映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

殿、利息でござる!

2016年05月31日 | 邦画(16年)
 『殿、利息でござる!』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)予告編を見ておもしろそうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、「これは本当にあった話」と字幕が出て、先代の浅野屋甚内山崎努)が、貨幣を壺の中に投げ入れてニタっと笑い、次いで、2階の戸を開けて外を眺めます。
 すると、下の道に、家財道具を大八車に積んで夜逃げを図る忠兵衛芦川誠)の一家の姿が。それを見た甚内が、「どこへ行く?家財道具一式ではないか。あんたには銭を貸していたな?」と言って姿を消す一方で、忠兵衛は「お許しを」と答え、立ち止まります(注2)。

 次いで、「それから10年 明和3年(1766年)」の字幕が出て、街道を進む男女のシーン。
 男は茶師の篤平治瑛太)。嫁にもらったばかりのなつ山本舞香)が、馬に乗りながら「そんなに貧しい村なのですか?」と尋ねると、篤平治は、「いやいや。決して苦労はかけません。茶を作ればいいだけです」「私は、ここでは町で一番の知恵者と言われています」などと答えます。そこへ肝煎幾右衛門寺脇康文)がやってきて、「馬をくれ」と言って、なつを馬から降ろしてその馬を連れていってしまいます。

 タイトルが映し出され、濱田岳によるナレーションにより、舞台となる仙台藩の吉岡宿について説明されます(注3)。
 次いで、伝馬屋敷で伝馬役のための作業をする人々の姿。
 そして、それを見ている造り酒屋の穀田屋十三郎阿部サダヲ)。
 そこへ先の篤平治がやってきて、「まったく酷いものですな。着いた早々、馬を取られました。相変わらずですな、この町は」と言うと、十三郎は「そのとおり、何も変わらぬ」と答えますが、十三郎が書状を手にしているのを見咎めて、篤平治が「そんなこと(直訴)をすれば、首を刎ねられておしまいですよ」と止めるのに対し、十三郎が「もう決めたこと」と言ってもみ合っていると、代官の八島斎藤歩)が「それは何だ!」と怒鳴りつけます。



 篤平治は、懐から別の書状を取り出し、「九条関白家様より、茶銘を賜りました」と言ってその場をなんとか切り抜けます。

 こんな風に物語は始まりますが、さあこれからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、磯田道史氏の『無私の日本人』の中の一編を映画化したもので、実話に基づくとされていますが、ややコミカルに作られていて、どこまでが史実に従っているのかはよくわかりません。でも、仙台藩の宿場町の町人らがお上に1,000両貸しつけて利息を得て苦役の負担を軽減するという話を、阿部サダヲ以下の芸達者たちが演じていて、当時の事情がよくわからない面はあるとはいえ、まずまず面白い作品に仕上がっています。

(2)本作は、映画『武士の家計簿』の元となる著書を書いた磯田道史氏の書いた短編を原作としています。前の著作は、新潮新書の純然たる歴史書ですが、後者は江戸時代に書かれた記録(注4)に依拠しながらも、登場する人物による会話が様々に組み込まれた小説仕立てになっています。
 本作の脚本は、その短編小説に基づきながら作られているわけで、映画の冒頭に「本当にあった話」とされてはいるものの、どこまでが史実なのかなどよくわからない点があるような気がします。
 確かに例えば、江戸時代の記録には、「下町平八」(尾上寛之)が登場し、早坂屋新四郎橋本一郎)を説得する映画と同様の場面が描かれていたりします(注5)。
 でも例えば、竹内結子の扮する酒場の女将・ときですが、原作の短編小説には登場しません。それに、ときが営む「しま屋」のような現代の大衆酒場まがいの椅子とテーブルのある酒場が江戸時代に実際にあったとも思えないところです(注6)。



 なによりもよくわからないのは、十三郎らが集めたお金が5,000貫文(1,000両)で、現代のお金に換算するとおよそ3億円にも上るという点です。
 年々衰退しているという吉岡宿のどこにそんな大金があったのでしょう?
 百姓は、厳しい年貢の取り立てで疲弊してもいたのではないでしょうか(注7)?

 よくはわかりませんが、本作で描かれる計画に加わった9人のうち、少なくとも6人が商人(注8)という点が鍵になるような感じがします。
 というのも、江戸時代の商人は、相応の税金を徴収されていないようにも考えられるからですが(注9)。
 仮にそうだとしたら、吉岡宿の商人らは、お金を相当に貯めこんで隠し持っていたことになり、本作の計画に対しても拠出できたのかもしれず、現代の観点からしたら、ある意味で、彼らはすべきことをしたまでとも考えられるかもしれません(注10)。

 そして、財政逼迫状態の仙台藩の方としては、手間のかかる七面倒臭い所得・財産調査などせずとも、町方が進んで金を持ってくるのですから、まさに渡りに船というところであり(注11)、また商人らとしても、どの程度吉岡宿の中で取引していたのかわかりませんが、吉岡宿の維持・繁栄(注12)は自分たちの商売等にプラスだと踏んだのではないでしょうか(注13)。

 ただそうであっても、当代の浅野屋甚内妻夫木聡)は、一人で2,000貫文(約1億2,000万円)もの大金を出したのであり(注14)、これはおいそれとは出来ないことでしょう。



 無論、こんなどうでもいいことをぐちゃぐちゃ考えずに、江戸時代の勇気ある人々の功績を素直に受け止めて、映画を味わえば良いのでしょう。
 でも、クマネズミは、どうしても物語の設定の方に関心が行ってしまい、正直あまり乗り切れなかったところです。

(3)渡まち子氏は、「日本人がすべてこのように無欲だとは思わないが、こんなにも純粋で、かつ知恵が働く庶民がいたのかと思うと、なかなかやるじゃないか!とこっちが誇らしくなった」として70点をつけています。
 森直人氏は、「主張はシンプルだ。目先の私利私欲を超え、いかに射程の長い未来像を描けるか。群像劇のさばき方は細やかだが、全体のタッチは毛筆で書いた太文字のような力強さにあふれている」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『残穢―住んではいけない部屋―』の中村義洋
 脚本は、さらに『残穢―住んではいけない部屋―』の鈴木謙一
 原作は、磯田道史著『無私の日本人』(文春文庫)所収の短編「穀田屋十三郎」。

 なお、出演者の内、最近では、阿部サダヲは『寄生獣 完結編』(声の出演)、瑛太は『64 ロクヨン 前編』、妻夫木聡は『家族はつらいよ』、竹内結子は『残穢―住んではいけない部屋―』、松田龍平は『モヒカン故郷に帰る』、草笛光子は『0.5ミリ』、山崎努は『俳優 亀岡拓次』、寺脇康文は『超高速!参勤交代』、きたろうは『樹海のふたり』、千葉雄大は『モヒカン故郷に帰る』、橋本一郎は『森のカフェ』、西村雅彦は『家族はつらいよ』、山本舞香は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。

(注2)映画の後半で、この時の先代の甚内は、2階から降りてきて忠兵衛に銭をくれた上で、「借金もかまわない。悪いのは世の中の仕組みのせいで、あんたのせいじゃない」などと諭したのだ、と吉岡宿に戻ってきた忠兵衛が仲間に話します。

(注3)あらまし、次のような内容です。
 吉岡宿は、上町、中町、下町からできている小さな宿場町で、住民の殆どは百姓。と言っても、半分は商売で生計を立てていた。でも、近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて、ここのところ景気は酷く悪化。
 さらに、伝馬役を負担するために、馬を買ったり人足を雇ったりしなくてはならず、そのために、破産したり夜逃げする者が出てきて、吉岡宿の家の数は年々減少していた。

(注4)同短編が依拠しているのは龍泉院榮洲瑞芝・和尚(本作では上田耕一が扮しています)の記した『吉岡國恩記』であり、それはこのサイトで読むことが出来ます〔同書は、大正15年に「仙台叢書」の中に取り込まれて活字出版され、それをこのサイトで読むことが出来るのです〕。

(注5)磯田氏の著書に「平八が早坂屋を説得したときの一部始終は、のちに『國恩記』に精確に記録された」とあるので(文庫版P.89~P.90)、上記「注4」で触れたサイトにあたってみると、「460 下段 國恩記巻之二」(11/39)以下に記されています。

(注6)例えば、このサイトの記事や、このサイトの回答を参照してください。

(注7)年貢を収めているはずの農民については、本作ではほとんど描かれていないように思います。
 ただ、原作の短編小説では、「吉岡宿は貧しい宿場であり、1貫文以上の田畑をもつような者は、わずかに8、9人にすぎないこと。それで、月に6度開く市で小商いをしてようやく糊口をしのいでいるが、その商いも細っている」と述べられていることからすると(文庫版P.107)、半農半商の貧しい者が吉岡宿で家を構えていたようにも思われます。彼らは、田畑については年貢を納めるものの、そして伝馬役の負担はあるものの、小商いの部分について税金は取られていないのではないでしょうか。

(注8)彼らは、造り酒屋が2人(浅野屋は質屋も営んでいます)、そして味噌屋、雑穀屋、両替屋、小間物屋とされています(吉岡宿は宿場町にもかかわらず、不思議なことに「宿屋」が入っていないのです!)。そして、茶師の篤平治を加えれば7人。
 なお、残る大肝煎の千坂仲内千葉雄大)と肝煎の幾右衛門は豪農なのかもしれません(彼らは、検地逃れとか新田開発といったことで蓄財していたように思われます)。

(注9)少なくとも、商人は年貢(米)を収めることはしていないでしょう。
 Wikipediaによれば、運上とか冥加が課されていたようですが、それがどのくらいの負担なのかはどうもよくわかりません。とにかく、儲けの一定割合(現代の所得税・法人税のように)といった課税の仕方はされていなかったように思われます(なお、このサイトの「回答」があるいは参考になるかもしれません)。

(注10)現代の視点からすれば、吉岡宿の繁栄という公共目的を達成するのに、その住民が所得に応じて一定の負担をするのは、ある意味でアタリマエのことのようにも思えるところです。とはいえ、当時は、そうした所得(商人の場合は儲け)に対する税金という考え方は取られていなかったので、そんなことを言ってみても意味はありませんが。

(注11)藩の出入司の萱場松田龍平)は悪乗りし、銭ではなく金で収めるべしと言って、金と銭との交換差額(800貫文←約4,800万円)までせしめようとします。

(注12)上記「注3」にあるように、吉岡宿が「近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて」いるのであれば、宿場の規模が縮小するのは長期的には止めがたいことでしょう。
 ただ、十三郎らが伝馬役の負担さえなんとかなれば町の衰退を食い止められると考えたのは、短期的には意味があることと思われます。
 なお、その伝馬役の負担ですが、原作の短編小説によれば、「1軒前の家に銭6貫文、半軒前の家に銭4貫文」(1貫文は約6万円)とされています(文庫版P.107)。
〔ここからすると、伝馬役というのは現代の固定資産税のような感じに思えます〕
 単純平均30万円で、吉岡宿は200軒ほどの家があるとされていますから、少なくとも6,000万円ほどかかるものと推測されます。
 他方で、本作の計画によって毎年藩の方から支給される利息は100両(約3,000万円)。
 これからすると、必要額の半分程度が賄われている感じになります。この金額によって吉岡宿で暮らす人々の暮らし向きが良くなるのかどうかはよくわかりません(おそらく、クマネズミの計算に誤りがあるのでしょう)。

 あるいは、原作の短編小説においては、篤平治は、「いくら、あれば、この宿を救えるのじゃ」との十三郎の質問に対し、「千四五百両」と答えているのです(文庫版P.24)。ところが、直ぐ後に篤平治は、なぜか「お上に千両ほど貸せば、お上から年に百両ちかく利足がとれるはず」云々と述べて(文庫版P.26)、以降は「千両」しか出てきません。
 あるいは、当初の「千四五百両」(約4,500万円)の方が実情にあっていたのかもしれません。

(注13)平均で一人500貫文(約3,000万円)ほどの資本投下に対する見返りは、短期的には微々たるものであっても、長期的に見れば宿場内での取引が盛んになって、それなりのものが期待できると考えられるのではないでしょうか。

(注14)原作の短編小説によれば、穀田屋十三郎以下が550貫文〔ただし、早坂屋新四郎は300貫文、穀田屋善八中本賢)は200貫文〕を拠出し、これに浅野屋甚内の2000貫文を合わせ、都合5,800貫文(金1,000両)を集めたとされています(文庫版P.166)。
 他方で、映画で描かれる女将ときの50貫文とか、穀田屋十三郎の息子の音右衛門重岡大毅)の250貫文とかはフィクションでしょう。



★★★☆☆☆



象のロケット:殿、利息でござる!

