『HK/変態仮面』のDVDを見ました。
(1)本作は、なかなか映画館の中に入って行きづらいタイトルなこともあってついつい見逃してしまいましたが、最近TSUTAYAでDVDがレンタルできるようになり、また、NHKのEテレ「哲子の部屋」(8月20日)で新進気鋭の哲学者・千葉雅也氏(同志社大学准教授)が本作を取り上げたということを耳にしたので、さらには台風18号で外出できないこともあり、見てみました。
映画は、漫画『究極!!変態仮面』(作:あんど慶周)を実写映画化したもの。
本作の冒頭では、同漫画の画像が早送りで映しだされます。
そして、クレジット・ロールが流れたあと、歌舞伎町1丁目のSMクラブに、警視庁捜査一課の刑事たちが、連続爆弾魔が入り込んだとして踏み込むものの、一番に踏み込んだ色丞刑事は、SMの女王様・魔喜(片瀬那奈)に逆に捕まって鞭打たれます。でも、彼の方が魔喜に惚れてしまって結婚するに至り、本作の主人公・色丞狂介(鈴木亮平)が生まれます。
その間に父親は殉職するものの、狂介は、紅游高校の拳法部に所属する高校生に成長しています
他方、母親の魔喜は現役を続けていて、至極まじめに高校生活を送っている狂介に対し、「お前のどこに母さんの血が入っているのか?」と怒る始末(父親の血は、正義感が強いというところに流れているようです)。
そんな彼は、転校してきて彼のすぐそばの机に座ることになった姫野愛子(清水富美加)に一目惚れ。愛子の方も、拳法部のマネージャーになったりするものですから、狂介の思いは募るばかり。
そんなある日、愛子が銀行強盗団に捕まって人質にとられる事件が発生します。
ヘリコプターを用意しないと愛子たちをピストルで射殺すると強盗が言うので、なんとか助け出そうと狂介は銀行のビルの一室に忍び込みます。
その際、狂介は、部屋に入ってきた強盗の一人を拳法で倒しますが、彼の覆面を被って変装すれば、怪しまれずに強盗団と人質のいる大部屋に入って行けると考えます。
ただ、強盗が使っていた覆面ではなく、間違って女性用パンティを被ってしまうのです。ところが、一方で、「こんなものをかぶっては変態と思われてしまう」、「愛子ちゃんにこんな姿見せられない」と言うものの、他方で、「なんだ、この肌に吸い付くようなフィット感は!」「何だこの体内から押し寄せるマグマは!」と叫んで倒れてしまいます。
その時、「通常、人間は潜在能力の30%しか使うことができないが、狂介の場合、パンティを被ることによって母親の変態の血が覚醒し100%の潜在能力を引き出すことができるのだ」との解説が入ります。
そして、狂介はオーラを発して「変態仮面」に変身し、強盗団を倒し愛子を救出します。
その後、変態仮面は、あちこちに出没して、市民を悪人から守ります。
一方、紅游高校空手部主将の大金玉男(ムロツヨシ)は、ある目的から高校を廃校にしようと工作しますが、変態仮面はそれを妨害します。それで、大金は、様々の刺客を送って変態仮面を倒そうとします。
さらに、新たに赴任してきた数学教師の戸渡(安田顕)が、補習授業と称して愛子に接近しますが、果たしてどうなることやら、………?
