映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

午後8時の訪問者

2017年04月28日 | 洋画(17年)
 『午後8時の訪問者』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)『ロルナの祈り』や『少年と自転車』で印象深かったダルデンヌ兄弟の作品ということで映画館に行ってきました〔補注〕。

 本作(注1)の冒頭は、都市郊外にある小さな診療所の診察室(注2)。
 主人公の女医・ジェニーアデル・エネル)が、患者の背中に聴診器を当てて診ています(注3)。研修医のジュリアンオリヴィエ・ボノー)も聴診器を当て、「肺気腫では?」と言います。
 ジェニーは、再度聴診器を当てて、「気管支炎による喘息かも」「レントゲンを見ましょう」と言うと、患者は「明日、撮りに行きます」と答えます。
 そこへ、「大変です」と女が診察室に入って来たので、ジェニーらが慌てて待合室に行くと、彼女の子供が発作を起こして床に倒れており、体を震えさせたり、硬直させたりします。
 ジェニーはジュリアンに「早く診察を」と言うのですが、彼はボーッと立ってその有様を見ているだけ。仕方なくジェニーが、子供に向かって「イリアス、大丈夫よ!」「声が聞こえる?」と叫び、母親も呼びかけをします。しばらくすると、子供は「ママ」と言って目を開けます。

 再び診察室。時間は夜8時過ぎです。
 ジェニーとジュリアンは、昼間に行った診察の整理などをしています。
 ジェニーがジュリアンに「新薬申請の書類はどうなった?」と尋ねると、ジュリアンは無反応です。それで、ジェニーが「私と話さないの?」とイラつくと、やっとジュリアンは「書きました」と答えます。次に、「X線の写しは送ったの?」と訊くと、今度は「送りました」とすぐに答えます。
 ジェニーはジュリアンに、「あなたは研修医よね」、「患者の状態にいちいち驚いてはダメ」、「診断する際には、自分の感情を抑えなさい」などと諭します(注4)。

 そこに、電話がかかってきます(注5)。



 それから、入口のインターホンのブザーが鳴ります。
 ジュリアンが出ようとすると、ジェニーは「出なくていい」「診療時間も過ぎているし」「今頃来る方が勝手」と言って制します(注6)。
 ジュリアンは、なおも「急患なのかも」と言うのですが、ジェニーは「だったら、もっとベルを押すわ」と頑なに判断を変えません(注7)。ジュリアンが不服そうにその場を離れると、ジェニーは「なんのつもり?理由を言って」と怒ります。

 これが、本作で描かれることになる事件の発端なのですが、さあ、どんな物語が待ち構えているのでしょうか、………?

 本作は、時間外診療を拒んだことで殺されたのかもしれない黒人の少女を巡る物語。主人公の若い女医は、診療所のドアを開けなかったことで深い罪悪感にとらわれて、その少女の身元を尋ね回ったりして探偵的な役割を果たすとともに、他方で、何となく“下町の赤ひげ先生”的な感じをも醸し出していて、全体的にとても地味な作品ながら、物語の展開はまずまず面白く、最後まで飽きさせません。

(2)ジェニーが診療所のドアを開けさせなかった翌日、警察がやってきて、診療所の近くで身元不明の少女(“La fille inconnue”)の遺体が発見されたと告げます。警察はジェニーに、監視カメラの画像を見せますが、そこでは、診療所のインターホンを押している少女の姿が捉えてられていました。ジェニーは、罪悪感から、携帯に取り込んだ画像を見せながら、知っている者がいないか聞き回ります。

 ところで、主人公のジェニーは、この事件があった頃は、当該診療所のアブラン医師(イヴ・ラレク)が病気で入院したために、その代わりとしてそこに勤務していたに過ぎませんでした。
 彼女は、しばらくしたら大きな病院で勤務することになっていて、その病院では歓迎パーティーが開催され(まさに殺人事件の起きた当日の夜)、また彼女に用意されている部屋が病院内にあることもわかります。
 ですが、ジェニーは、この事件があったこともあり、さらには、アブラン医師が診療所から身を引こうとしていることを知って、自分が診療所を引き継ぐとアブラン医師に申し出ます。



 アブラン医師は、「嬉しいけれど、ここは保険診療の多いところだよ」などと忠告しますし、さらには、行くことが決まっていた大病院の医師も翻意を促します(注8)。ですが、ジェニーはその決意を変えません。

 実際のところ、映画を見ていると、この診療所にやってくる患者の身なりは決して良くなく、支払いが大丈夫なのか見ていても心配になるほどです(注9)。
 ただ、ジェニーには、大病院では見られないような濃密な人間関係がここにあると思えたに違いありません。

 元々ジェニーは、黒人少女の殺人に自分が直接関わっているわけではないにもかかわらず(注10)、「あの時、ドアを開けてさえいれば、殺されずに済んだだのでは?」という思いに深く囚われてしまうほど生真面目な性格です(注11)。
 彼女が、大病院よりもこの診療所の方を選ぶのは、そうした性格によるところも大きいのではと思えます。

 こんなこともあり、さらには、診療所で次から次へと訪れる患者にテキパキと対応するジェニーの姿を見れば、黒澤明監督の『赤ひげ』(1965年)を思い出す人も多いでしょう。
 本作のアブラン医師とジェニーとの関係は、あるいは、同作の“赤ひげ”(注12:三船敏郎)と保本登(注13:加山雄三)との関係になぞらえられるかもしれません。
 でも、本作におけるアブラン医師の登場時間はごく僅かであり、むしろジェニーと研修医・ジュリアンとの関係に置き換えた方がいいかもしれません。

 そのジュリアンですが、医師になるのを諦めて田舎に帰ってしまいます。
 生真面目なジェニーは、ジュリアンがそうするのは、自分が彼に厳しく当たったからだと考え、何とか戻るように説得しますが、ジュリアンは「それが理由ではない」と言って、復帰を拒否します。
 ところが、ジェニーが、田舎の祖父の元にいるというジュリアンを尋ねていくと、ジュリアンも胸襟を開いて、どうして医師になるのを諦めたのか色々話をします(注14)。
 後日、ジュリアンから電話が入り、再度医師を目指すとのこと。

 こんなところを見ると、まだまだ経験年数などが大層不足しているとはいえ、若さ故にいろいろ仕出かす保本を教え諭す“赤ひげ”のイメ―ジが、ジェニーにも幾分かは重なってくるようにも思えるところです。

 とはいえ、ジェニーのように、誰に対しても一本気で生真面目に対処し続けると、体がいくつあっても足らなくなって、早晩倒れてしまうのではないのか、と映画の中の話にしても心配になってきます。“赤ひげ”になるのは、もう少し年季を積んで、診察などに緩急と言ったものが付けられるようになってからでも遅くはないような気もするのですが(注15)。

 それに、ジェニーはまだ若くて美貌なのですから、周囲の男性は放っておかないのではないでしょうか?特に、研修医のジュリアンとは年齢も近いはずで、狭い診療所で一緒に働いてもいるのです。性的なものをお互いに意識してもよさそうですが、映画からはそうしたことは微塵も感じられません。あくまでも、先生と生徒という関係での付き合いにすぎないように見えます。
 監督のタルデンヌ兄弟は、意図的にそのように描いているようですが(注16)、少しくらいは配慮があってしかるべきでは、とも思いました。

 それはともかく、黒人の少女を殺したのは一体誰なのでしょうか?
 でも、本作はサスペンス映画ですから、本作を見てのお楽しみにしておきましょう。

(3)渡まち子氏は、「償いの旅をするジェニー自身にも、医者として、人間として、心の変化が訪れるストーリーが秀逸だ。ヒロインを演じる仏の人気女優アデル・エネルの、繊細で寂しげな、それでいて強い意志を感じる表情が忘れがたい」として75点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「真相が判明するラストは秀逸である。長回し撮影を駆使して浮かび上がってくるのは、ジェニーを含めた人々の、少女の死をめぐって生じる罪悪感であり、良心の呵責である。そこから現代社会に生きることの倫理観が浮き彫りになる」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 秦早穂子氏は、「開けないドア。開けてしまうドア。期せずして正反対の問題も暗示され、注目したい。今日ほど、世界の人たちが、ドア一枚の内と外、危険に晒され、揺れ動く時代はないのだから」と述べています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「外傷を手当てし、脈拍を測り、体の不自由な患者に寄り添う。そうした細かな描写を積み重ね、誠実で腕もいいが不器用な面もあるジェニーが、少女をめぐる真実と自分の進むべき道を見いだしていくさまを描く。その手並みの鮮やかさ、そして深い余韻を残すラストは必見」と述べています。



(注1)監督・脚本は、ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
 原題は「La fille inconnue」(The Unknown Girl)。

 出演者の内、アデル・エネル(以前はアデル・ハネルと表記)は『黒いスーツを来た男』、ジェレミー・レニエは『少年と自転車』で見ました。

(注2)ジェニーは、しばしば窓を開けてタバコを吸いますが、窓の下は高速道路であり、その向こうには大きな川が見えます。
 後の話からすると、映画の舞台となっているのは、ベルーギーのリエージュでしょう。

(注3)この冒頭のシーンはじっくりと映し出されますが、この記事に掲載されている監督インタビューにおいて、リュック・ダルデンヌ氏は、「最初のシーンが、この映画において重要な点を物語っていて、彼女は"耳"なのです。だからこそ、アデル・エネルを選んだのです。みんなの耳になれる人」と述べています。

(注4)医者になるのを諦めて田舎に戻ろうと準備をしているジュリアンのところに行って、ジェニーは、「調べたらイリアスは、脳腫瘍でもてんかんでもなかった」、「あなたは、良い医者になれる」と言います。

(注5)ジェニーを歓迎して大病院で催されるパーティー(本文の(2)で触れています)の件で。

(注6)ジェニーが警察に話したところによると、診療所の診療時間は午後7時までで、インターホンのブザーが鳴ったのは、それよりも1時間後だったとのこと。

(注7)あとで、ジェニーはジュリアンに、「あの時、私もドアを開けたかった」、「でも開けさせなかったのは、あなたに、力関係を見せつけようと思ったから」と話します。

(注8)大病院のリガ医師(ファブリツィオ・ロンジォーネ)は、23人の候補の中からジェニーを選んだだけに、いろいろジェニーを説得します(「後任の募集は1週間待つから」などと言って)。

(注9)例えば、パスポートを見せたくないという理由で病院に行くのを拒んで傷が化膿してしまった患者が、通訳らしき男を連れて駆け込んできたり、診断書を偽造してくれと頼みに来る非常識なカップルも登場します(むろん、ジェニーは断ります)。

(注10)アブラン医師も、「ドアは開けるべきだった」、「けれど、殺したのは君じゃない」とジェニーに言います。

(注11)さらにジェニーは、殺された少女の葬儀こそ逃してしまいましたが、葬られているのが無縁塚と聞いて、10年分の埋葬料を支払います(およそ5万円:身元が判明したら、家族が遺骨の引き取りに来るだろうから、とジェニーは考えたようです←映画では、後になると身元が判明します)。

(注12)小石川養生所の所長で通称“赤ひげ”と呼ばれている新出去定。

(注13)長崎帰りの若い蘭学医。
 “赤ひげ”の方は、伝統的な漢方医でしょう。

(注14)ジェニーが、「5年も勉強したのだから、医師になれる」、「研修も1週間残っているだけ」と言うと、ジュリアンは自分のことを話し出します。「発作で震えるあのイリアス少年は、父に殴られた僕だった。近くの医師は、それを見抜けなかった」、「父のことは考えたくなかった」、「それが医師を諦めた理由だった」などと。

(注15)上記「注3」で触れているこの記事に掲載されている監督インタビューにおいて、ジャン=ピエール・ダルデンヌ氏は、「2014年の6月に、偶然、アデル・エネルと会ったのです。……それまでは、医師を40歳くらいに設定していたのです」と述べています。

(注16)劇場用パンフレット掲載の監督インタビュー記事において、ジャン=ピエール・ダルデンヌ氏は、「ジェニーの詳細を伝えることにこだわる必要はないと思いました。脚本の草稿段階では、彼女の私生活にも触れていたのですが、そうした要素は不要に思えたのです」と述べています。

〔補注〕本作を見た後で、ダルデンヌ兄弟の監督作品『サンドラの週末』(2014年)をDVDで見ました。
 ある零細企業で、社長の提案によって、病気休職していたサンドラマリオン・コティヤール)の復職を認めるのか、それとも臨時ボーナスの1000ユーロを受け取るかについて従業員投票が行われることになり、サンドラは復職したいので、16人の従業員に復職を認めてくれるよう、週末の2日をかけて一人一人に説得に回るというお話。
 うつ病上がりのサンドラにとっては実に厳しい状況ながらも、夫(ファブリツィオ・ロンジョーネ)に励まされたりして、各人の家を回ります。賛成してくれる人もいれば、内情の苦しさを言い訳にして反対する者もいます。そのたびに、サンドラの感情が大きく揺れ動きます。さあ、投票の結果はどうなるのか、というところで見る者の興味を惹きつけます。
 ただ、1000ユーロ(およそ12万円)が大金とされるのだろうかとか、元々こんな選択をわざわざ社長が従業員投票に任せるのだろうか、など疑問が湧いてしまい、この物語はファンタジーなのだろうなとも思ったりしてしまいます。
 まあ、素のマリオン・コティヤールを見ることが出来、人々に善意がないわけではないことや、サンドラが次に向けて前に踏み出そうとする姿勢が描かれていることで良しとすべきなのでしょう。
 なお、サンドラが、従業員の一人一人を訪ね歩く姿は、本作のジェニーが、殺された黒人の少女の身元を求めて、周囲を訪ね歩く姿を思い起こさせます(なんだか、日本のお役所などで見られるという“根回し”に似ているかもしれませんが)。



★★★☆☆☆



象のロケット:午後8時の訪問者


LION/ライオン 25年目のただいま

2017年04月26日 | 洋画(17年)
 『LION/ライオン 25年目のただいま』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)アカデミー賞の6部門にノミネートされた作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭の舞台は、インド中西部の田舎町。
 映画は、空から地上を俯瞰する画面が続きます。カメラは、高いところから次第に地表近くまで降りてきて、森が終わると道路が見えてきます。
 そして、「これは真実の物語」との字幕。

 次いで、幼い子供(5歳のサルーサニー・パワール)が、たくさんの蝶が舞っているのを見ています。兄のクドゥアビシェーク・バラト)が「サルー」と呼び声をあげます。

 それから、貨車の上に乗っているクドゥが、「早く乗れ」とサルーに言って、貨車の中に引き上げます。そして、クドゥは、貨車に積まれていた石炭をサルーに渡します。
 すると、警備員がやってきて、「お前ら、早く降りろ!」と怒鳴ります。
 「インド カンドワ 1986年」との字幕。
 貨物列車はトンネルに入り、それを抜けると、少年たちは貨車を飛び降ります。
 クドゥが「今日は、たくさんの石炭をとった」と言うと、サルーは「すごいだろ」と応じます。

