映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ブラック・スワン

2011年05月29日 | 洋画(11年)
 『ブラック・スワン』をTOHOシネマズ六本木ヒルズで見ました。

(1)本作品で披露される、ナタリー・ポートマンの渾身の演技を見るだけでも、映画館に行く価値があると思いました。
 ただ、映し出される映像が随分と錯綜した印象を観客に与えるものの、始めてプリマドンナを射止めたバレリーナの心の揺れを描くという物語自体はそれほど複雑なものではなく、その展開の仕方にはむしろ“あざとさ”が窺える感じでした。
 前半部分において、バレリーナの主人公・ニナ(ナタリー・ポートマン)を極度の「おぼこ娘」として描いているのも〔その原因は描かれてはいませんが、あるいは母親(バーバラ・ハーシー)の存在が問題なのかもしれません〕、後半部分で女性として開花するのを印象付けるため、という物語構成がすぐにミエミエになりますし、それが黒鳥の踊りの大成功をもたらすだろうという展開の先行きも、観客には容易に推測がつきます。




 こうなるのも、一つには、演出家のトマヴァンサン・カッセル)の描き方が単純だからなのかもしれません。彼は、ナナの代役のリリー(ミラ・クニス)とか引退するベス(ウィノナ・ライダー)のことをあれだけ褒めていながら、いきなり説明もなしに、「白鳥の湖」のプリマにニナを選んでしまい、その後もその選択を変更しようとはしないのですから、逆に彼のニナに対する期待の大きさが透けて見えてしまいます。



 要すれば、ニナの女としての開花と黒鳥の大舞台との時期を合わせようと、トマはいろいろ策を弄したということでしょう。そのためにトマは、ニナには厳しいことを言い続け(それも、女となる必要があると言うだけで、実際には体を求めませんでした)、もしかしたらニナのポストをできるだけ脅かすように行動するよう、リリーに言い含めたりもしたのではないでしょうか?
 ただ、トマとしても、ニナがギリギリに追い込まれて、ついには誤って自分を傷つけてしまうところまでは予測できなかったのだ、と思います。彼がニナの深い傷を見て慌てふためくのはそのためでしょう。

 ここまでくると、この映画についてのもう一つの問題点も明らかになってくると思われます。
 すなわち、ダンサーが素晴らしい踊りを見せることと、扮する役柄と身体的に同じになることとが、あたかも連動しているように描かれているのは疑問ではないでしょうか?どうしてニナの手足が黒鳥のようになることが(あるいは、そのように見えることが)、彼女が素晴らしいダンスをしていることに繋がるのか、傷ついた自分があたかも黒鳥そのものになったかのように感じてラストで笑顔をみせることになるのか、よく理解できないところです。
 こうなるのも、演出家トマが舞台に持ち込んだことの結果なのですから、この点でもトマの描き方に問題があると言えそうです。実生活と舞台とを密接に結びつけようとする演出をこの舞台に持ち込んでいるトマは、前世紀の古色蒼然としたリアリズムに基づいた演出思想を今だに持ち続けている三流どころではないでしょうか(19世紀末に作曲された「白鳥の湖」を現在上演することの意味合いが、トマにあっては少しも考えられてはいないのではないでしょうか)?

 なお、この映画については、ラストが確定的ではない点が様々に議論されているようです。すべて夢だったと考える方もいるようですが、クマネズミとしては、自分でそうするつもりはなかったものの、死にゆく白鳥とまさに同じ状態になったというので、笑顔を見せたのではないか、ただそれ以降ニナがどうなるのかは映画の視野の外であって、あのまま死んでしまうのか、そうではなく無事に生還してバレリーナとして大成するのか、などなど様々な可能性があるとしても、最早どうでもいいことでは、と思ったりしています。
 でも、こんなふうに決めつけずに、むしろ様々な解釈を許すように開かれたラストになっているところが、かえってこの映画の幅を拡大しているとみるべきではないか、とも考えているところです。

 この映画を制作したアロノフスキー監督は、この映画を『レスラー』の姉妹編と考えているようですが(劇場用パンフレットによります)、そうならば分からないわけでもありません。
 なにしろ、その映画のラストシーンでは、心臓病の手術をしたばかりの主人公のレスラー(ミッキー・ローク)が、リングの四囲に張られているロープの上から因縁の相手レスラーにむかってダイビング・ジャンプする様が描かれているのですから!
 おそらくは、そのレベルで「白鳥の湖」を捉えていることから、こうした映画作りになったのではないか、とも思えるところです(例えば、この映画はニナの心の揺れを描き出すのが主眼ですから当然のこととは言え、バレエの良さは、プリマの踊りもさることながら、むしろ群舞にあると思われるところ、この映画では、専らナタリー・ポートマンしかスポットライトが当たっていません!)。

 ナタリー・ポートマンは、最近では『マイ・ブラザー』とか『ニューヨーク、アイラブユー』で見かけましたが、この映画ではほとんど出ずっぱりで、まるで彼女の“ワンマンショー”のような印象を受けます(下記のテイラー章子氏が指摘している点ですが)。
 とはいえ、長期間トレーニングを積んで、ぜい肉を落とし、あれだけの踊りを披露するのですから、アカデミー賞主演女優賞に輝いたのも当然でしょう。

(2)“ブラック・スワン”というと、この映画が出現するまでは、2007年以降の世界金融危機を予言した書として高く評価されたナシーム・ニコラス・タレブの著書『ブラック・スワン』(邦訳:ダイヤモンド社、2009年)の方が、クマネズミにとっては馴染みがありました。

 池田信夫氏のブログの書評記事(2007年6月26日)においては、「ふつう自然科学や経済学で確率を考える場合、ほとんど正規分布を仮定している。しかし実際に世界を動かしているのは、そういう伝統的な確率論で予測できない極端な出来事――Black Swanである」と述べられており、さらには、「いわばメタレベルで人々の予想を裏切る現象がBlack Swanである。ここでは母集団が未知なので、その確率分布もわからない。圧倒的多数の出来事はごくまれにしか起こらないので、その分布は非常に長いロングテール(ベキ分布)になる」とか、「ではBlack Swanを予測する理論はあるのだろうか? それは「予測不可能な現象」という定義によってありえない」とも述べられています。
 要すれば、その著書では、人知の及ばない予測不可能なものが“ブラック・スワン”とされているようです(注)。

 それでは、映画の描く「黒鳥」はどうでしょうか?



 一方で、演出家トマは、むしろ十分コントロール可能なものとして「黒鳥」を把握しているようであり、ですからニナを意図的に煽りたてて、自分が望む「黒鳥」に変身してもらおうと様々に手を打っているように思われます。

 ですが、他方のニナは、わけのわからない予測不可能な「黒鳥」になんとかなってみようと、わけのわからないまま練習に明け暮れしているかの如くです。
 その結果がラストシーンではないでしょうか?コントロールしえないものに変身するには、自分の身体と精神とをすべて捧げ尽くさなくてはトテモ不可能だった、というのが、ニナがラストで見せた笑顔の意味だったのでは、と思えるところです。


(注)望月衛氏による訳本『ブラック・スワン』(ダイヤモンド社、2009年)は“積ん読”状態なので、ここでは池田信夫氏の書評から引用しましたが、同訳本の冒頭には、「黒い白鳥」の特徴が次のようにまとめられています。「普通は起こらないこと、とても大きな衝撃があること、そして(事前ではなく)事後には予測が可能であること」(「上」P.4)。


(3)映画評論家は、総じて好意的のようです。
 福本次郎氏は、「やがて心の闇と官能の境地にたどりついたニナのパフォーマンスは、身震いするほどの美しさを纏っていく。そんな、アートに人生を捧げた者だけが立てる高みを映画は見事に描き切っていた」として60点をつけています。
 前田有一氏は、「この作品を、「超一流アーティストの誕生過程」を描くドラマと(第一に)見る。その恐るべき生みの苦しみ、才能の覚醒に至るまでを、映画史上有数のリアリティとともに描いた大傑作である」として95点をつけています。
 渡まち子氏は、「スタジオや楽屋にある鏡が、無数のニナを具現化していく演出が効果的で素晴らしい。クライマックスの舞台では、文字通り、黒鳥と化すニナに、見ているこちらも鳥肌がたった」、「作品を支えるのは何と言っても9キロも減量し過酷なバレエのトレーニングに耐えて熱演したナタリー・ポートマンの存在だろう」として85点をつけています。
 ただ、テイラー章子氏は、ナタリー・ポートマンが「いないシーンなど皆無と言うほど 彼女が出ずくめのフィルム。一人芝居と言っても良い。音響も音楽よりも彼女の息遣いだけがサウンドになっている時が嫌に多かった。それでスリラーとかミステリー効果を狙ったのだろう」とし、さらに、この映画に「共感できるところは、ひとつもない。またこのストーリーとニューヨークシテイーバレエ団とがマッチしない。10年前のキエフバレエ団なら合うだろうか」と述べて60点をつけています。




★★★☆☆






象のロケット:ブラック・スワン

これでいいのだ!!

2011年05月28日 | 邦画(11年)
 『これでいいのだ!!』を、渋谷TOEIで見てきました。

(1)浅野忠信が漫画家の赤塚不二夫を演じるという異色の組合せの面白さを見るつもりで映画館に足を運んだところ、確かにその点にも興味は惹かれましたが、むしろ編集者の武田初美(堀北真希)の物語と考えた方が当たっているような内容なので驚きました。
 というのも、本作品については、浅野忠信のことだけが頭にあって、共演の堀北真希に関しては、映画を見て始めて彼女が出演していると分かったテイタラクなのですから!

 とはいえ、本作品は、実際に漫画家赤塚不二夫の担当だった小学館の武居俊樹記者が書いた実録『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(文春文庫)を映画化したものながら、そのままでは映画にめぼしい女性は登場しないことになってしまうため、映画の常識(!)を踏まえて、あえて堀北真希を起用したものと考えられます(なお、映画は映画として独立した作品でしょうから、原作といくら違っていても何の問題もありません!)

