映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

東京プレイボーイクラブ

2012年02月29日 | 邦画(12年)
 『東京プレイボーイクラブ』を渋谷ユーロスペースで見ました。

(1)この映画は、ユーロスペースのHPに、「極めて個性的な新人監督のデビュー作の主演に、日本を代表する俳優が名乗りをあげた。いま、最も実力と人気を兼ね備える大森南朋」とか、「久々に大物新人監督、日本に現る!1986年生まれという、世界的にも最年少監督と言える若さで異例の注目を集める男の名は、奥田庸介」とまで述べられていたので、それなら見てみるかという気になって、映画館に足を運びました。

 物語は、地方の自動車解体工場で働いていた勝利大森南朋)が、傷害事件(注1)を起こしてそこにいられなくなり、昔面倒を見たことのある成吉光石研)を頼って東京に出てきます。成吉は、場末の飲み屋街で実に物寂しいサロン「東京プレイボーイクラブ」を営んでいるところ(注2)、少ない売上げでもこうして店を経営できていることに満足している様子。
 そんなところに流れ込んできた勝利ですが、その店を取り巻く状況を理解せずに、地元のチンピラ梅造三浦貴大)らと暴力沙汰を起こしてしまいます(注3)。
 さらには、店で働く従業員・貴弘淵上泰史)が店の金を持ち逃げしたりと、成吉の店では立て続けに事件が起こるようになり、あげくは、ヤクザの仲間(梅造はヤクザ三兄弟の一番下なのです)がオトシマエをつけろと成吉を脅しにかかります。



 さあ、勝利、成吉らはどうなるのでしょうか、……?

 勝利役の大森南朋は、舞踏家・麿赤児の息子で、このところ色々な映画に登場するものの、はたして「日本を代表する俳優」とまでいえるかどうか、この作品でも随分と頑張っていますが、「日本を代表する俳優」の役所広司などと比べたらマダマダではないかという気がします(この作品で大森が扮する勝利は、『軽蔑』における山畑―主人公カズの幼馴染の金貸し―に類似している雰囲気を持っているように思います)。



 また、成吉役の光石研も、『シャッフル』では刑事役、『あぜ道のダンディ』では頑張り屋の中年お父さん役、『マザーウォーター』ではお風呂屋の主人と、出る映画の度にめまぐるしく役どころを変えていますが、さすがに演技力はしたたかで、本作においても、寂れたサロンのオーナーという役柄を、これ以上はない的確さで演じきっています。

 さらに、監督の奥田庸介氏は若干25歳で、そうなら『キツツキと雨』に登場する監督(小栗旬)に設定されている年齢と同じで、シンクロしているところが面白なと思いました(『川の底からこんにちは』の石井裕也監督よりも若干若くなります)。
 むろん、若いから良いというわけではないところ、奥田監督は、この作品で脚本まで手がけていて、随分と将来が期待されると思いました。

 なお、本作品には、『キツツキと雨』で、映画『UTOPIA』のヒロイン役を演じていた臼田あさ美エリ子(サロン従業員・貴弘の彼女)に扮して登場していて、そういう点でも興味を惹かれました。



 また、『麒麟の翼』に出演していた三浦貴大は、今度はチンピラの梅造の役(奥田監督と同じ年格好)ですが、まあ大きな声を張り上げればヤクザになるというものでもないよ、と言いたくなりますが、こういう役もこなしながら次第に実力を付けていくのでしょう。

(2)公式サイトのIntroductionでは、「既成のジャンル定義に収まらない新しいアジアン・ノワールを創出した」とか、「絶妙な笑いのセンスでユーモラスに描き出す」などといった言葉が踊っています。
 確かに、思いがけないところで、観客の笑いを誘うようなシーンが挟み込まれています。ですが、映画全体に与える効果は、果たしてどんなもんでしょう?

 例えば、ヤクザ三兄弟の一番上の松ノ介佐藤佐吉)をエリ子が誤って感電死させてしまい、その事後処理として、勝利が、松ノ介の死体を鋸で切り刻んだ後、ビニール袋に入れて川に捨てようとしたところ、その内の一つが橋脚に引っかかってしまい、結局、車に積んであった成吉のゴルフクラブで下に突き落とすことになります。
 凄惨なシーンの後のユーモアといったところかもしれないとはいえ、なんだかとってつけたような感じがしてしまいます。
 というのも、実際には勝利は、鋸を手にしてエプロン姿にはなるものの、鋸の音がするだけで、死体を切り刻んでいる映像は映し出されないのです。こうなると、『冷たい熱帯魚』を見ている観客にとっては、随分と微温的な描き方に思えてしまい、Intoruductionが強調する「激しさ、毒、バイオレンス」は言葉だけなの、ナンテ言ってみたくなってしまいます(元々、大森南朋に「でんでん」の凄さを求めるのは難しいところですが)。
 そして、肝心の場面が外されていることによって、エプロンを着用した勝利の姿とか、引っかかったビニール袋をゴルフのクラブで下に落とそうとしている勝利の格好が、映画全体の流れから浮き上がってしまっているような感じを受けてしまいます。

 さらには、ヤクザ三兄弟の二番目の・竹男赤堀雅秋)が、勝利を狙って拳銃の引き金を引くものの、それまで銃など持ったこともなかったのでしょうか、銃弾は大きく逸れて一番下の梅造にあたってしまいます。かと思うと、首を撃たれて瀕死のはずの梅造が、その拳銃を手にして打った弾が、あろうことか今度は、勝利と一緒に部屋を出ようとするエリ子の背中に正確に命中してしまうのです!
 ここらあたりもユーモアといえばユーモアかもしれませんが、実のところはストーリーの展開上からそうしてあるようにも思えてしまいます(注4)。

 奥田監督はまだ25歳と年若いのですから、そんなに周囲が騒ぎ立てることもないのではないか、実際とは離れたプレイアップをしすぎると、見ている方が引いてしまいかねないのではないか、と思われるのですが(尤も、過剰なPRがあったからこそ、クマネズミも映画館に足を向けたことは否定しませんが)。

 とはいえ、劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューによれば、「そもそも『東京PBC』は、この曲にインスパイアされて生まれた物語」ということもあって、エンディングに流れるエレファントカシマシの「パワー・イン・ザ・ワールド」の迫力たるや物凄く、この曲を聴けただけでも儲け物といった感じになります。

(3)映画監督のいまおかしんじ氏は、雑誌『映画芸術』の2012年冬号に掲載された「おめでとう」と題するエッセイにおいて、「ウソをつきたくないという監督の映画に対する誠意を感じる」、「この映画の随所にある〝笑い〟は時として、ゾッとする残酷さを強調することにもなる。これはウソだけどウソじゃないんだよ。そう思わされるリアリティがこの映画を豊かなモノにしている」、「笑いと残酷さを同居させることによって、観客に強いインパクトを与えようとしているのだと思う」などと述べています。




(注1)勝利は、自動車解体作業の音が煩いと抗議に来た浪人生を、問答無用とばかりスパナで殴り倒してしまいます。このシーンによって、勝利は、カッとすると何をするか分からない喧嘩早い男との性格付けがなされます。

(注2)店にいる女の子たちは、店がヒマなので、四六時中つまらないお喋りばかりしています。実にくだらない内容ながらも、そうしたシーンを映画の中に取り入れたことは多とするものの、時折彼女たちのお喋りを途中カットしたことがあからさまになる編集の仕方をしているのは、監督の意図の中途半端さを考えざるを得ないところです。

(注3)飲み屋のトイレでチンピラの梅造は、勝利に対して、「見られていたら出ねえじゃないか!」と難癖を付けますが、逆に勝利にボコボコにされてしまいます。その梅造を連れた二番目の兄(ヤクザの三兄弟がここらあたりを取り仕切っています)は、「俺たちを敵に回して、この街で生きていけると思うなよ」と捨て台詞を吐いて、飲み屋から出て行きます。コレを見て、成吉は大いに驚き、勝利に対して、「やったらめったら喧嘩をするな。俺たちみたいな余所者が東京で生活していくのは大変なんだ」などと言って、地元のルールに従うようたしなめます。しかしながら、その飲み屋を出た勝利は、ソコにいた二番目の兄を「田舎者で悪かったな」と殴り倒してしまいます。
 こうした経緯があるところから、ヤクザ三兄弟が成吉のところに乗り込んで来るわけです。

(注4)というのも、ラストでエンディングの曲が流れるまでのところが、なかなか良く作り込まれていますから。
 すなわち、成吉のサロンに車で戻る途中、エリ子の話(「もし人生をやり直せたらと思いません?」、「モット勉強して、学校へ行っていたら、別だったのに」)を聞くうちに、勝利は、彼女と二人でここをオサラバしようと思ったのでしょうか、その後で、ピストルで撃たれて虫の息のエリ子を車に乗せて運転しながら、思うようにならない世の中を打ち壊そうとするかのように、「ワォー」と何回も咆吼し、そしてエンディングの曲が実に格好良く流れてくるのです(パワー・イン・ザ・ワールド エレファントカシマシ 歌詞情報 - goo 音楽)。




★★★☆☆



象のロケット:東京プレイボーイクラブ

キツツキと雨

2012年02月28日 | 邦画(12年)
 『キツツキと雨』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)この映画は、出演者の好演もあって、まずまずの仕上がりではと思いました。
 といっても、新人の映画監督と木こりとが交流を深めていく中でお互い成長するという話がメインであって、マアありきたりといえばありきたりの設定でしょう。
 また、木こりのとその息子との諍いと和解といったストーリーとか(注1)、さらには山奥の村には人のいい人たちばっかりという設定なども、よく見かけるものです(注2)。

 それでも、本作には本作なりの面白さもあるのではと思われます。
 物語(注3)は、山奥の村(注4)に住む木こりの克彦役所広司)が、チーフ助監督古舘寛治)のちょっとした要請(注5)を聞いていくうちに、彼らが取り組んでいる映画制作とのっぴきならない関係を持つようになっていきます。
 一方で、克彦は木こりの仕事を続けるものの(注6)、他方でゾンビに扮してエキストラとして出演することになってしまい、それを契機にどんどん映画撮影の方にのめり込んでいくことになります(注7)。
 出会った初めの頃、克彦は、田辺幸一小栗旬)を若手スタッフの一人と思い込んでいましたが、次第に新人監督だということが分かってきます(注8)。
 そうなると、自分の息子・浩一高良健吾)とのぎくしゃくした関係(注9)が逆に作用するのでしょう、田辺幸一のことを親身になってサポートし出します(注10)。
 それがまた息子との関係にも反映して(注11)、遂に息子は、それまでそっぽを向いていた父親の仕事を、同じ作業服を着て一緒にやるまでになります。



 こうした関係の逆転劇は図式的と言えば図式的でしょうが、そうしたものをいくつかうまく織り込んで本作が作られていることが、この映画の一つの面白さではないかと思いました。

 役所広司は、最近では、『一命』、『最後の忠臣蔵』、『十三人の刺客』などで見かけていますが、そうした作品における重厚な演技とは違って、本作ではむしろ惚けたひょうきんな味のある面を出していて、その守備範囲の広さを印象付けています。



 小栗旬も、『踊る大捜査線3』で見ましたが、本作では『シュアリー・サムデイ』(製作費5億円に対して興収3億円と言われていますが)での経験が裏打ちになっているのでしょうか、真に迫っているの感がありました(?!)。