 2人は市場で、石炭と牛乳を交換します。
 サルーが「揚げ菓子(注2)も欲しい」と言うと、クドゥは「いつか買ってやる」と答えます。
 森を抜けて家に戻って、母親・カムラプリヤンカ・ボセ)に牛乳を渡すと、母親が「何処で牛乳を」と驚きますが、2人は笑って答えません。
 母親は、サルーに「妹のシェキラを見ていて」と言って、家を出ていきます。

 暗くなって寝ていると、クドゥが家を出ようとしているのを見て、サルーが「僕も行く」と言います。
 クドゥは、「夜通し働く大人の仕事だから、お前にはムリ」と答えるのですが、サルーは、そばに置いてあった自転車を持ち上げ、「力はある」と言い張ります。クドゥは根負けして、「わかった」と応じます。
 2人は、自転車で駅に行き、貨車に乗り込み、少し行った先の駅で降ります。
 ですが、サルーは、眠気に襲われて目が開けていられません。駅のベンチで横になって寝てしまいます。クドゥは、仕方なく「仕事を見つけて戻ってくるから、ここで待ってろ」と言い置いて、行ってしまいます(注3)。

 ここから、サルーの劇的な人生が始まるのですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、5歳の時にインドで迷子になった男の子が、その後、養子となってもらわれていったオーストラリアの家庭で育ちながらも、インドにいる家族への思いは止みがたく、おぼろげな記憶しかなかったにもかかわらず、とうとう母親を探し出すという実話に基づくお話。主人公の青年が実際にインドで旅をして探すというのではなく、グーグルマップで映し出される航空写真を使って捜索するだけなので、映画全体が単調になってしまった感が否めないものの、やっぱり感動してしまいます。

(2)こうした子が親を、あるいは親が子を探し回る物語は色々あるようです。
 例えば、小説『クオレ』(1886年)の挿入話の「母をたずねて三千里」でしょうし(注4)、最近では、DVDで見た『消えた声が、その名を呼ぶ』(2015年)は、アルメニア人の父親が自分の娘を探し求めて、トルコからアメリカまで旅を続けるというものでした。

 「母をたずねて三千里」は、日本ではアニメ版が知られていますが、原作については、この青空文庫の翻訳版「母を尋ねて三千里」(日本童話研究会訳)で読むことが出来ます。
 ごく大づかみに言えば、母親が、2年ほど前に、ジェノバからアルゼンチンのブエノスアイレスに出稼ぎに行ったものの便りが途絶えてしまったので、13歳になる少年マルコが船に乗ってアルゼンチンまで探しに出かけていくというものです。
 マルコは、旅の途中で所持金が尽きてしまったり、病気になったりもし、最後の1週間はアンデス山脈の麓の道を徒歩で歩かねばならなかったにもかかわらず(注5)、人々の好意もあってなんとか母親のもとにたどり着きます(注6)。

 他方で、本作の主人公のサルーは、マルコとは逆に、自分自身が、生まれ育ったインドからオーストラリアのタスマニアに渡り、25歳になって故郷に残る母親らを探すという話です。
 その探す方法は、マルコのように、自分でインドに出かけていくというのではなく、自分の持つ幼少期のおぼろげな記憶を頼りに、Google-Earthで探すという、いかにも現代的なやり方です。



 頼りにするのは、駆け回った森の印象、駅のそばにあった給水塔、そして“ガネストレイ(Ganestlay)”と耳で覚えていた地名くらい(注7)。
 さらには、メルボルン大学(注8)に入った際の仲間から、列車に乗っていた時間と列車の時速を調べれば、捜索の範囲が絞られるのでは、というアドバイスを受けて、サルーはGoogle-Earthを使い出します(注9)。
 ただ、これは、コンピュータのディスプレイを見るだけの作業ですから、単調なことこの上ありません。
 マルコのように自分で旅をする方が、親探し物としてはきっと盛り上がることでしょう。

 それでも、その間、サルーの身の上に何も起こらなかったわけではありません。
 優しく育ててくれた養父母(ニコール・キッドマンデヴィッド・ウェンハム)を傷つけることになるからと相談せず、自室で秘密裏に捜索作業を続けますが、没頭する余り、満足に就職もせず、恋人・ルーシー(ルーニー・マーラ)をも遠ざけてしまいます。
 ただ、そうなると、余計に話が単調になってしまいます。



 もう少し言えば、本作が単調に思える他の要因の一つとして、演じる俳優があまりにも可愛いかったり、美男・美女過ぎたりして、欠点が見受けられないことも挙げられるのではないでしょうか?
 特に、5歳のサルーを演じるサニー・パワールは、こんな子役を登場させるのはルール違反ではないかと観客に思わせるくらい可愛いのです!



 また、大人になってからのサルーを演じるデヴ・バテルも、今や、立派過ぎる顔を持った世界的な俳優となっていますし、その恋人役のルーニー・マーラも、『キャロル』での演技は、主演のケイト・ブランシェットに勝るとも劣らない魅力的なものがありました。
 それに、ニコール・キッドマンについては、言わずもがなでしょう。
 こういう俳優が一つの作品に揃うことは、一面では豪華といえるでしょうが、他面では、それぞれの特徴がなくなってしまうという欠点もあるのではないでしょうか?

 とはいえ、5年ほど経過したあと、それまでの捜索範囲の外側をなにげなく見た時に、ピンとくるものがあって、ついに故郷を探し出せた瞬間のサルーの喜びとか、サルーと再会できた際の実母の嬉しがりようには、それまでの経過についてあれこれ言いたくなるにしても、やっぱり感動してしまいます。

(3)渡まち子氏は、「この驚きの実話には素直に感動を覚えた。それはデヴ・パテルやニコール・キッドマンの説得力のある名演技と、子ども時代のサルーを演じるサニー・パワールの圧倒的な存在感があるから」として70点を付けています。
 藤原帰一氏は、「感動的なお話ですし、俳優もニコール・キッドマンにルーニー・マーラと第一級。それでも、インド社会の視点から見たらどんなお話になるだろうか、そこがちょっと気になりました」と述べています。
 真魚八重子氏は、「サルーが誠実さによって、人を傷つけてしまうアンバランスさ。彼は実母を捜す行為が、養母を裏切るようで、彼女に合わせる顔がないと感じる。その不器用な感情は、善人ゆえの融通のきかなさで切ない。演出で頻繁に行われる、過去の幻影と、現在をワンショットで捉えるカットも魅力的だ」と述べています。



(注1)監督はガース・デイヴィス
 脚本はルーク・デイヴィス
 原作はサルー・ブライアリー著『25年目のただいま 5歳で迷子になった僕と家族の物語』(静山社)。
 原題は「LION」(原著のタイトルは「Lion:A Long Way Home」)。

 なお、出演者の内、最近では、デヴ・パテルは『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、ニコール・キッドマンは『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』、ルーニー・マーラは『キャロル』で、それぞれ見ました。

(注2)この動画では、幼いころ市場で見たものを、25歳になったサルーがキッチンで見つけて昔を思い出すことになる様子がよくわかります。
 ただ、この記事には、言われている「ジャレビ」ではなく「イマルティ」ではないか、と述べられています。同記事によれば、「ジャレビは小麦粉が主原料」ながら、「イマルティはレンズ豆の粉を使い、サフランで色を、カルダモンで香りをつけ」るとのこと。

(注3)知らない駅のベンチで寝ていたサルーですが、しばらく経って目を覚まし、周りを見回しても、兄のクドゥどころか人っ子一人おりません。近くに停車していた列車の中で兄を探していると、また眠気に襲われ、座席に横になって寝てしまいます。ところが、その列車は、サルーが寝ている間に動き出してしまい、おまけに回送列車のために駅には停まらずにドンドン走り続けるのです。こうしてサルーは、1人で、全く見も知らぬ、そして言葉も通じないコルコタ(カルカッタ)に降り立つことになります。

(注4)『クオレ』の翻訳本については、例えばこちら
 なお、「母をたずねて三千里」の原題は「アペニン山脈からアンデス山脈まで」。

(注5)例えば、青空文庫版から引用すると、「こんどはコルドバへ行くのですがお金を一銭も持っていないのです」、「マルコは悲しくなってただすすりあげて泣いていました。マルコはとうとう病気になりました。三日のあいだ荷車の中で何もたべずに苦しんでいました」、「彼は元気を出して歩きました。ひろいきび畑を通ったり、はてしない野の間をぬけたり、あの高い青い山を見ながら四日、五日、一週間もたちました。彼の足からはたえず血がにじみ出ました」。

(注6)母親は、アルゼンチン北部のツークーマンで病に臥せっていて、マルコがやっとの思いで辿り着くと、それまで拒否していた手術を受けて快方に向かいます(「医者は入口に出て来て「おかあさんは助かった、」といいました」)。

(注7)この記事によれば、サルーの出身地は、“Ganestlay(あるいは Ginestlay)”と発音するのではなく、カンドワ(Khandwa)の北部郊外の「Ganesh Talai.」とされるところのようです(Googleマップの航空写真には、カンドワのすぐ北部に「ガネーシャ タライ」の記載があります)。

(注8)サルーは、メルボルン大学で「ホテル経営」を学びます。
 ちなみに、前回の『T2 トレインスポッティング』に登場するベグビーの息子も、大学に行って「ホテル経営」を学ぶと言っています。一時期「ジャーナリズム」が流行ったようですが、今や「ホテル経営」なのでしょうか?

(注9)きっかけは、上記「注2」で触れた「ジャレビ」を、仲間の部屋のキッチンで見たことです。



★★★☆☆☆



象のロケット:LION/ライオン 25年目のただいま


T2 トレインスポッティング

2017年04月24日 | 洋画(17年)
 『T2 トレインスポッティング』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)以前見た第1作目(1996年)の印象が大層強かったので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ランニングマシンの上で走っている男たちの姿が映し出されます(注2)。
 その中には、レントンユアン・マクレガー)が。
 マシンのスピードが次第に早くなり、最初のうちレントンはそれに付いて行っていますが、最後に足を踏み外し倒れて、意識を失ってしまいます。

 次いで、70年代半ば頃の古い映像。
 幼い少年たちがサッカーをしています(注3)。
 また、少女たちが縄跳びをしています。

 さらに、場面は変わって、刑務所(注4)の面会室。
 面会に来た弁護士(スティーブン・ロバートソン)が「仮出所の申請が却下された」と言うと、男(ベグビーロバート・カーライル)は「期待していたが」と応じ、弁護士は「言葉もない」と言葉を継ぎます。
 さらに、ベグビー(注5)は、「あと5年か。俺を不死身だと思っているのか?女王にも手紙を書いた。20年もブチ込まれるのだ」、「限定的責任を主張していたら放免されたはずだ」、「このヤロー、主張しなかったな!」と次第に怒り出します。
 弁護士は「状況をよく理解された方が、…」と言って、ほうほうの体で立ち去ります。

 また場面は変わって、薬物依存症治療のためのグループワークで、スパッドユエン・ブレムナー)が、自分のことを参加者に話しています。
 「俺は配管工だった。ある時、夏時間のために時計が1時間進められていることがわからなかったために、現場に出向くのが遅れてしまいクビになった。さらに、別居中の妻・ゲイルと息子・ファーガスとの面会も、時間に遅れておじゃんになってしまった」、「結局、時計のせいで、失業し、息子も失ってしまった」、「それで15年もヘロインに溺れることに」等と話します。

 今度は、車の中で、男(シック・ボーイジョニー・リー・ミラー)が、傍らの座席に座っている男(ゴードン・ケネディ)を恐喝しています(注6)。
 「この動画をあんたにやるよ。俺に協力したら公開しない」、「お前は、教頭で、年収7万ポンド(約1000万円)だろ。年収の10%を無期限で振り込め。口座番号はメールする」、「奥さんがこれを見たらどうなるのかをよく考えろ」、「とりあえず、今週末に1000ポンドをよろしく」と脅します。

 このように、本作の始めの方では、前作で活躍した4人(注7)のそれぞれの現状が描かれ、そこにアムステルダムからエジンバラにレントンが戻ってきて物語が動き出しますが、さあ、どうなるのでしょう、………?

 本作の前編については、かなり昔に見ただけなので、ネットで探した動画で再確認した上で映画館に行きましたが、これは正解でした。本作でも、前作の映像が所々で映し出されはするものの、そのストーリーが辿り直されはしないため、本作に登場する4人がどうしてそのような行動に出るのかは、前編のストーリーを知らないとわけがわからなくなってしまうでしょう。逆に、第1作をよく知っていれば、本作の展開も充分に納得がいき、20年という時間の長さを感じさせるとはいえ、相変わらずの行動にまたもや圧倒されてしまいます。それにしても、主役を演じたユアン・マクレガーは、相変わらずの若さを保っているなと驚きました。

(2)通常の第2作目でしたら、その冒頭では、前作のあらましが描かれることでしょう。特に邦画の場合、その傾向が強い感じがします(注8)。逆に、洋画の場合、第2作目で前作のあらましがきちんと描かれることは、少ないように思われます(注9)。
 本作においては、前作が20年前に制作されているにもかかわらず、いきなり、アムステルダムで暮らしているレントンの姿が描かれます。
 前作のあらましを冒頭で描いたりしたら、映画全体のトーンが歪んでしまう恐れもあり、あるいは本作のやり方が正しいのでしょう(注10)。でも、前作をある程度復習せずに本作を見たりすれば、しばらく混乱状態になってしまうのではという気もします。

 幸いなことにクマネズミは、本作を見る前に、予めそのDVDをTSUTAYAで借りてなんとか復習できましたので、すぐに映画の中に入り込めました。
 例えば、本作の物語が進行してしばらく経って、突然、遠くに山の見える原野(moor)のシーンとなりますが、なぜこんな光景が映し出されるのか、前作を見ていない観客にはうまく理解できないかもしれません。逆に、第1作を知っていると、「アッあの場面と同じだ」とつながりが分かり、妙に納得できてしまいます(注11)。



 ただ、そこにはトミーもベグビーもおりません。
 本作の出発点を見てみると、トミーはエイズで死んでしまっていますし、ベグビーはエジンバラにこそいますが、その郊外に設けられている刑務所に入っています。
 その上、スパッドとシック・ボーイもエジンバラにいますが、互いに連絡を取っていないようですし、レントンはアムステルダムです。
 これでは、若い5人がエジンバラの街中を縱橫に走り回って振り撒いた前作の熱気など、本作に期待しても難しいのでは、と見る者に思わせます。

