映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

HK/変態仮面

2013年09月16日 | DVD
『HK/変態仮面』のDVDを見ました。

(1)本作は、なかなか映画館の中に入って行きづらいタイトルなこともあってついつい見逃してしまいましたが、最近TSUTAYAでDVDがレンタルできるようになり、また、NHKのEテレ「哲子の部屋」(8月20日)で新進気鋭の哲学者・千葉雅也氏(同志社大学准教授)が本作を取り上げたということを耳にしたので、さらには台風18号で外出できないこともあり、見てみました。

 映画は、漫画『究極!!変態仮面』(作:あんど慶周)を実写映画化したもの。
 本作の冒頭では、同漫画の画像が早送りで映しだされます。
 そして、クレジット・ロールが流れたあと、歌舞伎町1丁目のSMクラブに、警視庁捜査一課の刑事たちが、連続爆弾魔が入り込んだとして踏み込むものの、一番に踏み込んだ色丞刑事は、SMの女王様・魔喜(片瀬那奈)に逆に捕まって鞭打たれます。でも、彼の方が魔喜に惚れてしまって結婚するに至り、本作の主人公・色丞狂介(鈴木亮平)が生まれます。
 その間に父親は殉職するものの、狂介は、紅游高校の拳法部に所属する高校生に成長しています
 他方、母親の魔喜は現役を続けていて、至極まじめに高校生活を送っている狂介に対し、「お前のどこに母さんの血が入っているのか?」と怒る始末(父親の血は、正義感が強いというところに流れているようです)。
 そんな彼は、転校してきて彼のすぐそばの机に座ることになった姫野愛子(清水富美加)に一目惚れ。愛子の方も、拳法部のマネージャーになったりするものですから、狂介の思いは募るばかり。



 そんなある日、愛子が銀行強盗団に捕まって人質にとられる事件が発生します。
 ヘリコプターを用意しないと愛子たちをピストルで射殺すると強盗が言うので、なんとか助け出そうと狂介は銀行のビルの一室に忍び込みます。
 その際、狂介は、部屋に入ってきた強盗の一人を拳法で倒しますが、彼の覆面を被って変装すれば、怪しまれずに強盗団と人質のいる大部屋に入って行けると考えます。
 ただ、強盗が使っていた覆面ではなく、間違って女性用パンティを被ってしまうのです。ところが、一方で、「こんなものをかぶっては変態と思われてしまう」、「愛子ちゃんにこんな姿見せられない」と言うものの、他方で、「なんだ、この肌に吸い付くようなフィット感は!」「何だこの体内から押し寄せるマグマは!」と叫んで倒れてしまいます。
 その時、「通常、人間は潜在能力の30%しか使うことができないが、狂介の場合、パンティを被ることによって母親の変態の血が覚醒し100%の潜在能力を引き出すことができるのだ」との解説が入ります。
 そして、狂介はオーラを発して「変態仮面」に変身し、強盗団を倒し愛子を救出します。
 その後、変態仮面は、あちこちに出没して、市民を悪人から守ります。
 一方、紅游高校空手部主将の大金玉男(ムロツヨシ)は、ある目的から高校を廃校にしようと工作しますが、変態仮面はそれを妨害します。それで、大金は、様々の刺客を送って変態仮面を倒そうとします。
 さらに、新たに赴任してきた数学教師の戸渡(安田顕)が、補習授業と称して愛子に接近しますが、果たしてどうなることやら、………?



 ラストの方の、「変態仮面」と大金玉男との対決の前までは実に面白いコメディ作品に仕上がっており、そればかりか様々なことをも考えさせてくれるなかなかの傑作ではないかと思いました。

 色丞狂介(変態仮面)に扮した鈴木亮平は、『阪急電車―片道15分の奇跡―』でチラッと見たことがありますが(注1)、30歳で高校生の役を、それもなんとも傑作な役を、力いっぱい演じているのを画面で見るのは感動的ですらあります。



(2)さて、冒頭申し上げましたNHKのEテレ「哲子の部屋」ですが、その回は、「J-POPや話題の映画「HK/変態仮面」から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想を解き明かす」という内容でした(注2)。
 とはいえ、残念ながらその番組自体は見逃してしまいました。
 ただ、ブログ「思考の部屋」に掲載の記事「「哲子の部屋」における“メタモルフォーゼ”は、何を語っていたのか。」には、かなり詳しくその模様が述べられています。
 そこで以下は、同記事によりながら(言うまでもありませんが、文責はクマネズミにあります)、番組でなされた議論を少々見てみましょう。

イ)どうやら、千葉氏は、「変態仮面」と戸渡先生の「ニセ変態仮面」との対決をヤマ場とみなし、その勝利の帰趨に関して議論しているようです(注3)。

 映画において狂介の「変態仮面」は、戸渡先生の「ニセ変態仮面」から、そのヘンタイ性が偽物だと喝破されてしまい、1度目の対決では負けてしまいます。でも、2度目には、「ヘンタイであればあるほど強いなどという法則はどこにも存在しない」と見抜き、スピニング・ファイヤー対決を勝利します(注4)。

 この対決について、上に記載したブログの記事によれば、千葉氏は、あらまし次のように言っているように思われます。
 「戸渡先生はアイデンティティーを究めようとしている。ところが主人公は、言ってみれば“中途半端”だった」。
 「正義の主人公が(最初に)なぜ負けたかと思ったのかと言うと、自分には本当のアイデンティティーが無いんだということに囚われて、そう思ってしまった」。
 この場合、「(主人公も戸渡先生も)結局ヘンタイなのかノーマルなのかというアイデンティティー問題にこだわっているから、一方はアイデンティティーを追及する。他方は、アイデンティティーは無いということを突き詰めてしまう」。
 そして、「(主人公のように)自分は何者だかわからないということを突き詰めると、自己否定に陥る」。
 そうだとすると、「アイデンティティー追求と自己否定という袋小路からどう抜け出したらよいのか?」
 答えは、「ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめず、今の自分を肯定することで自身を取り戻す」こと。
 すなわち、「比べてより上、より上と追及するのではなく、“仮”の状態のこの自分でいいということ、自分はハンパな変態仮面なんだ、ということ」。
 結局、「中途半端な自分」を肯定することで戸渡先生との対決みたいなものから抜け出すことができる」のだ。

 要すれば、ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめずに、今の自分を肯定すること(自分はハンパな変態仮面なんだと考えること)によって、狂介は対決を征することが出来たんだ、ということでしょう。

 そこから、千葉氏は、結論的なところに行き着きます。
 「「本当の自分」「アイデンティティー」というものは一つの神話「近代の神話」かなと、だからドゥルーズの言葉、「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ」が現代哲学の根本原理。「何々でなければならない」という呪縛から逃れ(解放され)て、中途半端でいびつな自分でOKする、ことではないかなぁと思う」。

ロ)千葉氏の議論の内、戸渡先生と狂介の対決に関することについては、確かに戸渡先生は、自分のヘンタイ性を突き詰めているように思われます。その地点からすれば、狂介のヘンタイぶりはレベルが低いものだとみなせるでしょう。
 でも、アイデンティティーの観点から見た場合、狂介は、時々自分を見失うことがあっても、最初から「パンティを被ると変態仮面になるだけであって、自分自身はヘンタイではなくノーマルである」と確信していますし、ラストの方では仮面をとって素顔になった狂介が、そのことを愛子に告げます。
 決して、千葉氏が言うように、狂介がアイデンティティーとして「中途半端」なところにいるわけではないのではないかと思います。
 むしろ狂介は、ヘンタイ性が強いかどうかではなく(ヘンタイに関し「中途半端でいいんだ」と開き直ることによってではなく)、頑健な体と正義を貫く強い姿勢とが重要なんだ、と気がつくことによって、戸渡先生に勝つことができたのではないでしょうか(注5)?

ハ)千葉氏の議論の結論的な部分に関しては、これも、専門家の言うことに素人が難癖をつけても意味が無いとはいえ、「(人がもはや私と言わない地点に到達するのではなく、)私と言うか言わないかがもはやまったく重要でないような地点に到達することだ」というドゥルーズの言葉と、「中途半端でいびつな自分でOKする」という千葉氏の言葉とがそんなに簡単に結びつくとは思えないところです(注6)。
 まして、ドゥルーズの言葉は、フェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(宇野邦一等訳、河出書房新社。1994年)の「1 序―リゾーム」の冒頭に見られる文章であり(P.15)、そこでは二人の連名で著書を出すことについて議論されているのであって、「中途半端でいびつな自分でOKする」ことが主張されているわけのものではないように、素人見ながら思われるところです。
 とはいえ、専門家の言ですから、よりきちんとした裏付けがきっとあるものと思います。あるいは、番組の25分という時間的な制約によって、十分に議論しきれなかったことでしょう。この際、素人にもよく分かるように、雑誌『現代思想』にでもエッセイを掲載していただきたいところです(注7)。

(3)渡まち子氏は、「見ているこちらが恥ずかしくなるヴィジュアルの正義のヒーローを描く「HK 変態仮面」。“くだらない”という形容はこの映画には褒め言葉かもしれない」として20点をつけています(本文の最後に「意識的に低い点数を付けたが、これはもちろん褒めているのだ。念のため」と付言)。
 また前田有一氏は、「本作も前半はまさに大成功。マーベルコミックス映画をパロディにしたオープニングから大爆笑の連続で、原作読者にしたら間違いなく今年一番笑える映画となっている。連載第一回からリアルタイムで読んでいた私としても、文句のない出だしであった」云々として70点をつけています。




