映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

サラの鍵

2011年12月27日 | 洋画(11年)
 『サラの鍵』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)この映画は、以前見た『黄色い星の子供たち』で描かれたのと全く同様の事件(注1)を取り扱った作品で、そちらがかなり実録ベースであるのに対して、こちらはフィクション仕立てになっています(注2)。
 そして、そちらは、当時のユダヤ人の視点に立ちながら、検挙されたユダヤ人が一旦「屋内競輪場ヴェル・ディヴ)」に集められ、そこからフランス国内の収容所に移されて、ついにはドイツやポーランドの絶滅収容所に送られるところまでが映し出されますが、こちらは、現在の時点で展開される物語の中で、同じ事柄が描かれています。
 すなわち、ジャーナリストのジュリアクリスティン・スコット・トーマス)〔元はアメリカ人ですが、もう長いことパリで生活しています〕は、この事件に関するレポートを雑誌に掲載すべく取材しているうちに、とんでもないことが分かってきます。というのも、内部を大改装して自分たち家族がこれから住もうとしているアパートは、実は、この事件で検挙されたユダヤ人が居住していたものだったのです(ユダヤ人が立ち退いて空き室になったものを、昔、彼女の義理の祖父母が取得したという訳です)。
 さらには、まさにその部屋で、この事件にまつわる忌まわしい出来事があったこともわかってきます。すなわち、1942年の事件に際して、その部屋に住んでいたサラメリュジーヌ・マヤンス)という少女が、ユダヤ人を検挙すべくフランス警察が押し入ってきた際に、弟ミシェルを逃れさせようと、納戸に入れて外から鍵を掛けてしまったのです(注3)。



 サラは、「屋内競輪場(ヴェル・ディヴ)」を経由して地方の収容所に送られたものの、納戸に閉じ込めたままになってしまった弟のことばかりが気懸りで、やっとのことでそこを脱出して(注4)、パリのアパートに立ち戻り、それまで大事に握りしめていた鍵を使って納戸を開くのですが、……。

 ジュリアは、その後のサラの行方を追い求めて、フィレンツェからニューヨークまで足を延ばします。
 その間、なかなか身ごもらなかった彼女が2番目の子供を妊娠するも、夫のベルトランは、今更子供は欲しくないと言い出して(注5)、夫婦の間に大きな溝が出来てしまったり、過去の忌まわしい出来事をほじくり返そうとするジュリアに対して、義父とか、アメリカに渡ったサラにできた息子ウィリアムなどが強い不快感を示したりします。

 映画を見るまでは、そして初めのうちは、『黄色い星野子供たち』と同じように、強制収容所のことが専ら描かれるのかな、と思っていましたが、現代に生きるジュリアが主人公だとわかってくると、映画の複雑な構成にも引きつけられて(注6)、久し振りに質の高い文芸作品を見たな(注7)、という充実した気分になりました。

 主演のクリスティン・スコット・トーマスは、昨年公開された『ずっとあなたを愛してる』や『ノーウェアボーイ』で大変印象に残る演技を披露したところですが、本作においても、まさに彼女ならではの存在感のある瞠目の演技を披露しています。




(2)本作は、様々なレベルで読むことが出来ると思います。
 例えば、いうまでもなく、1942年の「ヴェル・ディヴ事件」という観点から(ただこれは、『黄色い星の子供たち』でかなり描かれています)。
 中心的には、ジュリアの生き方(アメリカ人が、「ヴェル・ディヴ事件」を通してユダヤ人問題に触れてどのように変わっていくか、など)。
 あるいは、ジュリアとベルトラン(それに娘のゾーイ)の家族という観点。
 または、過去の真実の追求ということ(注8)。
 それに、サラの生きざま(注9)、などなど。

 ただここでは、少し趣向を変えて、本作において重要な役割を果たしていると思われる「」について少しばかり見てみましょう。
 一つは、むろん、サラが弟を閉じ込めた納戸の「」です。弟は自分の言うことを聞くから、自分で納戸を開けて出てきはしない、それでは大変なことになると思い、フランス国内の収容所に送られたサラは、「鍵」を使って納戸を開けることだけを考え詰めます。要すれば、開くために使われる「鍵」といっていいでしょう。

 ところが、ジュリアの義理の父親は、ジュリアらがこれから住もうとしている家は1942年に祖父母が取得したものであること、さらにはサラが戻ってきて納戸を開けたことまで知っているにもかかわらず、それをずっと黙ってきたのです。その上、その事実をジュリアが明るみに出そうとすることに対して、義父は強く非難したりします。ここでは、過去を封じ込めるために、想像上の「」が使われているといえるのではないでしょうか?

 さらに、本作とは離れますが、もう一つの「鍵」の使い方もあるようです。
 谷崎潤一郎の小説『』においては、夫と妻が、それぞれ付けている日記を抽出などの隠し場所に隠していて、それに「鍵」をかけているのですが、その鍵の在り処をお互いに知っていて、隠してある日記はお互いに盗み見られていることがお互いに分かっている、という設定にされた上で、それぞれの日記がほぼ交互に掲載されていきます(注10)。
 つまり、この小説における「鍵」は、かかっているようでいて、実はかかってはいない感じなのです(注11)。

 なお、アメリカに渡ったサラが産んだウィリアムは、当初は、「鍵」をかけてしまっておく過去など何も持っていなかったにもかかわらず、ジュリアに母親がユダヤ人であると告げられると、鍵をかけておくべき過去があたかもあったかのような態度に出て、ジュリアを激しく拒絶します。これは、鍵のもう一つの使い方(なかった鍵を新たに作り出す、とでもいったらいいのでしょうか)といえるかもしれません(注12)。

(3)渡まち子氏は、「この物語は、ホロコーストを過去の“点”ではなく、現代へと続く線、あるいは面としてとらえることで、命は次世代に引き継がれ、未来への希望が生まれることを教えてくれる。ラストシーン、娘の名を聞かれたジュリアが答える場面では、胸いっぱいにあたたかい感動が広がった」として70点を付けています。
 また、粉川哲夫氏は、ジュリアが、「謎を追い、パリから生まれ故郷のブルックリン、さらにはフィレンツェまで動くのは、一見「探偵ドラマ」風だが、それは、交互に描かれる古い時代のシーンとのたくみなバランスのなかで単なるエンターテインメントに堕すことをまぬがれる。収容所からからくも逃れ、生き延びたサラという少女の悲痛なドラマは、そのままならお涙頂戴のドラマになりかねないが、交互に挿入されるジュリアの「現在」(2009年とそれ以後)によって「異 化」され、内省的な静溢さをもたらしている」と、★を5つ付けています。




(注1)1942年に、パリのユダヤ人を一斉検挙した「ヴェル・ディヴ事件」のこと。1995年になって、当時のシラク大統領がその事実を公式に認めて、犠牲者に謝罪しました

(注2)本作は、タチアナ・ド・ロネの同名の小説(邦訳は高見浩訳で新潮社から)を映画化したものです。

(注3)劇場用パンフレットのProduction Notes には、「ブレネール監督とジョンクールが共同で手掛けた脚本は小説に忠実」ながら、「警察が来たとき、サラの弟は自ら納戸に隠れる」が、「映画では、サラが彼に隠れるように言う」、とあります。
 確かに、原作小説では、警察が踏み込んできたとき、「僕、秘密の場所にいくよ」とミシェルは「ささやき」、「だめー」「一緒にいくのよ。こなきゃだめ」とサラは「せっつ」きます。サラは、「弟をつかまえようとし」ますが、ミッシェルは、「寝室の壁の裏に設けられた、奥行きのある納戸の中にもぐりこ」みます。「そこはいつも2人が隠れんぼをして遊ぶ場所」でした。そして、ミッシェルは、「怖くない。鍵をかけてくれれば、絶対につかまらないよ、ぼく」と言うのです。サラは、「外部の人間には、この壁の裏に納戸があるなどと見抜けないはずだ。弟はここにいたほうが安全だ。間違いない」、「あとで、きょうのうちに帰宅が許されたら、もどってきて弟を出しやればいいのだ」と思います(邦訳P.16~P.17)。

(注4)『黄色い星の子供たち』でも、少年ジョーがもう一人の少年と収容所を脱出するのですが、その作品では、途中経過が省かれて(裕福な家の養子となった、と説明されますが)、いきなり戦後となって、メラニー・ロラン扮する看護士がジョンと再会する場面となります。
 これに対して、本作では、サラは友達と一緒に収容所を脱出しますが(『黄色い星の子供たち』と同じように、収容所の周囲は、背の高い草が一面に生えている草原なのです)、そこからサラが、自分のアパートに戻るまでが詳しく描き出されています。



 すなわち、サラは、一度は追い出された農家で何とか匿われた上(もう一人の友人は、ジフテリアに罹って死んでしまいますが)、男の子に変装してパリに戻って、元の家に入り込みます。その後は、またその農家で働きますが、戦後暫くして、家出をしてしまいます。

(注5)夫のベルトランは、一人娘のゾーイが10代になっていることだし、アパートも整いつつあるし、それに年老いた父親になりたくない、といった理由で、ジュリアが子供を産むことに強く反対し続けます。

(注6)映画は、「1942年の最初の小麦がペタン元帥に送られました」との文字映像から始まり、フランス警察がサラたちの住むアパートに乗り込んで来る場面となり、ついで、ジュリアが勤務する雑誌社の編集会議のシーン、そして1942年の「冬季競輪場」へという具合に、当時と今とが煩雑に入り組んで映し出されます。

(注7)例えば、ジュリアの一家の一人娘ゾーイは、多感な時期で(14歳)、ジュリアが何も説明しないで各地を飛び回っていることなどに批判的ですし、また今頃自分に妹ができることも釈然としない感じです。ジュリアが出産後夫と別れてニューヨークで生活するときも同行するものの、やはり父親のいるパリの方がいいと言い出す始末。といった具合に、登場人物一人一人に複雑な性格が与えられているのです。
 なお、ゾーイが父親とPC電話で話していると、その最中に、父親の方の画面に、彼が一緒に暮らしているらしい女性が一時現れたりするのです。

(注8)サラがアメリカで産んだウィリアムエイダン・クイン)は、生まれてスグにカトリックの洗礼を受けたこともあって、自分がユダヤ人であることを知らずに大人になりました。ですから、当初ジュリアから母親のサラのことを聞いた時は、酷いショックを受け、その事実を受け入れることを拒絶します。



 ですが、その後、病に伏せる父親から、母親サラの真実の姿を知らされ(「彼女は私が人生の中で出会った女性の中で一番美しい」などと語ります)、また遺品なども手渡されます(手渡されたノートから、例の「鍵」が出てきます)。
 それで、ジュリアがニューヨークに移り住んで再会した時には、ウィリアムの態度は一変しています。ジュリアが、「自分の態度は傲慢だった」と述べると、ウィリアムの方も、「あなたのおかげで、父も落ち着いて死んだ」と述べたりします。
 さらに、ジュリアが、生まれた娘をサラと名付けたと言うと、ウィリアムは泣き崩れてしまいます(こうした姿から、ジュリアとウィリアムとが結婚するに至るのではと考えられもしますが、ただジュリアは、ウィリアムに対し、「そろそろパリに戻ろうと考えている、ゾーイがニューヨークは嫌いというもので」と言うことなどからすると、そこまでには至らないのではと考えられるところです)。