 でも、映画が展開しだすと、彼らは何も変わっていないのでは、という気にもなってきます。
 レントンが、20年間いたアムステルダムを引き払ってエジンバラに戻ってくると(注12)、結局、4人はともかくエジンバラにいることになりますし、スパッドとシック・ボーイはまだドラッグから足を洗えていません。要すれば、4人は、20年も経過したにもかかわらず、第1作と同じような状況に置かれていることになります。

 それでも、皆のものだった現金をレントンが1人で持ち逃げしてしまったことが原因で、ベグビーはレントンを殺そうと付け狙いますし(注13)、スパッドもシック・ボーイもレントンを簡単に受け入れようとはしません(注14)。こんな状態では、前作のように、4人の再結集は見られないことになります。



 ですが、金が必要になると、前作同様に(注15)、彼らは正当な手段にはよらずに盗みを働いたりします(注16)。
 それに、シチュエーションはかなり異なっていますが、前作同様、トイレのシーンはあります(注17)。

 前作のラストでは、仲間を裏切ったレントンの声が流れます。
 「なぜそんなことをしたかって?百万通りの答えがあるが、どれも皆間違いだ。本当のところは、俺が悪(bad person)だから。だけどそれは変わる。俺は変わる(I’m going to change)」云々。
 本作では、例えば、最後の方でベグビーは、息子(スコット・グリーナン)に対し、「頑張れよ、ジュニア。俺がガキの時は、選択肢はなかった。大学に行ってホテル経営を学ぶとか。時代は変わったんだ。俺の親父は酔っ払い。俺は無学。お前は俺を超える」と言って、息子と抱き合って、家を離れます。

 本作を見ながら、はて、彼らは“change”できたのだろうか、何かが変わったのだろうか、いやそのままなのだろうか、などということが絶えず気になってしまいます。

 話は飛躍しますが、最初に“change”を大きく掲げながらもできなかったじゃないかと前任者を非難して大統領になったドナルド・トランプ氏は、自分なら変えられると大見得を切って、就任すると矢継ぎ早に大統領令を出したものの、実際のところ、重要な案件(注18)では状況を“change”するに至っていないように思われます。

 おそらくは、changeを掲げたり、changeすると決意したりしても、自分自身とか世の中を変えていくのは大変なことであり、他方で、changeを標榜せずに現状維持を望んでも、逆に、自分も世の中も変わっていってしまうのかもしれません。
 そんなつまらないことをあれこれ考えながら、映画館をあとにしたところです。

(3)渡まち子氏は、「社会の底辺で生きるクズどもはぶざまにもがくばかり。それでも人は生きていかねばならないのだ。ほろ苦くて懐かしい同窓会に出席したような気分である」として70点を付けています。
 前田有一氏は、「間違っても4人と似たような境遇の負け組層の人たちにはすすめられないし、見ないほうが無難だ」が、「逆に余裕のある皆さんは、わざわざ90年代のスタイリッシュムービー風に演出したと思われる、相変わらずのダニー・ボイルの見事なテクニックを堪能しに映画館へどうぞ」として50点しか付けていません。
 渡辺祥子氏は、「女たちは賢く変化し、男たちは子供のまま。女と男の違いはそこにある? 前作を見た頃が懐かしく甦る良き続編が誕生した」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。



(注1)監督は、前作と同じダニー・ボイル(最近では、『スティーブ・ジョブズ』を見ました)。
 脚本は、ジョン・ホッジ
 原作は、アーヴィン・ウェルシュ著『T2 トレインスポッティング』〔池田真紀子訳:ハヤカワ文庫NV上・下←この本の原題は『Porno』(2002年)〕。
 本作の原題は『T2 Trainspotting』(“trainspotting”の意味については、こちらをご覧ください)。

 なお、出演者の内、最近では、ユアン・マクレガーは『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』で見ました。

 また、映画を見に行った渋谷シネパレスでは、すぐに劇場用パンフレットが売り切れになってしまったようで、クマネズミは手に入りませんでした。

(注2)場所は、どうやらオランダのアムステルダムのようです。

(注3)その中に、本作に登場する4人が混じっています。

(注4)エジンバラ市の西の郊外にあるソートン刑務所(又はHMPエジンバラ)。

(注5)どうやらベグビーは、殺人罪で刑務所に入っているようです。

(注6)シック・ボーイは、ブルガリア生まれのヴェロニカアンジェラ・ネディヤコバ)を使い、エジンバラの有力者と彼女との痴態を隠しカメラで撮影し、それを材料にして恐喝します。

(注7)前作で描かれていたトミーケヴィン・マクキッド)は、エイズに感染し、前作の中で死んでしまいました。

(注8)例えば、『64 ロクヨン 後編』、『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』、『寄生獣 完結編』など。
 尤も、『新宿スワンⅡ』とか『土竜の唄 香港狂騒曲』などでは、前作のあらましが最初にきちんと描かれてはおりません。

(注9)例えば、『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』、『ゴーストバスターズ(2016)』、『マリーゴールド・ホテル 幸せへの第二章』、『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』など。

(注10)『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』のように、時間稼ぎのために(わざわざ2部作にするほどの長さを持っていない作品を前・後の二つに分けたために、特に第2作目が短くなってしまいました)、前作のあらましを冒頭に持ってきたのではないか、と言いたくなるような作品もありますし。

(注11)前作では、トミーに連れられて、原野の中の無人駅にレントン、シック・ボーイとスパッドが降り立ちます。そして、4人は山の方に向かって歩き出します。でも、トミー以外の者から文句が出てしまい、すぐに駅に戻ることになります。レントンは「我々は、健康的で民主的な決断を下し、できるだけ早くドラッグを再開することにした。それには12時間かかった」とモノローグで言います。
 そのことがあるので、本作では、エイズで死んだトミーの追悼の意味を込めて、レントンと、シック・ボーイ、スパッドの3人が同じ駅に降り立ちます。

(注12)レントンは、アムステルダムから戻ってシック・ボーイにあった際、「結婚している。子供は2人いる。息子と娘だ」「就職し、在庫管理をやっている」などと言っていたのですが、その後で「実は、離婚している」「子供の話は嘘だ」「今や帰るべき家も家族もいない」と打ち明けます(合わせて、「肝不全で手術も受けた」「30年はもつらしい」とも言います)。

(注13)ベグビーは、自分の体を傷つけて病院に入院した際、見張りの警官がトイレに行った隙きにベッドを抜け出し、医者になりすまして病院の外に出ることによって、脱獄に成功してしまいます。

(注14)レントンが、ドアの隙間から覗くと、スパッドが頭からビニール袋をかぶって床に倒れているのが見えたので、慌てて部屋に飛び込んでビニール袋を破ると、スパッドは「なんてことしやがる!俺の人生を潰しただけでなく、今度は死をも潰しやがった!」と怒ります。レントンが「お前のために4000ポンド残したではないか?」と言うと、スパッドは「そんな大金が俺の手元にあったら、どうすると思う?」と問い返す有様。レントンは「そうだったな」と答えるしかありませんでした。

 また、レントンがシック・ボーイに会った際には、シック・ボーイはレントンを棒でなぐりつけ、「あの金はどうした」と問い詰めます。その後で、レントンは、シック・ボーイに「お前の取り分だ」と金を渡しますが、レントンが引き上げたあとで、シック・ボーイはヴェロニカに「今更返すだと。どうしろと言うんだ?」「今度はやつを騙して痛めつけてやる」「こんどこそやっつけてやる」と息巻くのです。

(注15)前作では、例えば、レントンとスパッドは万引をして捕まりますし、ベグビーは宝石強盗をします。

(注16)本作では、レントンとシック・ボーイは、プロテスタントの集会に潜り込み、人々のコートが掛けられている一時預けのところで、それらのポケットに収められている財布からキャッシュカードを盗んで、ATMで現金を引き出したりします〔2人は、警備員に怪しいと睨まれますが、「1690年7月1日のボインの戦い」の歌を歌って(特に「Catholic no more」のところを声を張り上げて)、窮地を脱し、ATMではその“1690”が暗証番号に違いないとして、多額の現金を手にすることが出来ました〕。

(注17)第1作では、レントンは、貰った座薬を探しにトイレの便器の中に潜り込みますが、本作では、レントンは、彼を付け狙うベグビーにトイレの中に追い込まれてしまいます。



(注18)例えば、中東の国からアメリカへの入国を制限する大統領令については、司法の方からストップがかかり、オバマケアにかわる医療保険制度を打ち立てるべく議会に提案した法案は撤回してしまい、メキシコとの国境に設ける壁に係る予算は来年度回しになっています。



★★★☆☆☆



象のロケット:T2 トレインスポッティング


わたしは、ダニエル・ブレイク

2017年04月18日 | 洋画(17年)
 『わたしは、ダニエル・ブレイク』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)本作(注1)が昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した作品ということで(注2)、映画館に行きました。

 本作(注3)の舞台は、現代のニューカッスル
 本作の冒頭では、主人公のダニエル・ブレイクデイヴ・ジョーンズ)と、雇用支援手当(ESA)の審査官との会話が音声で流れます(注)。
 以下は、そのやり取りのあらまし。
「他人の助けがなくても、50m以上歩けますか?」(女性の声)
「はい」(ダニエル)
「腕を持ち上げて、上着の上のポケットに物を入れることができますか?」
「52ページに書いたとおりだ」
「頭の上に腕を持ち上げて、帽子をかぶることができますか?」
「話したように、手足は悪くないんだ。カルテを持っているだろ。悪いのは心臓なんだが」
「電話器のボタンを押せますか?」
「指も悪くない。心臓から離れるばかりだ」
「自分のことをほかの人に伝えられますか?」
「心臓が悪いのは伝わらない」(注4)

 次いでダニエルは、住んでいるアパートの外通路を歩いていて、自分の部屋の近くにゴミ袋が置きっ放しになっているのを見つけます。
 その時、隣の部屋から、チャイナという渾名の若い黒人(ケマ・シカズウェ)が現れたので、ダニエルは「生ゴミをここに置くなと言ったろ!」と怒ります。
 すると、チャイナは、「ご免」と言いつつも、「大きな荷物が届く。とても重要な品物だから、受け取っておいてくれないか?」と頼んだ上で、ゴミを手に提げて行ってしまいます。

 さらに、病院の場面。
 検査技師が、超音波検査器でダニエルの心臓の具合を診ます。
 別の部屋でダニエルが、「仕事にいつ戻れるんですか?」と尋ねると、心臓専門看護師は、「良くはなってきているものの、まだムリですね。薬は今まで通り。リハビリも続けないと。そして、よく休むことです。ダメなら手術です」と答えます。
 それに対し、ダニエルは、「俺は夜型なんだ。死んだ女房の看病で、その癖がついた」などとつぶやきます。

 こんなところが本作の始めの方ですが、さあこれから、どんな物語が待ち構えているのでしょうか、………?

 本作の主人公は、心臓発作を起こして仕事を医師から止められた59歳の大工。それで政府から手当を支給されていたところ、その継続を審査する際の主人公の態度がまずかったこともあり、支給が停止されてしまいます。そこで別の手当を申請しようとしますが、複雑な手続きに音を上げます。そんな時に、職業安定所の事務所で問題を引き起こしたシングルマザーと知り合いになって、……という物語。本作では、社会福祉を巡るいろいろな問題が描き出されていて興味深いところ、それだけでなく、主人公とシングルマザーとその子供たち、そして主人公と隣人との交流の様子も描かれており、そちらの方もなかなか面白いなと思いました。

(2)本作は、大工で59歳のダニエルが主人公。



 彼は、隣に住むチャイナと仲良くなったり(注5)、さらには、JSA(求職者手当)の申請のために職業安定所(Jobcentre Plus)に行った際に、そこで問題〔補注〕を引き起こしたシングルマザーのケイティヘイリー・スクワイアーズ)と知り合いになり(注6)、そこから彼女やその子供たちとも交流したりしますが(注7)、そんなところが本作ではなかなかうまく描き出されてもいて、演じる俳優たちの人柄の良さがにじみ出ている感じがします。



 また、本作では、イギリスの福祉関係機関が手当受給者等に接する対応の仕方に、様々な問題があることが描かれています。
 例えば、ダニエルは、ESAの支給が受けられなくなって、今度はJSA(求職者手当)を申請することになるのですが、その手当に関する様々の書類が電子化されていて(注8)、PCに触ったことがないダニエルは四苦八苦する羽目になります。これはなんとかうまく救済する必要があるように思われます(注9)。

 でも、この作品でよくわからないのは、例えば、次のような点です(注10)。
 主人公・ダニエルの心臓が悪いのは事実としても、それを治療するのは病院等の医療機関の役割であって、ESA等の支給に係る福祉関係機関が治療に当たるわけではないでしょう。
 現に、ダニエルは、病院で医師の診断を受け、処方箋を出してもらったりしているわけですから、自分の心臓病については、専らそちらに任せれば良いはずです〔イギリスでは、ほとんど医療費がかからないのですし(注11)〕。
 ですがダニエルは、上記(1)で見るように、ESAの方でも、しつこいように自分の方から心臓病の話を持ち出します。
 それに対して、ESAの継続が可能かどうか審査する審査官の方は、心臓病の話は一切無視して、自分に与えられている領域(就労可能な状況なのかどうかの判定)内の質問をし続けます。
 確かに、担当医の観点からしたら、ダニエルは就労不可なのでしょう。
 そして、ダニエルにしたら、医者が就労不可と言っているのだから、医者でもない者(注12)が更に審査する必要などないのだ、と言いたくなってしまうのでしょう。
 ですが、イギリスの制度設計の考え方を推測すると、ESAの支給継続の審査にあたり、就労可能かどうかの判断は、担当医とは別の観点から行うこととされているのではないか、と思われます(担当医の書いたカルテは審査官の手元にあるのですから)。
 劇場用パンフレット掲載の「STORY」には、審査官が「まるでブラックジョークのような不条理な質問」をすると書かれていますが(注13)、もしかしたら、逆にかなり意味のある質問をしていたのではないでしょうか?
 というのも、よくはわからないのですが、この審査官は、ダニエルが、何にせよとにかく仕事をする能力を持っているのかどうかを判定しようとしているように思われるからですが。
 それに、元々ダニエルは、仕事をしたいという姿勢をあちこちで表明しています(注14)。
 ですから、審査官に接する態度がまずかったこともあるとはいえ、ダニエルが、「就労可能」と判断されて(注15)、ESAの支給が打ち切られてしまうのも、ある意味で仕方がないようにも思われるところです(注16)。

 ただ、ここらあたりのことは、イギリスの福祉制度の詳細がわからないと、確実なことは言えないでしょう(注17)。
 それでも、本作を見ただけで、ダニエルに対する審査官の対応が酷くおかしいと簡単に言い切ることは出来ないのでは、と思えるのですが。
 そして、求職者手当(求職者手当)の申請などの面でも、様々な問題があるように本作では描かれています。ですが、そこらあたりも、イギリスの事情を詳しく調査すれば、別の見方があるいはできるのかもしれません(注18)。

