映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

「皇室の御物(2期)」展(中)

2009年11月30日 | 古代史
 前日に引き続いて、「皇室の御物」展の第2期で興味を惹かれた展示物を紹介いたしましょう。今回は、第一会場を入ってスグに展示されている「三角縁四神四獣鏡」です。
 
イ)この鏡は、奈良県の新山古墳から出土したものとのこと。



(上図の鏡は、椿井大塚山古墳出土の三角縁四神四獣鏡)

 「古墳」ときたらマズ目を通すことにしているのが、8月25日の記事で紹介しました宝賀寿男氏の『巨大古墳と古代王統譜』(著)。早速調べてみますと、この古墳につき概略次のように述べられています(P.206~P.207)。

・北葛城郡広陵町にある前方後円墳。
・三角縁神獣鏡を中心に合計34枚の銅鏡や、勾玉、刀剣、Ⅱ期の埴輪などが出土。他にも、鍬形石・石釧・車輪石という古墳時代前期の貴重な碧玉製装飾品も出土。
・さらに、東晋代の金銅製帯金具が出土したことなどから、その築造は4世紀中葉に遡るとみられる。
・被葬者は、地域的にみて葛城国造の族長であり、『日本書紀』の景行紀に見える「葛城の人、宮戸彦」か、そうでない場合はその子・荒田彦ではないかと推される。

ロ)ところで、今回の展覧会で展示されている「三角縁四神四獣鏡」を含む三角縁神獣鏡は、邪馬台国を巡る論争において大層注目されてきました。というのも、邪馬台国の記載がある『魏志倭人伝』に、あらまし次のような記述がみられるからです。

西暦239年に、倭の女王「卑弥呼」が、「難升米」等を魏国に送ったところ、魏国の明帝は卑弥呼に、「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」を与え、さらに「銅鏡百枚」を含む多くの贈り物を与えた。

 そこで、畿内地方に分布の中心をおいて出土する三角縁神獣鏡は、魏で生産されたものであり、卑弥呼が受け取った「銅鏡百枚」に該当するから、邪馬台国は大和にあった、などと主張されてきました(注1)。

ハ)しかしながら、『巨大古墳と古代王統譜』の著者は次のように反論します。
「三角縁神獣鏡については、中国産説がわが国ではいまだ根強く主張されているが、中国や朝鮮半島では1枚も出土しないのに対し、わが国では約500枚も出土しており、その殆どが4世紀代に日本列島内で作られた大和朝廷の鏡だとみる説のほうが説得力が強」いのであって、「鈕孔が鋳放しで実際の使用を念頭に置いたものでなく、鏡の銘文には省略形であるなど、公的な鏡として大きな疑問があり、棺外に数多く置かれる例が多いことも国産説を裏付ける」(P.220)。

 したがって、三角縁神獣鏡は卑弥呼の受け取った魏の鏡ではないことになり、むろん邪馬台国畿内説を裏付ける証拠品でもないことになります(注2)。
 三角縁神獣鏡魏鏡説は、多分に思込み(それに、倭国用に特別鋳造したのではないかという想像論)に基づくものといえますが、あくまでも現実の出土状況から考えていく必要があるわけです。

ニ)こうした見解については、強力な援軍も現れています。すなわち、『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(新井宏著、大和書房、2007)では概略次のように述べられています(注3)。

三角縁神獣鏡の鉛同位対比(4種類の鉛同位体の比率)は、真の中国鏡とは全く異なっていて、仿製鏡(中国から輸入した鏡に模して国内で生産された鏡)や銅鏃などとよく一致している。
この場合、漢代の鉛と後漢や魏晋の鏡の鉛を混合して作成した可能性も考えられるが、三角縁神獣鏡の鉛組成を詳細に検討すると、韓国産か日本産の鉛の添加を想定しないわけにはいかないことがわかる。
こうしたことから、「三角縁神獣鏡は中国で製作されたものではない」ことが判明する(P.72~P.74)。

ホ)こうした地道な研究がいくつもなされてきているにもかかわらず、11月3日の記事に対する「ディケンズの都」氏のコメントにあるように、「最近、桜井市の纏向遺跡から大規模な建物跡が見つかって、関西系考古学者は、これこそ卑弥呼の宮殿だと吹聴し、マスコミがこれを持ち上げて大騒ぎしている」状況下にあります。
 同氏が言うように、「考古学も科学の一分野であるのなら、合理的総合的な論理思考をしないで、判断してよいはずがない」のであって、冷静な対応が望まれるところです(注4)。 



(注1)たとえば、『三角縁神獣鏡の時代』(岡村秀典著、吉川弘文館、1999)では、銘文に中国人の作者名があること、「景初」「正始」という魏の年号をもつ鏡が発見されていること、中国で1枚も出土しないのは倭に贈るために特鋳されたものと考えられること、等の理由から、「倭王卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」は三角縁神獣鏡である」と述べられています(P.147)。
(注2)同様の見解は、安本美典著『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』(廣済堂出版、1998.11)やHP「三角縁神獣鏡の謎」などでも見られます。
 さらに、下記のコメント欄に投稿していただいた「羽黒熊鷲」氏による詳細な論考がHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、是非それもご覧下さい(「三角縁神獣鏡魏鏡説の否定と古墳編年大系の見直し」)。
(注3)この著書については、当ブログ8月23日の記事の③の注でも触れています。
 なお、雑誌『古代史の海』の本年9月号に掲載された論考「「三角縁神獣鏡魏鏡説」は危機に瀕しているか」において、下司和男氏は新井氏の見解に対し、やや周辺的と思われる問題点をいろいろ挙げて批判しています。とはいえ、どんな科学的な見解であっても、それはあくまでも仮説なのであって、それだけで完全に問題にケリが付いてしまうわけでないことは言うまでもありません。結局は、どの仮説が最も合理的であるかの問題なのですから、こうした論評の仕方にどれだけの意味があるのか疑問です。
(注4)11月3日の当ブログ記事のコメント欄に記載された「ディケンズの都」氏のコメント(12月11日)により判明しましたが、上記の注2で触れた「羽黒熊鷲」氏が、調査報告「纏向遺跡から出土した外来系土器についての報告」をHP「古樹紀之房間」に掲載されていますので、どうかご覧下さい。



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「皇室の名宝(2期)」展(上)

2009年11月29日 | 美術(09年)
 「皇室の名宝(2期)」展を見に東京国立博物館に行ってきました。

 同展の「1期」の期間はおよそ1ヵ月ほどありましたが、この「2期」は11月12日から29日までというように2週間チョットしかありません。そういうこともあってか、入場するまでに10分ほど待たされました。