(注9)サラシャーロット・ポートレル)は、車の事故で亡くなりますが、ウィリアムの父親(すなわちサラの夫)によれば、それは事故ではなく自殺だったとのこと。鬱状態となっていて、クスリやアルコールに溺れていたようです。
 なお、劇場用パンフレットのProduction Notesには、「ブレネール監督とジョンクールは、小説では描かれなかった“大人になったサラ”のキャラクターを作り上げた」と述べられています。
 確かに、原作小説では、サラを匿ってくれた農夫の孫の話として、「フランスとちがってホロコーストと無関係だったところにいきたい」と言って、「サラは1952年の末にフランスを出国した」とあったり(邦訳P.279)、「母の死は自殺だった」とウィリアムが述べるくらいがせいぜいのところです(邦訳P.375)。



(注10)妻の日記には、例えば、「私は勿論夫が日記をつけていることも、その日記帳をあの小机の抽出に入れて鍵をかけていることも、そしてその鍵を時としては書棚のいろいろな書物の間に、時としては床の絨毯の下に隠していることも、とうの昔から知っている」(P.14)と記載されている一方で、夫の日記には「妻ガコノ日記帳ヲ盗ミ読ミシテイルコトハ殆ド疑イナイ」と書かれているのです(新潮文庫P.33)。
 また、夫の日記にも、「ヤッパリ推察通リダッタ。妻ハ日記ツケテイタノダ」、「今日彼女ガ映画ヲ見ニ出カケタ間ニ茶ノ間ヲ探シテ、容易ニ探リアテルコトヲ得タ」(新潮文庫P.56~P.57)と書かれています。

(注11)この小説は、これまで都合4回映画化されています〔Wikipediaのこの項目を参照。ただし、3番目の作品について、若松孝二は監督ではなくプロデューサー(監督は木俣尭喬)〕。
 そこで、有名な第1番目(1959年)の市川昆監督のものをDVDで見てみましたが、映画自体は素晴らしい作品ながら、なんとそこでは「日記」も「鍵」も登場せずに、小説では脇役でしかない木村の話として、それもサスペンス物として描かれているのです。
 なお、「鍵」について、3番目の作品(1983年)においては、このHPによれば、「この映画で言う「鍵」は日記帳の鍵ではなく、主人公の書斎にある金庫の鍵です。金庫の中には、妻との房事を事細かに綴った日記帳、怪しげな精力剤のアンプルと注射器、妻の裸体を撮るのに使うポラロイドカメラなどが入っている」とのことです。

(注12)なお、3月上旬の公開されるマーティン・スコセッシ監督の『ヒューゴの不思議な発明』の予告編を見ると、「ハート型の鍵」が重要な働きをするようで、また楽しみが一つ増えました。




★★★★☆





象のロケット:サラの鍵
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ミッション・インポッシブル

2011年12月26日 | 洋画(11年)
 『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作は、隅々までアクション映画で、見ている時はそれこそハラハラドキドキさせられ、手に汗を握りますが、見終わった途端に何も残らず消えてしまう感じになります。それでも、135分間食い入るように見させてしまうのですから、大した出来栄えといえるでしょう。

 とはいえ、冷戦下では米ソの対立というお誂え向きの状況があって、本作が力を込めて描き出す諜報活動にもかなりのリアリティが伴いましたが、米国の一人勝ちの今の世界では、かっての「スパイ大作戦」とか「007」のようにはいきません。
 そこで本作では、強者の世界を築くためには米ソ戦争核戦争を引き起こす必要があるなどと訳の分からないことを主張する狂信的な核兵器戦略家なる者を悪人に仕立てています(要すれば、最早、諜報機関も、国ではなく個人を相手にせざるを得ないのでしょう)。
 世界を破壊しようとするその核兵器戦略家のヘンドリクスは、偽の指令をロシアの原子力潜水艦の指揮官の元に入れて、核ミサイルを米国に向けて発射させようとします。
 イーサン・ハントトム・クルーズ)ら4人から成るスパイ・チームは、それを阻止すべく大活躍するというわけです。
 さらに、彼らは、ロシア側の捜査官らにも執拗に追跡されます。最初の方でクレムリン宮殿が爆破されますが、ヘンドリクスの仕業にもかかわらず、イーサンらによるものと見なされて。

 まあ、こんな背景は本作にとってはどうでもいいことなのでしょう。なににせよ、全世界を破滅に導こうとする極悪人がいるというだけで、あとはいかにギリギリの状況にイーサンが追い込まれるのか、といったことに専らの焦点が向けられるのですから。
 でも、いくらインドの富豪が途轍もない資金を蓄えているにしても、一実業家に過ぎない者が購入した旧ソ連の軍事衛星を使って、偽の指令をロシアの原子力潜水艦に入れるというストーリーは、個人が絡んだ事件ですから仕方がないにしても、スケールが小さすぎるのではという気がしてしまいます。
 それでも、トム・クルーズらは、核ミサイルを発射させるのに必要な情報を記した文書を奪うために、なぜかその文書の取引が行われるドバイに行き(注1)、世界一の高さのビル、ブルジェ・ハリファ(地上828m)で相手側と戦うわけですが、確かにその場面は、物凄い迫力がありました。



 なにしろ、劇場用パンフレットに掲載のProduction Notesによれば、特殊な手袋(ゲッコー・グローブ)で窓をよじ登ったり、ビルの壁を上から地面に向かって走り降りたりといったスタントを、トム・クルーズはスタントマンを使わずに自分でこなしたというのですから驚きです。

 登場する俳優陣は、トム・クルーズ以外もなかなか豪華です。
 途中までは単なる分析官と思われていましたが、実は同じ諜報員のブラントを演じるのは、『ハート・ロッカー』で主役を好演したジェレミー・レナーで、その俊敏な身のこなしはさすがと思わせます。



 女性諜報員を演じるポーラ・パットンは、『プレシャス』の教師役が凄く印象的でしたが、こうしたアクション物でも上手く嵌っています(注2)。



 核兵器戦略家のヘンドリクスを演じるのは、『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』でジャーナリストのミカエルに扮したミカエル・ニクヴィスト。敵役は実質的に彼一人なので大役ですが、なかなか大物振りを発揮しているのではないでしょうか。

(2)ギリギリのところまで迫った世界核戦争阻止を巡ってのスパイの活躍というと、昨年の夏に見た『ソルト』がすぐさま思い出されるところです。お話の概略や醸し出す雰囲気が似ているのもそのはず、『ソルト』は、元はトム・クルーズがやるはずだったところ、彼が降板したために、アンジーにお鉢が回ってきたとのことですから!
 例えば、『ソルト』では、ギリギリまで追い詰められたソルトが、高層マンションの窓を伝って逃亡するシーンが映し出されますが、本作においても、クレムリン宮殿爆破の煽りで傷を負ってロシア側に捕らえられたトム・クルーズが、病院の窓伝いに逃亡します(注3)。

 とはいえ、『ソルト』の場合、CIAにおけるアンジーの上司がロシアのスパイであり、アメリカの核兵器を使って世界に向かって核攻撃をするという計画を実行に移そうとしますが、本作の場合は、ヘンドリクスは、逆にロシアの原潜のミサイルを作動させてアメリカ本土に核攻撃を仕掛けるという計画をたてています。
 また、いずれの計画もスパイ達の人間離れした活躍で阻止されますが、『ソルト』では、主にアンジー個人が動き回るという従来型のところ、本作の場合、4人の諜報員の力がまとまって発揮されて計画が阻止されるという描き方となっています。
 といっても、チームのリーダーであるトム・クルーズの活躍に注目してしまうのは、『ソルト』でアンジーに目が釘付けとなるのと同じですが!

(3)映画評論家はこの映画に対して好意的なようです。
 テイラー章子氏は、「何の役にも立たないのだけど、痛快で面白い。この映画、一見の価値がある」として85点もの高得点を付けています。
 また、樺沢紫苑氏も、「テーマ的な深さはありませんが、何もも考えず楽しめるアクション映画ということで、ときらはこういう映画を見て、スッキリするのもいいでしょう」として80点を付けています。
 さらに、渡まち子氏も、「ハリウッドのトップをひた走る“最後の大スター”クルーズは、演技にアクションに、プロデュース業にと、八面六臂の大活躍だ。49歳の今も変わらず、白い歯がまぶしいハリウッド・スターは、観客を楽しませるため、本気で映画に取り組んでいる。エンタメ映画の王道を生真面目に行く本作、掛け値なしに面白い」として75点を付けています。



(注1)ドバイでは、物凄い砂嵐の中をイーサンがヘンドリクスを車で追いかけるシーンがありますが、この画像で見ると、実際にも大変な砂嵐があることが分かります。



(注2)彼女は腹に銃弾を受けますが、なぜかスグにその傷は癒えてしまっています。

(注3)劇場用パンフレットによれば、「ビルの突き出た棚からジャンプし、近くの電線を滑り降り、走行中のヴァンの屋根に飛び降りて、無事に地面に降りる」というシーンは、「本編全部のスタントと同じくクルーズ自身が演じたもの」とのこと。





★★★☆☆



象のロケット:ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル
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瞳は静かに

2011年12月25日 | 洋画(11年)
 『瞳は静かに』を新宿のK’s cinemaで見ました。

(1)昨年見たアルゼンチン映画も『瞳の奥の秘密』とのタイトルでしたから、アルゼンチン映画というと、タイトルにどうして“瞳”が使われるのかな、とおかしな感じになります(この映画の原題は「アンドレスは、シエスタなんかしたくない」)。

 そんなつまらないことはさておき、『瞳の奥の秘密』(原題に近いタイトルです)は、十分に解明されなかった事件を裁判所の書記官が小説の形で告発しようとする作品で、その事件が25年前のものであることから、軍事政権時代に僅かながら結び付き、そして本作でも、軍事政権下とされます。
 ただ、軍事政権については、前作ではほんの少し仄めかされただけのところ、本作の時代設定は1977年~1978年と、まさにその真っ只中なのです。

 といっても、この映画では、その方面のことがハッキリと描き出されるわけではありません。
 冒頭、主人公アンドレス(8歳)の母親がいきなり交通事故に遭遇して死んでしまいます。
 というのも、彼女は、勤務先の病院で、秘密警察による拷問(ハッキリと説明されるわけではありませんが)で酷い傷を負った女性の姿を見て動転してしまい、病院から飛び出してしまったからです。
 彼女は、夫とは折り合いが悪く別居していて、今では反軍事政権系と思われる男と付き合っているという背景もあります(その男からは、ビラを託されたりしています)(注1)。

 母親を亡くしたアンドレスは、兄アルマンドと共に祖母オルガの家に引き取られ、そこで厳しい父親ラウルと、さらには伯父(祖母の兄)と一緒に暮らすことになります。



 ある夜、アンドレスが目を覚ましてカーテンの隙間から外を見ると、外で秘密警察によるリンチが行われているのです(実際には、暗くてヨクは分からないのですが)。祖母に告げて、その光景を共に見たにもかかわらず、翌朝になると一切何もなかったことにされてしまいます(注2)。

 といったような具合で映画は展開しますが、以上のような事柄も、映画の中できちんと明確に説明されるわけではありません。酷く曖昧に描かれるだけで、あとは観客側が補って見る他はありませんが、その方が逆に、当時の不気味な様が伝わってくる感じもします。

 この映画は、軍事政権時代を告発する作品というよりも、そうした時代背景の中で、多感な子供(注3)が、しっかり者の祖母(といっても、今の状況を必死で守ろうとし、現状を変革する様な動きは一切認めません)とどんな生活をしながら育っていくのか、という点をじっくりと描いていて、『瞳の奥の秘密』や『幸せパズル』と同様、アルゼンチン映画の質の高さを思い知らされました。

 とはいえ、事情がわからない外国の者は、この映画を見ただけでは至極曖昧なままの状況に置かれ、劇場用パンフレットなどで説明してもらってはじめて、ナルホドそうなのかと腑に落ちるわけで、やっぱりそれでは映画として片手落ちではないかと思ってしまいます(注4)。

