映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

鈴木先生

2013年01月31日 | 邦画(13年)
 映画『鈴木先生』を渋谷TOEIで見ました。

(1)原作の漫画(武富健治作)やTVドラマが色々の賞を受賞していることを耳にし、にもかかわらず事前には漫画もTVドラマも見ないまま、映画館に出かけてみました。

 物語は、三鷹市立のある中学校のあるクラス(2A)とその担任で国語教師の鈴木先生長谷川博巳)を巡って展開されます。



 冒頭に「Lesson11」と表示されることから分かるように、映画はTVドラマで描かれたLesson1~10に引き続くものとされています(注1)。
 といって、話は映画だけを見ていても相当程度理解できるように作られています。

 映画で描かれるメインの学校行事は、学年末に行われる生徒会役員選挙。
 その選挙に向けてクラス2Aでは二人が生徒会長に立候補するところ、そのうちの出水はそんなことをするタイプではないと皆から思われていたため、鈴木先生は、彼の立候補の裏には何か魂胆があるなと睨みます。
 案の定、立会演説会で出水は、この選挙のシステムはおかしい、「ふざけた投票をしない、棄権をしない、公正な選挙を」という学校側が決めた常識的なルールは間違っている、と爆弾発言をします。
 そればかりか、投票日には、別の大事件が持ち上がります。
 同校OBのユウジ風間俊介)が、2Aのクラスの女生徒小川土屋太鳳)を人質にとって、とんでもないことをしようとします。
 さあ、小川は大丈夫でしょうか、鈴木先生はどう対応するでしょうか、生徒会役員選挙の結果は、……?

 本作では、現在の公立学校で問題とされるような事柄(いじめ、不登校、暴力行為、モンスター・ペアレントなどなど)はほとんど取り上げられず、その結果、熱血先生の活躍とか生徒同士の友情などといったこれまでの学園物におきまりのシーンは描かれません。
 それらはあるいはTVドラマの方で取り上げられたのかもしれませんが、むしろそうした要素がなくとも学園物が成立することを示している点で、本作はかなりユニークな作品といえるでしょう。

 主演の長谷川博巳は、『セカンドバージン』でミソをつけた感じですが、本作では、観念的で妄想癖がありながらも生徒たちには強く慕われている教師という実に難しい役柄を、上手にこなしていると思いました。
 また、小川役の土屋太鳳も、中学2年生でありながら鈴木先生の妄想の対象になるなど、これまた大変難しい役柄を目覚ましい演技力でこなしていて、これからが期待されます(注2)。




(2)とはいえ、本作の場合、ラストの方で、文化祭にクラス2Aが行う演劇が驚いたことに『ひかりごけ』であることが唐突に、それもごく簡単に示され、また鈴木先生が「俺たちは全身全霊で教師を“演じていく”」などと言ったりします。
 こうなったのも、本作が依拠している原作漫画の第8巻~第11巻で取り上げられている三つの大きな出来事の内の際立って重要と考えられる演劇関係の部分が、本作ではその扱いが随分と後退させられているため(にもかかわらず一部分が残されています)、と思われます。

 この点について、このインタビュー記事では、河合勇人監督の話しとして次のように述べられています。
 監督が脚本の古沢良太氏と打ち合わせを行った際、原作漫画には「演劇篇選挙篇立て篭もり事件と大きな柱があって、どれをやろうかという話から入」り、「最初僕は演劇篇をやりたいと言っていたんです。でも、演劇篇は大変だろうとなって」、「古沢さんが、選挙篇と立て篭もり事件の根っこの部分のテーマがうまく貫けるんじゃないかというアイディアがでてきて、演劇篇は背景として成立させようと。とにかくこれで鈴木先生をやれるのも最後なので、なんとか全部を描きたいなということで今回の劇場版の形になりました」。

 確かに、出水は、学校側が決めた常識的なルールはおかしいと演説しますし、また、OBのユウジも、今の社会に対する恨み辛みを叫びます(注3)。
 どちらも、社会の基盤的な事柄に対する挑戦という点では類似しているといえるかもしれません。
 ですが出水の発言は、投票率が低い場合の記名投票に反対しているだけで(注4)、選挙システムそのものを批判しているわけではありません(注5)。
 また、OBのユウジが小川を人質に取って主張していることも、独りよがりな内容で上滑りしているように思えます(注6)。

 いうまでもなく、「選挙篇」は随分と分かりやすい話しですし、「立て篭もり事件」は映画的に盛り上がる内容と言えます。
 とはいえ、この際、「演劇篇」をも前面に出して、なぜ鈴木先生は、わざわざ古色蒼然とした『ひかりごけ』をクラス演劇の演目として取り上げたのか(注7)、その練習・上演を通じて生徒たちは何を学んだのか、各人がそれぞれの「役割」を演じるとは具体的にどういうことなのか(注8)、といったこともあわせて描き出してほしかったな、そうすれば、ラスト辺りのシーンもわかりやすくなり、本作全体もより一層ユニークなものとなるのかな、と思いました。
 尤も、そんなことをしたら上映時間が3時間を越えてしまでしょうが!

(3)渡まち子氏は、「独自の理論で教育に取り組む教師と生徒たちの学園ドラマ「映画鈴木先生」。“普通の危うさ”に着目する発想が鋭い」として50点をつけています。



(注1)Lesson1~10の話の中身については、このサイトにある程度記載されています。
 例えば、映画でははっきりと分からなかった鈴木先生の教育メソッドに関しては、「鈴木先生は、この2年A組で自分なりの教育理念を試す実験をしようとしていた。一見普通に見える生徒たちほど心の中には鬱屈したものを抱えていると感じる鈴木先生は、「大人しくて優等生が多いクラスはつまらないクラスになり、不良や問題児がいてこそクラスは活性化する」――そんな教育現場の常識を打ち破り、彼らの心の中を改革することにより、理想のクラスを作り上げようとしていたのだ。その為にはクラスの中心にスペシャルファクターが必要であり、それが小川蘇美だった」と述べられています。

(注2)土屋太鳳は、すでに、『トウキョウソナタ』に出演し、また『日輪の遺産』でも「スーちゃん」という重要な役をこなしています。
 なお、『ふがいない僕は空を見た』の田畑智子が、鈴木先生の同僚の教師役で出演していますし、また、2Aの生徒達が演劇の稽古をしている西公園にたむろするユウジとミツルのうち、ミツルに扮しているのは、以前『婚前特急』に出演していた浜野謙太

(注3)ユウジは、「中学の頃が一番楽しかった」、「しかし、先生の言う通りにやって社会に出たら、俺たちはまるで使い物にならなくて、どこにも居場所がなかった」、「純粋でまじめな生徒は、社会に出たら淘汰される」、「この子たちはまだ間に合う」、「だから、その前にこの子たちを汚してやる」などと主張します。
 元々ユウジは、友達のミツルがDVによって逮捕されたのも、西公園の喫煙所が撤去されそこから締め出しを食ったせいで、そうなったのは云々ということで犯行に及びます。

(注4)一般の選挙において無記名投票とされるのは、投票の秘密を確保するために、むしろ当然のことではないでしょうか?その意味から、投票率が低かったら記名投票にするという学校側の方針(富田靖子演じる足子先生が提案し、職員会議で了承されました)こそ、常識に反していると思われます。
 なお、出水には、小学校の学級委員の選挙が記名投票方式にされたために、子役として知られていたものが当選し、学級委員に選ばれたがっていた友人が落選してしまい不登校になってしまったという経験があったようです。

(注5)現に出水は、生徒会長選挙に立候補しているわけですし、それに勝利すると、最初の内は渋っていたものの(選挙を批判するために立候補したのであり、会長なるつもりはないとして)、結局は会長に就くことを承諾するのです。

(注6)社会に自分の居場所がないわけを自分を棚に置きながら学校のせいにするのは、喫煙年齢に達した大人がすることではないように思われます。
 それに、映画ではよくわからなかったのですが、原作漫画によれば、ユウジは大学を中退しているようです。とすると、なぜ中学教育にばかりそんなに恨みを抱くのかよく理解できないところです。

(注7)『ひかりごけ』は、武田泰淳による1954年の短編小説。戦前の1944年に起きた「ひかりごけ事件」に依拠しています。
 同作は短篇小説ながら、後半部分が二幕物の戯曲形式で書かれており、さらに前半部分には、ひかりごけ事件を最初に「私」に話をする「中学の校長」が登場します。
 こんなところから、あるいは鈴木先生は演目として着目したのかもしれません。
 とはいえ、なにせ60年ほども前の作品であり、作中で「私」が「この上演不可能な「戯曲」」と述べているほどのシロモノなのです。中学校のクラス演劇の演目として鈴木先生がこの作品を取り上げる理由を、是非とも明らかにしてもらいたいものです〔なお、原作漫画の第10巻では、この作品は「我々が現代の今!日常的に犯しがちな逃れがたい愚かで悲しい罪…業について寓話として象徴的にかつ同時に生々しく描き切っている」と述べられていますが(@神の娘「その12」)、酷く抽象的です←もしかしたら、戯曲の中の配役の行動が、それを演じる2Aの生徒の行動とダブってくるのかもしれません(例えば、「私は我慢しています」「よく私を見てください」という台詞!)。そうだとしたら、原作漫画は大層高いレベルを追及しているといえそうですが!〕。
 尤も、三条会という劇団が、ここ10年以上この作品を上演しているようですし、1955年にこの作品を上演した劇団四季も、創立60周年を記念して再演するというニュースがあることはあるのですが!