 ただ、そのために、全体から卑猥さ・猥雑さがかなりの程度消えてしまった感じですし、「バカ」になるといっても、常識的なレベルからそれほどかけ離れてはいないような結果(単なるオフザケのレベルでしょうか)になってしまったのは残念ですが。



 元々、バカな内容のギャグ漫画を描くことと、それを描く漫画家ご本人がバカなことをすることとは何の関係もなく、『天才バカボン』を面白くするために赤塚不二夫が面白い必要もないのではないか、と思われるところです。
 それに、「バカ」をするといっても、映画で描かれているのは、酒を飲んで乱痴気騒ぎをするだけのことで、それならわざわざ「バカ」と言い立てるまでもないのでは、と思えてしまいます(お酒が酷く好きな人なら、やりそうなことではないでしょうか?)。
 さらに、そんな深酒をする赤塚不二夫の深層構造というわけで、マザコンぶりが強調されますが、これはいささかくどすぎるのでは、と思いました(なお、原作でも、彼の奥さんらが「正真正銘のマザコンです!」などという場面とか、危篤の母親の耳元で大声で「母ちゃーん」と叫んだら、心臓が動き出したという話が掲載されています。別に原作に従うべきだと言うつもりはありませんが、そこでは実にアッサリと簡単に書かれているのです)。

 ですが、映画にどんな問題があろうとも、そんなことは些細なことであり、タイトル通りすべて「これでいいのだ゛!!」というところでしょう!
それに、昭和40年代初頭が専ら描かれていて(赤塚不二夫が大活躍したのもその辺りでしょう)、登場人物の服装等もその当時のものでしょうし、学生運動等のパロディ(旅館でのピース缶爆弾騒ぎ)も挿入されて、決していい加減な作りの映画というわけではありません。

 この映画は、有名なトキワ荘もでてきませんから、赤塚不二夫自体を描いた作品というよりも(実在した人間の伝記映画などは、たぶんつまらないものでしょう)、むしろ堀北真希が扮する雑誌編者・武田初美が、小学館に入社して8年後に赤塚不二夫の担当から外れるまでを描いた成長物語と捉えれば、マズマズの作品なのかなと思いました。

 主演の浅野忠信は、大変な熱演ですが、やっぱりこれまでに彼が出演した様々の映画のイメージが被ってきて、見る者になにか違和感を感じさせてしまいます(注1)。
 ことに、最近の『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』でもアル中患者の役を演じていましたからなおさらです。『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』では、余りの酒乱ぶりに病院に入院するところまで行き着きますが、本作品においては、漫画を描くという創作活動に昇華するということで周りが大目に見ていたのかもしれません、赤塚不二夫はアル中患者とはされていないようです。



 共演の堀北真希は、『白夜行』における演技が印象的でしたが、そこではやや背伸びしている印象が残るものの、この映画では、新人編集者・武田初美が赤塚不二夫と一緒になって酔っぱらってどんちゃん騒ぎをしまくる姿を愉しそうに演じているように見えたところです。

(2)漫画ではなく漫画作家自体を映画化したものとしては、『ゲゲゲの女房』とか、『女の子ものがたり』や、先に挙げた『酔いがさめたら、うちに帰ろう』があると思いますが、『ゲゲゲの女房』が描く水木しげる氏や、『女の子ものがたり』の西原理恵子氏の姿と、この映画の赤塚不二夫の姿とはかなり違っているように見受けます。
 言ってみれば、水木しげる氏や西原理恵子氏は、至極まじめに仕事として漫画に立ち向かっているのに対して、赤塚不二夫氏はそれとは異質のスタイルを持っているような感じです。
 おそらくそれは、赤塚不二夫が、ギャグ漫画を描く作家であり、かつまたそれを地で行こうとしたことにもよっているのでしょう。

 その赤塚不二夫は、原作を書いた武居氏によれば、自分の漫画を分析して、次のように言っているようです。「『おそ松くん』のユーモアが、『天才バカボン』でナンセンスに近づき、『レッツラゴン』でシュールに発展した。これは、僕の目指していた世界だった」(上記文春文庫P.252)。
 ならばシュールな『レッツラゴン』を読んでみたいと思いましたが、『週刊少年サンデー』に1971年から1974年にかけて連載され、何回か単行本でも刊行されているものの、現在では絶版となっていて入手できません。そうしたところ、映画公開に合わせて出版された『赤塚不二夫爆笑ランド』(講談社)には、『天才バカボン』などとあわせて6本も掲載されているのです(注2)。
 その中には、武居氏が、「『ゴン』は、この回を契機に無限の闇に突っ込んでいく」(同P.252)としている「伊豆の踊子」も入っています(注3)。



 武居氏によれば、この漫画で「新しい種類のギャグが見えたような気がした」(同P.252)とのこと。ですが、クマネズミには、そんなご大層な漫画とは思えず、「作家として一歩をふみだした/一日一歩、三日で三歩である/国木田独歩である/江戸川は乱歩である/アラジンはまほうのランポである」といった駄洒落が、とりとめもなく続いているだけにしか思えません(『赤塚不二夫爆笑ランド』P.68)。
 ついには、ケムシの「ませり」が、「赤塚が狂いましたでありませり/なにをかいてるかわからないでありませり」(同P.71)とまで言う始末です。

 映画も、ラスト近くの旅館での馬鹿騒ぎになると、どんどんボルテージが上がってきて何がなにやら分からなくなってきます。まるで『レッツラゴン』の雰囲気を取り込もうとしているかの如くです。
 でも、そこは商業映画。「伊豆の踊子」のラストのラストのように、「みんなで少年サンデーをにくもう!!/おわり」といった破天荒な結末ではなく、担当が代わる武田初美と赤塚不二夫との会社ビル屋上における別れのシーンで、行儀良く「おわり」となりますが。

(3)福本次郎氏は、「映画は、赤塚と初美がバカになり切るために酒の力を借りて大暴れ、その挙句ドタバタ喜劇の様相を呈してくるのだが、結果的に見ているほうが恥ずかしい喜劇になってしまった」として40点を付けています(とはいえ、「見ているほうが恥ずかしい喜劇」こそが、「バカ」の真骨頂なのかもしれません!)。
 渡まち子氏は、「赤塚の漫画同様にドタバタを描きながら、裏側にはシビアな現実が透けて見えるところが興味深いところだ。思ったほど笑えないのだが、それがこの作品の持ち味。何しろ悲劇と喜劇は表裏一体なのだから」として55点をつけています。



(注1)藤子不二雄A氏によれば、トキワ荘に石ノ森章太郎と一緒に赤塚不二夫が尋ねて来たときは、「ものすごくおとなしくて、ものすごい美少年というのが第一印象」だったようですから、キャスティング自体に問題はないのでしょうが(『別冊宝島―赤塚不二夫マンガ大全』〔2011.6〕P.2)。

(注2)『別冊宝島―赤塚不二夫マンガ大全』でも、3本掲載されています。

(注3)武居氏の要約に従うと、「馬鹿熊のベラマッチャが、学帽にマント姿で伊豆を旅していて、踊子に会う。踊子に連れて行かれて、ベラマッチャは、旅館に泊まる。旅館の主が出てきて、「学生さん」と呼びかける。ベラマッチャが、「なんだね、ドストエフスキーくん!!」 と答える」といった内容です(『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』P.251)。




★★★☆☆





象のロケット:これでいいのだ!!

四つのいのち

2011年05月22日 | 洋画(11年)
 『四つのいのち』を渋谷のイメージ・シアターで見てきました。

(1)この映画の冒頭は、黒くて丸い塚のようなものに人が登って、スコップの形をしたものでペタペタ叩いている場面です。何をしているのかさっぱり分からないのですが、その塚のようなものから盛んに煙が噴き出しているので、あるいは陶器を製作しているのかなと思っていると、場面が変わって、年老いた牧夫が山羊を放牧させているシーンとなります。
 山の斜面の草地ではたくさんの山羊が草を食べていますが、その間も、上のペタペタという音が聞こえますから、冒頭の場面は何かしら意味があって、あとで再度登場するのではと思わせます。

 この山羊の放牧については、よく見ると、牧夫がコントロールするというよりも、数頭の犬が山羊の動きを監視していて、群れ全体を統率しているようです。
 老人の方は絶えず咳き込んでいて、放牧が終わると教会に行っては、山羊の乳と引き換えに、そこの掃除人から煎じ薬をもらっています(といっても、教会にたまっているチリ・ホコリをかき集めたもののようで、にもかかわらずそれを飲むと牧夫の咳が治まるのです)。
 ある時、老人はその薬を草地に落としてしまい、飲まずにいたところ、咳が酷くなってついには亡くなってしまうのです。



 その一方で、山羊の小屋では子山羊が生まれます(この子山羊も、仲間の群れから一匹だけ逸れてしまい、探し回った挙句、大きな樅の木の根元で力尽きてしまうのですが)。

 といったところまで進んでくると、この映画は一体何なのか、という疑問が生まれざるを得ません。
 どうして牧夫の老人以外の人間が明示的に登場しないのか、いったい時代設定はいつなのか、このあと物語はどんなふうに展開するのか、そもそも「四つのいのち」とは何を指しているのか、などなど。
 そして、この映画は、こんな風に台詞なしで最後まで進行するのだろうし、「四つのいのち」のうちの少なくとも二つは牧夫と山羊だろうが(犬の可能性も排除できないものの、大写しにならないので違うのではなかろうか)、他の二つはこれから登場するのだろう、などと自分で自分に言い聞かせつつ見続けることになります。