 本作においては、幼いアンドレスを演じたコンラッド・バレンスエラが素晴らしいことは勿論ですが、祖母のオルガを演じたノルマ・アレアンドロもまた堅実な演技で、映画にただならぬ緊迫感をもたらしています。




(2)話は飛躍してしまいますが、アルゼンチンの軍事政権の下では、金総書記の死去にともなってみられる北朝鮮の昨今の状況と同様な感じになっていたように思われます。
 例えば、12月21日の朝日新聞には、次のような記事がありました。
すなわち、「朝鮮中央通信は21日未明、死去した北朝鮮の金正日総書記を悼む平壌市民の数が、19日正午から20日正午までの1日間でのべ500万人余に達したと伝えた。同市の人口は約200万人とされ、1人2回以上弔意を示したことになる」が、「北朝鮮で人々が動員される場合、人民班(町内会)や職場、学校単位でお互いを監視し合うのが通例。権力の掌握を急ぐ金正恩氏ら指導部が、追悼を巡る行動を通じて、住民統制を強化しているとみられる」とか、「94年当時、金総書記は金主席の死去を住民への統制力強化の手段にした。哀悼期間中、弔意を十分示さなかった者、飲酒した者、引っ越しをした者までが 「忠誠心が足りない」と処罰された。権力基盤の弱い金正恩氏が、同じ手法を使う可能性は十分あるという」などとあります。

 こうした人々が相互に監視し合う状況は、日本の戦時中(「隣組」!)とかヒトラー政権といった全体主義体制の下では、大なり小なり見られるものでしょう。

(3)この映画については、小説家の星野智幸氏が、劇場用パンフレットに掲載された「これは日本の現実でもある」と題するエッセイにおいて、「これは今の日本社会の雰囲気そのものではないか。軍政の暴力がないのに、私たちは何かに怯えている。怯えるあまり、自分に正直であることよりも、その場の空気に合わせることを優先してしまう」、「オルガやその家族のような人間が、私たちの周りにはあふれかえっている」、「日本ではオルガは、ごく普通の「いい人」だ。しばしば、「現実的な人間」と呼ばれる。アルゼンチンではその態度が軍政を支え、日本では例えば原発を増殖させている」などと述べています。
 むろん、そうした面は感じられないわけではありません。ただ、このように余りに大きなところから議論してしまうと、一方で軍事政権とか全体主義といった政治学的なレベルの問題(注5)が、他方で福島原発事故をより個別具体的な視点で捉えようとする自然科学的な姿勢が、それぞれ焦点から外れてしまい、結局のところ、漠然とした不安とか不満とかが醸成されるだけに終わってしまうのではないか、ともおそれるところです。

 話がまた飛んでしまい恐縮ですが、むしろ、民主主義・全体主義の方に目を移してみると、例えば、最近刊行された『一般意志2.0』(東浩紀著、講談社)が実に刺激的だと思われます。
 すなわち、ルソーの『社会契約論』について、「個人の自由を賞揚するかわりに、個人(特殊意志)の全体(一般意志)への絶対の服従を強調している様にも見え」、「個人主義どころか、ラディカルな全体主義の、そしてナショナリズムの起源の書としても読むことができる」と述べながらも(P.28)、著者の東氏は、「ルソーについて新しい解釈を提出し」、「ルソーの「一般意志」は、一般に考えられているのとは異なり、討議を介した意識的な合意ではなく、むしろ情念溢れる集合的な無意識を意味している」と述べ、さらに「わたしたちはいま一般意志を可視化する技術をもっている」のであり、「一般意志とはデータベースのこと」であり(P.83)、「大衆の無意識を徹底的に可視化し、制約条件として受け入れながらも、意識の光を失わない国家。熟慮とデータベースが補いあい、ときに衝突することによって、よろよろと運営される国家」をビジョンとして提起しています(P.171)。
 最近の「アラブの春」においてtwitterが果たした役割などを考えると、大層刺激的な論考と思われます(注5)。



(注1)その男については、映画のラストの方で、乗っていた車が黒こげで発見され、彼自身も行方不明だと告げられます(秘密警察によって処刑されてしまったのかもしれません)。

(注2)祖母の家では、アンドレスの母親に関する事柄はタブーになっていて、アンドレスが、母親の遺品を以前の家から持ち出そうとすると止められてしまいます〔更に、その家は、アンドレスが酷く執着しているのですが(母親との楽しい思い出が詰まっているのですから)、祖母は売り払ってしまおうとしています〕。

(注3)映画の最初の方では、仲間の子供達と、広場などで「警察ごっこ」をして遊んでいます。おそらく二手に分かれて、警官側が犯人側を追いかけるという“鬼ごっこ”のようなものと思われます。その際中、警察官側に捕まった犯人側の女の子が、ひもで縛られた手が痛いというと、アンドレスはその女の子を逃がしてやりますが、あとで仲間から非難されてしまいます。
 元々酷く優しい子供だったアンドレスが、祖母の家で暮らすうちに、内心を見せない反抗的な子供になっていきます〔挙げ句は、祖母が倒れてしまったとき(心臓麻痺と思われます)、アンドレスは、冷たく見ているだけで、遊びを止めようとしないのです!〕。
 これは、どの子供でも一定の年齢に達すれば見られる現象であると同時に、軍事政権下に置かれた大人達の態度が大きく影響しているものと思われます。

(注4)劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューで、ダニエル・ブスタマンテ監督は、「子供の視点」で作ったと述べています。そうであれば、同監督が自分の子供時代について、「何かが起こっていることは、気づいてい」たものの、「何が起こっているのか、よくわからない」状況だった、と言っていることから、映画全体が説明的ではなく至極曖昧なままになっているのも分からないわけではありません。
 ですが、例えば、冒頭の母親の交通事故に至る場面は、けっして「子供の視点」から描かれているものではなく、通常の映画と同じように「第三者の視点」で作られていると思われますから(アンドレスが後から聞いた話で作られた場面かもしれませんが、軍事政権の時代、いったい誰がアンドレスにそんな詳しいことを話したというのでしょうか)、もう少し事情を説明しても構わないのではと思われるところです。

(注5)東氏の著書について、精神科医・斎藤環氏は、「朝日新聞」の書評(12月18日)で、「私は、本書をひとまず「SF」として読んでみることを提案したい。この異様なアイデアから、いかなる未来図が描きうるか。そうした想像力のもとで「政治」について考えてみることは、決して無意味ではないはずだ」と述べています。
 他方、経済学者・池田信夫氏は、「アゴラ」の書評(12月3日)で、「ルソーをテーマにした本書のねらいはおもしろいのだが、その方向は微妙に現代日本の問題とずれている。/本書の「現代性」は、一般意志をソーシャルメディアと重ね合わせて一種のデータベースと考え、そこに集合的無意識としての「一般意志2.0」が成立すると考えたところだ。これは『スマートモブズ』などでおなじみの「集合知」の話だが、政治的には無意味なユートピアニズムでしかない。それは国家が何よりも暴力装置だという事実を理解していないからだ。/本書は国家権力の問題を無視しているため、そこで描かれるユートピアは、国民が国会審議を見てツイッターやニコ生でコメントする、といった漫画的なものでしかない。集合知で政治を動かすことはできないし、そういう「参加民主主義」は望ましくもない。むしろ平均1.4年に1度も選挙があり、人々が過剰に政治 参加することが、原発やTPPにみられる政治の劣化をもたらしているのだ。いま日本に必要なのは、むしろ民主主義を減らす改革である」などと述べています。
 ヨクは分かりませんが、池田氏は、東氏が、熟議に基づくこれまでの民主主義の上に、データベースから見えてくる「一般意志」を置いていることについて、余り理解されていないように見受けられ(東氏は「参加民主主義」を主張しているわけではありませんから)、もしかしたら「民主主義を減らす改革」という点で、両者の距離は以外と近いかもしれないと思えるところです。



★★★☆☆



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スウィッチ

2011年12月21日 | 洋画(11年)
 『スウィッチ』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)時間の空きがあったので、ほとんど何の情報も持たずに映画館に飛び込んだところ、タイトルから米国映画かなと思っていたら、冒頭からフランス語が飛び出します。
 それではフランス映画かなと思うと、当初の舞台はカナダのモントリオール、道理で水辺の光景が映し出されるわけです。

 さて、映画のはじめは、若い女性アーティストのソフィが、出来上がったイラストを持って出版社のアートディレクターに会おうとします。ですが、当人は別の部署に代わってしまい会うことができません。仕方なく帰ろうとしたところ、他の女性編集者がお昼でもと、ソフィを誘います。
 食事中、これから始まるバカンスの過ごし方などを話題にしていると、その女性が、自分は「switch.com」というサイトで、自宅とパリの他人の家とを短期間交換(switch)して、バカンスを有意義に過ごしたことがある、などと楽しげに話します。
 その話にいたく刺激を受けたソフィは、家に戻ってから、バカンスに何も予定がはいってないのをいいことに、紹介された「switch.com」にアクセスしてみます。すると、トントン拍子に話は進み、家の交換契約が成立し、ソフィは、宅急便で鍵を受け取ったベネディクトの家に入り(注1)、パリ市内を自転車で観光して回ったりします。
 ところが、翌日目が覚め、シャワーを浴びていると、いきなり警官隊が突入してきて、殺人容疑でソフィは逮捕されてしまいます。警官隊を率いるフォルジャ警部によれば、その家の別の部屋のベッドの上に、頭部が切断されて見当たらない死体が見つかったからというのです。
 ソフィが、自分はカナダ人でベネディクトではないといくら言い張っても、それを証明するものが一切なくなってしまっています(注2)。

 このままでは自分は犯罪者にされてしまうと、病院に連れて行かれた時に、ソフィは一瞬の隙をついて逃げ出すことに成功します。
 白衣を着て医者になりすまし、病院の外に出てから、一般人の車を強奪したり(注3)、逃走用の資金を確保したりします。
 さらに何か手掛かりが得られないだろうかと、ソフィは、ベネディクトの母親の家に向かったところで、聞き込みのために出向いていたフォルジャ警部らと遭遇してしまいます。

 なんとここからは、この夏に見た『この愛のために撃て』まがいの場面となるのです!
 その映画では、看護助手・サミュエルがパリの地下鉄内を所狭しと逃げ回るところ、本作においては、イラストレーターのソフィが、住宅街を縦横無尽に逃げ回るのです。それも、庭はおろか家の中まで入り込んで走りに走ります。



 こうなると、彼女を追いかけるフォルジャ警部の風貌がどことなくサミュエルに扮したジル・ルルーシュに似ていることもあって、これはもう、『この愛のために撃て』の成功にあやかって作られた2番煎じ(女性版)なのかな、と思ってしまいます。
 さあ、ソフィはいったいどうなるのでしょうか、……。

 2番煎じだからということもないのでしょうが、本作は突っ込みどころが多い気もします。
 例えば、
・いくら保険がかかっているとか何とかあっても、そしていくら短期間だからといっても、全く見ず知らずの人間に、自分の家を貸してしまうことって、不用心過ぎるように思いますが(注4)?
・いくら一瞬の隙を衝くにしても、華奢な若い女性アーティストが、屈強な男性警官を制して逃げ出せるものでしょうか(注5)?
・いくら一生懸命走ってはいるものの、見知らぬ場所で男性2人に追いかけられて捕まらないというのも、ソフィが女忍者という想定なら話は別ですが、どうなのでしょうか(注6)?
・『この愛のために撃て』の場合は、最愛の妻を救出するという切羽詰まったものがありましたが、本作では彼女はそんな恋人がいるわけでもありませんから、すぐに諦めてしまうのが普通ではないでしょうか(注7)?
・ソフィを窮地に陥れた犯人が、ソフィが父親の愛情に包まれて育ったことを嫉妬した、と犯行の動機が説明されますが、そんなことで何人もの人を殺すのでしょうか(『この愛のために撃て』の場合は、警察によって犯人に仕立て上げられそうになった男を巡ってのもので、これもそんなことってあるのかなという感じがしましたが、様々の冤罪事件を知るにつけ、ずっと受け入れやすい設定でした)(注8)?

