映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

戦火のナージャ

2011年04月30日 | 洋画(11年)
 『戦火のナージャ』を銀座シネスイッチで見てきました。

(1)2時間半もの長尺を見てグッタリしたにもかかわらず、何だか唐突な始り方だし、結局何も解決せずに終わった感じがして、変だなと思って劇場用パンフレットを見ましたら、この作品は3部作の真ん中のものだとのこと!
 事前に分かっていれば、まず第1部の『太陽に灼かれて』を見てからにしたのにと思ったものの、後の祭り(注1)。
 この映画をどう評価するのかについては、やはり3部作全部を見てからと言うしかありません(第3部『The Citadel(要塞)』は、現在制作中)。 
 とはいえ、なにしろ半端でない長さの作品を見たのですから、とりあえずのものに過ぎませんが、以下にレビューを書き記すことにいたしましょう。

 映画は、基本的には、別れ別れになった父親コトフ大佐(監督のニキータ・ミハルコフ)と娘ナージャ(従軍看護師:監督の娘のナージャ・ミハルコフ)とが、お互いを求めて様々の危機に出会うという物語と言えるでしょう。



 ただ、そこに、スターリンによる大粛清と独ソ戦という歴史的な要素が入ってくるため、話がかなり複雑になってきます(と言っても、決して純然たる歴史物ではありません)。

 まず、スターリンの大粛清に関しては、映画の冒頭に驚くべき場面があります。すなわち、スターリンの誕生日を祝うために作られた巨大なケーキに、コトフ大佐は、あろうことかスターリンの顔を押し付けてしまうのです。
 そのためでしょう、彼は政治犯とされて銃殺される運命にあったらしいのですが、収容所に入れられているときに、何かの手違いからなのでしょうか、経済犯に罪状が改められます。
 ただ、コトフ大佐は、映像からはスターリンの側近のようであり、一体何の為にスターリンに対してそんなふざけたまねをしたのか、よく理解できないところです(スターリンの粛清の犠牲になった者の罪状と言っても、こんな類いの詰らないものであり、それをスターリンは誇大に取り上げて銃殺してしまった、という事情をこれで象徴させているのかもしれません)。

 他方、スターリンは、銃殺されたと思っていたコトフ大佐が生きているらしいとの情報を掴み、真相を探るよう諜報機関幹部のドミートリに命じます(1943年)。ですが、ドミートリは、コトフ大佐とは旧知の間柄のようで、またナージャの逃亡を助けたりもしているようなのです(当時は、政治犯の家族も粛清されたようです)。たぶん、スターリンは、そこまで知った上でドミートリに調査を命じたのでしょう、ドミートリ専用の運転手は、密かに彼と彼の妻との会話を盗聴したりします。

 ドミートリが調査を始める時点は、スターリングラードの戦いも終わって、ドイツ軍の敗走が現実化し出した1943年5月以降で、ドミートリ等には余裕が感じられます。ですが、調査から明らかになったように描かれるコトフ大佐やナージャの行動は、すべて1941年の独ソ戦開始当時のことで、まだドイツ軍の攻勢が厳しかった頃です。
 ですから、ソ連軍は決して格好良くは描かれていません。
 例えば、
 ドイツ軍の進撃を阻止すべく、大量の避難民が溢れる橋に爆弾が仕掛けられますが、途中でその命令が取り消されたにもかかわらず、連絡の手違いで突然爆破が実行されてしまいます(この有様を、コトフ大佐は、逃れた川の中から見守っています。というのも、上記の政治犯として押し込められていた強制収容所がドイツ空軍機によって爆撃された際に、コトフ大佐は、屋根から逃れ、川に飛び込んで助かるのです)。
 また、ドイツ軍を待ち受けているある前線は、コトフ大佐が所属する懲罰部隊が守備していますが、何かの手違いからか、赤軍の士官候補生の精鋭部隊が増派されてきます。
 ただ、精鋭と言っても、実戦経験のない若者にすぎず(敵を味方と取り違えてしまうくらいの)、また十分な装備も支給されないために、後方から出現したドイツ軍の戦車部隊に、それこそアッという間に蹂躙されてしまうのです。
 それでも、コトフ大佐は何とか生き延びてしまうのですが。

 他方、ナージャは、従軍看護師として赤十字病院船に乗り合わせているところ、ドイツ空軍機の攻撃を受けてしまいます。いくらなんでも病院船ですから、何もしなければ飛び去ったはずながら、戦闘機の乗員が傍若無人な振る舞い(その乗員が、船に向けて空から脱糞しようとしたのです!)をしたことに堪え切れなくなった傷病兵が、銃でその乗員を撃ち殺してしまいます。その結果、赤十字病院船にもかかわらず、戦闘機の攻撃によって簡単に沈没してしまいます。



 ただ、ナージャは、浮かんでいる大きな機雷に掴まることで、この窮地を脱することができました(注2)。

 さらに、本作品にはもう一つ特異と思われる点が見受けられます。
 既に社会主義体制は崩壊してしまったとはいえ、ロシアは、元はソヴィエト連邦であり、国民は一応はマルクス・レーニン主義を奉じていたはずです。ですが、この作品は、そうした点は微塵も感じさせず、逆に宗教的な要素がことさらあからさまに描かれている印象を受けてしまいます。
 例えば、
 コトフ大佐の所属する懲罰部隊が今にもドイツ軍の攻撃を受けるという間際になって、仲間の一人がイスラム教の礼拝をし、その礼拝に派遣されてきた士官候補生も加わったりします。
 また、コトフ大佐が潜り込んでいたロシア正教の教会を、ドイツ空軍機から落とされた爆弾が直撃するのですが、偶々爆弾が、教会のドームに吊るされていたシャンデリアに引っ掛かったおかげで、教会の外に逃れ出る時間が稼げて、難を逃れます。代わりに、聖母マリアとか聖人が描かれていた協会ドームが吹き飛ばされます。



 ナージャの方では、上で述べましたように、乗り合わせた病院船で爆撃を受けるのですが、機雷に掴って助かった際、その機雷にはもう一人神父が掴っていたのです。そして、ナージャは、その神父によって洗礼を受け、合わせてロザリオを貰い受けます。
 また、モスクワの攻防戦において、胸の十字架を見て、重傷を負った青年に祈りの言葉を教えてもらえないかと頼まれます(その際に、胸を見せてくれと懇願され、ナージャは上半身裸になりますが、青年は息絶えてしまいます)。

 以上の簡単な記述からお分かり願えるかもしれませんが、本作品は、全体を見渡してみると、さすがお金と時間をかけているだけのことはあるなと思わせる迫力を感じさせます。とはいえ、個々の描写を見ると、むろんナチスの残虐性を強調する場面も忘れられてはいないものの(注3)、どれもなんだかオカシナ雰囲気が付きまとい、座りの悪さを感じさせるのです。

(2)本作品では独ソ戦が取り上げられているところ、戦闘場面としては、専らソ連軍がドイツ軍によって蹂躙される戦争初期の光景が描き出されています(注4)。
 そこで、手近にあった『モスクワ攻防1941』(ロドリク・プレースウェート著:川上洸訳、白水社、2008年)を見てみますと、大雑把には次のような感じです。
 1941年6月22日の独ソ戦開始の前の「冬から春にかけて、諜報資料はますます詳細、精密になり、時宜をえたものとなってきた。しかし、ナマの情報がどんなにすぐれていたものであろうと、すべてを左右するのはその解析と活用の仕方」なのです(P.80)。
 そうした「ナマの諜報資料」については、「ヒトラーはただちにソ連を攻撃するつもり」だとする解釈と、「ソ連を恐喝して今後とも経済的、政治的譲歩を引き出し、そのあいだに対英戦争に片をつけるつもり」だとする解釈が可能であり、後者については、「スターリンにとってもおおいに魅力的」でした。そして、「ドイツの脅迫的な態度は、すくなくともその一部は、こけおどしであって、最後通告なしに攻撃してくることはありえないし、自分がドイツの要求を拒否しないかぎり攻撃をうけることはありえない、とスターリンは判断した」ようです(P.82)。
 こうして、ソ連側は大層不十分な防備体制しかとっていなかったときに、「300万以上の兵員、2000機近い航空機、3000両以上の戦車、75万頭の馬」からなる「3個の軍集団」が「6月21日の真夜中にソ連国境に投入された」わけです(P.102)。
 その結果、ソ連軍は壊滅状態となり、「ドイツの意図について途方もなく誤った判断を下し、自らの固定観念にそぐわない助言を拒否したことで」、スターリンの「権威は酷く失墜し」、「側近たちがこの機会を利用して長年にわたるテロルと屈辱の報復をこころみるのを恐れたに違いな」く、スターリンは「虚脱状態になって「近い別荘」にひきこもってしまった」のです(P.136)。

 むろん、スターリンを権力の座から引きずり下ろそうとする者は出現せず、暫くしてソ連軍は盛り返すのですが、こうした独ソ戦初期の敗戦の状況がこの映画でことさらに取り上げられたのは、監督のスターリン批判の表れなのでしょう。
 なお、ソ連中枢部の有様は、ある意味で、福島原発事故に対する菅総理の行動として伝えられているところと類似する点が多々あるように思われて仕方がないところです。


(注1)驚いたことに本作品は、2009年に映画シナリオが脚色されて、ロンドン・ナショナルシアターで上演されているのですが、その日本版が、鹿賀丈史や成宮寛貴らの出演で上演される運びとなったようです(本年7月24日~8月9日、天王洲銀河劇場にて )。

(注2)こうしたナージャに関する物語は、誰が語っていることになるのでしょうか?
 少なくとも、コトフ大佐に関する物語は、ドミートリの調査によって明らかになったことのように描かれています。ところが、いくらなんでも、ドミートリはナージャまでも調査しているわけではないでしょう。とすると、いったい誰が話しているのでしょうか?

(注3)ある村に侵攻したドイツ軍が、大勢の村人を農家の馬小屋に押し込めた上で、火をつけて焼き殺してしまうところ、その行為を、ナージャは遠くから目撃する羽目になります。というのも、これは、偶々入り込んでしまった村でナージャがドイツ兵にレイプされそうになるのですが、彼女を救うために村の娘がドイツ兵を殺してしまったことから引き起こされた惨劇なのです。
 ナージャは狂乱状態に陥るものの、村の娘は、これも神の定めたことだと説得し、ナージャも、自分には父親を探し出す使命があるのだと納得します。
 ここにも宗教的な要素が入り込んでいるわけながら、ただ、この惨劇よりも父親との再会の方を上位に置いてしまう描き方は、観客としてよく理解できないところです。

(注4)映画『スターリングラード』(2001年)は、今回の映画が舞台としている二つの年代、1941年と1943年の中間の1942年の出来事を扱っている作品ながら、『レポゼッション・メン』のジュード・ロウがソ連軍の狙撃兵を演じ、ラストでドイツ軍の狙撃兵と対決するという印象的なシーンがあり(ドイツ軍の内情をソ連軍に通報していた少年を、ドイツ軍がむごたらしく処刑してしまったのを見て、ジュード・ロウは怒りに駆られるのです)、また『アレクサンドリア』で好演したレイチェル・ワイズが演じる女兵士を巡って、同僚のソ連軍兵士とも対立したりします。




追記:2011.11.25
 本作の冒頭部分に関するクマネズミの記述につき、余りにも何回も同内容の詰まらない無意味なコメント(それも自分のサイトを明かさない卑劣なやり方で)が繰り返し寄せられるので、そんな必要はないとは思いつつも、最近レンタル可能になった本作のDVDを見てみました。