ラストの方の、「変態仮面」と大金玉男との対決の前までは実に面白いコメディ作品に仕上がっており、そればかりか様々なことをも考えさせてくれるなかなかの傑作ではないかと思いました。
色丞狂介(変態仮面)に扮した鈴木亮平は、『阪急電車―片道15分の奇跡―』でチラッと見たことがありますが(注1)、30歳で高校生の役を、それもなんとも傑作な役を、力いっぱい演じているのを画面で見るのは感動的ですらあります。
(2)さて、冒頭申し上げましたNHKのEテレ「哲子の部屋」ですが、その回は、「J-POPや話題の映画「HK/変態仮面」から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想を解き明かす」という内容でした(注2)。
とはいえ、残念ながらその番組自体は見逃してしまいました。
ただ、ブログ「思考の部屋」に掲載の記事「「哲子の部屋」における“メタモルフォーゼ”は、何を語っていたのか。」には、かなり詳しくその模様が述べられています。
そこで以下は、同記事によりながら(言うまでもありませんが、文責はクマネズミにあります)、番組でなされた議論を少々見てみましょう。
イ)どうやら、千葉氏は、「変態仮面」と戸渡先生の「ニセ変態仮面」との対決をヤマ場とみなし、その勝利の帰趨に関して議論しているようです(注3)。
映画において狂介の「変態仮面」は、戸渡先生の「ニセ変態仮面」から、そのヘンタイ性が偽物だと喝破されてしまい、1度目の対決では負けてしまいます。でも、2度目には、「ヘンタイであればあるほど強いなどという法則はどこにも存在しない」と見抜き、スピニング・ファイヤー対決を勝利します(注4)。
この対決について、上に記載したブログの記事によれば、千葉氏は、あらまし次のように言っているように思われます。
「戸渡先生はアイデンティティーを究めようとしている。ところが主人公は、言ってみれば“中途半端”だった」。
「正義の主人公が(最初に)なぜ負けたかと思ったのかと言うと、自分には本当のアイデンティティーが無いんだということに囚われて、そう思ってしまった」。
この場合、「(主人公も戸渡先生も)結局ヘンタイなのかノーマルなのかというアイデンティティー問題にこだわっているから、一方はアイデンティティーを追及する。他方は、アイデンティティーは無いということを突き詰めてしまう」。
そして、「(主人公のように)自分は何者だかわからないということを突き詰めると、自己否定に陥る」。
そうだとすると、「アイデンティティー追求と自己否定という袋小路からどう抜け出したらよいのか?」
答えは、「ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめず、今の自分を肯定することで自身を取り戻す」こと。
すなわち、「比べてより上、より上と追及するのではなく、“仮”の状態のこの自分でいいということ、自分はハンパな変態仮面なんだ、ということ」。
結局、「中途半端な自分」を肯定することで戸渡先生との対決みたいなものから抜け出すことができる」のだ。
要すれば、ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめずに、今の自分を肯定すること(自分はハンパな変態仮面なんだと考えること)によって、狂介は対決を征することが出来たんだ、ということでしょう。
そこから、千葉氏は、結論的なところに行き着きます。
「「本当の自分」「アイデンティティー」というものは一つの神話「近代の神話」かなと、だからドゥルーズの言葉、「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ」が現代哲学の根本原理。「何々でなければならない」という呪縛から逃れ(解放され)て、中途半端でいびつな自分でOKする、ことではないかなぁと思う」。
ロ)千葉氏の議論の内、戸渡先生と狂介の対決に関することについては、確かに戸渡先生は、自分のヘンタイ性を突き詰めているように思われます。その地点からすれば、狂介のヘンタイぶりはレベルが低いものだとみなせるでしょう。
でも、アイデンティティーの観点から見た場合、狂介は、時々自分を見失うことがあっても、最初から「パンティを被ると変態仮面になるだけであって、自分自身はヘンタイではなくノーマルである」と確信していますし、ラストの方では仮面をとって素顔になった狂介が、そのことを愛子に告げます。
決して、千葉氏が言うように、狂介がアイデンティティーとして「中途半端」なところにいるわけではないのではないかと思います。
むしろ狂介は、ヘンタイ性が強いかどうかではなく(ヘンタイに関し「中途半端でいいんだ」と開き直ることによってではなく)、頑健な体と正義を貫く強い姿勢とが重要なんだ、と気がつくことによって、戸渡先生に勝つことができたのではないでしょうか(注5)?