 とはいえ、登場する俳優は、皆熱演です。特に主役のソフィを演じるカリーヌ・ヴァナッスは、これまで見たことがありませんが、文字通り体当たりの演技で、これからの公開作も期待されます。
 また、ソフィを追いかけるフォルジャ警部役を演じているエリック・カントナは、元はプロのサッカー選手として有名だったとのことで、驚いてしまいます。



 色々問題点があることはあるものの、まあカリーヌ・ヴァナッスの文字通り体を張った熱演は一見に値すると思えますから、まずまずの仕上がりの作品といたしましょう。

(2)ところで、少し前に見たTVドラマ『境遇』(ABC創立60周年記念スペシャルドラマ:湊かなえ原作:12月3日放映)も、同じ境遇で育ったことが分かって二人が仲良しとなったにもかかわらず、その内の一人が、自分よりずっといい環境で過ごしていることに嫉妬して、もう一人を奈落の底に突き落とそうとする話でした。
 同じ境遇というのは、未だ乳飲み子の時に母親に捨てられて、児童養護施設で育ったということです。それも別の施設ながら、ほんの少ししか離れてはいないのです。大きくなって偶然出会った二人は、話すうちにお互いの境遇が似ているということで大層親しくなります。
 ですが、その後、一人(陽子:松雪泰子)は、県会議員となる家柄のいい青年と結婚し、子供までもうけますが、もう一人(晴美:りょう)は、しがない地方新聞社で働く独身女性で、子供を堕したばかり。
 そこで、晴美は、陽子を現在の恵まれた位置から引きずり降ろすべく、その子供を密かに誘拐し、匿名で厳しい要求を陽子に突きつけるのです。
 しかしながら、晴美は、単に育った環境が陽子と類似していたというだけで、自分が今置かれている状況が惨め過ぎるとして、相手を激しく嫉妬するのですが、それは単なる言いがかりにすぎないように思えます。
 はたしてそんな理不尽な理由から、児童誘拐といった重大犯罪を犯すにまで至るのか、甚だ疑問に思えるところです(注9)。

 この作品と比べると、本作の場合は、あるいは少しは説得力があるといえるかもしれません。でも、それにしても人生の出発点に共通性があるだけで、それをもって同じ境遇とみなすのは言いすぎではないかと思えるところです。
 まして、その後、他の二人が自分とは随分と違った環境の下にあったからといって、それで嫉妬するのは酷くお門違いというべきでしょう。何も人間の一生は、出発点だけで決められるわけのものではありませんから(注10)。



(注1)エッフェル塔が間近に見える凄く立派な邸宅です。

(注2)凶器にソフィの指紋が付いていたり、近所の人がソフィを見ていたり、おまけにソフィのフランス語に訛りがないことなどで、容疑者として逮捕されてしまいます。
 劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューによれば、この映画の物語は、「48時間の間に起こった出来事で、事の始まりは8月の日曜日。そのため人員がどこも半分に減っており、行政も大使館も動きが鈍いという状況でしか成り立たない」とのこと。
 確かに、通常の時期における平日の出来事なら、いくらなんでもソフィはこんな人違いなどされなかったことでしょう!
 なお、フランス語に訛りがないとの点については、自分は12歳まで両親と一緒にボルドーで暮らしていた(その後、一家はカナダに移住)と、ソフィは説明します(要すれば、ソフィの生まれはフランスということで、この点があとで利いてきます)。

(注3)その車を運転していたのは日本人で、事情聴取していた警察官は、「今夜は“スシ”だな」と同僚に話します。

(注4)とはいえ、キャメロン・ディアスやジュード・ロウらが出演した『ホリデイ』(2007年)からは、欧米ではこうした「ホームエクスチェンジ」が実際にかなり行われているように思えました(本作におけるカナダ・ケベック州とパリとの関係は、イギリスとアメリカとの関係と同列に考えられるところです!)。

 なお、この『ホリデイ』については、以前DVDで見たことがあり、その時には次のような感想を持ちました。
 主演のキャメロン・ディアスがやや歳を食った感じになってはいるものの、まだまだ大変魅力的に映し出されていて、またジュード・ロウもこうした脇役的なところではその美男子振りを発揮でき(役柄は編集者となっていますが、キャメロン・ディアスにとっては単なる“ホスト”なのでしょう!)、また、ケイト・ウィンスレットもいい感じを出しています。
 加えて、ビデオ屋で、ケイト・ウィンスレットの彼氏が『卒業』のビデオを取り出すと、店にいたダスティン・ホフマンが顔をこちらに向けるという絶妙の場面があったりして、随分と楽しめる作品です。
 なにはともあれ、米国(それも西海岸)と英国とは、言語の壁がないところから、実に近しい関係にあるのだな、と実感しました。

(注5)実際には、ソフィの歯を調べようとした歯医者を盾に取って、2人の警察官を手錠で固定したうえで、その場から逃げ出します(でも、警察官が体当たりでもすれば、ソフィはいとも簡単に御用となったに違いありません!)。

(注6)映画は、ソフィが、ジョギングをしたり柔軟体操をしたりするところを映し出して、彼女が体を鍛えていたこと示します(さらに、空手道場に通っている映像でも付け加えれば、説得力が一層増したでしょうに!)。

(注7)映画『スリーデイズ』でも、最愛の妻の無実を信じていればこその脱獄劇でした。ただ、自分の置かれている甚だ理不尽な状況からなんとしても逃れ出たいという意志は、人によって、はあるいは長く持続するものなのかもしれませんが。

(注8)パリのベネディクトの家で殺されていた男・トマと、ソフィと真犯人とは、母親こそ違え、同じ男の精子を使った人工授精によって生まれた兄妹だ、との設定です。
 にもかかわらず、自分はないがしろにされて父親の愛情なしで育った、だから今こそ、父親の愛情を独占したソフィに復讐をするのだ、というのが事件の背景のようです(殺されたトマだって、違う父親の元で育てられましたが、地方の名士の家で育ったという点が、真犯人には許されないというわけなのでしょう)。

(注9)TVドラマ『境遇』では、こうした話の他に、陽子と晴美のうちの一人は、友人に殺された被害者の子供であり、もう一人は、その殺人犯の子供だという話が絡まります。

(注10)こうした非難に対しては、真犯人は、元々が自殺未遂を繰り返し、二重人格や妄想癖を持つ人物と設定されているのだから構わないではないか、と製作者側は反論することでしょう。



★★★☆☆




象のロケット:スウィッチ
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アーサー・クリスマスの大冒険

2011年12月18日 | 洋画(11年)
 『アーサー・クリスマスの大冒険』を新宿ミラノ2で見てきました。

(1)ブログ「ふじき78の死屍累々映画日記」の管理者「ふじき78」さんが、この作品を取り上げているエントリで★5つをつけ、加えて2日後のエントリにおいても「最近のお気に入り」の3本の一つとしてあげておられるので、これは『この愛のために撃て』と同じように傑作に違いないのではと思い、映画館に足を運びました。
 問題は、「ふじき78」さんが、「この入りじゃクリスマスを越せないよ」とか「内容はすっごく面白いのに宣伝を失敗して観てる人が凄く少ないCGアニメ」と指摘されているように、観客の入りが酷く悪いことから上映館がかなり少なくなっている点です。
 クマネズミは当初、近くの吉祥寺バウスシアターが次の火曜日(20日)まで上映していることが分かっていたので、その上映時間が昼間のこともあり、日曜日の本日に行くつもりでした。
 ところが、昨日になって同館のスケジュールをHPで再確認したところ、既にその前の日の金曜日で打ち切りになっていて、「ご了承ください」とHPには掲載されているではありませんか!
 「了承」などしないぞとは思ったものの後の祭り、仕方なく他の映画館を探したところ、新宿で20日まで上映されていることが分かり、1日でも早くと、昨日慌てて出かけた次第です。
 上映されている「新宿ミラノ2」(地下にあります)には、これまで殆ど行ったことがありません。相当くたびれた外観ながら、中に入るとトテモ立派な雰囲気を持った大劇場(定員が700名近く!)です。
 でもやはり、そんな大きな劇場の中心部に、土曜日にもかかわらず20人ほどの観客が座っているだけの大層寂しい上映風景でした。

(2)映画は、20億人もいる世界中の子供達にクリスマスプレゼントを届けるサンタ一家のお話。一体どうやったらそんなことが可能なのでしょう、という疑問に対する回答を本作は与えてくれます。

 実は、北極の氷の下に超ハイテクの作戦指令所が設けられていて、長男スティーヴが沢山の妖精を使って指揮を執っているのです(言ってみれば、スティーヴは、参謀長的存在なのでしょう)。



 その指令の下、実際に子供達にプレゼントを配るのは、巨大な最新飛行装置「S-1」に乗る父親マルコムです(彼は、作戦全体を統括する大将というわけでしょう)。



 スティーヴは、早いところ父親からすべてを譲り受けて、全体を自分で動かしたいと思っています(父親は、今回を含めて70回もプレゼント作戦を執り行ってきていて、引退も間近といった感じなのです)。
 サンタ一家には、この他に、136歳にもなる祖父(「おじいサンタ」)と、マルコムの妻マーガレット、そして本作の主人公の次男・アーサーがいます(注1)。

 アーサーの仕事は、長男の様な派手なものではなく、地味な裏方で、サンタに寄せられる沢山の手紙に返事を出すことです。



 さて、今年のプレゼント作戦もうまくいったと皆が喜んでいる時に、イギリスに住む女の子グウェンにプレゼントの自転車が配達されていないことが判明します。
 長男スティーヴは、たった1個のプレゼントが届けられなくとも、20億個マイナス1のプレゼントがきちんと届けられているのだから、作戦は大成功なのだ、そんなことは無視してもかまわないと主張し、父親マルコムもそれに同調します。
 ですが、次男のアーサーは、一人でもプレゼントを待っている子供がいるなら、そのプレゼントを届けるべきだと主張し、25日のクリスマスの朝を迎えるまでの2時間のうちに、グウェンにプレゼントを届けようとします。

 でも、父親や兄が反対するので「S-1」は使えません。そこでアーサーは、祖父の「おじいサンタ」を引っ張り出します。


 アーサーは、彼が密かに隠し持っていた橇「イヴ」(トナカイ8頭が引っ張ります)に乗って、一緒に、グウェンのいるイギリス・コーンウォール州の小さな村を目指して出発します。
 さあ、アーサーたちはうまくプレゼントを彼女に届けることができるのでしょうか、……?

 北極の下の大規模な作戦指令所(オペレーションセンター)の有様、巨大な最新飛行装置「S-1」の姿、そしてピンクの自転車をグウェンに届けるまでの大冒険等々、このアニメには見所が一杯詰まっています。
 それらの場面は、子供達のみならず大人達にとってもワクワクしてしまいます。
 そして、大人達には、「おじんサンタ」とかマルコムの描き方が単純になされていないところとか、スティーヴとアーサーの対比的な描き方にも興味を惹かれるところです。

 ただ、そうしてリアルな方向に注意が向くと、見ている方も少々突っ込みを入れたくなってきます。
 例えば、この映画では妙齢の女性がマッタク登場しませんが、スティーヴとかアーサーの結婚はどうなるのでしょうか?
 劇場用パンフレットによれば、オペレーションセンターで「60万人」も働いている「妖精」は、平均身長が66㎝とされますが、本作の描き方では、同じ「人間」ながらも、サンタ一家に従属するだけの差別的な扱いを受けているように思われてしまうのではないでしょうか?
 そして、やっぱり、アーサーたちの大冒険を阻止しようとする悪漢どもが見当たらないのも寂しいところです。

 でも、そんなツマラナイことなど考えずに、質の高いアニメを素直に愉しむべきなのでしょう!

