですが、結局ボビーは、「この街(ハリウッド)には失望した。結婚して、ニューヨークに行って、グリニッジ・ヴィレッジに住もう」とヴォニーに言うことになります。ボビーには、ハリウッド性の持ち合わせがあまりなかったのでしょう。

(注6)あるいは、人と人との交流から立ち上る祝祭性とでもいった感じでしょうか。

(注7)もしかしたら、企業を大きくしていく事業性とでもいった感じでしょうか。

(注8)ただ、ニューヨークのボビーの店にハリウッドのヴォニーが現れると、ボビーとヴェロニカの関係は影響を受けるでしょう。
 でも、ボビーとヴォニーは、一時的に昔のよりを戻すものの、ハリウッド性を持つヴォニーと、ニューヨーク性を持つボビーとでは、やっぱりうまい関係を持つことは出来ないのでしょう。結局、別々の場所で年末のカウントダウンを迎えることになってしまいます。

(注9)フィルについては、その仕事内容からすると、『ヘイル、シーザー!』に登場する“何でも屋”のマニックスジェシュ・ブローリン)に雰囲気が類似しているように思えました。
 尤も、フィルは、自分の抱える俳優を映画会社とか監督などに売り込むのが商売でしょうし、マニックスの方は、映画会社の中で起こる様々な問題を解決することが商売なのでしょう。

(注10)ベンについては、ギャングとして、コンクリート詰め殺人を仲間と行うシーンが何度か映し出されるのです。

(注11)ベンは、ギャングとして力を持っていたために資力があり、ボビーがハリウッドにいる時には仕送りをしたり、夢破れてニューヨークに戻ってきた際には、ボビーを助けるべく、自分が経営するナイトクラブの支配人に据えたりします(ボビーの家族は、しがない宝石商である父親の上がりでカツカツに生活しているにすぎず、戻ってきたボビーを援助することなど出来ない相談でした)。

(注12)もう一つ、本作に見られるのは、ウディ・アレン監督がユダヤ人であることのこだわりでしょう。
 例えば、ボビーは、ハリウッドにやってきたばかりの時、ベンから教わった電話番号を使って女を呼び出したのですが、その女の名前が「シャーリー」であるとわかると、「ユダヤ人の娼婦なんて」と言って、金を渡すものの寝ないですぐに帰してしまいます。
 また、ベンは、捕まって死刑の判決を受け、キリスト教に改宗して処刑されます。そして、そのことを聞いた母親・ローズは、「殺人と改宗なんて、何か悪いこと私がしたっていうの?その2つではどっちが悪いの?」と言いますが、父親・マーティは、「俺は、神の沈黙に抗議する。ずっと祈ってきたにもかかわらず、答えがないんだ」「ユダヤ教には来世がないのだ」などと言います。ここらあたりは、ウディ・アレン監督のユダヤ教に対する否定的な見方が表されているのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:カフェ・ソサエティ

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夜空はいつでも最高密度の青色だ

2017年05月24日 | 邦画(17年)
 『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を渋谷ユーロスペースで見ました。

(1)これまでその作品を色々見てきた石井裕也監督が制作しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、タイトルが流れた後、ビルの夜景。次いで、早朝の皇居周辺のジョギング風景。道路の信号とか行き交う自動車とかが映し出されて、最後に、とあるバス停。
 バスを待っている人たちがみな黙々とスマホを操作しています。
 空には飛行船が浮かんでいます。

 次は、主人公の看護師・美香石橋静河)が勤務する病院。
 美香が、「失礼します」と言って病室に入り、ベッドを片付けたりカーテンを引いたりしていると、別のベッドにいた患者が、「まだ37だって。小さい子を残して可哀想に」と声をかけます。
 美香は死者の顔に白い布をかけ、遺体が病室から運び出されます。
 付き添っていた遺族の男が「どうもお世話になりました」と頭を下げます。
 手を合わせ、遺体が運び出されるのを見守っていた美香は、「大丈夫、すぐに忘れるから」と呟きます。

 夕方、美香は、駐輪所に置いてあった自転車に乗って帰宅します。
 看護師寮の自分の部屋で、美香は、爪にマニキュアを塗りながら、「どうもお世話になりました」と口ずさみます。

 夜、美香は、自転車に乗って渋谷に向かいます。
 「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ 塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない」(注2)との美香の声。
 自転車は坂を降りていき、とある場所で停まり、美香は鍵をかけてビルの中に入っていきます。「夜空はいつでも最高密度の青色だ」(注2)との美香の声。

 場面はガールズバーの中。
 バイトでバーテンダーをしている美香は、水割りを作ります。
 「君がかわいそうだと思っている君自身を 誰も愛さない間 君はきっと世界を嫌いでいい そしてだからこそ この星に 恋愛なんてものはない」(注2)との美香の声。
 美香は、酒を出します。
 客の男が「君は踊らないの?」と尋ねると、美香は「いや、…」と笑って誤魔化します。

 控室では、店の女たちがたむろしていますが、美香は壁に寄りかかって息を吐いています。

 次の場面はビルの建設工事現場。
 そこでは、慎二(池松壮亮)が、仲間の智之松田龍平)、岩下田中哲司)、フィリピン人のアンドレスポール・マグサリン)らと一緒に、日雇い労働者として資材の運搬をしています。



 こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、物語は、これからどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、現代詩人の最果タヒの詩集をドラマ化したもの。といっても、ところどころにその詩集の言葉が引用されているだけで、全体は若い男女のラブストーリーとなっていて、決して映画が難解というわけではありません。むしろ、出演するのが、今が旬の池谷壮亮とか松田龍平、それに『PARKS パークス』に出演した石橋静河といった錚々たる若手・中堅俳優であり、社会問題をいくつも取り上げすぎているきらいがあるとはいえ、現代の若者の姿がうまく捉えられているように思えました。

(2)本作を制作した石井裕也監督の作品については、初期の頃の無類の面白さが、商業映画に進出するようになってから低減傾向にあるかなと密かに思っていたところ(注3)、前作の『バンクーバーの朝日』が底で、本作でかなり持ち直したかな、という感じです。
 本作では、現代詩を原作とするところが大層斬新ですし(注4)、飛行船が空を遊弋したり(注5)、アニメーションのシーン(注6)が突如飛び出すなど、フンタジックな面も色々取り入れられています。
 単なる素人の見解に過ぎませんが、石井監督にあっては、従来の日本の商業映画の路線にズボッと浸かりこんでしまわずに、いろいろ実験的な手法を試みてもらって、邦画の殻を打ち破って貰いたいものです。

 さて、本作の現代詩ですが、大体のところ、現代社会を浮き彫りにするための材料の一つとなっていて、映画の中にまで深く入り込んではいないのではないかという感じもしてしまいます(注7)。

 それは、本作で取り上げられている様々の社会問題についても言えそうです。
 例えば、慎二の隣人に住む老人(大西力)の問題。
 その老人から、慎二は文庫本を借りたりして付き合いはあるものの、ある時、同じアパートに住む主婦らが集まって、「隣の部屋からなんか腐った臭がする」と話しているのを耳にした慎二が、部屋の中に飛び込むと、その老人が熱中症で、本の上に突っ伏したまま亡くなっているのを発見するのです。
 ここでは、一人住まいの老人の熱中症に依る孤独死という(注8)、近年よく問題視される事件が取り上げられています。
 でも、部屋に踏み込んだ慎二は、「やっぱり」と呟くだけで、この問題に対しあくまでも傍観者然としています。

 また、「携帯9,700円、ガス代3,261円、電気2,386円、家賃65,000円、シリア、テロリズム、食費25,000円、ガールズバー18,000円、震災、トモユキが死んだ、イラクで56人死んだ、薬害エイズ訴訟、制汗スプレー 750円、安保法案、少子高齢化…、会いたい」という文字が空中に浮かぶところ、ここには、慎二たちの経済問題もさることながら(注9)、政治的・社会的問題までも列挙されています。
 でも、これらについても、慎二は眺めるだけであり、何か行動に移そうとするわけではありません。
 本作では、社会問題が色々取り上げられているとはいえ、総じて、現代の風俗といった感じで描かれているように見えます。

 しかしながら、本作においては、美香は最果タヒの詩に導かれて(注11)、慎二は片目で見える世界(注10)を一生懸命見ようとして、2人で手を取り合いながら、東京という街をアチコチ歩き回っているように思えます。まるで、空に浮かぶ飛行船から地上を見るように(注12)。

 要するに、本作では、経済問題とか社会問題とかそれ自体を描き出すことが主眼ではないようです。むしろ、それらのものから、さらには最果タヒの詩から立ち上る現代の東京が持っている臭いを身にまといながら生きている美香と慎二のラブストーリーが描き出されているというべきかもしれません。



 そのラブストーリーですが、この広い東京で何度も慎二と美香とが出会ったりするものの(注13)、恋人になった智之の突然死(注14)を美香が引きずっていたりして、なかなかしっくり行きません。なにしろ、慎二が「俺にできることがあれば、何でも言ってよ」と言うと、美香が「死ねばいいのに」と言うくらいなのです(注15)。
 でも、次第にほぐれてきて、ついには、美香が「私って、ほんと信じられないくらいダメな人間だよ」と言うと、慎二が「そうか、俺と一緒だ」と応じるまでになるのです。

 こうして、ドラマティックなラブストーリーとは程遠い2人の関係が綴られ、さらには石井裕也監督のお得意の“ダメ人間”まで飛び出すとはいえ、それだからこそ、今の東京ならばもしかしたらあり得るかもしれないと見ている者に思わせ、ラストの方の美香の「朝起きたらお早うって言おう。御飯食べると前はいただきますって言おう」「そういうことだよね」との言葉も、十分説得力があるようにクマネズミには思えました。

 なお、主演の石橋静河は、『PARKS パークス』では物静かな役柄で、余り目立ちませんでしたが、本作では、なかなか意志が強いながらも次第に心がほぐれていくという難しい役柄を、力いっぱい演じていて、今後が期待されます。



 また、共演の池松壮亮は、片目が見えず、また喋りだしたら止まらない癖があるという役柄を、いつものようにとても安定した演技でこなしています。



(3)渡まち子氏は、「安定した上手さをみせる若き演技派の池松壮亮と、石橋凌と原田美枝子の次女で、演技経験がほとんどない石橋静可という不思議な組み合わせが、孤独な男女のぎこちなさにフィットしていた」として60点を付けています。
 山根貞男氏は、「描かれる恋愛も、描く映画も、不思議なリアルさに満ちているのである。それが作品の流れを魅力的なものにし、東京の今を新鮮な姿で浮かび上がらせる」と述べています。
 佐藤久理子氏は、「もはや都会に生きることの鬱屈というのは、世界のどこでも基本的にはあまり変わらないのではないか、ということを感じさせる点で、本作は近視眼的な日本映画とは隔たる視野の広さをそなえている」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『バンクーバーの朝日』などの石井裕也
 原作は、最果タヒ氏の詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(リトル・モア)。

 出演者の内、最近では、石橋静河は『PARKS パークス』、池松壮亮は『だれかの木琴』、松田龍平は『ぼくのおじさん』、田中哲司は『悪夢ちゃん The 夢ovie』、幼い時分の美香の母親役の市川実日子は『シン・ゴジラ』、三浦貴大は『追憶』、野嵜好美は『ロマンス』で、それぞれ見ました。

(注2)最果タヒの「青色の詩」より。
「都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。塗った爪の色を、君の体の内側に探したってみつかりやしない。夜空はいつでも最高密度の青色だ。君がかわいそうだと思っている君自身を、 誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい。そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない」(2015年12月27日のツイッターで投稿された詩)。

(注3)とはいえ、商業映画デビュー作の『川の底からこんにちは』(2009年)は、素晴らしい出来栄えなのですが。

(注4)上記「注2」で触れている詩の他にも、例えば、「彫刻刀の詩」も引用されます。
 「きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。みんながそれで、安心してしまう。水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。会わなくても、どこかで、息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、きみが泣いているか、絶望か、そんなことは関係がない、きみがどこかにいる、心臓をならしている、それだけで、みんな、元気そうだと安心をする。お元気ですか、生きていますか。きみの孤独を、かたどるやさしさ」(2014年10月20日のツイッターで投稿された詩。なお、最後の「きみの孤独を、かたどるやさしさ」は、使われていなかったようですが)。

