映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

愛を読むひと

2009年06月28日 | 洋画(09年)
 「愛を読むひと」を吉祥寺のバウスシアターで見ました。

 さすがアカデミー賞受賞作でなかなか素晴らしく、なかでも、ハンナを演ずるケイト・ウィンスレットの演技は特筆すべきものがあります。特に、セリフではなく顔の表情とか体でその時々の心理状況を表している演技は迫真的でした。

 ところが、前田有一氏は、「全体の出来はいまいちしゃんとしない。いや、正確に言えば欧米で高く評価された理由はわからぬでもないのだが、それでも日本人には共感しにくい部分が強いのではないか」と述べた上、評点は40点で「今週のダメダメ」としていますが、この評価には、氏の政治的判断が強く働いているのでは、と思われるところです。

 とはいえ、文字が読み書きできないことを恥じて、車掌からオフィス勤務に昇格するのを嫌って行方をくらましたり、果ては、裁判でそのことが明るみに出るのを恐れて、問題の書類を書いたことまで認めてしまい、結果として無期懲役の判決を受ける羽目になってしまうのは、どうも共感出来ません。
 ただ、後者の点に関しては、ナチによる犯罪遂行の一端を担った責任を強く感じるあまり、細かなことまで申し立てない覚悟を決めたという側面もあるのかもしれません(教会の椅子に座って涙を流したり、刑務所ではいろいろホロコーストのことを調べたりしていますから)。

 加えて、私に違和感があったのは、すべてドイツでの話ながら、何もかもが英語になってしまっているという点です。特に、ドイツ人という設定のハンナが、獄中で覚えていく最初の文字が「the」なのですから驚いてしまいました。言ってみれば、これは「普遍語」としての「英語」の横暴ではないでしょうか(水村美苗!)?
 なお、この点に関し、粉川哲夫氏は、「これならば、いっそ、場所を英語圏に移してしまった方が自然な感じになったのではないか?」と述べていますが、それならハンナのような履歴を持った女性を登場させることは出来ず、物語自体が成立しないのでは、と思われます(ハンナを米国の刑務所の刑務官としても、彼女を裁判で裁く話には繋げないでしょうから)。

 また、映画では、ハンナが裁かれる時期が戦後20年以上も経った1966年とされていて、ドイツでは執念深く戦争犯罪者を追求しているのだな、と思いながらも、念のためと思ってネットを調べたところ、なんとWiki(「ドイツの歴史認識」)には次のように記載されています。

 「日本ではしばしば「ドイツではナチス犯罪に時効はない」と言われるが、これは誤りである。そもそもドイツでは「ナチス犯罪」が法律の上で定義されているわけではないため「ナチス犯罪の時効をなくす」のは最初から不可能である。ユダヤ人迫害などに関わるものは「個人的動機がない」として、1964年に遡って時効が成立している」云々。

 仮にこの記述が正しいとすると、映画における裁判は1966年に行われて主人公は無期懲役の判決を受けたことになっていますが、それはありえないということになります(尤も、時効が成立した1964年とは2年ほどの違いですから、そう目くじらを立てるほどのことはないのでしょう。ただ、1958年に15歳だったマイケルが法学部の授業で裁判を傍聴するとしたら、1966年辺りが妥当なのかもしれませんが←日本の大学の観点からすると)。

 なお、本年2月のニューヨークタイムズの記事について、「実際に記者の人が傍聴したドイツでの裁判の記事だが、被告は90歳のドイツ人。イタリアで民間人を14人殺した罪に問われており、証人はイタリアからビデオ電話で通訳付きで参加、というもの。ナチスという特異なものがあったとはいえ、戦争が終わって60年以上も戦争犯罪を裁判し続けるとは・・・・ドイツ人ってすごい」と述べているブログがありました。
 これは一般的な反応でしょうが、上記のWikiなどによれば、「一部に「ナチス犯罪に時効はない」などと言われることがあるが、実際には謀殺罪の時効が無いだけで〔1960年に故殺罪などの時効が成立していたため、罪に問えるのは謀殺罪(計画的殺人)か謀殺幇助罪だけ〕、法律上ナチスとは関係な」いとのことで、そうであればこれも一般の殺人事件の裁判ということであり、いわゆる「戦争犯罪」の裁判と見てはオカシナことになってしまいます。

