映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

岡崎乾二郎展

2010年04月03日 | 美術(09年)
 東京都現代美術館で「岡崎乾二郎展」(MOTコレクション特集展示)が開催されているというので見に行ってきました(4月11日まで)。

 きっかけは、「ART TOUCH 絵画と映画と小説」というブログの記事で、安積桂氏が、この展示覧会で展示されている作品「あかさかみつけ」などについて、「小学生の図画工作の展示だ」と酷評していることで興味を惹かれたからです。

 安積氏は、「図工の先生が、あらかじめ製作方法を説明して生徒に作らせ、面白いのとつまらないのを捨てて、平凡な作品を選んで並べれば、こんな展示になるだろう。並べてみると、それなりにおもしろい展示になっているのは、その平凡さの背後に反美術的態度がうかがえるからだ」とまで述べています。
 そこまで言うのであれば、実際にはどんな作品なのだろうと確かめてみたくなってしまいました(注1)。

 まず、「あかさかみつけ」は、会場入ってすぐの部屋の壁に8点ほど取り付けられています。

   

 確かに、紙を切りぬいたようなもので(樹脂板でできているようです)、いわれてみれば「小学生の図画工作」といった雰囲気がうかがわれます。
 安積桂氏が言うように、「『あかさかみつけ』は絵画と彫刻の合いの子だ。オブジェでありながら、台の上に置かれるのではなく、絵画のように壁に掛けてあ」って、「一枚の板の切り起こしが、もとの一枚の板にもどそうとして、、実と虚の面がズレていたり、表面のはずが裏面の色になっていたりして、ちぐはぐなイリュージョンに似た錯覚が生じている」が、「展示された作品をすなおに見れば、けっきょくはちょっと面白い図画工作」なのかもしれません。
 といって、一つ一つの作品の切れ込みは、トテモ小中学生の手には負えない独創的なものだとは思いましたが。

 それに続く部屋には、今回の特集展示のもう一つの目玉と言える2枚組の大作絵画が3つほど展示されています。






 こちらについても、安積桂氏は、「似たような色や形で、アクションでもなくドリッピングでもなく、ブラッシュ・ストロークでも線描でもなく、ただパレット・ナイフ(?)で塗りつけたようで、どれも同じような「絵具で汚したキャンバス」にしか見えない。イリュージョンのない退屈な四角い事物である」と酷評しますが、こちらの方は作品からかなりの面白さを感じました。

 むろん、こちらは素人ですから、あるいは「知覚心理学的な錯視現象」かもしれず、もしくは「作品の外部にあるもの」によっているのかもしれませんが、なんだか伊藤若冲が現代に蘇って「動植綵絵」を描いたら、ひょっとしてこんな感じになるのでは、と思わせるものがありました(単なる妄想に過ぎませんが)。

  

 ですから、朝日新聞の大西若人記者の「コントロールされた色彩の増殖が、モダニズムの白い大空間と響き合い、浮遊感を味わうほどに心地よい」という感想(朝日新聞2月10日夕刊)も、あながち的外れとは言えないのではないかと思いました。

 ところで、安積桂氏のブログ記事には、「会田誠は山口晃とのふたり展『アートで候。』(上野の森美術館)に出展した『浅田批判』(岡崎作品のパロディ)で揶揄した」とあり、何のことかと思って、その注に従って以前の記事にあたってみますと、「「アートで候」展の二階、「山愚痴屋・澱エンナーレ2007」 のコーナーにあった会田誠の浅田彰批判の作品が面白かった」とあります。

  

 昔のことなのですっかり忘れていましたが、そういえばこの2007年の「アートで候」展に行ったことがあるな、カタログも買った覚えがあるなと思いだし、本棚の奥からそれを引っ張り出して見てみました。ところが、それらしいものは掲載されている様子がありません。
 また、その後に出版された作品集『MONUMENT FOR NOTHING』(グラフィック社、2007年)にも記載がありません。
 あるいは違うのかしらと思っていましたら、今週号(4月8日)の『週刊文春』の「著者は語る/アート界の異端児による知性と諧謔に満ちた初エッセイ集」の記事で紹介されている『カリコリせんとや生まれけむ』(幻冬舎、2010.2)において、なんとこの作品のことが触れられているではありませんか!

  

 「そこで展示した最新作の中には、作品集に収めることが間に合わなかったものもいくつかあった」(P.26)。
 なんだ単にそういうことなのか、というわけです。

 ただ、会田誠氏は、「あの作品は、一見するとそういう論争的なものを志向しているようでありながら、全くしていない。一般的な美術品と同じく、ただ鑑賞してもらうことを目的にしている」と述べているので(P.29)、安積桂氏のように「『浅田批判』(岡崎作品のパロディ)で揶揄」と簡単に言い切れないかもしれません(注2)。
 といっても、同書の先の方で、「不思議なくらい、笑っちゃうくらい、僕、岡崎さんや浅田さんの考えていることが、全く理解できないんです」、「正直言って現代日本のモダニストって僕にとって、存在に無理がありすぎって思っちゃいます」(P.38)と述べているところからすれば、実際には「揶揄」しているとしか考えられないところですが!