(注5)『ガール・スパークス』(2007年)における空を飛ぶロケットを思い出させます(尤も、そのロケットは、本作の飛行船のように悠然と飛んではおりませんでしたが)。

(注6)美香と慎二がバス停でバスを待っている時に、空に飛行船を見て、慎二が「何か途轍もなく良いことが起こるかもしれない」と言うシーンの後、野良犬が車で運ばれ、子犬にガスがかけられ、燃やされ、煙突から煙が出て、灰が東京のアチコチに降りかかるというシーンが、アニメーションで描かれます。
 なお、上記「注5」で触れたロケットのシーンとか、『ハラがコレなんで』(2011年)の空に浮かぶ雲の様子などはアニメーション的な感じもします。

(注7)最果タヒの詩は、美香のモノローグの形で挿入されるに過ぎませんから。

(注8)後で慎二は、「死んでから2日も経つのに、内臓の温度が40度もあった」等と仕事仲間の岩下に話します。

(注9)その前に、慎二は、「ガールズバーで1時間7,000円も取られたら、俺たちの1日分の給料はほとんどなくなっちゃう。ガス代は…」などと智之に話し、「うるさいな」と言われてしまいます。

(注10)慎二は左目が殆ど見えないという設定になっていて、画面が2つに分割されて(スプリット・スクリーン)、左側が黒くなってしまう時もあります。
 ただ、美香は「世界が半分しか見えないんだ」と言いますが、片目が見えないからといって、無論、実際に、世界の半分が切り取られて見えるわけではないでしょう。視野はやや狭くなりはしても、頭を巡らせば、世界全体は見えるはずです(美香が「半分でも見えていれば上出来。普通、半分も見えていないんだから」という場合の“半分”というのには、いうまでもなく、比喩的な意味合いが込められているでしょう)。
 とはいえ、両目で見る場合と比べて、奥行きが不確かなものとなってしまうでしょう(遠近感が掴みづらいため)。
 慎二が社会問題などを見る目も、そんなところから、奥まで見ることは出来ずに表面を撫でるだけになっているのかもしれませんが。

(注11)上記「注7」では、最果タヒの詩がモノローグのため、本作の背景の一つになっているのでは、というようなことを書きましたが、実際には、上記「注2」で触れている「青色の詩」は、本作の背骨のようなものではないかと思います。
 特に、「君がかわいそうだと思っている君自身を、誰も愛さない間、君はきっと世界を嫌いでいい」の部分は、最後の方まで見かを引っ張っていきます(ラストの方で、美香は慎二に、「人を好きになるって、その人のことを殺すってことだよね」などと言うのです)。

(注12)飛行船を動かす動力は、路上で女(Ryoko野嵜好美)が何度も歌う「Tokyo Sky」(「頑張れAh」が繰り返されます)という歌でしょうか?

(注13)最初、居酒屋で、美香と慎二は、別々のグループながら、目と目が合います。それから、ガールズバーに智之や岩下と連れ立って行った時に、慎二はバーテンダーの美香と遭遇します。そして、夜、渋谷の繁華街をフラフラ歩いている時に、慎二は、自転車の美香と会います。

(注14)智之は、工事現場での仕事中に、若年性脳梗塞で倒れ、そのまま亡くなってしまいます。後で、美香が慎二に、「首元に傷がある人は、若くても脳梗塞を起こすことがあるみたい」「それだけで人が死ぬってすごくない?」などと言います。
 なお、美香は、智之の前にも、牧田という会社員の男(三浦貴大)と関係を持っていたようです。

(注15)その後、デートするようになって、慎二が「死ぬっていう言葉を使うな」と言っても、美香は、野良犬が捕まえられて保健所で殺される話をしたりします。



★★★★☆☆


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美女と野獣(2017)

2017年05月22日 | 洋画(17年)
 『美女と野獣』(2017年)をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)評判が大層高いので、映画館に足を運びました。

 本作(注1)の冒頭は、舞踏会のシーン。
 ナレーションが「昔、フランスの美しい城に若くてハンサムな王子が住んでいた。望むものはすべて手にした薄情な王子は、美しい物だけを城に集めた」。
 城の大広間では、大勢の美女が踊っていて、その中に王子(ダン・スティーヴンス)が入っていきます。
 オペラ歌手のマダム・ド・ガルドローブ(オードラ・マクドナルド)が、「王子の心をつかむチャンスを見逃すな」などと歌います。
 そこに、扉が開けられて、「招かざる客」の老婆(ハティ・モラハン)が現れます。
 老婆は一輪のバラを王子に差し出し、嵐を避けるために泊まる部屋を与えてくれるよう求めます。
 ですが、王子は冷たく突き放し、そのバラを捨ててしまいます。
 老婆は、「外見に騙されるな。美は内面にあるのだ」として、美しい魔女に変身します。
 王子は謝ろうとしますが、すでに手遅れ。王子の心には愛情がありませんから。
 老婆は、王子を醜い獣に変え、城とそこに住んでいる者全員に呪いをかけてしまいます。

 城の外に出ようとしなかった王子たちのことは、世間から忘れられます。
 愛し愛されることを王子が学べば、呪いは解かれるとされます。
 ただし、そこに残されたバラの花びらが全て散ってしまう前に。
 ですが、獣の姿となった王子は、年が経つにつれ諦めました。

 ここで、タイトルが流れます。

 次の場面は、フランスの田舎の村。
 朝日が差してきて、主人公のベルエマ・ワトソン)が家から出てきて歌います。
 「いつものように、パン屋がおいしいパンを作る」「変わらぬ朝、いつもの朝」…。
 教会の鐘が鳴り、皆が「ボンジュール」と言い交わしたりします。



 「どこへ?」と村人に訊かれたベルは、「本を返しに。ヴェローナの2人の恋人たち(two lovers in fair Verona)の物語(注2)」と答え、村の人達は「彼女は変わってる(she is a funny girl)。いつもひとりぼっち」「頭は雲の中」などと歌います。

 これが本作の始めの方ですが、さあ、これからどんな物語が綴られるのでしょうか、………?

 本作は、ディズニーのミュージカル・アニメーション『美女と野獣』(1991年)を実写化したもの。実は、それを見ていないものの、フランス映画の『美女と野獣』(2014年)を見たことがあります。それと比べると、本作はミュージカル仕立てのためでしょう、随分と単純化して作られている感じがします。でも、そのため、余計なものが削り落とされて、ゆっくりと本筋を追うことが出来ます。特に、本作においては、書物が重要な役割を果たしているのに興味を惹かれました。

(2)『美女と野獣』(2014年)と本作とでは、同じタイトルながら、依拠する原作に違いがあるようで(注3)、内容的に異なる部分がかなりあります。
 例えば、同作では、王子が野獣に変えられるプロセスが、随分と詳しく語られていますが(注4)、本作におけるそれは、上記(1)で見るように、随分とアッサリとしています。
 また、本作では、野獣に対立する人物としてガストンルーク・エヴァンス)が登場するところ、同作には、ガストンのように、ベルに首ったけで男前の男などは登場せず(注5)、野獣に対立する男としては、ならず者のペルデュカスとか、ベルの2人の兄(ジャン=バチストマキシム)が登場して、色々の騒ぎを引き起こします。

 本作が、簡素な筋立てになったのは、専ら、ミュージカルであることによるのでしょうが、逆にそうすることで、ベルと野獣とのラブストーリーがより一層前面に出てきて、見る者にとっても大層わかりやすい作品になっていると思います。



 また、本作では、同作と違って、書物に重要な役割が与えられていることに、クマネズミはいたく興味を持ちました。
 本作においては、ベルが野獣に心を開くきっかけとなったのが、野獣の城に設けられている立派な図書室に連れて行ってもらったことであり、そこに収められている書籍を読みこなしている野獣の知性が、本好きのベルにとって大層好ましく思われるのです(注6)。

 ちなみに、最近見た映画の中でも、本のことはしばしば言及されています。
 例えば、『夜は短し歩けよ乙女』では、「下鴨納涼古本まつり」が描かれて色々の書物が触れられますし、『はじまりへの旅』では、随分と程度の高い本を読みこなしている子供たちが登場します。また、『未来よ こんにちは』でも、高校の哲学の授業で、哲学の原書が使われている様子が描かれています。さらには、『お嬢さん』では、春本ばかりが大量に揃っている大きな書庫が映し出されたりします。
 本が好きなクマネズミには、このように映画の中で本が様々に取り扱われているのを見ると、映画の流れに関係するしないにかかわらず、興奮を覚えてしまいます。あるいは、クマネズミも、本作の中でベルが言われているように、“変わって(funny)”いるのかもしれませんが。

 いずれにせよ、本作はミュージカルなので、あまり細かいことに拘泥しても意味はなく、歌と踊りなどを愉しめばそれで十分なのでしょう。
 ただ、本作がアニメーション(1991年)を完全実写化したものとされていながらも、城の給仕頭・ルミエール(燭台に変えられています:ユアン・マクレガー)料理人・ポット夫人(ティーポットに変えられています:エマ・トンプソン)などが、CGによっているのでしょう、アニメーションと変わらない描き方をされているところは、やや首を傾げたくなりましたが。

 とはいえ、『コロニア』ではあまりパットしなかったエマ・ワトソンながらも、本作では、水を得た魚のようにみずみずしい演技を繰り広げていて、次作が大いに期待されます。



(3)渡まち子氏は、「アニメ版に忠実すぎる実写化という点は、賛否が分かれるかもしれないが、完成度が極めて高いエンタテインメントを見る幸福感に素直に酔いしれたい」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「つくづくこのストーリーは、好景気で能天気な時代にこそ合うおとぎ話だなと痛感する。アニメ版は91年に作られ、日本でもバブルの残り香があった頃だからまだよかった。しかしこの2017年に、アニメ以上に生々しい実写版を日本人はどう受け取るか。なかなか興味深いことだ」などとして60点を与えています。
 渡辺祥子氏は、「最近話題の『ラ・ラ・ランド』とは違う種類の陶酔と高揚感を与えてくれる。少し古風な造りだけれどここにあるのは心なごむ幸せだ」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督はビル・コンドン
 脚本は、ステファン・チボスキーとエヴァン・スピリオトプロス

 出演者の内、最近では、エマ・ワトソンは『コロニア』、ユアン・マクレガーは『T2 トレインスポッティング』、エマ・トンプソンは『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』、ググ・バサ=ローは『ニュートン・ナイト  自由の旗をかかげた男』(同作では、ググ・ンバータ=ローと表記)で、それぞれ見ています。

(注2)シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』のことでしょう。

(注3)1756年に出版されたボーモン夫人の物語と、1740年にヴィルヌーヴ夫人によって書かれた物語とがあるようです〔『美女と野獣』(2014年)に関する拙エントリの(2)をご覧ください〕。

(注4)城の王子は、禁じられていた黄金の牝鹿を弓で射殺してしまいますが、その牝鹿は、許嫁であった王女(実は森の精)の変身した姿であったことがわかります。王女の父親の森の神は、娘を殺されたことを怒って、王子らに呪いをかけるのです。

(注5)本作では、ガストンは、登場すると、従者のル・フウジョシュ・ギャッド)に、「私の未来の妻のベルは、この村で最も美しい少女だ」と言うのです。



 他方で、ベルの方は、私があんながさつな男の妻になるなんて想像できる?絶対お断り」などと呟くのです(ここらあたりは、ベルが野獣の知性に触れて心が開かれるようになることの伏線でしょう)。

 なお、ガストンの従者のル・フウも、勿論『美女と野獣』(2014年)に登場しませんが、ゲイのキャラクターとして登場するために、問題視する国もあるようです(といっても、ガストンとル・フウが一緒に踊る短いシーンにすぎないようですが←この記事)。

(注6)その際、沢山の本に驚いたベルが「素晴らしい!」と言うと、野獣は「君にあげるよ」と応じ、さらにベルが野獣に、「これらの本を皆読んだの?」と尋ねると、野獣は「全部じゃない。特にギリシア語のやつは(in Greek)」と答えます。それに対し、ベルが笑って「ジョークだったの?ジョークを言うのね?」と応じると、野獣はニヤニヤ笑って「まあね(maybe)」と答えます(「greek:ちんぷんかんぷん」←この記事)。

 なお、その前では、ベルがシェイクスピアの『ロメオとジュリエット(Romeo and Juliet)』の中の言葉を口にすると、野獣がその後を続けるので、ベルは驚きます。そして、ベルが「この劇が好きなの」と言うと、野獣はベルを図書室に案内するのです。

