映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

Dear Heart

2009年12月24日 | 邦画(09年)
 『Dear Heart―震えて眠れ―』を渋谷のシアターNで見てきました。

 時間がうまく適合する映画が他になかったのと、久し振りにホラー映画もいいかなと思ったこともあります。

 なにしろ、怖い映画は、あとあとまで影響が残りがちなので、基本的には敬遠しています。昨年の4月に公開された邦画『口裂け女2』について、件の“つぶあんこ”氏が90点もの高得点を与えているので、これは一見してもいいかなと思いましたが、映画館に入る寸前で止めました。そこに貼られているポスターがあまりに怖そうだったもので。
 他方で、黒沢清監督の『叫』『ロフト』などの作品は見ましたが、“ホラー映画”とされてはいるものの怖さは全然ありませんでした。
 逆に、3年ほど前に、渋谷イメージシアターで『雨の町』(田中誠監督)を見たことがありますが、これは怪奇ミステリーとされていて明示的に“ホラー映画”とされていなかったところ、失踪から戻ってきた小学生が振り返った時に映し出される顔の映像には、心底ゾーッとしました(まさかそんな風にお化けが現れるとは思っていなかったので)!

 なお、映画館の「シアターN」は、以前「ユーロスペース」だったので、その点でも久しぶりと言うわけでした。

 そこで、本作『Dear Heart』です。
 井坂聡監督の作品としては、『破線のマリス』と『象の背中』を見たことがあります。前者はDVDですが、黒木瞳がなかなか魅力的でしたし、後者は、主人公が末期がんという深刻な題材を手堅くまとめていました。
 それで、今回の作品は、出演者も高島礼子榎木孝明ですから、どんな「サイコホラー」を見せてくれるのかと幾分期待するところもありました。

 ですが、その期待は見事に裏切られたといってもいいでしょう。
 全然怖くないのです!

 心霊的な映像がいくつか窓ガラスに映ったりするのですが、特段人を怖がらせるメイクが施されているわけでもありません。
 さらに、若い女性が何人も殺されますが、むしろ猟奇的殺人の色彩が強く、“エロチック”としても“ホラー”とはいえないでしょう。

 劇場用パンフレットでは、「スタンリー・キューブリックの「シャイニング」を彷彿とさせる」云々とあり、殺人鬼の乗り移った夫(榎本孝明)が斧を持って妻(高島礼子)らを追いかけますが、暗い山中で姿がはっきり見えないこともあって、恐怖心など観客に湧いてこようがありません。
(その際、一緒に逃げた介護人の若い女性が夫に捕まります。叫び声に驚き、先を急いでいた高島礼子が引き返して、その痕跡を見つけ出します。真っ暗闇の中ですから不可能事とは思われるところ、若い女性が斧で酷く傷つけられて大量に出血し、それが懐中電灯でわかったからではと推測されます。ところが、実際には、頭部に軽く裂傷を負ったにすぎませんでした!)

 それに、いくら殺人鬼が乗り移ったとはいえ、この夫は心臓移植手術を受けた直後なのですから、あんなに長く全速力で走り続けられるものなのでしょうか?

 そうなのです、若い女性ばかりを何人も殺した殺人鬼の心臓を移植された夫に、その殺人鬼の精神も合わせて乗り移ってしまった、というのがこの映画のミソなのです。
 と言っても、その点は、お話なのですから非現実的だと非難してみても始まりません。
 ただ、精神が心臓に宿るというのであれば、夫から元の心臓を摘出しているのですから以前の人格はなくなっているはずですが、そんなことはありません(殺人鬼の精神が、時間の経過とともに次第に夫の人格を占めるようになってきます)。
 他方、精神は脳にも宿るというのであれば、殺人鬼が次第に蘇ってくるとしても、それは心臓にかかわるだけであって、どうして脳にかかわる以前の夫の人格が次第に消えてしまうのでしょうか?

 そんなことはともかくとして、夫の移植手術をした医師に扮しているのがかの“国際女優”の島田陽子となると、ちょっと問題含みになるでしょう。
 あの銀座のバーのママさんのような雰囲気の女性が先端的な手術を行った医師というのでは、見ている方に違和感が生じてしまいます。だからこそ、その助手から、心臓移植に伴う精神の乗り移りのことを指摘されても、議論などせずに頭から否定するしか仕様がないことになるのです。

 加えて、夫に心臓を提供した男性が殺人鬼ではないかと捜査している刑事役に西村雅彦が扮しています。ただ、映画『沈まぬ太陽』で主人公の前の労組委員長だった人物を演じているのを見た時も思いましたが、甚だ奇異な感じの演技をするものです。
 この映画でも、突然、医師・島田陽子のところにやってくるのですが、いまどきの刑事にしては酷く高圧的でツッケンドンな態度をとります。相手が容疑者ならそういう態度をとるのもわからないではないですが、単に関係者から情報を聞き出そうというのですからおかしなものです。

 また、この映画では、妻らとともに夫が術後の養生にやってくる別荘の管理人の甥という役柄で歌手の加藤和樹が出演しているところ、当然、美貌の妻と抜き差しならない関係にでもなるのかなと思っていましたが、介護のために同行した若い女性と手をつないで散歩するだけで、結局何事も起こらずじまい。子供向け映画でもあるまいし、いったいどうしたことでしょうか?

 とまあ問題点ばかりを挙げてしまいました。
 それもこれも、観客を怖がらせないのであれば、別のサービスで観客を悦ばせてくれなければ入場料を徴収する意味がないではないかと思ったからですが!

 なお、福本次郎氏は、「物語は凡庸、高島礼子の演技も控えめ、せめて観客を楽しませる弾けた要素があればよかったのだが。。。」として40点を与えていますが、やや高いのかもしれません。

ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない

2009年12月13日 | 邦画(09年)
 「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」を渋谷のシネクイントで見ました。

 予告編で品川ヒロシがすごくいい感じを出していて、これは面白そうな映画だと思ったので、早速見に行ってきました(品川ヒロシが監督した「ドロップ」が思い出されます)。

 主人公・小池徹平が、ニートを脱却してやっとのことで就職したのがIT産業の底辺を構成する零細ソフトウエア会社。高校中退で閉じこもり生活を長く続けていた主人公は、それでもプログラマーの資格試験(おそらく「情報処理技術者試験」でしょう)に通っているので、なんとかこの会社にも正社員として就職できたようです。
 ですが、その会社の5人の社員は一人を除いてどうしようもない者ばかり。主人公は、入社早々、とても出来そうもない仕事の山をリーダー・品川ヒロシから押しつけられたりして、すぐにも辞めようと思ったところ、唯一のまともな先輩・田辺誠一からいろいろサポートを受けたりして、結局はこの会社で頑張っていこうと決意するに至るといったストーリーです。