海よりもまだ深く

2016年05月27日 | 邦画(16年)
 『海よりもまだ深く』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)『海街diary』の是枝裕和監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の初めの方では、団地で一人暮らしをする母親・淑子樹木希林)の元にやってきた長女・千奈津小林聡美)が、母親に「友だちを作りなって」と言うと、淑子は「そんなものを作っても、葬式に出る人数が増えるだけ」と応じます。



 また、千奈津が近所で引っ越した人に触れると、淑子は「長男が家を買ったんだって。大器晩成よ」と応えますが、千奈津は「うちにも大器がいる」と皮肉ります。

 その皮肉られた長男の良多阿部寛)は、別の日に、西武鉄道の清瀬駅で電車を降りて、駅中のソバ屋に入った後、北口に出てバスに乗ります。
 「団地センター」で降りて手土産を買った後、淑子の家に向かいますが、途中で、昔のクラスメートの女性(注2)に会い、「篠田君、めずらしいわね」と言われ、良多は「親父の葬式の後片付け」と応え、逆に相手の近況を尋ねると、彼女は「ここで孤独死があったでしょ。うちも心配になって」と応えます。さらに彼女が、「立派になって。頑張ってね」と言うと、良多は「そんなことないよ。親父は1冊も読んだことがなかったし」と答えます(注3)。

 良多は、呼び鈴を押しても誰も出てこないので、郵便ポストから鍵を見つけ出して、それでドアを開けて、「留守かな、入るよ」と言って中に入っていきます。中に入った良多は、仏壇に飾られていた饅頭を口にし、さらに引き出しの中にあった金をポケットにしまい込みます。

 そこへ淑子が戻ってきて良多を見つけると、「来るなら来るって言ってよ」と詰ります。
 良多は、「親父の形見がほしいなと思って。掛け軸があったろう、300万くらいするって」と言います。淑子は「お父さんのものなんか、葬式の次の日に全部捨てた」と答え、さらに「お金に困ってるの?」と尋ねると、良多は「そんなことないよ、ボーナスもらったから」と見栄を張ります。



 映画では、こんな良多と、母親・淑子、姉の千奈津、別れた妻・響子真木よう子)、息子・真吾吉澤太陽)との関係が綴られていきますが、さあどんな展開が見られるでしょうか、………?

 本作は、出演者などの面で是枝監督の『歩いても 歩いても』(2008年)の続編のような感じもしますが、シチュエーションなどの面でかなり異なってもいます。いずれにしても、小説が書けないダメな小説家の中年男と、別れた妻や息子との関係、それに団地住まいの母親との関係が、事件らしい事件が起きない中で至極濃密に描かれていて、見ている方は否応なく自分自身の身の近辺を見回してみたくなってしまいます。

(2)本作は、8年ほど前の『歩いても 歩いても』と類似する点がいくつかあります。
 例えば、主人公の名前が2作とも「良多」で、同じ阿部寛が演じています。
 また、その母親の名前も「とし子」と「淑子」であり、両作とも樹木希林が扮しています。
 さらに言えば、本作の良多は、ダメな小説家ですが、前作の良多は失業中であり、ダメさ加減は五十歩百歩といったところです。

 でも、前作では良多の父親(原田芳雄)は存命でしたし、また良多は後妻(夏川結衣)をもらったばかりという設定でした。
 これに対し本作では、父親が死んで葬式を出した後という設定ですし、良多は妻の響子と別れたばかりということになっています。

 そして、この良多と響子の関係という点が本作では興味を惹かれます。
 というのも、良多の浮気といった決定的なことで二人は別れたわけではなく、どうやら良多の賭け事好きから離婚するに至ったように思われるからですが。
 でも、良多の方は響子にまだまだ気があり、養育費を満足に支払えないくせに息子の真吾と会って、見栄を張って高い運動靴を買わせたりします。



 また、台風の夜に響子と淑子の家の部屋で二人きりになると、彼女に迫ったりもします(注4)。
 それに、良多の生活力のなさは生まれつきのようでもあり(注5)、結婚した時も響子はよく承知していたのではないでしょうか?二人の間に子どもが出来てから既に10年を超えてもいるのであり(真吾は11歳とされています)、今更別れるというのは、どうもよくわからない気もします。
 さらに言えば、野球の試合で見逃しの三振をした真吾が、「フォアボールで塁に出たかった」と言い訳をするのに対して、「バットを振っていかなくてはダメじゃないの」と言う響子は、賭け事好きの良多と同じ気質をもしかしたら持っているのかもしれません(注6)。
 そんなことがわかっている母親の淑子は、なんとか元の鞘に戻らないかとヤキモキしている様子でもあります(注7)。

 駅で、良多が「それじゃあ来月またここで」と言うと、響子は「それまでに3ヶ月分の15万を」と答えて真吾を連れて歩き去っていくのですが、そのシーンを見ると、同じようなはっきりしない状態がまだしばらく続いてしまうようにも思えます(注8)。

 本作については、「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」といったことがテーマになっているとされていますが(注9)、そんなアタリマエと思えることよりも、クマネズミには、むしろ良多と響子とのグズグズした関係の方が面白いと思いました。

 なお、本作では種々「名言」めいた台詞が飛び出します。
 例えば、淑子は良多に、「幸せというものは、何かを諦めなきゃあダメなのよ」と言ったりします(注10)。確かにその通りなのかもしれませんが、クマネズミは、映画からは、そこであからさまに示される人生訓話めいたものを学び取ろうとは思っておりません。むしろ、そういうものが背後にそこはかとなく漂っている映画が好ましく思えます。

(3)渡まち子氏は、「元家族が、台風のため集まって一夜をすごすストーリーは、なんだか大人版の「台風クラブ」という気がするが、そこは年齢を重ねた大人たちならではの、苦くて甘酸っぱい心情がじんわりと描かれる」として75点をつけています。
 稲垣都々世氏は、「練り込まれた決め台詞は出来すぎの感もあるが、さらっとした諦観を漂わせながら人生をどう生きるかに言及する。そして、良多がやはりダメ男だった生前の父の気持ちを知ったときに見せる変化を巧みに捉えたシーンに、監督の人間としての優しさを見ることができる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『海街diary』、『そして父になる』や『奇跡』などの是枝裕和
本作のタイトルは、テレサ・テンが歌う『別れの予感』の歌詞から(なお、核の「注10」を参照してください)。

 なお、出演者の内、最近では、阿部寛は『エヴェレスト 神々の山嶺』、樹木希林は『海街diary』、真木よう子は『蜜のあわれ』、小林聡美は『あやしい彼女』、リリー・フランキーは『シェル・コレクター』、池松壮亮は『無伴奏』、団地に住む主婦を集めてクラシック鑑賞会を開いている医師役の橋爪功は『家族はつらいよ』で、それぞれ見ました。

(注2)このクラスメートの女性は、映画の中では「なつみちゃん」と言われていましたが、彼女に関するデータはネットで調べても一向にわかりません。いったい「なつみ」にはどんな漢字が当てられるのでしょう、そして誰が演じているのでしょう?

(注3)最後の方で、質屋の主人(ミッキー・カーチス)から、生前の父親が良多の小説本の初版をあちこちに配っていたことを明かされます。

(注4)他にも、良多が務める興信所(所長がリリー・フランキー)で後輩の町田池松壮亮)と一緒に、響子の行動を見張ったりします。

(注5)とはいえ、車の中で町田に、「大人になった時になりたかったものは?」と訊かれて、良多は「地方公務員」と答えるのですが(この答えは、台風の夜、滑り台の下で良多が真吾に同じような質問をした時に、真吾が答えたものと同じです!)。

(注6)響子の言葉は、彼女の今の愛人の福住小澤征悦)が言っている言葉を踏まえてのことなのかもしれませんが。

(注7)淑子は、響子と二人になった時に、「もうだめなのかな、あんたたち」と言います(これに対して、響子は「良多さんは家庭に向かない人」と答えます)。

(注8)響子は良多に、「もう真吾に会わなくてもいいんじゃないの?月1で父親といわれてもね。なにしろ、別れたんだから」などときついことを言いますが、台風の夜という事情があるにせよ、良多と一緒に淑子の家に泊まってしまうくらいなのです。そして、良多から「付き合っている男と再婚するのか?」と訊かれても、響子は「まだ決めてない」と答えるのです。

(注9)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事の中で、是枝監督は、「脚本の冒頭に「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」と書きましたが、今回はそういうモチーフをめぐる話だと思っていました。だから良多を小説家になりたいと思いながら探偵事務所で働く人物にしたんです。…良多をはじめ登場人物はみんな、なりたかったものになれない人生を送っています」と述べています。

(注10)さらに淑子は良多に、「なんで今のものを愛せないのかな。なくしたものをいつまでも追いかけたりして」とか、「私は海よりも深く愛したことなどない。普通の人はそんなものはない」、「人生なんて単純よ」などと言います。まさに人生訓話のオンパレードとも言えます。



★★★☆☆☆



象のロケット:海よりもまだ深く

山河ノスタルジア

2016年05月25日 | 洋画(16年)
 『山河ノスタルジア』を渋谷ル・シネマで見ました。

(1)予告編で見て良さそうに思って、映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭は第1のパートで、舞台は1999年の汾陽(山西省)。
 スタジオで音楽(注2)に合わせて大勢の若者がダンスの練習をエネルギッシュにしています。
 そして、都市の夜景が映しだされ、花火が何本も打ち上げられます。

 画面は昼間となって、主人公のタオチャオ・タオ)がスクーターに乗りながら、顔見知りに「新年おめでとう」と挨拶しています(旧正月なので)。

 次いで、タオが鏡を見ながら、「自分の顔は頬骨が大きい」などと呟くと、そばにいた幼馴染のリャンズーリャン・ジンドン)が「俺の顔も研究してくれよ」と言ったりします。
 そこへ、もう一人の幼馴染のジンシェンチャン・イー)が顔を出します。
 リャンジーが「ガソリンスタンドの景気は?」と尋ねると、ジンシェンは「まあまあ」と応え、「もう行かなきゃ」と言うので、3人が連れ立って外に出ると、そこには赤い新車(注3)が置かれています。タオが「見せびらかして。でも格好いい」と言うと、ジンシェンは「新世紀も近いから」と応じます。

 画面には、リャンズーとタオが乗ったスクーターが通りを走っているところや、タオが踊ったり歌ったりする姿をリャンズーが見ているところが映し出されます。

 次いで、汾陽文峰塔(注4)が背後に見えるところで、ジンシェンの赤い車が走っています。



 タオがジンシェンの指導でその車を運転しますが、「黄河」と刻まれた石碑にぶつけてしまい、バンパーが取れてしまいます。
 リャンズーが「車は動くのか?」と言うと、ジンシェンは「大丈夫だ。ドイツの技術を信頼しろ」と強がりを言います。