 図書室のシーンの後、ベルは、野獣にWilliam Sharpの詩「A Crystal Forest」を読んだりします(その詩の最後に、ベルは「私を見て、目覚めさせて、私はここにいる」と読みます。よくわかりませんが、どうもこの部分は映画用に作られたもののようです←この記事)。

 また、庭で野獣が読書しているのに気付いたベルが、「何を読んでるの?」と尋ねると、野獣が「何も」と隠すので、ベルは「『グィネヴィアとランスロット(Guinevere and Lancelot)』ね」と言います。すると、野獣は、「実際は、『アサー王と円卓の騎士(King Arthur and the Knights of the Round Table)』だ」と訂正したりします。

 さらに、野獣は、美しい魔法の本をベルに見せます。その本には地図が掲載されているのですが、行きたい場所を心の中に思うと、そこに行くことができるのです(それで、ベルは幼い頃に過ごしたパリを心の中に思ってみて、母親がなぜ亡くなったかを知るのです)。



★★★☆☆☆



象のロケット:美女と野獣

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帝一の國

2017年05月19日 | 邦画(17年)
 『帝一の國』を同じくTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思って映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭は、「時は昭和」の字幕。
 次に、主人公の赤場帝一菅田将暉)のモノローグで、「政治とは、流血を伴わない戦争である。僕の夢は、総理大臣になること。どうしたら総理大臣になれるのか」。
 そして、私立海帝高校の入学式の模様が映し出され、生徒会長が挨拶をしています。
 定一のモノローグで、「海帝高校の生徒会長になると、東都大学への推薦入学というオマケが付く」「男は皆狙っている」「僕は誰にも負けない」。
 引き続いて、新入生の代表として、定一が挨拶をします。
 定一のモノローグで、「一歩一歩上り詰めて、生徒会長になってみせる」「将来、総理となり、僕の国を作るのだ」。
 ここで本作のタイトルが流れます。

 次いで、家でピアノを弾いている小学4年生の定一。
 定一のモノローグで、「父は通産省の事務次官。母はピアニスト」「父は、海帝高校時代、生徒会長選で東郷野村周平)の父親に敗れた」「生徒会長になった東郷の父親は、今は通産大臣」「僕は、母の遺伝子を受け継いだ」「僕は、ピアノコンクールを総なめした」「小学校で東郷にいじめられたが、白鳥美美子が東郷をやっつけてくれた」。
 当時の美美子が「チョットはやり返したら?」と言うと、当時の定一は「僕はそういうの嫌いだ」と答えます。
 さらに、家に帰ってきた定一の父親・譲介吉田鋼太郎)が、「またピアノを弾いているのか?」「まだまだ学ぶべきものがある」「海帝高校の生徒会長になるには、勉強ができるだけではだめなのだ」と滝修行に行かせようとします。
 それには母親・桜子真飛聖)が反対して、定一の引っ張りあいとなり、定一が倒れてピアノに頭をぶつけて気絶してしまいます。
 ですが、目を覚ました定一は「僕、滝修行に行くよ!」と叫びます。
 定一のモノローグで、「あの瞬間、僕の中でスイッチが入った」。

 現時点での定一の家。
 父親・譲介が帰宅すると、定一は、「お帰りなさい、お父様」「新入生代表挨拶も滞りなく」と言います。それに対し、父親は「まず、ルーム長になることだ」と応じますが、母親・桜子は「お友達、たくさんできた?」と尋ねます。父親は「友達をつくるために海帝高校に入ったんじゃない」と怒ります。

 さらに、白鳥美美子の家の門の前。
 2階の美美子永野芽郁)に対し、門の前にいる定一は糸電話で話しています。
 美美子が「なんで糸電話なの?」と尋ねると、定一は「海帝高校では、男女交際は禁止されているんだ」と答えます。
 さらに、美美子が「最近、ピアノは?」と訊くと、定一は「やってない。人生の目標を達成した後だ」と答え、それに対して美美子は「勿体ない。プロが認める腕を持っていながら」と言います。

 こうして物語が始まりますが、さあ、この後どのような展開になるのでしょうか、………?

 本作は、漫画週刊誌に掲載された漫画を実写化したもの。総理になって自分が望む国を作るには、まずは超難関の高校に入学し、そこの生徒会長にならなければならないとして、主人公がその野望達成に向けて着々と歩を進める、というお話。なかなか面白い着想ながら、どうせならモット弾けても良かったのではという気もしたところです。

(2)本作は一見すると、大人の政治の世界をパロディ化したもののようです。
 ただ、国会議員などの選挙では、公職選挙法などの強い縛りがあって、今や、そう簡単にあくどい選挙運動はできなくなってしまっています(注2)。

 これに対し、本作の海帝高校の場合、生徒会長選挙のシステムにはいろいろ問題があるように思われ(注3)、実際に、候補の氷室ローランド間宮祥太朗)は、会長選において実弾を使用するに至っています。

 そんなところから、本作を通して、今の政治の状況を批判してみても始まらないような気もしてしまいます。むしろ、本作の細部を見ていく方が、あるいは面白いかもしれません。

 例えば、
 本作の始めの方では、私立海帝高校の入学式の光景が描き出されるところ、普通の高校の様子とは随分と違っている感じがします。生徒が皆男子ですし、制服は海軍服(注4)。それに、相当大袈裟に描かれているでしょうが、規律がかなり厳格なようです。

 本作の海帝高校と多少類似するような実際の学校としては、例えば、攻玉社高校が挙げられるかもしれません。
 原作漫画によれば、海帝高校は、「元々は海軍兵訓練学校として創設され 優秀な将校を数多く輩出していた」とされていて(第1巻第1話)、制服も海軍服だったりしますが、攻玉社も、戦前は、広瀬武夫・海軍中佐とか鈴木貫太郎・海軍大将などが卒業していますし(注5)、制服は海軍服です。

 ただ、攻玉社には、高校入学はありません。
 これに対し、本作の海帝高校は、海帝中学を併せ持っていて、中高一貫教育が施されているものの、高校入学が認められています。
 ただ、そこには問題があるように思われます。
 六組のルーム長の大鷹弾竹内涼真)が「外部生」と言われていたように、高校から入学する者は、海帝中学から進学する者にとって「外部」とみなされています。この場合、『愚行録』に関するエントリの「注6」で触れましたが、中学から進学する者(「内部」)と「外部」との間では反目が起こり得るでしょう。
 現に、本作では、「外部生」の大鷹弾が、超難関とされる入学試験を通って奨学金を得ているという情報を得て、「内部生」のトップだった定一は、外部生用の入試試験問題を手に入れ(注6)、自分もその問題を解いてみて(注7)、自分の学力が大鷹弾に劣るものではないことを証明しようとします。



 ただ、細部を見ていくと、問題点も見つかるでしょう。
 例えば、定一の父親・譲介は、自分が東郷の父親の下にいるのは、海帝高校で生徒会会長になれなかったからだと思い込んでいます。



 ですが、東郷の父親・卯三郎山路和弘)が今の通産大臣で、事務次官の譲介の上にいるとしたら、卯三郎は、かなり早くに通産省を辞めて政界に入っているはずです(注8)。譲介が今のポストにいて大臣になっていないのは、生徒会長になれなかったからというよりも、卯三郎と同じように、早くに政界入りをしなかったからだと考えた方が常識的でしょう。
 定一が、そんなこともわからずに、父親の言うことに簡単に盲従しているとしたら、勉強はよくできるものの常識の持ち合わせがない人物にすぎないことになってしまうでしょう。

 でも、本作は、漫画に基づいたコメディでしょうから、つまらない粗探しをしてみても、何の意味もありません。楽しく笑って見ることができれば、それで十分といった感じではないでしょうか。

 主演の菅田将暉は、全編にわたって力一杯の演技を披露するのみならず、海帝祭でのふんどし太鼓や、はては生徒会長就任式でのピアノ演奏(注9)までこなしているのですから、その多芸多才ぶりに感心しました。
 また、定一の恋人・美美子役の永野芽郁は、最近見たばかりの『PARKS パークス』でとても可愛らしく演じていたので、本作のラストでのハイキック・シーンには驚きました。



 なお、定一の母親・桜子を演じる真飛聖は、すぐ前に見た『無限の住人』においても、凛の母親役を演じています(宝塚花組のトップだった女優だとは知りませんでした)。

(3)渡まち子氏は、「菅田将暉演じる主人公・帝一が野心の男なら、ライバルキャラたちは、策略、正義、支配、戦術と、それぞれの役割が分かりやすく描き分けられていて、戯画的演出とギャグのつるべうちで笑わせる」として65点を付けています。
 北小路隆志氏は、「選挙戦の思わぬ展開に翻弄されながらもあくまで利己的な野心家を貫く帝一の姿に、僕は不覚にも感動すら覚えた。民主主義はいつだって「瓢箪から駒」の産物であること。それは民主主義の弱点であるどころか“強さ”の証明でさえある」と述べています。
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「バカバカしさに大笑いしつつ、時にまっとうなリーダー論にも見えて、思った以上に見応えあり」と述べています。



(注1)監督は、永井聡
 脚本はいずみ吉紘
 原作は、古屋兎丸著『帝一の國』(集英社)

 出演者の内、最近では、菅田将暉は『キセキ―あの日のソビト―』、野村周平は『森山中教習所』、間宮祥太朗は『高台家の人々』、志尊淳は『サバイバルファミリー』、千葉雄大は『殿、利息でござる!』、永野芽郁は『PARKS パークス』、吉田鋼太郎は『新宿スワンⅡ』で、それぞれ見ました。

(注2)むしろ、例えば大学の学長選では、色々問題が起きているようです。
 慶応大学の塾長選では、塾内の選挙で第1位に選ばれた教授ではなく、第2位の教授が塾長に就いています。これは、塾内の選挙は参考に過ぎず、実際には別途設けられている「選考委員会」が実質的に決定することになっているからのようです(この記事)。

(注3)海帝高校においては、生徒会長は評議会で選出され、その評議会は、1、2年生のクラスのルーム長と副ルーム長で構成されます。
 これは、総理大臣を国民の投票で直接的に選ぶのではなく、国会議員を通して間接的に選ぶという方式になっているのと類似しています。ただ、国会議員が国民によって選ばれているのに対し、海帝高校のルーム長と副ルーム長は先生が選定していて、これは大きな違いと言えそうです。
 また、生徒会長の候補は、現生徒会長が、事実上、選定します。当然のことながら、現生徒会長は、自分の選出に尽力のあった者を候補者とすることでしょう。本作では、現生徒会長の堂山木村了)は、自分の選出に一番貢献した氷室ローランドを候補者に選んでいます。
 なお、本作においては、もうひとりの候補の森園億人千葉雄大)が、選挙のオープン化を掲げて会長に選ばれ、生徒会長選は、立候補が自由となり、また選挙権も生徒一人一人に与えられることになりました。



(注4)この記事を見ると、全国には、海軍服の制服を使用している学校が随分とあることがわかります。

(注5)この記事によります。

(注6)定一は、愛読書がモンゴメリの『赤毛のアン』であることを知り、彼女の直筆の絵の展覧会を餌に(「私の父は文部省に力がある」と言って)、担任の川俣先生(中村育二)を籠絡して入手します。

(注7)原作漫画を見ると、試験問題に、ブール代数とかマルクスの『資本論』の英訳版が出てきて、その“難解さ(!)”には笑ってしまいます。

(注8)東郷卯三郎は、政界で実績を積んだからこそ、今、通産大臣になっているのでしょう。

 なお、原作漫画では(第1巻第1話)、東郷の父親の卯三郎は、事務次官に就いていたとされています。
 しかしながら、譲介と卯三郎は高校で同学年なのですから、順当ならば同期のはず。ですが、同じ期から2人の次官が出ることはまずありませんから、譲介は1、2年浪人して大学に入り、卯三郎に遅れて通産省に入省したのかもしれません。それにしても、原作漫画に描かれていることは理解できません。というのも、譲介は、今、事務次官なのですから、卯三郎は1、2年前に事務次官だったことになります。としたら、卯三郎が官界を辞して政界入りしている期間は、わずか1、2年間というごく僅かなものとなってしまいます。でも、そんな貧弱な実績では、いくら「生徒会長会」の肩書の力が絶対だとしても、とても大臣になれるはずがありません。