 なにはともあれ、日本の現代美術の中心的な存在になっているアーティストの作品に触れることが出来たということで、高揚した気持ちになったことは確かです。


(注1)安積桂氏は、これ以前にも岡崎市の作品を批判しています。すなわち、2008年4月11日の記事には、「会田誠の《浅田批判》は岡崎乾二郎のパロディなのだが、その岡崎の作品を『わたしいまめまいしたわ』展(東京国立近代美術館)で見たけれど、案の定つまらん絵」とあります。
 この展覧会にも行きましたが、その時は河原温氏の作品に専ら引き寄せられてしまって、あまり印象に残りませんでした。

(注2)会田誠氏のこの作品が問題となったのは、絵そのものが岡崎氏に類似しているばかりか、タイトルが、「美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちでとるのだろうか。」となっていて、岡崎氏張りに長い上に中身が挑戦的だ、といったことからでしょう。

「皇室の名宝(2期)」展(上)

2009年11月29日 | 美術(09年)
 「皇室の名宝(2期)」展を見に東京国立博物館に行ってきました。

 同展の「1期」の期間はおよそ1ヵ月ほどありましたが、この「2期」は11月12日から29日までというように2週間チョットしかありません。そういうこともあってか、入場するまでに10分ほど待たされました。

 以下では同展で特に興味を惹かれた展示物を、3回に分けて紹介いたしましょう。

 私にとって「皇室の名宝」展の「1期」の見ものは、何といっても伊藤若冲の「動物綵絵」でしたが、「2期」では小野道風筆の「屏風土代」です。



 というのも、この展示物は、書家・石川九楊氏が著した浩瀚な『日本書史』(名古屋大学出版会、2001.9)の中で詳細に取り上げられているからです。



イ)同著では、「書」の一般的な見方から書き始められています。すなわち、「序章」の初めの部分は「書の見方」と題して、「書を見るための枠組」が整理されています。
 まとめていえば、あらまし次のようになります(P.5~P.6)。

・書かれた文字をぼんやり見るのではなく、「起筆・送筆・終筆」、そして「転折〔横筆部から縦筆部への転換部〕・撥ね・右はらい・左はらい・点」といった「字画の書きぶり」がどうであるかというように見なければ、書を見る(読む・鑑賞する)ことにならない。文字は図形ではなく、書は絵画ではないからである。 

・こうした「字画の書きぶり」は、さらに微細な「筆蝕」と呼ぶ「書字の微粒子的律動」によって生まれる。そして、この「筆蝕」は、「速度」・「深度」・「力」・「角度」・「構成」という側面から考察される。

ロ)同著では、その第16章において「屏風土代」が取り上げられています。
 この書は、道風35歳の筆跡で、内裏屏風の色紙形に清書するための下書きとされています。

 石川氏に言わせれば、「屏風土代」は、「日本和歌の基準でありつづけた『古今和歌集』に匹敵する書」であり、「書における『古今和歌集』」で、その特色は、「漢字(中国文字)で書かれているように見えるが、もはや漢字(中国文字)ではありえず、女手(平仮名)が漢字様の姿を見せた日本漢字の書、つまり「女手」の書」であって、ここから「真の日本書史」が始まるとのことです。

 そして、石川氏は、上記のイに掲げる観点から「屏風土代」を構成する漢字を個々に見つつ、概要次のように述べています。

・起筆部では、対象の奥に向かう垂直の力が負荷されず、流れるように描かれている。
・最終画の「点」が、流れるような「通過形」で書かれている場合がある。
・多くの「転折部」は、日本式に流れるような姿で描き出されている。
・「撥ね」は、ひきずるように長く描かれている。
・横画については、「S」字を横に寝かせた形の描出法を生んでいる。そして、このように描く書法は、日本式の基準書法として明治時代の初めまでずっと引き継がれていく。
・「後」という文字における「ぎょうにんべん」の省略形は、「女手(平仮名)」そのものと言っていい。
・「女手」に働く連綿力・連続力が、この「屏風土代」においても一貫して見られる。「筆脈(筆蝕の自然なつながり)」を加味すれば、すべての文字が一筆書きで一連なりに書かれていると言っても過言ではない。
・とはいえ、いまだいくぶんか中国式の書きぶりが残存しており、そこが、まったく中国式の書きぶりを払拭し日本式の書の典型となった藤原行成筆「白楽天詩巻」の書との違いである。

