映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

森山中教習所

2016年07月29日 | 邦画(16年)
 『森山中教習所』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、夏休みのある日、食堂で大学生の清高野村周平)と同級生の松田岸井ゆきの)とが向い合って座っています。



 清高が「松田さん、やっぱりダメだ」と言うと、松田が「えっ?」と聞き返します。
 清高が、「何回もデートしたけど、やっぱりダメだった」と言うと、松田は「そっか」と答え、泣きながら「どうして?」と尋ねます。
 清高が「ほらっ」とティッシュを手渡すと、涙を拭きながら松田は、「てっきりOKだと思っていたのに。酷いよね、清高君って」と言います。
 そこへ店員が「牛丼特盛りの方?」と注文の品を持ってきたので、松田が「私です」「美味しそう」「いただきます」と言って、食べ始めます。
 清高は「俺、この夏、車の免許取ろうと思う」「この辺に教習所あったかな?」「松田さんも、一緒に取る?」と言い出します。
 松田は、「無理だと思うよ」と応じ、「どうして取るの?」と尋ねます。
 清高は「車に乗ればどこにでも行けるから」と答えます。

 次の場面は、夜間の橋。
 清高の乗った自転車が後ろから来た車に撥ねられてしまいます。
 清高は道路に倒れて動きません。
 撥ねた車から出てきたのは、運転していた轟木賀来賢人)と本田音尾琢真)。2人ともヤクザです。
 本田は、「やっちゃったよ。どうすんだよ。懲役20年はいくぞ」と騒ぎます。
 轟木と本田は、清高の乗っていた自転車を橋の上から下の川に落とし、さらに清高の体を車のトランクに押し込めて、その場を去ります。

 車の中では、乗っている社長(光石研)に、轟木が「車が凹んじゃいました」と報告すると、社長は「ボロだから構わないけど、ちゃんと教習所で運転を教えてもらった方がいい」と言います。
 トランクの中では、清高が携帯の音で気が付き、あわてて携帯を見ると、松田から「免許頑張ってね」とのメールが。

 その車が、夜間にもかかわらず森山中教習所に直行したことで、結局、清高と轟木はその教習所で運転を教えてもらうことになるのですが、さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作は、高校で同級生だった大学生と若いヤクザとが、偶然にも一緒に、田舎の廃校を利用している教習所で自動車運転の講習を受けることになって、云々というお話。同級生にもかかわらずほとんど付き合いのなかったため初めは打ち解けなかった2人ながら、講習や、教官との交流を通じてそれぞれ変化していく様子が面白おかしく描かれており、大きな事件が起こるわけではないものの、まずまず愉しめる作品です。

(2)本作では、女の子と付き合っているごくフツーの大学生である清高と、すでに社会人となって、それもヤクザ社会に所属している轟木という至極対照的な2人が、教習所で一緒に過ごすというなかなか刺激的な設定になっています。



 それも、普通であれば、いくら教習所で一緒になっても、ヤクザと大学生とで付き合いなど生じないでしょうが、教習所が過疎の田舎にあって生徒数がごく少なく、さらに2人が高校時代同級生だったという接点が設けられているために(注2)、最初から2人はフツーに話し始めることになります。
 自由で保護された大学生と、不自由で保護などされていない社会人とがうまい具合に絡みあうこととなり、その点では興味深いものがあります。

 とはいえ、タイトルにもなっている「教習所」の設定が十分に生かされていないような憾みがあります。
 確かに、非公認の教習所のために、そこを卒業しても技能試験(実地試験)が免除されるわけではないこともあり、随分とマイルドでいい加減な授業となるでしょう。おまけに、教官のサキ役を演じているのが麻生久美子ですし。



 それにしても、教習所の教官と生徒を巡るよくある話(注3)は一つも起こりませんし、また、轟木は、清高を跳ね飛ばすような運転をしていたのですから、運転の技量に何か問題があるはずですが、映画ではそうしたところは余り見られず、1ヶ月ほどの教習所通いから何を学んだのかよくわからないように思えます。
 これでは、わざわざ「教習所」をメインの舞台にし、なおかつタイトルにまで持ってきた意味が余りないようにも思えます(注4)。

 また、両親がおらず施設に入っていたという轟木の設定に対応させて、清高についても、冷えきった感じの家(注5)を出たいと考えているという設定にしています。さらに、教官のサキも子持ちのバツイチなのです(注6)。
 現代社会が抱える家族の問題を様々に表現しようとしているように思われますが(注7)、これでは盛り沢山すぎるのではないでしょうか?

 でも、総体的に大層ユルユルな雰囲気の映画にもかかわらず、ヤクザの指詰めシーンが描かれたり、不良外国人の生徒を轟木がスコップで殴りつけたりするなど、全体のトーンとは外れる要素も盛り込まれており(注8)、意外としたたかな作品となっているようにも思います。

 また、ラスト近くまでほぼ原作通りに描かれていた本作ながら、原作と違ったラストになっていますが、映画ならではの表現ではないかと思いました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「全体的にユルいムードが漂い、廃校を利用した教習所のほのぼのとしたたたずまいや、風変わりなキャラなどが、独特の世界観を作り出してい」て、「ユルユルな作品にみえて、これは案外、拾い物の青春映画かもしれない」として65点をつけています。
 暉峻創三氏は、「ドラマチックな物語展開で見せる映画でも、青春の悔恨や勝利感で感動させる映画でもない。それぞれの人物が背負う、互いに異なる空気感と、その一瞬の交差が見せる化学反応を繊細にすくい取っていくことで、観客を引っぱりつづける映画だ」と述べています。



(注1)監督は、『海のふた』の豊島圭介
 脚本は和田清人
 原作は、真造圭伍著『森山中教習所』(小学館)。

 なお、出演者の内、最近では、野村周平は『ちはやふる 上の句』、岸井ゆきのは『友だちのパパが好き』、音尾琢真は『日本で一番悪い奴ら』、麻生久美子は『俳優 亀岡拓次』、根岸季衣は『百円の恋』、光石研は『無伴奏』で、それぞれ見ました。 

(注2)それも、同級生にもかかわらず、高校時代1度しか会話を交わしたことがなかったという設定なので、その後の身の上についてはお互いに情報を持っていないのです。

(注3)例えば、質問に答えない教官、高みに立ってお説教をする教官、高圧的で怒鳴り散らす教官、などなどがどの教習所にもいて、教習所というとそうしたイメージを持っている人が多いのではないでしょうか(今は、昔と違い、クレームを受け付ける窓口が設けられていたり、教官指名システムを採用したりしている教習場が多いようですが)。

(注4)それでも、原作漫画のラストでは、松田と清高が森山中教習所のあった場所を訪れて、清高が轟木のことを思い出し、「なつかしいなぁ」とノスタルジーに浸り、そしてそこを離れていく車の後ろ姿で終わっていますから、まだ「森山中教習所」というタイトルに意味があると思います。
 ですが、本作の場合、同じような場面は挿入されているとはいえ、その後に、下記「注8」に記すようなシーンが付加されているので、「森山中教習所」のイメージが薄れてしまうように思いました。

(注5)清高の父親は、リストラの憂き目に遭い、随分といじけて家に引きこもってTVゲームばかりしており、激しい夫婦喧嘩も絶えない感じです。

(注6)加えて、ヤクザの抗争に巻き込まれ社長が乗っている車に銃弾が打ち込まれ、本田が死にますが、本作では、原作漫画で描かれているその場面ではなく、遺体安置室で本田の遺体に取りすがって泣く妻の姿を描いているのも、本作が家族に焦点を当てようとしているからなのでしょう。

(注7)さらには、サキとその子どものタカシ、サキの父親(ダンカン)と母親(根岸季衣)とが作り出す温かい家族的な雰囲気と、清高と轟木とを対比させてもいるのでしょう。

(注8)他にも、轟木の妄想ながら、轟木が乗ったショベルカーが社長の家を襲う場面などが描かれています。

(注8)原作のマンガは1巻本で、その説明的な部分が幾分省略されているとはいえ、映画はほぼ原作に忠実といえるでしょう。ただ、原作のオシマイの方では(P.244)、牛丼屋で松田と牛丼を食べている清高を車のフロントグラスから見付けた轟木が、社長を昼食に連れて行く場所をその牛丼屋から蕎麦屋に変えるところが描かれています。他方、本作では、踏切で松田と清高が乗る車が、社長と轟木が乗る車とスレ違い、お互いに見るともなしに見ている姿が描かれています。



★★★☆☆☆



象のロケット:森山中教習所


ふきげんな過去

2016年07月26日 | 邦画(16年)
 『ふきげんな過去』をテアトル新宿で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、東京湾近くの運河が見えるところ(注2)。
 カコ二階堂ふみ)が不機嫌そうな面持ちで運河の縁に立っていす。そこへ、ギターを背負ったヒサシ山田裕貴)がやってきて、「なあ」とか「ねえ」とか言って彼女にまとわりついています。
 ヒサシが「ここ海だからいないよ」と言うと、カコは「運河」と応じます。さらに、彼が「海水が混じってるんだから、ワニなんかいない。本当にいると思ってんの?」と言うと、彼女は「伯母ちゃんが見たって」と答えます。
 焦れたヒサシが「どっか行こうぜ」と言うので、カコが「どこ?」と尋ねると、彼は「どこがいい?」と聞き返します。彼女が「ここじゃない世界」と答えると、彼は「何いってんの、お前」と呆れ返ります。
 今度はヒサシが「俺、お前の曲作っていい?」と尋ねますが、カコは「やめて」、「あんたのバンドなんかすぐに解散するから」、「私には未来が見えるの」と言います。
 そして、彼女は「喫茶店に行く」と言うと、彼は「やめとけ、あいつは人さらいだ」と脅かします。

 次は喫茶店の場面。
 店に置かれているTVの画面では、アメリカ大使館爆破事件のニュースが流れています。
 カコは、岩波文庫の『小さき者へ』を読むふりをしながら(注3)、カウンターの方を見ています。
 カウンターの前の椅子にはヤスノリ高良健吾)が座っていますが、ウエイトレスのエツコ墨井鯨子)と一言二言話をした後、喫茶店を出ていきます。
 カコがエツコを見ると、エツコは「ヤスノリちゃん事件って知ってる?」と尋ねるので、カコは「知りません」「何なんですか?」と応じます。

 カコが、商店街を傘を引きずりながら歩いていると、途中で、3人の女子高生と遭遇しますが、お互いに知らない者同士のようにスレ違います。
 ただ、そのうちの一人だけが、振り返ってカコの後ろ姿を見続けます。

 そして、随分とくたびれた感じのする食堂の店内。
 丸い大きなテーブルのところで、カコの母親のサトエ兵藤公美)と、祖母のサチ梅沢昌代)が豆を剥いています。
 サチが「(サトエがおんぶしている赤ん坊の名前を)決めないと、あれだろ?」と言うと、サトエも「そうね」と応じ、さらにサチが「豆にちなんだ名前をつけたらいいんじゃ」と言ったりします。
 客(児玉貴志)が「この子、大丈夫か?」というものですから、サトエは「今日はやる気ないみたい」と答えます。

 こんな風に映画は進んでいきますが、さあどうなることでしょう、………?

 本作は、東京の運河にワニの出現を待っているいつも不機嫌な女子高生が住んでいる住宅兼食堂に、爆破事件を起こして北海道で死んだはずの伯母がやってきて、その女子高生の部屋に寝泊まりすることになり、云々という大層風変わりな作品。一種のファンタジーでしょうから、例えば、展開の突飛さを楽しんでもいいのでしょうし、個々の会話の面白さを味わってもいいでしょうし、映画の持つ意味合いをあれこれ考えるのもいいのでは、と思われます。

(2)本作では、まず、東京湾沿いの運河にワニの出現を待つカコが描かれます。



 そればかりか、遠くの方に、女性(注4)が銛を手に運河を見下ろしている姿がぼんやり見えたり、ラストではそのワニが岸辺に打ち上げられていたりもするのです(注5)。

 また、16年前に北海道で死んだとされたミキコ小泉今日子)が、突然皆の前に出現したり、カコの部屋の窓から飛び降りていなくなったりします(注6)。



 こんなことから、本作は、運河沿いにある古びた食堂を舞台にしたリアルな作品のように見えながらも、内実は一種のファンタジーなのでしょう。

 ファンタジーですから何が起きても不思議はないとはいえ、映画を見ながらクマネズミは、ミキコやヤスノリはカコの幻想の産物ではないかと思いました。その二人はツマラナイ現実を爆弾を使って変革しようとしているものの、カコにはそんなことでは何も変わらないように思え、ますます不機嫌になります。ただ、見えるはずがないと思っていたワニの出現によって、ようやくカコはポジティブな感じを掴んだように見えます。それでは、このワニとは、いったい何でしょう?何しろ、見えないはずのものが現実の姿になって見えたのですから!でも、見えないはずですから、現実の姿ではないのでしょう。としたら、…?