(注1)映画の初めのほうで、付き合っていた翔子(中谷美紀)に対して「別れてくれ」と言う男の役です。

(注2)このサイトの記事によります。
 なお、出演者は、千葉氏の他に、マキタスポーツ(お笑い芸人)と女優の清水富美加(『HK/変態仮面』に姫野愛子役として出演しています)。

(注3)「変態」に関しては、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、その番組において、2つの意味、大雑把に言えば、変身するという意味(metamorphose)と、性的異常という意味(abunormal)がある、と説明されたようです。
 映画に登場する「変態仮面」の「変態」はいうまでもなく後者でしょうから、以下では「ヘンタイ」と記すことと致します(少なくとも、狂介と戸渡先生との対決においては、ふたりとも既に変身しているのですから、「ヘンタイ」という点が前面に出てくと思います)。

(注4)映画はこのあと、空手部主将の大金玉男が巨大ロボットを操って「変態仮面」を打ち負かそうとしますが、あっけなく大金のほうがやられてしまいます。
 ただ、狂介の「変態仮面」は戸渡先生を打倒したのですから、もはや向かうところ敵なしであって、この場面は蛇足としか言いようがありません。
 このサイトの記事が言うように、まさに「この映画の残念さを象徴するシーン展開として私があげたいのは、やっぱりクライマックスの、変態仮面 VS 戸渡の実に『ジャンプ』的な激戦がちゃんとかっこよく終結したのに、その直後に大金が全観客脱力必至の「秘密兵器」をひっさげてノコノコ出てきたところ」です!

(注5)ここにはもう一つ別の観点も考えられるかもしれません。
 映画では「変態(ヘンタイ)」とまとめて取り扱われてしまっていますが、実際には、その内訳は実に種々雑多なものがあるようです。Wikipediaの「変態性欲」の項では、まず「性対象の異常」と「性目標の異常」の2つの項に大分類されたうえで、それぞれの項には小項目として10位上のものが記載されています。
 それに従えば、戸渡先生の「偽変態仮面」は、「性目標の異常」の「疼痛性愛」に含まれる「マゾヒズム」に分類されるでしょうが、他方で狂介の「変態仮面」は、「性対象の異常」の「拝物愛」(フェティシズム)ではないでしょうか?
 つまり、戸渡先生の異常と狂介の異常とは、同じ土俵の上で比較できないものと考えられます(狂介は、新品のパンティでは変身できませんが、新品のパンティでも変身できる者に比べて劣るわけではないでしょう!)。
 そこで、狂介は、戸渡先生に対して、「お前の問題提起の仕方は間違っている!二人の間で、どちらがよりヘンタイなのかを競うことは出来ないのだ!」と反論出来たのではないか、と思われるところです。

(注6)「~ような地点に到達すること」というのは、「中途半端でいびつな自分でOKする」といった、いかにも安易に見えるやり方とは対局的な努力を払った末のことではないでしょうか?

 なお、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、千葉氏は、「「本当の自分なんて言うものは無い」がドゥルーズのアイデンティティーの問題の答え」であり、「ドゥルーズは、「常に自分は別なものに変化し続けている」んだと強く言った人」であるとして、「家と職場で切り替わるパパの姿」を例示したようです(作詞糸井重里・作曲忌野清志郎の「パパの家」によりながら)。でも、そんなことくらいなら、例えば映画『鈴木先生』が言う「役割」の議論とどこが違うのでしょうか(同映画についての拙エントリの「注8」を参照してください)?

(注7)もしかしたら、近刊が予告されている千葉氏の著書『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)では、色々議論されているのかもしれません〔ただ、表題と同じタイトルの研究論文を眺めると(研究論文のため素人にはとうてい理解困難ですが)、「節約」が注目されているようで、あるいはその本では議論されていないのかもしれません〕。




★★★★☆




KAMIKAZE TAXI

2013年09月06日 | DVD
 『KAMIKAZE TAXI』のDVD(インターナショナル・バージョン)をTSUTAYAで借りてきて見ました。

(1)前回のエントリで取り上げた『RETURN(ハードバージョン)』を見ると、どうしてもその前作とされる本作(1995年公開、原田眞人監督)(注1)まで見たくなってしまいます。
 一つには、原田監督が本作との関連性を強調するからですが〔前回エントリの(2)〕、さらにまた、本作の素晴らしさを指摘する論評が目につくこと〔前回エントリの(4)〕もあります。

 本作の冒頭は、ブラジルやペルーなどから出稼ぎに来た日系人労働者が住むアパートでのインタビューです(注2)。続いて、本作が制作された時代(1954年)を明らかにするために、細川首相から羽田首相への交代を巡るニュース画像が流れ、そしてゴルフ場の場面となります。
 そこで、チンピラの達男高橋和也)が、悪徳政治家・土門内藤武敏)に引き合わされます。彼は、土門に女を世話する担当者となるのです。
 達男は、恋人レンコ中上ちか)と幸せな時を過ごす一方で、土門のもとにレンコとその知り合いのタマ片岡礼子)を派遣します。
 ところが、土門によってタマは顔に深い傷を負わされて戻ってきます。それをレンコは暴力団組長・亜仁丸ミッキー・カーチス)に激しく抗議したところ、達男の目の前であっさりと殺されてしまいます。
 怒った達男は復讐すべく、まずは仲間を集めて土門から大金を盗み取るものの、隠れ家は亜仁丸に簡単に見つけ出され、達男は一人命からがら逃げ出します。
 大金を持ちながら逃亡している途中、達男は一台のタクシーを拾うのですが、その運転手・寒竹役所広司)は、ペルー育ちの日系人(小学生低学年の時にペルーに移住)とのこと。
 この寒竹と、さらには顔に傷を負ったタマとが加わった3人組が、亜仁丸らの追求を避けつつ、復讐を何とかやり遂げようとしますが、果たしてうまくいくでしょうか、……?

 アクション物ながら、人物などの設定がなかなか入念に作られており、見る者もはじめからその世界にすっと入っていくことができます。加えて、やはり運転手・寒竹を演じる役所広司が格段に素晴らしく、その風貌といいしゃべり方といい、南米日系人そのものと思ってしまいます。さらには、達男を演じる高橋和也の元気溢れる演技も、本作にぴったりではないかと思いました。
 こうしたことからすると、南米に逃げていた主人公が日本に戻ってきて、雇い主に言われた男を殺すという今回作の『RETURN(ハードバージョン)』は、理由付けが薄い感じがしてあまり入り込めず、さらには、その「椎名桔平‐山本裕典‐水川あさみ」というコンビは、本作の「役所広司‐高橋和也‐片岡礼子」というコンビに比べると、全般的にどうも見劣りがしてしまいます。

(2)両作の関連性はどうでしょうか?
 前回のエントリで挙げた点から言えば、
・「タキシードを着たタクシーの乗客」というのは、本作の達男が、土門襲撃の際に着用していたタキシードのまま寒竹のタクシーに乗ることを指しているのでしょう。
・「温泉でのゲーム」については、本作では、達男や寒竹らが宿泊した温泉旅館の宴会場で、田口トモロヲがチャップリンの服装を着てチャップリン歩きをしたりします(注3)。

 他にも、例えば、
・本作における暴力団組長の名前が亜仁丸で、『RETURN(ハードバージョン)』の三姉妹の名前も芽・子・とされています。

 さらに言えば、
・『RETURN(ハードバージョン)』においては、北原が殺そうとする相手の男・狭土の祖父が、戦争中に細菌部隊にいたという設定になっていますが、それは、本作における悪徳政治家・土門が、戦争中に神風特攻隊にいて、寒竹の父親の元上官だったという設定に通じるものがあるでしょう。

 でも、それらの関連性などどうでもいいことです。
 なにしろ本作自体の出来栄えが誠に素晴らしく、こんな映画があることにどうしてこれまで気づかなかったのかなとクマネズミの不明を恥じるばかりです。

 それと、今回の『RETURN(ハードバージョン)』にあまり乗れなかったのは、本作がそれ自体でほぼ完結していて続編を作る余地が少なく(注4)、今回作がかなり無理をして作られているような感じがするせいなのかなと思ったりしました。



(注1)元々は、『復讐の天使/KAMIKAZE TAXI』のタイトルでOV作品として発売されていたもので(全2巻、200分)、その後劇場公開となり(169分)、VHS版(ディレクターズ・カット版:150分)も作られ(このサイトの記事によります)、最近では、インターナショナル・バージョンとしてDVDが2011年に出されました(140分)。

(注2)インタビューでは、日本における生活の大変さとか、不当な扱い受けた話などが語られます。
 なお、インタビューを受ける日系人労働者の一人に、あとでこの物語の主人公となる寒竹(役所広司)が入っています。

(注3)田口トモロヲは、DVD化されたインターナショナル・バージョンでは削除されていますが、この温泉旅館の宴会場で、寒竹らに対して行われた「自己開発セミナー」においてトレーナー役を演じています。このセミナーの場面は15分あまり続くもので、今回作の『RETURN(ハードバージョン)』における温泉場でのゲームの長々しい場面に通じるものがあります。
 なお、この「自己開発セミナー」の場面は、同じDVDの特典映像として収録されています。

(注4)主人公の寒竹は、父親を殺したゲリラ組織のリーダーが、自分ではなくコロンビアのギャングに殺されたこともあって(麻薬を巡る争いから)日本にやってきたわけで、日本における問題が解決してペルーに戻るとしても、そこでなすべきことは本作のストーリーから見えてきません。




