『森山中教習所』を渋谷シネパレスで見ました。
(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、夏休みのある日、食堂で大学生の清高(野村周平)と同級生の松田(岸井ゆきの)とが向い合って座っています。
清高が「松田さん、やっぱりダメだ」と言うと、松田が「えっ?」と聞き返します。
清高が、「何回もデートしたけど、やっぱりダメだった」と言うと、松田は「そっか」と答え、泣きながら「どうして?」と尋ねます。
清高が「ほらっ」とティッシュを手渡すと、涙を拭きながら松田は、「てっきりOKだと思っていたのに。酷いよね、清高君って」と言います。
そこへ店員が「牛丼特盛りの方?」と注文の品を持ってきたので、松田が「私です」「美味しそう」「いただきます」と言って、食べ始めます。
清高は「俺、この夏、車の免許取ろうと思う」「この辺に教習所あったかな?」「松田さんも、一緒に取る?」と言い出します。
松田は、「無理だと思うよ」と応じ、「どうして取るの?」と尋ねます。
清高は「車に乗ればどこにでも行けるから」と答えます。
次の場面は、夜間の橋。
清高の乗った自転車が後ろから来た車に撥ねられてしまいます。
清高は道路に倒れて動きません。
撥ねた車から出てきたのは、運転していた轟木(賀来賢人)と本田(音尾琢真)。2人ともヤクザです。
本田は、「やっちゃったよ。どうすんだよ。懲役20年はいくぞ」と騒ぎます。
轟木と本田は、清高の乗っていた自転車を橋の上から下の川に落とし、さらに清高の体を車のトランクに押し込めて、その場を去ります。
車の中では、乗っている社長(光石研)に、轟木が「車が凹んじゃいました」と報告すると、社長は「ボロだから構わないけど、ちゃんと教習所で運転を教えてもらった方がいい」と言います。
トランクの中では、清高が携帯の音で気が付き、あわてて携帯を見ると、松田から「免許頑張ってね」とのメールが。
その車が、夜間にもかかわらず森山中教習所に直行したことで、結局、清高と轟木はその教習所で運転を教えてもらうことになるのですが、さあ、どうなることでしょうか、………?
本作は、高校で同級生だった大学生と若いヤクザとが、偶然にも一緒に、田舎の廃校を利用している教習所で自動車運転の講習を受けることになって、云々というお話。同級生にもかかわらずほとんど付き合いのなかったため初めは打ち解けなかった2人ながら、講習や、教官との交流を通じてそれぞれ変化していく様子が面白おかしく描かれており、大きな事件が起こるわけではないものの、まずまず愉しめる作品です。
(2)本作では、女の子と付き合っているごくフツーの大学生である清高と、すでに社会人となって、それもヤクザ社会に所属している轟木という至極対照的な2人が、教習所で一緒に過ごすというなかなか刺激的な設定になっています。
それも、普通であれば、いくら教習所で一緒になっても、ヤクザと大学生とで付き合いなど生じないでしょうが、教習所が過疎の田舎にあって生徒数がごく少なく、さらに2人が高校時代同級生だったという接点が設けられているために(注2)、最初から2人はフツーに話し始めることになります。
自由で保護された大学生と、不自由で保護などされていない社会人とがうまい具合に絡みあうこととなり、その点では興味深いものがあります。
とはいえ、タイトルにもなっている「教習所」の設定が十分に生かされていないような憾みがあります。
確かに、非公認の教習所のために、そこを卒業しても技能試験(実地試験)が免除されるわけではないこともあり、随分とマイルドでいい加減な授業となるでしょう。おまけに、教官のサキ役を演じているのが麻生久美子ですし。
それにしても、教習所の教官と生徒を巡るよくある話(注3)は一つも起こりませんし、また、轟木は、清高を跳ね飛ばすような運転をしていたのですから、運転の技量に何か問題があるはずですが、映画ではそうしたところは余り見られず、1ヶ月ほどの教習所通いから何を学んだのかよくわからないように思えます。
これでは、わざわざ「教習所」をメインの舞台にし、なおかつタイトルにまで持ってきた意味が余りないようにも思えます(注4)。
また、両親がおらず施設に入っていたという轟木の設定に対応させて、清高についても、冷えきった感じの家(注5)を出たいと考えているという設定にしています。さらに、教官のサキも子持ちのバツイチなのです(注6)。
現代社会が抱える家族の問題を様々に表現しようとしているように思われますが(注7)、これでは盛り沢山すぎるのではないでしょうか?
