映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

「会田誠」展

2010年05月31日 | 美術(10年)
 ブログ「ARTTOUCH」の記事で、安積桂氏が、市ヶ谷のミヅマ・アート・ギャラリーで開催されている会田誠展「絵バカ」を取り上げているので、見に行ってきました。

 会田誠氏の絵画について直接目にしたのは、山口晃氏とのふたり展『アートで候。』(上野の森美術館、2007年)くらいで、作品の大部分は画集『Monument for Nothing』(グラフィック社、2007年)で見ました。
 今回は、久し振りにその絵を直接見ることができるということと、昨年11月に市ヶ谷に新たに開設された画廊スペースで展示されるとのことなので、興味がわいた次第です。

 JR市ヶ谷駅から外堀通りをしばらく飯田橋方面に向かって歩くと、1階がガレージになっている建物があり、外側に取り付けられている階段を上ってドアを開けると、そこがギャラリーです。
 入ってすぐの右手には、DVD作品「よかまん」の映像が、やや大きめの液晶画面の中で絶え間なく流れています〔東京芸術大の学生とおぼしき2人の女性が、全裸で、「一つよかまん、なんじゃろな」と踊っています〕(注1)。
 その奥の左手に「灰色の山」が、その右側に「1+1=2」(注2)が、もうひとつ右に回ると「万札地肥瘠相見図が展示されています。

 今回の個展の目玉は、何といっても「灰色の山」でしょう。
 


 制作中の会田誠氏の姿が見られます。

 全体の構図は次にようになります。



 今回の展覧会に関する産経新聞の記事によれば、「高さ3メートル、横幅7メートルの巨大キャンバス。遠くから見ると水墨の山水画の趣。近づくと手前のグレーの濃い山は、廃棄物が捨てられたゴミの山のよう。もっと間近で見ると、そこには無数の人間の屍がアクリル絵の具で描かれているのだ。スーツにネクタイ姿の典型的なサラリーマン。髪が金髪もいれば黒髪もいる。世界中のサラリーマンが集められた。彼らがパソコンなどOA機器とともに倒れ、ゴミのように堆積している。サラリーマンの屍の山」というわけです。

 同記事を書いた産経新聞記者は、この絵について、「むごたらしい光景だが、目を背けたくなるものではなく、かえって目を凝らして見てしまう」のであって、「一人一人の個性は尊重されず、全体の中に埋没する人生の悲哀や皮肉が込められているのだろうか」と述べています。
 朝日新聞にも、この展覧会についての記事が掲載され、その中で記事を書いた記者は、「今月13日の新聞に、自殺者が12年連続で3万人を超え、うち7割が男だという記事が載った。馬鹿馬鹿しいほどの数の死体の山は、そんな現状をも連想させるスケールの大きな作品になった」と述べています。
 同じ作品を見ても、二つの新聞の特色がそれぞれの記事から窺われるところで、特にどんな物事をも社会的・政治的な問題点に結びつけたがる朝日新聞の性癖が見出されるのは興味深いところです。

 なお、二つの記事とも、この絵と「ジューサーミキサー」(2001年)との繋がりを指摘しています。



その一部を拡大すると、以下のようです。



 
 驚いたことには、丁度同じ時期に、日比谷にある「高橋コレクション」では「会田誠+天明屋尚+山口晃―ミヅマ三人衆ジャパンを斬る―」展が開催されていて、会田誠氏については、他の絵に混じってこの「ジューサーミキサー」が展示されているのです。

 さて、今回の「灰色の山」ですが、「ジューサーミキサー」のインパクトに比べると、随分と大人しさを感じてしまいます。むろん、一方の、「ジューサーミキサー」の方は、無数の裸の若い女性が描かれているのに対して、モウ一方の「灰色の山」の方は、背広を着たサラリーマンですから、それだけでも大違いですが、なんと言っても前者は、人間が、こともあろうにジューサーにかけられるという「地獄絵」であり(注3)、「サラリーマンの屍の山」が実際にも山をなしている後者に比べたら、見る者に与えるインパクトは遙かに大きいと言わざるを得ません。
 それに、サラリーマンが「パソコンなどOA機器とともに倒れ」るというのは、映画『ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない』ではありませんが、あまりにありきたりのイメージではないかと思えてしまいます。
 それでも、なにはともあれ「人生史上最多の描写量」という点は、評価すべきだとは思われるところです。


(注1)朝日新聞の記者は、この映像作品について、「悲壮感はどこにもない。絵バカを受け継ぐ期待の星は、草食系男子ではなく、腹が据わった肉食系女子ということか」と述べています。
(注2)この絵については、安積桂氏が、ブログで「これは会田の初めての抽象画なのだ」と述べているところです。
(注3)高橋コレクションの展覧会の会場で配布されている「作家による作品解説」の中にある言葉です。

ソラニン

2010年05月30日 | 邦画(10年)
 「映画ジャッジ」の評論家の評価が比較的高いこともあって、『ソラニン』を渋谷のシネクイントで見てきました。

(1)この映画で目につく中年過ぎの大人といったら、主人公・芽衣子(宮崎あおい)の母親(美保純)と、その恋人の種田(高良健吾)の父親(財津和夫)で、それぞれ1回ほど簡単に登場するだけにすぎません。ほとんどの場面は、宮崎あおい以下の若者しか登場しませんから、まさに現代の青春映画と言っていいでしょう。
〔彼らの親は、子供の生き方を容認(あるいは黙認)していると言えます。一昔前なら、あてもなく暮らしている子供たちを見たら、普通の親は自分のもとに強制的に連れ帰ることでしょう〕

 加えて、映画では、若者たちを巡る設定が、かなり今的なものになっています(注)。
 まず、種田と同棲している芽衣子は、卒業後一般の会社に就職しますが、つまらない仕事や人間関係に嫌気がさしています。
 また、大学の軽音楽サークルで知り合った男たち3人が、卒業してもバンド活動を続けています。それも、種田(ボーカル、リードギター)がフリーターとしてイラスト関係の会社で働いており、もう一人(ドラマー)は家業の薬局を継ぎ、3人目(ベーシスト)は留年して大学に残っているというように、別々に取り出せば現在どこにもありそうな設定となっています。
 要すれば、いわゆる“真の自分”を発揮できる居場所には、誰もいないのです。
 この4人が、それぞれの居場所で自分にピッタリこない感じを出すエピソードは、なかなか工夫されていると思いました。
 たとえば、芽衣子は、上司に、一方で作業の仕振りについて酷く怒られるも、他方で食事に誘われたりします。また、種田は、イラストの仕事の最中、物差しをイヤホーンから流れてくる曲に合わせて、狂ったように敲き続けてしまいます。
 これではいけないと、“真の自分”を取り戻すべく、芽衣子は会社を2年で辞め、種田もフリーターをやめて作曲に専念しようとします。他の2人もバンド活動に一層身を入れようとしたところ、途端に種田がアッサリと交通事故死するのです。
 芽衣子は、それまでギターに触ったことがないにもかかわらず、種田の後釜になって、彼の残した「ソラニン」という曲を演奏すべく、練習に明け暮れます。
 ラストのライブのシーンは、「ソラニン」という曲が悪くないせいもあって、大層感動的でした。

 という具合に、ある意味でよくある話なのでしょうが、この映画では、テンポを抑えてじっくりと描き出され、最後のライブ・シーンもそれでメジャー・デビューにつながって云々というわけでもなく、全体として地に足のついた作品となっているのではと思いました。


(注)評論家の粉川哲夫氏は、「この映画は、80年代の話でも、90 年代の話でもない。少なくとも、登場する「小道具」や「大道具」を見るかぎり、時代は「現代」である」。ところが、「フリーター」や「バンド」が、最も輝いていたのは1980年代であ」って、「2010年のいま、「フリーター」や「バンド」はほとんど死語になってしまった」と述べていますが。