 主役の小池徹平は“草食系”とされ〔「2009 ユーキャン新語・流行語大賞」において「草食男子」で受賞〕、まさにうってつけの役柄を大変うまく演じており、また品川ヒロシなども持ち味をよく発揮していると思いました。
 甚だ現代的な話題をコメディータッチで描いていて、まずまずの出来栄えと言えるでしょう。

 ただ、この会社で社員は実際には何を具体的にやっているのか、上の会社から要求されていることは実際にどんなことなのか、なぜ徹夜を続けなくてはならないほど忙しいのか、それほど忙しいにもかかわらず社員は高給を食んでいるとは思えないのはどうしてなのか、などの点、要すればブラック会社の実態が、この映画で十分描き出されているとは思えません。

 加えて、産業の底辺を形成するこうした企業は、なにもIT産業だけでなく他の産業にも見出され、様々のシワ寄せがそうした企業で働く若い従業員に及んでいます。
 それを解決すべく、政府が、最低賃金の引き上げとかサービス残業の規制(あるいは製造業への派遣の禁止など)を行ったとしても、上の企業からの高い圧力は変わりませんから、闇に逃げるか、正規社員を派遣等に切り替える(最終的には海外へ出ていく)かして、そうした企業は逃げおおせてしまうでしょう。
 とすると、そういう職場にしか行きようがない若者(フリーターやニートの生活から脱却しようとする者も含めて)は無限に我慢するほか仕方がないことになってしまいます。

 ですから、こうした映画で何か教訓めいたことを読み取ろうとしても、それはお角違いだと思われます。なにしろ、仕事の実態は類型的・表面的にしか描かれてはいませんから。

 にもかかわらず、こういう笑い飛ばすしか対応のしようのない映画を見て、前田有一氏は、この映画の「素晴らしいところ」は、「いま、若い人たちに必要な」こと、すなわち「「働くものの心構え」を表現している」点で、その「心得」とは、「社会に出るものは、強く、たくましくなければいけない」ということであり、「その強さを身に着けるための時間が残っている若い人たち」に「ぜひ本作の鑑賞をすすめたい」と、一人でシャッチョコばってしまうのです。
 「働くものの心構え」が足りないから、今の若者の姿になっているというのでしょうか?「強く、たくましく」さえあれば現状から脱却できるというのでしょうか?

 世間知らずの者が、わかったようなことを述べてしまいましたが、中年過ぎの評論家たちがこういう映画を見て何か教訓めいたことを言ったりしているのを見て、少しチョッカイを出してみたくなってしまいました。

 なお、前田氏以外の「映画ジャッジ」の面々は、次のようです。
 福本次郎氏は、「社員数人の小さな企業でよくもこれだけ非常識な人間が集まったかと思えるほど、先輩社員は不思議な人ばかり」だが、「彼らの過剰な言動にユーモアのあるオチが用意されているわけでもなく、コメディとしても中途半端なもどかしさを感じてしまう」などとして40点しか与えません〔いうまでもないことながら、「軍隊や「三国志」といったデフォルメされた彼の心象風景がいちいち押し付けがましくて興を殺ぐ」との評価を下すような人は、始めからこの映画を見なければいいのです!〕。

 ですが、他方で、
 渡まち子氏は、「思わず、山崎豊子センセイに小説化してもらいたくなる業界の実情なのだが、映画はあくまでも軽さを忘れない。ここが若者にアピールできる点だ」と、相変らず手堅い論評で65点を、
 小梶勝男氏は、「 「キサラギ」でワン・シチュエーション・コメディーに手腕を見せた佐藤祐市監督は、本作でも非常にテンポよく物語を進めて行く。よどみのない語り口は見事といっていいだろう」として69点を、
 佐々木貴之氏は、「ブラック会社の厳しさ、ダルさ、腹立たしさを描く一方で面白可笑しさを押し出し、テンポ良く描いて魅せつけた一級のエンターテイメント作品として仕上がっている」として75点もの高得点を、
それぞれ与えています。

 小梶氏や佐々木氏が言うように、この映画は、コメディーとして、あるいはエンターテインメントとして楽しむべきではないかと思います。


象のロケット:ブラック会社
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黄金花

2009年12月06日 | 邦画(09年)
 「黄金花/秘すれば花 死すれば蝶」を銀座シネパトスで見ました。

 たまたま夜開催される会合までに時間的余裕があり、かつうまくマッチするのがこの映画しかないというだけで映画館に飛び込んでしまいました。
 観客数はせいぜい5人程度と、至極侘しい限りの館内でしたが、飛び込みで見た映画にしてはまずまずの出来栄えではないか、と思いました。

 この映画は、美術監督として名高い木村威夫氏が手掛けた長編第2作目のもの、木村氏は今年91歳になるわけですから、2008年に公開された新藤兼人監督の『石内尋常高等小学校 花は散れども』―監督95歳の最新作―に次ぐ、高齢の監督による映画作品と言えそうです。

 さて、新藤監督の映画は、小学校時代の恩師との関係をメインにしながら、自分の小学校時代から若手シナリオライターとして自立するまでを独特のリアルタッチで映し出しています。
 他方、こちらの「黄金花」は、むしろ老人ホームで暮らす植物学者の有様が、他の老人仲間との関係のうちに描かれ、その中に監督自身の若かりし頃の思い出がかなりデフォルメされてファンタジックに映像化されています。
 両者のはらむベクトルは反対方向(垂直と水平、リアルとファンタジー)とはいえ、結局のところ、今では失われている良きものを描き出そうとする姿勢は同じではないか、と思いました。

 その良きものとは、新藤監督の映画の場合、たとえば恩師の類い稀なる人間性の大きさといえるかもしれませんが、木村監督では、自然との調和のとれた生き方といったものでもあるでしょう。
 この映画の冒頭に、必要以上の自然薯を人が掘り起こすと、山の神の怒りを買って山から湧き出てた水が枯れてしまうものの、それを元の土の中に戻すと再び水が湧き出すといったシーンがあります。おそらく、このシーンが映画全体を象徴していると思われます。
 ただ、これではあまりにも直接的すぎて、逆に観客の失笑を招いてしまうかもしれません。ですが、著名な牧野富太郎まがいの植物学者を原田芳雄が演じると、こんなシーンもなぜか説得力を持ってしまいます(今年の原田氏の出演作「ウルトラミラクルラブストーリー」「たみおのしあわせ」「歩いても、歩いても」が思い出されます)。
 それに、狩野芳崖描く悲母観音的な雰囲気をもった松坂慶子(発話障害を持った介護士長)が映画に登場すると、「黄金花」というタイトルも生き生きとしてきます(松坂慶子は、今年は「インスタント沼」などに出演していました―「大阪ハムレット」はDVDで見ました―)。

 ただ、老植物学者(原田芳雄)が思い出す青年時代の「戦後闇市」時代のシーンは、木組みに白いビニールを被せたものがいくつか置いてあるセットが設けられているだけですから(木村監督の得意とするところでしょう!)、中々分かり難いものとなっています。
 とはいえ、「悔恨」なしには思いだせない青年時代の話が中心になるので、こうした抽象的な映像もわからないでもありません。

 この「悔恨」は「老人」にとって鍵となる感情でしょう。植物学者が暮らす老人ホームの同居人は、皆何かしらの「悔恨」を伴う思い出を持っているようなのです。例えば、口の減らない老女「おりん婆さん」(絵沢萠子)は、堕胎を繰り返してしまったことを酷く悔やんでいたりします。

 ですが、こうした続きからはありきたりの結論に行き着きそうなので、このあたりで止めておきましょう。この映画には、つまらない結論を言い立てるには惜しいような小さなエピソードが、いろいろちりばめられているのですから!

