『るろうに剣心 伝説の最後編』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。
(1)前編の『京都大火編』の出来栄えが素晴らしかったので、後編もと期待して映画館に行ってきました。
前編の最後で、志々雄(藤原竜也)の一味が操る軍艦から突き落とされた薫(武井咲)を追って海に飛び込んだ剣心(佐藤健)は、海岸に打ち上げられて比古(福山雅治)に助けられます。
比古は剣心の師匠で、剣心は志々雄を倒すために奥義の伝授を頼み込みます。
やっとの思いで奥義を会得した剣心は、なおもしつこく剣心に迫る四乃森(伊勢谷友介)を蹴散らすと、志々雄らが乗る軍艦が迫る東京に向かいます。
果たして、剣心は、志々雄を倒すことができるでしょうか、………?
本作では、主人公の剣心と様々な相手との対決シーンが見せ場になっているところ、いずれも迫力満点で、近来にない切れ味するどいチャンバラの場面の連続となっていて、全体としても期待通りの出来栄えではないかと思いました。ただ、せっかく志々雄の軍艦が浦賀沖まで来ながらも、その出番があまりないままに官側の大砲であっけなく沈められてしまうのは、とても残念な気がしました。
(2)『京都大火編』についてのエントリでも申し上げましたが、自分らを裏切った明治政府を転覆し自分たちが権力の座に着くという志々雄側の狙いは、江戸幕府を倒して権力を奪取した官軍側とそんなに変わりがないように思われます(注1)。
要は、時代の流れ、時の運(注2)。
とはいえ、本作は丸ごとフィクションながら、明治初期の歴史的な枠組みに基本的に沿いつつ描き出されているために、いくらなんでも志々雄たちが明治政府の転覆を成し遂げるだろうとは思いませんでした(原作漫画は未読)。
でも、もう少しくらい彼らの活躍の場が描き出されてもいいのではないでしょうか?
『京都大火編』では、志々雄は、随分の部下を動員して京都に火を放ちましたし、あの立派な鋼鉄製軍艦「煉獄」を製造するにあたっては、余程の資金と人員を投入したことでしょう。
ですから、志々雄側は、そうした資金力とか動員力を背景にして集められる精強な陸上部隊と連携し、軍艦から陸に向けて大砲を撃ち放ちながら(本作でも何発か打ち込みますが)、官側を蹴散らしつつ東京に向かって進軍するのではないかな、と密かに期待していました。
にもかかわらず、実際には軍艦だけ単騎で浦賀に進出するものですから(注3)、陸上の官側としても、大砲を備え付ける時間的余裕さえあれば(注4)、軍艦を沈め、志々雄側を撃破することなどいとも容易な技だったでしょう(注5)。
あるいは、すべてを軍艦の製造につぎ込んでしまったために、陸上部隊も京都で騒ぎを起こすことくらいがせいぜいであり、志々雄自身は戦の帰趨を度外視していたようにも思われます。
仮に、志々雄側が明治政府を転覆することに成功したとしても、その後の国づくりになれば明治政府と同じことをせざるを得ないくらいのことは、世界の流れから見て分かっていたのではないでしょうか?
そんな実利的なことではなく、とにかく、自分らの存在を世に知らしめたい、明治政府の裏側を暴きたいという一点で志々雄は戦いを挑んだのかもしれません(注6)。
15分という制限時間を抱えながらも4対1の戦いを挑まれ、それを跳ね除けるラストの志々雄の獅子奮迅の戦いぶりは大層感動的です(注7)。
そして、そんなあれやこれやをすべて一撃で海中に没し去ってしまう官側の大砲は、その後の日本の行く末を暗示すらしているようです(注8)。
ところで、剣心(注9)は、志々雄のいない世の中、全力で立ち向かわなくてはならない相手のいない世の中で、いったい何を生きがいにしてこれから暮らしていくというのでしょう(注10)?
(3)渡まち子氏は、「大ヒットアクション2部作の完結編「るろうに剣心 伝説の最期編」。邦画のアクションレベルを一気に押し上げる完成度の高さだ」として85点を付けています。
前田有一氏は、「この完結編はそんな彼ら(スタッフとキャスト)がいよいよ本気を爆裂させたにふさわしい仕上がりで、個々のバトルシーンがきっちりストーリーの起伏に対応し、見た目の完成度も高いからえらい盛り上がりである」として75点を付けています。
相木悟氏は、「とにもかくにも造り手とキャストのほとばしる熱量に圧倒される力作であった」と述べています。
(注1)伊藤博文・内務卿(小澤征悦)は、「志々雄は力でこの国を奪い取るつもりだ」などと言いますが、それは官軍側が明治維新に際してすでに行ったことではないでしょうか?
