映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

汚れた心

2012年07月29日 | 洋画(12年)
 『汚れた心』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)本作は、ブラジルの日系移民に関わる陰惨な事件を描いた作品というので、ブラジルにいたことのあるクマネズミとしては是非見たいと思い、映画館に足を運びました。
 ただ、本作で取り扱われる「勝ち組」・「負け組」(注1)については、30年ほど前にブラジルにいた際にもしばしば耳にしましたが、本作で描かれるような事件(注2)についてまでは、厳しくタブー視されていたのでしょう、全く聞いたことはありませんでした。

 さて、本作は、第2次世界大戦終結直後のブラジルのサンパウロ州にある小さな町が舞台とされます。
 時のヴァルガス政権によって、日本の動向に関する情報が絶たれていた日系移民(注3)の大部分は、終戦後においても日本の勝利を心から信じる「勝ち組」でした。
 タカハシ伊原剛志)は、写真館を営みつつ、教師の妻ミユキ常盤貴子)と暮らしていましたが、当然に「勝ち組」の一員です。
 元陸軍大佐ワタナベ奥田瑛二)たちが、禁止されている集会を開き、日章旗を掲揚したりして官憲との間でトラブルになった際には、タカハシも、一緒に当局に抗議に出向いて逮捕されてしまいます。
 その際に、「負け組」の日系人アオキが、当局の通訳として彼らの前に現れるのですが、タカハシはアオキに対して、「心が汚れている、非国民!」と叫びます。
 その後、「負け組」の粛清を叫ぶワタナベから軍刀を託されたタカハシは、まずアオキを斬殺し、さらには、組合長のササキ菅田俊)までも斬り殺します。
 それを知ったミユキ(注4)は、殺されたササキの妻(余貴美子)や娘と一緒に列車に乗って、その町を立ち去ってしまいます(注5)。
 一人残されたタカハシはどうなるのでしょう、……?

 「勝ち組」・「負け組」のことは知ってはいたものの、こうした陰惨な事件が引き起こされたとは思いもよらず、正直のところ大変驚きました。
 ただ本作は、ブラジル移民史における単なる一事件を描いた作品、というだけにとどまってはいないと思われます。むしろ、一つの政治的信念が狂信的なものにまで濃縮され人々に取り憑くと、当事者たちが以前には考えてもいなかった恐ろしい事態が引き起こされる可能性のあることを描いているのでは、と思いました。その意味では、はなはだ現代的な作品であるともいえるでしょう。
 そして、その波乱の中で翻弄されてしまう様々の夫婦の物語ともいえると思います。

 とはいえ、もう少し説明してもらいたいなという点もあるように思われます。
 ブラジル移民の当時の状況について、もう少し理解しやすい映像が入っていたらなという気がします。
 例えば、あの街に住んでいる日系人たちは、どこでどうやって働いていてどんな暮らしをしていたのでしょう(注6)。
 ササキが組合長とされていますが、いったいどんな組合なのでしょう(7注)。
 また、「勝ち組」のリーダーであるワタナベは、この土地においてどんな役割を担っていて、所得はどこから得ているのでしょう(注8)。彼には家族がいないようですが。何故なのでしょう。
 「勝ち組」の中の狂信派は、日本刀や拳銃を使って「負け組」を襲撃しますが、彼らはどこでそういった武器の扱い方を習得したのでしょう(注9)。

 ですが、そういった細々としたことは、観客の方で適当に補いながら見れば済むことなのかもしれません。
 ただ、事件のあまりの大きさに、物語全体が引っ張られすぎているのでは、という感じを持ちました。

 本作はブラジル映画ではあるものの(注10)、日本で現在活躍中の俳優が何人も出演しています。
 主演の伊原剛志は、『十三人の刺客』での活躍が印象的ですが、本作においても、心優しい写真館の主人でありながらも、「勝ち組」としてとんでもないことをしでかしてしまうという、大変難しいタカハシの役を巧みにこなしています。



 他方、「勝ち組」のリーダー的存在であるワタナベを演じる奥田瑛二は、『ちゃんと伝える』や『ロストクライム』もなかなかよかったところ、本作では抜群の存在感を示しています。



 さらに、タカハシ妻ミユキを演じる常盤貴子や、組合長ササキの妻に扮する余貴美子も、実に手堅い演技を披露しています。






(2)本作においては、「國賊」という言葉が頻繁に登場するのが印象に残ります。
 映画の冒頭では、その言葉が筆で書かれますし、物語の中では、家の入口の壁にその言葉が落書きされると、ナチスドイツの下における「ダビデの星」と同じように、恐ろしい事態がその家にもたらされます。
 また、ミユキが密かに教えている日本人学校では、生徒がノートにその言葉を書いて、これはどんな意味なのかとミユキに尋ねたりします。
 むろん、「勝ち組」の者が「負け組」に属する者を指して言う言葉なのですが、時間と場所がこうも離れてしまうと、すんなりと理解しがたい感じがしてしまいます。
 というのも、この場合における「國」とは何を指しているのでしょうか?
 ブラジルに移住した日本人は、最早日本の国籍を離れてブラジルの国籍を取得したのではないでしょうか?彼らが「國」と言えば、ブラジルを指すはずです。
 でも、「國賊」という場合の「國」とは、大日本帝国を指しているのでしょう。その大日本帝国が降伏したというあり得ない偽の情報を信じて流す者は、「國」に反逆する不逞の輩であり「賊」だというわけなのでしょう。
 ですが、いくら情報が途絶しているからといって、いくら日本が破れるわけがないと思いこんでいるからといって、そんな理屈は、すでにブラジル人である者に対して元々通用するはずがない不合理なものです。
 しかしながら、この映画で描かれている事件においては、その理屈で何人もの人が殺されてしまったわけです。

 こうした事件に至る背景の一つと考えられるのは、ブラジル移民の経緯かもしれません。
 Wikipediaによれば、日露戦争後、移民の送り出しを行っていた皇国殖民会社が、移民希望者を募る際に、「ブラジルでの高待遇や高賃金をうたったために、移民の殆どは数年間の間コーヒー園などで契約労働者として働き、金を貯めて帰国するつもりであった」とのこと。
 これでは、移住先の国に骨を埋めるつもりがないのですから、国籍の変更は一時的なものであり、ずっと日本人のままだと思うことになるでしょう。
 あるいは、周囲を海で取り囲まれ国境を殆ど意識したことのない日本人は、ブラジルに移住しても、日本にいた時と同じ意識のままでいたのかもしれません。
 特に、移住先では、日本人だけが固まって共同体を形成して生活していたわけですから。

 こうした歴史的な事実について、今の時点から見てあれこれ言ってみても無意味でしょうが、随分と違和感を覚えたところです(注11)。

(3)渡まち子氏は、「俳優たちは、時にポルトガル語もまじえて静かに熱演。劇中に何度か登場する「おまえの心は汚れている」のセリフが胸に突き刺さる。地球の裏側で起こった戦争の狂気に愕然とする歴史秘話だ」として65点をつけています。

〔追記〕後になって分かったことですが、本作に関する前田有一氏のレビューは、核心を突いていると思います。すなわち、前田氏は、「インターネットが発達し、いつでも正確な情報を即座に入手できる現代においても、あらゆる事項についての誤解と対立は全く解消されていない」とした上で、さらに「最も重要な時代背景を不十分にしか描いていないことがこの映画の日本人にとっての最大の問題点である。ブラジル人にとっては常識かもしれないが、日本人にとってはわかりにくい」と述べて60点をつけています。




(注1)「勝ち組」・「負け組」については、Wikipediaの該当項目を参照。
 なお、終戦から40年くらい経過した当時にあっても、「勝ち組」・「負け組」に由来する派閥が依然として日系人社会に存在するとよく言われていたところです。

(注2)この映画で描かれる事件を引き起こした臣道連盟については、Wikipediaの該当項目を参照。

(注3)ブラジルは連合国側なので当然ともいえる措置ですが。
 ただ、「勝ち組」・「負け組」に関しては、本作で、マッカーサーと昭和天皇の会見写真などを見て日本の勝利に疑念を抱いたタカハシに対して、ワタナベはあくまで、これは謀略だと言い張るところからもわかるように、仮に情報がそんなに途絶していなかったらこうしたグループは作られなかった、と簡単に言える話でないのかもしれません(今の情報化社会では、逆に、どんな映像も簡単に捏造できますし!)。