(注9)本作のサウンドトラックには、ローデ作曲「あやつり人形(マリオネット)」とリスト作曲「ため息」が入っています。



★★★☆☆☆


象のロケット:帝一の國
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無限の住人

2017年05月17日 | 邦画(17年)
 『無限の住人』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作の原作漫画を以前に半分くらい読んだことがあるので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の最初の方では、切り合いがあって人が倒れた後、主人公の万次木村拓哉)が妹の杉咲花)を見ると、町が「兄さま、おはぎ拾った」と手にしたものを見せるので、万次は「馬のクソだ。捨てろ!」と叫び、「河の水で手を洗って」と言います。
 町は、川に入って手を洗い、手にした風車をかざして「兄さま」と万次に見せます。

 そこへ大勢の浪人たちがやってきて町を捕まえ、その中のリーダー格の司戸菱安金子賢)が万次に、「あの旗本を殺した同心だな」「やっと見つけたぜ。同心6人も殺すとは酷い男だ」と言うと、万次は「6人目があいつの亭主だった」「町を放せば、見逃してやる」と応じます。
 これに対し、菱安が「見逃してくれる?じゃあ帰ろうか、と逃げるわけないだろう」「さっさと刀を捨てろ」と言うので、万次は刀を投げ出します。
 すると、菱安は「お主の気持ちはわからんでもない」と言って、部下に「放してやれ」と命じます。
 部下が町を放すと、町は万次のもとに「兄さま」と走り出しますが、菱安は町を斬り殺してしまいます。これを見た万次は、憤怒の形相で「テメエら全員ぶっ殺す!」と言い、万次と浪人たちとの間で大規模で壮絶なチャンバラが始まります(注2)。
 菱安の部下は全て倒され、万次も、左手首が切り捨てられ右目も傷つきますが、最後は菱安が万次と対決します。
 菱案が「やるじゃないか、さっさと妹のところへ行きやがれ」と挑み万次を刺すものの、万次は死なずに菱安を倒します。
 万次は横たわる町のところへ行き、「すまねえ」と謝り、その場にぶっ倒れます。
 そして、このチャンバラを見ていた八百比丘尼山本陽子)に向かって、「バアさんよ、その刀でひと思いにやってくれ。もう生きる意味がない」と頼みますが、八百比丘尼は「これだけ人を殺めておいて」、「これはラマ僧が生み出した血仙蟲。これをお前の体に埋め込んだ」と言います(注3)。すると、切られていた手首が腕につながってしまいます。

 ここで、タイトルが流れ、さらに「50年後」の字幕。

 場面は、無天一流の浅野道場。
 一人娘の杉咲花)が、道場の門下生たちと稽古に励んでいます。
 母親(真飛聖)が「凛、少しは料理や裁縫を覚えてほしいんだけど」と言うと、凛は「一日も休む訳にはいきません」と答えます。
 そんな道場に天津影久福士蒼汰)の一団が乗り込んできて、道場主の父親(勝村政信)を斬り殺すところから、本作の物語が動き出します。さあ、どのような展開になるのでしょうか、………?

 本作は、不死身の体となった主人公が、父母を奪われ復讐を誓った少女の用心棒となって、襲いかかる大勢の侍を斬って斬って斬りまくるというお話。ただ、30巻にも及ぶ大長編の原作漫画を140分余りの作品の中に収めているために、どんどん相手が入れ替わり、チャンバラの場面がしつこく繰り返されて退屈な感じもするところです。それでも、主演の木村拓哉は、片目の着流し姿(注4)で腕などを切られたりもしていて、新境地を見せているようにも思いました(彼の映画は、全く見ておりませんが)。

(2)本作を見ると、本作の監督が以前制作した『十三人の刺客』がすぐに思い出されるでしょう。といっても、300人以上の敵に対し同作の13人でも少ないと思われたところに、本作では、主人公の万次が主に一人で大勢の敵と対峙するのですから、その凄まじさはただごとではありません。
 ただ、それはラストでの話。ラストの大チャンバラに至るまでに、本作では、凛の用心棒となった万次が様々の剣士と対決します。

 例えば、最初に対決したのは、黒衣鯖人(クロイ サバト:北村一輝)。
 鯖人は、凛の両親を殺して、母親の生首を肩に縫い付けていながらも、恋い焦がれる凛に向けて歌(注5)を送りつけてくるような酷く変わった男。万次は、鯖人に刺されるも、それで死んだと思い油断した鯖人を背後から刺殺します(注6)。
 次いで闘うのは、浅野道場から伝来の刀を奪った凶載斗(マガツ サイト:満島真之介)。載斗は、自分が百姓の出であり、侍の万次は敵だと決めつけます(注7)。
 万次は、載斗のよく知る沼に引きずり込まれ、刺されるものの、これも逆に相手を刺殺します。
 この後も、万次は、閑馬永空(シズマ エイクウ:市川海老蔵)、乙橘槇絵(オトノタチバナ マキエ:戸田恵梨香)、尺良(シラ:市原隼人)、百琳(ヒャクリン:栗山千明)と対決していきます(注8)。

 その挙句に、ラストでは、万次がおよそ300人の敵と対峙します(注9)。
 ただ、『十三人の刺客』と違って、上に記したように、万次のチャンバラ場面が、この戦闘に至るまでに何度も繰り返されて描き出されています(特に、最初の方では百人斬りのシーンが映し出されます)。
 そればかりか、天津についても、大勢の相手と対決する場面が、最後の大チャンバラの前に用意されているのです。
 1本の映画の中でこうもたくさんチャンバラシーンが描かれると、見ている方もさすがに飽きてしまいます。
 それで、最後の最後に、万次と天津との対決シーンがあるのですが、そしてそれは本作のクライマックスになるはずなのでしょうが(凛の復讐が成就するのですから)、もう沢山だといった感じになってしまいます。

 それでも、なんとかラストまで観客を画面に惹きつけてしまうのですから、三池監督の力量も見上げたものといえるでしょうし、主役を演じる木村拓哉の頑張りも凄いものがあると思ったところです。

 それと、興味を惹かれたのは、本作が、復讐心に燃える凛の用心棒である万次が善玉で、万次が対決する天津らの逸刀流派のメンバーが悪玉であり、その善玉と悪玉の戦いだ、というような単純な構図で綴られてはいない点です。
 それぞれの登場人物が、決して一筋縄では捉えきれないような性格付けを施されています。
 特に、主人公の万次は、一方で、凛の復讐の達成のためには死ねないと思っているものの、他方で、死ねたらどんなに楽になるだろうとも思っています。
 天津にしても、自分たち以外の流派をすべて潰して逸刀流で統一するという野望に燃えているとはいえ、その基点には、祖父の無念(注10)を晴らしたいという思いがあるのです。



 それに、そうした天津らを凌ぐ幕府の策士の吐鉤群(カギムラ ハバキ:田中泯)がいて、ラストの大チャンバラも彼が仕掛けたものです(注11)。
 また、例えば、閑馬永空は万次と斬り合い、万次をギリギリまで追い詰めながらも(注12)、最後は「もう生きるのに疲れた」と言って(注13)、万次に切り刻まれて死ぬのです(注14)。
 こうした複雑な性格付けが登場人物に対してなされているために、多すぎるチャンバラシーンに辟易はするものの、観客は最後まで本作を見てしまうのではないか、と思われます。

 なお、杉咲花は、万次の妹の町と凛との2役ですが、大層魅力的に撮られているなと思いました。



 ただ、本作では、戸田恵梨香がヌンチャクと長刀をあわせたような武器で万次と闘う凄いシーンが描かれているとはいえ、大人の女優が万次とか天津とかと絡むシーンが見当たらず、残念なことだと思います(まあ、チャンバラが主眼の作品ですから、仕方がないことですが)。

(3)渡まち子氏は、「ほぼ全編、殺陣が続くが、バラエティに富んだ武器や、キャラ毎のイメージカラーなどで映像的にもメリハリがあって飽きさせない。顔に傷を持ち片目だけの眼力で熱演する木村拓哉、可憐な杉咲花、初の悪役ながらどこかさわやかな福士蒼汰と、俳優たちは皆好演だ」として70点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「自分を殺せる強敵に会えるかも、という期待と「妹」をまもりたい、というのが修羅の場へ万次を向かわせる動機と思われるが」、「300人をぶった斬る大殺陣の動機としては、よわく、甘いと感じられる」として、★3つ(「見応えあり」)を付けています。



(注1)監督は、『土竜の唄 香港狂騒曲』などの三池崇史
 脚本は大石哲也
 原作は、沙村広明著『無限の住人』(講談社)。

 なお、出演者の内、最近では、杉咲花は『湯を沸かすほどの熱い愛』、福士蒼汰は『イン・ザ・ヒーロー』、市原隼人は『ブルーハーツが聴こえる』、北村一輝は『寄生獣 完結編』、戸田恵梨香は『ぼくのおじさん』、満島真之介は『オーバー・フェンス』、市川海老蔵は『一命』、田中泯は『るろうに剣心 京都大火編』、山崎努は『殿、利息でござる!』、栗山千明は『秘密 THE TOP SECRET』、勝村政信は『だれかの木琴』で、それぞれ見ました。

(注2)万次は、このチャンバラで、100人の敵を倒したとされています。

(注3)本作では、この時初めて八百比丘尼が血仙蟲を万次に埋め込みますが、原作漫画(第1巻)では、この戦いの前から万次の体には血仙蟲が埋め込まれています。

 なお、これで、万次は“無限の命”を与えられたことになるとされます。
 ただ、下記「注12」で触れる「血仙殺」を使えば血仙蟲は無力になりますし、また閑馬永空のように切り刻まれると、いくら血仙蟲を埋め込まれていても死んでしまうのです。とすれば、“無限の命”を与えられたことにはならないようにも思われます〔そうであれば、原作漫画にあるように、血仙蟲は「延命術」といった方がいいかもしれません。とはいえ、原作漫画の最後に描かれているように、万次が明治維新後までも生きながらえてしまうのであれば、八百比丘尼と取り決めた「1000人を斬れば死ねる」という約束は、いつまでたっても達成できるとは思えず(万次は、殺人罪で捕らえられて、刑務所にずっと入ったままになるのではないでしょうか?)、その意味では“無限の命”なのでしょう〕。

(注4)本作の万次が着ている着物の背中には、「万」の字が染められていますが、原作では「卍」です。

(注5)原作漫画によれば、「砂のやう 黒髪のやうに 海越ゆる 蝶の儚き 悲しみを啜りつつ 空を巡らば 今は唯 望郷も夢と果て」。

(注6)その際、万次は鯖人に、「死ぬるお前は幸せだ」と言います。

(注7)載斗は、幼い妹の遊んでいた毬が参勤交代の列に飛んでいき、妹が侍に斬り殺されたという出来事を万次に語ります。

(注8)ただし、槇絵は、「闘っている時は忘れているのに、一瞬でも気を抜くと恐ろしくなる。私の剣は人を不幸にする」「あの人(天津影久)の望みが正しいのか疑わしくなる」と疑念に囚われ、最後には万次に「あの子(凛)を守ってあげてください」といって立ち去ります。



 また、尺良と百琳は、天津影久の逸刀流のメンバーを殺す側で、一時は万次と凛も手を組みます〔尺良と百琳の出番は少ないのですが(特に百琳は)、公式サイトのこの記事において、三池監督は「(尺良については)実は撮った半分しか映画のシーンに入っていないんです(笑)。日本以外の北米やヨーロッパなどで公開する本編では、尺良ノーカットバージョンを復活させています。尺良を観たい人は、海外バージョンでぜひ観てください」と述べています〕。

(注9)例えば、劇場用パンフレット掲載の「Introduction」では、「クライマックスでは300名にも及ぶエキストラが集結」とあり、またこの記事にも「クライマックスの300人斬りは約15日間かけて撮影」と述べられています。

(注10)凛の曽祖父・浅野虎秀が、天津の祖父・天津三郎を随分と理不尽な理由で破門したのだ、と孫の影久は言います。

(注11)吐鉤群は、一方で、天津の逸刀流による武芸の統一を推し進めますが、他方で、無骸流の尺良と百琳らを使って、逸刀流の剣士を殺害させてもいるのです。

(注12)閑馬永空は、血仙蟲を無力にする「血仙殺」という秘薬を持っていて、それを刀に塗りつけて万次を斬ります。

(注13)閑馬永空は、「200年前に血仙蟲を埋め込まれた。以来、5人の妻と、それ以上の友を持ったが、すべて先立たれた。死は無慈悲だ。だが死ぬというのは、もっと酷いことだ」とも言います。