 以下では同展で特に興味を惹かれた展示物を、3回に分けて紹介いたしましょう。

 私にとって「皇室の名宝」展の「1期」の見ものは、何といっても伊藤若冲の「動物綵絵」でしたが、「2期」では小野道風筆の「屏風土代」です。



 というのも、この展示物は、書家・石川九楊氏が著した浩瀚な『日本書史』(名古屋大学出版会、2001.9)の中で詳細に取り上げられているからです。



イ)同著では、「書」の一般的な見方から書き始められています。すなわち、「序章」の初めの部分は「書の見方」と題して、「書を見るための枠組」が整理されています。
 まとめていえば、あらまし次のようになります(P.5~P.6)。

・書かれた文字をぼんやり見るのではなく、「起筆・送筆・終筆」、そして「転折〔横筆部から縦筆部への転換部〕・撥ね・右はらい・左はらい・点」といった「字画の書きぶり」がどうであるかというように見なければ、書を見る(読む・鑑賞する)ことにならない。文字は図形ではなく、書は絵画ではないからである。 

・こうした「字画の書きぶり」は、さらに微細な「筆蝕」と呼ぶ「書字の微粒子的律動」によって生まれる。そして、この「筆蝕」は、「速度」・「深度」・「力」・「角度」・「構成」という側面から考察される。

ロ)同著では、その第16章において「屏風土代」が取り上げられています。
 この書は、道風35歳の筆跡で、内裏屏風の色紙形に清書するための下書きとされています。

 石川氏に言わせれば、「屏風土代」は、「日本和歌の基準でありつづけた『古今和歌集』に匹敵する書」であり、「書における『古今和歌集』」で、その特色は、「漢字(中国文字)で書かれているように見えるが、もはや漢字(中国文字)ではありえず、女手(平仮名)が漢字様の姿を見せた日本漢字の書、つまり「女手」の書」であって、ここから「真の日本書史」が始まるとのことです。

 そして、石川氏は、上記のイに掲げる観点から「屏風土代」を構成する漢字を個々に見つつ、概要次のように述べています。

・起筆部では、対象の奥に向かう垂直の力が負荷されず、流れるように描かれている。
・最終画の「点」が、流れるような「通過形」で書かれている場合がある。
・多くの「転折部」は、日本式に流れるような姿で描き出されている。
・「撥ね」は、ひきずるように長く描かれている。
・横画については、「S」字を横に寝かせた形の描出法を生んでいる。そして、このように描く書法は、日本式の基準書法として明治時代の初めまでずっと引き継がれていく。
・「後」という文字における「ぎょうにんべん」の省略形は、「女手(平仮名)」そのものと言っていい。
・「女手」に働く連綿力・連続力が、この「屏風土代」においても一貫して見られる。「筆脈(筆蝕の自然なつながり)」を加味すれば、すべての文字が一筆書きで一連なりに書かれていると言っても過言ではない。
・とはいえ、いまだいくぶんか中国式の書きぶりが残存しており、そこが、まったく中国式の書きぶりを払拭し日本式の書の典型となった藤原行成筆「白楽天詩巻」の書との違いである。

ハ)これまで「書」に出会うと一瞥してオシマイにしていましたが、以上のようなことを予備知識として持ちながら見てみると、ほんの僅かながらも小野道風の世界の中に足の先を踏み入れた気がしてきます。
 石川氏も、「筆蝕から点画、部首、そして文字をどのように読めばよいか。それには点画をなぞればよいのである。一点一画の力の入れ方、抜き方、そして点画のつみ上げ方(構成)を逐一たどればよいのである」と述べているところです(『書く―言葉・文学・書』〔中公新書、2009.9〕P.184)。
 むろん、そのためには「臨書」が必要なのでしょうが、展覧会場において指で空中でなぞってみるだけでも「書」の世界に一歩近づいたような感じがしてきます。

ニ)今回の展覧会で展示されたものの中には、石川氏の前掲書において取り上げられているものが他にもありますが(小野道風筆「玉泉帖」と伝藤原行成筆「粘葉本和漢朗詠集」)、長くなりすぎてしまいますので、その紹介はまた他日を期すことといたしましょう。

ホ)さらに、1996年に上梓された『中国書史』(注1)と今回紹介しました『日本書史』とともに石川氏のライフワーク「書史」三部作を構成する『近代書史』も本年7月に刊行されたところ(毎日新聞に掲載された藤森照信氏の書評を参照)、これらの著書に掲載されている「書」を集めた大展覧会の開催を大いに切望するところです(注2)。




(注1)今回の展覧会においては、王羲之の「喪乱帖」(3種類の書簡〔尺牘〕を敷き写した模本)が展示されています。ただ、石川氏の『中国書史』の中でもところどころで顔を出してはいるものの、この作品についてのまとまった言及はありません。これは、石川氏が、「王羲之の最高傑作と推す日本の書家も多い名品」ではあるが、「王羲之よりも300年後の唐代の、より進んだ、より洗練された書法が全面を覆ってしまっている」と見ているからではないかと思われます(石川九楊著『やさしく極める“書聖” 王羲之』〔新潮社・とんぼの本〕P.6)。
(注2)これらの3部作においては、中国の「書」について詳細な分析がなされるばかりか、日本の「書」については、「漢委奴国王」印の議論から始められ、最後の方では「丸文字」や「中央省庁看板文字」にまで話が及んでいて、その守備範囲の広大さは尋常なものではなく、まさに「書」についての“百科全書”と言えるでしょう!


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クリスマス・キャロル

2009年11月28日 | 洋画(09年)
 「クリスマス・キャロル」を丸の内ピカデリーで見てきました。

 ディズニー制作のアニメ映画など今更という気がしてパスしようと思っていましたが、デジタル3Dを覗いてみたいこともあって出かけてきました〔浦安のデズニーランドの中の劇場で、一度デジタル3Dを見たことがありますが、ごく短いものに過ぎませんでした〕。

 映画は、ディケンズの原作に忠実に映像化されています。クリスマス・イブの夜、守銭奴の老人スクルージは、3人の精霊に遭遇し、過去・現在・未来を経回る旅へと連れ出されます。最後に、クリスマスの日に自分に起こるであろう出来事を目の当たりにして、スクルージは、これまでの自分の行動を大いに反省し心を入れ替えます。
 マア、信仰を深めて従来の生き方を変えようと努力すれば、その未来にも光明が射すかもしれない、というのがこの映画のメッセージなのでしょうが、差し当たりそんな教訓じみた話はどうでもよく、問題となるのは、この映画がなぜ今このような形で制作されたのか、といったあたりだと思われます。

