映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

怒り

2016年09月30日 | 邦画(16年)
 『怒り』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)同じ原作者の小説を同じ監督が手掛けた『悪人』(2010年)がなかなか良かったので、本作もと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、空中から見た街(八王子)の光景。蝉の声が高まる中、カメラは次第に一軒の家に近づきます。なんと、その家の浴室では人が殺されているのです。一体(女性)は、浴槽の中に、もう一体(男性)はその外に。その家に住む夫婦が殺されたようです。
 八王子署の刑事が、血の付いた包丁を見つけ、またドア(注2)に書かれた「怒」の文字を見て「これ、ガイシャの血かな」などと言ったりします。

 場面は変わって、洋平渡辺謙)は、新宿の歌舞伎町で、NPOの保護センターの男と会います。その男は、洋平の娘の愛子宮崎あおい)について、「ウチの職員が発見した時には、ギリギリの状態でした。彼女は、客の要求をどんなものでも聞いてしまうので、おもちゃみたいに扱われ、壊れてしまっています」と話します。
 そして、洋平は、風俗店のベッドで横になっている愛子を見つけます。
 愛子は、目を開けて洋平を認めると、「お父ちゃん」と言います。



 2人は千葉の家に戻ることに。
 列車の中で、洋平が「晩飯どうする?寿司でもとるか?」と訊くと、愛子は「お父ちゃんのオニギリがいい」と答えるので、洋平は「そんなもんでいいのか?」と驚きます。
 また、愛子は耳にしていたイヤホンの一つを、「これ、前に言っていた東方神起」と言いながら洋平に渡します。
 そんな愛子は、漁協で働く田代松山ケンイチ)に出会います。



 場面が変わって、東京にあるクラブに設けられているプールの周りで、ゲイたちがワイワイ騒いでいます。
 その中に優馬妻夫木聡)がいます。仲間が「この後、新宿に」と誘いますが、優馬は「今日、俺、いいわ。残業が続いていて、家でゆっくりしたい」と断ります。
 続いて、ホスピスの病室。優馬の母親(原日出子)がベッドで目を覚まします。そして、「いつきたの?」と訊くので、優馬は「今さっき、15分前かな」と答え、さらに母親が「今、温泉の夢を見ていた。秋田かな、思い出せない」と言うので、優馬は「また行けばいいよ」と応じます。
 そんな優馬は、ある日、クラブで直人綾野剛)に出会います。



 更に場面が変わって、沖縄の離島で暮らすようになった広瀬すず)は、クラスメートの辰哉作久本宝)が操縦するボートに乗って、無人島に向かいます。
 島に着くと2人は上陸し、泉が「島の中、見て回ってもいい?」と言うので、辰哉は「いいけど、俺は、あっちで昼寝する」と答えます。泉が「一緒に行かないんだ」と言うと、辰哉は「行ってもいいけど、一人でブラブラしたいのかと思って」と答えます。
 そんな泉は、その無人島で田中森山未來)と出会います。



 東京・八王子で殺人事件があった後、千葉、東京、沖縄の3箇所で、それぞれの物語が動き出しますが、さあ、この後どんな展開になるのでしょうか、………?

 本作は、八王子で起きた夫婦惨殺事件を巡るもの。容疑者に酷似する3人の男がそれぞれ織りなす3つの物語から構成されています。編集の冴えと、3人の男を演ずる俳優のみならず、彼らを取り巻く人物を演じる俳優たちの堅実で素晴らしい演技によって、3つの物語相互に何らつながりはないものの、見る方は、全体としてまとまりのある一つの物語として受け取ることになります。色々問題点はあると思いますが、制作者側の意気込みを強く感じさせる作品だと思いました。

(以下は、本作がサスペンス物であるにもかかわらず、ネタバレしていますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作においては、テレビの未解決事件を取り上げる特別番組「逃亡犯を追え」で八王子の殺人事件が取り上げられ(注3)、容疑者・山神の整形後の写真などが画面に映し出されます。
 その顔写真に、田代や直人、田中の3人の顔が酷似するところから、3つのバラバラに展開する物語(千葉編、東京編、沖縄編)が、見る方にはつながりがある一つの物語のように思えてきます。こんなところは、映画ならではの効果と思われます(注4)。

 さらに、千葉編における渡辺謙、宮崎あおい、そして松山ケンイチ、東京編における妻夫木聡と綾野剛、沖縄編における森山未來、広瀬すず、そして作久本宝が、それぞれ各パートで熱演しており、その熱気が他のパートにも波及して、全体がつながりのある作品のように見えてくる感じがします。

 モット言えば、千葉編、東京編、それに沖縄編のそれぞれのシーンが、大層効果的に編集され巧みに交互につなぎ合わされていることも、全体がなかなか緊迫感溢れる作品に仕上がっているように思いました(注5)。

 とは言え、よくわからない点もあるように思います。
 特に、タイトルの「怒り」です。
 確かに、冒頭の八王子の事件では、ドアに「怒」の血文字が書かれ、沖縄の無人島の廃墟の壁にも「怒」の文字がかかれていますから、タイトルが「怒り」とされていることもわからないわけではありません。
 でも、それを書いた者がなぜその文字を使ったのかということになると、あまり釈然としません。
 八王子の事件の容疑者・山神については、同じ職場にいた男(水澤紳吾)が「山神は、その家の主婦から冷たい麦茶を出され、同情されたことに腹を立てて殺した」と証言しています。でも、そうだとしたら、そんなことで「怒」の血文字を書くのでしょうか?それも、ことさらに大きな文字で。容疑者・山神は、一体誰に何をアピールしているのでしょうか?

 他方、沖縄の無人島の「怒」の文字については、あるいは沖縄に置かれている米軍基地に対する「怒」なのかも知れず、それならわからないこともありません。
 でも、そのことから本作のタイトルを「怒り」とすると、本作はかなり政治的意図を持った作品と受け取られかねないように思われます。それに、田中がそんな政治的な行動をするようにも、映画の中では描かれていません。

 そうではなく、泉が受けた理不尽な暴力に対する「怒り」なのかもしれません。
 それはそれで理解できるかもしれません。ただ、本作を見ていると、泉が、いくら内地から来て沖縄の実情を知らないとしても、いくら元気いっぱいの女子高生としても(注6)、あの位の年齢にしてはあまりにも無警戒過ぎて、配慮がなさすぎるように思えてしまいます(注7)。
 そして、田中は、泉が受けた暴力を見ていて知っているのです(注8)。にもかかわらず、「怒」とはよくわからない感じがします。
 まあ、田中は、サイコパスとして、衝動的にいろいろなものに「怒り」の感情をぶつける人間なのかもしれません(注9)。ただ、そうだとしたら、タイトルを「怒り」とするのは、どんな意味があるのでしょう?

 あるいは、千葉編とか東京編にも「怒り」を見出すことができるのでしょうか?
 クマネズミには、本作全般にわたって見出せるのは、「怒り」よりもむしろ「信」の方ではないかと思えました。
 愛子は田代を信用しきれずに警察に通報してしまいますし、優馬は直人を信用できずに手放してしまいます(注10)。また、辰哉は信用していた田中に大きく裏切られてしまいます。
 ただ、もしかしたら、近しい人を信用し続けることができなかった自分に対する「怒り」、あるいは信用を裏切った相手に対する「怒り」というところから、本作のタイトルが付けられているのかもしれませんが。

(3)渡まち子氏は、「「悪人」でタッグを組んだ原作者の吉田修一と、李相日監督が放つ「怒り」は、3つの物語を通して、人を愛すること、信じることの意味を問いかける」作品であり、「見る側にも力を要求するヘビーな映画だが、間違いなく見る価値がある力作ドラマである」として70点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「これは構成の映画といえる。冒頭の殺人事件の真犯人が誰かというサスペンスに支えられた流れの中で、事件と無関係の2つの物語をいかに関連あるように見せるかが肝要である。1つの物語の音声が別の物語に重ねられ、各物語が信/不信のテーマに巧みに収斂していく様は見事である」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 りんたいこ氏は、「俳優たちから従来とは違う表情を引き出し、三つの独立した話を違和感なく一つにまとめあげた李監督の手腕に、改めて感服した」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『許されざる者』の李相日
 原作は、吉田修一著『怒り』(中公文庫)。
 原作は、完全なフィクションとはいえ、リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件を踏まえているのでしょう。

 出演者の内、最近では、渡辺謙は『GODZILLA ゴジラ』、宮崎あおい高畑充希は『バンクーバーの朝日』、松山ケンイチは『の・ようなもの のようなもの』、妻夫木聡は『殿、利息でござる!』、綾野剛ピエール瀧は『日本で一番悪い奴ら』、広瀬すずは『ちはやふる 上の句』、森山未來は『人類資金』、三浦貴大は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』、原日出子は『リップヴァンウィンクルの花嫁』、愛子の従姉妹の明日香役の池脇千鶴は『きみはいい子』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレットの「Production Notes」の「千葉」では、「ドアに殴り書きされた「怒」の血文字」とありますが、「美術」の都築雄二氏は、「八王子の殺人現場の残されていたのは白い壁に血文字の赤い「怒」でした」と述べています。「ドア」か「壁」か、いずれなのでしょう?ちなみに、原作小説では「この凶行の場となった廊下に血文字が残されていた」(文庫版(上)P.8)とされていて、「ドア」とも「壁」ともわかりません。

(注3)TVの特番を見ながら、八王子署の刑事(ピエール瀧)は、「1年も逃げおおせている」「視聴率が高いといいが」などと言い、もうひとりの刑事(三浦貴大)も、「新宿2丁目で目撃情報があったからと言って、新宿に潜伏しているとは限らないのでは?」などと言っています。

(注4)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、「美術」の都築雄二氏は、「指名手配写真を謎解きの道具にするのではなく、視覚的にストーリーを語るための映画的方法論のひとつとして提示しています」と述べています(具体的には、指名手配の写真を各シーンごとに差し替えている―例えば、千葉編では松山ケンイチ似の写真を使う―とのこと)。

(注5)ただ、冒頭の八王子の殺人事件の場面では、犯人が裸で家の中を動き回ったりするシーンが挿入されていますが、その姿から3人の男の中で誰が犯人なのかある程度推測がついてしまうおそれがあるように思います。

(注6)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、李監督は、「彼女(広瀬すず)が秀でているのは、その熱量なんですね」と述べています。

(注7)辰哉と行った無人島では独りで島内を探検しますし、その際に田中に出会っても無警戒に言葉を交わします。さらには、那覇の暗い夜の街を、辰哉の後をどこまでも追いかけてしまい、その結果、大変な目に遭うことになるのです。

(注8)さらには、田中は、「逃げずに最後までやれよ米兵」などという文字を壁に書きつけていますし、辰哉にも、「俺、結構、最初から見ていた。なのに、オヤジがポリースと叫んだ。逃げないで、最後までやれよ」と喋るのです。

(注9)田中は、しばらくは、辰哉の両親が営む民宿の手伝いを大人しくしていますが、突如として、客の荷物を大層ぞんざいに扱ったり、さらには、厨房の中をめちゃくちゃに破壊したりします。

(注10)優馬は、直人が喫茶店で女性(高畑充希)と一緒にいたことを詰り、その結果直人は優馬の前から姿を消してしまいます。ただ、その女性は、後で優馬に会った時に、直人と同じ施設で育ち、自分たち二人は兄妹のような関係だったこと、さらに、直人が心臓病の持病で亡くなったことまで話すのです。これを聞いた優馬は、強い後悔の念に苛まされます。



★★★☆☆☆



象のロケット:怒り

だれかの木琴

2016年09月28日 | 邦画(16年)
 『だれかの木琴』をシネマート新宿で見ました。

(1)常盤貴子池松壮亮が共演する作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、メゾネットタイプの家が立ち並んでいる早朝の光景が映し出され、その内の1軒に明かりが灯り、居間のカーテンが開かれ、海斗池松壮亮)が自転車を外に出します。一旦、居間の戸が閉められ、今度は、玄関のドアが開けられて海斗が出てきます。海斗は自転車に乗って外を走ります。

 海斗は、外から戻ってくると、食事の準備をし、2階に向かって「できたよ―」「早くしないと遅れるよ」と叫びます。
 すると、2階から佐津川愛美)が降りてきて、テーブルにつきます。
 彼女は、「じゃがいもの味噌汁だ」「おいしい」と言い、海斗は「スーパーで売っているダシだけど」と応じます。
 その後、唯は「また来週」と言って家を出、海斗も「連絡する」と答えて、外にある自転車を家の中に入れます。