 結局、後の二つは、大きな樅の木と、冒頭の塚(ここでを焼いていたのです)であることがわかってきます。「人間、動物、木、木炭という四つの命」の移ろいが描かれているといえるのかもしれません。

 ですが、4番目の炭は無機物ではないでしょうか、となると「四つのいのち」といえるのでしょうか?原題は「Le Quattro Volte」(英語タイトルが「The Four Times」)ですから、「いのち」というよりも、むしろ、4つの「時」の移ろいというべきではないのか、などと思えてきます。

 それはともかく、本作品において興味をひかれるのは次のような点です。
イ)まったく台詞がないままに最後まで進むものの(あるいはだからこそ)、かえって次はどうなるのだろうという興味から、退屈することなく見終わることができます。

ロ)劇場用パンフレットの解説からすると、時代は現代であり、舞台は南イタリアのカラブリア州の田舎にある小さな村とのことですが、よくもまあこんな現代文明から見放されたような場所があったものだと驚いてしまいます。
 アンデスのマチュピチュのように、山の上に設けられた村であり、電気は通っているものの、夜になると数本の街灯しか点いておらず、また下からかけ上がってくる軽トラックも酷く時代がかっていますし、カトリックの古い祭礼が律儀に執り行われているようでもあります(イスラエルのエルサレム市のヴィア・ドロローサで行われるような行事が行われたりします)。

ハ)「四つのいのち」のうちの大きな樅の木は切り倒されて、村に運ばれてお祭りに使われますが、村まで運ぶ様子は、まるで諏訪大社の御柱祭を見ているような印象です。




ニ)最後のシーンで生産される炭は、実際にもこの村の各家に配られているのですが、今時このような燃料を使っている場所が他にもあるのでしょうか?

(2)この映画を見ていたら、なんとなく昨年末に見た『うつし世の静寂(しじま)に』が思い出されました。
 本作品が台詞が一言もないところから、『うつし世の静寂に』のようなドキュメンタリー風の作品と感じられたのかもしれません。
 あるいは、本作品が、文明の発達したヨーロッパの中に見出される非現代的なものを大きく取り上げているのと同じように、『うつし世の静寂に』は、頗る現代的な首都圏の中に取り残されて存続する前時代的なものを取り上げているためなのでしょう。

 そんなところから、『ブンミおじさんの森』とのつながりも見えてくるかもしれません。というのも、ブンミおじさんの息子は、9年ほど前に失踪してしまうのですが、ブンミおじさんが自分の死期を悟ると、猿の精霊の姿になって表れるのですが、あるいは本作品において、老いた牧夫が死ぬとその代わりのように子山羊が生まれてくるのとパラレルに思えてきます。
 全体として、本作品は、この『ブンミおじさんの森』と同じように、自然と随分親和的なのです。

(3)福本次郎氏は、「一切の説明やセリフ、音楽を排し長まわしを多用したドキュメンタリーのような手法は、時に退屈を覚えるほど変化に乏しい。しかし、映像と自然の音のみで表現しようとする試みはイマジネーションを刺激する」、「特殊効果でもCGでもないが、「そこにある何気ない風景」を装ったすさまじいまでの作り込みは、まさに“今までに見たことがない映像”。新鮮な驚きと強烈なインパクトに瞬きするのを忘れてしまった」として70点もの高得点を付けています。




★★★☆☆





ミスター・ノーバディ

2011年05月21日 | 洋画(11年)
 『ミスター・ノーバディ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。

(1)映画は、ただ事ではない老いの醜さを全面に表している老人の顔の大写しから始まります。医者から年齢を尋ねられると34歳と答えますが、自分の様相からしてそんなことはあり得ないと自覚するのでしょう、それ以降のことは忘れてしまっていると言い出します。
 そこで医者は、催眠療法でそのニモジャレッド・レト)という老人の過去の記憶を蘇えらそうとします。
 ですが、得られる記憶は途方もない広がりを持ったものなのです。
すなわち、ニモがこれまでの人生で選択の岐路に立たされた時に、彼の前に広がる可能世界が次から次へと描き出されるのです。
 例えば、9歳の時に、ニモは両親の離婚に遭遇し、父親か母親のいずれかを選択せよと迫られます。すると、電車に乗って立ち去って行く母親を追いかけて、うまく追いついて電車に飛び乗ったニモと、追いつかずに父親と後に取り残されたニモのそれぞれに、その後にどのような展開が待っているのかが映画では描き出されるのです。



 例えば、母親と一緒に暮らす場合、15歳のニモは、母親の愛している男性が連れてきた娘アンナジュノー・テンプル)と激しい恋に陥ることになります。
 他方、父親と一緒に暮らす場合には、ニモは精神的に酷く不安定なエリースと一緒になります。
 といった具合に、物語が進行するにつれて、どんどん可能世界が増えていくのです。

 ですが、2092年という現時点で118歳になっているニモは、そうして存在したかもしれないたくさんの可能世界のうちの一の結果の姿であるはずです。そのニモは、この映画で描かれたたくさんの可能世界のうちから、選択の岐路に立たされるたびごとに一つ一つを選び取って、現時点までやってきたはずです。ですから、彼の頭に残っている記憶は、そうしたたくさんの可能世界から構成される複線的なものではなく、彼が選択した軌跡を綴り合わせた単線的なものに過ぎないのではないでしょうか?
 これは、あるいはどの地点に立って物事を見るかによっているのかもしれません。出発点(あるいは分岐点)から未来を見渡せば、可能世界がたくさん広がっていることでしょう。ですが、終わりの時点(あるいは分岐点)から過去を振り返って見れば、一続きの貧弱な世界があるだけなのではないでしょうか?

 と考えていたら、時間がどんどん過去から未来へ向けて進んでいくのは、ビッグバンからの流れであって、2092年に至ると、今度はビッグクランチによって時間は収縮し、今度は未来から過去に向かって逆に流れるというのです。
 その行きついた先が9歳の時のニモ。
 となると、起点は、118歳のニモではなくて9歳のニモになってしまい、描かれた世界はすべてにニモの幻想になるでしょう。
ソウなると今度は、ニモの前に無数の可能世界が広がることになるでしょう!

 映画では、選択の岐路に立たされたニモの前に提示される選択肢は2つしかありませんが、実際には無限に考えられるでしょう。
 例えば、映画のラストシーンのように、父親の方にも母親の方にもいかずに、真中の道を走り去ってしまうこともできるでしょうし、あるいは母親に追い付いて電車に上がった瞬間に、電車が脱線してしまうとしたら、または父親の方に向かったら彼が心臓麻痺で倒れてしまうとしたら、さらには両親が急遽和解して一緒に暮らすことになるとしたら、……。

 映画は、たくさんある選択肢のうちの代表的なものを二つだけ選び取って映し出しただけのことかもしれません。
 でも、たくさんある選択肢を見ているニモはどの地点に存在するのでしょうか?どこにいたら、可能世界全体を見渡すことができるのでしょうか?
(まあ、これも“映画のお約束”で、神の視点から見たものと言えるのかもしれませんが)

 映画は、118歳のニモの顔面の特殊メイクからはじまって、火星旅行に行く宇宙船の様子など、一方でSF的な要素をふんだんに盛り込みながらも、15歳のニモを演じるトビー・レクボのイケメンぶりとか、同じ歳のアンナのジュノー・テンプルの可愛らしさといった要素も持っていて、なかなか面白く見終わることができました。




(2)ところで、ブログ「映画のブログ」の管理者ナドッレックさんは、この映画に関する記事(5月2日)において、当該作品の本質を量子力学の観点から捉え、「内容は至って単純、「シュレーディンガーの猫」である」と喝破され、映画を制作したジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、「複数の状態が重なり合うという量子力学の考えから、人生の無限の可能性を信じる希望の物語を紡ぎだした」と述べておられます。
 すなわち、ナドレックさんは、様々の岐路に立たされるニモの前に広がる二つの選択肢について、「シュレーディンガーの猫」と同様に、「主人公の人生では、恋人が生きていたり死んでいたり、自分が事故に遭ったり無事故だったりする。確率的にはどの人生も同じように確からしいので、いずれの人生も真実であり、シュレーディンガーの猫と同様に重ね合わせ状態にあるのだ」と捉えていらっしゃいます。
 要すれば、ナドレックさんンは、「シュレーディンガーの猫」を、選択肢の重ね合わせの状態と把握されておられるようです。




 この記事には心底びっくりし、この記事によってこの映画は語り尽くされているのではないか、これ以上付け加えることなど残ってはいないのではないか、と思ったほどです。
 ですが、なんだか引っ掛かるところがあるので、念のため、手元にある本などで「シュレーディンガーの猫」のことを調べてみることといたしました(注1)。

 そうしたところ、「シュレーディンガーの猫」について、例えば大澤真幸氏は、『量子の社会哲学―革命は過去を救うと猫が言う』(講談社、2010.10)の中で、次のように解説しているところです。「そこには、「50%生きており、50%死んでいる猫がいる」と考えざるをえないのだ!」(P.131)。言いかえれば、猫が生きている状態と死んでいる状態とが共存しているわけのわからない状況なのでしょう。
 映画に当てはめてみると、例えば、“50%母親の手を握り、50%母親の手を握れない9歳のニモ”ということになるのでしょうか?

 ですが、これでは量子力学との関係が見えてきません。
 というのも、「シュレーディンガーの猫」とは、量子力学において、電子などが粒子でありかつ波動でもあるとすることが生み出すパラドックスを説明するための思考実験とされているからです。
 他方、岐路に立たされたニモの前に選択肢が二つあるということは、決してパラドックスでも何でもなく、ニモは、自分の前にいくつも可能性が広がっているだけのことであり、彼はそのうちの一つを選び出せば済むことなのではないでしょうか?