でも、総体的に大層ユルユルな雰囲気の映画にもかかわらず、ヤクザの指詰めシーンが描かれたり、不良外国人の生徒を轟木がスコップで殴りつけたりするなど、全体のトーンとは外れる要素も盛り込まれており(注8)、意外としたたかな作品となっているようにも思います。
また、ラスト近くまでほぼ原作通りに描かれていた本作ながら、原作と違ったラストになっていますが、映画ならではの表現ではないかと思いました(注9)。
(3)渡まち子氏は、「全体的にユルいムードが漂い、廃校を利用した教習所のほのぼのとしたたたずまいや、風変わりなキャラなどが、独特の世界観を作り出してい」て、「ユルユルな作品にみえて、これは案外、拾い物の青春映画かもしれない」として65点をつけています。
暉峻創三氏は、「ドラマチックな物語展開で見せる映画でも、青春の悔恨や勝利感で感動させる映画でもない。それぞれの人物が背負う、互いに異なる空気感と、その一瞬の交差が見せる化学反応を繊細にすくい取っていくことで、観客を引っぱりつづける映画だ」と述べています。
(注1)監督は、『海のふた』の豊島圭介。
脚本は和田清人。
原作は、真造圭伍著『森山中教習所』(小学館)。
なお、出演者の内、最近では、野村周平は『ちはやふる 上の句』、岸井ゆきのは『友だちのパパが好き』、音尾琢真は『日本で一番悪い奴ら』、麻生久美子は『俳優 亀岡拓次』、根岸季衣は『百円の恋』、光石研は『無伴奏』で、それぞれ見ました。
(注2)それも、同級生にもかかわらず、高校時代1度しか会話を交わしたことがなかったという設定なので、その後の身の上についてはお互いに情報を持っていないのです。
(注3)例えば、質問に答えない教官、高みに立ってお説教をする教官、高圧的で怒鳴り散らす教官、などなどがどの教習所にもいて、教習所というとそうしたイメージを持っている人が多いのではないでしょうか(今は、昔と違い、クレームを受け付ける窓口が設けられていたり、教官指名システムを採用したりしている教習場が多いようですが)。
(注4)それでも、原作漫画のラストでは、松田と清高が森山中教習所のあった場所を訪れて、清高が轟木のことを思い出し、「なつかしいなぁ」とノスタルジーに浸り、そしてそこを離れていく車の後ろ姿で終わっていますから、まだ「森山中教習所」というタイトルに意味があると思います。
ですが、本作の場合、同じような場面は挿入されているとはいえ、その後に、下記「注8」に記すようなシーンが付加されているので、「森山中教習所」のイメージが薄れてしまうように思いました。
(注5)清高の父親は、リストラの憂き目に遭い、随分といじけて家に引きこもってTVゲームばかりしており、激しい夫婦喧嘩も絶えない感じです。
(注6)加えて、ヤクザの抗争に巻き込まれ社長が乗っている車に銃弾が打ち込まれ、本田が死にますが、本作では、原作漫画で描かれているその場面ではなく、遺体安置室で本田の遺体に取りすがって泣く妻の姿を描いているのも、本作が家族に焦点を当てようとしているからなのでしょう。
(注7)さらには、サキとその子どものタカシ、サキの父親(ダンカン)と母親(根岸季衣)とが作り出す温かい家族的な雰囲気と、清高と轟木とを対比させてもいるのでしょう。
(注8)他にも、轟木の妄想ながら、轟木が乗ったショベルカーが社長の家を襲う場面などが描かれています。
(注8)原作のマンガは1巻本で、その説明的な部分が幾分省略されているとはいえ、映画はほぼ原作に忠実といえるでしょう。ただ、原作のオシマイの方では(P.244)、牛丼屋で松田と牛丼を食べている清高を車のフロントグラスから見付けた轟木が、社長を昼食に連れて行く場所をその牛丼屋から蕎麦屋に変えるところが描かれています。他方、本作では、踏切で松田と清高が乗る車が、社長と轟木が乗る車とスレ違い、お互いに見るともなしに見ている姿が描かれています。
★★★☆☆☆
象のロケット:森山中教習所
(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、夏休みのある日、食堂で大学生の清高(野村周平)と同級生の松田(岸井ゆきの)とが向い合って座っています。
清高が「松田さん、やっぱりダメだ」と言うと、松田が「えっ?」と聞き返します。