(2) 映画を撮る様子を描いている映画といえば、最近では、『スーパーエイト』でしょうし、また三谷幸喜監督の『ザ・マジックアワー』(2008年:市川崑監督も出演しています)などもありました。
 また、映画の中のゾンビ映画といえば、『東京公園』の中に登場する『吸血ゾンビの群れ』という映画とか、上の『スーパーエイト』では少年たちが製作したゾンビ映画がラストのエンドロールで映し出されます。
 これに対して、本作においては、その中で撮影されるゾンビ映画『UTOPIA~ゾンビ大戦争』と同様に、年若い沖田修一監督(35歳)が制作にあたり、かつまた、劇中劇でゾンビに果敢に立ち向かう村の竹槍隊はゾンビに全滅させられ“ユートピア”は壊滅してしまうものの(注12)、本作の方では、木こりの克彦と映画監督の田辺幸一は成長して新しいステージに入っていくという“ユートピア”が描かれていて、そうした対応関係は興味深いことだなと思いました。

(3)渡まち子氏は、「映画作りを描く作品は内輪受け風になりがちだが、本作は控えめな映画愛が心地よい、愛すべき人情ドラマに仕上がった」として60点をつけています。




(注1)特に、母親が亡くなり父親と子供が取り残されて、両者の間でコミュニケーションがうまくいっていないという設定は、最近では『あぜ道のダンディ』でも見かけたところです。
 そういえば、『ヒミズ』でも母親は、亡くなってはいないものの、他の男と一緒になってプイと出て行ってしまい、主人公の住田少年と父親との確執が一層深まります。

(注2)たとえば、『大鹿村騒動記』はどうでしょうか。

(注3)冒頭から暫くすると、克彦が枝を払いに杉の木を登っていくシーンに続き、山裾の村の中で映画の撮影が行われている光景が杉林の間から小さく見えるシーンが映し出され、その上で漸くメインタイトルが現れますが、印象に残るオープニングです。

(注4)映画では、岐阜県の恵那地方を走る明知鉄道の岩村駅が最寄り駅になっています。

(注5)たとえば、水が澄んでいながらも10人くらいの人間がその中にジャブジャブ入り込めるような川の浅瀬がある場所を教えてほしいと、チーフ助監督は克彦に頼みます。田舎に行けば、流れる水の澄んだ川があるに相違ないというのが、都会の住民の先入観でしょう。そしてそれを背景に取り入れれば、それだけでもエコを意識した映画ということになるのでしょう。でも、撮影しているのは近未来のSF物ですから、そうする必要が余りないのでは?

(注6)木こりの仲間には伊武雅刀らが扮していますが、今や木こりの作業では農作業と同様、随分と簡便な機械(小型起重機など)が使われているようです。
 なお、克彦が、空を見て、「あと30分くらいしたら雨が降る」と仲間に言いますが、これがクライマックスの重要な伏線になっています(克彦は、木こり仲間と弁当を食べている際に、「血糖値が高いので、甘い物は食べられない」と言いますが、こうしたこともその後の伏線になっています)。




(注7)克彦は、スタッフに混じって隠れるようにラッシュを見たところ、自分が映っているので何か心に期すものができた感じで、一人でほくそ笑んでいます。さらに木こり仲間から、「かっこよかった」と言っている人がいると聞くと、「チョット歩いて、倒れるが、また立ち上げって歩くだけ。鉄砲で撃たれもした」などと言いながらも満更でもない様子で、風呂に浸かりながらもゾンビの歩き方を練習したりするほどまでになります。

(注8)当初克彦は、ボーと天を仰いだりしている田辺幸一に向かって、「君は何なんだ、年下の君が手伝わなくてもいいのか」、「ホレ、動けよ」などと怒ります(ここには、克彦の息子・浩一に対する姿勢が反映しているのでしょう)。

(注9)家でぶらぶらしている浩一は、父親克彦にいつも怒鳴られているところ、挙げ句に「家を出て東京に行く」と言って、リュックを背負って出て行きます(でも、数日後の母親の三回忌には、ちゃんと家に戻っています)。
 なお、新人監督の名前を「幸一」とし、克彦の息子の名前を「浩一」(それに歳も同じ25歳)としてあるのは、むろん洒落っ気からでしょう。

(注10)たとえば、撮影している映画に登場する「竹槍隊」の人数が5人しか揃わないと聞いた克彦は、村の猟友会の嫁20人を集めてエキストラ出演させるように計らいます。

(注11)重要な切っ掛けは、母親の三回忌の宴席で、浩一に対して「お前は克彦の後を継げ」と決めつける親戚に対して、克彦が「浩一の気持ちもあるでしょう!」と言い放ち、それを聞いた浩一自身が驚いた時です(これには、克彦が田辺幸一から、長男にもかかわらず故郷の山形の旅館を継がずに、映画制作を志して東京に出てきた、との話を聞いたことが反映しているのでしょう)。

(注12)劇場用パンフレットに掲載されている劇中劇『UTOPIA』のチラシには、「ゾンビと人間の織り成す、愛と復讐のドラマ」と書かれていますが、本作で映し出されるところからすると、竹槍を持った女主人公(臼田あさ美)も、結局はゾンビの餌食になってしまい、「復讐」が遂げられない結末のようです(結局、「希望の地・ユートピア」は存在しなかったことになるでしょう)!



★★★☆☆




象のロケット:キツツキと雨

J・エドガー

2012年02月23日 | 洋画(12年)
 『J・エドガー』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)こうした実在の人物を描く作品はあまり好みませんが、クリント・イーストウッド監督(注1)が制作し、L・ディカプリオ(注2)の主演ということであれば、何はともあれ見ざるを得ないところです(同監督の『インビクタス』―実在の南ア大統領であるネルソン・マンデラを描いています―を見ていることでもありますし)。

 本作が取り上げている「フーバーFBI長官」は、約50年ほどの間に8人の大統領に仕えた歴史上の人物であり、FBIを、国内外からの組織的な犯罪に立ち向かえる警察組織にすることに多大な功績があったとされています。
 すなわち、一方で、彼は、相当額の予算を科学捜査に充てて目覚ましい実績を上げていきますが、他方で、自分の考えるFBIにするという目的達成に邪魔がはいらないよう、国家の主要な人物の極秘情報を把握して、それを巧みに使うことで地位の保全を図ります。たとえば、前者は、リンドバーグ愛児誘拐事件の犯人逮捕で生かされ、後者については、ケネディ大統領にかかるスキャンダラスな情報を、その弟のロバート・ケネディ司法長官にちらつかせたりしたようです。

 ただ、本作は、実在の人物を描いているとはいえ、ディカプリオが扮する「J・エドガー」の姿は、下の写真で見る本物とは相当異なっていることもあって、「フーバーFBI長官」という歴史上の人物に関する伝記映画としてことさら捉えなくともいいのではと思っています。



 むろん、描き出されるエピソードは、実際に近いものが大部分なのでしょうし、そういったものが本作に彩りを与えているのは確かでしょう。ですが、例えばシカゴのギャング団の逮捕にどれだけ貢献したのか、などといったことは、この際どうでもいいことではないでしょうか(注3)。

 むしろ大きな焦点が当てられているのは、専ら、老いていくエドガーの姿、及び彼とその周辺にいる人物、すなわち母親、副長官クライド、そして秘書ヘレンとの関係でしょう。

 老いゆくエドガーについては、一方で、自叙伝の口述シーンが何度も挿入されます。筆記する方は、口述内容に疑問を持つことが幾たびもあるようですが、エドガーは、あくまでも自分の栄光の軌跡を綴らせます(注4)。



 他方で、ケネディ兄弟には有効に働いた極秘情報(注5)も、ケネディが暗殺され、またそういうことに通じたニクソンが大統領になると、効果が薄れたものになってしまいます(注6)。とはいえ、エドガーは、ルーズベルト大統領夫人に関する極秘情報(注7)を後生大事に保持しており、もはや現実が目に入らないかのようです。

 こうしたエドガーの人格形成に一番影響力があったのは、母親アニージュディ・デンチ)でしょう(注8)。
 なにしろ彼女は、エドガーが、仕事が思うようにはかどらず落ち込んで、「誰も信じられない、母さんだけだ」と言うと、「信じるのよ、花のように萎れずに、強くなるのよ」と強く励ますのです(注9)。



 そして、母親との関係が影響しているのでしょう、エドガーは、異性とはうまく付き合えず、同性のクライドアーミー・ハマー)(注10)と何らかの関係があったと思われます(注11)。



 それでも、エドガーは、若い時分にヘレンナオミ・ワッツ)に求婚しています。ただ、その際は、「私は結婚に興味がないの」と断られながらも、「それじゃあ、私の個人秘書になってくれないか」と求めると、彼女は、生涯、エドガーの個人秘書として通します(注12)。



 あるいは、ヘレンは、エドガーを深く愛していたのかもしれません。ですが、『人生のビギナーズ』におけるオリヴァーの母親とは違い(オリヴァーも親離れしていませんが)、エドガーの性癖を知って身を引いたのではないでしょうか?ですが、エドガーを深く愛したがために、他の男性と一緒になろうとはせずに、生涯独身を通したようにも思えるところです。

 全体として、これらの人間関係の中心に位置付けられたエドガーの心の動きが、大層巧みに、かつ興味深く描き出されているなと感心いたしました。

 主演のディカプリオをはじめとして、登場するのは皆実在した人物ばかりですから、下手をすると“ソックリさん”大会になりかねないところ、そこはイーストウッド監督、一定の範囲に抑えていることもあって、おしまいまで興味深く見続けることができました。
 特に、エドガーの人格形成に多大な影響のあった母親アニーの描き方が優れているのでは、と思います。

 ただ、主演のディカプリオ(37歳)は、実によく頑張っているとはいえ、相棒たるクライド副長官役のアーミー・ハマーは、『ソーシャル・ネットワーク』で注目されましたが、まだ弱冠25歳ですから老け役は難しいところで、ディカプリオと一緒の場面が多いだけに、その差が目立ってしまいます。
 また、秘書ヘレンにナオミ・ワッツ(『愛する人』)が扮しているものの、華々しい活躍が見られないというのも、宝の持ち腐れのような感じがします。
 それに、FBIといえば大組織をイメージしますが、映画で見る限りは個人商店の域を出ない様子なのは残念な点かもしれません。
 とはいえ、それらの点は想像力をもって補えば済むことなのかもしれません。

(2)評論家の蓮實重彦氏は、雑誌『群像』掲載の「映画時評39」(本年3月号)において、本作を取り上げています。
 同エッセイで蓮實氏は、監督イーストウッドに関し、「実際、最後の「アメリカ映画」を撮ったのはこの俺だという確固たる自負が、『グラン・トリノ』のすみずみまで行きわたっていた」のであって、その後は、「誰もが「アメリカ映画」として思い浮かべる作品の枠組みにはおさまりのつかぬ映画だけを撮」っており、「その時、そこに描き出されるのは、歴史―偉大なる「アメリカ映画」―が終焉したのちの起伏を欠いたいかにも寒々とした光景である」と述べています。
 そして、本作につき、「イーストウッドには、過去の再現など一切興味がなさそうだ」とした上で、その魅力について、「通信手段が電話でしかない時代に、アーカイヴ的とも呼べる未知の権力意志で結ばれた男女の三人組が、その情報独占への意志をいっときも放棄せず、たがいに誰も裏切らないというおよそドラマを欠いた日常が描かれているところがとめどもなく贅沢で魅力的なのだ」と述べています。

 蓮實氏が、「イーストウッドには、過去の再現など一切興味がなさそうだ」と述べている点にはなんとか共感できるとはいえ、『グラン・トリノ』が最後の「アメリカ映画」だということの意味が奈辺にあって、本作が、終焉してしまった「アメリカ映画」の後釜たる「たんなる映画」なのかどうかも分からないクマネズミにとっては、「ときの大統領やその夫人がどれほど危険な異性とベッドをともにしているか」を、「誰にもいわずにおくことの淫靡なエロチシズムが、ヘレントクライドとJ・エドガーとを固く結びつけている」点が“とめどもなく贅沢で魅力的”と言われても、おぼろげにそうかもしれないなと思えてはくるものの、評者の見解につき十全な理解は甚だ困難です。