ハ)千葉氏の議論の結論的な部分に関しては、これも、専門家の言うことに素人が難癖をつけても意味が無いとはいえ、「(人がもはや私と言わない地点に到達するのではなく、)私と言うか言わないかがもはやまったく重要でないような地点に到達することだ」というドゥルーズの言葉と、「中途半端でいびつな自分でOKする」という千葉氏の言葉とがそんなに簡単に結びつくとは思えないところです(注6)。
まして、ドゥルーズの言葉は、フェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(宇野邦一等訳、河出書房新社。1994年)の「1 序―リゾーム」の冒頭に見られる文章であり(P.15)、そこでは二人の連名で著書を出すことについて議論されているのであって、「中途半端でいびつな自分でOKする」ことが主張されているわけのものではないように、素人見ながら思われるところです。
とはいえ、専門家の言ですから、よりきちんとした裏付けがきっとあるものと思います。あるいは、番組の25分という時間的な制約によって、十分に議論しきれなかったことでしょう。この際、素人にもよく分かるように、雑誌『現代思想』にでもエッセイを掲載していただきたいところです(注7)。
(3)渡まち子氏は、「見ているこちらが恥ずかしくなるヴィジュアルの正義のヒーローを描く「HK 変態仮面」。“くだらない”という形容はこの映画には褒め言葉かもしれない」として20点をつけています(本文の最後に「意識的に低い点数を付けたが、これはもちろん褒めているのだ。念のため」と付言)。
また前田有一氏は、「本作も前半はまさに大成功。マーベルコミックス映画をパロディにしたオープニングから大爆笑の連続で、原作読者にしたら間違いなく今年一番笑える映画となっている。連載第一回からリアルタイムで読んでいた私としても、文句のない出だしであった」云々として70点をつけています。
(注1)映画の初めのほうで、付き合っていた翔子(中谷美紀)に対して「別れてくれ」と言う男の役です。
(注2)このサイトの記事によります。
なお、出演者は、千葉氏の他に、マキタスポーツ(お笑い芸人)と女優の清水富美加(『HK/変態仮面』に姫野愛子役として出演しています)。
(注3)「変態」に関しては、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、その番組において、2つの意味、大雑把に言えば、変身するという意味(metamorphose)と、性的異常という意味(abunormal)がある、と説明されたようです。
映画に登場する「変態仮面」の「変態」はいうまでもなく後者でしょうから、以下では「ヘンタイ」と記すことと致します(少なくとも、狂介と戸渡先生との対決においては、ふたりとも既に変身しているのですから、「ヘンタイ」という点が前面に出てくと思います)。
(注4)映画はこのあと、空手部主将の大金玉男が巨大ロボットを操って「変態仮面」を打ち負かそうとしますが、あっけなく大金のほうがやられてしまいます。
ただ、狂介の「変態仮面」は戸渡先生を打倒したのですから、もはや向かうところ敵なしであって、この場面は蛇足としか言いようがありません。
このサイトの記事が言うように、まさに「この映画の残念さを象徴するシーン展開として私があげたいのは、やっぱりクライマックスの、変態仮面 VS 戸渡の実に『ジャンプ』的な激戦がちゃんとかっこよく終結したのに、その直後に大金が全観客脱力必至の「秘密兵器」をひっさげてノコノコ出てきたところ」です!
(注5)ここにはもう一つ別の観点も考えられるかもしれません。
映画では「変態(ヘンタイ)」とまとめて取り扱われてしまっていますが、実際には、その内訳は実に種々雑多なものがあるようです。Wikipediaの「変態性欲」の項では、まず「性対象の異常」と「性目標の異常」の2つの項に大分類されたうえで、それぞれの項には小項目として10位上のものが記載されています。
それに従えば、戸渡先生の「偽変態仮面」は、「性目標の異常」の「疼痛性愛」に含まれる「マゾヒズム」に分類されるでしょうが、他方で狂介の「変態仮面」は、「性対象の異常」の「拝物愛」(フェティシズム)ではないでしょうか?
つまり、戸渡先生の異常と狂介の異常とは、同じ土俵の上で比較できないものと考えられます(狂介は、新品のパンティでは変身できませんが、新品のパンティでも変身できる者に比べて劣るわけではないでしょう!)。
そこで、狂介は、戸渡先生に対して、「お前の問題提起の仕方は間違っている!二人の間で、どちらがよりヘンタイなのかを競うことは出来ないのだ!」と反論出来たのではないか、と思われるところです。
(注6)「~ような地点に到達すること」というのは、「中途半端でいびつな自分でOKする」といった、いかにも安易に見えるやり方とは対局的な努力を払った末のことではないでしょうか?
なお、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、千葉氏は、「「本当の自分なんて言うものは無い」がドゥルーズのアイデンティティーの問題の答え」であり、「ドゥルーズは、「常に自分は別なものに変化し続けている」んだと強く言った人」であるとして、「家と職場で切り替わるパパの姿」を例示したようです(作詞糸井重里・作曲忌野清志郎の「パパの家」によりながら)。でも、そんなことくらいなら、例えば映画『鈴木先生』が言う「役割」の議論とどこが違うのでしょうか(同映画についての拙エントリの「注8」を参照してください)?
