「愛を読むひと」を吉祥寺のバウスシアターで見ました。
さすがアカデミー賞受賞作でなかなか素晴らしく、なかでも、ハンナを演ずるケイト・ウィンスレットの演技は特筆すべきものがあります。特に、セリフではなく顔の表情とか体でその時々の心理状況を表している演技は迫真的でした。
ところが、前田有一氏は、「全体の出来はいまいちしゃんとしない。いや、正確に言えば欧米で高く評価された理由はわからぬでもないのだが、それでも日本人には共感しにくい部分が強いのではないか」と述べた上、評点は40点で「今週のダメダメ」としていますが、この評価には、氏の政治的判断が強く働いているのでは、と思われるところです。
とはいえ、文字が読み書きできないことを恥じて、車掌からオフィス勤務に昇格するのを嫌って行方をくらましたり、果ては、裁判でそのことが明るみに出るのを恐れて、問題の書類を書いたことまで認めてしまい、結果として無期懲役の判決を受ける羽目になってしまうのは、どうも共感出来ません。
ただ、後者の点に関しては、ナチによる犯罪遂行の一端を担った責任を強く感じるあまり、細かなことまで申し立てない覚悟を決めたという側面もあるのかもしれません(教会の椅子に座って涙を流したり、刑務所ではいろいろホロコーストのことを調べたりしていますから)。
加えて、私に違和感があったのは、すべてドイツでの話ながら、何もかもが英語になってしまっているという点です。特に、ドイツ人という設定のハンナが、獄中で覚えていく最初の文字が「the」なのですから驚いてしまいました。言ってみれば、これは「普遍語」としての「英語」の横暴ではないでしょうか(水村美苗!)?
なお、この点に関し、粉川哲夫氏は、「これならば、いっそ、場所を英語圏に移してしまった方が自然な感じになったのではないか?」と述べていますが、それならハンナのような履歴を持った女性を登場させることは出来ず、物語自体が成立しないのでは、と思われます(ハンナを米国の刑務所の刑務官としても、彼女を裁判で裁く話には繋げないでしょうから)。
また、映画では、ハンナが裁かれる時期が戦後20年以上も経った1966年とされていて、ドイツでは執念深く戦争犯罪者を追求しているのだな、と思いながらも、念のためと思ってネットを調べたところ、なんとWiki(「ドイツの歴史認識」)には次のように記載されています。
「日本ではしばしば「ドイツではナチス犯罪に時効はない」と言われるが、これは誤りである。そもそもドイツでは「ナチス犯罪」が法律の上で定義されているわけではないため「ナチス犯罪の時効をなくす」のは最初から不可能である。ユダヤ人迫害などに関わるものは「個人的動機がない」として、1964年に遡って時効が成立している」云々。
仮にこの記述が正しいとすると、映画における裁判は1966年に行われて主人公は無期懲役の判決を受けたことになっていますが、それはありえないということになります(尤も、時効が成立した1964年とは2年ほどの違いですから、そう目くじらを立てるほどのことはないのでしょう。ただ、1958年に15歳だったマイケルが法学部の授業で裁判を傍聴するとしたら、1966年辺りが妥当なのかもしれませんが←日本の大学の観点からすると)。
なお、本年2月のニューヨークタイムズの記事について、「実際に記者の人が傍聴したドイツでの裁判の記事だが、被告は90歳のドイツ人。イタリアで民間人を14人殺した罪に問われており、証人はイタリアからビデオ電話で通訳付きで参加、というもの。ナチスという特異なものがあったとはいえ、戦争が終わって60年以上も戦争犯罪を裁判し続けるとは・・・・ドイツ人ってすごい」と述べているブログがありました。
これは一般的な反応でしょうが、上記のWikiなどによれば、「一部に「ナチス犯罪に時効はない」などと言われることがあるが、実際には謀殺罪の時効が無いだけで〔1960年に故殺罪などの時効が成立していたため、罪に問えるのは謀殺罪(計画的殺人)か謀殺幇助罪だけ〕、法律上ナチスとは関係な」いとのことで、そうであればこれも一般の殺人事件の裁判ということであり、いわゆる「戦争犯罪」の裁判と見てはオカシナことになってしまいます。