(3)樺沢紫苑氏は、「ジョン・エドガー・フーバー、FBI長官という一人の人間を描き出すだけでなく、アメリカの近代史を犯罪という裏側からあぶりだしたクロニクル(年代記)になっているスケール感がすごい」などとして90点をつけています。
 渡まち子氏は、「イーストウッドの狙いは、フーバーが向き合った、禁酒法時代のギャングとの攻防や、リンドバーグ愛児誘拐事件、赤狩りなどの20世紀の事件を通して、米国近代史の光と闇を浮かび上がらせること」であり、「市長の経験もあり、政治を知るイーストウッドは、国家の中枢にいた人物の複雑な輪郭をあぶり出すことで、米国が同じ過ちを繰り返してはならないとのメッセージを込めている」として75点をつけています。
 両氏とも、「フーバーFBI長官」という歴史上の人物を巧みに描き出している点を本作の評価の基軸に据えていますが、クマネズミは、なぜ映画のタイトルが「J・エドガー・フーバー」ではなく、単に「J・エドガー」だけとなっているのか、という点をもっと考慮すべきなのではと思いました。




(注1)イーストウッド監督作品としては、最近では、『ヒア アフター』、『インビクタス』、『グラン・トリノ』、『チェンジリング』を見ています。

(注2)L・ディカプリオについては、最近では、『インセプション』『レボリューショナリー・ロード』、『ワールド・オブ・ライズ』を見ています。

(注3)とはいえ、『パブリック・エネミーズ』の主役の銀行強盗・デリンジャー(ジョニー・デップ)と接点があった(議会証言などをするフーバー長官をビリー・クラダップが演じています←このサイトの記事を参照)、などといったことには興味をひかれますが。

(注4)リンドバーグ愛児誘拐事件の犯人ハウプトマンに対する裁判において、彼自身は否認し続けますが、その単独犯だとして死刑判決が下されます。それにつき口述筆記していた部下は、「本当に単独犯だったのでしょうか?」と疑問を呈すると、エドガーは、FBIによる科学捜査(犯行に使われた梯子の木材を作った製材所を突き止めたりします)の勝利だとして、そこで自叙伝を終えようと言います。

(注5)盗聴等の手段によって、ケネディ大統領と東欧の女性とのスキャンダラスな関係をつかんでいました。

(注6)宿敵キング牧師のノーベル賞受賞に際しては、持っている極秘情報をちらつかせた(内部告発状を書かせて送った)ことによって、彼は受賞を辞退するはずと読んでいたものの、実際はそうはなりませんでした。

(注7)ルーズベルト大統領夫人が共産主義者と楽しい時間を過ごしたことがあるという情報、とされています。

(注8)司法長官から捜査局長に任命されるときも、エドガーが「友達も愛人もおらず、関係者は母親だけ」という点が評価されたフシがあります。
 その母親は、エドガーに関する新聞記事をすべて切り抜いて持っています。

(注9)さらには、女性と食事をしに行くエドガーに対して口煩くアドバイスするかと思えば、クラブに行った時にエドガーが女性と満足に接することができなかったことを耳にすると、エドガーに、「先生に習ったように、正確にきちんと話すことが大事」といい、さらに「女とはダンスなどしたくない」と言い張るエドガーに、「あなたにダンスを教えてあげる」と言ってダンスの手ほどきまでするのですから!
 母親が亡くなった時には、エドガーはすでに40歳を越えていましたが、母親のネックレスや服を身に纏うも、ネックレスを引きちぎって泣き崩れるのです。

(注10)クライドは、最初の面接の際、エドガーが、「この職務は裕福な弁護士になるための腰かけではない」と言うと、「将来は弁護士事務所を開きたいが、あなたが私を必要とされるなら、話は別です」と応じます。
 大学が同じなこと、美形なこと、そしてこうした毅然とした態度であること、などからエドガーは、信頼できる男としてクライドを選択したようです。

(注11)エドガーは、ある時、ホテルのスイートルームにクライドと2人で泊まりますが、その際、「女優のドロシーに結婚を申し込むつもりだ、彼女とは数回食事をしたことがある」と言うと、クライドが、「俺を馬鹿にするのか」、「これ以上女の話をしたら、僕との中はおしまいだ」と怒り狂います。その剣幕に驚いたエドガーは、「お願いだから僕を一人にしないでくれ」、「クラウド、愛している」とひたすら謝ります。クラウドは、エドガーにキスまでしますから、同性愛的な関係があったように見えますが、本作はそれ以上突っ込んで描いてはおりません。

(注12)エドガーが亡くなると、ヘレンは、エドガーとの約束に従って、極秘書類をすべて持ち去ってシュレッダーにかけてしまい、ニクソンの指示により長官室の捜索に乗り込んできた者達の鼻を明かします。最後まで、ヘレンは、エドガーに忠実でした。






★★★★☆






象のロケット:J・エドガー

人生はビギナーズ

2012年02月21日 | 洋画(12年)
 『人生はビギナーズ』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)最近あちこちの映画で見かけるユアン・マクレガーメラニー・ロランが共演するというので、見に出かけました。

 本作の舞台はロサンジェルス。そして、またまた「癌」を巡るものです(注1)。
 といっても、本作の場合、そのことがメインテーマではなく、むしろ、時点の違ういくつかのお話が、入り組んだ形で映し出される構成になっています。

 一つのお話は、母親が亡くなった後、75歳になる父親ハルクリストファー・プラマー)が、自分は昔からゲイだったとカミングアウトし、これからはゲイに生きると宣言し、その周りにはこれまでとは違った男友達が現れるようになります(注2)。

 息子オリヴァーユアン・マクレガー)は、酷く驚きつつも、だとすると父親と母親との関係は何だったのかということで(注3)、自分が小さかった頃の家庭の様子などを回想します(美術史家の父親は、どうも余り家にはおらず、母親は、息子と二人で不満を募らせていたようです)。

 他方で、この父親は、末期癌であることも宣告されます。そのことを知った息子は、父親を分かろうとして、父親につききりになります。といっても、父親は、寝たきりというのではなく、かなり活発に動き回るのですが。

 その後、父親は亡くなりますが(注4)、オリヴァーは、彼のことを回想しつつ、なかなか深い悲しみから抜け出せないまま落ち込んでいたところ、あるパーティーでアナメラニー・ロラン)に遭遇して(注5)、2人は恋に陥ります(注6)。

 こうした中に、父親の愛犬アーサー(ジャック・ラッセル・テリア:今や息子が面倒を見ています)がいろいろ意見を言ったり、またオリヴァーはアートディレクターなのですが、その描くユニークなイラストが何度も画面に登場したりします(肖像画とか『わが悲しみの歴史』のイラストなど)。

 全体としてはかばかしく物事は進展せず、時間が緩慢に過ぎて行く感じですが、これこそが「人生」だという雰囲気が漂っていて、なんともいえない味のある映画になっているなと思いました。
 ただ、父親ハルとオリヴァーの恋人アナとの接点がないために、二つの物語が切れてしまっているのが難点といえるかもしれません。それも、75歳での突然のカミングアウトという点が強いインパクトを持っているために、オリヴァーとアナとの恋愛を巡るお話が何となくありきたりな感じがし、アナの影が薄くなってしまうような印象を持ちました。とはいえ、これも、オリヴァーが主人公の映画なのですから、かまわないといえばかまわないのですが。

 主演のユアン・マクレガーは、『ゴーストライター』とか『ヤギと男と男と壁と』と同様、この作品でもその持ち味を遺憾なく発揮していて、彼が出演している作品なら間違いないだろうという予想は今回も外れませんでした。



 また、父親役のクリストファー・プラマーですが、『終着駅』においてトルストイに扮した重厚な演技が印象的ながら、本作では、軽妙洒脱な演技が冴えていて、その演技の幅の広さには驚かされます。
 そのためもあるのでしょう、今度のアカデミー賞では助演男優賞候補としてノミネートされています(注7)。



 さらに、メラニー・ロランです。このところアチコチの映画で見かけますが(『黄色い星の子供たち』や『オーケストラ!』、『イングロリアス・バスターズ』)、この映画でもその魅力を画面いっぱいに振りまいています。ですから、きっと23歳くらいなのかなと思って家に帰って調べてみたら、何ともうすぐ29歳とのことなので驚いてしまいました(注8)!



(2)本作は、このところ邦画でよくみかける父と息子との関係(注9)に焦点が当てられています。と言っても、『リメンバー・ミー』のように父と息子との間で葛藤があるというわけでもなく、父の病気に際して、それまで疎遠にしていた息子が父親に接近するというにすぎませんが。
 それに、父親ハルの方は、新しいゲイの関係の方にのめり込んでいて(注10)、オリヴァーはその様子を遠巻きに眺めざるを得ないこともあります。
 それでも、寝ているハルにいろいろな本(その中には、日本の石庭の写真が挿入されているものもあります:ハルは美術史家ですから)を読み聞かせるシーンがあり、こういったことがあれば(注11)、父親がなくなった後オリヴァーがなかなか立ち直れないでいるのも、観客として分からないわけではない感じになります。

 逆に、そうした関係があっがために、オリヴァーは、わざわざ恋人アナを自分の家に連れてきて住まわせたりするものの、結局は彼女との別れを選択してしまいます(注12)。
 どうも、オリヴァーの方が、父親を亡くした悲しみの中に埋没したまま抜け出せずにいて、それを察したアナが身をひいた感じもあります。

 総じて見ると、オリヴァーは、38歳になるまで独身でいて、イラストを描いているだけの酷く地味な生活を送っていますが、あるいは父親ハルは、そうした息子を励ます意味もあって、大々的にカミングアウトをして、家で開かれるゲイ仲間とのパーティーなどでも、至極はしゃいだ姿を息子に見せようとしたのではないでしょうか?
 そういった父親の気持ちを受け取ったオリヴァーは、アナとなんとかうまく一緒の生活を送れるようになるのかもしれません(注13)。

(3)渡まち子氏は、「人生に臆病な主人公が知る“始まり”を描く秀作「人生はビギナーズ」。愛犬アーサーが超がつくほど最高!!」として75点をつけています。
 また、前田有一氏は、「コメディー風味ではあるが、監督の実話というだけあって思い入れが非常に強く、終盤に行くほど重さを感じてしまうのが難点か。さらに軽快に、ユーモラスに描いてもよかったように思う。とはいえ、国や人種を超えた普遍的なメッセージを描いた感動的な作品であり、大人の観客を納得させるだけの説得力もある」として60点をつけています。




(注1)最近のものでは、『私だけのハッピー・エンディング』とか『50/50』。

(注2)父親がこの宣言を行ったのは1999年で、母親はその4ヶ月前に亡くなっています。父親は、「これからは、その方面をつきつめたいのだ、実践したいのだ。ゲイのクラブにすでに入っている」などと話します(なお、父親によれば、15歳ですでに自分はゲイだと自覚したとのこと)。

(注3)両親は1955年に結婚し、その結婚生活は44年も続いたとされています。
 父親によれば、自分から母親に求婚し、ただ自分がゲイであることを言うと、「かまわないわ、治してあげる、どんな努力でもする」と彼女が言ったとのこと。さらに、彼は、「自分としても、44年間何とか治そうとしたし、ソコには愛があった。でも彼女には物足りなかったようだ」などと話します。
 彼女の方も、「気分が晴れないときは、大声で叫ぶの」などとオリヴァーに言ったりします。

(注4)カミングアウト宣言から4年後に亡くなりました(2003年とされています)。オリヴァー38歳。映画の冒頭は、父親の遺品をオリヴァーが整理している場面で、不要となった薬品を便器に捨てているところが描かれたりします。

