映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

グレース・オブ・モナコ

2014年10月28日 | 洋画(14年)
 『グレース・オブ・モナコ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)『ペーパーボーイ―真夏の引力』や『レイルウェイ 運命の旅路』で好演したニコール・キッドマンが出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の最初の方では映画の撮影風景が映し出され、クランクアップしたのでしょう、コートを着たグレース・ケリーニコール・キッドマン)に花束が渡され、皆が拍手をします。
 それから、当時のニュースフィルムで、彼女が客船でモナコに向かうところや、車で宮殿に入っていくところが映し出されます(注2)。

 次いで、1961年12月となり、ハリウッドのヒッチコック監督(ロジャー・アシュトン=グリフィス)が宮殿を案内されますが、侍女のマッジパーカー・ポージー)から「くれぐれもプリンセスと言わないように」と釘を差されます。
 丁度、グレースが少女たちに賞状を授与している最中ながら、彼女はヒッチコックを見かけると「ヒッチ」と大声をあげます。
 ヒッチコックは、グレースに映画『マーニー』の出演依頼に訪れたのですが、彼女の顔を見て「不幸に見える、やつれた顔だ」とつぶやき、さらに「今でも君はアーチストだということを忘れるな」と言います(注3)。

 他方で、レーニエ大公(ティム・ロス)は、大臣や顧問的存在のオナシスロバート・リンゼイ)らと議論をするグレースに対して、「ここはアメリカじゃないのだから、思ったことをスグに口にするな。黙っていてくれ」と叱りますが、彼女の方は、「子供に対し、自分の意見を言えと教えているのに」と不満を持ちます。

 そんな時に、モナコとフランスとの間に課税問題が持ち上がります(注4)。



 さあ、レーニエ大公はどう対応するでしょうか、この問題でグレースが果たした役割とは、………?

 無論、実在のグレース・ケリーの美貌とは比べようがないものの、主演のニコール・キッドマンの美しさも比類ないものがあり、その点では問題ないと思います。とはいえ、民間人が王室に入った時の大変さが映画で描かれても(注5)、日本人にとり随分とおなじみであり、余り新鮮さがありません。それに、映画の副題になっている「公妃の切り札」なるものも、持ち上げ過ぎの感があります(注6)。総じて、こうした作品になぜニコール・キッドマンが出演したのかと首を傾げたくなってしまいます。

(2)本作は、サスペンス的要素(注7)も盛り込まれていますが、全体としては、ハリウッドの大スターだったグレースのモナコでの暮らしぶりといった観点から描かれているように思われます。
 なにより、映画の最初に描かれるクランクアップの場面は、本作のラストでも映し出されます。
 さらには、グレースは、大公とは別のベッドに入り、そこでヒッチコックが置いていった『マーニー』の脚本を読みますし、鏡の前で脚本を読みながら演技の練習もしています(注8)。
 また、デリエール伯爵(デレク・ジャコビ)から宮殿の作法を学びますが、その際伯爵は「役を演じればいい」ことを強調します(注9)。



 こんなことから、本作は、“公妃”としてよりもむしろ“女優”としてのグレース・ケリーに焦点を当てているのでしょうが、そうであるならば、なにもド・ゴール大統領そっくりさんを映画に登場させることなど二の次にして、そのグレースを“女優”のニコール・キッドマンが更に演じているという観点に立った映画作りもありうるのでは、などといい加減なことを思ったりしました。

(3)渡まち子氏は、「公妃をつらい立場ではなく、演じがいのある大役と割り切ってからの生き生きとした表情が、魅力的だ。全編を彩る優雅な衣装にも注目したい」として60点を付けています。
 前田有一氏は、「伝記映画とは、その本人が出演した映画や作品より面白いものを作るくらいの覚悟がなければうまくいかない。グレース・ケリーのカリスマに頼っているだけではダメだ」として55点を付けています。



(注1)本作の監督は、『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』(2007年)のオリヴィエ・ダアン
 ちなみに、本作はれっきとしたハリウッド映画と思っていたらフランス映画なのですね(うかつなことに、この記事を見るまでは気が付きませんでした!)。
 なお、本作は、その冒頭で「実話によるフィクション」との字幕が流れ、様々のフィクションが紛れ込んでいると思いますから、グレース・ケリーの伝記映画というよりも、単なる娯楽作品と受け止めたほうがいいのではと思います。

(注2)1956年に彼女は、モナコ公国の大公レーニエ3世と結婚。

(注3)なお、ヒッチコックが「大公はどこ?」と尋ねると、グレースは、「公務が忙しくて、顔を合わせていない」と答えます。こんなところにも、結婚6年目のレーニエ大公とグレースの結婚生活ぶりが伺われます。

(注4)本作によれば、1962年に、アルジェリア戦争で肥大化する戦費を調達するために、フランスのド・ゴール大統領はモナコに対し企業課税するよう(その収入の一部をフランスに支払うよう)要請し、それが退けられるとモナコに対して経済封鎖を行いました。
 本作によれば、モナコはカジノによる収入しかなくその財政は大層逼迫していたようですから、フランスの要請は渡に船のように思われるところ、レーニエ大公は、何故か執拗に反対します(課税権について他国から介入されれば、モナコの独立性が脅かされると思ったのでしょうか)。

 現在、このサイトの記事に従えば、所得税について、モナコの住民は、一部のフランス国籍の人を除き、所得には税金がかかりませんし、通常の法人には税金はかかりません。
 ただし、隣のフランスとの軋轢の結果 、1963年に関税協定を結び、フランスと同様の付加価値税(消費税)、関税が課されます(なお、この記事からすると、フランスとモナコの紛争は付加価値税を巡ってのものなのかもしれません←このサイトの記事にも同様のことが記載されています)。

(注5)例えば、モナコの上流階級の女性たちは、舞踏会には興味を示すものの、グレースが関心を示す地味な活動には消極的です。グレースが、彼女たちを病院に案内して汚れている実情を見せても、簡単な改装に頷いてはくれません。レーニエ大公からも、伯爵夫人の機嫌を損ねないように、とストップがかかってしまいます(実際には、病院の改装は実現するのですが)。

(注6)国際赤十字の舞踏会でのグレースの演説はなかなかの内容とはいえ、それを耳にしたド・ゴール大統領が、自分のとった措置を翻すことなど常識的には考えられません(だいたい、舞踏会にド・ゴール大統領がわざわざ出席するのでしょうか?)。
 この舞踏会は、マリア・カラスパス・ベガ)が歌うシーンがあったりして、画面としては一番の盛り上がりが見られるシーンながら、ストーリーとしては随分ちゃちな手を用いてしまったなとクマネズミには思えました。

(注7)グレースの『マーニー』出演話は、レーニエ大公も「君が責任をもってやるなら」と承認して、彼女のハリウッド復帰が決まったものの、時期が悪いために発表は控えられました(発表文は金庫にしまわれます)。ところが、別件でグレースが記者に取り囲まれた時に、記者の方から映画出演のことを持ちだされ、宮殿内に、秘密情報を漏らして大公とグレースの仲を悪化させようと企むスパイが潜んでいるらしいことがわかります。一体誰なのでしょうか、………?

(注8)グレースは、ことさらに、「もう堪えられない、死んでやる」という台詞を大声で繰り返したりします。

(注9)グレースが頼りにしているタッカー神父(フランク・ランジェラ)も、「あなたは、人生最高の役を演じるためにモナコにやってきたはず」と言います。
 ただ、これらのこと(役を演じること)は、この拙エントリの「(3)ロ)」で、「平田氏は、ある講義の中で「大人は様々な役割を演じながら生きています」とか、「仮面の総体が人格なんです。私たちは演じる生き物なんです」と述べます」と申し上げたように、そしてこの拙エントリの「注8」で、「鈴木先生が、「演劇を真剣に学ぶことは有意義だと思う」、「俺は教師を演じている」「おのおのが役割を演じて成り立っている部分もある」などと教室で語ったりします」と書きましたように、ことさらめいた問題でもないように思われます。



★★★☆☆☆



象のロケット:グレース・オブ・モナコ

ふしぎな岬の物語

2014年10月23日 | 邦画(14年)
 『ふしぎな岬の物語』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)吉永小百合が出演した前作の『北のカナリア』はパスしたので、今回作ぐらいは見ようと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、岬に設けられているカフェから主人公の悦子吉永小百合)が出てきて、カフェの前で海を描いている画家の姿を見ます。
 ですが、彼女が近寄るとその画家は消えてしまい、丸い木のテーブルと長椅子しかありません。
 悦子はその椅子に座り、悦子の甥の浩司阿部寛)のナレーションがかぶります。
 「エッチャンは、毎日、不思議な時間を過ごすのです。まるで、夢遊病者のように。俺は、この人を守ってやる義務がある」。

 次いで、小さなボートに乗って悦子と浩司が、岬の先にある島へ。
 島の湧き水(注2)を汲んで入れた容器を持って運ぶ浩司に対して、悦子が、「そうっと、そうっとよ」、「ゆっくり、ゆっくりね」と声をかけます。

 タイトルクレジットの後、「岬カフェ」の小さな看板の奥にカフェの全景が映し出され、中では悦子が、壁にかかっている虹の絵(悦子の夫が描いた作品)を拭いたり、コーヒー豆を挽いたりして開店の準備に余念がありません。

 そんなカフェに、毎日様々な人がやってきます。
 常連は、不動産屋のタニさん笑福亭鶴瓶)、漁師の徳さん笹野高史)、医師の冨田米倉斉加年)、牧師の鳴海中原丈雄)、僧侶の雲海石橋蓮司)など。
 常連ばかりでなく、カフェには、中学教師の行吉先生(吉幾三)(注3)とか地元の民ではない男(井浦新)やドロボー(片岡亀蔵)などが出現します。

 ある日、漁師の徳さんの娘のみどり竹内結子)がひょっこり村に戻ってきます。
 さあ、一体どんな波乱をもたらすでしょうか、そしてカフェの行く末は、………?