 場面は変わって、美容室のMINT。
 サイレンが鳴るので、客の小夜子常盤貴子)が「火事かしら?」と尋ねると、美容師の海斗は「駅前みたいですね。今日はこれで2回目ですよ」と答え、小夜子が「放火かしら?」と訝しがると、海斗は「でも、真っ昼間の放火って」と言い、小夜子も「変ねー」と応じます。

 終わって、海斗が「お疲れ様です」と言いながら、手持ち鏡を使って後ろの仕上がり具合を見せると、小夜子は「結構です」と言います。
 受付で、小夜子が料金の2,500円を支払うと、海斗が「メンバーズカードです」と言ってカードを差し出します。
 小夜子は、「あたし、ここに越してきたばかりで。偶然、このお店見つけたの」と応じます。そして、海斗が差し出した名刺を見て、小夜子は「やまだかいとさんとおっしゃるの、綺麗ないい響きね」と言います。



 これが小夜子と海斗との最初の出会いですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、夫が働き盛りで仕事に集中しており、一人娘も中学生で手がかからなくなった中年女性を巡る物語。郊外の一軒家に引っ越してきて落ち着いて安定した生活を送れるはずのところ、心の空洞にイケメン美容師が入り込んでしまいます。よくありそうな話で、少々ダレる感じもしますが、常盤貴子と池松壮亮の魅力で、2時間近くの映画を引っ張ります。

(2)本作における小夜子たちの家の状況が、前回取り上げた『オーバー・フェンス』における白岩の東京での家の状況にやや類似するのではという気がしました。
 同作できちんとは描かれていないものの、話からすると、白岩(オダギリジョー)は、仕事にかまけて家のことを妻に任せきりにしたら、ある日帰宅すると、妻が子どもの顔の上に枕を押し付けているのを発見したとのこと(注2)。
 本作における小夜子の家でも、夫・光太郎勝村政信)が仕事に脂が乗ってきて副部長職に昇進かと噂されていて、家のことよりも会社のことの方が気になる様子です(注3)。



 また、一人娘のかんな木村美言)も中学生になって、親の手から離れつつあります(注4)。
 家族間のコミュニケーションが、白岩の家と同様に、かなり希薄になっているようです。
専業主婦の小夜子には、身の持って行き場がない感じが強く漂っています(注5)。
 そんなところから、海斗からメールを受け取ると、彼が自分に対し濃密なコミュニケーションを取ろうとしているのだ、と小夜子には思えたのでしょう(注6)、彼女は、自分ではそれと知らずに、海斗に対しストーカー的な行為に及んでしまいます(注7)。



 本作よりもさらに状況が厳しくなっているのが、以前見たことがある『家族X』(2011年)ではないか、と思います。
 同作においては、夫・健一田口トモロヲ)がリストラ寸前で、家の中でもほとんど話しませんし、一人息子・宏明郭智博)も大学卒業後正社員になれずに派遣職員としていろいろな職場を転々とし、これまた家の中では口を開きません。
 家族の間におけるコミュニケーションが、殆ど取れなくなってしまっています。
 そして、ある時、妻・路子南果歩)は、台所の物を次々に放り投げたかと思うと、いきなり外に飛び出して、あてもなくドンドン歩いて行ってしまうのです(注8)。

 『家族X』で描かれているのは、本作の小夜子の家の状況がモット進んだ段階を表しているように思えてきます。小夜子の家においても、家族相互のコミュニケーションがうまくとれなくなっているとはいえ、それでも『家族X』ほどではない感じがします。
 そして、『家族X』では、ラストで、夫・健一は妻・路子を、昔家族でよく行ったことのあるレストランで発見し、一応の決着を見るとはいえ、本作における娘・かんなのように(注9)、家の状況を心配してなんとかしようとする存在を見いだせないために、本作のラストほどにはその将来に光明を見いだせないように思えます(注10)。

 全体として、本作では随分と範囲の狭い舞台で起こることが繰り返し描かれるために、2時間弱の作品としては少々ダレた感じがするものの、相変わらず美しい常盤貴子と若さ溢れる池松壮亮の魅力によって、映画を引っ張っていきます(注11)。

(3)毎日新聞の細谷美香氏は、「小夜子の行為はストーカーと呼ばれても仕方のないものだが、映画はわかりやすいサスペンスには舵(かじ)を切らず、彼女を断罪する気配もない」、「超自然的な動きをするブランケットが小夜子を包むシーンに、東監督のみずみずしい感性とヒロインに寄り添う優しさを感じた」などと述べています。


(注1)監督・脚本は、『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』の東陽一
 原作は、井上荒野著『だれかの木琴』(幻冬舎文庫:未読)。

 なお、出演者の内、常盤貴子は『汚れた心』、池松壮亮は『セトウツミ』、佐津川愛美は『ヒメアノ~ル』、勝村政信は『龍三と七人の子分たち』、河井青葉は『二重生活』で、それぞれ見ました。

(注2)驚いた白岩は、妻と子どもを連れて妻の実家に行きますが、結局は離婚するに至ります。

(注3)さらに、夫の光太郎は、倦怠期にもあるのでしょうか、街で行きずりの女(河井青葉)と会うと、ホテルに直行したりします。

(注4)例えば、かんなは学校から帰ると、小夜子に「合唱コンクールの練習があった」と手短に報告し、「おやつは2階で食べる」と言って、さっさと自分の部屋に入ってしまいます。

(注5)最初の美容院から戻ると、男が「お邪魔いたします」と言いながら、突然家に上がり込んできます(鍵を開ける音はしません)。その男が、小夜子を見て、「美容院に行きました?」と尋ねると、小夜子は「ええ、初めてのお店」と答えます。男は「いい匂い」と言って、ソファーに座る小夜子に抱きつきます。しばらくして、その男は「じゃあ行くよ。髪、すっきりしてる」と言って玄関の方に行き、小夜子は「ありがとう。いってらっしゃい」と応じます。
 これは実に不思議なシーンです。というのも、この男は、小夜子の夫の光太郎なのですから!
 クマネズミには、このシーンは、小夜子の願望(夫にもっとかまってもらいたい)による幻想ではないかと思えてしまいます(あるいは、イケメン美容師の海斗にときめいてしまった自分を罰するために、このようなシーンを妄想したのでしょうか?)。

(注6)海斗から「またのご来店をお待ちしてます」とのメールが小夜子の携帯に入ったのに対し、小夜子は「今日のカットとシャンプー、とても気に入っています。今後とも宜しくお願いします」と返信します。それを見たMINTの店長(日比大介)は、「営業メールにレスとは珍しいな」と驚きます。

(注7)海斗は優しい性格なのでしょうか、唯という恋人がいるにもかかわらず、小夜子のストーカー的な行為に対して、それほど拒絶的な態度を取りません。業を煮やした唯は、小夜子の家にまで乗り込むものの、事態が解決しないとなると、海斗から身を引いてしまいます。

(注8)『家族X』の路子の場合は、自分に対しコミュニケーションをとってくれる人間が周囲になかったために、外に飛び出して目的もなしに歩き回るという行為になったものと思われます。

(注9)かんなは、勤務中の父親に電話をかけて、「今日は早く帰ってきて、お母さんが変。髪を短く切ったりして。お家の中が事件になっちゃったよ」と言います(光太郎が仕事で取り扱ってる警報装置を自宅に取り付けることによって、外からの事件に対して家が安全になるとしても、家の中で事件が起きてしまったらどうしようもない、といった感じのことがそれまでに父親とかんなの間で話されています)。

(注10)本作のラストでは、ソファーで横になっている小夜子の上に毛布が次第に被さっていき(とてもファンタジックなシーンです)、彼女の寝顔はとても幸せそうなのです。
 そして、木琴のきれいな音も流れます。
 これは、小夜子が、以前の幸せな状態に戻った姿とも受け取れます。

 ただ、その前のシーンが問題のように思われます。夫が部下を家に連れて来た際に、小夜子は手料理を出したのですが、後で夫から、「部下が大層褒めていた」と聞くと、その部下に小夜子は「是非また食事においでください」とのメールを送るのです。事態は、海斗の時と何も変わっていないようなのです!
 それに、いくら家庭内に問題があるからといって、夫の光太郎は、会社を辞めるわけにいかないでしょうから、結局は以前と同じ勤務状況でしょうし、娘のかんなにしても、どんどん大人になって親離れが進むことでしょう。
 映画のラストは、あるいはこれからのことを逆に暗示しているのかもしれません(もしかしたら、小夜子は、夫の部下の家を探すことになるのではないでしょうか)。

 なお、タイトルにもある「木琴」ですが、小夜子が見上げた家の2階から木琴の音が流れてくる場面が2度ほど挿入されています。ただ、その際には、調子の狂った音しか聞こえません。それについて小夜子は、「弾いている子は、自分の中の音楽を探しているのだ。自分自身が一つの音楽になりたいのだ。でも、それができないことに苛立っている。あそこにいるのは、幼い時の私だ」などと呟きます。
 ラストのシーンでその木琴の音がきれいなものになったということは、小夜子の自分の中のものが調和したということでしょうか?
 それにしても、この木琴を巡っての本作の描き方は、如何にも思わせぶりであり、ことさら必要なものなのか疑わしいようにクマネズミには思えます(タイトルに持ってくるほど重きを置かれていないようにみえるのですが)。

(注11)とはいえ、池松壮亮演じる海斗について、もう少し説明的なものを加えた方が、もっとリアルな感じになるのでは、と思いました。海斗は、「俺も22の時、ちょっと危なかった」「昔、自分の母をクソババアと言った男を殴り倒した」などと言うものの、その背景はまったくわかりません。それに、美容師になっておそらく7、8年経過するのでしょうが、自分の将来をどうするのかということが念頭に浮かんでくるのではないでしょうか(このまま、MINTで働き続けることはできないでしょうから、腕を上げて都心の美容室に移るとか、お金をためて独立するとか、色々考えることがあるでしょう)?でも、海斗からは、今を楽しむくらいの雰囲気しか感じられませんでした。



★★★☆☆☆



象のロケット:だれかの木琴


オーバー・フェンス

2016年09月26日 | 邦画(16年)
 『オーバー・フェンス』をテアトル新宿で見ました。

(1)『FOUJITA』(2015年)で好演したオダギリジョーの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、カモメが空を飛ぶ映像が少しあって、タイトルが流れます。
 そして、函館職業訓練校の喫煙室。
 そこにいる訓練生は、皆、作業服を着てタバコを吸っています。
 白岩オダギリジョー)が、年配の勝間田鈴木常吉)に向かって、「もともとは何やってたんですか?」と尋ねると、勝間田は「居酒屋」と答え、白石は「すごいっすね」と応じます。
 また、代島松田翔太)が、「白岩さん、女いるんですか?」と訊くと、白石は「いない」と答えます。

 チャイムが鳴ると、訓練生は喫煙室から出て、実習室の方に行きます。
 実習室では、訓練生たちは大工仕事をしています。
 教官の青山中野英樹)が、満島真之介)に対し「またノミ研ぎをサボったな」と叱り、皆に向かって「道具の手入れも大事な仕事なんだ」「手入れをサボると、自分が大変になる」と言います。

 次いで、訓練生はグランドにゾロゾロ出てきます。
 青山教官が、「ダラダラすると、怪我するぞ」「キャッチボールから始める」と言うと、訓練生たちは2人一組になってキャッチボールをし始めます。

 授業が終わって、白岩が自転車に乗って校門のところに来ると、代島が「今日、飲みに行きません?」と尋ねるので、白岩は「今日はちょっと」と言って断ります。



 白岩は、コンビニで唐揚げ弁当とビールを買います。
 コンビニを出てくると、外にある車のソバで男と女が言い争いをしています。
 女は(注2:蒼井優)で、男に対し「愛情表現してる?」と尋ね、「タチョウだって愛情表現するよ」と言い、ダンスをしながらその真似までするのです。
 困った男は、「わかった」と言ってコンビニ店に入っていきます。
 残された聡は、自分のダンスを見ていた白岩と目が合います。



 こうして白岩とさとしとが初めて出会いますが、さあ物語はこれからどうなるのでしょうか、………?