 離れたところで、ジンシェンはタオに「次は2人で来よう。その方がいいだろう?」と言うと、タオは「心が狭いのね」と応えます。
 黄河の氷の上では、リャンズーが花火を上げます。



 こんな風に3人の関係が描かれていきますが、さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、26年間に及ぶ主人公の女性の生き様を3つのパート(1999年、2014年、そして2025年)に分けて描き出しています。といっても、主人公はずっと地方(山西省)で生活しており、それほど劇的な事件が起こるわけではありません。3番目のパートではほとんど登場しないほどです。でも、3つのパートを通じて描かれるのは、主人公と彼女を取り巻く人々との別れや再会であり、何よりも主人公の息子に対する思いといえるでしょう。それらが、黄河中流域の風景とか、オーストラリアの美しい海岸線の光景などをバックにじっくりと描き出され、見る者を感動させます。

(2)本作は、ジャ・ジャンクー監督の前作『罪の手ざわり』と比較すると、似ている点と異なる点を持っているように思われます。

 異なっている点から挙げると、前作は、4話とも自然死ではない人の死(殺人と自殺)が描かれているのに対し、本作では人との別れは描かれているものの、人の死はタオの父親の自然死が描かれるに過ぎません。

 似ている点については、例えば、2つの作品とも、チャオ・タオが重要な役柄で登場しますし、中国の地方がメインの舞台になっています(注5)。
 また、前作の第2話では花火が象徴的に映し出されますが、本作でも最初のパートでは花火が何度も打ち上げられます。
 さらには、前作が4つの話から構成されているのと同様に、本作も時点の異なる3つのパートから構成されています〔ただ、前作の場合、4つの話の関係性がゆるいのに対し、本作の場合は、3つのパートの関係はかなり緊密なものとなっています(注6)〕。

 モット言えば、前作でも本作でも、最後のエピソードでかなりの捻りが加えられている点に興味を惹かれます。
 すなわち、前作の場合、第1話から第3話においては主人公が殺人を犯すのですが、第4話では主人公の青年が飛び降り自殺をするのです。殺人ということで映画の統一感が保たれるかなと思っていたので、ちょっとはぐらかされた感じがしました(注7)。
 他方、本作の場合、3番目のパートの時点は2025年とされ、近未来ながらSFとも思わせる展開です。ですが、舞台は今のオーストラリアそのままですし、走っている車もむしろ旧式のものです。これは一体何を意味しているのかな、と考えさせます。

 もしかしたら、2025年には、タオの元夫のジンシェンと息子のダオラードン・ズージェン)は依然として上海で暮らしており、ただ、その風景が今のオーストラリアのような感じになっているのかもしれません(注8)。ダオラーが英語しか話せなくなっているというのも、タオと10年以上離れているために共通の話題がなくなってしまっていることを表しているとも受け取れるところです(注9)。

 でも、いくら距離的に・時間的に離れていても母親と息子の関係が消えることはないでしょう。それを象徴するがダオラーの首にかかる鍵であり(注10)、またダオラーが「タオ…」と呟くと、山西省の汾陽で暮らすタオに「タオ…」と呼ぶ声が聞こえたりするのでしょう。

 ラストの、汾陽文峰塔を背景にタオが踊る後ろ姿はとても感動的です。
 ただ、その寂しげな様子を見ると(注11)、タオはジンシェンと離婚する際にダオラーの親権をどうして手放してしまったのか、と思ってしまいます(注12)。
 これは、父親の葬儀の際に、ダオラーを一時的に汾陽まで呼び戻した時にも感じたことですが(注13)。



 でも、それだけ中国は激しく変化しているのであり(注14)、それをなんとか乗り切ろうとすればどうしても個人の感情などはぐっと我慢していかざるをえないのかもしれないとも思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「世界的に評価が高いジャ・ジャンクー監督は、前作「罪の手触り」で激しいバイオレンスをテーマにしたが、本作では一転、家族の、とりわけ母子のヒューマンドラマをじっくりと描いている」として70点をつけています。
 野崎歓氏は、「近未来篇の透徹したセンスに驚嘆する。現在と地続きの未来を垣間見た思いだ。世の中がいかに進歩しようとも、過去を追慕し、自らのルーツを求める想いはむしろ募ることを示して、深々とした感銘を与える。監督の成熟を示す傑作だ」として★5つ(「今年有数の傑作」)をつけています。
 藤原帰一氏は、「経済成長によって中国が得たものもあれば失ったものもある。ジャ・ジャンクーは、中国が失ったものを一人の女性の姿に刻みました。傷はあるけれど、いいところは飛び切りすばらしい映画です」と述べています。
 稲垣都々世氏は、「誰にでもわかる感情を平明に語って、山西省出身、45歳になった監督の真情がじわっと伝わってくる」と述べています。
 菊地成孔氏は、本作においては、「中国人が、まるでアメリカ人のようによく踊る。という事、もう一つ、中国人は、何かと言うと、爆竹やダイナマイトや、日本の花火など比べ物にならないほどのマッシヴで危険な「花火」をやたらと爆発させる。という、知っている人にはよく知っている2点」が、「(音楽で言えば)メロディーであるかの如き重要性」を与えられている、と述べています。



(注1)監督・脚本は、『罪の手ざわり』のジャ・ジャンクー
 原題は「山河故人」(この記事によれば、ジャ・ジャンクー監督は、「中国語の原題『山河故人』の“山河”は日本語の“山河”と同じ意味で、空間を指し、“故人”は日本語と違い、死んだ人の意味ではなく、古い友人を意味します」と答えています)。
 ちなみに、英題は「Mountains May Depart」(劇場用パンフレットのP.11記載の「注1」によれば、出典は旧約聖書イザヤ書54章10の一節で、「山は移り、丘は動いても、わが慈しみはあなたから移ることはない」という意味)。

 なお、主演のチャオ・タオは、『罪の手ざわり』で見ました。

(注2)ペット・ショップ・ボーイズの『Go West』(1993年)。

(注3)フォルクスワーゲンのサンタナ

(注4)例えば、このサイトに画像があります。

(注5)特に、前作の第1話は、本作と同じように山西省が舞台になっています。但し、本作の場合、3番目のパート(2025年)ではオーストラリアがメインの舞台となっています(それでも、ラストに、山西省の汾陽で暮らすタオが登場します!)。

(注6)前作の場合、異なるエピソードに顔を出す人物が若干いるものの、4つの話に登場する人物はそれぞれ異なっていますが、本作の場合は、主人公のタオが3つの時点に登場しますし、それぞれの時点に現れるその他の人物もタオの関係者といえるでしょう。

(注7)『罪の手ざわり』についての拙エントリの「注10」で申し上げましたように、ジャ・ジャンクー監督は、映画全体を「暴力」という観点から捉えているようです。

(注8)ダオラーが父親のジンシェンに、突然「大学を辞めたい。何にも興味がわかない」と言ったりするのも、異国のオーストラリアのことというより、むしろ経済発展を遂げたながらも様々な矛盾が渦巻く上海でのこととした方がわかりやすいのではないでしょうか?

(注9)中国語の先生のミアシルヴィア・チャン)が、「あなたのお母さんの名前は?」と尋ねた時に、ダオラーは「いない。僕は試験官ベビーだ」と答えるくらいなのです。

(注10)下記の「注12」を御覧ください。
 鍵といえば、本作ではもう一つの鍵も登場します。
 第1のパート(1999年)で、タオがジンシェンとの結婚を決めると、リャンズーは汾陽の街から出ていきますが、その際、リャンズーはタオの目の前で自分の家の鍵を遠くに投げ捨てるのです。その鍵をタオは拾ってとっておいたのでしょう、第2のパート(2014年)で、汾陽に戻ってきたリャンズーにその鍵を手渡します。
 リャンズーとは汾陽でずっと友だちでいたかったというタオの気持ちの表れでしょうか?
 ダオラーが持つ鍵と言い、このリャンズーの鍵と言い、本作では鍵が変わらない人間関係をうまく表現しているように思います。

(注11)ただ、荻野洋一氏は、ラストのシーンについて、「彼女は彼女の人生を主体性をもって選択している。犬を連れた趙濤の雪の中の姿を、ただそれじたいとして受容しなければならない。そのことを、あのラストの、再び大音量を取りもどすペット・ショップ・ボーイズ『ゴー・ウェスト』の陳腐なビートが、全面肯定していたのではないだろうか?」と述べていますが。

(注12)タオを演じるチャオ・タオは、劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事で、「もし彼女と小さな町で暮らし続けると、ダオラーにはほとんど成功の機会は訪れないでしょう。ある意味、彼女は息子の未来のために自分の幸福を犠牲にしたのです」と述べていますが、中国の母親はそのように現実的に利害損得で考えるものなのでしょうか、日本の母親のように、高校生くらいまで自分の手元で育てて、見極めがつくような年頃になってから都市に送り出す、という方が、ずっとわかりやすいように思うのですが。

(注13)例えばタオは、ダオラーを上海の父親の元に戻す際に、長く一緒にいられるからという理由で特急ではなく各駅停車に乗り込みます。また、タオはダオラーに鍵を渡し、「合鍵作ったの。あなたの家だから持ってて。いつ戻ってきてもいいのよ」と言います。

(注14)例えば第2パートで、肺を患っているリャンズーは故郷の汾陽へ一家を挙げて戻ろうとしますが、河北省邯鄲の駅に日本の新幹線と類似の列車が到着するシーンが映し出され、中国経済の発展ぶりを見せつけられたように思いました。



★★★★☆☆



象のロケット:山河ノスタルジア

64 ロクヨン 前編

2016年05月23日 | 邦画(16年)
 『64 ロクヨン 前編』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)以前、原作小説を読んでとても面白いと思い、なおかつ佐藤浩市が主演の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、昭和64年1月5日。
 まず漬物工場が映し出され、併設されている住まいの玄関から、肩からかばんを下げた7歳の翔子平田風果)が出てきて、「行ってきます」と言います。すると、工場の中から、父親の雨宮芳男永瀬正敏)が「遅くならないように」と、また母親・敏子小橋めぐみ)も「気をつけてね」と声をかけます。翔子は走り去っていきます。

 次の場面では、雨の中、車が2台工場に着き、そこから刑事が降りて工場の中に入っていきます。



 その一人の三上佐藤浩市)が大きなかばんを運び、また松岡三浦友和)は父親に、「県警の捜査課です。お嬢さんは必ず」と告げます。
 これに対し父親は「お願いします」と応じます。
 どうやら、翔子が誘拐されたようです。

 県警の担当者が今の机の上にテープレコーダーを準備し、また母親はおにぎりを作り、婦警(鶴田真由)がお茶を運んだりします。
 そこに、犯人の方から「約束のものを受け取りたい」との連絡が入ります。
 それから慌ただしく事態が進展しますが、身代金の2000万円が奪われてしまったものの、翔子は遺体で発見されることになります。
 その日は、まさに昭和天皇が崩御された1月7日。

 時点は平成14年となり、迷宮入りになった上記の事件(「ロクヨン」と呼ばれています)について、捜査員激励のために警察庁長官が県警に視察にやってくることに。
 事件当時「ロクヨン」捜査に従事していた三上は、今や県警の広報官。



 ある交通事故の加害者の匿名扱いをめぐり、三上は記者クラブと県警との板挟み状態に陥っています。この状況が長引けば、警察庁長官の視察にも齟齬が生じかねません。



 さあ、三上はその窮状をどうやって切り抜けようとするのでしょうか、そして「ロクヨン」の真相は、………?