(2)こう見てくると、この作品の背景となっている社会状況は、5月22日の記事の(3)で取り上げた『希望格差社会』(山田昌弘著)が描き出しているものにヨク通じているように思えてきます。
 すなわち、その著書によれば、「現在の日本社会は、「努力が報われない機会」が増大する社会」(P.231)のであり、「希望がなくなる、つまり、努力が報われる見通しを人々が持てなくな」る社会なのであって、そこでは「新しい経済システムに適応できる能力のある人と、落ちこぼれてフリーター化する人の格差が広がっている」(P.258)のです。
 そして、「努力しても報われないという現実の自分の状況を忘れさせてくれるものが、理想の仕事、理想の相手という「夢」なのである」が、「ここに、自己実現の罠が生じ」、「妥協して自分の現在の能力にあった仕事に就くことは、「夢を捨てる」ことにな」ると思われて(P.251~P.252)、フリーターをやめるわけにはいかないと思いがちになってしまいます。

 映画でも、種田が、一緒にボートに乗っているとき、芽衣子に「俺たち別れよう」と言って田舎に帰るつもりのことを告げると、芽衣子は「そんなの種田らしくないよ」と、自己実現の夢を降りたがっている種田にプレッシャーをかけたりします。
 他方で、種田も、就職する芽衣子に向って、「いくら就職しづらい時代だからといって、芽衣子さんはお茶汲んだりするために生まれてきたわけじゃないじゃんか」などと言ったりもします。
 頭では、「未来には全然希望の光は見えてこなくて、退屈な毎日が続くんだ」とわかっていながらも、他方で、「自分はすごいことができるんじゃないか」とも思っていて、それになんとしてでもしがみついていたい、というわけなのでしょう。
 芽衣子たちは、「ソラニン」を歌ったあとは一体どうやって生きていくのでしょうか?

(3)映画評論家は総じて好意的な論評をしています。
 小梶勝男氏は、「誰もが物語の主人公になれるわけではない。多くの凡人たちは、他人に夢を託すしかないのだ。むしろ、本作の登場人物たちは生活を大事にするという点では、健全といえる。終戦後の破れかぶれの若者たちでも、政治の季節の若者たちでも、バブルに狂った若者たちでもない、不況の世の中で等身大に生きる若者たちが、ここにいる」として75点を、
 福本次郎氏は、「夢だけを追うには歳を取り過ぎ、夢をあきらめるには若すぎる。大人になる前にやり残したことに未練を覚えている若者と、彼を応援ている恋人。目標に向かって努力しているつもりでも、居心地のいい“今”に押し流され、何者にもなれずにもがいている主人公の感情が非常に切なくてリアルだ」として70点を、
 渡まち子氏は、「クライマックスの、芽衣子とバンドの仲間たちによるライブは圧巻だが、彼らの目標はプロデビューやコンテストでの優勝などではないところがいい。あくまでも大切な人間を失った悲しみを乗り越えるために歌うという点が素晴らしく、ピュアなその思いが感動を呼ぶ」として65点を、
それぞれつけています。


★★★☆☆


象のロケット:ソラニン

君と歩こう

2010年05月29日 | 邦画(10年)
 この間のブログの記事で取り上げた『川の底からこんにちは』と並行して石井裕也監督によって制作された『君と歩こう』が上映されているとわかり、苦手のレイトショーにもかかわらず、ここまで同監督の作品にお付き合いをしたのだからということで、ユーロスペースに出向いてきました。

(1)この映画は、田舎の高校の英語教師の明美(目黒真希)が、その教え子の高校生のノリオ(森岡龍)と突然駆落ちをするところから始まります。
 二人は東京に出て、アパートを借りて生活をするものの、先生と生徒の関係が厳然と維持され、ラブロマンスの要素はほとんど感じられません。何しろ、20歳近く年が離れてもいるのですから!
 明美としては、現状を打破すべく東京に出てもっと飛躍したかったのでしょう。ですが、先立つものがなく、カラオケの呼び込みのアルバイトをノリオには黙ってするようになります。ところが、余りの仕事内容のためにやる気が起こらず、アルバイト仲間から毎回なじられる始末。
 ノリオの方も、両親が自殺してしまい田舎から外に出たかったのでしょう。明美から、弁護士になるようヨク勉強せよと強く命じられ、東京で図書館に毎日出かけるものの勉強など手が付きません。
 様々な面白い出来事が次々に起こった末に、結局、ノリオは元の田舎に戻ります。3年後に、駆落ちの出発点だったバス停のところをモーターバイクで通りかかると、椅子に座っている明美に遭遇するのでした。

 先生と生徒の駆落ちという意表を突く始まりながらも〔先生の方は、「逃げて!」と積極的なのですが、ノリオの方は、一体何から“逃げる”のかよく分かっていない感じです〕、駆落ちというイメージから普通期待してしまう愛欲シーンなどまるでなく、かわりにノリオが図書館で勉強するシーンなどがあったりするのですから、その外し方は巧みと言わざるをえません。
 さらには、明美とノリオは、自分たちの駆落ちがうまくいっていないのに、高校生同士の駆落ちに全面的に協力したり、また図書館で知り合った9歳の男の子のことを明美が手放した子供ではないかとノリオは早トチリから思いこんで騒動になったと、様々にズレたことが行われてしまいます。
 取るものもとりあえず敢行した駆落ちには、つまらない厳しい現実の生活がすぐさままとわりついてきますが、明美とノリオは、そうした自分たちを取り巻く状況に実にあっけらかんと対応して、落ち込むことはありません。

 この作品には、これまで石井裕也監督が製作した映画に見られるような酷い“ダメ人間”は登場しませんが、世の中を巧みに泳ぐような人間もまた登場せず、出てくるのは、厳しい現実の中にありながらもどこか憎めない人たちばかりで、見終わると何か実にほのぼのとした気分になってしまいます。

(2)なお、この映画の劇場用パンフレットのIntroductionには、この作品は、「石井監督が、女教師と男子生徒というハチャメチャなコンビが織り成す破天荒な物語の中に、さりげなく人生のおかしさと哀しみを描いている」ものであり、さらには、「「落語のような軽妙な作品を作りたい」と奮起して撮り上げた」映画である、とも述べられています。
 また、産経新聞には、石井裕也監督のインタビュー記事が掲載されました。

(3)ところで、今回取り上げた『君と歩こう』を含めると、まだ27歳と随分若いにもかかわらず、石井裕也監督は長編映画をすでに6本制作したことになります。    
 一応、DVD版も含めればそのすべてを見たので〔石井裕也監督作品「」「」をご覧下さい〕、簡単に概括してみることにしましょう。
 
 全体を通じてうかがえる一番の特色は、最新作の『川の底そこからこんにちは』を含めて、登場する人々がみな普通人、それも男性陣はダメ人間ばかりですが、女性陣は、総じて頑張り屋(あるいは現状打破派)が多い点でしょう。

 たとえば、『川の底からこんにちは』の主人公は、自分は「中の下」だと意識しながらも、家業のシジミ屋を立て直すべく一生懸命になりますし、そこで働くおばさんたちも彼女に釣られて頑張ります。『ばけもの模様』の主人公も、夫をバットで殴って重傷を負わせることで便秘が治って、すっきりしてしまいます。『ガール・スパークス』の主人公の女子高生は、父親が経営するネジ工場の景気が悪いことを知ると、俄然やる気が出てきます。
 他方で、『川の底からこんにちは』の主人公と一緒に田舎までやってきた男とか、『ばけもの模様』の主人公の夫などは、相手が仕事に精を出していたり精神的に厳しい状況にある時に、他の女性に靡いたりして家を出てしまいます。また、『剥き出しにっぽん』の主人公は、自分から田舎に行って野菜を作ろうと言っていながら、その仕事は一緒に連れて行った彼女に任せて、自分は交通誘導員のアルバイトをしている始末です。

 逆に、男性陣の例外としては、『反逆次郎の恋』の主人公・次郎かもしれませんが、最後になって反逆に一歩踏み出すものの、そこに至るまではどうしようもないダメ人間です。
 女性陣の例外としては、『君と歩こう』の高校教師でしょう。ただ、自分の生徒をけしかけて駆落ちするのは、この教師の方ですから、最後は尻尾をまいて元の所に帰っては来るものの、現状打破派の片鱗はうかがえるでしょう。

 こうした構図には、社会の上層部とか成功者はいっさい登場しません。社会の底辺で蠢いている人たちばかりが、画面で描かれます。ですから、女性陣の頑張りはあるものの、その果てに何があるのかは、描かれなくとも観客にはお見通しです。
 一応、『ばけもの模様』の結末では、主人公もその夫も救われる感じになっていますが、長続きするのでしょうか?他の映画の結末・行く末は、『ガール・スパークス』のように、それぞれがてんでんばらばらになって、どうなるのか分からない、というところでしょう。だってそれが庶民というものでしょう!

