映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

るろうに剣心 伝説の最期編

2014年09月25日 | 邦画(14年)
 『るろうに剣心 伝説の最後編』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)前編の『京都大火編』の出来栄えが素晴らしかったので、後編もと期待して映画館に行ってきました。

 前編の最後で、志々雄藤原竜也)の一味が操る軍艦から突き落とされた武井咲)を追って海に飛び込んだ剣心佐藤健)は、海岸に打ち上げられて比古福山雅治)に助けられます。
 比古は剣心の師匠で、剣心は志々雄を倒すために奥義の伝授を頼み込みます。



 やっとの思いで奥義を会得した剣心は、なおもしつこく剣心に迫る四乃森伊勢谷友介)を蹴散らすと、志々雄らが乗る軍艦が迫る東京に向かいます。



 果たして、剣心は、志々雄を倒すことができるでしょうか、………?

 本作では、主人公の剣心と様々な相手との対決シーンが見せ場になっているところ、いずれも迫力満点で、近来にない切れ味するどいチャンバラの場面の連続となっていて、全体としても期待通りの出来栄えではないかと思いました。ただ、せっかく志々雄の軍艦が浦賀沖まで来ながらも、その出番があまりないままに官側の大砲であっけなく沈められてしまうのは、とても残念な気がしました。

(2)『京都大火編』についてのエントリでも申し上げましたが、自分らを裏切った明治政府を転覆し自分たちが権力の座に着くという志々雄側の狙いは、江戸幕府を倒して権力を奪取した官軍側とそんなに変わりがないように思われます(注1)。
 要は、時代の流れ、時の運(注2)。

 とはいえ、本作は丸ごとフィクションながら、明治初期の歴史的な枠組みに基本的に沿いつつ描き出されているために、いくらなんでも志々雄たちが明治政府の転覆を成し遂げるだろうとは思いませんでした(原作漫画は未読)。
 でも、もう少しくらい彼らの活躍の場が描き出されてもいいのではないでしょうか?

 『京都大火編』では、志々雄は、随分の部下を動員して京都に火を放ちましたし、あの立派な鋼鉄製軍艦「煉獄」を製造するにあたっては、余程の資金と人員を投入したことでしょう。
 ですから、志々雄側は、そうした資金力とか動員力を背景にして集められる精強な陸上部隊と連携し、軍艦から陸に向けて大砲を撃ち放ちながら(本作でも何発か打ち込みますが)、官側を蹴散らしつつ東京に向かって進軍するのではないかな、と密かに期待していました。
 にもかかわらず、実際には軍艦だけ単騎で浦賀に進出するものですから(注3)、陸上の官側としても、大砲を備え付ける時間的余裕さえあれば(注4)、軍艦を沈め、志々雄側を撃破することなどいとも容易な技だったでしょう(注5)。

 あるいは、すべてを軍艦の製造につぎ込んでしまったために、陸上部隊も京都で騒ぎを起こすことくらいがせいぜいであり、志々雄自身は戦の帰趨を度外視していたようにも思われます。
 仮に、志々雄側が明治政府を転覆することに成功したとしても、その後の国づくりになれば明治政府と同じことをせざるを得ないくらいのことは、世界の流れから見て分かっていたのではないでしょうか?
 そんな実利的なことではなく、とにかく、自分らの存在を世に知らしめたい、明治政府の裏側を暴きたいという一点で志々雄は戦いを挑んだのかもしれません(注6)。

 15分という制限時間を抱えながらも4対1の戦いを挑まれ、それを跳ね除けるラストの志々雄の獅子奮迅の戦いぶりは大層感動的です(注7)。



 そして、そんなあれやこれやをすべて一撃で海中に没し去ってしまう官側の大砲は、その後の日本の行く末を暗示すらしているようです(注8)。

 ところで、剣心(注9)は、志々雄のいない世の中、全力で立ち向かわなくてはならない相手のいない世の中で、いったい何を生きがいにしてこれから暮らしていくというのでしょう(注10)?

(3)渡まち子氏は、「大ヒットアクション2部作の完結編「るろうに剣心 伝説の最期編」。邦画のアクションレベルを一気に押し上げる完成度の高さだ」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「この完結編はそんな彼ら(スタッフとキャスト)がいよいよ本気を爆裂させたにふさわしい仕上がりで、個々のバトルシーンがきっちりストーリーの起伏に対応し、見た目の完成度も高いからえらい盛り上がりである」として75点を付けています。
 相木悟氏は、「とにもかくにも造り手とキャストのほとばしる熱量に圧倒される力作であった」と述べています。



(注1)伊藤博文・内務卿(小澤征悦)は、「志々雄は力でこの国を奪い取るつもりだ」などと言いますが、それは官軍側が明治維新に際してすでに行ったことではないでしょうか?

(注2)志々雄は、最後に燃え尽きる前に「俺は負けちゃいない、時代がお前を選んだだけだ」と剣心に向かって言います。

(注3)まるで、戦闘機による護衛のない戦艦大和の単騎出撃(「坊ノ岬沖海戦」)のようです。

(注4)映画では、志々雄側が、剣心が捕まるまで何もせずにじっと軍艦を浦賀沖に停泊させていたように描かれています。でもその間に官側が着々と砲台を整えていることを全然把握していなかったのでしょうか(砲台を一から作るのであれば1ヶ月以上は要し、人々の出入りが煩雑にあるでしょうから、そうした陸上の動きはなんらかの形で海上からも察知できるのではないでしょうか)?そうした情報に基づいて軍艦「煉獄」の大砲を砲台建設現場に打ち込んでおきさえすれば、あれほど簡単に沈められなかったのではと思うのですが。

 なお、薩英戦争(1863年)では、「薩摩藩は海岸に射程1300~1400メートルの80ポンド要塞砲、射程2800メートルの24ポンドカノン砲を装備していたが、英国軍艦はアームストロング砲を装備」しており、「薩摩藩は、このアームストロング砲の洗礼を受けて痛手を被っ」たそうです(この記事によります。なお、Wikipediaによれば、英軍の軍艦の方も「大破1隻・中破2隻」等の被害を被っています)。
 それから15年ほども経過していますから、少なくとも志々雄の軍艦に設置されている大砲は、アームストロング砲ではないかと思われます。

 他方、兵器に疎いクマネズミには、映画の中で官側が設置した大砲が何に該当するのかわかりません(あるいは、「お台場」に設置された80ポンド青銅製カノン砲のようなものかもしれません)。
 ただどんな大砲にせよ、そんな大型の武器を警官隊が所有するはずはなく、ここは、伊藤・内務卿が、陸軍に命じてその所有する大砲を海岸に据え付けさせたものと考えられます。
 そうだとすると、日本を取り巻く情勢から軍隊の出動はありえないとして剣心に志々雄打倒を依頼した大久保・内務卿の意向が無視されたことになるのではないでしょうか?