(注4)アオキは、身に迫る危険を察知して、妻子を別のところに送り出します。それを知ったミユキは、自分が作った食事を届けるのですが、その際にアオキの斬殺死体と、そのそばで茫然自失状態にある夫タカハシの姿を目撃してしまいます。

(注5)ラストで、ササキの娘が偶然にタカハシ(かなりの老人になっています)の写真館にやってきて写真を撮ってもらおうとするのですが、そのことがわかったタカハシがミユキのことを尋ねると、「もう何年も前に再婚され、日本に戻ったようですよ」と告げられます。
 ただ、ミユキがタカハシの元を去るときには婚姻を解消していなかったのですから(タカハシには会わずに立ち去ります)、“再婚”ということにはならないのではとも思えるのですが。

 なお、余計なことですが、あれだけ人を殺したタカハシ(一人は正当防衛であるにせよ)が、その後同じ写真館を営んでいるというのも、実に不可解な感じがしました(いくら政治的判断で、臣道連盟事件の関係者が恩赦されたにとしても)。

(注6)映画からすると、彼らは綿花の畑で働いているようですが、そうだとしたら、農園は彼ら日系人の所有なのでしょうか、それともブラジル人の農園で働いているのでしょうか。

(注7)綿花の共同販売をする組合と思われますが、よくわかりません。

(注8)ワタナベは、満州事変後退役した元陸軍大佐。持ってきた資金で土地を購入している様子です。

(注9)移民して間もない頃であれば、日本で兵役に就いたときに訓練を受けたでしょうが、幼いときにブラジルに渡った者や二世の場合には、訓練する機会がなかったようにも思われます(ブラジル軍の兵役に就いたというのでしょうか)。

(注10)原作者フェルナンド・モライスや監督ヴィセンテ・アモリンはブラジル人であり、また劇場用パンフレットによれば、「ブラジル資本100%で制作された」とのこと。

(注11)本作のはじめの方では、ブラジルの官憲が、掲揚されている日章旗を引きずり下ろして、それで軍靴を拭く場面が描かれ、それに対してワタナベが激しい屈辱感を抱くわけですが、クマネズミがブラジルにいた頃に、「ブラジル移民70周年記念行事」が行われ、日本から当時の皇太子・妃殿下が訪伯されましたが、その際に、サンパウロの大競技場を埋め尽くした日系人が皆日章旗を手にしているのを見て、当時のブラジル政府高官が奇異な思いをしたとの報道がなされていました。



★★★☆☆





象のロケット:汚れた心

苦役列車

2012年07月25日 | 邦画(12年)
 『苦役列車』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)本作は、私小説作家・西村賢太氏の芥川賞受賞作(2010年)を映画化したものです。
 19歳の主人公・北町貫多森山未來)は、父親が性犯罪を犯したことから故郷にいられなくなり、東京に出てきて日雇い労働者として働いています。
 いつものように現場に運んでくれるマイクロバスに乗り込むと、同じ年格好の若者がいて話しかけてきます。彼は日下部正二高良健吾)、専門学校にも通っているとのこと。友達のいない北町でしたが、日下部とは気が合い、友情を深めていきます。



 一方で、北町は日下部を風俗に連れていったりしますが、他方で、北町が片思いをしている古本屋アルバイトの桜井康子前田敦子)とは、日下部の口利きで仲良くなったりもします。
 とは言うものの、世渡りがうまく、親元もしっかりしている日下部とは、次第にソリが合わなくなり、桜井との関係もぎくしゃくしてきます。



 どんなことがあっても本を読むことだけはしてきた北町は、この先どうやって生きていくのでしょうか、……?

 本作については、原作の主人公は、元来が私小説ですから作者の西村賢太氏そのものでしょうが、その彼とは風貌が似ても似つかない森山未來がいったいどんな演技を見せるのか、という点に興味がありました。
 とくに、森山未來は、最近作の『モテキ』では、4人もの女から迫られる男の役を見事に演じているところ、本作では、風俗に足繁く通うは、飲み過ぎて道ばたに吐くは、友達にも嫌われるはで、いいところがまるでなさそうな青年の役柄なのですから。



 ですが、あえて森山未來だからこそ、そしてその彼が情熱を込めて演じているがために、すごく厭味な人間が描かれているにもかかわらず、本作を随分と面白く見続けることができると思いました(注1)。

 さらに、本作では、前田敦子が下着姿になって海に入るなどなかなか頑張っていますが、『軽蔑』などでの演技が印象に残る高良健吾は、甚だ特異な役柄を熱演する森山未來の陰に隠れてしまった感じです。

(2)もう一つ、地味な原作をどうやって映画というエンターテインメントに仕上げているのかという点にも興味がありました。
 原作は、新潮文庫で120ページ足らずのものですからすぐに読めるところ、本作との違いの大きな点は、原作には前田敦子演じる桜井康子が描かれていないことでしょう(注2)。
 また、例えば、同じ人足仲間の高橋マキタスポーツが演じています)については、原作に登場するものの、かなり違った感じがします(注3)。



 そして、本作のラストでは、飲み屋でアンチャン達にボコボコにされた北町が目を覚まして海に向かって走ると、砂浜に掘られた落とし穴に落ちて、云々という運びになりますが、原作のラストは、その後しばらくして、交遊の途絶えた日下部が郵便局に勤め出したことを知り、「所詮、郵便屋止まりか」と毒づいたものの(注4)、北町自身「相も変わらずの人足であった」と述べられて終わっています(P.122)。

 これらの点は(注5)、地味な私小説を映画というエンターテインメントに仕立て上げるのにどうしても必要なテコ入れと考えられます。
 世の中に突っかかってばかりいる人足の主人公だけでは映画となりにくく、やはりそれに彩りを添えるヒロインの存在は不可欠でしょうし、一定の役割を与える登場人物がかかわる事柄には具体性が必要でしょう。さらにまた、2時間ほどで完結する映画にはそれなりの終わり方があるものだと思われます。
 他方、純文学としての私小説の場合、まさに作者が経験したことをありのままに書き続けることが身上とされていて(注6)、エンターテインメントという要素は二の次三の次になるでしょう。まして、印象深い終わり方などはあまり考えられないのではないでしょうか(作者の人生は、この先も長く続いていくのでしょうから)。

 本作の場合でも、やはり映画と原作とはまるで別物だと再確認したところです。

(3)前回のエントリにおいては、『ワン・デイ』につき、エマとディクスターが「長い間友達関係だったこと」をその特徴の一つとして取り上げました。
 さらにそこでは、『ワン・デイ』における「(男女の)友達関係とは、深い性的な関係を持たないことを意味しているように思われ、他方『(500)日のサマー』におけるサマーは、性的な関係がありながらも運命的な結びつきが感じられないのを友達関係とみなしているよう」だと申し上げました。
 さて、本作においても、日下部の口利きで仲良くなった桜井康子について、日下部は「彼女は友達になってもいいと言ったんだから、まずは友達になれば」と簡単至極に言い放ちますが、北町は、「どうやってつきあったらいいか」と悩みます。まして、康子には、遠距離恋愛ながら彼氏がいるというのですから。
 それでも、「うまくいくことだってありうる」と言う日下部に励まされて、北町は康子とつきあうところ、どうも彼は、男同士の友達関係についても不器用さが目立つ上に、男女における友達関係=濃密な性的関係とみているようで、そうはみなしていない康子との関係はすぐに破綻してしまいます(注7)。



 男と女の「友達関係」といっても、様々な形態があるようです。

(4)渡まち子氏は、「何といってもやさぐれた主人公のダメっぷりをポップに演じる森山未來が最高だ。自虐的だが純情で、どっこい生きてるタフさの妙は、森山ならでは。また、どこか暗い康子を熱演する前田敦子が意外なほど好演。若手演技派の高良健吾も含め、主要3人のアンサンブルが素晴らしく、映画ならではのポジティブな希望へとつながっている」として60点をつけています。



(注1)森山未來のダンサーとして鍛え抜かれた肉体だけは、どう変えようもないのですが(尤も、若い時分の西村賢太氏の写真を見たことはありませんが)!