 下記の(3)で触れる前田有一氏が、「英国労働党首はメイ首相に「この映画を見ろ」と、議会で言ってのけたという。私も同様に、あらゆるなりすまし保守、世間知らずの自己責任論者、新自由主義者の総理大臣に「この映画を10億回見ろ」と言っておきたい。見終わるまで彼らが復帰しなけりゃ、世の中少しは良くなるだろう」と言っています。
 ここまで言うのであったら、前田氏は、イギリスの福祉関係の制度等について、さぞかし詳細に調べ十分に理解した上でのことなのでしょうね、と不遜にもクマネズミは思ってしまいました(注19)。

 まあそれはともかくとして、こうした問題については、いきなり熱く語るのではなく、一体どんな事情にあるのかを冷静になって調べた上で、一つ一つ判断していくべきではないかと思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「ケン・ローチに二度目のカンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)をもたらした本作は、これまでのキャリアの延長線上にありながら、頂点ともいえる、底辺で生きる人々への力強い応援歌だった」として75点を付けています。
 前田有一氏は、「逆境においても自らの足で立とうとする誇りある人間を、いかに福祉行政の現場が見下し、打ち砕いているか。世界中でいま起きている、まさにリアルタイムなレポートである」として90点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「市民のための役所が規則を振りかざして市民の要望を拒むという矛盾。この世界共通の官僚主義的な弊害から、ダニエルとケイティは仲良くなるが、2人の現実は厳しい。そんな2人の絶望と希望がローチ監督のリアルな演出で現実味を帯びて描き出される」として★5つ(「今年有数の傑作」)を付けています。
 藤原帰一氏は、「ストレートな社会正義の追求から出発したケン・ローチは、イギリス社会の底辺に暮らす人々の中にユーモアを発見した人でもありました。ところがこの作品では、ユーモアを奪ってしまう。「わたしは、ダニエル・ブレイク」というこの題名は、自尊心を奪われた男の叫びにほかならない。つらい映画でした」と述べています。



(注)監督はケン・ローチ
 脚本はポール・ラヴァティ
 原題は「I,Daniel Blake」。

(注2)ただ、ケン・ローチ監督の作品は、どうも肌が合わない感じがして、殆ど見ておりません。
 なお、カンヌ国際映画祭でのグランプリは、最近見た『たかが世界の終わり』。

(注3)ダニエルは、心臓発作を引き起こし医師から仕事を止められたために、ESA(Employment and Support Allowance:雇用支援手当)を支給されてきましたが、さらにその継続が可能かどうか審査するために、審査官が、ダニエルに様々な質問をしています。
 なお、ESAは、年金受給年齢(原則65歳)未満の者が疾病や障害によって就労できなくなった場合に支給されるもので、SSP(法定疾病手当)とかSMP(法定産休手当)、そしてJSA(Jobseeker’s Allowance:求職者手当)といったものを受給している場合には、資格がありません。
 なお、ESAを受給してから13週までの間に、受給者の状況が審査され、就労可能な状態だと判定されれば、ESAは受給できなくなり、JSAの申請が必要となります。
 本作でのダニエルの状況は、この13週目の振り分けに該当しているのではないでしょうか?
 また、13週までの支給金額は、25歳以上の場合71.7ポンド(週)とされていますから、1カ月ではおよそ4万円あたりではないかと思われます(ここらあたりのことは、2013年のこの記事によります)。

(注4)もう少々続けると、
「もう一回、悪態をついたら審査を止めますよ。…我慢ができなくなって、すべてを投げ捨ててしまったことはありますか?」
「ないけど」
「目覚まし時計をセットしたり出来ますか?」
「なんと!はい」
「ペットを飼っていますか?」
「そんなことが書式に?」
「あなたが動きやすいかどうか知りたいので」
「ペットなど飼っていないが、いったいあなたは、何の資格を持っているというのだ?」
「FSAの審査を行うために労働年金省が指名した医療専門家です」
「私は、心臓発作に襲われて、足場から落ちたんだ。早く現場に戻りたい。他のことはいいから、心臓のことを尋ねてくれ」。

(注5)チャイナは、通常の職場の時給が安すぎるため(3.79ポンド=日本円で500円位)、中国の知人と連絡を取り合って、中国で生産されているナイキのスポーツシューズを自分の方にかなり安く横流ししてもらって、市価の半分くらいの値段で売り捌き、大きな収益を得ようとしています。ダニエルは、そんなチャイナにPCを教えてもらったりします。

(注6)ケイティは、事情があって、ロンドンからニューカッスルに来たばかり。道に迷ってしまい、約束の時間に遅れて事務所に到着したために、手当が受け取れなくなってしまいます。それで、なんとかしてくれと職員に頼み込むのですが、埒が明きません。それを見ていたダニエルが、ケイティに加勢するものの、逆に2人とも事務所の外に追い出されてしまいます。

(注7)ダニエルは、ケイティが住むことになった家をリフォームするために何度も通ったり、木を彫って作った魚の飾り物を持っていったりします。また、家に引っ込んでいたダニエルのもとに、ケイティの娘・デイジーが食べ物を持って尋ねてきたりもします。



(注8)例えば、JSAの給付を受けている場合、職業安定所の事務所に求職活動の結果等を書面で報告することになっていますが、この書面が電子化されているようです。

(注9)日本で言えば、例えば、安い料金で行政書士に電子書類を作成してもらえるよう依頼することなどが考えられないのでしょうか?

(注10)そして、そういうことを描き出すケン・ローチ監督の基本的な姿勢にも、疑問を感じてしまいます。
 同監督は、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事(インタビュアーは石津文子氏)の中で、「ダニエルとケイティが直面する問題は英国だけではなく、多くの国で起きています。細かい違いはあっても、どこの国でも問題の根幹は同じ。官僚主義です」と述べています。
 そして、「問題の解決方法は存在するのでしょうか」との質問に対し、「あります。共同でものを所有し、決断も共同でする。独占しようとしないこと。過剰な利益を追求せず、誰もが協力しあい、貢献し、歓びを得られるような仕組みを作り、大企業とは違う論理で、経済をまわしていくこと。それは、社会主義と呼ばれるものです。ここで言う社会主義は、旧ソ連のものとは違います。あくまで民主主義の上で成立する社会主義なんです」と述べています。
 でも、そうした社会主義の国が、いくら旧ソ連のものと違っているとはいえ、やっぱり「官僚主義」の総本山となってしまい、本作で描かれているような「官僚主義」の弊害が、監督自身が理想とする国においては、目も当てられないくらい跋扈することになるのは、火を見るよりも明らかなように思えます。
 なによりも、下線部分のような「仕組み」を作る際に不可欠となる膨大な規則・ルールの作成・制定・遵守といったところで、今以上の役人を国は抱え込まなくてはならなくなることでしょう!

(注11)イギリスの医療保険制度については、「すべての国民に予防医療、リハビリも含めた包括的保健医療を原則無料で 提供するもの」であり、「財源は 80%以上が租税となっており、他に国民保険からの拠出金が 18%強、患者負担が 1% 強となってい」て、特に、「患者負担については、先述したように原則無料である。かかりつけ医の診断を経た上で、病 院を紹介されたのであれば、その病院での診療は、たとえ検査や手術などを受けたとしも無料 となる。ただし、薬剤費として処方 1 件につき 7.65 ポンド(2013 年 2 月で約 1,120 円)の一 部負担がある。しかし、60 歳以上、16 歳未満、低所得者世帯などはその負担が免除されてお り、免除件数は全体の 85%にのぼっている」とされています(この記事のP.39)。

(注12)加えてダニエルは、審査官に対して「あなた方は、アメリカの会社で働いていると耳にした」と言います。

(注13)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、ケン・ローチ監督は、「ダニエルは、非常にばかげた質問をされる」と言っています。

(注14)勿論、ダニエルは、大工として働きたいと言っているのでしょうが。

(注15)よくはわかりませんが、担当医の方では、ダニエルが大工としての仕事を継続することは難しいがために就労不可と言っているのに対し(何しろ、大工は高いところに登ったりもするのですから、心臓が悪い人には不適でしょう)、審査官の方では、ダニエルのように、手足を不自由なく自分の意志に従って動かすことができるのであれば、大工でなくとも、何らかの仕事をすることが可能であると判断したのではないでしょうか(上記「注7」で見たように、何しろダニエルは、ケイティの家のリフォームをやってのけたのですから!)?

(注16)さらに言えば、ESA支給継続審査で就労可能と区分されて、ESAの支給が打ち切りになっても、JSA(求職者手当)の方で救済されるからそれでいいではないか、と考えられているのかもしれません。
 尤も、そちらの方も、フルタイムの教育を受けていないこと、能力的には就労可能であるが 就労できていない状態であること、求職活動を行っていること、週16 時間以上働いてい ないことなど、様々な条件がついていて、複雑なシステムになっているようですが。

(注17)最後の方で、EPAの審査(支給打ち切り)に対する不服申立てをすることになった時、弁護士がダニエルに「きっと勝てる」と言うのですから、審査官のやり方に何か問題があるのかもしれません。
 ただ、日本の方ではどうなっているのか調べようとしても、素人では簡単にはいかないのであり、まして本作で描かれているのはイギリスの制度なのですから、おいそれとは手が出ません。
〔イギリスの社会保障制度の現状については、劇場用パンフレットに、専門家による記事が掲載され然るべきでしょう。ネットで調べてみても、日本語の資料は調査時点が古いものばかりで、専門家の研究もなかなか現時点まで追いついていない感じがします。なお、英語の関係資料をネットで見ることは出来ますが、背景等がよくわからないので、それを理解するのは難しいものがあります〕

 ちなみに、ダニエルを「一人親方」の自営業者とみなすと、日本では、国民健康保険に入らなくてはなりませんが、この記事を見ると、どうやら、病気やケガによる休業中の生活保障は受けられないようです(会社員の場合には、健康保険から「傷病手当」の支給が受けられますが)。
 総じて言えば、それぞれの国ではそれぞれの考え方とか事情があって、制度が作られているものと思われます。

(注18)例えば、こうしたシステムが作られたのは、財政緊縮嫁の中でいかに効率性を高めて諸手当の支給を行わなくてはならないのか、を検討していった中でのことなのかもしれません。そのシステムが生み出す様々の問題点を解消するには、財政的支援の拡大が、あるいは必要なのでしょう。でも、それと裏腹にある増税策に対し、イギリス国民は果たして賛成するのでしょうか?

(注19)本作のラストでは、「本映画を通じて得られる収益を、貧困に苦しむ人々を支援する団体に、有料入場者1名につき50円寄付いたします」との字幕が流れます。無論、収益の使い道は配給会社の自由でしょう。でも、そうだとしても、本作を見に映画館にやって来た者はすべて本作のすべてを肯定的に受け入れているとみなすような書きぶりには、違和感を覚えてしまいます。それに、本作にかかる「チャリティ・プロジェクト」のHPには、「ケン・ローチ監督がこの作品に込めたメッセージ「誰もが享受すべき生きるために最低限の尊厳」や「人を思いやる気持ち」に賛同」と記載されていますが、果たして本作のメッセージとはそんなつまらないものなのでしょうか?第一、映画に込められているメッセージとは何なのでしょう?それに、仮に、メーセージがそうだとしても、その内容とチャリティとの関係が不明ではないでしょうか?

〔補注〕ケイティは子供の養育のために満足に働けないでしょうから(ロンドンにいた時はホームレス用の施設で暮らしていました)、あるいは、日本の生活保護に相当するシステム(所得補助:Income. Support)を利用しているのかもしれません(尤も、この資料のP.283によれば、それを廃止して新たなシステムに移行する法案が成立しているとのこと←ですが、このイギリス政府のHPの記事を見ると、現在も継続しているように思われます)。
 この資料によれば、その給付は「ジョブセンター プラス」(職業安定所)が行っているとされていますから、ダニエルが自分のJSAの申請でその事務所に行った時に、ケイティの騒動を目撃したのでしょう。
 なお、この資料によれば、住宅給付(賃貸住宅居住者には賃料相当額が支給)があるようですから、ニューカッスルでケイティが住むことになった部屋も、その制度によっているのでしょう。また、受け取る金額は、この記事の記載によれば、ケイティの場合、週73.10ポンド〔だいたい月4万円←ダニエルの受け取る手当とほぼ同額でしょうか:さらに家族加算(もしかしたら、児童手当)がされるようですが〕。




★★★☆☆☆



象のロケット:わたしは、ダニエル・ブレイク


パッセンジャー

2017年04月14日 | 洋画(17年)
 SFの『パッセンジャー』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編で見て面白そうだなと思い、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、恒星がたくさん見える宇宙空間を、宇宙船アヴェロン号が進んでいます(注2)。
 アヴェロン号は、飛んでくる隕石などの障害物を、シールドによって破壊しながら進んでいきます。それでも、すべての隕石を避けきれないのか、ある時大きな衝突が起き、船内は異常事態となりますが、すぐに自動修復されて元の状態に戻ります。

 そんな中でも何か不具合が起きてしまったのでしょう、乗客の1人のジェームズ・プレストンジムクリス・プラット)に注射が自動的になされ、彼は目を覚まします(注3)。
 すると、「冬眠解除。おはよう、ジェームズ!」との声が。
 加えてその音声は、「120年間冬眠してきました」、「大丈夫、全て順調です」、「ホームステッドⅡに向かっています」、「あと4ヵ月、宇宙旅行をお楽しみください」などと言います。
 また、「覚醒時には後遺症が出ますが、健康に問題ありません」、「258号室が新しい住居となります」、「乗客同士で交流します」、そして「ホームステッド社の宇宙船で快適な旅を」とも付け加えます。

 さらに、「ジム、IDをスキャンして、荷物を受け取ってください」と言われたのでその通りにし、その中にあったジャケットを着て、ジムは「イケてるぞ」とつぶやき、廊下に出ます。
 ところが、人がまったく見当たらないのです(注4)。
 そこでジムは、「誰か?」と言いながら宇宙船内を走り回ります。でも、やっぱり誰一人見つかりません(注5)。



 人を探していると、バーがあってバーテンダーがいるのが見えます。
 ジムは、やっと人間に会えたと喜んで席に着くものの、彼の金属製の脚を見て、バーテンダーがロボットであることがわかります。それで、ジムが「ロボットか」とため息をつくと、バーテンダーのアーサーマイケル・シーン)は「アンドロイドです」と答えます。
 それでも、ジムは気を取り直して、「宇宙船の知識は?宇宙船が故障してしまった」と尋ねると、アーサーは「そんなことはありえません。宇宙船は故障しません」と答えるばかりです(注6)。

 これらは、本作のホンの初めの部分ですが、さあ、これから物語は一体どうなるのでしょうか、………?