(注5)劇場用パンフレットに掲載の「Special Talk:02」において、原作者の和月伸宏氏は、「本当はもっと原作でも煉獄の中でアクションを展開させたかったのですが、資料がない中でアシスタントさんに描いてもらうなんて無理なので、ろくな活躍もなしに泣く泣く退場させてしまったんです」と述べています。

(注6)もっと言えば、志々雄は、戦いの結果というよりも、むしろ戦いのプロセス自体に価値を見出しているとはいえないでしょうか?

(注7)ただ、志々雄が剣心と争っている時に、駒形由美高橋メアリージュン)が「もう止めて、これ以上苦しめないで」と二人の間に割って入り、にもかかわらず志々雄が剣を突き出すと、その先が彼女の体を突き抜けて剣心にまで達します。剣心は血の気が失せ、彼女は「嬉しい、戦いのお役に立てて」と絶命します。ところが、その後の剣心の戦いぶりには、この傷は一切反映されないのです。 単に剣心の皮膚をかすっただけだったのでしょうか?

(注8)今の時点から言えることに過ぎませんが、その後の日清・日露戦争から太平洋戦争に至る道程で人々が味わった苦難は、志々雄側の暴虐を受けた村人たちの苦難の拡大版とはみなされないでしょうか?

(注9)映画の最初の方で比古に、「命の重さがわかってはじめて奥義への道が開かれる」と諭され、比古の元を立ち去る際に「死ぬなよ」と言われたのを守って、映画のラストでやっとの思いで薫のところに戻ってきた剣心ですが。

(注10)神谷道場の庭の美しい紅葉を見ながら、剣心は「こうやって生きていくでござるよ」「共に見守ってくださらぬか?」と薫に言うのですが、それでは若隠居の心境ではないでしょうか(後者は、薫へのプロポーズの言葉なのかもしれませんが)?



★★★★☆☆



象のロケット:るろうに剣心 最後の伝説編

イン・ザ・ヒーロー

2014年09月17日 | 邦画(14年)
 『イン・ザ・ヒーロー』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)日曜日朝のトーク番組「ボクらの時代」に主演の唐沢寿明が出演していたこともあって(注2)、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主役は、ヒーローのスーツを着たり怪獣の着ぐるみを着たりして演じるスーツアクターとして25年活躍している本城唐沢寿明)。
 仕事に夢中の彼は、妻・凛子和久井映見)と娘・杉咲花)と3年前に別れて一人暮らし。
 その部屋の壁には、本城が憧れるブルース・リーの大きな写真が貼ってあったり、「我、ことにおいて後悔せず」と書かれた紙が貼ってあったりします(注3)。

 さて、彼が代表に就いている「下落合ヒーローアクションクラブ」に、日本で撮影が行われているハリウッド映画『ラストブレイド』のオーディションにぜひ受かりたいという一ノ瀬福士蒼汰)が入ってきます。



 さらに、そのハリウッド映画から本城に出演依頼が飛び込んできます。ですが、それは非常に危険なアクションのスタントなのです。
 さあ、一体どうなることでしょう、………?

 これまで映画では取り上げられたことがなかったスーツアクターを主役にし、それも過去にその経験があるという唐沢寿明をもってくるというのですから面白くない訳はないはずながら、やはり邦画特有の人情話が絡んだりして(注4)、せっかくの題材が十分に生かされなかったように感じました(注5)。

(2)本作のクライマックス・シーンを見ると、みなさんが指摘されているとはいえ、やっぱり『蒲田行進曲』(1982年)を思い起こさずにはおれません。
 なにしろ同作では、主役の銀四郎風間杜夫)を憧れる大部屋俳優のヤス平田満)が、結婚相手の女優・小夏松坂慶子)のお産の費用を捻出するために、死の危険が伴う「階段落ち」(高さ数十メートルの階段を落下)に挑むというのですから(注6)。
 本作でも、白忍者の本城が、本能寺2階から「ワイヤーなしCGなし」で8.5m下の地上に落下するシーン(注7)が設けられています。

 本城の白忍者が100人の黒忍者と対決する15分ものアクション場面は、クライマックス・シーンだけあってなかなか見事な出来栄えだと言えるでしょう。
 とはいえ、本城はハリウッド映画に出演できると大喜びながら(注8)、白忍者の装束では顔が白覆面で覆われてしまい、それではこれまでのスーツアクターの仕事と何ら変わりがないのではと思われ、そんなに大喜びする理由が不可解です(注9)。
 それに、このシーンの撮影のために本城は当分ベッドに寝たきりになってしまいましたから、以降の撮影は不可能のはずです。
 本城の出番がこのシーンだけであればそれで構わないものの、でも、劇場用パンフレットに掲載されている「What is Last Blade ?(ラストブレイド設定)」によれば、本作においてスタンリー・チャン監督が制作している映画『ラストブレイド』に登場する「白忍者」は「主人公(マット)の相棒」とされていますから、ワンシーンだけの登場ということはありえないのではないでしょうか?
 あるいは、そうしたシーンはすでに撮影済みかもしれないとはいえ(注10)、本作の中では何も説明されておりません。