(注8)映画の前半部分で、鈴木先生が、「演劇を真剣に学ぶことは有意義だと思う」、「俺は教師を演じている」「おのおのが役割を演じて成り立っている部分もある」などと教室で語ったりしますが、とってつけたような感じが否めません。




★★★☆☆



象のロケット:鈴木先生
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会田誠展

2013年01月28日 | 美術(13年)
 六本木の森美術館で開催されている「会田誠展:天才でごめんなさい」に行ってきました。

(1)映画『駄作の中だけ俺がいる』についてのエントリの末尾で、「会田氏は、このあと現在に至るまでの2年間に、いったいどんな作品を発表してきたのでしょうか」と申し上げたように、『灰色の山』を描いた後現在までの2年間にどんな作品が生み出されたのか関心がありました。

 今回の展覧会からすると、例えば次の絵画がそれに該当します。

・『電信柱、カラス、その他』(未完)  



・『ニトログリセリンのシチュー


 (2点の内)

 相変わらず精力的に様々な作品を制作しています。

(2)こうした会田誠氏について、森美術館のチーフ・キュレーターである片岡真実氏は、本展のカタログに掲載された論考「混沌の日本の会田誠」において、「会田誠は混沌の男である」とし、「それはそのまま、日本社会や文化の複雑さ、多面性、矛盾、多義性のマイクロモデルのようにも見えてきはしないだろうか」として、「多面的な視点から会田の多面性の解釈を試み」ています。
 確かに、会田氏の実に幅広い活動実績を見ると、そうした捉え方しか出来ないようにも思えてきます。

 ですが、「混沌の男」である会田氏を、「混沌の日本社会や文化」を反映するものとして「混沌」のまま把握するのであれば、それは何も分析したことにならないのではないか、というようにも思えてくるところです(注1)。
 日本社会や文化については、その「混沌」した状況なんとか一定の分析視角から一定の論理で捉えようと、様々な学問分野で研究がなされているわけです。どうして、美術の分野において、そうしたことがなされないのでしょうか?

 無論、そうした作業がなされていないわけではありません。
 例えば、明治学院大学教授・山下裕二氏は、雑誌『美術手帖』の本年1月号に掲載されたエッセイ「「あのカラスの絵」の凄さ、でも美術館にきちんと収まっていいのか?」の中で、「私はこの絵(上記『電信柱、カラス、その他』)を見て、戦慄した。カラスが咥えているものにだけではなく、会田が長谷川等伯の〈松林図〉や〈烏鷺図〉から引用して、想念をめぐらせてできた末にできあがったその様式に戦慄した」とか、「「あのカラスの絵」は百年後に国宝になるだろう。もし、それまで日本という国家があって、国宝という制度が存続していたら」などと述べています(注2)。
 また、会田誠氏に関する拙エントリで触れたように、安積桂氏が、会田氏の『1+1=2』などをそのブログ「ART TOUCH」で論じているところです(注3)。

(3)今回のような回顧展以外の場所で会田氏の作品を見るとしたら、一つ一つの作品に鑑賞者は対峙するのですから、こうした論評は貴重でしょう。
 とはいえ、個別の作品についてのこうした指摘はそれぞれなかなか興味深いものの、なんといっても会田誠という一人の画家がすべてを制作しているわけで、それらを見渡せる何らかの統一した視角とか図式のようなものがあったらな、という気もします(注4)。
 
 美術評論家の椹木野衣氏が、雑誌『美術手帖』の本年1月号に掲載された「会田誠 ロングインタビュー」のなかで、「まず会田さんには「我」の時代があり、それが「我々」へ、「本質から表面へ」と移行することで「いろいろなデザイン」となった。基本的にはそれが今に至るまで芸術をめぐる様々なる意匠で変奏されている」が、「「我」は消えてしまったわけではなく、「駄作」を通じて「無我」「無為」といって回帰し続けている」とはいえ、「「我」でも「無我」でもな」く「いろいろなデザイン」でもないところにこそ「新しい展開があるのではないか」、それが「最後の最後にある段ボールによる共同制作〈モニュメント・フォー・ナッシングⅡ〉」ではないか、と述べている点が注目されます (同誌P.39)。




 ただ、「いろいろなデザイン」の最新版である上記の『電信柱、カラス、その他』や「駄作」かもしれない『ニトログリセリンのシチュー』などには瞠目すべきものが感じられ、共同制作〈モニュメント・フォー・ナッシングⅡ〉という「新しい展開」を前に切って捨てられるべきものとは思えず、そうした方向性からも何かしらの「新しい展開」が期待されるところです。
 やっぱりこれからも、会田誠氏の作品にしっかりと注目していかざるをえないのではないか、と思っているところです。



(注1)今回の展覧会カタログに掲載されているデヴィッド・エリオット氏の論考「ものごとの表面―会田誠のドン・キホーテ的世界」では、ときとして会田誠が「スペインの騎士ドン・キホーテのようになってしまう」などとされているところ、こうした見方も片岡真実氏の「混沌」と大同小異ではないかと思えます。

(注2)今回の展覧会カタログに掲載されている山下氏の論考「偽悪者・会田誠―日本美術史からの確信犯的引用について」においても、会田氏の『あぜ道』(1991年)と東山魁夷の『道』(1950年)、『群娘図’97』(1997年)と尾形光琳の『燕子花図』(18世紀)、そして『紐育空爆之図』(1996年)と狩野永徳『上杉本 洛中洛外図屏風』や加山又造『千羽鶴』(1970年)などとの密接な関係が指摘されています。

(注3)例えばこのエントリなどでは、「会田誠が個展「絵バカ」(ミヅマアートギャラリー)で発表した『1+1=2』が余り評価されていない。しかし、この作品は会田の画歴の中でも重要な作品である」ものの、「文字をデフォルメして抽象画の中に隠した絵画的イリュージョンを欠いた失敗作である。会田の文字を使った作品で一番面白いのは依然として『書道教室』ではないか」などと述べられています。

(注4)例えば、山下氏は会田氏の『1+1=2』という絵画については、どのような視角から議論するのでしょうか?
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ももいろそらを

2013年01月23日 | 邦画(13年)
 『ももいろそらを』を新宿のシネマカリテで見ました。

(1)これは、先月新宿に新たにオープンした映画館(注1)を覗いてみようというのが主な目的でした。でも、映画の方がなかなか面白くて、随分の拾い物でした!

 物語の舞台は千葉県、ストーリーは3人の女子高生を巡って展開します(注2)。
 主役のいづみ池田愛)は、ある日30万円の入った財布が道端に落ちているのを見つけます。



 その中に入っていた学生証に記載の住所地に行ってみると、農水省から千葉県競馬振興協会理事に天下った人物の家であり、財布の持ち主がその人物の息子・光輝であることが分かります(注3)。
 だったらお金の出所は「体制側の汚い金」だとばかり、いづみは、持ち主に返却せずにいくらか使ってしまいます(注4)。
 ですが、他の高校に通う友人の蓮実小篠恵奈)とに財布が見つかってしまい、結局持ち主に返却することに(光輝が、1年上の格好いい高校生だとわかり、蓮実は俄然積極的になります)。



 そうしたところ、光輝は、財布の中の金額が足りないことから、あとでその返済をいづみに迫ります(注5)。その際に彼は、30万円は父親から盗み取ったもので、その金でカメラを購入して、入院中の好きな子(注6)に外の景色を見せてやるのだと言います。
 さらに、返済できないのなら、その病人の心を和ますような良いニュースばかりを集めた新聞を作れといづみに求めます。
 窮した彼女はその要求を受け入れますが、新聞作りに加わるよう、蓮実と薫にも光輝から言ってもらいます。
 さあ、そんな新聞がうまく作れるでしょうか?
 そして、いずみや蓮実と光輝との関係は?