 本作は、昭和64年が平成元年に変わるちょうどその時に引き起こされながらも迷宮入りになってしまった少女誘拐殺人事件を縦糸に、県警本部の組織の中でもみくちゃにされる広報官の姿を横糸にして構成されています。顰め面ばかりの主人公の顔を2時間見続けるのは少々問題があるとはいえ、出ずっぱりの佐藤浩市は素晴らしい演技を披露しますし、加えてストーリーが面白いので、あっという間に終わってしまいます。後編を期待させるに十分な前編の仕上がりだと思います。

(2)本作の主人公が広報官の三上であることから当然なのでしょうが、とにかく色々な問題が三上の上に立て続けに起きてきます(注2)。
 その結果、少しは笑顔の場面もあったほうが良いのではと思えるくらいに、苦悩する佐藤浩市の顔が画面に溢れることに。特に、娘の失踪まで三上が抱え込む必要があるのか、と少々疑問に思えてしまいます(注3)。
 でも、そんな疑問など吹き飛ばすくらいに佐藤浩市の演技は真に迫っていて、観客をグイグイ引っ張っていき見応えがあります(注4)。

 ただ、本作は2部作の前編ですから、やはり後編まで見てから映画全体を評価した方がいいものと思います。なにしろ、2部作物は、『るろうに剣心』とか『寄生獣』の2部作(注5)を除き、余りいい印象を受けていないものですから。
 なかでも、本作と同じようなサスペンス物である『ソロモンの偽証』では、前編が大いに盛り上がりを見せていたにもかかわらず、後編の息切れによって、全体的には普通の仕上がりだなという印象を持つことになりました。
 これは同作が、殺人事件をめぐって、前編で提起された謎が後編で解明されるという構成をとっているために、たどり着く解答によほどの意外性がないと後半がダレてしまうという事情によっているものと思われます。
 あるいは、2部作として間隔を置いて公開せずに、全部が通しで上映された場合には、前半の余韻が後半を見る際にも強く残っているでしょうから、印象が違ってくるのかもしれません。
 とはいえ総じて言えば、2部作物は、このところ流行っている感じがしますが、営業政策上からも仕方がない面はあるとはいえ、問題点も多いのではと思います(注6)。

 翻って本作の場合は、迷宮入りの少女誘拐殺人事件の真相解明という基本線が設けられているとはいえ、それだけでなく、県警本部内の組織対立(注7)とか記者クラブと県警の対立などまで描き込まれているために、随分と骨太の作品になっていて、前編の盛り上がりが後編でも維持されるものと思われます。

 さらに言えば、以前、5時間に迫る『ヘヴンズ ストーリー』(佐藤浩市が出演しています)を見て、瀬々敬久監督の作品(注8)は、いくら長尺であっても破綻することはないと思っているので、本作の後編に期待するところは大きなものがあります。

(3)渡まち子氏は、「前編は、どうしても登場人物紹介の色合いが強くなるが、佐藤浩市演じる主人公が、刑事ではなく警務部広報室の広報官というところが、個性的だ」として65点をつけています。



(注1)監督は、『アントキノイノチ』などの瀬々敬久
 脚本は久松真一
 原作は、横山秀夫著『64(ロクヨン)』(文春文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、佐藤浩市は『起終点駅 ターミナル』、綾野剛は『リップヴァンウィンクルの花嫁』、榮倉奈々は『娚の一生』、夏川結衣は『家族はつらいよ』、窪田正孝は『ロマンス』、坂口健太郎は『残穢―住んではいけない部屋―』、筒井道隆は『深夜食堂』、鶴田真由は『さよなら渓谷』、吉岡秀隆は『グラスホッパー』、瑛太は『まほろ駅前狂騒曲』、永瀬正敏は『蜜のあわれ』、三浦友和は『アウトレイジ ビヨンド』、椎名桔平は『悼む人』、滝藤賢一は『残穢―住んではいけない部屋―』、奥田瑛二は『この国の空』、仲村トオルは『春を背負って』、烏丸せつこは『樹海のふたり』、菅田俊は『汚れた心』、小澤征悦るろうに剣心 伝説の最後編』、菅原大吉は『の・ようなもの のようなもの』で、それぞれ見ました。

(注2)本文の(1)で書いた匿名問題が起きているばかりでなく、三上は、「ロクヨン」の捜査に従事したことがある根っからの刑事部刑事でありながら、警務部の広報官に就いています。それで、広報室内部では、係長の諏訪綾野剛)から、すぐに刑事部に戻る人とみなされていました。
 また、警察庁長官の視察は、「ロクヨン」を捜査する刑事部マターと思えるにもかかわらず、記者クラブの取材を入れるというところから警務部広報室も携わることになり、県警内部の組織対立(下記の「注7」を御覧ください)を背負うことになります。
 さらには、ノンキャリ組の三上は、本庁キャリア組の警務部長・赤間滝藤賢一)から無能呼ばわりされます。
 加えて、三上には、その娘・あゆみ芳根京子)が家出してしまい音信不通になっているという事情まで付け加えられています〔三上は、身元不明の若い女性の遺体が見つかると、地方の警察から連絡を受けて確認しに妻・美奈子夏川結衣)と一緒に出かけるのです〕。



(注3)娘の問題があるからこそ、三上は、「ロクヨン」の捜査で録音を担当していた日吉窪田正孝)の母親(烏丸せつこ)に接近でき、彼の状況を把握できたわけですが、もともと広報官がそこまでする必要があったのかどうかよくわからないところです。

(注4)特に、三上が、本作のラストの方で記者クラブの記者に対して匿名問題の解決策を提示し、あわせて匿名問題を引き起こした事件の被害者・銘川大久保鷹)の人生について長々と語るシーンは、なかなか感動的です(劇場用パンフレット掲載の「Making」によれば、「脚本にして約9ページ」「通しで演技すると約9分の芝居」を、佐藤浩市の希望で「一気に」やったとのこと)。
 ただ、「匿名問題」に関しては、なぜ記者クラブ〔中心人物が、幹事社キャップの秋川瑛太)〕が映画で描かれているほど拘るのか理解し難い感じがします。確かに、実名にするかどうかの判断はメディアの側ですべきものかもしれません。でも、メディア側で本件については実名がぜひとも必要だとしたら、自分で取材すればいいのではないでしょうか?特に、本作の舞台は地方なのですから、加害者の特定にそれほど労力を要しないのではないでしょうか?まして、加害者が妊娠中で、なおかつ公安委員会の委員長の娘なのですから、探りを入れれば割り出せるように思われます。にもかかわらず、記者クラブの記者たちは、県警から提示される情報をただ待ち受けているだけのように思われます。
 逆に言えば、本作においては、こうした記者クラブ制度の問題点(メディア側の取材力の低下)が描き出されているとも言えるかもしれません。

(注5)『京都大火編』と『るろうに剣心 伝説の最後編』。『寄生獣』と『寄生獣 完結編』。

(注6)つい最近見た『ちはやふる 上の句』について言えば、この作品で話が一応完結しているように思えて、後編の『ちはやふる 下の句』までわざわざ見る気が起こりませんでした。

(注7)荒木田部長(奥田瑛二)が率いる刑事部と、赤間部長が率いる警務部との対立。なお、赤間部長は、県警本部長の辻内椎名桔平)と同様に本庁キャリア組で、キャリア組とノンキャリ組との対立も垣間見られます。

(注8)瀬々敬久監督の作品の内、『感染列島』(2008年)と『黒い下着の女 雷魚』(1997年)については、この拙エントリを御覧ください。



★★★★☆☆



象のロケット:64 ロクヨン 前編

最高の花婿

2016年05月17日 | 洋画(16年)
 『最高の花婿』を恵比寿ガーデンシネマで見てきました。

(1)フランスで大ヒットした作品というので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の舞台は、フランス西部のロワール地方で暮らすヴェルヌイユ家。
 父クロードクリスチャン・クラヴィエ)と母マリーシャンタル・ロビー)の3人の娘の結婚式がシノン市役所で次々と執り行われます。
 それも、長女イザベルフレデリック・ベル)はアラブ人のラシッドメディ・サドゥアン)と、次女オディルジュリア・ピアトン)はユダヤ人のダヴィッドアリ・アビタン)と、三女セゴレーヌエミリー・カーン)は、中国人のシャオフレデリック・チョウ)と、という具合に、いずれも異民族の男と結婚したのです。
 ヴェルヌイユ夫妻は敬虔なカトリックで、娘達には、市役所ではなく親しいカトリック教会で結婚式を上げて欲しいと願っていました。
 それで、結婚式の際に撮影される集合写真では、皆が笑顔を作っているにもかかわらず、どれも渋い顔の夫妻が写っています。



 実は、ヴェルヌイユ夫妻には、もう一人、四女のロールエロディー・フォンタン)がいるのです。ただロールは、カトリックの白人と教会で結婚式を挙げて欲しいと両親が強く願っていることを知っているので、プロポーズしてくれたシャルルヌーム・ディアワラ)が、カトリックではあるもののコートジボアール出身の黒人であることから、言い出せずに困っています。

 さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、4人の娘が皆異民族の男と結婚してしまうという家族のテンヤワンヤを描いたフランス・コメディです。人種や宗教とか生活習慣の違いをあてこすったりして騒動が持ち上がるものの、コメディですから最後はみんな仲良くなってメデタシメデタシという具合。まさに、異民族が入り乱れるフランスならではの作品でしょうが、全体として随分と図式的であり、また、そんな厳しい状況に置かれていない日本から言うのも気が引けるとはいえ、現実はそんなに甘くはないのでは、とも思えるところです。

(2)確かに、面白い場面はふんだんにあります。
 例えば、次女のオディルの息子の割礼式があるというので、皆がパリの家に集まりますが(注2)、「ユダヤ教の場合生まれてすぐに割礼を行うのに対し、イスラム教では6歳の時に行うが、どちらがいいのか」などといったことについて議論が沸騰します(注3)。
 そして、庭に埋めて欲しいとダヴィッドから手渡された孫の包皮を、父クロードがシノンの家の庭に埋めようとしたところ、包皮の入った箱を落として包皮が飛び出してしまいます。なんと、飼い犬がそれを食べてしまうのですが、クロードは、代わりに傍にあったハムを庭に埋めて、「約束は果たした」と呟きます。

 また、クリスマスにヴェルヌイユ夫妻は、3組の夫婦とロールをシノンの家に招待します。
 その際には、一方で、キリストは神の子ではなく預言者にすぎないなどといった議論がかしましく飛び交いますが、他方で、母マリーは、3人の婿のために、コーシャの認定を受けた七面鳥と、ハラルに処理された七面鳥、それに北京ダックを用意したりします。

 でも、あまりにも物語が作り物過ぎていて、もっぱらクマネズミのコメディ精神の欠如に拠るとはいえ、どうにも白けてしまうのです。
 なるほど、アラブ人、ユダヤ人、中国人、アフリカ人、それにフランス人が、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教などを引っさげて集まることになれば、地球上のかなりの部分を代表することとなり、それで彼らの間にユーモアを通じて友好の輪が築かれるのであれば、もしかしたら地球上に平和がもたらされるのかもしれません。
 しかしながら、こうしたコメディ映画を見ると、かえってこれは映画の上の話だけであって、現実はもっとずっと厳しいのではないかと、逆にクマネズミには思えてしまうのです。

 なお、本作は、ヴェルヌイユ家の4人の娘の主体的な判断が生かされていて(結婚相手はそれぞれ自分で決めています)、一見したところ、女性上位の映画のような感じを受けます。とはいえ、実のところは、「ヴェルヌイユ夫妻+4人の娘」対「4人の異人種の婿たち」という構図のようにも見えます。そして、4人の娘にはあまり個性があるようには見えず(注4)、反対に、食事会などでの4人の婿たちの威勢の良さを見ると、結局、フランスの白人たちは、外からやってきた異人種らの勢いの前にたじたじの有様だ、というようにも本作を受け取れるところです。