 この映画については、評論家の間で賛否両論に分かれています。
おすぎは、「映画的興奮がまったく無く、私は失望しました」と言っているところ(11月26日号の『週刊文春』のCinema Chartでも★2つです)、前田有一氏は、「古いが新しいストーリーを、最新のデジタル3D作品として映像化するあたりも心憎い。しかもこの立体加減がじつにメリハリを感じさせるもので、私が今年みた中でも一番の「飛び出し度合い」であった」などとして80点もの高得点を与えています。

 私は、前田氏の評価は的を得ておらず、どちらかと言えば「おすぎ」に近い感想を持ちましたが、要すれば、この映画で使われている最新のテクノロジーをどう見るのか、という点で差が出てくるものと思われます。

 さらに評論家にあたってみますと、岡本太陽氏は、65点しかつけていませんが、前田氏と同じように、「本作は最新技術で見せる。登場人物や町の景色が芸術的レベルで美しく、モーション・キャプチャーによる登場人物の動きもリアル。またこれだけ効果的に3Dを使った作品は今年一番と言っても過言ではな」いと述べています。渡まち子氏も、「最新デジタル技術の冴えを見せるのは、灯のような過去のクリスマスの亡霊の表現。変幻自在のその姿は幻想的だ」として60点をつけています。

 ですが、「おすぎ」が鋭く指摘しているように、この映画の呼び物の一つが、主演のジム・キャリーが一人7役をこなし、それぞれの役柄に応じて声を変えている点であるにもかかわらず、3D版の場合には、声が日本語吹替えになっているのです!
 むろん、「パフォーマンス・キャプチャー」というテクノロジーを使っていますから、7役それぞれの元の演技はジム・キャリー自身のものではあるようです。とはいえ、やはりアニメーション的要素が強い役柄(少年・青年時代のスクルージなど)の場合には、声の方が重要でしょう。

 加えて、このテクノロジーについては、「おすぎ」が、「実写でもなく、アニメーションでもなく、どこか中途半端なもの」で、「人間味みたいなものの欠如が感じられ、靴の上から足を掻くみたいな感覚が、どうしても拭えな」い、と述べているが妥当ではないかと思います。 

 それに、3Dに関して「一番の「飛び出し度合い」」と言われていますが、そして雪が降っているシーンではこちらにも雪が降っているように見えますが、大部分は、観客と離れた所が立体化されている、といった感じしか受けませんでした。
 こうなると、多額の費用をかけて3D化することにどれだけの意味があるのかと疑わしくなってしまいます。観客の方もわざわざ特殊メガネを着用しているのですから、もう少し臨場感を増して欲しいと思いました。

 ただ、「おすぎ」は、「J・キャリー、オリジナルで7人もの声を担当しているって聞いて、そっちを見るならなぁと思ってしまったのです」と述べているところからすると、この映画の「オリジナル」は3Dではなく通常の2Dのものだと考えているように思えます。要すれば、まず2D版を制作し、それに手を加えることで特別に3D版を制作していると考えているのでしょうが、果たしてそうなのかどうか、制作者側がどちらをオリジナルと考えているのか、確たることはわかりません。

 また、渡まち子氏が、「映像が全体的に予想以上におどろおどろしく、ホラー・ファンタジーのようだったのが意外。子供にとってはちょっと怖いかも…と心配になる」と述べ、また岡本太陽氏が、「本作は恐ろしい映像の連続。侮って観ると、こんなに暗くて怖い映画とは予想外という結果に。子供向けではないのは確実だ。予告編を観ると家族向けの映画の様だが、これは実はパニック・ホラー映画なのだ」と述べていますが、私にはこれらの意見はやや言い過ぎのように思えました。今時の子供がこのくらいで驚くわけはないと思われますから!


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母なる証明

2009年11月23日 | 洋画(09年)
 「母なる証明」を渋谷のシネマライズで見てきました。

 韓国映画については敬遠気味で、今年は「悲夢」に次いで2作目にすぎません。とはいえ、評判がかなりいいので、これぐらいは見ておこうと思ったわけです。

 映画の冒頭は、草原に年配の女性が遠くから歩いてやってきて、手を振りかざしながらゆっくりと回りながら踊る場面、次いで、その女性が漢方薬を作っている店の前で息子トジュンが車にはねられる場面となり、繋がりがよくわからないながら韓国映画特有のどぎつい内容になっているな、とは思ったものの、次第に映画の中に引き込まれていきます。

 息子が不良の友達ジンテと遊んでいるなと思ったら、突然、女子高生の殺人事件が起きて、トジュンは犯人として警察に捕らえられてしまいます。母親は息子の無実を信じ、何とか釈放させようとあちこちを駆けずり回わり、その挙句の果てに……という具合に映画は進展します。

 この映画では、殺された女子高生の遺体が異様な格好で建物の屋上に置かれていたりするなど、物語的にも意表を突く場面がありますが、それだけでなく、映像としてもトテモ印象的なシーンがいくつかあります。
 母親とかその息子などの顔をドアップで映し出す一方で、母親が息子の友人の家とか廃品回収業者の家に行く場面などでは、遠距離から母親をごく小さく捉え、むしろその背景となっている山などを異常なほど大きく映し出しています。
 また、床にこぼれた水に指の先が触れそうになるシーンとか、息子の尿の流れた後を母親が始末するシーン、殺された男の頭部からあふれ出す体液を拭き取ろうとするシーンなど、監督の液体に対する強いこだわりがうかがえます。
 さらに、息子が接見室の鉄格子から見せる眼とか、殺された女子高生の逆向きの眼、そして母親の息子を案じる眼など、眼を巡る映像も忘れ難いものがあります。

 こうした様々なシーンの積み重ねから、母親の息子に対する限りない愛情が映画の隅々にまで滲み出てきて、最後まで観客は画面から目を離すことができなくなってしまいます。

 特に、この母親を演じるキム・ヘジャには感心いたしました。1941年生まれで既に70歳近いわけですが、その内に情熱の熱い塊を秘めた演技から、もっとずっと若く見えます。
 劇場パンフレットに掲載されている経歴を見ると、映画と言うよりも専らTVドラマで活躍してきた人で、「韓国の母」とも言われているようです。そういうと、私などは「三益愛子」を連想してしまいますが、彼女のようなジメジメした厭らしさは微塵も感じられません。年恰好からは「吉永小百合」に近いのかもしれませんが、いくつになっても“お嬢様”らしさが抜けきらない後者とも比べられないでしょう!