(注5)父親のハルが亡くなってから2ヶ月後のこと。
 仮装パーティーで、オリヴァーはフロイト博士に扮していたところ、アナがその患者として「寝椅子(Couch)」に横になるのが出逢いです。アナはオリヴァーに、「悲しいのならどうしてパーティーにきたの?」と尋ね、彼は「隠していたつもりが、どうして分かった?」と訝しがりますが、アナは仮装の奥のオリヴァーの目を見たようです(ただし、その時アナは咽頭炎にかかっていて声が出ないため、筆談によっています)。
(なお、フロイトといえば、『マーラー 君に捧げるアダージョ』が思い出されるところです)

(注6)アナ自身も、父親のことで問題を抱えていて(「自殺をする」といった電話が頻繁にかかってきます)、なんだか2人は似た者の雰囲気を持っているのです。

(注7)評論家の粉川哲夫氏は、アカデミー賞を予想する記事において、本作における彼の演技につき、「彼自身はストレイトらしいが、ときとして見せる目の「あやしい」輝きが、この作品ではうまく活かされていた。まあまあ、達者な演技ではある」とし、「「功労賞」的な評価に一味違うアルファーが加味しているという点で、クリストファー・プラマーが一番有利である」と述べています。

(注8)以前なら、こうした所にはスカーレット・ヨハンソン(27歳)が登場したかもしれないな、そういえば、『それでも恋するバルセロナ』(2009年)以来彼女を見かけていませんが、どうなってしまったんでしょう〔尤も、マット・デイモンと共演の『幸せへのキセキ』(We Bought a Zoo)が、6月に公開されるようですが(エル・ファニングも出演するとか)〕。

(注9)少し前なら『ちゃんと伝える』とか『プリンセス トヨトミ』、最近では、『麒麟の翼』とか『ヒミズ』といったところでしょうか。

(注10)なかでもアンディとの中が深くなり、父親は家に彼を住まわせるまでになります。
 ただ、父親は、自分が末期癌であることをアンディに言えず、オリヴァーに依頼しますが、そのオリヴァーも言い出せませんでした。

(注11)父親ハルは、「お前と親密になりたかった」とオリヴァーに行ったりします。

(注12)アナがてっきりニューヨークにいるもの思って、その後を追ったところが、ニューヨークの家に彼女がいなかったものですから、オリヴァーはアナに電話を入れます。すると、アナはロスに居たままだったとのこと。その時の電話の会話では、アナはオリヴァーに対して、「どうしてあなたは、いつも私を去らせようとするの?」と問い質し、それに対して、オリヴァーは、「何だかうまくいかないような気がして」と答えます。

(注13)ニューヨークから戻ってきたオリヴァーのところへアナがやってきます。オリヴァーは、アナに対して「なんとか試してみよう!」と言って、エンデイングとなります。



★★★☆☆






象のロケット:人生はビギナーズ

灼熱の魂

2012年02月18日 | 洋画(12年)
 『灼熱の魂』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)随分と地味な映画ながら良い作品だと耳にしたものですから見に行ってきました。
 確かに衝撃的な良作に違いありませんが、それにしても大層重厚な作品(注1)で、それも2時間11分もの長尺ですから、見る方もかなりくたびれます。
 ただ、全体がミステリー仕立てになっていますから、最後まで興味が持続します(従って、本作を未見の方は、以下でのネタバレに注意していただきたいと思います)。
 とはいえ、クマネズミにとってなかなか難解な作品でした。

 物語は、突然、母親のナワル(中東からカナダに移住していました)が亡くなって、遺された双子の姉弟(ジャンヌシモン)が、公証人ルベル(母親を秘書として雇っていました)より母親の手紙を渡されるところから始まります。



 その手紙は彼らの父親と兄に宛てたもので、二人に彼らを探し出して渡してほしいというのが母親の願いでした。
 二人は、母親より、父親はすでに死亡していると言われており、かつまた兄のことなど聞いたことがなかったため、腑に落ちないままに、母親の若い時分の一枚の写真を手がかりに、中東に行って調査を始めます(初めは、専らジャンヌが調査にあたりますが、途中からシモンも加わります)。
 おそらく舞台をレバノンに想定しているのでしょう、キリスト教徒とイスラム教徒との激しい対立が、物語の背景に置かれています(注2)。

 この映画をわかりにくく複雑なものにしているのは、現在における双子の姉弟による調査行の間に、その調査で分かった母親の過去のこと(注3)が、映像として次々に挿入されるせいでもありますが(注4)、それだけでなく、この母親が随分と強い信念を持った女性として描かれていて、たびたび驚くような行動(注5)に出ることにもよるのではと思われます(見ている方は、甚だ強いインパクトを受けるのですが)。
 それに、元々、中東情勢の複雑怪奇なところが背景に控えていることにもよっていると思われます(注6)。

 そんな母親の後を追って自分たちの父親や兄を探し出そうとするのですから、二人が見つけ出す真実(注7)も、実に苦いものとなります。
 とはいえ、それを知った双子の姉弟が、それで強く生きていこうとするのであれば、見ている方は励まされるというものでしょう。
 でも、それが母親の願いだとしても、果たして彼らは、知ってしまった事実の重みに耐えて生きていけるのでしょうか?
 それにしても、よくもこんな重たい映画を制作したものだ、と思わずにはおられません。

 主役の母親ナワルに扮するルブナ・アザバルは、何度も危機的な目に遭う大変な役を説得力を持って好演しています(なお、『ワールド・オブ・ライズ』においてゴルシフテェ・ファラハニー(『彼女が消えた浜辺』)の妹役で出ているとのことですが記憶にありません)。

(2)この映画で語られたことの一つは、母親ナワルの類い稀なる強い意志力と思われます。
 自分が引き起こした事件によるものとはいえ、地獄より酷いとされる刑務所に15年間も入っていたのですから。
 そして、出所後も、そこでの出来事を胸にしまいこんでじっと耐えて生活してきたのですから。

 ですが、最後になって、その時のことを二人の子供に調査するよう頼んでしまいます。その結果として、ジャンヌとシモンは、知らなくてもいい陰惨な事実にぶち当たるわけです。
 映画においては、それまでのジャンヌとシモンは、かなり変わった母親(注8)の手によって育てられたにせよ、根本的に解決しなければならないような危機的な状況に置かれているわけでもなさそうに思われます。
 それがいきなり母親の死に直面し、遺された母親の手紙で要請されていることを忠実に実行したら、知らなくてもいい事実を突然否応もなく頭から被せられてしまった、ということになるのではないでしょうか?

 普通だったら、余りの予想外の事柄に直面して、とても精神的に持ちこたえられないのではないでしょうか?
 何より母親自身が、あること〔下記(4)参照〕でそのおぞましい事実を知ったことが原因で、放心して倒れてしまい、ついには死に至るのですから!

(3)そもそも、なぜ母親ナウルは、ジャンヌとシモン、それに彼らの兄ニハドに宛てた手紙を遺したのでしょうか?
 ナウルがジャンヌとシモンに宛てた手紙によれば(注9)、母親は、刑務所で自分を襲った男を、寛大にも許すだけでなく愛するとまで言っています。
 確かに、この男は、キリスト教徒とイスラム教徒との間に生まれた人間ですから、二つの宗教の融和の象徴と言ってもいい存在でしょう。
 ですが、母親に対して振る舞った行為は、どちらの宗教から見ても許されざる行いではないでしょうか?
 それに、いくら母親が許すといっても、その行為の結果としてこの世に生を受けたジャンヌとシモンはその男を許せるのでしょうか?
 母親に代わって復讐を遂げる行動に出てもおかしくはない感じもします。

(4)母親ナワルは、プールで、ある男性の踵に3つの点が刺青されているのを見、さらにその男性の顔を見て、すべてのおぞましい事実を知るに至ります。



 これが、本作の物語の発端であり、ジャンヌとシモンが突き止めるべき事実となるわけですが、酷くご都合主義的な点はさて置くとしても、この「3つの点の刺青」とは何なんでしょうか?
 中東の地ではなく遠くカナダにおいて、「3つの点の刺青」を見ただけで人を判別できたということは、彼女の祖母が行ったこの方法が、決して土地の風習で誰にでも施すといったものではなく、極めて特異なことだとわかります。
 その背後にあるのは、やはり、劇場用パンフレットに掲載された映画評論家・きさらぎ尚氏のエッセイが指摘するように、ギリシア悲劇『オイディプス王』なのでしょう(注10)。
 そして、本作の「3つの点の刺青」は、同悲劇におけるオイディプス王の「足の踵の腫れ」に対応しているのでしょう(注11)。

 とすると、本作は、調査を進めることによって事実を暴いていくという構成をとっていることから、まるでドキュメンタリー作品のような雰囲気を持っていますが、随分と作為性が強いフィクションだと思われます。
 ではなぜ、本作の製作者は、わざわざギリシア悲劇を現代に蘇えらせようとしたのでしょうか?母親のナワルの数奇な生き方を描くのであれば、なにもここまで重い話にする必要があるのでしょうか?
 あるいは、宗教的対立を融和の方向に導かせようとの願いを込めているというのでしょうか?
 でも、『オイディプス王』で描かれているのは、オイディプスによる父ライオス王の殺害であり(注12)、オイディプスの子供たちが遭遇するであろうこれからの苦難といったものです(注13)。
 むしろそういった苦難の方が、ジャンヌとシモン(オイディプスの子供たちに相当するでしょう)やその兄ニハド(オイディプスに相当するでしょう)の将来に待ち構えている状況ではないかと考える方が、常識的ではないかと思えるところです。

 ただ、この映画は、全部で4部作となっている舞台の真中だけを取り出したからそう思えるのであって(注14)、あるいは、その前の戯曲とその後の戯曲に密接につながりを持っていて、それを見れば以上で申し上げたいくつかの違和感も、もしかしたら拭えるのかもしれません(注15)。

(5)金原由佳氏は、「『サラの鍵』同様、過去の傷を自分の痛みとして現代人に共有させる手法が鮮やか。これは知るべき痛みである」として★4つの満点をつけています。



(注1)原作は、レバノン出身でカナダ・ケベック在住の劇作家ワジディ・ムアワッドの「Incendies」(「約束の血」4部作のうちの第2作目)。また、本作の監督・脚本は、カナダのドゥニ・ヴィルヌーヴ。

(注2)レバノン内戦を巡るアニメ『戦場でワルツを』を見たことがあります。

(注3)母親のナワルは、キリスト教系の家で育ちながら、異教徒の青年と深い仲になるも、その青年はキリスト教系の仲間に殺され、身籠っていた子供は産みますが、祖母に取り上げられてしまいます。
 その後ナワルは、街に出て大学に通うものの、内戦が激しくなって大学が閉鎖されてしまいます。
 息子の安否が気がかりとなって、ナワルは南部に探しに行ったところ、彼がいた孤児院は、イスラム教徒によって破壊されてしまったとのこと。
 ナウルは絶望しますが何とか立ち直り、その後紆余曲折を経た挙げ句、カナダに移住したというわけです。

(注4)映画は、全部で10章から構成され、各章は「双子」、「ナワル」、「ダレシュ」などのタイトルが付けられています。

(注5)ナワルは、イスラム系のテロリストになってキリスト教右派の指導者を射殺するに至り、捕らえられて刑務所に15年間閉じ込められることになります。



(注6)ナワルのような過去を持った女性が、どうしてイスラム系のテロリストになってキリスト教右派の指導者を射殺するに至るのか、いまいち分からない感じです(バスに乗っていた自分以外の者が、キリスト教系の兵士によって皆殺しにされたためなのでしょうか?)。
 また、ナワルをレイプする男は、シャムセディンというイスラム系武装勢力のリーダーによって訓練されて優秀な狙撃兵になっていたのではないでしょうか?そんな男が、どうしてナワルが囚われているクファリアット監獄に現れるのでしょうか?というのも、そこはナワルを監禁する刑務所であり、キリスト教右派の勢力下にあると考えられますから。
 こうした疑問を持ってしまうのも、クマネズミが、中東を巡る情報など不十分にしか持たないためなのでしょう!