 本作は、小林啓一監督の長編映画デビュー作であり、また主演の池田愛も映画初出演ながら(あるいは、逆にそうだからこそでしょうか)、映画のテンポや演技が実に歯切れよく(モノクロ映画の良さも加味されて)、むしろ爽快さを感じました。

(2) 本作は、ある意味で、石井裕也監督の商業映画デビュー作『川の中からこんにちは』を思い起こさせます。
 といっても、そちらは主人公の若い女の子(満島ひかり)が田舎の大人の世界に入って行くというものでしたが、本作では逆に、大人は印刷屋の社長くらいしか登場しません(注7)。
 ただ、『川の底からこんにちは』では、冒頭で主人公が腸内洗浄を受けたり、あるいは父親のしじみ工場の社歌を作ったり、野菜に肥しをかけたりなどと、縦横の活躍ぶりです。
 本作でも、主人公のいづみが、いきなり印刷屋の社長に気前よく20万円を貸し与えたりするなど(注8)、かなり思い切ったことをします。
 さらに、『川の底からこんにちは』では、ラストで主人公が、亡くなった父親の遺灰を骨壷から取り出して男に投げつけますが、本作のラストは、火葬場の煙突から煙が出るシーンです(注9)。

 とはいえ、突っ込みどころはいくらでもあるでしょう。
例えば、いくらなんでも、今時の高校生が日刊新聞を隅から隅まで読んで、しかも採点までするなどあまり考えられませんし(大人の新聞離れが目立つ今日この頃です)、あるいは、役人が地方の公的な機関に天下りするにしても、映画で言われるような豪勢な生活(注10)など、一昔前ならいざ知らず、今や出来なくなっているのではないでしょうか(注11)。

 ですが、インタビュー記事で小林監督は、「社会が暗い状況だからこそ、明るくて元気なキャラクタ-を描こうと思ってました。被害者面するのが好きじゃないので、現状を変えていこうというムーブメントになれば、という気持ちもありました」と述べていますが、そうであるならそんなつまらないことなどどうでもよく思われてきます。

(3)朝日新聞記者・石飛徳樹氏は、朝日新聞の映画評欄(1月18日夕刊)で、「小林啓一監督は、私たちが思春期だった頃の恥ずかしい自意識をたっぷり思い出させてくれる」などと述べています。



(注1)映画館のシネマカリテは、JR新宿駅の東口を出てすぐ左のビル(NOWAビル)の地下1Fにあります。新宿武蔵野館系列のミニシアターで、スクリーンは二つです。

(注2)映画の冒頭に「2035年9月」と日付の入ったいづみの手記が映し出され、その時点から今を振り返ったのが本作という作りになっています。
 なぜその年にしたのかという点については、この監督インタビュー記事によれば、「2035年にしたのは、いづみが今の自分と同じ年齢(=40歳)になるから」とのこと。

(注3)いづみは、普段から日刊紙を隅々まで読んでいるので、その人物の名前に引っかかりを感じて、図書館で新聞を調べ直します。

(注4)いづみは、釣り堀で出会った印刷屋の社長に、その内の20万円を貸し与えてしまいます(社長は借用証を書きます)。
 なお、ラストで印刷屋は、その20万円に2万円の利子分を付けて、いづみに返済します。

(注5)財布を返してもらった際に、光輝は、1割の謝礼金として3万円をいづみらに手渡します。ところが、あとで財布の中身を精査したら酷く少ないので、その分を返してくれるようにいづみに求めます(財布に入っていた上記「注4」の借用証を見て、いづみが勝手に貸し与えたことがバレてしまいます)。
 なお、その際光輝は、「財布の中身が12万円しかないから15万円不足しており、その分を返せ」と言います。ただ実際には、財布の中身は10万円しかなかったはずで、そこから光輝が3万円を謝礼としていづみたちに支払いましたから、残りは7万円になってしまうはずですが、よくわかりません。

(注6)光輝がいづみに対し、その子の名前を「和美」と言ったことから、いづみたちはてっきり女子高生と思ってしまいますが、実は、……。

(注7)むろん、大人が印刷屋以外に全く登場しないわけではなく、いづみによるカメラの撮影を拒否する風変りなおばあさんなども登場します。
 ただ、未成年が登場する映画ならば、その両親などが描かれるのが常識的なところ、本作ではそうした要素は排除されています。
 この点に関しては、小林監督は、このインタビュー記事において、「親の影響って凄くあると思うんですけど、そうすると人のせいにするっていうか、親のせいとかになってしまうような気がしたんです」などと述べています。

(注8)他にも、たとえば、残金の返済を光輝から迫られたいづみは、いきなり光輝の膝の上に体をあずけます。驚いた光輝は、「なにこれ、やめてくれる」と言っていづみを離すと、いづみは「15万以上の価値はあるけど」と言い返します。

(注9)本作については、ラストシーンに関して、黒澤明監督の『天国と地獄』を云々する向きがあります(たとえばこの記事)。どんな場面から何を連想するのも自由ながら、類似点が煙突から色付きの煙が立ち上るというだけでは、関連性が薄すぎるのではと思います。

(注10)いづみは、光輝が洋服に5万円もの大金をかけていることを非難します。

(注11)さらには、和美は、寝返りを打ってベッドから落ちた際に頭の打ち所が悪くて死んでしまったとのことながら、その前にもベッドから落ちているのですから、常識的には、ベッドを窓際に置くなどの対策が取られているのではないでしょうか?



★★★★☆



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ブリューゲルの動く絵

2013年01月20日 | DVD
 『ブリューゲルの動く絵』をDVDで見ました。

(1)本作については、本ブログのタイトルに「絵画的」と標榜しておきながら、都合がつかなくて見逃してしまい、ズット気になっていたところ(注1)、そのDVDが昨年12月に出され、TSUTAYAでもレンタル開始となったので、早速、正月休みを利用して見てみました。

 本作は、ベルギーの画家ピーテル・ブリューゲルの絵画『十字架を担うキリスト』(1564年、ウィーン美術史博物館蔵)が持つ意味合いを、絵で描かれている人物たちを実写化(この絵に描かれている人物たちが、それぞれに扮した俳優たちによって動き出します)することで探究しようとするものです。

 元になっているのは、マイケル・フランシス・ギブソンの著作『The Mill and the Cross』(映画の原題と同じ)ながら、そのギブソンが、本作の監督・製作のレフ・マイェフスキと共同で脚本を書いています。

 この映画では、一方で、ブリューゲルの妻とそのたくさんの子供たちが食事をしたり、行商人がパンを売り歩いたりするなど、当時の様々の生活風景が丹念に描き出されますが、他方で、台詞を与えられている3人がいろいろ話します。

イ)画家のブリューゲルルトガー・ハウアー)が、この絵の構図等について、あらまし次のようなことを述べます(注2)。



・画面を大きくし登場人物も増やして、1枚の絵の中に多くの物語を描きたい。
・描き始めに基準となる点が必要で、それがゴルゴダの丘に引っ立てられていく救世主だ。彼はクモの巣の中心にいるクモでもある。
・ただ、彼は絵の中心にいるものの、目立たぬ存在だ。というのも、十字架を担がせようと兵士が捉えたシモンの方に群衆の目が向いているから(注3)。
・中央に岩山があって、その上に風車小屋が置かれるが、これはこの絵の軸であり、生と死の間にある。その風車小屋に粉屋がいるが、彼が、他の絵における神のように、すべてを見下ろしている。彼が挽いて出来る粉で、生命と運命のパンが出来、それを行商人が売り歩く。
・岩山の左側では、生命の樹が葉を茂らせる。
・その反対側の右手奥には、死の黒い輪(ゴルゴダの丘)。
・右手前には、死の木(車輪刑用の)が立っていて、根元には馬の頭蓋骨。
・最後に、そのそばに2人の男(ブリューゲルと銀行家のヨンゲリンク)。

ロ)銀行家のヨンゲリンクマイケル・ヨーク)(注4)は、スペインによる支配について、概略次のように妻に向って話します。



・この地に住む者はどんな宗派の人間とも共存できると信じているが、スペイン王は異端を認めず、彼らは王の命により残らず処刑される。
・このような横暴は我慢ならない。
・だが、赤い服の傭兵たちはスペインの支配者に仕えており、我々もその僕なのだから(注5)、彼らの振る舞いに耐えなくてはならない。

ハ)聖母マリアシャーロット・ランプリング)が、ゴルゴダの丘に向かう救世主について、だいたい次のように呟きます(注6)。



・彼を歓迎した同じ兵士達が、昨夜、彼を捕えにきた。
・さらに、夢中になって耳を傾けていた同じ群衆が、今朝は、彼の首を求めて叫んでいる。
・彼は私の息子、だが大人になって私たちを驚かせた。
・彼は、「私は地上に火を投げるために来た」、「私たちは運命の火をつかめるのだ」と言って笑みを浮かべた。
・彼は、世界に光をもたらした。その光は闇を脅かした。神や人を敬うことのできない愚か者や、権力に固執する者、因習に囚われている者にとって、彼は脅威となったのだ。


 これらの台詞からすると、ブリューゲルは、銀行家のヨンゲリンクの依頼に基づきながら、当時のスペイン国王によってネーデルランドに対しなされた暴政(異端審問に代表される)を、キリストの受難になぞらえて描き出そうとしているものと考えられます。
 描かれている聖母マリアは、キリストの母であると同時に、フランドルの状況を改革しようとして捕まり処刑される青年の母親でもあるのでしょう、あれほど支持していた民衆が今度は手のひらを返すように処刑の見物に集まってくる様を見て、嘆き悲しみます。
 この光景に対して、ブリューゲルは、見守るべき救世主よりも、今兵士に捕まえられているシモンの方に関心を持ってしまう民衆の有様を描くことによって、もう一捻り加えています。

 映画では、救世主の処刑が終わり、岩山の洞窟に遺体を安置すると、空が暗くなって雷鳴が轟きますが、一夜明けると空は晴れ渡り、何事もなかったように人々の普段通りの生活が行われ、皆は輪になって踊り出します。
 でも、果たして何事もなかったのでしょうか、人々は大切なことから目を逸らして日常生活に埋没しているだけなのではないでしょうか?