 映画ジャッジの評論家では、服部弘一郎氏だけがこの映画を取り上げていて70点を与えています。
 とはいえ、服部氏は、「こうしたエピソード並列型の映画の場合、各エピソードをつなぐ大きなストーリーラインを設定しておくことが多い」が、この作品では「エピソード相互の結束がもっと緩やか」で、「各エピソードは「線」で固定されることなく、立体的に積み上がっている」とか、この映画は「老人たちの「過去」と「現在」の葛藤や相剋」を「とことんまで突き詰めた作品かもしれない」として、「人間は「今」を生きながら、じつは「過去」を生きている」とか述べていますが、そういわれても……という感じの評論です。

 なお、この映画には、松原智恵子が「小町婆さん」という役で出演しているところ、「婆さん」とはいえ吉永小百合と同年であり、かつ昔の風情を依然として保っているのには、いろいろな意味で驚かされました!



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ゼロの焦点

2009年12月03日 | 邦画(09年)
 「ゼロの焦点」を渋東シネタワーで見ました。

 かなり前のことになりますが、世田谷文学館で開催された「生誕百年 松本清張」展に行ったことや、また北野武が主演したTVドラマ「点と線」を見たこともあって、評判はともかくこの映画は見てみようと思っていました。

 映画は、ミステリー物としてとらえれば、中程で真犯人の目星がついてしまいますから、決して出来栄えが優れているとは言えないでしょう。
 室田儀作(鹿賀丈史)が罪をかぶって自殺する展開も、酷く唐突ですし、事件の展開に何ら影響を与えません。むろんこれは、妻の室田佐知子(中谷美紀)に対する愛の行為なのでしょうが、そこに至るまでのプロセスが余り説得力を持って描かれていたように見受けませんでした。それに、松本清張の原作においても、室田氏は自殺などしません(何も原作通りにする必要などありませんが)!
 さらに、鵜原禎子(広末涼子)の夫(西島秀俊)が、戦場で過酷な経験をしてきた割には、いともあっさりと画面から姿を消してしまうのも、気負って見ている者には解せない感じが残ります。

 とはいえ、この映画は、ストーリーもさることながら、まさに「女優3人の競演」というところが見所であって、そういう観点からすればなかなかヨク出来ているのではと思いました。
 広末涼子は、好演した10月の「ヴィヨンの妻」に引き続いて戦後すぐの女性を演じることになりますし、中谷美紀は、NHKドラマ「白州次郎」における瞠目すべき演技が忘れられません、木村多江も、「ぐるりのこと」の演技が印象的でした。
 そうした豊かなイメージを背後にもちつつ、それぞれの女優は、この映画でもなかなか好演しています。
 いうまでもなく、いまどきの女優が、「パンパン」だった過去を持つ陰のある女性を上手に演じるなんぞは土台無理でしょうから、あまり大きな期待を持ってはいけないところです。そういったところを差し引けば、中谷美紀も木村多江も、もてるものを十分に発揮していると思います。

 一番問題となるのは広末涼子でしょう〔「おくりびと」などでいつもお荷物扱いされてしまいますし、今度の映画に関しても映画評論家の間でかなり評判が悪そうです〕。ただ、“探偵役”としてはともかく、世事に疎そうな健気な広末涼子の雰囲気だからこそ、鵜原憲一(西島秀俊)も結婚して新しくやっていこうとする気にもなるのだ、と観客としてヨク納得できるところです。

 なお、この映画については、私としては、鵜原夫婦の新居が「祖師谷」とされている点や、「阿佐ヶ谷」が描かれている点にも興味を持ちました(ソレゾレ、私の巣穴からウォーキングできるところにあります)。

 とはいえ、前田有一氏が言うように、この種の映画でやはり問題となるのは、なぜ現時点でこのような映画―設定を昭和30年代として、あくまでもその時代を再現しようとする―を製作しなければならないのか、という点でしょう。いくら松本清張の生誕100年を記念するのだと言っても、それだけでは人は納得しません。
 確かに、この映画のストーリーからは、戦後すぐの状況設定でないとつじつまが合わないでしょうから、現代的視点と言うよりも、むしろ昭和30年代に可能な限りこだわって映画化しようとしたと考えられます。
 とはいえ、映画「Always-3丁目の夕日」のような場合には、過去の時点にこだわることで現代が失っているものをかえって浮き彫りに出来るという積極的意味があったでしょうが、「ゼロの焦点」の場合、そういったものが果たしてあるのか、「パンパン」の過去を持つ二人の女性を今時点で描くことにどんな意味があるのかなど、いろいろ疑問を持ってしまいます。

 最後に、評論家の意見を掲げておきますと、
 渡まち子氏は、「演出は非常に手堅く、物語も分かりやすい。3人の女優たちは、皆美しく存在感がある。ただ不満なのは、広末涼子の声とナレーションだ」として65点とのまずまずの評点を与えています。
 ところが、先に触れた前田有一氏は、「頭の悪そうなヒロインはある時点から急に聡明なサイヤ人となって名探偵ぶりを発揮し、お約束のヤセの断崖も登場、容疑者たちはペラペラと心の内を語り、締めは中島みゆきが流れる。もはや、サスペンス劇場のパロディである」などとして20点の酷く手厳しい評価です。

 中で特異な論評を与えているのは、73点もの高得点を与えている小梶勝男氏です。
 同氏は、「本作のクライマックスは、中谷美紀と木村多江の「対決」場面にある。だがそれは、実は広末涼子の「想像」として描かれるのである。さらに、その「想像」の中で、中谷と木村の「回想」が描かれる。想像の中の回想。一番大事な場面をこんな入れ子構造で描くのだから、「奇手」としか言いようがない」と述べています。
 ですが、いくらなんでも他人の「回想」の中身を「想像」することなどできない相談でしょう。確かに、この映画では“探偵役”の広末涼子の視点から大部分の場面が描かれているとはいえ、それだけで統一されているのではなく、客観的な第3者の視点(いわゆる“神の視点”)から描かれている場面も多くあります。ここも、「回想」の「想像」といった「入れ子構造」ととらえるのではなく、単なる「回想」シーンだと考えた方が無難なのではと思われます。