(3)実は、この映画を見る前に、『さよなら!僕らのソニー』(立石泰則著、文春新書)を読み終えていました。
 12月15日号の『週刊文春』の「文春図書館」で、小説家・白石一文氏が、「いやはやこんなに面白い本を読んだのは久しぶりだ。小説、ノンフィクイションを問わず、ここ十年来で最高の読書体験の一つだった」とまで述べていたことに触発されました。実際、目を通し始めたところ、興味深い事柄が引きも切らず書き連ねてあって、それこそアッという間に読み終えてしまいました。
 ですから、本作の冒頭で「Columbia Pictures and Sony Pictures Animation」などといった文字に出会った途端に、同書が思い起こされました。

 そして、チョット強引ではありますが、サンタ一家の大作戦を仮に企業の事業だと捉えると、本作と同書の登場人物とが互いになんとなく似ている様な気もしてきたのです。
 すなわち、
・「おじいサンタ」は、サンタクロースの原点を体現しているので、メーカーとして物作り自体に独創性を求めたソニー創業者の井深大氏と盛田昭夫氏に、
・父親のマルコムは、息子のスティーヴとアーサーのそれぞれの良さを認めているところから、ソニーの転換点に当たる時期にCEOだった大賀典雄氏に、
・兄のスティーヴは、効率性を最も重視しているので、ソニー創業の原点から逸れる方向に大きく舵を切ったCEOの出井伸之氏とかハワード・ストリンガー氏に、
・そして主人公アーサーは、効率性よりも精神の問題だとして「おじんサンタ」に協力を仰いだところから、古いソニーを懐かしんでいる著者立石氏(あるいは、書評を書いた白石氏)に、
それぞれ当て嵌めてみたら面白いのでは、と思ってみました。

 もう少し申し上げれば、例えば、白石氏の書評によれば、「ソニーはメーカーとしての競争力を急速に失っていったしまった」わけですが、「その最大の原因は、モノ作りをすっかり忘れてしまった金融大国アメリカ出身のハワード・ストリンガー氏を、社内政治上の思惑から出井氏が後継CEOに指名したことに尽きると立石氏は指摘している」のです。
 こうした事態は、「おじさんサンタ」の時代には、トナカイの橇「イヴ」に乗って一つずつプレゼントを配ったのに対して、今やスティーヴは、巨大な最新飛行装置「S-1」を使って非常に効率的に20億個のプレゼントを配っていることに対応させることが、もしかしたら出来るかもしれません。
 なにしろ、ストリンガー氏は、エレクトロニクス事業がソニーの中核だとはしながらも、実際は同事業について十分な識見を持っておらず(注2)、実際のところは端末装置ではなく、コンテンツ事業の方に重要性を置いているのです。マサニ本作のような映画を制作して収益を上げることを重視しているのでしょう(とはいえ、日本ではコケてしまった感じですが!)(注3)。

 もっと飛躍してもかまわないのであれば、ソニーの変貌は、日本経済全体が世界経済の中で置かれている位置とも連動している、と言えるのかもしれません。
 すなわち、日本は今や、物作りの面では、かなりの部門で韓国や中国に追い抜かされそうになっていて、今後生き残れる道はサービス産業くらいしかないと思われるにもかかわらず、依然として自動車産業頼みとなっているために、ソニーが赤字体質からの脱却が難しくなっているのとパラレルに、日本経済の地盤沈下が一層進んでいるようにも思われます。

 さてここで、日本経済は、アーサーのような道に戻るべきなのでしょうか、それとも、あくまでもスティーヴの路線をモット先まで辿っていくべきなのでしょうか、それとも第3の道が?
 ですが、そんな重大問題はクマネズミの手にあまることなので、別の機会といたしましょう。

(4)なお、本作を見ながら、クリスマスってプレゼントを子供に届けることがすべてなの、という思いに囚われてしまいました。単にチョコレートを贈る日となってしまっている日本のバレンタインデーに対する違和感と同じような感じです。
 そこで、手元にあった『サンタクロースの秘密』(クロード・レヴィ=ストロース/中沢新一著、せりか書房、1995年)に収められている、レヴィ=ストロースの論文(中沢新一訳)を踏まえた中沢新一氏の論考によれば、概略次のようです。
 
 ヨーロッパの「民衆の世界には、救世主の誕生と死者の霊の来訪とを同一の出来事としてとらえる、象徴的思考の伝統が深く息づいてい」て、「冬至の時期、太陽はもっとも力を弱め、人の世界から遠くに去っていく」が、そのとき「生者の世界には、おびただしい死者の霊が出現することにな」る。そこで、生者は「訪れた死者の霊を、心をこめてもてなし、贈り物を与えて、彼らが喜んで立ち去るようにしてあげる」と、「太陽はふたたび力をとりもどして、春が到来」してくることになる。
 この場合、「死者の霊を表象するものとして、社会性のマージナルである子供と若者が祭の立役者として選ばれ」、「大人たちがつくる生者の世界は、彼らを媒介にして、有体化した贈与物を、死者の領域に贈り届けることもできた」わけである。
 ところが、そうした「ダイナミズムのすべてが、近代のブルジョア社会の成立と共に、大きな変質をこうむることにな」り、「生者を死者の霊の領域につなぐ媒介者の地位をつとめていた子供組や若者組の働きを、今日のブルジョア化された世界では、あのサンタクロースなる人物がつとめることにな」り、「子供はサンタクロースからのプレゼントを受け取る位置に、転落していった」わけ。

 やはり、サンタクロースの背景には奥深い物があると分かります。
 ただ、仮にそうであるとしたら、上記(3)を踏まえて、ストリンガー氏は、ソニーという会社を通じて社会(株主だけ?)にいろいろプレゼントをしてくれるサンタクロースの位置にあるといってもよいのかもしれません。
 しかしながら、立石氏によれば、彼に支払われる「8億円を超える報酬額は高すぎ」、「十分に欲深い」といえそうですから(『さよなら!僕らのソニー』P.271~P.271)、子供達に与えるべきプレゼントを自分に向かって与えてしまっている、といえるかもしれません(注4)!

(5)渡まち子氏は、「ヘタレの主人公が繰り広げる手に汗握るアクションと、ワールド・ワイドな冒険、そしてエモーショナルな家族のドラマは、父と子のバトン・リレーのよう。心温まる秀作アニメーションに仕上がった」として75点を付けています。
 福本次郎氏は、「“CGによってアニメは飛躍的に表現力をつけたが手書きアニメの頃のぬくもりを伝える魂を忘れたわけではない”。映画製作者自身が、プレゼントを直接デリバリーするアーサーの活躍を通じて、そう宣言しているように思えた」として60点を付けています。



(注1)あるいは間違っているかもしれませんが、次男の姓名は「アーサー・クリスマス」ではなく、「アーサー・サンタ(クロース)」ではないでしょうか?邦題も、本来的には、「アーサーのクリスマス(大冒険)」とすべきなのではないでしょうか?

(注2)立石氏によれば、「井深氏にはトリニトロン・カラーテレビ、盛田氏にはウォークマン、大賀氏にはCDプレーヤーという一般消費者なら誰もが知るそに商品を成功させた実績がある」のに対して、「いまはソニーらしい製品が生まれないこともあって、代表的な製品と「ソニーの顔」が結びつかない」(『さよなら!僕らのソニー』P.148~P.149)。

(注3)立石氏によれば、ストリンガー氏には、「エレクトロニクス製品は、あくまでもエンタテインメント事業が利益を上げて行くためのツール(道具)であって、それ以上でも以下でもな」く(『さよなら!僕らのソニー』P.243)、彼にとって「何よりも大切なのはハリウッドなのである。そして、SONYをコンテンツとネットワーク事業を含む博い意味でのエンタテインメント企業に変貌させることが夢なのかもしれない」(同書P.244)。

(注4)この点に関し、書評をした白石氏は、「本書で明らかにされているハワード氏及びその取り巻きのアメリカ人たちの保身と強欲、無為無策ぶりには唖然とする。そして、そうしたアメリカニズムというものが、ソニーに限らずこの国の各界のリーダーたちをいかに毒しているかを思うとき、現在の日本の衰退の真因が私たちの前にぼんやり浮かび上がってくる」と述べています。
 ですが、そうしたいわゆる小泉流の市場原理主義批判をここで持ち出すのは、全くのお門違いと言うべきでしょう。
 むしろ、立石氏がいうように、「「SONY」ブランドが輝いたかつてのソニーを知る者にとって、日に日にメーカー・マインドを失っていくソニーの姿を見るのは辛い。しかし「グローバル企業」とは、こういうものなのだろうなとも思う」べきではないでしょうか(『さよなら!僕らのソニー』P.289)?




★★★★☆




象のロケット:アーサー・クリスマスの大冒険
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50/50

2011年12月17日 | 洋画(11年)
 『50/50 フィフティ・フィフティ』を、TOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1) この作品も、前回の『RAILWAYS』と同様、随分と手堅くまとまりよく作られているなという感じがしました(その作品と同じように、全体的には、可もなし不可もなし、といったところでしょうか)。

 物語は、シアトルの公営ラジオ局勤務の主人公アダムジョゼフ・ゴードン=レヴィット)(注1)が、まだ27歳にもかかわらず、医者から「悪性神経鞘腫 神経線維肉腫」と宣告され、当然のことながら酷く落ち込み、同棲していたレイチェル(ブライス・ダラス・ハワード)との関係にもヒビが入るものの(注2)、会社での同僚カイルセス・ローゲン)の熱い励ましとか、セラピスト・キャサリンアナ・ケンドリック)(注3)の支援があってなんとか立ち直って行くというお話です。

 こうした話題を取り扱ったらこうなるだろうなというゴールをめがけて、実に巧みにまとめられていきます。
 ただ、アダムの父親がアルツハイマーという設定に関しては、わざわざそこまでせずともと思いますし、母親が一日中アダムのことを心配しているのが嫌で、アダムは余り連絡を取らないでいるという設定も、随分とありきたりな感じです(日本と似通っています)。
 それに、アダムの職場は今後も居続けられるのだろうかなどといったことも描いてくれたらな、とも思います。

 それでも、少々乱暴なやり方ながら実は親身になって面倒を見てくれる親友カイルの様子とか、まだ成り立てホヤホヤのセラピストとして、なんとかアダムの精神的負担を軽減してあげようと努めるキャサリンの姿は、全体としてとても落ち着いた映画のトーンの中で一際光ります。

 主演のジョゼフ・ゴードン=レヴィットは『(500)日のサマー』で見ましたし、ヒロインのアナ・ケンドリックも『マイレージ、マイライフ』以来ですが、なんとなくおなじみの感じがしたところです。



 としても、本作においては、その出演作を見たことがないながら、カイルの役のセス・ローゲンのユーモアあふれる演技が出色でした(注4)。




(2)この映画は、大層若い時分に、5年後の生存率がフィフティ・フィフティである癌に罹った主人公が、にもかかわらず随分と明るく対処する姿を描いていて、ありきたりの感動作におちいっていないところは評価できると思います。
 ただ、アメリカの場合非常に大変だとされる高額な医療費について、一切言及されていないことにクマネズミは物足りなさを覚えました(特に日本では、TPP参加問題に関連して、混合診療か公的保険制度かといったことが姦しく議論されている時でもあり)。

 アメリカの医療制度は、国民皆保険制ではなく、主に民間保険会社の医療保険によっているとされます。すなわち、高額所得者は、民間の保険(保険料が高額)によって医療費に対処しているわけです〔ただ、65歳以上の高齢者ら向けの「メディケア」、低所得層が対象の「メディケイド」などといった公的な保険制度もないわけではないとのこと〕(注5)。
 こうした状況下では、無保険者が多数でてきてしまうことから(4,000万人以上とされています)、昨年3月、米国下院議会で民主党が推し進めてきた医療保険制度改革法案が可決され、オバマ大統領の署名を経て成立に至りました。
その内容は、現在4,600万人いる保険未加入者のうち、3,200万人を救済することになり、施行にかかるコストは10年間で9,400億ドルと推定されているようです(注6)。

 とはいえ、こうした改革が実施されるまでにはまだ時間がかかるとされていますし、反対派の動きもまだまだ活発なようです(注7)。

 本作のアダムの場合、大層有能な東洋系の女医の手で長時間の手術が行われ成功したとされますが、そうであれば要する治療代は非常な高額なものとなるのではないかと推測されます。
 父親がアルツハイマーであり、彼もまだ若年ですから、いったいそうした治療費をどうやって捻出するのか、その家族にとっては大きな問題となるのではないでしょうか(むろん、民間の保険に入っていればある程度カバーされるでしょうが、なかなか全額というわけにはいかないようです)?