(3)また、劇場用パンフレットには、本作の脚本を担当した水野敬也氏による別冊「「武士道」のすすめ」が付けられています。
 その最初のページに、主役の本城について、「殺陣の名手でもある彼は武士の生きざまと自分とを重ねており、『武士道』『葉隠』『五輪書』は全文を暗唱できるほど読み込んでいる」とあり、「はじめに」のところでも、「彼の根底に流れる「武士道」を理解することは、「イン・ザ・ヒーロー」を違った角度からも楽しませてくれると思います」として、「武士道とはなにか?」という問に迫っていき」ます。
 特に、その第1章は「「切腹」とは何か?」とのタイトルの下、『葉隠』の有名な「武士道とは、死ぬことと見つけたり」の箇所について説明し、「生か、死か、その二択を問われたとき迷わず死を選ぶこと。これが武士の美学でありました」が、「武士道は、決して命を軽視しているわけではありません。武士道が重視しているのは、他者のために自分の命を捨てられる「勇気」なのです」と述べています。
 その上で、「本城渉は『イン・ザ・ヒーロー』のラストシーンの大立ち回りに向かうとき、鏡の前で自らの身なりを丁寧に整えます。それは単に、映像のためのメイクではなく、死を覚悟し、死した後にも美しさを保とうとする武士の姿勢そのものだったのです」と解説しています。

 こうした「死の美学」的な解釈に対して、経済評論家でブロガーの池田信夫氏は、このサイトの記事で、「(『葉隠』を著した)山本常朝は「私も生きるほうが好きだ」といっている。不本意な生き方をするのは腰抜けだが、不本意に死ぬのは「犬死」だ。生への未練を捨てて死ぬ気になれば仕事も自由にできる、という実務的な心得を説いているのだ」と述べています。

 むろん、古典の解釈は様々なものがあり、どれが正解かという判断は難しいものの、『葉隠』の該当箇所の最後の「一生落度なく、家職を仕果すべきなり」という文章を見ると(注11)、水野氏の解釈が一般的だとはいえ、池田氏の解釈もありえないものではないとも思えます。
 そして、本城は、殺陣をやるときなどに侍の格好はするとはいえ、もとより武士ではありませんから、水野氏のような思い入れはなんだか場違いのようにも感じます。
 それに、本城が香港の俳優に代わってやることになる「8.5mの落下」は、いってみれば『ラストブレイド』を製作するチャン監督の単なる我儘によるものであり(注12)、スタッフがいうように「ワイヤーあり、CGあり」で十分なのではないでしょうか。そんなものになり手がいないからといって本城が引き受けるのは、義侠心の取り違えであり、もしもそれで死んだりしたらそれこそ「犬死」ではないかと思えてしまいます。
 確かに、山本常朝に言わせれば、そんな理屈は「上方風」であり、例え死んでも「気違い」というだけで「恥」ではないのかもしれませんが、実際にそんなことをしたら「一生落度なく家職を仕課(しおお)す」ことができなくなってしまいます(注13)。

(4)渡まち子氏は、「ヒーロー映画の裏方、スーツアクターの生き様を描くヒューマン・アクション「イン・ザ・ヒーロー」。スーツアクター出身の唐沢寿明の気合いがみなぎっている」、「本作は、スクリーンに映らないすべての“映画屋たち”のための応援歌なのだ」として70点をつけています。
 相木悟氏は、「ストーリーを聞いただけで胸が熱くなるも、色々とひっかかり、終始ノレず。実に惜しい一作であった」と述べています。



(注1)監督は武正晴。脚本には、エグゼクティブ・プロデューサーの李鳳宇が加わっています。

(注2)本作で本城の元妻・凛子のお見合い相手の西尾に扮する及川光博も、同じ番組に出演していました。

(注3)劇場用パンフレットに挟み込まれている別冊「「武士道」のすすめ」の「第四章 宮本武蔵の『独行道』と『五輪書』」によれば、『独行道』からの引用。

(注4)本作では、母親が3年前にアメリカに逃げ出してしまったために、一ノ瀬は幼い弟と妹の面倒を見ているという設定になっています。
 そして、彼がハリウッド映画に出演したいというのも、アカデミー賞の授賞式で、アメリカのどこかにいる母親に向かって「あんたのこと恨んでいない」というスピーチをしたいからだと本城に打ち明けます。
 でも、こんな取って付けたような人情話を本作にわざわざ持ってくる必要がどこにあるのでしょうか(そもそも、一の瀬が映画の撮影などで忙しい時に、幼い弟と妹は家でどうしているのでしょう)?

(注5)最近では、唐沢寿明はTVドラマ『ルーズベルト・ゲーム』、和久井映見は『ロボジー』、杉咲花はTVドラマ『MOZU』、寺島進は『清須会議』で、それぞれ見ています。

(注6)『蒲田行進曲』のあらすじは、例えばこちらで。

(注7)本作の劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」より。

(注8)本城は、喜び勇んで元妻・凛子に「スタンリー・チャンの映画に出るんだ」と報告しに行きます(尤も、本城が「ワイヤーなしCGなし」と言うと、凛子に「馬鹿じゃないの、いつまで戦国時代を生きているの」と言われてしまいますが)。



(注9)本城がハリウッド映画に出演するという話を聞いた同僚の海野寺島進)は、「俺達は、自分の顔を大スクリーンに映してみたいと思って、この仕事を始めたんだ。いつか夢は叶うとして惚れたんだ」と言って本城の気持ちを理解します。



 また本城自身も一の瀬に「俺も誰かのヒーローになりたい。俺がやらなきゃ、アクションに夢があることを誰も信じなくなる」などと言ったりします。こういうところからすれば、本城も周りの人々も、顔出しがあるものと思っているのではないでしょうか?
 尤も、この場面の最後では付けていた白覆面が半ば脱げてしまい、本城の顔が映し出されますから、それで望みは達せられたのかもしれませんが。



(注10)おそらく、白忍者が登場する他のシーンは、降板した「香港在住の著名なアクション俳優フェン・ロン」を使って既に撮影済みであり、最後の本能寺のシーンだけ本城に代役を努めさせたのではないかと思われます。ただ、そうだとすると、クライマックス・シーンでの本城の顔出し(前記注9)はどういうことになるのでしょうか(著名なアクション俳優が他のシーンでも白覆面のママとは考えられませんから、いったいどのようにつなげるつもりなのでしょうか)?