★★★★☆




ブリューゲルの動く絵

2013年01月20日 | DVD
 『ブリューゲルの動く絵』をDVDで見ました。

(1)本作については、本ブログのタイトルに「絵画的」と標榜しておきながら、都合がつかなくて見逃してしまい、ズット気になっていたところ(注1)、そのDVDが昨年12月に出され、TSUTAYAでもレンタル開始となったので、早速、正月休みを利用して見てみました。

 本作は、ベルギーの画家ピーテル・ブリューゲルの絵画『十字架を担うキリスト』(1564年、ウィーン美術史博物館蔵)が持つ意味合いを、絵で描かれている人物たちを実写化(この絵に描かれている人物たちが、それぞれに扮した俳優たちによって動き出します)することで探究しようとするものです。

 元になっているのは、マイケル・フランシス・ギブソンの著作『The Mill and the Cross』(映画の原題と同じ)ながら、そのギブソンが、本作の監督・製作のレフ・マイェフスキと共同で脚本を書いています。

 この映画では、一方で、ブリューゲルの妻とそのたくさんの子供たちが食事をしたり、行商人がパンを売り歩いたりするなど、当時の様々の生活風景が丹念に描き出されますが、他方で、台詞を与えられている3人がいろいろ話します。

イ)画家のブリューゲルルトガー・ハウアー)が、この絵の構図等について、あらまし次のようなことを述べます(注2)。



・画面を大きくし登場人物も増やして、1枚の絵の中に多くの物語を描きたい。
・描き始めに基準となる点が必要で、それがゴルゴダの丘に引っ立てられていく救世主だ。彼はクモの巣の中心にいるクモでもある。
・ただ、彼は絵の中心にいるものの、目立たぬ存在だ。というのも、十字架を担がせようと兵士が捉えたシモンの方に群衆の目が向いているから(注3)。
・中央に岩山があって、その上に風車小屋が置かれるが、これはこの絵の軸であり、生と死の間にある。その風車小屋に粉屋がいるが、彼が、他の絵における神のように、すべてを見下ろしている。彼が挽いて出来る粉で、生命と運命のパンが出来、それを行商人が売り歩く。
・岩山の左側では、生命の樹が葉を茂らせる。
・その反対側の右手奥には、死の黒い輪(ゴルゴダの丘)。
・右手前には、死の木(車輪刑用の)が立っていて、根元には馬の頭蓋骨。
・最後に、そのそばに2人の男(ブリューゲルと銀行家のヨンゲリンク)。

ロ)銀行家のヨンゲリンクマイケル・ヨーク)(注4)は、スペインによる支配について、概略次のように妻に向って話します。



・この地に住む者はどんな宗派の人間とも共存できると信じているが、スペイン王は異端を認めず、彼らは王の命により残らず処刑される。
・このような横暴は我慢ならない。
・だが、赤い服の傭兵たちはスペインの支配者に仕えており、我々もその僕なのだから(注5)、彼らの振る舞いに耐えなくてはならない。

ハ)聖母マリアシャーロット・ランプリング)が、ゴルゴダの丘に向かう救世主について、だいたい次のように呟きます(注6)。



・彼を歓迎した同じ兵士達が、昨夜、彼を捕えにきた。
・さらに、夢中になって耳を傾けていた同じ群衆が、今朝は、彼の首を求めて叫んでいる。
・彼は私の息子、だが大人になって私たちを驚かせた。
・彼は、「私は地上に火を投げるために来た」、「私たちは運命の火をつかめるのだ」と言って笑みを浮かべた。
・彼は、世界に光をもたらした。その光は闇を脅かした。神や人を敬うことのできない愚か者や、権力に固執する者、因習に囚われている者にとって、彼は脅威となったのだ。


 これらの台詞からすると、ブリューゲルは、銀行家のヨンゲリンクの依頼に基づきながら、当時のスペイン国王によってネーデルランドに対しなされた暴政(異端審問に代表される)を、キリストの受難になぞらえて描き出そうとしているものと考えられます。
 描かれている聖母マリアは、キリストの母であると同時に、フランドルの状況を改革しようとして捕まり処刑される青年の母親でもあるのでしょう、あれほど支持していた民衆が今度は手のひらを返すように処刑の見物に集まってくる様を見て、嘆き悲しみます。
 この光景に対して、ブリューゲルは、見守るべき救世主よりも、今兵士に捕まえられているシモンの方に関心を持ってしまう民衆の有様を描くことによって、もう一捻り加えています。

 映画では、救世主の処刑が終わり、岩山の洞窟に遺体を安置すると、空が暗くなって雷鳴が轟きますが、一夜明けると空は晴れ渡り、何事もなかったように人々の普段通りの生活が行われ、皆は輪になって踊り出します。
 でも、果たして何事もなかったのでしょうか、人々は大切なことから目を逸らして日常生活に埋没しているだけなのではないでしょうか?

 この映画を制作したポーランド人のレフ・マイェフスキ監督は、単にブリューゲルの絵画『十字架を担うキリスト』の絵解きをするだけでなく、ブリューゲルが絵画という手法を縦横に使って訴えようとしたこと(いってみれば、エラスムスの“寛容の精神”でしょうか)を、現代的なメディアである映画という技法を駆使して、再度、今の時代に蘇らせようとしたのではないでしょうか?

 本作に出演している俳優のうち、ルドガー・ハウアーは、有名な『ブレードランナー』に出演していますが、最近の作品ではお目にかかっていません。
 また、シャーロット・ランプリングは、『メランコリア』で主役のジャスティンの母親に扮しています(ちなみに、同作品ではブリューゲルの『雪中の狩人』が使われています)。

(2)本作の公式サイトの「イントロダクション」において、レフ・マイェフスキ監督の「鋭い感性」が「アートそして映画ファンをも魅了した『エルミタージュ幻想』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)や『真珠の首飾りの少女』(ピーター・ウェーバー監督)に劣らぬ傑作をうみだした」と述べられています。
 ただ、映画『エルミタージュ幻想』(2002年)は、ピョートル大帝や皇帝ニコライ二世、プーシキンなどなど歴史上の人物がいろいろ登場するものの、そしてエルミタージュ美術館所蔵の名画がいくつも映し出されるものの(注7)、ロシア・ロマノフ王朝の歴史を描き出すことに主眼が置かれていて、本作のように、ある絵画を取り上げてその意味を解明しようという意図は持っていません。

 また、映画『真珠の首飾りの少女』(2003年)は、確かに、フェルメールの絵に描かれている少女(注8)を巡る物語ですが、絵画の謎の究明というよりも(注9)、絵を見て着想したロマンティックなラブストーリーの方に随分と傾斜していると思われます(注10)。

 本作は、むしろピーター・グリーナウェイ監督の映画『レンブラントの夜警』(2007年)の方に近いのではないかと思いました。
 同作についてはこのエントリの(3)で触れたところですが、本作と同じように、レンブラントの『夜警』で描かれている市警団隊長バニング=コックらが、本作と同じように当時の扮装で動き回っているのです。



 その上で、ピーター・グリーナウェイ監督は、絵画『夜警』の背後に一つの殺人事件を探りだそうとします。
 むろん、それも一つの仮説であり、想像力の産物と言えるでしょうが、映画『真珠の首飾りの少女』に比べたらずっと地に足の着いたものといえるのではないかと思います。
 ただ、同作は、専らレンブラントに関する伝記的な作品であり、ブリューゲルの伝記的な事実についてほとんど触れられていない本作とは性質を異にしているともいえるでしょう。

(3)渡まち子氏は、「実写映像と、ポーランド人アーティストのレフ・マイェフスキ監督自らが描いたという背景画、ラストに登場する本物のブリューゲルの絵。すべてがミックスされてイマジネーション豊かな作品になった」として70点をつけています。



(注1)映画『プッチーニの愛人』に関するエントリに対するmilouさんのコメントで、「映画的・絵画的・音楽的なら必見の作品だ」との指摘を受けたこともあり!
 なお、同コメントでは、本作の字幕に関する貴重な意見が述べられています。

(注2)以下でブリューゲルが述べていることを試みに絵の中に書き込むと、あるいは次のようになるのではと思われます。



(注3)本作のブリューゲルは、「「イエスの降誕」も「イカロスの失墜」も「サウルの自害」も、世界を揺るがす大事件だが、人々は無関心だ」と述べ、「だから、私は、観る者の目を捉えるべく、クモの巣のように巣を張っているのだ(→すべての物語を描き込むこと?)」と銀行家のヨンゲリンクに言います。
 ブリューゲルは、『イカロスの墜落のある風景』及び『サウルの自殺』を描いているところ(「イエスの降誕」についてブリューゲルは、下記の「注6」で触れる『東方三博士の礼拝』を描いています)、いずれの絵においても、重要な出来事の画面における扱いはごく小さなものになっています。。

(注4)ブリューゲルに絵の制作を依頼するヨンゲリンク自身は、「アントウェルペンの市民であり、銀行家であり、絵の収集家である」と言っています。

(注5)ネーデルランドは、長いことスペイン・ハプスブルク家の支配下にあったところ、80年戦争の結果結ばれたウエストファリア条約によって、プロテスタント勢力が強い北部7州は独立を果たすものの、南部諸州はスペイン支配下のままでした。
 ブリューゲルが活躍していた1560年代は、彼が住んでいたアントウェルペンはまさにスペインのフェリペ2世の支配下にあったわけです。

(注6)聖母マリアについて、本作のブリューゲルはこう言っています。
 「年の初めに『東方三博士の礼拝』を描いた時は、息子を生んだ直後の妻をモデルにして聖母マリアを描いたが、今度の絵に描くのはその30年後の姿だ。その姿や顔付きは変わらないものの、彼女に喜びをもたらした幼子は連れ去られてしまい、その絶望は深い」。
 また、銀行家のヨンゲリンクは、次のように言います。
 「「この聖堂を壊して三日で再建する」との彼の言葉が罪に問われているが、皆はそれが「改革」を意味していることを知っていたのだ」。