 「映画ジャッジ」の評論家諸氏も非常に高い点数を与えているところです。
 渡まち子氏は、「本作は、とりわけ母親であることの原初的な力強さを感じる、すさまじい映画であ」り、「単純にジャンル分けできない複雑さがある物語なのだが、終盤の母親の心理描写は、名女優キム・ヘジャの熱演、物語の衝撃的な展開とともに、圧倒される」として80点を、
 福本次郎氏は、「この結末では被害者やトジュンの身代わりになった少年は救われず、非常に後味が悪かった」ものの、「映画は彼女の直情的な行動の裏にある繊細な感情を丁寧に掬いあげ、映像は息のつまりそうな緊張感をはらんでいる」として、この評論家にしては高めの70点を、
 小梶勝男氏は、「タイトルだけ見ると母の愛や正義を描いた映画のように思われるかも知れないが、そんなすっきりする作品ではない。描かれるのは母の狂気であり、母の闇だ。それは、韓国社会全体を覆う闇なのかも知れない」などとして92点もの高得点を、
それぞれ与えています。
 私もこの映画は高く評価したいと思います。

 ですが、問題点がないわけではありません。
 というのも、上記の福本次郎氏も若干触れていますが、この映画で焦点となるのは女子高生を殺した真犯人は誰かですが、当初、母親の息子とされ、それが最後には別人物となるものの、息子にしてもその別人物にしても、いずれも程度の差はあれ知的障害者とされているのです〔精神鑑定を受けるまでもなく、外見から明らかなように設定されています〕。

 すなわち、トジュンにしても、事件のあった日の夜のことについては何の記憶もありませんし、またこの別人物も、その点について(それどころか他の点についても)何の反応も示しません。
 となると、いずれが犯人だとしても(映画では明らかにされますが)、通常人と同じようにはその責任を追及できなくなってしまい、結果としてこの物語を支える切迫性そのものが消失してしまうのではないでしょうか〔囚われている警察から解放することが問題ではなく、治療施設で治療を受けさせることの方が重要なことになってくるでしょうから〕?

 また、真犯人を目撃した廃品回収業者を母親は激情に駆られて殺してしまいますが、その業者の建物が火災にあうと殺人事件までも消失してしまう、というのも現実的ではないように思われます。まして、息子がその焼跡から、母親がいつも身に着けている鍼の道具箱を見つけてくるくらいですから、殺人の痕跡が無くなってしまうことなど考えられません〔映画では、当初の女子高生殺人事件の現場で作業している科学捜査班の姿が明示的に描き出されているのです!〕。

 とはいえ、こうした点も、ラストのバスの中の場面で、冒頭のシーンと同じように母親が踊り回わる姿を見ると、マア小さなことかもしれないと思えてくるのも不思議なことです。


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パイレーツ・ロック

2009年11月22日 | 洋画(09年)
 「パイレーツ・ロック」を日比谷のみゆき座で見ました。

 予告編を見て、これはきっと面白い映画に違いないと思い、期待を込めて映画館に出向きました。
 そして、実際のところも、予想にたがわず素晴らしい映画だと思いました。

 1960年代の初めころ、イギリスにはラジオ局が国営放送の一つしかなく、ポピュラー音楽がラジオから流れるのは法の規制によってごくわずかな時間。そこで法律が適用されない公海上の船からの電波にロック音楽を乗せて流すことが行われたそうで、この映画は、そうした「海賊放送局」が置かれた船の中で起きた様々な出来事を、コメディタッチで(そして幾分ミュージカル風に)描いています。

 なるべく余計な先入観は持たないようにしようとほとんど予備知識なしに映画を見たものですから、あのフィリップ・シーモア・ホフマンがDJの一人として登場した時にはあっけにとられてしまいました!
 なにしろ、このところ立て続けに彼の出演する映画(「カポ-ティ」「その土曜日、7時58分」「ダウト」など)を見、どれも素晴らしい出来栄えに仕上がっていましたから、これだけでもこの映画は成功が約束されているといえます。

 そんな彼が演じる米国人DJを含めた何人ものDJが、24時間ロック音楽をこの船から流し続けるのです。
 これに対して、政府はなんとかして規制しようとしますがうまくいきません。

 当時は、イギリスの人口の半分近くがこの放送を聞いたといわれ、映画でも密かに国民の皆がこの放送を楽しむ様子が描き出されます。
ですから、ラスト近くになって、この船が老朽化のために沈没寸前に至ると、公的な救助活動がなされないのを見越して、雲霞のごとく小さな救難船が救助に向かってくるという感動的なシーンになるのは、映画の冒頭からのお約束事になっているといえます!

 こうしたラストに行きつくまでに、途方もなくイカレたエピソードがどんどん挿入され、その間に60年代のロックの名曲が次々に流れてきますから、堪えられません!

 評論家の方々は、福本次郎氏は、「単発では笑えるシーンもあるのだが、それらが有機的に結びついて一つの物語に収束しているとは言い難い。もう少し整理して時の経過も分かりやすくするなどの工夫がないと、作り手だけが楽しんでいて見る者は置いてきぼりを食った気分になる」として40点しか与えませんが(どうして「一つの物語に収束」する必要があるのでしょうか?こういうハチャメチャな映画が嫌いなのでしょう、ならば何度も言うように見なければいいのに!)、さすが山口拓朗氏は、「お馬鹿さに笑って、お馬鹿さに泣いて、お馬鹿さにホロリと心温まる、出色のロック・エンターテインメントである」として85点をつけ、守備範囲の広い渡まち子氏も、「ディープな音楽ファンには、名曲の歌詞とストーリーのリンク度が不足で不満かもしれないが、ビートルズやストーンズを生んだ英国の音楽秘話と、ライト感覚の反骨精神を楽しみたい一般の映画ファンには文句なくお勧めだ」として70点を与えています。

 こうした映画は、DVDではなく、映画館で、それも大きな映画館で大音量の中で楽しむことをお勧めいたします。

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サイドウェイズ

2009年11月21日 | 邦画(09年)
 「サイドウェイズ」を新宿武蔵野館で見ました。

 今日本で底堅い人気のある二人の男優、小日向文世生瀬勝久がメインで出演する映画だというので、時間もうまくマッチしたこともあり、見に行ってきました。

 見ながら、随所にちりばめられているコメディタッチの会話に笑ってしまい、さすがに二人の男優の演技はうまいと思いましたし、また共演の二人の女優、鈴木京香と菊地凛子も貫禄があったりヒョウキンだったりして存在感が出ており、これは拾い物の映画だな、と思いました。
 
