映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

スイッチを押すとき

2011年09月28日 | 邦画(11年)
 『スイッチを押すとき』を新宿武蔵野館で見てきました。

(1)チョット時間が空いたので映画でも見ようかなと思って、小出恵介が主演だということの他は、ほとんど情報なしに映画館に飛び込んだ次第です(注1)。

 物語は、10代の青少年の自殺率が激増した原因を探るべく、10歳の子供を任意に一定数だけ選び出し、その心臓に起爆装置(「自殺補助装置」と言われています)を埋め込み、手渡したスイッチを押せば直ちに自殺できるようにする、という青少年自殺抑制プロジェクトが、15年前から国の管理の下で実施されます(今は2026年)。
 時間の経過と共に、被験者は次々と自殺してしまい、このプロジェクトに根拠を与えていた法律も廃止されることになって、最後まで残った6名の被験者(全員17歳、うち1名が女子)は1ヵ所で厳重な監視の下に閉じ込められ、一刻も早い自殺が当局からは要請されています。
 そこに、被験者を監視する職員として、新たに小出恵介が派遣されてきます(彼は25歳と設定されています)。
 すると、これまで頑なに自殺を拒んできた被験者が次々に自殺するようになったのです。
 いったい、この男はナニモノなのでしょうか、……。

 しかしながら、このような粗筋を申し上げただけで、いくら近未来の話としても、トテモ考えられないような甚だ奇妙奇天烈な設定になっていることは明らかだと思われます。
a.青少年の自殺率が激増するといっても、10万人あたりせいぜい50人といったオーダーだと考えられますから(実際は30人程度であり、仮にそれが100人になるとしても)、一定数の被験者が10年以内に皆自殺する確率など極く極く低いのではと考えられます。
 特に、被験者の中で自殺しないで残っているのがわずか6名なら、彼らが皆短期間の内に自殺する確率は、限りなくゼロに近いと考えられるところです。

b.それに元々、自殺者の意味のある心理状況を探るというのであれば、自殺する者の数を一定数以上集める必要があるところ、予め誰が自殺するのかなどまったく分からないのですから(特に10歳の子供なのですから!)、被験者を何十万人のオーダーとしなければならず、いくら近未来の話だとしても、そんなことは不可能でしょう(仮にそれが可能であるとしても、自殺しないで生き残る者の数は、6人などという僅かな数字とはならず、やはり何十万人というオーダーになるに違いありません!)。

c.被験者の心理状況を探るといっても、映画からすると、被験者に絵を描かせるか思いついたことをノートに書くように指導しているに過ぎず、そんなもので有意味な結果が得られるとはトテモ考えられないことです(映画では、このプロジェクトによって、青少年の自殺は劇的に減少し、それでこの実験は廃止されることになったとされていますが、一体どんな実験結果が得られたというのでしょうか?)。

d.仮にそんなやり方で自殺者の心理が解明できるとしても、子供達を無理矢理親達から引き裂いて一定の場所に監禁したうえで自殺を促すという方法では、普通の環境下にある一般の青少年の自殺行動とは違った心理状況(例えば拘禁症状)の下における特異な自殺心理しか調査できなくなってしまい、その調査結果から有意義な指針が得られるとは考えられません(注2)。

といったようなことから、映画の中に入り込もうとしても入り込めない甚だ奇妙な設定が、最初から設けられていると思います。

 そうなれば、観客としてこの映画を見続けるには、自殺の心理を探るためという実験目的は取り敢えず括弧に入れておき、体の中に起爆装置を埋め込まれてしまった6人が、新たな監視員の小出恵介を迎えてどういう行動を取るのか、また小出恵介の役割は何なのか、なぜ小出恵介はそんな役割を担っているのか、といった方面に眼を向けざるを得なくなります。

 そうしてみても、最後に残った6人は、通常の人よりも自殺志向が遙かに強いように設定されているとでも考えないと、ストーリーが展開しないように思われます。
 というのも、小出恵介は、実のところは、6人を早いところ自殺に導くべく当局から派遣されてきた職員であって、その巧みな誘導によって、被験者の内の何人かははスグに自殺してしまうのですが、仮に皆が普通の人間ならば、いくら小出恵介が上手い方策を採ったとしても、そうは簡単に自殺などしないことでしょう(注3)!ですがそれでは、この物語は結末にたどり着けません(注4)。

 とすると、この映画は、やはり自殺を抜きにして見ることが出来ないようなストーリーになっているようです。
 常識と辻褄を合わせるには、この映画のストーリーは、あるいは次のようにも考えられるかもしれません。どういうやり方かまったく分かりませんが、自殺志向が一般の子供達よりも随分と強い子供達が選び出され、心臓に起爆装置が埋め込まれ、楽に死ねるようにスイッチが渡され、その結果15年の間に次々とその子供達は自殺していき、最後に6人が残ったが、彼らも小出恵介がやってくると、……、というような話です。
 ですが、一体どのようにして自殺志向の強い子供を選び出すというのでしょうか(注5)?
 もしそれが予め分かるのであれば、何もこんな実験をせずとも(無理矢理自殺時期を早めようとせずとも)、彼らの行動をそのまま監視すれば、意味のある調査結果が得られるのではないでしょうか?
 それよりなにより、そうした子供達が自殺しないように、それこそ親達や学者などが血の滲むような努力をすることでしょう!
 本作の物語は、最初の出だしから最後に至るまで大きく破綻しているのでは、と言わざるを得ないと思われます。

(2)あるいはこの映画は、以上クマネズミが拘った自殺の話は単なる背景であって、メインは小出恵介水沢エレナの死に至る恋愛物語だ、と考えることも出来るかもしれません。
 特に、2人は一緒に施設から逃げ出して、遊園地で観覧車に乗ったり、青函連絡船で北海道に渡り、広々とした草原に行き着いたりするところなどは、随分と時間を取って逃避行として上手く描かれていると思います(ただ、2026年になっても、北海道へ渡る手段として青函連絡船が選ばれ、なおかつそれに3等船室があるという想定は可能なのかどうか分かりませんが)。

 それに、極めて大切と考えられるスイッチを、被験者は単にポケットに入れて持ち歩いているだけで、小出恵介などは、被験者と争っている最中にそれを落としてしまうくらいの杜撰さです(注6)。
 また、小出恵介は、水沢エレナと施設を逃げ出してから海岸に出ると、2人のスイッチを海に放り投げてしまいますが、随分と簡単にそんなことができるのだな、と唖然としてしまいます(ただ、他にはそんなシーンは描かれません。施設にいるときにそんなことをしたら、厳しく罰せられるでしょうし、予備のスイッチがいくらでもあるでしょうから、被験者には無意味な行為だと分かっていたのでしょう)。
 こんなところを見ると、スイッチにそれほど重きが置かれているとは思えず、そうであれば「自殺」自体に焦点が当てられてはいなくて、それは何か別の事柄を象徴していると考えた方が良さそうにも思えてきます(注7)。

 とはいえ、冒頭でこのプロジェクトの内容が説明され、さらにラストで、すべてはこの実験を総括している「自殺対策推進室長」(田中哲司)の手の内で踊らされていたことなのだと分かると、被験者は室長の操り人形のように取り扱われていたのだな、別の解釈の余地などないのでは、と思えます。なにしろ、自殺対策推進室長は、その当初の思惑通り、この実験を完全な姿で終結させることができたわけですから(注8)。




 出演の俳優は、しかしながら、小出恵介を始めとして皆好演していると思います。
 特に、『日輪の遺産』で主計中尉役を演じた福士誠治が、こちらでは小出恵介の同僚の監視員役を演じていることや、また施設の所長役の西村雅彦は、『Dear Heart』と同じようなエキセントリックな演技が注目されるところです。



 また、水沢エレナは、まだ19歳ながら難しい役どころをよくこなしていて、これからが期待されるでしょう。




(3)なお、最近の日本における自殺については、青少年に問題があるというよりも、むしろ全体の自殺率が他の先進諸国と比べても高いことと、中高年の自殺者が急増していることが問題点として挙げられています〔以下、Wikipediaの「自殺」の項によっています〕。
 すなわち、日本の2010年の「自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は24.9人」であり(注9)、また「総自殺者数は31690人」と3万人を超え(12年連続)、「1998年以降現在にいたるまで、自殺率は戦後3度目にして最大のピークの最中であり、ピーク以前と比べ、自殺者が20%~50%増加し」、とりわけ「今回のピークの原因は不況によるものと推測されており、不況の影響を受けやすい中高年男性でピーク後の自殺率が特に急増している」とのこと。

 こうした状況を見るにつけても、本作は焦点がかなり外れてしまっていると言えるのではないでしょうか(注10)?




(注1)小出恵介が出演した映画としては、『初恋』(2006年:この記事の(2)を参照)、『キサラギ』(2007年)、『パレード』といったところが印象に残ります。

(注2)彼らはズーッと施設の中に閉じ込められていて満足に教育も受けさせてはもらっていませんから、「体は大きくとも、頭の中は空っぽ。遊び道具を持っていても、誰も何もしない」などと映画の中で言われています。そんな特殊な精神状態の者についての調査結果は、とても一般化出来ないのではと考えられます。

(注3)小出恵介は、母親からの手紙が見つかったと一人の少女にそれを手渡します(外部からの連絡は一切禁じられていたにもかかわらず)。そこに、赤ちゃんが生まれたと書いてあるのを読んで、その少女は、自分は親から見放されてしまったとスグにスイッチを押してしまいます(4年半ぶりの死者とさます)。
 また、他の同じような施設に監禁されている幼馴染みの少女に手紙を送り届けることを請け合った小出恵介から、その少女が死んだことを知らされた少年も、彼女を助け出そうとしていた望みが無意味になってしまったと、またすぐにスイッチを押してしまいます。
 いずれの場合も、小出恵介は、被験者をいきなり絶望に追い込むことはせずに、まず被験者の希望を膨らまさせ、その後でそれを潰すことによって諦めさせて自殺させるという手法を使ったとされています。ですが、普通の人間ならば、たとえそんな手法を使われたとしても、簡単に自殺などしないと考えられるところです。

(注4)上記「注3」で触れているように、6人の内2人が先ず自殺しますが、残る4人の内2人は、自殺によってではなく他人の手で殺されてしまいます(一人は、他人に自分のスイッチを押されて、モウ一人は施設から逃げる際に所長にピストルで殺されて)。
 そうすると残るのは2人ですが、彼らは小出恵介と一緒に施設を逃げ出すのに成功します。ただ、その内の1人は、自分の家に戻って母親と再会した後、なぜか母親と一緒に自殺してしまうのです(彼は、希望が潰え去ったわけでもなく、むしろ母親と再会して希望が叶ったのですから、何ら絶望しないにもかかわらず自殺したことになります)。

(注5)自殺対策推進室長は、小出恵介に向かって、「君は、希望を持っていないから絶望もしない、だから自殺はしないと思っていた」と言いますが、果たして10歳の子供についてそんなことが判定できるのでしょうか?