(注2)「本を読むくらいしか楽しみがない」と言う桜井康子がアルバイトで働いている古書店(志賀書房)のロケ場所は、店の感じから、高円寺駅にある都丸書店だとすぐにわかりました(品揃えからしたら、神田の老舗古書店をも上回るかもしれません。昔はよく通ったものです)。
 ただ、康子がレジのところで座っている店は、都丸書店のうち、社会科学系の古書ばかり置いてある本店であり、彼女が仕事の合間にジョン・アーヴィングの『ガープの世界』を読んでいるところからすれば(さらには、北町が、書店の本棚から『横溝正史の世界』を取り出したりするのからすれば)、本店近くにある支店(人文科学とか文学関係の古書が置いてあります)の方がむしろ似つかわしいように思います。
 また、古書店の場合、本を買いに来るお客ばかりでなく、本を持ち込むお客もあることから、単なるアルバイトではレジ係は難しいのではとも思えるところです。

 なお、彼女の席の横に貼ってあるカレンダーが「1986年11月」とされていて、本作の舞台設定がさりげなく観客にわかるような仕掛けが施されていたりします(原作では、北町の生まれた年が「昭和42年」(P.47)とされ、現在19歳ですから、その時の西暦が分かります)。

 さらに、志賀書房の店主(田口トモロヲ)は、あるいは、『人もいない春』(角川文庫)に収録されている小説「二十三夜」(2007年)に登場する「心易い新川」(神保町で「近代文学書専門の古書肆」をやっている男)を彷彿させるものがあります(P.41)

 この新川は、『小銭をかぞえる』(文春文庫)に収録されている小説「小銭をかぞえる」(2007年)にも登場します(P.99~)が、ここまでくると、本作の桜井康子は、同小説に登場する喫茶店のアルバイトの女性があるいは原型なのではとも言いたくなってきます(「彼女のナイーブそうな内面の美を映したプロフィールが、そのときにあった、ひとりの女性とどこまでもプラトニックな恋愛をしてみたいという例の希求に、ぴったり合致してしまったのだ」P.46).

(注3)原作では、高橋は、「一件どこか人を寄せつけない、ヘンに不穏な雰囲気を放った男」とされ、北町は、「「調子に乗るなよ、ガキめが」とでも言われたような印象を受け」たと書かれているところ(P.60~P.61)、本作の高橋は、その言葉を実際に口にします。
 また、原作では、高橋が「昼休みにふいと運河に降りてゆき、浅瀬で妙に真剣な顔つきでもって、何かの貝を掘りだし始めた」とあるところ、本作の高橋は、その貝が「からす貝」だと明言します。
 一番の違いは、本作における高橋が、歌の上手いことを自分から吹聴する点でしょう。でも、それが伏線になって、食堂のTVに映っていた高橋を見ようとして、他の客とチャンネル争いとなって、ボコボコにされて草っぱらに投げ出されてしまってという、ラストにつながってくるのですから、この高橋には重要な役割が与えられていることになります。

(注4)日下部は、上記「注2」で触れた小説「小銭をかぞえる」に、「茨城の方で郵便局員をやっている山志名」として登場します(P.110)。主人公は、お金を借りにわざわざ水戸近辺まで出かけるものの、貸すとしてもせいぜい1万円という話に、「頭に地が激しく逆流し」てしまい大喧嘩の挙げ句、何も借りずに東京に戻ってきてしまいます。

(注5)もう一つ挙げるとしたら、北町が以前つきあっていた熊井寿美代のことです。原作では、そのときまでに「彼の知るただ一人の素人女」で、「何度か肌を合わせた」ものの、彼を「あっさりと袖にし」、「今後もまず二度と会う機会もない」とされているところ(P.91~)、本作では、北町は「のぞき部屋」で偶然に寿美代に出会い、その後飲み屋で寿美代のヒモ的男と喧嘩となり、さらには奇妙奇天烈な馬鹿騒ぎをも引き起こします。

(注6)言うまでもないことながら、事実をありのままに書くことなどは不可能であり、そこにはおのずと取捨選択が働いていて、そういう点からすれば、私小説といえどもフィクションであることには変わりはないでしょう。

(注7)北町は、「握手をしよう」といって手に取った康子の腕にキスをしてしまい、2人の関係は悪化してしまうところ(「冗談、ギャグだよ」と弁解するも)、日下部のとりなしで仲直りとなり、皆でボーリングに行ったりします。その後しばらくたって雨の日に、北町は、アパートの部屋に戻ろうとする康子を待ちかまえて、部屋に入れてくれと頼みますが断られ、「本当はやりたくてうずうずしているんじゃないか」とばかり、彼女を道路に押し倒そうとしますが、「友達では駄目なの?じゃあ、もう終わりだ」と非難され、頭突きを食らってしまいます(もっと時間をかければ、違った展開もあったかもしれません。あとで古本屋の店主から手渡された本には、康子の彼宛てのメモ書きが挟んでありましたし)。




★★★★☆



象のロケット:苦役列車

ワン・デイ

2012年07月21日 | 洋画(12年)
 『ワン・デイ―23年のラブストーリー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、全体としてはエマアン・ハサウェイ)とディクスタージム・スタージェンス)とを巡る典型的なラブストーリーながら、特徴的なことが2点あるように思われます。
 一つは、二人は、お互いに強く惹かれ合うものを感じながらも、長い間友達関係だったこと。
 二つ目は、23年間の二人の関係が、毎年の「7月15日」という定点の積み重ねで描き出されていること。



 後者の点についてさらに言うと、エマディクスターは、23年前の1988年の7月15日に、スコットランドにある大学の卒業式の帰りがけに一緒になります。でも、エマの家に行った二人は、ベッドインするも何も起こらず、結局は「友達のままでいようよ」ということに(注1)。
 その後、エマは、ロンドンでレストランのウエイトレスになり(1989年)、他方ディクスターは、パリで奔放な生活をした後に、TV番組のMCとして活躍し出します(1993年)。
 その後、エマは学校の先生になるとともに、コメディアン志望のイアンと同棲します。
 他方、派手に活躍していたディクスターは、30を過ぎると次第に時代の流れについていけなくなってTVの仕事を失うも(1998年)、シルヴィとできちゃった結婚します(2000年)。
 同じ頃エマの方は、イアンと喧嘩ばかりするようになって別れてしまいますが(注2)、他方、ディクスターもすぐに離婚します(注3)。
 そうしたところで二人はパリで再会し(2003年:注4)、ついに結婚へ(2004年)。出会ってからなんと15年も経過しています!幸福な日々を過ごし、時々は喧嘩もしますが、すぐに電話で仲直りします。悩みは子どもができないこと(注5)。
 その日も(注6)、エマからディクスター宛てに「ちょっと遅れるけど」との留守電話が入っていて、……(2006年)。そして、……(注7)。

 本作については、そんなに特定に日にちにだけ大きな出来事が起こるのはご都合主義に過ぎるではないか、大学卒業後の20年ほどの変遷を描いているのだからエマはもっと老けるはずではないか、ディクスターの両親はきちんと描かれているのに何故エマの両親は触れられないのか、などいろいろ指摘できるでしょう。
 でも本作は、なにはともあれアン・ハサウェイの映画であって、そんなあれやこれやなどどうでもよく、シーンが変わるたびに違ったファンションで現れるアン・ハサウェイの魅力を楽しめばいいのでしょう(さらに、冒頭に挙げました「長い間友達関係だった」という点は、彼女のような清純派にとり、まさにうってつけの設定と言えるのではないでしょうか)。



 クマネズミにとっては、『プラダを着た悪魔』(2006年)以来のアン・ハサウェイですが、まだ29歳なのですからもっともっと頑張ってもらわなくてはという気持です。

(2)本作のように日付に意味がある映画といったら、『(500)日のサマー』が思い浮かびます。
 と言っても、もちろん『(500)日のサマー』の方は、本作のように具体的な年月日が出てくるわけではありませんし(注8)、本作のように23年間という長期間ではなく、およそ1年半という短い期間を扱っているにすぎません。また、『(500)日のサマー』では、本作のように時間が単線的に流れるのではなく、行きつ戻りつしながら描き出されています。
 ですが、出会いの日から何日が経過したのかを数字で具体的に示し、それに深い意味合いを持たせている点で、本作と通じるところがあると思います。