 本作は、120年の長旅(注7)のために宇宙船の冬眠ポッド内で冬眠していた5000人の乗客の一人の男が、何故か一人だけ途中で目覚めてしまうところから始まります。たった一人のために途方にくれていたところ、ある時、目覚めたもう一人の人間、それも女に出会います。2人は地球では住む世界が違っていましたが、やがて恋に陥ります。しかしながら、……という物語。登場人物がごくわずかで、ストーリーも単純ながら、それだからこそかえって、SFラブストーリーとしてなかなかうまい仕上がりになっているなと思いました。

 (以下は、かなりネタバレしておりますので、未見の方はご注意ください)

(2)本作は、数え上げればキリがないほどたくさんの問題点を抱え込んでいるように思います(注8)。
 ただ、本作を、宇宙船内に死ぬまで独りで生きる羽目に突如として陥ったジムと、これまた突然出現する飛び切りの美女のオーロラジェニファー・ローレンス)とのラブストーリーとして見れば、すなわち、広い宇宙船の中に格好の男女がたった2人だけしか存在しないという極端な状況がその後どのように展開するのかに興味を持って見れば、そうした問題も遠のいてしまうようにも思われます(注9)。



 何しろ、広い宇宙船内に設けられている様々の施設や装置を使ったりしながら、次第にその愛を高めていく2人の様子が、本作では実に綺麗に描き出されるのですから。

 それでも、次のような問題点は残るでしょう(注10)。
・オーロラの出現にはジムが大きく関与しているのですが、それは果たして許されることなのでしょうか?
・ジムとオーロラは、結局のところ愛し合うことになりますが、子供を設けることについては考えなかったのでしょうか?

 前者については、実のところジムは、1人で一年ほど過ごしたあと、あまりの孤独感によって、さらにまた、冬眠ポッドのガラス越しに見るオーロラの姿があまりに美しいこともあり、とうとう人為的にオーロラを目覚めさせてしまうのです。



 そのことを一切知らなかったオーロラは、地球では住む世界が違っていて会うことはないはずながらも(注11)、目覚めた後、次第にジムを愛するようになります。ですが、冬眠覚醒の経緯を偶然にバーテンダーのアーサーから耳にすると(注12)、烈火のごとく怒り出し、二人の仲は破綻してしまいます。
 オーロラは、ジムのやったことによって「目的地に着いたら、その画期的な状況について本を書き、地球に戻って出版するという計画がめちゃめちゃになってしまった」、「これは人殺しも同然の酷いことである」として、ジムを強く非難し、逆にジムを殺してしまおうとするほど怒りまくります。
 このオーロラの怒りは、至極もっともでしょう。
 ただ、本件によって、オーロラの命が奪われたわけではありません。また、書こうとする本のテーマは違ってしまうとはいえ、オーロラは、本が一切書けなくなるわけでもありません。
 クマネズミは、この件は、関係が完全に永久に断絶してしまうほどのものではなく、時間がある程度経過したり、別の事件が起きたりすれば、関係は元の方向に戻ることがありうるものではないか、と思います。
 現に、その後、大きな故障からアヴェロン号を修復しようとしてジムの見せた英雄的な行動に、オーロラは酷く心を動かされ、関係は元通りになるのですし、そうしたストーリー運びはクマネズミには説得力があるように思われました。

 後者については、アヴェロン号が目的地まであと4ヶ月の位置にまで到達し、乗客や乗組員が一斉に冬眠から目覚めてグランドコンコースに現れた時、二人が植えた木々が茂っていたり、オーロラの音声が流れたりはするものの、彼らの子孫は見かけなかったように思われます。
 そのようになったのも、この宇宙旅行では途中で子供が生まれるという事態を想定しておらず、出産・育児等に関する必要な物資を宇宙船が積載していなかったがために、2人は子供を作らなかったからではないでしょうか(注13)?

 ここで、こうした点が問題になるもう一つの要因を挙げるとすれば、脚本家のジョン・スペイツが書いたオリジナルの脚本(注14)と、今回公開されている劇場版の作品とで、ラストの部分が大きく異なっている点でしょう。
 要すれば、オリジナル脚本においては、宇宙船修復の過程で、ジムとオーロラ以外の乗客・乗組員はすべて冬眠のままで船外の放り出されてしまい、助かるのは2人だけとなり、さらに、88年後に目的地に到着した宇宙船から現れるのは、2人の子孫だった、ということになります(注15)。

 こうしてみると、公開された劇場版は、随分と穏やかな結末の描き方になっている感じであり、おそらくは興行成績を考慮しての改変なのでしょう。
 それはともかく、オリジナル脚本に従って映画が制作されていれば、上に挙げた二つの問題は、それほど目立たなくなるように思われます。子供の問題は勿論のこと、ジムがオーロラにしてしまったことも、結果論にすぎないかもしれませんが、かえってプラスに働くのですから(注16)。

 でも、実際に公開されているのは劇場版の方であり、オリジナル脚本版は制作されていないのですから、こんな比較は意味がないかもしれません。
 それに、劇場版の方も、それはそれでまずまず面白い仕上がりとなっているのであり、やはりそれについての議論を第一とすべきでしょう。

(3)渡まち子氏は、「ツッコミどころの多いストーリーはあくまでも薄味だが、宇宙船内のクールで壮麗なデザイン、無重力プールやバーテンダー・ロボの役割など、そう遠くない未来の姿を思わせる設定が楽しかった」として50点を付けています。
 前田有一氏は、「抜群に面白いシチュエーション設定とよくできたセット、説得力をもって描かれた人間ドラマの3点が揃った見事なSFである」として85点を付けています。
 柳下毅一郎氏は、「普段は快活なアメリカン・ヒーローであるクリス・プラットが、珍しく繊細な内面的演技を見せる。これは冒険活劇というよりも寓話であり、死からの再生の物語である。ジェニファー・ローレンスがついに「あなたがいないと生きられない」と呼びかけるとき、やはりプラットは真のヒーローだったとわかるのだ」と述べています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「危機的な事態が発生すると、なぜか描写が大味になる難点もあるが、無重力化したプールなどのビジュアルも新鮮で、観客を退屈させない趣向がたっぷり」と述べています。



(注1)監督は、『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』のモルテン・ティルドゥム
 脚本はジョン・スペイツ
 原題は「Passengers」〔本来的には、複数のところが大事な点ですから、邦題も「パッセンジャーズ」とすべきでしょうが、すでにその邦題は使われてしまっているために(『パッセンジャーズ』2008年;未見)、やむなく単数形にしたのでしょう〕。

 なお、出演者の内、最近では、ジェニファー・ローレンスは『アメリカン・ハッスル』、クリス・プラットは『her 世界でひとつの彼女』(受付のポール役)、マイケル・シーンは『ミッドナイト・イン・パリ』、ローレンス・フィッシュバーンは『コンテイジョン』で、それぞれ見ました。

(注2)同宇宙船は、民間のホームステッド社が開発したもので、ある惑星に設けられている入植地「ホームステッドⅡ」に向けて、全部で120年の長旅を続けています。
 なお、同宇宙船には5000人の乗員と258名のクルーが乗っていますが、全員、冬眠ポッドの中で眠りについています。従って、アヴェロン号は、自働航行していることになります。

(注3)彼は、コロラド州デンバー出身の技術者(mechanical engineer)。

(注4)途中で、ジムが教室のようなところに入ると、映像で表されるインストラクターが、独りで、ホームステッドⅡにおける生活についてガイダンスをしています。
 ジムが質問しようとすると、「質問は最後に」と言うのでしばらく待ってから、「他の乗客は?」「皆は何処にいる?」「今日は俺だけだけど、なぜ俺1人なのか?」などと尋ねますが、はかばかしい答えは返ってきません。

(注5)途中で、「アヴェロン号は、地球から「ホームステッドⅡ」に向かっています。到着まであと90年。地球を出発してから30年経過しています」との音声をジムは耳にします。
 その他、例えば、ジムはe-mailを使って、「緊急事態だ。俺は、アヴェロンの住人のジム・プレストン。早く目覚めた。誰も目覚めてはいない。冬眠に戻れない。助けがいる。以上」とのメッセージを地球に送りますが、機械の方から、「送信しました。お届けには19年かかり、返信は55年先です。料金は6000ドル」との音声があり、ジムはいたく絶望します。

(注6)アーサーを演じるマイケル・シーンは、宇宙船のバーのシーンが映画『シャイニング』を彷彿とさせることについて、「わざとだよ。僕の衣装もロイド(『シャイニング』のバーテンダーの名前)と同じだ。アールデコのバーのデザインもそれを意識したものなんだ」と述べています(この記事)。
 なお、この記事には、『シャイニング』におけるロイドジョー・ターケル)とジャックジャック・ニコルソン)とのやり取りが仔細に記載されています。ただ、『シャイニング』のジャックと本作のジムとでは、描き出されている性格がまるで違っていることもあって、両作のバーの雰囲気はかなり違っているように思います。

(注7)2月に発見された地球と類似する太陽系外惑星(この記事をご覧ください)なら、地球から40光年先にあるとのことですから、光速の3分の1くらいの速さの宇宙船だと、およそ120年位で行き着けるではないでしょうか?

(注8)例えば、KGRさんのブログ記事においては、「(宇宙船は)システム的には欠陥だらけで、到底恒星間移動に耐え得ない」として、実に様々の問題点が指摘されていますが、それぞれもっともな指摘だと思います。

(注9)宇宙船等の構造とか技術に関する問題は、極めて重要でしょう。ただ、そうだとしても、なんとかなるのでは、と思いたくなってしまいます。
 それにしても、宇宙船は完全自動操縦になっていますが、100%完璧ということはありえず、予期しないことが当然起こるはずであり、そうした時のためにどんな対策が考えられているのかという問題は、有耶無耶に出来ない気がします。
 あるいは、佐藤秀さんのブログで言われているように、「ガス(アヴェロン号の乗組員;ローレンス・フィッシュバーン)が起きたのも実は宇宙船のコンピュータがガスにシステムを修復させるためで、フェイルセーフの中に組み込まれていた」のであり、さらには「ジムも技術者で修理させるために起こされた」と考えられるかもしれません。
 実際にも、2人の力で、アヴェロン号の故障は修復されて、無事に目的地に向かって航行を続けるのです。
 でも、果たしていつもそのような対応で済むのかどうか、疑問なしとしないところです。

(注10)さらには、ジムとオーロラのうちの1人は、助かるという状況(ガスが使っていた医療用のポッドを使うことによって)になるにもかかわらず、そうしなかったのはどうしてなのかという問題もあるでしょう。
 この点については、さはさりながら、愛し合っていた2人なので、1人だけ助かって命を永らえても意味がないと考えたのかもしれません(例え助かっても、生きる場所が宇宙船から新しい惑星に移るだけであり、独りきりで生きるのに変わりがないと考えたのでしょう←オーロラはともかく、ジムの場合は、自分たちを後世に伝えることにそれほど意味を見出さないでしょうし←ただし、ジムは元々、贖罪の気持ちからオーロラに譲るつもりでした)。

(注11)オーロラは作家で、父も作家という恵まれた環境で育っていますが、ジムは労働者階級に所属する技術者。宇宙船の中でも、オーロラはゴールドクラスであり、ジムはロウアーデッキのいわばエコノミークラスです。それで、例えば、食堂で出される食事も、随分と違ったものになっています。

(注12)ジムが、経緯をつぶさにアーサーに話していたのです。

(注13)あるいは目的地に着いてから必要になるということで、仮に出産・育児等に必要な物資を宇宙船が積載していたとしても、前回取り上げた『はじまりへの旅』で見たように、社会から隔絶したところでの教育(ジムとオーロラの家族しかいない環境下での教育)にはかなり問題があるようであり、そうした点を検討した上で、2人は子供を作らなかったのかもしれません。モット言えば、子供たちの伴侶をどうするのかという問題を予め考慮したのかもしれません。。

(注14)本作のオリジナルの脚本は、このURLで読むことが出来ます。

(注15)オリジナルの脚本のラストについて、もう少し詳しく述べれば、以下のとおりです。
・ジムとオーロラは、故障したコンピュータの修理を行います。
 そして、メインのコンピュータは機能を回復したものの、他のコンピュータについては、まだ手が回らなかったところ、航行中の宇宙船の冬眠システムが誤作動してしまい、宇宙船が基地に着いたと誤認し、中の人間が退出して空になっているはずの冬眠ポッドを船外に射出してしまいます。ですが、宇宙船は、まだ基地に到着したわけではありませんから、実は冬眠ポッドは空ではなく、3つを除きすべて人間が入ったままなのです。こうして、5000個以上の冬眠ポッドが、中に人間が入ったままの状態で宇宙に漂うこととなります。当然のことながら、中の人間は死んでしまうことでしょう。

・88年後に宇宙船が目的地に着くと、その扉が開いて、先ず、いろいろな年齢の、そして様々の人種の子供たちが通路を走り降りてきます。その後ろには10代の青年・少女、そして年齢が上がるにつれて数は減りますが大人たち、最後には一握りの髪の毛が白い年寄りがいます〔補注〕。
 宇宙船のグランドコンコースの奥まった壁の基部に設けられている机の上にはいろいろなものが置かれていますが、その中に手作りの本(hand bound book)があり、タイトルは「In the Blink of an Eye: Our Lives Between the Stars」とあり、著者はオーロラ(Aurora Dunn)で、ジムに捧げられています。

(注16)オリジナルの脚本においては、乗客と乗組員の入った5000以上の冬眠ポッドが宇宙に射出されてしまった光景を見て、オーロラはジムに対し、「あなたが私を起こしてくれていなかったなら、私は今頃、他の人と同じように宇宙空間に漂っていたでしょう。あなたが目覚めていなかったなら、皆が眠っている間に、宇宙船ごと消えてしまったでしょう」、「とにもかくにも、私たちが今ここにいるのが事実」、「私が良いことを思いついたときに、それを話したいのはまさにあなた。朝、目が覚めた時にあなたがそこにいてほしい」などと言い、お互いに「I miss you」とか「I love you」などと言い合って、2人は抱き合います。

〔補注〕こうなるのが可能となるのは、このブログ記事の「1.『パッセンジャー』のオリジナル版エンド」が指摘するように、宇宙船内に「遺伝子バンク」があることが不可欠でしょう〔とりあえず必要なのは、遺伝子というよりも精子・卵子ですから、そちらのバンクが船内に存在していることがどうしても必要でしょう。オリジナルの脚本の48ページでも、オーロラは船内の診察室で、乗客名と「Sperm」あるいは「Ova」と書かれたラベルの貼られた冷凍カプセルを見つけるのです。尤も、その後で、オーロラはジムに「「gene bank」を見つけた」と告げるのですが!〕。
 総じて、同ブログの記事では、ラストの問題について、すこぶる興味深い分析がなされているように思います。



★★★☆☆☆



象のロケット:パッセンジャー


はじまりへの旅

2017年04月12日 | 洋画(17年)
 『はじまりへの旅』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)主演のヴィゴ・モーテンセンがアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた作品(注1)ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、風の吹く音がしたあとに、針葉樹が鬱蒼と茂る森の風景が俯瞰で映し出されます(注3)。
 次いで森の中が描き出され、流れる川のソバに大きな角を生やした鹿が。
 鹿は木の葉を食べていますが、チョットした音に耳をそばだてると、その場を立ち去ろうとします。その途端に、樹木の間に身を潜めていた青年(長男のボウジョージ・マッケイ)が飛び出して、手にしたナイフで鹿を仕留めます。
 それを見ていた父親(ベンヴィゴ・モーテンセン)や子供たちも姿を表します。皆、顔に泥を塗ったりして偽装をしています。
 父親が、仕留めた鹿を捌いて、その血をボウの鼻に塗り、「これでお前は男だ」と宣言します。

 タイトルが流れ、次いで皆が川で体を洗います。
 父親ベンと長男ボウが、丸太に鹿をくくりつけて運びます。
 ベンが「60分後に訓練だ!」と叫びます。



 さらに、場面は、彼ら(キャッシュ一家)が生活している場所へ。
 ベンは、鉢植えの植物に水をやったりします。家の中には、レコードプレーヤーとかミシンまでも。
 広場では、双子の姉妹のキーラーサマンサ・アイラー)とヴェスパーアナリス・バッソ)が鹿の肉を切り分けています。

 ベンが大きな樹木に架けられている梯子を登って、木の上に設けられている小屋の中に入ると、そこには三女のサージジュリー・クルックス)がいて、ナイフで動物の頭蓋骨を擦っています。部屋の壁には、ホロコーストの死体の写真などグロテスクな写真がたくさん貼ってあります。
 さすがにベンが「Jesus!」と言うと、サージは「Pol Pot」と答えます。

 それから、「訓練」が始まります。ベンが、木の棒を使ってナイフの使い方を教えたり、子供同士で試合したりします。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ、これからどんな物語が展開されるでしょうか、………?