(注14)閑馬永空以外でも、本文で見るように、黒衣鯖人は凛に恋い焦がれていますし、凶載斗の侍嫌いにも理由があります。また、乙橘槇絵については、上記「注8」をご覧ください。



★★★☆☆☆



象のロケット:無限の住人

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PARKS パークス

2017年05月15日 | 邦画(17年)
 『PARKS パークス』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)近くの井の頭公園を舞台にする映画ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、「prologue」の字幕。井の頭公園の真ん中にある大きな池(「井の頭池」)を巡る道を、主人公の橋本愛)が自転車で走ります。
 季節は春。池の周りの桜は満開。
 純のモノローグ。「桜、桜、桜」「犬の散歩、ラジオ体操」「100年前に作られたこの公園(注2)を語るには、桜を外せない(注3)」「それで、この物語は桜で始めたい」「でも、まだ始まってないけど」「物語は、もうすぐ始まる」。
 純の自転車が東の方に進む一方で、カメラは空中からも公園を捉え、それがドンドン地上に近づくと、井の頭公園駅を過ぎた井の頭線の電車が北西の方向に吉祥寺駅に向かって走っているのが見え、公園内のガードで交差します。ガードの下では、自転車の純が、上を走る電車を見上げ、その電車の中からは少女(ハル永野芽郁)が、純の姿をちらっと見ます。
 「これは、公園で見つかった音楽の物語」との声とともにタイトルが流れ、さらに「Chapter1 Love Forever」の字幕。

 そして、純と男性が映し出されますが、2人の関係はうまく行っていないようで、結局、男性の方はその場から立ち去ってしまいます。
 残された純は、頭にきた感じで、ソバにあったベンチや缶を蹴ったり、走ったりします。

 公園のすぐそばにあるアパートの部屋に戻った純は、部屋の壁に貼られているいくつもの写真を取り外し、机の上に出されていたチェスをしまったりします(注4)。
 悪いことに、通っている成蹊大学から「留年通知」まで届くのです。
 純は、慌てて自転車を走らせて大学に行き、「社会文化学 教授室」に入り、井上教授(佐野史郎)に会うと、名前を言い、「始めまして。卒論のことで」と挨拶します。
 井上教授は「始めましてなのに、ちゃんと僕の授業に出席してますね」と、出席簿を見ながら皮肉を言います。純は、嫌味にめげずに、「就職先が決まっているので、単位を何とかお願いします」と頼み込みます。それに対し井上教授は、「卒論のアウトラインを今週中に提出してください」と言います。純は「それは無理です」と答えるものの、仕方がありません。

 純は、吉祥寺駅で、待ち合わせていた友人の理沙長尾寧音)と会います。
 理沙が「留年って本当?」と尋ねるので、純は「まだわからない」と答えます。
 また、理沙が「ライブに出てみない」と訊くので、純は戸惑って「いきなり?」と答えると、理沙は「やる時はやる人でしょ?」と応じます。それにたいして、純は「やらない時はやらないの」と言うだけです。
 純が自分の部屋に戻って、ベランダから外の公園の景色を見ていると、下に井の頭線の電車に乗っていた少女のハルが現れます。

 ここから「Chapter2 Unknown Girl」となるのですが、さあ、これからどんな物語が綴られていくのでしょうか、………?

 本作は、井の頭公園のすぐそばのアパートに住む主人公の女子大生が、ふとしたきっかけで知り合うことになった女子高生とか青年と一緒に曲作りをすることになって、…という物語。
 まるで、主演者は井の頭公園とも言えるくらいに、四季折々の同公園の様子が実に美しく描き出されます。そして、それを背景にしながら、3人が公園内(それに、吉祥寺駅周辺)を縱橫に走り回ったりするのです。同公園までジョギングをするクマネズミとしては、登場人物と多少ながら同じ気になってしまいます(映し出される場所は、ほとんど特定できます!)。
 といっても、本作は、様々に工夫が凝らしてあり、そんじょそこらの青春映画とは趣が違っていて、その点にもいたく興味を惹かれたところです。

(2)吉祥寺をメインの舞台とする作品については、『吉祥寺の朝比奈くん』(2011年)以降、『あんてるさんの花』(2012年)とか『さよならケーキとふしぎなランプ』(2014年)といった作品を見てきました。しばらく途切れているなと思ったら、本作の公開を知り、テアトル新宿でも上映されているとはいえ、やはりそこは地元で見るべきと考え、吉祥寺オデヲンに出かけてみました。
 それに、あの『リトル・フォレスト』の橋本愛が主演の映画なのですから、その意味でも本作は見逃せません。



 映画が始まると、上記(1)に記したように、満開の桜が画面一杯に映し出されます。
 加えて、主演の橋本愛が、実に爽やかに井の頭池の周囲を自転車で走り抜けるのです。
 井の頭公園を基点に制作された“ご当地映画”なのか、と最初の内、訝しんでしまったほどです。

 でも、しばらくすると、本作は、そんなヤワな作品ではないことがわかってきます。
 本作の第1章の末尾で純の前に登場するハルは、強引に純の部屋に上がり込んできて、50年前の写真や手紙を見せながら、「亡くなった父親・晋平森岡龍)の恋人だった佐知子石橋静河)を知らないか?」と尋ね、佐知子探しに純を巻き込んでしまいます。
 ただ、このハルの登場の仕方はあまりにも突然であり、それも50年も前のことなどそう簡単にわかるはずもないのに、ハルは至極熱心なのです。



 その後も、ハルは、純の部屋で暮らし続け一向に出ていこうとしないので、仕舞いに純が「いつまでここにいるの?」「本当は誰なの?」「お母さんは?家は?」と尋ねることになります。
 すると、ハルはそれには答えないで、荷物をまとめて出ていってしまい、純があとを追いかけても、その姿は見えませんでした。
 第2章の表題が「Unknown Girl」とされていたり、ハル役の永野芽郁が「撮っている間「本当に実在するのかな?」とずっと疑問に思っていたんです」と語っていたりすることもあり(注5)、ハルは幻影と考えたほうが良さそうです。

 それだけでなく、本作では、50年前のはずの晋平と佐知子が、まるで今生きているかのごとくに映し出され(注6)、ある時は、純は彼らとすれ違ったりもするのです。
 その中には、純が借りているアパートのオーナー・寺田さん(麻田浩)の若い頃である健太柾木玲弥)もハーモニカ奏者として混じっています。
 そして、この寺田さんも、フェスティバルの直後に亡くなってしまい(注7)、その病院の待合室にはハルがいました(注8)。

 これだけ幻影の人物が登場してくると、この人物だけは実在と思えるトキオ染谷将太)もあるいは幻影かもしれません(注9)。



 なにしろ、純とハルが探し出した佐知子の家で、ベルを押しても何の反応もない時に、突然、「おばあちゃんは、先月脳梗塞で死んだよ」と告げながら登場するのですから。
 それに、「吉祥寺グッド・ミュージック・フェスティバル」に出演するためとして、いとも簡単にキーボード奏者とかベーシスト、ドラマー、ギタリストを集めてもくるのです(注10)。
 また、最後の方で、トキオは自転車に乗った純と公園で出会いますが、純は、随分とあっさりと別の方向に自転車を走らせて行ってしまいます。

 加えて、このようにファンタジー作品であって現実を超越しているものだと解釈しないと、あれほど思い悩んでいた曲作りが、フェスティバルでの失敗の後、特段のきっかけなど何もないと思えるのに、突如として完成してしまい、ハルやトキオらの演奏が園内放送を通じて公園内に流れるというストーリーは(注11)、トテモ他愛ないものに思えてしまいます。



 さらに言えば、こうしたファンタジーの要素は、吉祥寺を描いているこれまでの『あんてるさんの花』でも『さよならケーキとふしぎなランプ』でも、不可欠の物となっています(注12)。吉祥寺という場所がファンタジーを呼び込むのかもしれません。

 では、いったい誰が、こうした幻影を創り出したのでしょう?
 クマネズミは、すべて純が、卒論を書く中で創り出したのではと思っています。
 ラストの方で、純が、ハルの書いた小説の原稿を読むシーンがありますが、あれは、純が自分の書いた卒論のメモ書きを読んでいるのではないでしょうか?
 でも、問題は、なぜ純は、こんなメモ書きを書こうとしたのか、そのきっかけは何なのか、という点です。
 そこはよくわかりません。あるいは、佐知子が1か月前に脳梗塞で死んだ後、ハルという幻影になって、自分の心残りだった曲を純に完成してもらおうとした、という要因が絡まってくるのかもしれません。

 ともかく、本作は、一方で、様々の曲が流れる音楽映画でありながらも、他方で、複雑なファンタジー作品にもなっているのではないかな、と思ったところです。 

 なお、本作に登場する公園は井の頭公園一つだけであり、最後に完成した曲の題名も『PARK MUSIC』とされているにもかかわらず、なぜタイトルが『PARKS パークス』と複数形になっているのでしょう?
 よくはわかりません。あるいは、50年前に晋平と佐知子が作った曲と、50年後に純らが完成させた曲とをそれぞれ一つと数えているのかもしれません。

 橋本愛は、まだ若いにもかかわらず、こうした映画ではトテモ大きく見え、さすが主役を演じる俳優だなと感心してしまいますし、永野芽郁は初めて見ますが、不思議な少女の役を随分と魅力的に演じているなと思いました。

(3)宇田川幸洋氏は、「一定の方向性をもつストーリーをかたろうとするとういういしさは減少しがちだし、逆に、はなしの詰めの甘さが不満になったりもするのだが、それでも3人が彷徨する舞台となる公園の空間が、柔軟さを補給してくれる」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の最上聡氏は、「今年開園100年になる井の頭公園を舞台に、50年の歴史をまたいでつなぐ。「青春音楽映画」との文句の通り、晴れやかな画面だ」と述べています。



(注1)監督・脚本は瀬田なつき

 なお、出演者の内、最近では、橋本愛は『シェル・コレクター』、染谷将太は『海賊とよばれた男』、森岡龍は『エミアビのはじまりとはじまり』、佐野史郎は『幻肢』で、それぞれ見ました。

(注2)この記事によれば、井の頭恩賜公園は、今から丁度100年前の1917年(大正6年)5月1日に開園しています。それで、5月1日には、記念式典などが開催されました(この記事)。

(注3)東京都の多摩地区の都立公園を管理する西部公園緑地事務所の菊地正芳所長は、「(井の頭公園の桜を)たくさん植えたのは戦後」「それから60年経って、寿命が近づいてきて今は老木になってしまっている」「今は水面を覆うようなあの桜がありますけど、(植え替えによって)あと何十年かするとまた違った井の頭になっているのかなぁと思います」と語っています(フリーペーパー『PARKS』4号に掲載)。

(注4)純は恋人と同棲しようとしていたのに、逆に別れることになってしまいました。

(注5)劇場用パンフレット掲載の「Cast Profile」の「Comment」から。

(注6)井の頭池の「弁天橋」で午後2時半に会うというシーンが何度も描かれます。

(注7)脳梗塞亡くなった佐知子の遺品からでてきたオープンリールに残されていた晋平と佐知子の曲を最後まで完成させること。

(注8)結局のところ、本作では、ハルの登場の近辺で、晋平、佐知子そして寺田と、関係者が相次いで亡くなっているのです!

(注9)加えて言えば、井上教授にしても、教授室にギターを持ち込んでいたり、最後には、純が曲を完成させれば単位を与えるとまで言ったりするのですから(社会文化学関係の卒論と『Park Music』の完成とは、何も関係もないでしょう!)、幻影なのかもしれません。
 モット言ってしまえば、本作を企画した本田拓夫氏がオーナーだった「バウスシアター」は、2014年6月に閉館しているのです(勿論、本田氏が幻影というわけではありませんが、そんな雰囲気を本作全体に漂わせるファクターの一つとなっているのではないでしょうか)。

(注10)純が、音楽の演奏について全くの素人であるにもかかわらず。
 おまけに、彼らは、フェスティバル当日に食中毒にあたって出場できなくなってしまうのです!幻影であるトキオが、幻影のプレーヤーを集めたのでしょう!

(注11)この公園の野外ステージ前での演奏は、いつの時点で行われたのでしょう?バンドのメンバーの食中毒はすでに治っていたのでしょうか?