 映画の冒頭は、犯罪人が収容されている収容所の光景で、兵士がその広場に展開します。その場面から、いきなりコトフ大佐の私邸へ飛んで→大きな池の側に設けられた東屋で寛ぐスターリン→スターリン誕生日記念に作った肖像が象られたケーキを、コトフの妻マトルーシャが運び込む→コトフ大佐が、スターリンの顔をケーキに押しつける→マトルーシャが、「コトフ、ナージャはどこ?」と叫ぶ→叫び声に、収容所で寝ていた囚人の一人が目覚める→コトフ大佐が起きて「ナージャ!」と叫ぶ→周りの者が「ただの夢だよ」などと言って、コトフ大佐を抑える→コトフ大佐は、「私の意志ではなかった」とか「やりたくなかった」などと叫ぶ→収容所長が入ってきて、「政治犯は製材所に集合せよ」と言う、……という具合に展開します。



 さて、ここまでを見て、コトフ大佐がスターリンの顔をケーキに押しつけるシーンは、「映画の中の現実の事柄」なのか、それとも「単なる夢の中のお話」なのか、というわけです。

 確かに、コトフ大佐は、収容所で「ナージャ」と叫んで飛び起きますから、何かナージャに関する夢を見て飛び起きたのでしょう。
 そして、その夢の内容は、その前まで映画で描かれていたコトフ大佐の私邸での出来事だったのでしょう(ナージャはその場面に全然現れないので、変なのですが)。
 でも、だからといって、それが「単なる夢の中のお話」に過ぎないものとはトテモ思えないのです。

 むしろクマネズミは、コトフ大佐の私邸での出来事は、夢の中の単なる話しではなく、「この映画における現実」として受け取ることが可能ではないか、と思っているところです。
 なによりコトフ大佐は、目覚めてから、「私の意志ではなかった」とか「やりたくなかった」と叫ぶのですから!
 目的語が書かれていないので確定は出来ないものの、コトフ大佐がやりたくなかったこととは、スターリンの顔をケーキに押しつけた事件だと考えられます。そして、それが「単なる夢の中のお話」であれば、目覚めてからそんなことをわざわざ言い出さないでしょう!
 ですから、コトフ大佐の私邸での出来事は、この映画においては「現実にあった出来事」とされ、それをコトフ大佐は夢の中でリアルに回想したのだと考えることは十分可能ではないでしょうか?

 それに、この映画のその後の展開からすれば、仮に「私の意志ではなかった」などのコトフ大佐の発言がなくとも、スターリンの顔をケーキに押しつけた事件は「現実のこと」と考えた方が、遙かに面白いのではないでしょうか?
 というのも、その後の展開の中では、例えば、ドイツ軍の戦闘機の搭乗員が、ナージャが乗る赤十字船に向かって空から脱糞しようとして尻を露出する場面とか、同じ機雷につかまっていて生き延びた牧師に、ナージャが洗礼を受ける場面など、とんでもない描写が幾つも見られるからです。
 ですから、これらの場面と同じレベルで冒頭のシーンを捉えて、それが本作においては「現実的なこと」として描かれていると考えた方が、この映画全体の雰囲気(スターリン批判!)にも合致するのではないでしょうか?




★★★☆☆





キラー・インサイド・ミー

2011年04月27日 | 洋画(11年)
 『キラー・インサイド・ミー』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)予告編で見て面白そうだなと思い映画館に足をはこんだのですが、まずまずよくできた映画ではないかと思いました。
 映画は、原作が書かれた1950年代を舞台としています。
 ですから、映画を見て一番目立つのは、町(西テキサスの田舎町)の通りを走る車の型が相当古いという点でしょう。まるで、クラシックカーのパレードを見ているような気分になります。
 それと、現在だったら、警察の科学捜査が進展していて、そう簡単に犯人の偽装工作が成功するはずもないところ、この映画では、実に容易に犯人は目的を達成してしまいます。

 そういった点はあるものの、映画で描き出される犯人の主人公には、興味が湧いてしまいます。なにしろ、ことさらな理由もないのに、いとも簡単に人を殺してしまうのです。
 それも、バレないように予め綿密に計画を練ったうえで冷酷にというわけではなく、また何も考えずにその場で衝動的にというほどでもなく、その中間あたりのところで次々と殺人を犯します。
 そのため、彼が保安官助手ということもあるかもしれませんが、地方検事は、誰が犯人なのかすぐに目星が付いたものの、なかなか逮捕するまでに至りません。

 少しだけ最初の方を申し上げると、主人公の保安官助手ルーケイシー・アフレック)は、調査先の娼婦ジョイスジェシカ・アルバ)といい仲になっているところ、別なところから仕入れた情報で、ジョイスと関係がある男の父親が、どうやらルーの兄(養子)の死に関係しているらしいことを突き止め、ジョイスと一緒にその男を罠にはめて殺してしまいます。
 さらに、別ルートからその事件の容疑者とされ逮捕された若者が、実はルーが真犯人であるとわかっているらしいことを突き止めると、留置場で自殺に見せかけて殺してしまいます。
 ただ、その若者にアリバイがあることまで思い至らなかったこともあって、地方検事はルーに疑いを持ち始めます。
 といった具合で、次々と人を殺していくものの、細部まで入念に検討した上でというわけでもないため、次第に追い詰められてしまいます。

 途中、ルーの幼児時代の記憶が蘇ることがあります。
 一つは、ルーが車の中で女の子に悪さをして殺してしまった時に、義理の兄が身代わりになって少年院に入ったこと。
 もう一つは、早くに妻を亡くしていた父のもとに出入りしていた家政婦が、彼と性的な関係を持ったこと(それもSM的な)。
 ただ、こうしたシーンが挿入されると、殺人鬼としての彼の行動がそれで説明されてしまうような感じを受けるものの、これは単なるエピソードとしてみるべきでしょう。
 というのも、SMの性向があるからといって、直ちに殺人につながるわけではありませんし、彼が殺す対象には、女だけでなく男も入っているのですから。

 要すれば、この映画では、一人の男が犯す様々の殺人が次々に無造作に描かれているだけで、あとそれをどのように捉えるのかは観客の方に任されている、といった具合なのです。

 多かれ少なかれ誰にでもあるに違いないとはいえ実行するには決して至らない殺人衝動を、観客になり変わって主人公がスクリーンの上で派手に実行してくれた、と見るべきなのでしょうか?
 あるいはそうではなくて、ラストシーンからすると、むしろ自己破壊を求めて、あえて殺人を犯し自己を切羽詰まった状況に追い詰めていると考えるべきなのかもしれません。
 というのも、精神病院に強制的に入院させられているルーを弁護士が解放してくれるのですが、弁護士もルーも、その後には何が待ち構えているのかをよく知っているようなのです。それどころか、もっと派手な出来事にすべく、ルーは、入念に準備をした上で待ちうけるのですから。

 もしかしたら、米国でよく起きる銃の乱射事件とか、日本の附属池田小・児童殺傷事件(2001年)や秋葉原無差別殺傷事件(2008年)などの出来事について、考えてみる一つの視点を与えてくれるのかもしれません。

 主人公のルーを演じるケイシー・アフレックは、『ザ・タウン』のベン・アフレックの弟とのことですが、非常に難しい役を、大層巧みにこなしていると思いました。外見上は殺人鬼には全然見えないものの、ジョイスなどを殴り殺す様子には凄まじいものがありますし、特にその舌足らずな話し方は不気味な感じを醸し出しています。



 また、ジョイスを演じるのは、『マチェーテ』でお馴染みのジェシカ・アルバですが、魅力的な娼婦を演じながらも、ルーに酷く殴られた顔面は見るも無残な様となり、演技の方でもこれからが期待されるでしょう。




(2)この作品は、原作(ジム・トンプスン著『おれの中の殺し屋』〔三川基好訳、扶桑社ミステリー〕)を読んでみると、面白いことに気がつきます。



イ)原作の語り手はルー自身となっていて、ラストのラストですべてが爆発してしまうところ、語り手のルーも、「うん、これで終わりだと思う」のです。
 としたら、この小説を語っているルーは、すでに死亡しているのではないでしょうか?であれば、この小説は、亡霊となったルーによって語られているというわけなのでしょうか?

 ただ、小説の最初の方では、舞台のセントラルシティのことが述べられていますが、「この町の治安はかなりうまく維持できている」(P.11)などというように現在形が使われています。
 とすると、この小説は、映画と同じように、読者が読んでいるときが「現在」であって、読み進むにつれて物語も同じように展開していく、と考えるべきなのかもしれません。
 ですが、小説の後半の方で、「でもその前に、まだひとつふたつ、あんたに話しておくべきことがあると思う」とか、「話したいんだ。だから、話す。どんなだったのかを正確に。あんたに勝手に想像してほしくないんだ」などといった箇所に出くわします(P.258)。
 こんなところを見ると、決して現在進行形というわけではなく、普通の小説のように、作者は、椅子に座り机に向かって、過去の出来事を思い出しながら原稿を書いているようでもあり、時折その作者が顔を出して、読者(「あんた」)と向き合ったりもします。
 死んでしまったはずのルーは、一体どこにいてこの物語を語っているのでしょうか(注)?

ロ)それはともかくとして、こういった設定にすれば、映画とは違って、主人公の心理的・内面的な側面、特になぜ人を殺してしまうかという点までも入り込むことができるようになります。なにしろ、殺人者が自分の犯した殺人のことを語るのですから!
 それで、ジョイスを殺したことについて、主人公は、「おれは彼女がよけいなおしゃべりをするのではないかと恐れたのではなかった。おれが恐れたのは、彼女とつきあいつづけていると自分に対するコントロールを失うのではないかということだった」と説明し出します(P.313)。
 そして、「おれが背負っている重荷のことを思い出させる人間は誰でも、〝彼女〟がおれにしたのと同じことをする人間は誰でも、殺されることになっていた」として、幼い時分に性的な関係を持った家政婦が究極的な原因だと述べるのです。
 その上で、ドイツの精神医学者クレペリンの本からの引用を踏まえて、自分は「早発性痴呆」(現代では「統合失調症」)だと自分で規定するのです(P.315)。
 ですが、こうした語り手による書き込みは、すべて余計なことなのかもしれません。仮に主人公がその病気だとしたら、その患者自身が述べていることをそのまま鵜呑みには出来ないわけですから(記載されている定義によれば、「ときには狡猾に推論を行うことができる」のです)!
 それに、小説のすべては、「統合失調症」の語り手の「妄想」の可能性も出てきてしまいます(語り手は、自分を「偏執型」と分類していますが、もしかしたら「妄想型」なのかもしれませんから)!