 それで何かヒントが得られるかなと思って、見終わってから本作の劇場用パンフレットに目を通すと、掲載されているインタビュー記事で前田監督は、「未来子と果子、そしてカナ山田望叶)の3人は、同じ人物の45歳、18歳、10歳の断層で、普通は決して交わりません。でもそれを地層の断面図みたいに縦に並べてみたかった」と述べています(注7)。
 なるほど、カコは果子で過去であり(注8)、ミキコは未来子で未来なのか、そして同じ人物なんだ、とようやくわかります(注9)。
 それで、同じ部屋に3人が一堂に会して話したり、またヤスノリの屋敷の跡に船で一緒に出かけたりするのでしょう。



 そして、この人物について、45歳のミキコを起点としたら、18歳のカコと10歳のカナは過去でしょうし、カコを起点にしたら、ミキコは未来でありカナは過去になり、カナを起点としたら、ミキコもカコも未来というわけでしょう。

 ただ、18歳の時に運河でワニを見て顔を和らげるカコは、45歳の時にアメリカ大使館爆破事件を引き起こすミキコに繋がるのでしょうか?カコは、その時タッパーに入った爆弾を手にしているとはいえ、クマネズミには、ワニを見たことによって、カコはその爆弾を使わなくなるように思えるからですが(注10)。仮に繋がらないとしたら、カコは27年後の自分を変えることができることになるのでしょうが、その自分とミキコとの関係はどうなるのでしょう?

 それはともかく、本作については、上記の点ばかりでなく、劇場用パンフレットに掲載されているシナリオの「決定稿」(注11)や「年表」によって、何だそうだったのかと思わされることが多々あります。
 例えば、橋の上で男たちが争っているシーンがありますが、そのシナリオによれば、A組織に捉えられていたミキコをB組織のヤスノリが助けたということのようです(注12)。

 ただ、本来的には、観客が見る映画の映像だけで映画は完結すべきものと思われ、こうした参考資料によって補足しなければきちんとした理解が得られないというのは、どうしたことでしょう?
 あるいは、制作者側は、そうしたところは意図的に曖昧にしておき、観客の想像に任せたのかもしれません。逆に、何から何まで映画の中で説明されてしまうのも酷く鬱陶しいものです。
 でも、こうした参考資料が公刊されていて、それを調べればかなりのことがわかるというのでは、観客の想像に任せるということに余りならないのではないでしょうか?

 とはいえ、参考資料で分かるのは登場人物の関係性が専らであって、本作全体のわからなさが解明されているわけではありません。本作の持つ意味合いについては、この先もいろいろ考えなくてはならないでしょう。そして、本作の面白さもまたそういう点についていろいろ考えるところにあると思います(注13)。

(3)北小路隆志氏は、「あらゆる存在が無気力に見え、赤ん坊さえ「ぐったり」している世界。疑問や不満もなく退屈さを生きるばかりか、元気を出そう、夢を持とう、などと陳腐な説教を子供に垂れるでもない大人たちの姿が妙に感動的でさえある」と述べています。



(注1)監督‥脚本は、『ジ、エクストリーム、スキヤキ』の前田司郎

 出演者の内、最近では、小泉今日子は『マザーウォーター』、二階堂ふみ高良健吾は『蜜のあわれ』、板尾創路は『杉原千畝 スギハラチウネ』、山田望叶は『私の男』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の「プロダクションノート」によれば、「舞台は北品川」。

(注3)『小さき者へ』のはじめの方には、「お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い」とあり(青空文庫版より)、カコとサトエとミキコの関係を暗示しているように思われます(下記の「注12」をご覧ください)。

(注4)よくはわからないのですが、「海苔の本田の奥さん」と言われる女性なのでしょう。

(注5)シートを掛けられて死んでいると思われたワニがもぞもぞ動いたりして、見物人たちが慌てて逃げ出したりします。

(注6)さらに、その未来子を連れに来たヤスノリが、遠くの家の屋根の上に現れて、そこから下に飛び降りる場面も描かれます。
 にもかかわらず、カコが探しに行くと、その二人が、ヤスノリの部屋でいっしょにソバを食べているのです。

(注7)さらに前田監督は、「個人の記憶の中では出来事が時系列に並んでいるわけではなく、例えば未来に訪れる自分や家族の死がすごく近いことのように思えたり、昨日のことが忘却の彼方に消えていたり。過去と未来の区別がそんなにきれいに付いていない気がするんです」と述べていますが、なかなか説得的な気がします。

(注8)カコが同じ部屋で寝ているミキコに向かって、「なんで赤ん坊の私を置いて出て行ったの?」と尋ねた時、ミキコは「邪魔だったから、カコが」と答えたのにカコが「なにそれ」と言うのは、“カコ”が「果子」と「過去」の語呂合わせになっていることに気がついたからでしょう。

(注9)例えば、カコがカナに「学校つまんないの?」と尋ねると、カナは「つまんない、毎日同じようなことしかしないから」と答えますが、8年後のカコを彷彿とさせますし、カコがミキコに「伯母さん、何で死んだの?」と訊くと、ミキコが「あたしもつまんなかったの」と答えるところからは、45歳のミキコと18歳のカコとが同じ人物のように思われてきます。
 またカコが「ワニがいるわけない」と言ったらミキコが「いるわ、あたし見た」と答えますが、27年後のミキコならありうる言い方のように思われます(ラストで、カコはワニを見るのですから!)。
 ちなみに、カナに扮する山田望叶は、『私の男』で主人公役の二階堂ふみの幼少期を演じています!

(注10)劇場用パンフレット掲載の「年表」によれば、ミキコは父親(「下記注12」の写真の男)のビルを爆破するのは17歳の時で、18歳のカコよりも1つ歳下なのです。

(注11)最後に「採録シナリオではありません」との但し書きが付いています。

(注12)更に言えば、例えば、「ノリノホンダ」が「海苔の本田」、食堂の客である片足が義足のヒロシの息子がヒサシ、カコの祖母・サチの最初の夫が仏壇に置かれている写真の男(大竹まこと)で、ミキコはその男との間の子で、サトエはサチの2番目の夫との間の子、写真の男の妹の子がレイ黒川芽以)で、レイの子がカナ、などなど。
 なお、カコは、ミキコとタイチ板尾創路)との間の子で、ミキコが失踪した後、タイチと結婚したサトエが自分の子として育ててきたことは、映画の中からおおよそわかります。



(注13)例えば、次のようなツマラナイことを考えたりしました。
 前田監督は「人間は記憶で出来ています」と述べていますが、未来・現在・過去が記憶から出来ているとしたら、記憶の中身は見えたものばかりでしょうから、見えないものは見えないままであり、また、カコが言うように「私は未来が分かる」ことにもなるでしょう。そして、それらの見えているものを爆弾で破壊しても、なにも新しいものは見えてはきません。でも、記憶にとらわれない想像力があるとしたら、その想像力を働かせることによって、見えないものも見ることができるかもしれません。カコは、もしかしたら、想像力によってワニを見たことから、見えないものを見ることができるとわかり、それまでの不機嫌な顔を和らげたのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:ふきげんな過去

シング・ストリート 未来への歌

2016年07月22日 | 洋画(16年)
 『シング・ストリート 未来への歌』を渋谷のシネクイントで見ました。

(1)8月7日に閉館となる映画館の最後の公開作品だというので、行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、隣の部屋で両親が、「毎日ガミガミ言いやがって」「酒と愚痴ばかり」「出て行け」などと夫婦喧嘩をしている最中ですが、主人公のコナーフェルディア・ウォルシュ=ピーロ)が、ベッドに座ってギターを弾きながら歌(注2)を歌っています。

 次いで、家族会議の場面。
 父親のロバートエイダン・ギレン)が、「母さんと俺は厳しい事態にある。俺は仕事がゼロだ。母さんの仕事も週3日になっている」と言い、母親のペニーマリア・ドイル・ケネディ)が「教育面を変えれば、かなり節約できる」と言うので、コナーが「どのように?」と聞き返すと、ロバートは「兄さんはすでに大学を自分から中退している。お前の学校を変える」と答え、コナーは突然シング・ストリート高校(注3)へ通うことになります。

 同校にコナーが登校すると、校庭で生徒同士が喧嘩騒ぎを引き起こしていても、先生は遠くから見守るだけ。
 教室に入ると、生徒は授業そっちのけで騒ぎまくっていますし、中にはタバコを吸っている者も。教師は、生徒の方を見ずに、黒板に何やら文字を書き並べています。
 校長のバクスタードン・ウィチャリー)からは、「8時45分から朝の祈りがある。学校では靴の色は黒だけだ」などと言われます(注4)。

 家に戻ったコナーは、兄のブレンダンジャック・レイナー)と一緒にTVの音楽番組を見ます。



 そこでは、デュラン・デュランの「リオ」のMVが流れ(注5)、ブレンダンが「格好いい!」と叫び、傍にいた姉のアンケリー・ソーントン)が「ギタリストは誰?」と尋ねると、ブレンダンは「ジョン・テイラーだ。彼はギタリストじゃない、ベーシストだ」と言います(注6)。

 コナーは、校長からはしつこく靴を黒色にするように言われ、またイジメっ子のバリーイアン・ケニー)に目をつけられますが、他方で、校門のすぐ前のアパートに住むラフィーナルーシー・ボイントン)の美しさに目を奪われます。友人になったダーレンベン・キャロラン)が「彼女は誰ともしゃべらない」と言うのを無視して彼女に近づくと、コナーは「僕のバンドに出ないか?MVを作るんだ」と誘いの言葉をかけます。彼女が「バンドに入ってるのなら、歌ってみせて」と言うものですから、コナーはA-haの「Take on Me」を少しだけ歌います(注7)。



 こうしてコナーはバンド「シング・ストリート」を結成することになるのですが、さあどうなることでしょう、………?



 本作の舞台は、1985年のダブリン。高校生の主人公が、転校した学校が荒みきっていることに唖然としながらも、好きな女の子の関心を引こうと始めたバンド演奏の腕を上げていく様子が描かれた音楽映画。ストーリー自体は単純でありきたりの感じながら、舞台がアイルランドという点、それに本作で演奏される80年代ロックがどれもなかなか優れている点などから、大層楽しんで見ることが出来ました。

(2)本作は、ちょうど前回取り上げた『ブルックリン』と同様に、アイルランドを巡るお話です。
 『ブルックリン』の舞台は1950年代であり、本作はそれよりも30年ほど経過しています。とはいえ、依然としてアイルランドの経済は厳しい状況であり(注8)、同じように故郷のアイルランドを離れる物語になっています。

 ただ、『ブルックリン』の主人公・エイリシュシアーシャ・ローナン)が20歳を超える大人の女性なのに対し、本作のコナーは15歳の少年に過ぎませんから、映画の雰囲気もずっと若やいでいます。

 それに、同じようにカトリック系の人物が登場しますが、その働きは正反対です。
 『ブルックリン』に登場するフラッド神父は、主人公のエイリシュをどこまでも暖かく見守ってくれます。他方、本作のバクスター校長は聖職者であると思われるものの、校則に酷く厳しく、新しく入ってきたコナーに何かと辛く当たります(注9)。

 また、『ブルックリン』では、実に穏やかで美しいアイルランドの海が映し出されています。これに対し、本作のラストでコナーとラフィーネが立ち向かう海は、大層波が荒く、彼らのこれから先を暗示しているかのようです(注10)。

 さらに言えば、『ブルックリン』に登場するエイリシュの服装は、アメリカに入国するまでは、実に地味で目立たないものでした。反対に、本作のコナーは、ロックスターに憧れていますから、デュラン・デュランを意識した服装とか、ザ・キュアーのロバート・スミス似の格好をしたりします(注11)。

 とはいえ、本作はなんといっても音楽映画。デュラン・デュランを始めとする80年代のロック音楽が次々と流れますし、「シング・ストリート」の演奏もなかなかいい線いっています(注12)。
 そうした音楽に身を委ねられれば、本作を随分と愉しめるものと思います。

(3)渡まち子氏は、「気のいいバンド仲間、実はいいヤツだったいじめっ子、抑圧的な学校への鮮やかな抵抗など、すべてが魅力的。もちろん、ダブリンの田舎に住む若者が大都会ロンドンに単純にあこがれても、そこには挫折や哀切が待っている。それでも私たちは“海を渡る”コナーたちを応援せずにはいられない」として80点をつけています。
 藤原帰一氏は、「映画の展開する80年代のアイルランドは、既にかつての貧しさからは脱却していますが、まだまだロンドンが夢の都だった時代。そこからさらに30年が過ぎ、イギリス人がアイルランドのパスポートを求める時代になった。アイルランドの過去といまを考えさせられました」と述べています。
 森直人氏は、「固有性を丁寧に突き詰めると、ひとつの普遍性に到達する。そんな定理を示す見本のような傑作だ。1980年代半ば、ダブリンでの青春模様を描くものだが、日本でも場所や世代を超えて「これは自分の物語だ」と深く感じ入る観客が多く生まれるに違いない」と述べています。



(注1)監督‥脚本は、『はじまりのうた』のジョン・カーニー
 原題は「Sing Street」。

 なお、出演者の内、エイダン・ギレンは『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』で見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の「Song List」によれば、ジョン・カーニー監督が作曲した「Mechanic of Your Heart」。

(注3)シング・ストリート高校(Synge Street CBS)は、アイルランドのダブリンに実在する高校で(詳しくは、こちらの記事)、クリスチャン・ブラザーズが運営するカトリック系の学校。学校の校訓は「雄々しくあれ」〔"Viriliter Age"(英語で "Act Manly") 〕。ちなみに、ジョン・カーニー監督もこの学校の出身とのこと。

(注4)校長が注意したにもかかわらず、コナーが茶色の靴を履いて登校すると、校長は再度コナーを呼び出して注意します。それに対し、コナーが「家には新しい靴を買う余裕がない」と言うと、校長は、「学校の中では靴を脱いでそこに置いておき、下校時に取りに来ればいい」と命じます。仕方なく、コナーは靴下のままで校内を歩くことになります。

(注5)例えばこのサイトで聴くことが出来ます。

(注6)このサイトでは、ベースのみを聴くことが出来ます。

(注7)このサイトで聴くことが出来ます。

(注8)本作の最初の方で、「アイルランドから海を渡る若者が急増した」と解説され、現に、コナーの父親は失業中ですし、母親の収入も少なそうです(劇場用パンフレット掲載の山下理恵子氏のエッセイ「Happy/Sadな1980年代アイルランド」によれば、「失業率は20%近く、経済成長率はほぼゼロ。それが1980年代のアイルランドだった」)。

(注9)バクスター校長は、ある意味で、『ブルックリン』に登場する食料店のケリーに相当するのかもしれません。
 それで、学園祭でのギグで、コナーたちは校長らを痛烈に批判する「Brown Shoes」を演奏しまくります(劇場用パンフレット掲載の歌詞によれば、「俺に命令するお前は誰だ? 黄色い靴は禁止なんて 俺の化粧を落とす権利あるのかよ ………」)。
 なお、歌詞中の「化粧」については、コナーが、デヴィッド・ボウイ風に髪を染めて顔に化粧をして登校したところ、校長に捕まって、無理やりトイレで化粧を落とされてしまうのです。

(注10)両作は同じように、愛する人と一緒にこれからやっていこうというところで終わりますが、15歳のコナーと16歳のラフィーヌという本作の組み合わせの方が、10歳くらい年上の大人のエイリシュとトニーという『ブルックリン』の組み合わせよりもずっと大変でしょう。ただ、コナーには「シング・ストリート」で作成したMVがありますから、もしかしたら何とかなるかもしれません。
 なお、ダブリンのダン・レアリーから対岸のウエールズのホーリーヘッドまで125km(フェリーで約3時間)とのことで、2人が乗っている小さな船で果たして大丈夫なのでしょうか?
 それに、ツマラナイことですが、2人はパスポートを持っているのでしょうか?