ハ)これまで「書」に出会うと一瞥してオシマイにしていましたが、以上のようなことを予備知識として持ちながら見てみると、ほんの僅かながらも小野道風の世界の中に足の先を踏み入れた気がしてきます。
 石川氏も、「筆蝕から点画、部首、そして文字をどのように読めばよいか。それには点画をなぞればよいのである。一点一画の力の入れ方、抜き方、そして点画のつみ上げ方(構成)を逐一たどればよいのである」と述べているところです(『書く―言葉・文学・書』〔中公新書、2009.9〕P.184)。
 むろん、そのためには「臨書」が必要なのでしょうが、展覧会場において指で空中でなぞってみるだけでも「書」の世界に一歩近づいたような感じがしてきます。

ニ)今回の展覧会で展示されたものの中には、石川氏の前掲書において取り上げられているものが他にもありますが(小野道風筆「玉泉帖」と伝藤原行成筆「粘葉本和漢朗詠集」)、長くなりすぎてしまいますので、その紹介はまた他日を期すことといたしましょう。

ホ)さらに、1996年に上梓された『中国書史』(注1)と今回紹介しました『日本書史』とともに石川氏のライフワーク「書史」三部作を構成する『近代書史』も本年7月に刊行されたところ(毎日新聞に掲載された藤森照信氏の書評を参照)、これらの著書に掲載されている「書」を集めた大展覧会の開催を大いに切望するところです(注2)。




(注1)今回の展覧会においては、王羲之の「喪乱帖」(3種類の書簡〔尺牘〕を敷き写した模本)が展示されています。ただ、石川氏の『中国書史』の中でもところどころで顔を出してはいるものの、この作品についてのまとまった言及はありません。これは、石川氏が、「王羲之の最高傑作と推す日本の書家も多い名品」ではあるが、「王羲之よりも300年後の唐代の、より進んだ、より洗練された書法が全面を覆ってしまっている」と見ているからではないかと思われます(石川九楊著『やさしく極める“書聖” 王羲之』〔新潮社・とんぼの本〕P.6)。
(注2)これらの3部作においては、中国の「書」について詳細な分析がなされるばかりか、日本の「書」については、「漢委奴国王」印の議論から始められ、最後の方では「丸文字」や「中央省庁看板文字」にまで話が及んでいて、その守備範囲の広大さは尋常なものではなく、まさに「書」についての“百科全書”と言えるでしょう!


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「夢と追憶の江戸」展

2009年11月18日 | 美術(09年)
 お昼の時間を利用して、日本橋の三井記念美術館で今月23日まで開催されている「夢と追憶の江戸」展(慶應義塾創立150年記念)を見に行ってきました。

 本展覧会は、慶応大学の名誉教授であった高橋誠一郎氏が収集した浮世絵コレクションを展示するもので、浮世絵の初期のものから明治期の末期のものまで名品が網羅されていて、浮世絵について一般人が勉強するには格好のものです。
 ただ、高橋コレクションはおよそ1500件と膨大で、今回はその中から約300件が厳選されていますが、それでも数が多いため展示も3回に分かれています。私が特に見たかったのは東洲斎写楽の浮世絵ですが、毎回展示替えがあったため、見ることができたのは第3期の「市川鰕蔵の竹村定之進」(上図)にすぎません(「三世市川高麗蔵の志賀大七」などが展示されていたそうですが、残念ながら見逃してしまいました)。
 
 写楽の絵を見たかったのは、その絵の出来栄えが素晴らしいことはもちろんですが(第2室では、写楽の浮世絵の一点だけが展示されています)、ただそれだけでなく、中野三敏氏の著書『写楽―江戸人としての実像』(中公新書、2007.2)において、写楽の実像が明確にされ、三井記念美術館に近いところにその住まいがあったらしいとわかったこともあります。
 
 同書によれば、写楽の「俗称は斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住む。阿波侯の能役者」であり、それも八丁堀の「地蔵橋」のそばに住んでいたとのこと。
 
 インターネットで「地蔵橋」を調べてみると、「地蔵橋公園」なる公園があることがすぐに分かります。ですが、住所は「日本橋本町4丁目」、八丁堀というよりむしろ神田駅に近く、この公園はどうも写楽の「地蔵橋」とは関係なさそうです。

 そこで、丹念に検索をかけてみると、概略次のように書かれているブログに遭遇します。「探し当てた古地図を見ると、新亀島橋から西へ、東京駅に向かってのびる通称「桜通り」の南側に沿って3丁ほどの掘割があるが、その掘割と、今の新大橋通りから西へ1本、日本橋よりの南北に走る道―通称「鈴らん通り」―の交差するところ、そこにかの地蔵橋は架かっていた」。

 この「桜通り」は、三井記念美術館や日本橋三越が建ち並ぶ「中央通り」を南に行ったところにある日本橋高島屋のすぐ南側にあって、その両サイドに桜が植えられている道を指しています。

 早速、その「桜通り」を東に向かい、昭和通りを歩道橋で跨ぎ、新場橋を通り、該当すると思われる場所に出かけてみました。無論、わざわざ行ってみたところで、写楽=斎藤十郎兵衛が住んでいた屋敷を偲ぶよすがとなりうるものは何も見つかりません。「鈴らん通り」と交差する角に、「やき鳥・宮川」から出る煙が立ち込めているだけです。