 吉永小百合を含めて、全体として可もなし不可もなしといった感じの作品で、この程度の仕上がりにもかかわらず、どうしてモントリオール世界映画祭で2冠獲得したのか不思議な感じがしましたが、メインテーマ等をクラシックギタリストの村治佳織が弾いている点で(注4)、クマネズミにとり救われた感じになりました。

(2)実のところは、予告編の時から、前に見たことがある映画『しあわせのパン』(このエントリの「注1」で触れています)的な雰囲気があるのかもしれない、と恐れていました。
 実際に本作を見てみると、『しあわせのパン』におけるパン屋と同じように、こんなところにこんなカフェなど普通ありえないのではという場所に設けられているカフェ(注5)に、悩みを抱えた人たちが色々とやってくるのですから、シチュエーションは両作でかなり類似しているといえるでしょう。
 ただ、若干違うのは、同作では、パン屋を営む夫妻(原田知世大泉洋)の過去が十分に明かされず、また店を訪れる主な客も一見さんばかりなのに対して(注6)、本作では、悦子の過去がある程度明かされ、またカフェに来る客も地元の常連が多いのです(注7)。そのためでしょう、前作がオムニバス的なのに対して、本作は、全体としてストーリーが辿れるように作られています。
 だからといって、まとまりのある本作が優れていると感じたわけではなく、ただ、『しあわせのパン』が酷かったことを再認識させられたに過ぎませんが。

(3)吉永小百合については、これまで『まぼろしの邪馬台国』とか『おとうと』などを見てきたところ、本作も、『おとうと』に関するエントリで申し上げたことの繰り返しになりますが、「控え目で堅実な演技を見せていてマズマズでした〔鳥肌が立つような良妻賢母型のセリフだけは言わないでくれと願っていたところ、そんなシーンはありませんでした〕」。
 というのも、彼女が扮する悦子は、カフェの店主として、そこを訪れるお客の話の聞き役であり、彼らの行動をそっと見守っていることが多く、自ずと控え目になるからでしょう。



 ただ、カフェが火災によって焼失してしまった後、悦子は浩司に向かって、「私を支えていると思っているでしょうが、それは違うよ。シュウイチさん(夫)がずっといてくれたの。毎朝、おはようと言ってくれるの。……」と言いながら、自分や浩司の過去のことを話し、「みんないなくなって寂しい」と独白する場面がありますが、この場面の彼女の演技はなかなか優れているなと思いました(注8)。

 さらに、本作の中では、金子みすゞの詩を彼女が2編朗読しますが、特に、ラストシーンでの「海の果て」(注9)が良かったように思います。

(4)渡まち子氏は、「カフェの女主人とそこに集う人々の人間模様を描く「ふしぎな岬の物語」。吉永小百合を中心軸に、キャストのアンサンブルが絶妙」として65点を付けています。
 前田有一氏は、「吉永小百合自身が製作に名を連ね、初めて企画者としてかかわって作られた「ふしぎな岬の物語」は、なるほど彼女以外には誰も演じられない映画であった」としながらも35点しか付けていません。
 相木悟氏は、「移りゆく時の流れと幸福の意味を考えさせられるハートフルなメルヘンものであった」と述べています。



(注1)本作の原作は、森沢明夫氏の『虹の岬の喫茶店』(幻冬舎文庫:未読)。
 監督は、『草原の椅子』や『八日目の蝉』の成島出
 なお、本作の「企画」に主演の吉永小百合が加わっています。

(注2)その水を手で掬って飲んだ悦子は、「おいしい、ちゃんと生きている」と言います(毎日ここに水を汲みに来ているのですから、なんでそんな今更めいたことをわざわざ言うのかとチャチャを入れてはいけません!)。

(注3)久しぶりにカフェに現れた行吉先生が、「浩司はどうしています?不良だったので心配していました」と尋ねると、悦子は「私の監督不行届きで申し訳ありません。今は“何でも屋”を始めました」と答えます。また、丁度そこにいたタニさんが、「あいつは、球が速すぎて甲子園に出場できなかったそうですが」と言うと、行吉先生は「わが中学には野球部はありません」と答えます。
 こんなやりとりから、浩司のキャラクターが浮かび上がってきます。

(注4)それにしても、どうして村治佳織はあのように力を込めてギターを演奏するのでしょうか?あのような演奏法では、ギターの優しい美しい音色が損なわれてしまうのではないでしょうか?それに、彼女が腱鞘炎(Wikipediaでは「右手後骨間神経麻痺(橈骨神経麻痺)」〕を繰り返すのも無理からぬところがあるのかも、と思ってしまいます。

(注5)ただ、本作は、千葉県鋸南町の明鐘岬に実在する喫茶店「岬」をモデルにしていて、実際にも、そこにオープンセットを組んで撮影が行われたとのこと(劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」によります)。



(注6)『しあわせのパン』では、東京からやってきた若い女性と地元から出ていけない青年との恋愛話や、母親が家を出て行ってしまった父親と娘の話とか、地震で最愛の娘を亡くした老夫婦の話とかが描かれています。

(注7)本作でも、地元の常連客ではない陶芸家(井浦新)とその娘や、ドロボー(片岡亀蔵)とかが登場しますが、両者は2度現れストーリーの展開に一役買っています。
 前者については、2度目にカフェを訪れた時に、カフェの壁に架かっていた絵を悦子から貰い受けますが、そのこともあって悦子は気が抜けたのでしょうか、カフェが火事に見舞われてしまいます。



 後者については、彼が置いていった包丁をタニさんが使って鯛のカルパッチョを作り、またラストの方では、彼は新装成ったカフェに御祝儀を持って駆けつけたりします〔ただ、彼が語る身の上話(「親から継いだ店をダメにしちまって、一家心中をしようとしたが娘の可愛い顔を見てできず、首を吊ろうとしたが枝が折れて失敗」)は、余りにも定型的に過ぎます。とはいえ、歌舞伎役者が演じているのですから、そうなっても仕方ありませんが!〕。

(注8)劇場用パンフレット掲載の「プロダクション・ノート」によれば、「悦子の独白シーンでは、監督の強い要望から急遽、吉永の芝居に合わせて、村治が即興で演奏することに!」と書かれていますが、ギターの演奏によってこの場面が一層印象的なものとなりました。

(注9)詩はこのサイトに掲載されています。



★★★☆☆☆



象のロケット:ふしぎな岬の物語

経験と出来事

2014年10月20日 | 
(1)前回のエントリでは映画『幻肢』を取り上げましたが、同エントリの「(2)」で触れた「幻肢」(あるいは幻影肢、もしくは幻像肢)の現象について考察したのが、著名なフランス哲学者のメルロ=ポンティです(注1)。

(2)彼は、主著とされる『知覚の現象学』(注2)において、件の「幻肢」につき、だいたいこんなことを述べています(注3)。

・「幻肢」は、生理学によっても心理学によっても説明できない現象である(注4)。

・「幻肢」は、我々は「世界内存在」である(我々は、ある環境の内にしっかりとつなぎとめられている)、という視角から見てはじめて了解できる現象である。
 つまり、手足の切断を認めまいとするのは、今までどおりの自分の世界に立ち向かおうとしていることであり、「腕のみがなしうるところのあらゆる行動の可能性を今もなお所持しているということである」(注5)。

・要すれば、「幻肢」の現象は、(「私の」という)人称的な「現実の身体」の層によっていわば「抑圧」されている(「ひと」という)非人称的な「習慣的身体」の層が、顔をのぞかせ、一時的に「現実の身体」につきまとう、ということであろう(注6)。

(3)さて最近、渋谷の大型書店を覗いてみたところ、なんとまさにこのメルロ=ポンティと、さらには同じくフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(注7)とを主題的に取り扱っている新刊本『経験と出来事 メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体の哲学』(小林徹著 水声社)が、哲学・現代思想コーナーに陳列してあるではありませんか!
 普段から至極ミーハーなクマネズミは、これも何かの縁と思い、本文が350ページに及ぶ分厚さにもかかわらず、早速目を通すことにしてみました。