象のロケット:ゼロの焦点

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サイドウェイズ

2009年11月21日 | 邦画(09年)
 「サイドウェイズ」を新宿武蔵野館で見ました。

 今日本で底堅い人気のある二人の男優、小日向文世生瀬勝久がメインで出演する映画だというので、時間もうまくマッチしたこともあり、見に行ってきました。

 見ながら、随所にちりばめられているコメディタッチの会話に笑ってしまい、さすがに二人の男優の演技はうまいと思いましたし、また共演の二人の女優、鈴木京香と菊地凛子も貫禄があったりヒョウキンだったりして存在感が出ており、これは拾い物の映画だな、と思いました。
 
 評論家諸氏も次のように評価しています。
 福本次郎氏は、「疲れた男と意地っ張りな女の、もう一歩を踏み出せない微妙な心理が繊細に描かれ」、「もはや夢や理想を追いかける年齢でもない、しっかりと地に足をつけた生活を望みつつも1人で生きていくのは寂しすぎる、でも本音を他人に知られたくない。2人ともそう思いつつ、なかなか言葉にできないもどかしさが共感を呼ぶ」として60点を付けています。
 また、小梶勝男氏は、「あのいかにもアメリカ的な映画を、主要な登場人物だけ日本人に替えてリメークするという、非常に変わった企画」だが、「これが意外に面白」く、「外国人スタッフが作ったにもかかわらず、日本人が見て違和感がないばかりか、日本映画らしい作品になって」おり、「主演の小日向文世が、情けない中年男を実に生き生きと演じている」し、鈴木京香も「美人の彼女が、ときどき中年女のちょっと怖い顔や、疲れて老け込んだ顔を見せる。そこにハッとするようなリアルさを感じた」として75点を与えています。

 ただ、見終わって暫くすると、何か物足りなさが募ってきて、こんなものでいいのかという思いに囚われ出しました。

 町田敦夫氏は、70点を与えながらも、今度の映画の「脚本には、よく言えば日本人向けのアレンジが施されており、それがゆえにいささか陳腐にもなった。エッジの利いたカリフォルニアワインに、なじみの甲州ワインをブレンドしたら、飲みやすいけどありきたりの味になってしまったというところか」と問題点を指摘しています。

 そうなのです、アメリカを舞台にして、アメリカ人の監督の下で制作しながらも、「日本人が見て違和感がないばかりか、日本映画らしい作品」になり過ぎてしまっているのではないでしょうか、周りの状況が違っていても“またあれか”の類いになってしまっているのではないでしょうか?

 有体に言えば、ご都合主義の横行といった点です。小日向文世が演じる道雄は、以前家庭教師として教えていたことのある女性に、20年も経ってから、偶々友人の結婚式で渡米した折に都合よくレストランで再会し、それも二人は丁度離婚した後で独身だというではありませんか!
 二人の間が、いわば“幼馴染”であれば、話はいとも簡単で、お互いに関心を持つまでのプロセスは全く不要となって、少し男性側が積極的になりさえすれば、ゴールはすぐそこに見えています〔これは、映画化された藤沢修平作品―主人公が一緒になったり、思いを寄せる相手は、なぜか“幼馴染”が多いように思われます(「たそがれ清兵衛」、「蝉しぐれ」、「隠し剣」)―などにもうかがわれるとこでしょう!〕。

 こうなると、この映画の粗探しを若干したくなってきます。例えば、次のような点はどうでしょうか?
・タイトルが「寄り道、脇道(sideway)」ですから、劇場パンフレットでもその点が強調され、冒頭の「Introduction」では、この映画は、「人生のちょっとした寄り道に想いを馳せる―そんな人生の折り返し点を過ぎた大人たちのためのコメディドラマ」であり、「「人生の寄り道」に、思いがけない出会いや発見があるかもしれないということ」がこの作品の「奥深いメッセージ」だと述べています。
 とはいえ、道雄は、友人の結婚式に出席するために1週間ほど渡米するわけですが、それがどうして「人生の寄り道」なのか不思議な感じがしてしまいます。シナリオスクール講師というそれまでの職を投げうって、米国で2、3年生活して新しいことをやってみようというのであれば、あるいはそうとも呼べるかもしれません。 
 ですが、痲有子(鈴木京香)に帰国を強く勧めるくらいですから、これでは単なる旅行にすぎないのではないか、単なる旅行でも「人生の寄り道」だというのならば、どの人も随分とたくさんの寄り道をしていることになりますが、などと揚げ足取りめいて言ってみたくもなってきます(注)。

・ラストで道雄は、痲有子に会おうとしてその家に向かいますが、あるいは、痲有子との再婚が「人生の寄り道」なのでしょうか〔道雄と入れ違いに痲有子は日本に行きますから、米国旅行から戻った道雄と一緒になるのでしょうか〕?
 ですが、もしかしたら、それこそが「本道」―道雄は、家庭教師時代に片想いながら痲有子に想いを寄せていたのですから―ではないのでしょうか?

・このリメイク版では、痲有子は、5年前まで「有名デパートの創業者一族の御曹司の夫人」として日本で暮らしていたことになっており、また離婚して渡米後は、ナパ・ヴァレーのワイナリーでワインを勉強し資格試験にも合格してしまい、米国でやっていける自信を持つに至ります。
 いってみれば、彼女は筋金入りの野心家であって、道雄のようなウダツの上がらない単なるシナリオライターなど眼中にないのではないでしょうか?
 それを、家庭教師のときに思いを寄せたというだけのことから道雄は彼女に迫りますが、そんなことではうまくいくはずがないのでは、と思えてなりません。言ってみれば、ラブ・ストーリーとして説得力のある設定になってはいないのでは、と思えるところです。
 ちなみに、元のハリウッド映画では、道雄に相当する人物のマイルスは、「ワインに関してはオタクといえるほどの深い知識と愛情を持っていた」との設定ですから、「ワイン好きの魅力的な女性マヤ」との恋物語も十分成立するのではないでしょうか?

 とはいえ、そんな詮索は後の祭りとも言えましょう。いくら言い募っても何の意味もありません。何しろ、映画を見ている最中には、この映画にすっかり絡めとられて堪能してしまったのですから!