(注7)例えば、エルミタージュ美術館の「レンブラントの間」に展示されている『ダナエ』(その絵の前で女性が絵との“交流”を図ったりしています)とか『放蕩息子の帰還』などの名画が、映画ではゆっくりと描き出されたりします。

(注8)フェルメールの絵画『真珠の耳飾りの少女』に関しては、このエントリをご覧ください。

(注9)カメラ・オブスクラを、主人公のグリート(スカーレット・ヨハンソン)がフェルメール(コリン・ファース)と一緒に覗く場面があるなど、絵画の技法に関することは描かれていますが。

(注10)フェルメールの妻が、彼の絵を破ってしまったことがあったり(使用人同士の話に過ぎませんが:ただこれは、『チキンとプラム』で、主人公が大切にしていたヴァイオリンを妻が壊してしまったシーンを思い起こさせます)、さらにはグリートを描いた絵を嫉妬の余りペインティングナイフで壊そうとしたり、グリートに思いを寄せる肉屋の息子がいたりするなど。



★★★★☆




処刑山 デッド・スノウ

2012年04月08日 | DVD
 ノルウェー映画をもう少し見ようと、TSUTAYAで『処刑山 デッド・スノウ』のDVDを借りてきました。
 前回取り上げた『トロール・ハンター』は103分の怪獣物でしたが、本作は90分弱のゾンビ映画(2010年に公開)です。

(1)物語は、医大の学生4人とそれぞれのガールフレンドが、真冬の山小屋で楽しく過ごしているところをナチスゾンビに襲撃されるというものです。

 冒頭は、山小屋でその他の仲間と落ち合うべく、先行して独りで山歩きをしていたサラが何者かに襲われるシーンです。
 ですが、何に襲われたのか判然としないうちに、画面は、車2台で山小屋に向かう残りの7人達の楽しい様子や、到着した山小屋の内や外で彼らがゲームにうち興じたりするシーンに切り替わります。
 そのうちに外が暗くなってきます。と外に誰かがいる模様。早速ゾンビの登場かと思いきや、中年過ぎの男がドアのところに立っています。
 若者達が彼を中に招じ入れてコーヒーを振る舞うと、このあたりのことについて話し出します。
 彼によれば、「近くのオクスフィヨルドは、ナチス艦隊の重要な軍港。だが、ハルツォク大佐が率いるアインザッツという部隊は、そこで悪の限りを尽くした。ドイツの敗色が濃くなると、彼らは付近の民家に侵入し、財産を奪ったり、抵抗する住民を射殺したりした。そこで、住民3,000人は武器を集めて決起して奇襲を掛けた。ただ、ハルツォク大佐以下300人がこの山に逃げ込み行方が分からなくなってしまった。このあたりで凍死したとされていて、注意しなくてはならない。彼らを起こしてはならない」とのこと。

 これを聞いて、サラの恋人のベガードは、未だ到着しないサラのことが気になって、翌朝スノーモービルで探しに出ます。途中、昨夜山小屋に現れた男が、簡易テントの中で首を切られて死んでいるのを発見し(注1)、そればかりか、雪で隠れていた洞窟に墜落してしまったところ、そこで彼が見たものは、……(注2)?

 他方、山小屋では、沢山の金貨などが入った小箱が見つけ出され、中の物から1942年製(ナチス時代!)だとわかります。
 すると、まずトイレに行ったクリスがやられ、また窓からは手が差し伸べられ女の子の髪の毛を摑んだりした挙げ句、医学生アーランドが外に引き摺り出されてしまいます。
 こうなると、山小屋に残るのは4人だけ。



 なんとか車の置いてあるところに戻って応援を頼まなければと、山小屋に残る組(マルティンロイ)と車を探しに出る組(ハナリブ)に分かれますが、サアどの後の展開はどうなることでしょう、……(注3)?

(2)こうした映画に一々突っ込みを入れても何の意味もありませんが、少々触れておきましょう。

イ)ホラー映画と銘打っていますが、ナチスゾンビの親玉のハルツォク大佐がゴム製仮面を被っている感じがするなど、総じてあまり怖さを感じません(元々、ナチス自体が怖い存在なのですし!)。

ロ)ゾンビ映画とされていますが、彼らがはっきりと画面に登場するのは、映画の3分の2が経過した辺りなのです(3分の1辺りのところでも現れますが、ごく一部にすぎません)。

ハ)主人公は、当初は、医学生のリーダー格のベガードではないかと思われるところ〔独りでスノーモービルを操作して、早めに山小屋に辿り着いたり(他の6人は徒歩で山を登ります)、サラを探しに行ったりします〕、どうやらそうでもなさそうなのです(注4)。

 なお、ベガードは、その前にゾンビに首を噛まれるものの、医学生だからでしょうか、自分で針を使いつつ縫って治してしまいます。
 他方、医学生のマルティンは、ゾンビに腕を噛まれると、「ゾンビに噛みつかれるとゾンビになる」といって、斧を使って自分の腕を切り落としてしまうのです。
 噛まれても、ゾンビになったりならなかったりするのかもしれませんが。

ニ)夜間山小屋にやってきた男は、ゾンビにナイフで首を切られて殺されますが、そんな武器をいくらでもゾンビは持っていながらも、山小屋の外で戦うマルティンとロイは、チェーンソーやハンマーなどといった武器しか手元にないにもかかわらず、かなりの数のゾンビをいとも簡単に倒してしまうのです。



 それより、バガードは、ゾンビに殺される前に、ナチス時代の機関銃を使ってゾンビをなぎ倒しもするのです!

ホ)始めの方では、ここら辺りは携帯の圏外だと言っていながら(車中で「30分前から圏外だ」などと話しています)、最後の方で、残ったマルティンが、携帯を取り出して誰かと連絡をとるも、電池切れで投げ出してしまうというシーンが設けられています(注5)。

(3)とはいえ、そんなくだくだしいことは考えたりせずに、この映画も頭から楽しめばいいのだと思います。ホラー映画としては秀逸のラストが設けられていることでもありますし(注5)。




(注1)この男は、山小屋にいる医学生達に注意を促しますが、自分は、極寒の中をなぜか簡易テントにいるのです。何故彼がそんなことをしているのか、そして下記「注6」に記す点も見当たらないのにどうして殺されてしまうのか、この映画の最大の謎ではないでしょうか?

(注2)ベガードは、墜落した洞窟の奥を探検するのですが、そこにはナチス時代の銃器が置かれていたり、最後にはサラの首まで並べられていたのです。

(注3)ハナは、ナチスゾンビに追いかけられ組み敷かれますが、そのゾンビが持っていた手榴弾で自爆したようです。その立ち上る煙を見ていたリブは更に走りますが、……。

(注4)というのも、ベガードは、途中の段階でナチスゾンビに手足をもぎ取られてしまい、画面から退場してしまいますから。
 最後まで残るのは、血を見るのが嫌いな医学生マルティンですから、やはり彼が主人公なのでしょう。

(注5)電話は通じたものの、状況を伝えてもいたずらと思われて、さらに説明しようとすると相手から切れれてしまい、もう一度かけ直そうとしたら電池切れになってしまいます。

(注6)どうやら、ナチスゾンビは、地元民から強奪した財宝に酷く執着しているようで、学生達が、それが入った小箱を床下の格納庫から取り出して、中の金貨などを掠め取ろうとしたがために、彼らを襲ったのだと考えられます。
 それに気づいたマルティネスは、焼けてしまった山小屋の残骸の中からその小箱を探し出してハルツォク大佐に返します。するとゾンビは姿を消してしまいます。
 そこでマルティネスは、ようやっとのことで車を探し当て、嬉しやと車のキーを回そうとしたところ、思いがけず、隠し持っていた金貨がこぼれ落ちてしまいます。マルティネスは「しまった!」と叫びますが、そこにはハルツォク大佐の姿が。



★★★☆☆




ちょんまげぷりん

2011年02月16日 | DVD
 休日にもかかわらず雪の時は外へ出るのも億劫となってしまい、家でTSUTAYAから借りてきたDVDを見ることにしています。今回は、昨年評判だった『ちょんまげぷりん』を見てみました。

(1)こういう映画を見ると、仮に江戸時代の武士が現代に登場することがあり得たとしても、現代の日本人とこんな風にスムースなコミュニケーションが可能だとは思えないと言ってみたくなったり、安兵衛が遊佐ひろ子と友也と遭遇した時は大層空腹だとされていますが、その前に何よりトイレの問題はどうしたのか、などといった日常的なことが気になってしまいますが(注1)、そこはファンタジーなのだからとすべて目をつぶってしまえば、あとは大層楽しく映画を見ることができます。

 何しろ、それぞれが全然違った世界に属しているはずとは言いながら、同じ日本人の顔をして同じ日本語をしゃべるのですから(注2)、それにそれぞれの世界についてごく普通に想定されている範囲内で話題も提供されますから、それほど違和感なく受け入れることができます。
 たとえば、極めて礼儀正しい武士の世界と不躾極まりない現代の世相、男尊女卑の江戸時代と女性の社会的進出が著しい現代、などといった枠組みはお馴染みのもの、確かに指摘されるとその時はハッとはしますが、毎度聞き慣れていることゆえ、そんなお題目はスッと通り過ぎてしまいます。
 とにもかくにも、かる―い感じでおもしろがればそれで十分なのではないでしょうか?