 とはいえ、本書は、ただでさえ難しいメルロ=ポンティのみならず、独特の言い回し(注8)などで素人のアクセスを困難なものにしているドゥルーズまでも取り上げているために(注9)、読む側に一層の負担を強いるものになっています。
 それに、元々本書は、新進気鋭の哲学者である著者の小林徹氏(注10)が、留学先のパリ第一大学に提出した博士論文の「翻訳改訂版」であって(注11)、高度に専門的な著作。哲学方面の専門的な訓練を受けたことがないクマネズミにとって、到底歯が立つようなシロモノではありません。あえなく途中で挫折してしまいました。

 それでも、ネズミ特有の前歯を使ってところどころ強引に齧ったところから本書の全体の構想を少しだけ推測してみると、次のようになるかもしれません。すなわち、
 メルロ=ポンティとドゥルーズの哲学の間には随分と大きな溝がある〔第1部:「それぞれ独自の身体概念を打ちたて、それを刷新し続ける」(P.18)〕。
 でも、二人の依って立つところを定めてその溝を明確化すると、逆に二つの哲学が交叉する点も見えてくる〔第2部:「そこにはいつも一つの同じ〈身体〉が留まっている」(同)〕。
 そして、この交叉するから絵画とか映画といった視覚芸術を眺めると、現代思想の要のところが見えてくる〔第3部:「現代的な思考に相応しい身体概念(〈身体〉)の在り処を指し示す」(同)〕。

 ただ、そんな青写真をいくら描いてみても、持ち合わせの貧弱な素人がその中に入り込むことは困難を極めます。
 思うに、本書がクマネズミにとり難解なのは、勿論、専門書だからということが第一ですが、それだけでなく、類書に見られない姿勢で書かれていることも大いに与っている気がします。
 すなわち、本書の場合、「序論」の冒頭で「透明に、偏りなく。これが本書を貫く主要なモチーフであるある」(P.13)と述べられているように、メルロ=ポンティとドゥルーズの著作に限りなく寄り添いながら、その間から垣間見えてくるものを探し出す著者の作業がスリリングに進められているのが特色的でしょう。
 ただそんなことをすれば、何しろ「彼らの間には、少なくとも公式には討論も対話も行われなかった」のですから(P.15)、著者の作業が困難を極めたものになるのは当然でしょうし、読む側にも忍耐が求められます。
 それでも、読者は、彼らの哲学を解説する著作を読む場合のように単なる知識を取得するだけに終わるということはまったくありませんし、また彼らの哲学を踏み台にして自説を展開する著作のようないかがわしさを感じることもないでしょう。むしろ、著者に導かれつつ、「ある哲学的言説の純粋な展開に身を置くこと」(P.13)によって、読者も自ずと一緒に哲学せざるを得なくなるものと思います。

(4)もしかしたら、こういった大層専門的な著作を素人が読む場合には、行きつ戻りつしながら時間をかけなければならないにしても、どんなことでもかまいませんから何か取っ掛かりとなる点があれば、前に進み易いかもしれません。

 例えば、上で問題にした「幻肢」は、本書とどのように関連してくるでしょうか?
 メルロ=ポンティは、上で見たように、「幻肢」の現象は生理学によっても心理学によっても説明できない現象であるとしていますが、その際、生理学は経験主義に基づくものとし、心理学を主知主義に依っているとしていますから(注12)、結局のところは、経験主義と主知主義のいずれをも認めていないことになるでしょう。
 そしてこのことは、本書の第1部第1章で述べられている文章、すなわち、「ここに、科学的思考の経験主義と、観念論的哲学の主知主義に対するメルロ=ポンティの二重の闘いが存する」とか、「「経験主義も主知主義も、知覚的世界が織り成している複雑な構造についての、抽象的な二つの見方にすぎない」といった文章(いずれもP.38)に接続されるのではないかと考えられます。

 また、例えば、本書の第1部第2章では、「われわれは、いわば他人の身体の内部に住み着くことによって、そして同時に私自身の身体にその所作を住み着かせることによって、その「意味」を知るのである。このような相互身体的交流に、個人的なものにせよ集団的なものにせよ、「意識」や「意図」が介入する余地はないだろう」(P.49)と述べられていますが、その文章は、ちょうどその頃DVDで見た『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)(注13)を想起させました。
 というのも、その作品のラストでは、ショーンロビン・ウィリアムズ)はウィルマット・デイモン)をセラピストとして診るのですが、最後には、言葉なしに突然二人が抱きあうことによって、黙って、ショーンはインド・中国に旅立ち、ウィルもカリフォルニアに行った恋人に会いに行くことになるのです。
 要すれば、ショーンは、既存の理論でウィルを一方的に診断・治療しようとするのではなく、真剣に話し合っていくうちに、相手の心も開いていきますが、自分の心も知らず知らずと変わってしまうのです(ショーンはウィルに対して、こうすべきだああした方がいいなどとは決して言いません)。
 著者が本書で書いているのとは次元が違うことを申し上げているかもしれませんが、「相互身体的交流」という言葉に興味が惹かれたところです。

 更に言えば、拙ブログでは、本書の第3部第2章「スタイルの発生」で取り上げられているパウル・クレーについて、このエントリでほんの少々ながら触れましたし、また、このエントリで取り扱っているフランシス・ベーコンは、本書の第3部第5章「絵画の力」で議論されています。
 もっと言えば、第3部第6章「運動と時間―二つの映画論」は、拙ブログ全体にかかわるテーマを取り扱っています。

〔追記:本項に関連したことをこの拙エントリで書きましたので、そちらをもご覧になっていただければ幸いです〕

(5)こんなあれこれがわかってくると、本書に対する興味がまた一段と沸き起こってきて、どうやらこの秋冬は再度本書と格闘するハメになりそうです。
 その際にクマネズミにとり救いとなるのは、大層明晰で淀みなく流れるような文章によって本書全体が綴られていることです(注14)。近頃目にすることが珍しいこうした素晴らしい文章を味わうのもまた無上の愉しみとなるでしょう。

 みなさんも、興味を持たれたら、どうぞ一度書店で本書を手にとってご覧になられては如何でしょうか(注15)?



(注1)拙ブログでは、以前、このエントリメルロ=ポンティに触れたことがあります。



 なお、「幻肢」の問題を取り上げた哲学者はメルロ=ポンティだけでなく、古くはデカルトがいます(その『哲学原理』において、いわば生理学的な説明を行っています:例えば、このサイトの記事を参照)。

(注2)中島盛夫訳(法政大学出版局、1982年刊)。なお、以下の『知覚の現象学』からの引用は、すべてこの邦訳によっています。

(注3)ここらあたりの記述は、木田元著『メルロ=ポンティの思想』(岩波書店、1984年)の「Ⅲ-3」に依っています。
 なお、ここでの要約では、あまりにも簡略にすぎるかもしれません。
 例えば、中山元氏のこのエッセイ(「幻影肢の問題性 『知覚の現象学』を読む(四)」)が参考になるのではないでしょうか。

(注4)「(幻像肢は、)生理学的説明も心理学的説明も、また両者の混合による説明も受けつけないのである」(『知覚の現象学』P.147)。
 『知覚の現象学』では、さらに次のように述べられています。
 「コカインによる麻酔も幻像肢を消滅させることはできない。肢体を切断されていない場合でも、脳髄の障害につづいて幻像肢体が現れることがある」(P.141)。むしろ、「この現象は実際に、「心的」な決定因子に依存している」のだ(P.141)。しかしながら、「いかなる心理学的説明も、脳髄に向かう感覚導体の切断が幻像肢を消失せしめるという事実(脳に通じる求心性の神経を切断すれば「幻肢」は消えてしまうということ)を、無視することは許されない」(P.142)。従って、「心的決定因子と生理的条件とが、どのように噛み合うかを理解しなくてはならない」のだ(P.142)。

 ちなみに、映画『幻肢』の劇場用パンフレット掲載の原作者・島田荘司氏のエッセイ「『幻肢』への想い」では、「幻肢」について、「これは簡単に言うと、前頭葉の運動野が筋肉に向かって出した命令を、四肢の断端付近が、存在しない筋肉が命令通りの運動を成したとする偽の情報を戻すことによって、小脳と前頭葉をだますという現象です」と説明されていますが、生理学的な説明といえるでしょう。
 更にそこでは、「これは、四肢の喪失という絶望が、その個体の生存に危機をもたらしかねないような深刻な局面においては、保身のため、脳が喪失部位の幻を見せる、ととらえることも可能です」とも説明されていますが、心理学的な説明といえるでしょう。

(注5)『知覚の現象学』P.149。

(注6)映画『幻肢』で描き出される谷村美月)の「幽霊」についても、自動車事故によって雅人吉木遼)の無意識の中に「抑圧」された遥の姿が、雅人がTMSを受けることによって次第に雅人の現実の世界に現れ出てきたもの、というように解釈できるかもしれません。
 この場合、「幻肢」が患者本人しか認められないのと同じように、映画における遥の「幽霊」も、雅人によってしか見ることができません。
 ただ、一般に言われる「幽霊」にはそのような制限があるとはされていませんから、「幻肢」現象から「幽霊」を説明しようとする雅人の仮説(前回エントリの「注6」を参照)の一般性には疑問がもたれるところです。