 映画は、そういったことは括弧に入れて、客観的な視点から(時折、主人公の語りが挿入されるものの)、次々に起こる殺人事件を描いていますから、今度は観客の方で解釈をせざるを得なくなってしまいます。ですが、それがまた映画を見る楽しみと言えるでしょう。


(注)最近見た映画『わたしを離さないで』の原作も(映画でも同様に)、当事者の一人(キャシー)が語り手となって物語が綴られていますが、現時点(キャシーが31歳の現在)に立って過去の出来事を回想するという構成をとっていますから、そこには矛盾する点は見当たらないように思われます。


(3)映画評論家は、この作品に対して総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「封印されていた暴力への激しい欲望に、答えなどない。共感できない主人公を、淡々と演じるケイシー・アフレックが不気味なほど上手い」、「ルーがあからさまな異常者ではなく、孤独や痛みを内包するごく当たり前の人間だけに、繰り返される殺人や凶行の答えを導き出すことが恐ろしくなる。何より、現代にはびこる動機なき犯罪の芽が、平和で豊かなはずの1950年代の米国の田舎町に、すでにどす黒く芽生えていたことに戦慄を覚えた」として60点を与えています。
 福本次郎氏は、驚いたことに、「退屈な暮らし、刺激に乏しい毎日。日常のわずかなヒビ割れから滲みだす暴力の衝動。それは一度噴出すると、誰も止められない欲望の塊となって男を暴走させる」、「平凡な人生に何か劇的な波乱をもたらしたい、どうせなら他人から影響を受けるのではなく自分でぶち壊したい。そんな彼の破滅願望がリアルで、思わず共感を覚えた。実際に行動に起こす勇気のない人間の胸に突き刺さる作品だった」と手放しの入れ込みようで、70点もの高得点をつけています。



★★★☆☆





象のロケット:キラー・インサイド・ミー

婚前特急

2011年04月24日 | 邦画(11年)
 『婚前特急』を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。
 面白い映画だということが口コミで広がったのでしょうか、休日の映画館は、一番小さなスペースのスクリーンで上映されたこともあって、立見席が設けられるほどの大入りでした。

(1)この映画のキモは、次のような点でしょう。
 すなわち、ダサイ男が、心中密かに好意を寄せていた娘とやっと婚約するに至るものの、以前から断続的に肉体関係を続けていた女の方がやはり良いとして、突如その婚約を破棄してその女との結婚に至るという、なんだか違和感を伴うストーリーに、はたして観客は納得できるのか。

 その出発点となる設定は、なんとも破天荒なものです。
 すなわち、主人公・池下チエ吉高由里子)は、現在5人もの男がおり、そのいずれとも肉体関係がありながら、彼らとの結婚などこれまで考えたことはありません。弱冠24歳であって、まだそんなに急ぐ年齢ではありませんから、当然といえば当然です。
 そうしたところ、ずっと仲良しだった友人トシコ)が、できちゃった結婚をすると聞いて、途端に焦りだします。結婚するとしたら今手持ちの5人のうちの誰にしようかと迷い、そのためには男の品定めをしランキングを付け、なんとランキングの低い者から順に当たって消去(別れる)していこうとするのです。

 マア同時に5人もの男と付き合うというのは、必要とされるエネルギーを考えただけでも物凄いことだと思いますが、それはサテ置くとしても、こういう話の進展の仕方だと、結末がどうなるのかは言われなくても先刻お見通し状態になるでしょう。実際にもまさにその通りになるものの、この映画は、たとえそうだとしても、その過程が風変わりで面白く描けていると思いました。

 チエが付き合っている男のうちの4人は、美容室の経営者で妻帯者(榎本孝明)、食品会社の営業部長(加瀬亮)、バイクショップの若手経営者(青木崇高)、それに年下の大学生(吉村卓也)です。ただ、それぞれメリットがあって付き合う分には構わないものの、主人公と結婚というわけにはいかないことがわかってきます。

 例えば、この中で主人公には一番相応しいかなと思えるのが加瀬亮ですが、一度離婚して子持ちでもあることから、チエの中に積極的に踏み込んでこようとはしないのです。



 逆に、一番圏外と思われる人物・田無タクミ浜野健太)が、急にクローズアップされ出します。なにしろ、主人公が酒に酔っ払って前後不覚になったところを、部屋まで運び入れてくれたことがあり、イケメンには程遠い顔形で腹の出たパン工場工員ながらも、主人公との関係はなぜか持続してきたようです。



 ただそれ以来、黙って風呂に入りに来るは、チエのCDを隠れて持って行ってしまうはで、チエも少々もてあまし気味。
 それで、最初にこの男を結婚相手の圏外にしようとして、チエが“別れましょう”と宣言したところ、タクミは、“付き合ってもいないのに分かれるなんて、肉体関係はこれまで通りにしよう”との返答。余りのことにチエは頭にきて、なんとかタクミに一泡吹かせてやろうとするのです。
 それがことごとく裏目に出てしまい、結局は読み筋通りの結末を迎えることに。

 主人公は、自分が美人であることを鼻にかけてお高くとまっている女性であって、普通ならば酷く嫌みな感じになるところ、それを演じているのが若い吉高由里子のためでしょう、何をしても観客は許してしまい、他方マッタク風采の上がらないタクミながら、演じている浜野健太の人柄でしょうか、まあ二人が一緒になるというのもアリなのかなとなんとなく納得してしまいます。
 ただ、タクミが一度は婚約までに至る相手というのが石橋杏奈。観客としては、なんで石橋杏奈から吉高由里子に乗り換えるの、と訝しく思えてしまうのも事実です。
 とはいえ、全体がコメディ仕立てなのですから、そういうこともアリということで、あまり詮索するのも野暮、ここは笑ってあげることといたしましょう!

(2)主役の吉高由里子は、なんといってもDVDで見た『蛇にピアス』(2008年)が印象的です。
 とにかく蜷川幸雄氏の監督作品ですし、高良健吾ARATAの双方から愛される役を、文字通り体当たりの演技でこなしているのですから!



 ですが、ヌードを見せる度胸があるだけでなく、今回の作品のようなコメディ物も十分演じられる力もあり、今後の活躍が期待されるでしょう。

 なお、映画『蛇にピアス』については、昨年の3月1日の記事の中で、高良健吾の背中の龍の刺青に触れています。

 ところで、評論家の前田有一氏は、この『蛇にピアス』に85点もの高得点を付けているところ、その論評の中で、吉高由里子が演じるヒロインのルイは、「寂しがり屋のチャンピオンみたいな人物」としていますが、そうだとしたら、前回取り上げた『Somewhere』のジョニーの女性版ともいえるのかもしれません。
 更に言えば、未だそんな歳でもないのに、友人が結婚すると酷く焦ってしまう本作品の池下チエも、一人取り残されるのが嫌な「寂しがり屋」なのかもしれません!
 さらに同氏は、冒頭の渋谷駅前のシーンに触れ、「駅前の巨大液晶にはアメリカのプロボディビルダー、山岸秀匡の勇姿が写されている」と述べていますが、クマネズミは、センター街の入口に「さくらや」の看板が映し出されているのに懐かしさを感じました。

(3)映画の冒頭では、京王新宿線の東府中駅がぼんやりとですが映し出されます。ですから物語は、すべて東京の話なのかなと思っていると、最後にチエとタクミが乗車する列車は、なんと茨城県のひたちなか海浜鉄道なのです!
 どうしてそんな具合になるのか理解しがたいところ、その鉄道名は最後のクレジットロールでかろうじてわかった次第です。
 とはいえ、同鉄道は、3.11の大津波によって大被害を受け、いつ復旧するのか目途が立ってはいないようです。

(4)映画評論家は、総じてこの作品に好意的のようです。
 小梶勝男氏は、「吉高のフワフワしたキャラクターがチエを悪い女というよりは、一種の変人にまで和らげている。嫌な部分も笑えるのである。テンポもよくて、セリフも面白い」ものの、「話は途中から、さえない男・田無タクミ中心になってい」き、その「田無の場合は、演じる浜野謙太のキャラクターと相まって、そのモンスターぶりが全く共感出来ないレベルまで引き上げられてしまっている」として65点を付けています。
 福本次郎氏は、「美人を鼻にかけていつも高飛車で自己チュー、それは心から人を愛した経験がない寂しさの裏返しというひねくれたキャラクターを、吉高由里子がコミカルに演じてその毒気と嫌味を消している」などとして60点を付けています。






★★★☆☆






象のロケット:婚前特急

Somewhere

2011年04月23日 | 洋画(11年)
 『Somewhere』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。

(1)映画を制作したソフィア・コッポラ監督については、少し前にDVDで見たことがある『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)が、東京を舞台にした大変興味深い作品だったこともあり、今回の作品にも期待したところです。
 実際に見てみると、期待にたがわず、なかなかよくできた映画だなと思いました。

 とはいえ、問題がないわけではないでしょう。
 まずは、長回しがとても多く使われている点があげられるでしょう。
 たとえば、冒頭のシーンでは、主人公のジョニースティーヴン・ドーフ)がフェラーリに乗り、けたたましい爆音を鳴り響かせながら、野原の周回コースのようなところを何度も何度も繰り返し走り回るのです。



 また、ジョニーは、宿泊先のホテル(ハリウッドにあるシャトー・マーモント)に戻って自分の部屋に入ると、二人の若い女性が演じるポールダンスを暫くの間じっと見ています(折りたたむことの出来るハンディなポールを持ってきて、部屋の中で演じます)。彼女たちは、別に服を脱いでいくわけでもなく、ただ単にポールに手をかけてグルグル回ったりするだけで、ジョニーの方も、ベッドで寝ころびながらそれをじっと見つめるにすぎません(このポールダンスは2回ほど映画に登場します)。
 さらにジョニーは、離婚した妻レイラの元にいる娘クレオエル・ファニング)と一緒に過ごせる週末に、スケートリンクに出かけて、娘のフィギュアスケートを眺めるのですが、この場面も長く続きます。クレオは、まだそんなに上級の技術を身に着けておらず、従って回転ジャンプなど出来ないわけで、これも単調にぐるぐるリンクを滑って回るだけながら、それをジョニーは観客席から静かに眺めています。

 このように、一見すると余り特徴のない退屈さを感じさせる長回しが、本作品では多用されています。
 ただ、それがこうも繰り返し使われると、見ている方もそれには何か意味が込められているのだなと推理しはじめます。
 おそらくは、超有名映画スターであるジョニーの生活の空虚さ・単調さといったことが反映されているのでしょう(どの長回しも、描き出されるのは、どれも円運動をするものばかりですから。一回転すれば、また元の地点に戻ってくるにすぎません!)。
 そして、そうに違いないことは、以降の様々な場面を見ていくうちに、見る方も次第にわかってきます。

 でも、言うまでもないことながら、事態はそんなに簡単には進行しません。
 前から予定されていたのでしょう、ジョニーが出演した作品がイタリアで賞を受けることになり、急遽ミラノに飛ぶことになります。クレオを養育しているはずの前妻が家を空けなくてはならないというので、ジョニーは仕方なしに、クレオを伴ってイタリアに向かうことになります。
 ただ、このイタリアでの有様は、実にゴージャス(何しろ、隣室に屋内プールが設けられている豪華な部屋を宿泊先としてあてがわれるのですから!)、かつ愉快なもので、それまでこの映画の基調を形作っていた重苦しさとは対極にある感じです(注)。

 でも、やはりそれは一時の気分転換にすぎません。ジョニーの内面の空虚さは広がってくるばかりです。フェラーリをぶっ飛ばしても、女性と様々に付き合っても、「自分には何もない」という思いが募ってきます。
 と言って、何の趣味もないのかというと、どうやら音楽には造詣が深いようです。クエオと一緒にロック・ギターを弾いたりしますし、バッハのゴールドベルグ変奏曲のアリアをピアノで弾いたりします。ただ、いずれも中途半端のレベルで、演奏する自分の心が癒されるまでには到達していない様子です。

 そこでもう一つの問題も浮上してきます。すなわち、ジョニーは、自分の抱える虚しさの余りの大きさから、涙を流しながら前妻のレイラに電話をかけるのです。「自分には何もないんだ、こっちに来れないか、また一緒にやっていかないか」とレイラに向かって話しかけます。
 でも、それはあまりに身勝手というべきでしょう。
 自分の方では、行き当たりばったりにドンドン女を引っ掛けているくせに、それに虚しさを感じると、元の奥さんに泣き言を言うのですから、やってはいられません。
 ただ、そう言ってしまうと彼も逃げ場がなくなってしまうでしょう。
 それに、逆に、自身の中に大きな空洞を抱え込んでいるからこそ、女性を渡り歩くのであって、なにもそうして楽しみたいからというわけでもなさそうなのです(ポールダンスの女性を部屋に呼んでも、あまり楽しそうにダンスを見ているわけでもありませんし)。
 おそらく、ジョニーの心の空虚さは、前妻のレイラが仮に戻ってきたとしても、消えることはないでしょう。

 となると、最後のよりどころは娘のクレオ。
 確かに、イタリアなどでクレオと楽しい一時を過ごしはします。
 ですが、それだって彼女には学校生活があったり、友人と過ごす時間の方が長いでしょう。現にそのクレオも、学校のキャンプに参加せねばならず、ついにはジョニーは一人きりになってしまいます。
 それに、たとえクレオがキャンプに行かなくとも、すぐに大きくなって独り立ちし、親元から離れてしまうのですし!