 本作は、『海炭市叙景』(2011年)と『そこのみにて光輝く』(2014年)に続く「函館3部作」(注3)の最終章。離婚して故郷の函館に戻り、大工になるべく職業訓練校に通う男が主人公。男は、別れた妻や子どものことや函館にきてから付き合いだした女のことなどについて、なかなかきちんとした姿勢が取れないままに日々が過ぎていきますが、云々といった物語。めぼしい出来事が起こらない展開の中に、静かな佇まいの主人公や、逆に特異な行動をする女のことがじっくりと描き出されていて、味わい深い映画に仕上がっているなと思いました。

(2)映画を見終わってから、本作の原作を、長いものではないので読んでみました(文庫版で90ページくらい)。
 当然のことながら、色々違っています(注4)。

 大きく異なるのは、蒼井優が扮する聡でしょう。
 本作では、昼は函館公園内の遊園地「こどものくに」でバイトをし、夜はキャバクラで働いているという設定ながら(注5)、原作では、単に花屋の娘に過ぎません(文庫版P.51)。
 ただ、松田翔太扮する代島が聡を白岩に紹介するところ(注6)、代島の雰囲気からすれば(注7)、花屋の娘というよりもキャバ嬢の方が、彼の知り合いらしい感じがします(注8)。

 それに、見る者に強い印象を残す彼女のダンスは、本作独自のものです(注9)。
 このダンスは鳥の求愛行動を表現していて、最初に見た時には、映画における白岩同様、とても奇異な感じを受けましたが、聡がバイトをしている函館公園内には「ミニ動物園」が設けられていて、聡が、そこで飼われている様々の鳥の行動を見てダンスに取り入れていると考えれば、納得できます。
 それに、聡がそんな奇矯な行動をするからこそ、妻と別れて函館に戻ってきて何かと沈みがちな白岩にアピールしたとも言えるでしょう。
 そして、そんなダンスをする女というのであれば、花屋の娘よりキャバ嬢という設定の方が見る方としても受け入れやすいように思います。

 原作との違いとしてさらに気が付くのは、登場人物の年齢です。
 原作では、白岩と代島が24歳、森は20歳、北村有起哉)は38歳などとなっています(注10)。
 これに対し、本作では、総じて一回り以上年齢が引き上げられている感じです。
 主な登場人物が職業訓練校の訓練生であることからすると、本作の年齢設定が随分と高いように思えるところ(注11)、白岩などの背景設定からすれば、収まり具合としてはかえって本作の方がいいように思われます(注12)。

 もっと言えば、別れた妻(優香)が函館にやってきて白岩に会うという場面は、原作にはありません(注13)。



 これは、原作でも、本作と同じように、妻の父親から来た手紙(注14)を読んだ白岩が、その手紙を燃やす場面は描かれていますが(文庫版P.15)、それ以上に妻や娘についての記載はありません。
 本作のように妻と白岩とが会う場面を描くとなると、結婚指輪を妻が彼に返したとしても、妻や白岩に未練が残っているような雰囲気が醸し出され、聡から後で「それで、スッキリ?サッパリ」と白岩がなじられるのも当然のような気もします。
 でも逆に、白岩自身としては、その場で涙を流したことによって踏ん切りがついたのであり、聡に向かって大きく舵を切れるようになるのだ、と解釈することもできそうです。

 もう一つ本作と比べるとしたら、「函館3部作」の前作『そこのみにて光輝く』とでしょう。
 同作における主人公の達夫綾野剛)が本作の白岩に、同作の拓児菅田将暉)が本作の代島に、同作に登場する拓児の姉・千夏池脇千鶴)は本作の聡に、それぞれ相当するように思われます(注15)。
 さらに言えば、同作の達夫は、本作の白岩が妻と娘と別れて函館に戻ってきたのと同じように、鉱山で起きた事故がトラウマになって、山を降りて函館に戻ってきています。要すれば、両作とも、その主人公が、行った先で事件を抱え込んで故郷の函館に戻ってきた、というところから映画が始まるのです。

 ただし、本作においては、聡の側の事情はあまり描かれませんが、同作においては、千夏側の厳しい内情がかなり詳しく描かれます(注16)。それで、同作は、ラストでは光明が描かれるとはいえ、全体として暗鬱な雰囲気に覆われています。
 これに対し、本作は、特段明るい雰囲気というわけではないものの、タイトルの「オーバー・フェンス」が表しているようなスカッとしたラストに向けて全体の物語が綴られているように思いました。

 それに、本作では、「ミニ動物園」の白頭鷲の檻の前にいる聡と白岩に、空からたくさんの鳥の羽が舞い降りてくるといったファンタジックな要素も取り入れられ、総じて言えば、どこまでも“静”の白岩とあくまで“動”の聡の対比がなかなか巧みに描き出されているように思いました。

(3)日経新聞の古賀重樹氏は、「リアリズムが持ち味の山下が、一瞬のイメージの飛躍に一筋の希望を託す。高田亮の脚本に血が通い、近藤龍人の撮影が美しい」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「社会の底辺で生きる人々を描く点は同じだが、重い空気が漂う前2作に比べ、突き抜けた明るさがある。常識という名の抑圧を受け入れない聡の純粋さに刺激を受け、生への能動性を獲得していく白岩の心の移り変わりをオダギリが実に自然に演じているのだ」と述べています。



(注1)監督は、『苦役列車』や『もらとりあむタマ子』の山下敦弘
 脚本は、『きみはいい子』の高田亮
 原作は、佐藤泰志著『黄金の服』(小学館文庫)所収の中編「オーバー・フェンス」(既読)。

 なお、出演者の内、最近では、オダギリジョーは『FOUJITA』、蒼井優は『家族はつらいよ』、松田翔太は『アフロ田中』、北村有起哉は『駆込み女と駆出し男』、満島真之介は『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』、優香は『人生の約束』で、それぞれ見ました。

(注2)聡は、「(男のような名前をつけられて)苦労したけど、親のこと悪く言わないで」「頭悪いだけだから」と白岩に言います。

(注3)原作者の佐藤泰志は共通していますが、監督は異なります(『海炭市叙景』は熊切和嘉、『そこのみにて光輝く』は呉美保)。
 なお、佐藤泰志は色々の小説を書いているのもかかわらず、どうしてこの3つが選ばれて映画化され、それも3部作とされて、本作が「最終章」とされるのかはよくわかりません。あるいは、3作に「企画」として携わっている菅原和博氏(「シネマアイリス」代表)が何かかかわっているのでしょうか?

(注4)いうまでもなく、映画は映画、小説は小説ですから、違っていること自体は何の問題もありません。

(注5)雑誌『シナリオ』10月号掲載の「脚本家インタビュー」において、本作の脚本を書いた高田亮は、「函館にシナハンに行かせていただいたときに、(プロデューサーの)星野(秀樹)さんの方から、キャバ嬢にしたらどうかという話が出まして」、「「(「そこのみ」と)おなじ感じになりませんかね?」と僕はちょっと抵抗しなんですけど、キャバ嬢にした場合この作品はどういう話になるのかと星野さんと話したら、すごくシックリきたんですよね」などと述べています。

(注6)原作では、まさに代島が白岩に聡を紹介するのですが、本作では、聡が働くキャバクラに代島が白岩を連れて行くと、白岩が聡を見て、あの時コンビニの前にいてダンスをした女だと気がつくのです。

(注7)自分で飲み屋を開業しようと考えています。

(注8)東京で普通の生活を送ってきたようにみえる白岩には、あるいは花屋の娘という方が、受け入れやすいとも言えるかもしれませんが。ただ、妻と子どもと別れ、函館で再起しようとしている白岩には、もう普通の女なら懲り懲りだという感じが残っているのかも知れません。

(注9)上記「注5」で触れた雑誌『シナリオ』10月号掲載の「脚本家インタビュー」において、高田亮は、「星野さんの方から、今回はダンスを入れてくれという提案が最初にありました」、「最初は抵抗してたんですよ」、「嫌だなあと思って」、「(でも)「飲み屋で、鳥の求愛ダンスとかをふざけてやってるキャバ嬢」ということだったらアリだなと思って」などと述べています。

(注10)ちなみに、原作では、聡は22歳とされています。

(注11)原作では、職業訓練校の生徒について、「ほとんどが中学を卒業してそっくりそのまま入って来た連中ばかりだった」とあり(文庫版P.11)、「(代島が)少年院にまぎれこんだような気がすると、珍しく愚痴めいたことを口にした」などと書かれています(文庫版P.7)。
 ただし、白岩らの入っている「建築科だけは違ってい」て、「十五名の建築科の全員は多かれ少なかれ、どこかで働いて失業し、春にここに集まった」と述べられています(文庫版P.11)。
 それにしても、本作の年齢設定は高いのかもしれません。

(注12)上記「注5」で触れた雑誌『シナリオ』10月号掲載の「脚本家インタビュー」において、高田亮は、「(企画)の菅原(和博)さんの方から、登場人物の年齢設定を少し上げて、僕とか星野さんとか監督とかの世代まで上げて、自分たちの話としてやったらどうだという提案がありまして、主人公の白岩が子供と離ればなれになってる感じは、年齢を上げたほうがシックリくるんじゃないかということでした」と述べています。
 ちなみに、高田亮は44歳、山下監督は40歳。そしてオダギリジョーも40歳です。

(注13)本作では、さらにその場面を聡が車の中から見ている場面まで挿入されます。

(注14)なお、原作小説においては、義父からの手紙には「娘(=妻)ももうそちらへ帰る気持ちはまったくない」と書かれているところ、本作では「娘ももうそちらに帰す気はまったくありません」とされています。「帰る」と「帰す」とで書き方が微妙に異なりますが、原作のままでは妻が白岩に会いに来ることはないことになってしまうでしょう。

(注15)本作において、代島が白岩を誘って聡のいるキャバクラに行くのと同じように、同作においては、拓児は達夫を誘って自分の家に連れて行くと、そこで達夫は拓児の姉の千夏に遭遇するのです。

(注16)千夏は、家が貧しいことからパートに出ているだけでなく、スナックで体を売ってもいて、さらには、病気の父親とその介護にあたっている母親がおり、そればかりか彼女は男(高橋和也)と関係を持ってもいるのです(本作でも、最初に白岩と目が合った時に聡が男と関係を持っているように描かれていますが、その後その男は舞台から消えてしまいます)。



★★★★☆☆



象のロケット:オーバー・フェンス

アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)

2016年09月23日 | 洋画(16年)
 『アンナとアントワーヌ  愛の前奏曲(プレリュード)』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)『男と女』(1966年)のクロード・ルルーシュ監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、本作を監督したルルーシュが画面に登場し、「本作は、私の41本目の作品。今回は日本に行けず残念ですが、次回作(注2)が完成したら東京に行きます」などと挨拶します。

 その後、本編が始まります。
 まず、混雑した道路に牛が寝そべっている様子とかガンジス川など、よく見かけるインドの都市の光景が映し出され、さらにまた、そうした光景を手持ちの小型デジタルカメラで写し取っている男の姿が映し出されます。
 どうやらその男は、映画監督のラウールラウール・ヴォーラー)であり、新作のために撮影をしているようです。

 場面は変わって、ダンス教室で若い男女がダンスの練習をしています。その中のアヤナシュリヤー・ピルガオンカル)に対して、先生は「そうじゃない、こう飛べ。向きを変えてはダメだ」などと厳しく叱責します。
 さらにもう一つの場面では、ピストルを持った若い男サンジェイアビシェーク・クリシュナン)が宝石店に強盗に入り、宝石を奪って、最初はオートバイ、次いで待機していた車に乗り換えて逃亡します。
 それらの場面が何回か交互に映し出された後、ダンスの練習が終わって自転車に乗って帰宅する途中のアヤナが、サンジェイの乗った車と衝突してしまいます。
 サンジェイは、そのまま逃亡しようとする運転手に「止めるんだ」と言って、車を衝突現場に戻します。運転手が逃げてしまったので、サンジェイは、傷を負って倒れているアヤナを車の中に運び、「死なないでくれ」と呟きながら病院に急ぎます。
 病院に着くとサンジェイは、大声で「重傷なんだ、早く手当してくれ」と叫び、アヤナを手術室に運び込みます。そして、サンジェイが病院から出ようとすると、大勢の警官が待ち構えていて、彼は捕まってしまいます。

 留置場の面会室の場面。
 監督のラウールがサンジェイと面会し、「君のことを映画にしたい」「現代版の『ロメオとジュリエット』にしたい」と申し入れています。

 場面は更に変わって、場所はパリ。
 世界的な映画音楽家アントワーヌジャン・デュジャルダン)は、ピアニストのアリスアリス・ポル)とベッドで話しています(注3)。

 次いで、映画音楽の仕事でインドに行ったアントワーヌは、在インド・フランス大使サミュエルクリストファー・ランバート)が主催する晩餐会(注4)で大使夫人のアンナエルザ・ジルベルスタイン)に出会います。さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?