 とはいえ、むろん、それぞれの作品はそれぞれ違った味付けがなされていて、それぞれが大変面白い内容となっています。面白さという点では、やはり『川の底そこからこんにちは』でしょうが、わかりやすく親しみを持てるのは『ガール・スパークス』かもしれませんし、逆にシュールで難解な作品というなら『反逆次郎の恋』でしょう。

 さあ、これから石井裕也監督はどんな方向に舵を切っていくのでしょうか?



★★★☆☆




石井裕也監督作品(下)

2010年05月26日 | DVD
 前日に引き続いて、石井裕也監督作品のレビューです。

ハ)『ガール・スパークス
 石井裕也監督による長編映画の第3作(2007年制作)(注1)。



 映画の冒頭では、主人公の女子高生が、交通量の多い道路脇に現れて空を見上げると、それと判別できるロケットが右から左から飛んでいて、中には空中で衝突するものもあります。
 これはSF映画かなと身構えると、それ以降は極めて現実的なストーリーが面白おかしく描き出されます(話の合間には、空にロケットが飛ぶものの!)。
 有体にいえば、田舎の高校に通うこの女子高生に接近してくるする男性は、皆が皆ダメ人間で(「男って、チョーダサイ!」)、彼女は「ロケットにも、親父にも、学校にも、工場にも、チョーむかつく」と叫び出さざるを得なくなってしまうのです。
 なにしろ、父親はネジを製造する零細企業の社長ながら、母親のいない彼女のためを思って、割烹着を着たり、果ては化粧までしてしまいます。また、彼女に気のある男子生徒は、彼女へのプレゼントを、ほかの生徒を脅して調達したりします。学校の担任は、性教育の授業中に、わざわざ彼女に教科書を読み上げさせようとします、などなど。
 それで、彼女は、ここを離れればもっと世の中のことが分かり、この世を変えられるかもしれないと、東京に出て下宿生活をしますが、5kg太っただけで何も分からずに1か月で舞い戻る羽目に。
 そうこうするうちに、父親の会社の経営状況が思わしくないことがわかり、そんなことならと今度はネジ製造の仕事に一生懸命になります。
 ところが、空にロケットが飛ばなくなると、そのロケットにこの工場のネジが使われていたこともあって、父親の会社は倒産してしまいます。

 ロケットの意味するところを別にすれば、この映画は他の石井作品と比べても、かなり分かりやすく出来上がっているなと思いました。男性陣は皆ダメ人間ばかりで、彼らに「チョーむかつ」いている女子高生が、最後には頑張ってしまうというストーリーがくっきりと描かれています〔最後の最後では、その頑張りも無意味になってしまいますが〕。

 さて、そのロケットですが、もちろん各人各様に受け止めればいいと思います(注2)。たとえば、日本経済の中核(大企業とか大銀行など)と考えてみてはどうでしょうか?地方の零細企業ならば、直接に関係しないものの、その中心部分が失速してしまうと、早速倒産という影響をもろに受けてしまうのです。
 となれば、このロケットこそがモウ一方の主役なのではないでしょうか?そして、一時代前の無様な形で今にも墜落しそうに空を飛んでいる姿からすると、日本社会に対する石井監督の見方もそんなところなのかなとも思えてしまいます。




(注1)「Intro」掲載の「インタビュー」によれば、この映画は50万円で制作されたとのこと。
(注2)「映画芸術DIARY」に掲載された「インタビュー」では、石井裕也監督は、「不誠実や悪が現実に存在してるのに、それがわからないように隠蔽されている。そういうことのシンボルって言うか、具現的な表現があのロケットなんです。意味わかんないけど、でも現に飛んでるっていう」と語っています。


ニ)『ばけもの模様
 2007年制作の本作品は、専業主婦の順子が主人公。海で一人息子の清が溺死するという事故に遭ってから、精神に幾分変調をきたし、夫の喜一との関係もギクシャクしています。



 ある日、順子は、パチンコ店の駐車場を走る車にもう少しのところで轢かれそうになります。その若い運転手は、石井監督の映画によく出てくる“ダメ人間”というか、大変気の小さな人間。近くのスーパーの入り口で、叔母さんと一緒にメロンパンを車を使って販売しています。
 他方で、順子との生活に疲れた夫の喜一は、会社の女子事務員と不倫旅行に出掛けてしまいます。順子の方も、自分を轢きそうになった運転手とばったり会ったのをいいことに、彼を強迫してメロンパン販売用のバンに乗って、当て所もない旅に出ます。
 ここらあたりまでは、まあ普通の物語の進み具合といえるでしょう。

 ところが、全然別口で出発したにもかかわらず、二人は、息子を亡くした海辺で巡り会ってしまうのです。それで戻って再び一緒の生活を始めるのですが、スッキリしない順子は、衝動的に夫をバットで殴りつけてしまいます。その上、順子はあの運転手を家に連れてきて、瀕死の重傷を負ったはずの夫の介抱に当たらせるのです。
 ただ、暫くすると、夫は何事もなかったように起き上がり、最後はメロンパンの販売に携わるようになっています。
 順子の方は、再び海の方に出て空を見上げると、重い便秘が治ってしまい、死んだはずの息子が現れて、その後片づけをするところでジ・エンド。

 前半は、子どもを事故で亡くした夫婦の重苦しい関係が中心的ですが、順子が夫をバットで殴りつけた辺りから物語は酷くオカシナ様相を呈してきて、結局、順子はズット苦しめられてきた便秘も治り、また死んだ息子との関係も折り合いが付いた感じになるのです。
 もしかしたら、『反逆次郎の恋』の主人公のように、バットで重圧をはね除けろ、そうすれば局面が打開されるかもしれない、と映画は言っているのでしょうか?といっても、メロンパンの販売に携わる夫にしても、便秘が治った順子にしても、アカルイミライが待ち構えているとはトテモ思えないのですが。

 ところで、この映画のラストの方では、主役の順子(元宝塚劇団華組トップスターの大鳥れいが扮しています)が、海岸で“野糞”をする場面があるところ、上記の『ガール・スパークス』でも、父親の大きな便が浴室にあったと女子高生が騒ぐ場面があります。『川の底からこんにちは』では、木村佐和子(満島ひかり)が糞尿を川岸に撒く姿が何度も描かれています。
 石井監督の糞便に対する拘りの表れなのでしょうが、決して糞便を汚いマイナスのものとして扱っていない点が面白いなと思いました。

石井裕也監督作品(上)

2010年05月25日 | DVD
 22日の記事で取り上げました『川の底からこんにちは』が大変素晴らしい出来栄えだったことから、その制作に当たった石井裕也監督の他の作品にも興味が出てきました。
 幸い、これまでの長編の作品についてはDVD化されていてTSUTAYAで借りて見ることが出来ますので、2回に分けてレビューしてみようと思います。