 なお、写楽は、“謎の浮世絵師”といわれるだけあって、実像がどんな人物だったかにつきたくさんの仮説がこれまで提出されています(注1)。
 なかでも、10年ほど前に亡くなったフランキー堺氏は、俳優業の傍ら写楽研究に励み、ツイには映画〔『写楽』1995年:篠田正浩監督〕まで制作してしまいました。ネットで調べてみますと、配役について「真田広之 (とんぼ〔斎藤十郎兵衛/東洲斎写楽〕)」とありますから(注2)、テッキリこの映画は中野説を踏まえていると思ったのですが、レンタルのVTRを見てみますと、確かに、歌舞伎で宙返りなどをする裏方の「とんぼ」=写楽とされてはいるものの、肝心の「斎藤十郎兵衛」は別人の扱いとなっています。



(注1)「写楽=喜多川歌麿」説など。
ちなみに、写楽のお墓は、関東大震災前に浅草の「海禅寺」にあったと言われる一方で、四国徳島市の「東光寺」にも現にあり、なかなか特定できていないようです。
(注2)この映画は非常に生真面目に制作されているものの(がゆえに?)、共演した真田広之と葉月理緒菜との関係が騒がれただけで、今ではあまり注目されていないようです。


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「皇室の名宝」展

2009年11月06日 | 美術(09年)
 先週のことになってしまいますが、「皇室の名宝―日本美の華」(御即位20年記念特別展)の「1期」が終わりを迎えるというので、慌てて東京国立博物館に行ってきました。

 今回の展示品の目玉は、なんと言っても伊藤若冲の「動物綵絵」の30幅が一挙に見られるとことでしょう。これらの絵自体は、皇居の大手門のスグ近くにある「尚蔵館」の公開時に見たことがあります(2006年)。ただ、そのときは6枚づつ5回に分けて展示されましたから、今回のように全部が一度に見渡せるというのは、またとない機会であり、それなりの意義があることではないかと思いました(ただ、2007年に、京都の相国寺の承天閣美術館で、当初置かれたとおりに「釈迦三尊像」3幅と一緒に展示されたとのこと)。

 この「動物綵絵」の中の1つに次の絵があります。



 この「紫陽花双鶏図」については、ほぼ同様のモチーフで描かれたものがあり(下図)、若冲の個人コレクターとして著名なジョー・プライス氏のコレクションに入っていて、2006年に同じ博物館で開催された「若冲と江戸絵画」展でも展示され、その際に見たことがあります。



 ところで、これらの絵で細密に描かれている紫陽花を見ると、先日見に行った山種美術館「速水御舟」展で展示されている「翠苔緑芝」(1928年)の左半隻に描かれた紫陽花に思い至ります。



 ここでも、紫陽花の花びらが一つ一つ実に細密に描かれていて、外観は異なっていても、あるいは若冲の精神に通じるところがあるのかな、と思ったりしました。展覧会の会期が接近していると、こうした楽しみ方もあるもんだと一人で悦に入っていたわけです〔雑誌『別冊太陽 速水御舟』(2009.10)に掲載されている古田亮・東京芸大准教授の論考「写実の琳派―御舟の挑戦」では、「翠苔緑芝」の紫陽花に見られるものは、「写真のように描く技術」ではなく、「いわば細部に宿る写実」であると述べられています。尤も、11月2日の記事で取り上げた『私の速水御舟』では、「この作品の部分部分を詳細に調べて何かを論じるという方法は、作者の意に背くものである」(P.109)とありますが〕!

 今回の展覧会は人が大勢集まるだろうと考え、夜8時まで開いているという金曜日に行ってみたのですが、こうした催しには目敏い人がたくさんいますから、やはりそれぞれの絵の前では黒山の人だかりで、とても30幅全体を見渡すどころの話ではありません。
 展示方法を変えるか(モット高いところに絵を掲げれば遠くからでも見ることが出来ます)、あるいは入場制限をするか(フィレンツェのウフィッツィ美術館では、常時館内に入場している人数を700人程度に抑えています:私も4時間以上美術館の外で待たされました!)、いずれにせよ何らかの対策を取るべきではないかと思いました。

 なお、今回の展覧会では、この他、岩佐又兵衛の「小栗判官絵巻」や狩野永徳の「唐獅子図屏風」も陳列されています。特に、岩佐又兵衛については、2004年に千葉市立美術館で開催された「岩佐又兵衛」展を見て以来ですから、絵巻に大きく描かれている閻魔大王を見ると随分と懐かしさを感じました。何しろ、その次の年に岩波ホールで上映されたドキュメンタリー映画「山中常磐」(自由工房)も見に行ったくらいですから!