(注6)そのことによって小出恵介は、6人の被験者に、彼自身も被験者であることがバレてしまいます。

(注7)あるいは、“極限状況における被験者の行動”といったものを分析したといえるかもしれません。ですが、110分の映画の中で、7人もの被験者1人1人の行動について分析するなど、時間的に無理でしょうし、元々スタートは10歳の子供を被験者としするわけですから、それぞれの過去の経験など乏しいに相違なく、きちんとした分析に堪えられないのでは、と考えられるところです(実際にも、アッという間に、小出恵介と水沢エレナの2人きりになってしまいます)。

(注8)「注5」で触れたように、自殺対策推進室長は、「絶望」を「自殺」に結びつけて考えているところからすると、母親と再会して自殺した少年や、小出恵介と水沢エレナが取った行動は、その考え方に大きく反するものといえ、あるいは彼らは室長に一矢報いたのではないでしょうか?
 ところで、原作『スイッチを押すとき』(山田悠介著、角川文庫)では、すべてを本部長(映画の室長に相当)がコントロールしていましたが、最後の最後になって、本部長の意図していたところと違って、主人公のスイッチを押すのは一緒に逃げた女子の被験者なのです(彼女も自分のスイッチを押しますが)。
 なお、映画と原作とは様々な点で異なっています。原作では、施設で一緒になる被験者は4人にすぎませんし、主人公と女子の被験者が恋愛関係になることもありません。設定される時代も2030年ですし、やはりここでも映画と原作とは別物と考えた方がよさそうです。

(注9)『平成23年版 自殺対策白書』の第1章第15節「外国人の自殺の状況」には、「主要国の自殺死亡率について世界保健機関によれば、ロシア30.1、日本24.0、フランス17.0、ドイツ11.9、カナダ11.3、米国11.0、英国6.4、イタリア6.3となっている」と述べられています。

(注10)上記「注9」の『平成23年版 自殺対策白書』の第1章第4節「年齢階級別の自殺の状況」では、次のように述べられています。
 「年齢階級別の自殺者数について人口動態統計によれば、男性については、昭和30年前後に15~34歳の階級が、60年前後に35~54歳の階級が、平成10年以降に45~64歳の階級がそれぞれ大きな山を形成している」。
 「年齢階級ごとにそれぞれみると、15~24歳の階級は昭和30年前後に非常に大きな山を形成した後は、大きな変動はみられない」。
 「女性については、昭和30年前後に15~34歳の階級が山を形成した後は、男性のような大きな変動はみられない。年齢階級ごとにみると、15~24歳の階級は昭和30年前後に大きな山を形成した後、減少傾向で推移している」。
 「世代別の自殺の状況をみると、青少年(30歳未満)の自殺者数は、近年、全体の10%台前半のほぼ横ばいで推移しているが、自殺死亡率はやや増加傾向にある」。
 要すれば、青少年の自殺については、昭和30年前後に大きな山があったものの、最近ではそれほどの変化は見られない、ということではないでしょうか。


★★☆☆☆



象のロケット:スイッチを押すとき

写真展「東京ポートレイト」

2011年09月25日 | 美術(11年)
           (「舞踏家、吉本大輔」)

 東京都写真美術館で開催されている鬼海弘雄氏の写真展「東京ポートレイト」を見てきました(~10月2日)。

 同展のHPによれば、「30年以上にわたって浅草の人々を撮り続けた肖像や、都市を独自の視点で写し出したシリーズにより、近年、国際的にも大きな注目を浴びている鬼海の初めての大規模な回顧展」で、「2本のシリーズから精選したモノクロ作品約200点を一堂に展示」しているとのこと(注1)。

 といっても、下記のような町のポートレイトは20点であり、その他はすべて人物像です。



 この写真は、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』を彷彿とさせますが、場所は戦前の「玉の井私娼街」ではなく、1989年の「豊島区池袋」。戦争中の「玉の井」に比べたら随分と整ってはいるでしょうが、20年前の東京にもこうしたところがまだあったのだと驚かされます。

 他の人物のポートレイトについても、20年~30年前の浅草には、とても今の新宿や渋谷ではお目にかかれないこうした人達が、実際にまだ歩いていたのだ、と思うと感慨深いものがあります(注2)。


(「眼の鋭い老人」)

 この写真展が面白いのは、写真を通して様々の愉快な人々に出会えるだけでなく(注3)、各々の写真に付けられているキャプションがユニークで(注4)、両者が合わさって被写体の人物が今にも動き出す感じがします。
 そうしたところから、写真展を見始めた頃は、これもノスタルジアを狙ったものなのかな、ある意味で「幽霊」写真展ではないのかな、などとと思っていました。
 特に、このところ、『東京公園』とか『ゴーストライター』といった映画を見るたびに、登場人物は誰も皆「幽霊(ゴースト)」ではないのか、と思わされることもあって、この写真展もそうした観点から捉えられるのでは、と思っていました。
 ですが、ズーッと写真を見ていく内に、実はこれらの人達の方が本当に生きているのであって、3.11以降の重苦しい気分から抜けきれずに写真を見ている我々の方がむしろ「幽霊」なのかもしれないな、と思うようになってしまいました。


(注1)鬼海氏の今回の写真を見て、「20世紀前半のドイツを完璧にフォローする《時代の肖像》を大胆に、繊細に、精力的に撮り続けた」とされるアウグスト・ザンダーを思い出しました〔伊藤俊治著『写真都市』(冬樹社、1984年)P.176〕。


(「Village Schoolteacher」)

 ただ、写真展のHPには、鬼海氏は、「さまざまな職業を転々とする中、ダイアン・アーバスの作品との出会いが大きな転機をもたら」した、とあります。


(「Child with Toy Hand Grenade」)

 上記伊藤氏の著書には、アーバスは、「常に分類できない人、測り難い人を被写体とした。それがまさに自己同一性を持つ「唯一者」であり、彼女の唯一無二の欲望に奇跡的なまでにぴったりと呼応する特別なイメージであり、自らを映す鏡であったからこそ、アーバスはそれを撮ったのだ」と述べられています(P.290)。
 鬼海弘雄氏の写真集『東京ポートレイト』(株式会社クレヴィス)に掲載されている山形美術館学芸課長・岡部信幸氏のエッセイに、「鬼海は写真に写った人々を「自分自身の他者」」と述べているとありますが、あるいはそんな点でアーバスと通じるのかもしれません。

(注2)あるいは、「浅草」という土地柄によるのかもしれません。
 上記注の岡部氏のエッセイでは、引き続いて、「鬼海にとって、浅草は、個々の人間からより普遍的な人間性を写真で表現することを可能にする「特殊な場所」となる。鬼海は、浅草という限定した場所で、そこに吸い寄せられて往来する人を眼差すことによって、写真を超えた「世界のへそ」につながることを求めている」と述べられているところです。
 少なくとも、東京の西部で長年暮らす者にとって、浅草は、行くたびに異界を感じてしまう「特殊な場所」であることは間違いありません。

(注3)そんなところから、荒木経惟氏が最近精力的に展開している「日本人ノ顔」プロジェクト―「全国47都道府県すべての地域に暮らす人びとを撮影し、総計数万人の日本人の肖像を記録しようとする」試みとされます―の写真とも通じるところがあるのかな、と最初は思いましたが、鬼海氏の写真は、あくまでも「浅草」という場所、そして写真家自身の内面に深く拘ったものという点で、むしろ荒木氏の写真の対極に位置するのではないか、と思っています。


(「広島の顔」)

(注4)HPに掲載されているものの他には、例えば、「ヒールの高いサンダルを履く人」、「何年かぶりで会った物静かな労務者」、「当分、晴天が続くという婦人」など。

ゴーストライター

2011年09月24日 | 洋画(11年)
 『ゴーストライター』をヒューマントラストシネマ有楽町で見ました。

(1)この映画を制作したロマン・ポランスキー監督の作品は、『戦場のピアニスト』(2003年)に感動したこともあり〔その後の『オリバー・ツイスト』(2006年)はあまりいいとは思いませんでしたが〕、また久し振りの作品でもあり、映画館に行ってきました。

 物語は、元英国首相アダム・ラングピアース・ブロスナン)の自叙伝を、前任者が謎の死を遂げたため、引き継いで書き上げることになったゴーストライターユアン・マクレガー)が、ラングが滞在している米国の離島の別荘まで行って仕事をしつつ、あわせて前任者の死の真相の究明にも携わるうちに、重大な秘密にぶち当たり、そして……、というものです。

 主要な俳優が皆英国(あるいはアイルランド)出身で、撮影場所もヨーロッパ(映画ではアメリカとされていますが)、そして風雨が厳しい天候の時が選ばれたりしているので、全体はまるで英国の映画のような感じを受けてしまいます。
 その中で、ラングが、首相在任中テロ容疑者を不当に逮捕させたとして国際刑事裁判所に告訴されたというニュースが飛び込んできたり、別荘の外では東洋系の雇い人が、風が吹きすさぶなかを箒で落葉をかき集めるという無意味な仕事を熱心に行っていたり、その妻と思われる怪しげな女性が食べ物を突然運んできたりと、何とも不気味な雰囲気が画面を横溢しています。

 前任者の死の背後にはとてつもなく大きなものが隠れ潜んでいるのではないか、と見る者の期待をドンドン膨らませていきますが、各場面で発揮される監督の手腕はただ事ではない感じです。

 とはいえ、難点はいくつもあるでしょう。
 例えば、
a.前任者が使っていた車にセットされているNAVIにインプットされていた行き先までの経路情報が、前任者が死んだあともそのままになっていて、ユアン・マクレガーが、前任者が死の直前に向かった目的地まで容易に辿れるというのは、いくらなんでもという気がします。
 車は、前任者が死んだ時にフェリーに取り残されていたもので、パトカーが来て調べています。その際にはNAVIのことも調べるでしょうから、警察は、前任者と目的地の屋敷、そしてその所有者との関係も把握することでしょう。その段階で、何らかの組織的介入がなされて、NAVIにインプットされた情報は消去されてしまうのではないでしょうか?

b.前任者は、秘密の重大情報を、死の直前まで書いていた自叙伝の冒頭部分に書き込んでいますが、なぜそんな間怠っこしいことをしなくてはならないのか、よくわかりません。どうして、すぐに連絡を取り合っていた人物に、真相を伝えなかったのでしょうか(前任者は、その人物に対して、何かあった時はその部分を読んでくれというようなことを連絡しただけのようです)?自叙伝に書き込んで公表することにどんな意味があったのでしょうか?

 でも、ユアン・マクレガーは、作家であって探偵ではなく、前任者のことを調べたりはするものの、単なる好奇心のためのようでもあるために、元々この映画全体はそれほどサスペンス性が溢れるものとなっていません。
 ですから、種々難点があるにしても、映画の雰囲気自体を壊すわけでもないのではないか、という気がしてきます。

 主人公のユアン・マクレガーは、『ヤギと男と男と壁と』と同じように一種狂言回しの役割を本作で演じていますが、元首相の自叙伝を書くといってもそんなに気乗りもせず、前任者の死の真相を調査するにしてもそんなに身を入れるわけでもなく、それでも真相にドンドン近づいてしまい、ラストになると死神がとりついたような感じになってしまうという、はなはだ難しい役柄を、大層上手くこなしています。



 また、元英国首相に扮するピアース・ブロスナンは、『リメンバー・ミー』の時とは違って、実にのびのびと演技していて、この映画が面白くなる要因の一つとなっています。




(2)ユアン・マクレガーは、映画の中では「ゴースト」とだけ呼ばれて、その名前は最後まで明確に示されず、結局はゴーストそのものになって消えてしまう運命に初めから置かれていたと思われます。
 むろん、ユアン・マクレガーの前任者のマカラは、謎の死を遂げていますから、すでにゴーストです。そして、そのゴーストが、現役のゴーストを縦横に走らせたりするのです(抽斗の後ろに秘密に隠されていた資料をユアン・マクレガーが見つけることによって、事件が解明の方向に動きますが、前任者は発見を予期していたのかもしれません。また、前任者が自叙伝の原稿に書き込んだメッセージを現役のゴーストが読み解くことによって、秘密が明らかとなります)。

 さらに、彼がその自叙伝を書こうとしたラング元首相も、妻に操られるだけの実態のない「ゴースト」であって(だから、逆に、体力作りに精を出しているのでは?)、この映画はゴーストがゴーストについて書く話だと考えてみたら面白いのでは、と密かに思ったりしました(誰でも思いつくことでしょうが)。

 そのゴーストたる元首相のラングを空港で狙撃する者も、顔つきといい雰囲気といい、ゴーストそのものではないでしょうか(息子を殺されモヌケの殻状態ですから、ゾンビともいえるかもしれません!)。

 なお、ラング元首相のモデル探しをしたりする向きもあるようですが、そんなことはクマネズミにはあまり関心がありません。

(3)福本次郎氏は、「その幾重にも張り巡らされた伏線が国家的陰謀に結びついて行く過程は、派手なアクションに頼らず、登場人物の表情の些細な変化がヒントとなる。見る者に謎を解く時間を与えてくれる間の取り方はミステリーの王道だ」として80点をつけています。
 また、渡まち子氏も、「本作の主人公には名前がない。ゴーストは普遍的で、代わりはいくらでもいるのだ。大掛かりなCGや派手なアクションは何一つないが、小さな伏線が最後には見事に実を結ぶ、ミステリー映画の王道のような作品で、映画ファンにはたまらない」として70点をつけています。




★★★☆☆




象のロケット:ゴーストライター

ミケランジェロの暗号

2011年09月21日 | 洋画(11年)
 『ミケランジェロの暗号』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)この映画は、ナチス物と言えば言え〔映画の中でヒトラーやムッソリーニに関することは話題に上りますが、実際には登場しません。ただ親衛隊(SS)将校は何人も登場します〕、また強制収容所も出てくることは出て来ますが、これまでの映画のように、そうした事柄自体を非難することよりも、むしろそうした装置を巧みに使って、実に愉快で面白い物語に仕上げています。

 映画は、第2次大戦末期のお話。ナチスドイツは、イタリアとの同盟関係の一層の強化を図るべく、ムッソリーニに「ミケランジェロの素描」を贈ろうとし、それを所有していると聞きこんだオーストリアの画商から押収しようとします。