(注2)志々雄は、最後に燃え尽きる前に「俺は負けちゃいない、時代がお前を選んだだけだ」と剣心に向かって言います。
(注3)まるで、戦闘機による護衛のない戦艦大和の単騎出撃(「坊ノ岬沖海戦」)のようです。
(注4)映画では、志々雄側が、剣心が捕まるまで何もせずにじっと軍艦を浦賀沖に停泊させていたように描かれています。でもその間に官側が着々と砲台を整えていることを全然把握していなかったのでしょうか(砲台を一から作るのであれば1ヶ月以上は要し、人々の出入りが煩雑にあるでしょうから、そうした陸上の動きはなんらかの形で海上からも察知できるのではないでしょうか)?そうした情報に基づいて軍艦「煉獄」の大砲を砲台建設現場に打ち込んでおきさえすれば、あれほど簡単に沈められなかったのではと思うのですが。
なお、薩英戦争(1863年)では、「薩摩藩は海岸に射程1300~1400メートルの80ポンド要塞砲、射程2800メートルの24ポンドカノン砲を装備していたが、英国軍艦はアームストロング砲を装備」しており、「薩摩藩は、このアームストロング砲の洗礼を受けて痛手を被っ」たそうです(この記事によります。なお、Wikipediaによれば、英軍の軍艦の方も「大破1隻・中破2隻」等の被害を被っています)。
それから15年ほども経過していますから、少なくとも志々雄の軍艦に設置されている大砲は、アームストロング砲ではないかと思われます。
他方、兵器に疎いクマネズミには、映画の中で官側が設置した大砲が何に該当するのかわかりません(あるいは、「お台場」に設置された80ポンド青銅製カノン砲のようなものかもしれません)。
ただどんな大砲にせよ、そんな大型の武器を警官隊が所有するはずはなく、ここは、伊藤・内務卿が、陸軍に命じてその所有する大砲を海岸に据え付けさせたものと考えられます。
そうだとすると、日本を取り巻く情勢から軍隊の出動はありえないとして剣心に志々雄打倒を依頼した大久保・内務卿の意向が無視されたことになるのではないでしょうか?
(注5)劇場用パンフレットに掲載の「Special Talk:02」において、原作者の和月伸宏氏は、「本当はもっと原作でも煉獄の中でアクションを展開させたかったのですが、資料がない中でアシスタントさんに描いてもらうなんて無理なので、ろくな活躍もなしに泣く泣く退場させてしまったんです」と述べています。
(注6)もっと言えば、志々雄は、戦いの結果というよりも、むしろ戦いのプロセス自体に価値を見出しているとはいえないでしょうか?
(注7)ただ、志々雄が剣心と争っている時に、駒形由美(高橋メアリージュン)が「もう止めて、これ以上苦しめないで」と二人の間に割って入り、にもかかわらず志々雄が剣を突き出すと、その先が彼女の体を突き抜けて剣心にまで達します。剣心は血の気が失せ、彼女は「嬉しい、戦いのお役に立てて」と絶命します。ところが、その後の剣心の戦いぶりには、この傷は一切反映されないのです。 単に剣心の皮膚をかすっただけだったのでしょうか?
(注8)今の時点から言えることに過ぎませんが、その後の日清・日露戦争から太平洋戦争に至る道程で人々が味わった苦難は、志々雄側の暴虐を受けた村人たちの苦難の拡大版とはみなされないでしょうか?
(注9)映画の最初の方で比古に、「命の重さがわかってはじめて奥義への道が開かれる」と諭され、比古の元を立ち去る際に「死ぬなよ」と言われたのを守って、映画のラストでやっとの思いで薫のところに戻ってきた剣心ですが。
(注10)神谷道場の庭の美しい紅葉を見ながら、剣心は「こうやって生きていくでござるよ」「共に見守ってくださらぬか?」と薫に言うのですが、それでは若隠居の心境ではないでしょうか(後者は、薫へのプロポーズの言葉なのかもしれませんが)?