(注11)『葉隠』の該当箇所の原文はこちら

(注12)チャン監督は、本作の最後にも映像が流れるように、「映画はあくまでも監督のものである」という信念の持ち主で、香港のアクションスターが降板しようと、スタッフがいくら説得しようと、「ワイヤーなし、CGなし」にこだわり続けます。

(注13)あるいは、本城は、「最終章」で水野氏が「武士道とは何か?」という問に対する「一つの明確な解答」だとする「義を見てせざるは勇なきなり」に従って、白忍者の代役を引き受けたのかもしれません。
 でも、『ラストブレイド』で「ワイヤーなし、CGなし」のアクションをすることが、本文でも申し上げましたように、とても「義」とは思えないのですが?



★★★☆☆☆



象のロケット:イン・ザ・ヒーロー

バルフィ!

2014年09月12日 | 洋画(14年)
 『バルフィ! 人生に唄えば』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)このところインド映画を見ていないなと思い映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主人公は、生まれつきの聾唖者のバルフィランビール・カプール)。



 そのバルフィが、3ヶ月後に結婚式を控えているシュルティイリヤーナー・デクルーズ)に恋をし、シュルティもバルフィを好きになるのですが、やはり親が決めた完璧な婚約者との結婚の方を選んでしまいます。



 その後、バルフィは、資産家の孫娘で自閉症のジルミルプリヤンカー・チョープラー)とひょんなことで一緒にインド中を旅することになり、6年後にシュルティが住む街に舞い戻ってきます。



 ですが、その街でバルフィは、突然警察に逮捕されてしまうのです。それを見たシュルティは、昔の思いにとらわれて夫が止めるのも聞かずに警察署に向かいます。
 果たしてバルフィの身はどうなるのでしょうか、シュルティは、そしてジルミルは、………?

 本作はインド映画で、いつものようにまずまずの長尺(151分)で、登場人物が歌うシーンもそこそこ挿入されているとはいえ(注2)、ボリウッド映画特有のダンスシーンは殆ど見られず、主人公と二人の女性との恋愛物語が実に美しく巧みに描かれていて、長さを感じさせない優れた作品ではないかと思いました。

(2)本作では対になって描かれるものが多いように感じました。

 まずは何と言っても、バルフィイが恋するシュルティとジルミルの二人の女性。
 この場合、バルフィが能動的に恋に陷いるのはシュルティであり、ジルミルの方はいわば受動的に恋するようになった感じです。
 というのも、シュルティは婚約中であり、バルフィを愛しながらもどうしても引き気味になり、そこをバルフィの方で能動的に前に踏み込もうとするからですし(注3)、ジルミルについては、追い返してもどこまでもバルフィの後を追いかけてきてしまい、そのうちにバルフィもジルミルのことをなくてはならない人と思うようになるわけです。
 外見的にも、一方のシュルティを演じる26歳のイリヤーナー・デクルーズは、そのままで際立った美しさに目を引かれますが、他方のプリヤンカー・チョープラーについては、20歳位(注4)で発達障害者でもあるジルミルに巧みに扮しているために、映画を見た時は、まさか既に32歳で、2000年のミス・ワールドに選出されたことがある女優だなどとは思いもよりませんでした!

 次に男性陣では、バルフィには地元警察のダッタ警部(サウラブ・シュクラー)が対峙します。
 いろいろな理由からバルフィはジルミル誘拐の犯人とされ、地元警察署のダッタ警部から厳しい取り調べを受けたり、バルフィが警察署を逃亡すると執拗に追跡して来たりするのです(注5)。

 さらに言えば、本作には2つの都市が出てきます。
 すなわち、インドの西ベンガル州の州都コルカタ(昔はカルカッタと言われてました)と、ダージリン地方の中心都市のダージリン。
 この2つの都市はいずれもインド西部にあるとはいえ、随分と性格が違うようです。
 一方のコルカタは、ガンジス川の支流の東岸の平野にあるインド第3の巨大商業都市ですし、他方のダージリンは、コルカタのずっと北方の平均標高が2000mを越えるヒマラヤの高地に位置し、人口が10万人ほどの中都市で、以前は避暑地として栄えた消費都市です。
 本作では、バルフィとシュルティとはダージリンで出会い、またバルフィはジルミルのことを知ってもいました(注6)。
 そして、シュルティは結婚するとコルカタに移りますが、バルフィとジルミルも6年後にコルカタに舞い戻ってきてシュルティと出会うのです(注7)。

(3)本作は、全体として優れた出来栄えの作品と思いますが、問題点がないわけでもないと思います。

 まず挙げられるのは、本作には過去の名作の引用と思われるシーンがかなりたくさん盛り込まれている点です。
 本作の公式サイトの「Introduction」では、「本作は、『雨に唄えば』などの古き良き時代のハリウッドミュージカルや、『きみに読む物語』、『アメリ』、『Mrビーン』、『黒猫白猫』、『プロジェクトA』、『菊次郎の夏』などの世界各国の名作映画へのオマージュに溢れた、大きな映画愛に満ちた作品」だとされています。
 IMDbで「Barfi!」を調べてみても、「Connections」のコーナーで「Charlie Chaplin's City Lights」など5つが取り上げられています。
 こうした引用は、確かに「オマージュ」と言えば聞こえはいいものの、例えば北野武監督の『菊次郎の夏』を真似たシーン(注8)やバルフィが靴を投げ上げるシーン(注9)などは、オマージュというよりパクリといった方がいいような気もします〔と言って、オマージュとパクリの違いがどこにあるのかは難しいところです(注10)〕。

 また、後半になるとバルフィとジルミルの話が俄然増えてしまい、シュルティが画面に暫くの間全く登場しないのです。
 バルフィが主人公ですから、彼がかかわらないコルカタにおけるシュルティの暮らしぶりなどを描き出さないのも当然とはいえ、そうは言ってもシュルティがバルフィを忘れられないことがモノローグだけで済まされるのでは(注11)、いかにも弱い感じがします。

 さらに言えば、手話のことがあるかもしれません。
 バルフィくらいの若者でしたら、手話の取得はそう難しいことではないものと思われます。にもかかわらず、本作では、バルフィが手話を使ってコミュニケーションを取っているシーンは殆ど見当たらないように思います(注12)。
 ただ逆に、本作においてバルフィがかなり手話を使えることとすると、他人とのコミュニケーションがかなりの程度可能となりますから、あえて喋れないという設定をとることの意味が薄れてしまうでしょうが。

(4)渡まち子氏は、「ハンディを持ちながら明るく生きる青年が主人公の人生讃歌「バルフィ! 人生に唄えば」。名作映画へのオマージュがいっぱいで映画好きなら胸が熱くなる」として65点をつけています。
 暉峻創三氏は、「昨年ヒットした「きっと、うまくいく」を伝統的インド娯楽映画の極北とするなら、本作は新時代インド娯楽映画の可能性を極致まで切り開いた傑作だ」と述べています。



(注1)本作の監督はアヌラーグ・バス

(注2)何しろ、映画の冒頭では、一方でクレジットが流れますが、他方で映画鑑賞の際の注意事項が唄で歌われるのですから!