 本作は、米国北西部の大森林の中で暮らしている父親と男3人・女3人の子供たちを巡るお話。子供たちは学校へ行っていませんが、父親の教育によって皆が高度な知識を身に着け(注4)、さらには自然の中で生き抜ける術も会得しています。そんな彼らに、病院にいる母親が亡くなったとの知らせが届きます。その葬式に出るべく、彼らは自分らが持っているバスに乗り込んで2400km離れた教会に向かいますが、…というストーリー。少々反社会的な言動が気になる面があるとはいえ、ユーモラスなところもあり、まずまずの仕上がりの作品だと思いました。

(2)劇場用パンフレット掲載のエッセイ「“異端の家族”の知的探求を託されたモーテンセンの円熟」において、森直人氏は、本作は『イントゥ・ザ・ワイルド』と「双璧のようにも思えてくる」と述べています。
 ただ、その文章は、「長男ボウの自分探しに焦点を当てると」と限定的に書かれているとは言え、そのように限定しても、また本作全体を見ても、本作は、同作とはまるでベクトルの方向が逆のように思われます。
 さらに、同作の女性版ともいえる『わたしに会うまでの1600キロ』とも、ベクトルの向きが逆でしょう。
 というのも、本作のキャッシュ一家については、それぞれの作品の終点とも見なせる地点(注5)に類似した場所から、それぞれの出発点といえるところ(注6)に類似した場所に向かって旅をする様子が描かれているからです。

 それでは、どうしてキャッシュ一家は、自然の中の自分たちの棲家を出て、2400kmも離れたところにある都会の教会(注7)に行く羽目になったのでしょう?
 それは、ベンの妻であり子供たちの母親であるレスリーが亡くなり、その葬儀が5日後に執り行われると連絡があったところ、放っておくと彼女の遺志がなおざりにされてしまうために(注8)、一家をあげて彼女の遺骸の奪還に向かったというわけです。

 こうしてキャッシュ一家は、“スティーヴ”という愛称のバスに乗って旅行するわけですが、本作では、ベンによって特殊な育て方をされた子供たちの姿が、実にフレッシュに描かれています。



 一例に過ぎませんが、双子の姉妹の一人・キーラー(注9)がナボコフの『ロリータ』を読んでいると、バスを運転しているベンが「何の本だ?」と尋ねるものですから、彼女が本の背をバックミラーを通して見せると、ベンは「そんな本を与えていないが」「それで?」とさらに尋ねます。
 キーラーが「飛ばし読みしている」「面白い(It’s interesting)」と答えると、ベンは「面白い?」と聞き返し、三女のサージが「キーラーが面白いって言ったよ!」と騒ぎ立てます。ベンは「面白いという言葉なんかない」「そんな言葉を使ってはダメだ」と注意し、さらにどんな内容かを尋ねます。
 キーラーが「老人がいて、少女を愛して、彼女は12歳で…」と言い始めると、ベンは、「それはプロットにすぎない」と止めるので、キーラーは「物語は男の視点で書かれている」「年いった男が、少女をレイプする」「彼は憎いけれど、可哀想でもあるし」などと答え、ベンは「良い考察だ」と応じるのです(注10)。

 ですが、ベンは、生成文法で著名な言語学者ノーム・チョムスキーの誕生日のお祝いをするだけでなく(注11)、かなり左翼的に偏向した教育を子供たちに施してもいるようで、それは大いに首を傾げたくなります(注12)。

 こんなキャッシュ一家ですから、あちこちでハプニングがあっただけでなく、ベンの妹のハーパーキャサリン・ハーン)とその夫のデイヴスティ―ブ・ザーン)の家に立ち寄った際にも、騒動が持ち上がります(注13)。
 そして、最大の騒動は、妻の実家の義父のジャックフランク・ランジェラ)などに会った際や教会での葬儀の場などで引き起こされます。
 さらに、その後、この一家がどのように変化するのかも、なかなか興味深いところがあります。
 ですが、それは見てのお楽しみということにして、ここでは省略いたしましょう。

 本作は、様々の観点から議論することができるように思われます(注14)。
 前回の『未来よ こんにちは』についてのエントリでは、高校における教育方法という点を取り上げたこともあり、ここでもベンの子供たちに対する教育方法を見てみると、ある面でとても素晴らしいやり方をしているなと思えます。
 一方で、大自然の中で、人が生き抜いていくための技法を一人一人身につけさせるということは、先進国の教育の中で最も欠けている点ではないでしょうか?
 他方で、一人一人に同年齢の子供に比べて遥かに高度な知識と教養を身に着けさせるという面でも、驚いてしまいます。
 これは、父親が子供に対する教育を他人任せにしないで自分で行った例としてよくあげられるジョン・スチュアート・ミルを彷彿とさせます。
 そして、ミルの場合には、後者に偏重しすぎていて前者が欠けていたように思えますから、本作で見られるベンのやり方には、その意味でも目を見張ります。

 ただ、ミルの場合、父親が「ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとした」のと同じように(注15)、本作の場合も、ベンは子供たちに、自分の随分と左翼的な思想傾向を教え込もうとしているようです。
 ですが、金太郎飴的な人間を作り出すことにどんな意味があるのでしょう(注16)?
 それに、こうした教育方法の一番の問題は、世の中には自分とは考え方も価値観も行動形態も全く違った人がたくさんいるのだ、ということがわからなくなってしまうという点ではないでしょうか?
 人間社会という人間の森の中に放たれることになるキャッシュ一家の子供たちは、大自然の場合と同じように、自分で独立してそこで生き抜くことができる技法を身につけているのでしょうか(注17)?

(3)渡まち子氏は、「育児や教育の本質を改めて考えさせられるが、そんな難しいテーマを、ユーモアとペーソスをもって描いた語り口がとてもいい。作り手の優しいまなざしを感じるこの作品を、好きにならずにはいられない」として75点を付けています。
 真魚八重子氏は、「「はじまりへの旅」はそれ(「モスキート・コースト」(86年)という映画)をまろやかな物語にし、コミューンの実態にファンタジーを交え、微笑ましく見られる毒気の薄い作品にした印象を持った」と述べています
 毎日新聞の勝田友巳氏は、「ドラマの軸は父子の相克。過激な文明批判の割にまっとうなオチで、どうせなら最後までアナーキーにと思わぬでもないが、毒と甘みがほどよく交じった痛快作」と述べています。



(注1)本作は、第69回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門の監督賞を受賞(審査員賞は邦画の『淵に立つ』)。

(注2)監督・脚本はマット・ロス
 原題は「Captain Fantastic」。
 (母親の葬儀に向けてバスに乗り込んで出発する時に、父親のベンは子供たちに向かって、「this is your captain speaking」と言っています)

 なお、出演者の内、最近では、ヴィゴ・モーテンセンは『偽りの人生』、フランク・ランジェラは『グレース・オブ・モナコ』で、それぞれ見ました。

(注3)当初の舞台は、ワシントン州カスケード山脈のスカイコミッシュ川周辺とされています。
 もしかしたらここらあたりは、『わたしに会うまでの1600キロ』において、主人公のシェリルリース・ウィザースプーン)が到達した「神の橋」に近いのかもしれません(シェリルは、「PCT(パシフィック・クレスト・トレイル)」のうち、カリフォルニア州のシェラ・ネバダ山脈の途中から入って、ワシントン州のカスケード山脈の途中で歩くのを終えました←この記事をご覧ください)。

(注4)ある日の読書の様子が映し出されますが、次男のレリアンニコラス・ハミルトン)は『カラマーゾフの兄弟』、キーラーは『銃・病原菌・鉄』(翻訳本はこれ)、ヴェスパーは『宇宙を織りなすもの』(翻訳本はこれ)、サージはジョージ・エリオットの『ミドルマーチ』(翻訳本はこれ)を、それぞれ読んでいます。
 ベンは、サージに「何ページだ?」と尋ねると、サージは「398ページ」と答え、ヴェスパーに「量子のもつれとか、プランク時間やプランク長は理解できたかな?」と訊くと、彼女が「できたわ」と答えたので、ベンは「それでは、明日発表しろ」と命じます。

(注5)『イントゥ・ザ・ワイルド』にあっては、アラスカの森に放置されていたバスの中、『わたしに会うまでの1600キロ』にあっては、上記「注3」で触れた「神の橋」。

(注6)『イントゥ・ザ・ワイルド』でも『わたしに会うまでの1600キロ』でも、それぞれの主人公が暮らしていた都市とか街(前者のクリスについては、ジョージア州ディスカーブ郡に設置されているエモリー大学、後者のシェルリについては、具体的に特定できませんが、夫のボールと離婚する原因となるヘロインを簡単に入手できるのは大きな都市でしょう)。

(注7)ニュー・メキシコ州のラスクルーセスにあるとされています。

(注8)ベンのもとに残されていた妻の遺言状には、「自分は仏教徒だから、死んだら火葬にして、遺灰は公共トイレに流してほしい」と書かれていたにもかかわらず、妻の実家の方では、伝統に従って教会で葬儀を行い、遺骸は土葬にするとして譲りませんでした。
 元々、妻の実家とベンは折り合いが悪かったのですが、義父のジャックからは、「葬式に現れたら警察を呼ぶ」とまで言われてしまいます。

(注9)劇場用パンフレットの「Keyword」の「Lolita(ロリータ)」の項を見ると「ヴェスパー」となっていますが、この映像からしても「キーラー」ではないかと思います。

(注10)ところが、キーラーの話を耳にした幼い三男のナイチャーリー・ショットウェル)が、「レイプって?」と尋ねてきます。それに対し、ベンが「通常は、男が女に性交を強いること」と答えると、ナイは「性交って?」などと次々に聞いてくるので、ベンは一つ一つ丁寧に包み隠さずに答えます。
 今の性教育の進展振りからしたら、当然の内容なのかもしれません。ですが、例え子供であっても真実を教えるべきだというベンの教育方針があるとしても、相手の年齢に対応した教育内容というものがやっぱりあるような気もしますが。

(注11)12月7日。ベンは、お祝いのプレゼントとして子供たちにナイフを贈ります。
 ただ、後になると、次男のレリアンが、「僕は、他の人と同じように、クリスマスを祝いたい」と言うようになります。

(注12)例えば、バスに乗って外出した際、ガソリンスタンドにある店の外に女の子がいたので、ベンは長男のボウに、「話してきてもいいぞ」、「彼女に聞いてみろ、搾取階級に対して労働者階級が武装革命を起こすことについてどう思うのかと」「だけど、マルクス主義者は、資本家と同じように大量虐殺をするから、マルクス主義者は避けろ」、「弁証法的唯物論者なのかどうか、階級闘争の優位性を認めるかどうか、聞いてみろ」などと言い、さらに「トロッキストかどうか聞いてみろ」と言うと、ボウは「僕はもうトロッキストじゃない。僕は毛沢東主義者だ」と答えるのです。これに対し、ベンは「そうだ(right)」と応じます。
 ですが、毛沢東は、大粛清を行ったマルクス主義者のスターリンと違っているのでしょうか?

(注13)例えば、上記「注10」で触れたベンの教育方針が、妹の家で夕食を取っている際にも発揮されます。
 妹夫婦の子供が、ベンの妻の死因を尋ねた時、夫のデイヴは「病気が重くなって」と曖昧に答えるのですが、ベンは、セロトニン不足による双極性障害によって手首を切って自殺したと、あっけらかんと説明し、妹のハーパーはいたたまれなくなって席を外します。



 こうした対応も、一般的には無作法なこととされるでしょう(日本だったら、ベンは場の空気を読んで対応しないダメな大人だ、と言われるでしょう)。
 あとでハーパーは、「我々は、子供たちに理解できないことから子供たちを守っている」とベンを諭しますが、ベンは「子供たちに嘘は吐けないが、すまなかった」と謝ります。

(注14)例えば、親離れ・子離れの問題はどうでしょう?

(注15)ジョン・スチュアート・ミルに関するWikipediaの記述(その「幼年時代」)から。

(注16)亡くなったレスリーが愛好していたというグレン・グールドが演奏するバッハの『ゴールドベルグ変奏曲』が、バスの中に流れるのは当然であり、さらには、ボウが途中で出会った若い女・クレアエリン・モリアーティ)に、好きな音楽として同曲をあげるのはご愛嬌だとしても、ベンの偏った思想傾向に現代的な意味があるようには思えませんから、前記「注12」のようなことはどうなのでしょう?