(注7)自分たちは、閉じ込められていた刑務所におけるナワルに対する拷問(レイプ)の結果として生まれたのであり、決して両親に祝福されて生まれたのではないこと、それになにより、父親は自分たちの異父兄であることまでわかってしまったのです(刑務所でレイプした男が、なんとナワルの実の息子なのでした)!

(注8)若い時分は、学生新聞の編集に携わったりして活発だったようですが、カナダ移住後は、キチンと描き出されているわけではないものの、大層寡黙な人間になってしまっていたようです(特に、シモンにとっては、不可解な母親という感じが強かったように見受けられます)。

(注9)手紙には、次のように書かれていました(劇場用パンフレットの裏表紙に掲載されているものよっています)
 「どこから物語を始める?/あなたたちの誕生?―それは恐ろしい物語。/あなたたちの父親の誕生?―それはかけがえのない愛の物語。/あなたたちの物語は約束から始まった。怒りの連鎖を断つために。あなたたちのおかげで約束は守られ、連鎖は断たれた。/やっとあなたたちを腕に抱きしめ、子守歌を歌い、慰めてあげられる。共にいることが何よりも大切……。/心から 愛してる」。

(注10)「その母性の強さはこの映画をソフォクレスのギリシア悲劇に昇華させる」。

(注11)「子供はといえば、生まれてまだ三日もたたぬとき、ライオスが留金で両の踝を刺し貫いたうえで、人手に托して人跡なき山奥に捨てさせてあったのでございます」〔『オイディプス王』(藤沢令夫訳、岩波文庫)P.72~P.73〕。

(注12)ニハドの父親は、『オイディプス王』のようにニハドによって殺されるわけではありませんが、ニハドが所属するであろうキリスト教勢力によって射殺されてしまいますから、ある意味では『オイディプス王』をなぞらえているともいえるのではないでしょうか?

(注13)オイディプスと母親イオカステとの間には、男の子2人と女の子2人が生まれましたが、男の子について、オイディプスは、「男の子のほうについては、何も心配しないでくれ、彼らは男だ。いずこにあろうと、生きるにこと欠くようなことは、よもやあるまい」と述べる一方で(P.128)、2人の娘については、「おもえば、何というつらい人生が、お前たちにのこされていることだろう。世の人びとからどんな目を向けられながら、お前たちは生きていかねばならぬことだろう」云々と、酷くその行く末を案じています。
 実際には、ソフォクレスによる悲劇『コロノスのオイディプス』や『アンティゴネー』を見ると、オイディプスの息子や娘のその後が分かります。
 結局、2人の息子については、「二人の兄弟、それが1日のあいだに、おいたわしくも、我からと互いの手に身を斬り裂いて、いっしょに討死なさっ」たし〔『アンティゴネー』(呉茂一訳、岩波文庫)P.11〕、娘の一人アンティゴネーについても、閉じ込めた「墓穴のいちばん奥に、あの娘御が頸を吊って下がっているのが眼につきました」という結果となってしまいます〔『アンティゴネー』P.81〕。

(注14)本作は、ニハドやジャンヌとシモンが、自分たちの誕生の秘密を知るところで終わっていて、そうした事実を知った上で、今後彼らが動向どうするかという肝心の点は描かれていないのではないかと思われます(いわば前提が明らかになっただけで、本格的な話はこれからという感じがするのですが)。
 そうではなくて、本作は、『オイデプス王』におけるイオカステをクローズアップしようとして作られたのかもしれません。
 『オイデプス王』においては、「使者」がする踝の傷の話から、イオカステはおぞましい事実を直感し、オイディプスには、「ご自分が誰であるかを、どうかけっして、お知りになることのありませぬように!」と言って奥に引っ込み、首をくくって自殺してしまいます〔『オイディプス王』(岩波文庫)P.99〕。
 本作におけるナウルも、プールで遭遇した男からすべての事実を直感し、余りのことに放心状態となり、遂には死んでしまいます。
 こうした類似性はあるにせよ、そしてイオカステを主人公にすることも考えられるにせよ、一連の話の中心は、本来的にはやはりニハドであり、ジャンヌとシモンではないかと思えるのですが。
 ただ、ニハドについては、本作の冒頭で、兵士になるべく幼いながら頭を坊主にされている場面が映し出され、ラストでは、ナワルの墓に花を捧げるシーンが描かれていて、そこからすれば本作はニハドを巡るものといえなくはないかもしれません。
 でも、それなら、もっとニハドの内面の動きが分かるように描かれる必要があるでしょう。

(注15)そういえば、掟の厳しい地域で暮らしていた若いナワルが、どういう経緯で、こともあろうに異教徒の青年を恋するようになり、その子供まで身籠ってしまうのか、という重要な点についても、本作では描かれてはいないようです。



★★★☆☆





松井冬子展

2012年02月15日 | 美術(12年)
 横浜美術館で開催されている「松井冬子展」(~3月18日)に行ってきました。

 松井冬子氏については、このブログでも何度か取り上げていますが(注1)、公立美術館における初めての大規模個展ということで、注目されます。

(1)冒頭に掲げましたのは、『世界中の子と友達になれる』(2002年)で(注2)、雑誌の対談において松井氏は、タイトルの由来につき、「子供の頃、本心でそう感じた瞬間があって。でも大人になったいまそれは妄想であると気づきました。それゆえ狂気と希望が入り交じる、私の琴線にふれる言葉になりました」と述べています(注3)。


(2)下図は『浄相の持続』(2004年)で、同展覧会では、「第7章九相図」のコーナーで展示されています(注4)。



 この作品は、腹部を開いているところから、「腑分図:第七頸椎」とか「解剖 仔牛」などの作品が展示されている「第5章腑分」にも通じているように思われます(注5)。

 となると、2011年の「このミステリーがすごい」で3位だった皆川博子氏の『開かせていただき光栄です』(早川書房、2011.7)を読み終わったばかりなので、そのシンクロ性に驚きました。
 というのも、素晴らしい出来栄えの同ミステリー(とても80歳を越える作者が描いたものとは思えません!)は、舞台が18世紀のロンドン、解剖を専らにする外科医ダニエルの解剖教室(注6)で、四肢を切断された少年と顔を潰された男の死体が見つかったという事件を追って行くもので、「特別附録」として「解剖ソング」まで巻末に付けられているほど解剖についての話が満載なのですから(注7)。

 さて、同展のカタログによれば、「松井冬子は、人間というものは開いたら内臓が出てくるものなのだから、それは現実であり事実であって、臓物を描くことは真実を見つめることと同義だとい」っているとのこと(P.125)。
 ここには、どこまでも真実を求めることが正しいのだ、という作者の姿勢がうかがわれます(注8)。
 でも、映画『サラの鍵』で登場人物の一人が言っているように、真実を追求することは本当に正しいことなのか、そのまま静かに放っておくことも必要な場合もあるのではないか、とも思われるところですが(無論、『サラの鍵』の主人公は、ジャーナリストとしてどこまでも真実を追い求めて行くのですが)。



(注1)「医学と芸術展」についてのエントリ(2010年1月7日)で『無傷の標本』(2009年)を、映画『ステキな金縛り』に関するエントリ(2011年11月12日)で『夜盲症』(2005年)を取り上げています。

(注2)朝日新聞2月8日夕刊の展覧会紹介記事によれば、東京芸大の卒業制作であり、松井氏は「プロとしての第1歩」と位置付けているようです(この絵については、何枚もの下図も同時に展示されていますが、同氏によれば、「イメージがしっかりあって練っている、その過程を理解してほしかった」とのこと)。
 なお、なおこの作品は、次のジョットの『聖フランチェスコの小鳥への説教』を思い起こさせます。



(注3)『美術手帖』本年2月号(美術出版社)。

(注4)松井氏によれば、「九相図」は、鎌倉時代にあった「九相詩絵巻」からヒントを得ているところ、新しい「九相図」を描くべく、9つの自殺の要因を一つずつ描いていこうとしていて、この『浄相の持続』は「復讐」(「親とか恋人とか、周囲の人を攻撃する。最後の復讐という意味合いの自殺」)とのこと〔「注3」の雑誌のP.48~P.49〕。

 同作品の脇に作者によって付けられた解説には、次のように記されています。
 「「私はこんなに立派な子宮をもっている」という攻撃的な態度は、自傷行為の原因となる防衛目的から発現した破壊的衝動である。私はこの女に対し自己投影し同一視している。また彼女の周りに咲く花々も、彼女に同調するように切断し、雌しべをみせびらかしている。私はこの作品に共感し、同調しうるであろう女性達に向けて作品を制作した。同調に関しての優れた能力は、卵をつくる、分身をつくる、という子宮を持つ者の強い特権であるからだ。」

 こうした作者の姿勢を巡って、精神科医の斎藤環氏は、「確かに男性にはこの作品を正確に理解することが難しい。なぜか、男性にはどうしても、横たわって内臓をさらけ出している女性の姿を「屍体」と見てしまうからだ」、しかし、「女性ほどではないにせよ、男性にとっても「シンクロ」が可能になる」ポイントはある、それは「まなざし」だ、云々と述べています〔「注3」の雑誌に掲載されている論文「松井冬子論 ジェンダーとアートの新しい回路」〕。

(注5)「腑分」というと、『解体新書』を思い出させますが、同書の「解剖絵図を一人で担当した」のが、秋田蘭画を代表する画家の一人の小田野直武であることなどについては、昨年5月5日のエントリの末尾及び「注5」を参照して下さい。

(注6)実は、解剖教室を所有するのは、兄のロバート・バートン(「ロバート・バートンが教室を開設するまでは、ロンドンにおいては、医学生であっても屍体に触れる機会はほとんどなかった」)で、弟のダニエル・バートンが外科医として手伝うようになってから、「ロバートは社会的地位の高い内科医の資格を得、上流社会の仲間入りをした。ダニエルのような外科医は、数段低くみられている」とのことです(『開かせていただき光栄です』P.14)。

(注7)佳嶋氏による『開かせていただき光栄です』のBook Cover Illustrationは、「解剖」をイメージしたものになっています。



(注8)ここでいう「真実」とは何かということが問題となるかも知れませんが、それはサテ置いて、映画『麒麟の翼』に登場する加賀刑事も、「真実を避けるから殺人事件が起きてしまったのだ」と語ります。




月光ノ仮面

2012年02月13日 | 邦画(12年)
 『月光ノ仮面』を渋谷のシアターNで見ました。

(1)前作の『板尾創路の脱獄王』がなかなか面白かったものですから、この映画もまたと期待して映画館に向かいました。
 そういえば、前作も、吉本の喜劇人が作る映画だからと思って見たら、なかなか一筋縄ではいかない仕上がりになっていたので、あまりお笑いの面を期待すべきではないかもしれないとは思っていました。
 実際に見てみますと、なるほど落語の「粗忽長屋」を踏まえた作りになっているものの、随分とシリアスな映画です。

 物語は、終戦から暫くして南方の戦場より引き揚げてきた男が主人公(板尾創路)。兵隊服を着て、顔に繃帯を巻いた姿で街中を歩き、そのまま寄席(「神田橘亭」)の中に入り高座まで上がるものの、何も喋らず、結局、寄席芸人達によって外に放り出されてしまいます。



 でも、彼が持っていたお守りを見た女性(石原さとみ)が、これは戦死したはずの「森乃家うさぎ」(注1)だと言ったことから、騒動が持ち上がることになります。



 彼女は一門の師匠の娘で、以前「森乃家うさぎ」と結婚の約束をしていたのです。その彼女がそういうのならばと、主人公を師匠・森乃家天楽前田吟)の元に連れ帰り、森乃家小鮭という名前を与えて、なんとか昔の姿に戻そうとします。ですが、主人公は一向に何も喋りません。

 そうこうしていたら、もう一人の復員兵(浅野忠信)が、同じような兵隊服姿で寄席に現れ、むしろこちらの方が「森乃家うさぎ」ではないかと皆が思います。でも、この男もまた一言も喋りません。



 最初の男は、そのうちに、落語をぶつぶつつぶやくようになりますが、後の男は、喉をやられていてトテモ喋れそうにはありません。
 師匠が考えついた解決策は、最初の復員兵をもとどおり「森乃家うさぎ」として高座にあげる一方で、後から現れた復員兵を岡本太郎として娘・弥生と結婚させるというものでした(注2)。
 サア、うまくいくでしょうか、……?