イ)『剥き出しにっぽん
 石井監督が21歳(2005年)のときの作品(2008年レイトショー公開)。製作費400万円ながら、第29回ぴあフィルムフェスティバルでグランプリと音楽賞を獲得しています。




 映画では、主人公は、高校卒業後何をやっても駄目だからと、自給自足の生活をすべく、高校で同級生のヒロインを誘って、畑の中の一軒家を借りて引っ越しますが、ちょうどリストラされた父親も、母親の目が厳しくて家に居づらいからと一緒についてくることになります。3人によるオンボロ農家における共同生活が始まるものの、うまくいくはずがありません。ですが、紆余曲折を経て、最後には、一応の格好のとれた形におさまってジ・エンドです。

 この映画に登場する男性陣は、ダメ人間ばかりで、その最たるものが主人公。格好は付けるものの、畑仕事などとてもできず、最後は、これまたダメ人間の父親(息子と同じように強がりを言っても、妻ときちんと向き合って話すことができません)と一緒に、交通誘導員のアルバイトをする羽目に。
 さらに、主人公は、ヒロインに対しても強がりを言いますが、結局は牛耳られてしまいます(なにしろ童貞なものですから!)。
 この映画では、母親は、主人公と一緒の場面ではほとんど登場しません。ですが、父親を含めて一家全体を包み込んでいるのは、その母親ではないかと思えてきます。そして、それをヒロインが引き継ぐのではないでしょうか。なにしろ、夫と息子が出て行ってしまった家を守っているのは母親ですし、畑で農作業をしているのはヒロインなのですから。
 それでも、皆がなんとか真正直に生きようとしているのが、「下ネタ」の多いこの映画の救いのように思われます。


ロ)『反逆次郎の恋
 前作「剥き出しにっぽん」において、映画の中のTV画像ながらサッカー少年役で出演した「とんとろん」こと内堀義之が主役の次郎を演じている作品です(2006年)(注)。




 この次郎は、営業マンとはいえ、絶えず顔面をピクピクひきつらせ、のべつ煙草を吸い、かつスムースな会話ができない内に閉じこもりがちなダメ青年。当然のことながら営業成績が悪く、そのため先輩から色々イビられます。
 さらに、ひょんなことから恋してしまった工場労働者の倫子(松谷真由美)を家に連れてきたところ、次郎は彼女からも酷い扱いを受けます(倫子もまた相当ひねくれた性格の持ち主で、世間にうまく入っていけません)。
 また、次郎には、ロックバンドでヴォーカルとギターをやっている友人がいるものの、彼ともスムースな会話ができていません。
 要するに、肉体の面でも性格でもダメ人間の次郎がこの映画の主人公のところ、ある日、倫子とピクニックに行った森の中で、偶然女性の他殺体を発見してしまうのですが、そこらあたりからこの映画は俄然ミステリアスな様相を呈してきます。
 次郎は、倫子と一緒にいる時もこの他殺体のことが気になってしまい、何度もその現場に出かけることになります。すると、その現場に、彼の友人が、女性を連れてきているのに遭遇するどころか、なんとその女性は殺された女性とウリ二つなのです。
 なぜでしょうか?ですが、ここから先は、見てのお楽しみということにしておきましょう。

 この作品も、前作同様ダメ人間を中心的に取り扱っていますが、コミュニケーションがうまく取れない設定となっていることもあって、前作で見られたギャグとかコメディー・タッチは、この作品では影をひそめています。
 それでも、現状を脱出すべく、“やられる前に相手をやっつけてしまう”という方向性が打ち出されているところが注目される点でしょう。

(注)「シネマトゥデイ」の記事によれば、この映画の製作費は7万円とのこと!


愛のむきだし

2010年05月23日 | DVD
 前日のブログ記事で書きましたように、TSUTAYAから『愛のむきだし』のDVDを借りてきて見てみました。
 この作品は、昨年さまざまの賞(注1)をもらって注目されていましたから是非映画館で見たいものだと思っていましたが、余りにも長尺のため二の足を踏んでいたところ、とうとう劇場公開は終わってしまい、そうなるとまあいいやとなって、DVDもそのまま見ずに終わるところでした。

(1)園子温監督の作品は、映画館では『ちゃんと伝える』しか見たことがありませんが、その映画のAKIRA(EXILE)といい、この映画の西島隆弘(注2)といい、歌手を俳優として使うのがとてもうまい監督だなと思いました。
 また、DVDで見た『紀子の食卓』は、この映画ほどではありませんが160分の長さの作品ながら、この映画同様その長さは少しも気になりませんでした。監督の類い稀なる長編制作力によっているものと思われます(注3)。

 そんなことはさておき、この映画は、長いだけあってストーリーはかなり複雑で、それを把握するだけで精一杯になってしまいます。大雑把には次のようでしょう。

 母を幼い時分に亡くしながらも、主人公の本田ユウ(西島隆弘)は、神父の父テツ(渡部篤郎)と二人で幸せな生活を送っていたところ、自由奔放なカオリ(渡辺真起子)が突然彼らの前に現れます。テツは神父でありながらカオリに溺れてしまいますが、そんな日は長く続かず、カオリは立ち去ります。
 ある日、ひょんなことから「女装」していた最中に、ユウは、街のチンピラに絡まれていたヨーコ(満島ひかり)に出会い救出しますが、彼女に「マリア」を見出し恋に落ちます。ヨーコも、自分を助けてくれた女装のユウ〔謎の女(サソリ)〕に恋をしてしまいます。
 そうしたところ、いなくなったはずのカオリが再び現れ、父はそのカオリと再婚すると言い出します。おまけに、カオリの連れ子がまさにヨーコだったのです。ヨーコは幼少期に父から受けた虐待で男という男を全て憎んでいますから、サソリの正体がユウだとは知らないこともあって彼を酷く毛嫌いします。
 同じころ、「ゼロ教会」という新興宗教団体が世間を騒がせていました。そこにはコイケ(安藤サクラ)という敏腕ながら性格の曲がった女性信者がいて、信者数を増加させるべくユウたちに近づいてきます。ついには、ヨーコに自分がサソリだと思わせ、ヨーコの信頼を勝ち得るとともに、ユウの家庭の中にまで入り込んできて、ユウのいない間に皆を「ゼロ教会」に引き連れていってしまいます。
 ユウとその仲間は、ヨーコをゼロ教会から救い出そうとし、ヨーコを拉致して監禁しますが、監禁場所にコイケたちがやってきて、ヨーコは取り返されてしまい、さらにはユウもゼロ教会に入信することを強要されてしまいます。
 仮面入信したユウは、隙を突いて教団本部に忍び込みヨーコを助け出そうと試みます。ですが、洗脳にされてしまった彼女は簡単には元に戻ることができません。
 むしろ絶望的になったユウは、精神的なダメージを受けて精神病院に入らざるを得なくなります。
 他方、救出されたヨーコは、親戚の家で従妹たちと一緒に暮らすうちに、次第に洗脳が解けてきてユウの気持ちが理解できるようになり、入院先に行ってユウと面会します。
 はじめのうちユウは、ヨーコに何も反応せず、ヨーコも病院を立ち去らざるを得なくなるものの、次第に記憶が蘇ってきて、とうとう全てが分かるようになり、ヨーコの乗るパトカーを追いかけ、ついには二人が固く握手するシーンでジ・エンドになります。

 こんな簡単な要約からでも、この映画が、カルト教団、親と子の葛藤、精神病院などといった現代的な問題をビビッドに取り上げていることが分かると思います。
 そうした状況をヨコ糸として、何よりもユウとヨーコとの関係がタテ糸として、4時間という上映時間の中で、様々な側面からじっくりと強い説得力を持って描き出されていきます。
 ユウは、普通の高校生、父親と対立する息子、女装したサソリ、精神が崩壊した病人などの面を見せますし、ヨーコも、女子高生として、サソリに同性愛を抱く女性として、カルト教団の信者として、洗脳が解けた人間として、ユウを病院から助け出そうとする女性として、というように様々に変化します。
 普通であれば、これだけ錯綜した面を中心人物が見せれば〔さらには、カオリとコイケが絡んできます〕、作品から混乱した印象を受けてしまうところでしょうが、監督の傑出した手腕と、彼らを演じた西島隆弘と満島ひかりの演技力によって、映画は見る者を圧倒します。