(注7)もしかしたら、近刊が予告されている千葉氏の著書『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)では、色々議論されているのかもしれません〔ただ、表題と同じタイトルの研究論文を眺めると(研究論文のため素人にはとうてい理解困難ですが)、「節約」が注目されているようで、あるいはその本では議論されていないのかもしれません〕。
★★★★☆
(1)本作は、なかなか映画館の中に入って行きづらいタイトルなこともあってついつい見逃してしまいましたが、最近TSUTAYAでDVDがレンタルできるようになり、また、NHKのEテレ「哲子の部屋」(8月20日)で新進気鋭の哲学者・千葉雅也氏(同志社大学准教授)が本作を取り上げたということを耳にしたので、さらには台風18号で外出できないこともあり、見てみました。
映画は、漫画『究極!!変態仮面』(作:あんど慶周)を実写映画化したもの。
本作の冒頭では、同漫画の画像が早送りで映しだされます。
そして、クレジット・ロールが流れたあと、歌舞伎町1丁目のSMクラブに、警視庁捜査一課の刑事たちが、連続爆弾魔が入り込んだとして踏み込むものの、一番に踏み込んだ色丞刑事は、SMの女王様・魔喜(片瀬那奈)に逆に捕まって鞭打たれます。でも、彼の方が魔喜に惚れてしまって結婚するに至り、本作の主人公・色丞狂介(鈴木亮平)が生まれます。
その間に父親は殉職するものの、狂介は、紅游高校の拳法部に所属する高校生に成長しています
他方、母親の魔喜は現役を続けていて、至極まじめに高校生活を送っている狂介に対し、「お前のどこに母さんの血が入っているのか?」と怒る始末(父親の血は、正義感が強いというところに流れているようです)。
そんな彼は、転校してきて彼のすぐそばの机に座ることになった姫野愛子(清水富美加)に一目惚れ。愛子の方も、拳法部のマネージャーになったりするものですから、狂介の思いは募るばかり。
そんなある日、愛子が銀行強盗団に捕まって人質にとられる事件が発生します。
ヘリコプターを用意しないと愛子たちをピストルで射殺すると強盗が言うので、なんとか助け出そうと狂介は銀行のビルの一室に忍び込みます。
その際、狂介は、部屋に入ってきた強盗の一人を拳法で倒しますが、彼の覆面を被って変装すれば、怪しまれずに強盗団と人質のいる大部屋に入って行けると考えます。
ただ、強盗が使っていた覆面ではなく、間違って女性用パンティを被ってしまうのです。ところが、一方で、「こんなものをかぶっては変態と思われてしまう」、「愛子ちゃんにこんな姿見せられない」と言うものの、他方で、「なんだ、この肌に吸い付くようなフィット感は!」「何だこの体内から押し寄せるマグマは!」と叫んで倒れてしまいます。
その時、「通常、人間は潜在能力の30%しか使うことができないが、狂介の場合、パンティを被ることによって母親の変態の血が覚醒し100%の潜在能力を引き出すことができるのだ」との解説が入ります。
そして、狂介はオーラを発して「変態仮面」に変身し、強盗団を倒し愛子を救出します。
その後、変態仮面は、あちこちに出没して、市民を悪人から守ります。
一方、紅游高校空手部主将の大金玉男(ムロツヨシ)は、ある目的から高校を廃校にしようと工作しますが、変態仮面はそれを妨害します。それで、大金は、様々の刺客を送って変態仮面を倒そうとします。
さらに、新たに赴任してきた数学教師の戸渡(安田顕)が、補習授業と称して愛子に接近しますが、果たしてどうなることやら、………?