グラン・トリノ

2009年06月24日 | 洋画(09年)
 渋谷東急にて「グラン・トリノ」を見てきました。

 前作の「チェンジリング」が素晴らしかったクリント・イーストウッドの監督・主演の映画なので、見逃すわけにはいかないと出かけてきました。

 イーストウッド演ずる老人・ウォルトと、隣家に住む一家とのぎくしゃくした交流がメインとなっています。
 その隣家の住民が、ベトナム戦争で国を追われた少数民族(ラオス高地に住むモン族)だというところが、この映画の特異な点でしょう。マイノリティーを描くであれば、以前なら黒人を持ってきたのでしょうが、最近では、「ミルク」のように同性愛者が取り上げられたりしており、そうした流れもあって、こうした特殊な民族に焦点が当られるようになったのではないかと思われます。

 ラストシーンに至る過程には若干違和感があるものの、全体として非常に優れた出来映えではないかと思いました。イーストウッド監督が、前作の「チェンジリング」に引き続いてレベルの高い作品を生み出してしまうのには驚くばかりです(硫黄島2部作も素晴らしい作品でした)。

 こうした映画に対しては、評論家諸氏の評価もかなり高くなるようです。
ただ、単なる印象ですが、評論の方向が、映画そのものよりも、その監督のイーストウッドの方に向けられているようで、それも皆同じような論点を問題にしている感じを受けます。

 例えば、前田有一氏は、「年寄りが若者のためにすべき事を、本作は体を張って伝えている。それをほかの誰でもない、クリント・イーストウッドが語ってくれたことが、何よりも頼もしい」と述べています。
 また、福本次郎氏は、「ウォルトが最期に見せた勇気と智慧はグラン・トリノとともに確実にタオに受け継がれたはずだ。それは、米国は多民族国家である以上、「正統派の米国人」の後継者は必ずしも白人でなくてもよいというイーストウッドのメッセージだ」と述べます。
 蓮見重彦氏も、劇場用パンフレットにおいて、主人公の「ウォルトが純真なアジア系少年に見出したのは、かってのアメリカが持っていた「希望」なのだろう。希望の松明を手渡した相手、それは血がつながらずとも、ウォルトの心を継承する「息子」と見なした少年だった。消えゆく老兵の心意気―78歳のイーストウッドの心情が重なり合って見えてくる」と述べています。
 さらに、粉川哲夫氏も、「社会や国家の変化を見すえ、愚かな道に踏み込んでしまったブッシュの時代の先を読みながら、同時にイーストウッド自身の映画的記憶を再構築する」と、大体同じような視点から述べています。

 要すれば、79歳の監督イーストウッドが、遺言的に後生に伝えたいメッセージがこの映画から伺えるというわけでしょうか。ただ、このように言うためには、イーストウッドの制作したこれまでの映画を予め丹念に勉強するだけでなく、その生き方や考え方に通じている必要があり、そうではなく単にこの映画だけを見た人にとっては、こうした評論は余り意味がないものになってしまうのでは、と思われるところです。

鈍獣

2009年06月21日 | 邦画(09年)
 渋谷のシネクレストで「鈍獣」を見てきました。

 予告編を見た段階では積極的に見る気は起きなかったものの、「蚊取り線香は蚊を取らないよ!」の“つぶあんこ”氏の評価は星4つで、かつまたご贔屓の浅野忠信が出演していることもあって、やっぱり見てみようと出かけてきました。

 この映画で特に面白いなと思った点は三つあります。
 一つ目は、冒頭近くのシーンで、凸川が小説を書いている場所が、なんと三鷹天命反転住宅なのです!この1点だけで他はどうあろうとも本作品は◎となりました(何しろこの住宅の中は本年2月に最近探索済みで、映画の舞台探しマニア〔!?〕としては内心“ヤッタ!”と叫ばずにはいられませんでした!)。

 二つ目は、浅野忠信が演じる凸川がホストクラブにやってきて「もうお終い?(閉店?)」とエレベーターの中から尋ねるシーンが何度かありますが、予告編で見たときは、このセリフは「もう(俺を殺すのは)お終い?」と言っているとばかり思っていました。おそらく両用に受け取れるように脚本が書かれているのでしょう(とはいえ、浅野忠信は、この映画の場合あまり印象がよくありませんでした〔何かこの役にそぐわないような感じです〕)。

 三つ目は、ユースケ・サンタマリアが「川田っち」と言いながら川田に始終くっついている様は、TV深夜番組の「音楽寅さん」で「桑田っち」と言いながら桑田佳祐に纏わり付いている姿と二重写しになりました。ユースケ・サンタマリアにとり、この役は地で行けて凄くノリが良いように思えました。

 なお、脚本の官藤官九郎が、映画公式サイトにおいて、「この作品を書くにあたって意識したのは「分からない」ことの怖さです。その象徴が凸川という男」云々と述べています。 原作者の見解は勿論尊重すべきでしょうが、そんなふうに言われると、余計に訳が分からなくなってしまいます。
 私の場合、この映画を見ている最中は、「凸川という男」が、そんな“「分からない」ことの怖さ”を象徴しているなどとは思えず、単に“過去の記憶”といったものを表していて、それはどんなにしても消せないのだ、といったようなメッセージがあるのでは、との理解で済ませていました(その程度の浅い理解の仕方でも、マアマア辻褄が合い、この映画を楽しめましたから)。