さすがアカデミー賞受賞作でなかなか素晴らしく、なかでも、ハンナを演ずるケイト・ウィンスレットの演技は特筆すべきものがあります。特に、セリフではなく顔の表情とか体でその時々の心理状況を表している演技は迫真的でした。
ところが、前田有一氏は、「全体の出来はいまいちしゃんとしない。いや、正確に言えば欧米で高く評価された理由はわからぬでもないのだが、それでも日本人には共感しにくい部分が強いのではないか」と述べた上、評点は40点で「今週のダメダメ」としていますが、この評価には、氏の政治的判断が強く働いているのでは、と思われるところです。
とはいえ、文字が読み書きできないことを恥じて、車掌からオフィス勤務に昇格するのを嫌って行方をくらましたり、果ては、裁判でそのことが明るみに出るのを恐れて、問題の書類を書いたことまで認めてしまい、結果として無期懲役の判決を受ける羽目になってしまうのは、どうも共感出来ません。
ただ、後者の点に関しては、ナチによる犯罪遂行の一端を担った責任を強く感じるあまり、細かなことまで申し立てない覚悟を決めたという側面もあるのかもしれません(教会の椅子に座って涙を流したり、刑務所ではいろいろホロコーストのことを調べたりしていますから)。
加えて、私に違和感があったのは、すべてドイツでの話ながら、何もかもが英語になってしまっているという点です。特に、ドイツ人という設定のハンナが、獄中で覚えていく最初の文字が「the」なのですから驚いてしまいました。言ってみれば、これは「普遍語」としての「英語」の横暴ではないでしょうか(水村美苗!)?
なお、この点に関し、粉川哲夫氏は、「これならば、いっそ、場所を英語圏に移してしまった方が自然な感じになったのではないか?」と述べていますが、それならハンナのような履歴を持った女性を登場させることは出来ず、物語自体が成立しないのでは、と思われます(ハンナを米国の刑務所の刑務官としても、彼女を裁判で裁く話には繋げないでしょうから)。
また、映画では、ハンナが裁かれる時期が戦後20年以上も経った1966年とされていて、ドイツでは執念深く戦争犯罪者を追求しているのだな、と思いながらも、念のためと思ってネットを調べたところ、なんとWiki(「ドイツの歴史認識」)には次のように記載されています。
「日本ではしばしば「ドイツではナチス犯罪に時効はない」と言われるが、これは誤りである。そもそもドイツでは「ナチス犯罪」が法律の上で定義されているわけではないため「ナチス犯罪の時効をなくす」のは最初から不可能である。ユダヤ人迫害などに関わるものは「個人的動機がない」として、1964年に遡って時効が成立している」云々。
仮にこの記述が正しいとすると、映画における裁判は1966年に行われて主人公は無期懲役の判決を受けたことになっていますが、それはありえないということになります(尤も、時効が成立した1964年とは2年ほどの違いですから、そう目くじらを立てるほどのことはないのでしょう。ただ、1958年に15歳だったマイケルが法学部の授業で裁判を傍聴するとしたら、1966年辺りが妥当なのかもしれませんが←日本の大学の観点からすると)。
なお、本年2月のニューヨークタイムズの記事について、「実際に記者の人が傍聴したドイツでの裁判の記事だが、被告は90歳のドイツ人。イタリアで民間人を14人殺した罪に問われており、証人はイタリアからビデオ電話で通訳付きで参加、というもの。ナチスという特異なものがあったとはいえ、戦争が終わって60年以上も戦争犯罪を裁判し続けるとは・・・・ドイツ人ってすごい」と述べているブログがありました。
これは一般的な反応でしょうが、上記のWikiなどによれば、「一部に「ナチス犯罪に時効はない」などと言われることがあるが、実際には謀殺罪の時効が無いだけで〔1960年に故殺罪などの時効が成立していたため、罪に問えるのは謀殺罪(計画的殺人)か謀殺幇助罪だけ〕、法律上ナチスとは関係な」いとのことで、そうであればこれも一般の殺人事件の裁判ということであり、いわゆる「戦争犯罪」の裁判と見てはオカシナことになってしまいます。