 ラストでは、ジョニーはフラーリを走らせて、単調にまっすぐに道路が続くだけの草原で車を放棄して一人とぼとぼと歩きだします。どこに向かって歩いていこうというのでしょうか?それでもどこか(somewhere)があるに違いありません。

 この作品にはもう一つ問題があるように思われます。
 すなわち、心にポッカリと大きな穴が開いて何もそれを埋めることが出来ない状況というのは、これまでも散々文学等で取り上げられてきており、この作品は、単にそれらの長いリストにもう一つ名前を連ねただけではないか、という点です。
 確かに、主人公が超売れっ子のハリウッドスターであるとか、フェラーリを乗り回すとか、娘がフィギュアスケートをするとかの点では、新奇性があるかもしれません。ですが、それは取り替えのきく外観だけのことであって、基本的なところを見てみれば、旧態依然たるものがあるようにも考えられるところです。
 ただ逆に、そう言ってしまうと身も蓋もない話になってしまい、むしろ現代人の有様を少しでも真正面から捉えようとすれば、どんな作品であっても、多かれ少なかれ現代人の心の空虚さを描かざるをえないのではないか、とも思われてきます。
 そしてこの作品は、むしろ、そういった面をことさら大きく捉えようとしている点に面白さがあると言えるのかもしれません。
 としたら、フェラーリを投げ出してsomewhereに向かって歩いて行くジョニーを温かく見守っていこうではないかと言ってみたくもなってきます。

 なお、主人公を演じるスティーヴン・ドーフは、オフのスターだったらこんな感じになるのだろうなと見る者を納得させるような雰囲気を、実にうまく作り出していると思います(『パブリック・エネミーズ』に出演していたのですが、あまり印象に残っていません)。


(注)イタリアでジョニーは、イタリア放送局のアナウンサーからのインタビューを受けます。その際、質問に対して一言二言で簡潔に答えるにもかかわらず、長々とイタリア語に翻訳されて放送されてしまいます。ソフィア・コッポラ監督の前々作『ロスト・イン・トランスレーション』には、ビル・マーレイに日本人演出家が長々指示をするものの、通訳が一言二言で済ませてしまうシーンがありますが、これはそのシーンと逆の意味で通じるものがあって、非常に面白いなと思いました。




(2)本作品は、ジョニー役のスティーヴン・ドーフと、娘のクレオ役のエル・ファニングとで作られていると言っても過言ではないでしょうが、そうなると、最近見た『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドと比べてみたくなってしまいます。





 年齢の点では、 ヘイリー・スタインフェルドが14歳で、エル・ファニングが11歳と随分と近いものの、これまでの経歴の点では、前者は短編映画2本に出演しただけであるのに対して、後者は幼いときから超売れっ子子役でした。
 役の点からすると、マティが実年齢と同じ14歳であり、またクレオも13歳とほぼ同じですが、マティの武器が大人顔負けの度胸であるのに対して、クレオの方はフィギュアスケートなど多彩な才能を持っているようです。
 そして、マティは毒蛇に噛まれて腕を一本失ってしまいますが、クレオの方も頼りにしていた母親に捨てられてしまったようなのです。
 マア類似点と相違点とがあって、どちらが良いか比べても意味はないかもしれず、ここは両者とも実に適切にキャスティングされているとして、彼らをそれぞれ選び出したスタッフの確かな目を賞賛すべきでしょう。

(3)映画評論家の意見は分かれるようです。
 渡まち子氏は、「センチメンタルなのにどこか乾いた空気が、ソフィア・コッポラならではのテイストで、それは自伝的要素の強い本作でも強く感じられる」。主人公とその娘の「二人がかけがえのない時間を過ごす様子が、切なくもいとおしい。なんだかヘンテコなイタリア旅行、午後のまどろみ、たわいないおしゃべり。キャンプに持っていく持ち物を決めるだけでも楽しくてたまらない。さりげない感情のうつろいを、センスのいい音楽にのせてスケッチするのがいかにもソフィア・コッポラらしい」などとして65点を付けています。
 他方で福本次郎氏は、「連綿たる間延びしたシーンと緊張感に乏しい演出は、時間の流れをリアルに再現してはいるが、感情の起伏に乏しく平板な印象は禁じえない」、「カメラはあえてジョニーの内面に踏み込もうとはせず、不器用な彼の行動を見守るばかり。そこからはユーモアもペーソスも感じられなかった」として40点しか与えていません。
 ただ、福本氏の「「連綿たる間延びしたシーンと緊張感に乏しい演出」との評は、この映画のキモを見ていないのでは、としか言いようがありません。




★★★☆☆






象のロケット:Somewhere

悲しみのミルク

2011年04月20日 | 洋画(11年)
 『悲しみのミルク』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)ブラジルにいたときにインカ帝国の遺跡を見に行ったこともあり、ペルー映画が上映されると聞きこんで、早速映画館に行ってきました。
 当時は、リマの日本大使公邸占拠事件(1996年)の起こる前で、治安もそんなに悪くはなく、リマで雇ったガイドと一緒に列車に乗って、マチュピチュの遺跡なども簡単に見に行けました。
 その後、ペルーの各地に極左組織センデロ・ルミノソが浸透し、その支配地域では、カンボジアのポルポト派並みの酷いことが行われたとされています。
 この映画は、そうした背景を知ればよく理解できるところが多いでしょう。とはいえ、決してリアルな歴史・社会物ではなく、むしろファンタジーと言ったほうがいいかもしれません。

 いきなり死に瀕した母親とその娘が登場し、母親は、現地語のケチュア語で、自分が被った酷いレイプの有様を小さな声で歌いながら話します。



 母親は死んでしまうのですが、娘ファウスタは、その亡骸を、現在暮らしているリマ郊外の貧民窟ではなく、出身村まで運んで埋葬しようとします。ですが、それには多額の費用がかかるため、ファウスタは裕福な家の家政婦を務めることでお金を貯めようとします。この映画は、ラスト近くになってようやく母親の亡骸を故郷の村に向けて運び出すことができるまでの出来事を描き出したものと言えましょう。

 映画からうかがえる興味深い点をいくつか挙げてみましょう。
イ)娘のファウスタは、大変な怖がり屋で、他人(特に男性)とうまくコミュニケートすることができません。また街中を一人で歩けず、歩くとしても必ず塀のそばを沿って歩きます。
 そうしないと悪霊にやられてしまうからというのですが、自分自身も、そしてその家で暮らしている叔父たちも皆、これは「恐乳病」に罹っているからだといいます(この映画の原題「La Teta Asustada」もそこからとられているようです)。
 要するに、極左組織によってレイプされるという大変な恐怖を味わった母親から、その強い恐怖心が母乳を通じて娘にも伝わってしまった、というわけでしょう。

ロ)レイプから逃れるために、ファウスタは、自分の性器の中にあろうことかジャガイモを入れているのです。そんなことをしたら子宮を痛めてしまうと医者は言うのですが、彼女は出そうとはせず、逆にジャガイモが育って芽を出すようにもなるのです(芽が伸び過ぎると、ファウスタはハサミを使ってその先を切り落とします!)!
 ただ、ラストで、ファウスタと一緒に働いていた庭師から、鉢植えの花の咲いたジャガイモが、田舎に戻った彼女の元に届けられます。家政婦として務めていた家を出て村に戻ろうとする彼女を、その庭師が実に優しく扱ったことから、彼女の硬い心もほぐれて、性器にジャガイモを入れる必要が最早なくなったことを表しているのでしょう(あるいは、そのジャガイモは、彼女が抱え込んでいた物なのかもしれません)。

ハ)母親は、映画の冒頭で亡くなりますが、それから一月あまりもベッドの下に置いておかれます。それはまるでインカのミイラ然としているものの、きちんとした作業抜きで単に遺体に油を塗っているだけですから、常識的にはあり得ない状態が続いているわけです。
 なお、ファウスタたちのいるリマ郊外はパチャカマとされていますが、そうであればそのスグソバにはプレインカの太陽の神殿とか月の神殿などの遺跡があり、また近くの砂漠の中には沢山のミイラが無造作に埋められているのを見ることが出来ます。

ニ)ファウスタは、何か作業をしている時などは、いつも小声で母親のようにケチュア語の歌を歌っていますが、西洋音楽とは異なる音階によるもので、大層興味深いものがあります。
 ただ、なかには聞いてメロディを掴みやすい歌もあり(スペイン語でもあります)、それをファウスタが働いている家の女主人が聞きつけて、西洋音楽風にアレンジして音楽会で発表し喝采を受けます。
 ですが、それは盗作行為であり、強い後ろめたさがあるためでしょう、約束の真珠を与えることなく、女主人はいきなり彼女を放り出してしまいます。しかしながら、ファウスタにとっては、母親の亡骸を村に戻すために是非とも必要な物です。彼女は、密かに忍び込んで真珠をつかんでその家を飛び出そうとしたところで意識を失ってしまいますが、そのとき優しく介抱してくれたのが庭師というわけです。

ホ)その女主人は、スペイン系の裕福な白人で、ペルーの支配階級に所属している一方、そこで家政婦として働くファウスタは先住のアンデス系で、社会の底辺をうごめいている人々に属しています
 なお、南米のスペイン系の国々では、侵略してきたスペイン人と現地人との融合は余り進みませんでしたが、逆にブラジルには純粋のポルトガル人は殆どおりません。
 また、アンデス系先住民(以前はインディオ〔あるいはインジオ〕と言われていましたが、最近では差別的用語だとして使われてはいないようです)は、蒙古斑をもっていて東アジアの民族に近いとされますが、この映画の主役を演じるマガリ・ソリエルを見ても、あまりそんな感じがしません。



ヘ)そうしたアンデス系の住民たちの結婚式の様子が何度か映画で描き出されます。その際には、まるでリオのカーニバルのような賑やかさとなります
 ただ、リオの場合は、そのための衣装代を1年間かけて蓄えますが、こちらでは一生一度のことゆえ、裾の随分と長い花嫁衣装などが登場するは、家族総出の記念写真を撮るは、大宴会が催されるはで、観ている方はその大騒ぎぶりに圧倒されます。

ト)そう思ってみると、この映画には随分と階段状のものが映し出されることに気がつきます。
 なにしろ、リマの市内から、ファウスタ達の暮らす貧民窟に行くには、随分と長い階段を上っていかなくてはなりません。



 その貧民窟の背景をなす山肌にも、様々な家が段をなして立ち並んでいます。
 また、そこでの結婚式では、新郎新婦は、10段くらいの階段のついた台の上に立たなくてはなりません。



 ここから連想されるのは、インカの遺跡です。たとえば、マチュピチュの遺跡。随分と高い石山の上に設けられていて、そこを見学するためには、大変な階段を経る必要があります(実際には、入口まで観光バス用の道路が作られていますが)。
 また、オリャンタイタンボの砦遺跡も、急な斜面に階段状に造られたものです。




 どんどんとりとめもない内容になっていきますが、映画を見ながらいろいろなことを考えたりするのもまた楽しいものですし、ソウしたことに誘うのも、映画自体が優れているからだ、と言えるのではないでしょうか?