 また、この映画は戯曲の映画化とのことですが、このような変化に富んだストーリーをどうやって舞台で演じたのか至極興味のあるところです。

オペラ「チェネレントラ」

2009年06月17日 | 音楽
 初台にある新国立劇場でオペラ「チェネレントラ」を見てきました。

 劇場では、席は一階の後方ながら、丁度中央に位置していたために、全体の進行をバランスよく見通すことが出来ました。

 このオペラは、「セヴィリヤの理髪師」とか「ウイリアム・テル」で有名なロッシーニが作曲しています。ですが、彼にこんな作品があることはこれまで聞いたことがありません。
 そこで調べてみたところ、誰でも知っているアノ「シンデレラ物語」に基づいて台本が作られているとのこと(ただし、ガラスの靴とかカボチャの馬車などは出てきませんが)。
 それならオペラのストーリーよりも音楽だということで、ザッとあらすじをチェックした後は、買ってきたCDを出来るだけ何度も聞いて、予めこのオペラの曲の方だけでもなんとか馴染むようにしました。

 ただ実際の所は、舞台の両端に設けられた縦に細長い大きなディスプレイに歌詞の翻訳が映し出されるので、一方で音楽を聴きつつ、他方でストーリーを追いかけることも出来、3時間以上の長さながら至極容易にこのオペラを楽しめた次第です。

 出演者は、男性の歌手が4人と女性歌手が3人、それに男声合唱といったところ。このうち、男性歌手3人と女性歌手1人を外国から招聘し、その他は日本人歌手です(オーケストラも日本のものですが、指揮者は外国人でした)。

 こうした組み合わせによって、おそらくは、現地で公演されるオペラと比べても遜色ないものが、現地よりもズット立派で良い響きの劇場で上演されたのではないかと思われ、東京で暮らしているありがたさを実感しました。

インスタント沼

2009年06月14日 | 邦画(09年)
 渋谷のHUMAXシネマで「インスタント沼」を見てきました。

 この作品は、監督の三木聡がお気に入りなので、是非見たいと思っていました(前作の「転々」は、映画の舞台探しファンとしてはこの上ない贈り物でしたし、その前の「図鑑に載っていない虫」等も大層面白い映画でした)。
 この映画でも、舞台設定がどこかという点が最後まで気にかかりましたが、こちらの知識不足で、どのシーンについてもそれがどこで撮影されたのか全然わかりません。そこで、そんな追求は途中で諦めて、いつもの三木映画の面白さを味わう方に方針転換にしました。

 今回の映画では、麻生久美子が全開で、実に愉快なキャラクターをうまく演じている一方で、「重力ピエロ」で至極真面目なキャラクターを演じていた加瀬亮がコテコテのパンクロッカーを演じ(尤も格好だけのことで演奏などしませんが)、また松坂慶子の出演もあったりして(松坂慶子と言えば“銀ちゃん”こと風間杜夫でしょうが、なんとその彼も出演しているので驚きです)、ラストになって教訓じみたシーンが設けられてはいるものの目くじらを立てるほどのこともありませんし、総じて至極面白い映画だなと思った次第です。

消されたヘッドライン

2009年06月10日 | 洋画(09年)
 吉祥寺で「消されたヘッドライン」を見てきました。

  この映画については、事前の情報が何もなく、単に時間の都合がつくからという理由だけで見てみたところ、予期に反して大層面白い映画でした。

軍需産業と政界との癒着をマスコミが暴くというよくあるストーリーながら、筋立てが実に緊密に作られていて、次から次へと変化していくシーンをあれよあれよと息つく暇なく追いかけさせられ、とうとう2時間強の長尺映画を一気に見てしまいました。

 主演は、「ワールド・オブ・ライズ」のラッセル・クロウで、その作品と同様依然としてメタボリックな体つきですが、ベテランの敏腕記者という役柄を実に巧みに演じているなと思いました。

 なお、この映画は、面白いにもかかわらず余り観客が多くはないように見えます。その原因の一つは、どうも邦題にあるのではないかと思っています。「消されたヘッドライン」では冗長すぎて、余り見る気が起きないのではないでしょうか?
といって、原題の「state of play(状況、現状)」では余りに抽象的です。BBCが放映したドラマを日本でNHKが昨年秋に放映したときに付けたタイトル「ステート・オブ・プレイ~陰謀の構図~」とか「陰謀の構図」あたりがいいのかもしれません(尤も、NHKが使ったものをそのまま使うわけにも行かないのでしょう!)。