(注11)本作のファッションについては、劇場用パンフレット掲載の「ミュージシャンがお手本、80‘sファッション」において、清藤秀人氏が懇切に解説しています。

(注12)上記「注2」でも触れましたが、劇場用パンフレット掲載の「Song List」では、本作に流れるすべての曲について大層丁寧な解説が行われています。
 なお、このサイトこのサイトで、映画で描かれているMV撮影風景を見ることが出来ます。





★★★★☆☆



象のロケット:シング・ストリート

ブルックリン

2016年07月19日 | 洋画(16年)
 『ブルックリン』を新宿の角川シネマで見ました。

(1)アカデミー賞作品賞にノミネートされた作品(注1)ということで映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、1950年代前半のアイルランドのとある街。朝のまだ暗い内。
 主人公のエイリシュシアーシャ・ローナン)が家のドアを開けて、街路に降り立って出かけていく姿が映し出されます。
 次いで、教会の場面。神父が祈りを捧げていますが、列席しているエイリシュはあくびをしています。

 それから、エイリシュが働く食料品店。
 エイリシュが、店主のケリーブリッド・ブレナン)に、「あとでお話が」と言うと、ケリーは「面倒な話なら聞きたくない」と応じます。
 暫くの間、エイリシュは食料品を求める買い物客の対応に追われます。ケリーは、身なりの良い婦人に対しては、列の順番を無視してエイリシュに対応させますし、場違いの商品を求める客に対しては、辛辣な嫌味を言ったりします。

 店に客がいなくなってから、ケリーはエイリシュの話を聞こうとします。
 それで、エイリシュは「私はアメリカに行きます」と告げます。
 ケリーが「誰の思いつきなの?」と尋ねると、エイリシュは「ニューヨークにいるフラッド神父。姉のローズが連絡をとってくれた。神父は仕事を見つけてくれたし、ビザもとってくれた」と答えます。
 すると、ケリーが「もうこの店に来なくてもいい」と言うので、エイリシュが「出発まで間があるので働けますが」と答えると、それには取り合わずケリーは、「ローズが可哀想。残りの人生は、お母さんの面倒を見なくてはいけないでしょうから」と言います。

 次いで、エイリシュの家の場面。
 母親・メアリジェーン・ブレナン)と姉のローズフィオーナ・グラスコット)とエイリシュの3人で食事をしています。
 エイリシュが「姉さんも一緒だと良かったのに」と言ったり、母親が「ここより厳しい気候だそうよ」と注意すると、ローズが「服を買えばいい」とアドバイスしたりします(注3)。

 それで、エイリッシュは単身アメリカに向かいますが、さあアメリカではどんな生活が彼女に待ち構えているのでしょうか、………?

 本作では、1950年代にアイルランドからニューヨークにやって来た若い女性を巡る物語が描かれています。故郷から遠くはなれたところで働く主人公の戸惑い、次第にニューヨークに慣れていって恋人と付き合うようになったこと、そして事件が起きて主人公は試練の場に立たされる、といったことが実に瑞々しいタッチでスクリーンに描き出されます。なんだか他に見たことがあるようなといった感じにもなりますが、こうした純粋で繊細なラブ・ストーリー物も味わい深いなと思いました。

(2)アメリカのアイルランド人移民について描いた作品としては、最近では『ブラック・スキャンダル』があるとはいえ、同作の舞台はボストンですし、何よりもマフィア物ですから、静謐な雰囲気の本作とはまるで異なっています。

 本作で印象に残った点について2つほど挙げてみましょう。
 まず、エイリッシュが船を降り立ってアメリカに入国する本作の場面から、『エヴァの告白』を思い出しました。
 同作の時代設定は1921年で、本作とは30年ほど違っていますし、ポーランドからやってきた主人公のエヴァマリオン・コティヤール)は、出迎えの叔母夫婦が姿を見せなかったために入国を拒否されてしまうのです。また、一緒に来た妹も、結核が疑われて隔離病棟で治療を受けることになります。
 これに対し本作では、船で同室の女性が、エイリシュにいろいろと入管についてアドバイスをしてくれます(注4)。そのおかげで、エイリシュは、入管の係官から「ようこそアメリカへ」と言われて、入国OKのスタンプを押してもらいます(注5)。

 このように、『エヴァの告白』と違い、エイリシュの入国自体はスムースでした。
 さらに、『エヴァの告白』の主人公は、アメリカでの就職先が決まっていたわけではなく、窮地を救ってくれた男(ホアキン・フェニックス)に従って売春行為をすることになりますが、本作のエイリシュは、身元引受人のフラッド神父(ジム・ブロードベント)が、高級デパートでの売り子の職を用意してくれていますから、状況は遥かに恵まれています。
 にもかかわらず、エイリシュはお定まりのコースをたどることになります(注6)。

 もう一点は、姉ローズの急死の報を受けて、故郷のアイルランドに戻った時のエイリシュの心境の変化が巧み描き出されていることです。
 イタリア系のトニーエモリー・コーエン)と親しくなって、アイルランドに行く直前に役所に婚姻届を出し、トニーには「1ヶ月で戻ってくる」と約束していたにもかかわらず、あんなにもよそよそしかった故郷の人々が(注7)、実に優しくエイリシュを受け入れてくれるために、エイリシュの心も変化してしまうのです(注8)。
 陰で母親のメアリの図らいがあるとはいえ、エイリシュは、ジムドーナル・グリーソン)のことを意識し出すようになります。そして、エイリシュがジムや、友達のナンシーエイリーン・オイギンス)、その婚約者ジョージピーター・カンピオン)と一緒に行ったアイルランドの海の静かで綺麗なこと(注9)、さらには、ジムの家での実に家族的なもてなし。この辺りが上手く描かれているので、エイリシュの気持ちの変化を見ている者も理解できるように思います。



 それで、エイリシュは、このままジムと一緒になって母親のもとで暮らそうかと思うものの(注10)、あと一歩のところで故郷の厳しい現実を知らされて(注11)、やはりトニーの待つアメリカに戻るのでした(注12)。

 本作の成功は、監督をはじめとするスタッフの丹念な仕事ぶりにもよるのでしょうが、なんといっても、エイリシュ役にシアーシャ・ローナンを起用したことが大きいように思います。地味で派手さはないながらも内に強い意志力を秘めた美しい女性で、本作の主人公にまさにピッタリの感じがします。

(3)渡まち子氏は、「この映画の個性は、50年代という保守的な時代を背景にしながら、ヒロインに選択権があるということなのだ。実際、エイリッシュがどちらの国、どちらの恋を選ぶのかは、サスペンスのようなドキドキ感がある。だからこそ、彼女自身が強い意志で選択する未来に、大きな希望を感じるのだ」として80点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「第2次大戦後の好況が続く1950年代アメリカ、ニューヨーク市ブルックリンへ職を求めて移民したアイルランド人女性が、努力と決断を重ねて成長する様子を語ってすがすがしい」として★5つ(今年有数の傑作)をつけています。
 藤原帰一氏は、「これはもう、限りなく美しく、限りなく甘い映画です。お話そのものが古めかしいほど甘美なメロドラマですが」、「現代政治とか芸術とかどうでもいいから、2時間の幸せに浸りたいと思う方にお勧めしたい作品です」と述べています。
 金原由佳氏は、「誰しもエイリシュと同じ道を通ってアメリカ人になってきた。故郷を後にした人たちの痛みを想起させる深さがあるから、単なる恋愛劇だと見逃すにはもったいない」と述べています。



(注1)これで本年のアカデミー賞作品賞にノミネートされた作品は全て見たことになりますが(『スポットライト 世紀のスクープ』、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』、『ブリッジ・オブ・スパイ』、『マッドマックス―怒りのデス・ロード』、『オデッセイ』、『レヴェナント 蘇えりし者』、『ルーム』、そして本作)、クマネズミとしては中では『レヴェナント』が一番優れていたように思います。

(注2)監督はジョン・クローリー、脚色はニック・ホーンビィ(『わたしに会うまでの1600キロ』の脚本を書いています)。
 原作は、コルム・トービン著『ブルックリン』(栩木伸明訳、白水社)。

 なお、出演者の内、最近では、シアーシャ・ローナンは『グランド・ブダペスト・ホテル』(ゼロと結婚するアガサ役)、ドーナル・グリーソンは『レヴェナント 蘇えりし者』、ジム・ブロードベントは『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』、ジュリー・ウォルターズは『ワンチャンス』で、それぞれ見ました。

(注3)話の中でローズは、ケリーのことを「恐ろしい魔女」と言ったりします。

(注4)例えば、エイリシュの服装を見て、それでは売春婦に間違われるからもっと明るい格好にしなさいと言って、鞄の中から花柄のドレスを選んでくれます。また、子供っぽく見えないようにと、口紅を塗りマスカラやアイラインをするように言います。さらには、咳は絶対にしないように、そして緊張し過ぎはダメ、アメリカ人のように考えなさい、などと忠告してくれます。

(注5)本文に書いた事情でアイルランドからアメリカに戻る船の中で、今度はエイリシュが同船した女性に対し、「船酔しないように、食事をとらない方がいい」とか、「アメリカ人のように振る舞って」などとアドバイスします。

(注6)例えば、デパートの売り場の上司は、エイリシュの接客態度を見て、「もう少しお客と話しなさい」、「また来てもらうために、お友達のように振る舞いなさい」などと厳しく指導します。



 また、ランチに入ったレストランで、ウエイターから「可愛いい訛りだね」と言われてしまいます。さらには、キーオ夫人(ジュリー・ウォルターズ)の寮でエイリシュは暮らしますが、同じ寮に住むアイルランド出身の女性からも、何かと嫌味を言われます。
 そんなこんなで、エイリシュはホームシックにかかってしまいます。
 ただその時は、フラッド神父が実に適切な手を打ってくれます。例えば、「あなたは優秀なのに、仕事がそれに向いてなかった」として、ブルックリン大学で会計士コースを受講することを勧めます。エイリシュも、姉のローズと同じようになるんだと、前向きに取り組むようになります。

(注7)例えば、出発する前に、友人のナンシーと一緒にダンスパーティーに出席したところ、ナンシーはジョージに誘われてダンスをしますが、エイリシュを誘う男性は現れず、彼女は独りで会場を後にします。

(注8)例えば、トニーは何度もエイリシュに手紙を書くのですが、エイリシュはろくに読みもせず、いざ手紙を書く段になると、「知らせたいことが何もない……」などと言い出しますし、ナンシーのジョージとの結婚式がアメリカに戻る予定の日よりも後だったにもかかわらず、結婚式に出るためにその予定の日を遅らせてしまいます。

(注9)トニーらと一緒に行ったコニーアイランドの騒がしさとは対照的です。

(注10)その方が、裕福で安定した生活が望めることと思われます。なにしろ、エイリシュのアメリカでの結婚相手のトニーは配管工に過ぎず、その家庭は貧しく、兄弟が沢山いるのですから(ただ、一番下のフランキーが随分とオチャメに描かれています)。

(注11)食料品店のケリーがエイリシュを呼び出し、「私のことは騙せない、もしかしたら名前が変わっているんじゃないの、イタリア人の名に」と言われてしまいます。彼女の元には、エイリシュが役所に婚姻届を出していることを知らせる知人からの手紙が届いていたのです。
 ですがエイリシュは、ケリーに抑え込まれる寸前に立ち直って、「この街がどんなものなのか忘れていた。あなたは私をどうしようと言うの?ジムから離れさせたいの?アメリカに戻るのを止めさせたいの?」とケリーに言い、「私の名前は、エイリシュ・フィオレロ」と宣言します(エイリシュの元の名前はエイリシュ・レイシー。トニーの名前はトニー・フィオレロ)。