 この際問題なのは、猫の状態もさることながら、猫が入っている箱に施されている装置の方ではないでしょうか?大澤氏の著書に従えば、「電子が存在している確率と猫の生死が連動しているように工夫された装置」なのですが(P.131)、電子が確率的に存在しているという量子力学的な観点が最大のポイントではないかと考えられます。そのことの結果として、生きていながらも死んでもいる猫というものが出現してしまうのですから。
 つまり、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスとは、電子などのミクロの世界で起こることを猫というマクロの世界に結び付けてしまうと、途方もない事態が生じてしまうことを説明するものではないか、と考えられるところです。
 ところが、そんな装置などニモの場合にはありえません。もとより、そんなものを映画化することなど不可能なことではないかと考えられます。

 いうまでもなく、ナドレックさんのレビューにおいても、抜かりなく装置の説明は行われています。ただそこでは、この装置について、「確率が半々の現象を捉える観測装置の箱」とされ、「箱の中では、現象の発生に応じて猫の生死が決まる」とされているところ、この「現象」とは、一般的な現象ではなくて、電子といったミクロの世界のものである必要があると考えられるところです。
 ナドレックさんのように単に「現象」とすることによって、話の重点が猫の生死の方に行き、その重ね合わせ(「猫が生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」)といったことに目が移ってしまうのではないでしょうか?
 そうなれば、「確率的にはどの人生も同じように確からしいので、いずれの人生も真実であり、シュレーディンガーの猫と同様に重ね合わせ状態にあるのだ」というところまでは一っ飛びとなることでしょう。

 むろん、ここはエンターテインメントを本旨とする映画に関する話ですから、あまり杓子定規なことを言ってみても意味がありません。
 映画の中で、ビッグバンに対応するビッグクランチがいわれ、118歳のニモが突然9歳のニモに逆戻りするところ、いくらなんでも億年単位の話を100年余りに縮めてしまうとはと驚きますが、楽しい映画ですからナンデモアリでしょう。
 この「シュレーディンガーの猫」も、電子や光子といったミクロの世界に量子力学を適用した際にマクロの世界に生じる矛盾を問題にする思考実験ながら、パラドックスの前半部分(ミクロの世界)はカットし、後半部分(マクロの世界)を比喩的に用いてニモに適用するとしても、楽しい映画を巡ることであれば、そんなことに目くじらを立ててみても始まらないのかもしれません。

 とはいえ、あまり使い勝手がいい話でもないのでは、と思われるところです。
 一つには、後半だけであれば、何も「シュレーディンガーの猫」を持ち出さずとも、「コペンハーゲン解釈」だけで十分ではないかとも思えるからです。すなわち、事象の重ね合わせをいうのであれば、電子自体が、「コペンハーゲン解釈」では様々の状態の重ね合わせなのですから(注3)〔とはいえ、同解釈はミクロの世界に限定されているものですが。〕!
 だったら、「多世界解釈」に従えばいいのではないかと言われるかもしれません。ただ、この場合には、状態ごとに世界が異なるとするわけですから、ナドレックさんが問題にされている「重ね合わせ」といったことにならないのではないでしょうか(注4)?
 さらにもう一つは、「シュレーディンガーの猫」はあくまでも客観世界に関することであるのに対して、ニモの目の前に広がる可能性はニモの主観によるものなのではないでしょうか?その場合には単なる想像なのですから、重ねあっているとしても何の問題もありませんが、客観世界の場合には、矛盾する事象が重ね合っていたら、それは受け入れられないことになるでしょう。



(注1)この部分を書くに当たって、一応参考にいたしましたのは、本文で挙げました大澤真幸氏の著書の他には、雑誌『Newton別冊―みるみる理解できる量子論―改訂版』(2009年4月)や、下記注3で触れる「量子論」を楽しむ本』(佐藤勝彦・監修、PHP文庫)、南堂久史氏のHP「量子論/量子力学―その最前線」(トンデモと貶す向きもあるようですが、初学者には頗るわかりやすいのではと思います)とかwikiといったところです。

(注2)ナドッレックさんは、「ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、とりあえずコペンハーゲン解釈を採用して映画のオチとしたようだ」と述べておられるところ、「シュレーディンガーの猫」は、元々コペンハーゲン解釈に異を立てるべく作成されたものですから、それをまたまた同解釈で説明するとはどういうことなのかな、と思ってしまいます。
 あるいは、「コペンハーゲン解釈」に従えば、「シュレーディンガーの猫」の話はパラドックスではない、ということなのかもしれません。

(注3)『「量子論」を楽しむ本』(2000年)では、「ボーアたちは、観測される前の電子はさまざまな位置にいる状態が「重ね合わせ」になっているが、私たちが電子を観測したとたんに「波の収縮」が起きて電子は一ヶ所で発見される考えた」のが「コペンハーゲン解釈」だとされています(P.139)。

(注4)ナドレックさんは、「多世界解釈によれば、猫の状態を観測しても、「生きてる猫を見出した観測者」と「死んだ猫を見出した観測者」との重ね合わせ状態になるだけで、一つの状態に収束するわけではない」と述べておられますが、この場合の「重ね合わせ」は、コペンハーゲン解釈における“重ね合わせ”とは意味合いが違っているのではないでしょうか?


(3)上記(2)でくだくだしく申しあげたことの要点は、次のようなことになるでしょう。
a.科学的な話を映画を論じる際に使う場合、元来映画はエンターテインメントなのですから、そんなに厳密性が求められるわけではないでしょう。

b.ですから、ニモの場合にみられる様々な可能性の重なり合いを、量子力学における事象の重なり合い(コペンハーゲン解釈)とパラレルに見ることも大層興味深いことでしょう。

c.ただ、さらに「シュレーディンガーの猫」の話にまでなると、それは「コペンハーゲン解釈」に対する異議申し立てという見地から編み出されたものであって、ミクロの世界が欠けているニモの場合にすぐさま適用できるかどうか、疑問なしとしないのではないでしょうか?

d.また、量子力学における「多世界解釈」によれば、事象の重なり合い自体が解消されてしまうために、ニモの場合にそれを適用するのは難しいのではないでしょうか?


 なお、実際のところ、この問題は、クマネズミのような未熟な者には手に余り、以上のように書いてはみたものの、依然としてよくわからないことばかりです。
 たぶん間違っているところ、解釈が行き届いていないところがたくさんあると思われます。この記事をお読みになった方々からイロイロご意見を賜れば幸いです。


(4)映画は、物語がまっすぐに進行せずに、絶えず中断されて過去に引き戻され、それも違った選択肢の下で展開される違った可能世界が描かれて、いったいどれが真実なのか分からない、といった感じになります。
 可能世界を描いたものではありませんが、ばらばらの記憶という点では、『メメント』(『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』に関する記事の(2)で若干触れています)と類似しているのでは、と思えます。そして、本作品では、何度も、ニモの9歳の時の記憶が繰り返し映し出されるのに対応して、『メメント』でも、妻がレイプされて殺される大元の映像が繰り返し映し出されます。

(5)前田有一氏は、「この映画は、「超映画批評」本年度の早くもベストワン候補の筆頭であ」り、「これは本当に凄い映画である。映画を見ながら色々と思考し、結末に対しても熟考するのが好きな中級以上の映画ファンが見れば、確実に満足できる作品である」と手放しの褒めようで、あろうことか97点もの高得点をつけています!
 ただ、前田氏によれば、「この映画をみて混乱することは全くない」とのことですが、なかなかそんなことは難しいのでは、と思ってしまいますが。
 また、精神科医の樺沢紫苑氏も、この作品は、「人生選択をテーマにしている。生きられなかったもう一つの自分を生きるとどうなるか、というシュミレーション。人生をやり直したって、幸せになれるとは限らない。結局のところ、「今」を必死に生きるしかないのか・・・といろいろ考えさせられる」。「これを「難解」という人もいるかもしれないが、最後まで見るとだいたいは理解できる話しなので「複雑」ではあるが決して「難解」ではないはず。『ソウ』『メメント』『インセプション』といった複雑なストーリー好きには、必見の作品」と、90点をつけています。



★★★☆☆




象のロケット:ミスター・ノーバディ

阪急電車

2011年05月15日 | 邦画(11年)
 『阪急電車―片道15分の奇跡―』をTOHOシネマズ日劇で見てきました。

(1)この映画は、阪急電車(今津線)の沿線の事情をある程度知っている人には、共感を呼ぶところが多々あるでしょうし、大阪に住んで宝塚線の方を利用していたことでもあれば、内容がどんなであっても許してしまうと思われるところ(舞台が、同じくらいの短さの「井の頭線」だったら、通勤でお世話になっているわけですから、クマネズミも文句なしにOKしてしまいます!)、生憎とクマネズミは関西に住んだことが全然ないこともあって、こうした映画の作り方にはあまり共感を覚えませんでした。




 例えば、
a.宮本信子扮するおばあさんの、人生の先の先まですべて見通してしまっている様な態度が気に入りません。というのも、彼女は終戦の年に生まれていますが、その年齢で人はあのように悟りきれるものなのでしょうか(むろん、俳優の実年齢と登場人物の設定年齢とは違うのでしょうが!)?