 映画の冒頭では、ウィーンに住むユダヤ人画商の息子・ヴィクトルモーリッツ・ブライブトロイ)が、隠匿しているはずの本物の「ミケランジェロの素描」の在り処を白状しないことから(注1)、SS本部での尋問のためウィーンからベルリンへ移送される途中、乗っていた飛行機が墜落、そのどさくさで、ヴィクトルはSS将校になりすましてしまいます。

 実は、この飛行機事故で助かったのは、ヴィクトルとSS将校の2人なのですが、このSS将校というのが、ヴィクトルの画廊で雇われていた女使用人の息子ルディゲオルク・フリードリヒ)で、元々はヴィクトルの親友だったのです。
 彼は使用人の息子であるために、いくらヴィクトルが家族扱い・親友扱いしようとも、劣等感に苛なまれていたのでしょう、ある時期ベルリンに行っていたと思ったら、時節柄SS将校となってウィーンに戻り、逆にヴィクトルを尋問する立場に逆転したというわけです(結局、ヴィクトル一家は強制収容所に入れられてしまいます)。

 ですが、ルディが飛行機事故による傷で動けなくなってしまったために、またもや立場が逆転し、ヴィクトルはルディが着用していたSS将校の制服を身にまとい、逆にルディはユダヤ人用の衣服を着ざるを得ない破目になってしまいます。
 とはいえ、それも長くは続かず、再度立場は逆転し、ヴィクトルは強制収容所に入れられてしまいます。
 しかしながら、どうしても本物の「ミケランジェロの素描」が見つかりません。というのも、強制収容所で亡くなったヴィクトルの父親が、新進画家にその模写を何枚か頼んでおいたことから、SSが模写に振り回されてしまったためなのです。

 ここから先、ヴィクトルやルディーがどうなるのか、本物の「ミケランジェロの素描」は見つかるのかどうか、などといった点は見てのお楽しみにしておきましょう。

 ただ、邦題に「暗号」とあるところから、謎解きと身構えて見るよりも(謎自体は至極簡単なことなので、すぐにわかりますし)、原題「Mein bester Feind」(英語のタイトル「My Best Enemy」)の意味するところを愉しんだ方が面白いのではと思いました。

 この映画でヴィクトルを演じたモーリッツ・ブライブトロイは、これまた傑作の『ソウル・キッチン』において主人公ジノスの兄イリアスを実にコミカルに演じていて、本作でもただでは済まないのではと思っていたところ、案の定、その演技力の素晴らしさに圧倒されました。



 また、ルディに扮したのは、ゲオルク・フリードリヒで、一方では、劣等感にさいなまれ、SS将校としてヴィクトルを酷い目に遭わせながらも、他方、長年親しく付き合ってもらっていたことや、飛行機事故で救出してくれたこともあり致命的なところまでヴィクトルを追い込めない気の弱さもあるといった二面性を持った難しい役をうまくこなしています(なお、彼は『アイガー北壁』でオストリア隊の一人を演じていたとのことですが、覚えがありません)。



 さらに、紅一点的なレナ役にウルズラ・シュトラウスが出演しています。そしてこのレナも、一時ルディと婚約するものの、それはヴィクトルの財産を守るためであって、実はヴィクトルをずっと愛していたという二面性を与えられている役柄であり、それを彼女は随分と魅力的に演じています。



(2)以上の簡単な要約からもお分かり願えるでしょうが、本作の眼目は、主人公の立場が目まぐるしく入れ替わるという点にあると思われます。
 なかでも、SS将校のルディとユダヤ人のヴィクトルが入れ替わって、暫くの間それが通用してしまうところが、実に面白く描かれています(注2)。

 こうした身分や立場が入れ替わってしまうとか、人が入れ替わってしまうという筋立ての物語はこれまでも随分作られてきました。
 古くはマーク・トウェインの児童文学『王子と乞食』とか、モーツアルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』などがスグに挙げられるでしょう。

 最近見た映画ではクリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』があります。
 失踪した息子が戻ってくると言うので、駅に出迎えた母親(アンジェリーナ・ジョリー)が、その子供を見てこれは自分の息子ではないと言い張るところから、この映画は始まり、警察が母親の言い分に取り合ってくれないために、彼女と警察との戦いが続いていくという展開となります。

 また、歌舞伎でいえば、例えば、『寺子屋』(『菅原伝授手習鑑』の四段目)において、松王丸は、自分の実子である小太郎の首を見て、内心は驚愕しつつも菅丞相(菅原道真)の子息だと確認します。

 これらと比べると、本作においてヴィクトルは、ユダヤ人でありながらもSSの制服を身にまとい、しばらくの間はそれで通用してしまうという奇想天外なことをしでかしながらも、コメディタッチで描かれているために、誠に愉しい作品となっています。

(3)渡まち子氏は、「思うに、本物というのは、収まるべきところに収まってこそ真の本物たりうるのではないか。物語は、ヴィクトルの母親を、手に汗握る駆け引きで救出した後、あっさりと終戦となる。だが狡猾にも画商に収まったルディに対して、ヴィクトルが打つ“最後の大勝負”が本当のクライマックスだ。ミケランジェロがウィンクしたかのようなラストは、爽快で胸がすく」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「知恵と機転で命の危機を生存のチャンスに変える主人公。彼の奇想天外な発想と驚きの行動力は時にスリリングで時にコミカルだ。映画は幻の名画を巡るユダヤ人画商とナチス親衛隊員の駆け引きを通じて、ホロコーストのか弱き犠牲者というステレオタイプではない第二次大戦中のユダヤ人像を描く」として70点をつけています。


(注1)映画では、「ミケランジェロの素描」について、400年前に見失なわれたものの、ヴィクトルの先祖が150年前に入手したとされ、以来ヴィクトルの画廊で秘密に保管していました。
 画廊で行われたオークションに際しての記者会見において、イタリア人記者に、その絵は今どこにあるのかと尋ねられて、ヴィクトルの父親は、鑑定を依頼されて一時的に自分の下にあったが、今ではアメリカの所有者に返却されているなどと嘘を答えています。
 イタリア人記者の質問には、元来その絵はイタリアのものなのだからイタリアに返却すべきではないのか、ということが背景にあり、ですから、独伊の同盟関係強化のための格好の贈り物として、この絵に目が付けられたわけです。
 なお、ヴィクトルの画廊が秘密に隠し持っていることがナチスに分かってしまったのは、家族同様に扱って信頼していたルディにヴィクトルがこの絵を見せためで、密かにSSに入隊していたルディがその情報を上官に密告したことによります。

(注2)むろん、この点に関しては問題点はすぐに指摘できるでしょう。
 例えば、ルディがあれほど自分はユダヤ人ヴィクトルではなくSS将校のルディ・スカメルなのだと言っているのですから、本部に問い合わせをするなり、SS将校として知っておくべき事柄をいくつか質問したりすれば、たちどころに化けの皮ははがれてしまうことでしょう。
 ですが、そんな野暮なことは言わずに映画を楽しむべきだと思われます。



★★★★☆




象のロケット:ミケランジェロの暗号

東京公園

2011年09月18日 | 邦画(11年)
 『東京公園』を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

(1) この映画は、『EUREKA』(2000年)以来できるだけその作品を見ようとしてきた青山真治監督が制作したものですから、公開されたとき是非見てみようと思ったものの、上映された映画館が少ない上に、どうしても時間の都合がつかず、とうとう見逃してしまったところ、期間限定でレイトショーながら近くで上映されるとわかり、喜び勇んで出かけてきたところです。

 物語は、歯科医の初島高橋洋)の診察風景から始まります。
 初島はそれを途中で打ち切って、医院を出て公園に向かいますが、その公園では、大学生の光司三浦春馬)が、乳母車をひきながら散歩している女性(井川遥)の姿を、隠れて撮影しています。



 初島は光司に向って、盗み撮りを咎め立てしますが、それは狙いがあってのこと。
 別の日に光司を呼び出して、自分の指示するようにその女性を追いかけて写真に収めてもらいたいと頼みます。暇であり、報酬ももらえるとの話なので、光司もその要請を受け入れます。

 光司は、初島からの連絡に従ってその女性を尾行しますが、どうも彼が幼い時分(小学2年生の時)に亡くなった母親によく似ていることに気が付き出し(なにしろ、光司の部屋にある写真の母親も井川遥なのです!)、単なる被写体とは思えなくなってきます。

 これを傍で見ていてイライラし出したのが、光司の姉の美咲小西真由美)。光司に向かって、被写体の人妻をどう思うの、大事な弟が自分と同世代の人妻に翻弄されているのを見るに見兼ねてね、などと言います。でも、光司の方は、そういう美咲の心情など何も気が付きません。



 そこで、乗り出してきたのが、光司の親友ながら事故で死んでしまったヒロ染谷将太)の彼女だった富永榮倉奈々)。血のつながらない姉の美咲が光司のことを心底愛していながらも、それはダメなのだと自分に言い聞かせようとしているのだと、光司に縷々説明するのです。
 それに対して、光司の方は、美咲は9歳も年上の姉なんだよ、などとぼけたことを言うので、富永の方も、あんたは美咲の目をまっすぐに見たことがあるのか、と言い募ってしまいます。




 でも、何かにつけて美咲のことを言い出す富永の方は、どうも光司を憎からず思っているようです。ある時は、おでんを持って、光司が住んでいる家にやってきます。炬燵に入って食べながら2人で、映画の話などをしたりします。
 ただ、その家には死んだはずのヒロも住んでいて、富永には見えないものの、光司にはありありと見えるばかりか会話までしているのです。

 途中、母が倒れたという知らせを受けて、美咲と光司は、大島に一緒に行くところ、2人の関係は目立った変化は起こりません(注1)。
 また、一度、光司は美咲の住む家を訪れ、その料理する姿などを写真に収めたりします。
 その際に、2人はキスにまで至るものの、「姉さんが姉さんでよかった」、「私も光司が弟でよかった」と言って別れています。

 その後、美咲の方は、父親に電話して、少しでも母さんと一緒に過ごしたいから暫くそっちで暮らしたい、と告げます。
 光司の方も、初島歯科医師のアルバイトを止めることにします。
 その光司のもとに、富永が「部屋が空いているはずだよね」などと言いながら荷物を持ってやってきて、……。

 ごく普通の大学生が、ごく普通の人々に囲まれて、映画は大した事件も起こらず淡々と展開していきながらも、そんな中に、死んだ人間の姿がさりげなく嵌め込まれたり、ゾンビ映画までもが地続きになっていたりして(注2)、不思議な雰囲気を醸し出していて、実に面白い作品だなと思いました(注3)。

 俳優の中では、とらえどころのない光司の役を巧みにこなしている三浦春馬を見直しました。



 また彼以上に重要な存在と思える冨永に扮している榮倉奈々も、これまでクマネズミはあまり見かけなかったものの、若いながら得難い女優だなと思いました。

(2)映画の中で、東京は、真中に公園があり、またそれを取り巻くように公園が置かれている、と誰かが述べる場面があります。
 真ん中の公園とは、皇居のことでしょうし、映画の中で井川遥が乳母車をひいて歩く公園(代々木公園、錦糸町駅に近い猿江恩賜公園、船の科学館のある潮風公園、東京北部の光が丘公園など)は、皇居を大きく取り巻くように、東京の周縁部に配置されているといえるでしょう(注4)。

 こうした点から見ると、皇居を中心とする東京は、その周縁部に配置されている公園で取り囲まれていて、実に暖かな関係性の下にあると考えられます。
 映画でも、主人公の光司自身にギスギスしたところがなく、彼を中心にして取り巻く人間関係にも、全体として暖か味が感じられるところです。

 ただ、この皇居については、フランスの批評家ロラン・バルトが『表徴の帝国』(宗左近訳、ちくま学芸文庫)において、次のようにも述べています(P.54~.55)。
 「わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、≪いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である≫という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、……、その中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市の一切の動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、〔非現実的で〕創造的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである」。

 周囲の人間が自分のことをどう見ているかについて実に鈍い感受性しか持ち合わせていない光司は、もしかしたらここでいう「空虚な中心」なのかもしれません。
 その光司の親友だったヒロは、事故で死んでいるのですが、その姿を光司だけは見ることができるのです。これも、「空虚な主体」だからこそ可能なのでは、と言えないでしょうか。
 さらには、この映画で、ゾンビ映画が映画の中の映画として映し出されることにも関係してくるのかもしれません。
 光司に好意を持っている冨永がゾンビ映画マニアでもあり(「私にとってホラー映画こそが宗教映画」などと言います)、『吸血ゾンビの群れ』とのタイトルで映画の中で映し出されるものは、倉庫の裏手で何体ものゾンビが人間にとりついて血を吸うシーンなのです。
 これも「空虚な中心」である光司に、「生命なき死んだ体」のゾンビが関係している、と言えないでしょうか(注5)。