(注12)トニーとエイリシュの今後の生活は、決して恵まれたものではないかもしれません。ただ、ロングアイランドの草原を見ながらトニーが、「ここに家を5軒建てる。3軒は売るが、1軒は両親に」とか、「ここに兄弟で会社を作るんだ」とエイリシュに言いますが、その後のロングアイランドの繁栄ぶりを見ると、トニーの先を見る目は優れているように思えます。そんなところからすると、エイリシュの選択はあながち間違っていたとも思えないところです。





★★★★☆☆



象のロケット:ブルックリン

セトウツミ

2016年07月16日 | 邦画(16年)
セトウツミ』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)評判の若手俳優の2人が出演する作品というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、運河を走る船から見られる景色が次々と映し出された後(注2)、暗転して、整備された河川敷に設けられている横に長い階段に学ランを着た高校2年生の2人が座っています(注3)。
 そして、「第1話 セトとウツミ」の字幕。

 2人のうちの一人、瀬戸菅田将暉)が「明日からのテスト嫌やな」と言うと、もう一人の内海池松壮亮)が「暑いな、5月やのに」と応じます。
 以下二人の会話。

 瀬戸「このポテト、長ない?」、「こんなジャガイモあるか!」。
 内海「あるやろ、別に」。
 瀬戸「暑いな」。
 内海「もうすぐ塾行かな。お前はええな、大学行けへんのやろ。行かれへんのか?」。
 瀬戸「お前は人を見下してる。全員アホに見えてんのやろ」、「この間も鳴山に言われたろ」。

 鳴山成田瑛基)が、内海に「お前の顔付きが嫌や」と言う場面が挿入されます。



 瀬戸「顔に出ている。人を小馬鹿にしてる」、「笑ってる」。
 内海「元々こんな顔や」。
 瀬戸「神妙な面持ちをしてみろ」。
 内海は、神妙な顔をします。
 瀬戸「笑ってる!」
 今度は内海が瀬戸に要求しますが、どっちもどっち。
 瀬戸「俺が深刻な話をするから、神妙になれや」。
 内海「ええよ」。
 瀬戸「ウチで買っている猫のミーニャンの具合が悪くなって、医者に聞いたら、余命わずかだから好きなモノ食べさせてと言われた。それでオカンがいいモノ食わせたら、2年以上生きてる。これがキッカケで、ウチの親、今度離婚する」。
 内海の顔を見て、瀬戸が「さっきよりニヤけてる」。

 こんな調子で2人の会話は続いていきますが、さあどうなるのでしょう、………?

 本作は、同名の漫画を実写化した作品。瀬戸と内海という2人の高校生が、放課後の暇な時間にいつもの場所でいつものようにダベ゙っている姿を映し出している75分の映画。構成する8話それぞれはゆるくストーリがあり、全体としてもなんとなく物語があるように思えますが、印象に残るのは何しろ二人の他愛のない関西弁の喋り。それだけながら、何とも言えない味わいが醸し出されており、さらには人間のリアルな一面が鋭くえぐり取られているようにも思えてくるのですから不思議な作品です。

(2)映画を見終わって、この映画と原作はどんなふうに違っているのか興味が湧いてきました。というよりも、こんなことを描いているマンガが本当に存在するのか、少々疑問に思えたところです。それで、とりあえず第1巻を購入して読んでみました。

 すると、驚いたことに、映画は原作のマンガそっくりなのです!まるで映画の絵コンテを見ているような感じでした(もちろん、絵の出来上がり具合は、殴り書きの絵コンテとは比べ物になりませんが)。特に、描かれている大部分が、階段に座って2人が喋っている姿であり、動きが極端に少ないために、本作と原作マンガの類似性が高まるように感じられます。



 と言っても、当然のことながら、ソコソコ異なってはいます。
 例えば、冒頭の瀬戸の台詞「明日からのテスト嫌やな」に対する内海の台詞ですが、本作では、上記(1)に書いたように「暑いな、5月やのに」とされているのに対し、マンガでは「暑いしなぁ」となっていて、瀬戸の台詞に対する関連付けがはっきりしています。
 他方、第1話のラストでは、父親に会った鳴山が「父さん、今までありがとう」と言うのですが、それを見ている内海の顔付きを見て、本作の瀬戸は「メチャ神妙な面持ちやで」と内海に向かって言い、内海も瀬戸に「おまえもな」と言い返しますが、マンガではそうした2人の台詞は書き込まれておりません。
 それに、本作では、上記(1)で書いたように、内海に「お前の顔付きが嫌や」と鳴山が言う場面がきちんと回想風に挿入されますが、マンガでそれに対応するのはほんの1コマに過ぎません。

 これらは、映画とマンガの作り方の違いから来ているものでしょう(注4)。
 さらに言えば、マンガの一つ一つのコマ割りと、映画で対応するそれぞれのショットも、細かく見ていくと違っているものと思います。
 それに、マンガが基本的にモノクロなのに対し本作はカラーですし、また2人が座る階段の後ろは車の行き交う道路であり、本作ではそうした車の音などもふんだんに取り入れられています(注5)。

 こうしたことから、マンガはマンガであり、映画は映画だな、と今更ながら気が付くこととなり、その点からも、本作を見たのは意味あることだったなと思っています。

 つまらない問題点を挙げてみましょう。
 本作の大部分は階段に座った2人の会話とはいえ、その2人以外の登場人物がいないわけではありません。
 例えば、上記(1)にも登場する先輩の鳴山です。また、徘徊老人となっている瀬戸の祖父(牧口元美)も現れます。
 ですが、一番に挙げるべきは、お寺の住職の娘の樫村一期中条あやみ)でしょう。なにしろ、彼女は内海を憎からず思っているものの、内海は無視し続け、逆に瀬戸が恋しているのに彼女は瀬戸を無視するのですから。
 こうした人達によって、本作にいろいろな綾がつけられもします。
 ただ、ピエロの格好をしたバルーンアーティストのバルーンさん(宇野祥平)については(注6)、本作で流れる音楽がタンゴという点(注7)と合わさって、映画を見ている者に、“人生哀歌だな”といった箸にも棒にもかからないつまらない想いを引き起こしかねず、目くじらを立てるほどのことはありませんが、なくもがなと思えてしまいます。

 それと、瀬戸と内海を演じる菅田将暉と池松壮亮ですが、この2人に優る若手俳優は見当たらず、まして本作において2人とも素晴らしい演技を披露しているので問題はないとはいえ、23歳の菅田と26歳の池松では(特に池松の場合)、いくらなんでも高校生というのは無理筋ではないかと思えるところです(注8)。

(3)渡まち子氏は、「大きな事件は起こらない。激しいケンカなどのアクションもなければ、障害を乗り越える情熱的な恋愛もない。そんなユルい物語がめっぽう面白いのだから、映画というのは見てみないとわからないのだ」として80点をつけています。
 山根貞男氏は、「全体が75分。シンプルな設定のもと、17歳の青春をめぐる状況が、ユーモラスに切実に描き出されるのである。こんな青春映画はめったになかろう」と述べています。



(注1)監督は、『まほろ駅前狂騒曲』や『さよなら渓谷』などの大森立嗣
 原作は、此元和津也氏のマンガ『セトウツミ』(秋田書店)。

 なお、出演者の内、最近では、池松壮亮は『無伴奏』、菅田将暉は『二重生活』で、それぞれ見ました。

(注2)このサイトの記事によれば、堺を巡る観光船「観濠クルーズ」での景色とのこと。東京暮らしのクマネズミは、最初のうちは、お台場周辺のウォーターフロントの景色ではないかと思ってしまいました。

(注3)上記「注3」の記事によれば、大阪府堺市の「ザビエル公園」前の「内川」とのこと。

(注4)本作の第1話のラストですが、それに対応する原作マンガの場面では、2人の神妙な顔が大きく描かれているだけです。とはいえ、その前に2度ほど描かれている“神妙な面持ち”にうまく関連付けられて描かれているため、特段の説明抜きで十分に意味を持ってきます。
 他方、映画で“神妙な面持ち”の呼応関係を維持するのは、出来なくはないでしょうが難しいように思えます。それで、説明する台詞を入れたのだと想像されます。

(注5)原作マンガの冒頭の「マジ雲は必ず雨」では、瀬戸が何か喋ると、オートバイの騒音「ブオオオオオ」が重なって聞こえなかった内海が、「えっ」と聞き返します。それで、瀬戸が「こないだ親知らず抜いた」ともう一度言うと、内海は「二度聞き史上、一番しょうもなかったわ」と応じます。

(注6)バルーンさんは、映画では第6話の「出会いと別れ」に登場しますが、原作マンガでは第1話「ムカーとスッキリ」から登場しています(なお、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事によれば、宇野は「大森監督から「ベラルーシ人として演ってくれ」と言われました」と述べています)。



(注7)この記事によれば、大森監督は、「音楽って、映画の様相を変えちゃうくらい強いものなので、明るいけれど、少しだけ憂いみたいなものが出るといいなと思っていたら、なんとなくタンゴが浮かんだ」と語っています。

(注8)20歳前の俳優が瀬戸と内海役を演ってみたらどんな感じになるのか興味深いとはいえ(ちなみに、樫村役の中条あやみは19歳です!)、そのような作品に一般人がアクセスするのは難しいことでしょう(制作されたとしても、期間限定の深夜興行になるのがせいぜいでしょうから)。



★★★★☆☆



マネーモンスター

2016年07月14日 | 洋画(16年)
 『マネーモンスター』をTOHOシネマズ六本木で見ました。

(1)ジョディ・フォスターの監督作品と聞いて、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の始めの方では、「今日もファイバーの間を飛び回っている。儲けたければ人より早く飛び回ることだ」、「アイビス株が大幅に下落した。アルゴリズムによる株取引にバグがあったからだ」、「私の言葉に従っていれば、大きく儲けることができる」、「アイビスは値を戻す。だから買うんだ」などと、TV番組「マネーモンスター」の司会者のリージョージ・クルーニー)がしゃべっています。



 アイビス株の暴落について説明すべく、同社のCEOのキャンビードミニク・ウェスト)が番組に出演する予定でしたが、ジュネーヴに出張することになり、急遽、同社のCCO(最高コミュニケーション責任者)のレスターカトリーナ・バルフ)に差し替えられます。

 番組のプロデューサー兼ディレクターのパティジュリア・ロバーツ)は、「毎回、即興でしゃべるのは止めて。オープニングは台本通りで」とリーに指示します。



 リーは、イアホンを耳に入れながら、「夕食はテイクアウト?俺は90年代から独り夕食はしていない」などと無駄口をたたいていると、パティが「いくわよ!冒頭はカメラ3から」と声をかけます。

 次の画面では、男(カイルジャック・オコンネル)が車から荷物をおろして、ビルに入っていきます。入口のガードマンは「新人かい?」と言うだけで、何のチェックもせずに簡単に通してしまいます。

 始まった番組では、リーが「アイビスは今日も下げ。でも、パニクるのは止そう」と言い、「キャンビーの右腕のレスターだ」と言ってレスターを視聴者に紹介します。
 その時、スタジオのコントロール室でスタジオの画面を見ていたパティが、スタジオのスクリーンの後ろに異様な男が入り込んでくるのを見ます。

 その男はピストルを取り出して「動くな。映像は切るな」というものですから、番組関係者は凍りつきます。さあ、一体どうなるのでしょうか、………?



 本作は、財テク情報を扱う「マネーモンスター」という番組を生放送で制作しているスタジオに暴漢が押し入り、主人公の司会者を拳銃と爆弾で脅すところ、敏腕の女性プロデューサーらがこの窮地を如何に解決するのか、というのが見どころの作品。監督のジョディ・フォスター、司会者役のジョージ・クルーニー、プロデューサー役のジュリア・ロバーツのトライアングルが上手く機能して、よくわからない点はあるものの、まずまず面白く見ることが出来ました。

(2)生放送のTV番組の司会者と女性プロデューサーとを描いているという点で、本作は、『恋とニュースのつくり方』(2011年)を思い出させます(注2)。
 同作は、視聴率が下がり気味の早朝情報番組を担当することになった女性プロデューサー(レイチェル・アダムス)が、新しい企画を次々に打ち出しテコ入れを図って視聴率をアップさせ、それとともに、関係がギクシャクしていた番組の2人のキャスター(ハリソン・フォードダイアン・キートン)の仲も改善する、といった内容です。

 翻って本作を見ると、「マネーモンスター」のリーは、同作のハリソン・フォード扮するマイクが堅物なのとは大違いで、映画の始めから手八丁口八丁のくだけた司会ぶりです。なにしろ、歌を歌ったり踊ったりするばかりか、台本にないことをどんどんしゃべるので、プロデューサーのパティからたしなめられるほどです。
 そのパティも、同作の若さ溢れるベッキー(レイチェル・アダムス)とは違って、キャリアを十分積んできて、自分をモット生かせる職場に移りたいと考えているのです。

 そんなところに事件が勃発するのですが、リーが持ち前の口八丁手八丁を活かして、警察側の準備が整うまで時間を引き延ばそうとたり、またパティも冷静沈着にスタッフに的確な指示を与えたりすることによって、なんとか事件の解決が図られるわけで、物語全体が99分という短い時間枠の中で実に手際よく描き出されているなと思いました。
 脚本等が貢献しているはずですが、監督のジョディ・フォスターの手腕によるところも大きいのではと思います(注3)。