(3)渡まち子氏は、「コメディならではのエキセントリックな会話が飛び交い、あえて腫れ物に思い切り触れるのは、シリアスな社会問題だからこそ、ユーモアのセンスが必要ということなのだろう。ここに日本人の婿がいたら、はたして…?!とつい考えてしまうのは私だけではないはずだ」として60点をつけています。
 林瑞江氏は、「世界は人種や宗教の違いの前で硬直し、悲劇を生み続ける。だが大事なのは人種差別をも笑える精神の自由ではないか。どうか「フランス映画は退屈」という「先入観」は捨てて、映画館で大笑いしてほしい」と述べています。
 遠山清一氏は、「移民の多いフランス。多様な言語、宗教、文化、政治思考がぶつかり合いながらも“笑い”飛ばして、いつのまにか和していく展開はフランスらしいエスプリを愉しめる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、フィリップ・ドゥ・ショーヴロン
 原題は、『Qu’est-ce qu’on a fait au Bon Dieu ?』(直訳すると、「私たちがいったい神様に何をしたというの?(何も悪いことなんてしてないのに)」:英題は「SERIAL (BAD) WEDDINGS」)。邦題は、ヒットした『最強のふたり』にあやかったものでしょう。
 なお、フランス映画祭2015では「ヴェルヌイユ家の結婚狂騒曲」という邦題で上映されています(6月26日)。

(注2)食事会はシャオの家で行われ、母マリーが「この肉美味しいけど、固くて噛み切れない。何の肉なの?」と訊くと、シャオが「ダチョウ」と答えるので、目を白黒させます。

(注3)生後スグと6歳とではどちらが痛いのか、そもそも野蛮なことではないのか、などなどについて喧々諤々の議論となります。

(注4)ただし、三女のセゴレーヌは、大層変わった絵を描く画家として描かれていますが。と言っても、ストーリーの展開にそのことが生かされていないように思います。



★★☆☆☆☆



象のロケット:最高の花婿

太陽

2016年05月13日 | 邦画(16年)
 『太陽』を渋谷ユーロスペースで見ました。

(1)『SR サイタマノラッパー』の入江悠監督の作品ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、夜景が映しだされるとともに、「21世紀の初頭、ウイルスにより、人類の大半が死亡。かろうじて生き残った人類は、2つに分かれて暮らしていた」といった内容の字幕が流れます。そして、拡声器から、「まもなく日の出です。キュリオ地区に外出した方は速やかに戻りましょう」との音声が繰り返し流れ、サイレンの音が鳴りわたります。

 次の場面では、小屋の中で椅子に縛られている男が、「何でこんなことになるんだ?克哉、話し合おうよ」、「いつまでも門を撤去しないわけじゃない」などと叫びます。
 ですが、克哉村上淳)は、アルコールを飲みながら、「そんなことじゃダメだ」「うるせえ」と縛られた男を投げ飛ばします。
 縛られた男は、どうやらノクス(夜しか生きられないが裕福な人類)で、それを責め苛んでいるのはキュリオ(太陽の下で暮らすものの貧しい人類)のようです。
 ノクスの男が口から血を吐くと、克哉は「あぶねーな、感染するだろう!」と怒ります(ノクスはウイルスに耐性を持っていますが、キュリオは感染すると死んでしまうようです)。
 これに対しノクスの男は、「僕たちは共生できる。一緒に変えていこうと約束したじゃないか」と詰ります。ですが、克哉は、「こんなクソみたいな生活によく我慢してきたもんだ。爺さんらも母さんらも。俺たちの時代で変えなきゃ」と言いながら、戸を開け放ちます。そして、「俺は奴隷じゃない。太陽の子だ!」と叫びます。
 光が差し込むと、縛られているノクスの男は苦しがり、火がついて燃えてしまいます。

 行方不明の男を捜すために捜索隊が出動し、川のそばで焼け焦げた男の遺体を見つけ出します。
 他方、克哉は、「自首して。村が潰される」と求める姉・純子中村優子)のオートバイを奪って逃げ去ってしまいます。そこへ村人がやってきて、「お前のところの克哉のせいで、この村はオシマイだ」と言い、純子やその息子・鉄也神木隆之介)の住む家が燃やされます。
 ここまでは10年前の話ですが、さあ、物語はこれからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、近未来SFで、人類(と言っても、日本人しか登場しませんが)が原因不明のウイルスの拡散によって2種類に分断されてしまった時に、それぞれの世界で生きる人たちがどのように行動するのかを描き出しています。本作は舞台と映画との融合とされ、現下の社会情勢に合わせて様々なことを考えさせますが、元が舞台作であることから新劇臭さが多分に残っていたり、主役の神木隆之介の絶叫が繰り返されたり、設定そのものに疑問を感じたりしてしまい、余り乗り切れませんでした。

(2)本作と同じような設定のSF物としては、例えば『エリジウム』とか『アップサイドダウン 重力の恋人』が思いつきます。
 前者は、超富裕層が暮らすスペースコロニーと貧困層の住む荒廃した地球とに分断されているという設定ですし、後者は、富裕層が住む惑星と貧困層が暮らす惑星とが近接しているという設定(重力が逆向きに作用しています)です。
 どちらの作品の設定も大層魅力的ながら、すぐ疑問に思えるのは、富裕層と貧困層とが分断されているこうした状態はうまい具合に成立するのだろうか、という点です。
 前者については、富裕層はどうやら地上の貧困層を奴隷同然に働かせて富を得ているようですが、そんな一方的な社会は成立するのでしょうか?また、後者でも、エネルギーの販売を通じて富裕層は富を得ているように見えるところ、貧困層はエネルギーの対価として支払うお金をどのように取得しているのでしょう?

 そして、同じようなことは、本作についても言えるように思われます。
 本作の場合、ノクスが夜間にキュリオ地区にやってきて管理的な業務をしているように見えるものの、その詳細は描かれていません。
 僅かに垣間見られるのは、克哉が引き起こした事件によって課された経済封鎖が解かれて、草一古舘寛治)らが暮らす地区に曽我鶴見辰吾)や金田高橋和也)らのノクスがやってきた時です。ただ、その模様を見ると、まるで動物園の飼育員が動物を取り扱うように、クリオはキュリオの人たちに立ち向かっています(注2)。
 逆に言えば、キュリオは一定の地区の中で自給自足しながら最低限のレベルで暮らしているだけの存在であり、ノクスの生活とは関連性を持っていないような感じです。
 しかしながら、ノクスの人たちの裕福な生活はそんなことで維持できるでしょうか?例えば、その生活に必要な資源をどこから得ているのでしょう?その資源を取引したり、それを加工したりするのは誰なのでしょう(注3)?
 そもそも、ノクスは一体何のためにキュリオ地区にやってくるのでしょう?同じ人類として可哀想な人達の面倒を見る必要があるというヒューマニズム的な見地に立ってのことでしょうか?

 さらに、キュリオ地区自体についてもよくわからない感じがします。
 草一や純子が暮らす家の中の様子を見ると、江戸時代と見紛うような古色蒼然とした有様。僅かに電灯が灯っているだけで(注4)、囲炉裏が掘られていたり、かまどが設けられていたり、挽臼が置いてあったりします。
 でも、周囲を見ると青々とした草地や森が広がっていますから、決して土地が荒廃しているわけでもなさそうです。そうであれば、一定期間農業を継続していれば蓄えが生じ、その取引を通じて財産も形成されるのではないでしょうか(江戸時代にあっても、農村には水呑百姓ばかりでなく豪農も中農も存在しました)?



 それに、この地区はノクスによって経済封鎖されていたとのことながら、なぜキュリオの人たちはそれを黙って受け入れたのでしょう?克哉の行動を見れば、他所の地区に行くのは難しいことではないようです。としたら、生活するのが難しいのなら移住すればと思われるところです(注5)。
 ラストの様子を見ると(注6)、キュリオ地区が鉄条網で囲われているのではなく、むしろ狭く囲われているのはノクスの方ではないかと思われますし。

 本作で描かれているようなノクスとキュリオの分断された状態は、なかなか維持・継続するのが難しいように思いました。
 特に、ノクスの人たちは、いったいどのようなところ(注7)でどのように暮らしているのでしょう?

(3)でも、そんなことは、本作がSFファンタジーであり、設定上の単なる約束事なのですから、あまり詮索するに及ばないことなのかもしれません。

 あるいは、ノクスとキュリオが分断して生活しているというところから、昨今よく言われる格差社会が本作に投影されていると見るべきかもしれません。
 確かに、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「真摯なプロレタリア作家・入江悠の10年後氏の勇姿がここにある」で筆者の森直人氏が言うように(注8)、「神木隆之介や門脇麦らが扮するキュリオの若者たちが苛まれる閉塞感は、軋みの多い社会構造が固定されてなかなか動かないという、二度目の安倍政権下に生きる我々の戯画に他ならない」のかもしれません。
 でも、現代日本で格差社会の下の方で蠢く者達と言っても、本作で描かれるような江戸時代の水呑百姓と見紛うような生活をしているわけではないのではないでしょうか?彼らも、最先端のITデバイスを持っていたりして、現在の情報社会を皆と一緒になって泳いでいるのではないでしょうか(注9)?

 むしろ、見るべきなのは、幼馴染と思える鉄也と(草一の娘:門脇麦)と拓海水田航生)とのトライアングルとか、あるいは草一と、元妻で今は曽我の妻となっている玲子森口瑤子)との関係、草一と純子との関係の方かもしれません。



 その場合には、これらの関係が、ノクスとキュリオの分断という契機によって大きく影響を受けて動き出すのを描いたのが本作ということになるでしょう。

 ただ、この観点から本作を見ると、主役は鉄也と結とされていますが、むしろ草一の方がクローズアップされてきます。とはいえ、キュリオの人間として最後まで耐え忍ぶだけというのでは(注10)、彼を主役としたら映画にならないでしょう。
 そこで本作では、キュリオの鉄也とノクスの森繁との交流のシーンが随分と描かれ、ラストのシーンは彼らの未来に希望を持たせますが、はてさてガソリンスタンドは各地で営業しているのでしょうか(注11)?



(4)渡まち子氏は、「この映画、元が舞台というだけあって、長回しや、ほとんどアップを使用しない引きの映像で占められているので、せっかくの若手俳優の演技があまり堪能できない」などとして55点をつけています。



(注1)監督は、『SR サイタマノラッパー』(DVDで見ました)、『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』、そして『SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』の入江悠〔『日々ロック』もDVDで見ましたが、なぜ主人公にあのようなわざとらしい演技をさせるのか理解できませんでした〕。
 脚本は、入江監督と原作者の前川知大氏。
 原作は、前川知大氏の戯曲『太陽』〔同氏は同じタイトルの小説(KADOKAWA刊:未読)をも発表〕。

 なお、本作の出演者の内、最近では、神木隆之介は『バクマン。』、古川雄輝は『脳内ポイズンベリー』、古舘寛治は『流れ星が消えないうちに』、高橋和也は『きみはいい子』、森口瑤子は『ソロモンの偽証(後篇・裁判)』(神原の養母役)、村上淳は『グラスホッパー』、鶴見辰吾は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。

(注2)例えば、アメリカ占領軍が日本に進駐してきて先ず行ったDDT散布と同じように、曽我たちは草一らにウイルス予防剤を散布します!また、曽我は、キュリオからノクスへの転換手術の応募について集まったキュリオたちに説明をします。

(注3)あるいは、進化したキュリオの中にも序列があって、3Kに従事する者もいるかもしれません。ただ、そうなると、キュリオ側にも格差問題があることになって、キュリオと地続きになるように思えてきます。

(注4)経済封鎖中は電気の供給もストップしていたようです。なお、電気代は元々誰の負担になっていたのでしょう?