(注)なお、精神科医の樺沢氏は、11月16日の「まぐまぐ」において、「タイトル「サイドウェイズ」は、名詞"sideway"で「脇道、寄り道」の意味。そして、形容詞"sideways" で「横向きの / 遠回しな、回避的な」、副詞 "sideways"で 「好色な流し目で」という意味もあ」るとして、「この1週間の自由な旅自体が、人生の「寄り道」でありながら、過去の失敗・挫折といった「遠道・遠回り」が、今の自分を築き上げている不可欠な経験であった・・・と。「Sideways」にはいろいろな意味が込められていて、「失敗」や「挫折」を経験しているほど、このテーマは伝わりやすいと思」うと述べています。
 きっとそうなのでしょう。コレだと言って特定せずに、ああでもない、こうでもないと人に考えさせるタイトルなのだな、と受け止めるべきと思われます。


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沈まぬ太陽

2009年11月19日 | 邦画(09年)
 「沈まぬ太陽」を吉祥寺で見ました。

 かなりの話題作であり、また主演の渡辺謙がこれまで出演している映画(「明日の記憶」や「硫黄島からの手紙」など)が総じて良かったこともあり、3時間を超えるという長さにはたじろいだものの、見に行ってきました。観客は、普段ならあまり映画館に足を運ばないような年配の人が多かったように思います。

 映画の方は、途中で10分の中断があったものの、全体としてなかなか緊密にできていて、集中して見ることができました。主人公の恩地を演じた渡辺謙、敵役の行天の三浦友和等々、出演人物はみな好演しており、なかなか見応えがありました。 

 とはいえ、見終わってみると、壮大なアフリカの光景など見どころはもちろんたくさんあるものの、違和感を持った点もかなりありました。
 と言って、この映画が事実と違うかどうかという点を問題にしても時間の無駄だと思います。映画として見た場合の問題点に限って、若干述べてみましょう。

イ)恩地があそこまで経営陣に嫌われて、9年もの間、辺鄙な海外での生活を強いられる理由が、この映画からは判然としません。労組の委員長として経営陣と対立したからといって、それぞれがそれぞれの役割を果たしただけのことですから、あそこまで追い込められるのだろうかと思ってしまいます。

 労組の要求を飲めば会社が倒産するというケースであれば話は別ですが、そんな設定になってはいません。 
 また、総理フライトがストライキによって妨げられてしまう恐れがあり、そんな危ういところに会社を追い込んだから、という理由とも考えられますが、そんなに後々まで尾を引くことなのでしょうか?
 あるいは、行天が言うように、単に「目障り」だからなのかもしれません。

 この映画のモデルとなった人が実際にそのような理不尽な仕打ちを受けたのだから、こんなことはドウでもいいという意見がありうるでしょうが、この映画だけを見ている者からすれば、もう少し強固な理由を設けてもらわないととても落ち着きません。

ロ)一番わからないのは、敵役の行天の行動です。
 まず、恩地と大学の同期でありながら、労組の委員長と副委員長に就いていますが、そんなことがあるだろうかと違和感を持ってしまいます。あるいは、恩地との強い信頼関係に基づいているとされているのでしょうか?ただそうだとしたら、チョットした情報だけで見方が180度転換してしまうという描き方で良いのか、と思ってしまいます。

 また、行天は、地位を上り詰めるために、不正な手段で得た資金に手を出すことまでしますが、なぜそこまでして昇進しようとするのかの動機がうまく描かれていません。恩地への対抗心としても、そんなものは恩地のカラチ左遷で十分満たされるのでは、と思ってしまいます。

 それに、彼の家庭事情が何も描かれてはいないので、松雪泰子との愛人関係も、何か取ってつけたような感じしか受けません。

 全体として、恩地の対極にある人物像として行天をプロセス抜きで作り上げているために、酷く類型的でリアリティに欠けてしまっているのではないか、と思いました。

ハ)恩地は、会社に対して詫び状を入れることをあくまでも拒否しますが、そしてその姿勢がこの映画のメイン・テーマの一つである「男の矜持」なのでしょうが、現在制作する映画としてはあまりにも時代錯誤のような気がしてしまいます(ただ、こうしたことが描かれているというので、年配の人が映画館に足を運んでいるのでしょう!)。

 とにもかくにもあの時代にはこんな男が存在したよ、というだけなのではわざわざ映画を制作するには及ばないのではないでしょうか?

ニ)恩地の前任の労組委員長を西村雅彦が演じていますが、デフォルメし過ぎの感があり、経営陣の一翼を担っているにしては、実に奇矯なふるまいをするものだと思いました。

ホ)恩地の妻(鈴木京香)の描き方も、あまりにも古色蒼然としていて、確かに「1930年生まれ」の人の妻だったらあるいはこういう人もいたでしょうが、それにしても血が通っておらず、現代人の共感を呼ばないことでしょう。

ヘ)この映画が長すぎるという感じは受けませんでしたが、少なくとも御巣鷹山事故に関する部分は、原作でも5分の1の扱いなのですから、大幅カットが可能だと思います。

 それに、主人公の恩地は、御巣鷹山事故の遺族担当ということになっていますが、わざわざそのように設定することの意味合いがよくわかりません。会社側の対応のまずさを強調して国見会長の改革へつなげようとしたとも思えるところ、うまく説明がなされていないようです。


 評論家の意見は次のようなものです。
 まず、福本次郎氏は、「ひとりの人間の思いなどちっぽけなもの、それでも厳しさに耐え思いを持ち続ければ、希望となる。その過程がしっかりとした筆致で描かれ、長時間退屈せずに鑑賞できた」として70点を与えています。
 また、渡まち子氏は、「もちろん拷問のような扱いを受けても会社を辞めない主人公を全肯定はできないが、直球勝負の映画の作りと俳優たちの熱演に、深く感動させられた。愚直なまでの生き方を貫く恩地役・渡辺謙、敵役の行天役・三浦友和、共に素晴らしい」として75点です。
 さらに、前田有一氏は、「複雑な思いを抱かせる一面はあれど、平均を上回る見ごたえの社会派作品であることに違いはない」として70点を付けています。

 総じて皆さんの評価は高いのですが、私としては、この映画では人形のような類型的な人間たちが動き回っているだけであって、あまり高く評価できないのでは、と思っています。
 やはり実在の人物をモデルにして描けば、どうしてもその人を必要以上に美化してしまい、他方でその敵役を必要以上に酷い悪者として描かざるをえなくなってしまい、それが歴史上の人物であれば単なるお話で済みますが(NHK大河ドラマのように)、現代史にかかわる場合には、多くの利害関係者がまだ存命なのですから、問題が大きいのではないかと思われるところです。


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わたし出すわ

2009年11月15日 | 邦画(09年)
 「わたし出すわ」を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 予告編を見て大変面白い着眼点だなと思い、また「カムイ外伝」で好演した小雪の主演作でもあるというので、映画館に出かけてきました。

 劇場に入るまでは、森田芳光監督の作品であり、かつ小雪が主演なのですから大勢観客が集まって見やすい座席が確保できるだろうかと心配したのですが、あにはからんや入りは全然よくありません。事前の映画評論家の評価が芳しくないことも影響しているのでしょうか?