ラストの方の、「変態仮面」と大金玉男との対決の前までは実に面白いコメディ作品に仕上がっており、そればかりか様々なことをも考えさせてくれるなかなかの傑作ではないかと思いました。
色丞狂介(変態仮面)に扮した鈴木亮平は、『阪急電車―片道15分の奇跡―』でチラッと見たことがありますが(注1)、30歳で高校生の役を、それもなんとも傑作な役を、力いっぱい演じているのを画面で見るのは感動的ですらあります。
(2)さて、冒頭申し上げましたNHKのEテレ「哲子の部屋」ですが、その回は、「J-POPや話題の映画「HK/変態仮面」から20世紀最大の哲学者ドゥルーズの思想を解き明かす」という内容でした(注2)。
とはいえ、残念ながらその番組自体は見逃してしまいました。
ただ、ブログ「思考の部屋」に掲載の記事「「哲子の部屋」における“メタモルフォーゼ”は、何を語っていたのか。」には、かなり詳しくその模様が述べられています。
そこで以下は、同記事によりながら(言うまでもありませんが、文責はクマネズミにあります)、番組でなされた議論を少々見てみましょう。
イ)どうやら、千葉氏は、「変態仮面」と戸渡先生の「ニセ変態仮面」との対決をヤマ場とみなし、その勝利の帰趨に関して議論しているようです(注3)。
映画において狂介の「変態仮面」は、戸渡先生の「ニセ変態仮面」から、そのヘンタイ性が偽物だと喝破されてしまい、1度目の対決では負けてしまいます。でも、2度目には、「ヘンタイであればあるほど強いなどという法則はどこにも存在しない」と見抜き、スピニング・ファイヤー対決を勝利します(注4)。
この対決について、上に記載したブログの記事によれば、千葉氏は、あらまし次のように言っているように思われます。
「戸渡先生はアイデンティティーを究めようとしている。ところが主人公は、言ってみれば“中途半端”だった」。
「正義の主人公が(最初に)なぜ負けたかと思ったのかと言うと、自分には本当のアイデンティティーが無いんだということに囚われて、そう思ってしまった」。
この場合、「(主人公も戸渡先生も)結局ヘンタイなのかノーマルなのかというアイデンティティー問題にこだわっているから、一方はアイデンティティーを追及する。他方は、アイデンティティーは無いということを突き詰めてしまう」。
そして、「(主人公のように)自分は何者だかわからないということを突き詰めると、自己否定に陥る」。
そうだとすると、「アイデンティティー追求と自己否定という袋小路からどう抜け出したらよいのか?」
答えは、「ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめず、今の自分を肯定することで自身を取り戻す」こと。
すなわち、「比べてより上、より上と追及するのではなく、“仮”の状態のこの自分でいいということ、自分はハンパな変態仮面なんだ、ということ」。
結局、「中途半端な自分」を肯定することで戸渡先生との対決みたいなものから抜け出すことができる」のだ。
要すれば、ヘンタイかノーマルかというアイデンティティーを突きつめずに、今の自分を肯定すること(自分はハンパな変態仮面なんだと考えること)によって、狂介は対決を征することが出来たんだ、ということでしょう。
そこから、千葉氏は、結論的なところに行き着きます。
「「本当の自分」「アイデンティティー」というものは一つの神話「近代の神話」かなと、だからドゥルーズの言葉、「私と言うか言わないかがもはや重要で無い地点に到達することだ」が現代哲学の根本原理。「何々でなければならない」という呪縛から逃れ(解放され)て、中途半端でいびつな自分でOKする、ことではないかなぁと思う」。
ロ)千葉氏の議論の内、戸渡先生と狂介の対決に関することについては、確かに戸渡先生は、自分のヘンタイ性を突き詰めているように思われます。その地点からすれば、狂介のヘンタイぶりはレベルが低いものだとみなせるでしょう。
でも、アイデンティティーの観点から見た場合、狂介は、時々自分を見失うことがあっても、最初から「パンティを被ると変態仮面になるだけであって、自分自身はヘンタイではなくノーマルである」と確信していますし、ラストの方では仮面をとって素顔になった狂介が、そのことを愛子に告げます。
決して、千葉氏が言うように、狂介がアイデンティティーとして「中途半端」なところにいるわけではないのではないかと思います。
むしろ狂介は、ヘンタイ性が強いかどうかではなく(ヘンタイに関し「中途半端でいいんだ」と開き直ることによってではなく)、頑健な体と正義を貫く強い姿勢とが重要なんだ、と気がつくことによって、戸渡先生に勝つことができたのではないでしょうか(注5)?