(注5)克哉は四国が暮らしやすいと聞いてそちらに向かいました。でも、そこから戻ってきたキュリオの人たちの話や、ノクスが流す映像からすると、四国の状況も悲惨だとのこと。
 ただ、本作の背景の景色を見る限り、どこもかしこも荒廃しているようにはとても思えないところです。それに、日本がダメなら外国に移民することも考えられるでしょう。

(注6)鉄也と森繁古川雄輝)は、一緒にオンボロ車に乗って日本を巡る旅に出かけます。
 森繁はノクスのために昼間は車のトランクに入っていて、運転するのは鉄也です(夜間は交代)。このため森繁は夜の景色しか見られませんが、それでは旅行の意味が半減するのではないでしょうか(月明かりの中で僅かにその形が見えるだけになってしまい、日本の良い所は味わえないことでしょう)?

(注7)ノクスは、太陽に当たると焼け焦げてしまうとされているところからすれば、あるいは地下に住んでいるのかもしれませんし、もしくは東京ドームのようなところで暮らしているのかもしれません。

(注8)森直人氏が言う「プロレタリア作家」とは何でしょう?現代日本のどこにプロレタリアが存在するのでしょう。それに、小林多喜二とか宮本百合子といった過去のプロレタリア作家は、特段新しい文学を生み出すことは出来ませんでした。入江悠監督も、同じように新しい創造的な作品を生み出してはいないということなのでしょうか?

(注9)あるいは、宇多丸氏が述べるように(この記事によっています)、「(本作は)非常に苦くて痛い現実の日本という村問題をSF、フィクション、思考実験という形で容赦なく突きつけてくる」のであり、本作のノクス対キュリオは「地方人対東京人」と見られると言えるかもしれません。でも、水呑百姓が蠢いているというよりも、都市にある最新の作りの家が建てられているにもかかわらず、そこには老人しか住んでいないという状況が、現代の日本の農村でよく見かける姿ではないでしょうか?

(注10)娘の結に乱暴を働いた拓海が、キュリオ地区の代表と思われる男(綾田俊樹)の息子であることから、草一は沈黙を守りますし、玲子がノクスになるために家を出ても、また結が転換手術を受けようとしても受け入れます。さらには、心を寄せていた優子の死までも受け入れざるをえないのです。そして、庭で、純子の弟・克哉が村人による村八分で酷い目に遭おうとも、じっと縁側で座り込んでいるだけなのです。

 なお、草一が村の集会場に連れてこられて皆から「どうして拓海に酷いことをしたのか?」と追求されてもじっと黙りこむ時、草一を取り囲む村人の様子は、まさに新劇において群像を描く手法に類似しているなと思いました(舞台ならばそれでかまわないのでしょうが、映画の画面で見るとリアルさがなくなってしまいます)。また、克哉が村人から酷い目に遭う場面もリアルな感じは受けません。

(注11)そういえば、本作の初めの方ではオートバイが走っていましたが、経済封鎖中のガソリンの給油はどうしているのでしょう(そもそも、この地区の人々はどこからガソリンを得ているのでしょう?中東から?どうやって?)?ガソリンの供給があるくらいなら、電気はもとより、ガスとか水道の供給も考えられ、そうなれば生活水準はもっとずっと向上しているのではないでしょうか?
 なお、草原の中で、鉄也は持っていた地図を取り出して見ながら、「もうどっちに行っていいのかわからない?」と言いますが、草原に作られた道が掲載されている地図とは、いったい誰(ノクスorキュリオ?)がどうやって作成したものなのでしょう?



★★☆☆☆☆



象のロケット:太陽

レヴェナント 蘇えりし者

2016年05月10日 | 洋画(16年)
 『レヴェナント 蘇えりし者』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)主演のディカプリオがアカデミー賞主演男優賞を受けたというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、夜、横になっている主人公のヒュー・グラスレオナルド・ディカプリオ)が、先住民の言葉で息子のホークフォレスト・グッドラック)に、「大丈夫だ、息子よ。早く終わって欲しいとお前は望んでいる。父さんが付いている。ずっとそばにいる。諦めてはいけない。いいな。息が続く限り戦うのだ。息をしろ、息を続けるのだ」と語りかけています。
 その際に、グラスが妻(グレイス・ドーヴ)や息子と一緒にいるシーンや、家に火がつけられて燃え上がってしまうシーンが挿入されます。
 そして、ディカプリオの顔が大写しになって、タイトルが映し出されます。

 次の画面では、流れる水で樹の根元まで覆われている森の中を、銃を持った者が数人歩いています。
 グラスがホークに「前を見ろ」と言うと、前方に大きな鹿が見え、グラスが銃で撃ち倒します。



 宿営地では、毛皮ハンターのグループが、採った毛皮を束ねて出発の準備をしています。
 銃声がしたので、「銃はマズイのでは?」などと話していると、矢が飛んできて仲間が倒れます。
 大鹿の革を剥いでいたグラスらも異変があったことに気付き、急ぎ宿営地に戻ります。
 宿営地には先住民のアリカラ族がたくさん現れ、毛皮ハンターたちを次々矢で射倒します。
 生き残った毛皮ハンターたちは、大急ぎで毛皮を船に積み込み、乗船してその場所を離れます。

 毛皮ハンターを襲った先住民の族長のエルク・ドッグデュアン・ハワード)は、「毛皮をフランス人に渡し、代わりに馬をもらい、それで娘・ポワカメラウ・ナケコ)を探すのだ」と仲間に向かって言います。

 どうやら、グラスは、息子を連れながら、ヘンリー隊長(ドーナル・グリーソン)の率いる毛皮ハンター団の道案内役としてミズリー川中流域にいて、その宿営地がアリカラ族に襲われてしまったようです。
 この後、グラスはハイイログマ(注2)に襲われ瀕死の重傷を追うことになるのですが、さあ、グラスの運命はどうなるのでしょうか、………?

 本作の舞台は、1820年代のアメリカ中西部。毛皮ハンター団のガイドを務める主人公が、熊に襲われたりするなど様々な危難に遭遇しながらも、息子を殺した男に復讐を遂げるという物語。広大で魅力的な雪景色が何度も映し出され、さらにはどうやってこんな危険な場面を撮影できたのだろうと思わせる箇所がいくつもあり、加えて主演のディカプリオが渾身の演技を披露するので、物語は単純で2時間半を超える長尺ながらも、最後まで全く飽きずに見ることが出来ます。

(2)本作については、いくつか問題点を上げることが出来るように思います。
 例えば、主人公のグラスは、あれほど大きく獰猛なハイイログマに傷めつけられ瀕死の重傷を負うわけですから、例え生き返るにしても、息子を殺したフィッツジェラルドトム・ハーディ)を追跡できる体力を回復するまでには、相当の医療知識とかなりの治癒期間が必要となるのではないか、にもかかわらず本作ではそこらあたりが曖昧なのではと、思ってしまいます。
 また、グラスは、先住民を妻とし、その間に子どもを設けてしまうような白人としては異端的な存在にもかかわらず(注3)、白人のヘンリー隊長がなぜあそこまでグラスのことをかばい続けるのか(注4)、よくわからない感じです。
 さらに言えば、死んだ妻のことをあれほど何回も思い出すのであれば、息子のホークもさることながら(注5)、グラスはなぜ妻を殺したフランス兵にまずもって復讐しようとしないのでしょうか(注6)?

 でも、それらのことはどうでもいいように思われます。
 何よりも、本作は、自分の息子を殺された男が、息子を殺した男に復讐しようとする実にシンプルな物語を、広大な大自然の中でたっぷりと描き出すことに主眼があるように思われます。
 ただ、シンプルな話とはいえ、グラスは何度も窮地に追い込まれます。
 例えば、迫ってきたアリカラ族から身を隠すために冷たい川の中に入りますが、流れが大層急で、グラスはどんどん押し流されてしまいます。
また、アリカラ族に追われ、グラスは乗っていた馬もろとも高い崖から落下してしまいます。

 このように物語にいろいろ起伏が設けられている上に、こうしたところを描き出す画面は実にリアルで、いったいどのようにしてそのような映像を作り出したのか不思議に思えるほどです(注7)。

 そして、絶体絶命と思える窮地に追い込まれながらも、不屈の闘志によってそれらを乗り切りフィッツジェラルドとの1対1の対決(注8)にまでたどり着くグラスを演じるディカプリオの演技は実に素晴らしく、見入ってしまいます。
 ディカプリオの主演男優賞は、十分納得できるものと思いました(注9)。

(3)渡まち子氏は、「尊い自然への畏敬の念が、この壮絶なサバイバル劇を貫き、すべてが終わった後に魂の救済へと至る物語は、観客を大きな感動で包み込んでくれるだろう」として90点をつけています。
 森直人氏は、「いま、インターネットやモバイル機器の発達でコンパクトな映画の視聴が進む中、新しい劇場対応型の表現とは何か?という問いが浮上しているように思う。そんな課題に応えるべく、実験的、前衛的とも言える手法で、プリミティブなパワーを志向した本作は、前人未到の領域を開拓した」と述べています。
 藤原帰一氏は、「議論が分かれるところでしょうが、私には、「レヴェナント」のディカプリオは、無理な撮影に耐えたのが流石だし、役柄からいって致し方ないんですが、硬くて一本調子な印象が残りました。逆に目を見張ったのは、悪役のトム・ハーディ」と述べています。



(注1)監督は、『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』や『BIUTIFUL ビューティフル』のアレハンドロ・G・イニャリトゥ。本作で、アカデミー賞監督賞を受賞。
 撮影監督のエマニュエル・ルベツキは、本作でアカデミー賞撮影賞を受賞。
 また、音楽は坂本龍一
 原案小説は、マイケル・パンク著『蘇えりし者』(ハヤカワ文庫NV)。

 なお、出演者の内、最近では、ディカプリオは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、トム・ハーディは『マッドマックス―怒りのデス・ロード』、ドーナル・グリーソンは『スター・ウォーズ フォースの覚醒』、ウィル・ポールターは『メイズ・ランナー2 砂漠の迷宮』で、それぞれ見ました。

 〔酷くつまらないことながら、邦題の副題「蘇えりし者」は、常識的には「蘇りし者」となるところ、『蘇える金狼』(大藪春彦)とか『蘇える変態』(星野源)などもありますから、どちらでもかまわないのでしょう〕

(注2)本作の中では「グリズリー」と言われています(なお、この記事が参考になります)。

(注3)昔見た『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1991年)の主人公のジョン・ダンバーケビン・コスナー)が思い出されます。ダンバーも、先住民の女を妻とします。ただ、時代は、本作よりも40年ほど下って南北戦争の最中であり、またダンバーが接触する先住民は、本作のアリカラ族と対立するスー族なのです(さらに言えば、ダンバーの妻となる女の家族は、本作でグラスの妻となる女の出身部族であるポ-ニー族に殺されています)。

(注4)ヘンリー隊長は、瀕死のグラスを樹の枝でこしらえた担架に乗せて運んだり、グラスが死ぬまで付き添うよう、ホークのみならずフィッツジェラルドとジム・ブリジャーウィル・ポールター)に命じたりするのです(それに、300ドルもの報酬を与えると約束します)。

(注5)フィッツジェラルドは、このままだと共倒れだとして瀕死のグラスを早く殺してしまおうとし、それを見たホークがブリジャーに知らせようとしたために、まずホークを殺してしまいます。



 無論、フィッツジェラルドの行為を正当化出来るわけでないとはいえ、アリカラ族と寒さが迫っている中、仕方がない面もあるように思えます(何しろ、当初は、ヘンリー隊長自ら、グラスを安楽死させようと考えてグラスに銃を向けたほどなのですから)。
 そう考えると、グラスの復讐劇も、親子の情愛という面は無論あるにしても、クマに襲われてホークを守りきれずに死なせてしまったことに対する後悔の思い(あるいは、妻への謝罪の気持ち)によるところもあるのではないかと思えます。



(注6)グラスは、自分たちの暮らしていたにやってきて家に火をつけ、出てきた妻に銃を向けて撃ち殺すフランス兵らを、隠れた物陰から見ているのです(これは、グラスによる回想シーンで描かれます)。民間人のフィッツジェラルドに復讐する方が、軍人に復讐するよりも容易なのでしょうが、ホークの復讐をする執念をもってすれば可能ではないでしょうか?