 マアそれも中谷美紀に対する1回限りのものならば許されるでしょうが(しかし、事情を詳しく知らずに「会社を辞めなさい」とまで言えるのでしょうか?)、復路の電車の中で、騒ぎまくる中年の主婦たちに対するお説教とかは、うんざりといった感じになります(中年過ぎの女性たちがあのように元気ならば、許してやろうではないですか!)。

b.戸田恵梨香と暴力男との話し合いに、戸田の親友が出席するのは分からないでもありませんが(でも、あくまでも個人の話ではないでしょうか?)、その兄貴まで登場し、まして彼が空手をやるというのでは、ご都合主義もいいところではないかな、と思いました。

c.その戸田恵梨果が、今度はずっと年上の南果歩に教訓を垂れるのですから何をか言わんやです。まあ、それを黙って聞く南果歩も南果歩ですが。

d.玉山鉄二有村架純とラブホテルに入ってからの行動は、青年はこうあって欲しいの見本のようなものでしょうし(玉山鉄二も30歳を超えているのに)、また谷村水月勝地涼とがクリスマス・イブの夜に部屋で炬燵に入っているときの様子もエイズ教育の教科書を見ている感じです。

e.ラストで中谷美紀が「悪くないよね、この世界も」と戸田恵梨香に言うのは、この映画から観客へ向けてのメッセージなのでしょうが、そんなものは観客に黙って感じ取らせるべきものであり、こうもあからさまに持ち出されるとゲンナリしてしまいます。

 いうまでもなく、すべてこうであればいいのになということが頗るファンタジックに描かれていて(だからこそ「奇跡」と副題にあるのでしょう!)、決して実際にこういうことがあるというわけではないため、こんなふうにいくら論ってみても無意味でしょう。
 それにしても、そんなことばかり続けて2時間も見せられる方としては堪ったものではない、との感じになってしまうのですが。
 それに、この映画で言われていることの大半は、周りでとやかく批難したりするよりも、本人たちが自ずから気付いて然るべきものであって、この映画のように、周りの者が実際に口にしてしまうと逆効果しか得られないのでは、と却って危惧してしまいます(中年の女性たちは、電車を降りると憤激しています!)。

 それでも、中谷美紀以下の俳優も、それぞれの持ち味をうまく出しているのではと思います。なかでも、谷村美月は、『海炭市叙景』でもそうでしたが、この映画でもその気真面目なところがうまくはまっているなと思います。

 また、全体を「往路」と「復路」の2部構成にし(時期も秋と春を選別し)、8つの駅をそれぞれうまく紹介し(「門戸厄神」とか「小林(おばやし)」といった駅名が注目されます)、よく練られて作られているとは思います。

(2)特に、映画の構成という点からすると、前半は「往路」とされ、宝塚駅から西宮北口駅までの8つの駅に絡んで起こることが、ある意味で問題提起といった形で描かれ、映画の後半の「復路」(西宮北口駅→宝塚駅)における問題解決と対をなすように、大体のところ作られているようです。

 例えば、「往路」では、宮本信子は、犬を飼いたいとねだる孫に対し「犬は飼わないと決めてるの」とニベもなく拒絶しますが、「復路」では彼女はミニチュアダックスを連れています。その間に、彼女の心をほぐす出来事があったようです。
 また、中谷美紀は、「往路」では、自分を捨てた男の結婚式に、タブーとされる純白のドレス姿で出席するところ、「復路」では、彼のいる会社を辞め、住まいも阪急電車沿線に移しています。
 さらに、「往路」では、戸田恵梨香は、暴力男と別れることになかなか踏ん切りがつかないものの、「復路」では、親友らの協力もあり彼とキッパリ別れます(回想シーンながら)。



 勿論、すべてのエピソードがそんなに杓子定規に分けられているものでもなく、例えば、小林駅でのいじめの話は「復路」だけの出来事になっています。
 とはいえ、映画全体としては、「往路」と「復路」とが対をなしている印象を受けました。

(3)そこで、とんでもない方向に飛んでしまい甚だ恐縮ですが、ここにはもしかしたら親鸞の「往相・還相」の考え方が垣間見られるのではないかと思ったところです(注1)。

 例えば、評論家の吉本隆明氏の『最後の親鸞』(春秋社、1976年)では、次のように述べられています。
 親鸞の『歎異抄』の第四条について、「ここには往相浄土だけでなく、還相浄土のことが云われている。念仏によって浄土を志向したものは、仏になって浄土から還ってこなければならない。そのとき相対的な慈悲は、絶対的な慈悲に変容している。なぜなら、往相が自然的な上昇であるのに、還相は自覚的な下降だからである」(P.150:ちくま文庫版、P.145)(注2)。
 なかなか理解するのが難しいのですが、吉本氏は、親鸞の「聖道の慈悲」を「往相浄土」と捉え、「浄土の慈悲」を「還相浄土」と捉えているようです。そうであれば、「往相」とは、親鸞が「ものを不憫におもい、悲しみ、たすけ育ててやること」と述べているのに相当し、「還相」とは、「大慈大悲心をもって思うがまま自在に、衆生をたすけ益すること」に相当するのではないかと思われます(注3)。

 そこで例えば(以下は、曲解に次ぐ曲解ですが)、「往路」では、宮本信子は、犬を飼いたいとの孫の要求を拒否しますが、それは昔の出来事の記憶に基づいてなされた反応ですから、あるいは「往相」かもしれませんし、にもかかわらず、「復路」では彼女は孫の要求を受け入れています。その間に、彼女の亡夫にソックリの青年に出会ったことが彼女の心を大きくほぐしたようですから、「還相」と言ってみてはどうでしょう。

 また例えば、本作品で中谷美紀が、自分を捨てる男に対して、自分を結婚式に出席させるなら許すというのが「往相」で、その男が働く会社を辞め住まいも引っ越してしまうのが「還相」と考えてみたら、あるいは面白いのではないでしょうか(「許す」と言いながらも、結婚式に純白のドレスを来て出席するというのは対決姿勢を見せつけることですから、まだ相手との関係を絶っているわけではありませんが、会社を辞め住まいを換えるとなれば、相手を自分の視野から完全にはずすということになるのではないでしょうか?こうした一連の行動によって、彼女は、一種の悟りの境地に立ったのかもしれません)?

 逆に、宮本信子が、中年女性達に対して真っ向からお説教を垂れるのは、まだまだ俗世から抜け切れておらず、修行が足りないのかもしれません(単に、中年女性を怒らせたに過ぎませんから!)。
 また、中谷美紀が仲間はずれにされた小学生に、「きれいな女は損するようにできている」などと如何にも訳知り顔でご託宣を垂れるのも、マアお門違いでしょう(結局は、仲間はずれの状況は解消されないのですから!)。
 ここでの言葉遣いからすれば、せいぜい「往相」はあるにせよ、「還相」は見られないと言って見たらどうでしょうか?

 とこんなことを言ってしまうと、クマネズミが、この『阪急電車―片道15分の奇跡―』についてイロイロ文句を申し立てていること自体、「往相」にも立ち入れない下衆の戯言にすぎないのでしょう!

 なお、ここで、30年ほど前に出版された吉本氏の著書をわざわざ持ち出しましたのは、ついこの4月に、勢古浩爾氏の『最後の吉本隆明』(筑摩選書)が刊行され、最後の50ページ以上にわたって吉本氏の親鸞論を取り上げていて、それも随分と読ませる内容をもっているなと思えたことがあるからです(注4)。


(注1)親鸞の『教行信証』の教巻冒頭では、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり」と述べられています(岩波文庫版、P.29)。
 また、『親鸞和讃集』では、例えば、「弥陀の廻向成就して/往相還相ふたつなり/これらの廻向によりてこそ/心行ともにえしむなれ」(岩波文庫版、P.99)とあります。

(注2)また、『最後の親鸞』では、次のように述べられているところもあります。「親鸞は、<知>の頂きを極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいてゆく還相の<知>をしきりに説いているようにみえる」(P.8:ちくま文庫版、P.17)。

(注3)親鸞の引用は、『歎異抄』の第四条を吉本隆明氏が現代語訳したものによっています。

(注4)例えば、「わたしは、吉本隆明の、生まれて、生きて、老いて、死ぬ、という生涯が最も価値ある生だという言葉は、還りの言葉なのだと考える」が、ただ「それが「還り道」の言葉であり思想だから」、「自分の夢を追って、成功して、家と車を買って、海外旅行もし、家族団欒で、愉しく暮らしたい」という「往きの言葉」に対して、「なんの説得力もない」、と勢古氏が述べているのは、なるほどと思いました(P.302及びP.349)。
 ただ、勢古氏がどんな風に論評するのかなと期待した吉本氏の「主要三部作」について、『言語にとって美とはなにか』に関しては、「この作品のもつ意味がついにわからなかった」(P.183)、また『共同幻想論』は「読んでおもしろいわけではない」(P.192)、それに『心的現象論』は「ちんぷんかんぷん」(P.189)と素通りしていて、その点は残念ですが。


(4)渡まち子氏は、「狭い車内で少しだけ同じ空間を共有し、また別れていく。ライトな距離感が、明るい車窓の風景のように自然と目を和ませる。ありふれた風景がもしかしたら小さなファンタジーにつながっていると思うと、前向きになれる気がしてくるのだ。いい味を出してくれたのは、出番は少ないが、心優しいホテルマンを演じる大杉漣。阪急電鉄の全面協力によるロケのおかげで、車内の風情や沿線の風景がとても丁寧に描かれていて好感が持てる」として55点を与えています。
 福本次郎氏は、「上品だが驕らず、人情豊かだが他人の領域にまでズケズケと踏み込まない、その距離感をわきまえたバラエティに富んだキャラクターが心地よい」し、「様々な世代の人種が交錯するなかで、どこかに観客が共感を持てるポイントをつくり、きちんとオチをつけている脚本が非常に洗練されている。そして悩みをクリアした彼らが次のステップに向かって歩き出す姿が素晴らしい」として70点を付けています。
 前田有一氏は、「登場人物たちはみな、自分など他人に影響を与えることなどない、とるにたらない人間だと思っている。しかし、彼らのささやかな善意が、思いもよらぬ波状効 果でまったく知らない人たちの人生を素晴らしいものに変えてゆく。たとえ平凡でも、誠実に生きることがいかに世の中を良くしているかを描く、この映画は心 強い応援歌である」、「心が弱ってる人に勇気を与える1本としては、現在見渡す限りこれ以上のものはない。今日まで生きててよかった、報われたと感じさせてくれる良作である」と手放しで絶賛し、85点もの高得点を付けています。