 「映画ジャッジ」の評論家諸氏は、それほど酷い評価をしていませんが、それでも、福本次郎氏は、「物語自体があまりにも茫洋としていて、教訓めいたことも説教臭さもない代わりに、何が言いたいのかもよくわからなかった」との相変わらずの論評で50点、前田有一氏は、「通常の「常識」では到底理解できぬ人々が出てくる」などとして55点、小梶勝男氏は、派手な喜劇にはせず、淡々とドラマを描きたいという監督の狙いは分かるが、ただ主人公と友人たちが函館の町をうろうろとして、延々と話をしているだけのような印象で、どうも乗れなかった」としながら68点、そして、渡まち子氏は「地味な服装で、ちっとも幸福そうに見えない摩耶が一人でしりとりをする場面が印象的。そんな寂しげな彼女に、最後に訪れる奇跡には、人生に必要な信念や希望が感じられ、幸せの意味が少し分かった気がしてくる」として70点、といったところです。

 さて、この作品は、予告編からすると、大儲けした女性が「お金を配る」という非常に面白いアイデアに基づいた映画と思わせ、実際に見たらそれがどんなに大きく膨らんでスリリングな展開をするのだろう、単に「お金を配る」行為を描いたに過ぎない映画ではないのではないか、別途のテーマが現れてくるのではないか、と随分期待を持たせます。

 ですが、見終わってみると、ヒロインの摩耶が「お金を配る」様子を描いただけの映画で、全般的に常識的なことしか提示されてはいないのではないか、と思えてきます。
 級友の女性が一人殺されるという事件は起きますが、その犯人もすぐに捕まってしまいますし、また市電の運転手の一家も崩壊しますが、運転手自身は、市電を研究するために摩耶のお金を使って外国に出かけてしまいます。
 他の級友も、受け取ったお金をそれぞれのやり方で使い、全体として、至極淡々と何事もなかったように映画は進行し続けます。最後は、小雪の母親が、小雪の「しりとり」遊びの甲斐もあって劇的な回復を見せるというハッピーエンドとなっているのですからなおさらです。

 ただ、実のところ私の方は、別の観点からこの映画を見てみようとも考えていました。
 ほかでもありません、「わたし出すわ」というタイトルがとても奇妙なのです。いまどき「」という終助詞(文末詞)を使う女性など、ごく限られるのではないでしょうか(通勤電車の中で聞こえてくる女子高生同士の会話では、なんと「俺」などが使われています!)? 
 いったいなぜこんな古めかしい「女ことば」を麗々しく映画タイトルに使ったのかという疑問を、映画を見ながら解こうとしてみました。

 実際に映画を見ますと、こうした「女ことば」が使われるのは、やはり1、2回ほどで、主演の小雪は、お金を渡すときに「これ上げるよ」などと言いますし、級友の小池栄子などは、むしろ「お主……だな」などと男同様の口のきき方をしています。
 とはいえ、残念ながら最後までこの謎を解くことは出来ず、未解決のまま残ってしまいました(注)。

 ですが、そのままにしておくのも癪ですから、この際開き直って考えようとしたら、あるいはこの映画は、全体で“はぐらかし”を狙っているのでは、とも思えてきました。
 映画のタイトルからは優しい日本的な女性が出てくるのではと思わせながら、実際は投機で大儲けしたとみられる女性が主役ですし、にもかかわらず、その女性・摩耶の住まいは実に質素で服装もこの上ないほど地味です。また、その摩耶に小雪が扮するのですからさぞや美しく撮るのだろうと思いきや、なんとも抑制気味に映し出されます。さらに、お金にそんなに困っていない級友に大金を投げ与えるとどうなるか、という抜群のアイデアを出発点としながらも、風船が萎んだような面白みのないラストにわざわざ持っていくとか(級友の研究者は破天荒な研究を放棄してしまいます)、あるいは同じ場所で同じ時期にゴールドバーの投げ込みが行われて(級友・小池栄子の仕業とされます)、摩耶の行為が水を差されるとか、どれを取り上げても話はまっすぐ直線的に進まず、意図的に折り曲げられてしまっているように思えます。

 こんなところから、もう一度この映画を見て捉えなおしたら、また面白いのではないのか、と思っているところです。


(注)ここらあたりのことについては、水本光美・北九州市立大学教授によるTVドラマについての論考が、あるいは参考になるのではと思われます。
 その論考では、あらまし次のように述べられています。
 「現在の30代末以前の若い女性は、従来の女性文末詞を使用しない」が、「テレビドラマの中では、今なお若い女性たちに従来の女性文末詞を使用させる傾向が強」い。こうした事情をみると、「現在、30 代から40代前半頃の比較的若い世代の脚本家が、女性文末詞を若い登場人物に使用させるとき、「女性は女性言葉を話した方が好ましい」というジェンダーフィルターが内在しているとの疑いが出てくる」。
 同じような事情は映画にも見い出すことができて、「ジェンダーフィルター」という概念もあるいは適用できるのではないか、とも考えられます。


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パンドラの匣

2009年11月14日 | 邦画(09年)
 「パンドラの匣」をテアトル新宿で見ました。

 この映画は、制作した富永昌敬監督の前作「パビリオン山椒魚」にイマイチ乗り切れなかったこともあって(注1)、太宰治の小説が原作ですから気にはなりながらも(「ヴィヨンの妻」は見ました)、パスしようかと考えていたところ、他の映画館に出向いたら思いがけず満席状態と告げられ、急遽河岸を変えて、マア時間つぶしだからかまわないかと思って見たものです。

 ところが、あまり期待せずに入って見た映画が、予期に反して良かったという経験を、この間の「悪夢のエレベーター」に引き続いて味わいました。

 映画のストーリーは実に単純で、終戦直後の結核療養所・健康道場において、結核患者の主人公「ひばり」と、二人のヒロイン「竹さん」と「マア坊」(いずれも看護婦)との関係を中心にして、様々の小さな出来事がいくつも綴られているというにすぎません。

 ただ、映画の時代設定は終戦直後となっているものの、雰囲気的にはどうしても昭和初期あたりに見え、さらにはこんな「健康道場」が実在したとも聞いたことがないので、初めのうちはこの映画はいったい何だろうかと思いながら見ていました。
 というのも、結核療養所でありながら、医者が見当たらず、乾布摩擦などのいい加減と思える治療が描かれているだけなのです。また、患者と看護婦との境がしっかりしていないため、これでは結核が看護婦にも蔓延してしまうのではないか、と観客サイドがお門違いながら心配してしまいます。それより何より、どの患者もとても結核を患っているようには見えません(患者は誰も咳をほとんどしませんし、患者として登場する「ふかわりょう」などは、健常人そのものです)(注2)。