 特に、満島ひかりは、この映画に初めて登場する場面では、街のチンピラと格闘しスカートを翻す大胆なカットまであり、またユウに拉致されて壊れたバスの仲に監禁される場面では厳しく縛められていますし、ラスト近くではユウを殺そうと首を絞めたりまでするなど、まさに体当たりと言っていいほどの活躍振りです。
 そして、最後にユウと手を握り合う場面での嬉しそうな顔は出色の表情です。
 これからもイロイロな映画に出演して様々な物を見せてもらいたいものだと思いました。

(注1)たとえば、第59回(2009年)のベルリン映画祭にて、「カリガリ賞」及び「国際批評家連盟賞」を受賞。
(注2)彼が所属するAAAがごく最近リリースした「逢いたい理由/Dream After Dream ~夢から醒めた夢~」がオリコン(5月17日付け)の第1位になったとのことですが、この歌を作曲したのが、ナント小室哲哉だとは!
(注3)長尺の映画としてこれまで見たものには、3時間37分の『ユリイカ』(青山真治監督)とか3時間22分の『沈まぬ太陽』がありますが、この作品は3時間57分で、それらよりも20~30分以上長いのですから!


(2)この映画で興味を惹いたのは、些細なことですが、ヨーコとカオリの右の二の腕にタトゥーが見られる点です(注)。



 ただ、実際にこのタトゥーが何を表しているのか(十字架は分かりますが)、どんな経緯で二の腕に入れることになったのかなど何も映画から伝わってこない点が残念なところです。

(注)なお、報道によれば、新しい英国首相夫人の足首には、小さなイルカのタトゥーが入っているとのこと。


(3)映画評論家の評価は二つに分かれるようです。
 渡まち子氏は、「アブノーマルな行為が、信仰というフィルターを通して高純度の愛へと至る物語に、心から感動した。ふやけた笑顔の西島隆弘と挑発的な満島ひかり。共に適役である。ダンスのような盗撮テクはギャグすれすれで、かなり笑える」などとして80点の高得点を与え、
 また、福本次郎氏も、「ほとばしるような激情が圧倒的なパワーとなって、4時間近い上映時間を一気に突っ走る。先の読めない展開は一切の予断を許さず、俳優たちの熱演と緻密に練られた演出は細かい齟齬を力業でねじ伏せる。破壊的な情熱をフィルムに焼き付けたかのような物語は、園子温監督の魂を投影しているかのよう」として90点も付けています。
 ですが、前田有一氏は、「要するに、なんでもありの世界でなんでもありのストーリーをやっても、観客は驚きも感心もしない」のであって、「虚構の世界にまずは現実感を構築し、そこに配置してこそ突飛な内容も生きてくる。だが、この映画はそうしたプロセスを(あえて)踏んで」おらず、「めくるめく不条理&変態ワールドに酔いしれ、そこから各自、何かをつかみとって帰りましょう、という映画」だ、として45点しか付けていません。
 ただ、前田氏は、一方で「観客は驚きも感心もしない」と言っておきながら、他方で「めくるめく不条理&変態ワールドに酔いしれ」と述べていて、はたしてその両者は並立可能なのかどうか頗る訝しいところですが?


★★★★☆

象のロケット:愛のむきだし

川の底からこんにちは

2010年05月22日 | 邦画(10年)
 石井裕也監督の最新作『川の底からこんにちは』を渋谷ユーロスペースで見てきました。

 予告編を見て面白そうだなと思い、また今大活躍中の満島ひかりの主演作だということもあって、映画館に出かけてみた次第です。

(1)久しぶりのユーロスペースのところ、土曜日のせいもあるでしょうが、立ち見も出るほどの盛況でした。

 実際にも、予想にたがわず頗る上出来の作品です。なにしろ、主役の木村佐和子(満島ひかりが扮しています)のやることなすことが人を食ったことばかりなのです!

 冒頭の場面から驚き入ります。佐和子がクリニックで腸内洗浄を受けているシーンが大写しとなり、先生の言うことを余りに素直に信じて、腸内のみならず体や果ては心の汚れまでも吸い取ってもらおうとすると、医者の方が逆に慌てふためいたりします。
 それ以外にも様々な秀逸な出来事が起こります。たとえば、佐和子は、実家に戻って、病に倒れた父親に代わって“しじみ工場”の経営に携わるのですが、そこでしたことの一つが社歌の作成です。ただ、社歌にもかかわらず、「倒せ倒せ政府」などというくだりのあるトンデモナイしろものなのです。この社歌を、工場で働く従業員らと一緒になって合唱するシーンが、この映画の一つの山場といえるでしょう。
 またラストは、死んだ父親の遺灰を、他の女性(佐和子の友人)のもとから逃げ帰ってきた男・新井健一(遠藤雅が扮する)に、これでもかと投げつけるシーンとなります!

 この簡単な紹介からでも見えてくるかもしれませんが、この作品に登場する女性は、佐和子をはじめとして皆が皆ものすごいパワーの持ち主なのです。

 ですが、対応して登場する男性陣は、皆が皆、酷くだらしない人間ばかりです!
 たとえば、佐和子と一緒になろうとする新井健一は、勤め先の玩具メーカーで売れそうもない製品を作ってクビになった男で、普段は編み物が大好き人間、佐和子に伴って田舎にやってきますが、佐和子の友達に言い寄られると断りきれずに子供を置いたままで一緒に東京に行くものの、暫くするとその女性に捨てられ、結局は佐和子のもとに逃げ帰ってくる始末です。

 こうしたストーリーをオーバーに受け取れば、まるで、現在の日本経済の停滞は、だらしない日本の男性に政治を任せておいたからもたらされたものであって、そこから脱出するには、権力を女性の手に預け、その上で、佐和子のように、自分は「中の下」だと冷静客観的に認識し〔アジアの盟主では最早ない!〕、そこから開き直って突き進まなければだめだ、と言っているかのようです。

(2)この映画の面白さは、何といっても主演の満島ひかりのパワーによるところが大きいものと思います。




 その彼女が出演する最近の映画として見たものは、『クヒオ大佐』と『食堂かたつむり』です。
 前者では、主人公(堺雅人)に騙されるバカな博物館学芸員の役を演じ、防波堤で「どうしてお金のないあたしを騙したのか」と主人公に激しく詰め寄るものの、勢い余って海中に落ちてしまうという大変な演技を披露しています。
 後者では、主人公(柴咲コウ)の中学時代の友人の役です。この女性は、食堂を営む主人公に嫉妬して、サンドイッチに虫を入れて食堂の営業を妨害しますが、主人公の母親の結婚披露パーティーにアッケラカンと出席して肉を食べたりするのです。可愛い外見にもかかわらず、内心は恐ろしいことを考えているという役柄を、実にうまくこなしているのではないでしょうか?