★★☆☆☆




象のロケット:阪急電車

ブルーバレンタイン

2011年05月14日 | 洋画(11年)
 『ブルーバレンタイン』をTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)この映画は、タイトルからすると若い女性向きのたわいもないラブストーリーなのかなと敬遠していたところ、実は悪くない作品だと聞き及んで、見に行ってきた次第です。
 実際にも、話の中身自体はよくあるものと言えそうですが、大層入念に描き込まれていて、クマネズミにとっては拾い物でした。

 映画は、看護師の妻のシンディミシェル・ウィリアムズ)と、ペンキ塗り職人の夫のディーンライアン・ゴズリング)、それに娘のフランキーとからなる3人家族を巡るお話。
 よくありがちなことですが、夫の方は、ちゃらんぽらんに仕事をしていて、朝からビールを飲んでいる一方、妻の方は朝早くから夜遅くまで病院で働いています。
 そうしたところ、愛犬が、閉まっていなかった檻の外に出てしまって、車に轢かれて死んでしまうという事件が起きます。妻のシンディからすれば、夫のディーンが家にいるのだから、犬のこともよく見ていて欲しいと思う一方で、ディーンの方は、妻が檻の鍵に注意しなかったとなじる始末。
 これは些細な事件にすぎないように見えながらも、実のところこれまでも、二人の間にはかなりすきま風が吹いていて(ディーンは、この生活で良いと思っている一方で、シンディはモット飛躍したいし、夫にもモット働いてもらいたいと考えています)、むしろ二人の関係を象徴する出来事ともいえるでしょう。
 要すれば、結婚10年目くらいの倦怠期を迎えた夫婦なのです。両者とも目立った欠点はないものの、なんとなくしっくり来なくなっているわけです。
 そこで、ディーンは、事態を立て直すべく、強引に妻を誘って郊外のラブホテルに行きます。でも、事態は却って悪化してしまいます。

 そういった現在時点の話の展開の合間に、結婚当初のいきさつが回想シーンとして何度も挿入されます。
 若い時分からシンディは、頑張り屋で医師になるべく勉強していた一方、ディーンは、高校も満足に卒業せずに、そのころは引越業のアルバイトをしながら日銭を稼ぐ暮らし。元々二人は不釣り合いだったわけながら、シンディは、ディーンの中に自分にないものを見つけたのでしょう、一息に結婚に突っ走ってしまいます。
 ただ、日常生活の積み重ねである結婚生活に入ると、やはりそのアンバランスなところが目立ってきてしまい問題となってくるようです。
 ついに、ディーンは、酒に酔った勢いで、シンディが働く病院で騒ぎを引き起こし、結局は離婚に至ってしまいます。

 どこにでも転がっている他愛のない話の展開ながら、ディーンを演じるライアン・ゴズリングは、結婚してから大分経過した現時点を、髪の毛を剃ったり肥満気味の体型にしながら巧みに演じています。



 またシンディを演じるミシェル・ウィリアムズも、瑞々しい若さ溢れる学生時代と生活に疲れた現時点との差をうまく演じ分けていて、全体として見応えがある作品だなと思いました。




(2)丁度4月29日に、イギリスのウィリアム王子とキャサリン妃の結婚式の模様が中継された折りでもあり、また最近映画『婚前特急』を見たこともあって、映画でディーンとシンディが結婚に至る展開には興味を惹かれたところですが、他方で、『Somewhere』などからも離婚も随分と一般化しているのだな、と思わされます。
 特に、『Somewhere』では、子どもが重要な役割を演じています。
 また、『まほろ駅前多田便利軒』でも、瑛太は、子どもを死なせてしまった自責の念から逃れられなくて、離婚してしまっているのです。
 この映画においても、ディーンとシンディには娘がいて、ディーンはそのフランキーをことのほか愛しているようです。
 ただ、娘はディーンの実の子どもではなく、シンディが結婚前に付き合っていた彼氏との間の子どもであって、そのことはディーンも承知の上。逆に、だからこそ彼は、フランキーの面倒をよく見て、むしろフランキーとの時間を多く取りたいが故に、ちゃらんぽらんにしか仕事をしていないのです。
 であっても、シンディは、もう一緒にはいられないとして、ディーンに離婚を告げ、ディーンも二人の下を去ってしまいます。
 もしかしたら、『Somewhere』は、この後のディーンとフランキーの関係を描いたものとなっているのかもしれません。むろん、ディーンは、ジョニーのように有名スターではなく、フェラーリを乗り回すことなどあり得ないでしょう。
 ですが、映画のラストのままシンディと別れてしまったら、やはりフランキーに心のよりどころを求めることになるのではないか、と思わされました。

(3)渡まち子氏は、「夢中で愛し合った過去と、生活に押しつぶされそうな現在、そしてある決断の末に何かが始まる未来へ。一組の男女の気持ちの移ろいを、残酷で美しい時間そのものを主人公にして物語る作品だ」として65点を付けています。


★★★☆☆




象のロケット:ブルーバレンタイン

イヴ・サンローラン

2011年05月11日 | 洋画(11年)
 『イヴ・サンローラン』をヒューマントラストシネマ有楽町で見てきました。

(1)以前見た『ココ・シャネル』と同じようなファッション界の内幕を描き出す劇映画なのかな、と漠然としたイメージだけで何の予備知識も持たずに映画館に入ったところ、イヴ・サンローランについてのドキュメンタリー映画だとわかり、驚いてしまいました。
 ですが、見ている内に、彼と40年以上もの長い期間親密な関係を続けてきたピエール・ベルジェ氏の語りが主なものになっているのですから、あえて劇映画にするまでもない、むしろこちらの方がズッと面白いのではと思われました。
 むろん、ベルジェ氏が身近な者だけに、逆に話せない事柄も多いでしょうし、事実を曲げて話している部分もあるかもしれません。




 とはいえ、なによりも、映画では、サンローランの本業であるファッションというよりも(注1)、むしろ二人が収集した美術品をオークションにかけて処分する話が中心になっているのは、まさにベルジェ氏だからこその展開ではないでしょうか?
 映画の冒頭は、二人が過ごした豪邸(注2)の内部の様子が映し出されますが、各部屋には所狭しと夥しい数の美術品が飾られています(注3)。



 それらが、サンローランの死後(2008年)、オークションにかけられるというので、映画の後半では、次々に梱包されて屋敷から運び出されます。
 そして、2009年の2月に、パリのグランパレで、クリスティーズの差配の下、一点一点高額な値が付けられて落札していきます(注4)。

 サンローランは、こうしたクリエイティブな美術品の中に埋もれていなくてはうまく仕事ができなかったようです。ベルジェ氏によれば、サンローランは、年に2回のファッションショーが終わった後に笑顔を見せるだけで、いつもは厳しいプレッシャーに鬱々と過ごしていたとのこと(注5)。それも当然のことかもしれません。なにしろ、毎年2回も、世界中をアッと驚かすような斬新なデザインを数多く発表しなければならないのですから!

 おそらく、夥しい数の美術品は、サンローランが存在することによって、彼と一緒に息をしていたのでしょう。彼が亡くなってしまえばタダの美術品です。そこでベルジェ氏は、美術館を建設して一般公開する道を選ばずに、散逸してしまうにせよ、オークションに掛けて、それらを必要とする人たちの手に委ねたに違いありません。

 この映画で興味を惹くのは、美術品の他には、サンローランと親しかった有名人を見ることができることでしょう。
 例えば、ミック・ジャガーや、アンディ・ウォーホルの姿が2、3度見られますし、ラスト近くでは、歌っているカトリーヌ・ドヌーブも登場します。

 ただ、ノルマンディーのシャトー・ガブリエルでは、マグリット・デュラスの家に近かったにもかかわらず、交流はなかったとベルジェ氏は述べています。

 更に圧倒されるのは、1998年にFIFAワールドカップがフランスで開催された際に、サッカー・スタジアムを使った巨大なショーが開催され、5大陸からの300人のモデルが、サンローランがデザインした衣装を着けて登場する場面でしょう(注6)。

 2002年に引退を公表するときなどの晩年の様子と若い時分の瑞々しい姿との余りの落差には驚いてしまいますし、6歳年上のベルジェ氏がまだまだ元気に街を歩いている姿を見ると、時代の寵児も、一皮剥くと大変な境遇にあったのだな、と思えてきます。





(注1)劇場用パンフレットの「Profile」には、「トラペーズ・ライン」、「ロング・ライン」、「モンドリアン・ドレス」、「スモーキング」、「サファリ・ルック」といった言葉が並んでいます。
 例えば、このサイトを見ると、その概要が分かります。

(注2)二人の屋敷は、パリのバビロン通りのマンション、ノルマンディーのシャトー・ガブリエル、それにモロッコのマラケシュの邸宅、といったところです。

(注3)こちらのサイトによれば、「733点」とのこと。
 なお、下記の映画評論家・福本次郎氏は、「蒐集にどのような傾向があるのか考察は加えられない」と述べているところ、アングルからピカソ、マチスに至る絵画とか、仏像や陶器まで、特定の分野に限ることなく、実に幅広く収集されていることがわかります。なかでも、ジェームズ・アンソールの「ピエロの失望」を所有していたとは驚きです。ただ、単なる推測ですが、ルノアールなどの印象派絵画の数は、かなり少ないのではないでしょうか?