 少しだけ申し上げると、『(500)日のサマー』の主人公・トムは、グリーティングカードの会社に勤めるカードライターで、スタッフ会議で紹介されたアシスタントのサマーに目を留めた日が、画面に「(1)日」と表示されます。
 さらに、付き合いだした二人が、一緒にIKEAへ行って陳列されているベッドに寝転がったりした後、トムの家に行ってベッドインしたのが「(34)日」。
 ですが、「(259)日」になると、サマーにしつこく言い寄ってきた男から彼女を守ろうとして殴り合いの喧嘩をしてしまったトムに対して、彼女は「助けなんかいらないから二度としないで」と言い、二人の間がしっくりといかなくなります。
 ついには、トムはサマーのすべてが嫌いになります〔「(322)」日〕。
そして、会社の同僚の結婚式へ向かう電車の中で、サマーがトムを見つけ、金曜日のパーティに誘いますが〔「(402)」日〕、その当日、トムはサマーの薬指に指輪がはめられているのを発見してしまいます〔「(408)」日〕。その後、……。

 さらには、『(500)日のサマー』は、本作の特徴として(1)で挙げた「お互いに強く引かれ合うものを感じながらも、ズーッと友達関係だったこと」にもある程度通じているようにも思われます。
 例えば、上にあげた「(259)日」の場合、さらにサマーは「私たちは友達なの」と言っているのです。これに対し、トムは「友達じゃない」と言い返しますが、サマーは「あなたが好きなだけ」と答えたために、トムは怒って出て行ってしまいます。
 本作の場合、友達関係とは深い性的な関係を持たないことを意味しているように思われ、他方『(500)日のサマー』におけるサマーは、性的な関係がありながらも運命的な結びつきが感じられないのを友達関係とみなしているようで、両作の間には違いが認められますが、いずれにせよ結婚関係に至らない点は類似していると言えそうです。

(3)渡まち子氏は、「23年間に渡り、7月15日だけを切り取って綴る異色の恋愛映画。スクリーンに描かれない余白を想像する作品」だとして60点をつけています。




(注1)ディクスターに密かに憧れていたエマは、一大決心をしてベッドインに臨みますが(トイレの鏡に映った自分に対して、「ビビるな」「しくじるな」と言い聞かせます)、ディクスターの方は、エマと遊び心で付き合うつもりだったため、重荷になることを恐れて「友達のままでいよう」と言ってしまいます。

(注2)エマが留守の時にイアンは、彼女が書いていたノートを盗み見てしまいます。それを知ったエマは激怒しますが、イアンの方は、「君が思っているよりよく書けているよ」と言います。実際、後にそれは出版されて、エマは原稿料を手にすることができるのですが。

(注3)売れなくなったディクスターは、大学時代の同級生が経営するレストランで働くようになりますが、なんとその同級生とシルヴィができてしまうのです!
 ちなみに、以前そのレストランで開かれた友人の結婚披露宴の際に、ディクスターとエマは再会し、ディクスターはエマに自分の結婚式の招待状(8月14日の開催)を手渡します。

(注4)エマは、その頃ジャズピアニストのジャン・ピエールと付き合っていましたが、出会った彼女と別れてロンドンに戻ろうとするディクスターの後を追いかけます。

(注5)2005年の7月15日には、ディクスターとシルヴィとの間にできた娘が、ディクスターとエマの家にやってきます(娘は、ディクスターの同級生の運転する車に乗って、シルヴィと一緒にやってきます!)。後でエマは、「愛する人の子どもが欲しい」と言い出します。

(注6)その日は7月15日で、映画を見て食事をすることになっていました。

(注7)2006年に交通事故でエマが亡くなった後、ディクスターはすさんだ生活に陥っていまいますが、父親が彼に、「エマが生きていると思ってやってみたらどうだ」「私は10年もそうしてやってきている」と忠告すると、ようやく彼も立ち直ります。
 映画の現時点である2011年の7月15日には、ディクスターは、最初に出会った頃にエマと一緒に上った丘(エディンバラ)に、今度は娘と登ります。

(注8)「(500)日」が5月23日の水曜日とされているところから、2007年ではないかと推測されます(ちなみに、最初に出会ったのは、前の年の1月8日)。




★★★☆☆




象のロケット:ワン・デイ

さらば復讐の狼たちよ

2012年07月18日 | 洋画(12年)
 中国映画『さらば復讐の狼たちよ』をTOHOシネマズ六本木で見てきました。

(1) 本作の舞台は、辛亥革命後の軍閥が割拠していた1920年の中国。
 映画の冒頭では、地方に赴任する県令が乗る列車を山賊の“アバタのチャン”(チアン・ウェン)の一味が襲撃します。



 そして、チャンは偽の県令となって、実際の県令のマーグォ・ヨウ)を自分の書記とし(注1)、鵝城に乗り込みます。



 ところが、鵝城は悪者のホアンチョウ・ユンファ)が支配する都市。
 ホアンは、麻薬の密売など様々な手段を使い人々から金を巻き上げ、その富の力で地域を牛耳っています。



 ホアンは、自分の商売を妨害しようとする県令を排除しようとしますが、逆に、県令になりすましたチャンは、一味の6人を使って彼に戦いを挑みます。
 さあ、その結果如何に、……?

(2)劇場用パンフレットに掲載されているProduction Noteやエッセイを見ますと、本作には現代中国に対する様々な風刺が散りばめられているとされます。
 例えば、冒頭に登場する県令達の乗った列車は馬が引いて走るものですが、これは「馬列主義」(マルクス・レーニン主義)を意味し、それが山賊チャンらによって転覆させられるのは、中国の社会主義が転覆していることを風刺しているとされます。
 また、ホアンが「アヘン密売、人身売買、遊郭経営、町民の搾取で富を一身に集めているさまは、自分の妻子を大企業トップに据え、特権で私腹を肥やし、女色に溺れる党幹部たちそのもの」であり、「そこに、中国の社会で一番欠けている「公平」を主張するチャンがやってくる」とされます(注2)。
 でも、前者のようなどうでもいいことを、中国人ならいざ知らず、他国に住む日本人がいくら言ってみても仕方がないでしょう(注3)。
 また、後者についても、せいぜいのところ悪代官を懲らしめる水戸黄門といった風情であり、どの国のどの時代にも見かける陳腐な構図に過ぎないのではないでしょうか?

 もっといえば、本作の舞台設定は辛亥革命後の中国とされているところ、こうした映画の作り方では、そんな時代背景は不必要に思えてきます。
 例えば、本作ではたくさんの銃が使われるものの(注4)、その時点であれば機関銃が登場してもおかしくはないのに出てきません(注5)。であれば、銃は刀に単純に置き換えられるのではないでしょうか?
 また、チャンの書記となったマーは、元々県令職を金で購入していたのですが、そんなことは特段その時代特有の話ではなさそうです(注6)。

 ですから、本作については、舞台設定や時代背景など何も気にすることなく、偽者の県令チャン一味と土地の支配者ホアンたちとの虚々実々の駆け引きを単純に楽しめば十分ではないかと思いました(無論、現代中国に対する風刺を読み取りたいのであれば、それはそれでなんら構いませんが)。

(3)ただそうなると、本作はいったいどこが面白いのか、ということになるでしょう(注7)。
 オフィシャルサイトのIntroductionに「中国・香港映画界を代表する豪華キャストが集結」とあるものの、クマネズミとしては、ホアンを演じるチョウ・ユンファを『シャンハイ』で見たくらいで(上海マフィアのボスのランティン役)(注8)、そう言われてもという感じです。
 また、ホアンは、自分の“そっくりさん”を替え玉(チョウ・ユンファの二役)として用意するとか、チャンの偽者を使って偽県令チャンを襲撃させるなどしますが、今更「影武者」でしょうか(注9)?

 だいたいが、Production Noteに「勝ち組であり不正な手段で儲けている資産家ホアンを、いち民間人であるチャンが翻弄するという痛快さ」とあるところ、実際のところは、金持ちを山賊が襲うというだけのことではないでしょうか(山賊がどうして「いち民間人」なのでしょう)?