 この映画を制作したポーランド人のレフ・マイェフスキ監督は、単にブリューゲルの絵画『十字架を担うキリスト』の絵解きをするだけでなく、ブリューゲルが絵画という手法を縦横に使って訴えようとしたこと(いってみれば、エラスムスの“寛容の精神”でしょうか)を、現代的なメディアである映画という技法を駆使して、再度、今の時代に蘇らせようとしたのではないでしょうか?

 本作に出演している俳優のうち、ルドガー・ハウアーは、有名な『ブレードランナー』に出演していますが、最近の作品ではお目にかかっていません。
 また、シャーロット・ランプリングは、『メランコリア』で主役のジャスティンの母親に扮しています(ちなみに、同作品ではブリューゲルの『雪中の狩人』が使われています)。

(2)本作の公式サイトの「イントロダクション」において、レフ・マイェフスキ監督の「鋭い感性」が「アートそして映画ファンをも魅了した『エルミタージュ幻想』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)や『真珠の首飾りの少女』(ピーター・ウェーバー監督)に劣らぬ傑作をうみだした」と述べられています。
 ただ、映画『エルミタージュ幻想』(2002年)は、ピョートル大帝や皇帝ニコライ二世、プーシキンなどなど歴史上の人物がいろいろ登場するものの、そしてエルミタージュ美術館所蔵の名画がいくつも映し出されるものの(注7)、ロシア・ロマノフ王朝の歴史を描き出すことに主眼が置かれていて、本作のように、ある絵画を取り上げてその意味を解明しようという意図は持っていません。

 また、映画『真珠の首飾りの少女』(2003年)は、確かに、フェルメールの絵に描かれている少女(注8)を巡る物語ですが、絵画の謎の究明というよりも(注9)、絵を見て着想したロマンティックなラブストーリーの方に随分と傾斜していると思われます(注10)。

 本作は、むしろピーター・グリーナウェイ監督の映画『レンブラントの夜警』(2007年)の方に近いのではないかと思いました。
 同作についてはこのエントリの(3)で触れたところですが、本作と同じように、レンブラントの『夜警』で描かれている市警団隊長バニング=コックらが、本作と同じように当時の扮装で動き回っているのです。



 その上で、ピーター・グリーナウェイ監督は、絵画『夜警』の背後に一つの殺人事件を探りだそうとします。
 むろん、それも一つの仮説であり、想像力の産物と言えるでしょうが、映画『真珠の首飾りの少女』に比べたらずっと地に足の着いたものといえるのではないかと思います。
 ただ、同作は、専らレンブラントに関する伝記的な作品であり、ブリューゲルの伝記的な事実についてほとんど触れられていない本作とは性質を異にしているともいえるでしょう。

(3)渡まち子氏は、「実写映像と、ポーランド人アーティストのレフ・マイェフスキ監督自らが描いたという背景画、ラストに登場する本物のブリューゲルの絵。すべてがミックスされてイマジネーション豊かな作品になった」として70点をつけています。



(注1)映画『プッチーニの愛人』に関するエントリに対するmilouさんのコメントで、「映画的・絵画的・音楽的なら必見の作品だ」との指摘を受けたこともあり!
 なお、同コメントでは、本作の字幕に関する貴重な意見が述べられています。

(注2)以下でブリューゲルが述べていることを試みに絵の中に書き込むと、あるいは次のようになるのではと思われます。



(注3)本作のブリューゲルは、「「イエスの降誕」も「イカロスの失墜」も「サウルの自害」も、世界を揺るがす大事件だが、人々は無関心だ」と述べ、「だから、私は、観る者の目を捉えるべく、クモの巣のように巣を張っているのだ(→すべての物語を描き込むこと?)」と銀行家のヨンゲリンクに言います。
 ブリューゲルは、『イカロスの墜落のある風景』及び『サウルの自殺』を描いているところ(「イエスの降誕」についてブリューゲルは、下記の「注6」で触れる『東方三博士の礼拝』を描いています)、いずれの絵においても、重要な出来事の画面における扱いはごく小さなものになっています。。

(注4)ブリューゲルに絵の制作を依頼するヨンゲリンク自身は、「アントウェルペンの市民であり、銀行家であり、絵の収集家である」と言っています。

(注5)ネーデルランドは、長いことスペイン・ハプスブルク家の支配下にあったところ、80年戦争の結果結ばれたウエストファリア条約によって、プロテスタント勢力が強い北部7州は独立を果たすものの、南部諸州はスペイン支配下のままでした。
 ブリューゲルが活躍していた1560年代は、彼が住んでいたアントウェルペンはまさにスペインのフェリペ2世の支配下にあったわけです。

(注6)聖母マリアについて、本作のブリューゲルはこう言っています。
 「年の初めに『東方三博士の礼拝』を描いた時は、息子を生んだ直後の妻をモデルにして聖母マリアを描いたが、今度の絵に描くのはその30年後の姿だ。その姿や顔付きは変わらないものの、彼女に喜びをもたらした幼子は連れ去られてしまい、その絶望は深い」。
 また、銀行家のヨンゲリンクは、次のように言います。
 「「この聖堂を壊して三日で再建する」との彼の言葉が罪に問われているが、皆はそれが「改革」を意味していることを知っていたのだ」。

(注7)例えば、エルミタージュ美術館の「レンブラントの間」に展示されている『ダナエ』(その絵の前で女性が絵との“交流”を図ったりしています)とか『放蕩息子の帰還』などの名画が、映画ではゆっくりと描き出されたりします。

(注8)フェルメールの絵画『真珠の耳飾りの少女』に関しては、このエントリをご覧ください。

(注9)カメラ・オブスクラを、主人公のグリート(スカーレット・ヨハンソン)がフェルメール(コリン・ファース)と一緒に覗く場面があるなど、絵画の技法に関することは描かれていますが。

(注10)フェルメールの妻が、彼の絵を破ってしまったことがあったり(使用人同士の話に過ぎませんが:ただこれは、『チキンとプラム』で、主人公が大切にしていたヴァイオリンを妻が壊してしまったシーンを思い起こさせます)、さらにはグリートを描いた絵を嫉妬の余りペインティングナイフで壊そうとしたり、グリートに思いを寄せる肉屋の息子がいたりするなど。



★★★★☆



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もうひとりのシェイクスピア

2013年01月16日 | 洋画(13年)
 『もうひとりのシェイクスピア』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)シェイクスピアについては、戯曲とソネットが残っているだけで、その実像が全く分かっていないことから、例えば日本の東洲斎写楽のように(注1)、その人物について色々な説が立てられているようです。
 勿論、本流は「シェイクスピア=ウィリアム・シェイクスピアだと考える正統派(ストラトフォード派)」でしょうが、劇場用パンフレットに掲載されている早稲田大学教授・小田島恒志氏のエッセイによれば、それを疑う「懐疑派(反ストラトフォード派)」には、「当時を代表する学識者フランシス・ベーコン説」や「シェイクスピアと同年生まれの劇作家クリストファー・マーロウ説」など様々なものがあるようです。
 本作は、もう一つ別の「オックスフォード伯説」に基づいて、すなわち当時の貴族のオックスフォード伯爵エドワードが、シェイクスピアが作ったとされる戯曲や詩の影の作者だったということで、一つの物語を作り上げています。

 物語の舞台は、エリザベス女王ヴァネッサ・レッドグレイヴ)の16世紀末(注2)。



 彼女は結婚していないので子供がおりません。
 その後継者を巡って、宰相セシルデヴィッド・シューリス)らのスチュアート朝派とオックスフォード伯らのチューダー朝派とが対立することになります。
 本作の主人公オックスフォード伯リス・エヴァンス)は、ひそかに戯曲を書き、劇作家ベン・ジョンソンセバスチャン・アルメストロ)を通じて(注3)、劇場にて上演させ(注4)、庶民を味方につけようとします。



 ところが、上演後、割れるような喝采によって作者の登場が観客から求められると、読み書きの満足にできない役者のシェイクスピアレイフ・スポール)が、書いたのは自分だと名乗りをあげます。
 さあ、オクスフォード伯の狙いはうまくいくのでしょうか、エリザベス女王の後継者はどうなるのでしょうか、……?