(注4)こちらのサイトによれば、競売総額約463億円、収益は、「ピエール・ベルジュ-イヴ・サンローラン財団」に寄付されて、エイズ撲滅の研究資金に使われているとのこと。

(注5)映画の中で、サンローランは、自分には若い時がなかったと述べています。なにしろ、若干21歳で、ディオールのチーフデザイナーとなり、4年後にはベルジェ氏の後押しで自分のブランドを立ち上げ、以降ずっとファッション界の第一線を走り続けてきたのですから。
また、ベルジェ氏によれば、サンローランは、アルコールとドラッグにも依存していたようです。

(注6)無論、5大陸の中にはアジア大陸も入っているのでしょうが、映像にはアジア人の姿は見かけませんでした!そういえば、サンローランは、黒人モデルをファッションショーに使った人として有名ですが、アジア人についてはどのように思っていたのでしょうか(夙に、サンローランは1963年に来日していますが、総じて今回の映画では東洋のことは余り触れられていないように思われます)?
追記:2012.2.6〕下記の「ocha」さんのコメントによれば、W杯の映像で川原亜矢子の姿が見られたとのことですので、この注記は削除する必要があります。



(2)福本次郎氏は、「映画は彼の公私にわたるパートナーのインタビューと膨大な写真・映像から再構成される。服飾デザインをアートととらえ、デザイナーの社会的地位が非常に高い、これこそがパリが世界の流行の震源地であり続けるパワーの源なのだ」として50点をつけています。
 ただ、福本氏のレビューは、単に映画の内容に触れているだけで、福本氏の感想らしきものは記載されてはおりません。また、「徴兵検査に不合格になり、神経症になってふさぎこんでしまう」と述べられていますが、実際には“20日間”陸軍に入隊していましたから、「徴兵検査に不合格」というわけではありません(新兵に対する厳しい歓迎儀式のせいで、神経衰弱になったとされています)。



★★★☆☆




象のロケット:イヴ・サンローラン

まほろ駅前多田便利軒

2011年05月08日 | 邦画(11年)
 『まほろ駅前多田便利軒』を新宿ピカデリーで見てきました。

(1)映画は、まほろ駅前で便利屋を営んでいる多田啓介瑛太)と、そこに転がり込んできた行天晴彦松田龍平)とが軸になって展開されます。



 その際、行天の小指が要石の一つような気がします(注1)。
 中学校の工芸室で、多田が行天を振り向かせようと肩に手をかけたときに、行天は裁断機で小指を切り落としてしまうのです。
 その後の手術によって、斬り落とされた小指はつながったのですが、その事故がいつまでも多田の心にシコリとして残っています。何かというと、行天が「寒い夜は小指がちぎれそうに痛む」などと仄めかすものですから、多田はあまり強い態度に出れなくなっています。2回ほど、多田は行天を追い出そうとしますが、結局は元の鞘に収まる始末。

 どうも多田は、行天の小指を切り落としてしまったがために、一度行天とくっついてしまうと(その事故の後、2人はずっと疎遠になっていたようです)、最早彼から離れられなくなってしまったのでしょう。
 それと同じように、関係の修復を図ること、切り離されてしまってバラバラになってしまいそうになっている物を、元の通りにくっつけようとすることが、多田の便利屋の仕事になっているとは言えないでしょうか?

 例えば、多田はある女性からチワワを預かるのですが、実際は彼女は、ペットを飼うことのできないアパートに引っ越さざるを得ないがために、子供が育てていたチワワを、子供に黙って便利屋に引き取ってもらおうとしたのです。
 多田たちは、元の関係に戻すべく引っ越し先を探し当てます。ただ、そうした事情にあることがわかると、チワワとその子供との関係の修復は諦め、今度はそのチワワを、それを実際に必要とする新しい飼い主に引き取ってもらいます。

 また、行天は、両親との関係を清算しようとして包丁を隠し持っていたのですが、チワワを仲立ちにして多田との関係ができると、その包丁を放棄してしまいます。とはいえこれは、多田が意識的に行ったことではなく、結果的に関係の破局化が避けられただけのことですが。

 さらに、多田と行天とがDVDで見ている『フランダースの犬』の最終話のラストは、別れ別れになっていたネロと犬のバトラッシュとが、アントワープ大聖堂のルーベンスの2枚の絵を見た後で、雪の中で一緒になって息絶えて天国に昇る場面です(注2)。

 もっといえば、まほろ市のモデルとなっている町田市は、神奈川県の中に食い込んだ東京都といった位置関係にあって、今にも東京都から切り離されて神奈川県にくっついてしまいそう、といった感じがするものの、依然として東京都のママです(注3)。

 とはいえ、本作品は、多田が、生まれてすぐの子供を死なせてしまったという自責の念からなかなか立ち直れずにいる様を描いたものと考えた方が、常識的には理解しやすいのかもしれません。
 なにしろ多田は、チワワのようなひ弱そうに見える小さな動物に対しては、すぐにでも死んでしまう気がしてしまいますし、また子供を使っての犯罪行為に対し、強い憤りを感じたりもします。
 ただ、そうした動きの底にあるものを探っていくと、あるいは、小指事件が見つかるのではないかと思えます。

 それはマアさておき、この便利軒は、映画の中では、子犬を預かったり、子供の塾の迎えをしたり、アパートの戸の滑りをよくしたり、バスの運行状況をチェックしたり、などというような、実にセコイ仕事しかしていません。こんな営業状況で、よく駅前の事務所(いくらオンボロのビルとはいえ)を借りていられるなという気がします。多分、映画では描かれていないところで、細々とした仕事がたくさんあるのでしょう。
 それでいて、麻薬の売人と関係が出来たりして、行天が腹を刺される事件さえ起きてしまいます。また、行天は、子供を望む女性に精子を提供するといった実に現代的なこともやっています。




 映画全体として、日常的なごくつまらないことの繰り返しが描かれる中に、時折さりげなく麻薬とか人工授精など大きな事件も挟み込まれたりして、なかなかうまい映画の作りになっていると感心いたしました。
 それに、多田が、塾の迎えをしている子供に対して、「親が与えてくれなかった愛を、生きてさえいれば、他の誰かに与えることができる」といった教訓めいたことを言うのですが、文庫本解説の鴻巣友季子氏は、これを作者のメッセージとして受け取って、「幸福の再生」ということではないかと述べています。しかしながら、本映画作品においては、そのあとに「そんな風に言ったけど、おれはまだ誰にも何も与えられない」という多田の声が入るのです。こうした歯の浮くような説教じみたメッセージを、そのままの形で流さない監督の姿勢を評価するところです(注4)。

 瑛太は、きちんと見るのは『ディア・ドクター』以来ですが、存在感の出しにくい大層難しい役を実にうまくこなしているのではと思いました。
 松田龍平も、『劔岳 点の記』以来ながら、むしろ瑛太以上に存在感のある役を随分と楽しんでこなしているように見受けました。




(2)この映画は、監督が同じ大森立嗣氏ということもあって、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』と受ける印象が似ているところがあります。特に、瑛太と松田龍平が小さなバンに乗っている様は、松田翔太と高良健吾がトラックに乗っているときの感じそのままです。
 ただ、『ケンタトジュンとカヨちゃんの国』の場合は、目的地である網走刑務所に向かってひたすら直線的に走るわけですが、本作品においては、彼らはまほろ市からでることはなく、そのなかで円運動しているに過ぎません。

 その円運動ですが、本作品の場合、ラストが冒頭とそっくりのシーンになります。すなわち、多田が行天と出会う当初のバス停のベンチに、また行天が座っているのです。しかしながら、今回は、チワワを抱いてはいませんでした。
 ある意味で、多田と行天との関係が質的にレベルアップしたといえるのかもしれません(ですから、これからは、多田は行天を、これまでのようになんとなく一緒にいる人間として扱うのではなく、アルバイトとして正式に雇い入れることになるのでしょう)。

 さらに、こうしたところは、随分と飛躍してしまうかもしれませんが、『Somewhere』の冒頭とラストとの関係に似ているのでは、と思えます。すなわち、その映画のラストにおけるジョニーの行動は、フェラーリを乗り回す点で冒頭のシーンと類似しているものの、冒頭では、野原をグルグル回る円運動でしかなかったのに対して、ラストにおいては、草原をまっすぐ走る直線運動である上に、ジョニーはその車をも乗り捨ててしまうのです。ジョニーは、ある決意を持ってこれからの人生に立ち向かうというところでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「多田と行天が抱えるそれぞれの心の傷が、無言のうちに共鳴しあった時、結果的にとぼけた人助けにつながっていく。それが説教くさくなく、淡々とした描写なのが心地よい。原作は三浦しをんの人気小説で、映画に描かれた以外にも魅力的なエピソードがたくさんある。もしや続編ができるかも…と、期待している」として、65点を付けています。



(注1)映画の原作(三浦しをん作)の文庫本解説において、鴻巣友季子氏も、「小指を切断する事故」についての多田の思いが、「この小説のモチーフのようなものを表している」と述べています。ただ、鴻巣氏は、関係が“切断”されてしまうことの方を強調しているところです。
 また、映画評論家の前田有一氏も、「見ればわかるが本作は「小指」がある種の象徴で、解釈のキーポイントとなっている。主人公がケガをさせた旧友の小指は、けっして元には戻らない。だがそれでも傷跡は癒え、薄くなってゆく」と述べています。
 ただ、前田氏は、「要するに、生きていれば人は必ず傷つくが、それは元には戻らない。だが、元通りではないにしても必ず再生する。大けがした小指の傷のように……。そういっ て、この映画は傷ついた人々を励ましているのである。もちろん、小指の傷だけではない、津波に流された町だって同じはずだ。心にじんとくる、今見るにふさ わしい一品というほかはない」として、そのメッセージ性を強調しているところ(評点は60点)、クマネズミとしては、これは後付けの過剰な読み取りに過ぎないと思えます。

(注2)このシーンについて、行天は「ハッピーエンドだ」と言って多田を驚かせます。

(注3)多田が好きだというのが米軍基地(キャンプ座間)。近年関係がぎくしゃくしている日米関係を修復すべきだというメッセージがここにはあるのではないか、などというのは下手な冗談です。