(注3)バルフィは、シュルティの両親に会って彼女との結婚を申し込みますが、うまく伝えられず、また彼女の方も、親の決めた結婚を受け入れてしまい、結局バルフィは諦めざるを得ません。

(注4)ジルミルは、父親が博打好きで母親が大酒飲みのため、6歳から施設〔「ムスカーン(ほほえみの家)」にいる女性がそう語ります〕に15年間預けられていました(ほほえみの家のダジューが、ジルミルの両親に向かって「私は15年間ジルミルを見たが、お前たちは15日間でこの有り様か!」と怒鳴ります)。

(注5)尤も、ダッタ警部は、アリバイのあるバルフィをジルミル誘拐事件の真犯人に仕立てあげようとする上司に反対したために、出世コースからはずれてしまいます。

(注6)というのも、バルフィの父親は、ダージリン一の資産家であるチャタルジー家の運転手であり、ジルミルはその家の孫娘でしたから。おそらくシュルティも、ダージリンの家柄の良い家の娘でしょう。

(注7)コルカタからダージリンに行くには、Wikipediaによれば、コルカタから夜行列車でシリグリに向かい、同市のニュー・ジャルパグリ駅で下車し「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」に乗り換える方法があるようです。
 ちなみに、この鉄道は「ダージリン・トイ・トレイン」とも呼ばれ、世界遺産に登録され、また本作の中でも大活躍します。

(注8)このサイトの記事には、元の作品の動画(部分)が掲載されています。

(注9)このサイトの記事で知ったのですが、北野武監督の『あの夏、一番静かな海』に随分と類似するシーンがあります(この動画の13分のところ)。
 本作において非常に重要なシーン(それも複数回映し出されます)が他の監督の作品からの引用というのでは、やや引けてしまうところです。

(注10)古典の中の古典として定着しているチャップリンの映画などからの引用であれば、観客の方も「オマージュ」だと感じるのかもしれませんが、例えば2004年の『きみに読む物語』(原題「The Notebook」)ともなると気がつく観客の数は相当減ってしまうのではないでしょうか(少なくとも、クマネズミは見ておりません)。
〔補注 その後DVDで『きみに読む物語』を見ましたが、本作との類似点は2,3にとどまらないように思いました。それも、重要なラストの死の場面などそっくりそのままであり、到底オマージュと言えるシーンではないように思いました〕

(注11)シュルティは、「夫と一緒にいても、心は沈黙していた」とか「完璧な夫婦は、愛が不足していた」、「私は、心に従う勇気がありませんでした」などと語りはするのですが。

(注12)ちなみに、シュルティは、夫と別れた後、「手話の教室で教えるソーシャルワーカー」となっていたようです(このサイトの記事によります)。



★★★★☆☆



象のロケット:バルフィ! 人生に唄えば

LUCY ルーシー

2014年09月09日 | 洋画(14年)
 『LUCY ルーシー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)スカーレット・ヨハンソンモーガン・フリーマンが共演するというので、映画館に行ってきました(注1)。

 本作(注2)は、類人猿が水辺で水を飲んでいるシーンから始まります(注3)。
 そして、10億年前に生命が誕生(注4)したとのナレーションが入ったあと、場面は現代の台北に移り、あるホテルの前でルーシー(台湾への25歳の留学生:スカーレット・ヨハンソン)と男が言い争っています。
 彼は、「アタッシュケースをホテルにいるチャン氏に届けてくれれば、1000ドル手に入る」と言って、嫌がるルーシーの腕に手錠で鞄をつなげて無理やりホテルの中に送り込みます。
 ホテルの中では人相の悪い男たちが現れ、鞄を持ったルーシーを強引にチャンチェ・ミンシク)の待つ部屋に拉致します(注5)。



 その鞄の中身は「CPH4」という新種の覚醒剤であり、密輸するためにチャンの一味のギャング団は、ルーシーや3人の男の腹部にその覚醒剤の袋を埋め込みます。

 他方、脳科学者のノーマン博士(モーガン・フリーマン)は、パリのソルボンヌ大学で講義をしていて、「人間は、脳の機能のごく一部しか使っていない」、「ヒトよりも脳を使っている動物はイルカで(20%も機能)、そのエコーロケーションはいかなるソナーよりも優秀だ」などと話しています。



 さらに、ノーマン博士は、「人間の脳の覚醒率(cerebral capacity)が20%にアクセスできたらどうなるだろう?」(注6)、「40%にアクセスできたら、他者をコントロールできるだろう」などと語り、学生から「100%に到達できたら?」と質問されると、「考えもつかない」と答えます。

 さて、監禁されているルーシーは、チャンの一味のチンピラに腹部を足蹴にされますが、そのことで腹部に埋め込まれた覚醒剤の袋が裂けて、中身が体内に飛び散ってしまいます(注7)。
 ルーシーは部屋中を転げまわり、気がついた時、脳が覚醒して何か特別な能力が身についていることを自覚します。何しろ、彼女を取り押さえようとしたギャング団をいとも簡単にやっつけてしまうのですから!



 ルーシーは、友人の家に行ってパソコンを借りて色々調べた挙句、ノーマン博士と連絡を取ることとします。
 さあ、この先、どのような展開になるのでしょうか、………?