 ただ、これだけでは今一の感じが残ります。そこで、遅きに失したきらいはあるものの、彼女が出演し、各種の新人賞を受賞した『愛のむきだし』(園子温監督、2009年)のDVDを借りてきて見てみることにしました。とはいえ、およそ2時間の映画2本分の長さのものですから、ここで簡単に取り上げてしまってはつまりません。明日のブログの記事に回したいと思います。

(3)評論家は総じて好意的のように思われます。
 小梶勝男氏は、「自分がダメ人間で仕方ないから頑張る、という佐和子の考えが、実に痛快でカッコいい。自分をオンリーワンとみなして自己肯定する欺瞞とは、真逆だと思う」し、「開き直った佐和子が作るシジミ工場の社歌が、希望格差社会に生きる我々への応援歌に聞こえてくる」として82点の高得点を、
 山口拓朗氏は、「演出にキレがある訳でもなく、ドラマ展開も冗長気味。汁系のユーモアに至っては完全にマニア好みだ。しかし同時に、息づかいと生命力が感じられる作品でもあ」り、「石井裕也と満島ひかり。この若き才能のコラボレーションが、みじめなほど不格好ながらも、どうしようもなくカッコいい作品を生み出した」として70点を、
 福本次郎氏も、「小器用に立ち回るのではなく、駆け落ちの噂をすべて認めた上で、「こんなダメな私だけれど一生懸命やります」と自ら率先垂範しておばさんの心をつかんでいくあたり、ありきたりの奮闘→成功物語に終わるのではなく、やけくそのパワーで新たな一歩を踏み出していく過程がコミカルかつパワフルに描かれる」として60点を、
それぞれ与えています。

 ただ、小梶氏が「シジミ工場の社歌が、希望格差社会に生きる我々への応援歌に聞こえてくる」という点はどうでしょうか?
 ここで小梶氏が言っている「希望格差社会」とは、山田昌弘氏の『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』(筑摩書房、2004年。その後ちくま文庫に)によっている言葉でしょう。
 AmazonのHPには、この著書の概要について、次のようにあります(「日経ビジネス」)のレビューによる)。
 「現在の日本は職業、家庭、教育のすべてが不安定になり2極化し、「勝ち組」「負け組」の格差が拡大している。「努力は報われない」と感じた人々からは希望が消滅し、日本は将来に希望が持てる人と絶望する人に分裂する「希望格差社会」に突入しつつある。著者は日本社会で希望がなくなり始めたのは、実質GDP成長率がマイナス1%となった1998年からと見る。……希望の喪失は社会の不安定要因となりかねず、早めに総合的な対策を講じることが必要と主張している」。
 とすると、「希望格差社会」においては、「「努力は報われない」と感じた人々からは希望が消滅」しているわけで、そういう人々に対して頑張れ頑張れと「応援歌」を歌ってあげてみても、「希望」は蘇って来ないのではないかと思えるところです。いくら頑張っても「報われない」と既に感じてしまっているのですから!
 「希望格差社会」にあっては、「応援歌」を歌うよりもむしろ、そうした事態をマズ素直に認めた上で、一方で、経済政策等によって「希望の持てる社会」の実現に向かって事態の改善の努力をしながら、他方で、評論家の内田樹氏がそのブログで言うように、心理的な問題としても対処すべきなのかもしれません。
 すなわち、ブログ「内田樹の研究室」には、この本の書評が掲載されています(2005年3月21日)。大胆に端折ってしまうと、次のような内容です。
 「問題は心理的なものだという点については山田さんにまったく賛成である。けれどもその心理的な欠落感をどうやって埋めてゆくのか、ということについては、山田さんが提示したもの以外にも、いろいろなやり方があるだろうと思う。重要なのは「哲学」だと私は思っている。すなわち、「喜び」は分かち合うことによって倍加し、「痛み」は分かち合うことによって癒される。そういう素朴な人間的知見を、もう一度「常識」に再登録すること。それが、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」をつなげることのできるいちばんたしかな道だろうと私は思う」。




★★★★☆




ゼブラーマン

2010年05月19日 | 邦画(10年)
 『ゼブラーマン―ゼブラシティの逆襲―』を渋谷TOEIで見ました。

 主演の哀川翔の映画デビュー25周年にあたる年に制作された記念すべき映画ということで、5月2日の記事で申しあげたように、この映画をジャンプだとして、『誘拐ラプソディ』をホップ、『昆虫探偵ヨシダヨシミ』をステップとしてきたわけですから、何としてでも哀川翔を見なければと思い、いそいそと出かけてみたところです。

(1)実際に見ても、まずまずの仕上がりではないかと思いました。
 前回の『ゼブラーマン』では、ダメ教師市川新市―哀川翔が扮します―のゼブラーマンがエイリアンを倒して地球の平和を守ったわけですが、それから15年後の2025年が今回作品の時代と設定されています。
 場所は、ゼブラシティと名を変えた東京。そこではゼブラタイム(朝と夕方の5時から5分間)が設けられていて、その時間帯ではゼブラポリスといわれる警察官はどんな犯罪行為でも許されます。
 そんなゼブラシティの中の道路脇で哀川翔は突然目を覚まします。白髪でよれよれの洋服を着た状態の彼は、ゼブラタイムの真っ最中のために、ゼブラポリスによって殺されそうになります。それを、元アクション俳優の市場純市(ココリコの田中直樹)―が助けて、「白馬の家」―ゼブラタイムの犠牲者を匿っているところ―に連れて行きます。するとそこのリーダーが、かって哀川翔が「浅野さん」と呼んでいた天才少年の浅野晋平(「仮面ライダー」の主役だった井上正大)なのです。
 これだけお膳立てが揃えばスグニもゼブラーマンの登場かと思わせるところ、肝心の哀川翔は体力を使い切った状態で、かつ昔の記憶をすべて失っており、当初はゼブラポリスの暴虐から人々を守る力は発揮できません。
 他方で、ゼブラシティを作り上げそれを支配しているのが相原都知事(ガダルカナル・タカ)。その娘でゼブラシティの広告塔の役割を務めている歌手の相原ユイ(仲里依沙)が、黒ゼブラに変身し、父親を押しのけ全世界を支配しようとします。
 そこに、前回倒したはずのエイリアンが再度登場。エイリアンが余りに手強いので、その後なんとか白ゼブラに変身できた哀川翔は、黒ゼブラと合体して「最終形」のゼブラーマンとなってエイリアンに対峙します。
 ラストは、ゼブラーマンに変身した哀川翔が、巨大なエイリアンを食べに食べてまん丸状態になって宇宙を漂うことになります。

 前半のかなりの部分は、前回とかなり違う状況設定の説明にあてられますが、後半になってくると、白ゼブラと黒ゼブラの合体シーンで、哀川翔が煎餅布団と枕を準備する場面とか、まん丸になった巨大なゼブラーマンが「丸く収めたぜ!」と言ったりするなどの様々なギャグも飛び出し、全体として至極面白い映画に仕上がっています。

 とはいえ、この映画は、前作と比べてかなり晦渋に作られているなと思いました。
・ラストは、またもや前編に登場したエイリアンが出てきて、前編と同じように哀川翔にやられてしまいますが、映画の大半においてゼブラーマンに敵対するのはエイリアンではなく人間なのです。
・それも、ゼブラーマンが対峙する相手に関して、ゼブラシティとかゼブラタイムなどとゼブラを使った名称が使われているために、その敵対ぶりがかなり曖昧な感じになってしまっています。
・今回作品では、哀川翔は、前回のようなシマウマ(白と黒とが縞になった)のコスチュームを着ません。白ゼブラも最終形ゼブラも、縞々模様のコスチュームではないのです。シマウマのコスチュームを着るのはコクリコの田中直樹で、それもゼブラシティの人間に簡単にやられてしまいます。となるとあの「ゼブラーマン」はどこへ行ってしまったのか、という感じにもなってきます。
・ガダルカナル・タカが扮する都知事が、どんな経緯で日本の中心地を牛耳っていて、人々からカリスマ的な支持を受けるに至ったのか、そこらあたりも判然としません。
・大体が、タイトルの副題に「ゼブラシティの逆襲」とありますが、誰が誰に攻撃されたのか、そして誰が誰に逆襲するのかよく分からないところです。エイリアンに対する反撃というのでしょうか?

 とはいうものの、この映画に突っ込みをいくら入れても無駄というものでしょう。些細なことに頓着せずマッタク無防備に制作されているとしか思えませんから!
 この映画については、哀川翔扮するゼブラーマンがエイリアンを倒すに至るファンタジックでめくるめく世界を心から堪能すれば十分ではないでしょうか!