(2)本作品は、日本でこれまであまり紹介されたことのない国の映画という点で、先日見たタイ映画『ブンミおじさんの森』と比べることができるでしょう。
 ただ、両者ともファンタジー的な要素を沢山持っているのですが、受ける印象は余りにも違います。
 一番大きな違いは、『ブンミおじさんの森』で描かれる自然は、人間と大層親和的です。そこには様々の霊がうごめいていて、さらには過去から未来の出来事までも詰まっているようなのです。ブンミおじさんも、自分の死を悟ると、近親者を従えて、その森の奥にある洞窟まで入り込んで死にます。死ぬ前には、以前に亡くなってしまった妻の霊も、その時のままの姿で現れたりします。
 他方、本作品で描かれる自然は余りにも荒涼としていて、逃げ出したいくらいのものです。なにしろ、広大な砂漠が広がり、背後の山には緑がほとんど見受けません。ですが、そういう酷く荒れた自然の中に、随分とたくさんの現地人たちが暮らしていて、その活気に満ちた喧騒は、逆にまた魅力的でもあります。

(3)福本次郎氏は、「暴力の時代はとっくに終わった。それでも消えない殺戮とレイプの記憶。彼女自身に起こったのではないが、繰り返し母に聞かされているうちにわが身の出来事のように刷り込まれている。映画はそんな娘の姿を通じ、ペルーの人々が抱える内戦の傷跡といまだに残る先住民と白人の格差をさまざまメタファーで描く」として60点を与えています。
 また、村山匡一郎氏は、「生と死、富裕と貧困、白人系と先住民系の対比が鮮やかに象徴され」、「ペルー社会の相克を体現する主人公を通して、未来の希望を土着的な視点を交えて巧みに描き出している」と述べています。




★★★★☆






アメイジング・グレイス

2011年04月17日 | 洋画(11年)
 『アメイジング・グレイス』を銀座テアトルシネマで見てきました。

(1)自粛ムードが広がっているせいか、あるいは春休みで映画館がお子様向けの作品で占められているからなのか、どうもこれはという映画が見当たらないので、マアこれなら無難かもしれないと映画館に行ってきました。
 それに、クマネズミが携わっているプサルタリー合奏の際にも(クマネズミの担当はギター伴奏)、この曲を演奏することがありますので、元から関心がなくもなかったという事情もありますが。

 実際に見てみますと、無難なことは無難な運びの作品ながら(何しろ、文部科学省選定かつ東京都推奨の歴史実話物なのですから!)、今一の感じがしてしまいました。というのも、
 主人公のウィルバーフォースヨアン・グリフィズ)は、資産家の家に生まれて政治家となっているところ、奴隷貿易の廃止に向けて必死の努力を傾けるのです。
 ですが、なぜ彼がそこまで奴隷廃止に情熱を捧げるのか、そこのところが全く描かれていないので、いきなり国会における論戦場面(注1)となると、酷く唐突な印象を見る者に与えます。

 こんな印象を受けるのは、イギリス本国は、アメリカのように自分のところで奴隷を使っているわけではなく、アフリカとプランテーションのあるジャマイカなどとの間で行われている奴隷貿易に従事しているにすぎないことにもよります。すなわち、ウィルバーフォースらが動き回る範囲には、奴隷は全く見当たらないのです。
 一度は、奴隷貿易に従事する船がイギリスの港で停泊している折に、彼らは、その船内を見学しますが、もとより奴隷の姿はなく、単に関係者からその悲惨な有様を聞き出すだけに終わっています。
 そうなると、いったいどうしてウィルバーフォースらは、奴隷貿易廃止という考え、それも絶対そうしなければならないとする強固な考えを持つようになったのかが、観客には十分に理解できないことになってしまいます。
 むろん、現時点で考えれば、奴隷制度などあってはならないことだと誰しも考えますが、当時(18世紀末)は逆に、それは当然のことと一般に思われていたわけです。その時に、この制度が根本的に誤っているとの考え方を持つに至るのは、特に富裕層に属する者にとり、随分と大変なことではないかと思われます。
 ウィルバーフォースの小さい時からの伝記的な事績を描くことが、どうしても必要になってくるのではないでしょうか?

 同じことは、彼の友人で若くして首相となるウィリアム・ピット(いわゆる小ピット:ベネディクト・カンバーバッチ)についても、言えると思います。特に、ピットの場合は、貴族の家柄ですから、奴隷廃止という考え方を持つのは、ウィルバーフォース以上に大変なことではないかと思われます。



 ですが、突然、ピットの方が音頭を取って、ウィルバーフォースの周りに同じ意見の持ち主を集めるのであって、その後は彼らが中心となって奴隷貿易廃止に向けて動き出すのです。
 いったいどうやってピットは、そうした考えを持つに至ったのでしょうか?

 この映画の中心的な話題がスムースな感じで描かれていない上に、周辺的な事柄も唐突なところがあるようです。
 例えば、ウィルバーフォースの結婚です。友人の下院議員夫妻がうまくセッティングして、彼を女性に引き合わせるのですが、彼は政治方面に関心が傾いていてあまり女性に関心がなさそうに描かれているな、と思っていたら、突然に結婚式の場面となります。もっとロマンティックなシーンがあってもしかるべきではないでしょうか?



 また、ウィルバーフォースは、突然身をよじるほどの痛みに苛なまれ、それを鎮めるためには鎮痛薬を飲まなくてはならないほどなのです。これがこの男の死病になるのではと予想していたら、突然倒れてしまったのは首相のピットの方で、奴隷貿易廃止をウィルバーフォースに託してあっけなく死んでしまいます(46歳)。
 ウィルバーフォースは70過ぎまで生きているのですから、何回も描かれる苦痛のシーンの意味は何なのか、と思わざるを得ません。

 もしかしたらこれらの事柄は、イギリス本国においては周知の事実であって、何もそこまで映画で描かずとも十分観客は分かることなのかもしれません。
 ですが、外国にいる我々にとっては、奴隷制廃止と言えばアメリカの南北戦争くらいしか思い浮かばないのですから、もう少し説明があってしかるべきでは、と思ってしまいます。

 さらに問題点を挙げるとしたら、映画の真ん中あたりで、元々の字幕で「present」と現れ、暫くすると「2years after」という字幕が現れます(後者は少々違っているかもしれません)。
 いったい「present(現在)」とはどの時点を指すのでしょうか?「2years after (2年後)」として描き出される映像は、「現在」の時点から予想される単なる想像のものなのでしょうか?でも、いったい誰が何を想像するというのでしょうか(「○年後」という字幕はよく見かけるものですが、「現在」という字幕には初めてお目にかかりました!)?

 あるいは、この映画は、劇場用パンフレットで作曲家の池辺晋一郎氏が述べているように、「音楽映画」として捉える必要があるのかもしれません。
 確かに、映画の最初の方では、カードゲーム場でウィルバーフォースが「アメイジング・グレイス」を歌いあげます。
 ただ、この歌詞を作ったジョン・ニュートンは、最初と最後に出てはきますが、そして奴隷貿易に従事したことを悔いて聖職者になり、この歌詞をも書いたと説明されてはいますが、一つのエピソードにすぎないような位置づけとなっていて、これまた観客にはしっくりこない感じがします(何より、一説にはアメリカで作られたとされる曲〔作曲者不明〕の方を知っていますが、教会で讃美歌として歌われる歌詞の方は何も知らないのですから!)。



 とはいえ、ラストで、バッグパイプの大楽隊がこの曲をじっくりと演奏しますが(ウィルバーフォースとピットが眠るウェストミンスター寺院前の広場にて)、それを聞けただけでも満足すべきなのでしょう(メロディー自体は奴隷制と無関係にせよ)。

(2)この映画で中心的に取り上げられている奴隷制というと、最近見た映画では、『アレクサンドリア』に奴隷が登場しました。ですが、そこでの奴隷達は、奴隷の印として首に輪っかを付けられているだけで、行動にそれほど制約はなさそうに見えます(主人公のヒュパティアは、ごく簡単に奴隷のダオスの首輪を外して自由民にしてしまいます)。
 また、エジプトのピラミッドを造ったのは、従前は、10万人を超える奴隷だったとされてきましたが、最近では、彼らには給料が支払われていたとする説が一般的になりつつあるようです〔wiki〕。

 この映画を見ながら、本来的に奴隷制は、その維持管理に相当の手間暇(コスト)がかかりすぎるシステムであり、こんな非効率的なシステムが古代において果たして本当に実行されていたのか、もしかしたら十分な火器が行き渡った近代においてしか成立し得ないものなのではないか、などというつまらない考えに耽ってしまいました。
 映画における説明では、アフリカから西インド諸島に黒人を運搬する際に随分と高い割合で死んでしまい、海に投げ捨てられたとのことです。おそらく、到着後も劣悪の環境下に置かれたのでしょうから、その損耗度はかなり高かったに違いありません。
 ですから、十分な供給体制を設ける必要があると思われますが、古代においてはセイゼイが戦争によって捕獲するくらいでしょう。それでは、マルクス主義歴史観の出発段階である「古代奴隷制」が想定しているようなこと、一国の経済を基幹的に奴隷が支えるというシステムを本来的に維持することは困難だったのではと考えられるところです(一国が恒常的に戦争をし続け、一定程度の奴隷を絶えず確保し続けることは、大層難しいのではないかと考えられます)。
 オマケに、仮に奴隷の確保が十分に出来たとしても、彼らの逃亡を防ぎ、かつ労働意欲を駆り立てるために様々な措置をとらねばならず、そのコストはバカにならなかったのではないでしょうか?
 人権が完全に無視された使い捨ての悲惨な状況下にある奴隷というのは、一定の限られた時期に、北アメリカとか西インド諸島のプランテーションでしか見られなかったものだ、とはいえないでしょうか?

 なお、この映画の舞台は、フランス革命の時期と重なっていて、そのため革命を目の当たりにしてイギリスに戻ってきたウィルバーフォースの仲間が、革命のさなかで大きく唱えられた「自由」の大切さに感銘し、奴隷貿易を廃止すべきことをさらに一層強く主張することになります。
 ただ、フランス革命は、同時にロベスピエールという独裁者を生み出してもいるわけで、こうした描き方では随分と皮相な感じがするところです(注2)。



(注1)イギリス議会(庶民院)の場面の有様を見て、さすが民主主義の本場だけに日本の議会とは違うという感じを持つ人が多いようですが、そこはそれぞれのお国柄というべきで、比較しても無意味でしょう。
 とはいえ、単調な演説と怒号とヤジしか飛び交っていない日本の議会に、ウイットのひとかけらでも見出せるのであれば、『SP 革命篇』で見られるようなとんでもない事態を招くことはないのかもしれませんが!