 本作では、本当のシェイクスピアは誰だったかという詮索よりも、むしろ宰相セシル対オクスフォード伯といった宮廷内抗争を描くことの方に重きが置かれているように見えるところ(注5)、その話の内容がなかなか興味深いものであり、かつまた16世紀末のロンドンの有様が様々な技法を使って巧みに再現されていたりして、随分と面白い作品に仕上がっていると思いました(注6)。

 俳優陣については、イギリス人が多いせいなのでしょう、余りなじみがない人が大部分ながら、『ジュリエットからの手紙』や『ミラル』でおなじみのヴァネッサ・レッドグレイヴは、さすがの貫禄でエリザベス女王を演じています(注7)。

(2)想像力が奔放に働かない歴史物は余り好みではないところ、様々な議論のあるところに切り込んでいく映画ならば面白いのではと思って見に行ったのですが、実はもう一つの動機もあります。
 たまたま年末からお正月にかけて読んだスティーブン・グリーンブラット著『1417年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳:柏書房、2012.12)です。
 同書は、ローマ教皇庁の秘書官だった人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニが、1000年以上もの長い間見失われていたルクレティウスの『物の本質について』の写本をとある修道院で発見することを巡る実に面白い歴史物語ですが、そのなかに、「シェイクスピアはオックスフォードやケンブリッジで学んだことはなかったが、ラテン語に堪能で、ルクレティウスの詩を自力で読むことができた」、「劇作家仲間のベン・ジョンソンとルクレティウスについて語り合った可能性もある」、「シェイクスピアは彼のお気に入りの本の一冊の中で、ルクレティウスに出会っていたはずだ。その一冊とは、モンテーニュの『エセー』である」などと述べられているのです(P.302)。
 あのシェイクスピアとこんなところで出会えるのかと思って大層驚き、丁度上映中の本作にも関心が向いたというわけです(注8)。

(3)本作には、当時ロンドンに設けられていた劇場が登場しますが、フランシス・イエイツの『世界劇場』(藤田実訳、晶文全書)で衝撃を受けた者にとっては、グローブ座の様子が目を惹きました。



 フランシス・イエイツは、同書において、「18世紀の中頃に、かつて地球座の敷地であったところの近くに住んでいて、地球座の建物の土台を見ている」スレイル夫人による、「地球座の外側は六角形で内側は円形であった」との「記述は完全に信頼してもよい」として、グローブ座について一つの平面図の試案(上に掲載した同書の表紙を参照)を提示しています。
 さらに、F・イエイツは、この試案に正方形(楽屋棟と舞台の両方を含めたもの)を加え、こうすると、「ヴィトルーヴィウス的人間図に接近したものになる」として(注9)、「この平面図は少なくとも現代の思考の枠組みではなく、ルネッサンスの時代の思考の枠組みで作った試案である」と述べています(同書P.163~P.166)。

 他方、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」に、美術担当の「クラウィンケルは、外装をクラース・ヴィン・フィッシェルの絵で見たことのある高い塔に近いものにしたかった。内装は、現在のロンドンにあるグローブ座を再現しようとはせず、当時の貴族のドレスのような感じを出そうとした。明かりで光輝くような色鮮やかで、豪華なものだ」などとあり、「歴史的な正確さは重要」とされながらも、ヴィジュアル的にアピールするよう、本作においてはいろいろ工夫されているのではと思われます。

(4)渡まち子氏は、「文豪シェイクスピア別人説を重厚なタッチで描く歴史ミステリー「もうひとりのシェイクスピア」。監督があのローランド・エメリッヒというのが一番の驚き」として70点を付けています。




(注1)東洲斎写楽については、このエントリをご覧ください。

(注2)エリザベス女王は1603年に亡くなります。

(注3)本作では、ベン・ジョンソンがオックスフォード伯との連絡係とされており、またオックスフォード伯が書いた戯曲などの草稿はすべてべン・ジョンソンに託されることになります。



 映画の冒頭では、ベン・ジョンソンが、その草稿を持っているところを兵士に追われ、グローブ座に逃げ込み、それを衣装箱に隠すものの、劇場に火を付けられてしまい捕えられる様子が描かれます。
 (尤も、Wikipediaによれば、グローブ座は「『ヘンリー八世』の上演中、装置の大砲から出た火によって火災が発生し焼失した」とされていますが)

(注4)オックスフォード伯は、ベン・ジョンソンに対し「お前の名前で上演しろ」と言いますが、作者の名前は明かされずに上演されます(映画の原題は「anonymous」)。

(注5)本作では、宰相セシルは、スコットランド王ジェームス1世を擁立したのに対し、オックスフォード伯らは、エセックス伯を支持していたとされます。
 さらに、本作では、若き日のエリザベス女王とオックスフォード伯とは愛人関係にあり、エリザベス女王が密かに産んだ子がエセックス伯であり、またエセックス伯につき従っているサウサンプトン伯は、オックスフォード伯が別の女性に産ませた子であるとされています〔追記:下記の「シスターズ」さんのコメントによれば、ここの記述にはクマネズミの誤解があるようです〕。
 エセックス伯は、宰相セシル及びその息子のロバート・セシルを宮廷から排除しようと立ち上がりますが、逆にエリザベス女王の怒りをかって斬首刑に処せられてしまいます(サウサンプトン伯は、オックスフォード伯の嘆願により辛くも助命されます)。

(注6)とはいえ、映画の冒頭に現代人が登場し、これから始まる劇について口上めいた話をしますが(そしてまた、ラストにもこの現代案内人は登場しますが)、そんな大仰な構えにする必要性があるのかな、という気がしました。

(注7)主演のリス・エヴァンスについても、『ミスター・ノーバディー』でニモの父親に扮していたところ、同一人物だとはなかなか分かりませんでした。
 また、シェイクスピア役のレイフ・スポールは、そういえば『ワン・デイ』でイアン(アン・ハサウェイのエマが一時同棲していた相手)に扮していました。

(注8)著者グリーンブラット氏がどうしてシェイクスピアを持ち出したのかというと、同氏はもともと類いまれなるシェイクスピア学者なのです。
 上記の引用からもわかるように無論「ストラトフォード派」であり、例えば『シェイクスピアの驚異の成功物語』(河合祥一郎訳:白水社、2006年)が有名です。
 ちなみに、同書では、「『ハムレット』は「シェイクスピアの作家人生に大きな断層を作」り出しているが、そうなったのは「シェイクスピアの人生になんらかのショックがあったためではないだろうか」として、上記「注5」で触れたエセックス伯の「暴挙」が「一つのショック」だったかもしれない、と述べられています(P.436)。
 尤も、そのすぐ後で、著者は、「実はシェイクスピアの『ハムレット』は、どうやらエセックス伯が運命の決行に踏み切る前に上演されたらしい」として(P.440)、『ハムレット』に登場する亡霊の役を演じる「シェイクスピアの胸のうちには蘇ってきたに違いない、墓の中から聞こえてくる死んだ息子(ハムネット)の声が、死にゆく父親の声が、そしてひょっとすると、自分自身の声が」と述べています(P.455)。

(注9)「ヴィトルーヴィウス的人間図」については、F・イエイツは、さらに「この人間図は、ルネッサンスの基本的な図像であって、幾何学的象徴を用いて人間と宇宙との関係をあらわし、その調和ある構造が大宇宙の調和と関係を持つ小宇宙=人間をあらわすものである」と述べています(P.166。図はこちらに掲載されています)。
 なお、F・イエイツの『世界劇場』については、こちらが参考になります。



★★★★☆



象のロケット:もうひとりのシェイクスピア
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ルビー・スパークス

2013年01月13日 | 洋画(13年)
 『ルビー・スパークス』を渋谷のシネクイントで見てきました。

(1)大層面白かった 『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年)を監督した二人(注1)の作品と聞いて映画館に出かけました。

 物語の舞台はロスアンジェルス。
 主人公は、10年前に処女作を書いてヒットさせながらも、その後まったく書けなくなってしまったカルヴィンポール・ダノ)(注2)。
 出版10周年を記念する講演会があり、出席者の皆に称賛されるものの、カルヴィンは、家に戻ると10年前の本を床に投げ出してしまいます。
 心配する兄のハリーに、「親父の話を書こうとしたが、すぐに挫折した」とか、「散歩が忙しくて、それで一日が潰れてしまう」などと言い訳をすると、医者に診てもらえとアドバイスされ、それでローゼンタール博士に相談すると、博士は、好きな人のことをレポートに書いて提出しろとの宿題を出します。
 そんな日の夜、カルヴィンが、ベッドが汚いのでソファーで寝ていると、なんだか以前会ったような気がする女の子(ゾーイ・カザン)が現れ、「かわいい犬ね、名前は?」と尋ねるので、「スコッティ、スコット・フィッツジェラルドからもらった」と答えると、「失礼ね、犬を使って偶像を破壊したいのよ」などと言いながら、犬の絵を描いてカルヴィンに渡して消えます(注3)。



 カルヴィンは、ソファーから飛び起きて、2回の書斎に上がりタイプを打ち出します(注4)。



 書く作業はどんどん捗り、出来上がった原稿をローゼンタール博士に提出しますが、その際に、「彼女は想像の産物ながら、書いていると一緒にいるような気がする」、「彼女の名前はルビー・スパークスで26歳、元彼は49歳」などと言います。
 その後もカルヴィンはタイプを打ち続けるのですが、ある日、書斎のある2階から1階に下りると、キッチンには何とそのルビーがいるではありませんか!
 カルヴィンは、神経衰弱が昂じて妄想が現れたのだと考え、いろいろ騒ぎまわりますが、実在しているとしか思えないようになってきます(注5)。
 さあ、この後いったいどのように展開するのでしょうか、……?