 評論家諸氏も次のように評価しています。
 福本次郎氏は、「疲れた男と意地っ張りな女の、もう一歩を踏み出せない微妙な心理が繊細に描かれ」、「もはや夢や理想を追いかける年齢でもない、しっかりと地に足をつけた生活を望みつつも1人で生きていくのは寂しすぎる、でも本音を他人に知られたくない。2人ともそう思いつつ、なかなか言葉にできないもどかしさが共感を呼ぶ」として60点を付けています。
 また、小梶勝男氏は、「あのいかにもアメリカ的な映画を、主要な登場人物だけ日本人に替えてリメークするという、非常に変わった企画」だが、「これが意外に面白」く、「外国人スタッフが作ったにもかかわらず、日本人が見て違和感がないばかりか、日本映画らしい作品になって」おり、「主演の小日向文世が、情けない中年男を実に生き生きと演じている」し、鈴木京香も「美人の彼女が、ときどき中年女のちょっと怖い顔や、疲れて老け込んだ顔を見せる。そこにハッとするようなリアルさを感じた」として75点を与えています。

 ただ、見終わって暫くすると、何か物足りなさが募ってきて、こんなものでいいのかという思いに囚われ出しました。

 町田敦夫氏は、70点を与えながらも、今度の映画の「脚本には、よく言えば日本人向けのアレンジが施されており、それがゆえにいささか陳腐にもなった。エッジの利いたカリフォルニアワインに、なじみの甲州ワインをブレンドしたら、飲みやすいけどありきたりの味になってしまったというところか」と問題点を指摘しています。

 そうなのです、アメリカを舞台にして、アメリカ人の監督の下で制作しながらも、「日本人が見て違和感がないばかりか、日本映画らしい作品」になり過ぎてしまっているのではないでしょうか、周りの状況が違っていても“またあれか”の類いになってしまっているのではないでしょうか?

 有体に言えば、ご都合主義の横行といった点です。小日向文世が演じる道雄は、以前家庭教師として教えていたことのある女性に、20年も経ってから、偶々友人の結婚式で渡米した折に都合よくレストランで再会し、それも二人は丁度離婚した後で独身だというではありませんか!
 二人の間が、いわば“幼馴染”であれば、話はいとも簡単で、お互いに関心を持つまでのプロセスは全く不要となって、少し男性側が積極的になりさえすれば、ゴールはすぐそこに見えています〔これは、映画化された藤沢修平作品―主人公が一緒になったり、思いを寄せる相手は、なぜか“幼馴染”が多いように思われます(「たそがれ清兵衛」、「蝉しぐれ」、「隠し剣」)―などにもうかがわれるとこでしょう!〕。

 こうなると、この映画の粗探しを若干したくなってきます。例えば、次のような点はどうでしょうか?
・タイトルが「寄り道、脇道(sideway)」ですから、劇場パンフレットでもその点が強調され、冒頭の「Introduction」では、この映画は、「人生のちょっとした寄り道に想いを馳せる―そんな人生の折り返し点を過ぎた大人たちのためのコメディドラマ」であり、「「人生の寄り道」に、思いがけない出会いや発見があるかもしれないということ」がこの作品の「奥深いメッセージ」だと述べています。
 とはいえ、道雄は、友人の結婚式に出席するために1週間ほど渡米するわけですが、それがどうして「人生の寄り道」なのか不思議な感じがしてしまいます。シナリオスクール講師というそれまでの職を投げうって、米国で2、3年生活して新しいことをやってみようというのであれば、あるいはそうとも呼べるかもしれません。 
 ですが、痲有子(鈴木京香)に帰国を強く勧めるくらいですから、これでは単なる旅行にすぎないのではないか、単なる旅行でも「人生の寄り道」だというのならば、どの人も随分とたくさんの寄り道をしていることになりますが、などと揚げ足取りめいて言ってみたくもなってきます(注)。

・ラストで道雄は、痲有子に会おうとしてその家に向かいますが、あるいは、痲有子との再婚が「人生の寄り道」なのでしょうか〔道雄と入れ違いに痲有子は日本に行きますから、米国旅行から戻った道雄と一緒になるのでしょうか〕?
 ですが、もしかしたら、それこそが「本道」―道雄は、家庭教師時代に片想いながら痲有子に想いを寄せていたのですから―ではないのでしょうか?

・このリメイク版では、痲有子は、5年前まで「有名デパートの創業者一族の御曹司の夫人」として日本で暮らしていたことになっており、また離婚して渡米後は、ナパ・ヴァレーのワイナリーでワインを勉強し資格試験にも合格してしまい、米国でやっていける自信を持つに至ります。
 いってみれば、彼女は筋金入りの野心家であって、道雄のようなウダツの上がらない単なるシナリオライターなど眼中にないのではないでしょうか?
 それを、家庭教師のときに思いを寄せたというだけのことから道雄は彼女に迫りますが、そんなことではうまくいくはずがないのでは、と思えてなりません。言ってみれば、ラブ・ストーリーとして説得力のある設定になってはいないのでは、と思えるところです。
 ちなみに、元のハリウッド映画では、道雄に相当する人物のマイルスは、「ワインに関してはオタクといえるほどの深い知識と愛情を持っていた」との設定ですから、「ワイン好きの魅力的な女性マヤ」との恋物語も十分成立するのではないでしょうか?

 とはいえ、そんな詮索は後の祭りとも言えましょう。いくら言い募っても何の意味もありません。何しろ、映画を見ている最中には、この映画にすっかり絡めとられて堪能してしまったのですから!


(注)なお、精神科医の樺沢氏は、11月16日の「まぐまぐ」において、「タイトル「サイドウェイズ」は、名詞"sideway"で「脇道、寄り道」の意味。そして、形容詞"sideways" で「横向きの / 遠回しな、回避的な」、副詞 "sideways"で 「好色な流し目で」という意味もあ」るとして、「この1週間の自由な旅自体が、人生の「寄り道」でありながら、過去の失敗・挫折といった「遠道・遠回り」が、今の自分を築き上げている不可欠な経験であった・・・と。「Sideways」にはいろいろな意味が込められていて、「失敗」や「挫折」を経験しているほど、このテーマは伝わりやすいと思」うと述べています。
 きっとそうなのでしょう。コレだと言って特定せずに、ああでもない、こうでもないと人に考えさせるタイトルなのだな、と受け止めるべきと思われます。


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沈まぬ太陽

2009年11月19日 | 邦画(09年)
 「沈まぬ太陽」を吉祥寺で見ました。

 かなりの話題作であり、また主演の渡辺謙がこれまで出演している映画(「明日の記憶」や「硫黄島からの手紙」など)が総じて良かったこともあり、3時間を超えるという長さにはたじろいだものの、見に行ってきました。観客は、普段ならあまり映画館に足を運ばないような年配の人が多かったように思います。