★★★★☆☆
象のロケット:るろうに剣心 最後の伝説編
(1)前編の『京都大火編』の出来栄えが素晴らしかったので、後編もと期待して映画館に行ってきました。
前編の最後で、志々雄(藤原竜也)の一味が操る軍艦から突き落とされた薫(武井咲)を追って海に飛び込んだ剣心(佐藤健)は、海岸に打ち上げられて比古(福山雅治)に助けられます。
比古は剣心の師匠で、剣心は志々雄を倒すために奥義の伝授を頼み込みます。
やっとの思いで奥義を会得した剣心は、なおもしつこく剣心に迫る四乃森(伊勢谷友介)を蹴散らすと、志々雄らが乗る軍艦が迫る東京に向かいます。
果たして、剣心は、志々雄を倒すことができるでしょうか、………?
本作では、主人公の剣心と様々な相手との対決シーンが見せ場になっているところ、いずれも迫力満点で、近来にない切れ味するどいチャンバラの場面の連続となっていて、全体としても期待通りの出来栄えではないかと思いました。ただ、せっかく志々雄の軍艦が浦賀沖まで来ながらも、その出番があまりないままに官側の大砲であっけなく沈められてしまうのは、とても残念な気がしました。
(2)『京都大火編』についてのエントリでも申し上げましたが、自分らを裏切った明治政府を転覆し自分たちが権力の座に着くという志々雄側の狙いは、江戸幕府を倒して権力を奪取した官軍側とそんなに変わりがないように思われます(注1)。
要は、時代の流れ、時の運(注2)。
とはいえ、本作は丸ごとフィクションながら、明治初期の歴史的な枠組みに基本的に沿いつつ描き出されているために、いくらなんでも志々雄たちが明治政府の転覆を成し遂げるだろうとは思いませんでした(原作漫画は未読)。
でも、もう少しくらい彼らの活躍の場が描き出されてもいいのではないでしょうか?
『京都大火編』では、志々雄は、随分の部下を動員して京都に火を放ちましたし、あの立派な鋼鉄製軍艦「煉獄」を製造するにあたっては、余程の資金と人員を投入したことでしょう。
ですから、志々雄側は、そうした資金力とか動員力を背景にして集められる精強な陸上部隊と連携し、軍艦から陸に向けて大砲を撃ち放ちながら(本作でも何発か打ち込みますが)、官側を蹴散らしつつ東京に向かって進軍するのではないかな、と密かに期待していました。
にもかかわらず、実際には軍艦だけ単騎で浦賀に進出するものですから(注3)、陸上の官側としても、大砲を備え付ける時間的余裕さえあれば(注4)、軍艦を沈め、志々雄側を撃破することなどいとも容易な技だったでしょう(注5)。
あるいは、すべてを軍艦の製造につぎ込んでしまったために、陸上部隊も京都で騒ぎを起こすことくらいがせいぜいであり、志々雄自身は戦の帰趨を度外視していたようにも思われます。
仮に、志々雄側が明治政府を転覆することに成功したとしても、その後の国づくりになれば明治政府と同じことをせざるを得ないくらいのことは、世界の流れから見て分かっていたのではないでしょうか?
そんな実利的なことではなく、とにかく、自分らの存在を世に知らしめたい、明治政府の裏側を暴きたいという一点で志々雄は戦いを挑んだのかもしれません(注6)。
15分という制限時間を抱えながらも4対1の戦いを挑まれ、それを跳ね除けるラストの志々雄の獅子奮迅の戦いぶりは大層感動的です(注7)。
そして、そんなあれやこれやをすべて一撃で海中に没し去ってしまう官側の大砲は、その後の日本の行く末を暗示すらしているようです(注8)。
ところで、剣心(注9)は、志々雄のいない世の中、全力で立ち向かわなくてはならない相手のいない世の中で、いったい何を生きがいにしてこれから暮らしていくというのでしょう(注10)?
(3)渡まち子氏は、「大ヒットアクション2部作の完結編「るろうに剣心 伝説の最期編」。邦画のアクションレベルを一気に押し上げる完成度の高さだ」として85点を付けています。
前田有一氏は、「この完結編はそんな彼ら(スタッフとキャスト)がいよいよ本気を爆裂させたにふさわしい仕上がりで、個々のバトルシーンがきっちりストーリーの起伏に対応し、見た目の完成度も高いからえらい盛り上がりである」として75点を付けています。
相木悟氏は、「とにもかくにも造り手とキャストのほとばしる熱量に圧倒される力作であった」と述べています。
(注1)伊藤博文・内務卿(小澤征悦)は、「志々雄は力でこの国を奪い取るつもりだ」などと言いますが、それは官軍側が明治維新に際してすでに行ったことではないでしょうか?