 本作でルルーシュ監督が、相も変わらず男女の恋愛を描いているといえばそれまでですが(注5)、舞台をインドにしているところがミソと言えるでしょう。インドの群衆、東洋哲学、神秘的な女性といったものが登場することによって、ご都合主義的なところが多々見られるにしても、まあ許されるかなと思えてしまいます。

(2)本作の導入部では、インドでよく見かける景色が単純に映し出されるわけではなく、上記(1)に記したように、実話に基づいているという設定のインド映画『ジュリエットとロメオ』の撮影風景やその映画のカットが映し出されたりする中で、インドの都市の光景が描かれていて、なかなか巧みな作りとなっています。
 そして、本作の主人公・アントワーヌは、そのインド映画の音楽を担当するということで、インドにやってくるわけです。映画の中でも、ディスプレイに映画のカットが映し出されるすぐそばでオーケストラが録音用に演奏し、それをアントワーヌがチェックしているシーンがあります。



 このように、さすがルルーシュ監督という出だしながら、物語が展開し始めると、雰囲気がなんだかオカシナなものになってきます。
 フランスからやって来た主人公・アントワーヌとフランス大使夫人・アンナとが、大使主催の晩餐会で簡単に意気投合するのはまあかまわないとはいえ、あれよあれよという間に2人だけで旅行するまでに発展してしまうのです。
 それも、アントワーヌの方は、ピアニストのアリスがわざわざパリからインドまでやってくるというのに。
 また、アンナの方は、愛する夫との間に子供がなかなかできない事態を改善するためという理由で(注6)、霊的指導者アンマ(注7)に会いに旅行に行くと言うのですが。

 尤も、アントワーヌの方は、電話でアリスから「結婚して」と言われるものの、その気がない彼は「待ってくれ、後から電話する」と言っているのですから、そんなに問題ないでしょう(注8)。
 ただ、アンナの方がどうもよくわかりません。



 夫のフランス大使・サミュエルを愛していると公言し、彼の子どもを欲しがっているにもかかわらず、どうして、途中(注9)で合流したアントワーヌをすぐさま受け入れて、一緒の旅をしてしまうのでしょうか?
 もちろん、晩餐会で2人が意気投合して(注10)、恋心が直ちに芽生えてしまったから仕方がないと言えばそれまでですが、あまりに事態の進行が早すぎる気がしてしまいます(注11)。
 それに、アンナは東洋哲学に入れ込んでいるためなのでしょうか、アントワーヌとの間に起きたことも、正直にサミュエルに話せば許してくれると考えていたようで、これも40過ぎの女性にしては随分と甘いものの見方をしているように思えてしまいました(注12)。

 それでも、物語全体が、いろいろなものが入り混じって独特の雰囲気を醸し出すインドにおける出来事を語るものであり、特に、アンマにアンヌとアントワーヌが大きく抱擁されるシーンなどを見ると、まあこういうこともあるかもしれない、と思えてしまうのですが(注13)。

(3)渡まち子氏は、「これは続編? 姉妹編? いや、やはり新しい大人の恋愛映画だ。クロード・ルルーシュ監督は1937年生まれなのだが、その感性は昔と変わらずみずみずしい」として65点を付けています。
 秋山登氏は、「老練な語り口には悠揚迫らざるものがあって、私たちがそれと意識しない間に、一瞬、日常と非日常とが相接する夢幻の世界に誘われていたりする。「愛が唯一のテーマ」と監督はいうのだが、しかしここには、アンマに象徴される霊性へ傾斜した文明論の気配が濃い」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「アンナとアントワーヌの行動は「一度きりの人生を悔いることのないよう愛を貫いて生きる」という西洋の価値観に基づくもの。真逆の現実や世界観が広がるインドを舞台に2人が愛を深めていくという構造には共感できない」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『男と女』のクロード・ルルーシュ
 音楽はフランシス・レイ

 なお、出演者の内、ジャン・デュジャルダンは『ミケランジェロ・プロジェクト』で最近見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の村上香住子氏のエッセイ「愛のゆらぎに胸を打たれる」によれば、ルルーシュ監督は、「次作『Chacun sa vie et son intime conviction』の撮影に入ったばかり」とのこと。

(注3)例えば、アリスが「あなたは世界的に有名」「女たらし」と言うと、アントワーヌは「女性収集家だ」と答え、またアリスが「何が一番好き?」と訊くと、アントワーヌは「自分かな」と言い、今度はアントワーヌが「君は何が一番好き?」と尋ねると、アリスは「愛よ」と応じます。

(注4)アントワーヌは、『偶然のシンフォニー』でアカデミー賞を獲得した世界的な映画音楽作曲家ということで、晩餐会のメインゲストとして呼ばれたようです。なお、この晩餐会には、アントワーヌが音楽をつける『ジュリエットとロメオ』に出演するサンジェイとアヤナも呼ばれています。

(注5)『男と女』(1966年)の原題が『Un Homme et Une Femme』で、本作の原題が『Un+Une』。

(注6)よくわからないのは、どうして子供ができないことをそんなにアンナが悩むのか、という点です。
 まず、アンナがサミュエルと結婚したのはいつごろなのでしょう?
 挿入されている回想シーンによれば、アンナがインドを旅行している最中に、パスポートなどの入っているバッグをなくしてしまい、どうしたらいいのかパニック状態になってフランス大使館まで辿り着いたところ、丁度大使が車に乗って門から出てきたのに遭遇し、懇切に話を聞いてもらい、云々ということで結婚に至ったようです。
 とすると、現時点からせいぜい2,3年前の結婚であり(大使の任期はせいぜいそのくらいでしょうから)、子供ができないと言って騒ぐのは時期尚早ではないでしょうか?
 あるいは、サミュエルが大使館前でアンナと遭遇したのは、彼が大使の時ではなく、モット若く公使とか1等書記官の時のことなのでしょうか(でも、車の中のサミュエルは、現時点の彼と変わりがない顔付きのように思われます)?

 それと、アンナを演じているエルザ・ジルベルスタインですが、いくら若作りをしていても、実年齢の48歳とそうかけ離れた設定ではないものと思われます。とすると、無論例外はいくらでもあるにせよ、一般的には、望めばすぐに妊娠できる年齢ではないように思われます。
 また、大使にしても、クリストファー・ランバートの実年齢が61歳ですから、そう簡単ではないかもしれません。
 なにより、アンナは、その後の物語の展開からすると、1度アントワーヌとベッドインしただけで妊娠してしまったのを見ると、あるいはサミュエルの方に不妊原因があるのではないか、とも考えられるところです。

(注7)アンマは実在の人物で、映画に登場するのもアンマ自身。



 なお、アンマについては、例えばこの記事とかこの記事が参考になります。

(注8)監督のラウールとの会話で、アントワーヌは、「結婚の話が持ち上がって困っている」「僕は、結婚に向いていないんだ」などと話しています。上記「注3」の会話からも分かるように、またアンナに「恋に恋している」「恋の感覚が好き」と言ったりしているように、アントワーヌは、独身で女性遍歴を楽しみたいようなのです(とはいえ、晩餐会の席上、アントワーヌは、アンナに「アリスと結婚する予定」と言っているのですが)。

(注9)アンナは、ケーララ州のアンマに会う前に、まず聖地バラナシ(ヴァーラーナシー:英語読みではベナレス)に列車で行くのですが(アンナは「インド人と同じことをする」と言います)、飛行機でバラナシにやってきて待ち構えるアントワーヌと出会うことになります。

(注10)アンナがアントワーヌに話したところによれば、夫のサミュエルがアンナの態度に怒って、晩餐会後「そんなに彼に夢中なら、出て行くがいい」と言って彼女を追い出したとのこと。それで、アンナは、アントワーヌが宿泊するホテルにやってくるのです(ただこの時は、アントワーヌが「サミュエルは本気じゃないのでは?」とか「一方的に攻められるのは好きじゃない」などと言って、アンナをサミュエルのもとに帰したものと思います)。

(注11)晩餐会の翌日、アンナは、アントワーヌがレコーディングしている現場に現れ、昼食を彼とともにするとはいえ、その翌日にはもう旅行に旅立つのです。

(注12)アンナとアントワーヌは一夜ベッドをともにするのですが、アンナの方は、サミュエルと離婚することになるなどとはマッタク思ってもみないようです(アントワーヌは、いうまでもなくアンヌとの結婚など微塵も考えてはおりません)。

(注13)例えば、アンナは、晩餐会のとき、アントワーヌに「インド人はスピリチュアリティそのもの」とか、「私は無限の宇宙と対話する」などと話しますし、また、アンマについて「彼女は本物の神」「私は奇跡を信じている」と言い、さらには監督のラウールが、アントワーヌに「路上生活者は、転生を繰り返して学んでいるんだ。苦しみこそ意義があると」と述べたりします。こういう台詞は、西欧人が東洋に抱いているイメージ(いわゆるオリエンタリズムでしょうか)が色濃く反映しているとも言えそうです。ただ、アントワーヌのしつこい頭痛が、医師は「脳内に血栓があり危険な状態」というものの、アンマに抱かれると解消してしまうようなのは、あるいは、映画制作者側もインドの雰囲気に飲み込まれてしまっているのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲

超高速!参勤交代 リターンズ

2016年09月20日 | 邦画(16年)
 『超高速!参勤交代 リターンズ』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)前作の『超高速!参勤交代』を見て面白かったので、この続編も見てみようと映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の時点は亨保20年(1735年)。場所は千住大橋。
 家老・相馬西村雅彦)が湯長谷藩の藩主・内藤佐々木蔵之介)に、「困ったことになりました。行列の費用が半分しかありません。帰りも走らねばなりません」と言っています。
 それを聞いた藩主は、「それでは走るぞ」と自ら走り出し、行列も走ります。

 その1ヶ月後、将軍・吉宗市川猿之助)は、「留守のこと、しかと頼んだぞ」と老中・松平輝貞石橋蓮司)に言って、日光社参に出発します。
 ここで、「日光社参とは、将軍家が日光東照宮を参拝すること。莫大な費用がかかるため、永らく見送られていたが、吉宗は65年ぶりに復活させた」との解説が入ります。

 次の場面では、蟄居の身の松平信祝陣内孝則)が、老中・松平輝貞に、「我が身の至らなさを深く反省しております。どのような処分でもお受けいたします」と言うと、老中・輝貞は、「日光社参の恩赦により、その身の蟄居を解く」と書状を読み上げ、さらに「二度と失敗を犯さないように。老中の責務をしっかり果たせ」と付け加えます。

 そして、湯長谷村。
 百姓が刈入れ作業をしながら、「殿様はいつ帰られるのか?」「殿様、江戸で土産を買ってきてくださるかな?」などと話していると、突然、鋤や竹槍を持ち百姓の格好をした人々の集団が現れ、「世直しだ」「一揆だ」と叫びながら村を荒らし回り、米を運び去ってしまいます。

 場面は変わって牛久宿。
 戸が開いたままの厠に藩主・内藤が入っています。
 藩士の荒木寺脇康文)が、「早くしてください。あの病気(注2)は治られたのでは?」と尋ねると、藩主は「またぶり返して。そうたやすく治らない」と答えます。それを聞いた荒木は、「荒療治が必要」と言って、勢い良く厠の戸を閉めてしまいます。驚いた藩主が飛び出てくるので、荒木らは藩主の腕を取って宴席に連れていきます。
 この宴席は、藩主がお咲深田恭子)を側室に迎えるためのもの(注3)。家老・相馬は「見受けするのに30両もかかった」と嘆いています。



 そんな祝いの席に、突如、藩の江戸家老・瀬川近藤公園)が現れ、「大変です、国元で一揆が起こりました!」と告げます。さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、江戸までの参勤を通常の半分以下で達成せよという無理難題を切り抜ける次第を描いた前作を引き継いで、江戸から牛久宿まで戻ってきたところから始まりますが、またしても大きな問題が降りかかってきます。前作で活躍した藩主以下の面々(注4)が、その難題を如何に切り抜けるのかが見どころとはいえ、持ち上がる事案の規模は大きくなったものの、よくある陰謀話であり、期待した奇想天外さは前作に劣るように思えました。

(2)映画の2作目(続編)は、概して、1作目(元の作品)に比べると見劣りがしてしまうので、できるだけ見ないようにしているのですが、本作については、なんだか期待が持てそうな気がしました。でも、やっぱり2作目は2作目だなと思ったところです。

 前作では、通常の半分以下の日数で江戸まで行かなくてはならなくなり、道中におけるいろいろな難関を通り抜けようと、家老の相馬が必死になって様々な手段を考え出して実行に移すところが、従来の時代物になかった奇想天外さを生み出し、なかなかおもしろい作品となっていました。
 ただ本作では、そうした方面はかなり後退し、反対に、従来の時代物でよく見かける陰謀話のウエイトが高まってしまっているように思えます。

 確かに、本作でも、藩の実情を調べにやってくる幕府の目付けが到着する前に事態の収拾を図ろうと、なんと、前作の更に半分以下の日数で藩主らは湯長谷藩に戻ろうとします(注5)。ですが、本作でも、大沼宿と高萩の関所のシーンがあるとはいえ(注6)、藩主を先頭に海岸とか山道をひたすら走るのが専らとなっています。



 加えて、何といっても本作で中心的に描かれるのは、悪漢の松平信祝が徳川宗春田口浩正)と組んで差し向けた尾張柳生の武士たちや、信祝が自ら湯長谷に引き連れてきた1000人余の軍勢と藩主たちとの戦いの方なのです。
 なるほど前作においても、藩主らの一行が江戸に近づくのを阻止するために、100人ほどの御庭番衆が襲いかかります。ですが、本作ほどの規模ではありません(注7)。
 他方で、本作にみられる藩の取り潰し(注8)とか、将軍に対する謀反(注9)といった事柄は、従来の時代物で何度も取り上げられてきたのではないでしょうか?