 ただ、本作のラストシーンは、ホアンに対する戦いで勝利を収めたはずのチャンが、結束が固かった仲間から見放されて一人寂しく山間の道を進んでいくと、後ろから馬が引く列車(冒頭に登場する物と同じです)に追い越されます。馬車には上海(将来の繁栄を象徴しているのでしょう)に行く彼の元の仲間たちが乗っています。こんなところは、悪徳商人を倒したとしても、また元の黙阿弥になることを暗示していて、本作が単なるアクション映画に終わらない感じがするところでしょう(注10)。

(4)渡まち子氏は、「突拍子も無い作戦で、権力者に挑むギャングの物語から浮かび上がってくるのは、欧米で評価が高い政治色が強い中国映画と、活劇の勢いを大切にする香港映画を確信犯的にミックスさせ、隠し味として、検閲に悩まされる中国の映画製作への風刺ネタを仕込むしたたかさだ。なんだか正体が分からないものの、その折衷パワーに圧倒される、弾丸のようなエンタテインメントである」として70点をつけています。



(注1)実はマーは、自分が県令だと名乗ると殺されると思い、書記だと偽ります。

(注2)劇場用パンフレットに掲載されている中国映画通訳・翻訳家の水野純子氏のエッセイ「伝統的手法でやってのけた風刺への喝采」。
 他にも水野氏は、例えば、「六弟に無実の罪を着せて殺すフーやウーに、公安のやり口を見た思いの観客も多いはず」と述べていますが、まあ何を読み取るのも勝手ですがといった感じになります。

(注3)劇場用パンフレット掲載の監督インタビューで、監督のチアン・ウェンは、「中国人はどんなことにもどんなものにも、それこそ、食べ物にも飲み物にも政治的意味を読み取るからね。映画にそれを読み取るのは不思議でも何でもないよ」と述べているところ、何も日本人がまねをする必要もないでしょう!

(注4)ラストの方では、民衆の立ち上がりを促すために、チャンらは街の中央広場に、おびただしい数の銃をばら撒きます。
 なお、この場面につき、上記「注2」で触れた水野氏は、「銃や金銭で扇動してもついて来ない町の住民たちは、チャンが権力者を殺したと見るや、権力者の邸に押し寄せて財産を略奪する。この描写に、ブルジョア革命だった辛亥革命や新中国成立後の土地改革や文化大革命を連想するのはたやすい」と述べているところ、そんな光景は大昔からどこにでも見られたものですから「連想するのはたやすい」はずで、今更指摘するまでもないのではないでしょうか?

(注5)機関銃は、1861年の南北戦争で使われ、1905年の日露戦争では旅順要塞に対する攻撃で日本兵がロシア軍の機関銃に次々にやられてしまいましたし、1914年からの第1次世界大戦では陣地戦で猛威をふるいました。
 本作では、冒頭に登場する馬が牽引する列車に大勢の兵士が乗り込み、たくさんの小銃を窓から外に突き出して襲撃に備えていますが、機関銃があればこんなことは不要でしょう。

(注6)Wikipediaの記事によれば、「中国では富豪が朝廷への献金と引き替えに名目的な官位を授かる風習が清代まで見られた」ようで、また日本でもそうした風習(売官)はあったとされています(なお、劇場用パンフレット掲載の監督インタビューで、監督のチアン・ウェンは「盗官」と言っています)。

(注7)以上の見方は、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「弾丸よりも鋭利に飛ぶチアン・ウェンの映画魔術」において、映画評論家・暉峻創三氏が、「個々の場面に何かを象徴させる手法自体は、世界映画史の中でさして画期的な事ではない。それだけだったら国内的な文脈では興味深くても、映画として国境を越える力までは持ち得なかったろう」と述べていることにあるいは近いと言えるでしょう。
 ただ、クマネズミが申し上げたいのは、本作が「個々の場面に何かを象徴させ」ているとしたら、そのレベルは低いと言わざるを得ず、まして日本の観客にとってはそんなことはどうでもいいことであり、問題は、そんなことを差し引いてしまったらどこに面白さが残るのかということです。
 はたして本作は、暉峻氏がいうように、「一級のエンタテインメントに仕上がってい」て、「映画として国境を越える力」を持っているのでしょうか?
 暉峻氏は、同じエッセイで、本作について、その「短い台詞の応酬」とか「切り返し技」の使い方が「小津安二郎のそれに近いかもしれない」などと興味深い指摘をしていますが、仮にそうだとしても、まずは映画の物語それ自体の面白さが必要なのではないでしょうか?

(注8)ホアンの遊郭にいて、最後はチャンたちに協力するホアジェを演じるチョウ・ユンは、『孫文の義士団』に出演していました(写真館の娘の役)。




(注9)何も黒澤明監督の『影武者』まで出さずとも、『孫文の義士団』でも、孫文の身代りとして大商人リー・ユータンの息子が人力車に乗りこみ敵を惹きつけて、その隙に孫文を目的の会議室に運びこみます。
 なお、本作の初めの方で、チャンの仲間の六弟が、ホアンの部下のフーに無実の罪を着せられ、遂には腹を切って潔白を訴える場面が描かれるところ、これは日本の切腹を取り入れたものかと思いましたが、Wikipediaの記事によれば、「切腹は日本独特の習俗と言われるが、これに近い割腹自殺は中国にも存在する(中国語では「剖腹」と言う)」とのこと。

(注10)劇場用パンフレットのColumnで映画評論家のくれい響氏は、「ラストシーンは毛沢東の終焉と重なる、いかにも皮肉めいたものだといえる」と述べています。ここも風刺なのかもしれませんが、そう読み取りたければどうぞといった感じです。



★★☆☆☆




象のロケット:さらば復讐の狼たちよ

ブラック・ブレッド

2012年07月13日 | 洋画(12年)
 『ブラック・ブレッド』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)物語の舞台は、1940年代のフランコ政権下のスペイン・カタルーニャ地方(注1)。
 映画は、馬車を牽く男ディオニスが何者かに殺され、その子供クレットが乗る馬車が馬もろとも高い崖から突き落とされるところから始まります。
 この有様を見ていた11歳の少年アンドレウが主人公。アンドレウは、死ぬ間際のクレットが「ピトルリウア」(洞窟にすむ怪物に子供たちがつけた名前)と口にするのを聞き取ります。

 ところが、その怪物が引き起こしたとされていた事件の犯人として、アンドレウの父親ファリオルが警察当局に睨まれ、父親は姿を消します。



 ただ、母親フロレンシアは、父親が、殺されたディオニスと一緒に反政府的左翼運動に加わっていたがために、こうした事件に巻き込まれたのだと説明します。

 そして、父親の失踪で生活に困った母親は、アンドレウを祖母の家で引き取ってもらいますが、アンドレウはそこで奔放な従妹ヌリアを知ります。



 また、あろうことかフランスに逃げたはずの父親とも出会ってしまうのです。
 祖母の家に隠れ住んでいた父親は、結局、警察当局に探し出され連行されてしまいますが、その際に父親はアンドレウに「マヌベンス夫人に頼め」と言い残します。

 マヌベンス夫人とは?ここらあたりから、事件は違った様相を呈し始め、アンドレウはその中で翻弄されていきます。いったいどうなるのでしょうか、……?

 多感な11歳の少年が思いがけない事件に巻き込まれ、次第にその真相がわかるにつれて、彼の家族の真実の姿も明らかになってきます(注2)。それらをすべて自分でしっかりと見て把握しようとする少年アンドレウ(フランセス・クルメ)の大きな目がとても印象的でした。

(2)そんなところから、以前見たアルゼンチン映画『瞳は静かに』を思い出しました。
 その映画は軍事政権下のアルゼンチンが舞台で、主人公の少年アンドレスは8歳と、本作のアンドレウよりも若干幼いものの、本作のアンドレウと同じように、身近なところで何が行われているのか、彼の周囲の大人たちがそれにどのように関与しているのかが、瞳を凝らして見ているうちに分かってきてしまい(アンドレスが夜中に起きて、寝室の窓から、隣の駐車場で行われている出来事を見ているシーンが印象的です)(注3)、ラストの方では世の中を大層冷淡に捉えるようになっています。

 片やフランコ政権下のスペイン、片や軍事政権下のアルゼンチン、というように時代も舞台も異なっていますが、同じスペイン語の世界で同じような感じの映画が製作されているという点は、大層興味深いことだなと思いました。