重力ピエロ

2009年06月07日 | 邦画(09年)
 新宿武蔵野館で「重力ピエロ」を見てきました。

 映画を見ている内に、ああこの舞台は仙台だなとわかり〔原作者の小説『ゴールデンスランバー』を以前読んだこともあり〕、安心して映画の中に入っていくことが出来ました(映画を見ると、舞台はどこかという点が直ぐに気になってしまうのです!)
 こうした点に加え、久しぶりに鈴木京香を見ることが出来、また若い岡田将生のフレッシュな演技にこれからの成長を期待出来そうなこともあって、実に良い映画を見たなと思いました。

  ただ、渡部篤郎が演じる人物がかなり酷いヤツだとしても、人を殺したわけではありませんから、まず兄の加瀬亮が彼を密かに殺してしまおうとして準備に取りかかったり、次いで弟の岡田将生が実際にバットで殴り殺してしまったりするのは、かなり短絡的な行動ではないかと私には思えました。

 まして、弟が自首しようとするのを、「警察や検察にあれこれ云われる筋合いはない」として兄が止めてしまうシーンには、随分と違和感を感じました(憎いヤツに私的制裁を加えることは、相手にどんなに非があろうとも現代社会では許されないのでは〔ブッシュの始めたイラク戦争に通ずるところがあるように思えてしまいます〕?←勿論、こんなモラルを個々の映画に振り回しても意味がないのかもしれません。むしろ、自分たちで殺さなくてはと兄弟が思い詰めずにはおられないほどの極悪非道さが描き出されているかどうか、この私的制裁を観客が納得出来るような仕上がりになっているのかどうか、という点を問題にすべきなのでしょう)。

帯状疱疹

2009年06月04日 | その他
 「帯状疱疹」に罹って、実に10日間ほど病院暮らしをしました。

 まだ水ぶくれが退いてはおらず痛みもありますが、徐々に快方に向かっているので、後は通院でもかまわないとの医者の診断です。

 ところで、罹患した「帯状疱疹」とは随分と聞き慣れない言葉で、いきなり医者から“タイジョウホウシン”と言われ、目を白黒させるだけでした。
 要するにヘルペスの一種で、神経に長年潜んでいた水疱瘡のウイルスが、主に加齢による免疫力の低下に伴い活性化し、皮膚の表面に水ぶくれが出来るという病気のようです。

 通常は、この病気に罹っても、そんなに酷くなる前に気がついて、それほどの時間をかけずとも治ってしまうとのこと。
 ですが私の場合、当初、右大腿部の深部に痛みがあり(皮膚の表面には何の症状も出ていませんでした)、これは骨に問題があるのではと思い、まず整形外科にかかったことで、症状がかなり悪化してしまいました。
 勿論、その整形外科医が、直ちに帯状疱疹だと診断してくれれば、何の問題もなかったのです。ところが、何枚も撮影したレントゲン写真に何ら異状が見られなかったことから、“痛みの原因がわからないので、痛み止めの薬を飲んで2週間ほど様子を見ましょう”、との診断。
 確かに、その薬で痛みは退きました。ですが、そのうちに、右大腿部に紫色の斑点が出現してきたのです。

 こちらは帯状疱疹のことなどマッタク知りませんでしたから、浅はかにも痛み止めの薬の副作用かもしれないと考え、今度はその薬も止めました。しかし、勿論一向に痛みが治まらないどころか、今度は水ぶくれが出るようになってしまいました。これは大変と、もう一度その整形外科に出向いたところ(副作用のことで文句を言おうかと!←よく考えれば、右大腿部だけに副作用が出るなどあり得ないのですが!)、思いがけず皮膚科の病気だと言われ、直ちにそちらに回されたという次第です(診察を受けた曜日がズレたので、最初に診察した医者とは別人でしたが!)。

 結局、痛みが出てから正確な診断が下されるまで1週間近く経過したことになり、そのせいで病状が悪化してしまい、病院に入っている期間も長引いたというわけです。
 ただ、入院中の治療といっても、抗ウイルス剤の入った点滴液を一日三回注入するのが中心で、専ら安静にしているのが肝要なことから、“早目の夏休み”といった感じでもありました。

 なお、「帯状疱疹」に関するWikipediaの記事には、「数十年前に日本で研究開発された」ワクチンが、「米国のみならずEUなど30カ国以上で「帯状疱疹の予防目的」で広く使われてるが、開発された日本ではまだ「帯状疱疹の予防目的」での保険適用がない」云々と述べられていて、まさに、「難病等の予防ワクチンについて、厚労省の政策によって、全くのワクチン後進国となっている」状況となっているようです。