 ですが、暫くするとそんなことはあまり気にならなくなり、こういう閉じられた世界もありかなと思えてきます。そうなると今度は、映画の中で動き回っている俳優たちが実に生き生きと演技しているのが見えてきて、知らず知らずのうちに話に引き込まれてしまいました。

 特に、川上未映子がヒロインの一人として出演しているのには驚きました。というのも、最近、彼女が書いた長編小説『ヘヴン』(講談社)を読んで感動したばかりですから(注3)。この映画では、とても小説家が片手間で演技しているとは見えず、実に役柄の看護婦長役にはまっていると思いました(彼女はミュージシャンでもありますから、場慣れしてはいるのでしょうが)。
 また、モウ一人のヒロインの仲里依紗もなかなか良くやっていると思えました。川上未映子と同じ看護婦役といっても、仲里依紗の方は新米の看護婦の役で、むしろ初々しさを出さなくてはなりませんが、それが水を得た魚のように溌剌として動き回っているのです。

 評論家たちも、この映画については専ら俳優の方に関心が集まっています。
小梶勝男氏は、「この作品については、圧倒的に川上未映子と仲里依紗だ。2人がエロチックでいい。見ているだけで幸せだった」として72点を与え、渡まち子氏も、「新人の染谷将太や芥川賞作家の川上未映子を起用するなど、異化効果を狙ったユニークなキャスティングが目を引く。小悪魔的な魅力の仲里依紗の光る金歯と、川上未映子の妙にどっしりした存在感が印象的」だとして65点を与えています。
 いずれの評論も的を得たものだと思います。

 さらに、この映画については、音楽の菊池成孔氏の存在を忘れるわけにはいきません(注4)。菊池氏は、富永監督の前作でも音楽を担当していますが、ここでも音楽が、まるで一人の俳優であるかのように、この映画独自の雰囲気を盛り上げるのに大きな役割を果たしていることがよくわかります。

全体として、「パビリオン山椒魚」とは違い、ストレートに映画を楽しめました。



(注1)オダギリジョーと香椎由宇が出演し、音楽も菊地成孔氏ですから面白いことは面白いものの、余りにも突拍子もないことが映画では次々に起こるので、あっけにとられてしまいます。
(注2)ところが、劇場用パンフレットによれば、太宰治の小説には木村庄助という実在のモデルがおり、その人が入院したのが「孔舎衙(くさか)健康道場」という実在の施設(東大阪市日下町)だったとのこと。
 なお、実際に小説のモデルが入院したのは昭和16年で、そのころはまだストレプトマイシンなどの治療薬が開発されておらず、したがってこの映画で映し出されているような素朴な治療法しか考えられなかったのでしょう。ただ、戦後であれば抗生物質による治療が進展していますから、そういうこともあってこの映画に何かしら違和感を感じてしまうのかもしれません。
(注3)『ヘヴン』では、川上氏は、コレまでの作品のように大阪弁を使わずに、いじめ問題を通して善と悪という大問題に誠に真摯に取り組んでいて、感心しましました。


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悪夢のエレベーター

2009年11月11日 | 邦画(09年)
 「悪夢のエレベーター」をシネセゾン渋谷で見てきました。

 予告編を見て面白そうな映画だなとは思ったのですが、あの堀部圭亮氏の監督第1作だと聞いて腰が引けていたところ、時間がうまく合致するものが他になかったこともあり、マアいいかということで映画館に入ってみました。

 ところがどうしてどうして、なかなか面白い映画を堀部氏は制作したものだ、といたく感心いたしました。
 むろん、原作があり(TVドラマとしても取り上げられ、舞台公演も行われているそうです)、また脚本については、「鴨とアヒルのコインロッカー」を書いた鈴木謙一氏の名前が挙げられていますから(堀部氏も携わっていますが)、すべてが堀部氏の手柄に帰するものではないものの、讃辞を与えるべき人の筆頭に彼の名前が挙げられるのも確かなことでしょう! 
 なにしろ、途中で止まってしまったエレベーター内に取り残された4人についての出来事を描いた作品であることは予告編からうかがわれるところ、それが数回大きくドンデン返しされるのですから驚きました!
 
 「映画ジャッジ」の評論家の面々では、福本次郎氏は、「どんでん返しに次ぐどんでん返しで見る者の予想を裏切ろうという意図はよく理解できるが、全部二重人格の少女・香が立てたプランだったという最後の種明かしは蛇足。これでは計画自体があまりにも偶然に頼りすぎる上、後付けのこじつけのような印象を与えかねない」として50点です。
 ですが、「こじつけ」でもなんでも「種明かしは蛇足」だとしたら、ミステリーにならないでしょう!一体福本氏は何が言いたいのでしょうか?
 渡まち子氏は、「キャラが抜群に立っているのが魅力で、特に、関西弁のガラの悪い男を演じる内野聖陽がいい」として65点を与え、小梶勝男氏が、「長編初監督作としてはレベルが高く、(堀部圭亮は)才能のある人だと思う」として69点を付けているところ、さらに山口拓朗氏が、「映画のスケールがおしなべて小さいため、映画に奥深さや豪華さを求める人には物足りないかもしれない」ものの、「スリリングな展開と、軽妙な人間ドラマと、鮮やかな結末をもつ上質のミステリー。全編を貫くコメディ調の演出も魅力にあふれ、テンポよく話を転がしながら、観客を適度に楽しませ」、「お金をかけずともおもしろい映画が作れることを証明する秀作だ」として70点を与えています。私も山口氏の見解に全面的に賛成します。
 
 確かに大層面白い映画なものの、強いていえば2点ほどよくわからないことがあります。

・問題のエレベーターが設置されているマンションの管理人を過失ながら殺害してしまったと、主役の探偵(内野聖陽)が思い込んでいたところ、突然その管理人が血だらけの姿で現われたために、怖くなって探偵は管理人を殺してしまいます。
 ですが、何もそこまで描きだす必要性はないのではないでしょうか?殺人の目撃者だとの思い込みから殺してしまったとも言えますが、口封じの手段は殺人ばかりではないでしょう。
 むろん事前の計画性などないものの、探偵は結局2人も人を殺してしまうことになりますから、あまりにも救いようがありません。
 (この点は、渡まち子氏も問題にしています)