 さらに、アンドレスの母親は夫と折り合いが悪く、反軍事政権派の男性と付き合っているところ、秘密警察の拷問を受けて運び込まれた女性の姿を見て、ショックを受けて病院を飛び出したところ、車に撥ねられて死んでしまい、また付き合っていた男も、秘密警察によって殺されてしまったようです。本作のアンドレウの父親も、次の(3)で申しあげるように当局に処刑されるようですから、内容的にもかなり両作は類似していると言えそうです。
 ですが、本作のアンドレウの両親の場合、左翼運動に関与したがために村八分的な目に遭ってきたとされる背後に、もっと別の事情のあることが次第に分かってくるのです(注4)。
 そんな観点からすれば、むしろ同じアルゼンチン映画の『瞳の奥の秘密』のように、最初の謎の背後にさらなる謎が隠されていたということになるのかもしれません。

(3)また本作は、全体としてとても暗い描写ばかり続きますが、気になった場面の一つに、当局に捕まった父親との面会が許可されアンドレウが母親と一緒に面会室に入る直前に、スペイン独特の鉄環絞首刑で処刑された囚人とその椅子が、遠景としてぼんやりと映し出されるシーンがあります(注5)。
 父親の言葉からばかりでなく、こうしたシーンからも、父親がやがて処刑される運命だとわかります。
 本作では、実際に父親が処刑される場面は描かれてはおりませんが、スペインでは1978年に死刑制度が廃止されたものの、本作の時代設定はフランコ政権下とされますから、ありうることだと思われます。

 なお、2007年の『サルバドールの朝』(DVDで見ました)は、スペイン最後の死刑を描いた映画で、恩赦の願いも空しく主人公は鉄環絞首台(ガローテ)で処刑されてしまいますが(注6)、こうしたシーンを見るたびに(注7)、死刑制度の存廃について考えてしまいます(注8)。

(4)渡まち子氏は、「嘘と欺瞞に時代の闇が重なるダーク・ミステリー「ブラック・ブレッド」。閉塞的な村社会の闇を子供の視点から描く物語にゾッとする」として70点をつけています。




(注1)ほぼ同時期を描いたものとして『ペーパーバード』を見たことがあります。

(注2)その結果、アンドレウはついに母親を拒否するようになりますが、寄宿学校の面会に出向いた母親が、アンドレウから「もうこなくていい」と言われ淋しく立ち去る姿は、邦画『KOTOKO』において、母親が見守る精神病院の窓に向かって滑稽な仕草をして帰って行く琴子の息子・大二郎の姿(母子の将来を感じさせます)とは対極的な感じを受けてしまいました。

(注3)アンドレスの場合、まだ性に対する関心は薄いのですが、本作のアンドレウの場合は、両親の性的行為とか、母親が町長に暴行されるところ、それに従妹のヌリアが裸で窓辺に立っている姿などを目にすることになります。

(注4)アンドレウの父親は、ディオニスと一緒になってマヌベンス夫人の弟ペレと関係を持った男に対して陰惨なリンチを加えたことがあり、その事実を隠すために(背後に、マヌベンス夫人の要請があったようです)、どうやらディオニスを殺害してしまったようなのです。
 父親は、黙って処刑される代わりに、アンドレウの面倒を見てくれるようマヌベンス夫人に要求します(アンドレウは、マヌベンス夫人の養子となって大学までの学費を出してもらうことになります)。

(注5)もしかしたら、鉄環を使った拷問がなされているだけなのかもしれませんが。

(注6)この映画では、看守が主人公サルバドール(ダニエル・ブリュール)と次第に心を通わせるようになりますが、他方、邦画の『休暇』では、休暇が欲しいために、死刑執行の際に落ちてくる身体を受け止める“支え役”を志願する刑務官(小林薫)の姿が描かれています。

(注7)これまでも映画では、各種の処刑場面がいろいろと描き出されてきました。
 中でも印象に残るのは、例えば、『グリーンマイル』における電気椅子シーン、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の絞首刑シーン、最近では『トゥルー・グリット』の最初の方で描かれる公開処刑の有様とか、『再生の朝に』の銃殺刑(寸前で止められますが)などでしょうか。

(注8)こんな場所で申しあげるのは甚だ場違いながら、言うまでもなく、悲惨な目に遭遇した被害者の遺族からすれば議論の余地はないでしょうし、また死刑制度の存置によって、殺人という重大な犯罪行為に対し抑制効果が働く側面は否めないものと考えられます(殺人罪以外にも内乱罪などに対して死刑が適用される可能性がありますが、戦後適用された事例はないので、ここでは考えておりません)。
 でも、国家によって認められた殺人行為である戦争が憲法によって禁止されている我が国においては、やはりもう一つの公認された殺人行為である死刑制度も廃止の方向で検討すべきではないかと考えられるところです。

 なお、死刑制度廃止国と存置国の数については、例えばこのサイトに記載があるところ、死刑廃止国が世界のほぼ3/4を占める状況となっているものの、死刑廃止国総数は2008年と比べ2010年は4カ国減少しているとのことです。




★★★★☆



象のロケット:ブラック・ブレッド

ミッドナイト・イン・パリ

2012年07月11日 | 洋画(12年)
 『ミッドナイト・イン・パリ』を渋谷ル・シネマで見てきました。

(1)昨年の『人生万歳!』をはじめとして、これまで何本も見ているウディ・アレン監督作品というので、だいぶ遅れてしまいましたが映画館に足を運びました。

 本作は実に他愛ない内容で、1920年代のパリを熱烈に愛するアメリカの青年が、婚約者とパリを訪れたところ、その当時のパリにタイムスリップし(注1)、憧れのフィッツジェラルド夫妻などと会ったりして、結局はパリに居着くことになるというものです。

 でも、それでは端折りすぎでしょう。
 もう少し述べれば、脚本家としてかなりの評価を受けているギルオーウェン・ウィルソン)は、婚約者イネズレイチェル・マクアダムス)の父親がパリに出張する際に、彼女やその母親共々その出張に同伴します。



 というのもギルは、常々パリを、それも特に1920年代のパリを愛しており、いつかはパリに移住したいとまで考えているからです。さらには、これまでの脚本家としての生活に虚しさを覚えていて、小説家への転身を図るべく現在処女作の執筆中というわけです。
 他方、婚約者のイネズはごく普通の女性、パリの名所旧跡を尋ね回りたいギルとは違って、宝石店とか家具店を探し回りたくてうずうずしています。
 そんなところに、彼女の男友達ポ-ルマイケル・シーン)もパリにガールフレンドを連れてやってきていて、彼女と偶然に出会うことに。彼は、半可通を絵に描いたような男、様々な事柄について持てる知識を披瀝しますが、細部になるとデタラメのようです(注2)。



 そんなこんなで疲れ果てたギルが真夜中のパリを独りで歩いていると、クラシックカーが突然現れ、彼を乗せてパーティー会場に案内してしまいます。
 会場に入ると、ナントそこでは1920年代に活躍した著名人が犇めいているのです。そこには憧れのスコット・フィッツジェラルドトム・ヒドルストン)が妻ゼルダアリソン・ピル)といるではありませんか!



 スコットに自分も小説を書いていると明かすと、彼はギルをガートルード・スタインキャシー・ベイツ)に引き合わせます。

 話はとんとん拍子に進み、ギルは、自分の書いている小説の批評をガートルードに頼む一方で、その場にいたパブロ・ピカソの恋人アドリアナマリオン・コティヤール)に一目惚れしてしまいます。



 さあ、ギルの運命はどうなることでしょう、アドリアナとの恋の行方は、婚約者イネズとの関係は、……?