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『私の速水御舟』

2009年11月02日 | 美術(09年)
 前日の記事においては、山種美術館で開催されている「速水御舟」展を取り上げたところ、偶々、八重洲ブックセンター8Fにある美術書のコーナーをのぞいていましたら、吉田武著『私の速水御舟』(東海大学出版会、2005.10)なる著書に遭遇しました。副題が「中学生からの日本画鑑賞法」とあり何となく胡散臭く、著者も美術の専門家ではなさそうなので躊躇したものの、類書があまりありませんから買って読んでみました。



 最初の「本書の素描」において、吉田氏は、「御舟は日本画壇の最高峰」であり、「日本画の世界に於いて、最高の独創性を示した巨人」だと最大限の賛辞を呈します。

 と言っても、この「芸術の発する霊気を全身に受けて感動する為に、作者の苦労を知る必要も無いし、歴史的位置付けを確認する義務もない」、と著者は続けます。
 すなわち、「我が国の教科書には、ただ芸術を鑑賞する為にも、それなりの理屈を要する様に書いてあ」って、「美術史では、またまた「何々主義」の詳細が説明されるだけで、作品そのものの価値を、作品に接する行為だけから判断する様には鍛えられ」ていないが、「芸術作品を如何に分析してみても、そこに本質が焙り出される訳ではない」と述べます。
 要すれば、「芸術を鑑賞する為の「最善の方法」とは、出来る限り予備知識を持たず、周囲の雑音から耳も目も塞いで、作品に一対一で対峙すること、それも写真や複製ではなく出来得る限り現物を観ることである」というわけです。

 そうであれば、早速、具体的な議論に当たってみるに如くはありません。
 本書では、速水御舟の作品から9つの絵が選び出され、論じられています。では、有名な『京の舞妓』(東京国立博物館蔵)についてはどうでしょうか?


(京の舞妓)

 この絵は、本書の第4章「『京の舞妓』の波長」で取り上げられています。
 まず、「鑑賞」という項では、この絵のモノクロ写真が掲載され、次いで「感想」と「考察」が述べられ、最後に「資料」として、制作年近辺の出来事にかかる年譜などが記載されています。即ち、「「観て・感じて・考える」という順序」に従った「正しい鑑賞法」に則って書かれているわけです。

 著者はどんな「感想」を持ったのでしょうか?
 著者によれば、この作品において御舟は、「圧倒的な技量で人物以外の周辺背景に筆を尽くしている」が、「それでも最初は確かに人物が「京の舞妓」であったのかもしれない。しかし、誠に残念ながら「波長がズレた」のであろう。その一方で、物言わぬ着物が、畳が、俺を描けと迫ってきた。……こうして「京の着物」、或いは「京の畳」は制作された。取り残された舞妓が面白かろう筈がない。そこに益々人間の心の葛藤が表出してきた。ソレが不気味さの正体である。不本意な人間の表情をここまで辛辣に切り取る為には、背景が徹底的に描かれていなければならない。その為の細密描写であり、着物であり、畳であり、花瓶なのである」とされます。

 この感想は、「不気味」な舞妓の表情のよってきたる所以までも明確に述べていて、まさに「虚心坦懐に現物に接する」という著者の独自性がヨク発揮されているのではと思われます。
 例えば、山種美術館の館長である山崎妙子氏は、同館開催の「速水御舟展」の図録において、この絵につき、「畳の目一つ一つに至るまで徹底的に細密に描かれ」ていて、「日本画の画材を用いて、可能な限り油彩画的な質感表現に迫ろうとしている。彼の視線は、人体そのものよりも、むしろそのまわりのもの、着物や壺や団扇などの細部に注がれる」と解説しています(P.21)。
 ここでは、むしろ、細密に描かれている物の方に注目してしまい、肝心の舞妓がなぜあのような顔つきをしているのかに関心が及んでいません。そうなるのは、もしかしたら、この絵では「細密描写」がなされている、という先入観念に囚われてしまっているせいなのかもしれません。

 次いで、著者は、「考察」において、「横山大観からも「悪写実」と酷評され、御舟の院展からの除名が提案されたほどである」(同上)とする従来からの説につき、これは大観の「理解の及ばぬ作品を突如として鼻面に差し出された、その瞬間に出た一種のぼやきと見るのが妥当であ」って、「恐らく、大観は程なく御舟の意図する所を理解し、その作品の意義も認めて、その歩の確かなることに安堵したものと思われる」と述べます。
 さらに、この大観と御舟の対立と見られる関係について、「革命を起こした者(=大観)が、次なる革命(=御舟の作品)を理解しない」ことと捉え、ニールス・ボーアとアインシュタインの量子力学を巡る「知的対決」になぞらえてもいます(注1)。
 こう検討した上で、著者は、「人間の不確かさ、頼りなさ、哀しさを描こうとした時、逆に物の持つ確かさ、鮮やかさが御舟の目に極めて力強く映」り、「この対比を利用すれば、人間の持つ弱さや嫌らしさが見事に浮き彫りにされるだろうと考えたのではないか」と歩を進め、しかし「写生のやり方が足りな」かったがために失敗してしまったと本人が認めたのだ、と述べます。
 この絵の細密描写は「やりすぎ」だとする通常の見方に対して、吉田氏はここでも実に独創的な見解を披露しています。