 本作は、処女作をヒットさせながらもその後10年間何も書けなくなってしまった主人公が、夢で見た女の子・ルビーのことをタイプで書き出すと、なんとそのルビーが実在してしまうという至極ファンタジックなお話。
 主人公役のポール・ダノがひょろ長の草食系で(注6)、ルビー役のゾーイ・カザンも29歳で可愛いという年齢を過ぎていて(注7)、2人ともイマイチながら、お話にはユーモラスなところもあって随分と楽しく見ることができました(注8)。

(2)この映画を見たら、なんだか『古代への情熱』(関楠生訳、新潮文庫)のシュリーマンを思い出してしまいました。
 よく知られているように、「単なる詩人の空想の所産」とみなされてきた叙事詩について、シュリーマンは、「ホメーロスを信じ、『イーリアス』及び『オデュッセイア』におけるその描写が事実に基づいていると信じ」てトロイアのあった場所を発掘しました(新潮文庫P.176)(注9)。



 夢と思われていたものと現実に遭遇したといえるのではないでしょうか。
 あたかも、夢の中で出会ったと思っていたルビーと現実に遭遇したカルヴィンのように。

 ただ、Wikipediaによれば、後の研究の結果、シュリーマンが発掘した層(第II層G)は「トロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであ」り、「『イーリアス』の時代とされるものは紀元前1200年ころの第VII層Aだったが、これはシュリーマンの発掘によっておおきく削られてしまったため、ほとんど何も残って」おらず、「遺跡が伝説上のトロイアであるという決定的な証拠はない」とのこと。
 なんだか、本作において、カルヴィンの元からルビーが消えてしまうシーンを暗示してもいるようです。
 でも、シュリーマンの発掘については様々の問題が指摘されているものの、「70年以上の年月をへだてた今、考古学の目には彼の生涯の偉大な業績のみがうつり、彼のやり方の欠陥はその前に色あせてしまっている」のが事実であれば(注10)、本作におけるラストシーンを彷彿とさせるかもしれません。

 とはいえ、見終わってから、ヒロインのルビーを演じているゾーイ・カザン(エリア・カザンの孫娘!)が脚本を書き、また彼女と主人公のカルヴィンを演じているポール・ダノとは実際に恋人同士とわかり、驚きました。
 さらに、劇場用パンフレットに、「ある夜遅く、映画のセットから帰宅した彼女(ゾーイ・カザン)は、ゴミの山の上にマネキンが横たわっているのを見てショックを受け」、彼女の頭には「ギリシャ神話の一編、自分が作り出した彫刻の像に恋をするピュグマリオーンの話」がよぎり(注11)、それでゾーイ・カザンはシナリオを書き始め、「恋人である俳優ポール・ダノに内容を話すようになった。そして次第にふたりはお互いを主人公とその相手として考えるようになっていった」と述べられています。

 なにも無理してシュリーマンに飛ばずとも、映画におけるカルヴィンとルビーとの関係が、なんのことはない、すでに実生活に見出されていたようなのです〔ただしこちらは、男女が逆転していますし、“実生活→フィクション(映画)”というようにベクトルが逆向きですが〕!

(3)小梶勝男氏は、「「リトル・ミス・サンシャイン」のジョナサン・デイトンとヴァレリー・ファリス監督は、ファンタジーの中で、その恋の本質を、時にロマンチックに、時に残酷に、描き尽くす。かつてのアメリカン・ニューシネマのような味わいは、主人公の喪失感が観客の胸に迫ってくるからだろう。小品だが、忘れ難い秀作だ」と述べています。



(注1)ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス監督。

(注2)一冊しか書けない作家というと、昨年見た『恋のロンドン狂騒曲』に登場するロイのことを思い出してしまいます。

(注3)S・フィッツジェラルドは、『ミッドナイト・イン・パリ』に登場しました!

(注4)今でもタイプライターを使っているというと、『映画と恋とウディ・アレン』に登場するウディ・アレンが、依然として旧式のタイプライターを使っていました。
 なお、本エントリの注記でウディ・アレン作品についての言及が多いのは、粉川哲夫氏のブログのこの記事に、「この映画が多くを盗んでいるウディ・アレン先生」などとあるところに触発されました。

(注5)たとえば、兄のハリーに「原稿の続きを書いてみろ。現実になれば奇跡だ」と言われ、2階のタイプで「彼女はフランス語が堪能だ」と打ち込むと、1階にいるルビーが、突然「ボナペティ」などフランス語で喋り出します。

(注6)主演のポール・ダノは、『ゼア・ウイル・ビー・ブラッド』や『ウッドストックがやってくる』で見かけました(前者の牧師役が印象的です)。

(注7)ゾーイ・カザンは、『恋するベーカリー』に主人公(メリル・ストリープ)の娘役として出演していたようですが、印象に残っておりません。

(注8)その他、カルヴィンの母親役のアネット・ベニングは、『愛する人』でもナオミ・ワッツ扮するエリザベスの母親を演じています。
 また、『恋のロンドン狂騒曲』でナオミ・ワッツのサリーが恋心を抱く画廊の社長を演じていたアントニオ・バンデラスが、カルヴィンの義父に扮しています。

(注9)『古代への情熱』には、「私は6週間という短い期間のうちに、現代ギリシア語をマスターすることに成功し、それから古典ギリシア語の勉強にとりかかった。そして三ヶ月後には古代の2,3の著作家と特にホメーロスを読めるのに十分な知識を獲得した。ホメーロスは、夢中になって何度も繰り返して読んだ」などと述べられています(新潮文庫P.43)。
 (ただ、Wikipediaには、シュリーマンが「操ることができたというホメーロス時代の古代ギリシア語も、実は間違いだらけの怪しいものだったようだ」とありますが)

(注10)『古代への情熱』の「後記」(1960年)を記した編者エルンスト・マイヤーによります(新潮文庫P.177)。

(注11)上記「注4」で触れた粉川哲夫氏のブログ記事によれば、「ピグマリオン効果」と言われるもの(「教師の期待によって学習者の成績が向上すること」)が別途「ローゼンタール効果」とも言われるようです。




★★★☆☆




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グッモーエビアン

2013年01月10日 | 邦画(13年)
 『グッモーエビアン!』をテアトル新宿で見ました。

(1)麻生久美子が出演する作品と聞いて映画館に出向きました。

 物語の舞台は、名古屋市内のアパート。
 映画の始まりは、公園のサクラが満開で、映画の語り手のハツキ三吉彩花)が中3になったばかり。
 ハツキは、母親のアキ麻生久美子)と一緒に暮らしていますが、アキは「スカートの丈がちょっと長いよ」などと言って仕事に出て行きます。

 そんなところに、ヤグ大泉洋)より「グッモーエビアン!」と書いてある手紙がオーストラリアから届きます。
 ヤグは15歳の時に、ハツキを身ごもっていた17歳のアキにプロポーズしたそうですが、当然のことながら結婚などできるはずもありません。
 でも、ハツキが生まれた後も3人は一緒に暮らしてきたとのこと。
 アキとヤグの共通点は、以前パンクバンドでギタリストをしていたことのようです。

 さて、学校では、同級生のトモ能年玲奈)と、「ヤグはそう簡単には死なないよ」などと話しているところに、先生(小池栄子)が教室に入ってきて、「グッドモーニング、エブリワン」!
 その半年ばかり後にヤグが世界放浪の旅から戻ってきます。
 さあ、この変わった感じのするアキとヤグ、それにハツキが加わった一家の物語はどのように展開するのでしょうか、……?

 本作は、ヤグとアキとハツキという一風変わった家族関係を描いていて、それを演じる芸達者な大泉洋と麻生久美子の2人に、頑張り屋の三吉彩花や注目の能年玲奈が加わって、まずまずの出来栄えになっています。

 大泉洋は、昨年の『探偵はBARにいる』以来で、なかなかの好演ですが、ホームランを期待していると確実な安打で出塁、といった感じも受けてしまいます(注1)。



 麻生久美子も、昨年の『モテキ』以来ですが、最後のバンド演奏姿など頑張っているとはいえ、ただもっと何かを出せる女優ではないでしょうか?