 なお、前記の「注4」で触れたエッセイにおいて島田氏は、「子供や恋人など、その個体にとって自身の四肢と同等の重要さを持つ外部の存在が失われた際、脳はこの「幻肢」のプロセスを利用して、そうした他者の姿を見せ、生存のための前頭葉をだまそうとする、それが幽霊なのだ、ととらえることもできます」と述べているところ、この説明では、「幻肢」と同様に幽霊はいつでも見えている必要があることになります。ですが、映画において遥の幽霊が現れるのは、雅人がTMSを受けた際に限られているのです。

(注7)拙ブログでは、以前、このエントリの(2)とか、このエントリの「注2」や「注10」でドゥルーズにほんの少々触れたことがあります。



(注8)本書においても、「アイオン」、「クロノス」、「器官なき身体」などといった用語が用いられています。

(注9)本書の「参考文献」で取り上げられていますが、昨年から本年にかけてドゥルーズを取り上げている著作が次々と刊行されています〔例えば、千葉雅也著『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社):なお、同氏については、このエントリで取り上げています〕。

(注10)本書の奥付にある略歴によれば、1975年生まれ。

(注11)本書の「あとがき」によります。

(注12)『知覚の現象学』では、例えば、「知覚の生理学は、一定の受容器から発し一定の伝達器を経て、これもまた特殊化した記録係に達する解剖学的な道程を、最初から仮定してかかる」と述べられ(P.35)、合わせて「経験主義は、われわれの知覚内容を、感覚器官に作用する刺激の物理-科学的性質によって改めて定義し、怒りや苦痛を、宗教や都市を、近くできないものと見なすのである」と述べられていることからすれば(P.61)、生理学が経験主義に基づいているとメルロ=ポンティがみなしていることは明らかのように思われます。
 他方で、「知覚を「解釈」と見なす理論―こういう心理学者たちの主知主義―は、じじつ経験主義の相手方にすぎない」と述べられています(P.81)。

(注13)映画全体のストーリーについては、例えばこちらをご覧ください。



 なお、このDVDを見たのは、その頃映画館で見た『プロミスト・ランド』と同じ監督(ガス・ヴァン・サント)・主演(マット・デイモン)の作品だからです。

(注14)これは訳文にも及んでいます。
 例えば、『知覚の現象学』の「序文」からの引用ですが、中島盛夫氏の訳が「知覚は世界に関する一つの科学ではない。それは一つの行為ですらない。つまり熟慮を経た上での態度の決定ではない。知覚は、その上にあらゆる行為が浮かびあがる背景であり、行為はこれを前提としている」(P.7)となっているところ、本書では「知覚は世界についての科学ではない。それは行為や断定的な態度決定ですらない。それはあらゆる行為がその上に浮かび上がっている背景なのであり、それらが前提しているものなのである」(P.30)と訳されています。
 ほぼ同一内容の文章ながら、後者の方にクマネズミはメルロ=ポンティの畳み掛けるような息遣いを感じるところです。

(注15)本書の装幀も、森麗子氏(例えば、このサイトの記事が参考になります)の「地図」を使ったセンス溢れるものとなっています(装幀は、atelier fusain氏)。




幻肢

2014年10月15日 | 邦画(14年)
 『幻肢』を新宿のK’s cinemaで見てきました。

(1)谷村美月が出演するというので映画館に行ってきました。



 本作(注1)は、自分が運転する車で交通事故を引き起こし、事故に関する記憶、特に同乗していたはずの恋人谷村美月)に関する記憶を喪失してしまった医大大学院生の雅人吉木遼)が(注2)、友人の亀井遠藤雄弥)や准教授の川端宮川一朗太)などの協力によって、うつ病の治療に使われるTMS(経頭蓋磁気刺激法)を受けながら、徐々に記憶を取り戻していくというお話です。



 はたして雅人はどんな記憶を取り戻していくのでしょうか、そして交通事故の真相は、………?

 本作は、「奇抜な着想、巧妙なトリック、読むものを幻惑させるストーリーテリングで、数多くの話題作を発表し続けている島田荘司の初映画作品」と謳われており期待したところ、サスペンス的な要素よりもむしろラブストーリー的な要素のほうが大きいように思いました。それでも、92分の長さの中に上手く全体をまとめており、さらにはクマネズミの棲家からほど近いところにある井の頭恩賜公園やその周辺(注3)がふんだんに出てきたりもして、最後まで愉しむことが出来ました(注4)。

(2)本作を基本的に支えているのは「幻肢(あるいは幻影肢)」の問題です。
 本作の冒頭では、佐野史郎扮する教授の宮沢が、脳科学者ラマチャンドランの名前を黒板に書きながら、その「幻肢」の説明をしています。



 宮沢教授の話によれば、ラマチャンドランが、患者のジョンに「このカップを掴んでください」と言って、ジョンの失われた左手がカップに届いた瞬間にカップを引くと、ジョンは苦痛に満ちた叫び声を上げ「とても痛い」と言った、とのこと。
 つまり、ジョンの左手の指は幻覚にしても、その痛みは本物ということなのでしょう。
 この幻の手足という「幻肢」はどのように説明できるのか、と言いながら、教授が鏡のついた箱を取り出して中に自分の手を入れたところで(注5)、講義の場面は終了します。

 そして、雅人は、この「幻肢」によって「幽霊」を説明するということを思いつき(注6)、ラストでは、教室の皆の前でその仮説についての論文を発表します。
 こんなところから本作のミステリーも解明されていくのですが、なんといっても本作はサスペンス物ですから、「幽霊」の話がなぜここで飛び出すのかなどについて詳しいことは見てのお楽しみといたしましょう。

 なお、この「幻肢」に関しては、次回のエントリにも関連事項を書き込みましたので、御覧ください。

(3)前田有一氏は、「いったい事故のとき何が起きていたのか。周りのよそよそしい雰囲気はなぜなのか。観客の好奇心を刺激しながら物語は進んでいく。退屈とは無縁だ。私は本作で、久々に作り手と観客のガチのだましあいを堪能した」、「低予算だが、本当によく工夫された、良質なエンターテイメントである」として70点を付けています。
 また相木悟氏は、「ミステリー映画の新境地を切り開かんとする意欲はかいたいのだが、少々物足りない一作であった」と述べています。



(注1)原作は、島田荘司著『幻肢』(文藝春秋社:未読)。
 なお、最初に島田氏の原案に基づいて、本作の藤井道人監督が脚本化し、それから島田氏がノベライズしたという経緯があるようです(なお、原作と映画とでは主人公が入れ替わっているとのこと)。
〔追記:原作については、10月27日の「本よみうり堂」に書評が掲載されています〕

(注2)雅人が「事故の時、遥は俺と一緒にいたはず。そして俺は助かった。遥は死んだのか?」と言うと、友人の亀井は「遥のことは俺の口からはちょっと、………」と言葉を濁し、「とにかく、自分の体だけ心配しろ」と言います。



(注3)雅人と遥の二人は、井の頭池のボートに乗るだけでなく、動物園の方へ行ったり、神田川の起点あたりを前にして置かれているベンチに座ったり、吉祥寺駅と井の頭公園の間にある商店街を散策したり、ハモニカ横丁に入ったりもします。

(注4)俳優陣の内、最近では、谷村美月は『幕末高校生』、佐野史郎は『偉大なる、しゅららぼん』、遠藤雄弥は『永遠の0』、宮川一朗太は『黒執事』で、それぞれ見ました。



(注5)「箱の中に鏡を入れ、虚像のところに実際の手があるように見せかけて、幻肢や幻痛を消滅させる治療法」を、教授は説明しようとしたものと思われます。
 なお、ここらあたりは、この記事を参照しました。

(注6)雅人は、海岸に置かれている大きな岩のところに遥を連れていって、この岩にまつわる伝説から「幻肢」に興味を持った、と話します。
 その伝説というのは、夫が海に出て帰ってこなかった妻が、この岩に雷が落ちた際に祈ったところ、夫の姿が目の前に出現したというもの。落雷によってこの岩が磁場を帯びたことと夫の出現とが関係するとすれば、TMSと幻肢(ひいては幽霊)との間にも関係があるかもしれないと雅夫は考えつき、研究に取りかかったのだ、と話します。



★★★☆☆☆



象のロケット:幻肢

柘榴坂の仇討

2014年10月13日 | 邦画(14年)
 『柘榴坂の仇討』を渋谷シネマパレスで見ました。

(1)中井貴一阿部寛が出演するというので映画館に行ってきました(注)。

 本作(注1)では、1860年に起きた「桜田門外の変」の後日談が描かれます。

 桜田騒動(注2)の際、命にかけても主君・井伊掃部頭中村吉右衛門)を守らなければならなかったところ、生き永らえてしまった近習役の志村金吾中井貴一)は、藩の方から、逃亡した水戸浪士の首を一つでも挙げて主君の墓前に供えよ、と厳命されてしまいます。
 それから13年の月日が流れ(明治6年)、志村は、妻のセツ広末涼子)と長屋で暮らしながら、相変わらず仇を追っているところ、いろいろなつてをたどって(注3)、ただ一人生き残っている仇・佐橋十兵衛阿部寛)の所在を突き止めます。



 はたして志村は佐橋に対してどう立ち向かうのでしょうか、………?