 映画の方は、途中で10分の中断があったものの、全体としてなかなか緊密にできていて、集中して見ることができました。主人公の恩地を演じた渡辺謙、敵役の行天の三浦友和等々、出演人物はみな好演しており、なかなか見応えがありました。 

 とはいえ、見終わってみると、壮大なアフリカの光景など見どころはもちろんたくさんあるものの、違和感を持った点もかなりありました。
 と言って、この映画が事実と違うかどうかという点を問題にしても時間の無駄だと思います。映画として見た場合の問題点に限って、若干述べてみましょう。

イ)恩地があそこまで経営陣に嫌われて、9年もの間、辺鄙な海外での生活を強いられる理由が、この映画からは判然としません。労組の委員長として経営陣と対立したからといって、それぞれがそれぞれの役割を果たしただけのことですから、あそこまで追い込められるのだろうかと思ってしまいます。

 労組の要求を飲めば会社が倒産するというケースであれば話は別ですが、そんな設定になってはいません。 
 また、総理フライトがストライキによって妨げられてしまう恐れがあり、そんな危ういところに会社を追い込んだから、という理由とも考えられますが、そんなに後々まで尾を引くことなのでしょうか?
 あるいは、行天が言うように、単に「目障り」だからなのかもしれません。

 この映画のモデルとなった人が実際にそのような理不尽な仕打ちを受けたのだから、こんなことはドウでもいいという意見がありうるでしょうが、この映画だけを見ている者からすれば、もう少し強固な理由を設けてもらわないととても落ち着きません。

ロ)一番わからないのは、敵役の行天の行動です。
 まず、恩地と大学の同期でありながら、労組の委員長と副委員長に就いていますが、そんなことがあるだろうかと違和感を持ってしまいます。あるいは、恩地との強い信頼関係に基づいているとされているのでしょうか?ただそうだとしたら、チョットした情報だけで見方が180度転換してしまうという描き方で良いのか、と思ってしまいます。

 また、行天は、地位を上り詰めるために、不正な手段で得た資金に手を出すことまでしますが、なぜそこまでして昇進しようとするのかの動機がうまく描かれていません。恩地への対抗心としても、そんなものは恩地のカラチ左遷で十分満たされるのでは、と思ってしまいます。

 それに、彼の家庭事情が何も描かれてはいないので、松雪泰子との愛人関係も、何か取ってつけたような感じしか受けません。

 全体として、恩地の対極にある人物像として行天をプロセス抜きで作り上げているために、酷く類型的でリアリティに欠けてしまっているのではないか、と思いました。

ハ)恩地は、会社に対して詫び状を入れることをあくまでも拒否しますが、そしてその姿勢がこの映画のメイン・テーマの一つである「男の矜持」なのでしょうが、現在制作する映画としてはあまりにも時代錯誤のような気がしてしまいます(ただ、こうしたことが描かれているというので、年配の人が映画館に足を運んでいるのでしょう!)。

 とにもかくにもあの時代にはこんな男が存在したよ、というだけなのではわざわざ映画を制作するには及ばないのではないでしょうか?

ニ)恩地の前任の労組委員長を西村雅彦が演じていますが、デフォルメし過ぎの感があり、経営陣の一翼を担っているにしては、実に奇矯なふるまいをするものだと思いました。

ホ)恩地の妻(鈴木京香)の描き方も、あまりにも古色蒼然としていて、確かに「1930年生まれ」の人の妻だったらあるいはこういう人もいたでしょうが、それにしても血が通っておらず、現代人の共感を呼ばないことでしょう。

ヘ)この映画が長すぎるという感じは受けませんでしたが、少なくとも御巣鷹山事故に関する部分は、原作でも5分の1の扱いなのですから、大幅カットが可能だと思います。

 それに、主人公の恩地は、御巣鷹山事故の遺族担当ということになっていますが、わざわざそのように設定することの意味合いがよくわかりません。会社側の対応のまずさを強調して国見会長の改革へつなげようとしたとも思えるところ、うまく説明がなされていないようです。


 評論家の意見は次のようなものです。
 まず、福本次郎氏は、「ひとりの人間の思いなどちっぽけなもの、それでも厳しさに耐え思いを持ち続ければ、希望となる。その過程がしっかりとした筆致で描かれ、長時間退屈せずに鑑賞できた」として70点を与えています。
 また、渡まち子氏は、「もちろん拷問のような扱いを受けても会社を辞めない主人公を全肯定はできないが、直球勝負の映画の作りと俳優たちの熱演に、深く感動させられた。愚直なまでの生き方を貫く恩地役・渡辺謙、敵役の行天役・三浦友和、共に素晴らしい」として75点です。
 さらに、前田有一氏は、「複雑な思いを抱かせる一面はあれど、平均を上回る見ごたえの社会派作品であることに違いはない」として70点を付けています。

 総じて皆さんの評価は高いのですが、私としては、この映画では人形のような類型的な人間たちが動き回っているだけであって、あまり高く評価できないのでは、と思っています。
 やはり実在の人物をモデルにして描けば、どうしてもその人を必要以上に美化してしまい、他方でその敵役を必要以上に酷い悪者として描かざるをえなくなってしまい、それが歴史上の人物であれば単なるお話で済みますが(NHK大河ドラマのように)、現代史にかかわる場合には、多くの利害関係者がまだ存命なのですから、問題が大きいのではないかと思われるところです。


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「夢と追憶の江戸」展

2009年11月18日 | 美術(09年)
 お昼の時間を利用して、日本橋の三井記念美術館で今月23日まで開催されている「夢と追憶の江戸」展(慶應義塾創立150年記念)を見に行ってきました。

 本展覧会は、慶応大学の名誉教授であった高橋誠一郎氏が収集した浮世絵コレクションを展示するもので、浮世絵の初期のものから明治期の末期のものまで名品が網羅されていて、浮世絵について一般人が勉強するには格好のものです。
 ただ、高橋コレクションはおよそ1500件と膨大で、今回はその中から約300件が厳選されていますが、それでも数が多いため展示も3回に分かれています。私が特に見たかったのは東洲斎写楽の浮世絵ですが、毎回展示替えがあったため、見ることができたのは第3期の「市川鰕蔵の竹村定之進」(上図)にすぎません(「三世市川高麗蔵の志賀大七」などが展示されていたそうですが、残念ながら見逃してしまいました)。
 
 写楽の絵を見たかったのは、その絵の出来栄えが素晴らしいことはもちろんですが(第2室では、写楽の浮世絵の一点だけが展示されています)、ただそれだけでなく、中野三敏氏の著書『写楽―江戸人としての実像』(中公新書、2007.2)において、写楽の実像が明確にされ、三井記念美術館に近いところにその住まいがあったらしいとわかったこともあります。
 