・ラストで、探偵の助手(佐津川愛美)が、依頼人(本上まなみ)の妹であることがわかります。そして、彼女は、「境界型人格障害」で殺人を犯しやすいとされます。
 ですが、果たしてそういった精神障害者が、いくら精神が不安定だからと言って、他人(姉)にかかわる殺人を犯す(浮気する義兄を殺してしまいます)ものでしょうか、この点は非常な疑問を感じます。
 まして、彼女は、一度も会ったこともない義兄の浮気相手をも最後には殺しに行こうとしますが、これでは「境界型人格障害」者は殺人鬼(無差別殺人者)だと言っているも同然になるでしょう(注)。
(こう指摘したからといって、上記の福本次郎氏のように「最後の種明かしは蛇足」とは思いません。ただ、「こじつけ」の仕方に問題があるのでは、と申し上げているのです。)

 とはいえ、久し振りで上質のミステリー映画を見たな、と楽しい気分で映画館を後にすることができました。

(注)境界型人格障害、あるいは「境界例」とは、「もともとは精神病と神経症の境界線上の病気」とされています。(斉藤環『文学の徴候』〔文藝春秋 (2004)〕P.16)。
 なお、先日見た映画「ヴィヨンの妻」の原作者・太宰治も、「境界例」の患者と言われることがあります。例えば、精神科医・町沢静夫著『ボーダーラインの心の病理』(創元社、1990)では、「太宰治の行動や情緒は、ボーダーライン(=境界例)とみてほぼ間違いない」(同書P.126)とあり、精神科医・磯部潮著『人格障害かもしれない』(光文社新書、2003)でも、「太宰治は境界性人格障害(=境界例)と自己愛生人格障害の二つの診断基準を満たしています」と述べられております(同書P.215)。

空気人形

2009年11月08日 | 邦画(09年)
 「空気人形」を渋谷のシネマライズで見てきました。

 「韓流」映画の評論も手がける経済学者の田中秀臣氏(上武大学教授:リフレ派ということで同じ大学の池田信夫氏からヨク批判されます)が、この映画についてブログに書いていることもあり、また、主演女優ペ・ドゥナについて雑誌の特集(『ユリイカ』10月臨時増刊号)もあったりして、この映画は是非見てみたいと思っていました。

 物語自体は簡単です(原作は、業田良家氏の短編漫画)。板尾創路が愛用する空気人形(いわゆるダッチワイフ)が、突然心をもってしまい、昼間は人間(韓国女優ペ・ドゥナが扮します)となってレンタルビデオ店で働き、そこの若い店員(ARATA)を愛するようになるものの、最後は儚くゴミのように廃棄されてしまう、といったストーリーです。

 なんといってもこの映画で評価すべきは、主演女優ペ・ドゥナの演技の素晴らしさでしょう。その設定から、彼女のヌードシーン(人形の自分に自分で空気を入れて人間になるときなど)やセックスシーン(空気孔にARATAが息を吹き込む)が何回も映し出されますが、どのシーンも大層美しく、また街を歩いたり人とコミュニケーションをとったりするときの仕草に、人形としての純粋さ、汚れのなさがよく表されていて、これは余人をもって代え難いのでは、と思えてきます。
 また、彼女を取り巻くのは大部分が男優ですが、なかでも空気人形を製作している人形師役のオダギリジョーがいい味を出しています(女優では、やはり余貴美子がよかったと思います)。

 こうした点は、渡まち子氏も同じように指摘しているところです。すなわち、渡氏は、映画の「独特の世界観を支えているのが人形という難役を演じる韓国人女優ペ・ドゥ ナだ。たどたどしい日本語が、初めて世界を知る人形の心情に見事にフィットする。何よりも透明感溢れるエロティシズムを醸し出す彼女の演技は、大胆かつ繊細で、素晴らしいとしか言いようがない」として90点もの高得点を与えています。

 ただ、この映画は、人形に「心」が宿ってしまう様を描いていますから、単なるSFファンタジーとしてではなく、より深いところで受け止めるべきだ、という思いにも囚われるところです。

 たとえば、福本次郎氏は、「映画は、無垢な心を持った人形が体験する誕生と死、愛と別れを通じて、人生の苦悩を圧倒的な閉塞感で描く。将来の展望や夢がなくても命ある限り生活ていかなければならない、そんな人々の現状をあるがままに受け入れる姿勢は、押し付けがましさがなくて心地よい」として60点を与えています。
 また、先の渡氏も、「他人とつながることへの切望。それゆえの孤独。物語は深淵で稀有なもの」と、述べています。

 とはいえ、この映画を見て、「人生の苦悩を圧倒的な閉塞感で描く」とするのはお角違いではと思えます。空気人形が心をもって至極軽く街を歩いている様を見れば、「人生の苦悩」などとは全く別の地点にいることがわかります。さらに、渡氏のように、「深淵」と言ってしまうと、この映画の良さが失われてしまうのでは、と思えます。

 そうしたこともあってか、小梶勝男氏は、この映画は「一種の特撮映画、あるいは「フランケンシュタイン」などのモンスター映画の系譜につながっているのではないか」と独自の視点を挙げ、「本作では、無垢なる(空気人形の)存在は「恐怖」とだけ受け止められるわけではない。町の様々な人々に、様々な形で関係していく。その様々な関係の有り様から、町全体が「孤独の集積」として浮かび上がってくるのが感動的だ」として85点を与えます。

 こうした観点もむろんアリでしょうが、もっと単純に、人間になった人形と元から人間との交流を描いた現代のお伽話としてみてはどうでしょうか?

 確かに、この映画に登場する人間は皆、人とのコミュニケーションがうまくできないようです。例えば、昼間はレストランで働いて、そこの若い店長から怒鳴られ、それでもハイハイと従わざるを得ない板尾創路。家に帰れば人とは口をききたくないのでしょう、人間になった空気人形に、元の人形に戻ってくれと要求します。
 といっても、こうした人たちを深刻に捉えることもないのでは、とも思います。そういう行動をとることでバランスを取っているのでしょうから、ありうべきコミュニケーションが欠けている、これは現代の深刻な問題だと声高に言ってみても、何の解決にもなりません。

 実際には、ファンタジーとしても、この映画には様々な問題が見つかります。
 たとえば、人形が心を持つことが、どうして人間と同様に行動することにつながるのか、心をもった人形は、なぜ日本語を話し街を歩き、果てはビデオショップで働いたりすることができるのか、そこまで理解しているのであれば、若い店員(ARATA)の腹に穴をあけて空気を出そうとしたり、逆に口から空気を入れて膨らまそうとするのか、等々。

 ですが、映画を見ている最中は、そんな問題など全然気になりもしません。ペ・ドゥナと一緒になって、街をうろついたり、船に乗って佃島ウォータフロントの光景を眺めたり、随分とのどかな気持にさせられます。

 ラストで空気人形は、空気を抜かれてゴミとして廃棄されますが、そのときのペ・ドゥナの顔つきがまたとても素晴らしいので、随分設けたような気分になって映画館を後にすることができました。


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