(注12)『あんてるさんの花』には、「忘れろ草」(別名「アンデルセンの花」)という、その花びらに触れた人は、その人しか見えない幻が見え、なおかつそれを真実と思ってしまう不思議な植物が登場しますし、『さよならケーキとふしぎなランプ』では、夜、ロウソクの火が灯っている間だけ、亡くなった人がカフェに現れる不思議なランプが描かれています。



★★★★☆☆


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追憶

2017年05月13日 | 邦画(17年)
 『追憶』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)岡田准一小栗旬の競演が見られるというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、雪が激しく舞い落ち、港には漁船が並び、波が岸に打ち寄せています。荒波が岩にあたり、カモメがたくさん飛んでいます(注2)。
 月が雲間から見え、どうやら月食のようです。
 そして、「25年前の12月24日、北陸では月食があった」とのモノローグ。

 次いで、バンが建物の前で停まり、光男吉岡秀隆)が降りて、車の中にいる3人の少年に「電球を交換してくるから、待っていてな」「終わったら、ラーメンでも食おう」と言います(注3)。
 光男が器具を持って建物の中に入ると、車の中に残された少年たちが、「アッチャン、本当にやるの」「あの人のためだ」などと話しています。

 さらに次の場面では、3人の少年たちが海岸を走り、1階に喫茶店「ゆきわりそう」のある家に近づき、窓から中を覗きます。その2階では、貴船渋川清彦)と涼子安藤サクラ)がセックスの最中(注4)。
 少年たちは、そっと家の中に入って2階に通じる階段の下に潜り込みます。

 貴船の行状を明らかにする映像が挿入されます。
 光男や涼子、そして3人の少年がクリスマスイブを祝っていると、貴船が突然入ってきて「こいつらには、クリスマスは贅沢だ!」と言って暴れます。それで少年らがいなくなると、貴船は「鬱陶しい子供らがおらんで、清々する」などと言います。

 その前のシーンに続いて。
 貴船が2階から階段を降りてくると、子供の一人が階段の隙間から貴船の脚を掴みます。貴船は、階段をもんどり打って落下します。そこに、アツシ少年がバットで襲いかかります。ですが、貴船は態勢を立て直し、逆にアツシ少年を組み敷いて、「殺したる」と言いながら首を絞めようとします。それを見たケイタ少年が、ナイフを掴んで貴船を刺します(サトシ少年は、事態を見守るばかりでした)。
 貴船はそのまま死んでしまいます。

 この騒ぎを止めようとして自分でも貴船を刺してしまった涼子は、たくさんの返り血を浴びた姿で、3人の少年に対し、「今起こったことは全部忘れるの。あんたたちは、何もしていないし、何も知らない」「後のことは全部私に任せなさい」「今日から赤の他人になること。2度と会わないこと」と言い含めます。
 そして、3人の少年がその家を出ていくのを涼子は見送ります。

 これが、本作の物語の発端ですが、さあ、ここからどのような物語が展開するのでしょうか、………?

 本作では、幼い頃に殺人事件に絡んだ3人の少年が、その後どう生きて再会するに至ったのかを描いています。といっても、3人が一緒に再会するのではなく、それも3人のうちの1人が殺され、1人がその事件を担当する刑事なのです。設定はまずまずであり、舞台も、昨年クマネズミが車で行った輪島が中心でもあって、興味が湧いてきます。ですが、映像が古色蒼然としていて驚きました。あまりにもキチンきちんと律儀に撮られすぎていて、こうしたものを作るくらいなら、昔の映画をそのまま上映すれば済むのではと思ってしまいました。全体として、大袈裟に作られすぎているのでは、という印象を持ちました。

(本作は、殺人事件がかかわるミステリー物ながら、以下ではかなりネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)冒頭の北陸の荒れた景色の描写から、ラストの夕日が沈む静かな光景の描写まで、本作では、映像に随分と重きが置かれている感じがするところ、それもそのはず、撮影にはあの大御所の木村大作氏が当たっているのです。
 ただ、木村氏が監督した作品の『劔岳 点の記』と『春を背負って』ではそれほど感じなかった気負いが本作のアチコチに伺えて、鬱陶しい気分になりました。
 なにしろ、例えば、登場人物の話が過去のことに及ぶと、その都度きちんと過去の回想シーンが挿入され、それがいかにも過去の映像だというトーンで撮られているのですから。勿論、そのために観客にとっては話が随分とわかりやすくなっているとはいえ、何度もそれが繰り返されるとまたかという感じになってきます。

 それに、降旗監督は、「木村大作カメラマンが言うには、岡田准一クンは高倉健だと。そして自分が育った東宝の往年のスターになぞらえて、小栗旬クンは三船敏郎、柄本佑クンは森繁久彌だと」と語っていますが(注5)、そんなところからも、この作品が大袈裟なものに感じられるのかもしれません(注6)。

 もう少々言えば、見終わって最初に思ったのは、富山県警の刑事のアツシ岡田准一)が捜査する殺人事件と、上記(1)で触れている貴船殺しとは何の関係もないことになるわけですが、じゃあこの映画は一体何を描いているのだ、という点でした。
 最後の方で、殺人事件の真犯人が突然明らかにされます。でも、そこまでは、まるでサトシ柄本佑)を殺したのはケイタ小栗旬)であるかのような描き方でした。
 尤も、こうしたミステリー物では、犯人らしく描かれている者が真犯人でないことになるのは常道であり、むしろケイタが真犯人だったら酷く面白みのないミステリーになってしまうでしょう。
 ですから、真犯人が別にいても何の問題もありません。
 ただ、あれほど克明に描かれた25年前の殺人事件は、その後の3人にとって大きなトラウマになったはずです(注8)。にもかかわらず、サトシ殺しがその事件とは何の関係もないというのでは、一体何のためにわざわざそうしたストーリーにしたのか、と言いたくもなります(注7)。

 ですが、サトシがケイタからまとまった借金をするためには、過去の殺人事件をネタに脅しをかける必要があったのでしょう。それでも、殺人罪で服役した肝心要の涼子が、交通事故で重度の記憶障害になっているのでは、その事件を今更蒸し返そうとしても酷く難しいのではないでしょうか(注9)?



 25年前の出来事がなくとも、この物語は成立してしまうのではないのか、というか貴船殺しの意味合いは一体何なのか、と訝しく思えてもしまいます(注10)。

 それに、主演の岡田准一が終始浮かない顔つきばかりしているのは、家庭生活がうまくいかないこともあるとはいえ(注11)、何よりも25年前の事件を重く背負い込んでいるからなのかもしれません。
 ただ、サトシの殺人事件が25年前の事件と関係がないとなると、そうしたしかめっ面も、大仰過ぎる感じがしてきてしまいます。

 それはともかくとして、ラストの光景は、岡田准一が主演した『海賊とよばれた男』のラストを彷彿とさせ、なかなか感動的なシーンとなっています(注12)。
 とはいえ、そこに大きな夕日を配する構図は、時代がかってこれまた大袈裟な感じもしてしまうところです(注13)。

(3)渡まち子氏は、「本作を日本映画の良心的な原点回帰とみるか、時代錯誤とみるかで、評価が分かれるだろう」として50点を付けています。



(注1)監督は降旗康夫
 原案・脚本は、『ゾウを撫でる』の青島武と『春を背負って』の瀧本智行
 原案とされるのは青島武著『追憶』(小学館文庫)〔補注〕。

 なお、出演者の内、最近では、岡田准一吉岡秀隆は『海賊とよばれた男』、小栗旬は『信長協奏曲』、柄本佑は『ピース オブ ケイク』、長澤まさみは『グッドモーニングショー』、木村文乃は『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』、安藤サクラは『白河夜船』、安田顕は『俳優 亀岡拓次』、三浦貴大は『ブルーハーツが聴こえる』、渋川清彦は『蜜のあわれ』、りりィは『湯を沸かすほどの熱い愛』、西田尚美は『二重生活』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレットの「プロダクション・ノート」から、能登半島の北側の海岸の光景だと思います。

(注3)3人の少年は、それぞれ事情があって、涼子が営む喫茶店「ゆきわりそう」のある1軒屋で一緒に暮らしています。光男は、街で電気屋を営んでいますが、足繁く「ゆきわりそう」に通っていて、涼子や3人の少年らと大層親しい関係にあります。



(注4)貴船は元ヤクザで、刑務所から出所してきて、行方をくらましていた愛人の涼子を能登で見つけ出したというわけです。

(注5)このインタビュー記事

(注6)劇場用パンフレットのインタビュー記事の中で、木村氏は、「そういうこと(健さんの凄さ)を継げる人ということでは、岡田さんが筆頭だと思いますね。日常の佇まい、俳優としての動き方、現場での居方。すべてが健さんに近い感じがしました」と述べていたり(公式サイトのインタビュー記事でも同様のことを述べています)、「プロダクション・ノート」では「高倉健を継ぐスターとして東宝が期待をかける岡田准一」と記されたりしています。
 誰がどう思おうと勝手ながら、クマネズミには、例えば高倉健の身長が175cmくらいとされるのに対し岡田准一はせいぜい165cmくらいではないかとされている点からしても、両者は違っているのではないかと思えますし、何も岡田准一は過去のスターの後を襲うこともなく自分は自分という路線で進めばいいのでは、と思ってしまうのですが(第一、当時の映画会社所属の「スター」と、今の芸能プロダクション所属の「俳優・タレント・アイドル」とは、全くの別者ではないでしょうか)。

(注7)あるいは、上記「注5」で記載したインタビュー記事によれば、降旗監督は、「高倉健主演作のめどが立った時に、突然健さんに逝かれてしまい、がっかりしました。そんな時に、この脚本に出合いました。もとの脚本は実際にあった事件をベースにした実録ものというテイストが強く、事件自体に重点が置かれたものでしたが、それを登場人物たちが魂を救い合う話にしたかった。そこで、ヒロインの設定を聖母マリアのように変えて、脚本の手直しを進めていき、それを東宝に持ち込んだらOKが出たんです」と語っていますが、元の脚本においては、貴船殺しの意味合いはモット強められていたのかもしれません。

(注8)そんなところから、本作と『ミステック・リバー』(2004年)との類似性を指摘する声をアチコチで見かけます。確かにそんな感じがするところ、クマネズミは、むしろTVドラマとして放映された『ウロボロス』(2015年)を思い出しました。
 同ドラマは、イクオ(生田斗真)と竜哉(小栗旬)が、自分たちを育ててくれた大切な人である養護施設の先生・結子(広末涼子)を15年前に殺害した人物を追跡するという物語。ストーリーに相違があるとは言え、雰囲気に似たものを感じたところです。

(注9)それに、涼子の他にこの事件を目撃したのは3人の少年であり、アツシとケイタが何も知らないと言えば、警察も再捜査などしないでしょう(光男がいたかもしれませんが、同じことでしょう)。

(注10)あるいは、ケイタの妻・真里木村文乃)の出生の秘密がサトシにバラされてしまうことを恐れて、ケイタは口止め料として多額の金をサトシに渡したのかもしれません(ただ、何も25年前の殺人事件がなくとも、そうした物語にすることはできるように思われます)。



(注11)アツシは、保育士だった美那子長澤まさみ)と結婚していますが、関係がうまくいかず別居中です。そこには、アツシとその母親・清美(りりィ)との関係の複雑さも影響しているのでしょう。清美は、アツシを捨てて男の元に走ったりしたにもかかわらず、年を取って一人暮らしをしていると寂しさの余り狂言自殺騒ぎまで起こしたりするのです(話は飛躍してしまいますが、子供の世話をしない母親という点では、最近見た『ムーンライト』におけるリトルとその母親との関係を、狂言自殺騒ぎという点では、これも最近見た『未来よ、こんにちは』におけるナタリーとその母親イヴェットとの関係を思い出しました)。

(注12)尤も、同作では、毛布にくるまれて車椅子に座っているのが岡田准一で、そこにやってくるのが黒木華であり、男女が入れ替わっている感じですが。

(注13)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、撮影の木村大作氏は、「作品のテーマは、自然ということでは海に沈む夕日を狙ってポエジーを表現したいと思った」と語り、またその「プロダクション・ノート」でも、「脚本段階から彼(木村大作)は、この作品の映像テーマを“海に沈む夕日”に置いた」と述べられています。いやはやもの凄いことです。
 さらに言うと、「プロダクション・ノート」では、「監督は安藤(サクラ)に“日本のマリア様”のイメージを重ね合わせたという」と述べられていますが(公式サイトのインタビュー記事では、降旗監督は「安藤さんは日本のマリア様の顔をしていると思って、僕が強く推薦しました」と述べています)、随分と大仰なことだと思ってしまいます。

〔補注〕原案とされる小説(あるいは、本作をノベライズした作品でしょうか←劇場用パンフレットの「解説」によれば、本作は「完全オリジナルストーリー」とのこと)では、この記事によれば、舞台は北海道とされ、道警に勤務している刑事のサトシが、札幌近くの江別にいるケイタに会うために川崎から札幌にやってきたサトシとススキノのラーメン屋で会って、そのサトシが小樽(涼子と3人の少年が暮らしていた喫茶店がありました)で殺されているのが見つかるという内容のようです。
 他方、本作の場合、刑事のアツシ(岡田准一)は富山県警にいて、輪島に住んでいるケイタ(小栗旬)に会うためにサトシ(柄本佑)が東京から富山にやって来て、そこでアツシにラーメン屋で出会い、氷見の漁港で殺されるという話になっています。
 北海道における札幌の位置づけと、北陸における富山の位置づけとは違うように思え、小説の方が説得的のように思えます。例えば、東京から輪島に向かう場合、根拠地となるのは、富山よりもむしろ金沢のように思えるのですが(尤も、本作では、サトシは、氷見にいる妹に会って香典返しをするということにはなっているのですが←小説における殺害場所(小樽)に比べると、氷見というのはどうも不自然であり、話に酷く取ってつけた感じがしてしまいます)?