(3)映画評論家は、この作品にかなり好意的です。
 前田有一氏は、「病気は誰もがかかるものだし、死もしかりだ。早く死ぬか遅く死ぬかの違いがあるだけで、過剰に悲しんでばかりいるのは健全ではない。この映画はそうした価値観のもとに、最悪の病気をテーマにしながら非常に力強い、生命賛美のメッセージを伝えてくる。優れた笑いのセンスと魅力的な人物描写であらかじめ共感をさらっているので、そのメッセージも素直に受けとめられる。きわめて優れたストーリーテリングであり、映画としての完成度も高い」として80点の高得点を付けています。
 福本次郎氏は、「5年後生存率が50%なのに、実感がわかずどこか他人事のよう。母親は過剰に干渉し、恋人は逃げ出してしまっても、対応に追われる自分を別の自分が観察しているかのごとき距離感が心地よい。そんな、いつもはにかんだ笑顔で感情をコントロールし、なるべく周囲に迷惑をかけまいと振る舞う主人公の心情が濃やかに描きこまれる」として70点を付けています。
 渡まち子氏は、「生と死を静かに実感した青年が、50パーセントの確率の中で、自分自身と向き合うこの物語、シリアスとユーモアのブレンド具合が絶妙で、小さいが美味しいスイーツのような後味がある」として65点を付けています。



(注1)i-pod shuffleを聞きながらジョギングする青年(運転免許を持ってはおりません)。ただ、時折指を噛む癖があり、両親とは別の家に、画家を目指しているレイチェルと半ば同棲生活を送っています。

(注2)レイチェルは、当初は「引っ越してきて面倒を見る」とまで言っていたものの、やはり堪え切れずに、次第に病院の中に入りたがらないようになり、迎えに来るのが1時間も遅れたりして、結局他の男と浮気してしまい、その男とキスをしているところを友人のカイルに写真に撮られてしまいます。




(注3)キャサリンは24歳。まだ研修中であり、博士号を取得しようとしています。その上、彼氏と別れたばかりというお誂えむきの状況設定となっています。

(注4)カイルが、アダムの背中の手術跡を見て、映画『ソウ』みたいだと言うのはまだしも、ランス・アームストロングなどの名前を出されると、とてもついていけません(尤も、劇場用パンフレットには、嬉しいことに、台詞で登場する人名などについて簡単な解説が掲載されています)。
なお、アダムの方も、自分のスキンヘッドを指して、映画『ハリー・ポッター』に登場するヴォルデモートみたいだなどと言う始末です。

(注5)改革前の状況については、このサイトの記事を参照。

(注6)例えば、このサイト、あるいはこのサイトの記事を参照。

(注7)法案可決後も、共和党が同法廃止の姿勢を鮮明にしているほか、いくつかの州の司法長官が合同で「強制的な保険加入は憲法違反」として連邦政府を提訴するなどの動きがあるようです(例えば、このサイトによります)。




★★★☆☆





象のロケット:50/50 フィフティ・フィフティ
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インモータルズ

2011年12月05日 | 洋画(11年)
 『インモータルズ―神々の戦い―』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)この映画は3D作品であり、かつギリシア神話によっているとの触れ込みだったので、端から対象外にしていたところ、何かの拍子に、衣装デザインを石岡瑛子氏(注1)が手掛けていると耳にし、それならば見なくてはと出かけてみた次第です。

 映画では、イラクリオン帝国の国王ハイペリオンミッキー・ローク)が、世界征服の野望を持ってギリシアに迫ります。その際に、オリンポスの神々との戦いに敗れてタルタロス山の地下深くに幽閉されたタイタン族と手を結ぼうとします。
 そのためには「エピロスの弓」が必要で、ハイペリオンは、それが隠されている場所を特定できる巫女パイドラフリーダ・ピント)を探しています。
 一方、ハイペリオンの野望を阻止すべく、オリンポスの神々を率いるゼウスは、人間のテセウスヘンリー・カヴィル)にその使命を託します。テセウスには、盗賊だったスタブロス(スティーヴン・ドーフ)らがつき従います。
 さあ、両者の戦いはどうなるでしょうか、……。

 ギリシア神話が出てくると嫌なのは、名前が錯綜してきて、見ているうちに誰が誰やらになりかねないことと、神々が神といわれるのに人間と全く同じ様に描かれることなどによっています。
 この映画もそのきらいがないわけではないものの、ギリシア神話をかなり分かりやすくアレンジして描いていますし、闘いはハイペリオンとテセウスなどという人間同士のものが大部分なので、幾分かは軽減されています。

 それに、本作における戦いのシーンは、圧倒的な迫力を持っています。
 特に、ハイペリオンとテセウスの一騎打ちは見応えがあります(何しろ、テセウスに扮するヘンリー・カヴィルの若さに対するハイペリオン役のミッキー・ロークには、『レスラー』の強烈なイメージが憑いているのですから!)。
 また、ハイペリオンが率いる大軍と少人数のギリシア軍との戦いは、まるで邦画の『十三人の刺客』を彷彿とさせますし(注2)、オリンポスの神々とタイタン族との戦いも、1対1の場面となると、邦画のチャンバラと見紛うばかりです!

 それでも、ハイペリオンがなぜ邪悪で(注3)、テセウスが善人なのか(どうしてゼウスに選ばれるのでしょう)、オリンポスの神々はなぜ人間を助けてはいけないのでしょう、掟に背いたアレスはどうしてゼウスによって殺されるのでしょう、タイタン族との戦いでなぜアテネらの神々が殺されてしまうのでしょう〔それだったら神(immortals)である意味合いはどこにあるのでしょう!〕、などなどといった事柄が説得力をもって説明されているとは思われませんでした。
 ですから、本作は、ストーリーに拘ることなく、豪華絢爛の絵巻物として楽しめばいいのではないかと思ったところです。

 主役のテセウスを演じるヘンリー・カヴィルは、ウディ・アレン監督の『人生万歳!』で最後にはヒロインのメロディと一緒になる優しげなイケメンを演じていましたが、本作では見違えるような立派な体つきとなっていたのには驚きました。



 また、テセウスと一緒になってハイペリオンと戦うスタブロスをスティーヴン・ドーフが演じています。彼は、『Somewhere』で主役のジョニーに扮して、娘役のエル・ファニングとウダウダやっていましたが、本作では、それから吹っ切れたように俊敏な動きを見せています。

 でも、この映画で注目されるのは、悪役ハイペリオンを演じるミッキー・ロークでしょう。最近では『レスラー』での活躍ぶりが印象的ですが、本作においても、冷酷非道な国王役としてうってつけの感じがします。



 また、未来を見ることのできる能力を持つ巫女パイドラ(テセウスの子を身籠ります)を演じるのが、『ミラル』で好演したフリーダ・ピントというのもうれしい限りです。



 ただ、残念なのは、ゼウスに扮した俳優(ルーク・エヴァンス)に貫禄がなさ過ぎて、とてもオリンポスの神々を率いる全能の神とは見えない点です。

(2)この映画は、2008年の『落下の王国』と同じターセム・シン監督が制作した作品であり、なおかつその作品と同じく石岡瑛子氏が衣装を手がけている点が注目されます。
 ソウ思って映画を見ていると、4人の巫女が登場する時の衣装とか、オリンポスの神々が天空で話している際の衣装などは、『落下の王国』の衣装を見ているような感じになります。
 本作の素晴らしい衣装が分かる画像は余り見当たりませんが、このサイトのものが少しは参考になるかもしれません。
 例えば、



 こんな衣装のデザイン手掛けているとすれば、石岡瑛子氏は、まだまだ第1線で活躍し続けるだろうと、大いに期待させます。

 なお、『落下の王国』の衣装については、このサイトで画像をいくつか見ることができます。
例えば、



 また、石岡瑛子氏は、同じ監督の『ザ・セル』(2001年)についても、その衣装をデザインしています(注4)。
 その画像についても、このサイトでいくつか見ることが出来ます。
 例えば、



 石岡瑛子氏の活躍振りを見ると、映画は、映像とか音楽のみならず、実に様々のファクターを盛り込んだ総合的なものだということがよく分かります。

(3)評論家は、総じて好意的のようです。
 前田有一氏は、「映画としては、ありがちな展開が鼻につくもののアクション作としての出来は標準以上。ギリシャ神話ファンなら普通に楽しめる気楽な作品となっている」として70点をつけています。
 渡まち子氏は、「物語は、身分は低いが神に選ばれた若者が、世界を救うというオーソドックスな英雄譚。未来のビジョンが見える巫女パイドラとの恋愛はほとんど付け足しのようだが、徹底したアクション・シーンで見るものを圧倒する」として65点をつけています。
 福本次郎氏は、「男たちは力強くしなやか、女たちは豊満で優美、登場人物はみなギリシア彫刻のような肉体を誇示し、リアリティよりもイマジネーションを優先させた感覚的なヴィジュアルは巨大津波や肉弾相撃つ戦闘シーンですら格調高いシンフォニーのようだ」として50点をつけています。



(注1)石岡瑛子氏については、本年2月27日の記事の(3)において触れています。

(注2)特に、押し寄せてくる大軍に怖じ気を震って逃げ出そうとするギリシア軍を、門の上に立ってテセウスが鼓舞しますが、役所広司の島田新左衛門が、戦いの冒頭に「斬って斬って斬りまくれ!」と叫ぶ姿に酷似している様に思いました。
 それに、ギリシアの要塞の狭い通路に誘い込むことによって、大軍を分断して戦うギリシア軍のやり方も、300人以上の軍勢に対して13人で戦いを挑んだ島田新左衛門らが採った戦法に似ているのではないでしょうか?

(注3)ハイペリオンは、「妻や子供が病の時に、神々はなにもしてくれなかった。神々の時代は終わったのだ」と叫びます。だからといって、彼の残虐な行為は許されるわけでもないでしょうが、それは彼に従わないギリシア人についてであって、彼の傘下にある者は、彼のことを邪悪な人間だとは思わないのではないでしょうか?元々、世界征服が邪悪な行為だとも一概にいえないのではないでしょうか?