 著者の吉田氏は「本書の素描」において、「本書は、巷間言われる所の印象批評の弊、即ち「出来の悪い感想文」で終わっているかも知れない」と謙遜しますが、なかなかどうして、随所に創見が伺われ、はなはだ知的刺激に富む内容となっていて(注2)、またまた山種美術館に出向いて、月末まで開催されている「速水御舟展」を見てみようか、という気にさせられます。


(注1)吉田氏によれば、「「量子力学」に先鞭を着けた」アインシュタインは、「ボーアとハイゼンベルクにより定式化された量子力学には終生反対の立場を取り続けた」とのこと。
(注2)ただ、この本の3分の1は、「附録―日本画の絶対的定義について」の記述にあてられています。
 そこでは、「「日本画」とは、明治の開国以降、怒濤の様に押し寄せて来た西洋文化、その代表としての西洋絵画に対抗する為に作られた「新名称」であり、高々百年程度の歴史しか持たない」とする相対的・消極的な定義ではなく(P.216)、「日本画は「即非の論理」(鈴木大拙)に従って、見るものと見られるものの区別が消えた所から描かれたものである。そこには主観も無く、客観も無い。部分と全体の対立も消え失せた「無限の世界」を描くのである」とする絶対的・積極的な定義を提示します(P.224)。
 大層興味深い見解ですが、日本論や日本人論によくみかける“日本と西洋(日本でないもの)”という「二分法」にやはり囚われてしまっているのではないか、著者が言う「西洋」とはどこに具体的な対象があるのか、などと疑念が湧き、ズブの素人ながら、こうした問題に深入りしない方が良いのではと思ってしまいます。


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速水御舟展

2009年11月01日 | 美術(09年)


 この10月1日にオープンした山種美術館で開催中の「速水御舟展」に行ってきました。

 山種美術館は、もとは兜町の山種証券のビルの中にあって、3、4回ほど行ったことがあります。その後10年近くは、九段の千鳥ヶ淵そばの「三番町KSビル」に入っていたところ、このほど広尾に新築したビルに移ったというわけです。

 九段にあったときはやや行き難いこともあってご無沙汰でしたが、今度の広尾は、恵比寿駅から歩いても10分足らずで随分アクセスしやすくなりました。
 それに、山種美術館といえば速水御舟で、それが開館記念につきおよそ120点もまとめて展示されるというのでは、見に行かないわけにはいきません。


(建物外観)

 付近のバス停あたりから新しい美術館を見ると、かなり高い建物(地上6階建て)となっています。これがすべて美術館なのかと思ったら、実際には、1階が受付と喫茶室、そして地下が展示場です。自然の光ではなく人工照明を使いながら、最善の環境の下で日本画を展示しようというわけでしょう。

 美術館のHPによれば、速水御舟(1894~1935)は、「40年の短い生涯におよそ700余点の作品を残し」ており、「初期の南画風の作風から、細密描写、象徴的作風、写実と装飾を融合した画風、そして水墨画へと、御舟はその生涯を通じて、短いサイクルで次々と新しい試みに挑み続け」たとのこと。
 今回の展覧会では、見るたびに感銘を受ける「炎舞」(1925)や「名樹散椿」(1929)といった人口に膾炙した作品のみならず、そうした「新しい試みに挑み続け」る彼の姿を明らかにすべく、「婦女群像」などが展示されていて、なかなか興味深いものがあります。


(炎舞)

 御舟は、1930年に10ヶ月もの間ヨーロッパ各地を歴訪して西洋の絵画を見、帰国してからはそれまであまり描いてこなかった人物画に挑戦し、その結果が未完の「婦女群像」(1934)。スケッチにすぎないながら、完成していたら必ずや素晴らしい作品になったろうにと思わせます。


(婦女群像)

 今回の展覧会は、山種美術館所蔵の御舟作品がすべて展示されるとのことで、著名な作品ばかりでなく、19歳の時の「錦木」から、死ぬ前の年に描いた「秋茄子」などの作品も展示され、それらの際だった美しさを堪能できます。

 ただ、最近発売された雑誌『別冊太陽 速水御舟』(2009.10)を見ると、他にもたくさんの優れた作品があることがわかり、そうした作品をも集めた大「速水御舟」展が開催されないものでしょうか?