(2)この作品は、6年前の『ゼブラーマン』の続編です。それはもちろん劇場で見たことは見たものの、記憶がオボロゲになっているので、DVDをTSUTAYAから借りてきて見てみました。



前篇の大体の特色を挙げれば、
・時代設定は、2010年、つまり本年〔今回の作品の時点から15年前ですから、「浅野さん」も小学生なのです〕!
・ゼブラーマン誕生の経緯、すなわち哀川翔扮するダメ小学校教師が強いゼブラーマンに変身するという典型的な筋立てが、わかりやすく描かれています〔今回の作品は、ゼブラーマンが英雄となってその物語もTVで放映された後の世界になっています〕。
・ゼブラーマンが倒すべき敵は、小学校の体育館に潜むエイリアンであり、形は変化自在ながらも実に明確です〔今回作品のように、ゼブラーマンに敵対する勢力は存在していません〕。
・ゼブラーマンのことを細部までよく知っている天才の浅野少年の活躍もあって、子供が見ても十分面白い作品に仕上がっています(むしろ、子供向け映画といってもいいのかもしれません。渡部篤郎の役柄などを除けば)。〔今回作品は、仲里依沙のコスチュームにも反映している様に、かなり大人向きの仕上がりとなっています〕
・ゼブラーマンは、空を飛べないためにエイリアンを倒すことができないと、普通の人間のように悩んだりします。ですが最後に、ゼブラーマンは、渾身の力を振り絞ってエイリアンに勝つことができました。
(より詳しいストーリーなどは、ブログ『神崎のナナメ読み』が5回にわたって記載していますので、そちらをどうぞ)
 こんなふうに挙げてみると、今回の作品は、前編の『ゼブラーマン』とはかなり異質のものといえそうです。

 なお、前回の作品について前田有一氏は、公開当時の映画評において、「VFXもアクションシーンもお涙頂戴も、低予算の悲しさか、ショボイの一語につきる。本当は、笑うべき場所では思い切り笑わせて、アクションは本気でびしっと決めるというメリハリがほしい。それでも最後までこのゆるいムードでいくかと思うと、突然反核メッセージ的な主張が出てきて驚かせる。このテキトーな展開はいかがなものか。こうした作品ばかりポンポン手軽に生み出してしまう脚本家が、日本で一番人気があるのだという話を聞くと、本気で頭をひねってしまう今日この頃だ」と手厳しく論評し、40点しか付けず、かつ「今週のダメダメ」としていました。
 ですが、クマネズミとしては、そんな訳知り顔の前田氏よりも、むしろ上記の神崎氏にならって、「これは、特殊な能力を持った男が大活躍して、それを賞賛する作品ではない。製作側はスーパーヒーローを造りたかった訳ではないと思う。ヒーローに憧れている中年と、それをとりまく普通の人々へ愛情を注いで造ったのだ」などと言ってみたり、「テキトーな展開」のどこが悪いのだと付け加えてみたりして、むしろ大絶賛したいと思っています。
〔また前田氏は、その映画評で、コミック誌に連載されている漫画が映画の原作だと決めつけていますが、それは酷い誤解でしょう!〕

(3)映画評論家の感想は、次のようなものです。
 小梶勝男氏は、「監督・三池崇史と脚本・宮藤官九郎のコンビは、前作同様、ヒーローものの展開に則りながら、様々なブラック・ユーモアを炸裂させる」が、特に「冒頭から、黒のボンデージ・ファッションに身を包んだ仲里依紗が歌い踊る。まるで彼女のプロモーション・ビデオだ。これが、実にいい」のであって、「この冒頭のシーンこそ、本作の真のクライマックスと言っていいかも知れない」として75点を、
 前田有一氏は、「とくにゆるダルな方向に転がりがちなクドカン脚本を三池監督が適所で引き締め、いい具合のバカ映画にまとま」っており、「じっさい仲里依紗のゼブラクイーンなどは、深田恭子のドロンジョの二番煎じであることは明白。だが、二番だろうが三番だろうが、かわいい女優さんがセクシー衣装でアクションを演じてくれる事に異論などあろうはずがない」として63点を、
 渡まち子氏は、「宮藤官九郎の脚本と三池崇史監督のアイデアが冴えて、ハチャメチャながらどこか説得力がある世界観が面白」く、「主人公の敵役は仲里依紗演じるセクシーなゼブラクイーン。これがとことんエロいのだ。カメラワークなど限界ギリギリ。今まで明るくキュートな役柄が多かった仲里依紗の新しい面が見られたが、意外にもドスの効いた声は迫力があり、ただのカワイイ女優ではないことを証明してみせた」として50点を、
それぞれ与えています。

 それにしても、いくらなんでも、お三方とも、監督・三池崇史と脚本・宮藤官九郎のことはしっかり書き込んでいながら、クレジット(キャスト)ではいの一番に挙げられている哀川翔の活躍ぶりについて、同じように一言も触れていないのは、いったいぜんたいどうしたことでしょうか?
 そういうこともあって、今回の記事では、意図的に仲里依紗に出来るだけ触れないよう、むしろ哀川翔に偏して書いてみました!


★★★★☆



象のロケット:ゼブラーマン

月に囚われた男

2010年05月16日 | 洋画(10年)
 『月に囚われた男』を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 普段SF映画をあまり見ない上に、前日に『第9地区』を見たばかりにもかかわらず、低予算で制作されながらも随分と面白いとの評判が聞こえてきたので見に行った次第です。

(1)映画は、貴重な資源を月で採掘して地球に送るという業務を会社から一人で任された主人公が、あるとき自分とそっくりの人間と月面基地内で出会うというところから、俄然ミステリアスな様相を呈し、面白くなってきます。いったいそれは誰なんだ、と主人公は調査に乗り出します。
 こういう場合、主人公の仕事ぶりを監視するロボットは、敵対的な動きを取るのが普通でしょう。ところが、この映画では、ケヴィン・スペイシーがその声を担当していることからもうかがえるように、主人公が仕事をしやすい環境を作り出すのが自分の役目だという理屈に立って、主人公に何度も助け船を出したりします。
 その挙句突き止めたことは、……。ここで種明かしをしてしまうと、この映画の面白さは半減してしまいますから、あとは映画を見てのお楽しみ。

 至極簡単なセットで、登場人物はほとんど一人、という一風変わったSF映画ながら、最後まで大変面白く見続けることができた映画です。

(2)この映画は、どうしても、先に見た『第9地区』と比べてみたくなってしまいます。
 というのも、どちらも、かなり低予算で制作され、かつ民間企業の社員が主人公であり、さらには女性の役割が余り重きを置かれていない等の点が共通していると思えるからです。

 まず、この映画の制作費はわずかに500万ドル、『第9地区』は3,000万ドルとされますが、それでも3億ドルかかったとされる『アバター』と比べるとかなりの低予算映画です。

 次に、この映画では、貴重な月の資源(「ヘリウム3」)を採掘して地球に送る事業を営んでいる会社「ルナ産業」(Lunar Industries ltd.)が登場し、『第9地区』でも「MIMU」という世界最大の企業が描かれますが、いずれの映画の主人公も、これらの会社に雇われているのです。

 このことから、二つの映画の主人公はどちらも、会社から過酷な取り扱いを受ける羽目になります。この映画の場合には、3年間が終了すると地球に帰還できるという契約を会社と結んでいますが、そんな契約は意味をなさないことがわかりますし、『第9地区』の主人公の場合は、無理やり生体移植のドナーにされそうになります。

 結局のところ、二つの映画の主人公はどちらも、まっとうな人間ではなくなってしまいます。この映画の主人公は、途中で自分が正真正銘の人間ではないことに気づきますし、『第9地区』の主人公は、ついにはエイリアンに姿を変えてしまうのです。