清高が、「何回もデートしたけど、やっぱりダメだった」と言うと、松田は「そっか」と答え、泣きながら「どうして?」と尋ねます。
清高が「ほらっ」とティッシュを手渡すと、涙を拭きながら松田は、「てっきりOKだと思っていたのに。酷いよね、清高君って」と言います。
そこへ店員が「牛丼特盛りの方?」と注文の品を持ってきたので、松田が「私です」「美味しそう」「いただきます」と言って、食べ始めます。
清高は「俺、この夏、車の免許取ろうと思う」「この辺に教習所あったかな?」「松田さんも、一緒に取る?」と言い出します。
松田は、「無理だと思うよ」と応じ、「どうして取るの?」と尋ねます。
清高は「車に乗ればどこにでも行けるから」と答えます。
次の場面は、夜間の橋。
清高の乗った自転車が後ろから来た車に撥ねられてしまいます。
清高は道路に倒れて動きません。
撥ねた車から出てきたのは、運転していた轟木(賀来賢人)と本田(音尾琢真)。2人ともヤクザです。
本田は、「やっちゃったよ。どうすんだよ。懲役20年はいくぞ」と騒ぎます。
轟木と本田は、清高の乗っていた自転車を橋の上から下の川に落とし、さらに清高の体を車のトランクに押し込めて、その場を去ります。
車の中では、乗っている社長(光石研)に、轟木が「車が凹んじゃいました」と報告すると、社長は「ボロだから構わないけど、ちゃんと教習所で運転を教えてもらった方がいい」と言います。
トランクの中では、清高が携帯の音で気が付き、あわてて携帯を見ると、松田から「免許頑張ってね」とのメールが。
その車が、夜間にもかかわらず森山中教習所に直行したことで、結局、清高と轟木はその教習所で運転を教えてもらうことになるのですが、さあ、どうなることでしょうか、………?
本作は、高校で同級生だった大学生と若いヤクザとが、偶然にも一緒に、田舎の廃校を利用している教習所で自動車運転の講習を受けることになって、云々というお話。同級生にもかかわらずほとんど付き合いのなかったため初めは打ち解けなかった2人ながら、講習や、教官との交流を通じてそれぞれ変化していく様子が面白おかしく描かれており、大きな事件が起こるわけではないものの、まずまず愉しめる作品です。
(2)本作では、女の子と付き合っているごくフツーの大学生である清高と、すでに社会人となって、それもヤクザ社会に所属している轟木という至極対照的な2人が、教習所で一緒に過ごすというなかなか刺激的な設定になっています。
それも、普通であれば、いくら教習所で一緒になっても、ヤクザと大学生とで付き合いなど生じないでしょうが、教習所が過疎の田舎にあって生徒数がごく少なく、さらに2人が高校時代同級生だったという接点が設けられているために(注2)、最初から2人はフツーに話し始めることになります。
自由で保護された大学生と、不自由で保護などされていない社会人とがうまい具合に絡みあうこととなり、その点では興味深いものがあります。
とはいえ、タイトルにもなっている「教習所」の設定が十分に生かされていないような憾みがあります。
確かに、非公認の教習所のために、そこを卒業しても技能試験(実地試験)が免除されるわけではないこともあり、随分とマイルドでいい加減な授業となるでしょう。おまけに、教官のサキ役を演じているのが麻生久美子ですし。
それにしても、教習所の教官と生徒を巡るよくある話(注3)は一つも起こりませんし、また、轟木は、清高を跳ね飛ばすような運転をしていたのですから、運転の技量に何か問題があるはずですが、映画ではそうしたところは余り見られず、1ヶ月ほどの教習所通いから何を学んだのかよくわからないように思えます。
これでは、わざわざ「教習所」をメインの舞台にし、なおかつタイトルにまで持ってきた意味が余りないようにも思えます(注4)。
また、両親がおらず施設に入っていたという轟木の設定に対応させて、清高についても、冷えきった感じの家(注5)を出たいと考えているという設定にしています。さらに、教官のサキも子持ちのバツイチなのです(注6)。
現代社会が抱える家族の問題を様々に表現しようとしているように思われますが(注7)、これでは盛り沢山すぎるのではないでしょうか?