 そんなことで、本作においては、随所でなかなか力のこもったチャンバラ・シーンを見ることができます(注10)。
 とは言え、本作は本来的にコメディなのですから(注11)、やっぱり、前作とはまた違った奇想天外なところを見ることができたらな、と思ってしまいました。

(3)渡まち子氏は、「勧善懲悪、ウェルメイドな娯楽時代劇には、権力に負けない小藩の気概が満ちていて痛快だ」として65点を付けています。
 佐藤忠男氏は、「前作に引き続き土橋章宏の脚本の着眼が良い。本木克英の演出も、強そうではない侍たちのほうが印象的だったりするあたりが、女性映画の松竹育ちらしい。侍らしい威張り方は陣内孝則の老中が代表していて、これは本当に憎々しい」と述べています。



(注1)監督は、前作『超高速!参勤交代』の本木克英
 脚本は、前作『超高速!参勤交代』の土橋章宏

 なお、出演者の内、最近では、佐々木蔵之介は『エヴェレスト 神々の山嶺』、深田恭子知念侑李六角精児陣内孝則は『超高速!参勤交代』、伊原剛志は『ラスト・ナイツ』、西村雅彦寺脇康文は『殿、利息でござる!』、上地雄輔は『バンクーバーの朝日』、柄本時生は『深夜食堂』、古田新太は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、富田靖子は『この国の空』、石橋蓮司は『団地』で、それぞれ見ました。

(注2)前作『超高速!参勤交代』についての拙エントリの「注3」をご覧ください。

(注3)本作の設定では、藩主・内藤に正室はいないものの〔江戸屋敷にいるのは、妹の琴姫(舞羽美海)〕、お咲は側室となります(何か変だなという気はしますが、Wikipediaの「側室」の項で、「日本では稀に側室を複数あるいは一人もちながら正室を置かなかった例」があるとされていますから、ありえない話ではないのでしょう)。

(注4)前作『超高速!参勤交代』についての拙エントリの「注8」をご覧ください。

(注5)前作では、「5日以内」とされていたのを実質4日で藩主の一行は江戸に到着しますが、本作の場合は、すでに牛久宿まで戻っていたとはいえ、そこから2日で湯長谷藩まで帰ろうとするのです。

(注6)大沼宿では、家老の相馬が20両を使って駆り集めた30人の中間を100人に見せるべく人形を使ったり、道具が不揃いのところを隠すためにすべて黒塗りにしたりして、なんとか宿役人の目をごまかします。
 また、高萩の関所では、藩主らを棺桶に入れ、コロリによる死者だという触れ込みで、関所番をごまかします。

(注7)信祝の軍勢〔柳生厳儔(としとも)が率いる尾張柳生の本隊がかなり入っています〕との戦いでは、雲隠段蔵伊原剛志)が手投げ弾ごときもの(煙玉)を使ったりします。



(注8)信祝の素早い動きによって、藩主らの一行が湯長谷藩に戻るまでに、一揆が起きたことを理由に同藩は取り潰しに遭い、尾張柳生の侍たちによって城は制圧されてしまいました。
 なお、柳生藩はすでに存在するのですから、湯長谷藩を受け取るとされる柳生厳儔は〔配下の柳生幻道宍戸開)や諸坂三太夫渡辺裕之)らを含めて〕、その柳生藩で不遇をかこってきたというわけなのでしょうか?
 また、この記事には、「厳春の父親である厳儔は新陰流に一大改革を起こしたとされる名人でしたが、厳春が14才の時に亡くなっており、厳春は高弟達により相伝を受けたという話もあります」と述べられています。また、この柳生氏系図をご覧ください。

(注9)本作では、松平信祝は、尾張の徳川宗春と組んで、時の将軍・吉宗を亡き者にしようと、吉宗の日光社参の時を狙って暗殺を企てています
 そして、この陰謀を密かに調査するのが、南町奉行の大岡忠相古田新太)と湯長谷藩江戸屋敷の秋山上地雄輔)。



(注10)本作では、湯長谷城を奪還すべく藩主らが立ち上がると、場内に閉じ込められていた荒木の妻(富田靖子)らも、隠し持っていた薙刀を手に、尾張柳生の侍たちに対峙します。

(注11)本作については、いくら藩主達の精強部隊が不在だとしても、柳生幻道が率いる尾張柳生の侍たちによってあのように簡単に城が乗っ取られることは考えられないのではないか(前作からすれば、湯長谷藩では武芸が盛んだったようですし)、また、農村にしても自衛手段を持っているはずで、偽一揆集団によって畑が荒らされたり米が略奪されたりするのをただ傍観しているだけというわけではないのではないか、などいろいろ疑問点が浮かぶものの、本作は何といってもコメディ作品なのですから、そんなことを言うのは野暮の極みでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:超高速!参勤交代 リターンズ

君の名は。

2016年09月16日 | 邦画(16年)
 『君の名は。』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)本作は、3週目にして興収が62億円を超える大変なヒット作になっており、それではというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、雲を突き抜けて落下していく隕石のようなものが描き出され、「目が覚めると、何故か泣いている。そういうことが時々ある」、「見ていた夢は思い出せない」、「ただひたすら美しい眺めだった」、「ずっとまえから探している」などといったモノローグがあって、タイトルが流れます。

 三葉(声:上白石萌音)が寝ていると、目覚しが鳴ります。
 「瀧君、覚えてないの」との声がして、驚いた三葉は飛び起きます。
 それから自分の乳房を触ったりして訝しんでいると、妹の四葉が起こしに現れ、「お姉ちゃん、何してんの?」と尋ねます。三葉は「すごく女っぽいなって思ったりして」と答えると、四葉は「何言ってるの?ご飯よ」と言います。
 三葉は立ち上がって鏡に映る自分の姿を見て、「えーっ」と驚きます。



 場面は変わって、四葉が朝食の準備をし、三葉が「明日は私が作る」と言うと、祖母の一葉(声:市原悦子)が「今日は普通ね」と言い、3人は食事をします。
 町内放送の拡声器から「朝のおしらせ。糸守町の町長選挙について」云々の声が流れ、またTVのニュースでは、「1ヶ月後に、1000年間に一度のティアマト彗星が現れます」と言っています。
 祖母と三葉とが口を利かないので、四葉が「いい加減に仲直りしたら」と言うと、三葉は「大人の問題」と応じます。

 2人は、家を出てそれぞれの学校に行きます。



 途中で、クラスメートから「三葉、今日は髪、ちゃんとしてるね」とか、「おばあちゃんにお祓いしてもらった?」などと言われ、三葉は「何の話?」と不思議がります。
 さらに、父親が町長選挙の演説をしているところに遭遇します。父親は三葉を見つけると、「宮水三葉、胸張って歩かんか!」と怒鳴るので、三葉は「こんな時ばっかり」と嫌な顔をします。

 高校の教室に入ってノートを開くと、「お前は誰だ」と書いてあり、三葉は覚えのないことなので訝しがります。

 こんな風に物語は始まりますが、さあこれからどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、『ほしのこえ』の新海誠が制作したアニメ作品。山深い田舎町に暮らす女子高校生と東京で暮らす男子高校生とが、自分たちが入れ替わっていることに気が付き、その入れ替わりが何度も起こるうちに、ある大変な事実(3.11のことが踏まえられているのでしょう)に気がついて、なんとかそれによる被害を免れようとする物語。主題歌等の音楽が上手く物語にマッチしていて、大層幻想的でロマンティックな盛り上がりに、見ている方は否が応でも 感動してしまいます。

(2)本作は、新海誠監督の前作の『言の葉の庭』と関係が深いように思われます。
 例えば、前作の舞台は専ら新宿御苑ですし、本作におけるヒーローの(声:神木隆之介)がうろつくのも新宿やその周辺の四谷、代々木といったところです。



 そればかりか、前作における雨の新宿御苑の情景がことのほか素晴らしかったのと同じように、綺麗な空に描き出される彗星の美しい光景が卓越しています。



 また、前作では、『万葉集』に掲載のよみ人知らずの歌が、高校の女性教師ユキノと高校生タカオとの絆の一つになりますが(注2)、本作においてそれに相当するのは、宮水神社のご神体に奉納されている「口噛み酒」かもしれません。何しろ、瀧がその「口噛み酒」を飲むと、ストップしていた入れ替わりが起き、クライマックスに向けて物語が大きく展開するのですから(注3)。
 それに何よりも、前作のユキノ先生が、本作においても「ユキちゃん」先生として登場し(注4)、三葉たちのクラスで同じように『万葉集』を教えています(注5)。

 あるいは、その前の新海誠監督の作品とも、様々なつながりを見ることもできるでしょう(注6)。

 そして、本作では、そうした過去の作品とのつながりを上手く飲み込みながらも、これまでの作品に見られないような壮大な規模の物語が展開するので、見る方は心底驚いてしまいます。
 一つ目は、3年という時を隔ててヒーローの瀧とヒロインの三葉が入れ替わりをするのです。
 二つ目は、その3年というタイムラグを利用して、ヒーローとヒロインが、想定外の自然の大災害がもたらす惨事から人々を救出します。

 見ている最中は、どうして瀧と三葉の入れ替わりが起きるのだろうとか、大災害に遭遇した糸守町はどうなってしまったのだろうなどと思ったりしてしまいました。
 でも、瀧と三葉とが単に入れ替わるというのではなく、宮水神社の神主の家柄である宮水家の三葉の方からの何らかの働きかけによってこうした入れ替わりが起きていて、三葉が死ぬと入れ替わりが起こらなくなってしまうとすれば、分かる感じがしてきます(注7)。
 また、大変な災害に遭遇したはずの糸守町の人々がどうなってしまったのか直接的に描かれてはいないとはいえ、なにしろ、ハッピーエンドを見るだけでも想像がつくというものです(注8)。

 こうした壮大でファンタジックな物語展開の中でヒーローとヒロインを巡るラブストーリーが描かれるのですから、これはまさにアニメを見る醍醐味といえるのではないか、と思ったところです(注9)。

(3)渡まち子氏は、「わけもなく涙が流れ、何かを失いたくないと切望し、大切な何かが心に蘇る。この映画は、今の時代を生きるものたちへの、力強くて優しいエールだ。ビジュアル、ストーリー、メッセージ。すべてにおいて日本のアニメーションの底力を見せつけた傑作である」として85点をつけています。
 村山匡一郎氏は、「新海監督の作品には宇宙や星の題材が多いが、本作の彗星シーンの光の美しさは驚嘆に値すると同時に、論理的説得力を超えたファンタジー・アニメの魅力にあふれている」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 北小路隆志氏は、「若い世代から熱い支持を受ける新海誠の最新作は、独自の世界(恋愛)観を全面展開させた良質の娯楽作品にして、彼の仕事の集大成とも呼び得る力作だ」と述べています。



(注1)監督・原作・脚本は、『言の葉の庭』の新海誠

(注2)『言の葉の庭』についての拙エントリの「(2)」を参照してください。

(注3)『シン・ゴジラ』において矢口が指揮する「ヤシオリ作戦」の名前の由来である日本神話の「八塩折之酒(やしおりのさけ)」を思い出しました(同作についての拙エントリの「(2)ハ)」を参照してください)。

(注4)両作とも同じ声優・花澤香菜が務めています。

(注5)「ユキちゃん」先生は、『万葉集』の「誰そ彼と われをな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つわれそ」(この記事を参照)を黒板に書いて、「誰そ彼」とは「黄昏」で、「たそがれ時」とは彼が誰だかわからなくなる時間であり、「カタワレ時」(「彼は誰そ」)とも言います、などと教えています。
 なお、『言の葉の庭』のユキノ先生の女の部分は、本作における奥寺先輩(声:長澤まさみ)に引き継がれているのかもしれません。