 特に、江戸時代の武士である木島安兵衛が、ほかでもない実に現代的なスイーツ作りに関して天才的な才能を持っているという着想は素晴らしいものがあり、スイーツ作りコンテストに参加した安兵衛と友也が、立派な天守閣をこしらえて優勝してしまうというのも実に面白いストーリーだと思います。

 主人公の木島安兵衛を演じる錦戸亮は、NEWS及び関ジャニ∞のメンバーで映画は初出演・初主演とのことですが、それにしてはたいした演技力だと感心しました。『愛のむきだし』の西島隆弘に匹敵するとも思えるところ、西島の『スープ・オペラ』に相当する第2作目が期待されるところです。



 また、木島安兵衛を自宅で面倒を見るシングルマザーの遊佐ひろ子を演じるともさかりえについては、クマネズミは映画でほとんど見かけませんでしたが、こういう役柄もとてもうまくこなす女優さんなのだと見直したところです(注3)。





(注1)元々、安兵衛が江戸時代に戻ってプリンを作ったとしたら、歴史が変わってしまいますから、タイムトラベルに関する原理的な問題を抱えています。
 それに、日本では明治になるまで牛乳はほとんど飲まれていなかったようなので、プリンを作る上で重要な材料が簡単には入手できなかったのでは、と思われます。
 また、江戸時代の人が、どうしてスイーツ作りに関する才能をもっているのか謎ですし、仮にそうした才能があるとしたら、もっと独特なスイーツを作り出して現代人をアッといわせるということも考えられるでしょうが、そこまでの踏み込みはありません。

(注2)「マンガ大賞2010」と「第14回手塚治虫文化賞(短編賞)」を受賞したヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン)とは、この点が大きく異なります。と言うのも、後者では、ローマ時代の浴場技師のルシウスが現代の日本にタイムスリップするというのですから!平たい顔族の日本人とは、ラテン語しか話せないルシウスはうまくコミュニケーションが取れないのです。




(注3)同じように身長のある女優・吹石一恵が、『ゲゲゲの女房』などで成長著しいのと比べると、今一の感は免れませんが。


(2)この映画に関しては、登場人物として遊佐ひろ子とか安兵衛に着目しても構いませんが、少し友也を取り上げてみましょう。



 シングルマザー遊佐ひろ子の息子・友也には、次のような特徴があります。
・小学校に上がる直前(5歳~6歳)の子供。
・普段は幼稚園に行き、母親の会社から帰る母親を待って一緒に帰るという生活を送っています。
・何かというとすぐに泣いてしまうひ弱な子供。
・父親がいないせいか、安兵衛の毅然とした態度に却って親近感を持ってしまいます。
・ココゾというときは病身でも安兵衛を探しに行きます。

 こんなところで、少し前にDVDで見た映画『縞模様のパジャマの少年』(注4)に登場する少年ブルーノと比較するのはお門違いも甚だしいとは思いますが、彼については次のような印象を受けました。



・主人公の少年ブルーノは8歳(友也より少し大きいだけ)。
・強制収容所長に就いた父親の関係で、人里離れた収容所近くの邸宅に引っ越したため、友人はおらず、いつも一人で遊ぶしか仕方ありません(幼稚園で皆と遊ぶ友也とは、その点で環境が酷く異なります)。
・社会的なことに少しずつ関心を持ち出しますが、父親は自分の仕事のことにつき一切話をしようとしません(とてもできたものではないでしょうが)。
・元々は冒険物語が大好きなことから、家族に黙って裏庭から塀の外に抜け出し、森を通って、農場と思った建物(実は強制収容所)に近づきます。そこで、仲間のもとを離れているユダヤ人の子供シュムエルと有刺鉄線越しに友達となりますが、……。

 この二つの物語で描かれている子供について大きな違いを言えば、
・友也の方は父親的な存在を求めているのに対して、ブルーノにとって父親は、権威的ですごく煙たい存在でしょう。
・また、友也はまだ幼稚園生ということで社会的な関心はほとんどありませんが、ブルーノは次第に社会に対して目を開いていくようになります(といって、説明を大人に求めても、誰も何も説明してはくれません。それがのちに大きな悲劇をもたらすことになります)。

 でも、友也は、自分にとって安兵衛が大切な存在だとなれば、熱があるにもかかわらず彼が働くお店まで電車を使って探しに行くという一途なところがあり、また他方のブルーノも、友達のシュムエルの父親が行方不明になったとわかれば、一緒になって懸命に探そうします(それが大変なことになるとは何も考えずに)。

 こうやって比べていくと、それぞれの映画がどうして今頃になって制作されたのか、といった点にも興味がわき、欧米の事情やわが国の事情などにも目が向きますが、そんなことはトテモ手に余りますのでここらでひとまず打ち切りといたします(注5)。



(注4)イギリス・アメリカ合作の映画『縞模様のパジャマの少年』(2009年公開)については、渡まち子氏が、「真実に目をふさぐ偽りの平和は、やがて取り返しのつかない悲劇によって裁かれる。この映画の結末には思わず言葉を失った。主人公の少年二人はオーディションで選ばれた無名の新人だが、その匿名性が戦争の悲劇をより際立たせている」として65点を付けています。

(注5)欧米では、『ソウル・キッチン』を挙げるまでもなく、人種問題は絶えず人々の関心の的であり続けましたが、日本ではいかにも微温湯的な家族共同体的意識が現代でも横溢している、などといってみても今更めいて面白くありません。


(3)渡まち子氏は、「江戸から現代にやってきたお侍がお菓子作りに目覚めるというハートフル・コメディーには、現代人が忘れがちな“1本通った筋”がある」、「生活の描写にご都合主義のところはあるが、子育てと仕事の両立に奮闘するひろ子の生き方と、安兵衛が江戸から現代にやってくる不思議の理由が絶妙に重なる構成は上手い。テイストはあくまでもライト感覚。それでも物語はタイムスリップもの特有の楽しさにあふれていた」として60点を付けています。



★★★☆☆




瀬々敬久監督作品

2011年01月12日 | DVD
 昨年の記事で瀬々敬久監督の『へヴンズ ストーリー』を取り上げましたが、その映画に大変感銘を受けたものの、同監督の作品はこれまで一つも見たことがなかったことから、少しDVDで見てみようと思い立ちました。
 といっても、瀬々監督は実に膨大な数の作品を手がけているようなので、その特色がよく出ているものを探し出そうとしても容易ではないでしょう(いわゆる「ピンク映画」が多いこともあり)!仕方ありませんから、ここでは、TSUTAYAで簡単に見つけ出せる作品を2つばかり見ることでお茶を濁しておきます(見る都度追加できればと思っています)。

(1)まず、『感染列島』(2008年)です。



 冒頭、いずみ野市立病院に診察を受けにきた患者が、簡単な風邪と診断されたにもかかわらず、急に容態が悪くなって血を吐いて死んでしまいます。
 ここから138分のラスト近くまで、映画の画面には、これでもかというくらい死体が溢れ返ります。なにしろ、1,000万人以上に死者が出たという謎の伝染病を巡っての物語なのですから!
 主役は、同病院の救命救急医の松岡剛(妻夫木聡)。それに、彼の恋人でWHOのメディカル・オフィサー小林栄子(檀れい)や、松岡医師の先輩医師の安藤一馬(佐藤浩市)などが絡みます。
 注目すべきことは、佐藤浩市は、『へヴンズ ストーリー』と同様に、もっと活躍するのかなと期待をもたせながらも、患者からの感染によって、前半でいともあっさりと死んでしまいます!
 むろん、ウィルスの蔓延により廃墟と化した日本列島も、最後には明るい世界に戻るものの、松岡医師の恋人も、また先生たる仁志稔教授(藤竜也)も次々に死んでしまうのです。
 この映画は、ラストまで見れば「死と再生」と捉えることもできるでしょうが、クマネズミには、人間の大量死の有様を描き出した作品という印象が強く残りました。

(2)もう一つ、『黒い下着の女 雷魚』(1997年)を見てみました。



 粗筋を簡単に言うとこんな感じです。
 主人公の紀子は、不倫相手に会おうとして入院中の病院から抜け出しますが、それができずに、かわりにテレクラで知り合った男とモーテルに行き、突然その男を刺し殺してしまいます。
 紀子は、警察の取り調べを受けるものの、ガソリンスタンドの店員による嘘の証言で釈放されます。ですが今度は、その店員と関係を持つようになり、挙げ句は自分を殺すように店員に求めます。店員は、紀子を絞殺した後、死体を小さな船に乗せてもろともに焼いてしまいます。

 とはいえ、こんな粗筋では、この映画の良さはマッタク伝わりません。実際のところ、ピンク映画とはトテモ思えないほどの真摯さで制作されていて(注1)、大層感銘を受けてしまいました。
 たとえば、水郷辺りで捕れる雷魚の様が、主人公・紀子の心情(あるいは存在そのもの)を象徴するかのように、巧みに描かれています(注2)。
 また、知的障害を持った女・節子(紀子と対照的な容姿と服装)が、紀子の行動を終始監視するように見ていて、最後はガソリンスタンドの店員と人混みの中に消えていくのですが、そのシーンも印象的です。
 実のところ映画では一切何も説明されず、すべては観客の方で読み取るほかないわけですが、現実に起きた殺人事件(注3)を下敷きにしていることからもうかがえるように、瀬々監督の死に対する拘りが様々な形を取って描き出されているように思われますし(注4)、そうした出来事を取り巻く水郷(注5)の風景の描写も、『ヘブンズストーリー』に劣らず素晴らしいものがあると思われます。