(注2)志々雄は、最後に燃え尽きる前に「俺は負けちゃいない、時代がお前を選んだだけだ」と剣心に向かって言います。
(注3)まるで、戦闘機による護衛のない戦艦大和の単騎出撃(「坊ノ岬沖海戦」)のようです。
(注4)映画では、志々雄側が、剣心が捕まるまで何もせずにじっと軍艦を浦賀沖に停泊させていたように描かれています。でもその間に官側が着々と砲台を整えていることを全然把握していなかったのでしょうか(砲台を一から作るのであれば1ヶ月以上は要し、人々の出入りが煩雑にあるでしょうから、そうした陸上の動きはなんらかの形で海上からも察知できるのではないでしょうか)?そうした情報に基づいて軍艦「煉獄」の大砲を砲台建設現場に打ち込んでおきさえすれば、あれほど簡単に沈められなかったのではと思うのですが。
なお、薩英戦争(1863年)では、「薩摩藩は海岸に射程1300~1400メートルの80ポンド要塞砲、射程2800メートルの24ポンドカノン砲を装備していたが、英国軍艦はアームストロング砲を装備」しており、「薩摩藩は、このアームストロング砲の洗礼を受けて痛手を被っ」たそうです(この記事によります。なお、Wikipediaによれば、英軍の軍艦の方も「大破1隻・中破2隻」等の被害を被っています)。
それから15年ほども経過していますから、少なくとも志々雄の軍艦に設置されている大砲は、アームストロング砲ではないかと思われます。
他方、兵器に疎いクマネズミには、映画の中で官側が設置した大砲が何に該当するのかわかりません(あるいは、「お台場」に設置された80ポンド青銅製カノン砲のようなものかもしれません)。
ただどんな大砲にせよ、そんな大型の武器を警官隊が所有するはずはなく、ここは、伊藤・内務卿が、陸軍に命じてその所有する大砲を海岸に据え付けさせたものと考えられます。
そうだとすると、日本を取り巻く情勢から軍隊の出動はありえないとして剣心に志々雄打倒を依頼した大久保・内務卿の意向が無視されたことになるのではないでしょうか?
(注5)劇場用パンフレットに掲載の「Special Talk:02」において、原作者の和月伸宏氏は、「本当はもっと原作でも煉獄の中でアクションを展開させたかったのですが、資料がない中でアシスタントさんに描いてもらうなんて無理なので、ろくな活躍もなしに泣く泣く退場させてしまったんです」と述べています。
(注6)もっと言えば、志々雄は、戦いの結果というよりも、むしろ戦いのプロセス自体に価値を見出しているとはいえないでしょうか?
(注7)ただ、志々雄が剣心と争っている時に、駒形由美(高橋メアリージュン)が「もう止めて、これ以上苦しめないで」と二人の間に割って入り、にもかかわらず志々雄が剣を突き出すと、その先が彼女の体を突き抜けて剣心にまで達します。剣心は血の気が失せ、彼女は「嬉しい、戦いのお役に立てて」と絶命します。ところが、その後の剣心の戦いぶりには、この傷は一切反映されないのです。 単に剣心の皮膚をかすっただけだったのでしょうか?
(注8)今の時点から言えることに過ぎませんが、その後の日清・日露戦争から太平洋戦争に至る道程で人々が味わった苦難は、志々雄側の暴虐を受けた村人たちの苦難の拡大版とはみなされないでしょうか?
(注9)映画の最初の方で比古に、「命の重さがわかってはじめて奥義への道が開かれる」と諭され、比古の元を立ち去る際に「死ぬなよ」と言われたのを守って、映画のラストでやっとの思いで薫のところに戻ってきた剣心ですが。
(注10)神谷道場の庭の美しい紅葉を見ながら、剣心は「こうやって生きていくでござるよ」「共に見守ってくださらぬか?」と薫に言うのですが、それでは若隠居の心境ではないでしょうか(後者は、薫へのプロポーズの言葉なのかもしれませんが)?
★★★★☆☆
象のロケット:るろうに剣心 最後の伝説編