 時代は、まさに『るろうに剣心』と半分重なり、同作では時代に取り残された者らが政府に対して反乱を企てるところ、本作では前の時代の精神の残光が取り出されて描かれます。でも、なんだか「決して死ぬな」という流行りのメッセージばかり全面に出すぎている感じがしますし、時代劇だから仕方がありませんが、中井貴一の演技は歌舞伎の舞台を見ているような感じもしてしまいます。おまけに、ラストは、主人公とその妻が手をつないで冬の星空を見上げながら歩くというのですから、なんだホームドラマだったの?と言いたくもなってしまいます(注4)。

(2)本作は、ほぼ原作(注5)に忠実に描かれているものの、若干異なるところもあります。
 例えば、本作では、井伊掃部頭の墓のある菩提寺(注6)に志村がお参りに行った後に(注7)、人力車を曳く車夫の格好をした佐橋十兵衛が、そのお寺の門の前でお参りをする姿が描かれ、さらには、志村と同じような長屋暮らしをしている様子が映し出されます(注8)。
 ですが、原作では、佐橋の日常については一言も書き込まれておらず、いきなり新橋駅頭の場面となります。
 むろん、映画と原作が違っていても何の問題もありません。
 ですが、車夫をしているのだったら社会の底辺で暮らしていることは容易に想像がつきますし、本作の場合、志村と佐橋の長屋暮らしの様が余りにもソックリに描かれているため、あるいは同じ長屋に住んでいるのではと見る者は思ってしまうのではないでしょうか(注9)?

 また、原作のラストでは、志村の妻・セツが勤める居酒屋において、酌婦となっているセツに志村が、「この先はの、俥でも引こうと思う」などと語る場面が書き込まれていますが、映画では、居酒屋の外で待っている志村がセツの手を握って一緒に歩く場面となっています(注10)。



 原作にも「闇に手を差し伸べながら、金吾は雪上がりの星空を仰ぎ見た」とありますから似たり寄ったりとはいえ(注11)、映画の方ではホームドラマ性がより強く出ているのではと思います。

 さらに挙げれば、原作では、柘榴坂で対決した時、「志村金吾と名乗った侍は、脇差しを抜いた。しかし雪の中に佇んだ姿には、戦う意志がいささかも感じられなかった」とあり、加えて「直吉(佐橋十兵衛の現在の名前)は膝元に置かれた刀を執り、鞘を払った」ものの、「瞬時にとどめられぬ素早さで、喉を掻き切ってしまおうと直吉は思った」とされています。
 ですが、本作における柘榴坂の場面では、本格的なチャンバラシーンが描き出されるのです。

 原作の場合は、司法省の非職警部の秋元和衛にすっかり説得されており、佐橋と会った時に、志村は仇討の無意味さを既に悟っていたように描かれています(注12)。
 これに対し、本作においては、激しいチャンバラの果てに一輪の寒椿を見出すことから、志村は、佐橋の首に当てた刀を止めるのです。まるで志村は、それまでは仇討を成し遂げようとしていたかのようです。これだと、志村は、秋元和衛に十分に説得されず、実際に対決してから悟ったかのように見えます。

 それと、原作もそうなのですが、志村が佐橋に「わしは、掃部頭様のお下知に順うだけじゃ」などと言うところからすると、そもそもの話の始めから仇討など志村の念頭になかったのかもしれないようにもあるいは解釈できます。でも、そうだとしたら、何年もかけてわざわざ佐橋を探し出すまでもなかったのかもしれません(注13)。

 ここで、本作の場合、大きな働きを示すのが一輪の寒椿の花です。
 原作では、「揉みあいながら寒椿の垣の根方に直吉を押しこめ、金吾は仇の胸倉をしめ上げた」としか書かれていませんが、本作では、秋元和衛藤竜也)が庭に咲く一輪の椿の花を指して、「ひたむきに生きよ、あの花を見るとそんな声が聞こえてくる。決して死ぬな」云々と志村を諭し(注14)、また柘榴坂の仇討の際に、ぎりぎりのところでその花のことが志村の念頭に浮かびます。
 ただ、こうしたシーンをわざわざ描き出すのは、「決して死ぬな」という流行りのメッセージをことさら強調したいがためとしかクマネズミには見えません(注15)。
 それに、塀際に終えられている何本もの寒椿の花が一輪だけ咲くということはないのではと思えますし、新しい時代に人々と一緒になって生きろというのであれば、たくさんの花が咲いている方がむしろ適切なのではないでしょうか(注16)?

(3)渡まち子氏は、「過去にも浅井作品に出演している中井貴一が、義と情の世界で生きる最後のサムライを堂々と演じている」などとして60点を付けています。
 前田有一氏は、「どちらも幕末から明治という比較的近い時代を舞台にしながら、次世代感たっぷりの「るろ剣」とは対照的に、こちらはオーソドックスな本格時代劇である」「短編の映像化だからか強引なダイジェスト感もない、無理ない作りの時代劇である」、「いまどき公開される時代劇映画としては、保守的なファンも満足できるレベルには仕上がっている」として60点を付けています。
 相木悟氏は、「誇り高き男の生き様を描いた直球の時代劇であった。ゆえに好感度は高いのだが……」と述べています。



(注1)監督は、『沈まぬ太陽』や『夜明けの街で』の若松節朗

(注)先月20日に放送されたTBSテレビ「ぴったんこカン・カン」では、映画公開を前にして、主演の中井貴一と広末涼子とが、井伊掃部守ゆかりの彦根を訪れています。ですから、彦根に思い入れのあるクマネズミとしては(この拙エントリを御覧ください)、どんな彦根が描かれるのかと期待しましたが、残念ながら本作では彦根は殆ど描き出されませんでした。

(注2)桜田騒動については、『桜田門外ノ変』を以前見たことがあります。

(注3)本作では、志村の親友で司法省の邏卒になっている内藤新之助高嶋政宏)が、以前に幕府の評定所御留役で現在は司法省警部になっている秋元和衛に、調査を頼み込んだことから所在が判明します。

(注4)最近では、中井貴一は『天地明察』で(水戸光圀役)、阿部寛は『テルマエ・ロマエⅡ』で見ました。
 また、広末涼子は『鍵泥棒のメソッド』、高嶋政宏は『RETURN(ハードバージョン)』、藤竜也は『私の男』、真飛聖は『謝罪の王様』(弁護士・箕輪の元妻役)で、それぞれ見ています。

(注5)浅田次郎著『五郎治殿御始末』(新潮文庫)所収の短編「柘榴坂の仇討」。

(注6)この記事によれば、世田谷区にある豪徳寺(ただ、こんな記事もあります)。
 なお、この記事によれば、彦根藩主井伊家の墓所は、豪徳寺を含めて3箇所にあるようです。

(注7)志村は、佐橋と同様に、井伊掃部頭の墓前には行かずに寺を後にします(その寺の住職が「やはり墓前には参られぬか?」と質しますが、志村は黙ってお辞儀をして帰るばかりです)。

(注8)佐橋は、同じ長屋に住む寡婦のマサ真飛聖)と、その娘を通じていい仲になりそうな雰囲気です。
 なお、ラストの方で、佐橋はその娘にコンペイトウを買ってやるのですが、車夫の分際で当時としては高価なお菓子を購入できたのでしょうか(あるいは、明治6年ともなると、かなり普及していたのかもしれませんが)?

(注9)それに、佐橋の長屋では、そこに暮らす女房連中がかしましく井戸端会議をしているところ、志村の妻がそうした井戸端会議に加わっている様は描かれていません。セツは、武家の出という矜持があるので、そういうものに加わらないとでも言うのでしょうか?

(注10)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、中井貴一は、「ラストではセツと手をつなぎたいと、僕の方からお願いしました、「仇討も死ぬことも放棄した金吾が妻に対して「ありがとう」と言うだけでは、今までの時代劇と変わらない」云々と述べています(若松監督も、別のインタビューの中で、「あのシーンは中井さんのアイデアです」と語っています)。

(注11)でも、原作では、その後に「両手を夜空に泳がせて、志村金吾はにっかりと微笑まれる掃部頭様のお顔を、溢れる星座のどこかしらに探そうとした」とありますから、セツの手を握っていないように思われます。

(注12)原作のここらあたりは、むしろ、佐橋と実際に面と向かうことによって、志村の心の中に井伊掃部頭の言葉が蘇ってきたと受け取るべきなのかもしれませんが。

(注13)志村が、「掃部頭様のお下知に順うだけ」と最初から(秋元和衛と会う前から)考えていたとしたら、例えば、明治3年に出された平民に関する廃刀令(太政官布告第831号)に従い、刀を捨てて車夫にでもなればよかったようにも思います(尤も、明治9年の「廃刀令」によっても、刀を捨てなかった強者が大勢存在したようですが)。

(注14)まるで、『るろうに剣心 伝説の最期編』において、比古(福山雅治)が緋村剣心(佐藤健)に投げかけた言葉のようです(同作に関する拙ブログの「注9」を参照)。

(注15)劇場用パンフレット掲載のインタビューにおいて、インタビュアーが「この映画のテーマは「赦す」ということではないかと思います」と述べて質問し、監督もそれに答えているところ、「赦す」にしても「生きよ」にしても同じことを意味していると考えられる上に、そもそもこうした記事においてどうして「テーマ」などが問題になるのでしょうか?作品には、元々千差万別のテーマが転がっていて、それこそ見る人によって違ったものになるのではないでしょうか?それを、制作側で一つのテーマを受け取るように観客側を引っ張りこんでしまうような記事の書き方、ひいては作品の制作の仕方に問題があるのではないでしょうか?