 冒頭に、世界的に有名なパリの観光名所がまるで絵葉書のようにスクリーンに続けて映し出され、その後はパリで活躍した著名人のオンパレードですから、パリにそれほど肩入れしていない向きには何と言うこともない作品かもしれません。
 でも、こうもあっけらかんとウディ・アレン監督の趣味が映画の中で展開されると、見ている方は実に愉快になってきます。それに、最近も『コンテイジョン』などで活躍振りが窺えるマリオン・コティヤールがアドリアナ役で、『恋とニュースのつくり方』で若々しい魅力を振りまいていたレイチェル・マクアダムスがイネズ役として出演しているのですから堪えられません。

(2)「パリで活躍した著名人」と申し上げましたが、映画に登場する人物のうちフランス人は、画家のマティス、ロートレック、ゴーギャン、それにドガくらいにすぎません(注3)。
 他の大部分は外国人なのです。それも、イギリス人のT・S・エリオットや、スペイン人のピカソ、ダリ(注4)、ブニュエルなどを除いては皆アメリカ人です(注5)。
 それだけ、往事のパリの盛り場にはアメリカ人が溢れていたのでしょう。
 そして、その頃のパリのアメリカ人はすこぶる元気だったことでしょう。

 ですが、その中心人物の一人スコット・フィッツジェラルドは、1931年に発表した短編『バビロン再訪』で、当時のことを酷く苦い思い出として描き出しています。
 例えば、主人公のチャーリーが、3年ぶりにパリのリッツ・ホテルを訪れると、バーのマスターのポールが挨拶にやってきます。
 「「すっかり変わっちまいました」淋しそうにポールは言った。「今じゃ昔の半分くらいしか商売がございませんからね。アメリカに帰って何もかもなくした方もずいぶんいらっしゃるそうじゃありませんか。最初の暴落で助かった方も、二度目の奴でやられたらしいですね。お友達のジョ-ジ・ハートさん、あの方も一セント残らず、きれいになくしなさったとかって。あなたもアメリカに帰ってらしたんですか?」……」〔『フィツジェラルド短編集』(野崎孝訳、新潮文庫P.279)〕。

 フィッツジェラルドに心酔しているはずのギルだったら、大恐慌後のフィッツジェラルドの行動や心情をよくわかっているに違いありません。なのに、どうしてギルは、浮ついた気分に浸っているパリのフィッツジェラルド(注6)ばかりを夢見てしまうのでしょうか?おまけに、ギルの雰囲気からすれば、フィッツジェラルドのようにどんちゃん騒ぎを好むようにも見受けません(注7)。
 映画は、ギルの夢が覚めないままで終わることになります(注8)。

(3)渡まち子氏は、「華やかなパリとその周辺の観光スポットをたっぷりと取り込みながら、それを物語に絶妙に生かす美技に酔いしれるのは、観客にとって至福だ。クセがあるコメディ・センスと大量のセリフ、皮肉と自虐が満載のアレンの作品は、見る人を選ぶ。だが本作は、アレン初心者にも優しい、ソフトな作りなので、安心して楽しんでほしい」として80点をつけています。




(注1)ご大層なタイムスリップというよりも、むしろ主人公が常日頃から見たかった夢を見たといったところでしょうか。
 その意味で、酷く飛躍はしますが、つい最近見ました『あんてるさんの花』で描かれている幻と同じことになるのではないでしょうか?あるいは、『あんてるさんの花』において睡眠導入剤ともなっている「忘れろ草」に相当するのが、本作における真夜中0時の鐘の音なのかもしれません。

(注2)ポールは、ロダンの「考える人」のところでロダンにかかる蘊蓄を披露したところ、ロダン美術館のガイドに間違いを指摘されてしまいますが、このガイドに扮しているのが、なんと先のフランス大統領サルコジ氏夫人のカーラ・ブルーニ



(注3)マティスを除く3人は、むしろベル・エポックの時代に該当します。
 なお、本ブログでは、ゴーギャンについてこのエントリで、ドガについてはこのエントリで触れています。

(注4)ダリに扮しているのは、『戦場のピアニスト』(2002年)で著名なエイドリアン・ブロディ。彼は、このブログで取り上げています『キャデラック・レコード』の主役を演じています。
 なお、本ブログでは、このエントリでダリについて触れています。



(注5)本作に登場しない著名人としては、例えばジェ-ムス・ジョイスとか藤田嗣治でしょうか。

(注6)『バビロン再訪』の主人公チャーリーと作者のフィッツジェラルドとを軽々に同一視することはできませんが、好況の時のチャーリーは、「1曲演奏させるためだけにオーケストラに千フラン紙幣を何枚も与えたり、タクシーを呼ばせるためにドアマンに百フラン紙幣を何回もつかませたり」したとされています(新潮文庫P.249)。

(注7)フィッツジェラルドが、小説で行き詰まってからハリウッドの売れない脚本家になったのとは逆に、ギルは脚本家として成功してから小説家になろうとしているというように、ギルはフィッツジェラルドとは逆向きのベクトルを持たせられているようです(もっと言えば、ヘミングウェイの『移動祝祭日』の「鷹は与えない」で描かれるフィッツジェラルドの妻ゼルダは、下記の「注8」で触れますガブリエルとは対極的な人物であったようです)。

 さらに、本作とフィッツジェラルドとの関係については、興味深い点があります。一方で「ニューヨークこそが私の故郷なんだ」と言いつつも〔『マイ・ロスト・シティ』(村上春樹訳、中央公論新社)P.251〕、他方で一家を挙げて何度もパリへ大旅行しているフィッツジェラルドと同じように、ウディ・アレン監督は、一方で「もちろん僕はニューヨークを贔屓にするけど、それは僕があそこで生まれ育ったからだ」と言いつつ、他方で「もしニューヨークに住んでいなかったとしたら、僕が一番愛する街はパリだよ」とも言っています(劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」)。

(注8)友人のポールと寝てしまった婚約者イネズと分かれてギルはパリに残ることにし、アレクサンドル三世橋を歩いていると、アンティークショップで働くガブリエルレア・セドゥー)と再会し(コール・ポーターのレコードが店に置いてあったことから、ギルは彼女に一度出会っています)、一緒に連れ立って雨の中を歩いて行きます。きっと二人は結ばれることでしょう。



 これでギルはパリに“移住”することになるでしょうが、フィッツジェラルドの方は、はたしてフランスに“移住”しているのでしょうか?
 というのも、劇場用パンフレットに掲載されている「主人公ギルが真夜中のパリで出会う芸術家たち」という記事において、フィッツジェラルドにつき「1924~30年まで、ゼルダと娘とともにフランスへ移住する」とあるからですが。
 そこで、『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』(村上春樹著訳、中央公論新社、2007年)に掲載の「スコット・フィッツジェラルド年譜」から、ヨーロッパ関係の事柄を拾い出してみると、あらまし次のようです。
・1921年……5月、ゼルダとフランス等に旅行し、7月帰国。
・1924年……4月、一家で2度目のヨーロッパへ(翌年12月、帰国)。
・1928年……4月、3度目のヨーロッパへ。9月帰国。
・1929年……5月、またもヨーロッパに移り住む(1931年9月、帰国)。
 これからすると、スコット・フィッツジェラルドは、1921年から10年ほどの間に断続的に4回ヨーロッパに旅行するところ、1924年と1929年の場合は、1年9ヶ月と2年5ヶ月というようにかなり長期のものでしたが、でもどの旅行もアメリカに帰国していますから、全体として“移住”とまではいえないのではないか、少なくとも「1924~30年まで、ゼルダと娘とともにフランスへ移住する」との表現は誤解を招くのではないか、と思います(むろん、“移住”の意味の取り方次第でしょうが)。




★★★★☆



象のロケット:ミッドナイト・イン・パリ

外事警察

2012年07月05日 | 邦画(12年)
 『外事警察―その男に騙されるな』を渋谷TOEIで見ました。

(1)本作は、NHKTVドラマの劇場版であり、以前『セカンドバージン』で懲りていますから二の足を踏んでいたものの(なおかつ、TVドラマも見てはおりませんし)、評判がよさそうなので遅ればせながら見てきました。

 国際テロを未然に防ぐ目的で警視庁に作られたのが外事警察(公安部外事4課)。そこに所属する住本渡部篤郎)は、任務遂行のためには何でもやってしまうため「公安の魔物」と呼ばれています。



 その彼が、やり過ぎを恐れる警察から追放されていたところ、北朝鮮にあった濃縮ウランが行方不明になったという情報がもたらされたことから、呼び戻されます〔彼の下に、松沢尾野真千子)らの専従班が付きます(注1)〕。



 他方で、軍事機密のレーザー点火装置も、東北の大学から盗まれます(3.11の被災による混乱の中で)。
 これらを組み合わせると、広島・長崎に落とされたものを越える核爆弾が製造可能となり大規模なテロが引き起こされるおそれがあるということで、住本は韓国に渡り、その研究の第一人者である朝鮮人科学者・田中泯)の身柄を確保し日本に連れて帰ります(徐は、日本で研究活動に従事した後、祖国の北朝鮮に戻っていたところ、同じ時期に韓国に連れ去られていました)。
 盗まれたレーザー点火装置が韓国に運ばれたことがわかり、また身柄を確保していた徐も、再び何者かに韓国に連れ去られてしまいます。盗まれた濃縮ウランも韓国内にあるようですから、どうやら韓国のどこかでこれらの3つが一緒になるようです。なんとか核爆弾の製造を阻止しないと大変なことになります、いったい住本たちはどのような手を打つのでしょうか、……?