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ゴーギャン展

2009年09月21日 | 美術(09年)
 この連休で閉幕というので、慌てて竹橋の東京国立近代美術館で開催中の「ゴーギャン展」に行ってきました。

 実のところ、ゴーギャンの絵は余り好みではありません。ただ、なんといっても大家ですし、特に今回はわが国で未公開の傑作が展示され、さらには「この展覧会は、日本初公開となるこの傑作を中心に、国内外から集められた油彩・版画・彫刻約50点の作品を通して、混迷する現代に向けられたメッセージとして、あらためてゴーギャンの芸術を捉えなおそうとするもの」といった美術館側の触れ込み(なんと大仰な!)もあって、そこまで言うのならと重い腰を上げて見に行ってきた次第です。

 好みではないというのは、勿論よく分からず絵に興味を持てないためで、どの絵も似たり寄ったりのタヒチの女性が、独特の宗教的な意味を与えられて描かれているだけ、という感じがしてしまうのです。

 ただ、今回日本で初めて公開された「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(1897-98年:ボストン美術館)という大作〔注〕は、相変わらず宗教的な雰囲気が色濃く漂っているものの、実に様々なモチーフが描き込まれていて、それらを解説(会場では、そばの壁に、それぞれのモチーフについて若干ながら説明している図が展示されています)に従って一つ一つ丁寧に見ていきますと、次第にこの画家にも興味が持てるようになってきます〔上記の画像を参照〕。

 例えば、この絵の中央の〝果物を摘む女性〟は、倉敷の大原美術館に所蔵されている「かぐわしき大地」(1892年)―タヒチ(楽園)の森の中で、果実(リンゴ)に手をさしのばすタヒチの女性(エヴァ)が描かれています〔今回の展覧会でも展示されています〕―などとの関連性が指摘されます。
 また、右下隅の〝寝ている幼児〟は、現地妻との間でもうけた子供(生まれてスグに亡くなる)を「キリスト降誕図」として描いたものであるとされます。

 絵そのものだけを見て良い悪いを判断するのではなく、このように文字による解説が与えられ謎解きされてはじめてその絵に興味を持つというのは、絵画をよく分かっている人からすれば邪道なのでしょう。

 とはいえ、どんなルートでもかまわないから絵画とか画家に興味を持つことが出来れば、それはそれでかまわないのではないかと開き直り、この絵画展のカタログ(ハードカバーの立派な本です!)も読んで、この画家をもう少し調べてわずかでも理解を進めてみようと思っているところです。

〔注〕美術館側の説明では、「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」をゴーギャンの「最高傑作」だとしています。ですが、晩年の「集大成」的な大作だから「最高」だ、としているに過ぎないように思われます。元々、鑑賞者によってどの絵が「最高」なのかは異なって当然でしょうから、予めこのように決めつけてしまうべきではないのではないでしょうか?
 採算性の向上を図るために美術館側がPRに努めなくてはならず、展覧会の目玉となる作品を出来るだけプレイアップしたい事情もわかります。とはいえ、このところ各所で開催される様々の展覧会で見受けられるPRのやり方は、少々度が過ぎるのではと感じるところです。

「骨」展

2009年08月22日 | 美術(09年)
 六本木の東京ミッドタウンの北隅に設けられている「21_21 DESIGN SIGHT」という「デザインのためのリサーチセンター」(設計:安藤忠雄)にて開催されている「」展に行ってきました。  

 この展覧会は、慶大の山中俊治教授がディレクターとなって開催されたもので、「洗練された構造を持つ生物の骨をふまえながら、工業製品の機能とかたちとの関係に改めて目を向けます。キーワードは「骨」と「骨格」」だと、その趣旨が述べられています。  

 私の方では、本年のお正月に、東京都現代美術館(MOT)で開催された「ネオ・トロピカリア─ブラジルの創造力」展で展示されていた「リヴァイアサン・トト」の作者であるブラジルのエルネスト・ネトの作品が、今回の展覧会でも見られるということもあって、関心がありました。  

 会場の中に入ると、入口には、車(フェアレディーZ)の車体の骨格が実物で示され、さらには動物の骨格の写真から始まって、椅子の骨格や精密機械の内部構造などが示され、その奥にはお目当てのエルネスト・ネトの作品も見つかりました。  

 彼の作品は、「リヴァイアサン・トト」に比べたらズット小振りですが、お馴染みの薄い布を使いながらも骨組みが明示されている点が異なっています。1個所空いている入口から中に入ると、薄いソフト皮膜の感触が伝わってきて、優しさに身体が包まれた感じを持つことが出来ます。  

 ネトの作品以外にも興味深い作品がいくつも並べられています。特に、本来骨格を持たない蜘蛛の骨格を示している「骨蜘蛛」が面白いと思いました。  

 昔から機械の構造がどうなっているのだろうかと、ラジオなどを壊してみることが好きでしたから、今回の展覧会には興味がありましたが、ただいまごろなぜこんな展覧会が開かれて若い人たちが大勢入場しているのか、なかなか理解しがたいところもあります。  
 あるいは、写真集『BONES』などに見られるような動物の骨格にあらためて美しさを感じるようになったこと(撮影技術の向上等によって)が一つの背景としてあるのかもしれません。
 さらに、もしかしたら、様々な精密な機械が身近に溢れているにもかかわらず、その中の機構が殆どブラックボックスになっていて仕組みを把握しがたくなっていることに対する反発といった側面があるのかもしれません。  