 さらに、この映画では、地球にいる主人公の妻から月面の基地に送られてくる映像が重要な意味を持っていますが、実際に彼女が主人公のところに現れることはありません。他方『第9地区』でも、主人公は、妻の父親によって妻と引き離されてしまい、それでも妻と連絡を保とうと必死に務め、最後はその繋がりだけが生き甲斐となりますが、ここでも実際に主人公の前に妻が現れることはありません。

 勿論、この映画はイギリス映画ですし、『第9地区』はアメリカ映画、またこの映画は月世界の話であり、『第9地区』は地球での話、さらに、この映画の登場人物はほとんど一人と言ってもいいでしょうが(ロボット・ガーティが重要な働きをするものの)、『第9地区』にはなにしろエイリアンが多数登場します、といった相違点は多々あるでしょう。
 
 とはいえ、別々のところで別々の時点で制作した映画に共通する点が少なくとも5つはあるということは、実に興味深いと思いました。

(3)映画評論家の論評は総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「ひらめきを感じる映画で、最小限の素材で最大の効果を上げることに成功している」、「ハリウッドの大掛かりなSFとは明らかに違う手触りの小規模・低予算の映画だが、アメリカ映画を含めた名作SFへのオマージュが垣間見えて、監督のSFへ の愛情が伝わってくるようだ。山椒は小粒でもピリリと辛い。サスペンスフルでありながら哀しくて優雅な英国映画の佳作だ」として70点を、
 福本次郎氏も、「危険で孤独なミッションを遂行する主人公がアイデンティティクライシスに直面し、克服していく過程で、恐るべき事実に突きとめる。無機質なモノトーンの世 界で繰り広げられる静謐な悲劇、捨ててもいい命などあってはいけないことをシャープでスタイリッシュな映像が再現する」として70点を、
 前田有一氏もまた、「凡百のSFとは比較にならぬ時代性と知性を感じさせる出来栄え」として70点を与えています。

 ただし、前田氏は、この映画からうかがわれる労働問題の「根幹には、実質的にコストが日本の30分の1といわれる中国の半「奴隷」労働者がいる。それを利用する他企業とノーハンデで競争せねばならないのだから、自分の社員の待遇をよくする余裕など企業にだってあるはずがないのだ。本来なら、いまこそ先進国の労働者は連帯して、中国の不当な「奴隷」使い放題制度や元安維持政策を批判し、改善要求を出すべきだと思うがなぜかやら」ず、「本作品にもそんな視点はなく、その意味では問題の表面を軽くなでただけだ」と、凄い高見にたった別世界のようなそれこそSF的とも言いうる問題を提起しています。
 ですが、「労働問題というものは、派遣切りする大企業を批判しても何ら本質的解決には至らない」のは確かなことだとしても、果たして、「中国の不当な「奴隷」使い放題制度や元安維持政策」が改善されれば、先進国が抱える「現代の底辺労働者の境遇」が改善されることになると言えるのでしょうか?
 この議論は、大昔、アメリカなど西欧諸国が日本の低賃金労働を非難したのと同じ理屈を述べているに過ぎないように思われます。なにより、リカードの比較生産費説ではありませんが、どんなに中国の賃金が安かろうとも、すべての商品について相対的に安価に生産することなど出来る話ではないのですから!


★★★★☆



象のロケット:月に囚われた男

第9地区

2010年05月15日 | 洋画(10年)
 『第9地区』を渋谷東急で見てきました。

 おすぎが、「いろいろな所で、書いたり、喋ったりしています。「第9地区」は“今年度ナンバー1”の映画だと…。早々と今年も始まったばかりの2月に、この作品を見 て、私は他にどんなスゴイ映画が来ても「第9地区」ほど蘊蓄のある映画は無い、と断言出来ます」とまで書いているので、それならばと見に行ってきました。

(1)おすぎが言うように、「とにかくファーストシーンからド肝を抜かれます。巨大なUFOが空に浮いているからです」。
 それも、その中にエイリアンが何十万人もいて、みな栄養失調で苦しんでいるという具合では驚く他はありません。
 H・G・ウエルズ原作の『宇宙戦争』(最近ではスピルバーグ監督の映画〔2005年〕があります)ならば、火星人は、散々地球人を痛めつけた後、逆にウィルスにやられてしまうのですが、この映画では、最初にエイリアンがダメージを受けてしまっているのです。
 また、『宇宙戦争』と違って、この映画の主人公・ヴィカス自身がエイリアンの持ってきたウィルスに感染してしまうのです。
 それに、地球にやってきたエイリアンたちは、地球人よりもずっと威力のある武器を持ってきているにもかかわらず、『宇宙戦争』のように、地球人と対立して戦争を引き起こそうとはせずに、地球人の設けた地区に隔離されて、おとなしく28年もの間そのママの状態を続けています。
 ただ、後半になると、主人公は、地球人に追われるようになり、逆にエイリアンの中に見方を見出して、エイリアンが自分の星に帰還するのを助けるべく大活躍をします。

 様々な点で、従来のSF物とは違った筋の運びなので、見ている者を面食らわせます。確かに、辻褄の合わない点も散見されますが、そんなことはお構いなしにどんどんストーリーが展開され、その面白さに引き込まれてしまいます。アカデミー賞の様々な部門にノミネートされたことはあるなと思いました。

 としても、南アフリカのヨハネスブルグの上空に宇宙船を出現させて、宇宙人を一定の地区に隔離するという設定は、余りにもあからさまに“アパルトヘイト”を連想させてしまい、この映画を通じて“人種差別”問題を云々する気力を失わせてしまいます。
 それに、この映画では、最近の映画には珍しく女性が主だった役割を与えられていません(尤も、ラストシーンは、主人公の未来に対する希望を表現しているのでしょうが)。

 というようなこともあって、実に面白い映画とは思いましたが、おすぎのように“今年度ナンバー1”と言うほどのこともないのではと思いました。

(2)この映画は、場所もあろうに南アフリカのヨハネスブルグ上空に宇宙船が出現したところから始まりますから、最近見たクリント・イーストウッド監督の『インビクタス』における飛行機の出現を思い出さずにはいられません。



 なにしろ、ラグビーのワ-ルド・カップの決勝戦が開始される直前に、競技場の上空に巨大な旅客機が出現するのです。マンデラ大統領が観戦するというので、万全の警備体制を敷いていた当局も、そんなことが起きるとは予測の範囲外で、皆唖然として上空を見上げるばかりでした。
 実際は、テロでも何でもなく、飛行機の翼の裏に「頑張れ ボカス」と書いてあって、空から南アフリカ・チームを激励した者であることが分かり、観衆は総立ちとなってそれに答えていました。
(なお、上記の写真は「ブログ・南アフリカへようこそ」の2月6日の記事より)

(3)映画評論家も総じて好意的です。
 佐々木貫之氏は、「インタビュー映像を取り入れ、立ち退き作業を手持ちカメラで捉えた臨場感溢れるドキュメンタリー・タッチの作風でリアリズムを追求しており、これが大きな魅力の一つでもある。なおかつ、独創的なSF作品として仕上がったのである」として90点を、
 渡まち子氏は、「実際に見てみると、語り口が実に新しい。ワケがわからないままにグイグイ惹きこまれる感覚は、虚実の境界線を意図的に曖昧にした序盤のインタビューの場面からパワー全開で迫ってくる」、「物語の軸は格差社会と不寛容。これはエイリアンを差別の対象とした、もうひとつのアパルトヘイトなのだ」などとして80点を、
 福本次郎氏も、「映画は価値観の違う者とのトラブルに対して、人間はどこまで寛容になれるかを問う。予想を裏切る展開の連続はオリジナリティにあふれ、まさに「アイデアの勝利」と言える出来栄えだ」として同じ80点を、
それぞれ与えています。


★★★★☆


象のロケット:第9地区