(注16)志村は、特段、世の中から除け者にされ厳しい目に遭わされて生きてきたわけではなく、自分から世の中の動きに迎合しなかっただけのことでもありますし。



★★☆☆☆☆



象のロケット:柘榴坂の仇討

TOKYO TRIBE

2014年10月10日 | 邦画(14年)
 『TOKYO TRIBE』を渋谷シネクイントで見てきました。

(1)本作は、園子温監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)のはじまりはブクロ。
 猥雑な雰囲気の街の中を、どのTRIBEにも所属しないMC SHOW(染谷将太)が歩きながら、「♪誰もが凶暴な街…」とラップを始めます。



 そこへ新米の婦警(佐々木心音)が現れ、「こんなゴミ箱、私が一掃してみせます」とベテランの警官に言って、ドラッグを売っているメラ鈴木亮平)を取り締まろうとしますが、逆にメラに羽交い締めにされてしまいます。なにしろ、メラは、ブクロを仕切るWU-RONZのリーダー、一婦警ごときが手を下せる相手ではありません。

 メラは婦警を押さえ込みながら、TOKYO TRIBEを次々と紹介していきます。
 まずは、シヴヤを仕切るSARU軍団。それから、シンヂュクを仕切るHANDSの三代目武将の大東駿介)や、歌舞伎町を仕切る女性だけで作られているTRIBEのGIRAGIRA Girlsなど。

 そして、メラが、「他のエリアのやつが来たらぶっ殺す。みんなお互いに戦争してんだ。しかし、その掟に従わないのがムサシノだ」と言うと、彼らのアジトであるファミレス・ペニーズが映し出され、ムサシノを仕切るムサシノSARUのYOUNG DAIS)が、ファミレスにやってきたMC SHOWと一緒に、「ムサシノは、今日もLove & Peace」などと歌います。
 そして、リーダーのテラ佐藤隆太)もアジトに登場。

 そんなこんなで本作の序の部分がおしまいとなり、物語の本題に入ります。
 端折って言えば、メラが目の敵とするムサシノSARUを潰そうと、罠を仕掛けます。すなわち、メラは、ムサシノSARUのメンバーのキム石田卓也)を、ブクロのSAGAタウンの奥の部屋に閉じ込め、テラや海たちが救出に来るのを待ちます。
 さあ、テラや海らはキムを上手く救い出すことができるでしょうか、………?

 本作は、漫画を実写化したものながら、全編にラップが流れる中で、池袋や渋谷などを踏まえた様々の繁華街を仕切る「TRIBE(族)」同士の壮絶な戦いぶりを描き出すという、奇想天外で随分と楽しいバトル・ラップ・ミュージカルに仕上がっています。でも、こうした羽目をはずした作品は一般受けしないのでしょう、平日の入りは惨憺たるものがあります。

 主演の鈴木亮平は、最近までNHK連続TV小説『花子とアン』において村岡花子の夫役を演じていたところ、本作ではその雰囲気をガラリと変え、むしろ『H/K 変態仮面』につながるところを全面開花させながら力演しています。
 それに、竹内力窪塚洋介など強者達が加わってハチャメチャぶりを発揮しているのですから、凄まじい限り(注2)。

(2)これまでラップを取り上げている映画としては、『SR サイタマノラッパー』の3部作(注3)を見ましたが、いずれもラッパーを描いている作品であり、そのラッパーがラップするのですから違和感はありません。
 とはいえ、それらにおいて台詞とリリックが完全に分かれているのかというと、必ずしもそうではなく、台詞めいたリリックも登場し、場面が進められます。
 本作ではそれを最大限に推し進め、かなりの台詞を、ラッパーではない登場人物がラップで歌うのですから、もうミュージカル映画そのものといえるでしょう。
 ただ、ラップ特有の制約のせいでしょうか(注4)、リリックの内容が総じて単純になり、そんなことから本作の物語も派手派手しいだけのものなってしまっているのではと思えました。

 ところで本作は、一見、ラップそのものの世界とは遠いように思えるところ、本作で歌われるリリックの中には「Rhyme」とか「Dis」といったラップ用語も使われ、なによりメラの相手役・海を演じるYOUNG DAISはヒップホップ界では著名なラッパーです(注5)。
 それに、ラップの世界では「MCバトル」という催しがあり(注6)、そうであれば、戦って勝負をつけるという点で、本作の世界と元々違和感がないのかもしれません。
 であれば、本作は、TRIBE同士の戦争さながらの激しい戦いが描かれているとはいえ(注7)、実際のところはラップの「MCバトル」ともみなせるのではないでしょうか?銃弾に倒れた者も、刀で斬られた者も、ジ・エンドの声が掛かると皆元気に起きだすように思われます。何しろ、歌の世界なのですから。

(3)その戦争ですが、本作は、なんだかきな臭い匂いが漂っていないわけでもなさそうな日本の現状を、もしかしたら踏まえているのかもしれません。
 無論、ムサシノは日本でしょう。他のTRIBEのようにエリアを守り戦に備えて武装することもなく、来る者は拒まずの姿勢をとって平和主義でやっていこうとしています。
 ですが、メラの方から一方的に介入してくると(注8)、やはり防御せざるを得ず、まずはテラたちが情報収集に敵陣の中に乗り込みます。といっても、海がバットを手にするくらいで、武器は何も持たずに。
 案の定、テラはメラにやられてしまい、それが一つのきっかけとなって、TRIBEの間で戦いが勃発します。



 こんなことからすれば、平和、平和と唱え続けていてもダメで、普段から防御に力を注ぐ必要があるということになりますが、さあどんなものでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「若者たちの抗争をラップで綴る異色のバイオレンス・アクション「TOKYO TRIBE(トーキョー・トライブ)」。なんでもありの無国籍ワールドにひたることができれば楽しめる」として55点を付けています。



(注1)本作の原作は、井上三太氏の漫画作品『TOKYO TRIBE2』(なお、井上三太氏は、本作において、シヴヤSARUの重鎮であるレンコン・シェフに扮しています)。
 また、園子温の監督作品は、最近では『地獄でなぜ悪い』を見ました。

(注2)竹内力は、メラの背後でブクロを支配するブッバを演じ、窪塚洋介はその息子役。
 また、ブッバの更に背後の存在である大司祭にはでんでんが扮しています。

 女優陣では、最後には大司祭の娘エリカと分かるスンミ役に清野菜名、ファミレス・ペニーズのウエイトレスに市川由衣(『海を感じる時』で主演)、さらには叶美香がブッバの妻、中川翔子がブッバの娘に扮しています。

(注3)『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』と『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』。
 なお、他にも、『サウダーヂ』ではラッパーのアマノ(田我流)が登場します。

(注4)韻(Rhyme)を踏むことなど。

(注5)この記事を参照してください。

(注6)例えば、この記事が参考になるかもしれません。

(注7)メラは日本刀を振り回しますし、シンヂュクHANDSの三代目・巌は立派な戦車を持っています。 また、ブッバも、最後になるとガトリング銃〔『るろうに剣心』で観柳(香川照之)が使います〕をぶっ放します。

(注8)メラは、一方的にムサシノの海に対して敵愾心を持っていて、それでムサシノを潰そうとするのですが、その理由は性器コンプレックスなのです。



 その挙句、メラは、「もとからケンカに意味はない。世界で起こっている戦争も同じだ。端からくだらない、それが喧嘩だ」と開き直ります。



★★★★☆☆



象のロケット:TOKYO TRIBE

リスボンに誘われて

2014年10月08日 | 洋画(14年)
 『リスボンに誘われて』を渋谷のル・シネマで見てきました。

(1)ブラジルの宗主国だったポルトガルの首都リスボンの風景が描き出されるというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の主人公ライムントジェレミー・アイアンズ)は、スイスのベルンに住む高校の古典文献学の教師で57歳。
 妻とは5年前に離婚し、夜は、独りでチェスを楽しみ、朝になると、紅茶を飲みながら講義ノートの手直しをして家を出るという決まりきった生活を送っています。
 ところが、ある雨の降る日、彼が、学校への出勤途中に、橋から飛び込もうとした若い女を助けたことから、一冊のポルトガル語の本『言葉の金細工師』を手にすることに(注2)。
 そして、同時にその女が残していった列車の切符を使って(注3)、学校の授業を放り出してリスボンに旅します。



 ライムントは、列車の中で、ポルトガル語で書かれたその本を読み耽り、著者のアマデウジャック・ヒューストン)に大層興味を持つに至り、リスボン市内でアマデウを訪ね歩きますが、果たしてうまくいくでしょうか、………?