 なお、この展覧会の内容はそのHPで見ることが出来ますし、またディレクターの山中俊治教授のブログ「デザインの骨格」でも、各作品についての解説が与えられています。

 (画像は「骨蜘蛛」)

山水画

2009年04月25日 | 美術(09年)
 府中の森公園の中にある「府中美術館」の展覧会「山水に遊ぶ」で、「蕭白」と「若冲」とが展示されていると聞いたので行ってきました。

 これまでもなかなか優れた展覧会を開催している美術館なので、期待して行ったわけですが、期待に違わずかなり充実した内容でした。
 ただ、「若冲」の作品は、会期前半のみの展示で、遅く行ったものですから見ることは出来ませんでした。

 それでも、蕭白の作品があり、また司馬江漢や池大雅は随分とありましたし、さらには秋田蘭画の小田野直武や佐竹曙山の作品も見ることが出来、こんなに近場でそれも600円で日本画の名品をいくつも楽しむことが出来るとは、と感激してしまいました。

(上記の画像は、曾我蕭白の「月夜山水図屏風」〔重要文化財 近江神宮蔵〕 )

三鷹天命反転住宅

2009年02月11日 | 美術(09年)
ブログ「私が知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の本年1月18日の記事は、河本英夫氏の『哲学、脳を揺さぶる─オートポイエーシスの練習問題』(日経BP社)を取り上げています。

 同ブログによれば、その本では、著名な前衛画家の荒川修作氏の手になる住宅「天命反転住宅」が紹介されているとのこと。さらに、当該住宅につき、「「すさまじぃークレイジー」という言葉がピッタリ。色も形も、この世のものとは思えない。赤、青、緑、黄の原色が圧し、本来「四角い」はずのドアが円形だったり、そもそも「直方体」である部屋が球体となっている」とあり、「そこで普通に一泊した翌朝、著者は「いつもと違う」筋肉痛に悩まされ」たとも書かれています。

 この住宅のある場所は三鷹。それなら我が家からそう遠くないところ、そんな面白い住宅が近くにあるなら行ってみるに如くはないと思い立ち、ネットで調べたところ、「三鷹天命反転住宅」は、荒川修作+マドリン・ギンズ(詩人)が設計したもので、2005年10月に完成、その建物見学会が2月11日(水)に開催されるとわかりました。
 見学に要する時間は1時間半で、ただ料金が一人1,500円とかなり高いものの、内部を見ることが出来るのであればソレも仕方がないと思い、早速申込みをしたうえで、当日三鷹市大沢(東京天文台の近くで、東八道路に面しています)にある住宅まで出かけてみました。

 集合時間の11時に集まったのは12人くらい、学生か建築事務所に勤務する人たちが多いようです。
 定刻になるまで若干余裕があったので、建物の外観を眺めてみましたが、上記のブログが言うように、まさに奇妙奇天烈な形と色遣いです(これでは、裁判沙汰になった楳図かずお氏の「まことちゃんハウス」も顔色なしでしょう!)。

 11時になると、早速、3階の展示用の住まいに連れていかれ、係員の説明を聞きました。
 それによれば、全体は9戸の住宅からなるマンションで、各戸は3LDKと2LDKのタイプがあって、前者の賃料は月19万円、後者は17万円。現在、1戸は事務所として使っており、残りのうち6戸で人が実際に住んでいるそうです。

 住宅の内部に入ると、中央が一段低くなってキッチンとされています、その周りに球形の部屋(床まで球形ですが、一応書斎だそうです)とか2つの四角い部屋(畳部屋と寝室)やバスルームが取り囲んでいます。さらに、床は傾斜があるだけでなく、デコボコが無数につけられています(足の土踏まずの形に合わせてあるとのこと)。
 ただ、原色が使われていた外観と異なり、内部は、様々な色が使われてはいるものの、不安定な印象を与えるものではなく、むしろ落ち着いた色使いとなっています。

 この住宅を設計した際のコンセプトは、人はすべて死ぬという“天命”をなんとかして“反転”させたい、それには、これまでの常識に反した行動をとらなければならない、そのための基盤として住まう場所を非常識的なものにする、といったことのようです〔何冊も著書を英語で出していて、その訳本が事務所に置いてありましたが、非常に難解な思想だと説明していました〕。

 好奇心を持って覗いてみるくらいならまだしも、とてもそこで暮らす気にはなれません。特に、各部屋がすべて丸見えで(トイレだけは少し隠れていますが)、一人切りになれる場所が無いというのは問題があるかもしれないと思いました。
 とはいえ、現状の自分を離れて違った自分になるためには、マズこのくらいのことは克服しなくてはならないのかもしれません。