★★☆☆☆☆



象のロケット:追憶
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夜は短し歩けよ乙女

2017年05月11日 | 邦画(17年)
 アニメ『夜は短し歩けよ乙女』を、渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)評判が良さそうなので、映画館に行ってきました。 

 本作(注1)は、京都の大学の学生(本作では「先輩」と言われます)が、一目惚れした女子学生(本作では「黒髪の乙女」とされます)に近づこうとして後を追い、四条木屋町界隈の飲み屋街とか、下鴨神社で開催されている古本市、さらには大学学園祭などをうろつきまわって、事件を様々に引き起こすという物語。

 本作は、原作同様に、4つのパートに分けられるでしょう(注2)。
 ここでは、2番目のパートの初めの方を見てみましょう。

 最初のパートの終わりの方で、主人公の「先輩」が一目惚れした、1年後輩の「黒髪の乙女」が、「私は『ラ・タ・タ・タム』という絵本を思い出した。その本に会いたくなった」と呟き、本を探しに「下鴨納涼古本まつり」(注3)に向かいます。
 他方で、学園祭事務局長は先輩を呼び出し、「なぜ私をここへ?」と訝る「先輩」に対して、「「黒髪の乙女」の情報も集められている。彼女が昔読んだ本が下鴨神社の古本まつりに出品される」と言います。学園祭事務局の局員も、「その本を入手すれば、彼女の心をたやすくつかむことができるでしょう」と口添えします。
 かくして、「先輩」と「黒髪の乙女」は古本まつりに集まることになります。

 「先輩」が「夏はこんなに暑いのか?」とか「私は本が嫌いだ」などと呟きながら、古本市にやって来て、ソフトクリームを手にした少年とぶつかって、ズボンを汚してしまいます。



 「黒髪の乙女」も、「ここはまるで本の海」と呟きながら、出店している本屋の店先を歩き、以前から欲しかった本(注4)に遭遇し購入します。



 さあ、このあと2人はめでたく邂逅するのでしょうか、それとも、………?

(2)原作小説では四季が巡るところを(注5)、本作では一晩の出来事とする(注6)など、話をグッと凝縮することによって、それぞれの登場人物が、とてつもない早口で尋常ではない量の会話をする中で、展開が大層スピードアップされます。あれよあれよという間にラストまでたどり着いてしまうこととなり、結果として、実に楽しい映画の時間を過ごすことが出来ました。

 それぞれのパートについて少々見ていくと、
 二番目のパートでは、何と言っても会話の量が目立ちます。
 例えば、上記(1)で「先輩」が遭遇する少年は、「黒髪の乙女」と出会った際、「すべての本はつながっている」として長々と語り出すのです(注7)。
 そんなお喋りは、一語一語区切られて理解できるように観客の耳に入ってくるのではなく、耳に心地よい塊としてしか聞き取れません。古本市で大量の古書を見たら、一冊一冊の本というよりも本の塊に見えてしまうのと、あるいは似ているのかもしれません。

 なお、この後で、少年は「僕は古本市の神様だ」と明かし、「黒髪の乙女」が、一つの書店でまとめて高値で売られている稀覯本を、バラバラにして様々の書店の書籍の間に解放すると、「ありがとう、これで本は再び生き返る」と礼を言います。ただ、これには問題がないこともない感じがするところです(注8)。

 また、三番目のパートでは、ゲリラ演劇(注9)の『偏屈王』(注10)が「パンツ総番長」(注11)を巡る恋物語(注12)として演じられますが、すべてがミュージカル仕立てとなっているのは、原作には見られないことであって、本作制作陣のグッドアイデアといえるでしょう。

 さらに、最後のパートでは、「先輩」が風邪をひいて寝込んでいるところ、学園事務局長から、そこに「黒髪の乙女」がやってくるという連絡があり、「先輩」は大混乱に陥るのですが、その有様が「脳内会議」によって描かれます。

 脳内会議と言えば、『脳内ポイズンベリー』でしょう。
 ただ、同作の場合、会議参加者は原則5人ですが(注13)、本作の場合は、一人一人の判別がつかないほどたくさんの者が会議に参加しています。
 とはいえ、重大事が起こるとそれぞれの会議が大混乱に陥るという点は共通していて、なかなか面白いなと思ったところです。
 さらに、本作の脳内会議のビジュアルは大層躍動的で、これは原作にない場面だけに、アニメーションの特性が随分と生かされているなと感心いたしました。

 しかしながら、最初のパートは色々問題があるように思いました。
 例えば、「先輩」が追いかける「黒髪の乙女」は、大学生と言ってもおそらく20歳を超えていて、飲酒をしてもかまわないのでしょう。ただ彼女が、「李白」と称する高利貸の老人と「偽電気ブラン」(注14)の飲み比べをして勝利するなどというのは、誠に芸の無い話だとしか思えません(注15)。
 また、「黒髪の乙女」は還暦祝のパーティーに遭遇しますが、そこで赤いちゃんちゃんこを着た老人たちが話す愚痴は、どれもこれもありきたりのものばかり(注16)。
 さらに、「詭弁踊り」なるものを、「黒髪の乙女」は、詭弁論部のOB・OGと一緒に踊るのですが、映像的に醜悪ではないでしょうか?

 ただ、最初のパートでは、東堂(注17)が、閨房調査団の一員として収集していた春画を、先斗町の料亭の2階の窓から地上に向けて破り捨てるシーンがありますが、これは、最近見た韓国映画『お嬢さん』において、お嬢さま付きの侍女・スッキキム・テリ)が、屋敷の主人の収集したたくさんの日本の春本を破り捨てるシーンと重なり、大層興味を惹きました(両者には、必ずや同じ物が見られるのではないでしょうか?)。
 昨今では、芸術品としてその価値が正当視されているはずの春画・春本が、期せずして日本と韓国の映画で破棄されているシーンが描かれているというのは、一体どうしたことなのでしょう?

 このように、本作には、興味深い仕掛けが様々に施されていて、時間をかけてゆっくりとDVDで確かめてみる楽しみを見る者に残してくれているようにも思いました。

 なお、湯浅監督は、「これは人と人を繋げていく話、出会いとご縁の話なんだというのを意識して作っていました」と述べています(注18)。
 このことは、例えば、「黒髪の乙女」が、李白に対し「李白さんは孤独ではありません。ちゃんと人と繋がっています」と言ったり、あるいは「古本市の神様」が「本っていうのは、すべて繋がってるんだ」と言ったりするセリフに反映されているのでしょう。
 それに、本作において「黒髪の乙女」は、実に様々な人と出会います。
 ただ、「先輩」には学園先事務局長とか「パンツ総番長」といった友人がいますが(注19)、彼女にはそうした友人が見当たりません。
 確かに、今回の夜の徘徊によって、「黒髪の乙女」は、人との繋がりは出来たかもしれません。でも、はたして友人ができたのでしょうか?そして、彼女が李白に言ったように、人の繋がりができれば、人は“孤独”ではなくなるのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「時間や空間の概念が覆される物語もさることながら、のっぺりとしたイラストのような絵柄とカラフルな色彩のビジュアルが非常に新鮮だ。形も色も動きさえも、自由すぎるほど変幻自在に変わるそのテイストは、リアルとは対極にある」として75点を付けています。 
 前田有一氏は「時間の濃縮還元原液のような猛烈な作風を残したまま、ライトユーザーを取り込むことができたら、きっと湯浅アニメは社会問題になるくらいのムーブメントを起こすことができるだろう。そんなポテンシャルを感じる一本であった」として60点を付けています。



(注1)監督は湯浅政明
 脚本は上田誠
 原作は、森見登美彦著『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)。

(注2)本作は、次の4つのパートに分けられるでしょう。
 最初のパートは四条木屋町界隈の飲み屋街での話(原作の第一章「夜は短し歩けよ乙女」に該当するでしょう)、二番目のパートは下鴨神社で開催されている古本市での話(原作の第二章「深海魚たち」)、三番目のパートは大学学園祭での話(原作の第三章「御都合主義者かく語りき」)、そして最後のパート(原作の第四章「魔風邪恋風邪」)。

(注3)下鴨神社境内にある「糺の森」で開催されています。
 この記事によれば、実際にも、同地で8月中旬に毎年開催されています。

(注4)原作によれば、「黒髪の乙女」が中学生の時に愛読していたジェラルド・ダレル著『虫とけものと家族たち』の続編の『鳥とけものと親類たち』(P.84)。

(注5)原作は、「新緑も盛りを過ぎた五月の終わり」(P.9)から「十二月も中旬に差しかかった頃」(P.243)までのおよそ7か月間の話とされています。

(注6)劇場用パンフレットのインタビュー記事の中で、湯浅監督は、「タイトルが『夜は短し(歩けよ乙女)』なんで、原作は四季を巡る物語ですが、一晩の話にすると、すっきりタイトルの意味に収まるなと思いました」と述べていますし、このインタビュー記事においても、「今回4つの話を1本にして、一晩で起こったことにしている」と述べています。また、脚本の上田氏も、「一夜をノンストップで歩き抜くワンナイトムビーにしたい」という監督の意向を「最も重視した」と述べています。
 ですが、公式サイトの「物語」には、「春の先斗町、夏の古本市、秋の学園祭、そして冬が訪れて…」「季節はどんどん過ぎてゆく」などとあります。
 さらには、劇場用パンフレットに掲載されている「キャラクター設定」でも確認できますが、「先輩」と「黒髪の乙女」については、四季折々の服装が用意されていて、実際の映画でも、彼らの服装は各パートで異なってもいるのです。
 要すれば、本作は、一晩で四季が巡ってしまうという大変ファンタジックな設定になっているようです。
 とはいえ、逆に言えば、こうした描き方をしたら、パートとパートとの“繋がり”(!)がどうなっているのだ、と見る者を混乱させてしまうのではないでしょうか?

(注7)原作によれば、喋りの骨子は次のようです。『シャーロック・ホームズ全集』→著者のコナン・ドイルがSF『失われた世界』を書く→ジューヌ・ヴェルヌの影響→ヴェルヌの『アドリア海の復讐』→ヴェルヌはアレクサンドル・デュマを尊敬→デュマの『モンテ・クリスト伯』→翻案したのが黒岩涙香→………→三島由紀夫が嫌った文章を書いたのが太宰治→太宰治が「よくやった」と評価したのが織田作之助→『織田作之助全集』」(P.110)。

(注8)そうすれば、価値の分からない書店が安い値を付けるので、誰でも稀覯本を手にすることができるというわけなのでしょうか。
 確かに、著名な本の初版本とか絶版本や近代以前の本などは、随分の高値で販売されていて、素人には手が出ません。ただ、希少価値のあるものが高値で売られること自体は、自由な市場を認める限り当然のことではないでしょうか?それに、初版本など素人に不要でしょうし、絶版本などは図書館を利用すれば読めますから、それらが高値で取引されることにそれほど問題があるとも思えませんが?