 本作の主人公は、ひょんなことから手にした本の著者の消息をリスボン市内で聞き回りますが、出会う相手が皆謎めいた行動をとったりするのでサスペンス的な雰囲気が醸しだされ、思わず映画の中に引き込まれてしまいます。現在と過去のいくつかの男女関係が描かれるだけでなく、リスボン市内の風景も色々と映し出され(注4)、なかなか興味深いとはいえ、ただ、会話が全部英語になってしまっているのは残念なことでした(注5)。

(2)本作の原作は、スイス生まれの作家・哲学者のパスカル・メルシエが著した『リスボンへの夜行列車』(浅井晶子訳、早川書房)。ただ、訳書で上下2段組の500ページ近い本ですから、映画化するにあたっては、当然のことながら、かなりの刈り込みが行われています。

 中でもクマネズミが気になったのは言葉の点です。
 本作では、ライムントが泊まることにしたホテルの受付が、最初に簡単なポルトガル語を話すくらいで、大部分の会話は始めから英語になってしまっています。
 ただ、リスボンで活躍する登場人物が皆英語で話していても、映画を見ている方で、そうなるのも吹替版だからだとみなしてしまえば、そのこと自体そんなに問題ないのかもしれません。
 でも、少々ポルトガル語が聞けるのかなと期待していた者には残念な気がしました。

 それに、言葉の問題をこうやってクリアしてしまうことにより、主人公がドイツ語の話される場所(ベルン)におり、なおかつ「彼の頭には、ラテン語とギリシア語のあらゆるテキストのみならず、ヘブライ語のテキストまでが詰まっており、その知識で、これまで旧約聖書を専門とする多くの大学教授たちまでをも驚嘆させてきた」(P.14)というライムントの人物像が大層曖昧なものになってしまっているのではと思いました。

 そんな沢山の言語に通じたライムントだからこそ、「あなたの母国語はなんですか?」との彼の問に対し、橋から飛び込もうとした若い女が「ポルトガル語(ポルトゥゲーシュ)」と答えたことに鋭く反応してしまい(注6)、果てはその女が残した『言葉の金細工師』に没頭することになったのではないか、と思えます。

 ちなみに、本作では、その本は女が残したレインコートのポケットに入っていたことになっていますが、原作では、その女は何も残さず、ライムントは、女が書き残した電話番号からベルン市内の書店を探し出し、そこでその本に遭遇します。
 また、本作のライムントは、ポルトガル語で書かれたその本をいきなり読み出しますが、原作のライムントは、沢山の言語を身に付けているにもかかわらずポルトガル語は不案内で、レコード付きの「ポルトガル語の語学講座」(P.29)を購入し、まる1日その勉強に没頭するのです(尤も、彼はスイス人であって、ポルトガル語と同系統のフランス語やイタリア語には元々通じているでしょうから、日本人の場合とはかなり事情が異なるでしょうが)。

 そんなこんなを経た挙句のリスボン行きですから、原作におけるライムントのアマデウ探しに対する執着は並大抵のものではありません。
 これに対して、本作のライムントのそれはちょっとした気まぐれのように見えます(注7)。とは言え、上演時間111分の映画にそこまでの細かさを求めるのは行き過ぎであり、いたしかたがないところでしょう(注8)。

(3)本作は、ライムントが探偵となってアマデウを探し求めるというサスペンス仕立てになっているため、彼がリスボンで見つけ出したものを明かしてしまうと興味が半減するかもしれません。
 そこでごく簡単に触れるにとどめますが、リスボンに着いてスグに眼鏡が壊れたために、ライムントは眼科医マリアナマルティナ・ゲデック)に診てもらいます。そして、彼女を通じて、介護施設にいるジョアントム・コートネイ)と面談することができ、彼の話から、40年ほど昔の話を聞くことができます。
 その話によれば、若き医者のアマデウは、親友のジョルジェアウグスト・ディール)の愛人のエステファニアメラニー・ロラン)を愛するようになったとのこと。他方で、兄アマデウに命を助けてもらったことから兄に憧れていた妹のアドリアーナシャーロット・ランプリング)は、エステファニアに激しく嫉妬します。
 通常であれば、探偵ライムントの役割は、こんな関係(及び、その行く末)を明らかにすることで終わってしまうでしょうが、本作においては、その過程で、ライムントと眼科医マリアナとが何度も会っているうちに、その関係に変化が生じてしまうのです(注9)。



 要すれば、自分とは相当異なる生き方をするアマデウの生き様を探索するにつれて、ライムント自身も自分の過去を振り返り、将来に向けて違う一歩を踏み出してみようとするのでしょう。
 とことん対象に惚れ込むということはあるいはそういうことなのかもしれないな、と思ったところです(注10)。

(4)村山匡一郎氏は、「ふとしたきっかけから人生が大きく変わることはある。本作は、1冊の書物との出会いから影響を受けた1人の中年男の旅を通して人生を見つめ直すことの意義を、ポルトガルの暗い時代を闘った人々の生きざまに重ねて繊細かつ透徹した映像で描いている」として★4つを付けています。
 産経ニュースの「シネマプレビュー」は、「ミステリー仕立てだが、ビレ・アウグスト監督は謎解きよりも主人公の魂の解放に力点を置く。ジェレミー・アイアンズをはじめ、名優の競演も見もの」として★3つ(楽しめる)を付けています。



(注1)監督はビレ・アウグスト。

(注2)ライムントは、その女が「一緒に行ってもいいですか?」と尋ねるものですから、彼女を連れて学校に行き、受け持ちの教室で聴講してもらおうとします。でも、しばらくすると彼女は、着ていたレインコートを残したまま学校を立ち去ってしまいます。
 ポルトガル語の本は、そのレインコートのポケットに入っていたもの。

(注3)女が残していった本が、ベルン市内の古書店で購入されたものであることがわかり、その店に行って主人に尋ねると、「昨日、その本を売りました」との返事。
 その際、その本の中を調べていたら、列車の切符が滑り落ちます。
 ライムントは、その切符を持って駅に行き、該当する列車でその女を探しだそうとしますが、おそらく、女にその切符を返そうとしたのでしょう。
 でも、女は見当たらず、また発車時間が迫っていたこともあり、ライムントは衝動的に列車に飛び乗ってしまいます。
 無論、原作ではこんな経緯にはなってはおりません。
 切符をなくした当人が予め列車に乗車しているはずもありませんから!

(注4)劇場用パンフレットに掲載の岡田カーヤ氏のエッセイ「ただたださまよい続けたくなる、白い街、リスボン」が大変参考になります。

(注5)俳優陣に関しては、最近では、主演のジェレミー・アイアンズは見たことがありませんが、メラニー・ロランは『複製された男』、ジャック・ヒューストンは『アメリカン・ハッスル』、マルティナ・ゲデックは『バーダー・マインホフ  理想の果てに』、トム・コートネイは『カルテット! 人生のオペラハウス』、アウグスト・ディールは『ソルト』、シャーロット・ランプリングは『ブリューゲルの動く絵』で、それぞれ見ました。

(注6)「ポルトガル語(português)」の発音は、このサイトで聞いても分かるように、ポルトガルとブラジルとでは違って、一般にブラジルでは語尾が「ス」となるのに対し、ポルトガルでは「シュ」となります。

(注7)上記「注6」を参照。

(注8)といって、原作では何も言われていない当初の橋から身を投げようとした女の素性について、映画では意外な事実が明かされるのですが。
 原作通りの謎の女のままではなぜいけないのでしょうか?

(注9)ライムントとマリアナがレストランで食事をした時に、ライムントが「妻と別れたのは、私が退屈だから」と言うと、マリアナは「あなたは退屈なんかじゃない」と言います。
 そして、ベルンに戻る列車に乗り込もうとする時、ライムントがマリアナに「アマデウやエステファニアは精一杯に生きた。私の人生を、ここ数日を除いて、それに比べてしまう」と言うと、マリアナは「ここに残ればいいのよ」と応じます。さあ、ライムントはどうするのでしょうか、………?