 落語の「粗忽長屋」の「抱かれてるのは確かにおれ(死体の熊さん)だけど、抱いてるおれ(生きている熊さん)はいったい誰だろう」を踏まえて、“いったい俺は誰なんだろう”というわけですが、一人の人間(熊さん)がそう考えるのではなくて、二人の人間(板尾と浅野)がどうやら考えているようなので、話がこんぐらがってきて、またラストにトテモ考えられないような展開があり、『脱獄王』ヨリも一段と扱いにくい作品になっています。

 例えば、板尾創路が女郎と女郎屋の床下を掘り進んでいったら、なんとタイムスリッパーのドクター中松に遭遇する、といった話の意味は、なんとも解釈しようがありません〔あるいは、そこからタイムマシンに乗って、今マサニ戦っている南方の戦場に行き着いて、本物の「森乃家うさぎ」(浅野忠信:本作で描かれているところからすると、爆弾の破片にやられて戦死してしまったように見えるのですが)(注3)をこちら側につれてくるいうことなのでしょうか〕。

 また、そのラストは、森乃家小鮭から森乃家うさぎとなった最初の復員兵(板尾創路)が、高座に上がって、風呂敷に包んであった機関銃を取り出して、客席で笑い転げる客を撃ち続ける場面となります。この場面は暫く続き、また板尾創路自身が、劇場用パンフレットで、この場面をまず撮りたくて映画制作を思いついたなどと述べています。
 ですから、そこには深い意味が込められているのかもしれません。
 ですが、クマネズミは単純に、森乃家うさぎが矢継ぎ早に高座で繰り出す話がどれもコレも物凄く面白く、客席の皆が笑い転げている様を象徴的に表している、と見たらどうかなと思っています。
 その様子を見て、もう一人の復員兵(浅野忠信)は、彼が森乃家うさぎとして大成したなと喜びつつも、彼が森乃家うさぎだとしたら、この俺はいったい誰なんだ、と考え込む、というところでオシマイ、というのではどうかな、と思いました。

 いくら顔面が繃帯で覆われているからと言って、師匠の娘(石原さとみ)が、恋人を間違えるなんてことはありえない(注4)、師匠の天楽にしても、下稽古も何もやらないでいきなり高座にあげてしまうことは考えられないのでは、などなどいろいろな問題点はスグに指摘できると思います。

 でも、そんなことは百も承知で板尾創路は映画を作っているのではないでしょうか?
 としたら、見ている方も、その映画作りの方向に乗っかって楽しめば良いのではと思いました。

 観念的な面が色濃い落語「粗忽長屋」をさらに観念的にしたような作りのため、一般の評判は余り高くはありませんが(人違いにもほどがあるとか、監督の一人よがりではないか、など)、私はこういうもの(人にいろいろと解釈を迫るような作品)も作られて良いのじゃないかなと思っています。

 板尾創路は、最近では『太平洋の奇跡』にも出演したりと活躍しているところ、松本人志監督の『さや侍』で、主人公の野見に様々の芸を教える役割を持った牢番を演じていたのが印象的です。そして、それを越える者を自分で作ろうとしたのかもしれませんが、前作の『脱獄王』同様、殆ど何も喋らない役柄ながら、その存在感は否定すべくもなく、また第3作目が期待されるところです。

 また、浅野忠信は、このところ海外作品にウエイトを置いているようにも見えながらも、邦画でも重要な役柄を演じていて、『乱暴と待機』とか『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』などで好演しています。本作でも、彼が出演したことで、随分と画面が締まったのではないかと思いました。

(2)映画評論家の中野豊氏は、「俺はいって~誰なんだ……。板尾はいって~何者なんだ……。映画を「落語」で綴る怪作」として80点をつけています。
 また、渡まち子氏は、「観た人が「ワケがわからない」思いを抱いて劇場を出ることが目的と語っていた板尾監督。その目論見はとりあえず成功している。無論私も“ワケがわからない”のだが、監督の、不条理なものへの憧憬を感じた」として50点を付けています。





(注1)天楽師匠の弟子の話によれば、「真打ち寸前で、そりゃあ物凄い人だった」とのこと。

(注2)その後、弥生と岡本(浅野忠信)は祝言をあげるのですが、その前に、岡本が池で溺れたときに、弥生は、そばにあったロープを投げて岡本を助けようとしませんでした。あるいは、既に、体を許した板尾創路の方に惹かれていて、岡本を余計な者と考えたかったのかもしれません。

(注3)板尾創路が、「森乃家うさぎ」の故郷に行って母親に会うと、母親には、「自分の息子は、お国のために戦死したんだ、誰だあんたは?」と言われてしまいます。

(注4)天楽師匠が、娘の弥生に、何か覚えはないのか、と聞くのですが、彼女は「自分としては、生きていてくれただけでいい」などというものですから、皆も余り詮索しないで「森乃家うさぎ」だと決めつけてしまいます。





★★★☆☆







象のロケット:月光ノ仮面

麒麟の翼

2012年02月10日 | 邦画(12年)
 『麒麟の翼』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)原作が、勤務先に近い日本橋を舞台にしている東野圭吾氏(注1)の「新参者」シリーズの一つだと聞きこんだので見に行ってきました。
 確かに、冒頭とラストは、まさに日本橋のど真ん中にある翼のある麒麟像で、また人形町の水天宮を中心とする神社なども関係してきますので、随分と親近感を持てます。
 ただ、ミステリーとしてはそれほど大した謎でもなく(注2)、このところ何度か映画で取り上げられている父と子との関係如何(注3)といったことが中心的なテーマになっていることもあって、今一の感じがしてしまいました。

 物語は、ある金属加工業を営むメーカーの会社幹部の青柳中井貴一)が、胸を刺され瀕死の状態で日本橋まで辿りついて、そこで事切れてしまうところから始まります。
 警察は、当初、現場近くに潜んでいた青年・八島三浦貴大)を容疑者としますが、直後の交通事故で意識不明のまま死亡してしまいます。
 その後、青柳の行動を辿って行くと、通勤ルートからかなり外れている日本橋界隈(注4)に、このところ足繁く訪れていることがわかります。
 そのうちに、青柳の息子(松坂桃李:『アントキノイノチ』で印象に残る演技をしました)が問題の鍵を握っていることがわかってきます。どうも、彼が高校3年生だった3年前の夏に、学校で何かあったようなのです。そして、……。



 例によって、阿部寛が扮する加賀刑事と溝端淳平の松宮刑事のコンビが、次第に謎を解いていきます。その際には、いつものように、人形町の和物を売っている小間物屋を加賀刑事がよく知っていることとか、日本橋七福神などがヒントになったりします。



 でも、結局は、息子が、父親と疎遠になってしまってはいたものの、父親が自分のことをいつも気にかけていてくれたことを知るに至る、などという通俗的な結末を迎え、かつどうでもいいような人生訓話を何度も聞かされたりすると(注5)、随分お金をかけて作られた映画に違いないものの、2時間のTVドラマで十分ではないか、という気にもなってしまいます。

 阿部寛は、一昨年は『劇場版TRICK』や『死刑台のエレベーター』、昨年は『ステキな金縛り』と見ましたが、どの映画でも存在感あふれる演技を披露していて、本作の加賀刑事役もまさに適役ではないかと思いました。

 本作には、主人公と絡むヒロインは登場しませんが、容疑者の嫌疑をかけられた青年の恋人役に新垣結衣が扮していて、『ハナミズキ』以来ですが、少しの間に随分と大人になったな、と思いました。今後さらに飛躍が期待されるところです。




(2)本作のメインの話からはズレますが、派遣社員の弱い立場、ひいては企業の隠蔽体質(注6)が描かれている点も注目されます(といって、こうした点も従来からよく取り上げられてはいますが)。
 青柳が製造本部長を務める会社の工場では、作業効率を上げるために、通常インターロック機構をオフにして作業をしていたところ、そのために怪我を負ってしまった派遣社員・八島(三浦貴大)に対して、その事実が労基署にばれてしまうのをおそれて、会社の方は労災認定の申請をしませんでした(注7)。
 八島は、その後、同工場をクビになってしまいますが、その時に負った怪我のせいだと考えていたようで、会社のやり方に不満を持っており、それを聞きつけた警察の方は、八島が事件の犯人として十分な動機を持っていると考えました。
 というのも、同工場の責任者は、殺された製造本部長の青柳だからです(八島は、青柳が頻繁に工場に視察に来るのを、作業中に見ていて知っていましたから)。
 このインターロックを巡る話を警察(松宮刑事)にしたのは、同じ派遣社員である横田柄本時生)です。ただ、自分たちは派遣社員だから、そうした問題について会社に申し入れをすることができない、そんなことをしたら簡単にクビを切られてしまう、と話します。
 としたところ、この話は、警察幹部の口を通してマスコミに流され、被害者である青柳の家族に対して、世間が批判的な目で見るようになり、その長女が自殺を図るまでの騒ぎになってしまいます。
 実際のところは、横田(柄本時生)が、「インターロックのことは青柳さんは知らなかったはず、すべて工場長(鶴見辰吾)止まりだった」などと松宮刑事に述べて一件落着。ですが、それは映画の観客にとってであって、映画の中においては、この関係の話はそれ以上何も進展しないままジ・エンドとなってしまいます(注8)。

 様々の精緻な自動制御装置が開発され、それが現場で取り付けられていても、実際のところは、効率の妨げになるとオフ状態にされていることが多いのは、現実に事故が起きてからよく聞かされることです。
 この映画においては、それが八島の死にまでつながるのですから、放っておける問題ではないのではと思えてきます。
 この映画がなんだか釈然としないのは、メインの事件の描き方もさることながら、こちら問題がが手つかずに残ってしまっていることもあってのことではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「共に、近年、日本映画で最も頻繁に“顔を見る”役者が共演しているのが何ともゴージャスだ。事件の性質上、2人が顔を会わせるシーンはないのだが、子を思う父の姿を静かに熱演した中井貴一の存在感が印象的だった」などとして60点をつけています。





(注1)東野圭吾氏の作品を映画化したもので見たものは、『白夜行』のエントリの「注2」に記載したものに加えて、『夜明けの街で』があります。

(注2)こうした映画を見つけていると(あるいはそうでなくとも)、当初犯人と目された人物がそのまま真犯人になることはまずないなと考え、むしろ意外な人物が犯人となるに違いないと身構えます。でも、結局、ラストになって明かされる犯人がそれほど意外性をもっていないと、何なんだこのミステリーはと作品を批判するようになるでしょう!