(注17)その意味で、途中経過はともかく、ラストで描き出されるキャッシュ一家の状況は、まずまず納得できるものがあるように思いました。でも、ここに到達するために、キャッシュ一家の子供たちは様々なことをすでに身につけているのであり、決してここから物事が始まるわけではないように思います(その意味で、邦題の『はじまりへの旅』は納得出来ないところです)。



★★★☆☆☆



象のロケット:はじまりへの旅

未来よ こんにちは

2017年04月08日 | 洋画(17年)
 フランス映画『未来よ こんにちは』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)2016年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞した作品というので、映画館に行ってきました(金熊賞は、最近見た『海は燃えている イタリア最南端の小さな島』)。

 本作(注1)の冒頭の舞台は、ブルターニュ地方の海岸を航行するフェリーの船室。
 本作の主人公のナタリー(パリの高校の哲学の教師:イザベル・ユペール)は、一人で席に座っています〔補注1〕。
 2人の子供たちと一緒にデッキにいた夫のハインツ(妻と同業:アンドレ・マルコン)が、「ナタリー、綺麗だぞ」と呼びに来ます。彼女は、それに対し「待って」と答えます。
 ナタリーは、「人は他者の立場に立てるのか」などとノートに書いていましたが、それを閉じてデッキに上がっていきます。

 4人は、海岸を歩きます。
 シャトーブリアンの墓(注2)があり、ナタリーは墓誌銘を読むとすぐに歩き出そうとします。ハインツの方は、飽きた子供たちが行ってしまった後も、しばらく墓の前に佇んでいます。
 ナタリーが「満潮になったら歩けなくなる。夜までそうしているの?」と言うと、ハインツは「すぐに行くよ」と応じます(注3)。

 ここでタイトルが流れ、「数年後」の字幕(注4)。

 夜中、ベッドで2人が寝ていると、電話です。
 ハインツが「出るな。お義母さんだ」と言ったのですが、ナタリーは出てしまいます。
 すると、ナタリーの母親・イヴェットエディット・スコブ)が、「私よ、凄く息が苦しいの」と言っています。ナタリーは、「薬は、45分前に飲んだでしょ」「もう1錠飲むべき」「それとも、救急車を呼ぶべき?」などと答えます。

 ナタリーは、通勤の電車の中で作家・詩人のエンツェンスベルガーの本を読んでいます。

 勤務先の学校に着くと、「若者の失業を増やす改悪」に反対するストライキが行われて、入校が制限されていました。ナタリーは、「職場よ」と言って中に入ります。

 こんなところが、本作の始めの方ですが、さあ物語はどんなふうに綴られていくのでしょうか、………?

 本作は、50代後半の高校教師の女性が主人公。2人の子供は独立し、同じ教師である夫と張り切って暮らしていたところ、夫から、突如愛人がいると告げられ別居することになり、また、様々に連絡してくる高齢の母親をなんとかせざるをえなくもなり、人生設計が狂ってきます。でも、持ち前のヴァイタリティーでなんとかそれらを跳ね返して未来に向かって生きていこうとするというお話。主人公は高校で哲学を教えているところ、ドンドン原書を生徒に読ませて議論させたりする様子が描かれているなど、男性が見てもまずまず興味深い作品となっています。

(2)主人公のナタリーは、物事をじっくり考えて対処するはずという哲学の教師にかかる常識的なイメージとは違って、歩くのがとても速いなど、いつもせかせかして、思索的というよりも行動的な印象を見る者に与えます。
 それもあるのでしょうか、ナタリーには、いろいろな物事が息吐く暇もなく押し寄せる感じがします。
 例えば先ず、上記(1)で見たように、勤務先の学校ではストライキが行われていますが、ナタリーは構わず授業を行います(注5)。

 それから、教え子の一人のファビアンロマン・コリンカ)が学校に訪ねてきて、ナタリーが教えているクラスを覗きます。



 ファビアンが「先生の授業で、哲学の面白さを知った」と言うので、ナタリーも「嬉しいわ」と応じます。そして、ナタリーが「博士論文は?」と尋ねると、ファビアンは「今は、アナーキストの連中と付き合っている」と答えます(注6)。

 また、ナタリーが書いた教科書を出版している会社の担当者との打ち合わせがあります(注7)。

 更には、上記(1)でも触れたように真夜中に騒動を引き起こした母親から、今度は授業中に(注8)、「ガス栓をひねったの」との連絡が入り、ナタリーは、生徒たちにアランの『幸福論』を読ませることとして、大急ぎで母親のもとに走ります(注9)。



 そして、「ただいま、クタクタよ」「あなたは?」と言いながら帰宅したナタリーに対し、夫・ハインツから、「好きな人ができた」「家を出て、彼女と暮らすことにする」と告げられてしまいます(注10)。



 以上は、本作の始めの方の出来事ですが、それ以降も様々な出来事が起き(注11)、ナタリーはそれらに対しても、せかせかと全力で対応していき、その姿はなかなか感動的です。

 そんな中でも、ナタリーは一方で様々な本を読みつつも、他方で生徒に哲学を熱心に教えています(注12)。
 その際、ナタリーが採る基本的な教育方針は、「自分の頭で考える」こと。
 高校の授業においては、著名な哲学書の原著を生徒に読ませながら、そこに書かれていることについて、生徒に自分で考えさせるようにします。
 
 こうしたナタリーの授業方針が本作で描き出されているのを見て、クマネズミはとても驚きました。
 日本では、高校でも大学であっても、哲学の授業といえば、過去の偉大な思想家の考えたことのあらましをギリシアの昔から現代までたどること、あるいはその中の数人を取り出して詳細に紹介すること、といったものではないでしょうか?本作で描かれているような、直接原書にあたり、なおかつそこに書かれていることについて生徒らに議論させるなどといったことは、高校の授業等においては、殆ど見られないのではないでしょうか?
 要すれば、日本の学校で行われていることは、どこまでも、哲学に関する知識を生徒らに持たせることであり、他方、フランスで行われていることは、生徒らに哲学そのものをやらせること、というように思えました。
 あるいは、こうした授業風景がわざわざ映画で描き出されているということは、フランスにおいても、そんな授業はなかなか見られないからなのかもしれません。でも、少なくとも、それを受け入れる下地があるからこそ、本作に取り入れられているように思われます。
 こうなるのも、哲学者とか思想家とされている者の中に、相当数のフランス人がいて、原書にアクセスするのが、日本人の場合よりもかなり容易だという点が、あるいはあるかもしれません(注13)。

 ただ、ナタリーは、ファビアンから「あなたの考えていることは古い」などと批判されてしまいます(注14)。
 でも、そのような批判も、自分が言い続けた「自分の頭で考える」ことの結果として仕方がないと、ナタリーは受け入れるのでしょう(注15)。
 そして、ファビアンの山荘に移された猫・パンドラ(亡くなったイヴェットが飼っていました)も、自然に適応してネズミを自分で獲ってきたように、ナタリーも独りで未来の世の中(注16)に適応しながら、なんとか生き抜いていくことでしょう。

(3)中条省平氏は、「フランスの女性監督ミア・ハンセン=ラブの最新作。まだ30代半ばと若いが、本作は長編5作目で、映画作家として目覚ましい成熟を見せた」として、★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 山根貞男氏は、「パリが中心だが、ブルターニュの海辺、ベルコールの山中など、雄大な景色が随所に出てくる。ナタリーの動き、風景の転変、出来事の連続と、これらの配分が絶妙で、豊かな映画的時空を生み出している」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「ユペールが表現する成熟した女性の姿を通じて、見る側も自身の生き方についてはっと考えさせられるだろう」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『あの夏の子供たち』のミア・ハンセン=ラブ
 原題は「L'avenir」(英題は「Things To Come」)。

 なお、出演者の内、最近では、イザベル・ユペールは『愛、アムール』、エディット・スコブは『夏時間の庭』(DVDで見ました←この拙エントリの(2)で触れています)で、それぞれ見ました(アンドレ・マルコンは『あの夏の子供たち』に出演にしていたとのことですが、印象に残っておりません)。

(注2)ブルターニュ地方にある港町サン・マロの沖合にあるグラン・ベ島の海岸に、作家シャトーブリアンの墓が設けられています。海岸の様子や墓誌などについては、この記事が参考になります。

(注3)こんなところは、深くじっくりと考えることが好きなハインツと、どちらかと言えば行動的で立ち止まることが嫌いなナタリーとの性格の違いを表現しているのでしょう(更には、ナタリーはファビアンに、「夫は20年もの間、ブラームスとシューマンの同じ曲ばかり聴いていた」などとも言います。夫の車の中では、シューベルトの歌曲も流れたりはしますが)。

(注4)その間に2人の子供たち―姉のクロエサラ・ル・ピカール)と弟のヨアンソラル・フォルト)―は独立しているのでしょう、夫婦の家にはおりません(ファビアンが家を訪れた時に見せたナタリーの態度を見て、ヨアンは「彼が理想の息子みたい」などと僻んだ姿勢を見せたりします。なお、ハインツも、ファビアンについて「全知全能のインテリタイプ」と批評します←ナタリーは、むしろ「親切で思いやりのあるタイプ」とし、「ヤキモチなの?」と逆襲します)。

(注5)ナタリーは、ルソーの言葉(「民主政は完璧な政体だが人間には適さない」)を読み上げ、「10分後に討論します」と生徒に言います。
 なお、ルソーのこの言葉は、彼の『社会契約論』の第3編第4章「民主政について」の末尾に見出されます〔「もしも神々からなる人民があるとすれば、この人民は民主政治をもって統治するだろう。これほど完璧な政体は人間には適しない」←作田啓一訳『社会契約論』(白水社:ルソー選集7)P.78〕。

(注6)ナタリーが「読み終えた本よ。今度感想をちょうだい」と言って本をファビアンに渡すと、彼は、来たバスに乗って行ってしまいます(ファビアンは、後でその本を返す際に「論理が粗雑」「急進主義がわかっていない」などといった感想を告げます)。
 あるいは、その本は、ナタリーが読んでいた上記(1)で触れたエンツェンスベルガーの本(タイトルはわかりません)なのかもしれません〔補注2〕。

(注7)担当者の方から、「他社のものに負けているので、内容を改定したい」「モット堅苦しさを減らして柔らかくしたい」などと言われ、表紙の案を見せられますが、ナタリーは「最低ね」と言って、会社の方針に否定的な態度をとります。

(注8)ナタリーは、「真理の領域」と「信仰の領域」とを区別することについて、生徒と討論をしています。

(注9)ナタリーが母親の家に着くと、すでに消防隊が来ていて、「今週3回目」「入院させては?」「電話に出てあげてください。あなたの責任です」と言われてしまいます。
 それで、ナタリーが母親に「施設に入ってよ」と言うと、母親は「そんなところに入ったら、夜眠れない」「あなたの家はどう?」と訊いてきます。ナタリーが「夫がいる」と答えると、母親は「忘れてた」「誰と結婚したの?」などと逆に訊いてくる始末。

(注10)その前にハインツは、外出した際、追いかけてきた娘のクロエから、「近くに来たの」「浮気しているでしょ?ママは知らない。私は黙ってる。弟とは話した」「どっちかを選んで」と言われています。
 そして、ハインツから愛人のことを打ち明けられたナタリーは、「黙っていればいいのに」「死ぬまで一緒と思っていた」「馬鹿みたい」と言い、さらに「本気で?いつから?」と尋ねると、ハインツは「割と前からだ」「君の知らない人だ」などと答えます。最後に、ハインツが「君への愛は変わらない」と言うと、ナタリーは「止めてよ」と言い捨てます。

(注11)例えば、母親イヴェットについては、施設に入れることに成功するものの、3日間も絶食しているとの連絡が入り、ナタリーは、今度は慌てて施設まで走ることになります。結局、イヴェットはその後直ぐに亡くなってしまいます。
 また、ファビアンが仲間と暮らしているところ(ヴェルコール山地:例えばこの記事)まで、ナタリーは出かけていくことになります。
 (ちなみに、ナタリーが映画館に入って映画を見ていると、男がしつこく近寄ってきますが、そこで上映されていたのは、『トスカーナの贋作』)。

(注12)本作に見られる本については、例えば、レヴィナスの『困難な自由』とか、ジャンケレヴィッチの『』などがあります。
 また、母親・イヴェットの葬儀の際に、ナタリーは、パスカルの『パンセ』の一節を読み上げます〔あるいは、その第229節(訳文はここ;前田陽一/由木康訳『パスカル パンセⅠ』 中央公論新社中公クラシックス)かもしれません〕。
 さらに、授業でナタリーは、ルソーの『ジュリーあるいは新エロイーズ』(岩波文庫版がありますが絶版)の一節を読みます〔劇場用パンフレット掲載の伊藤洋司氏のエッセイ「しなやかな思想と未来」によれば、第6部の書簡8。同氏による引用文の一部に「手に入れたものより期待するもののほうが楽しく、幸福になる前だけが幸福なのです」とあります〕。

(注13)日本の場合、近代以前の思想家の著書は古文や漢文で書かれていますから、訓練なしにいきなり読むのはとても難しいですし、近代以降のものは用語等が難解で、これも訓練なしには読解が困難でしょう(特に、ドイツ観念論の翻訳書などは、生徒・学生などの素人には歯が立たないのではないでしょうか)。

(注14)ファビアンはナタリーに、「敗北主義の克服がテーマの本を書く」とか、「デモとか請願で世の中は変わらない」などと言ったりしますし、また彼の本棚には、レイモン・アロンの本だけでなく、ナタリーの思考にはそぐわない『ユナボマー宣言』(セオドア・ジョン・カジンスキーが著した『産業社会とその未来』の通称)とかスラヴォイ・シジェクの本(ナタリーは「胡散臭い」と言います)とかがあるのを見て、ナタリーは驚きます〔最近見た『マギーズ・プラン―幸せのあとしまつ―』では、反対に、シジェクは学会の呼び物になっていました(同作についての拙エントリの「注11」をご覧ください)〕。

(注15)ただ、ナタリーは、それを聞いた直後は、ベッドに横になって涙を見せてはおりますが(恋人もいるファビアンに「私は、今、完全に自由になったの」と言ったりしているところからすると、もしかしたらナタリーは、彼に愛情を抱いていたのかもしれません)。



 なお、民主政も、その政体自体を否定する論者を平等に受け入れざるをえないという矛盾を抱えていますが、あるいは、ナタリーとファビアンとの関係もそれに似ているのかもしれません。

(注16)ヴェルコール山地でナタリーが見た草地の前に広がる雄大な景色のように、未来もまた彼女の前に大きく広がっていることでしょう。



〔補注1〕学科としての「哲学」が多少とも話題となっている映画作品でクマネズミが最近見たものについては、『二重生活』に関するこの拙エントリの「注1」の後半をご覧ください。
 なお、ソレ以降としては、『ぼくのおじさん』があります。

〔補注2〕この記事を見ると、エンツェンスベルガーの論文の「Radical Loser」を指しているようであり、それをネットで探すと、彼の論文(2007年11月7日付けのシュピーゲル誌に掲載)を英語に翻訳した記事が見つかりました。