(注4)石岡瑛子氏は、その著『私デザイン』(講談社、2005年)の第9章において映画『ザ・セル』を取り上げているところ、例えば、「革新的(イノヴェイティヴ)なセットやコスチュームは、それを積極的に使いこなす俳優の姿勢に助けられることが大きい。俳優の創意工夫がデザインに命を吹き込み、役柄の肉体の一部となって存在することを可能にする。(映画で連続殺人者を演じる)ヴィンセントはそういう意味では、それまでに仕事をしてきた多くの俳優や様々なパフォーマーの中ではずば抜けて創造的で、デザイナーにとっては理想の相手と言っても言いすぎではない」と述べる一方で、主演のジェニファー・ロペスについては、「「この人との仕事は難航するな」と私は直感した。監督のターゼムがジェニファーと組んだ苦労は私の比ではない」などと述べています(P.356~P.359)。




★★★☆☆



象のロケット:インモータルズ
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コンテイジョン

2011年12月03日 | 洋画(11年)
 『コンテイジョン』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)本作は、マット・デイモンが出演するのだから、これまでの作品(『アジャストメント』とか『ヒアアフター』など)からしても、そんなに外れることはないだろうと見込んで映画館に行きました。
 でも、その期待は大きく外れてしまいました。
 本作には、マット・デイモンだけでなく、マリオン・コティヤール(『パブリック・エネミーズ』)とか、ジュード・ロウ(『シャーロック・ホームズ』)、ケイト・ウィンスレット(『愛を読むひと』や『レボリューショナリー・ロード』)、グウィネス・パルトロウなど、主演級の俳優が引きも切らず登場するのです。
 当然、黙っていても面白くなるはずです。
 ですが、これはいったいどういう類いの映画なのだと言わざるを得ない結果でした。

 ある時、突然、得体のしれない感染症が蔓延し出し、ついには2千万人以上の犠牲者が出てしまう事態に陥ります。原因は、コウモリと豚のウィルスが混ざった新種のウィルスであることがつきとめられるものの、対抗できるワクチンはまだ開発されていません。
 さあこうした事態を、人類はどこで食い止めることができるでしょうか……。

 となれば、マット・デイモンが、医師とか医学研究者などに格好良く扮して原因を究明するとか、そうでなければ患者救援組織のトップとして縦横の活躍をする、といったことになるのが常識的でしょう。
 ですが、彼は単に、その伝染病に初期のうちに罹った女性(グウィネス・パルトロウ)の夫であって、ごく普通の人物として設定されていて、映画の大部分の時間は、病院に隔離され、ベッドに座り続けているだけなのです(なおかつ、なぜかその病原ウィルスに対する抗体を彼は持っているのです)(注1)。
 グウィネス・パルトロウは、中国滞在中に罹患し、アメリカに戻ってからすぐに死ぬだけのことですし(注2)、ケイト・ウィンスレットも、CDC(疾病予防管理センター)の感染症調査官ということで、患者の調査をしますが、その内に罹患して死んでしまいます。





 また、主役とされるマリオン・コティヤールはWHOの調査員に扮しますが、香港に出向いた際、中国衛生部に所属するフェンに拉致されてしまい、物語の中心的な動きからは外れてしまいます(注3)。



 要するに、主演級の俳優が次々と登場するものの、皆バラバラに短い時間行動するだけで、映画としてのまとまりは酷く悪いものとなってしまっています。

 なにしろ、CDCで全体を統括しているはずの人物(ローレンス・フィッシュバーン)も、自分の恋人に極秘の情報を流したかどで行動が制約されてしまうのですから。

 ただ、この映画であちこちに出没する人物は、ジュード・ロウ。フリージャーナリストとして、国際機関や政府機関の活動を混乱させる方向で動きまわります。



 彼は、政府機関の発表するものを端から疑ってかかり、それで彼のブログの読者が増えたことから、レンギョウの効果を吹聴して大儲けしたりするのです(注4)。
 といっても、感染症騒ぎの周辺部分で蠢いているだけの人物で、上記の人間とはコンタクトしないのですから、本作において接着剤の役目を果たしているわけではありません。

 そうこうしている内に、この病原ウィルスに対するワクチンがあっけなく開発され(注5)、結局はめでたしめでたしになるのですが、そんなことくらいなら、こんな映画をわざわざ作るまでもないのでは、と思いました。

 このように、映画が邦画の『Flowers』の如くたわいのない絵巻物のような作品になってしまったのは、出演した著名俳優の出演料が高すぎて、それぞれ拘束時間が十分に取れなかったことにもよるものでしょう(注6)。
 だったら、そんな有名人を使わずともと思いますが、制作会社の方針などもあってこういう映画となってしまったのではないでしょうか?

(2)「感染(contagion)」ときたら、邦画の『感染列島』(瀬々敬久監督、2009年;本年1月12日の記事の(1)で取り上げています)を思い浮かべる方が多いのでは、と思われます(注7)。
 こちらでも、日本に限定されてはいるものの1,000万人以上の患者が出たとされ、関与する医師(佐藤浩市など)たちも次々と死んでいきますが、研究者(カンニング竹山)の努力の甲斐あってワクチンが開発され、やがて感染症は収まります。
 ただ、本作とは、主人公の医師(妻夫木聡)には別れた恋人の医師(檀れい)がいて、この感染症の蔓延を機に再会するも、その恋人も病に侵されて死んでしまうとか、南の島に恩師(藤竜也)と一緒に病原体を探しに行くといった物語がしっかり描かれている点などで、大きく異なっているように思います。
 今更、こうしたロマンティックな物語をまともに持ってくれば、リアリティが酷く損なわれてしまうかもしれません。でも、本作のように、単に感染症が蔓延し、2,600万人もの死者が出たものの、ワクチンの開発によって克服できた、ということだけでは、いくら有名俳優がたくさん登場しようが、退屈極まりない作品となってしまいます。
 映画作品を制作する以上は、そこに観客を引き込む工夫が求められるのではないでしょうか?

(3)福本次郎氏は、「他人に働きかければ少なくとも現状に何らかの変化が起こるはず、映画はエモーショナルを排して彼らの姿を描写することで、己の価値観に従って行動する覚悟を見る者に突きつけているのだ」として70点をつけています。
 渡まち子氏は、「マット・デイモンやマリオン・コティヤール、ケイト・ウィンスレットなど、国際的な豪華スターが競演するが、映画は華やかさとは無縁。むしろ、淡々と進む不気味な演出に、スターが出演していることを忘れてしまいそうになる」、「派手さはないが、ドライな演出にリアリティを込めた、ソダーバーグらしいパニック・スリラーだ」として60点をつけています。




(注1)香港出張から帰ってきた母親(グウィネス・パルトロウ)と接触した息子は、罹患して死んでしまいますが、旅行中だった娘の方は助かります。そこで、父親のマット・デイモンは、娘を感染から守るために、厳重に彼女を隔離しようとします。

(注2)グウィネス・パルトロウは、実際には、香港でレストランの料理人からウィルスをうつされ、それをアメリカに運ぶという重要な役割を果たします(そればかりか、帰途、シカゴで時間ができたときに、マット・デイモンの前に付き合っていた男と浮気をしたというプライベートなことまで暴露されてしまいます)。

(注3)フェンは、自分の故郷の村の者にワクチンが支給されるようマリオン・コティヤールを誘拐し、暫くした後、ワクチン100本と引き換えに彼女を解放しますが、実は、中国政府の要請で、彼には偽のワクチンが手渡されたのでした。
 そのことを知ったマリオン・コティヤールは、本国に引き返すことなく、拉致されていた村に駆け戻ろうとします。

(注4)ジュード・ロウは、レンギョウが効き目があるにもかかわらず、製薬会社に儲けさせるために政府は嘘の情報を流している、などとTVで語ったりします。そんなことをしたために、彼は逮捕されますが、彼を支持する者たちからの献金で保釈金がととのい、釈放されてしまいます。
 ですが彼も、マット・デイモンと同じように、この感染症に対する抗体を予め持っていたために、レンギョウが効いたように見えたとされています。

(注5)単に、病原体ウィルスを猿に注入してできる抗体の効き目を探る、ということの繰り返しのようです。
 それでも、CDCの研究員(ジェニファー・イーリー)が、自分の体に「ワクチン57」を注射して治験をした上で、大量生産が行われます。
 本作では、上映時間の関係もあって、感染症が見つかってから1ヶ月くらいでワクチンが作られていますが、実際にはそんなに短期間のうちに製造されることはないようです。

(注6)劇場用パンフレットに掲載されている「Director Interview」の中で、ソダバーグ監督は、「この映画では、みんな短期間しか働かなくていいおかげで、なんとかなった。みんな、7、8日間しか仕事をしていないんだ」と述べています。

(注7)『感染列島』についての評価は概して低そうですが、クマネズミには決してそうは思えませんでした(何より、たくさんの物語を必死になってつないでいこうとする努力を買います)。




★★☆☆☆




象のロケット:コンテイジョン
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家族の庭

2011年11月28日 | 洋画(11年)
 『家族の庭』を銀座テアトルシネマで見ました。

(1)予告編を劇場で見て、きっと良い映画に違いないと思って出かけたところ、期待に違わず優れた出来栄えの作品でした。

 このイギリス映画では、病院でカウンセラーを担当するジェリーと、その夫の応用地質学者・トムの夫婦を中心に、ジェリーの同僚のメアリー(病院事務)とか、息子のジョー(弁護士)、友人のケン(職業安定所勤務)、トムの兄ロニーなどが、入れ替わり立ち替わりその夫婦の家にやってきては、様々な話をしていく様子が映し出されます。

 全体が春夏秋冬の4つの部分に分かれてはいるものの、1年を通して特段変わったことが起こるわけではありません。せいぜいのところ、メアリーは赤い車を買い、ロニーの奥さんが亡くなってしまったり、そしてジョーは30歳になってようやく彼女・ケイティをみつけたり、といったところ。



 そうした彼らを受け止めるトムとジェリーの夫婦は、暇な時間ができると、四季を通して市民菜園での農作業に明け暮れています。



 それでも、独身のメアリーとかケイが抱える寂しさとか不安は底が深く、そのためアルコールに頼ることになってしまいます。また、ロニーもその長男とはコミュニケーションがうまくいきません(注1)。
 それでも、なんとかAnother Year(原題)も同じようにやり過ごすことになるでしょう。

 若いジョーが30歳、兄のローニーが70歳と設定されているほかは、特に何歳と明示されていませんが、全体の感じから、男性の方は60歳代の初めの方で、もうそろそろ定年を迎えるといった年格好であり、女性の方は50歳台といったところでしょうか、そしてよく知られた俳優が登場するわけでもないものの、なんともいえない深みをたたえた優れた作品です。

(2)ジェリー&トムの夫婦が、一人は病院のカウンセラーで(注2)、一人が応用地質学者ということでもあるのでしょうか(注3)、彼らには、皆が自分の悩みを打ち明けてしまうようです。
 ですから、クレジットでは彼らは主役の扱いとされていながらも、実際には狂言回しの役どころで、映画の中心人物は独身のメアリーといえるでしょう。
 彼女は、客観的に見ればもはや若くはないものの、気だけは若い時分のままで、そのギャップに悩み続けているようです(注4)。
 同じく独身のケンが、一人者の寂しさを訴えて(注5)、メアリーに気があるところを示しますが、メアリーの方はケンを嫌がり、むしろ若いジョーの方にすり寄り、しかしながらジョーに恋人ができると、酷く落ち込むことになってしまいます(注6)。
 それでも、ラストの方で、留守番をしているロニー(奥さんを亡くした後、サムの家に暫く滞在しています)に対して、初めて出会ったにもかかわらずメアリーは、「私は独りだから、何か家の片づけに行きましょうか」、「話し相手がいるって、素敵ね」、「どこかへ引っ越すの、やり直すの」などと話しかけています(注7)。
 さあメアリーは、その後どうなることやら……。