(3)渡まち子氏は、「青山真治監督らしからぬ、ふわふわした浮遊感に最初は違和感を覚えるが、物語の中にはファンタジックな演出で死者が紛れ込み、生と死を同じフィールドで考えさせる演出に“らしさ”も感じた。秋のやわらかな日射しに包まれた公園が魅力的で、美しいカメラワークが見所。静かなストーリーだが、じんわりと染みてくる。三浦春馬が、青年期の揺れる心情を自然体で演じていて好演だ」として65点をつけています。
 他方で、福本次郎氏は、「いまだに将来の行き先を決めきれずにいる大学生が、彼女たちとの関わり合いの中で本当に己の人生に必要なものは何かを問いかけていく。ところが、あまりにも曖昧で思わせぶりなシーンの連続は、答えなどないことをごまかすための手段にしか見えない」などとして40点をつけています。




(注1)父親は、釣りをして暮らしていると言ってアッケラカンとしていますが、母親の方は、なれない島暮らしで疲れがたまったのだ、と言います(どうも、光司が大学に入った頃に両親は大島にやってきて、それから4年弱経過しているようです)。

(注2)雑誌『群像』の本年7月号における蓮實重彦氏と青山真治氏の対談「「混沌」から「透明」へ」では、例えば、蓮實氏が「私は随分ここには幽霊がいるような気がしてね。実は、ほとんどの人が幽霊ではないか」と言うと、青山氏は「つまり、その意味でだれも彼も複製=幽霊に見えるような作り方をしてしまった、ということなんでしょう」などと答えたりしています(P.216)。
 そんなことなら、前日の『日輪の遺産』は、高女の生徒のみならず、真柴少佐達も皆幽霊でしょうし(前日の記事の「注5」をも参照)、『ゴーストライター』も、問われるまでもなく幽霊=ゴーストのオンパレードといった有様です!

(注3)だからといって、前記注で取り上げた対談で、蓮實氏が「普通、我々がバストショットと言っているもので人物をことごとく構図の真ん中に置いた、これには本当に感動しました」(P.207)などといっていることに賛同するわけのものでもありません(そんな小難しい評価は、プロの評論家にお任せいたします!)。

(注4)そうした公園の配置がアンモナイトのように渦を巻いているという理由で、初島歯科医師は、妻が自分との出会いの頃のことを大事にしているとわかったと言って(大学の考古学サークルで出会い、彼は妻にアンモナイトをプレゼントしたとのこと)、彼の家庭内の騒動はひとまず落ち着くのですが、果たしてそこまでの形状をなしていると言えるのでしょうか?

(注5)興味深いことに、ほぼ同じ時期に公開された『スーパーエイト』においても、登場する少年たちはゾンビ映画『The Case』を撮影していて、その映像がエンドロールで流されるのです。
 なお、『東京公園』のゾンビ映画の場合は、ゾンビがいくつも現れて血を吸う場面が描かれているのですが、『The Case』の場合は、一応のストーリーがあり、かつラストで監督のチャールズが登場すると、解毒剤で正常に戻ったはずのアリス(エル・ファニング)のゾンビに襲われてしまうというオチまで用意されています。



★★★★☆




象のロケット:東京公園

日輪の遺産

2011年09月17日 | 邦画(11年)
 『日輪の遺産』を角川シネマ新宿で見てきました。

(1)ベストセラー作家・浅田次郎氏の作品が原作でもあり、また評判もよさそうなので映画館に行ってみたのですが、客の入りはイマイチでした。

 物語は、終戦直前、日本軍によって秘匿されていた財宝を占領軍の手から守るために、極秘の命令を受けた将校2名と下士官1名が、高等女学校の生徒20名と引率の教師1名を使って、多摩の弾薬庫の奥に仕舞い込む、というものです。

 映画の冒頭では、カリフォルニア在住の元通訳将校イガラシミッキー・カーチス)が、無名ながらも偉大な3人の日本人の話をするとして、この物語を日系新聞記者に喋っていて、ついでその物語が映像として描き出される、という構成になっています。
 さらに、イガラシの話の中でも、高等女学校の生徒20名の級長だった久枝八千草薫)が物語るものが大部分を占めています。
 むろん、元通訳将校イガラシは架空の人物(神戸出身の日系2世とされています)であり、彼が語る物語は当然フィクションですが、さらにその中では久枝の話が中心となっていますから、映画のフィクション性(そういうものがあるとして)は一層高まるといえるでしょう(映画という擬制における物語の中の物語)。

 ということもあって、映画を見ていると、フィクションだから仕方がないと思いつつも、当時としてありそうもない描写に一々躓いてしまう感じになります。
 一番気になるのは、隠匿される財宝のことです。
 この映画では、戦争中にフィリピンから移送された900億円(現在ならば200兆円相当とのこと)もの財宝を、多摩の火工廠に設けられた壕の中へ運び込む作業が中心的に描かれます。
 ただ、900億円もの財宝(大部分が金塊なのでしょう)をわざわざ隠匿する理由が、戦後復興を混乱なく遂行するためとなっている点が、上手く飲み込めない感じがします。

 すなわち、この財宝が存在するという裏打ちがあって始めて、政府が発行する貨幣がこれまでどおり人々に信認され、インフレも起きずに済むだろうとされるのです。そうしないと、物凄いインフレが起きて、1000万人が餓死するに至るだろうなどと、映画ではこの作業に従事する将校の一人である小泉主計中尉福士誠治)によって述べられます(注1)。
 でも、こうした議論は、まさに金本位制的な考え方に基づくものであって、戦前に既に各国はすべてそれから離脱してしまっていますから(日本は1931年)、そんな議論が終戦間際に政府部内でなされたとは思えないところです。
 それに、映画の中では、この900億円の財宝自体は、マッカーサーがフィリピンにいたときに持っていたものであって(父からの遺産ともされています)、日本軍がフィリピンを占領した際に横取りして、それを山下奉文司令官が日本に送ったとされています(注2)。
 とすれば、略奪品にほかならないのですから、そんなものが貨幣の価値の裏打ちとして存在するなどと、いくらインフレの真っ最中だからといっても、公表出来るはずもありません。公表できないのであれば、それを所有している意味などないも同然です。
 現に、戦後復興期にはインフレも起きましたが、そんな財宝の裏打ちなどなくとも、基本的に円に対する信認は揺らぐことはありませんでした(注3)。

 更に、この映画では、当時ありそうもないと思えることが、その他いろいろ描かれています。
 例えば、
a.約200兆円もの金塊を隠匿する作業が、たったの3名の軍人に任されています。
 それも、真柴少佐堺雅人)と小泉主計中尉、それに望月曹長中村獅童)といった出身がバラバラの人物の寄せ集めで、これでことが成就すると陸軍幹部は考えたのでしょうか?




b.この財宝隠匿工作を実行する将校は、舞台とされる時期が8月中旬という真夏にもかかわらず、たえず厚手の長袖の軍服を身に着けているのです(注4)。
 また、彼らに幹部からの命令書を届ける憲兵将校が、「旧式詰襟の軍服の上にマントを着」ているのは(注5)、真冬でもないのに如何にも変な感じがします。

c.真柴少佐ら3人と生徒の久枝が、乗っていたトラックのエンストのため河原で休んでいると、その憲兵将校が、いとも簡単にそこまでオートバイで乗りつけて、命令書どおりに久枝を殺そうとします。
 この憲兵は、いったいどんな方法で火工廠の壕で起きたことを知り、その上でこの河原まで到達することができたのでしょうか(注6)?

d.日本占領後、マッカーサーが、通訳のイガラシだけを伴い車1台で火工廠に現れるのですが、いくら隠密行動をするにしても、まだ占領直後で何が起こるか分かったものではありませんから、そんな単独行動はとても常識的ではない感じがします。

e.その際、久枝が突然、火工廠の門の横の木の茂みの中から一人で現れて、両手を広げてマッカーサーの車の進入を阻止しようとします。
 いつ現れるか分からないマッカーサーの乗った車を、久枝は、終戦直後からズーッとそこで待ち受けていたとでもいうのでしょうか?

f.マッカーサーは、問題の壕に入って行き、長らく探し求めていた父からの遺産と称するものをやっとのことで目の当たりにします。ですが、その財宝を取り巻く状況を見て、そして鉢巻に書かれている「七生報国」の意味をイガラシに聞いて、すぐさまこの場所を元通りに埋め戻すことを命じます。ですが、マッカーサーに、高等女学校の生徒たちの気持がすぐに理解できるなどありうる話でしょうか?


 とはいうものの、こうした事柄はすべて、制作側において事前によく検討された上で、映画のなかで描き出されているものと思われます。むしろ、そのフィクションとしての物語の特色を一層際立ったものにするために、意図的に取り入れられているものと考えるべきでしょう。

 元々、噂としての山下財宝は、日本に移送ができずにフィリピンの山中で埋められているとされるものであり(たとえば、この記事)、そんなものが日本に移されて隠匿されていれば、運び込む作業は大変だったでしょうから、たとえ戦前であっても秘密にしておけるはずがありません。
 そして、それを今度は別の場所に移すというのであれば、またもや大作業になりますから、それも完全に秘密にすることなど不可能でしょう。
 逆に言えば、そんな話が残っていないということは、実際のところ財宝が日本に隠されていたわけではないということでしょう(注7)。
 にもかかわらず、山下財宝を明示的に取り上げようとするために、映画においては、金庫から財宝を積み出す作業以降、多摩の火工廠近くの南部鉄道・武蔵小玉駅に財宝を積載した貨物列車が到着するまでの描写はすべて省略され、単に、その駅で財宝をトラックに積み込み、火工廠へ運搬し、積み下ろして目的の壕に運び入れるまでが描かれるだけとなっています。
 物語としては、サスペンス性がずっと高いと思われる前半の部分(注8)がカットされ、山中の木々の茂みにより作業が米軍機に隠されるために安全であり、それも酷く単調な作業にすぎない後半の部分が映画では描かれているのです。
 そこまでして取り上げるということは、その部分にこそ、この映画が描き出したいものがあるからなのでしょう。
 その部分に一番のスポットを当てたいがために、上で申しあげたように、様々な点でリアルさよりもむしろフィクショナルな方にずらしているのではないかと思いました(注9)。
 それに、高等女学校の生徒達が運んでいた「決号榴弾」と外書きされた箱の中に入っていたものは、実際のところは何だったのでしょうか?本当に金塊が入っているとしたら、そんなに重い物を高女の生徒達4人ほどで持ち運ぶことなど可能だったのか、と思えるものですから。

 ここからは、いきなり何の根拠もない妄想なのですが、箱の中に入っているのは、実は「日本人の心、精神、魂」といったものではないか、と考えてみたらどうでしょうか?
 あるいは、金塊よりも遥に重いかもしれませんが、もしかしたら一人でも持ち運べる軽さかもしれません。
 絶対に占領軍に探し出されてはならず、これから起こるであろう未曾有の国難に際してその力を発揮してもらう必要があるものだとしたら、出所不明の金塊よりも、むしろそうしたものの方がずっと意味があり、役に立つのではと思われます。
 そうしたものだからこそ、高女の生徒たちは命をかけて守ろうとしたのではないでしょうか(誠に不謹慎な連想ですが、単なる金塊ならば、それらを取り巻く生徒たちの白骨は、財宝を守る海賊の骸骨と変わりがないことになりかねません)?

 ソウ考えれば、ここで描かれた高女の生徒たちと、沖縄のひめゆり部隊とか、映画『樺太1945年夏 氷雪の門』で描かれた樺太の女性電話交換手たちとも結びつき、果ては靖国神社で祀られている英霊にもつながってくるのではないかと思われます。




 そして、東日本大震災及び福島原発事故というかってない国難に襲われた今こそ、彼女達が命を賭して守ろうとしたものが必要とされるのではないでしょうか(注10)?