 また、娘のハツキを演じた三吉彩花は、なんだか吉高由里子そっくりな感じで大人びていて、とてもハツキと同じ年ごろには見えないながら、今後が大いに期待されます。



 それに、ハツキの友達トモに扮した能年玲奈は、前回の『カラスの親指』で見たばかりですが、どちらもとてもいい印象を持ちました(昨年の収穫と言えるかもしれません!)。

(2)全体として、風変わりな一家を描いているものの、やっぱり型に嵌まっているのかなという感じも幾分ながらしました。
 例えば、麻生久美子の母親・アキが、娘ハツキに向って、最初は「自分の将来のことは自分で決めたら」と言って進路相談に乗らなかったにもかかわらず、結局は、人生の先導者然として長々と話したりするところは興醒めでした。わざわざそんなことを喋らないで済むように、それまでのストーリーができていなければいけないのではないでしょうか?
 また、大泉洋のヤグも、長いこと世界を放浪してきたにしては、お土産がオーストラリアのブーメランだったり、インドの民族衣装だったりと、随分ありきたりです(注2)。
 それに、ハツキにしても、一度は就職すると決めていながら、簡単に態度を豹変させて、ラスト近くでは、自転車に乗っていそいそと高校に通う姿が映し出されるのです。
 さらには、ヤグが公園で若者たちと歌う歌が「この木なんの木」だったり、ラストでヤグとアキとが演奏する曲が「今日の日はさようなら」だったりというのでは(注3)、ナンダカナーと思いたくもなってしまいます(注4)。

 とはいえ、本作をハツキの成長物語と捉えれば、本作に余りたくさんを求めても仕方がないかもしれません。ハツキがそのまま素直に大きくなることを願うばかりです。

(3)渡まち子氏は、「風変わりな一家の“ロックな”愛情を描く「グッモーエビアン!」。血のつながりを越えた絆と“自分らしさ”がいい」として60点を付けています。




(注1)昨年末、たまたまつけたWOWOWで『しあわせのパン』が放映されていたので見たのですが、大泉洋が、これはまあなんとも緩い演技をしているものだなと思いました。例の“ほっこり”型の映画(それも徹底的な)だから仕方がないのかもしれませんが、でも、映画自体も、とても受け付けませんでした〔ラストでは必ずや、この不思議な水縞夫妻―妻役は原田知世―の過去が何か明かされるのかなと思って見続けたのですが、そんなこともなく映画は終わってしまいます(二人は、お互いに「りえさん」「水縞君」と呼び合っているような変な関係ですし、なぜ北海道のこんな辺鄙なところでパン屋を開業しているのか理解しがたいのですから、過去に何か大変な出来事があったに違いないのでは、と思ってしまいました)〕。

(注2)インドを放浪したにしては、帰国後にヤグが作るカレーは、インド独特のものではなく、日本式のものではないでしょうか(放浪に出る前からカレーが得意料理だったようですが)?
 こんなところから、海外から届いた手紙はあるにせよ、本当にヤグが世界を放浪していたのか疑わしくなってしまいます(単に、一時期ホームレスの生活を日本のどこかでしていただけのことでは?)。

(注3)無論、ロックにアレンジされていて、全体があの「ブルーハーツ」さながらの雰囲気になっているのですが。

(注4)特に、ラストは、パンクロック・グループ「MISSION FROM GOD」の復活というのであれば、もっともっと弾けてもいいのではないでしょうか?
 それに、公園のフリーマーケットに登場する土屋アンナの役柄が、そのバンドのCDを持っているくらいのファンという設定ならば、ラストのライブ会場に顔を見せてほしかったと思いました。




★★★☆☆



象のロケット:グッモーエビアン!
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駄作の中にだけ俺がいる

2013年01月08日 | 邦画(13年)
 ドキュメンタリー映画『駄作の中にだけ俺がいる』(注1)を吉祥寺バウスシアターで見てきました。

(1)本作については、中心的に描かれている現代美術家の会田誠氏に関し、このブログでも3回ほど取り上げており(注2)、昨年11月に約一月渋谷ユーロスペースで公開された際には是非出向こうとしたものの、どうしても都合がつかず残念ながら見送りかなと思っていたところ、年末年始にかけてバウスシアターにて上映されると聞き込み、それではと正月休みを利用して見に行ってきたところです。

(2)本作においてクマネズミが興味を惹かれたのは、次のような点です。
イ)2年ほど前に市ヶ谷のミヅマ・アート・ギャラリーで開催された「絵バカ」展で展示された『灰色の山』の制作光景が紹介されていること。
 同展にはクマネズミも足を運んだために、とりわけ興味を惹きました。

 この『灰色の山』は、国内で制作場の確保が難しいほどの大作(3m×7m)で、そのため会田氏は、北京郊外に設けられているギャラリーを数ヶ月間借り切って制作に打ち込んでいます。



 さらに『灰色の山』は、遠くから見ると、OA機器などの中に倒れ込んでいるサラリーマンの死体の山を、水墨画的な感じになるように描き出したものながら、近寄ってつぶさに見ると、それこそ無数の死体(背広を着たままやワイシャツ姿のサラリーマンが1000体余り)が積まれています。
 展覧会の際には、一体どのように制作したのだろうかと訝しく思ったところ、本作によれば、死体のように倒れている本人や友人(注3)などを写した写真を見ながら一つ一つ描き込んでいます(注4)。
 なんとも気の遠くなるような精緻な作業で、「飽きっぽい性格」と自分で言う会田氏ならずとも、途中で投げ出したくなってしまうでしょう(注5)。

 この絵については、以前のエントリでも申し上げたように、会田氏の「人生史上最多の描写量」という点は評価できるかもしれないものの、サラリーマンの死体というモチーフ自体はそれほど大きなインパクトを持っていないのではないか、と思っていました。
 ですが、本作のラストで、この絵が2010年5月6日に開催された「絵バカ」展で展示されたと述べられた後に、「1年後に3.11が発生」といった趣旨のテロップが流れて、クマネズミはショックを受けたところです(注6)。

ロ)上記『灰色の山』と同じ時に北京で制作されていた『滝の絵』について紹介されていること。
 この絵は、山口晃氏とのふたり展「アートで候。」(上野の森美術館、2007年)で見たのですが(注7)、その際は制作中ということで展示されていたところ、今度は大阪の国立国際美術館で2010年1月に開催された「絵画の庭-ゼロ年代日本の地平から」展に間に合わせるために、完成が急がれたようです(注8)。



 本作の冒頭では、『灰色の山』と反対側の壁に掛けられた『滝の絵』を見ながら、会田氏が、「いろいろと問題があるな、すごい問題があるな」と考え込み、ドアから外に出て庭を歩き回る姿が描き出されます。

 さらにこの絵については、本作によれば、大阪の会場に持ち込まれてからも問題が発生しています。
 というのは、北京のギャラリーで制作していた時は、ライトが絵の上部に当たっていて全体が神々しく見えたが、国立国際美術館では、ライトが絵の真ん中辺りに当たってしまい、不安定な感じになってしまうというのです。
 ライトの位置を変更できないので、会田氏は、さらに調整のための筆を加えざるを得ませんでした。なるほど、そんなところにまで神経を使って画家は制作しているのだなと、いたく感心したところです。

 なお、上記イの『灰色の山』もそうですが、こんな大きな絵(『滝の絵』は4m×2.5m)をどうやって日本の展覧会の会場に北京から運んできたのか、と映画を見ながら不思議に思いました(注9)。

ハ) 会田氏が、自分の絵についてイラストだと語っていること。
 本作の中で会田氏は、『滝の絵』について、「あれはもうアートじゃなくて良いじゃないかという心の叫びがある」、「あれは本質的にイラストだ」、「サイズ的には美術館がなければ描けないものだが、イラストで何が悪いんだという思いがある」、「イラストレーターとかアニメーターなどはアートよりもかなり上」、「パクリもOK」などといった趣旨のことを述べています(ただ、最後には、「そう言っておきながら、そっちの方に移行はしないのですが」と付け加えています)。

 こうした見解は、他方で、琳派系の画家の展覧会がこのところ頻繁に開催されるようになったこととか(注10)、イラストレーターの横尾忠則氏(注11)が今や画家として大活躍していることなどを見ている者にとって、大変興味深いものがあります。

ニ)上記イで触れた「絵バカ」展で展示された他の作品について紹介されていること。
 「絵バカ」展では、『灰色の山』の他に、『1+1=2』や『万札地肥瘠相見図』が展示されていたところ、本作でもそれらに少し触れられています(注12)。



 さらに、もう一つの出し物であるビデオアートについては、その制作光景が本作で描かれています(注13)。

ホ)会田氏の家族のことが随分と描かれていること。
 妻で画家(さらには、本作の語り手)の岡田裕子氏制作のインスタレーションが紹介されたり、九十九里浜(近くの東金市に、最近まで一家が住んでいた家―4年前に購入―があります)で初日の出を家族らが見る光景が映し出されたりして、会田氏の私生活の一端が伺え、これはこれで興味深いものがあります。