 ただ、よくわからないところもあります。

 例えば、スタジオを占拠したカイルは「全財産の6万ドルをアイビス株の暴落で失ってしまった」と言うのですが、まさかアイビス株の株価がゼロになってしまったわけではないと思われます(注4)。
 それに、いくら暴落したと言っても、一瞬間で株価が下がるわけではなく時間がかかっているはずですから、その間にカイルは持ち株を売却して損失額を減らすことも出来たように思われます。
 また、リーが試みたように、もしかしたらその株価が値上がりしないとも限らないのです(注5)。
 モット言えば、株というものは債券と違って元本保証はされないものなのですから(注6)、いくら暴落したからといって、カイルのような暴挙に出るのはお門違いもいいところです。
 無論、その暴落が不正によって引き起こされたものであれば話は別ながら、カイルはそうした情報を何か持っていたのでしょうか?スタジオでの話しぶりからすると、突然の暴落に怒っているだけとしか見えませんでしたが。

 また、カイルは、リーが「君の損失分6万ドルは俺が補償しよう」と持ち出すと、「今回の株の暴落によって全投資家が受けた損失8億ドルを用意しろ」と要求しますが、この8億ドルとはいったい何なのでしょう?
 何らかの事情(アイビス社の倒産など)によってアイビス株が暴落して、その暴落幅が大きかったので8億ドルもの損失が発生したというだけであれば、わからないこともありません(注7)。
 ところが、劇場用パンフレット掲載の「素朴な疑問Q&A」の「Q 結局キャンビーは何をしたのか?」では、「キャンビーは、自社のアルゴリズムのプログラムに何らかの手を入れ、同社の株価の総資産から8億ドル分を抜き去り、その金を南アフリカのプラチナ鉱山を運営する会社の株に投資した。しかし、それは失敗し同社の株は暴落してしまった」と述べられています。

 これは何を意味しているのでしょうか?
・「同社の株価の総資産から8億ドル分を抜き去り」とは、アイビス社が所有する株を売却して8億ドルの現金をキャンビーが手にしたということでしょうか?
・「それは失敗し」というのは、南アフリカのプラチナ鉱山でストライキが行われたために、それを運営する会社の株が暴落したということでしょうか?そして、キャンビーは、その株を下落前に(ストライキ前に)購入したために、株暴落の影響をまともに受け、投資額の8億ドルを失ってしまったということなのでしょうか(注8)?
・「同社の株は暴落してしまった」というのは、キャンビーによるプラチナ鉱山投資が失敗したことがアメリカの市場でわかり、それでアイビス株が暴落したということでしょうか?
でも、そんなことが既にわかっているのであれば、「プログラムのバグによるものだ」というアイビス社の説明は何のためになされたのでしょう?カイルは何のためにTVスタジオを占拠したのでしょう(株価暴落の真相を聞き出すために占拠したのではなかったでしょうか)?
 元々これらことは、本作のラストの方で、カイルやリーに強いられてキャンビーが告白したことによって初めて分かったことではないでしょうか?アイビス株が上場されているアメリカの株式市場は、どうして前もって知りうるのでしょうか?

 要するに、本作では、キャンビーが8億ドルの投資に失敗したら、アイビス社の株価が8億ドル相当分下落したとされていますが、その点がよくわからないということです。

 これらの点は、クマネズミが株式市場の実際を知らないことからくる疑問にすぎないのでしょうが、どうもよくわかりません。
 とはいえ、本作の本筋からしたら、こんな疑問など2次的な事柄にすぎないのでしょう(注9)。

(3)渡まち子氏は、「ジョディ監督の演出は実にクレバーだ。軽薄だが憎めないリーを好演するジョージ・クルーニー、知的でやり手のプロデューサーを静かに熱演するジュリア・ロバーツの二大スターの華やかさでグッと観客を引き付け、世界中の投資家がかたずをのんで見守る金融サスペンスを分かりやすく活写する手際の良さがいい」として75点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「ここで興味深いのは男女のありようだ。20年前の映画なら、配役も司会者が知的美女、冷静沈着が要求されるディレクターは男性が決まりだろう。ところがここではその逆だが何の違和感もない」、「そんな男女の姿が魅力的で、これこそ聡明(そうめい)な発言と生きざまで知られるジョディならではの作、と思う」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)監督は、俳優のジョディ・フォスター(出演作は『エリジウム』や『おとなのけんか』など)。
 脚本はジム・カウフなど。

 出演者の内、最近では、ジョ―ジ・クルーニーは『ヘイル、シーザー!』、ジュリア・ロバーツは『8月の家族たち』で、それぞれ見ました。

(注2)秋に公開される中井貴一主演の『グッドモーニングショー』でも、予告編からすると、TVキャスター(中井貴一)とたてこもり犯(濱田岳)とのやり取りが描かれるようですが、プロデューサー(時任三郎)やディレクター(池内博之)は男性です。

(注3)劇場用パンフレット掲載の相田冬二氏のエッセイ「人間を断罪も美化もしないジョディの視点」では、本作のすべてがジョディ・フォスターのものであるかのように書かれていますが、果たしてそうなのでしょうか?
 例えば、相田氏は「リーはカイルを説得しようとする。お前の人生と、俺の人生、どっちが最低なんだ?と。このくだりのパネルにおける、きわめてアナログな数字の提示は、ジョディ・フォスターというひとつの人生についての諦念にさえ思える」と述べているところ、このプロットが脚本第階で書き込まれているとしたら、とてもそのように大仰に言うことは出来ないのではないでしょうか?

(注4)劇場用パンフレット掲載の「素朴な疑問Q&A」の「Q カイルはどうして一晩で財産のほとんどを失ったのか?」によれば、カイルは、アイビス株が75ドルの時に6万ドル購入し、それが8ドル40セントに暴落してしまったために財産のほとんどを失ってしまったとのこと。
 これで見ると、カイルは800株を購入していますから、財産は6,720ドルになってしまったことになります。確かに、財産はおよそ10分の1に減ってしまいました。でも、少額にしても日本円で70万円近くは残っているのであり、それを元に株を購入することもできるでしょうし、当面の生活費に当てることもできるでしょう(元々の6万ドルにしても遺産相続によるものであり、棚ボタとみなせるのかもしれませんし)。

(注5)尤も、リーがTV視聴者にアイビス株の購入を要請しても、最初の内は若干の値上がりがあったものの、結局は元の木阿弥になってしまいますが。

(注6)カイルがキャンビーに「お前は法を破った」と言うと、あくまでも「プログラムのバグだ」と言い張るキャンビーは「どの法を?」と聞き返し、それに対してカイルは答えることが出来ません。
 さらにキャンビーは、「お前が我が社にやってきたのは損をしたからだろう。じゃあ、利益を得た時はどうなんだ」とまで言い募ります。

(注7)アイビス株の所有者が、皆カイルと同じように75ドルの時に購入し、8億ドルの損失を被ったというのであれば、約1200万株が様々な株主に所有されていることになるでしょう。
 でも、そんなに皆が同じ時に同じ価格で株を購入したとも思えませんから、一体どのようにして8億ドルという損失額を算定したのか、と疑問に思えてきます。

(注8)映画を見ている時は、キャンビーは、南アフリカのプラチナ鉱山のストライキを指導しているマンボと連絡を取り合っていて、適当なところでストライキを打ち切らせることによって株を値上がりさせて、その差益を確保しようとしていたのでは、とクマネズミは思っていました。
 この見方の場合、ストライキ突入によって値下がりした時にキャンビーは株を安く購入したことになります(映画では、リーがキャンビーに「君が金でストライキをやらせた」と言っています)。
 ですが、映画を見終わってから読んだ劇場用パンフレットの「Q&A」では、キャンビーの購入した株が、ストライキ突入によって値下がりしたために損失を被ったことになっています。この場合には、キャンビーはストライキ突入前に株を購入していたことになります。
実際には、キャンビーの思惑と違ってストライキが長引いてしまったために、どちらでも結果的に同じことになりますが、クマネズミの見方によれば、キャンビーは一種のインサイダー取引(明らかに値が上がることを内部的に知っていて株を購入)によって利益をあげようとしていたことになるでしょう(そして、それは犯罪行為ながらも、もしかしたら成功したかもしれません)。
 なお、ここでも、カイルの場合と同じように、8億ドルをプラチナ鉱山の会社に投資して、その株がストライキによって下落したとしても、8億ドル丸々損をしてしまうことはありえないでしょう。少なくとも、プラチナ鉱山という資産は存在するのですから。

(注9)劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事において、ジョディ・フォスターは、「本当に大事なのは作品のハート。それ以外の要素は単なる添え物なのよ」と語っています。



★★★☆☆☆



象のロケット:マネーモンスター

二重生活

2016年07月12日 | 邦画(16年)
 『二重生活』を渋谷Humaxシネマで見ました。

(1)『太陽』で見た門脇麦の主演作というので、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、ソフィ・カルの『本当の話』から引用された文章が映し出された後、電気のついていない部屋に入ってきた男がコートを脱いで机に向かい、それからパソコンの周辺機器につながっているコードを抜いて、その一方をドアノブに巻きつけ、他方を自分の首にかけ、そしてドスンという音がします。
 そしてドアをノックする音が(注2)。

 次の場面では、ベッドで主人公の(哲学科大学院に通う:門脇麦)と卓也(ゲームデザイナー:菅田将暉)が寝ているところ、目覚ましの音で目を覚ました卓也が、隣で寝ている珠にかぶさっていきます。
 しばらくして、二人は「お早う」といって起き出し、ベランダに出てタバコを吸ったりしますが、ふと下を見ると、珠たちが住むマンションの前に建つ大きな家の家族が、自家用車の置かれている前庭に出ていて、両親が子どもに自転車を教えています。
 夫の石坂史郎長谷川博己)は大手出版会社の部長で、妻・美保子河井青葉)との間に娘がいます。



 哲学科修士論文作成計画を立てて勉強している珠に、卓也が「うまいもの食いに行こうか?7時に待ち合わせで。何がいい?」と尋ねます。珠が「卓也は?」と聞き返すと、卓也は「焼き肉」と答え、珠も「いいね」と応じます。



 マンションの外に出ると、管理人(注3)の治江烏丸せつこ)が、「最近、ゴミの出し方が酷いので、監視カメラをつけた。とにかく、行儀を守って」と言います。適当に相槌を打って、卓也はゴミ置き場にゴミを出して出かけ、珠も大学に向かいます。

 教室では、篠原教授(リリー・フランキー)が、「新しい哲学者が出てきて、新しい流れを生み出した。それは、「存在とは何か」という言葉の定義です」などと話しています。
 授業が終わってから、珠は篠原教授の修士論文のことで相談します。
 珠が、「どうして人間は存在するのか、自分がなぜここにいるかの答えは出なくて、胸の中がもやもやするばかり。それで、100人の街の人にアンケートをとってみようかと」と言うと、教授は、「100人ではなく1人の生活を追いかけ、その行動を見て、人間とは何かを洞察するのはどう?理由なき尾行です。やってみませんか?これまでにない面白い論文になると思うが」と言うので、珠は「少し時間を」と答えてその場を後にします。

 珠は尾行の対象者を向かいの家の石坂と定めて尾行を開始するのですが、さあどうなるのでしょう、………?

 本作は、大学院で勉強する女子の大学院生が主人公。担当の教授の勧めで、自分の家のベランダから向かい側に見える豪壮な家に住む中年男性を尾行し、その行動を詳細にメモ書きし、それを元に修士論文を作成しようとします。映画の視点はなかなか興味深いとはいえ、尾行して覗き見られるのはどこにでも転がっているような二重生活であり、はたしてこんな尾行から意味のある哲学論文が書けるものなのか、酷く疑問に思えてしまいます。

(2)本作については、リリー・フランキーが扮する哲学科教授が大層胡散臭く思えて、クマネズミとしてはまったく乗り切れませんでした。



 といっても、あのような題材で哲学科の教授が大学院生に修士論文の作成を求めることは、常識的には考えられないように思えるからにすぎませんが。
 単なる素人の想像ながら、普通は、哲学科というのは哲学研究科であって、過去の名の通った哲学者が書いた哲学書を巡るテーマ(注4)を教授は学生に与えるのではないか、あのように身近なレベルの題材について哲学的な思索を求めても、一般の大学院生では答えられないのではなかろうか、と思ってしまいます(注5)。
 それに元々、小池真理子の小説では、リリー・フランキーが扮する篠原教授は仏文科に所属しているように思われます(注6)。映画でも、篠原教授はネタ本としてソフィ・カルの『本当の話』を挙げていましたが、日本ではその本は仏文学者(注7)によって翻訳されています。ともかく、クマネズミには、この題材は文学的にすぎるように思えます(注8)。
 加えて、大学の教授が、対象者と決してコンタクトを持つなといくら注意するにしても、そんな危険な行為を自分の学生(特に、女子学生に)に求めることなどは考えられないのではないでしょうか?
 それに、主人公の珠が書いた論文に自分が登場することがわかっているにもかかわらず、篠原教授は自ら珠と面談をするばかりか、自分のことについての誤った記述の訂正までも求めるのです。これでは、自分が敷いたルールを自ら破ってしまっているように思えます。

(3)もちろん、こうしたことは本作にとり2次的・周縁的なことであり(珠が修士論文を書けるかどうかは、本作にとって本質的なことではないでしょうから)、基本的なところが面白ければそれで構わないはずです。
 それに、映画と原作とは別物ですから、何も原作にとらわれて映画化する必要もありません(注9)。
 でも、こうした2次的なことに注意が向いてしまって、石坂の不倫行動や、それを垣間見たことによって珠と卓也との関係がその影響を受けることなども、なんだか常識的な感じがしてしまいました。

 ひょっとしたら、本作は、様々なレベルの二重生活を描くことによって、その普遍性(哲学的な命題!)を見る者に気付かせるといったことを一つの狙いとしているのかもしれません。
 すぐさま分かるのは石坂と珠のそれぞれの二重生活ですが、本作ではさらに篠原教授のそれも描かれているように思われます(注10)。
 でも、そこまでやるのであれば、原作のように卓也についても(注11)、その二重生活ぶりを描き出してみる必要があるのではないでしょうか(注12)?