 本作は、『her 世界でひとつの彼女』では声だけの出演だったスカーレット・ヨハンソンが同じような役柄で生身の人間として画面に登場したらどうなるのかを、お馴染みの超能力者対ギャング団の争いという至極単純なストーリーの中で描き出したものながら、脳の覚醒率アップという観点を取り入れて全体をまとめていて、まずまずの仕上がりなのではと思いました。

(2)本作は、やはりヨハンソンつながりで、『her 世界でひとつの彼女』と比べてみたくなってしまいます。
 まず類似していると思われるのは、どちらも取り扱われている範囲が比較的小さいように思われる点です。
 一方の『her 世界でひとつの彼女』は、主人公のセオドアホアキン・フェニックス)とAIのサマンサ(その声がヨハンソン)との関係が中心であり、他方の本作の場合も、舞台が台北からパリへと動いたり、ギャング団が出現しパリ市内で物凄いカーチェイスなども行われたりするとはいえ、人類存亡の危機といったSF特有の大掛かりなシチュエーションにはなりません。
 また、『her 世界でひとつの彼女』で大きな役割を与えられているのはサマンサというAIであり、本作の主役のルーシーも、最後はUSBメモリを残して、サマンサ同様に消滅してしまいます。
 反対に両者が異なっている点もあり、特に『her 世界でひとつの彼女』が優れたラブストーリーであるのに対して、本作ではその要素は殆ど見られません(注8)。せっかく生身のヨハンソンが出演しているのに、この点は至極残念なところです。

(3)本作の問題点と思える点についてもう少し触れておきましょう。
 無論、本作は娯楽SFファンタジーであり、オカシナな点はいくらでも見つかるでしょうが、細かなことを論っても仕方がないでしょう。

 でも、例えば、本作ではCPH4によってルーシーの脳の機能が現状より著しくアップするところ、その外観はいかにも覚醒剤であり(注9)、そうだとすれば、もしかしたら本作は覚醒剤の肯定に寄与しかねないのではと思ってしまいます(注10)。

 それに、本作は、人間の脳は現状その能力のごく一部しか機能していないということが前提になって制作されているものの、そのようなことを簡単に言えるのでしょうか(注11)?
 素人目にも、人間の器官に機能していない部分がかなりあるとしたら、人類誕生以来の長い年月の間にとっくに退化してしまっているのではと思ってしまいます(注12)。

 さらに、人間の脳が100%覚醒したらどのような状態になるのかが本作でははっきりしておらず(コントロール不能とされています)、現在は10%しか機能していないと言われても、なんの1割なのか明確にされていないのではないでしょうか?
 あるいは、100%覚醒状態というのは「神」と同一になることなのかもしれません。でも、全能の神というものがどういうものであるのか誰もしっかりとしたことが言えないのではないでしょうか?
 脳の機能のアップにより何ができるのかという点につき本作で描き出されているのは、時間をどんどん過去に遡及できるようなことです。でも、それもせいぜい宇宙の始まりの時点(それも、人間が現時点で解明しているもの)までであって、その始まりとされる前はどうなるのかということになると、もうどうしようもなくなってしまう感じです。
 また、ルーシーは、最後にコンピュータに蓄積されているすべての知識をUSBメモリにしてノーマン博士に手渡します。ただ、100%覚醒状態というのは、過去の人間の知識の蓄積にすぎないのでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「脳が100パーセント機能してしまったヒロインの戦いを描くアクション「LUCY/ルーシー」。人間離れしたス・ヨハを楽しむ映画」として50点をつけています。
 青木学氏は、「荒唐無稽なのにテンポの良い展開と簡潔なストーリーで妙な説得力がある」と述べて82点をつけています(注13)。



(注1)最近では、スカーレット・ヨハンソンは『ヒッチコック』で、モーガン・フリーマンは『トランセンデンス』で、それぞれ見ました。

(注2)本作の原題も『LUCY』で、監督・脚本は、『アデル ファラオと復活の秘薬』を見たことがあるリュック・ベッソン
 ちなみに、本作は、オープニングでの米国興収(本年7月28日発表)が首位となり(この記事)、次週も2位で「グロス(最終興収)は1億2000万ドル前後になりそうだ」とされています(この記事)。 尤も、1か月後にはトップ10から脱落しました。

(注3)この類人猿は後の方でもう一度登場するところ、初期人類とされる「ルーシー」なのでしょう。

(注4)例えばこのサイトの記事によれば、「現在の学説では地球が誕生してから6億年ほど経った頃(40億年前)、海で生命が誕生したといわれてい」るとのこと。

(注5)ここでチータがガゼルを追い詰めて食らいつく画面が挿入されますが、なんだかあまりにも安易な連想ですし、さらには『悪の法則』において、マルキナキャメロン・ディアス)がウサギを追いかけるチータを双眼鏡で見ているシーンを思い出してしまいます。

(注6)その後本作で描かれていることからすると、20%の覚醒率では、1時間で外国語をマスターできたりするようです。そうだとすれば、『万能鑑定士Q』においてフランス語を身につけるのに一晩かかる凜田綾瀬はるか)では、まだその域に達していないようです。

(注7)そのあとでルーシーは、病院に行って体内から覚醒剤の袋を取り除いてもらいますが、医師から、CPH4は妊婦が胎児にごく少量作り出して与えるものであり、体内に大量に入れたら長時間生きて入られないということを知らされます。

(注8)ルーシーは、フランス人のピエール・デル・リオ警部(アムール・ワケド)にキスをするものの、脳の覚醒率のアップによって人間性を失って、その事自体を忘れてしまいます。

(注9)引き出された男にチャンがCPH4を与えると、その男は覚醒剤を使ったのと同じような状態になりますし、なによりチャンの一味はCPH4の密輸によって荒稼ぎしようと企んでいるのですから、単なる薬品でないことは明らかでしょう。

(注10)例えば、外国語の短期習得のために覚醒剤を使おう、といったようなことにもなりかねないかもしれません。

(注11)劇場用パンフレットのコラム欄に、中野信子氏の「なぜ人間の脳は100%覚醒することがないのか?」という文章が掲載されていて、そのなかでは、「普段から脳を100%で機能させてしまうと、本来、力を出し切らなければならない局面で発揮できないため、制限をかけていると考えられます」と述べられています。
 でも、いざという場合リミット以上の力を出せるというのであれば、それは(潜在的には)覚醒しているということになるのではないでしょうか(「機能する」とか「覚醒する」といった言葉の意味合いの違いなのかもしれませんが)?