(注10)でも、ライムントとマリアナとの関係は映画における出来事であり、原作ではそのようなことは起こらず、ライムントはベルンに戻ってきます。上記「注9」のエピソードは、映画の物語を終わらせるために用意されたものでしょう。



★★★★☆☆



象のロケット:リスボンに誘われて

海を感じる時

2014年10月06日 | 邦画(14年)
 『海を感じる時』をテアトル新宿で見てきました。

(1)久しぶりの文芸物というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)では、1978年の現在の中に、それより2年前の1976年が入り込んできます。
 映画の冒頭は現在の時点で、散歩する恵美子市川由衣)と池松壮亮)の二人(注2)が、「熊が見たい」という恵美子に促されて、動物園に入ります(注3)。
 次いで、恵美子の部屋の場面となり、外は冷たい雨が降っていて、二人は全裸で体を寄せあって座っています。

 場面は変わって2年前となり、場所は高校(注4)の新聞部の部室。
 部室に入ってきた3年生の洋が、そこで雑誌を読んでいた1年生の恵美子を立たせて、「何もしないよ、口づけだけ」と言い、これに対して、恵美子が「私のこと好きなの?」と尋ねると、洋は「好きじゃないけど、キスがしてみたいんだ」と答えます。
 そして、二人はキスをしますが、ベルが鳴ると離れます。

 その後に喫茶店で再び会います。
 恵美子が、今日の部室でのことを持ち出し、「私、前から好きだったんです」と言うと、洋の方は「僕は、女の人の体に興味があったんだ。君じゃなくてもよかったんだ」と答えるのです。

 結局、二人は部室で関係を持つことになります。そんな過去を持つ二人は現在一緒に暮らしていますが、果たしてその先どうなることでしょうか………?



 映画では、最初、男が、自分を愛してくれる女の体は求めるものの、女を愛しはしません。ところが、逆に男が女を愛するようになると、今度は女の方が男から離れてしまいます。こういった錯綜する関係を市川由衣と池松壮亮とが体当たりで演じています。これに母娘の厳しい関係も重ね合わされて、まさに文芸物の仕上がりになっているのでは、と思いました。

(2)原作は18歳の現役女子高生が書いたもので、発表された時(1978年)随分と評判になりましたが、それを脚本家の荒井晴彦氏が1980年に脚本化し、30年以上経過してからその脚本に基づいて今回映画化されました。
 実のところは、『戦争と一人の女』や『共喰い』を脚色した荒井氏のことですから、本作もかなりエロチックな雰囲気を醸し出し、なおかつ政治色の付いたものになるのかな、と恐れていました。
 ですが、実際に見てみると、確かに性的な場面がかなりあるとはいえ、随分と綺麗に仕上がっており、また政治色はほとんど影を潜めています。

 それに、原作を読んでみると、恵美子と洋にはそれぞれ絡んでくる人物がいたり(恵美子には川名、洋には鈴谷)、ラストは母親と恵美子の争いが描かれたりしているのに対し(注5)、本作では、母親(中村久美)と恵美子の争いは、どちらかと言えば恵美子と洋の関係の脇に置かれていて、むしろ後者の方が全面に押し出されているように思われます。
 これは、脚本の荒井氏が、「同時期に出た中沢さんの第二作目の「女ともだち」(1981年)を重ねあわせて、男のほうが逆に女を追いかけ出す話をカットバックしていく構成」にしたことによるものですが(注6)、それは成功しているように思いました。

 最初のうちは、恵美子が、「私、あなたが欲しいというのなら、それでいいんです。必要としてくれるのなら、体だけでも」と言って洋を放すまいとするのに対し(注7)、洋は「会わない方がいいんだ」と言って離れようとしながらも、ただ恵美子の体だけは求めます。



 ところが、ラストの方になると、一緒に暮らす洋が旺盛な食欲を見せると、恵美子はぐっと引いてしまい、あろうことか「私が他の男と寝たの知ってる?」「これは本当のこと」と言って、洋を傷つける秘密を自分から暴露してしまいます(注8)。
 2年前は恵美子の愛を拒絶した洋が、今や「今はお前を大切に思っている」などと言いながら、安心しきって日常生活を営んでいる姿を見ると、逆に今度は恵美子の方が洋を受け付けなくなるわけですが、このシーンが描かれているからこそ、初めの方の恵美子と洋の関係もぐっと説得力を持ってくるのではないか、と思いました。

 それはともかく、一筋縄ではいかない男女の関係が実に上手く描かれているなと思ったところ、さらに本作では、こうした関係に加えて母娘の関係も描かれます(注9)。
 恵美子の母親は、夫に先立たれ(注10)、恵美子を一人で大切に育ててきたにもかかわらず、恵美子が洋と性的関係を持っていることを、恵美子が出したはずの手紙を盗み見て知り、激怒します(注11)。
 実家のそばの海岸で「お父さんはいいよね、早く死んじゃって」と嘆く母親に対して、「母さん、私も女なのよ」と言う恵美子を見ると、『8月の家族たち』に関する拙エントリの「注6」で触れた斎藤環氏の対談集のことが思い起こされるところです。

 とはいえ、その場面で母親が「お父さん」と大声で叫んだり、ラストで海岸から家を眺めて、父親が下手くそなピアノを弾くのを恵美子が思い出したりするのを見ると(注12)、本作は、もしかすると不在の父親を求める作品なのかもしれないと思えてきます。

 なお、本作の政治色ですが、新聞部の部室で恵美子が「朝日ジャーナル」を読んでいるシーンが目につくくらいながら、あるいは、鎖国によって欧米(=恵美子)の文化を拒否していた日本(=洋)が、維新後に文明開化の過程で欧米に擦り寄っていくものの、最終的には拒否されてしまい太平洋戦争を迎えてしまった、というプロセスなどを本作から読み取るべきなのでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「ヒロインが満たされない愛を経て女として成長していく青春ドラマ「海を感じる時」。市川由衣の体当たりの演技が唯一の見どころか」として55点を付けています。

 前田有一氏は、「綺麗な裸をみせてくれた市川の覚悟や演技に文句を言うものではないが、この映画の完成度を上げたいのであれば、絶対にそういう「打算」イメージを主演女優にまとわせてはいけなかった。そこに事前に誰かが気づいていれば、と悔しく思う」として20点しか付けていません。
 ただ、前田氏は、「一時は立て続けに話題作で主演を張っていた彼女がこんな小さな作品でヌードになるというのは、いやおうなしに落ちぶれ感を感じさせる。脱ぎ場に文芸作品を選んで少しでも格調高くプレミアム感を出したいという、戦略的判断を感じさせる点もよろしくない」、「出し惜しみ感を感じさせたら本格女優としてはおしまいである事を、事務所の方々は知るべきである」と述べています。ですが、クマネズミは、主演の市川由衣のみずみずしい演技と、彼女について事前情報をほとんど持たなかったことにより、彼女について「潔くない戦略的思考によってキャスティングされた女優」などという楽屋の裏話めいたことは全く思いもしませんでした!



(注1)原作は、中沢けい氏の『海を感じる時』(講談社学芸文庫版)。監督は安藤尋。

(注2)主演の市川由衣は『罪とか罰とか』に出演していたようですが、印象に残っておりません。また、池松壮亮は、今年公開された『春を背負って』や『ぼくたちの家族』で見ています。

(注3)原作の冒頭は、恵美子と洋が南房総の海岸を歩く場面(「城山公園」とか「大房岬」が出てきますから、千葉県館山市でしょう)。この場面は、ラストの直前の場面(一緒に暮らそうと持ちかける洋に対して、恵美子は「あたし同棲なんかしないわ」と冷たく対応します:P.92)につながっています。

(注4)恵美子らが通う高校は、原作では「T市」(P.41)とされている街にありますが、千葉県館山市のことだと思われます。

(注5)原作のラストでは、「母は私の中の海を見つけてしまったのだ。汚い……けがらわしい……海。/世界中の女達の生理の血をあつめたらこんな暗い海ができるだろう」、「母は驚いているのだ、私が女だったことに。私も、母が女だったことに驚いていた。/海は暗く深い女たちの血にみちている。私は身体の一部として海を感じていた」とあり(P.97)、タイトルの意味合いが積極的に述べられています。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「Talks」(荒井晴彦氏と中沢けい氏の対談)より。
 なお、『女ともだち』も講談社学芸文庫に入っていますが、未読です。

(注7)さらに、高校を卒業し東京の下宿に行ってしまった洋に対して、高校2年生の恵美子は、「どんな扱いを受けてもいいから、あなたのそばにいたい」とか「欲求を満たすだけの役割でもいい。私の体なんてどうでもいい」と書いた手紙を送ります(実際には、母親が開封してしまい、洋には届かなかったのですが)。

(注8)映画の中で恵美子は、飲み屋にいた見ず知らずの男(三浦誠己)の部屋へ行き性的関係を持ちます。

(注9)この他、本作では、同僚のとき子阪井まどか)や洋の姉(高尾祥子)との関係も描かれますが、小さなエピソードにとどまっています。

(注10)原作では、恵美子が小学5年生の時に父親が亡くなっているとされ(P.40)、恵美子が高校1年の時からすれば、5、6年前のことになります。

(注11)例えば、母親は恵美子に対して、「夜遅くにバス停に迎えに行ったのは何のためだったの?親の苦労を無にして、何のつもりなの?何考えてるの?」と怒鳴ります。

(注12)さらには、本作の冒頭で、恵美子が死に際の父親の温もりを思い出したりするのを見ても。



★★★★☆☆



象のロケット:海を感じる時