 それにしても、篠原教授はどうして自殺をするのでしょう?そして、自殺したのだとしたら、ラストシーンでの指の映像は何を意味するのでしょうか(注13)?

(4)渡まち子氏は、「この底の浅い尾行行為に、哲学や文学の意義はまったく感じない。思わせぶりな小道具や場面が伏線として回収されておらず、消化不良に陥る点もモヤモヤが残ってしまう」などとして50点をつけています。
 社会学者の宮台真司氏は、「この映画が描く「尾行が与える体験」というモチーフは、僕たちの大規模定住社会がどういうものなのか、言語的に構成された社会システム(とパーソンシステム)がどういうものなのか、を、かなり的確に描き出してい」て、「その点で『二重生活』は鋭い作品だと言える」ものの、「惜しいのは、「関係の偶発性の海に浮かぶ、<なりすまし>が辛うじて支える奇蹟の島」の演出的な強調が足りないこと」であり、「隣人だけでなく、「誰もが」、<なりすまし>を通じて「書割の中の影絵」として振る舞っていることに、主人公が気付く衝撃。それがもっと描かれていなければな」らず、「主人公に尾行を勧めた指導教授の、母の看取りを巡る<なりすまし>の演出も不完全だと言え」、「僕が脚本を書くなら、これを打開する鍵はリリー・フランキー演じる指導教授にある、と見」る、などと大層興味深い分析を行っています。
 安部偲氏は、「この映画は、そうしたのぞき見的なドキドキ感から始まり、観客を引きつけながらも、次第に嘘や隠し事によって二重生活を送るようになる人間という存在や、あるいは尾行をしたことによってトラブルに巻き込まれながらも、少し成長する主人公の姿を描いた人間ドラマとしての姿を露わにしていく。日常生活とはほんの少し異なる、知的好奇心を刺激する2時間6分となっている」などと述べています。



(注1)監督・脚本は岸善幸
 原作は小池真理子著『二重生活』(角川文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、門脇麦は『太陽』、長谷川博己は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』、菅田将暉は『ピース オブ ケイク』、リリー・フランキーは『海よりもまだ深く』、西田尚美は 『WOOD JOB!(ウッジョブ)~神去なあなあ日常~』、篠原ゆき子は『残穢―住んではいけない部屋―』(久保の隣室に住む家族の妻)、河井青葉は『お盆の弟』、烏丸せつこは『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』で、それぞれ見ました。

 また、小池真理子氏の原作小説を映画化したものとしては『無伴奏』を見ました。

 さらに、哲学に携わる人を描いた作品としては、最近、『教授のおかしな妄想殺人』とか、『森のカフェ』、『ハンナ・アーレント』とかを見ました〔『娚の一生』に登場する主人公(豊川悦司)も哲学の教授ですが、そのことの意味はほとんどありません〕。

(注2)ラストの、珠が篠原教授の部屋のドアを叩こうとする場面に繋がるのでしょう。

(注3)原作では「珠の住むマンションの大家は、春日治江、という名で、古くからこの土地に住んでいる」とされていますが(文庫版P.16)、本作では、治江が石坂のことを「ここらへんの地主さん」と言っているところからしたら、治江はマンションの管理人なのではと思います(その方が、石坂が珠の携帯番号を知るのに都合がいいのかもしれません)。

(注4)例えば、サルトルの『存在と無』に伺える時間の概念を論じた論文について検討する、などといったものではないかと思われます。
 普通は、大学院生レベルになれば、研究する対象はほぼ特定されているのではないでしょうか(例えば、サルトルを研究するなど)?
 ただ、本作の主人公のように、なんとなく大学院生になった感じがする場合には、あるいはそうした研究対象を絞り込めていないかもしれません。尤も、その場合には、本作のような題材を取り扱う能力など到底持ちあわせてはいないように思えます。

(注5)原作では、この題材で、主人公の珠は「報告書」を密かに作成しているにしても、大学に提出する論文などは作成しておりません。原作で珠が石坂の尾行を始めるのは、本作のように教授に明示的に勧められたからではなく、3年ほど前に篠原教授の授業で聞いた「尾行」の話を思い出したところに(文庫版の「序章」)、たまたま駅で石坂を見かけたこと(文庫版P.18)によるものです。本作と違うこういう設定であれば、まだ受け入れ可能ではないかと思います。

(注6)文庫版のP.29では、篠原教授について、「(珠の)大学時代のゼミの教授」であり、「専門はフランス文学だが、絵画や音楽、写真や演劇などにも詳しく、シュールレアリスムと呼ばれる種類のサブカルチャー全般にわたって、独自の見解を示すことを好んだ」と述べられています。

(注7)『本当の話』は、フランス文学者の野崎歓氏が翻訳しています(平凡社刊)。
 Amazonの「商品の説明」によれば、同書には、ソフィ・カルの作品と、哲学者・思想家のボードリヤール氏によるソフィ論が収録されているとのこと。後者を検討するのであればまだしも(といって、ボードリヤール氏は、そのソフィ論を書くにあたって誰かの「尾行」をしたのでしょうか?)、前者によって「尾行」をして、それで哲学的思索を行うというのは、珠のような大学院生にとり大層困難な作業のように思えます。
 ちなみに、ソフィ・カルは、この記事によれば、「現在国際的にもっとも注目されている現代美術作家のひとり」とされているようです。

(注8)原作小説では、「文学的・哲学的尾行」という言葉が頻出しています(文庫版のP.29以外にもP.45とかP.71など)。
 ただ、常識的には、「文学的」というのは“特殊的・具体的”であり、「哲学的」というのは“普遍的・抽象的”でしょう。仮にそうであるとしたら「文学的・哲学的」という形容は矛盾しているように思われるのですが(篠原教授が言うように「100人ではなく1人」について「尾行」をするということは、まさに“特殊的・具体的”であり、したがって「文学的」なことのように思えます)。

(注9)原作と本作とでは、かなり違っている部分があります。例えば、本作では、篠原教授の母親が直腸癌で余命2ヶ月とされ、母親を安心させるべく篠原教授は、劇団の女優の桃子西田尚美)に擬似家族を演じてもらいますが、原作においては、桃子は女優にしても、卓也がアルバイト的に務める専属運転手の雇い主なのです。

 なお、原作においても、教授の身内にスキルス性の胃癌にかかっている者がいるとされていますが、それは教授の妻の弟なのです。さらに、スキルス性胃癌は、珠の別れた彼氏の武田もかかっていたのです(本作では、高2の時に好きだった人が癌で死んだと珠が石坂に話します)!
 こうした原作のプロットは、タイトルの「二重生活」を目立たせるために必要なのかもしれませんが、あまりにもわざとらしさを感じさせます(「スキルス性胃癌」は、登場人物を舞台から消すための都合のいい装置のように思えます)。
 さらに言えば、原作においては、珠が石坂を尾行し出すとともに、卓也の桃子との関係に珠が疑問を抱くように書かれていますが、これもわざとらしい感じがします。
 加えて原作では、石坂の尾行を珠が始めると、すぐに澤村しのぶとの密会の場面(表参道のカフェ)となり、二人の会話の内容が長々と書き込まれています(文庫版P.46~P.57)。確かに、「隣りにいる石坂との距離は、わずか五十センチにも満たない」(P.42)席に珠が座っているのであれば、石坂としのぶの会話を聞き取ることもできるでしょう。でも、尾行の初心者がそんなに大胆な行動をとるとは、常識的には考えられないのではないでしょうか?
 元々、尾行というのは対象者の行動を一定の距離をおいて密かに見守ることであって、盗聴までは求められていないように思われますし、そんな詳細な場面を描きたいのであれば、原作のように珠の視点から小説を書くのではなく、小説の語り手を“神”として、珠についてもその第3者からの視点で描き出せばいいのではと思います。
 もっと言うと、珠が、卓也とその雇い主の桃子との関係を疑ったことに対し、卓也は「そういう話は、桃子さんに失礼だよ」と言って、「桃子さんには恋人がいるんだよ」と打ち明けるのですが、それは小説のラスト寸前になってからというのも(文庫版P.382)、酷くあざとい感じがします(常識的には、自分が珠に疑いの目をもって見られていることに卓也がすぐに気がついて、ずっと早い段階で打ち明けているのではないでしょうか?)。

 原作の小説については、文庫版で400ページ近くの長編でありながらも、総じてご都合主義が目立ち、リアリティに欠ける感じがして仕方がありませんでした。

(注10)本作における篠原教授の二重生活ぶりについては、上記「注9」の冒頭部分に書きました(加えて、本作の桃子も、舞台俳優であるとともに、擬似家族も演じているのですから二重生活をしているといえるでしょう。代行業による擬似家族につては、『リップヴァンウィンクルの花嫁』で2回も描かれていました)。
 さらに、下記「注12」でも触れますが、本作の篠原教授自身が「尾行」という行為に嵌っているのかもしれません。

(注11)卓也と桃子との関係は上記「注9」の中で触れています。
 さらに言えば、石坂の妻の美保子についても、石坂の愛人の澤村しのぶ篠原ゆき子)についても、何かその感じを出す必要があるように思われます(でも、映画作品として収拾がつかなくなってしまうかもしれませんが)。

(注12)ただ、この「二重生活」というのは、人は様々のペルソナを持っていて、場面場面によって使い分けるのだ、というよく知られている考え方と、実際のところどう違うのかよくわからないところです。

(注13)篠原教授は自殺に失敗したのかもしれませんし(しかし、本作の冒頭とラスト近くで自殺シーンを映し出しているにもかかわらず、失敗してしまうとは?)、あるいは「尾行」に執念を抱く篠原教授の亡霊が出現したのかもしれません!でも、どうして自殺など?



★★☆☆☆☆



象のロケット:二重生活

TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ

2016年07月08日 | 邦画(16年)
 『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)宮藤官九郎の監督作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、大助神木隆之介)らがバスで修学旅行をしています。
 大助は、途中でバスの席を友達の松浦に替わってもらって、大好きなひろ美森川葵)の傍に座ることになりますが、なかなかうまく話せません。



 としたら、バスはカーブを曲がりきれずに崖下に転落してしまいます。

 横たわっている大助は、気が付きます。
 すると、そばにいたキラーK長瀬智也)が、「ヘイ、ユー!鬼の立ち位置(注2)で死ぬとはいい度胸だ」と言います。
 大助が「死ぬ?」と聞き返すと、キラーKは「地獄へようこそ!」と言ってから、「俺の右腕はジミヘンの左腕 俺の左腕はカートコバーンの右腕 下半身はマイケルジャクソン 声は 声は 忌野清志郎」(注3)などとロックバンドの演奏に乗って歌い出します。

 あたりには、腹を断ち割られている男とか、熱湯をかけられている男がいたりし、また「Welcome To Hell」の横断幕がかけられたりしています。
 大助は起き上がって、「全然ついていけないけど」、「あの、すいません、全然わかんない」とつぶやいていると、行列の後ろに並ばされます。
 大助の順番が来て、地獄の鬼が「お名前は?」と尋ねますが、大助が「さっき、Hellと歌っていましたね。あんた誰?」と聞き返します。
 それに対して鬼が、「ここは地獄、あんたは関大助。お前はバスで谷底に落ちて死んだんじゃ」と言うものですから、大助は、「落ちてない。落ちたとしても、何で俺だけが地獄?」と尋ねます(注4)。鬼がおかまいなしに「先ずは釜茹で地獄から」と言うものですから、大助は「まだ17歳だし、明日は自由行動だし」などと答えます。

 こうして大助の地獄における姿が描かれていきますが、さあ、彼は現世に蘇ってひろ美に会うことができるのでしょうか、キラーK らとの関係はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、修学旅行の最中に乗っていたバスが崖から転落したために、17歳という若さで死んで地獄に落ちてしまった高校生の主人公が、大好きな同級生とキスもしていないことから、現世になんとか蘇ろうと頑張る姿が、いくつものロックの演奏とともに描き出されます。様々に工夫をこらした地獄のビジュアルとか超ハデハデな地獄のロックバンドに目を楽しませ、大音量で耳にするロックに乗れれば、至極バカバカしいお話にもかかわらず、愉快に見ることが出来るでしょう。

(2)本作のように地獄を描いた作品として、クマネズミは『大木家のたのしい旅行』(本田隆一監督、2011年)を思い出しました。
 同作は、新婚にもかかわらず倦怠期に陥っている夫婦が旅行ツアーで地獄めぐりをするというお話です。
 同作は本作と同じようにコメディーですし、本作に出演している荒川良々を見ることもできます。
 ただ、荒川良々は、本作では仏様を演じているのに対し、同作では、地獄にやってきた新婚の夫婦(竹野内豊水川あさみ)を案内する青鬼の役を演じています。
 また、本作でも血の池は設けられているものの、同作の血の池はなんと温泉で、件の夫婦もそこで湯浴みをします。

 という具合に、かなり両作は異なってもいます。
 中でも一番違っているのは、本作は、ロックがふんだんに流れる音楽映画だという点でしょう。
 なんといっても、TOKIOの長瀬智也がキラーKに扮して、地獄専属のロックバンド「地獄図(ヘルズ)」のボーカル&ギターをやるのですから。
 さらに、同バンドのドラマーのCOZYに扮する桐谷健太やベーシストの邪子を演じる清野菜名も、自身で演奏できるほどの腕前になっているとのことですし、同バンドに後から加わる大助が(注5)、キラーK直々の特訓を受ける場面も映画の中で描かれているのです。



 それに、ジゴロック(注6)におけるChar氏と野村義男氏のギター・バトルも描かれますし(注7)。
 傑作なのは、地獄コードの「H」(注8)。このコードが鳴らされてジゴロックが幕開けとなります。

 それと本作で面白いなと思ったのは、主人公が何度も転生する点です。『大木家のたのしい旅行』の竹野内豊と水川あさみの夫婦は、旅行ということで一時的に地獄を訪れ、終わると現世に戻るにすぎませんが、地獄に落ちた大助らは厳しい試験(注9)に合格しないと現世に戻れないとされているのです(注10)。
 大助は、なんとか頑張って6度転生します。そのうちの5回は畜生道に行き(注11)、6回目で現世に行きますが、……。

 結局、大助は地獄に居心地の良さを見出すことになるところ(注12)、こうなるのも、地獄は現世と余り変わらず(注13)、酷いところがあるにしても程度問題のように思える一方で(何しろ、現世について、住み難い世の中だなという呪詛を抱く人が多いでしょうから←むしろ、現世の方が地獄よりも酷い世界なのかもしれません!)、人間にとって天国を上手く具体的に思い描くことが甚だ難しいためなのかもしれません(注14)!