(注1)このサイトのインタビュー記事によれば、製作費は600百万、撮影は6日間。取り直しが1日、とのこと(ちなみに、『ヘブンズストーリー』は、撮影に1年近くかかっているようです)!
(注2)例えば、冒頭で、釣り人(ガソリンスタンドの店員)が釣り上げた雷魚を焼くシーンがありますが、これは紀子の死体を小舟もろともに焼いてしまうラスト近くのシーンと重なります。
(注3)上記注1のサイトの記事によれば、1987年の札幌ラブホテル殺人事件と、1993年の日野OL放火殺人事件。
(注4)ガソリンスタンドの店員は、その愛人に赤ん坊を殺されたことがあり、紀子に対して、人を殺すときの気分がどんなものなか聞き出そうとします。
(注5)病院から抜け出した紀子は、成田線小見川駅近くの電話ボックスから電話をかけます。

おと・な・り

2010年07月04日 | DVD
 昨日の記事で触れたように、麻生久美子が出演する作品は、最近のものについてはかなり見ているつもりにもかかわらず、『おと・な・り』(熊澤尚人監督、2009年)については見逃したままでしたので、そのDVDを借りてきて見てみました。

(1)この作品は、偶然アパートの隣同士になった岡田准一と麻生久美子の2人が、途中ではお互いのことが全然分からないままでいながらも、最後の最後になって結ばれるというラブストーリー物といえるでしょう。
 当代の人気俳優がヒーローとヒロインなのですから、面白くないわけがありません。

ただ、ヒーローがカメラマンでヒロインがフラワーショップの店員と現在トテモ人気のある職業に就いているのは安易に過ぎる(おまけに“フランス留学”といったことも話題になります!)、などと野暮なことは言いませんが、それにしてもかなりご都合主義な作りの映画だな、という感じがします。
イ)防音装置が施されオートロック方式等でセキュリティが厳重に守られている昨今のマンションならばいざしらず、隣の物音がかなり筒抜けになってしまう粗末な作りのアパートで生活していながら、長い間、隣同士が顔も合わせたことがなく、お互いに隣がどんな人間なのか全然わからなかった、というような状況はあり得るでしょうか(現に、谷村美月―岡田准一の親友・池内博之の恋人役―が岡田准一の部屋に転がり込んでいるときは、ベランダで彼女は麻生久美子と顔を何度も合わせているのです!)。

ロ)まして、二人は田舎で同じ学校の同級生だったにもかかわらず。
普通人の声は、何年たっても、電話で聞けばすぐに誰だとわかるほど判別がつきやすいのではないでしょうか?それが、電話での話し声などが隣から聞こえてくるというのですから、全然気が付かなかったというのはおかしな感じがします。

ハ)麻生久美子自身が、コンビニの店員から一方的な愛を打ち明けられると時を同じくして、彼女が勤めている花屋の若い店員も、相手の素性が分からないメル友に愛を打ち明けます。それのみか、花屋の店員のメル友が言っていた話が全部作り話だとわかると、麻生久美子の方でも、ほぼ同時期に、コンビニ店員の話もいい加減なものであることが判明するのです。

ニ) 麻生久美子は、コンビニの店員から「基調音」についての話を聞きますが、店員が「風」と言うと、突然周囲の木々が風で揺れてワサワサと音を立てますし、「水」と言うと池の水が風に煽られて立てる音がします。なんだか、映画学校の学生が作った作品を見ているような気がしました〔「心音」については、何の音もしませんが!〕。

ホ)麻生久美子は、ほんの数日したらフラワーデザインを勉強するためフランスに留学するというのに、取り組んでいるフランス語会話が「元気でしたか?はい、元気です」といったたぐいのごく初歩的なレベルに過ぎないというのはどうしたことでしょうか?

 とはいえ、この映画は、視覚というよりも聴覚を第一としながらラブストーリーを組み立てたという点で、企画の勝利であり、捨てがたい作品になっていると言えるでしょう。特に、
イ)映画の冒頭は真っ暗なシーンで、様々な音(コーヒー豆をゴリゴリ挽く音、ドアベルがカンコン鳴る音、加湿器のピーピーという警告音、などなど)だけがする中で、クレジットが映し出されます。

ロ)コンビニ店員は不誠実な男ながら、彼が麻生久美子に語る「基調音」(日常生活の中に埋もれているものの、そこにあるはずの音。普段は意識的に聞く事はない音。聞いているうちに次第に慣れてきて気に止めなくなる音)という考え方は、大変興味深いものがあります。

ハ)ラストのエンドロールは冒頭と同様、画像なしに、様々な周囲の音に混じって岡田准一と麻生久美子の会話だけが流されます。その会話から、二人は当初の計画通り、カナダに撮影旅行に行ったりフランスに留学したりした後、同じ部屋に戻ってきていることが分かります(キット一緒になったのでしょう!)(注)。

 とすれば、ここはあまり硬い無粋なことは言わずに、最後のエンドロールで流れる二人の短いですが魅力的な会話にも免じて、許すべきなのでしょう!

 なお、この作品では、『パンドラ』(2008年、WOWOW)で目に留まった谷村美月が、関西弁を駆使しつつ素晴らしい演技を披露しています(ヒロインの麻生久美子を食ってしまっているといえるのではないでしょうか)。


(注)麻生久美子の会話の中に、「ガレット」(そば粉でできたクレープ)という言葉が飛び出しますが(「フランスの下宿先のおばさんが作り方を教えてくれた」)、クマネズミの方は、つい最近のTVのニュース番組で、日本でもそれを出してくれるレストランが表参道あることを知ったばかりです!

(2)この作品を見て対極をなすのではと思いついたのが、2007年に公開された『真木栗ノ穴』(深川栄洋監督)です(注)。



 両者を簡単に比べてみますと、
イ) 『おと・な・り』もこちらの作品も、安アパートの住人同士の関係についての物語ではあるものの、『おと・な・り』が聴覚をメインとするのに対して、こちらは視覚をメインにしています。すなわち、『おと・な・り』では、薄い壁を通して隣から送られてくる信号は物音という聴覚にかかるものだけであるのに対して、こちらは“壁の穴”を通して見ることの出来る隣室の光景という視覚的なものです。

ロ)『おと・な・り』では、麻生久美子は岡田准一から送られてくる信号しか気にしませんが、こちらの場合、主人公(西島秀俊)は両隣から送られてくる信号に対応します(すなわち、壁の穴は二つあるのです)。

ハ)『おと・な・り』では、ヒーローもヒロインも30代になっているにもかかわらず性的なものは一切持ち込まれませんが、こちらでは性的なイメージに溢れています。

ニ)『おと・な・り』はラブストーリ物といえるでしょうが、こちらはサスペンス・ホラー仕立てになっています(主人公の元に現れる女性は幽霊かも知れず、更にここで物語れている話自体も作家の妄想ということも考えられます)。

 隙間から隠れて人の動きを覗くというストーリーは、昔からよくあるといえ、この『真木栗ノ穴』もその伝統に連なるのかも知れません(『屋根裏の散歩者』など)。その一方で、聴覚にかかる信号しかないという設定のラブストーリー物は、余り聞いたことがありません。

(注)真木栗ノ穴』については、渡まち子氏が、「覗きは映画の本質にも通じる行為。そう考えるとこの作品、案外深い」と述べて65点を与えています。

(3)この『おと・な・り』については、映画評論家の論評はあまり見当たりませんが、渡まち子氏は、「人生に迷う大人が主人公だが、展開は少女漫画のようで、偶然に頼るラブストーリー」ながら、「男女が顔を合わせることなく“音”で癒される設定が作品の個性なのに、音の力が恋の決定打にならないのは物語として弱い」として50点を与えています。


★★☆☆☆

象のロケット:おと・な・り

書道ガールズ(下)

2010年06月27日 | DVD
 前日取り上げた『書道ガールズ』に関連することを、以下では若干取り上げてみましょう。

(1)前日の記事の(3)で触れた映画評論家の福本次郎氏は、『書道ガールズ』についての論評の末尾で、「男子部員は添え物扱いだが、彼らが活躍する日は来るのだろうか。。。」と述べているところ、仮にそんな日がやってきたらこんなことになるかもしれないと思わせる映画が『書の道』といえるでしょう!
 昨年末に公開されていて、その際は見逃したものの、早くもDVD化されているのでTSUTAYAから借りてきて見てみました(注1)。



 この作品は、昨日の記事で取り上げた『書道ガールズ』とは、類似する面と相違する面とをあわせもっています。
イ)『書道ガールズ』は女子高生が中心的でしたが、こちらの『書の道』は男子大学生のお話です。

ロ)『書道ガールズ』では、売れっ子の成海璃子をはじめとするフレッシュな女優陣が大活躍しますが、こちらの作品でも、主な登場人物の5人の大学生(一人は主人公の友人でボクシング部)を「今をときめく演技派イケメン男子」が演じているのです(と言っても、クマネズミは初めて見る顔ばかりです!)。
 ただ、『書の道』では、意図的にこういた俳優を使っているのでしょうが、いわゆる書道のイメージからは随分と外れていると感じざるを得ません。何しろ、それこそ現代風のイケメンの皆が、きちんと正座して筆を持って静かに書を書くのですから!