ハ)千葉氏の議論の結論的な部分に関しては、これも、専門家の言うことに素人が難癖をつけても意味が無いとはいえ、「(人がもはや私と言わない地点に到達するのではなく、)私と言うか言わないかがもはやまったく重要でないような地点に到達することだ」というドゥルーズの言葉と、「中途半端でいびつな自分でOKする」という千葉氏の言葉とがそんなに簡単に結びつくとは思えないところです(注6)。
まして、ドゥルーズの言葉は、フェリックス・ガタリとの共著『千のプラトー』(宇野邦一等訳、河出書房新社。1994年)の「1 序―リゾーム」の冒頭に見られる文章であり(P.15)、そこでは二人の連名で著書を出すことについて議論されているのであって、「中途半端でいびつな自分でOKする」ことが主張されているわけのものではないように、素人見ながら思われるところです。
とはいえ、専門家の言ですから、よりきちんとした裏付けがきっとあるものと思います。あるいは、番組の25分という時間的な制約によって、十分に議論しきれなかったことでしょう。この際、素人にもよく分かるように、雑誌『現代思想』にでもエッセイを掲載していただきたいところです(注7)。
(3)渡まち子氏は、「見ているこちらが恥ずかしくなるヴィジュアルの正義のヒーローを描く「HK 変態仮面」。“くだらない”という形容はこの映画には褒め言葉かもしれない」として20点をつけています(本文の最後に「意識的に低い点数を付けたが、これはもちろん褒めているのだ。念のため」と付言)。
また前田有一氏は、「本作も前半はまさに大成功。マーベルコミックス映画をパロディにしたオープニングから大爆笑の連続で、原作読者にしたら間違いなく今年一番笑える映画となっている。連載第一回からリアルタイムで読んでいた私としても、文句のない出だしであった」云々として70点をつけています。
(注1)映画の初めのほうで、付き合っていた翔子(中谷美紀)に対して「別れてくれ」と言う男の役です。
(注2)このサイトの記事によります。
なお、出演者は、千葉氏の他に、マキタスポーツ(お笑い芸人)と女優の清水富美加(『HK/変態仮面』に姫野愛子役として出演しています)。
(注3)「変態」に関しては、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、その番組において、2つの意味、大雑把に言えば、変身するという意味(metamorphose)と、性的異常という意味(abunormal)がある、と説明されたようです。
映画に登場する「変態仮面」の「変態」はいうまでもなく後者でしょうから、以下では「ヘンタイ」と記すことと致します(少なくとも、狂介と戸渡先生との対決においては、ふたりとも既に変身しているのですから、「ヘンタイ」という点が前面に出てくと思います)。
(注4)映画はこのあと、空手部主将の大金玉男が巨大ロボットを操って「変態仮面」を打ち負かそうとしますが、あっけなく大金のほうがやられてしまいます。
ただ、狂介の「変態仮面」は戸渡先生を打倒したのですから、もはや向かうところ敵なしであって、この場面は蛇足としか言いようがありません。
このサイトの記事が言うように、まさに「この映画の残念さを象徴するシーン展開として私があげたいのは、やっぱりクライマックスの、変態仮面 VS 戸渡の実に『ジャンプ』的な激戦がちゃんとかっこよく終結したのに、その直後に大金が全観客脱力必至の「秘密兵器」をひっさげてノコノコ出てきたところ」です!
(注5)ここにはもう一つ別の観点も考えられるかもしれません。
映画では「変態(ヘンタイ)」とまとめて取り扱われてしまっていますが、実際には、その内訳は実に種々雑多なものがあるようです。Wikipediaの「変態性欲」の項では、まず「性対象の異常」と「性目標の異常」の2つの項に大分類されたうえで、それぞれの項には小項目として10位上のものが記載されています。
それに従えば、戸渡先生の「偽変態仮面」は、「性目標の異常」の「疼痛性愛」に含まれる「マゾヒズム」に分類されるでしょうが、他方で狂介の「変態仮面」は、「性対象の異常」の「拝物愛」(フェティシズム)ではないでしょうか?
つまり、戸渡先生の異常と狂介の異常とは、同じ土俵の上で比較できないものと考えられます(狂介は、新品のパンティでは変身できませんが、新品のパンティでも変身できる者に比べて劣るわけではないでしょう!)。
そこで、狂介は、戸渡先生に対して、「お前の問題提起の仕方は間違っている!二人の間で、どちらがよりヘンタイなのかを競うことは出来ないのだ!」と反論出来たのではないか、と思われるところです。
(注6)「~ような地点に到達すること」というのは、「中途半端でいびつな自分でOKする」といった、いかにも安易に見えるやり方とは対局的な努力を払った末のことではないでしょうか?
なお、本文の(2)で言及したブログの記事によれば、千葉氏は、「「本当の自分なんて言うものは無い」がドゥルーズのアイデンティティーの問題の答え」であり、「ドゥルーズは、「常に自分は別なものに変化し続けている」んだと強く言った人」であるとして、「家と職場で切り替わるパパの姿」を例示したようです(作詞糸井重里・作曲忌野清志郎の「パパの家」によりながら)。でも、そんなことくらいなら、例えば映画『鈴木先生』が言う「役割」の議論とどこが違うのでしょうか(同映画についての拙エントリの「注8」を参照してください)?
(注7)もしかしたら、近刊が予告されている千葉氏の著書『動きすぎてはいけない』(河出書房新社)では、色々議論されているのかもしれません〔ただ、表題と同じタイトルの研究論文を眺めると(研究論文のため素人にはとうてい理解困難ですが)、「節約」が注目されているようで、あるいはその本では議論されていないのかもしれません〕。
★★★★☆