(注3)父が子に伝えるという点に関しては、昨年6月12日のエントリの(3)でも触れたところです。

(注4)青柳の自宅は練馬区で、会社は新宿にあります。

(注5)加賀刑事が、「3年前、真実を避けなければ、お父さんが死ぬことはなかったんだ。お父さんは、もっと君と向き合おうとしていたはずだ。君がちゃんと向き合っていれば、お父さんは、杉野君に話を聞こうとはしなかったろう」、「お父さんは、何としてもあの麒麟像まで辿りつきたかったのだ。勇気を持て、真実から逃げるな、正しいと信じたことをやれ、というメーッセージだ」と話したり、また学校の教師(劇団ひとり)に対して、「3年前に犯罪を隠蔽することを教えたあんたに、人を教育する資格はない」などと話します。
 ですが、すべて、事後的に、当事者ではない立場に立って、随分と高いところから物を申しているようにしか聞こえませんが。
それに、青柳の父親(中井貴一)は、息子のブログを盗み見て事件の真相を知ったにもかかわらず、なぜ息子に問いたださずに、息子の友達の杉野に話を聞こうとしたのでしょう?
 青柳の死は、3年前のことも確かにありますが、自分の方でも息子ときちんと向き合おうとしなかったことも原因とは考えられないでしょうか?そうしたことについて、加賀刑事が口を差し挟む余地があるとも思えないのですが?

(注6)昨年は、東京電力の福島原発事故を巡ってその隠蔽体質が大問題となりましたし、またオリンパスの損失隠しも明るみに出ました。

(注7)というよりも、派遣元の会社に対して、労災申請をしないように派遣先が圧力をかけていたようです。

(注8)青柳の息子が工場長を駅で殴りつけたりしますが、むろん、そんなことをしても何の意味もありません。




★★★☆☆




象のロケット:麒麟の翼

ヒミズ

2012年02月07日 | 邦画(12年)
 『ヒミズ』を吉祥寺バウスシアターで見ました。

(1)本作は、昨年、『冷たい熱帯魚』と『恋の罪』で鮮烈な印象を残した園子温監督の作品ですから、やはり大いなる期待を持って映画館に出向きました。
 園監督は、このところ随分と短いインターバルで衝撃作を次々に公開してきているところ(注1)、本作品も、期待にたがわず素晴らしい出来上がりだと思いました。

 原作は古谷実氏の同タイトルのマンガ(講談社)(注2)。物語の主人公は、中学生の少年・住田染谷将太)で、ヒロインは、同じクラスの女生徒・茶沢二階堂ふみ)。
 住田少年は学校になじめず、大体は、とある川べりに設けられた貸しボート屋で過ごしています。そんな彼に、クラスメートの茶沢は恋い焦がれ、住田少年から大層邪険な扱いを受けても、幾度となく貸しボート屋に押し掛けます。
 初めのうちは、母親(渡辺真起子)がボート屋で同居していたのですが、書置きを残してプイと消えてしまいます。他方、父親(光谷研)も時折現れるものの、暴力を振るうばかりで、これまたすぐにどこかへ立ち去ってしまいます。
 ただ、何かと力になってくれるのが、貸しボート屋のそばでテントを張って暮らしている夜野渡辺哲)らの面々(注3)。かれらは、どうやら東日本大震災で被災した人達のようです。



 そう思ってボート屋の前を見ると、川の中には、津波で流されと思われる家が傾いたまま浮かんでいます。
 そうしたなか、父親に600万円の債権があるといって、高利貸(でんでん)が部下と一緒にボート屋を訪れ、素直に従わない住田少年をぼこぼこにします。
 その後で再び現れた父親は、相変わらず住田少年に暴力を振いますが、逆にブロックで殴り返されて死んでしまいます。
 この先、住田少年はどうなってしまうのでしょうか、それに茶沢は、……?

 一見すると、家庭内暴力の悲劇を描いたものと思えますが、暫くすると、これまでの園子温監督作品同様、一筋縄では捉えきれない複雑な内容を持っているのでは、と思えてきます。

 その際の手がかりの一つになるのが、やはり原作のマンガとの違いでしょう(言うまでもありませんが、原作と映画とは全く別のものと考えます)。
 一番大きな違いは、映画が、3.11の東日本大震災を舞台として大胆に取り入れていることだと思われます。
 そのためもあるのでしょう、例えば夜野は、原作では住田少年のクラスメートで親友(従って、中学生)ですが、本作では中年過ぎとされ、3.11の被災者という設定になっています。



 そして、原作マンガで夜野少年は、飯島テル彦(映画では窪塚洋介が扮します)と強盗殺人事件を引き起こしますが(注4)、映画の場合はそれに加えて、夜野が、3.11で荒涼となった被災地に呆然と立ち尽くすシーンが繰り返し描かれます。

 こうしたことを踏まえて考えてみると、映画における住田少年や茶沢たちは、3.11でこれでもかと苦しめられている被災者を象徴しているといえるかもしれません。
 なにしろ、映画に登場する住田少年は、あちこちで滅多矢鱈と暴力を振るわれるのです。確かにマンガでも、住田少年は高利貸にぼこぼこにされますが(注5)、父親はまったく暴力を振るいません。それに、茶沢の家の話は、ほとんど原作では取り上げられないところ、本作では、なんと彼女を吊す予定だという絞首台を両親が制作中という映像が映し出されたりします。
 結局、住田少年は、自分に激しく暴力を振う父親を殺してしまいますが(注6)、そして暫くはそれをひた隠しにしていますが、茶沢らの献身的な努力もあって(注7)、警察に自首した上でこれからも頑張って生き抜こうとします(注8)。

 これは、被災者に対するメッセージ(どんな大変な事態であろうとも、頑張っていきさえすれば、希望がみえてくるはずだ、などといった)となっているのでしょう。

 とはいえ、そうした方面からだけでこの映画を割り切ってしまうのは、余りに直接的過ぎる感じもします。そういったことは映画の背景であるとして普通に解釈すれば、本作は、現代の格差社会の底辺層で蠢く若者たちの姿、ドン詰まりのところにきてしまい(ボート屋を突き抜ければ川に落ちるしかありません!)、なんとかそこから這い上がろうとする動き(「立派な大人になろう」として)を描き出そうとしているともいえるでしょう。
 というのも、本作において、すべてが3.11絡みに塗り替えられてしまっているわけではなく、原作漫画で強調されていること(注9)に従った映像が挿入されているからです(注10)。

 こうした「悪い奴」が現代の社会の底辺のあちこちに隠れ潜んでいる様が描き出され(結局は、酷く「悪い奴」はなかなか見つからないのですが)、そんな中で、若者が愛を育んで生き抜いていくというのはどういうことなのか、といったことが本作では描かれている、と言えるかもしれません。

 とはいえ、そうにしても、本作で住田少年は、原作マンガの第24話で言われている「四つの選択肢」(注11)のうちで、原作マンガとは異なって、極めて真っ当なものを最後に選び取るわけで、そうしたところからも、本作ではやはり3.11のことが重視されているように思われるところです。

 本作の主演の染谷将太は、最初『パンドラの匣』で見たのですが、その後『東京公園』や『アントキノイノチ』でも難しい役を好演し、ついにこの映画でヴェネチア国際映画祭最優秀新人俳優賞を受賞したわけで、これからの活躍がますます期待されるところです。



 同じ賞をダブルで受賞した二階堂ふみは、クマネズミは見るのが初めてながら(注12)、若いながらも堂々たる演技を披露していて、彼女もまた今後の活躍が期待されます。




(2)その二階堂ふみが扮する茶沢を見ると、なんだか『ハラがコレなんで』の主人公光子仲里依沙)のような感じを受けてしまいます。
 すなわち、その映画の光子は、何でも「粋だね」、「OK」とか「大丈夫、大丈夫」とか言って、自分なりの考え方でドンドン前に行こうとするのですが、本作の茶沢も、住田少年に、「もう帰れ。二度と来るな」などと言われても全く意に介せず、何度もやってきては「大丈夫、私がついているから」などと言いながらいろいろちょっかいを出して、「頑張れ」と住田少年を励ますのです(注13)。

 その背景には、茶沢によって、映画の冒頭から何度も読み上げられる『ヴィヨン詩集』の中の「バラード」があるのかもしれません(むろん、原作には、ヴィヨンの詩など出てきませんが)(注14)。
 すなわち、ヴィヨンの「バラード」では、「俺には何だってわかる、自分のこと以外なら」というフレーズが繰り返されるところ、わかっているといってもつまらないことばかりで肝心のことがわかっていないという意味なのでしょうが、あるいは、自分にはあんたのことがよくわかっているよ、と言いたいのかもしれません。それで、茶沢は、住田少年に対して、「キミは、5月7日以前にお父さんを殺した。絶望したキミは、どうせならこの命を世直しに使おうと立ちあがって。それで立派な大人になるために」などと言い放ったのかもしれません(注14)。

 住田少年は、自分を縛りつけようとするものから抜け出ようと色々動き回るのですが、結局のところは、茶沢の手の中で飛び跳ねているだけのことのようにも見えてきます。

(3)映画評論家の前田有一氏は、「あくまで個人的には、この映画の被災地の映像は到底受け入れられないものであった。それらの景色が発する断固たる現実の重みが、その手前で繰り広げられる芝居じみた(実際芝居なのだが)やりとりのあまりの軽薄さを断固拒否しているように見えた。厳しい言い方になるのは承知だが、この程度の事を語るためにわざわざ被災地を持ち出す必要があったのか、観客も批評家も議論する必要があるだろう。……結果的に下手に震災をからめたのは、本作にとって大失敗だったと私は考える」として25点しか付けていません。

 しかしながら、3.11の被災状況がとても考えられないような酷い有様だとしても、(直接的な被災者ではない)各人がそれに向かい合う姿勢は様々であっていいのではないか、どんな格好でもいいからそれに向かい合うこと自体が大切なのではないかと考えられるところで、より深いかどうか(「それらの景色が発する断固たる現実の重み」>「芝居じみたやりとりのあまりの軽薄さ」)などといったところで競い合うのは全く意味がないと思います。

 例えば、作家・高橋源一郎氏の『恋する原発』(講談社、2011.11)はどうでしょう。同書の扉に「不謹慎すぎます。関係者の処罰を望みます―投書」と記載されているところからもうかがえるように、ある意味でとんでもない内容です(注15)。
 ですが、全国民が東日本大震災に対して同一歩調をとるなどといったおぞましい事態に陥ることなく、こういう最中にこうした小説が出版されること、それ自体がとても重要なことなのではないでしょうか。

 「それらの景色が発する断固たる現実の重み」などと言いたてて、園子温監督の奮闘ぶりを批判できたと思うのは酷く不遜なことではないのか、と思ってしまいます。

(4)青森学氏は、「これは生きることへの希望をテーマに扱った映画ではなく、絶望の中からでも生を選び取る覚悟、「誓い」の映画なのである。それが震災後の廃墟とオーバーラップして非常にメッセージ色の強い作品となっている」として80点をつけています。
 また、渡まち子氏は、「原作から変更されたのは、設定を東日本大震災後の日本にしたこと。終わらない平和な日常など、もはやない。私たちは終わりなき“非日常”を生きていかねばならない。だからこそ希望が必要なのだ。走り、叫び、全身で愛を求める住田と茶沢のように」などとして75点をつけています。




(注1)クマネズミは、『ちゃんと伝える』以前は、DVDで『自殺サークル』と『紀子の食卓』、『愛のむきだし』しか見てはおりませんが。
 なお、このサイトの記事によれば、今春にも、次回作『希望の国』が公開される予定とのこと。園子温監督の驀進は、どうにも止まらないようです。

(注2)原作のマンガは、元は雑誌『ヤングマガジン』で連載されていましたが、全4巻の単行本となり、今回の映画化に合わせて上下2巻本の新装版が講談社から出されています。

(注3)『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』で華々しく活躍した神楽坂恵は、本作では、こうした大人達の一員〔田村(吹越満)の妻〕として、相変わらずエロチックな雰囲気を出しながらも、極く極く地味に登場するに過ぎません。