(注6)例えば、『秒速5センチメートル』(DVDで見ました)の第3話「秒速5センチメートル」では、中学の頃お互いに想い合っていたにもかかわらず告白できなかったヒーロー(遠野貴樹)とヒロイン(篠原明里)とが踏切ですれ違い、ヒーローがすれ違ってから確かめようと振り返ると、電車が通過し、その後にはヒロインの姿はありません。こうしたシーンは、本作でも、歩道橋などで瀧と三葉がすれ違ったりするところで見受けられます。
 また、本作における瀧と三葉は同じ年頃の高校生ですが、入れ替わりが起こると3年のズレがあります。これは、新海監督の『ほしのこえ』(DVDで見ました)で、同い年のミカコノボルが、ミカコが異星人との戦いで何光年も先の宇宙にいってしまったために、24歳のノボルが当時のままの年齢のミカコからメールを受け取ることになる事態と類似しているように思います。

(注7)三葉の祖母の一葉が、それらしいことを言っていたように思います。

(注8)実際の場面は描かれていませんが、避難訓練中で町民は助かったという新聞記事のことは映画の中で描かれていました。

(注9)とはいえ、お互いに面と向かって会ってもいない者同士(瀧と三葉)が惹かれ合って互いを強く求めるというのは、恋愛物としてどうかなという気もしてきます。
 でも、よく「運命の赤い糸」と言われますし、本作においては、宮水家に作り方が伝わる「組紐」が重要な働きをします。

 また、上記「注8」のことは、3年前の過去にタイム・トラベルして(瀧が三葉の体に入り込むことによって)、糸守町が全滅してしまうという実際に起きた事態をなかったことにしてしまうことからもたらされる結果でしょう。
 ただ、過去を書き換えてしまうと、現在がかなり違ったものになってしまうと考えられるところです。ですが、糸守町が田舎のごく小さな町であることもあり、過去の書き換えがもたらす現在の相違もそれほど目立つものではないのではなどと、本作の持つ圧倒的な力によって展開を自然に受け入れてしまいます。



★★★★☆☆



象のロケット:君の名は。

エミアビのはじまりとはじまり

2016年09月13日 | 邦画(16年)
 『エミアビのはじまりとはじまり』を渋谷のヒューマントラストシネマで見ました。

(1)新井浩文黒木華が出演するというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、海野前野朋哉)と実道森岡龍)の漫才コンビ「エミアビ」(注2)が、ステージで漫才をやっています。



 そして、自転車に乗って走る海野と実道が回想的に映し出されて、タイトルが流れます(注3)。

 次いで、実道のマネージャーの夏海黒木華)が運転する車の中の場面。外は雨(注4)。
 実道が、「でも、このままというわけにはいかないじゃないですか?」「オンエアはいつなんですか?」「だったら、もういいんじゃないですか?」「それでいいと思います。よろしくお願いします」などと携帯で話しています。
 電話が終わって、実道が「49日過ぎるまでは無職だな」と呟くと、夏海は「そんな、すぐですよ。私、付き合います」と応じます。それに対し実道が、「悲しいんだ。(海野とは)10年も付き合ってきたんだから」「夏海は昨日も泣いていたな」と言うと、夏海は「なぜ泣けてくるんでしょう?私、泣き女になろうかと思って」と答えます。

 車は、先輩の黒沢新井浩文)の家に向かっています。
 夏海が「黒沢さん、怖いって話ですが、大丈夫ですか?」と尋ねると、実道は「ダメ出しが鋭くて」「黒沢さん、お笑い界のデ・ニーロって言われていた」と答えます。
 それに対し、夏海が「でにいろ?」といぶかしがると、実道は「ロバート・デ・ニーロ、知らないのか?ハリウッド俳優だよ」と驚きます。
 そして、実道は、「海野と組もうと思ったのも、黒沢さんのお陰なんだ」と呟きます。

 画面では、表札に「黒沢」とある門を開けて実道が入っていきます。
 呼び鈴を押すと黒沢が現れたので、実道が「ご無沙汰してます」挨拶すると、黒沢は「階段上がって一番上の右の部屋に入って待ってて」と言います。

 ここで実道は大変な目に遭いますが、さあ、物語はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、漫才コンビの片割れが死んで、一人取り残された相方が、先輩とコンビを組んで再度出発するまでを描いています。と言って、決してリアルに徹した作品ではなく、ぶっ飛んだ場面がいくつも挟み込まれたファンタジックな仕上がりとなっていて、なかなか楽しく見ることができました。

(2)本作と同じように漫才を取り扱っている作品としてクマネズミが思い出すのは、『漫才ギャング』です(注5)。
 同作でも、飛夫(佐藤隆太)と龍平(上地雄輔)の「ドラゴンフライ」や、飛夫と綾部祐二)の「ブラックストーン」といった漫才コンビが登場し、本作の「エミアビ」と同じようにその漫才を披露します。
 それに同作は、一度解散に追い込まれた「ブラックストーン」が再結成されてお笑いのコンテストに挑むというストーリーですから、本作の「エミアビ」の再結成話と通じるところがあります。
 さらに言えば、同作では、城川新井浩文)らのストリートギャング団と龍平との抗争が描かれていますが、これは本作において、海野と黒沢の妹・雛子山地まり)が暴漢に襲われる場面(注6)と、似ていなくもないように思えます。

 ただ、本作は、同作と比べると違っている点も大きいように思われます。
 一番の違いは、死の影が全編に漂っている点でしょう。これは、同作では見られません。
 なにしろ本作では、のっけから「エミアビ」の海野が交通事故死して、実動が一人取り残されているところから始まります(注7)。
 それに、例えば、黒沢が、「エミアビ」の再結成に参加すると決意してからネタを披露するのが墓地なのです(注8)。

 とはいえ、本作は、同作と比べてお笑いの占める割合が随分と高いように思われます。
 例えば、本作の冒頭が「エミアビ」の漫才ですし、その後先輩の黒沢の家を訪れた実道は、海野と一緒に死んだ妹・雛子のためにネタをやってくれと頼まれ、「死ぬ気で笑わせろ!」と徹底的にいびられます。



 こうしたシーンが本作の随所に見られる一方で、海野と雛子の乗った車が交通事故を引き起こし2人が死んでしまうシーンなどは描き出されてはおりません(注9)。

 それに、本作では、同作には見られないファンタジックな要素も随分と取り入れられています。
 例えば、上記した墓地でのネタ披露に際して、なぜか空から金盥が降ってきて黒沢の頭に当たるのです。それも3個(注10)!
 また、幽霊姿の海野と雛子が、再結成された「エミアビ」の舞台を見に現れ、雛子が「あれほど下ネタ嫌っていたのに、復活ステージであんなネタをするなんて、最低」と批判したりします。



 本作に出演する俳優たちは、皆、なかなかの芸達者です。実道の森岡龍と海野の前野朋哉は、まるで本職の漫才コンビのように振る舞いますし、『漫才ギャング』にも出演している新井浩文は、どんな役柄でも実に巧みのこなすもんだなと感心します。
 そして、特筆すべきなのは、黒木華でしょう。『リップヴァンウィンクルの花嫁』とはまるで違った役柄ですが、ピッタリと嵌っているのには驚きました(注11)。



(3)宇田川幸洋氏は、「ちょっとシュールな死と再生のドラマ」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 山根貞男氏は、「俳優諸氏の漫才が素晴らしく、このまま舞台やテレビに出ては、とも思う。もちろん映画の力によるわけで、弾む会話、生き生きと連なる画面のリズムが、哀切さを交えた笑いの渦を巻き起こす。そう、丸ごと漫才の映画なのである」と述べています。
 樋口尚文氏は、「本作がもし弾けた笑いづくしであったら全篇が出オチのようなつまらない映画になったかもしれないが、あたかも笑いの成就を贅沢品のように遠ざけることで、悶々と割り切れない人間の面白さが充満する傑作となった」と述べています。



(注1)監督・脚本は、渡辺謙作(『舟を編む』の脚本)。

 なお、出演者の内、最近では、森岡龍は『あぜ道のダンディ』、前野朋哉は『娚の一生』、黒木華は『リップヴァンウィンクルの花嫁』、新井浩文は『葛城事件』で、それぞれ見ました。

(注2)発案者の海野によれば、“笑み”を“浴びる”という意味。

(注3)海野と実道がコンビを組むことになってすぐの頃の時点と思われます。

(注4)相方の海野が交通事故で死んだばかりの頃の時点と思われます。
 なお、このシーンは、外が雨ということもあるのでしょうが、あまり車が動いているようには見えません(夏海が握っているハンドルが少しも動きませんし、車自体も振動しないので)。

(注5)『スキャナー』でも、仙石野村萬斎)と丸山宮迫博之)とのコンビ「マルティーズ」が登場しますが。

(注6)海野と雛子とが、駐車場に駐車している車の中で話しているところに、突如、大型の車が入ってきて黒沢たちの車の隣に停まります。そして、車の中からバットを持った男(日向丈)たちが現れ、黒沢たちを脅し出すのです。

(注7)雑誌『シナリオ』9月号掲載の本作のシナリオにおいては、冒頭は、上記(1)の1番目のパラグラフにあるシーンと3番目のパラグラフにあるシーンとが入れ替わっています。シナリオ通りにすると死の影が映画の最初から立ち上ってしまうでしょうが、それを避けるために、編集段階で監督が入れ替えを行ったのではないかと推測されます。

(注8)黒沢の両親は、海野と同じように交通事故で亡くなっているところ、黒沢は、その事故に巻き込まれて死んだ男性の墓参りをして、お笑いに復帰する旨の決意を報告します(というのも、その事故を契機として、黒沢はお笑い界から身を引いているので)。
 それが命日だったため、死んだ男性の妻(大島葉子)と息子(九内健太)と出くわします。そして、息子から、「俺を笑わせたら、許してやる」と言われ、黒沢はネタを披露します。

(注9)同様に、黒沢の両親の交通事故死についても、簡単に話の中で触れられているだけです。

(注10)その後、死んだ男の息子が、「千葉県市原市で竜巻が金物工場の倉庫を直撃し、金盥が空に飛ばされて、……」というスマホのニュースを読み上げて大笑いするのですが、だからといって、…。

(注11)例えば、夏海が持ってきた弁当を実道が怒って払いのけてしまい、弁当は地面に落ちて散乱してしまいます。にもかかわらず、夏海は地面に転がっている弁当の中身をしゃがみこんで食べたりするのです!



★★★☆☆☆



象のロケット:エミアビのはじまりとはじまり


後妻業の女

2016年09月09日 | 邦画(16年)
 『後妻業の女』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)芸達者の俳優たちが多数出演しているのでオモシロイに違いないと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の始めは2000年の夏のこと。
 ゼッケンを付けた男女が、海水浴場の砂浜で体操をしています。
 結婚相談所「ブライダル微祥」の所長・柏木豊川悦司)のナレーションが入って、「48歳の名城小夜子大竹しのぶ)がチームのエース。病気持ち65歳の元木六平直政)がターゲット」、「小夜子の相棒の瀬川瑛子余貴美子)、50歳。メンクイなのでカスばかり掴んでいる」と仲間を紹介し、さらに「男の高齢者がよくモテる。資産があって、持病があればなおいい」、「所長の私はあれこれ調整するのが役目」などと言います。
 そして、砂浜にいる柏木が、「皆さん、走ってみましょう!ただし、無理は禁物」、「浜辺を駆け抜けるのです」と大声で言うと、皆が、山積みにされているスイカに向かって一斉に走り出します。
 すると、元木が倒れます。
 小夜子がすぐに近寄って「救急車!」と怒鳴り、さらに元木に対し「私、あんたを看取ったる!」と言います(これで元木は、小夜子の5番目の夫になります)。

 次いで、2006年の初秋。
 柏木が「この秋、何人かポックリいくと思ってる。で、後は一期一会」などと嘯いているところ、大阪の川を巡る遊覧船で「ブライダル微祥」のパーティーが開かれます。
 柏木が、「皆さん、右手は大阪の街。こんな大阪は恋の街です。この大阪の街で素敵な恋を見つけましょう」と挨拶をします。
 54歳になっていた小夜子は、このパーティーで津村森本レオ)と仲良くなり、彼は小夜子の6番目の夫となります。
 同時に、小夜子は、「好きなことは、読書と夜空を見上げること」と言いながら、武内伊武雅刀)にもアプローチします。
 武内は「近畿テレビの役員でした」と自己紹介し、「趣味はカラオケ」と言って、マイクを持って歌い出します。
 柏木は、ナレーションで「糖尿だろうが何だろうが、二股三股は当たり前」と言い、津村がすぐに亡くなったことから(注2)、武内が小夜子の7番目の夫になります。