(注9)特定の劇場で演じられるのではなく、無告知で公園とか公共広場などで突然上演される演劇のことでしょう。

(注10)ヒロインのプリンセス・ダルマが囚われの偏屈王を探すという筋立て。劇場用パンフレット掲載の「用語解説」には、「実在のサークルや学生の実名を織り込んだ虚実入り乱れる内容で構成されているミュージカル」とされています。

(注11)二番目のパートの「下鴨納涼古本まつり」の会場に持ち込まれたコタツのところで、「パンツ総番長」は、自分の渾名のいわれを「黒髪の乙女」に語ります。「芝居を見た後、空からリンゴが降ってきて、私とたまたまソバにいた彼女の頭の上に同時に落ちて跳ねた」「別れた後、彼女のことが忘れられなくなった」「彼女にふたたび出会うまでパンツを取り替えないと、吉田神社に願をかけた」。
 なお、「パンツ総番長」は、彼女に会うべく『偏屈王』の脚本を書いて、ゲリラ公演をしているようです。

(注12)「黒髪の乙女」、舞台監督の紀子、そして学園祭事務局長が入り乱れての大混乱となります。

(注13)時折、「本能」が乱入してきますが。

(注14)劇場用パンフレット掲載の「用語解説」によれば、「偽電気ブラン」とは、「電気ブラン」の味を再現しようとする過程で発明したとされる幻の名酒。
 原作では、「偽電気ブラン」について、「黒髪の乙女」の言葉で、「甘くもなく辛くもありません」「芳醇な香りをもった無味の飲み物と言うべき」「飲んでいるうちにお腹の底から幸せになってくる」と述べられています(P.64)。

(注15)湯浅監督は「大人の階段をのぼるような雰囲気が出せればいい」と述べていますが(劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事)、酒の飲み比べなどというものは、単に、生まれつき酒に強い体質をしているかどうかを明らかにするにすぎないのですから〔尤も、「黒髪の乙女」と李白との飲み比べは、原作に書かれていることですが(P.64~P.66)〕。

(注16)第一、今や60歳になったくらいでは簡単に「老人」扱いされないのではないでしょうか?にもかかわらず、原作では、還暦の人が言うこととして、例えば、「人生というものはあっけないのう」「若さがなく悩みだけとは地獄じゃないか」「還暦にして未だ納得がいかん。人生とは何ぞ」「死ぬのは怖いな」などといった御託が並べられていますが、今時ならば「米寿(88歳)」あたりの方々の会話ではないでしょうか(P.45~P.46)?
 加えて、還暦パーティーに参加している人たちが付けている時計が「12年時計」で、針がぐるぐる回っていて、これは、老人になると時間が過ぎ去るのが早く感じられるというのを表してもいるようです。この時計は原作に見られない映像的なものとはいえ、時間と年齢との関係をあまりに単純化しているのではないでしょうか?

(注17)「黒髪の乙女」が木屋町のバーで出会ったスケベ親父。高利貸の李白に借金で追いかけられています。

(注18)上記「注6」で触れたインタビュー記事の中で。

(注19)尤も、「先輩」の方は、今回の騒動の中で、それほど人との繋がりを増やしているようには見えません。



★★★★☆☆

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ブルーハーツが聴こえる

2017年05月09日 | 邦画(17年)
 『ブルーハーツが聴こえる』を新宿バルト9で見ました。

(1)タイトルに惹かれて、連休中に映画館に行ってきました。
 本作は、解散して20年以上も経ってしまった「ブルーハーツ」が作った6つの曲に基づいて、6人の監督が制作した6つの作品からなるオムニバス映画(注1)。今回選ばれた6曲の中には、クマネズミのあまり知らないものも含まれていますが、ともかく、どの曲もブルーハーツ的世界が濃厚であり、それらから着想を得て制作された6本の作品は、どれもまずまずの面白さでした。

 例えば、第6話の「1001のバイオリン」(注2)の冒頭。
 主人公の達也(注3:豊川悦司)が運転する車に、後輩の安男三浦貴大)が乗っています。
 走っているところはどうやら福島県内の帰還困難区域のようです。
 安男が「せっかく逃げたんだから、仕事を探した方がいい」などと言うと(注4)、達也は「俺のことはかまうな」と応じます。



 そして、立ち入りが制限されている区域の防護柵の前に車を停めると、達也は安男に「帰れ」「タロウを探す」と言って、車から降ります。



 次の場面は、小学校のクラスで、達也の息子の圭吾荒木飛羽)が立ち上がって、自分が書いた作文を読み上げています。



 「お父さんが、タロウを探してくれました」
 圭吾が読み終わると、先生が、「ありがとうございました。今の作文に何か感想はありますか?」と児童に尋ねます。
 クラスの後ろには、たくさんの父兄がその様子を見ていますが、その中には達也も混じっています。

 さらに、達也の家の場面。
 達也が、突然やって来た安男に、「帰らなくていいのかい?」と訊くと、安男は「女房は実家の方ですから」と答えます。
 安男が「逃げて正解でした」「最初だけですよ、俺達でなんとかしようと言っていたのは」「嫁さんに、子供ができたと言われた時は、正直、大丈夫かと思いました」と言うと、達也は「すまん」「今まで原発で食ってきて、事故が起きたら逃げ出して」「一番しんどい時に、逃げ出した」「お前らに合わす顔がない」などと応じます(注5)。

 この後、達也は、安男を連れて車で福島に向かうこととなり、冒頭の場面に繋がりますが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

(2)上で触れた第6話「1001のバイオリン」ですが、ブルーハーツの曲(作曲・真島昌利)はいかにもブルーハーツらしいとは言え、その歌詞(作詞・真島昌利)はとてつもなくブッ飛んでいて(注6)、今回の作品との関連性はなかなか理解が難しい感じがします。
 それでも、「消しゴムひとつ」用意し、「ペンを片手に」持って、どんな物語でも書いてしまうというところが第6話と歌詞とで響き合うのかもしれませんし(7注)、あるいは、「支配者達はイビキをかいている」スキに、「道なき道をブッ飛ば」し、「金網をくぐり抜け」て「会いに行く」のが愛犬・タロウということなのかもしれません(注8)。
 こんなふうに、一方で、流れてくるブルーハーツの曲を楽しみながらも、他方で、映画のそれぞれの話が醸し出す意味合いをアレコレ考えるのも、また面白いなと思ったところです。

 もう少し言えば、例えば、第2話の「人にやさしく」は、宇宙船の大きさとか登場人物が何人もいるところなどは異なりますが、全体的な雰囲気は、最近見た『パッセンジャー』に繋がるものがあるように思え、いたく興味を惹かれました(注9)。



 また、第5話の「ジョウネツノバラ」は、登場人物は男(永瀬正敏)と女(水原希子)の2人だけで、女が息を引き取った後なので、セリフが一切ありません。ですが、それだけに一層、男の“情熱”のほとばしりが映像化されているように思いました。



 ともかく、本作には、尾野真千子市原隼人斎藤工優香永瀬正敏豊川悦司などといった著名な俳優が出演者として名を連ねているというのにも、目を見張ってしまいます(注10)。

 とはいえ、オムニバス形式のために、作品の仕上がりにばらつきが出てしまい(注11)、全体としてそれほどでもない印象になってしまうのは、仕方がないかもしれません。

 なお、「ブルーハーツ」の曲は、作家のよしもとばなな氏がブルーハーツ好きだったこともあって随分と聴くようになりました(注12)。
 正直、本作からは、「リンダリンダ」や「TRAIN-TRAIN」といった誰もがよく知る曲ばかりが流れてくるのかな、と思っていたところ、その期待はやや外されてしまいました。それでも、あの「情熱の薔薇」とか「人にやさしく」といった名曲を聴くことができるのですから、何の問題もありません。
 それに、「リンダリンダ」は、山下敦弘監督の『リンダ リンダ リンダ』(2005年)ですでに取り上げられていることですし(注13)。

(3)渡まち子氏は、「6話オムニバスというのは、正直、難しいスタイルだったと思うが、音楽と映像のコラボレーションという意味で、興味深い作品となっている」として60点をつけています。



(注1)第1話:飯塚健監督の「ハンマー(48億のブルース)」(尾野真千子)
 第2話:下山天監督の「人にやさしく」(市原隼人、西村雅彦
 第3話:井口昇監督の「ラブレター」(斎藤工、要潤山本舞香)。
 第4話:清水崇監督の「少年の詩」(優香、新井浩文)。
 第5話:工藤伸一監督の「ジョウネツノバラ」(永瀬正敏、水原希子)。
 第6話:李相日監督の「1001のバイオリン」(豊川悦司、小池栄子、三浦貴大)。

(注2)「1001のバイオリン」はバンド形式の「1000のバイオリン」のオーケストラ・バージョン。

(注3)達也は、福島原発の元作業員で、3.11の震災の後、東京に移り住んでいます。
 なお、安男は、福島原発の作業員時代の後輩。

(注4)達也は、東京に家族で移住したものの、就職先が決まらずにフラフラしているようです。

(注5)その後は、次のように続きます。
 達也の妻・絵理子小池栄子)は、「来るのわかっていたら、もっと凝ったものを出したのに」と言うのですが、達也が安男に「しばらく泊まっていけよ」と告げると、絵理子は「前の家とは違う。私は絶対嫌」と怒ります。



 それに対し達也が、「住むところは違っても、住んでいる人間は同じ」と応じると、娘の杏奈石井杏奈)が「どうしてわかってないの!」と父を詰ります。
 さらに、達也が「今日は皆でどこか行くか?」と気楽そうに言うと、絵理子は「あんたと違って忙しいの」と応じます。
 それで、達也が「タロウでも探しに行くか?」と言い出すのですが、絵理子は「馬鹿なこと言わないで」と応じ、杏奈は「せっかく忘れようとしているのに」「タロウより先に仕事を探したら」と怒ります。
 にもかかわらず、達也が安男に「安男、一緒に行こう」と出かけようとするものですから、絵理子は「お願いだからちゃんとして」と嘆きます。



 こうして、映画は、第6話の冒頭の場面につながっていきます。

(注6)歌詞はこちら

(注7)李監督は、この記事の中で、「まぁ最初の“ヒマラヤ”っていうのと“消しゴム”っていうフレーズなんでしょうね。たぶんそれがすごくいろんな想像力を膨らませるというか。そんなかんじです(笑)」と語っています。
 また、この記事の中でも、「「ヒマラヤほどの消しゴムひとつ」「ミサイルほどのペンを片手に」という「超ミクロと超マクロなものが1行で出てくる詩の世界観の強度」にひかれた李監督は、「綺麗な曲ではあるんですけど、抵抗の歌にも聞こえるんです」と説明」と書かれています。

(注8)第6話の中には、達也の娘の・杏奈がマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでいるシーンが映し出され、あるいは歌詞にある「熱いトタン屋根の上」というのは、テネシー・ウイリアムズの戯曲『熱いトタン屋根の猫』に関連しているのかな、とも思ったりしてしまいます。

(注9)例えば、『パッセンジャー』では、移動する宇宙船に隕石が衝突して、その推進機関が重大な損傷を受けるのですが、第2話でも同じようなことが起こりますし、『パッセンジャー』では、宇宙船に乗っていたジムクリス・プラット)が、身の危険を投げ打つ船外活動によって推進機関の修復に努めますが、第2話でも謎の男(市原隼人)が同じように船外活動を行います。
 なお、この謎の男がアンドロイドであるというところから、「人にやさしく」というタイトルにつながってくるのでしょう。

(注10)ただ、監督については、第6話の李相日監督を除いて、クマネズミには余り馴染みがありません(飯塚健監督の『荒川アンダーザブリッジ The Movie』は見ていますが)。

(注11)クマネズミには、第1話は、尾野真千子が与える感じと歌詞(「ハンマーが振り下ろされる 僕達の上に」)から、ラストが予め見えてしまうのではと思われ、また、第3話は、近頃よく見かける「学園物+SF」的な感じがしますし、第4話はホームドラマ的な雰囲気を超えてほしかったな、と思いました。

(注12)例えば、こうした記事が参考になるでしょう。

(注13)以前、DVDで見たことがありますが、前田有一氏がこの記事で言うほどひどい作品ではなかったように思います。



★★★☆☆☆



象のロケット:ブルーハーツが聴こえる
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