でも、総体的に大層ユルユルな雰囲気の映画にもかかわらず、ヤクザの指詰めシーンが描かれたり、不良外国人の生徒を轟木がスコップで殴りつけたりするなど、全体のトーンとは外れる要素も盛り込まれており(注8)、意外としたたかな作品となっているようにも思います。
また、ラスト近くまでほぼ原作通りに描かれていた本作ながら、原作と違ったラストになっていますが、映画ならではの表現ではないかと思いました(注9)。
(3)渡まち子氏は、「全体的にユルいムードが漂い、廃校を利用した教習所のほのぼのとしたたたずまいや、風変わりなキャラなどが、独特の世界観を作り出してい」て、「ユルユルな作品にみえて、これは案外、拾い物の青春映画かもしれない」として65点をつけています。
暉峻創三氏は、「ドラマチックな物語展開で見せる映画でも、青春の悔恨や勝利感で感動させる映画でもない。それぞれの人物が背負う、互いに異なる空気感と、その一瞬の交差が見せる化学反応を繊細にすくい取っていくことで、観客を引っぱりつづける映画だ」と述べています。
(注1)監督は、『海のふた』の豊島圭介。
脚本は和田清人。
原作は、真造圭伍著『森山中教習所』(小学館)。
なお、出演者の内、最近では、野村周平は『ちはやふる 上の句』、岸井ゆきのは『友だちのパパが好き』、音尾琢真は『日本で一番悪い奴ら』、麻生久美子は『俳優 亀岡拓次』、根岸季衣は『百円の恋』、光石研は『無伴奏』で、それぞれ見ました。
(注2)それも、同級生にもかかわらず、高校時代1度しか会話を交わしたことがなかったという設定なので、その後の身の上についてはお互いに情報を持っていないのです。
(注3)例えば、質問に答えない教官、高みに立ってお説教をする教官、高圧的で怒鳴り散らす教官、などなどがどの教習所にもいて、教習所というとそうしたイメージを持っている人が多いのではないでしょうか(今は、昔と違い、クレームを受け付ける窓口が設けられていたり、教官指名システムを採用したりしている教習場が多いようですが)。
(注4)それでも、原作漫画のラストでは、松田と清高が森山中教習所のあった場所を訪れて、清高が轟木のことを思い出し、「なつかしいなぁ」とノスタルジーに浸り、そしてそこを離れていく車の後ろ姿で終わっていますから、まだ「森山中教習所」というタイトルに意味があると思います。
ですが、本作の場合、同じような場面は挿入されているとはいえ、その後に、下記「注8」に記すようなシーンが付加されているので、「森山中教習所」のイメージが薄れてしまうように思いました。
(注5)清高の父親は、リストラの憂き目に遭い、随分といじけて家に引きこもってTVゲームばかりしており、激しい夫婦喧嘩も絶えない感じです。
(注6)加えて、ヤクザの抗争に巻き込まれ社長が乗っている車に銃弾が打ち込まれ、本田が死にますが、本作では、原作漫画で描かれているその場面ではなく、遺体安置室で本田の遺体に取りすがって泣く妻の姿を描いているのも、本作が家族に焦点を当てようとしているからなのでしょう。
(注7)さらには、サキとその子どものタカシ、サキの父親(ダンカン)と母親(根岸季衣)とが作り出す温かい家族的な雰囲気と、清高と轟木とを対比させてもいるのでしょう。
(注8)他にも、轟木の妄想ながら、轟木が乗ったショベルカーが社長の家を襲う場面などが描かれています。
(注8)原作のマンガは1巻本で、その説明的な部分が幾分省略されているとはいえ、映画はほぼ原作に忠実といえるでしょう。ただ、原作のオシマイの方では(P.244)、牛丼屋で松田と牛丼を食べている清高を車のフロントグラスから見付けた轟木が、社長を昼食に連れて行く場所をその牛丼屋から蕎麦屋に変えるところが描かれています。他方、本作では、踏切で松田と清高が乗る車が、社長と轟木が乗る車とスレ違い、お互いに見るともなしに見ている姿が描かれています。
★★★☆☆☆
象のロケット:森山中教習所