 こんな小夜子と柏木ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、高齢者の持つ資産を狙って夫婦となって詐欺を働く「後妻業」を生業とする主人公の女とその共犯者の男の有様を、コメディタッチで描いた作品。実際に、モット陰惨な形での事件(容疑者周辺で最低7人の男性が変死)が起きているだけに、笑って見てばかりもいられないものの、主演の大竹しのぶの演技が素晴らしく、こうした役柄にピッタリの感じがしました。

(2)本作は、高齢者の結婚事情をコメディタッチで描いた作品といえば聞こえはいいですが、実のところは、大変ブラックな内容となっています。
 なにしろ、小夜子の5番目の夫の元木や6番目の夫の津村は、あるいはまともな死に方をしているのでしょうが(注3)、小夜子の7番目の夫の武内や8番目の夫の中瀬津川雅彦)は、まともな死に方をしていません(注4)。
 ですから、ラストで、探偵の本多永瀬正敏)と中瀬の長女・朋美尾野真千子)が見守る中、小夜子と柏木が、相携えて楽しそうに「ブライダル微祥」の船上パーティーを行っている様子を見ると、これで話が終わってしまっていいのかな、と思えてきます。
 なにより、類似する実際の事件では、既に容疑者が逮捕され、死刑の判決を受けている者もいるくらいなのですから(注5)。
 少なくとも、刑事が内偵を始めるくらいのことは描いてもいいのでは、と思ったところです。

 でも、そんなつまらないことはどうでもいいのでしょう。
 まず本作は、後妻業に焦点を当てているところが面白いと思いました。
 相手の資産を狙った結婚というのであれば、一般的には、後妻業のみならず後夫業もありうるでしょうし、高齢者で未婚の資産家を狙ってもいいのではないかと思ってしまいます。
 でも、まだまだ夫の方が妻よりも年齢が高いのが普通の日本。高齢の資産家女性の後夫になったとしても、どちらが先に死ぬハメになるのか分かったものでもありません(注6)。
 また、未婚の高齢者で資産家というと、数がかなり限られるでしょうし、簡単に他人を受け入れそうもない感じがします。
 などと考えると、「業」となるのは、やっぱり「後妻業」なのかなという気がしてきます。

 それと、本作は、小夜子と柏木とのラブ・ストーリーと見ることもできるでしょう。
 二人の関係は、所長とその手駒ということで、お互い同士決して気を許したりはしません(注7)。それに、柏木はホステスの繭美水川あさみ)や理沙樋井明日香)に入れあげたりしますし、小夜子も竿師の舟山(笑福亭鶴瓶)に心が動いたりします。
 このようにいがみ合ったり反発したり浮気したりする2人ながらも、心の底では相手を十分認め合っていて(注8)、ラストの2人の笑顔を見ると、ようやくあるべきところに落ち着いたのではという感じがしました。



 他方で、本作は、サスペンス物ともみることができるでしょう。
 というのも、本作では、柏木と小夜子による殺人事件のほかに、重要なキャラクターとして、刑事上がりの探偵の本多が登場するのみならず(注9)、ピストルが発射されたり、殺人未遂事件が起きたりもするのですから(注10)。



 結局のところ、本作は何でもありのゴッタ煮の娯楽大作であり、あまり考えずに楽しんで見れば充分なのではないでしょうか(注11)。

(3)渡まち子氏は、「映画はあくまでもエンタテインメントなので、クライマックスとその後は、典型的なご都合主義だった。だが、このお話、いつか迎える自分の姿として、親世代の“あるある”として、さらには日本全体の心配事(?)として、見ておくといいかもしれない」として60点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『源氏物語―千年の謎―』の鶴橋康夫
 原作は、黒川博行著『後妻業』(文春文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、大竹しのぶは『ギャラクシー街道』、豊川悦司は『娚の一生』、笑福亭鶴瓶は『家族はつらいよ』、津川雅彦は『0.5ミリ』、永瀬正敏は『64 ロクヨン 後編』、尾野真千子は『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、中瀬の長女役の長谷川京子は『桜田門外ノ変』、水川あさみは『太陽の坐る場所』、風間俊介は『エヴェレスト 神々の山嶺』、本多の傷を治療する獣医役の柄本明余貴美子松尾諭は『シン・ゴジラ』、六平直政は『ヤクザガール 二代目は10歳』、伊武雅刀は『幕末高校生』で、それぞれ見ました。

(注2)柏木のナレーションで、津村について、「70歳。1級建築士で不動産会社社長。肝臓を患い、程なくして腹上死した」と紹介されます。

(注3)ただし、公式サイトに掲載の「人物相関図」においては、元木、津村、武内、中瀬を「小夜子による後妻業の被害者たち」とくくっていますし、雑誌『文藝春秋』9月号掲載の大竹しのぶの「後妻業の女に気をつけて」では、「小夜子に殺される役としては津川さんのほか他に六平直政さん、森本レオさん、伊武雅刀さんがいらして」と大竹しのぶが話しています。
 そういうところからすれば、元木と津村も小夜子に殺されたのかもしれません。

(注4)武内は、柏木によって車ごと崖から突き落とされて殺されていますし、中瀬は、小夜子によって酸素マスクを外された上、血管に空気を注入されて殺されているのです。

(注5)例えば、青酸化合物を服用させ6人を殺害した容疑をかけられている筧千佐子容疑者とか、婚活連続殺人事件の木嶋佳苗容疑者。後者は、死刑判決を受けています(高裁段階)。

(注6)もちろん、本作のように、結婚後に相手を殺害するというのであれば話は別ですが。

(注7)例えば、小夜子が、中瀬の金庫を鍵師(泉谷しげる)を使って明けてもらおうとする際に、柏木は、自分も一緒に立ち会うと強硬に主張します。

(注8)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、大竹しのぶは、「小夜子はきっと子供の頃から親からも愛されたことがなくて、彼女自身も本当に人を愛したことがない人なんだろうなと思ったんです」といいながらも、「小夜子が一番好きな男性は柏木だと思います。でも、仕事のパートナーだから、それを口にしたらこの男は逃げる、ということもわかっている」と述べています。



(注9)亡くなった中瀬の遺産がすべて小夜子に横取りされるとわかり、怒った中瀬の次女・朋美が友人の弁護士・守屋松尾諭)に相談すると、探偵の本多を紹介されます。
 本多は、「ブライダル微祥」の内情を調査するのですが、………。

(注10)小夜子の息子のヒロシ風間俊介)が、柏木の依頼で本多をピストルで殺そうとしたり(失敗しますが)、あやうく小夜子の首を絞めて殺してしまうところでした。

(注11)いうまでもありませんが、クマネズミが、後妻業の女に付け狙われるような資産家の高齢者になることなど到底予想できないこともあり!



★★★☆☆☆



象のロケット:後妻業の女

ミリキタニの猫《特別篇》

2016年09月06日 | 洋画(16年)
 『ミリキタニの猫《特別篇》』を渋谷のユーロスペースで見ました。

(1)評判を耳にして映画館に行ってきました。
 今回は「特別編」として、2007年に公開された『ミリキタニの猫』だけでなく、新作短編の『ミリキタニの記憶』(2016年)も同時に公開されています。
 本作が始まる前に、『ミリキタニの記憶』の製作・監督のMasa(マサ・ヨシカワ)氏が舞台に登場して挨拶をし、その中で、ジミー・ミリキタニの展覧会が馬喰町のギャラリーで開催されると話していました(注1)。

 本作の始めの方では、ダンボールの箱を引いて歩く老人の姿が映し出されます。その老人は、韓国系デリの横の壁の前で道具を広げて絵を描き出します。彼の顔が画面に大きく映し出されますが、ジミー・ツトム・ミリキタニです。



 映画を撮影しているリンダ・ハッテンドーフ監督の声で説明が入ります。「ここが、有名なソーホー地区」、「いつもあそこで彼を見かけます」、「ホームレスと思っていました」、「猫の絵を数枚もらった」、「彼は代金を受け取らない」など。

 タイトルが流れ、「2001年1月ニューヨーク」の字幕。
 絵を描いている老人にカメラが近づいて、リンダ監督が「こんにちは」と言い、「撮ってもいい?」と尋ねると、老人は「ああ」と答えます。さらに、監督が「お名前は?」と訊くと、老人は「ミリキタニ」と答え、「ワシの猫の絵は大人気だ」と言い、「明日の夜、絵を取りに来なさい」と付け加えます。

 ニューヨークの市内には吹雪の警報。セントラルパークは氷点下となり、雪も降ります。
ジミーは、ビニールで覆われた場所で絵を描いています。
 監督が「寒くない?」と尋ねると、彼は「心配ない」と答えます。更に、監督が「ここで寝てるの?」と訊くと、彼は「一時的に」と応じます。

 ある時、ジミーが「頼みがある。これをシモムラさんに送ってくれ」、「この絵にはストーリーがあるが、シモムラさんならわかる」と言うので、監督はロジャー・シモムラ氏に手紙を書きます。
 シモムラ氏が本作に登場し、「私も強制収容所を描くので仲良しになりました」などと話します。ジミーも、「収容所で、3年半、絵を教えていた」と語ります。

 こんなジミー・ミリキタニに焦点を当てながら本作は綴られていきますが、さあ、どのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、ニューヨークで、猫と原爆と強制収容所を主に描くホームレスの日系人画家ジミー・ツトム・ミリキタニを描いているドキュメンタリー作品。80歳の老齢になっても、路上で元気にどんどん絵を描く姿に圧倒されますが、特に、彼が語る収容所の話とか、監督と彼との関係とかに興味がひかれます。
 なお、同時上映される新作短編は、画家に接したことのある日本人の証言を取りまとめたもので、ジミーの晩年の様子がわかります。

(2)本作については、日系人画家に関する作品という以外ほとんど何の情報も持たずに映画館に入り、タイトルから、専ら猫が登場するものとばかり思い込んでいました。
 確かに、映画の中には猫が登場し、また猫を描いたジミーの作品もいくつか映し出されます。とはいえ、専ら、ジミー・ミリキタニが戦争中から戦後にかけてどのようにアメリカで生きてきたのかがいろいろ語られているので、最初のうちは戸惑いました。
 ですが、猫を飼っているわけでもなく、猫好きでもないクマネズミにとっては(なにしろネズミですから!)、むしろとても興味深い話を聞くことができて、思いがけないプレゼントをもらったような感じになりました。

 ジミーが話す話の中心は2点です。
 一つは原爆の話。
 ジミーは、1920年のカリフォルニア州サクラメントで生まれましたが、すぐに一家は日本に帰国して広島で暮らし、18歳の時に再びアメリカに戻ります。
 彼自身は、アメリカにいたために原爆を経験していませんが、親族が原爆によってかなり亡くなったようです(注2)。
 そんなこともあるのでしょう、ジミーは、原爆ドームが赤い炎に包まれる様子を絵に描いたりします。



 もう一つは、強制収容所の話。
 ジミーは、22歳の時に、カリフォルニア州のツールレイク(Tule Lake)に設けられた収容所に送られます。
 彼はそこに3年半ほどいましたが、その時の有様をいくどとなく絵に描いたり話したりしています(注3)。



 こうした話をジミーは、リンダ監督が撮るカメラに向かって行っているのですが、「9.11」の後、咳き込んでいるジミーに対して、リンダ監督は「うちにいらっしゃい」と言うのです(注4)。
 このリンダ監督とジミーとの関係の描き方も、本作で興味深いところです。
 一方のジミーは、自分のことを「グランドマスター」「アーチスト」と言って決して卑下せず、リンダ監督を対等の同居人と見なしています(注5)。
 他方、そうすることに消極的なジミーに代わって、リンダ監督は、政府の福祉サービスが受けられるように奔走したりするなど、何かと面倒をみます(注6)。

 こうした有様のジミー・ミリキタニを本作で見ていると、いつしか、タイトルの「ミリキタニの猫」の“猫”とはジミー御本人のことではないのかと思えてきます。なにしろ、ジミーは、日本人画家としての自負が強烈にあって、決して他人に頭を下げようとせず、どんな境遇にあっても相手と対等にわたりあおうとするのであり、これは猫の特性とも言えるのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「監督と被写体との信頼関係を感じる1本」として70点をつけています。