 同書によれば、写楽の「俗称は斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住む。阿波侯の能役者」であり、それも八丁堀の「地蔵橋」のそばに住んでいたとのこと。
 
 インターネットで「地蔵橋」を調べてみると、「地蔵橋公園」なる公園があることがすぐに分かります。ですが、住所は「日本橋本町4丁目」、八丁堀というよりむしろ神田駅に近く、この公園はどうも写楽の「地蔵橋」とは関係なさそうです。

 そこで、丹念に検索をかけてみると、概略次のように書かれているブログに遭遇します。「探し当てた古地図を見ると、新亀島橋から西へ、東京駅に向かってのびる通称「桜通り」の南側に沿って3丁ほどの掘割があるが、その掘割と、今の新大橋通りから西へ1本、日本橋よりの南北に走る道―通称「鈴らん通り」―の交差するところ、そこにかの地蔵橋は架かっていた」。

 この「桜通り」は、三井記念美術館や日本橋三越が建ち並ぶ「中央通り」を南に行ったところにある日本橋高島屋のすぐ南側にあって、その両サイドに桜が植えられている道を指しています。

 早速、その「桜通り」を東に向かい、昭和通りを歩道橋で跨ぎ、新場橋を通り、該当すると思われる場所に出かけてみました。無論、わざわざ行ってみたところで、写楽=斎藤十郎兵衛が住んでいた屋敷を偲ぶよすがとなりうるものは何も見つかりません。「鈴らん通り」と交差する角に、「やき鳥・宮川」から出る煙が立ち込めているだけです。

 なお、写楽は、“謎の浮世絵師”といわれるだけあって、実像がどんな人物だったかにつきたくさんの仮説がこれまで提出されています(注1)。
 なかでも、10年ほど前に亡くなったフランキー堺氏は、俳優業の傍ら写楽研究に励み、ツイには映画〔『写楽』1995年:篠田正浩監督〕まで制作してしまいました。ネットで調べてみますと、配役について「真田広之 (とんぼ〔斎藤十郎兵衛/東洲斎写楽〕)」とありますから(注2)、テッキリこの映画は中野説を踏まえていると思ったのですが、レンタルのVTRを見てみますと、確かに、歌舞伎で宙返りなどをする裏方の「とんぼ」=写楽とされてはいるものの、肝心の「斎藤十郎兵衛」は別人の扱いとなっています。



(注1)「写楽=喜多川歌麿」説など。
ちなみに、写楽のお墓は、関東大震災前に浅草の「海禅寺」にあったと言われる一方で、四国徳島市の「東光寺」にも現にあり、なかなか特定できていないようです。
(注2)この映画は非常に生真面目に制作されているものの(がゆえに?)、共演した真田広之と葉月理緒菜との関係が騒がれただけで、今ではあまり注目されていないようです。


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わたし出すわ

2009年11月15日 | 邦画(09年)
 「わたし出すわ」を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 予告編を見て大変面白い着眼点だなと思い、また「カムイ外伝」で好演した小雪の主演作でもあるというので、映画館に出かけてきました。

 劇場に入るまでは、森田芳光監督の作品であり、かつ小雪が主演なのですから大勢観客が集まって見やすい座席が確保できるだろうかと心配したのですが、あにはからんや入りは全然よくありません。事前の映画評論家の評価が芳しくないことも影響しているのでしょうか?

 「映画ジャッジ」の評論家諸氏は、それほど酷い評価をしていませんが、それでも、福本次郎氏は、「物語自体があまりにも茫洋としていて、教訓めいたことも説教臭さもない代わりに、何が言いたいのかもよくわからなかった」との相変わらずの論評で50点、前田有一氏は、「通常の「常識」では到底理解できぬ人々が出てくる」などとして55点、小梶勝男氏は、派手な喜劇にはせず、淡々とドラマを描きたいという監督の狙いは分かるが、ただ主人公と友人たちが函館の町をうろうろとして、延々と話をしているだけのような印象で、どうも乗れなかった」としながら68点、そして、渡まち子氏は「地味な服装で、ちっとも幸福そうに見えない摩耶が一人でしりとりをする場面が印象的。そんな寂しげな彼女に、最後に訪れる奇跡には、人生に必要な信念や希望が感じられ、幸せの意味が少し分かった気がしてくる」として70点、といったところです。

 さて、この作品は、予告編からすると、大儲けした女性が「お金を配る」という非常に面白いアイデアに基づいた映画と思わせ、実際に見たらそれがどんなに大きく膨らんでスリリングな展開をするのだろう、単に「お金を配る」行為を描いたに過ぎない映画ではないのではないか、別途のテーマが現れてくるのではないか、と随分期待を持たせます。

 ですが、見終わってみると、ヒロインの摩耶が「お金を配る」様子を描いただけの映画で、全般的に常識的なことしか提示されてはいないのではないか、と思えてきます。
 級友の女性が一人殺されるという事件は起きますが、その犯人もすぐに捕まってしまいますし、また市電の運転手の一家も崩壊しますが、運転手自身は、市電を研究するために摩耶のお金を使って外国に出かけてしまいます。
 他の級友も、受け取ったお金をそれぞれのやり方で使い、全体として、至極淡々と何事もなかったように映画は進行し続けます。最後は、小雪の母親が、小雪の「しりとり」遊びの甲斐もあって劇的な回復を見せるというハッピーエンドとなっているのですからなおさらです。

 ただ、実のところ私の方は、別の観点からこの映画を見てみようとも考えていました。
 ほかでもありません、「わたし出すわ」というタイトルがとても奇妙なのです。いまどき「」という終助詞(文末詞)を使う女性など、ごく限られるのではないでしょうか(通勤電車の中で聞こえてくる女子高生同士の会話では、なんと「俺」などが使われています!)? 
 いったいなぜこんな古めかしい「女ことば」を麗々しく映画タイトルに使ったのかという疑問を、映画を見ながら解こうとしてみました。

 実際に映画を見ますと、こうした「女ことば」が使われるのは、やはり1、2回ほどで、主演の小雪は、お金を渡すときに「これ上げるよ」などと言いますし、級友の小池栄子などは、むしろ「お主……だな」などと男同様の口のきき方をしています。
 とはいえ、残念ながら最後までこの謎を解くことは出来ず、未解決のまま残ってしまいました(注)。