(2)劇場用パンフレットにおいて、脚本家の青島武氏が、「原作では現代部分が執筆当時のバブルの時代に設定されているので、今となっては使えないだろうというのが、まずありました」、「占領軍の通訳をしていたマイケル・イガラシが映画の頭とお尻に登場して回想するという構成ですね。これを思いついた時点で部句の仕事としては半分終わった気がしましたね」と語っています。
 実際のところ、原作の小説の冒頭(序章)は、13歳の久枝の独白であり、末尾(終章)も「スーちゃん」がクラスメイトに話している言葉ですから、映画の構成とはかなり違っています。

 そればかりか、小説において現代を取り扱っている部分に登場するのは、映画には登場しない、倒産寸前の小さな不動産屋を営む男(丹羽)と、工場の経理事務に従事する傍ら福祉関係のボランティア・サークルに参加している男(海老沢)なのです。
 彼らが、老人になった真柴少佐や望月曹長と出会うことによって、映画と類似する物語が展開されはします。
 ただ、映画における現代的な部分は、財宝の隠匿を巡る物語を引き出すための導火線的な位置付けとなっているに過ぎませんが、小説においては、丹羽や海老沢は決して狂言回しではなく、その人物像がかなり書き込まれています。
 そのために、小説にあっては映画と異なり、現代的な部分のウェイトが高まり、現代の世相に対する批判などもかなり盛り込まれた展開になっています。
 要するに、文庫本で500ページを超える分厚い原作小説は、様々な次元で読み解けるまさに浅田ワールドの仕上がりとなっているものと思います。
 これに対して、映画においては、現代的な部分は通り一片のものとして描かれているに過ぎず、専ら終戦の日前後に起きた特異な出来事の方に焦点を当てることによって、その持つ意味合いをクッキリと描き出そうとしていると考えられます。
 ですから、この場合にあっても、映画と原作小説とは完全に別のものと考えるべきなのでしょう。

(3)さて、そうだとしたら、この映画をどう思うのかという点ですが、確かに、高女の生徒たちの純粋な思いというものは、映画のように余計なところをすべて取り除けて、ストレートに描き出すことによって、観客によく伝わってくると言えるでしょう。
 ただ、クマネズミのように捻くれてしか周りを見ることが出来ない者にとっては、登場する人物にどれも幅がなく、皆一つのことをやり遂げるのに一生懸命というのでは、映画で描き出される作業が単純なものだけに、全体として大層単調になってしまっているのでは、という感じがしました。

 なお、真柴少佐役の堺雅人も、望月曹長役の中村獅童も、さらには小泉主計中尉役の福士誠治にしても、皆適役でありなかなかの演技力を見せていますが、この映画はなんといっても引率教師役のユースケ・サンタマリアに尽きるのでは、と思いました。



 これまでも、『鈍獣』や『踊る大捜査線3』でも見てきましたが、どちらかというとコメディ・タッチの役柄が多かったように思うところ、本作においては、学校の先生と言う大層真面目な役柄ながら、爽やかさを実にうまく出しているなと感心してしまいました。

(4)渡まち子氏は、「終戦間近の極秘ミッションと現代が交錯しながらつながっていく巧みなストーリーに込められたのは、決して思い描いた通りの未来とはいえない現在の日本への苦言と、それでも多くの犠牲の上に今があるとのメッセージだろう。耳から離れないのは、少女たちが歌う比島決戦の歌「出てこいニミッツ、マッカーサー」のメロディ。目に焼きつくのは、終盤、久枝が再会する少女たちの幻影。「仲間はずれなんかじゃない」との言葉に思わず落涙した」として65点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「みな、日本は終わりだとわかっていても絶対に口にしてはいけない、そんな見えない軛に支配された当時の空気と日本人の心情がわかりやすく再現される。ただ、物語は退役米兵の回想と元女子学生の打ち明け話の二重構造の中途半端な構成をとったため、米兵部分の蛇足感が否めない」として50点をつけています。



(注1)原作の『日輪の遺産』(浅田次郎著、講談社文庫:元の本は1993年刊行)においては、小泉主計中尉が、「現在の日銀券発行残高は302億円です。わかりますか、まちがいなく数か月以内に、この残高は倍に膨れ上がります。それらのすべては生産性のない、物の裏付けの何もない金、すなわち、価値のない紙幣」だから、「卸売物価は一瞬のうちに数倍にはね上がります。つまり、国家経済の破綻」だが、しかし、「国民の命は、この金塊によって必ず救われるのです」と説明します(同書P.218~P.220:以下のページは、すべて同書)。
 要するに、「900億円の金塊が地の底から湧いて出れば」、「その瞬間から、国家と国民生活は救われる」ということでしょう(P.181)。
 ですが、いくら貨幣に裏付けがあって信認されるとしても、根本的には供給される物資が極端に不足しているのですから、事態は何も改善されないのではないでしょうか?こうした事態を改善するための措置としては、短期的には、生産財であれば一番必要な基幹的な産業に優先的に振り向け(「傾斜生産」)、消費財であれば、均等に割り当てる(「配給制」)といった供給側の措置でしょう。むろん、その上で、中長期的に、供給量の増大を図る必要があるでしょう。
 とにかく、900億円の財宝があるということを天下に公表しても、事態の改善には繋がらないないのではないかと考えられるところです(まして、それが略奪したものであれば)。

(注2)原作では、「2千億円の金塊は、マッカーサーが父の代から、フィリピン独立のために蓄えた財宝だった。山下将軍はマラカニアン宮殿の地下からそれを掘り出して、日本に送った」と梅津参謀総長が述べています(P.78)。
 なお、「2千億円の金塊」のうち、半分は、GHQが「大蔵省造幣局東京分室の地下倉庫」から押収したことになっていますから(P.295)、この映画で取り上げられる900億円の財宝とは、残りの半分ということになるでしょう。

(注3)実際には、卸売物価は1935年を100とした場合、1945年8月に350、1949年に2万800へと著しく騰貴しました。ただ、1949年のドッジ・ラインの緊縮政策によって、インフレは収束しています。

(注4)真柴少佐は、いつも胸に「飾緒」を付けています。そのため、いつも礼服を着ている感じがしましたが、Wikipedeiaの記事によれば、参謀将校はいつもそれを付けていたとのこと。

(注5)原作P.371。なお、原作P.103では、彼が「昭5式の詰襟」を着ていたことから、「2.26事件の亡霊じゃないか」と真柴少佐が冗談ながら述べています。

(注6)その場で、真柴少佐は、一瞬のスキを衝いて憲兵将校の首を軍刀で刎ねてしまうのですが、映画の中では「真柴さんは、剣道の道場を開いていた」とあり、また原作でも「真柴さんは居合の達人だった」とされています(P.373)。

(注7)戦争中に供出されたダイアモンドやプラチナなどの宝石・貴金属が日銀の地下倉庫に隠匿され大蔵省が管理しているなどという、いわゆる「M資金」を巡る話を、ここで取り上げるには及ばないでしょう。

(注8)例えば原作には、財宝を積んだ貨物列車は、「終着駅を目前にして艦載機に狙われ」、待ち受けている3人の軍人の双眼鏡から、「運転席には縦横に機銃弾の弾痕が刻まれ、破れたガラスの中に機関士のうつ伏せる姿が見えた」とあります(P.156~P.157)。

(注9)例えば、真柴少佐と小泉主計中尉、それに望月曹長といった布陣は、参謀、経理、実戦という軍隊の機能を代表するものとして配置されていると考えられます。そして、それを明確に表すために、真夏でも通常の制服を着用しているのではないか、と思われます。

(注10)とはいえ、軍隊は負けても国は続く、といったような意味合いのことを登場人物が言ったりしますが、そこで言われている「国」あるいは「国家」といった点については、もう一度よく考えてみる必要があるのかもしれません。
 少なくとも、原作において、田中東部軍司令官が「皇軍は負ける。だが、神州は不滅だ」と言っているよりも(P.74)、「終章」で「スーちゃん」が「軍隊が降参しても、国は残るわ」と言っている方がまだしもしっくりくるでしょう(P.520)。




★★★☆☆






象のロケット:日輪の遺産

神様のカルテ

2011年09月14日 | 邦画(11年)
 『神様のカルテ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)TVの前宣伝に煽られたことと、宮崎あおいを久し振りで見てみようということで、映画館に行ってきました。

 映画は、松本市の本庄病院に勤務する医師・栗原櫻井翔)を巡る物語です。
 この病院は小規模ながら、「24時間365日」救急外来患者を受け入れることを売りにしているようで、廊下は診察を待つ患者たちで溢れかえっていて、医師らは夜遅くまでてんてこ舞いの有様。
 病院には、上司の古狸の医師(柄本明)とか先輩の外科医(要潤)がいて、現場経験の浅い栗原医師に何かとアドバイスをします。



 さらには、看護師の吉瀬美智子池脇千鶴らが栗原医師を取り囲みます。

 病院で毎日、栗原医師は慌ただしく過ごしているところ、柄本明と大学で同期だった西岡徳馬が教授に就いている信濃大医学部から、研修に参加するよう勧誘され、忙しい合間を縫って研修を受けます。その際、彼の医師としての能力の高さを教授が認めたことと、末期癌患者の加賀まりこを診察したことから物語は少しずつ動き出します。




 その一方で、栗原医師が家に戻ると、結婚してからまだ日の浅い妻の榛名(宮崎あおい)が待っています。



 
 ただ、家といっても、旅館だった「御嶽荘」の一部屋。そこには「学士」と呼ばれる男(岡田義徳)や「男爵」と言われる画学生(原田泰造)も同居しています。



 おそらくこの「御嶽荘」は、主人公の栗原医師の内面を反映するように設けられている架空のものではないかと想像されます。

 というのも、栗原医師の日頃の愛読書は夏目漱石で、『こころ』とか『草枕』といった本(それも古い岩波文庫の)をいつも持ち歩いていて、暇を見つけては読んでいますが、それに対応するかのように、置かれている調度品(時計、勉強机、ちゃぶ台など)や家具を含めて、「御嶽荘」の全体に、なんとなく大正~昭和初期といった雰囲気が漂っているのです。
 それに、椅子の生活しか知らない今時の若者が、畳の部屋ばかりの家に住むことは、実際問題としてできなくなっているのではないでしょうか?

 加えて、「学士」はいつもニーチェを持ち出しますし、「男爵」はパイプをくゆらしながら絵を描く画家で、これに栗原医師が加わってなされる会話は、今の若者がする会話とは随分とかけ離れたテンポのものであり、内容のような感じがします。
 そもそも、「学士」は大学などに通ってはいないようですし、「男爵」は白いキャンバスに向かったまま筆をとろうとしません。栗原医師も、自分はこのままでいいのだろうかといつも悩み続けています。
 「学士」がこの家を立ち去るときの格好も、いつの時代なのかと驚かされます。なにしろ、今時お目にかかれないカーキ色のリュックサックに風呂敷といった出で立ちなのです(『一枚のハガキ』で見た豊川悦司扮する復員兵かと見間違ってしまいます!)。
 「男爵」も「学士」も、栗原医師の内面の一部を構成していると考えられないでしょうか?

 こんなところから、映画は、本庄病院(更には信濃大医学部付属病院)でモダンな医療機器に囲まれて働く現代人の栗原医師を描く一方で、彼の心の底には、旧来からの日本人の心が宿っているよ、という面をも映し出そうとしているのでは、と思いました。
 そのためには、栗原医師の生い立ちとか、宮崎あおいとの結婚の経緯などを描く方が手っ取り早いのでしょう。でも、制作者側はそうしたありきたりの手法を採らなかったのでは、と思えるところです。

 とはいえ、栗原医師は、かなり急な坂の上に位置する「御嶽荘」から、下界の病院に毎日出勤するものの、厳しい状況に置かれた患者を助けるミラクルを引き起こす雲の上から現れる「ウルトラマン」といった風情は持ち合わせてはおりません。
 病院では、劇的なことは何も起こらず、どこにでも見受けられるようなことしか起こりません。
 そして、栗原医師は、現代の若者のように身軽に何でも器用にこなしてしまうというよりも、むしろ、慎重に様々なことを検討した上で決断を下すことが多いのです。ですからスムースな会話が途切れることが多く、見ている方がイライラしてしまう場合があるとはいえ、こうした姿勢こそが栗原医師の本領なのでしょう。


 ただ、問題もいろいろあるでしょう。
・栗原医師の妻の宮崎あおいは、定職を持たず、昼間は写真を撮ったりして過ごしているものの、今時専業主婦というのもどうかなと思ってしまいます(とはいえ、写真の腕は確かなようで、いずれ写真家として名が知れるようになるのかもしれませんが)。

・宮崎あおいの夫の櫻井翔は、信濃医大での研修に参加しますが、その際に、上司の柄本明から、「医局」とはどういうものなのかよく見てこい、と言われます。ですが、彼自身もどこかの大学を出て医者になったのでしょうから、「医局」を知らないはずはないと思われるのですが(とはいえ、最近では、「医局」を経由せずに病院に勤務する医師も増えているようです)?