★★★☆☆☆



象のロケット:未来よ こんにちは


哭声/コクソン

2017年04月04日 | 洋画(17年)
 韓国映画『哭声/コクソン』をシネマート新宿で見ました。

(1)評判がかなり良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、ルカによる福音書第24章第37-39節が、字幕で映し出されます(注2)。
 次いで、男(國村隼)が、大きな川の川岸の岩に腰掛けを置いて座り、本格的な長い釣り竿を使って釣りをしています。釣り針に餌をつける様子が、大写しにもなります。

 場面が変わって、ある家の寝室。外は雨。
 夫婦が布団を敷いて寝ているところ、夫のジョング(警察官:クァク・ドウォン)が起き出し、携帯に出ます。
 妻が「朝から何なの?」と煩さがると、ジョングは「人が死んだらしい」と答えます。
 さらに、義母が出てきて「何処へ行くの?」と尋ねるものですから、ジョングは同じように答えると、義母は「ご飯を食べていって」と言います。
 ジョングが「急ぐんです」と応じると、義母は「いいから食べていって」と食事をとるよう促します。

 次の場面では、ジョングが食事をしながら、「ジョさんの奥さんが、誰かに殺されたようだ」と話していると、娘のヒジョンキム・ファニ)まで起きてきて、「誰が死んだの?」と尋ねます(注3)。

 ジョングは車を走らせ、まず娘を学校に送り、その後で事件現場の家の前に到着し、パトカーの後ろに車を停めます。
 雨が降り続いているので、ジョングが後輩の警官のソンボクに、「カッパを出せ」と言うと、ソンボクは「何をのんきに。人が殺されたというのに」と不平顔をします(注4)。

 ジョングが門の中に入っていくと、男や女が泣き叫んでいます。



 形相がまるで変わってしまい体中湿疹の男が、縁側の柱に目を虚ろにして凭れかかっています。
 ジョングが、「あの男は?」と訊くと、ソンボクは「ぼんやりしています。薬でも飲んでいるのでしょう」と答えます。
 さらに、ソンボクは、「刃物による傷が20箇所以上」とか「他の場所で殺して、袋に入れて運んできたようです」「その後で奥さんも殺したようです」などと状況を報告します。

 このあと本作のタイトルが流れますが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作では、韓国の田舎の村で家族が残虐に殺される事件が相次いで起こり、主人公の警察官らが捜査に乗り出します。彼の娘まで事件に巻き込まれる一方で、酷く怪しい日本人のみならず、祈祷師とか謎の女などが事件に絡んできて、映画はなかなか複雑怪奇な様相を呈します。冒頭で聖書が引用されたりして宗教絡みの感もあり、そうなるとクマネズミにはよくわからなくなるとはいえ、邦画で活躍する國村隼が重要な役を演じたりするなど、作品全体としても、個々の点でも、後々まで気にかかるなかなか興味深い作品です。

(以下では、本文も注も随分とネタバレしていますので、本作を未見の方はご注意ください)

(2)本作では、現場が酷く凄惨な殺人事件が、韓国の谷城の狭い村で何件も起きます。



 警察の捜査によれば、一応、幻覚性キノコを口にした者が、重度の精神錯乱の中で次々と殺人を犯したのだ、と整理されてきました。

 ですが、事件が起きるのと時を合わせて山の中に居ついた日本人(國村隼)が怪しい、とする噂が聞かれるようになります(注5)。



 この日本人は、上記(1)で見るように、本作の冒頭で先ず映し出されます。
 次に現れるのは、鹿を追って山に入った猟師の前。重すぎて猟師が運び損なった鹿を、褌だけの丸裸の日本人が、ナマのまま口に咥えて食べているのです。

 さらに、ジョングとソンボク、それに日本語ができる助祭・イサムは、その日本人が暮らす山の中のあばら家に踏み込みます。
 その家の奥まった部屋には、小さな祭壇が設けられており、周囲の壁に、最近の殺人事件で殺された人たちの写真が、所狭しと貼られています(注6)。
 ここまででも、この日本人が十分怪しいと目星がつきます。

 ただ、本作で怪しいと思われるのは、この日本人だけではありません。
 まず、ラストの方でジョングの家の周りをうろついている祈祷師のイルグァンファン・ジョンミン)。



 元々、高熱を発した娘・ヒジョンの脚に湿疹ができているのを見つけ、彼女がついには「お前をぶっ殺してやる」と言うようになったのに驚いて、祈祷師を呼ぶという義母の意見を聞き入れ、父親のジョングが谷城に呼び寄せたのです(注7)。
 それで、山を超えて祈祷師がやって来ますが、話を聞くと「その日本人が悪霊だ」「元は人間だったが、とっくに死んでいる」と言います。そして、日本人に対し“殺”を打つ祈祷をします(注8)。
 ただし、後で、ジョングに対する電話の中で、「間違った相手に対し“殺”を打ってしまった」「すべては女の仕業だ」「日本人は、あの女を退治しようとしていた」と言います。

 その女ですが、本作ではムミョン(注9:チョン・ウヒ)とされ、最初の方で、ジョングに殺人事件を目撃したと告げています(注10)。



 彼女は、日本人について、「殺されたお婆さんが、あの男は悪霊だって言っていた」「気をつけて、ヤツの目に止まったら、最後は殺される」などと言いますが、ジョングが目を離した隙に姿を消してしまいます。
 その後もチラチラ現れますが、はっきり姿を見せるのは、ラストに近いところ。ジョングの家を見に来た祈祷師に対し「何しに来た。帰れ」と言い、またヒジョンを探すジョングに会うと、「ヒジョンは家にいるが、今家に行くと家族が死ぬことになる」と警告します(注11)。

 クマネズミのように、韓国の実情がわからない日本で暮らす者からすれば、本作で引き起こされる事件は、単純に、「毒キノコ」が原因としても良さそうに思えます。
 でも、こうした非合理的なことが起こりうる世界もあるのだとして考えてみると、やっぱり事件は、怪しい日本人によって引き起こされたものではないかと思えてきます(注12)。
 ただ、その日本人は、本作の途中で、ジョングらの乗った車に惹かれて死んでしまい、ジョングらがそれを確認した上で、崖の下に投げ落としているのです。
 そうだとすれば、本作のラストのような事件は起きなかったことになります。でも、本作では、ジョングの家とかソンボクの家で、他の家の殺人事件と同じような事件が起きています。

 あるいは、ソンボクの甥とされる助祭が関係しているのでしょうか?
 彼は、教会で十字架のキリスト像をしばらく眺めたあと、日本人が暮らしていた山の中の家に一人で入り込み、そこに地下通路を見つけ出し(注13)、その先に日本人がうずくまっているのを発見します。
 その日本人は、本作の冒頭の引用文まがいのことを助祭に言います。そして、見る間にその姿形は悪魔となってしまうのです(注14)。
 あるいは、助祭が呼び起こしたこの悪魔が、ジョングの家とかソンボクの家で事件を引き起こすのでしょうか(注15)?

 なお、ラストにおける祈祷師が何をしているのかも、よく理解できません。どうして、事件の被害者の写真の入った箱を車に詰めなおして、この地を去っていくのでしょう(注16)?

 そして、一番わからないのは、悪魔の日本人が一連の事件を引き起こしているとして、一体彼は何のためにそんなことをしたのか、という点です(注17)。

 でも、ここで掲げるような問題点はレベルが低く、あるいはすでに解決済みなのかもしれません。そして、モット高度な問題点が残されていることでしょう。
 とは言え、なんでも構いません。クマネズミは、これからも本作について、ああでもないこうでもないと色々考え続けていくことになりそうです(注18)。

(3)渡まち子氏は、「観る者をわしづかみにする超ド級の怪作だ」として75点を付けています。
 北小路隆志氏は、「観客を異様な物語の渦中に無理なく引き込む手際良さや、危機的状況にあっても思わず笑いを誘うユーモア。全編にわたり緊迫感漲る映画ながら、ナ・ホンジン監督による懐の深い演出が冴えわたる」などと述べています。



(注1)監督・脚本はナ・ホンジン
 原題は『곡성 哭聲』(英題は「The Wailing」)。
 邦題の中の「コクソン」とは、本作の舞台となった韓国・全羅南道の北東部にある郡の「谷城」のこと。

 なお、出演者の内、最近では、ファン・ジョンミンは『ベテラン』、國村隼は『海賊とよばれた男』で、それぞれ見ました(チョン・ウヒは、『母なる証明』で、主人公トジュンの友人のガールフレンド役だったようですが、印象に残っておりません)。

(注2)このサイトの翻訳では、次のように記載されています。
 「24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。

(注3)ヒジョンは、大層“オシャマ”な女の子。母屋では義母や娘がいるために、ジョングが気を使って、庭にある車の中で妻とよろしくやっていると、彼女は、それを覗き見してしまいます。ソレに気付いたジョングが、簪を買ってあげつつ、ヒジョンに「いつから見てた?」「どこまで見てたんだ?」と訊くと、ヒジョンは「黙ってるから安心して」「何度も見たから平気」「もう気にしないで」と答え、ジョングは「全部見てしまったんだ」と気落ちします。
 また、ジョングが、事件のために家に帰らずに警察署で寝泊まりしていると、ヒジョンが、「母さんから下着だって」と言いながら署の中に入ってきます。ジョングが「いいから、早く帰れ」と言うと、ヒジョンは、「シャワーを浴びて」とか、「食事もしないで、情けない」などと口にして出ていきます。

(注4)ジョングは、警察署の上司からは、「お前は、女々しくて臆病だ」と言われています。

(注5)ただ、ジョングが、「毒キノコによると鑑定結果が出ている」と言うと、ソンボクは、「たかがキノコくらいで人はあそこまでなりません。やっぱり、あの日本人が怪しい。噂が立つのは、それなりのわけがあります」と納得しません。

(注6)その部屋に踏み込んで写真を見たソンボクは、署に戻ると、「やつが犯人だ」「生きている時に写真を撮り、殺した後からも写真を撮っている」と口にし、「ヤツは、人の物を持ってきて呪いをかけている」と言いながら、ヒジョンの靴をジョングに見せます。
 ジョングは、その靴を家に持って帰り、ヒジョンに見せて、「お前の靴だろ?」「あの日本人に会ったな?」「何処であって何をしたのか説明しろ」と問い詰めると、彼女はその日本人に会ったことは認めるも、反対に「何が大事なのか、なんでそんなに大事なのか説明できないくせに」と言い返します。

(注7)祈祷師は、費用が1千万ウォン(約100万円)かかるとジョングに言います。

(注8)祈祷師が、“殺”を打つ祈祷を開始すると、山の家でも、日本人が太鼓を叩き出します。おそらく、日本人も、逆に、祈祷師に対し“殺”を打つ祈祷を行っているのかもしれません。ただ、祈祷師が、大きな釘を打つと、日本人はのたうち回ります。もう少しで死ぬというところで、ジョングが祈祷師の祈祷を止めさせたことによって、日本人は、息を吹き替えします。
 なお、ここらあたりについては、例えば、このサイトの記事では、全然違った見方をしております(日本人は祈祷師とグルであり、彼が太鼓を叩いたのは、トラックの運転席にいた男に向けてだとの見解←そうは思えないのですが。下記「注15」もご覧ください)。

(注9)女に「ムミョン」という名前があるのではなく、韓国語で「ムミョン」とは「無名」の意味(この記事)。

(注10)この時、ムヒョンは、ジョングに向かって何度も小石を投げます。これは、ヨハネによる福音書にあるイエスの言葉、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(このURLの「8:7」)に対応しているのでしょうか?

(注11)ムミョンはジョングに、「鶏が3度鳴いたら、家の中に入れ」と言います(ジョングは、この言いつけを守らず、祈祷師からの連絡に従って、2回鳴いたところで入ってしまいます)。これは、聖書のマタイやルカやヨハネの福音書に、鶏が鳴くまでにペテロが3度イエスのことを知らないと言うだろう、とイエスが予言したとされているのに対応しているのでしょう。

(注12)ムミョンにしても、祈祷師にしても、わざわざこの谷城で事件を引き起こす動機が見当たりません。

(注13)『お嬢さん』についての拙エントリの「注4」でも触れましたが、クマネズミは、ここでも『黒く濁る村』で描かれる地下通路を思い出しました。

(注14)その日本人は、「どうして心に疑いを持つのか?私の手や足を見なさい。まさに私だ」などとイエス・キリストのごとくに言うのですが、助祭がこの日本人を悪魔だと強く思い込んでいるからでしょうか、その日本人は、イエス・キリストではなく恐ろしい悪魔になってしまいます。

(注15)ただ、悪魔になる前にもその日本人は、谷城の一連の殺人事件を引き起こしたのでしょうか?

(注16)あるいは、この祈祷師は、日本人とグルになっていたからなのでしょうか(日本人から写真を預かっているのかもしれません)?ムヒョンも、「祈祷師は日本人とグルだ」とジョングに言いますし。
 ですが、わざわざ山の向こうからやってくる祈祷師と、韓国語が話せない日本人とがグルというのも、信じがたい気がします。それに、ムヒョンは祈祷師と対立しているとはいえ、だからといって祈祷師が日本人とグルだとまでは言えないのではないでしょうか?

(注17)同じことは、上記「注12」でも申し上げましたが、ムヒョンや祈祷師にも当てはまるように思われます。もしかしたら、本作は、この日本人、ムヒョン、そして祈祷師という3人の霊媒師(又はシャーマン)による谷城争奪戦を描いたものかもしれませんが。

 なお、本作では、この日本人については何も明かされませんが、ジョングは、彼からパスポートを見せられ、それを写真に収めているのですから、普通の場合なら日本に照会したりして、少なくとも身元などは判明しているのではないでしょうか(尤も、偽造パスポートということもありうるでしょうが←逮捕する理由ができます!)。

(注18)この監督インタビュー記事で、ナ・ホンジン氏は、「僕たちは<あなたが、家族のために家長として、父親としてどのような努力をしてきたのか、最善の努力をしてきたことを見守ってきました。失敗はしてしまったけれど、その努力する姿を見守ってきました。あなたは立派な父親でありベストを尽くしました。だから、余り苦しまないでください。辛く思わないでください。あなたは最高の父親ですよ>と慰めになるような映画になることを望みました。一番最後のエンディングのところは、役者の顔のアップで終わりますが、それで終わることによって共感を一緒にしてくれたらいいなと思いました。そういう風に観てもらえることがこの映画の存在価値ではないかと思っています」と述べています。
 ただ、そういう発言からすると、そして本作のラストでジョングが「ヒジョン、大丈夫だ。父さんは警察官だ、父さんがすべて解決する」と話すのを見れば、拙ブログのように本作について謎解きを面白がるというのは、監督の意にそぐわないことなのかもしれません。



 もしかしたら、本作は、怪しい日本人、ムヒョン、そして祈祷師という3人の霊媒師(又はシャーマン)による谷城争奪戦(上記「注16」)に翻弄されるジョングとヒジョンの父娘の強い絆を描いたものと言えるかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:哭声/コクソン