 とにかくおバカな音楽映画なので、いろいろの突っ込みどころ(注15)は気にしないで、面白い地獄の様相とか体を動かしたくなるロックの演奏を愉しめばいいのではないでしょうか。

(3)渡まち子氏は、「良くも悪くもクドカン・ワールド全開のこの映画、下ネタ含有率高めのノリの良さについていけないと見るのはツラいかもしれないが、原作ものやTVドラマの映画化があふれる中、オリジナル作品であることが何よりも頼もしい」として50点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『中学生円山』や『少年メリケンサック』の宮藤官九郎(『土竜の唄』や『謝罪の王様』などの脚本も)。

 なお、出演者の内、最近では、神木隆之介古舘寛治は『太陽』、尾野真千子は『エヴェレスト 神々の山嶺』、森川葵は『渇き。』、桐谷健太皆川猿時は『バクマン。』、清野菜名は『TOKYO TRIBE』、古田新太は『信長協奏曲』、宮沢りえは『トイレのピエタ』、大助の母親役の坂井真紀は『中学生円山』、荒川良々は『予告犯』、烏丸せつこは『64 ロクヨン 後編』、田口トモロヲは『バンクーバーの朝日』で、それぞれ見ました。
 また、ガマン汁役(!)で中村獅童(最近では『日本で一番悪い奴ら』で見ました)が出演しています。

(注2)その場所は地獄のメインの十字路で、「地獄図(ヘルズ)」のライブが行われるステージが設けられています。

(注3)この歌詞は、本作の主題歌「TOO YOUNG TO DIE!」の日本語バージョンの冒頭部分(このサイトで聴くことが出来ます)。

(注4)大助が地獄に落ちたのは、高校の軽音楽部で「スーサイド(suicide)」という歌を作ったりして、「自殺」のことを言い過ぎたためでしょうか。
 加えて、現世の時、近藤(キラーKの現世での名前)の恋人のなおみ尾野真千子)のことを「死神」とあだ名を付けたりしたからなのかもしれません。

(注5)もう一人「地獄図(ヘルズ)」に後から参加するのが、大助と高校の同級生で、修学旅行の最中に大助に席を替わってくれた松浦(後に古舘寛治)。バスの事故では生き残りますが、大人になってから不倫の罪で地獄に落ちて大助と再会します(地獄での1週間は現世の10年間に相当するので、そういうことになります)。バンドでの担当はキーボード。

(注6)地獄ロックバトルロイヤル。ここで勝つと人間界(現世)に転生できるとされています。それで大助も、キラーKの特訓を受けて挑戦します。

(注7)そして、ジゴロックで「地獄図(ヘルズ)」と対決するのが、ガールズバンドの「デビルハラスメント」で、ボーカル&ギター&ダンスのじゅんこ皆川猿時)、ドラマーの修羅シシド・カフカ)、ベーシストの鬼姫)で構成されています。

(注8)このサイトの記事によれば、「構成音は6弦1フレット、5弦5フレット、3弦8フレット、2弦10フレット、1弦24フレット」とのこと。とても一人では押さえることは出来ません!

(注9)大助が入学する「地獄死立地獄農業高校」の閻魔校長古田新太)が、毎週金曜日に試験を行います。成績によって、行先が閻魔校長によって振り分けられます。例えば、人間道(現世)、畜生道(獣の世界)、地獄道、天童(天国)などに。
 なお、同高校の教師は、牛頭烏丸せつこ)と馬頭田口トモロヲ)。

(注10)試験は7度まで受けることが出来、それでも地獄に戻ってしまった場合には、二度と地獄から抜け出せないとされています。

(注11)それでも、3回目のアシカになった時には、大人になったひろ美宮沢りえ)に会えたのです。



(注12)仏(荒川良々)とか神(瑛蓮)とかがいて、ボタンを押せば食事を持ってきますが、20db以上の会話は出来ず、ただ静かに横になっているというだけでは、大助ならずとも、「つまらなくて死んでしまう!」と叫び出したくなるでしょう!

(注13)『大木家のたのしい旅行』でも、ツアーで行って楽しめるほどゆる~い感じの地獄が描かれています。

(注14)閻魔校長の計らいで、大助は、もう一度インコになって現世で年老いたひろ美と会って、お互いに「好き」と言い合い、そして若い時分の2人になってキスをすることになるのですが、これは現世でのことでしょうか、それとも夢の中でのお話なのでしょうか?

(注15)例えば、演奏場面が設けられているからかまわないとはいえ、長瀬智也が主演とされる作品と言うにしては、ストーリー面でキラーKを巡る話に変化がなさすぎる感じがします。



★★★☆☆☆



象のロケット:TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ

日本で一番悪い奴ら

2016年07月05日 | 邦画(16年)
 『日本で一番悪い奴ら』を渋谷TOEIで見ました。

(1)このところいろいろな作品に顔を出している綾野剛が主演ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「実在の刑事をモデルにしたフィクション」との字幕が出て、場面は大学の柔道場。時点は1975年6月。
 顧問の男が現れ、練習していた諸星綾野剛)を呼び出し、「お前、就職は?」と尋ね、さらに「道警がお前をほしいって」と言います。
 諸星は「高校の時、補導されたんですけど」と答えると、顧問は「道警柔道部は全国優勝を狙っていて、お前が必要だそうだ」と言います。
 次いで、北海道警察学校の入学式の場面。生徒の名前が一人一人読み上げられ、その中には諸星も。



 次の場面は、逃げる車を追うパトカー。
 パトカーの運転席には諸星、助手席には先輩の栗林青木崇高)。
 栗林は「当てて止めるんだ」などと諸星に指示しますが、前の車はどんどん逃げてしまい、挙げ句の果て、先輩の刑事の村井ピエール瀧)が犯人に手錠をかけてしまい、栗林は悔しがります。
 1979年に諸星は機動捜査隊に入隊。

 事務机に向かって書類を作成している諸星に向かって、栗林が「そのくらいの書類に何時間かかっているんだ」、「お前26だろ?」、「お前やめちまえ」などと毒づいています。
 そこに村井が現れ、「もういいだろ。その青年の活躍でウチの柔道部は優勝したんだから」、「どのみち、あのホシは俺が捕まえていた」と言います。

 朝、諸星がお茶を皆に配っていると、村井が覚醒剤所持の現行犯を連れてきます。
 さらに、包丁を振りかざしている男がいるとの通報で、栗林らが飛び出していった後、諸星は独り機動捜査隊の部屋に取り残されます。
 そこに村井が現れ、「君はなんでデカになったの?」、「メシでも食うか?」と諸星を誘います。



 高級クラブで、諸星は村井から、「調書を書き写していたが、意味ないぞ。俺らは点数。一点でも多く稼いだものが出世する」、「オカシナ奴らのクソを綺麗にするのが、俺らの仕事」、「要すれば、飛び込めばいい。デカに必要なのは協力者。S(スパイ)をこしらえ、クソまみれのグッチョングッチョンになればいい」などと諭されます。
 村井の言葉で目が開かれた諸星は、態度を180度入れ替えて前に突き進んでいきますが、さあどうなることでしょう………?

 本作は、北海道警察に入った主人公が、先輩に刑事として生きていくうえでの知恵を授かり、それを金科玉条にして道警のエースとしてのし上がり、そして躓くという様子が描き出されています。主役の綾野剛が、主人公役を実に巧みに演じているので、見る方は画面に釘付けとなり、2時間15分息吐く暇もないほどです。

(2)上記したように、村井に活を入れられた諸星は、それからは見違えるように活躍し出します。
 例えば、早速、名詞をあちこちにバラまいておいた効果が出て、傷めつけた街のチンピラから連絡が入り、教えてもらった男の家に踏み込んで、その家の冷蔵庫の中に隠されていた覚醒剤と拳銃を摘発し、諸星は本部長から表彰されます。

 ですが、のぼるものは、ピークを迎えると(注2)落ちていきます。それも、のぼりが早ければ、落ちるのもそれだけ早いものです。
 例えば、拳銃200丁と大量の覚醒剤との取引計画が、兄弟の契りを交わしたはずの黒岩中村獅童)の覚醒剤持ち逃げによってオジャンになってしまい、そればかりか諸星は、黒岩が手渡してくれた覚醒剤を、その運び屋で諸星を「オヤジ」と慕う太郎YOUNG DAIS)に手伝わせて、自分に打ってしまいます。

 こうして諸星は、結局は、出発点よりも下がったところに行き着くことになります。
 他方、諸星を踏み台にした「悪い奴ら」は、それぞれいい位置についているのかもしれませんが、それは本作ではほとんど描かれていません。
 本作で専ら描かれているのは、諸星のジェットコースターのような人生です(注3)。

 ただ、諸星は、前半の上昇過程で本当に「のぼりつめ」たのでしょうか?
 諸星のようなやり方で「のぼりつめ」ることができるのであれば、モット他にも諸星のような警察官が道警内部に出現してもおかしくないように思えます。ですが、諸星がたちまちのうちに「道警のエース」となってしまうところからすると、他にはそのようなことをする警察官が見当たらないようにみえます。
 そうなるのは、諸星のように体を張って猛進してみても、現実にはそんなに「のぼりつめ」ることが出来ないからではないでしょうか?
 諸星は、確かに、31歳で札幌中央署の「マル暴」に異動したり、40歳で道警本部銃器対策課第二係長についたりします。でも、せいぜいその程度です(注4)。

 実際のところよくわかりませんが、警察内で昇任するためには、昇任試験を通るルートと選考・選抜によるものとの2つがあるようです(注5)。
 諸星は、なかなかうまく調書が書けないのを見ても、まじめに試験勉強をして昇任試験に合格したようには思えません。むしろ勤務成績が良好な点を評価されて(注6)、選考・選抜によって昇任したのではないかと思われます。
 ただ、選考・選抜の枠は小さく、どんなに頑張ってみても、40歳で本部の係長といったところなのではないでしょうか?
 本筋は、昇任試験を合格する方ではないかと思われます。ただ、そのルートで昇任する者は、諸星のように、勤務成績を良くするため危ない橋を渡るよりも、普段から地道に試験勉強をし、勤務時はできるだけ失点を少なくして、一歩一歩上に上がっていくようにするのではないでしょうか(注7)?

 でもそんなことは、本作を見る上ではマッタクどうでもいいのです。
 なにしろ、主役の綾野剛が実にエネルギッシュに画面で跳びはねるものですから、彼が扮する諸星の力がどんどん拡大していく場面はもちろんのこと、刀折れ矢尽きた場面でも見る方は見入ってしまいます(注8)。
 秋に公開される『怒り』でもどんな演技を見せてくれるのか、今から楽しみです。

(3)渡まち子氏は、「映画は、テンポのいい語り口と、クセのある面構えの役者陣でクライム・エンタテインメントとして一気に駆け抜ける。俳優たちは皆好演だが、中でも、群を抜いて素晴らしいのが主演の綾野剛だ」として75点をつけています。
 前田有一氏も、「白石和彌監督は、この事件が進行中であり、さばかれていない悪が存在することを承知していながら、決してその告発と糾弾を目的に本作を作っている様子がない。社会派で知られる彼のこと、心の奥底にはそうした牙を隠し持っているに違いないと私は思うが、今回はそれ以上に人間を描くことに力をいれている」などとして75点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「この映画は、日本映画にはめずらしく、警察組織に内在する悪と、悪徳刑事のやりくちを、なまなましくえがき出す」が、「素材の興味と展開のはやさで、おもしろく見せる。ただ、深みがたりないうらみがのこる」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。



(注1)監督は、『凶悪』の白石和彌
 脚本は、『アンダルシア 女神の報復』の池上純哉
 原作は稲葉圭昭恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』(講談社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、綾野剛は『64 ロクヨン 後編』、中村獅童と警視庁刑事役の音尾琢真は『起終点駅 ターミナル』、ピエール瀧は『エヴェレスト 神々の山嶺』、青木崇高は『るろうに剣心 京都大火編』、木下隆行は『ステキな金縛り』、YOUNG DAISは『TOKYO TRIBE』で、それぞれ見ました。

(注2)諸星のピークは、太郎と沙織白石糸)の結婚式が回転したカレー屋「スパイズ」で催され、諸星が「こいつ(太郎)に始めて会った時は、ただのチンピラ。ハルシオンを食っていた。こんな美人の奥さんをもらって、こんな立派な店を持つに至って、…。自分が北海道の治安の維持に寄与しているとしたら、こいつのおかげ。俺も刑事として頑張る。これからもチャカを頼む」などと挨拶したあたりではないでしょうか?