・その「医局」を牛耳る教授(西岡徳馬)は栗原医師の能力を高く評価して、引き抜きを図りますが、栗原医師は結局その要請を断ります。ただ、いくら彼の能力が傑出しているからといって、教授が外部の人間をわざわざ「医局」に取り込もうとするでしょうか、いささか疑問に思えます。
 それに、仮にその誘いに乗ったりしたら、栗原医師はあくまでも中途編入なのですから、医局に元からいる人間にどんなにいたぶられることになったでしょう!

・栗原医師は末期癌患者として本庄病院にやってきた加賀まり子の死を看取る一方で、妻の宮崎あおいのお腹には赤ちゃんが宿るというラストは、いささかご都合主義が過ぎる感じがするところです。


 なお、栗原医師の上司の柄本明は、病院の机の上に置いてあった『草枕』の文庫本を見て、その有名な書出しの一節をそらんじる医師として描かれ、栗原医師の一番の理解者とされます。
 ただ、上司といっても年の行った同僚といった感じです。
 ソウ思ってこの映画を改めて考え直すと、どうも栗原医師には父親に相当する人物が見当たらないのです。実際の父親がどんな人物であったのか一切描かれませんし、この場合でいえば病院長(病院経営者)がそれに当たると考えられるところ、その人も全く登場しません。
 他方で、母親も登場しないものの、終始暖かい目で栗原医師を見続けている宮崎あおいとか加賀まりこが、実質的な母親に相当するのではないでしょうか?
 言ってみれば、この映画は父親不在ながら、そのラストで、主人公が父親になるとわかっておしまいになるといった構造を持っている、とも考えられるかもしれません。


 とはいえ、「嵐」の櫻井翔が主演というアイドル系の映画としてはこんなところなのかな、宮崎あおいもなかなか良く撮れているし、松本市を取り巻く山の景色も綺麗で、全体としてまずまずの仕上がりなのかな、と思ったところです。
 出演の俳優の中では、「男爵」を演じた原田泰造がなかなか味のある演技をしていて、これからは注目しようと思います。

(2)映画の冒頭で、それほど大きくはない病院で「24時間救急外来対応」の体制をとると、どんなに大変なことになるのかが映し出されます。
 以前見た『ジェネラル・ルージュの凱旋』でも救急医療の大変さが描かれていましたが、そちらは大病院の大規模な「救急医療センター」なのに対して、こちらは当直医が一人の小さな病院であり、前者とは質の違った困難さがあるようです(当直医が内科専門であっても、外科的措置をする必要に迫られるなど)。
 特に、前者で堺雅人が演じた医師と同じように、本作でも栗原医師は、緊急性の高い患者の診察を要請されると殆ど断らないのですから(そのため、病院では「引く医者」と言われています)、その大変さは倍加しています。

(3)渡まち子氏は、「大学病院から「あとは好きなことをして過ごして下さい」と見放された安曇さんにとって、自分の病気に真剣に向き合ってくれるイチは、真っ暗な中でみつけた小さな明かりに見えたに違いない。すがる思いでイチを頼った彼女に対してイチが示した誠実さは、医療のひとつの理想型だ。妻のハルがあまりにも完璧な女性で現実味がなさすぎるが、彼女はイチにとって母性愛そのものなのだろう。終盤、タイトルである“神様のカルテ”の意味がわかるとき、じんわりと感動が広がり、イチやハル、安曇さんたちと共に信州の山々を見たくなる」として60点をつけています。
 他方、福本次郎氏は、「人も自然も丁寧に撮られた映像はみずみずしく、悪意を持った人間が登場しないストーリーも口当たりは良い。だが、一止の自己満足とも思える安曇へののめりこみと、テンポがのろく感情を抑えた山場の少ないエピソードの数々は退屈を禁じ得なかった」として40点をつけています。




★★★☆☆




象のロケット:神様のカルテ

リメンバー・ミー

2011年09月11日 | 洋画(11年)
 『リメンバー・ミー』をシネマート新宿で見てきました。

(1)事前の情報は何も持たずに、もしかしたら一種のアイドル物かもしれないとおそれつつ、映画館に飛び込みました。
 ですが、予想は外れ、なかなか良くできた映画であり、クマネズミには拾い物でした。

 というのも、主役を演じるロバート・パティンソンは、一連の『トワイライト』シリーズ物でトップ・アイドルとなったわけですが、本作品は、彼がその脚本にほれ込んで、主演のみならず制作総指揮まで引き受けたというので、その思いが全編にみなぎっているように感じられるからでしょう。



 特に、ロバート・パティンソンが演じるタイラーと、エミリー・デ・レイヴィンアリーとが、次第に恋愛関係に陥るまでのプロセスがこまやかなタッチで描かれていて、大層素晴らしいと思いました。

 まず、学校の図書館で、ある事件に絡んで少々恨みに思う警官(クリス・クーパー)の娘アリーに、ルームメイトのエイダンの唆しもあって、タイラーは話しかけます。
 タイラーは、社会学の実験に乗ってくれないかと尋ねると、アリーは、社会学は嫌いだと答えます。さらに、対象が20歳以上なのだと言うと、アリーは自分は19歳だとの返事。でも、タイラーがめげずに話を続けると、その誠意に打たれたのか、とうとう食事を一緒にすることの同意を取り付けてしまうのです。



 そのレストランで、アリーはタイラーに対して、好きなものを食べないで死ぬのは嫌なのでデザートを先に食べる、実際は21歳(タイラーと同い年)、地下鉄は乗らない主義、最初の時はキスはしない(実際はキスをして別れるのですが)などということをはっきりと話すのです。
 これでどうもタイラーは、すっかり彼女に参ってしまったようです。

 その後、アリーは、タイラーの部屋を訪ねた際に、エイダンの薦めで別室のパーティに出て酒を飲んだところ、前後不覚になってしまい、タイラーの部屋で一泊してしまいます。
 このときアリーの父親が娘の身を按ずる様子が映し出されますが、その心配の仕方は半端ではありません(悪いことに、アリーの持っていた携帯が電池切れで、連絡できなかったのです)。
 そのうちに、映画の冒頭で映し出される射殺事件の被害者が、アリーの母親であり、アリーはその事件を目の前で目撃していたことも観客はわかってきます。アリーは父親の手一つで育てられ、父親には、目に入れても痛くないほど可愛い存在だからこそ、無暗矢鱈と心配するのでしょうが、それがかえってアリーにとっては重荷になっていることも、明らかになってきます。

 他方で、タイラーにはキャロラインという妹がいるものの、彼女は母親や継父と一緒に別の家で暮らしていること、彼の父親は有能な弁護士ながら妻と離婚していること、タイラーには兄マイケルがいましたが22歳の時に自殺していること(兄はミュージシャンを目指していたものの、自殺時には父のもとで働いていたようです)、などが分かってきます。
 どうも、タイラーは父親とはうまくいっていないようです。父親は仕事一筋で、家族のことに完全に無関心、とタイラーは決めつけています。

 こういう背景があれば、アリーとタイラーの愛が深まるのはいわずもがなで、アリーは父親と喧嘩すると、家を飛び出してタイラーの部屋でアリーは暮らすようになります(エイダンの好意もあって)。
 でも、そんなにうまく事が運ばないのも世の常。ちょっとした事件があって、アリーはタイラーと別れ、また元の父親の家に戻ります。
 他方、タイラーの方は、展覧会に出品されたキャロラインの絵を巡って、父親にそれまでの怒りのすべてをぶつけてしまいます。

 ここらあたりから、物語の次元はもう一つ深まって、アリーとタイラーとの関係、父親とタイラーとの関係が変化をきたしてきます。
 というように、ありきたりと言えばありきたりなのかもしれませんが、タイラーを軸として、愛するアリーや妹キャロラインとの関係や、父親との確執といったものが実にじっくりと描かれていて、見る者を唸らせるのです。

 とはいえ、問題点ははっきりしていると思われます。
 一つは、本作品の最後の方の必要性です。
 本作品に登場するキャラクターがそれぞれ抱える問題点が、最後の方に至り一つ一つ解決されていく様子が描き出されるものの、そこまで映画の中で処理する必要があるのでしょうか?
 例えば、アリーは、母親の事件に遭遇して以来、NYの地下鉄には乗れなかったところ、ラストでは、その事件のあったブルックリン駅で電車を待って、到着した電車に乗り込むところが映し出されますが、はたしてそんな映像は必要があるでしょうか(確かに、母親の事件は、この映画にとって重要な意味を持っているものの、アリーが抱え込えこんだ精神的なトラウマが解消されるかどうかは、この物語の埒外のことではないでしょうか?)?

 特に、タイラーは、和解した父と話をするために、前もって父のオフィスに入りますが、その日が丁度2001年9月11日というわけです。ダメを押すように、タイラーの墓まで描かれます。
 確かに、こういう設定をすることによって、タイラーの悲劇性は相当高まるに違いありません。でも、本作品は、その後に何も物語は展開しませんから、何のための悲劇性なのか、と思わざるを得ないところです。

 もう一つは、キャスティングです。クマネズミには、タイラーの父親役を演じるピアース・ブロスナンが、どうしてもなじめませんでした。世界貿易センタービルにオフィスを構えることができるほどの有能な弁護士という役柄のために仕方がないとは思うものの、登場するたびに、上から下までビシッと決まり過ぎる格好をしているのです。



 だから、タイラーやキャロラインの人間的な面に目が向かないというのでしょうし、奥さんとも別れたというのでしょう。でも、そう格好をつけられると、見る者にはやはり「007」のジェームズ・ボンドのイメージがダブってしまいます。もう少し何とかならないものでしょうか?

(2)このところ、洋画ではイジメの問題が随分と取り上げられています。
 本作品においては、妹キャロラインに対し、時々ぼんやりしていることがあるからとして、クラスメートの女の子たちによる陰湿なイジメが見られます。あるときは、クラスメートの誕生パーティにプレゼントを持って行ったにもかかわらず、髪の毛を切られてしまうほどでした。
 他方、前回取り上げた『未来を生きる君たちへ』では、エリアスのスウェーデン訛りなどをからかう激しいイジメがみられます。
 また、『モールス』でも、オーウェンに対し、「女の子」のようだとしてのイジメがあります。

 こうしたイジメに対して、エリアスに関しては、友達のクリスチャンが、イジメっ子を徹底的にぶちのめしてイジメをやめさせますし、オーウェンは、アビーのアドバイスでイジメっ子に立ち向かい、その仕返しを受けても、アビーによって救出されます。
 この作品のキャロラインの場合も、彼女自身はあっけらかんとしているのですが、兄のタイラーが学校までやってきて、イジメをするクラスメートの机をひっくり返したりします。果ては、父親が、理事会に出席して問題のクラスメートを転向させるよう働きかける、とタイラーに話します。

 おそらくそうした対応によって、それぞれのイジメはなんとかなるかもしれないものの、ある特定の子について、何か他とは違ったところを見出してその子をイジメるといった状況は、洋の東西を問わず決して消えないのかもしれません。

(3)映画評論家の土屋好生氏は、「金権主義がはびこる現代社会が生み出すひずみと、その中で次第に溝を深めていく家族関係をどう修復するか。そこにはアメリカ社会がかかえる時代の深い病巣と、互いに誤解を乗り越え協調を目指す崩壊家族の処方箋が見えてくる。
 そして運命の日。同時多発テロの現場となる高層ビルの弁護士事務所に主人公は一人たたずむ。その悲劇的な結末に、たった一度の人生をいかに生きるべきかという哲学的命題がかぶさって言葉もない」と述べています。



★★★☆☆




スーパー!