(注7)最初の方に出てくるグラスとハイイログマとの闘いについて、劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」では、「ハイイログマの攻撃のシークエンスでは、本物の熊は一頭も使われなかった。イニャリトウ(監督)はCGIを本作ではわずかしか使っていないが、ここではCGIを活用している」と述べられています。
 急流の場面とか崖から墜落する場面などは、いったいどのようにして画面が作られているのでしょう?

(注8)ラストでは、グラスは、フィッツジェラルドを殺さずに川に流します。すると、川岸にいたアリカラ族の族長のエルク・ドッグがフィッツジェラルドを殺します。
 その際、フィッツジェラルドが「復讐しても、お前の息子は戻ってこない」と言うのに対し、グラスは、「復讐は神の手に委ねるのであり、俺の手じゃない」と応えて、フィッツジェラルドの体を川に落とします。
 ただ、そう言われたくらいで最後までの復讐をためらうのであれば、グラスは、初めから追跡などしなくともよかったかもしれないとも思えてしまいます(あるいは、グラスは復讐の念で頭が一杯になっていて、フィッツジェラルドにそう言われるまでその意味するところに気が付かなかったのかもしれませんが)。
 また、この場合の神とはキリスト教の神でしょう(その前に、十字架のキリストや使徒が壁に描かれた教会の廃墟の中で、グラスは、ホークの亡霊に見えた樹木を抱きしめたりします)。でも、族長のエルク・ドッグは異教徒でしょう。その異教徒にフィッツジェラルドの処分を委ねるのはどういうことなのでしょう?
 それに、エルク・ドッグの娘・ポワカをさらったのはフィッツジェラルドではなく、フランス人の毛皮商ではないでしょうか?ポワカは、父親のそばにいるのですから、人違いだと父親に告げてもよかったかもしれません。あるいは、先住民には、白人の見分けがつかないと言うのでしょうか(でも、エルク・ドッグは、グラスの傍らを通り過ぎる際に、グラスには手を出そうとしませんでしたが)?

(注9)さらに、公式サイトの「Introduction」では、「本物のフロンティアの再現に強くこだわったイニャリトゥ監督は、マイナス20℃の極寒の地でロケを敢行。人工的な証明を一切使わない自然光のみの撮影を行い、壮大な大自然を未だかつてないスケール感で映し出している」と述べられていますが、イニャリトゥ監督の監督賞とルベツキ撮影監督の撮影賞も充分に納得できます。



★★★★☆☆



象のロケット:レヴェナント 蘇えりし者

アイアムアヒーロー

2016年05月06日 | 邦画(16年)
 『アイアムアヒーロー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)話題のゾンビ映画(注1)ということで、映画館に行ってきました。
 本作(注2)の冒頭では、TVで女子アナが「広島県で45歳の女性が土佐犬に噛まれました。重傷です」といったニュースを読み上げています。
 場所は、漫画家の工房。と言っても、マンションの狭い一室。何人かのアシスタントがいて、それぞれ作業をしながら話しています。
 アシスタントのみーちゃん栗田恵美)が「同窓会どうしよう?」と言ったのに対し、同じくアシスタントの三谷塚地武雅)が、「堂々と行けばいい。でも、俺は、同窓会なんて行くわけがない」などと話していると、再度TVから、「先ほどのニュースを訂正いたします。土佐犬が噛まれて重傷です」との音声が聞こえます。
 主人公の鈴木英雄大泉洋)もアシスタントの一人ですが、突然、「漫画って、日本最高峰の文化なんです。漫画は、日本が世界基準。この場所から、俺たちは世界をリードするのです」と呟きますが、三谷は「ひとりごとは止めて」と冷たく言い放ちます。
 英雄はやむなく「はい」と答えると、主の先生マキタスポーツ)が顔を出して「まだ?」と仕事を催促します。

 次いで夜の場面。
 アシスタントの作業を終えた英雄は、郵便受けの一つに「黒川・鈴木」のネームプレートのあるアパートの階段を登り、自分で鍵を開けて中に入ります。部屋では、風呂上がりの女(黒川徹子片瀬那奈)がベッドで腹ばいになってTVを見ています。
 英雄は、一人でカップラーメンを食べます。

 さらに夜が更けて、英雄は、本棚に飾ってあったトロフィー(「新人コミックス大賞」のプレートが台に付いています)を手にとって、「もう15年か」と呟きます。
 それから、本棚を横に動かして、隠れていた押し入れを開けると、金庫が現れます。その金庫を鍵で開けると、中には猟銃と銃所持許可証が入っています。
 英雄が、その猟銃を取り出して構えると、徹子が起き出して、「仕事しないなら寝なよ」、さらには「うちお金ないんだから、その銃売ったら?」と言います。
 英雄は、「次は掲載してもらえるから」と答えます。

 こんなところから驚愕のラストまで、物語はどんどん膨らんでいきますが、さあ一体どうなるのでしょう、………?

 本作は、ヘタレで売れない漫画家の主人公が、2人のヒロインをゾンビ(注3)の海の中から救い出すというヒーロー物です。主人公のダメぶりがたっぷりと描かれた後に、ゾンビの只中に置かれた主人公が目覚めてゾンビを次々と撃破するシーンとなり、主人公を演じる大泉洋の類いまれな熱演と、ゾンビたちが大層リアルに描かれていることもあって、グロいシーンが盛り沢山とはいえ、スカッとした感じになること請け合いです!

(2)本作の最初の方では殆ど何事も起こらず、一方で、英雄は自分が描いた漫画の原稿を雑誌社に持ち込むものの、アッサリと担当編集者から断られますし、他方で、本文(1)からも分かるように少々おかしなことを言うTVニュースがあったり、また、みーちゃんが「体調が悪い」とか先生が「体がだるい」とか言ったり、英雄が外に出ると自衛隊の大型ヘリコプターが何機も空を飛んでいたりするくらい。
 ですが、英雄を追い出した徹子から「風邪をひいたの。あたし英雄くんといたい」との連絡が入り、急ぎ出向いた彼女の部屋のドアの隙間から英雄が覗き見たものは!
ここから物語の雰囲気が一気に変わってしまいます。

 こうした描き方は、原作漫画の第1巻でも見られます。
 英雄と徹子が同棲していなかったり兆候の現れ方(注4)が違っていたりするなど細部は少々異なりますが、事態の進行が緩慢なのは本作と同様であり、酷く恐ろしいことが起きたと分かるのは第1巻のラストになってからなのです。

 原作漫画は第1巻しか読んでいないので比較はできませんが、本作の方では、ここから話がどんどん展開し、英雄は、途中で出会った比呂美有村架純)と一緒にタクシーに乗って、……と進んでいきます。

 面白いなと思ったのは、生き残った人間たち(注5)が立てこもる富士山麓のアウトレット・モールに英雄と比呂美がやっとの思いでたどり着くと、少し前からそうなのですが、比呂美は半分ZQN化(注6)しているためにほとんど人形状態で何も喋らず横になるだけで(注7)、彼女に代わってヤブと言われる元看護師(長澤まさみ)が男勝りの活躍を見せる点です(注8)。
 比呂美とヤブの二人がヒロイン側に揃ってはじめて、英雄がヒーローとして登場できる前提条件が整うということでしょう(注9)。



 ヤブからの合図が何度も届きはするものの、揚幕からなかなか花道に出てこないのですが、一度姿を表すと、一気に舞台中央のスポットライトの当たるところに駆け寄って、英雄は格好良くヒーローに!



 なお、クマネズミはゾンビ物を余り見ていないものの、最近では『Zアイランド』と『ワールド・ウォーZ』があります。前者はゾンビに扮した宮川大輔の演技が印象に残るとはいえ、離れ島での出来事とされて規模が随分と小さなものとなっています。
 その意味で、都市に沢山のZQNが出現する本作と比べられるのは後者の方でしょう。
 ただ、後者に出現するゾンビの数は桁外れであり、それに対応してすぐさま軍隊が出動し、果ては航空母艦まで登場します。でも、描かれるゾンビの数が多すぎるせいか、本作ほどの怖さは感じられません。
 比べて、本作に登場するZQNは、数が多い上に、それぞれが個性的であり(注10)、かつまたその変形ぶりに異様さが見られ(注11)、全体としてよりリアルさを感じます。

(3)渡まち子氏は、「いわゆるゾンビ映画だが、ここまで本気のゾンビものは、邦画初ではなかろうか」として65点をつけています。
 前田有一氏は、「本作は、邦画としては、との枕詞はつくもののなかなかの描写力とアクションシークエンスを持っている。主人公のキャラクター、役者の演技など総合的に見れば、類似作品の中では海外と比べてもトップレベルの面白さだと保証する。こういうチャレンジが日本映画の中から出てくるのは素晴らしいことで、高く評価する」として75点をつけています。



(注1)何しろ、ブリュッセル・ファンタスティック国際映画祭(ベルギー)、シッチェス・カタロニア国際映画祭(スペイン)、そしてポルト国際映画祭(ポルトガル)で、それぞれ受賞したというのですから(詳細はこの記事)!

(注2)監督は、『万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-』の佐藤信介
 脚本は野木亜紀子
 原作は、花沢健吾氏の漫画『アイアムアヒーロー』(小学館)

 なお、出演者の内、最近では、大泉洋は『駆込み女と駆出し男』、有村架純は『僕だけがいない街』、長澤まさみは『海街diary』、吉沢悠は『さよならドビュッシー』、岡田義徳は『ばしゃ馬さんとビッグマウス』、片瀬那奈は『HK/変態仮面』、マキタスポーツは『ラブ&ピース』、塚地武雅は『の・ようなもの のようなもの』、徳井優は『娚の一生』で、それぞれ見ました。

(注3)本作では、「ZQN(ゾキュン)」とされています(ZQNについては、例えばこの記事が参考になります)。

(注4)原作漫画では、先生の顔から血が滴り落ちたり、みーちゃんが手足を縛られて浴槽に横たわっていたり、またタクシーに撥ねられた女が酷くネジ曲がった格好で歩いたりします。
 なお、原作漫画の第1巻では、矢島という人物が英雄に取り付いていますが、これは英雄の妄想の産物なのでしょう(例えば、『森のカフェ』に登場する「悟」のように)。

(注5)生き残った人間たちは、アウトレット・モール「Fuji Outlet Park」の屋上に立てこもっています。それを率いるリーダーは当初は伊浦吉沢悠)ですが、途中でサンゴ岡田義徳)がリーダーの座を奪います。

(注6)比呂美は、幼児に噛まれたためにZQN化が半分くらいでストップしまったとされています。でも、ウィルス感染で人がZQN化するのであれば、感染源が成人であろうと幼児であろうと、ZQN化の進行度合いに変わりはないように思えます。それに、まだそれほどこのウィルスの感染が拡大していないように思われる段階で(それとも、TVニュースで報道されていないものの、自衛隊の出動が見られるくらいですから、ZQN化が大規模に進行しているのでしょうか?)、ZQN化した幼児が存在するようにも思えないところです(空気伝染ではないのですから)。

(注7)『僕だけがいない街』では、ヒロインの愛梨有村架純)が途中で主人公の藤原竜也)のことがわからなくなって引っ込んでしまいますが、本作の比呂美も愛梨と似ているような感じではないか、と思いました(なお、本作の撮影は2年前であり、同作の制作は本作の制作よりも後ということになります)。
 そういえば、同作の主人公の悟も漫画家志望で、本作の英雄と同じように、彼が描いた原稿は編集担当に「伝わってこないんですよね。作品から見えてこない。あなたの顔が」と言われて突っ返されます。

(注8)ヤブは斧を手にしてZQNと戦うのです。

(注9)どんな展開になるのかは申し上げませんが、英雄が「I am a Hero」になるのは間違いないところです。
 ただ、本作の終わり方では、若干中途半端なことは否めない感じもします。でも、クマネズミとしては、仮に続編があるとしても本作で充分だと思っています。これ以降の展開は、自分で色々考えてみる方が面白いのではないでしょうか?