(注12)Wikipediaの「」のところには、「「人間は脳の1割ほどしか有効に使っていない」という俗説があるが、これはグリア細胞の機能がよくわかっていなかった時代に、働いている細胞は神経細胞だけという思い込みから広まったものと言われる。最近では脳の大部分は有効的に活用されており、脳の一部分が破損など何らかの機能的障害となる要因が発生し た場合にあまり使われていない部分は代替的または補助的に活用されている可能性があると考えられている」と述べられています。

(注13)それにしてもこの青木氏の論評は、「~けれど、~」とか「~のだが、~」という逆接の構文が酷く目立つ文章だなと驚きました。



★★★☆☆☆



象のロケット:LUCY/ルーシー

プロミスト・ランド

2014年09月07日 | 洋画(14年)
 『プロミスト・ランド』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)本作(注1)は、マット・デイモン(注2)が主演の作品だというので映画館に行ってみました。

 本作の舞台は、アメリカの小さな田舎町のマッキンリー(注3)。
 その町で、マット・デイモンが、大手エネルギー会社「グローバル社」のエリート社員のスティーヴに扮して、同僚のスーフランシス・マクドーマンド)と一緒に、シェールガスが埋蔵されている農地を所有する農場主と掘削権にかかるリース契約を次々に取り結んでいきます。



 ですが、環境活動家ダスティンジョン・クラシンスキー:注4)とか博識の高校教師フランクハル・ホルブルック)とかが現れ〔美人の小学校教師アリスローズマリー・デウィット:注5)まで出現します〕、仕事がはかばかしく進まなくなってしまいます。果たしてどうなることでしょうか、………?

 本作は社会派の作品であり、いかにも誠実そうなマット・デイモンが登場すると、話がどのように展開するのか先が読める感じになるところ、実際にもこちらが思ったとおりに映画が進行するので、世の中はそんな単純なものとはとても思えず、見終わると拍子抜けしてしまいます。とはいえ、映画『ネブラスカ』と同様、あまり紹介されることのない米国内陸の農村地帯の広々とした様子を垣間見ることができたのは収穫でした。

(2)(以下は、結末のネタばらしをしているので、未見の方はご注意ください)
 ラストの方で主人公のスティーヴは、環境活動家ダスティンの本当の身分を知り、会社が自分を全く信頼していないことがわかって、それまでとっていた態度を一変させることになります。



 ですが、スティーヴが勤務先のグローバル社をそんなに信じていたというのもなんだか理解し難い感じがします。
 彼は、自分が育ったアイオワ州での体験(注6)から、土地にしがみついた農民の厳しい状況をよく知っていると語ります。それで、貧しい土地を捨てる代わりに一定の金を得て都会に出た方が豊かな生活を送ることができるとして、マッキンリーでも契約獲得に努めていたものと考えられます。
 スティーヴとしては、農場などがどうなってしまうのかといったことよりも、むしろ貧しい農民の自立をサポートすることの方が重要だと考えていたのではないでしょうか(注7)?
 農民に必要な現金をつかませるという点において、スティーヴはグローバル社とつながりを持っていたのではないかと思えます。

 ただ映画で描かれるスティーヴは、埋蔵されているシュールガスの評価額を実際よりもかなり低く提示することで(注8)、農民に支払われる金額をかなり抑え込んでいます。そしてその結果として、会社に相当の利益をもたらしているのです(注9)。
 とはいえ、スティーヴはいったい何のために契約額を低く抑え込もうとしているのでしょうか?
 会社での昇進のため?
 だとしたら、ダスティンの身分が明らかになって、自分が会社にそれほど信用されていないと分かったとしても(注10)、そんなことはこの冷酷な競争社会ではよくあることと割り切れるのではないでしょうか?

(3)また、本作では、シュールガスの採掘の方法として「フラッキング」という言葉がよく出てくるところ、フラッキングについては、このサイトの記事で次のように述べられています。

 本作の「中でも頻繁に登場する言葉がフラッキングだ。「水圧破砕(ハイドロリック・フラクチャリング)」と呼ばれる掘削技術の略称で、砂や化学物質を混ぜた大量の水を高圧で地中に送り込み、ガスや石油が閉じ込められた頁岩(けつがん=シェール)層に亀裂を入れて回収する。世界のエネルギー地図を塗り替えつつあるシェール革命の中核技術だ。
 フラッキングそのものは1940年代からある古い技術だが、2000年代半ば以降に本格化したシェールガス・オイル開発で多用され、一般に知られるようになった。
 それに伴い、井戸の施工不良や廃水のずさんな処理などによって周辺の地下水や河川などが汚染されるケースが相次いで報告されている。
 ブルームバーグ通信の昨年末の調査では、米国民の66%がフラッキング規制の強化を支持している。米環境団体ナチュラル・リソース・ディフェンス・カウンシルによると、フラッキングが行われている30州のうち、使用する化学物質の情報開示を義務付けているのは14州にとどまる。情報開示基準は州によってバラバラで、連邦政府レベルでの規制を求める声が高まっている。
 米国外ではフランスやブルガリアはフラッキングを禁止。禁止はしていないがドイツは許可に慎重な姿勢だ」。

 本作の中でも、牛の死体が農地に転がっている写真(注11)をダスティンが農家に配ったり、小学校教師アリスにアプローチしたダスティンが、アリスの受け持ちのクラスで、フラッキングの問題点について模型を使ってわかりやすく小学生に教えたりするシーンが描かれています。