2011年09月10日 | 洋画(11年)
 『スーパー!』を渋谷のシアターNで見てきました。

(1)ブログ「蚊取り線香は蚊を取らないよ」の“つぶあんこ”氏が、本作品を「★★★★★+★★★」と非常に高く評価しており、また他に見るべきものが見当たらなかったので、映画館に出かけてきました。

 本作は、妻を街のならず者に連れて行かれてしまった男が、神の啓示を受け、ヒーローのコスチュームをまとってその男の家に乗り込み、妻を救いだす、といったところがそのおおまかなストーリー(注1)。コメディでもあり、96分の映画を大層愉しく見ることが出来ました。

 もう少し初めの部分を、クローズアップしてみましょう。
 まず映画の冒頭では、人生において完璧だったのは、妻サラリヴ・タイラー)との結婚の瞬間と、巡査に犯人の逃げた方向を教えてやったことの二つだけで、あとは苦痛であり屈辱だったとか何とかと主人公フランクレイン・ウィルソン)が語り、小さい時分に父親に尻を叩かれたりしているシーンも映し出されます。

 ついで、ベッドで目覚めた主人公は、この完璧だった瞬間を2枚の紙に描いて、それを壁に貼ります。ただ、描かれているフランクの手が大き過ぎるとサラに指摘されたため、それをすぐに修正するものの、逆にサラはフランクから遠ざかってしまうのです。
 そうなると、家でドラッグパーティーが行われているのを見た際に、勇気がなくて彼女をそこから救いだせなかったのがいけなかったと後悔しても、最早後の祭り(元々、サラは、フランクが働くダイナーのウエイトレスで、ドラッグをやって刑務所に入っていたこともあるようです)。
 フランクが一人で卵料理を作っていると、突如、男(ケヴィン・ベーコン)が台所に現れ、一緒にそれを食べた挙句、「うまい、これは神が授けた才能だ」などと褒め上げ、「ジョックが来た、とサラに伝えてくれ」と言って立ち去りますが、その5日後にサラは家から消えてしまい、フランクは涙に暮れます(注2)。

 ジョックがサラを誘拐したのだとして、フランクは警察に訴えるものの、現実を受け入れることが必要だと、担当の刑事は取り合ってくれませんし(街のならず者と悶着を起こしたくないのかもしれません)、それならとフランクは、自分でジョックが営む店に乗り込んだところ、部下にボコボコにされる始末。

 そこで、フランクは、絶望した挙げ句、一生懸命に神に祈りを捧げることになります。
 自分は、不細工な顔、言うことをきかない髪の毛、悪い性格以外に何も持っておらず、これではどうしようもありません、どうか一つの願を聴いてください、サラをもう一度僕のサラにしてください、というわけです。
 その願いが神に聞き届けられたのでしょうか、フランクが寝ていると、あちこちから巨大な蛸の足のようなものが伸びてきて、ついにはフランクの頭蓋骨を斬り、脳を露出させます。
 それから、巨大な指が伸びてきて、その脳を撫でるのです(注3)。
 さらに、「ホーリー・アベンジャー」(Holy Avenger:ネイサン・フィリオン)までも現れ、“神が現れた、ほんの少しだけだが神の手が触れた、神に選ばれた者がいる”などと話します(注4)。
 そして、空中には、赤色をした仮面が浮かんでいます。

 ここら辺りは、すべてフランクの夢の中の話なのでしょう。ただ、それをフランクは、神の啓示と受け取り、壁に「神に選ばれし者(Some of His Children Are Chosen)」と書いた紙を貼り付け、さらに、自分で裁断して作り上げた赤色のコスチュームを身に着けて、「クリムゾンボルト(Crimson Bolt)」と名乗って、様々の悪に立ち向かうのです。



 初めは、フランク一人で、街の悪に立ち向かっていたところ、途中からはコミック・ショップで働くリビーエレン・ペイジ)が、ヒーローのコスチュームを着、「ボルティー(Boltie)」と名乗って応援するようになります(注5)。



 サア、このあと映画はどのように展開していくのでしょうか、……。

 主役のレイン・ウィルソンは、クマネズミにとっては始めて見る俳優ですが、気が弱く腕力も劣っていながらもヒーローのコスチュームを付けて何とかサラを救出しようと健気に振る舞う中年男を大層滑稽に演じていて、その実力は相当なものがあると感じました。
 ヒロインのエレン・ペイジも、画面狭しと大活躍していて(性的欲求が強く、またすぐに度を越した悪乗りをしてしまう様子を、実に滑稽に演じています)、これからが期待されます。
 また、悪役のケヴィン・ベーコンは、最近『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』で人類を支配しようとするショウを演じているのを見たばかりながら、本作においても悪役としての本領をいかんなく発揮しています。

 なお、この映画を見ると、どうしても『キック・アス』と比較したくなってくるところ(注6)、今更そんなことをしてみても2番煎じに過ぎず、なおかつできの悪いシロモノになってしまうだけで何の意味もないでしょうから、ここでは控えておきましょう。

(2)さて、上で初めの方の場面を少しばかり立ち入って書きましたのは、劇場用パンフレットに掲載されているインタビューにおいて、脚本・監督のジェームズ・ガン氏が、「ウィリアム・ジェームズが1902年に著した『宗教的経験の諸相』にもかなりの影響を受けたよ。『スーパー!』はその本を映画化した作品とも言える」とか、「僕にとって、この映画は1人の男と神との関係を表している。そして彼は自分側に与えられた役割を満たすための旅をするんだ。他人の目から見ると、ぶっとんでいて道徳的に見て怪しいと思うような旅をね」などと述べていることに関係しています。

 この点については、さらに下記の映画評論家・前田有一氏も、「本作は宗教的側面からの考察も可能であ」る、と述べています。ただ、これでは何のことかわからないので、「そのあたりは別媒体でちょいと書いた」とあるの手掛かりに探してみると、同氏は、雑誌『男の隠れ家』8月号の「エンターテインメント」欄に、「チープな見た目の裏に隠された過激な宗教観」と題するエッセイを掲載しているのです。
 そのエッセイで前田氏は、本作が醸し出す「ホラー映画以上の直接的な残酷描写もいとわぬこの不気味な雰囲気」は、「19世紀の哲学者ウィリアム・ジェームズの名著『宗教的経験の諸相』の内容を、かなりのところなぞっている」からだとしています(注7)。
 すなわち、「W・ジェームズは、宗教や神秘主義は信ずる当人にとってはリアリズムそのものであり、外部の者が合理主義で判断できるものではないと看破した。そのうえで、そうした人々と彼らのリアリティを肯定した。この映画の言わんとする主張もまったく同じだ」と前田氏は述べます(注8)。

 従って、この映画においては、フランクが“神の啓示”を受けて、クリムゾンボルトに変身するところにまずは重点が置かれているように考えられるところです。
 というのも、W・ジュームズの『宗教的経験の諸相』においては、「回心」を巡る議論にかなりの重点が置かれているように思われるからです(注9)。
 そこで、ここでは、フランクが神の啓示を受けるに至るまでを、この映画の魅力がそこまでで十分出ていると思われることもあり、少々クローズアップしてみました。

 とはいえ、ジェームズ・ガン監督の話しぶりや前田氏の書きぶりからすれば、むしろフランクがクリムゾンボルトになってからの行動の方に、W・ジュームズの著書に倣ったものがうかがえるようにも思われます。
 そうだとすると、かなり拡大解釈気味ながら、例えば次のように、もしかしたら考えられるのでしょうか(注10)?

a.クリムゾンボルトになったフランクは、映画館前の行列に途中から割り込んでくる男とか、麻薬の売人とかの悪人に対して、かなり手荒な振る舞いをしますが(スパナであんなに人の頭を殴りつけたら、死んでしまうのではないでしょうか)、すべて神の怒りの現れと見るべきなのかもしれません。

b.クリムゾンボルトは、郊外にある広大な邸宅でマフィアと大量の麻薬取引をしようとする極悪人ジョッグを殺してしまいますが、神の道に背いた者に対する報復というわけなのでしょうか(その際にジョッグが、「自分を殺しても悪はなくならないぞ」と言ったのに対して、クリムゾンボルトは、「世界がどうなるか自分にも分からないから、試してみることにしよう」などと冷静に答えてから嬲り殺すのです)。

c.ヒロインのリビーが、クライマックスでジョックの屋敷にフランクと一緒に乗り込みますが、ジョッキ一味の銃撃でいとも簡単に頭の半分を吹き飛ばされてしまうのです。
 これは、神の啓示なしに、外見だけヒーローの格好をしても何の意味もないのだよということを表しているのかもしれません。

d.フランクにサラの救出を頼まれたものの相手にしなかった刑事が、街で大騒ぎになっているクリムゾンボルトの正体を暴こうとして、フランクの家に乗り込んだところ、逆に、ジョックの部下の銃撃を受けて一瞬のうちに殺されてしまいます。
 これは、フランクの真摯な要請を無下に断っただけでなく、神の啓示に従って行動しているフランクに対して犯罪容疑者の疑いをかけたことに対する神の報復なのかもしれません。

(3)ですが、仮にこんな風に考えられるにしても(注11)、宗教に格別の関心を持たないクマネズミにとっては、そんな説明をいくらしたところで、だから何なのかという感じが付きまとってしまいます。

 だったら、もうW・ジュームズなど脇にどけておいて、様々にハチャメチャで過激なところをそのまま楽しんで見れば、それで十分ではないでしょうか。

 強いて考えるとしたら、誰もが考え付くような通り一遍のものにすぎないものですが、むしろ次のように見てはどうかな、と思っています。
 すなわち、この映画は、神の啓示を受けたとされるブッシュ大統領が、9.11事件で一時は追い詰められるものの(注12)、すぐに立ち直って悪の枢軸たるイラクを攻撃し、その中心人物たるフセイン大統領を倒してしまう、というイラク戦争(注13)をパロディ風に描いた映画ではないでしょうか(要すれば、ブッシュ大統領=クリムゾンボルト、フセイン大統領=ジョックといった感じです。とすると、ボルティーは日本?!)。
 そして、この映画でジョックは、上で述べたように「自分を殺しても悪はなくならないぞ」とフランクに言いますが、現実もまさにその通りであって、イラクやアフガニスタンから米軍はなかなか足を洗えずにもがいているところです。

 いずれにせよ、様々の点で実に風変わりな映画であり、色々なことも考えさせつつも、コメディとして十分笑わせてもくれて、出色の作品ではないかと思いました。

(4)前田有一氏は、「これだけ現実の汚さを描きながら、それでも「スーパー!」はヒロイズムを高らかに肯定しているのである。かっこ悪いし、犯罪者だし、キモい。ヒーロー映画なんて、本当は不謹慎お下劣ホラーなんだと喝破しつつ、それでもこの映画は感動的で、希望にあふれている。まさに、オトナのヒーロー映画と評したくなるゆえんだ。 /キャストでは、コミック店員役のエレン・ペイジが光る。オタ少女からキレ少女、エロ少女へと目まぐるしく変わる姿は実にかわいらしい。爆笑必至のあのシーンの面白さといったら、一人でも多くの映画ファンに見てほしいと思わず願ってしまうほどだ」として85点もの高得点をつけています。



(注1)この映画は、コスチューム面などからヒーロー物とされますが、内容からすれば、『すべて彼女のために』(それをリメイクした『スリーデイズ』)と同じような映画(愛する妻を悲惨な境遇から救出する類いの作品)と考えた方がいいのかもしれません。

(注2)映画では、ここで手描きアニメによる実にお洒落なオープニングとなります。

(注3)前半部分は、フランクが寝る前に見ていたTV番組の延長のようです。また、後半部分については、インタビューでジェームズ・ガン監督は、自分のリアルな実体験だと話しています。

(注4)これも、フランクが寝る前に見たTVのキリスト教宣伝番組の延長と言えるでしょう。
 その番組では、「悪はあらゆるところに潜んでいる」、「悪に屈服するのはたやすい」、「だが、神が助けてくれる」などなどと番組の主人公のホーリー・アベンジャー(これもヒーローのコスチュームを身にまとっています)が言うのですが、それをフランクは食い入るように見ています。

(注5)フランクが、コミック版の「ホーリー・アベンジャー」をコミックショップに買い求めに行った時に、そこの店員のリビーと知りあいになり、その後、フランクがジョックの屋敷に単身で乗り込んだ際に受けた銃創を、リビーが手当てしてあげたりします。

(注6)『キック・アス』の主役のアーロン・ジョンソンが21歳で、こちらの主役のレイン・ウィルソンが45歳であるのにそれぞれ対応して、クロエ・モレッツは11歳で、こちらのエレン・ペイジは24歳というように、違っている面が相当あります。
 この映画を楽しむには、どちらでもかまわないことながら、別物と考えた方がいいのではないでしょうか?
 一部では、映画公開の順番などから『キック・アス』のパクリと見る向きもあるようですが、ジェームズ・ガン監督の話では、脚本はずっと前(2003年)に出来上がっていたとのことです。
 また、実際には、フランクがクリムゾンボルトとしてやったことは、サラの救出ということだけであり、確かにドラッグの売人などを懲らしめたり、ジョック一味を倒したりはしますが、それは行がけの駄賃といった塩梅で、サラを救出したら、フランクは2度とクリムゾンボルトには変身しないでしょう!