(注4)夜野少年は、住田少年には黙って、奪ったお金で彼の父親の借金600万円を返済してやるのです。

(注5)原作では、高利貸が中国人の「王」で、用心棒が「金子」になっているところ、本作では、高利貸が「金子」(でんでん)で、用心棒は「谷村」(村上淳)とされています。

(注6)原作マンガの場合、親に捨てられて、挙げ句に親の借金の返済を迫られて、住田少年は、父親について、「お前のせいで オレの人生は ガタガタだ」、「いつも みじめな気持ちで いっぱいだ」、「お前は オレの 悪の権化だ」、「死んで責任をとれ」と叫んだところに出現した父親を殺してしまいます。
 他方、本作の父親は、住田少年に対して暴力を振るった上で、「あの時お前さえいなければ、こんなにならなかったのに」とか、「あの時、お前が溺れて死ねば保険が下りたのに」と言ったりします。
 最後には、「ズーッと昔から、お前要らねえんだよ」とか、「しぶとく生きてるなー、お前」、「本当に死にたかったら、死ね。俺のことも母ちゃんのことも大丈夫だから」などと言いたい放題に言って立ち去ろうとしますが、その後を追った住田少年がブロックで殴りつけます。

(注7)原作漫画と同じように(上記の「注4」参照)、夜野(渡辺哲)は、自分が奪い取ったお金で住田少年の父親が抱える借金を返済しますが、その際、何でそんなことをするのかと言う高利貸(でんでん)に対し、「俺は一旦死んだが、住田少年には未来がある。俺は日本の過去です。いつ野垂れ死にするか分からない」などと必死に叫んで、そのお金を受け取ってもらいます。

(注8)原作漫画のラストでは、住田少年は、高利貸の用心棒の金子が洗濯機の中に置いていった拳銃を取り出して自殺してしまいますが(ただ、単行本化される際に、ラストが連載時と違っているという指摘があります)。
 他方、本作のラストでも、夜中に住田少年は、寝ていた蒲団からソッと抜け出して拳銃を洗濯機から取り出し、それを持って川の方に行き、その後銃声がし、それを聞いて起きた茶沢が泣き崩れます。しかしながら、その後で住田少年は、何事もなかったように川から上がってきて、茶沢に対して、「一緒に警察に行こう」と言い、茶沢も、「住田頑張れ、死ぬな!」と応じます(そこに被災地の光景も重なってきます)。

(注9)父親を殺してしまった後、住田少年は、世の中のためになろうと、「悪い奴」を捜して殺そうとして毎日歩きまわっています。
 原作マンガの住田少年は、元々「普通の人間」になろうとしていたところ、父親を殺して埋めたことから、「普通」になれないことになり、絶望の挙句そのように考えているようです(映画でも、「ゴミ以下の命でも、1回くらい有効に使いたい」などと言っています)。

(注10)例えば、バスの中で、妊産婦に席を譲らないこと非難された男が相手を刺してしまう事件。尤も、原作マンガでは、この事件は住田少年の妄想として描かれていますが。

(注11)原作マンガの「四つの選択肢」とは、①「自首をする」、②「自殺」、③「このまま1年幸運を探し続ける」、そして④「今からでもがんばれば……立派な大人になれるんじゃないだろうかって事」です。
 原作マンガでは、結局②を選択してしまいますが、本作では④を選び取ります。
 ただ、その場合、原作マンガでは、「あんなクズ男の頭を割った」という「罪は心の奥底にしまいこみ、一生懸命がんばればいい」という「妥協案」とされていますが、映画では、住田少年は①の「自首」をした上で、将来的に④を望むことになります。

(注12)よく言われることながら、劇場用パンフレットに掲載されているヴェネチュア映画祭での写真を見ると、宮崎あおいそっくり!

(注13)なんと、茶沢は、住田少年が不在のおりに、ボート屋の側で生活している人達を動員して、ボート屋をリニューアルすべくペンキの塗り直しを行ったりします。

(注14)ヴィヨンの詩と言えば、第一には鈴木信太郎訳『ヴィヨン全詩集』(岩波文庫)でしょうが、映画の中で読み上げられているのは、ハッキリとはしないものの、口語体であるところから、あるいは、天沢退二郎氏の『ヴィヨン詩集成』(白水社)に収められているものかもしれません。
 でも、鈴木信太郎訳では「わし自身の事の外、何も彼もわしには解る」となっているところが、天沢訳では「私は見わけられる、私自身以外なら何でも」とされていて、映画のなかでのように、「俺にはわかる……」となっていないところを見ると、別の訳を使っているのでしょう。
 何よりも、使われている詩のタイトルが、鈴木訳では「バラッド(あるいは、零細卑近事のバラッド)」となっていますが、天沢訳では「枝葉末節のバラード」とされています。
 なお、もう一つの訳がネットに掲載されています。
 静岡大学名誉教授・佐々木敏光氏によるもので、タイトルは「軽口のバラード」、該当のところは、「何だってわかる、自分のこと以外なら」と訳されています。

(注14)直接的には、ラジカセに録音された住田少年の話を聞いたからに過ぎないのかもしれませんが、そればかりでもないでしょう。

(注15)なにしろ、この小説の大部分は、「作品の売り上げをすべて、被災者の皆さんに寄付」する「チャリティーAV 恋する原発」を撮影する監督の語りになっていて、卑猥な言葉が溢れ返っている一方で、「その時だった。2001年3月31日、午後2時半過ぎ。/「揺れてる」会長が言った。/「揺れてますね」社長が言った。/「なんか」とおれはいった。「やばくないですか」」などと書かれてもいるのですから(P.75)!
なお、この書評などを参照してください。




★★★★☆




象のロケット:ヒミズ

石子順造的世界

2012年02月05日 | 美術(12年)
 府中市美術館で開催されている「石子順造的世界」展(~2月26日)に行ってきました。

 府中市美術館は、比較的小規模な美術館ながら、ときどき実にユニークな展覧会が開催されますので、目が離せません。一昨年の春には「歌川国芳」展が開かれていますし、昨年の春は「江戸の人物画」展でした。
 としたところ、今回の「石子順造的世界」展。これは、これまでにもましてユニークな企画だと思われます。
 というのも、石子順造は、いわゆる芸術家ではなく美術評論家であって、美術館で展示される作品など一点も生み出してはいません。それに、1977年に48歳で亡くなってからすでに30年以上も経過しています(注1)。
 にもかかわらず、今回の展示物を見ると、彼が評論活動を通して作り上げた世界は決して過去のものではなく、今まさに拠り所の一つになるべきものではないかと思えてきます。

 この展覧会では、石子順造の世界を3つに区分けして、それぞれで、彼が関与し高く評価した作品をいろいろ展示しています。
 最初は、「美術」。
 例えば、石子順造は、紙幣を描いた赤瀬川源平の作品を高く評価します(注2)。


   「大日本零円札」(1967年)

 また、この展覧会では、石子順造が開催に深く関わった1968年の「トリックス・アンド・ヴィジョン展」の一部が再現されていて、例えば、中西夏之の「エマンディタシオン」(1968年)が展示されています。



 2番目は「マンガ」。
 ここでは、平岡弘史『それがし乞食にあらず』(青林工藝舎)、水木しげる『墓場の鬼太郎』(講談社)、林靜一『林靜一作品集』(青林堂)といった漫画本とか原画(「赤色エレジー」)が、所狭しと並べられており、さらには林靜一のアニメ(「かげ」)をモニターで見ることが出来ます。
 中でも一番目を惹くのが、本展覧会の目玉である、つげ義春『ねじ式』の原画の展示でしょう(注3)。何度読んでも茫漠たる印象しか持てないながら、それでいて決して忘れることの出来ない不思議極まる漫画が、実際に1人の人間の手で描かれたものであることが如実に分かり(注4)、一層不思議な感覚に囚われます(注5)。




 最後は「キッチュ」。
 「キッチュ」について、石子順造は、「芸術とはみなされていないが、生活と文化の両域にまたがって、その一様式とみなされてもいいような大衆的な表現一般の呼称だ、くらいにはば広く受けとっておくのが適当」と述べています(注6)。
 展覧会では、その一例として、大漁旗が展示されています(注7)。





 30年以上も前に石子順造が大いに評価した日本の漫画やアニメは、今や日本が世界に大きな顔をして提示できる数少ないものの一つになりましたし、また彼が評価する赤瀬川源平の紙幣を巡る作品は、実に精巧なコピーを容易に制作できるデジタル時代の到来を見越したものといえるかもしれず(注8)、評論家の論評は、それを書いた評論家が亡くなってしまうと忘れられてしまうのが世の常でしょうが、石子順造の場合は、これから世の中が彼の方を向いてくるのではないでしょうか?


(注1)石子順造が書いた評論を集めた『石子順造著作集』(3巻、喇嘛舎、1986年~1988年)も、既に絶版となっています。
 としたところ、驚いたことに最近、『マンガ/キッチュ 石子順造サブカルチャー論集成』(小学館、2011.12)が刊行されました(単行本未収録の表現論を集めたものです)。
 とはいえ、今回の展覧会に際して作成された300ページ近い充実したカタログ『石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行』は、何物にも代え難い画期的な出版物といえるのでしょう。

(注2)上記「注1」記載のカタログで引用されている論評において、石子順造は、赤瀬川源平は、「自分にとってタブーだと感じとれる領域に、あらあらしくふみこみ、それを白日にさらそうとする」、「彼は、絵画の絵づらより、絵画と呼ばれてきた事物のメディアとしての特性に注目していきだした」、「美術は、美術館の壁にかけられた額縁の中にあるのではなく、美術館や額縁もまた、ほかならず美術という不自由な約束事のなかのものにほかならないことを赤瀬川は感知した」などと述べています(P.42)。
 石子順造は、今回の展覧会が、ほかならず美術館で開催されていることをどう受けとめることでしょうか?

(注3)上記「注1」記載のカタログでは、「ねじ式」が雑誌「ガロ」の臨時増刊号に発表された1968年5月の直後の7月に、石子順造が雑誌「漫画主義」に掲載した「狂雲の翳り」が引用されていて、「ねじ式」を読んだ際の石子順造のものすごい興奮が読者に伝わってきます。

(注4)吹き出しの中の台詞が別印刷され、それが切り貼りされているのを見ると、その感を深くします。
 なお、その際に使われている書体が随分とまちまちなことも注目されます(アンゴチのものもあれば、コシック体だけのもの、明朝体のものなど)。

(注5)下記の「ねじ式」の冒頭の場面について、石子順造は、1970年の論評において「少年は、飛行機の黒い影の真下で波頭を分けて、今、海へ這いもどろうとしているのだ」、「少年は海から這い上がって来つつあるのではない」と述べています(『マンガ/キッチェ 石子順造サブカルチャー論集成』P.13)。
 なお、このサイトによれば、同じコマの吹き出しにある「メメクラゲ」に関しては、元は「××クラゲ」であったものを、編集の方で「メメクラゲ」とし、逆に後でつげ義春から、「かえってその方が作品に合っている」と言われた、というエピソードがあったようです。
 また、このサイトの記事によれば、「ねじ式」の中で異様にリアルなタッチで描かれているスパナを手にした人物には出典があるようです。
 色々なことが分かってくるものだなと思いました。

(注6)『マンガ/キッチェ 石子順造サブカルチャー論集成』P.303。

(注7)上記「注1」記載のカタログで引用されている論評で、石子順造は、「近年、郊外に講義する漁船のデモにしばしば大漁旗が立てられているが、あれを見るとぼくは、大漁旗そのものが、自分の生きる誇らしい時間と空間を求めて懸命にあらがっているように感じてならない」などと述べています(P.214)。

(注8)折よく、こんなサイトの記事が見つかりました。
 なお、同サイトが触れている毎日新聞の記事はこれです。