(注10)それぞれ、感染前の記憶を所持しているのです。
 例えば、アウトレットに立てこもった人間の一人であるアベサン徳井優)は、妻だと分かるZQNに噛みつかれてしまいます。

(注11)例えば、陸上の走り高跳びの選手だったZQNは、次第にその跳躍力を増してきます(他方で、頭部は次第に陥没していきますが)。



★★★★☆☆



象のロケット:アイアムアヒーロー

孤独のススメ

2016年05月03日 | 洋画(16年)
 『孤独のススメ』を新宿シネマカリテで見ました。

(1)久しぶりにオランダ映画(注1)を見ようと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭では、オランダの田園地帯を走るバスが映しだされ、「演奏は難しくない。正しい鍵盤を正しい時に叩けばいい」というバッハの言葉(注3)がバッハの曲とともに流れて、ある村の停留所で一人の男(フレッドトン・カス)が降ります。
 フレッドは、黙って前をしっかり見ながら道を歩き、教会がすぐ近くにある家にたどり着きます。
 教会の前の広場では、子供達がサッカーに興じています。

 家に入ったフレッドは、椅子に座り、「ヨハン(8歳)」とのラベルが貼られたテープで、バッハの曲(注4)を聴きます。
 フレッドは、ふと窓の外を見て家の外に出るや、隣家のカンプスポーギー・フランセン)のそばにいてポリ容器を手にしている男(テオルネ・ファント・ホフ)に向かって、「ペテン師め。ガス欠と言っていたな。車を見せてみろ、どこだ?」と怒った口調で言います。
 二人は車の通りへ出ますが。車など見当たりません。
 フレッドは「車なんかない。嘘つきめ。金を返してくれ」と相手に言います。

 場面は変わって、バッハのピアノ曲(注5)が流れて、フレッドの家の庭の草むしりをテオがしていて、それをフレッドが窓から見ています。

 次いで、フレッドの家の中の場面。
 居間で、フレッドは椅子に座ってコーヒーを飲みます。
 そして、その前にはテオが座っています。
 フレッドは、テオに缶に入ったクッキーを与えながら、「2度と嘘をつくな。嘘は取り消せない」「作業を終えろ、いいね」と言いますが、わかったかわからないのか、テオは何の返事もしません。

 これが、フレッドとテオの出会いの始まりですが、さあこれから二人はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、妻と子どもを失い一人で生活している男のところに、わけのわからない男(注6)が闖入してきて起こる物語を描いています。原題は「マッターホルン」(注7)。このタイトルでは客を呼べないでしょうが、といって邦題の「孤独のススメ」では内容とかけ離れているでしょう。本作は、孤独を推奨しているワケのものではなく、不思議な男と暮らすうちに、自分を見つめなおし、再出発に向かおうとする男の話ですから。バッハの音楽があふれる一風変わった感じの作品ながら、こうした描き方もあるのだなと興味を惹かれました。

(2)本作の邦題は「孤独のススメ」となっています(注8)。
 なるほど、主人公のフレッドは、テオと出会う前は、妻と息子を失って独りで生活していました(注9)。決まった帰宅すると、フレッドは、同じような夕食を作り、6時キッカリに祈りを捧げてそれを独りで食べます。前の壁にかけてある妻と息子の写真を眺めながら。

 このフレッドの状態は、劇場用パンフレット掲載の明治大学教授・諸富祥彦氏のエッセイ『孤独の力―ひとりになり、しがらみを手放せば、本当に大切なことが見えてくる』によれば、「自分と向き合うことを回避したまま、ただ時間の過ぎていくのに身を任せてい」るだけで、これでは「孤独」の「悪いこと」の方を生きているに過ぎないようです。
 これに対し、諸富氏によれば、どうやら、「私たちを取り囲んでいるしがらみを手放し、「ひとり」になり、「自分と向き合う時間」を持つこと」が「孤独」ということの「ポジティブな面」であるようです。

 とはいえ、フレッドは、バスから降りて自分の家にたどり着くまでに庭で水を撒いている人に出会っても、挨拶もしないで黙って前を向いて歩くだけです。「自分と向き合うことを回避し」ているにせよ、フレッドは、まさに「取り囲んでいるしがらみを手放し、「ひとり」にな」っている状況にもあると思われます。
 むしろ、彼は、ポジティブでもネガティブでも、いずれにしても「孤独」であって、それを打破するのがテオという他者の闖入ではないでしょうか?
 ほとんど何も喋らずに、山羊の真似をするなど酷くオカシナ行動をするテオがフレッドのそばに存在し、テオとのコミュニケーションをつうじて、逆にフレッドは「自分と向き合う時間」を持つようになったのであり、自分から進んで自分と向き合うようになったわけではありません。



 劇場用パンフレット掲載の「Director’s Message」でディーデリク・エビンゲ監督は、「自分を解放することは一人ではできませんが、それでいて一人でやらなければなりません」と述べていますが、まさにそのとおりだと思います。自分でやらなくてはならないとしても、自分独りでは出来ないのです。

 諸富氏が言うように、「余分な人間関係を「捨てる」勇気を持つことが、人生をタフにさわやかに生きていくためには必要」なのでしょう。
 でも、邦題が言うように、単に、「孤独」になって「自分と向き合う時間」を持つことだけでは難しいのではないでしょうか(注10)?
 本作のように、他者の契機がなんとしても必要なのではと思えてくるところです(注11)。
 そういうことから、邦題の「孤独のススメ」には随分と違和感を覚えました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「地味な俳優、少ないせりふ、朴訥としたストーリーと、決して派手さはないのだが、とぼけたユーモアと意外なほど深いテーマが、わずか90分足らずの映画の中に隠されている」として70点をつけています。
 遠山清一氏は、「宗教批判になりがちなストーリー展開だが、型にはまった批判を避けて、人間の心の孤独さ、秘めておきたい弱さを見つめる描写に好感が持てる」と述べています。
 伊藤隆剛氏は、「オランダの美しい田園地帯と、そこで暮らす変わり者の男の身に起こった出来事をグラフィカルな構図で描き、彼の無個性でミニマルな生活が次第に人間味を帯びていく様子からじわじわと感動を導き出す。J.S.バッハのオルガン曲やシャーリー・バッシーの楽曲が印象的に使用され、音楽ファンもグッとくるシーンが満載だ」と述べています。



(注1)と言って、オランダ映画で見たのはドキュメンタリーの『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』くらいに過ぎませんが。

(注2)監督はディーデリク・エビンゲこの記事が参考になります)。
 原題は『MATTERHORN(マッターホルン)』。

(注3)このサイトの記事では、「驚くことなんて何もありはしない。正しい鍵盤を正しいときに叩けば、あとは楽器が勝手に演奏してくれる」とされています。これはおそらく、オルガンなどの鍵盤楽器の演奏について、ヴァイオリンなどの弦楽器などと比べてバッハが言った言葉ではないかと思われます。

(注4)アリア「憐れみたまえ、わが神よ(Erbarme dich)」(『マタイ受難曲』第39番)。同曲は、例えばこのサイトで聴くことが出来ます。

(注5)平均律クラビア曲集第1巻第1番。同曲は、例えばこのサイトで聴くことが出来ます。

(注6)テオの妻の話によれば、酷い交通事故に遭って以来、人とのコミュニケーションがうまくいかなくなり、さらに方々を徘徊するようになったとのこと(施設に入れても、すぐに出て行ってしまうようです)。

(注7)マッターホルンは、フレッドが妻にプロポーズした場所。テオと一緒に子供達の前で余興をやることで受け取る謝礼(50ユーロ)を貯めて、そこに行こうとフレッドは考えています。

(注8)あるいは邦題は、稲垣浩志の『孤独のススメ』を踏まえて付けられているのかもしれません。でも「たまにはひとりで 寂しく強く考えてみてよ」と歌うこの歌と本作とでは、その雰囲気がかなり違うように思います。

(注9)フレッドが本当に独り切りの生活をしているのかどうかはわかりません。
 もしかしたら、毎日勤めに出ていて、そこでは様々な人とコンタクトを持っているのかもしれません。バスで村に戻ってくるフレッドのサラリーマン風な格好から、そんな感じがします(尤も、上記「注7」で触れているように、マッターホルンに行く費用の持ち合わせがないということからすると、勤務先で給与をもらっているわけでもないのかもしれませんが)。

(注10)尤も、邦題で言う「孤独」とは、通常の意味ではなく、諸富氏の言う「ポジティブな面」だけを指しているとしたら、それはそれでも構わないのかもしれません(その場合には、例えば「“孤独”のススメ」くらいにすべきでしょう)。
 諸富氏も、同じエッセイで、「「肯定的で、かつ、深い、真に成熟した孤独な生き方」を私は「単独者」として生きる」と呼んでいます」と述べていて、「孤独」という言葉を限定的に使っているようです(とはいえ、話は飛躍してしまいますが、評論家の柄谷行人氏は、「他者」とは異なるものとして「単独者」という用語をかなり前から使っていますが、その場合には、「他者」との交通とかコミュニケーションをめぐっての議論の中であって、「孤独」との関連で「単独者」という用語が使われると、その意味でも違和感を覚えてしまいます)。

(注11)ラストの方でフレッドは、ど派手な格好をした息子のヨハンが歌っているクラブに走りますが、その際も、フレッドは独りで行くのではなくテオの妻の手を携えてのことでした。

(注12)上記「注11」で触れたクラブにおいて、フレッドは、歌っているヨハンと目を見合わせます(ヨハンは、シャーリー・バッシーの『This is My Life』を歌います)。
 そこに至る背景には、村人が、フレッドの家の壁に「SODOM & GOMORRAH(ソドムとゴモラ)」と落書きをしたことがあるように思います。というのも、自分の妻の衣装を着るテオと一緒に暮らすフレッドを同性愛者と決めつけての落書きでしょうから。



 推測するに、天使の美声を持っていた息子ヨハンが同性愛的嗜好を持っていたため、それをフレッドが強く怒ったらヨハンは家出をしてしまったのでは、そしてフレッドの妻はそのことでフレッドを非難していたところ、交通事故で死んでしまったので、そのことがあってフレッドは周囲に心を閉ざしてしまっていたように思われます。

 さらに言えば、フレッド自身も、あるいは同性愛者なのかもしれませんし(テオと一緒にマッターホルンに言ったフレドオは、山が見えるところで感極まってテオと抱き合い「ヨハン!」と叫びます)、フレッドの行動を批判する隣家のカンプスも、テオにすごく関心があるようで、同性愛者なのかもしれません。
 こうしてみると、レッテル付けに意味があるとは思えませんが、本作はまさにLGBT映画なのではないでしょうか(ディーデリク・エビンゲ監督は、このインタビュー記事においては、「ゲイ、LGBTといったことは、オランダでは普通に受け入られています。もともと、僕はそういうテーマを意図して作ったわけではないのですが、それを強調するのはオランダの人ではないのかもしれませんね。オランダでは日常的な世界です」と述べています)?



★★★☆☆☆



象のロケット:孤独のススメ