 確かに、「井戸の施工不良や廃水のずさんな処理などによって周辺の地下水や河川などが汚染されるケース」が見られるのでしょう。
 ですがそうだからといって、自分の勤務先に信用されていないとわかったスティーヴ(注12)が、それまでの態度を豹変させて、こんどはマッキンリーの農民たちに向かってその生活を守ることの大切さを訴えるというのはどうしたことでしょうか(注13)?これでは、単なる憂さ晴らし、あるいは会社に対する復讐にすぎないように見えてしまうのではないでしょうか?
 スティーヴは、会社から送られてきた資料によって、ダスティンが配布した写真の問題点がわかり、これで契約の獲得がスムースに運べると小躍りしたくらいであり、にもかかわらず会社の自分に対するやり方を知った途端に簡単に環境保護派の方へ鞍替えしてしまうものなのか、どうもよくわかりません。
 まあ、その前から高校教師フランクとか契約を結ぼうとしない農民の話を聞いたりしていくうちに、次第にスティーヴは、会社のシェールガス採掘の方法に懐疑的になっていったというのかもしれません(注14)。
 ただそうだとしても、単なる素人考えに過ぎませんが、スティーヴとしては、この場合いきなり0か100かの選択をするのではなく(また、農民にそうした選択を求めるのではなく)、会社にとどまりつつ、一方で契約の獲得を推進するとともに、他方で、フラッキングの問題点の解消に務めること(注15)を会社の幹部に対して訴えていく道もありうるのではないかと思うのですが。

(4)渡まち子氏は、「シェールガス採掘の悪しき側面の描き方が中途半端に終わっているのがちょっと気になるが、緑豊かな農業地帯と、農民の生活を淡々と描写し、そこに米国の良心を映し出したかのような静かな映像には心惹かれる」として65点をつけています。
 山根貞男氏は、「近年は珍しくなったアメリカの伝統的なサラリーマン映画で、深い味わいがある」と述べています。
 相木悟氏は、「丁寧につくられた、高品質な社会派ヒューマンドラマではあるのだが…」と述べています。



(注1)本作は2012年に制作されています。
 監督は、『永遠の僕たち』や『ミルク』などを制作したガス・ヴァン・サント

(注2)マット・デイモンは好きな俳優だとはいえ、本作をも含め最近の『エリジウム』や『幸せへのキセキ』、『コンテイジョン』など、演技は優れているとしてもストーリーからはいつもイマイチの感じを受けてしまいます。
 なお、マット・デイモンは、本作の主演のみならず、製作・脚本にも加わっています。
 ちなみに、マット・デイモンが脚本に加わった作品としては、『グッド・ウィル・ハンティング』や『GERRY ジェリー』があります。

(注3)架空の町とされています。
 劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」によれば、ロケは全般に、西ペンシルバニアの農園地帯(ペンシルベニア州ワシントン郡のストレイト・リック・ロード)で行われ、町としてはペンシルベニア州ウェストモアランド郡エイボンモアが使われたとのこと。

(注4)ジョン・クラシンスキーは、本作の脚本をマット・デイモンと共に担当しています。
 最近では、『恋するベーカリー』で見ました。

(注5)ローズマリー・デウィットは、『私だけのハッピー・エンディング』で見ました。

(注6)スティーヴには、幼いころ暮らしていた町が、そこに置かれていたキャタピラーの工場が閉鎖されると廃墟になってしまった、という体験があります(「自分が大人だったら、金をもらって町を出ただろう」とフランクに語ります)。

(注7)農民に対してスティーヴは、「この町は死にかけている。金が入れば、家のローンも返済できるし教育資金も用意できる。プライドが何だ、今だって政府から補助を受けているではないか」などと話します(話した相手の農民には殴られてしまいますが)。

(注8)スティーヴは、マッキンリーの実力者リチャードと会った際に、「この町のシェールガスの評価額は3000万ドル」と言います(その後に、「あなたに提示できるのはその千分の一の3万ドルであり、それ以上望むのであれば僕たちは撤退する。ただし、再び戻ってきて、その際にはタダで全部もらうことになる」と付け加えるのですが)。
 ところが、その後の町の集会で、高校教師フランクは「この地の評価額は1億5千万ドルだ」とはっきり言い切ります(リチャードの苦虫を噛み潰したような顔が見ものです)。

(注9)契約締結数が他の社員よりも桁違いに多いこともあって、会社幹部のお覚えが大層めでたく、本作のはじめの方では部長昇進を告げられることになります。

(注10)スティーヴは、ダスティンから「お前は俺が動かしていた駒にすぎないのだ」と言われてしまいます。

(注11)その写真に写っているサイロのようなものが、写真が撮られた農場から見ることのできない別の地域の灯台であることがわかりますが(納屋のペンキが剥げているのも、フラッキングによってではなく、潮風によるもののようです)、スティーヴがそのことを明かす前に、ダスティンがその地名(ルイジアナ)を口走ったがために、スティーヴはダスティンの身分を知ることになります。

(注12)ただし、マッキンリーで自社のやり方に反対する高校教師フランクにはMITを出てボーイング社で研究員をしていた経歴があることを知ったグローバル社の幹部が、スティーヴに対し「君は交代させよう」と言うのですから(この時は、スティーヴが「フランクは趣味でやっているにすぎない」と言って強く反対したために立ち消えになりましたが)、スティーヴはある程度、会社が自分をどう見ているのかわかっていたものと思われます。

(注13)集会でスティーヴは、「祖父の納屋を思い出した。そこのペンキを塗った際に、「なんでこんな無駄なことをするのか」と訊いたら、祖父は物を大切にすることの大切さを教えてくれた」、「「足下に大金が眠っており、それを取り出そう」と言ってきたが、それは明らかに嘘だ」、「僕らはこれからどこに進むのか、今すべてが試されている、失うべきではない。僕らの納屋なんだ」などと喋ります。

(注14)でも、最後の集会までスティーヴは、そんな素振りは少しも見せていなかったように思います(マッキンリーの牧場にいる馬が小型なことは随分と気になっていたものの)。
 元々、スティーヴは、グローバル社に対して訴訟が提起されていることは知っていましたから(集会で訴訟のことを聞かれて「負けたことはない」と反論していますし、「採掘方法が不完全で汚い」と言うフランクに対し「ほぼ完全だ」とも答えています)、ダスティンとかフランクの話を聞いてはじめて環境問題に目覚めたわけではないはずです。

(注15)周辺の地下水に対する汚染を100%抑えこむというのではなく、一定の許容範囲内に留めるというのであれば、会社としても対応が可能なのではないかと想像されるのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:プロミスト・ランド