(3)福本次郎氏は、「きっといい人なのだろう、ただ少し己を客観視できず感情を抑制できないおばさんをレスリー・マンヴィルが好演。まだまだチャーミングだと思い込んで頑張っているけれど、どこかズレている女心のイタさと哀しさを見事に表現していた」などとして70点を付けています。
 また、映画評論家の土屋好生氏は、「鋭い人間観察眼と卓越した作劇術。ユーモアと機知に富むせりふと舞台育ちの名優たちの競演。特筆すべきは俳優が役になりきり、自分の言葉としてせりふを自在に操っていること。俳優の即興芝居から逆に脚本を仕上げていく独創的な映画作法が功を奏している。/誰しも結局は独りで死んでいくにしても、限りある人生をどう生きるか。そこに「老いと孤独」という永遠の命題を避けては通れない68歳のリー監督の偽らざる今の心境がだぶって見える」と述べています。



(注1)長男のカーリーは、ずっと両親と離れて暮らし続けているにもかかわらず、母親の葬儀の日には遅れて到着して、自分が来ないうちに葬式を済ませてしまったと言って、酷く親族を責めたりするのです。

(注2)同僚の医師から回されてきた不眠症の女性患者には、「家族のことは話したくない」、「不眠症を薬で治してもらうだけでいい」、「カウンセラーのところなどこなければよかった」などと言われてしまいますが。

(注3)サムは応用地質学者で、何か工事があると、その地面をボーリングで掘り下げて地盤の強度を調べたりしています。そんなところから、彼の家に来る人間も、その心の中を彼によって掘り下げて探られてしまうのかもしれません。

(注4)メアリーは、20歳で結婚したのが間違いで、結局捨てられた、と話しています。
 今や気だけは強く、ジェリーに対して、「今、幸せよ。あなたの方に問題があれば、私が聞いてあげる」などと言い放ちます。
 ですが、それも初めの方で、暫くすると、「時々彼のことを思い出すの。でも奥さんがいたの。それでも、私を愛してくれたの」などと寂しい現在の様子を打ち明けるようになって、ジェリーに「相手を選ばなくてはだめよ」などと忠告されてしまいます。

(注5)ケンは、「歳を取ってパブに行けなくなった。若者ばかりだから。昔は仲間とよく飲んだ。今や誰と休暇を過ごせばいいんだ」と嘆きます。これに対して、サムが、「お前だって、昔はよく飲んでパブから追い出された。喧しいのは、若者の特権だ」と言うと、ケンは、「わかっている」と答えます。

(注6)ジョーは、3か月前のバーで知り合ったというケイティ(作業療法士で、脳卒中のリハビリに従事)という女性を連れて両親の家にやってきて、メアリーと鉢合わせします。メアリーは、ケイティが若く2人の仲がいいのを見せられて、酷くショックを受けてしまいます。ケイティたちが帰った後に、ジェリーに向かって、「ケイティはジョーにお似合いというわけでもなさそう。余り急ぐこともないのじゃない」などと言ったりします。

(注7)メアリーが「私ビートルズが好きなの」と言うと、ロニーは「わしはエルビスだ」と答えたのには驚きました。まさか、70鷺の老人の口から「エルビス」が出てくるとは思わなかったので。でも、ロニーの青春時代は1950年代後半以降でしょうから、まさにエルビスと重なっているのは何の不思議もありません!




★★★★☆



象のロケット:家族の庭
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マネーボール

2011年11月26日 | 洋画(11年)
 『マネーボール』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)『ツリー・オブ・ライフ』では、出演している意味合いを余り感じなかったブラッド・ピットですが、今度の主演作はどうかなっと思って映画館に出かけてみました。
 見る前は若干の不安はあったものの、本作におけるブラピは、その魅力を十分に発揮しているものと思いました。

 前年の地区優勝決定戦では、いいところまで行きながらも敗退してしまった大リーグのアスレチックス(アメリカンリーグの西地区)は、来年に向けて選手補強しようとしたところ、有力選手が何人も、上位チームから高額で引き抜かれてしまい、このままでは大変な戦力ダウンとなってしまいます(貧乏球団のため、引き抜きに対抗できませんし、また力のある選手を補強出来るわけでもありません)。
 そこで、同球団のGMのビリーブラピ)は、イェール大学で経済学を修めたというピータージョナ・ヒル)を補佐として雇い入れ(注1)、その野球理論(マネーボール理論、あるいはセイバーメトリクス)に従って、選手の補強をしていきます(要するに、有力選手の抜けた穴を、何人かの選手―特定の指標から見れば優秀にもかかわらず、誰もその点を評価しないので、トレードの費用が安い―で埋めるというものです)。



 シーズン当初は、GMらの方針がチーム内に浸透せずに負け続けるものの、ビリーの強気の姿勢が功を奏し、そのうちに連戦連勝し出し、あわや優勝というところまで行きつきます(注2)。
 とはいえ、映画では、地区優勝決定戦で負けてしまうと、野球はそうした理論で割り切れるものではないとするマスコミ報道(注3)をなぞっているかの如くに描かれます。

 ただその反面で、人間的な要素がすごく大事なことをも、映画はキチンと描いているのです。
 例えば、ビリーは、出場する選手に向かって、「自覚はないだろうが、君らは優勝する!」と鼓舞したり、さらには一人一人に声をかけ、自分の考え方が浸透するように努めています。

 また、自分が試合を見に行くとチームが負けてしまうというジンクスを大事にしていて、20連勝達成の試合でも、11点差があることがわかってはじめて野球場に足を運びます。ですが、その途端に、相手チームが点を取り出すのを見てとると、急ぎ選手控室に退散してしまいます(そのお陰かどうか、同点とされたにもかかわらず、その裏にホームランが飛び出し、アスレチックスは歴史に残る20連勝を達成してしまうのです)。

 さらには、ビリーは、元は大リーガーとして将来を嘱望されながらも芽が出ずに、入団後10年ほどしてスカウトに転身したという過去があると設定されています。
 ですから、チームの補強策を議論する会議において、スカウト連中が、口々に昔からの見方(ビリー自身が言われたこと)に従って補強すべき選手を言い出すと、そんなものは駄目だと一蹴して、ピーターの理論に基づく補強策を貫こうとします(注4)。

 もう一つ大事なファクターがあります。ビリーは、離婚していて娘のケイシーケリス・ドーシー)ともたまにしか会うことができません。



 でも、ビリーは娘に首ったけで、欲しがっていたギターを買ってあげたりします。ケイシーも嬉しさの余り、父親が求めるままに、買った楽器店でギターを弾きながら歌まで披露してしまいます。さらに、ケイシーが歌う歌が入っているCDが、ビリーの運転する車の中に流れますが、本作の一番の感動シーンです。



 ただ、劇場用パンフレットは、野球の方面に傾斜し過ぎていて、元の妻シャロンと新しい旦那のがいる家にビリーが行って彼らと話す場面があるにもかかわらず、シャロンを演じる俳優(ロビン・ライト)の写真は一枚も掲載されていないのです。

 そんなことはともかく、野球の話とそれ以外の話とがうまくマッチングして、全体としてなかなか優れている作品に仕上がっているな、と思いました。

 ブラッド・ピットは、本作のプロデュサーの一人でもあり、4年も関与していただけのことはあって、随分と説得力のある演技を披露しています。
 それと映画を見て初めて気が付いたのですが、あのフィリップ・シーモア・ホフマンが、アスレチックスの頑固な監督役を演じていたのには驚きました(注5)。

(2)この映画では、ビリーの斬新な球団管理手法(マネーボール理論)に目が行ってしまいます。
 ただ、それは、このサイトの解説によれば、統計的な手法に基づく野球理論(セイバーメトリクス)とは違うとされます(注6)。
 すなわち、ビリーが球団管理を行う上で一番重視するのはコストパフォーマンスであって、その観点からセイバーメトリクスを用いているに過ぎない、とされています(注7)。
 おそらく、ジェイソン・ジオンビの抜けた穴を埋める際に、ピーターは出塁率の高い選手を選びだしますが、彼らの年俸が酷く安かったからこそ、ビリーはOKを出したのだと思われるところです。

 いずれにせよ、ビリーは、ヤンキースの3分の1程度の予算ながらも、自分の考えに従って集めた選手を監督に委ねることによって地区優勝を遂げてしまうのですから、目を見張ってしまいます。
 ただ、優勝決定戦という短期決戦ではそのやり方が通用しないのは、当然と言えば当然なのでしょう!なにしろ、地区優勝までの試合数は162であるのに対して、決定戦ではわずか5試合なのですから、前者では統計数値に近いものが達成されるにせよ、後者では別のファクターの影響の方が大きく出てしまうと思われますから。

(3)渡まち子氏は、「特に善人でもなく、かといって強烈な悪人でもない、むろんルックスの良さなど売り物にもしない、普通の中年男を演じるブラッド・ピットが新鮮で好感が持てる。離れて暮らす娘とのエピソードは、残念ながら物語に効果的に溶け込んでいるとは言い難い。それでも主人公が見せる、優しい父親の笑顔は、野球と家庭を愛する良きアメリカ人そのもの。そのことが、作品に温かさを加えている」として65点をつけています。
 福本次郎氏は、「「夢」が動機の成功譚は胸を打つが「カネ」が動機では共感は呼ばない。それをわかったうえであえて感動的なシーンを省いた演出が非常にクールで、端正な映像とマッチしていた。現代のプロ野球界がいかにマネタリズムに蝕まれているかがよくわかる作品だった」として60点をつけています。
 なお、前田有一氏は、「この作品は、誰もがもうだめだと思っていた弱小チームが、変化を恐れず新理論にすべてを委ねたおかげで旧勢力に勝ち上がる下剋上のお話。つまり今こそ変わるのだという、一種の革命ムービーである。そういえばどこかの国は今、変わろう変わろうとリベラリストに訴えて当選したリーダーが窮地に陥っている。そんな時代、国でいま、この企画が実現した理由をこそ、考えてみるべきなのかもしれない」として70点を付けていますが、相変わらず、映画を直接的に現実の政治状況と結びつけて見方を狭めてしまっているように思われます。




(注1)ピーターは、「野球で何を把握すべきか理解していない人が多い」、「金で選手を買おうとしているだけだが、しかし勝利こそを買うべきだ」などとビリーに向かって言います。

(注2)ビリーは、「俺は、この世界にずっと長くいる。目的は、記録ではないし、優勝指輪でもない。最後に勝たなければ何の意味もないのだ。我々が、この予算で勝てば世界が変わる。そこにこそ意味があるのだ」などとピーターに話します。

(注3)「アスレチックスは健全なチームではない」、「統計という奇策ではだめなのだ」など。

(注4)ビリーは、「おしゃべりばっかりだ。何が問題なのか分かっていない」とか、「ここでヤンキースの真似をしても勝てない」などと言います。

(注5)彼の出演作としては、『ダウト』、『パイレーツ・ロック』それに『脳内ニューヨーク』などを見ています。

(注6)セイバーメトリクスに関するこの論考も、興味深いものです。

(注7)同じことは、このサイトでも言われています(「『マネー・ボール』は普遍的な野球理論そのものではなく、少ないリソースでいかに効率よくチームの勝ち星を積み重ねたり、選手を採用したりするかという、経営戦略及び最適化の一つのアプローチを描いたドキュメントだ」)。




★★★☆☆





象のロケット:マネーボール
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