(注2)最近刊行された遅塚忠躬著『フランス革命を生きた「テロリスト」―ルカルパンティエの生涯』(NHK出版)の「付論1 ルソー、ロベスピエール、テロルとフランス革命」では、「フランス革命がなぜ独裁とテロルに帰着しなければならなかったのか」という問題が、8つの論点から簡潔にわかりやすく論じられています。
 なお、『ゴダール・ソシアリスム』に関する記事の注5も参照して下さい。




★★☆☆☆





象のロケット:アメイジング・グレイス

わたしを離さないで

2011年04月16日 | 洋画(11年)
 『わたしを離さないで』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見てきました。

(1)この映画の原作を書いたカズオイシグロ氏については、映画化された『日の名残り』を読んだり(映画〔1993年〕も見ました)、脚本を書いた『上海の伯爵夫人』(2006年)を見たりしたことがあり、さらにこの『わたしを離さないで』の翻訳本(早川書房、2006年)が出版された際、すぐにそれを読んで感銘を受けたこともあるので、映画が公開されると聞いて早速映画館に出かけた次第です。

 勿論細かいエピソードは大部分忘れていたものの、基幹的な設定は覚えていたため、映画の中にスムーズに入り込むことができました。
 映画自体はミステリー物ではありませんから、隠す必要性に乏しいと思われるものの、ラストに至るまで基幹的な設定に関する説明はなされません(注1)。ただ、その点を事前に承知していると(意図的に十分な説明をしていないなと思えてくると)、映画の中で描き出される様々な事柄が、実にしっくりと受け入れることができるので、ここでもどちらにすべきか迷うところです。
 とはいえ、このブログは当初から「ネタバレ」を前提としていますので、以下はその基本的設定を明らかにした上で(後半の筋は伏せますが)書いてみようと思います。

 この作品は、大きく言えば、二つの事柄から構成されているように思われます。
 一つは、映画に登場する人物の大半がクローン人間だという点。
 もう一つは、それらクローン人間から3人を取り出して、愛の三角関係を演じさせている点。

 前者に関しては、本作品に登場する人間たちは、オリジナルの人間のコピーであって、少なくともそのDNAはオリジナルと一致すると考えられます。
 ただ、彼らがどのようにして誕生するのかが説明されていませんので、全くの推測になるものの、オリジナルの人間が一定年齢に達してから、その同意のもとにクローン人間が生み出されるのでしょう。仮にそうだとしたら、両者の間には年齢の開きが随分とあり、また受ける教育なども違ってくるでしょうから、元の人間とはたしてウリ二つになるのか、大いに疑問でしょう(教育によって、人の容貌はかなり違ってくるのではないでしょうか)。

 本作品では、ルースキーラ・ナイトレイ)のオリジナルを見たという情報を確かめに、3人、すなわちルースとキャシーキャリー・マリガン)とトミーアンドリュー・ガーフィールド)が、一緒に車で街に繰り出すシーンがあります。
 その人物が働いているという旅行会社の前まで行って、3人は窓から中をうかがいますが、全然似ていないためにオリジナルではないということになります。



 ですが、元々そんな風にして確かめられるものなのか、という疑問が湧いてきます(注2)。

 また、彼らクローン人間は、普通の人間に自分らの臓器を提供するためにこの世に生み出されていることをよく理解しているせいでしょうか、一定の年齢になって通知があると、何故か黙って臓器の摘出手術を受け入れています。
 しかも、2回目か3回目の手術において大部分のクローン人間は“終了(completion)”してしまうことまでも知っているのです(最初の手術で“終了”してしまう場合もあるようです)。
 オリジナルの人間のコピーということであれば、コピーが生きながらえることがあってはならないことかもしれません。目的を達成したら、早々に“終了”させるべきなのでしょう。
 ですが、彼らもまた魂を持った人間であるとしたらどうでしょうか?

 そこら辺りから、この映画のもう一つの面に入り込むことになります。
すなわち、愛の問題です。
 彼らの初等教育を受け持つ寄宿学校ヘイルシャムでは、彼らを様々の芸術面に携わらせていますが、時折、マダムと呼ばれる女性がヘイルシャムにやってきて、出来上がった作品の中から優れたものを選び出して、ギャラリーに運び出しているのです。映画のラストの方で、当のマダムから、そのようにしたのは、クローン人間に魂があるかどうかを確認するためだ、と説明されます。
 とはいえ、この映画では、特に愛という点から彼らの人間らしさを描き出そうとしているように思われます。
 すなわち、ルースとキャシーとトミーは小さい頃からずっと仲良しだったのですが、ある時からルースはトミーに積極的となり、それを感じたキャシーは一歩引き下がるようになります(注3)。
 ルースとトミーとの関係は、3人がヘイルシャムからコテージといわれる施設に移るとより鮮明となり、逆にキャシーの方は介護士(臓器摘出手術を受けるクローン人間の世話をします)になるべくコテージを離れます。
 9年後に、キャシーはルースと再会し、さらにまたトミーとも再会します。そして、ルースは、自分がトミーに積極的になった時のことを話し始めるのです。そして、……。

 ここら辺りまでくると、クローン人間に愛があるか、という問題を越えて、人間にとって愛とは何なのか、という普遍的な問題に飛び移るように思われてきます。
 映画は、クローン人間問題を扱いながらも、むしろそれは背景であって、どこにでも見かける男女の三角関係を取り扱っているようにも思われます。
 ソウだとすると、クローン人間問題という制約条件は、たとえば末期の癌で死期が告げられている場合などにも拡張されて、映画は全体として、そうした強い制約条件下の愛はどうあるべきなのか、ということを描いているようにも思われてきます。

 キャシーを演じるキャリー・マリガンは、『プライドと偏見』とか『パブリック・エネミーズ』、『マイ・ブラザー』で見てはいるものの、それぞれ、本作品にも登場するキーラ・ナイトレイ、ジョニー・デップ、ナタリー・ポートマンなどの影に隠れてしまって余り印象に残らなかったのですが、この映画では、語り手かつ主役を実に魅力的かつ巧みに演じていて、これからも大いに注目されることでしょう。



 ルースを演じるキーラ・ナイトレイは、『プライドと偏見』、『シルク』、『つぐない』などで見て、見る度に違った印象を受けたところ、この映画でも、クローン人間らしさを出そうというのでしょうか、かなりやせ細っていて、今までとは随分と違った感じです。単なる美人女優に収まりきれないところを持った幅の広い女優といえるかも知れません。



 さらに、トミー役のアンドリュー・ガーフィールドは、『ソーシャル・ネットワーク』で見たばかりながら(主人公マークの友人役)、憂いを含んだその佇まいは、この映画で描かれているクローン人間の特徴を見事に表していて、これからの一層の活躍が期待されるところです。



 本作品は、様々の次元でイロイロなことを考えさせる要素を沢山持っており、それらがヘイルシャムの建物(17世紀のスチュアート朝様式の建物を使う)とか、海岸沿いのマダムの家(ベックスヒルの海辺のリゾートタウンで撮影)といった大変印象深い舞台装置のなかで、演技力のある若手俳優達によって展開され、まれに見る素晴らしい作品に仕上がっているのではと思いました。

(2)ところで、本作品は、一見するとかなり奇妙な感じを観客に与えるのではないでしょうか?
 クローン人間が、普通の人間の言うことに逆らわず、彼らの決めたこと(普通の人間の観点からは、酷く残酷に思えること)に大人しく唯々諾々と従うようにみえるからです。
 映画から受ける印象では、クローン人間が幼い時からそうした教育を受けてきているから反抗的な素振りは見せないのだ、とされているように思えます。
 ですが、教育の効果はそんなにも強いものでしょうか?確かに、大半のクローン人間は、決められたことを遵守するでしょうが、中には反抗して施設から逃亡したり、普通の人間を襲撃したりする者も出てくるはずです。
 でも、本作品においては、そういう点には一切触れられてはおりません(注4)。なぜでしょうか?

 ここで興味深い見解が目にとまりました。最近発売された雑誌『群像』5月号に掲載されている、文芸評論家の加藤典洋氏のエッセイ、「ヘールシャム・モナムール―カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を暗がりで読む」です。
 その中で加藤氏は、原作の小説において、「キャシーは、自分が人間でないことを、それだけは人間に負けない鋭敏さで、自覚している」存在であり、「外界に対して感度の悪い「性能の良くない主人公」」であって、「キャシーの「十分に感じられないこと」、「本当の人間ではないこと」の自覚が、彼女をどう傷つけ、同時に彼女に鋭敏な人間の目とは異質の強酸性の視力を与えているかを、イシグロはその語りを通じて、読者に分からせる」と述べているのです。
 要するに、この小説に登場するクローン人間は、物の見方・感じ方という点で、「人間とそっくりだが人間ではない存在」というわけです。

 なるほど、道理で、ヘイルシャムにおいて、クローン人間のことをこれまでになく気にかけているルーシー先生が、生徒のクローン人間に対して、彼らの将来に待ち受けている残酷な運命のことを授業の中で打ち明けてしまうものの、生徒たちからははかばかしい反応が得られないのでしょう。
 どうしてそういうことになるのかオカシナ感じがしたのですが、加藤氏のように考えれば、納得できる光景となるでしょう(なにしろ彼らは、「外界に対して感度の悪」いために、「そのことにショックを受けることができない」のですから!)。

 とはいえ、原作の小説のみならず映画についてまでも加藤氏の考えに従ってしまう場合には、本作品は、専らクローン人間の悲しい定めを描き出したもの、ということになりかねません。
 ところが、劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事において、カズオイシグロ氏は、「この物語は、クローンの最先端テクノロジーがどこまで進化したかといった技術的な目的で書かれたわけではない。……わたしが表現したかったのは、人間誰しも持つ過去の思い出だ」云々と述べているのです。
 要すれば、この映画の原作者であり、かつ制作総指揮を担っているカズオイシグロ氏は、この映画はクローン人間ではなく人間を描いたのだ、と言っていることになるでしょう。
 原作者の言ならばそれほど重視するには及ばないものの、映画の制作総指揮者でもある人物の発言となれば、一定程度重視せざるを得ないところです。

 それに、物語の語り手がキャシーであり、彼女がクローン人間であって、その物の見方・感じ方に一定の欠陥らしきものがあるとしても、小説であるなら、読者は受け入れ可能です(表現に様々な工夫が必要となるでしょうが)。
 ところが、これが映画となると話は難しくなってしまいます。確かに、本作品の語り手はキャシーとなっているものの、彼女が「不完全な人間」だとはなかなか思えません。というのも、映し出される映像は、キャシーの眼から見えるものとはなってはおらず、カメラは当のキャシーを第3者的な視点に立って外から捉えるだけであって、映像自体には何の問題もないことになっているからです(注5)。

 というところから、加藤氏の見解は、小説に関してなら実に面白いと思えるものの、映画にまでうまく適用できるのか疑問に思えてきます。

 それに、よく考えてみれば、クローン人間が黙って自分たちの定めを受け入れるのは、普通の人間がその寿命を受け入れるのとソウ大きな違いはなく、ことさら奇妙に思うことでもないかもしれません。一方は30年ほどであり、他方は百年ほどであるだけで、決して30年対永遠というわけではないのですから。
 ラストでキャシーは、クローン人間が臓器を摘出されて“終了”してしまうのと、その臓器を移植された人間が生きながらえるのとでは、実のところ大同小異ではないか、という意味のことを話しますが、あるいはソウなのかも知れません。
 そう考えれば、クローン人間の不完全性は肉体面だけであって、物の見方・感じ方にまで拡大する必要もないのではと思えてきます。
 とはいえ、クローン人間の物の見方・感じ方に問題がありそうだ、という加藤典洋氏の見解は大変魅力的であり、小説ばかりでなく映画を見る上でも、頭の隅に置いておいたら面白いのではと思われます(注6)。

(3)本作品は、臓器移植自体をメインのテーマとするわけではないものの、やはり関心はそこにも向いてしまいます(注7)。
 臓器移植会社のおぞましい行為をアクション仕立ての中にまぶしたにすぎない『レポゼッション・メン』は論外としても、『私の中のあなた』が思い浮かびます。
 同作品では、妹アナは、白血病の姉ケイトを救うべく試験管ベービーとしてもうけられたという設定になっていて、ケイトの病状が悪化した時に、アナは自分の腎臓を一つ提供することを求められるのですが、そこで騒動が持ち上がって……、というように展開されます。
 白血病という現実的な話と、臓器提供のための試験管ベービーというSF的な話が接合されていてなかなか興味深い作品でしたが、ある意味で今回の映画と設定自体は類似しているといえるのではないでしょうか(一つの生命が、別の生命の維持存続のために生み出されているわけですから)?