(注4)歯の浮くような台詞がカットされていれば、モット高く評価できるのですが!
 なお、行天が、「ふつうはもうちょっと早くに、広告を打つとか、顧客に営業電話をかけるとか、チラシを配るとかするもんじゃないの?」と多田に忠告しますが、映画の場合、その後で多田は行天の背中に向かって、「なんでおまえが……」云々と、これまた行天の忠告を否定してしまうような台詞が入ります。
 というところからも、大森立嗣監督は、原作の情緒に流れる雰囲気をなるべく断ち切りたいと考えているようにみえます。




★★★★☆




象のロケット:まほろ駅前多田便利軒

「江戸の人物画」展

2011年05月05日 | 美術(11年)
 府中市美術館で開催されている「江戸の人物画―姿の美、力、奇」展に行ってきました(後期:4月19日~5月8日)。

 いつも大変興味深い企画展が開かれている府中市美術館ですが、今回は、特に人物が描かれている絵画を特集しています(注1)。
 中でも次の3点に興味を惹かれました。

(1)伊藤若冲の「蘆葉達磨図
 NHKTV番組「若冲ミラクルワールド」の第4回「黒の革命 水墨画の挑戦者」(4月29日放映)では、水墨画における若冲の超絶技巧「筋目描き」が紹介されていましたが(放送内容については、例えば、このサイトで)、この作品でも、達磨の衣にまさにその技法が使われていたので驚きました(注2)。




(2)曽我蕭白蝦蟇仙人図
 以前も同館で蕭白の山水画を見たところ、今回の展覧会でも彼の作品が随分と展示されていて嬉しい限りです。



 この作品は蕭白の「中国人物図押絵貼屏風」の中の一つながら(注3)、同時に展示されている秋田藩主・佐竹曙山の「蝦蟇仙人図」とも見比べることが出来るので、ことさら注目されます。
 というのも、佐竹曙山は、西洋の画法を取り入れた秋田蘭画を代表する画家の一人であり、この作品でも、仙人が人物画として実に正確に描かれている点が注目されています。



(3)石川大浪の「ヒポクラテス像



 江戸時代後期に、西洋流の医学を学んだ人々が、こうした画像を家に掛けて礼拝したようです(漢方医の神農や黄帝に倣って)。
 こんな慣習は、『解体新書』の改訂に携わった大槻玄沢が、西洋から入ってきたヒポクラテスの画像を入手したことが始まりとされています(注4)。
 そして、その『解体新書』の「解剖絵図を一人で担当した」のが、上記佐竹曙山と並び、秋田蘭画を代表する画家の一人の小田野直武なのです(注5)。


(注1)昨年1月に見た「医学と芸術展」に関する記事の冒頭に掲載した円山応挙の「波上白骨座禅図」が、今回も展示されています。

(注2)このサイトによれば、「筋目描き」とは、「墨の滲みと滲みがぶつかると、境目が白くなる。この性質を利用した技法のこと。本来は邪道とされるが、若冲はあえて作品に使用した」とのこと。
 なお、NHK番組では、藤原六間堂という画家が、この「筋目描き」を現代に復活させていることが紹介されていました。

(注3)同展の前期(3月19日~4月17日)には、水墨画による蕭白の「蝦蟇仙人図」が展示されていましたが、残念ながら見ることが出来ませんでした。

(注4)同展カタログP.72。
 なお、同展の前期には、渡辺崋山の「ヒポクラテス像」が展示されていましたが、これも見ることは出来ませんでした。

(注5)大城孟著『解体新書の謎』(ライフ・サイエンス、2010年)P.24。
 同書では、引き続いて、「直武の苦労は大変なものであったと推察する」とし、というのも、「日本画にはない①遠近法、②陰影法という西洋画の技法を十分に習得しないままに、『ターヘル・アナトミア』の立体的絵図を模写しようとした」からであるが、「しかし、こうした心配をよそに直武の解剖絵図は見事といえる」と述べられています(同書に関する科学哲学者・野家啓一氏の書評はここで見ることが出来ます)。
 なお、小田野直武の作品「西洋人物図」は、今回の展覧会でも展示されていましたが、前期なので見ることは出来ませんでした。

シュールレアリズム展

2011年05月03日 | 美術(11年)
 国立新美術館で開催されている『シュルレアリスム展―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による―』(~5月15日)に行ってきました。

 お馴染みのマックス・エルンストとか、ジョアン・ミロ、ルネ・マグリットといった画家の作品が並んでいましたが、中でも興味を惹いたのが冒頭に掲載しましたサルバドール・ダリの『部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影』(“Partial Hallucination 6 Apparitions of Lenin on a Piano”、1931年)です。

 というのも、このところ、スターリン批判的色彩が濃厚な映画『戦場のナージャ』とか、中国の辛亥革命前夜を扱った映画『孫文の義士団』などの作品を見て、「革命」に対する関心がクマネズミの中でたかまっていたこともありますが、それだけでなくサルバドール・ダリにこんな政治的な作品があったのか、と驚いたことにもよります。
 美術館のHP に掲載されている解説によれば、レーニンは、当時の「シュルレアリストたちの英雄」だったそうで、ダリは、「黄金色のアウラに包まれ」たレーニンの顔を6つもグランドピアノの上に描いています(注1)。

 ですが、ダリは、その後、レーニンを貶めるような絵を描いたりして、シュルレアリストのグループから除名されています。
 例えば、今回の展覧会には出品されてはおりませんが、下記の『ウィリアム・テルの謎』(“The enigma of William Tell”、1933年)においては、ウィリアム・テルがレーニンを模して描かれているところ、「絵の意味は台座に記された題名が暗示する。つまり、レーニンはウィリアム・テルと同一視されており、ダリによればウィリアム・テルは当時ダリ自身が反抗していた抑圧的な父親像を表す」とのことです(注2)。




それぞれのレーニン像を少しアップしてみましょう。







 3番目に掲載したものは、これも今回出品されておりませんが、「円錐形の歪像が間近に迫る前のガラとミレーの“晩鐘”」(“Gala and the Angelus of Millet Preceding the Imminent Arrival of the Conical Anamorphoses”、1933年)の一部です(わかりにくくて申し訳ありませんが、右側の小さい人物像がレーニンです)。

 ところで、昨年出版された『ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム』(メリグーノフ著、梶川伸一訳:社会評論社、2010年)では、レーニンが、秘密警察チェーカーを使って反対派を大量に粛清した様子が分析されています(注3)。
 このチェーカーは、いろいろ組織変遷を辿りますが、途中では内務人民委員部(NKVD)となり、スターリンの大粛清を実行します(1954年に国家保安委員会「KGB」に)。ということは、レーニンが、スターリンの大粛清に繋がる道を作ったといえそうです(注4)。



(注1)このサイトの記事に拠れば、「ポンピドゥセンター・ガイド」では次のように記載されているとのこと。
 「画家は、半睡状態での幻影を再現しているが、ここには黄色い後光に包まれたレーニンの肖像が描かれている。ダリ特有の象徴的なモティーフ、とりわけ、誰とも知れぬ人物の背のナプキン状のマント、椅子の上ばかりか人物の腕章の上にも現れる赤く透明なサクランボが、この絵の印象をさらに強めている。そして、他の作品にもすでに登場しているピアノの上では、楽譜がに食われている。後景には扉が開かれ、その奥に広がる山は、イースター島のトーテム像に似ており、奇妙で超自然的な光を放っている。」
 また、こちらのサイトの記事に拠れば、「これはサクランボを食べ過ぎたダリ氏の幻覚であ」り、
 「サクランボは女性の象徴である。食べすぎは病気をもらうかもしれず、体に毒」とされていますが、別のサイトの記事に拠れば、サクランボは実に様々なものの象徴になっているようです。

(注2)クリストファー・マスターズ著『ダリ』(速水豊訳:西村書店、2002年)のP.70。
 さらに同書には、ウィリアム・テルの臀部の先端が二股になった松葉杖で持ち上げられている点につき、「松葉杖とはむろん1917年の10月革命の象徴である」とダリが述べていることが紹介されています。
 なお、同書の上記『部分的幻覚:ピアノに出現したレーニンの六つの幻影』に関する解説では、ダリが述べる次のような体験を紹介しています。「就寝時に私は、青みがかった光輝くピアノの鍵盤を見たが、そこには遠近法によって縮小していく、燐光を放つ一連の小さく黄色い光輪がレーニンの顔を囲んでいた」(P.66)。
 とはいえ、こうした解説から、ダリがこの絵を描くに至る裏事情はわかるものの、そうした情報を知ったからといって、はたしてこの絵を見たことになるのかどうか、甚だ疑問に思えてしまいます。

(注3)同書の翻訳者である梶川・金沢大教授が同書に付した解説については、このサイトで読むことができます。
 ただ、同解説は、「本書の主役は「赤色テロル」の実行機関としてのチェー・カーである。確かにそうではあるが、(著者の)メリグーノフは弾圧システムの醜悪な実行機関としてのチェー・カーを強調するあまり、賢明な読者であるならレーニンへの言及が異常に少ないことにお気づきになるであろう」として、むしろ「チェー・カー」が「まさにレーニンの意志を体現する機関として、十月政変直後から機能した」ことを見るべきとして、同解説においては、同書の解説というよりも、「レーニンとチェー・カーとの関係、レーニン・トロツキーが遂行した諸事件とその背景を含め、総合的で理論的なレーニン批判」を梶川教授が展開しています。

(注4)ソクーロフ監督の映画『牡牛座―レーニンの肖像』(2001年)では、権力の中枢から遠ざけられ病臥するレーニン像が描かれていますが、また中沢新一著『はじまりのレーニン』(岩波書店、1994年)では、「レーニンがよく笑う人であったこと、動物や子どもにさわることが好きな人であったこと、音楽を聴くよろこびを感ずる人であったということ」を前提に書かれているとされていますが(「はじめに」)、モット別のレーン像をも作り上げる必要があるのでしょう。