 米ソ対立が解消された後、シビアなスパイ物はなかなか成立し難かった感じですが(注2)、北朝鮮という国家の存在が、リアリティのあるスパイ物を日本で蘇らせたというのは随分と皮肉なことです(注3)。
 ただ、ノーテンキな日本vs北朝鮮ではまだ不十分だとして、間に韓国を介在させたことが〔韓国のNIS(国家情報院)の潜入捜査官安民鉄キム・ガンウ)が絡んできます〕、本作にかなりの迫真性をもたらしている理由なのかもしれません(注4)。

 「公安の魔物」とされる住本を演じる渡部篤郎が醸しだす非情さは随分と説得力があるところ、本作は、北朝鮮の工作員の妻を演じる真木よう子の存在感は目を見張らせるものがありました(注5)。




(2)核爆弾をテロに使うというと思い出されるのが、最近では『4デイズ』でしょう。そこでは、全米にいくつかの核爆弾を密かに設置して米国政府に強硬な要求を突きつけるテロリストと、それを阻止しようとするFBI捜査官らが描かれています。ただ、この作品では核爆弾自体はすでに完成していて、その後のことが中心的に描き出されます。

 核爆弾の製造自体を描いたものとしては、例えば、『太陽を盗んだ男』(長谷川和彦監督:1979年)が挙げられるでしょう。
 御存じの方が多いと思いますが、物語のあらましは次のようなものです。
 中学の理科教師・城戸沢田研二)が、茨城県東海村の原子力発電所から液体プルトニウムを略奪、アパートの自室で原爆を完成させて、日本政府を脅迫します。
 その際城戸は、バスジャック事件でその人柄を知った警部山下菅原文太)を交渉相手とし、「プロ野球のナイターを試合終了まで中継すること」、「ローリング・ストーンズの日本公演」さらには、「現金5億円」を要求します。
 はたしてこれらの要求は、実現されるのでしょうか、そして城戸の運命は、……?

 この映画は、原爆を使って政府を脅すという随分と重い題材を扱っていながらも、人を食った要求事項のみならず、随所に滑稽な場面が挿入されていたりして、決して一筋縄ではとらえきれない面白さがあります(注6)。
 ただ、本作との関係からすれば、原爆製造という点に興味が引かれます。
 というのも、『太陽を盗んだ男』においては、城戸がさかんに「プルトニウム239さえあれば、原爆など誰でも簡単に製造できる」と公言するのです。さらに彼は、東海村の原子力発電所に忍び込んでプルトニウム239を奪い取り、自宅で原爆を作ってしまうわけですが、仮にそんなに簡単に製造できるのであれば、本作のように大仰なこと(世界的権威の科学者・徐の誘拐など)にはならないのではと思われるところです。

 ただこの点を巡っては、Wikipediaの『太陽を盗んだ男』のに、次のような興味深い記述が見られます。
 「城戸の作った原爆は劇中の設計図や製造過程から爆縮式(インプロージョン式、長崎型)であることがわかるが、爆縮式原爆において極めて重要な部分である爆縮レンズの構造については触れられていない。形状、材質、細かな構造から見ても、全く同じ物を製造しても火薬の爆発の力がプルトニウム・コアに均等に伝わるとは考えにくい。したがってこの爆弾を作動させても核反応は起こらず、限られた狭い一定範囲にのみ火薬自体の爆発による破壊が起こるだけであろう。しかし、プルトニウムが爆発によって飛散することで、周囲のそれなりの範囲が放射能汚染されること(=汚い爆弾)は予想できる」。

 要するに、「爆縮レンズ」の構造が問題であり、『太陽を盗んだ男』で作られるものでは原爆として爆発せず、実際にそうしようとすれば、本作のように「レーザー点火装置」のような特殊な物が必要なのかもしれません(注7)。とすれば、その意味でも、本作は、かなりのリアリティを持っているのではと考えられるところです(注8)。

 とはいえ、本作において科学者の徐が作り上げる核爆弾はかなり大きな装置となっていて、テロリストがテロに使うには手に余ってしまい、とても実用的(?!)とは思えません(注9)。
 そういう点からすれば、『太陽を盗んだ男』が描くようなサッカーボールくらいの大きさで、ボーリングバッグに入れて持ち歩けるくらいの重量のものが仮にも製造可能であれば、人類にとって計り知れない脅威となることでしょう。

(3)渡まち子氏は、「物語はTVドラマがベースなだけあって、スピーディで飽きさせない。ドラマ未見の観客にも分かりやすく作ってある。善と悪の二面性を持つ主人公・住本のキャラクター造形も魅力的だ」などとして70点をつけています。




(注1)尾野真千子は、『トロッコ』が印象的なところ、本作では住本(渡部篤郎)の方針に反対する班員という役柄か、余りその良さが出ていないきらいがあるように思えました。
 なお、班員の中には、このところあちこちで見かける渋川清彦が入っています(本年6月13日のエントリの「注4」をも参照してください)。

(注2)むろん最近でも、『ミッション・インポッシブル』とか『ソルト』などがあるものの、なんだか米ソ対立時代の残り滓のような印象を受けてしまうところです。

(注3)日本を舞台にしたスパイ物としては『レイン・フォール 雨の牙』がありますが、単に舞台が日本というに過ぎず、それもCIA絡みですから、本作は純日本的な本格的スパイ物の成立をあるいは意味するのかもしれません〔尤も、市川雷蔵主演の『陸軍中野学校』(1966年)などがあるようですが、未見です〕。

(注4)軍事機密のレーザー点火装置盗難に絡んでいた会社社長(その妻・香織に扮するのが真木よう子)の右腕になっていたのが安民鉄で、住本が、香織を通じて、密かにレーザー点火装置に発信機を取り付けようとしたところ、すでに安民鉄は同装置を韓国に送り込んでしまっていました。
 実はその前に、安民鉄はすれ違いざまに住本の腹を刺して、自分たちの行動を妨げるようなことをするなという警告を外事警察に与えていたのです(「お前らが取り扱えるものじゃないんだ!」「お前らにできることは邪魔をしないことだ」と言った捨て台詞を安民鉄は住本に投げつけます)。

(注5)渡部篤郎については、『重力ピエロ』や『愛のむきだし』、『ゼブラーマン』くらいしか見ていませんが、本作の演技は圧倒的です。また、真木よう子は、最近では『源氏物語』とか『モテキ』を見ましたが、その演技の幅の広さにはつくづく感心させられます。

(注6)例えば、城戸が、東海村の原子力発電所に海の方から接近し、そればかりか貯蔵施設の中に入り込んで液体プルトニウムを抜き取り背負って逃げる姿は随分とおかしく、実際にはあり得ないことながら、まあいいかと許してしまいます。

(注7)『太陽を盗んだ男』では、液体プルトニウムから金属プルトニウムを作り出す過程がやたらと細かく描き出されている一方(その過程で、城戸はかなりの放射線を浴びることになります)、爆縮レンズに係るもの(爆弾の外壁とか点火装置など)は、その構造が大層複雑なものになるはずにもかかわらず、すでに出来上がっているとして描かれているにすぎません。

(注8)本作では、北朝鮮から持ち出されたのが「プルトニウム」ではなく「濃縮ウラン」とされていることからすると、核爆弾のもう一つの型(ガンバレル型←広島に投下された物)を作ろうとしているとも考えられますが、ラストに登場する核爆弾の形状からすれば、明らかにインプロージョン型だと思われます。

(注9)徐は、自分の目的(世の中をとにかく変えたい)を達成するために、注文主の要求を度外視してこんな装置を作ってしまったのではないでしょうか?
 ちなみに、『4デイズ』の場合は、運搬台車で運べるくらいの大きさです。




★★★☆☆





象のロケット:外事警察