ハ)『書道ガールズ』では、皆とのコミュニケーションがうまく取れない生徒とか、家庭の事情で書道部を続けられない生徒も出てきますが、最後はまっすぐに一致団結して「書道パフォーマンスス」に挑みます。
 こちらの映画では、事故で腕が十分に動かなくなったキャプテンが精神的に落ち込んで、自分の作品ばかりか他の仲間の作品まで引き裂いてしまうという事件が起きます。また、主人公の学生は、ボクシング部を退部して書道部に入りますが、ボクシングに未練があるようです。
 といった具合に、『書道ガールズ』よりも、主人公たちの内面がある程度ながら重視されているように思われます。



ハ)『書道ガールズ』のクライマックスは、最後の方で開催される「書道パフォーマンス甲子園」です。他方『書の道』でも書道パフォーマンスのシーンはあるものの、単なる一つのエピソードにすぎ、ません。とはいえ、躓いて墨を紙の上にぶちまけてしまうシーンは、こちらでもキチンと描かれています。



ニ)『書道ガールズ』では、主人公の書道部は優勝できませんでしたが、こちらでは、目標とした「全国大学書道展」において、4人の部員による共作が「団体賞」を獲得しました。

ホ)『書道ガールズ』では、書道部の顧問に臨時講師の男性(金子ノブアキ)が就いて「書道パフォーマンス甲子園」に向けて指導するところ、こちらでは書道部の先輩で今では大学の講師を務めている女性(平田弥里)が、書道展に向けて指導をします。



 ここには男性と女性という違いが見られるものの、どちらもメインイベントが終わると、その場所に長くとどまってはいないという点は類似しています。
 また興味深いことに、目標に向かってそれぞれの書道部を指導するに際して、どちらの指導者もまず体を鍛えることから始めるのです(特に、こちらでは、書道展の締め切り1週間前まで筆を握らせてもらえません。ただ、鍛錬の細部は異なってはいるものの、なぜかランニング重視という点では一致しています)。

 これは、最近DVDで見た『グラキン★クイーン』でも同じ感じです。なにしろ、伝説のカメラマンの下で修行をする高校生カメラマンのニコは、カメラを持たせてもらえず、連日讃岐うどんを作らされるばかりなのですから!

ヘ)『書道ガールズ』では、舞台が高知県の四国中央市であることが強調され、町おこしとしての「書道パフォーマンス甲子園」が提唱されますが、こちらではそうした社会とのつながりはほとんど描かれてはいません。

 全体として見ると、『書の道』は、大学生の内面がある程度ながら描かれている分だけ社会的な視点がなくなっているのではないかという感じがします。

(2)他に『書道ガールズ』を見て思いついたことと言えば、例えば次のようなものがあります。
イ) 最近、『劇場版TRICK』が公開されたところ、TVドラマや映画作品として人気のある「トリック」シリーズでは、仲間由紀恵が演じるヒロイン・山田奈緒子の母親(野際陽子)が書道教室の先生なのです。



 上記の画像は、『トリック劇場版2』のものです。

ロ)最近その個展が開かれ話題を呼んだ画家の会田誠氏には、なんと「書道教室」なる作品があります。



 この作品について、作家自身は次のように述べています(注)。
 「かなり純度の高い、現代美術そのもの、みたいな作品だと思います。でも外国人には何にも伝わらないだろうなあ…。なぜこれをエリオットさんが選んだのか謎です。僕は日中韓にしか存在しない書道という芸術ジャンルの非普遍性に興味があるようです」。

 さらに、安積桂氏のブログ「ART TOUCH」には、概略次のような記事があります。
 「《書道教室》では、文字の図形的絵画的なものが、文字の言語的なものを抑圧し、文字と言葉の結びつきを壊している」。「《書道教室》は巨大である。……《書道教室》は大きすぎて読めない。一階に降りる階段の横の壁いっぱいに掛けてある。……少し、離れて全体を見渡したが、絵だか文字だか判らない」。しかしながら、「《書道教室》には二つの自己否定の契機がある。一つは、手書きの文字が巨大すぎて、手書きが不可能なことだ。それから、もう一つは、手書きの書を教える塾の看板が手書きではなく、コンピュータのフォントで切り抜かれていることだ」。

 「二つの自己否定の契機」があったりすると、このブログの管理者・安積桂氏にとっては、「会田の最高傑作は依然として《書道教室》である」ということになるようですが(5月19日の記事より)、そこらへんの事情が素人にはよく飲み込めないながら、この作品が、現代芸術において注目すべき作品なのだろうな、となんとなく予感させるものがあるのではと思っているところです。

ハ)『書道ガールズ』関係で、さらに若干興味を引く点としては、実際に開催されている「書道パフォーマンス甲子園」の報道には日本テレビが力を入れてきており、この映画の制作においても日本テレビが強力にバックアップしてきたにもかかわらず、読売書法会ではなく毎日書道会の名がクレジットに挙げられ、書道の指導には石飛博光毎日書道会理事(創玄書道会理事長)が当たっている点でしょうか。



(注1)「書道」を題材にした映画やドラマの公開がこのところ相次いでいることについては、朝日新聞の記事を参照。
(注2)ビエンナーレ・オブ・シドニー (本年5月12日~8月1日)に展示される本作品に関するメール・インタビューの中で、会田氏が述べています。
また、「阿部知代アナの@artlover」のvol.15では、この作品は「看板屋に発注」したものだと会田氏は語っています。

『グラキン★クイーン』―カメラの視線(下)

2010年06月15日 | DVD
 カメラの視線という点に関して、前日の記事で再度取り上げた映画『愛のむきだし』とは正反対の方向性を示していると思われるのが、映画『グラキン★クイーン』(監督・脚本:松本卓也)です。

 この映画については、友人が見に行ったと言ってくれるまで全然知りませんでした。それを聞いて慌ててネット検索したところ、以前シネマート六本木で1週間公開されたことがあり、最近では渋谷のUplinkでこれまた1週間だけ上映されたものの、今は東京では公開されていないようなのです。ところが、驚いたことに、この5月下旬にはDVDがレンタルできるようになりました。それではと、早速借りてきて見てみました。
 


(1)ストーリーはいとも簡単。史上最強のグラビアアイドルを目指す風変わりな女子高生・マリン(西田麻衣)と、ひそかに最強のグラビアカメラマンになりたいと思っている男子高生・ニコ(松本光司)が、喧嘩したり助け合ったりしながら、いつか最強のコンビとなろうと頑張っています。
 マリンは、「マリンビューティ歩き」なるオカシナ技法を編み出したりして、密かに鍛錬を続けています。また、マリンとニコは、伝説のカメラマン・木屋野が住んでいる瀬戸内の小島に行って、そこで修行を積みます。
 こうして二人は、名の通ったエージェントから東京に出てこないかと誘いを受けるまでになります。その誘いに二人の心は揺らいだものの、結局は、もう少し地方で鍛錬を積んでみようということになるのでした。

 映画の舞台は香川県、香川県のご当地映画といえば、最近では映画『UDON』(注1)でしょう。デジャヴかなと一瞬思ったのは、マリンが出場した「香川オリーブガールコンテスト」のシーンで、それが開催されたステージ(瀬戸大橋記念公園内のマリンドーム)は、なんと『UDON』でも見かけました(注2)。
 これだけでなく、讃岐うどんに関連付けたマリンの姿をニコが撮ったりと、この映画も『UDON』同様、地方色豊かな作品となっています(注3)。



 それに、全般的にコメディタッチに仕上げられています。たとえば、本名が木村千代子だから“チョッキーナ”といわれるプロのグラビアモデル(中島愛理)が登場しますが、じゃんけんのチョキを出したりチョッキを着たりして写真を撮られたり、マリン同様このコンテストの選に漏れ、怒って東京に帰る時に、「東京に“直帰”する」などとどうしようもないダジャレを言ったりします。
 マア、つまらないことは何も考えずに、単純に見て楽しむ映画といえるでしょう。

(2)ここで、前日取り上げたブログ「はじぱりlite!」における議論との関係をみてみましょう。
 この映画で中心的に取り扱われているのはグラビア写真です。
 それはまさに、「堂々と目の前に広がる風景を写しとること」を実践して制作されるものでしょう。すなわち、グラビアカメラマンは、グラビアアイドルに“堂々と”正面からカメラを向けて、どんどん撮影していくわけで、前日の記事で取り上げました「盗撮」とは完全にベクトルが逆を向いていると考えられます。

 さらに言えば、グラビア写真の撮影の場合、グラドルは決して「自然」の様ではなく、一定のポーズをとることが求められます。
 ポーズには過去からの蓄積があるようで、マリンとニコがその下で修行した木屋野(マリンたちが島を後にした後、急死してしまいます)の遺影が、ある程度こうした点を象徴的に示しているのではないかと思われました。なにより、グラドルを相手に撮ることを専門とするプロ・カメラマンが、今度は自分が被写体になると(この写真はニコが撮影しました)、1966年の資生堂ポスター(モデル:前田美波里)に若干ですが類似したポーズをとってしまうのですから!