(注7)ジェームズ・ガン監督は、あちこちのインタービューで(たとえば、この記事)、劇場用パンフレット掲載のインタビューにあるのと同じような趣旨を述べていますから、前田氏もそうしたものを読んでこの記事を書いていることと推測されます。

(注8)たとえば、もしかしたら次のような個所が対応するのかもしれません。
 「神秘的状態は、ただ神秘的状態であると言うだけの理由で、権威を振るうものではない。……その状態は私たちに仮説を与えてくれる。その仮説を私たちが無視するのは自由であるが、思考者としての私たちにはそれを覆すことはできない。それが私たちに信じさせようとする超自然主義と楽観論とは、どう解釈されるにせよ、結局、この人生の意味をもっとも真実に洞察したものであろう」〔『宗教的経験の諸相』(枡田啓三郎訳、岩波文庫・下P.258)〕。

(注9)『宗教的経験の諸相』において、W・ジェームズが、スターバック教授の所説やら、「人間が窮地に陥るときこそ.神の働き給う機会である」と言った言葉を引用したりして、「自己放棄による」回心の型について縷々説明しているところ(同書、岩波文庫・上P.312~)が相当するのでしょうか。
 なお、このブログの記事も参考になるかもしれません。

(注10)前田氏は、例示として、「微罪のチンピラの頭をたたき割り再起不能にする残虐ぶり」を挙げ、さらに「明るいエンディングこそ、ジェームズ・ガン監督がW・ジェームズから受け継いだ過激な宗教観そのものだ」と述べています。

(注11)前田氏は、上記「注9」で触れたように「W・ジェームズから受け継いだ過激な宗教観」と述べていて、W・ジェームズの「宗教観」が「過激」であると考えているようです。
 ですが、W・ジェームズは、「宗教的経験も、ほかのすべての人間的な現象と同じように、黄金の中庸の法則に従うべきものである」〔『宗教的経験の諸相』(岩波文庫・下P.128)〕とか、「宗教の果実は、常識によって判決されなければならない」(同P.129)などと述べていて、十字軍遠征などの狂信的な行為を非難しています(同P.133)。
 したがって、前田氏が、クリムゾンボルトとしてのフランクの過激な行為があたかもW・ジェームズに由来しているように述べているのは(「明るいエンディング」は別として)、どうも行き過ぎではないか、と考えられるところです。
 さらに、こうしてみると、ジェームズ・ガン監督がW・ジェームズを持ち出すのは、半分は冗談であり、それを前田氏のように真面目に受け取る必要もないのではないか、とも思われるところです。

(注12)9月4日の朝日新聞「ザ・コラム」に掲載されている山中季広・ニューヨーク支局長のエッセイによれば、9・11の「テロ初日、ブッシュ氏は朝から晩まで逃げてばかりいた。まるでパニックに陥っていたかのようだ」とのこと。

(注13)たとえば、このブログの記事を参照してください。




★★★★☆





未来を生きる君たちへ

2011年09月07日 | 洋画(11年)
 『未来を生きる君たちへ』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)デンマーク映画としては、『光のほうへ』を見たばかりながら、評判が高そうなので、映画館に行ってきました。

 映画では、少年のエリアスとクリスチャンとの関係、2人とクラスメイトとの関係、2人とそれぞれの親との関係、両親相互の関係、というような様々な関係が描き出されながら、それらが複雑にもつれ合って進行します。

 まず、クリスチャンは、ロンドンからデンマークへ移ってきて地元の学校に入りますが、クラスメイトから酷いイジメを受けているエリアスと友達になります。
 とはいえ、2人の性格は対照的といってもいほど異なっています。



 クリスチャンは、口をきっと結んで、何事にも自分の信念を貫こうという気構えですが、エリアスの方は、歯列矯正をしていることもあり「ネズミ顔」と罵られ、かなり大人しい性格でもあることから、スウェーデン訛りなどをネタにして絶えずイジメを受けています。

 次にエリアスの父親アントンは、スウェーデン人の医師ながらデンマークに住んでいます。ちょっとした浮気が原因で、妻で医師のマリアンと別居中。ただ、アントンはその浮気を悔いていて、贖罪の意味もあってアフリカに赴き、難民キャンプで医療活動に従事しています(注1)。
 時折デンマークに帰ってきて、エリアスらに会ったりするものの、マリアンとの仲はなかなか回復しません。ただ、アントンとエリアスとの父子関係は良好です。



 さらに、クリスチャンは、母親が癌で亡くなったことから、父親クラウスと一緒にデンマークの祖母の家に住むことになりますが、ただ父親が癌の治療を途中で放棄したから母親が死んでしまったのだと思いこんでいて、親子の関係はうまくいっていません(注2)。

 こうした状況が背景となって、ある事件が発生し、それに対して皆が様々な行動をとる中から、さらに新しい関係が見出されていくところ、その様子が映画ではヴィヴィッドに描かれています。

 興味深い点をいくつも探すことができます。
a.これまで見た2つのデンマーク映画(『誰がため』と『光のほうへ』)ではあまり描かれなかった海の風景を、この作品では随分と見ることができます。

b.エリアスの一家はスウェーデン人ながらデンマークに住み、クリスチャンの一家はそれまでロンドンに住んでいたというように、ヨーロッパの中で随分と人々は移動しているのだなとわかります。

c.エリアス一家がデンマークで生活をしていまるのは、両国が近接していますから理解できるものの、逆にデンマーク人から、スウェーデン人は出て行けなどと言われたり、エリアスのスウェーデン訛りが馬鹿にされるのを見ると、「北欧」と一括されることが多くとも国境というものが厳然とあるのだな、とも思えてきます。

d.アントンは、アフリカの難民キャンプで献身的な医療活動を行っていますが、そのキャンプの貧しさと、デンマークの豊かさの余りの違いに、見ている方まで胸が痛みます。


 とはいえ、問題もあるでしょう。
a.アフリカにおけるアントンの診療所に、続けて腹部に同じような大きな傷跡を持った若い女性が何人も運び込まれてきます。地元民に聞くと、ビッグマンと称する暴れ者(民兵団のボス)が、妊婦の腹部を切り裂いているとのこと。
 ただ、アントンは、そのまさにビッグマンが負傷して診療所に運びこまれてくると、他の患者と同じように治療をしてあげます。周囲の者はそんな必要はないというものの、アントンは、暴力的な復讐をしてはならない、と思い詰めているようです。
 おそらく、長い間そういった地域で厳しい現実をつぶさに見ていると、そうした姿勢になるのも分からないわけではありませんが、あまり現実的ではないような感じもしてきます。

b.アントンの非暴力主義は、彼がデンマークに戻った際に、街で粗暴な男から殴られたときに反撃しなかった姿勢にもうかがわれるところです。



 それを見ていたクリスチャンは悔しがりますが、逆に、アントンは、その粗暴な男の職場に出かけて行ってさらに殴られもするのです。ですが、エリアスたちには、暴力を使った復讐はさらなる暴力を引き起こすだけで無意味だ、ときっぱりとした態度で言うのです(注3)。
 ここまでくると、なんだかキリストの「右の頬を打たれたら左の頬も出せ」を思い起こしてしまい、随分と観念的な感じがしてしまいます。
 現に、上記のビッグマンの場合、治って歩けるようになると、以前のように女性を蔑視するような発言をしたために、アントンは、ただちに診療所から追い出してしまいますが、その途端、ビッグマンは恨みを持つ地元民によって嬲り殺されてしまいます。これは、暴力による復讐をアントンが認めたも同然のことになるのではないでしょうか?
 そして、この事態を知ったビッグマンが率いる民兵団は、どのような手段に出るのでしょうか?


 そして、この作品の一番の山場である事件が引き起こされます。
 すなわち、クリスチャンは、上で述べた町の粗暴な男の振る舞いをどうしても許すことができず、エリアスを誘って、物置で見つけた花火を改造し、強力な爆弾を作り、その男の車を爆破してしまうのです。

 このとき、偶然近づいてきたジョギング中の親子を救おうとして、エリアスは飛び出してしまい、爆風を受けて負傷してしまいます。
 この事件をきっかけに、それぞれの元のギクシャクした関係が微妙に変化していき、より親密なものへとグレードアップするように思われます。

 この映画は、まず様々の人間関係を取り出し、それぞれが持つマイナスの要因を探り出し(エリアスとクラスメイトとの関係〔イジメ〕、エリアスの両親の冷たい関係〔夫の浮気〕、クリスチャンと父親とのわだかまり〔母親の死を巡って〕)、ついで爆弾事件でそれらの関係が微妙に揺らぎ、マイナスの要因が消滅したりプラスの方向へと変わったりし、関係全体が新しい段階に入っていく物語だ、というように捉えることができるかもしれません(図式的にすぎるかもしれませんが)。

 出演している俳優たちが、なかなかの演技を披露することもあり、全体として優れた出来栄えの映画ではないか、と思いました。

(2)この映画を見ると強く印象付けられるのが、クリスチャンとエリアス、アントンとその妻、クリスチャンとその父親などの対の関係です。
 ソウ思って他のデンマーク映画を思い起こすと、『誰がため』で中心的に描き出されるのが、ナチスに協力するデンマーク人を次々に暗殺するフラメンとシトロンの二人組ですし、『光のほうへ』でも、ニックとその弟に専らの焦点があてられています。
 たった3例しか挙げることはできませんが、そのすべてで対の関係に強い光が当てられているというのも、随分と不思議なことだなと思っているところです。

(3)もう一つこの映画を巡って考えさせられるのは、戦争とかテロに対してどのような姿勢を取るべきかという点でしょう。
 アフリカで医療活動を行っているアントンは、絶えずそうした難問を突きつけられていると思われます。そして、彼の考えは、自分たちに攻撃が向けられても、それに対して報復を考えてはならない、暴力を使った復讐はさらなる暴力を引き起こすだけで無意味だ、というものでしょう。

 この点について、評論家の粉川哲夫氏は、次のように述べています。
 「この映画は、あきらかに、テロ→復讐→テロ→復讐と終のない様相を呈しているいまの戦争状況を問題にしている。しかし、もし、「テロ」が実は「テロ」と呼ぶには非常に組織的なものであり、「テロ撲滅の復讐戦争」も、実は復讐などが問題ではなく、戦争をすること自体が問題であるとしたら、どうだろう? テロや復讐は、戦争を永続させるための手段、人々にこの戦争を納得させるための「レジティマシー」の装置にすぎないとしたら、どうだろう? 戦争株式会社にとって、人々が復讐心を持ってくれれば戦争を起しやすいが、そうでなくても、戦争は起こさなければらなないのである。戦争は、もっと国家や組織の本質から生ずるのであって、この映画に登場するアフリカの邪悪な集団から直接派生するわけではない。こういう観点から考えると、この映画は、状況認識が非常に甘いのである」。

 確かに、戦争とかテロといったものを個人的なレベルで捉えて、個々人の意識が変わりさえすれば、世の中は平和になるだろうというような認識は「甘い」のかもしれません。
 ですが、だからといって「戦争は、もっと国家や組織の本質から生ずる」と決めつけてしまうと、現在の世の中を変える術はないのかと、酷く悲観的になってしまいます。
 あるいは、粉川氏は、「戦争株式会社」と言っているところからすると、戦争とかテロは、資本主義体制がもたらすものであって、そうした特定の経済体制を打破しさえすれば、問題は解決出来ると言いたいのかもしれません。
 でも、ソ連とか中国とかの経験から、それもまた「状況認識が非常に甘い」とされるのではないでしょうか?
 大層難しい問題でどう取り組むべきなのか皆目分からないと言うべきですが、アントンのような姿勢は、なかなか成果に結びつかないにしても、それでも必要な一歩なのかもしれないと考えられるところです。

(4)渡まち子氏は、「現代に横たわる戦争やテロの原因は複雑で、簡単には解決しない。それでもこの物語は、個人レベルでの赦しがすべての始まりだと教えてくれる。報復や赦しの是非ではなく、負のスパイラルを断ち切ることで、この世界がどう変わるか。それを知りたくなる」として80点もの高得点をつけています。



(注1)映画の前半の方で、アントンが別居中の妻マリアンに電話をかけるシーンがあります。
 アントンが、「君がいなくて寂しい」と言うと、マリアンは「あなたは自慢の夫だと信じていた。愛し合っていたと信じていた」と言います。それに対して、アントンは、「過ちを犯した。それで窮地に自分を追い込んだのだ」と言うと、マリアンは、「あなたのことを考えているときに、あなたは彼女のことを考えていた。すべてが嘘だった」などと答えます(大体のところにすぎませんが)。

(注2)はっきりしないのですが、クリスチャンの父親クラウスには愛人がいて、そのことを肌で感じ取ったクリスチャンが、母親の死に際のことを持ち出して父親を責めるのでは、とも思えるのですが。

(注3)大体のところにすぎませんが、アントンはエリアス達に次のように言います。
 「やつは馬鹿なのだ。やつを殴れば、こちらも馬鹿になる。やつは殴ることしかできない。やつは相手にする価値がないのだ」。



★★★★☆




象のロケット:未来を生きる君たちへ