(4)渡まち子氏は、「映画は緊張感はあるものの、謎解きのスリルとは無縁。ある役割を運命付けられた男女3人のあまりに悲しい友情と恋愛の物語が、端正な筆致で描かれる人間ドラマなのだ」、「これは限られた人生を精一杯生きようとした男女を描くことで、もしかしたら、将来私たちに起こるかもしれない問題を静かに提起するものなのだ。命、生と死、魂の存在。何もかもが慎ましく描かれるため、私たち観客は3人の運命に対して罪悪感さえ抱いてしまうだろう。彼らはただ愛する人と共にいたいだけなのに、それを許さないのは私たちのような気がしてしまい、いたたまれなくなる」として70点をつけています。
 福本次郎氏は、「物語は臓器提供者として生まれ育てられた子供たちの日常を丁寧に掬い取り、はたしてクローンにも魂があるのかと問いかける。冷たく沈んだトーンの映像と哀切を帯びた音楽が、彼らの苦悩よりもあきらめ、夢よりも先のない未来を象徴し、救いのない物悲しさが胸を締め付ける」として60点をつけています。



(注1)映画の冒頭に、“医学の進歩によって、1967年までに人類の平均寿命は百歳を超えた”といった趣旨のことが説明され、この作品がSF映画なのだと分かるようになってはいますが。

(注2)その後に、ルースは、海岸で、“元々、オリジナルがこんなところで綺麗な仕事をしているはずがない、クローン人間をOKするような者は、社会のゴミ溜めでいきているはずだ”などと叫びます。血液とか精子などを提供する者に対する偏見の表れでしょうか?

(注3)劇場用パンフレットに掲載されているフリーライターの佐藤友紀氏のエッセイには、キャシーを演じるキャリー・マリガンは、「まるで昔の日本映画の女優のように自分の秘めたる気持ちを抑えつけ、静かに運命を受け入れる」と述べられています。

(注4)文学とは離れて俗事的に考えてみると、単なるお遊びにすぎませんが、次のように言えるかも知れません。
 クローン人間の腕にはリストバンドが嵌められ、寄宿舎の出入り等に際しては、それを機械にかざすように決められているようです。あるいは、その装置で、クローン人間の居場所等も簡単に追跡できるため、逃亡を考えないのかもしれません。
 あるいは、そんなことは一切映画の中では描かれてはいませんが、秘密警察とか密告組織が縦横に網を張っていて、クローン人間が逃亡しても直ちに通報されて捕まってしまうのかもしれません。そして、そのことが分かっているから彼らは何もしようとしないのかもしれません。
 (これは、たとえが不適切かもしれませんが、あるいはナチスの強制収容所において、ユダヤ人たちが大人しくガス室に導き入れられたのと類似するといえるのかもしれません←ユダヤ人によるワルシャワ蜂起などがありましたが)
 ちなみに、『イキガミ』(間瀬元朗の漫画、及びそれに基づく映画〔『メッセージ』についての記事の(2)で触れています〕)では、当局から通知(「イキガミ」を受け取ると、予め体内に埋め込まれたナノカプセルが作動して24時間以内に確実に死亡する、とされています。これは臓器提供という目的ではなく、国家繁栄という目的を達成するための措置とされていますが、確実性からすれば、こちらの方がずっと上とも考えられます。

(注5)「外界に対して感度の悪い性能のよくない」キャシーの様を映像で示すことは至難の技でしょう!
 例えば、『月に囚われた男』で描かれるクローン人間のように、その寿命が3年とされていて、末期になってくると肉体的に壊れてくるというのであれば、話はそれほど難しくはないでしょうが、物の見方や感じ方に欠陥があるという点になると、映像による描写に困難を伴うことでしょう。

(注6)加藤典洋氏は、前掲のエッセイにおいて、クローン技術は、「映画によれば1952年に開発されている」が、同年は「イギリスがはじめての核爆発実験に成功した年」であり、そこで使われた原爆の型は、カズオイシグロ氏の故郷である長崎に落とされた物と同型だと述べています。そんな因縁のある映画を、福島原発大事故の起きた年に日本で見るというのも、またもの凄い因縁を感じてしまいます。

(注7)映画『孤高のメス』で取り上げられている未成年者臓器移植手術が、この4月にわが国でも実際に行われています。





★★★★☆





象のロケット:わたしを離さないで

津軽百年食堂

2011年04月13日 | 邦画(11年)
 『津軽百年食堂』をシネマート新宿で見てきました。

(1)弘前城の桜が描かれていると聞き込み、またオリエンタルラジオの2人が出演するとも耳にしたので映画館に行ってみたわけです。

 確かに、弘前城満開の桜はたっぷりと映し出されていましたし、そしてオリエンタルラジオも登場していました。ですが、まさかこんな映画だとは思ってもいませんでした。
 途中の雰囲気から薄々わかり出しましたが、最後のクレジットロールの冒頭に発起人の名前と肩書がズラズラ記載されていて、その殆どが国会議員とわかり、ナールホドと了解できた次第です。
 要すれば、3月5日の「はやぶさ開業」と合わせ、5月のゴールデンウィークにかけて青森県、特に弘前市を大いに売り出そうとするキャンペーン事業の一環としてこの映画が作られた、ということでしょう〔ただ、残念ながら、3月11日の東日本大震災によって、そうした目論見は頓挫してしまったように見受けられます〕(注1)。
 ソウだとわかっていれば、弘前市とは山一つ越えた秋田県大館市に1年間生活し、何度も弘前までに出かけて行って、弘前城の桜を見て日本一だと信じて、皆にそのことを吹聴してきた者としては、何もこうした映画をいまさら見ずとも好かったのに、という気持ちになってしまいます。




 加えて、オリラジの2人が弘前(あるいは東北)出身だというのならまだしも、東日本とは縁も所縁もない地方の出身者(長野県と大阪府)であり、かつ加えて、映画ではコメディアンらしさは完全に封じ込められてしまっていて、それならどうしてこの2人が映画に登場するの、という気にもなってしまいます(オリラジ藤森が弘前に戻ってバイクに乗って市内を走る場面があり、昔からの建物などが映しだされて“やっぱ弘前はいいな”とつぶやくのですが、どうも実感が込められていないように感じてしまいます)。

 さらに、ご都合主義が何度も出てくるのですから!
 東京の結婚式場での仕事の縁で、オリラジ藤森が、幼馴染みの福田沙紀と偶然に出会うというのは許せます。
 ですがなぜ、オリラジ藤森の父親・伊武雅人が交通事故に遭って彼が弘前に戻らなくてはならなくなると、それと時を同じくして福田沙紀の師匠のカメラマン・大杉連までが脳梗塞で倒れてしまい、やはり彼女もまた弘前に戻ってくる仕儀になるのでしょうか?
 また、百年前の初代の大森食堂の店主(オリラジ中田)と妻トヨとを娶せた男の子孫が、またぞろ藤森が弘前祭りに出店するのを手助けするというのも、巡り合わせと言えば巡り合わせでしょうが(食堂のメインメニューの「津軽そば」にちなんで、細いながらも長く続く縁というわけでしょうか)、なんともはやという思いになります。
 それに、若い女性が東京に出てくると、なぜカメラマンになろうとするのでしょうか(最近はパティシエ?)?たとえば、『おのぼり物語』でも、漫画家志望の主人公の彼女(高校の同級生)が、プロカメラマンになるべくアシスタントとしてかけずり回っています(そういえば『ハナミズキ』の新垣結衣もそうでした!)。

 マア、そういう点をいろいろ論ってみても何の意味もないでしょう。様々の事柄が様々に結びつけられて思いもかけないところで絡み合っているというのも、また人生でよく見かけるところですから(注2)。
 としても、登場人物が、すべて好人物であり、前向きに物事に取り組む人間として皆造形されている点は、こうした御当地映画では致し方がないものの、見ている方としては次第に白けてくるものです。

 最後に一つだけ申し上げれば、昔、弘前の桜祭りに行って大変印象的だったのは、舞台が設けられていて、津軽三味線の大会が開催されていたことです。ところが、本作品においては、津軽三味線は、徹底的に映像や音響から排除されているように思われましたが、何か理由があるのでしょうか(弘前市で行われる「ねぷた祭」は時期が違いますから、映画で取り上げられずとも許せるとして。また、寺町〔例えば、最勝院五重塔〕の風景も、名所巡り映画ではないのですから、ことさら映し出されなくても結構でしょう〔注3〕)?

 とはいえ、オリラジの2人は、映画初主演ながら、なかなかよくやっていると思います。なかでも、中田敦彦は、百年前の人物ということで、モロに津軽弁で話さなくてはならず、さぞかし大変だったと思います。それに、足に問題があってビッコを引きながら歩くということまでしなくてはならないのですから(この設定の意味がどこにあるのか不明です。あるいは、そのために日露戦争に出征せずとも済んだのかもしれません。何しろ、弘前に置かれた第八師団から約2万名が出征したとのこと。映画の中でも、彼を支える人たちは日露戦争関係者になっています)。



(注1)無論、この映画の原作である森沢明夫氏の同名の小説は、そんなキャンペーンとは無縁でしょう。

(注2)食堂初代のオリラジ中田から4代目のオリラジ藤森への流れはタテの動きで、オリラジ藤森と福田沙紀が東京から弘前へ戻るというのはヨコの動きであって、そうした2つのベクトルでこの映画が立体的に構成されているといえるかもしれません。

(注3)逆に、雪を抱いた岩木山が何度も映画に登場しますが、これは『人間失格』のラストシーンのように、ここぞという時の画像の方が印象を強くするのでは、と思いました。


(2)この映画で、地元の全面的な協力を得て制作された映画は3本見たことになります。
 すなわち、『桜田門外ノ変』と『海炭市叙景』、それに本作品。
 その中では、『海炭市叙景』の出来栄えが優れているように思われます。『桜田門外ノ変』は、歴史上の名だたる人物(少なくも、茨城県民にとっては)を描くために、そして本作品は「はやぶさ開業」とタイアップしているせいなのか、それぞれ問題性のある人物は一人も登場しません。他方、『海炭市叙景』は、緩いオムニバス形式をとった文芸物であるためなのでしょう、登場人物は皆様々の問題を抱えていて、それが映画を膨らみのあるものにしているように思われます。

(3)福本次郎氏は、「映画は、満開の桜と眼前に迫る岩木山という弘前の美しい風景を背景に、夢を抱いて東京に出た青年が行き詰り、故郷で新たな人生を踏み出す姿を描」いているが、彼が「家業に未来を見出す決意がさわやかだった」として50点を付けています。




★★☆☆☆


象のロケット:津軽百年食堂

漫才ギャング

2011年04月10日 | 邦画(11年)
 『漫才ギャング』を渋谷Humaxで見てきました。

(1)コメディアンの品川ヒロシによる前作『ドロップ』の出来栄えが大層素晴らしかったことから、佐藤隆太とか上地雄輔は好みではなかったにもかかわらず、公開早々に映画館に出かけてきました。

 佐藤隆太については、TVで放映された『海猿』などから、大声を出す元気のいいことだけが売り物の俳優という印象を受け、また上地雄輔も“おバカタレント”の先入観が拭えません。それでどうかなと思ったのですが、今度の作品で、そんなものは一挙に吹き飛んでしまいました。



 佐藤隆太は、まだ陰と陽との段差があって陰の部分が作りものに見えてしまう感じもするものの、なにしろその芸達者ぶりには脱帽です。
 冒頭で、本職の綾部祐二(「ピース」のツッコミ)とかけあい漫才をやるシーンが映し出されるところ、その軽妙でスピーディーな喋り方といい、実に鋭い動きといい、よくもこれだけのことが短期間のうちにマスターできるものだと、感心してしまいました。

 また、上地雄輔も、『ドロップ』の時から演技力があるタレントだなと思うようになりましたが、本作では乱闘シーン(大部分は彼一人で立ち向かいます)も実にスムースにこなしていて、演技の幅の広さを見せつけてくれました。