 また、グラビア写真の場合、カメラマンは、いうまでもなく隠れた存在ではなく、表の存在ではあるものの、それだけに却ってグラビアアイドルの名前の陰に隠れて注目されない存在になってしまうことが多いのではないでしょうか(注4)?
 これに反して、盗撮の場合は、逆に、撮影する姿を悟られないようにするがために、かえって「監視」の目に曝されてしまうことにならないとも限りません。

 といっても、上で述べたように、マリンとニコは、瀬戸内の小島に行って修行を積んだりします。特に、ニコが木屋野に言われて取り組んだのは、撮影技法ではなく讃岐うどんの打ち方の習得でした。ただ、美味しい讃岐うどんが作れるようになると、カメラ撮影の腕の方も飛躍的に上達しているのです。
 ここらあたりは、前日の記事で触れた『愛のむきだし』において、ユウがロイドマスターの下で盗撮の修行をするのにヨク対応しているといえ、そうしてみれば、盗撮とグラビア写真の撮影とは、そんなに距離が遠いものとも言えないのかもしれません。

(3)最後に前回の議論と合わせて考えてみましょう。
 確かに、写真の本質が「自然」をありのままに撮ることであれば、「盗み撮ること」が写真の本質といえそうです。
 ただ、もっと大雑把に、写真とは単に「ものを写すこと」だと言ってしまえば、人工的に作られた姿などを正面から隠れることなく撮ることも写真の本質の中に入ってくるのかもしれません。
 なにより、当初の写真で中心的だったのは肖像写真だったのでしょうから(注5)。



(注1)本広克行監督、2006年。
(注2)映画『UDON』では「さぬきうどんフェスティバル」の模様が描かれていて、マリンドームにおいては、主演のユースケ・サンタマリアと小西真奈美の司会のもとで、「さぬきうどん王選手権」が開催されました。
(注3)主人公の名前が「マリン」というのは、あるいは「マリンドーム」のように、香川県には「マリン」の付くものが多いことによっているのかもしれません。また、競演の男子高生が「ニコ」とされているのは、彼がいつも持っているカメラが「ニコン」であることに、またマリンの妹(飯田里穂)の名前が「ラム」というのも、伝説のグラドル「アグネス・ラム」にちなんでいるのかもしれません。
(注4)たとえば、ここで挙げたモデルの前田美波里とカメラマンの横須賀功光氏との関係はどうでしょうか?
 尤も、最近の篠山紀信氏の場合のように、青山墓地でのヌード撮影をして、その写真を公表したりすれば、警察の介入を招くという結果につながってしまうわけで(30万円の罰金)、であればカメラマンが隠れた存在になるものでもなく、ここらあたりの図式的な関係性は確信をもって言えるわけではありませんが。
(注5)1839年に公開されたダゲレオタイプは、当初、直射日光の元でも露光時間が10分程度もあって撮影する対象は限られていたものの、スグニ改良されて露光時間は2~3分となり、「肖像写真」が可能となって社会に浸透していった、とされています〔『写真の歴史入門―第1部「誕生」』(三井圭司/東京都写真美術館監修)P.17〕。
 ちなみに、東京都写真美術館では、「侍と私-ポートレイトが語る初期写真-」なる展覧会が開催されているところです。


『愛のむきだし』再論―カメラの視線(上)

2010年06月14日 | DVD
 ブログ「はじぱりlite!」の6月6日の記事「カメラ、盗み見る視線」では、ロンドンのテイト・モダン美術館の企画展『Exposed―Voyeurism, Surveillance and the Camera』(注1)を見て触発された注目すべき議論が展開されています。



(1)ブログにおけるtrippingdog氏の議論は、あらまし次のようなものです。

 この企画展のテーマは、写真の本質を「盗み見ること」のうちに見出そうという、いささかショッキングで挑発的なものだ。というのも、一般に、カメラの本質は、「盗み見ること」などではなく、堂々と目の前に広がる風景を写しとることだと思われているから。
 だが、目の前の風景をそのまま「写す」ためには、写している主体であるカメラの存在が、その風景からできる限り差し引かれなければならないのだ。すなわち、自然を写すためには、カメラはできるだけその存在を消さねばならないことになる。
 こう考えていくと、写真の本質が「盗み見ること」にあると分かってこよう。
 そういう本質をあからさまに示しているのは、公共の視線からは隠され秘められた「女性の裸体」を写すことだろう(ただそれだけでなく、恐怖や暴力、死といったものに強く惹きつけられた写真もあるが)。
 このように、カメラを構える我々は、世界から遠ざかり存在を消そうとする。しかしながら、他方で、その一挙手一投足は、「監視カメラ」によって記録され、我々は紛れもない世界の一員として、そこに投げ込まれるのだ。
 要すれば、盗み見るという行為のうちには、現場から逃れることと、現場に捉われるということの二重性があるように思われる。逆に考えると、カメラという小さな道具は、監視する権力の片棒を担ぐことであると同時に、その権力の裏をかいて、そこから逃れるための突破口を開くことを可能にするかもしれないのだ。

(2)これは大変興味深い見解だと思います。
 そこからは、様々な連想が湧いてくるところ、以下では、誠に卑近な例示になってしまいますが、当ブログの関心事項である映画の方に話を引き寄せることといたしましょう。

 実は、先般の映画『愛のむきだし』に関する記事においては、専ら満島ひかりに焦点を当てたため全然触れなかったのですが、映画の前半では、主人公ユウ(西島隆弘)の「盗撮」行為がかなり描かれているのです。

 映画で辿られる経緯は次のようです。
 主人公ユウの父親テツ(渡部篤郎)―キリスト教会の牧師―は、情熱的な女性カオリ(渡辺真起子)が自分の下を去ると、ユウに「懺悔」を強要し出します。ユウは、愛する父との繋がりを保とうと、「懺悔」「告白」のネタとなる罪な行いを続け、遂には女性のスカート内部を隠し撮りする「盗撮」という犯罪行為に辿り着きます。
 これをユウが「告白」すると、テツは激怒します。ですが、テツに殴られながらも、自分の行為が父親の関心をいたく惹いたことに満足して、ユウは「盗撮」に一層はまり込みます。果ては、ロイドマスターと呼ばれる「盗撮」の師匠のところまで行き、その下で「盗撮」技法の修行を積み、ついには「盗撮」マスターへと成長します。
 そんなユウは、ある日、盗み撮りした写真の出来具合を競う仲間内のゲームに負け、罰ゲームとして女装して街中を歩いていた最中に、理想の女性ヨーコ(満島ひかり)と巡り合うのでした(ここまでが映画『愛のむきだし』の序論といえるでしょう)。

(3)この映画の「盗撮」について、もう少し見てみましょう。
 まず、上記ブログの論考においては、「カメラの発明とほぼ同時期に、盗撮のための道具が発明されてい」ることがこの企画展では示されている、と述べられています(注2)。
 『愛のむきだし』におけるユウも、ロイドマスターの下で受けた修行を通じて、三節棍の先端にカメラを仕込んでスカートの内部を撮影するやり方(下図)とか、女性の背後で側転しながら撮ったり、股間に正拳突きを繰り出して写したり、といった技法(中国の無影拳を活用した技法だとされます)を習得するのです。



 こうした様々な技法を身につけたユウは、仲間を引き連れて「盗撮」に励むことになります。
 ただ、ユウの行為は、性欲(「いわゆるポルノ写真に対する欲望」)を満たすために行われるものではなく、単に父親の関心を自分に惹きつけておくために行われているにすぎないのです。その意味では純粋「盗撮」といえるかもしれません。
 
 としても、いうまでもなく、この映画が取り上げている「盗撮」は、上記の論考が扱っている「盗み撮る」行為の中のほんの一部にすぎず、それも犯罪を構成するものです。
 なにより、「盗撮」をするユウたちは、堂々と被写体の前に姿を現すのです(ただ、カメラの存在は見えないようにして、「盗撮」行為であることがあからさまにならないようにしますが)。他方、普通に考えられる「盗み撮り」は、カメラはむろんのこと、カメラマンも被写体から隠れた位置に陣取ることになるでしょう。

 あるいは、この映画における「盗撮」行為は、別の何かを象徴すべく大袈裟に誇張して描かれているだけで、上記の論考との関連性を云々しても意味がないとも考えられます。ただ、監督自身は、このストーリーは実話(「盗撮」をする男が、ある宗教団体に拉致された妹を、何とかそこから離脱させたという)に基づくものである、と述べています。

 更に付け加えると、この映画では、ユウらの「盗撮」行為を密かに見張っている人物が描かれているのです。すなわち、テツの教会の信者を丸ごと自分たちのカルト宗教団体「ゼロ教会」に引き入れてしまおうと狙っているコイケ(安藤サクラ)たちです。
 コイケたちの行為は、カメラマンの「一挙手一投足」をも記録してしまう「監視カメラ」そのものではありませんが、ここには、一方で撮影するの姿を被写体の視線から隠して「盗み撮り」しながらも、他方でその行為自体は別の視線によって捉えられているという、「盗撮」-「監視カメラ」の構図に類似したものがうかがえるようです。

 なお、「監視カメラ」については、上記ブログの論考においては、「監視カメラは、その存在を隠すというよりはむしろ誇示することによって、私たち自身の内側に、「監視する視線」を植え付けていく機構」だと述べられています(注3)。
 興味深いことに、ゼロ教会のコイケたちも、ユウたちを見守っているぞという姿勢をあからさまに見せつけます。ただ、その存在によって、監視カメラは犯罪行為の防止に役立つのでしょうが、コイケたちの監視行為は、自分たちの存在をユウたちに認めさせることが目的であって、ユウたちの盗撮を止めさせることが目的ではありませんが。


(注1)この企画展の概要についてはここで、展示されている作品の一部分は、このサイトとかこのサイトなどで見ることができます。
(注2)テイト・モダン美術館のHPに掲載されている企画展ガイドによれば、つとに19世紀には、ステッキや靴の内部とかジャケットの内側に隠すことの出来るカメラが作られているようです。
(注3)映画の原作の『ゴールデンスランバー』(伊坂幸太郎著、新潮社)には、ある通り魔事件を契機に仙台市内に設置されたとされる「セキュリティポッド」がでてきます。それは、「昼夜問わず、街の通行人の映像は、圧縮画像としてポッド内に保存され、使用された携帯電話、PHSの発信者情報も記録される」というもの(P.25)。小説の設定では、仙台市はかなりの「監視社会」になっているようです。