 ですが、そのままにしておくのも癪ですから、この際開き直って考えようとしたら、あるいはこの映画は、全体で“はぐらかし”を狙っているのでは、とも思えてきました。
 映画のタイトルからは優しい日本的な女性が出てくるのではと思わせながら、実際は投機で大儲けしたとみられる女性が主役ですし、にもかかわらず、その女性・摩耶の住まいは実に質素で服装もこの上ないほど地味です。また、その摩耶に小雪が扮するのですからさぞや美しく撮るのだろうと思いきや、なんとも抑制気味に映し出されます。さらに、お金にそんなに困っていない級友に大金を投げ与えるとどうなるか、という抜群のアイデアを出発点としながらも、風船が萎んだような面白みのないラストにわざわざ持っていくとか(級友の研究者は破天荒な研究を放棄してしまいます)、あるいは同じ場所で同じ時期にゴールドバーの投げ込みが行われて(級友・小池栄子の仕業とされます)、摩耶の行為が水を差されるとか、どれを取り上げても話はまっすぐ直線的に進まず、意図的に折り曲げられてしまっているように思えます。

 こんなところから、もう一度この映画を見て捉えなおしたら、また面白いのではないのか、と思っているところです。


(注)ここらあたりのことについては、水本光美・北九州市立大学教授によるTVドラマについての論考が、あるいは参考になるのではと思われます。
 その論考では、あらまし次のように述べられています。
 「現在の30代末以前の若い女性は、従来の女性文末詞を使用しない」が、「テレビドラマの中では、今なお若い女性たちに従来の女性文末詞を使用させる傾向が強」い。こうした事情をみると、「現在、30 代から40代前半頃の比較的若い世代の脚本家が、女性文末詞を若い登場人物に使用させるとき、「女性は女性言葉を話した方が好ましい」というジェンダーフィルターが内在しているとの疑いが出てくる」。
 同じような事情は映画にも見い出すことができて、「ジェンダーフィルター」という概念もあるいは適用できるのではないか、とも考えられます。


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パンドラの匣

2009年11月14日 | 邦画(09年)
 「パンドラの匣」をテアトル新宿で見ました。

 この映画は、制作した富永昌敬監督の前作「パビリオン山椒魚」にイマイチ乗り切れなかったこともあって(注1)、太宰治の小説が原作ですから気にはなりながらも(「ヴィヨンの妻」は見ました)、パスしようかと考えていたところ、他の映画館に出向いたら思いがけず満席状態と告げられ、急遽河岸を変えて、マア時間つぶしだからかまわないかと思って見たものです。

 ところが、あまり期待せずに入って見た映画が、予期に反して良かったという経験を、この間の「悪夢のエレベーター」に引き続いて味わいました。

 映画のストーリーは実に単純で、終戦直後の結核療養所・健康道場において、結核患者の主人公「ひばり」と、二人のヒロイン「竹さん」と「マア坊」(いずれも看護婦)との関係を中心にして、様々の小さな出来事がいくつも綴られているというにすぎません。

 ただ、映画の時代設定は終戦直後となっているものの、雰囲気的にはどうしても昭和初期あたりに見え、さらにはこんな「健康道場」が実在したとも聞いたことがないので、初めのうちはこの映画はいったい何だろうかと思いながら見ていました。
 というのも、結核療養所でありながら、医者が見当たらず、乾布摩擦などのいい加減と思える治療が描かれているだけなのです。また、患者と看護婦との境がしっかりしていないため、これでは結核が看護婦にも蔓延してしまうのではないか、と観客サイドがお門違いながら心配してしまいます。それより何より、どの患者もとても結核を患っているようには見えません(患者は誰も咳をほとんどしませんし、患者として登場する「ふかわりょう」などは、健常人そのものです)(注2)。

 ですが、暫くするとそんなことはあまり気にならなくなり、こういう閉じられた世界もありかなと思えてきます。そうなると今度は、映画の中で動き回っている俳優たちが実に生き生きと演技しているのが見えてきて、知らず知らずのうちに話に引き込まれてしまいました。

 特に、川上未映子がヒロインの一人として出演しているのには驚きました。というのも、最近、彼女が書いた長編小説『ヘヴン』(講談社)を読んで感動したばかりですから(注3)。この映画では、とても小説家が片手間で演技しているとは見えず、実に役柄の看護婦長役にはまっていると思いました(彼女はミュージシャンでもありますから、場慣れしてはいるのでしょうが)。
 また、モウ一人のヒロインの仲里依紗もなかなか良くやっていると思えました。川上未映子と同じ看護婦役といっても、仲里依紗の方は新米の看護婦の役で、むしろ初々しさを出さなくてはなりませんが、それが水を得た魚のように溌剌として動き回っているのです。

 評論家たちも、この映画については専ら俳優の方に関心が集まっています。
小梶勝男氏は、「この作品については、圧倒的に川上未映子と仲里依紗だ。2人がエロチックでいい。見ているだけで幸せだった」として72点を与え、渡まち子氏も、「新人の染谷将太や芥川賞作家の川上未映子を起用するなど、異化効果を狙ったユニークなキャスティングが目を引く。小悪魔的な魅力の仲里依紗の光る金歯と、川上未映子の妙にどっしりした存在感が印象的」だとして65点を与えています。
 いずれの評論も的を得たものだと思います。

 さらに、この映画については、音楽の菊池成孔氏の存在を忘れるわけにはいきません(注4)。菊池氏は、富永監督の前作でも音楽を担当していますが、ここでも音楽が、まるで一人の俳優であるかのように、この映画独自の雰囲気を盛り上げるのに大きな役割を果たしていることがよくわかります。

全体として、「パビリオン山椒魚」とは違い、ストレートに映画を楽しめました。



(注1)オダギリジョーと香椎由宇が出演し、音楽も菊地成孔氏ですから面白いことは面白いものの、余りにも突拍子もないことが映画では次々に起こるので、あっけにとられてしまいます。
(注2)ところが、劇場用パンフレットによれば、太宰治の小説には木村庄助という実在のモデルがおり、その人が入院したのが「孔舎衙(くさか)健康道場」という実在の施設(東大阪市日下町)だったとのこと。
 なお、実際に小説のモデルが入院したのは昭和16年で、そのころはまだストレプトマイシンなどの治療薬が開発されておらず、したがってこの映画で映し出されているような素朴な治療法しか考えられなかったのでしょう。ただ、戦後であれば抗生物質による治療が進展していますから、そういうこともあってこの映画に何かしら違和感を感じてしまうのかもしれません。
(注3)『ヘヴン』では、川上氏は、コレまでの作品のように大阪弁を使わずに、いじめ問題を通して善と悪という大問題に誠に真摯に取り組んでいて、感心しましました。


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