 さらに、こうした俳優を、監督の品川ヒロシが、前作にもまして巧みに使いこなして、実に面白い作品に仕上げています。
 前作については、それに関する記事にも書きましたが、「監督第1作目の作品であれば、もっと冒険すべきではないのか」などと思ったりしたところ、本作では、佐藤隆太が扮する黒沢飛夫の心の声をモノクロ画面で表現するという試みを、実に巧妙にやってのけています。
 さらには、様々の場面が、漫才的なコンビで溢れるように構成されていて、見ている方は皆が皆漫才師なのかしらと思ってしまうほどです。宮川大輔と長原成樹とが闇金の取立てに佐藤隆太のアパートにやってくる場面があるところ、小窓とドアを使ったシーンは抱腹絶倒でした。
 もちろん、宮川大輔にせよ、長原成樹にしても、もとは漫才をやっていましたから、漫才的になってもおかしくはないものの、全体を漫才で溢れさせようとする監督の意図のもとに個々の場面が作られているものと思いました。




(2)というところから、この作品には、ペアの組み合わせが溢れています。というか、そうでないようにも見える組み合わせも、すべて漫才コンビではないかと思えてしまうのです。
 上に書いた闇金コンビの宮川大輔と長原成樹のみならず、たとえばベテラン刑事役の笹野高史と新人刑事役の金成公信(ギンナナ)の刑事コンビ、あるいはガンダムオタクの秋山竜次(ロバート)とデブタクの西代洋(ミサイルマン)とのデブコンビなど。

 そうだとすれば、3人組は、この映画の安定さを揺さぶる存在と言えるかもしれません。たとえば、不良グループの「スカルキッズ」のリーダーの金子ノブアキが出所してくると、一時的なリーダーの新井浩文と大悟(千鳥)との3人の関係はうまくいかず、結局は新井浩文は排除されてしまうでしょう(尤も、新井浩文は、秋山竜次の捨て身の攻撃によって手ひどい打撃をこうむってしまうのですが)。
 もっと言えば、佐藤隆太と石原さとみの間には、もうすぐしたら子供が生まれることになっており、3人家族の家庭ができたとしたら、これまでのように上地雄輔とか綾部祐二と付き合いができるかどうか問題なしとしないではないか、とも思われるところです。



 それはともかく、3人組よりももっとはっきりペアと対立しているいるのが、1対大勢の場合です。
 すなわち、佐藤隆太は、上地雄輔に対して、新井浩文らのグループと喧嘩したら漫才はできなくなるぞ、と釘を刺します。
 にもかかわらず、デブタクの西代洋が「スカルキッズ」に捉えられると、彼を救うために一人で相手グループに乗り込みます。その際、全国放送の漫才コンテストが間近に控えているにもかかわらず彼は、佐藤隆太とのコンビを解消し、綾部祐二を説得してもう一度佐藤隆太と組むように仕向けます。
 結局、この乱闘騒ぎはなんとかうまくおさまったものの、佐藤隆太と上地雄輔のコンビは二度と復活することはありませんでした。

(3)映画評論家は、総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「「ドロップ」で監督デビューした品川ヒロシの才能はどうやら本物のようだ。今回は自分が最もよく知る世界“漫才”を描いていることが作品の質を上げている」、「平板なサクセス・ストーリーにはせず、意外な形で収束するラストまで、なかなかのセンスである。まっすぐなキャラが似合う佐藤隆太が言うベタなセリフ「夢さえあれば、人は変われる」が、照れるほど胸に残った。何かに本気で取り組む素晴らしさを再発見したような気がする」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「まるで早口のコントを見ているがごとき軽快なテンポで繰り広げられる若手芸人の物語には、お笑いの楽屋裏とほろ苦い青春が凝縮され、映画自体が壮大な漫才の様相を呈してい」て、「映像から迸るエネルギーは2時間20分近い上映時間の長さを感じさせなかった」として60点をつけています。



★★★★☆



象のロケット:漫才ギャング

ザ・ファイター

2011年04月09日 | 洋画(11年)
 『ザ・ファイター』を渋谷シネパレスで見てきました。

(1)本作品のようなボクシング物は、これまで随分とたくさん制作されています。つい最近では、見てはおりませんが『あしたのジョー』がありますし、古くはシルヴェスター・スタローンの『ロッキー』(1977年)とか赤井英和の『どついたるねん』(1989年)などがあるでしょう。
 本作品は、そうした中に置くと、主人公ミッキーマーク・ウォールバーグ)のボクシングに関し、次のような点が面白いと思いました。

イ)ボクシング物におけるトレーニング風景のお定まりは、ランニングでしょう。シャドウボクシングをしながらとか、インターバルをしながらとか、方法は様々ながら、必ずと言っていいほどランニングが行われます(注1)。
 ですが、本作品においては、吊るされたパンチングボールとかトレーナーが構えるパンチングミットを相手にしてパンチを繰り出すこととか、スパーリングとかが専ら描き出されていて、長時間のランニング光景は見かけません。



ロ)試合本番では、日本のプロレスでよく見たように(このところはプロレス自体を全然見てませんので、どのような試合展開なのか知りませんが)、随分と長時間一方的にやられっぱなしで、このままでは負けてしまうというギリギリのところで強いパンチをヒットさせて、相手をマットに沈めてしまうのです(こうした試合展開が受けるのは日本だけだと思っていましたが、外国でも似たようなものなのでしょうか?)。

 ミッキーをここまで育て上げるのに大きく与ったのが兄のディッキークリスチャン・ベール)です。
 自身も実力のあるボクサーでしたが、アルコールと麻薬に溺れているところから、すっかり身を持ち崩しています。



 特に、麻薬の入手先がカンボジア難民というように描かれているのも興味深いところです(デッキーは、その家族が暮らす家に入り込み、そこの若い女性と親しくなったりします)。
 イーストウッド監督の『グラン・トリノ』でも、「ラオス高地に住むモン族」が描かれていましたが、今やアメリカ人は、中南米人のみならず、アジアの様々の民族と隣り合わせで暮らしているように見えます。
 それはともかく、ディッキーのボクシングに関する知識・経験・勘は抜きんでており、さらにはそれにかける情熱も大変なものなので、離反したりしたミッキーも最後は彼を頼るようになります。

 また、ミッキーのマネージャー役を務めているのが母親のアリスメリッサ・レオ)です。



 むろん、ミッキーのことは十分に気にかけてはいて、また頭脳の回転が素早いのでマネージャー役としてはうってつけながら、他方で、家の暮らし向きのことも配慮せねばならず、その結果酷い相手をミッキーに宛がったりしてしまいます。
 そうしたところから、ミッキーの恋人であるシャーリーンエイミー・アダムス)は、兄を含めて、家族をミッキーから引き離そうとします。



 それに、あろうことかミッキーには兄の他に7人もの異父姉妹がいて、皆現在の両親と一緒に暮らしているようなのです。
 これでは騒動が持ち上がらないのが不思議と言えるでしょう。
 あれやこれやの騒ぎがあったのちに、ついにミッキーは世界タイトルマッチに挑戦することになります。果たしてその結果は、……。

 主人公のミッキーを演じたマーク・ウォールバーグも素晴らしいのですが、やはりこの映画は、アカデミー賞助演男優賞のクリスチャン・ベールと助演女優賞のメリッサ・レオの瞠目すべき演技によって、随分と見ごたえのある作品に仕上がっていると思いました。
 それに、シャーリーンを演じたエイミー・アダムスは、このところ、『ダウト』、『サンシャイン・クリーニング』、それに『ジュリー&ジュリア』といったところで見かけていますが、持ち前の頑張り屋の感じがこの映画でもよく活かされているなと思いました。


(注1)ランニング重視は日本だけのものではないのかもしれませんが、邦画では若者を鍛えるという場面になると、必ずランニングシーンが飛び出します。驚いたのは、『書道ガールズ』とか『書の道』といった運動部ではない部活動を扱っている作品でも、まず最初に行われるのがランニングなのです!


(2) 本作品は、兄弟の関係を専ら取り上げているところから、『マイ・ブラザー』が思い出されます。
 ただ、『マイ・ブラザー』では、本作品とは逆に、兄サムの方が家(特に父親)の期待を一心に受けて、真っ直ぐに育っているものの、弟トミーの方が、強盗の罪で服役し最近出所したばかり、という設定になっています。
 しかしながら、サムは、アフガニスタンでの戦争で筆舌に尽くしがたい経験をして、帰国後の生活は酷く荒んだものとなってしまいます。こうなると、今度は、トミーの方がまともになってしまい、逆に兄夫婦の子どもの面倒を見たりするようになります。

 こうした兄弟の間に入って重要な役割を演じるのが、どちらの作品でも若い女性です。
 本作品においては、ミッキーの恋人のシャーリーンですが、『マイ・ブラザー』にあっては、兄嫁のグレース(アカデミー賞主演女優賞のナタリー・ポートマン)です。
 ただ、シャーリーンは、ミッキーのことを思って、強い態度で彼を家族から引き離そうとしますが(とはいえ、結局は受け入れてしまいます)、グレースの場合は、次第に心が弟のトミーに傾くものの、結局は夫のサムの立ち直りを一緒になって手助けしようとします。

 なお、親の描き方も両作品では微妙に異なるようです。本作品では、母親アリスの存在感が非常に大きく(それに反比例して、父親は影の薄い存在)(注2)、ミッキのマネージャー役として彼の一切を取り仕切ろうとします。他方、『マイ・ブラザー』にあっては、父親の存在が重くのしかかってきて、非行に走る弟トミーは、どんなことをしても自分は父親に嫌わると思い込んでしまっているのです。

 アメリカの家族の一端が、こんなところに垣間見れるのかも知れません。

(注2)男性とその母親的存在との関係については、『ノーウェアボーイ』が思い浮かぶでしょう。この作品の場合、実の父親は最後まで登場せず、父親的存在であった叔父も冒頭で死んでしまいますから、映画では、主人公のジョンと、母親的存在である叔母、それに実の母親との関係が専ら描き出されることになります。
 モット母親の存在が大きく取り扱われているのは、韓国映画『母なる証明』でしょう。これを基点に、母親像に見られる欧米と東洋との違いにまで話を持って行くことは出来そうですが、あまり大風呂敷を広げても意味はありませんから、ここまでと致しましょう。


(3)映画評論家は総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「ボクシング映画にハズレなしというが、本作でもまたそのことが証明された。ボクシングというストイックなスポーツの魅力と、労働者階級出身のボクサーが抱える問題だらけの人生が見事にシンクロし、深い感動を呼ぶ」、「体重を13kgも落とし髪を抜き歯並びまで変えて怪演するクリスチャン・ベイルと、子供を愛しすぎるがゆえに束縛してしまう母を演じたメリッサ・レオが見事にオスカーを受賞したが、恋人シャーリーンを演じるエイミー・アダムスやミッキー役のマーク・ウォルバーグも文句なしに素晴らしい。ボクシング映画というと主人公一人が際立つのが普通だが、本作は俳優たちの名演技のアンサンブルによって、忘れがたい作品になっている」として75点をつけています。
 また、福本次郎氏は、「そばに置くにはあまりにも厄介な存在、ボクシングを続ける上では不可欠な参謀。己の夢と兄弟愛に板挟みになるミッキーもまた結論を出せない。このあたりの、人間のふがいなさをとことんまでさらけ出そうとする演出が胸にしみる」し、「人生をあきらめた低所得者が暮らす街の空気がこの一家に濃厚に凝縮されていた。それでも彼らはミッキーという希望にすがろうとする。その負け犬たちが放つ強烈な体臭を、躍動感あふれる映像が見事に再現していた」として70点をつけています。





★★★★☆





象のロケット:ザ・ファイター