(注1)詳しくはこのHPで。

(注2)ジミーは、「母の一家は全滅した」などと話します。

(注3)ジミーは、「収容所はカリフォルニアの砂漠の中に設けられていて、ウサギが出るし、夏にはガラガラヘビも」、「収容所に送られた時に、すべて没収された」、「サクラメント生まれなのに、日本へ帰れと言われた。酷いことをする政府だ」などと話します。
 また、ジミーが絵を教えていた少年が収容所で死んだとも話します。
 こうしたジミーの話しぶりからすると、アメリカ政府の措置にひどく憤っていて、受けられるはずの政府の福祉サービスも積極的に受けようとしていないように見えます(ジミーは、福祉サービスの担当者に「何の助けも要らない」「社会保障は気にしないでくれ」「年金なんか受け取るものか」などと言います)。
 なお、下記の「注6」をご覧ください。

(注4)本作の「鑑賞ガイド」掲載のリンダ監督のエッセイ「監督の視点」によれば、「ともに過ごした期間は5ヶ月」とのこと。

(注5)例えば、「夜10時には帰宅する」と言って外出したリンダ監督が0時すぎに戻ってくると、それまで起きて待っていたジミーは、「とても心配した。夜中は危ない。外は悪いやつばかりだ」と父親のような言い方をするのです。

(注6)戦争中にジミーが市民権を放棄したりしてなかなか難しかったものの、ホームレス用の宿舎の空きが見つかり、ジミーは、リンダ監督の家からそちらに移って住むことになり、また386.34ドルの年金も受け取ることになります。
 このようにジミーの態度が軟化したことの一つのキッカケは、実際の前後関係はわかりませんが、あるいは「ツールレイク強制収容所ツアー」に参加して(2002年)、それまでのわだかまりから解放されたことがあったように思われます(ツアーが終わった後ジミーは、「いい気分だ、みな話した。みな分かってくれた。もう怒ってはいない」と話します)。



★★★★☆☆



イレブン・ミニッツ

2016年09月02日 | 洋画(16年)
 『イレブン・ミニッツ』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)評判が良さそうなので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台はワルシャワでしょう(注2)。
 最初の方では、警察から戻った夫・ヘルマンヴォイチェフ・メツファルドフスキ)が妻で女優のアニャパウリナ・ハプコ)と言い合いをしています。
 ヘルマンが「さあ、話してくれ、俺を閉めだして何をしたんだ?」と言うと、アニャは「あなたが、最初に殴ったのよ」と答え、それに対しヘルマンは「やつがお前の尻を触ったからだ」と応じます。
 さらに、ヘルマンが「何があったんだ?」と訊くと、アニャは「5時に会う約束なの」と答えます。
 ヘルマンはそれを無視して、「警察では一睡もできなかった」と言って、シャンパンに睡眠薬を入れて飲みます。
 そして、「行くのはやめてくれ」とアニャに求めます。アニャが「私を信用しないの?」と答えると、ヘルマンは「そんなことはない。結婚したのがその証拠だ」と言います。

 舞台は変わって、画面には別の男が現れて、「あの女、全部持って行きやがった!」、「この指輪のおかげで惨めなことになった!」などと言って怒り狂います。

 画面が変わって、監視カメラの映像がスクリーンの左右に現れます。
 机の前に男が座っています。
 その前に座っている警官が書類を取り出し、その男がサインをします。

 また、画面が変わって、パンクへアの女が、「続けても?私はその頃ここに戻ってきました」と答えると、男が「あなたはここを出るはずだったのでは?」と尋ねます。女は「少し休憩してもいいかしら。臭くてたまらない」などと言います。

 さらに、別の部屋で、若い男が「母さん」と呼ぶと、女は「急いでいるの」と取り合わず、それで、若い男は、「消えた。さっきまであったのに」とつぶやき、大きな鞄を肩にかけながら、「母さん、もし何かあったら、とにかく、母さんが全て知っているわけで、…」などと話します。

 こんな具合に断片的な映像が次々と映し出されていきますが、さあ、この後どのように映画は展開するのでしょう、………?

 本作はポーランド映画で、都市で暮らす様々な人間が、夕方5時丁度から5時11分までの11分間に何をするのかを描いている作品。それぞれお互いに何のつながりも持っていないにもかかわらず、偶発的な出来事の重なりによってつながりを持ってしまう様子が、サスペンスフルに描かれており、音の使い方がトテモ巧みなこともあって、見ている方は思わず引きこまれてしまいます。群像劇ともいえるこうした構成の作品はこれまでにも作られているころ、本作がそれにどんな新しさを付け加えているのかは見てのお楽しみです。

(2)それぞれマッタク別々の背景を持っている人たちでありながら、たまたま同じ列車に乗り合わせたがために、その列車がひとたび事故に遭うと、バラバラだった人たちが同じ運命を共有することになってしまう、という状況であれば、これまでにも映画で描かれていたように思われます。
 例えば、『人生スイッチ』の第1話「おかえし」では、お互いに無関係と思って乗り込んでいた飛行機ですが、突然、地上のある家に向かって墜落し始めます。
 ただ、それくらいでは話に面白さがありませんから(注2)、インパクトのある映画になるように捻りが加えられています。すなわち、ある乗客の話がきっかけとなって、乗り合わせている人たちの間には共通事項があることが判明してきます。どの人も過去に同じ男に酷い仕打ちをしてしまったようなのです(注3)。

 本作についても、まるで、事故に遭遇する電車に乗り合わせた人たちのように、それぞれの人に関するエピソードがバラバラに描かれていながらも、最後になって同じ事件の中に絡み取られてしまう、という有様が描かれているような印象を受けます。
 しかしながら、実際には、描かれている人たちは、それぞれマッタク孤立しているわけでもなく、別の人たちとある程度のつながりがあるようにも描かれているのです(注4)。

 例えば、本作の最初の方で登場する女優アニャは、5時になると、ホテルで待ち構えている映画監督のリチャードリチャード・ドーマー)の部屋(注5)に現れます(注6)。



 下心のあるリチャードは、アニャの気を引こうといろいろ喋りますが、アニャは簡単になびきそうにありません。そうこうしている間に、嫉妬深い夫・ヘルマンがホテルにやってきて、二人が会っている部屋のある11階の廊下をうろつき出します。



 それを不審に思ったボーイが警備員をよこすよう連絡を取ります。そして、…。

 また、ヘルマンがアニャのいるホテルへ急ぎ足で向かっている画面には、ホットドッグを屋台で売っている男(アンジェイ・ヒラ)が映ります(注7)。



 この屋台には、パンクヘアの女が2度ほどホットドッグを買いに現れます。
 さらに、屋台の主人の息子が、オートバイを乗り回す若い男(ダヴィド・オグロドニク)のようなのです。そして、この若い男は、…。

 本作では、他にも様々な工夫が凝らされています。
 例えば、近くに飛行場があるのでしょうか、車輪を出した旅客機が低空を飛ぶ映像が何度も挿入されます(注8)。それだけでなく、その爆音で、部屋の鏡にヒビが入ったりもします。

 そして、本作で注目すべきは、ラストのカタストロフの描き方でしょう。
 何しろ、スコリモフスキ監督は、「一番最初にあったのは、映画のラストのシークエンス」と述べているくらいですから(注9)。
 そこでは、列車の衝突事故とか飛行機の墜落事故といったありがちな一瞬間の出来事ではなく、ヘルマンが消火器を使ってドアをぶち壊してアニャのいる部屋の中に突入し、そして…という具合に、連鎖反応的に様々の出来事が起こるのです。
 まさに、スコリモフスキ監督が語っているように、「あらゆる曲がり角には、不測の事態、想像を絶する事態が潜んでい」るのであり(注)、そのことがこのラストのカタストロフでよく表わされているように思いました(注10)。

 このカタストロフを写している監視カメラの映像は、マルチスクリーンの中の映像となってどんどん小さくなり、最後には無数の映像の一つに過ぎなくなってしまいます。
 ということは、こうしたカタストロフは、当事者にとっては実に大変なことであるにせよ、社会というマクロの視点から見たら、無数に起きている出来事のホンの一つにすぎないということでしょうか。そして、「人生において非常にたくさんの悲劇を経験し」たスコリモフスキ監督に言わせれば、「人生ってそういうもの」なのでしょうし(注11)、それほど厳しい状況に遭遇したことのないノーテンキなクマネズミにしても、あるいはそうかもしれないと思うところです。

(3)中条省平氏は、「一見ばらばらなドラマの断片が一気にひとつの焦点を結んでいくラスト10分は、まったく予想不可能、誰しも仰天すること請けあいだ。映画にまだまだこんな可能性があると示し、しかも、どんな災厄が起こっても不思議でない現代世界のいわば縮図になっている。驚くべき作品である」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 藤原帰一氏は、「この「イレブン・ミニッツ」では、選択とは無関係に結果が襲いかかります。ストーリーがないんじゃなくて、ストーリーの否定。これじゃ映画になるわけありませんが、それを映画に仕立ててしまった。その奇妙なリアリティーをご賞味ください」と述べています。
 柳下毅一郎氏は、「映画の中で空に不思議な黒い染みを見る人がいる。全員がそれを見るわけではなく、そもそも本当にあったのかどうかもわからない。遍在するカメラにも決して映らない謎の物体、その見えない存在こそがこの11分間の核なのである」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『エッセンシャル・キリング』のイエジー・スコリモフスキ

(注2)この監督インタビュー記事においてスコリモフスキ監督は、「この映画の撮影は主にワルシャワで、グジボフスキ広場を中心に撮影しました。……でもこの広場はおろか、都市自体も特定することは意味をなさないし、特定しえない都市として描いたつもりです。高層建築が立ち並ぶような現代都市で、交通が発達した都市であれば、どこでも構いません」と述べています。
 そうだとしても、少なくとも撮影地はワルシャワです。

(注2)それだけならば、ある無差別殺人事件に遭遇した被害者各人の過去のエピソードを綴る新聞記事とあまり変わりがないようにも思えます。

(注3)飛行機の墜落は、酷い目に合わされた男の、酷いことをした人達に対する復讐だったのです!

(注4)言うまでもありませんが、本作に登場するすべての登場人物が相互につながりを持っているというわけではなく、主要な登場人物が、狭い範囲ながら相互に関係しているというのに過ぎません。
 なお、邦画の『海炭市叙景』でも、函館の市電と思われる電車にたまたま乗り合わせている人々が別々のエピソードで描かれるという構成をとっています。そして、当該市電は事故に遭わないとはいえ、そこに乗り合わせた人々の間に緩いつながりがあるように描かれています。

(注5)ルームナンバーが「1111」と明示されます。
 映画のタイトルといい、本作では「11」が強調されていますが(見る方は、どうしても「9.11」を想起してしまいますが)、この監督インタビュー記事においてスコリモフスキ監督は、「なるべく意味付けされていない数字を選んだつもりだ。最終的には、純粋に美学的な水準で、どういうわけか11という数字の対称性(シンメトリー)と単純さに魅せられたので、それに決めたんだ」と述べています。

(注6)リチャードが監督する映画への出演についての面接という設定になっています。

(注7)ホッドドッグ屋の主人は、本作の始めの方で、警察で机に向かって座って書類にサインをしていた男のようです。もしかしたら彼は、(子供に対してでしょうか)卑猥な行為をして警察に捕まり、書類にサインをして釈放されたのではないか、と思われます〔映画の後のほうで、この男に唾を吐きかける若い女(男の行為を目撃したのかもしれません)が登場しますから。なお、男は、この女から「先生」と言われています〕。

(注8)上記「注5」で触れた監督インタビュー記事で、スコリモフスキ監督は、「ふつう飛行機はあんなに低く飛ばないものだ。人は普段より低く飛行機が飛んでいると不安になる。また、街中を走る霊柩車、登場人物の何人かが気づく「空にあるなにか」など、不安を呼び起こすシーンをかなり意識的に、随所に忍ばせた」と述べています。

(注9)上記「注2」で触れた監督インタビュー記事において、スコリモフスキ監督は、「一番最初にあったのは、映画のラストのシークエンスです。この映画を作り始めた当時、私にとって一番身近だった数人が亡くなったんです。そうした悲劇的な体験から、私は悪夢を見るようになりました。この映画のラストはそうした悪夢のひとつとして私が見たものです。これはドラマチックな映画のラストにふさわしいと思い、そこから逆算して物語を作ってゆき、冒頭の部分にたどり着きました」と述べています。

(注10)上記「注2」で触れた監督インタビュー記事において、スコリモフスキ監督は、「我々は薄氷の上や奈落のふちを歩いているのと同じです。あらゆる曲がり角には、不測の事態、想像を絶する事態が潜んでいます。確かなことなど何ひとつとしてなく、次の日、次の一時間、次の一分間でさえも不確かで、全く予期せぬかたちですべてが不意に終わってしまうかもしれないと思います」と述べています。

(注11)上記「注2」で触れた監督インタビュー記事によります。



★★★★☆☆



象のロケット:イレブン・ミニッツ