 さらには、北京で会田氏が制作の場としていたギャラリーには、キッチンとベッドルームが付いていて、夏休みや冬休みを利用して、妻や長男(寅次郎:小学2年生)とがやってきます。
 この長男が腕白盛りで一時もじっとしていません。なおかつ寅次郎は、家では友達と遊ぼうとせずにパソコンにかじりつき、引きこもりがちのようです。
 こうした息子の姿について、会田氏は本作で、自分が幼い頃ADHDだったことから説明しようとします(注14)。


(3)本作は、異色の現代美術家といわれる会田誠氏のほぼ1年に渡る活動を、制作光景のみならず私生活にも踏み込んで捉えていて、大変興味深いドキュメンタリー作品となっています。
 こうしたものを見ると、毎回ネタをかえて(新しいギャグを織り込んで)TVなどに出演しなければすぐに飽きられてしまう現代のお笑い芸人にも似て、会田氏のように最先端にいる現代の美術家は、発表するどの作品についても異なる趣向を凝らさなくては美術愛好家に見捨てられてしまうのではないかと思えて、現代に生きることの息苦しさを感じてしまいました(会田氏は、このあと現在に至るまでの2年間に、いったいどんな作品を発表してきたのでしょうか)(注15)。



(注1)2011年の渡辺正悟監督作品(99分)。
 なお、タイトルの言葉は、1995年制作の『無題』の中に書き込まれています〔会田誠著『MONUMENT FOR NOTHING』(グラフィック社、2007年)P.36〕。

(注2)会田誠展に関するエントリ、映画『書道ガールズ』に関するエントリの「(2)ロ)」、そして岡崎乾二郎展に関するエントリ

(注3)北京に陣中見舞いにやってきた友人(高校の美術の先生、彫刻家)をもモデルにして、死体の写真を撮影しています。なお、その友人によれば会田氏は、「変わり者だが、純粋に思った通りに生きてきた」とのこと。

(注4)本作では、若手画家の渡辺氏が助手として死体の描き込みをサポートしています。

(注5)会田氏によれば、この絵の構想は4年ほど前に抱いたもので、ただサラリーマンの背広姿自体にはだいぶ前から気になっていて、ギャグ作品としてはいくつか作ってきたが、シリアスな題材として使えるんじゃないかと思って描き出した、とのこと。

(注6)1989年制作の『犬』に関して、会田氏は、「これをちょうど描き終えた頃、世間を騒然とさせた「宮崎勤事件」が発覚した。素直にものを作っていれば、時代とのシンクロが起きることもあると悟ったのは、あれが最初だった」と述べています(会田誠『MONUMENT FOR NOTHING』P.206)。

(注7)「アートで候。」展のカタログに記載されている会田氏の『滝の絵』についてのコメントには、「目指したのは僕の「クリスチャン・ラッセン」。ラッセンもそうなのだろうが、一種の信仰告白であり、つまり宗教画である。芸術か否かなんて僕にはもうどーでもいい。さらにコンテンポラリーもアーバンもクローバルも、年々どーでもいい心境になりつつある」とあります。

(注8)会田氏の最近著『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか?』(幻冬舎、2012.11)によれば、『滝の絵』は、会場の国立国際美術館に収蔵されることとなったものの、「あまりに大作なため、いったん東京に戻して加筆し、それをまた大阪に運ぶとなると、莫大な運送費がかかるという問題」もあり(P.83)、展覧会終了後、同美術館で2週間「公開制作」をやって何とか一応の完成にこぎ着けたそうです。

(注9)映画を見終わってから、上記「注8」で触れた会田氏の著書を読んでみると、『灰色の山』はそのまま「木箱」に入れ「船便」にて輸送したようですし(P.57)、『滝の絵』については木枠からキャンバスを外して持ってきたようです(航空便でしょう)(P.83)。

(注10)たとえば、このエントリをご覧ください。

(注11)横尾忠則氏の『Y字路』については、このエントリをご覧ください。

(注12)『1+1=2』について、会田氏は、自分が絵の中にオレンジの色を付け加える作業を息子に見せて、「絵というのは、自分が思った通りに描けばいいんだよ」と教えたりしています。

(注13)本作によれば、ミズマ・アートにおける展覧会のオープニング・セレモニーでは、男性による本来の裸踊り(芸大伝統とのこと)が壇の上で披露されました。

(注14)会田誠著『カリコリせんとや生まれけむ』(幻冬舎、2010.2)では、例えば、「俺様の濃いADHD(注意欠陥・多動性障害)の血は、妻のせいで半分に薄まったとはいえ、脈々と受け継がれているらしい」と述べられています(P.96)。
 なお、雑誌『季刊プリンツ21』の2004年秋号に掲載された父親・会田彰氏(新潟大学名誉教授・社会学)による文章によれば、会田氏のADHDは、「「溶血性黄疸」という新生児黄疸」によるもののようです(P.66)。

(注15)その思いは、現在森美術館で開催中の「会田誠展:天才でごめんなさい」で満たされるのかもしれません。




★★★★☆



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謹賀新年

2013年01月04日 | その他
 明けましておめでとうございます。
 本年も昨年に引き続きまして、どうかよろしくお願いいたします。

(1)今年のお正月は、昨年末の衆議院選挙の余韻がまだ残ったままのなんとなくざわついた感じながら、天気の方は、いつも通り晴天続きの東京でした。
 クマネズミは、大晦日に、BSジャパンで放映された立川談志の「芝浜」(ノーカット版)を見て堪能した後、昨年同様、桑田佳祐の「年越しライブ」(WOWOW)を少しだけ覗いてカウントダウンに唱和し、お正月もまた例年通り、杉並・西永福の「大宮八幡宮」と渋谷・東の「氷川神社」に初詣に行ってきました。
 二日に大宮八幡。昨年のように元旦ではないせいか、境内が参拝者で溢れかえることもなく、至極簡単にお参りを済ますことができました。



 三日は氷川神社。相変わらず参拝人は少ないものの、途切れることもなく地元の神社だなとの感を深くしました。


(中央奥に聳えているビルは、國學院大學の校舎です)

(2)2012年のベスト5
 年初にあたり、一昨年昨年に引き続き、2012のベスト5を挙げてみましょう。
 いうまでもありませんが、あくまでも個人的な趣味によるお遊びごとに過ぎません。
 なお、昨年は、邦画48本、洋画56本、計104本の映画についてレビュー記事を当ブログにアップしました。実際に映画館で見た映画は、さらに20本ほどあることはあります(注1)。
 ですが、以下の「ベスト5」を選ぶにあたっては、あくまでも記事をアップした作品で★4つ以上の評点を付けたものの中から、邦画・洋画それぞれ5つずつ選んでみたところです(順番は、評価順ではなく、エントリをアップした時期の早いものから)。

イ)邦画については(16作品について★4つを付けました)、
恋の罪』(詩と音楽と3人の女優が、グロテスクな物語の中で効果的に絡み合います)
SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』(ラップが圧倒的な三部作完結編)
かぞくの国』(安藤サクラの力演に目を瞠り、かつまた「国」って何だと考えさせられます)
鍵泥棒のメソッド』(さすが『運命じゃない人』の内田監督の作品)
その夜の侍』(今が旬の堺雅人と山田孝之の対決)

ロ)洋画については(19作品について★4つを付けました)、
おとなのけんか』(子供同士の諍いを巡っての大人同士のど派手な喧嘩)
メランコリア』(第一部の豪華なパーティーに集う人々と、第二部の3人との見事な対称性)
ヒューゴの不思議な発明』(本から映画へ、そして映画から本へ)
ロボット完全版』(ブラジルの砂漠とマチュピチュ遺跡における歌と踊りに度肝を抜かれました)
ミステリーズ』(19世紀のポルトガル貴族らの生態が実に様々の視角から描かれています)

 なお、★2つを付けた作品(邦画・洋画とも3作品)から選ぶ「ワースト1」としては、邦画では『希望の国』(期待したものから余りにもかけ離れています)、洋画では『恋愛だけじゃダメかしら?』(単純な出産ドラマをいくつか集めただけのこと)でしょう。

 また、昨年は、一層の活躍が期待された若松孝二監督が事故で亡くなり、とても残念でした。監督賞を設けるとしたら、彼に与えるべきところでしょう(昨年は、『海燕ホテル・ブルー』及び『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』を制作)。
 さらに、もし俳優賞を設けるとしたら加瀬亮ではないでしょうか、何しろ昨年は、邦画の『アウトレイジ ビヨンド』や『ライク・サムワン・イン・ラブ』のみならず、洋画の『永遠の僕たち』にも出演して十分な存在感を示しているのですから(注2)!


(注1)12月26日のエントリの「注3」で触れた『夢売るふたり』などです。
 今年は、こうしたエントリ落ちをできるだけ少なくするよう頑張らなくてはと思っています。

(注2)次点には井浦新。上記の若松監督作品双方に出演しているだけでなく、『かぞくの国』でも好演しています。
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