(注3)それでも、諸星に関与した者の末路は描かれています。例えば、パキスタン人のラシード植野行雄)は母国に戻りますし、岸谷みのすけ)や太郎は自殺します。

(注4)劇場用パンフレット掲載の「RESUME 諸星要一 経歴書」によれば、2001年に夕張署に配置換えになるまで、第二係長のままのように思われます。
 本部の係長ですから、おそらく各警察署に対しては睨みのきく偉い存在でなのでしょうが、本部内では課長にこき使われる存在でしかないような気がします。

(注5)例えば、この記事(特に、選考・選抜については、この記事)。
 なお、警察には警察事務官といった職種もあり、なかなか複雑なようです。

(注6)諸星は、手帳に犯人逮捕の点数を書き留めています(例えば、覚醒剤所持は10点、5g以上の所持ならプラス5点など)。

(注7)銃器対策課で諸星の上司であった岸谷が自殺したのも、不本意に諸星の事案に巻き込まれてしまい、これまで彼が営々と築き上げてきたキャリアが突き崩されてしまったことによる大きな挫折感、といったものによるところが大きいのではと思われます。

(注8)とはいえ、本作が警察という男社会を専ら描く映画のために仕方がないのでしょうが、諸星を取り巻く女性関係としては、最初の由貴矢吹春奈:すすきの高級クラブのホステス)と、道警のエースと言われる諸星に憧れる婦警の敏子瀧内公美)の2人が描かれるに過ぎません。



★★★★☆☆



象のロケット:日本で一番悪い奴ら

クリーピー 偽りの隣人

2016年07月02日 | 邦画(16年)
 『クリーピー 偽りの隣人』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)黒沢清監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、窓に鉄格子がはめられている取調室。
 連続殺人事件の容疑者の松岡馬場徹)が、歩き回りながら、「俺は、やりもしないで諦めるのは嫌い。どうせなら、楽しい方がいい」と言うと、取り調べをしている刑事の高倉西島秀俊)は「それはどんなこと?」と訊きます。松岡が「何でも」と答えると、高倉は「犯罪でも?」とさらに尋ねます。松岡は、「俺にも、やっていいことと悪いことの区別ができる。モラルがある。しかし、刑事が理解するのは難しいかも」と答え、高倉も「残念だな」と応じます。

 高倉が廊下に出てカップコーヒーを飲んでいると、後輩の野上刑事(東出昌大)がやってきて、「松岡を拘置所に送ります」と言うので、高倉は「彼はサイコパスだ。あと1日ここに置いてほしい」と要請します。
 その時、「松岡が逃げた!」との声が。
 高倉が急いで駆けつけると、松岡は女を人質にして、その首にフォークを突き立てています。
 高倉は松岡に近づき、「今君は絶対的な力を持っている。しかし、その人を傷つけたら、その力を使い果たすことになる」等と言って説得しますが、松岡は高倉の脇腹をフォークで刺し、さらに人質の首を切るので、野上刑事が銃で撃ち殺します。

 その1年後。
 上記の事件がきっかけで警察を退職した高倉は、新しい家に引っ越しの最中。
 妻の康子竹内結子)に「マックス(犬の名)は外に繋いでおこうか?」と訊くと、康子は「お願い」と答えます。
 さらに高倉は、「何年ぶりかな、こんなにのんびりした時間」と言い、康子も「警察辞めてよかったでしょ」と応じ、さらに「大学は順調?」と尋ねると、高倉は「俺、大学の先生に向いているのかも」と答えます(注2)。

 その後、2人は隣家に引越しの挨拶に出かけます。
 ただ、田中家では、出てきた女が「うちはご近所とつきあっていない。面倒でね」と言って、二人が持ってきた手土産を受け取らず、家の中から聞こえてきた異様な声については「寝たきりの母です」と付け加えるだけです。
 また、もう一軒の西野家では、いくら呼び鈴を押しても誰も出てきません。

 さあ、いったい隣の家にはどんな人物が住んでいるのでしょう、………?

 本作は、主人公とその妻が引っ越した家の隣家の住人が実はサイコパスだったというお話です。狭隘な東京で暮らしていると、隣家の住人には何かと悩まされるところ、その隣人役の香川照之の演技が素晴らしく、不気味さが全編に漂っています。不可解な点がいくつかあるにしても(注3)、久しぶりで黒沢監督らしい雰囲気を持つ作品を見たなという感じがしました。

(2)本作の主人公は元刑事の高倉であり、彼は本作内で重要な役割を果たしているものの、その妻の康子を中心に据えて考えてみても面白いのではと思いました。
 高倉は、野上や谷本刑事(笹野高史)と一緒になって周辺から次第に事件の核心に迫っていくのですが(注4)、康子は、むしろいきなり事件の中心に飛び込んでいくように見えるのです。
 なにしろ、最初の方の出会いで酷く悪い印象を持ち(注5)、高倉が「近所付き合いは止めとけ」と警告したにもかかわらず(注6)、康子の方から、独りでシチューの入ったボールを手にして「昨日のシチューが余ったので、よかったらこれを奥様に」と、隣の西野(香川照之)の家に出かけていくのです(注7)。
 次いで、康子は西野の娘・藤野涼子)に料理を教えることを引き受け、それがキッカケで、西野も高倉家に入り込んでくるようになります。



 高倉は、「変わった人だ。信用出来ない」と言うのですが、康子は「案外いい人かもしれない」と、高倉とは異なる感想を漏らします。
 さらに、いなくなったマックスを探して、ようやく公園で西野と一緒にいるところを見つけた康子に対して、西野は、「康子さんも、モット自由に走り回りましょう」と言い、「ご主人と僕と、どっちが魅力的ですか?正直に」と尋ねるのです。



 こうして見てくると、康子は受身的に事件に巻き込まれていくのではなく、むしろ能動的に自分の方から次第に西野に近づいているように思えます(西野の対応もそれほどおかしなように見えません)。
 康子がそうするのは、無論当初は、上手くご近所と付き合っていかなくてはいけないという一種の義務感からなのでしょう。ですが、底辺には、彼女の高倉に対する潜在的とも言える不満があるようにも思えます(注8)。そして、そんな康子に対して高倉は、「済まない、君の気持ちを全然理解できていなかった」と言うのです。

 こうした康子の気持ちは、ラストの大きな叫び声に通じる重要な要素のように思われます。



 それに、康子の役割を原作とは大きく変えて積極的なものにしたのも(そうすることで、映画が多元的になるのではないでしょうか)、こうした康子の気持ちを描くことによって、より一層意味を増してくるものと思います。
 ただ、そうであれば、もう少し康子の高倉に対する本心が分かるような映像が挿入されていればな、という感じがしました。映像を見る限りでは、高倉と康子は、新しい家に引っ越して新生活を始めだした幸せそうなカップルとしか見えず、自分の方から西野に近づいていくようには見えませんでしたから(注9)。

(3)今週は、本作を含めてサイコパスの映画を3本立て続けに見てしまいました。
 『ヒメアノ~ル』の森田は、映画で6人くらい殺していますし、『葛城事件』の稔は8人を殺傷したとされています。本作の西野も、映画の中では8人ほど殺していますから(注10)、いずれもサイコパスなのでしょう(注11)。
 そして、『ヒメアノ~ル』の森田は精神に変調をきたした状態で捕まり、『葛城事件』の稔は死刑に処せられ、本作の西野は射殺されてしまいます。
 いずれの作品も見る者に重くのしかかってきますが、『葛城事件』では家族、本作では隣人の問題が、そして『ヒメアノ~ル』はもしかしたら誰にでもそういう要素を持っているのではと思わせて、なんともいえない不気味な感じを醸し出しているように思います。

 同じサイコパス物といっても、3本それぞれがそれぞれ強烈な個性を出していて、邦画も大層頑張っているなと思いました。

(4)渡まち子氏は、「恐ろしいクリーチャーや悪霊は登場しない。だがこの得体のしれない不条理は、底なしの恐怖である。やはり、黒沢清監督はホラーの名手だと改めて感心した」として70点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『岸辺の旅』の黒沢清
 脚本は、黒沢清と池田千尋
 原作は、前川裕著『クリーピー』(光文社文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、西島秀俊は『女が眠る時』、竹内結子は『殿、利息でござる!』、川口春奈は『幕末高校生』、藤野涼子は『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』、笹野高史は『家族はつらいよ』、東出昌大は『寄生獣』、香川照之は『鍵泥棒のメソッド』で、それぞれ見ました。

 また、「クリーピー(creepy)」とは、「むずむずする、身の毛のよだつような」の意(この記事によります)。

(注2)高倉は東洛大学の教授として犯罪心理学を教えています(なお、高倉が元刑事という点が原作と異なっています)。

(注3)例えば、至極怪しい西野家に専門家が入っていくにしては、野上刑事にしても谷本刑事にしても(さらには、元刑事の高倉も)、どうして皆単独行動をとるのでしょうか?

(注4)高倉は、6年前に日野市で起きた本多家の一家失踪事件を野上刑事と調べていくうちに、本多家と隣の水田家(その家の押入れから、本多家の3人と水田家の2人の死体が発見されます)の位置関係が、高倉家と西野家との位置関係に類似していることに気がついて、………。
 また、その野上刑事が死んだ事件を調べる谷本刑事とも、高倉は関係をもつことになります。

〔補注:原作の文庫版のP.35やP.43の記述からすると、西野家と高倉家と田中家との3軒の配置が、日野市の事件の本多家と水田家と裏の家の3軒の配置に類似している点と、さらにどちらも周囲から孤立した感じにあるという点が重要のように思えます。しかしながら、本作では、原作のように本多家の裏の家(90近い老夫婦が住んでいる)のことが描かれておらず、また、原作のように本多家が角地に建てられているとも思えないので、配置の重要性がよくわからなくなってしまっているように思います。加えて、本作のラストの方で、西野が望遠鏡で眺めただけで次の家を選択してしまっているというのも、家の配置が重要とされている割には随分と安易だ、なと思えてしまいます〕

(注5)康子は、高倉が留守の時に独りで西野の家に挨拶に行くのですが、彼女が手土産を「チョコレートです」と渡すと、西野は「一粒で1000円するというやつですか?」と訊き、また「お宅は犬を飼ってますか?僕は犬が好きです」と言ったりするのです。それで、康子は、帰宅した高倉に、「お隣の西野さん、感じ悪い人。変人というか、取り付くシマがない」と話します。
 また、2度目に会った時、始のうちは「この間は、感じ悪くてすいませんでした」と謝るものの、康子が「今度は奥さんも是非」と言うと、西野は「それどういう意味ですか?」と居直るように訊いてくるのです。

(注6)高倉は、帰宅途中に会った西野から、「お宅の奥さん、どうしてウチのこといろいろと嗅ぎまわるんです?狭い町内で隣に不信感を持ったら住めなくなる。あなた方は信頼できそうだから、こうして言っているんですが」と言われるので、帰宅後康子に「隣の西野さん、やっぱ変な人だ」などと話します。



(注7)この時は、康子は西野家の玄関まで入りますが、西野が「お母さんに会いたいって」と家の中に大声を上げるものの、娘がちらっと姿を見せるだけで、他には誰も出てきません。西野は、「お母さん、友達がいないから、喜ぶだろうな」と言いながらも、「彼女鬱なんです。僕にはどうしたらいいのか。精も根も尽き果てました」と言うので、康子は早々に引き上げます。

(注8)隠れて電話をしている康子に向かって「誰と電話しているんだ?」と訊く高倉に対し、康子は「言わなきゃいけないの!」と大声で叫びます。驚いた高倉は、「どうした?何か不満でもあるのか?」と尋ねるのですが、康子は「わからない。…全部」と答えるのです(この時のことは、康子は後で、「新しい環境にうまく適応できなくて」と謝るのですが)。
 また、西野の家の地下室にやってきた高倉に対して、康子は「もう少しここにいる。もうとっくに諦めていた。引っ越ししたらいいことがあるかも、と思っていた」と言ったりします。

(注9)刑事時代の高倉が仕事に打ち込むあまり家庭を省みることが少なかったという、どこにでも転がっていそうなありきたりな事情があるだけだ、とは思えないところです。
 高倉が、本多家野失踪事件で生き残った長女の早紀川口春奈)に対し、あまりに熱心に当時の記憶を聞き出そうとするので、早紀に「それでもあなたは人間ですか?人の心を持っているのですか?何も思い出さない方がよかった」とまで言われてしまいます。こんなところにも、高倉の常人とは違った側面が伺われ、それを康子が感じ取っていたのかもしれません。

(注10)本多家の3人、水田家の2人、それに野上刑事と谷本刑事(あるいはまだ死んではいないのかもしれません)、そして澪の父親と母親(最所美咲)でしょう。

(注11)『ヒメアノ~ル』の森田が最初に自分をいじめる河島を殺したのは、理由なき殺人といえないでしょうが。



★★★☆☆☆



象のロケット:クリーピー 偽りの隣人