『殿、利息でござる!』を渋谷シネパレスで見ました。
(1)予告編を見ておもしろそうだと思って映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、「これは本当にあった話」と字幕が出て、先代の浅野屋甚内(山崎努)が、貨幣を壺の中に投げ入れてニタっと笑い、次いで、2階の戸を開けて外を眺めます。
すると、下の道に、家財道具を大八車に積んで夜逃げを図る忠兵衛(芦川誠)の一家の姿が。それを見た甚内が、「どこへ行く?家財道具一式ではないか。あんたには銭を貸していたな?」と言って姿を消す一方で、忠兵衛は「お許しを」と答え、立ち止まります(注2)。
次いで、「それから10年 明和3年(1766年)」の字幕が出て、街道を進む男女のシーン。
男は茶師の篤平治(瑛太)。嫁にもらったばかりのなつ(山本舞香)が、馬に乗りながら「そんなに貧しい村なのですか?」と尋ねると、篤平治は、「いやいや。決して苦労はかけません。茶を作ればいいだけです」「私は、ここでは町で一番の知恵者と言われています」などと答えます。そこへ肝煎の幾右衛門(寺脇康文)がやってきて、「馬をくれ」と言って、なつを馬から降ろしてその馬を連れていってしまいます。
タイトルが映し出され、濱田岳によるナレーションにより、舞台となる仙台藩の吉岡宿について説明されます(注3)。
次いで、伝馬屋敷で伝馬役のための作業をする人々の姿。
そして、それを見ている造り酒屋の穀田屋十三郎(阿部サダヲ)。
そこへ先の篤平治がやってきて、「まったく酷いものですな。着いた早々、馬を取られました。相変わらずですな、この町は」と言うと、十三郎は「そのとおり、何も変わらぬ」と答えますが、十三郎が書状を手にしているのを見咎めて、篤平治が「そんなこと(直訴)をすれば、首を刎ねられておしまいですよ」と止めるのに対し、十三郎が「もう決めたこと」と言ってもみ合っていると、代官の八島(斎藤歩)が「それは何だ!」と怒鳴りつけます。
篤平治は、懐から別の書状を取り出し、「九条関白家様より、茶銘を賜りました」と言ってその場をなんとか切り抜けます。
こんな風に物語は始まりますが、さあこれからどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、磯田道史氏の『無私の日本人』の中の一編を映画化したもので、実話に基づくとされていますが、ややコミカルに作られていて、どこまでが史実に従っているのかはよくわかりません。でも、仙台藩の宿場町の町人らがお上に1,000両貸しつけて利息を得て苦役の負担を軽減するという話を、阿部サダヲ以下の芸達者たちが演じていて、当時の事情がよくわからない面はあるとはいえ、まずまず面白い作品に仕上がっています。
(2)本作は、映画『武士の家計簿』の元となる著書を書いた磯田道史氏の書いた短編を原作としています。前の著作は、新潮新書の純然たる歴史書ですが、後者は江戸時代に書かれた記録(注4)に依拠しながらも、登場する人物による会話が様々に組み込まれた小説仕立てになっています。
本作の脚本は、その短編小説に基づきながら作られているわけで、映画の冒頭に「本当にあった話」とされてはいるものの、どこまでが史実なのかなどよくわからない点があるような気がします。
確かに例えば、江戸時代の記録には、「下町平八」(尾上寛之)が登場し、早坂屋新四郎(橋本一郎)を説得する映画と同様の場面が描かれていたりします(注5)。
でも例えば、竹内結子の扮する酒場の女将・ときですが、原作の短編小説には登場しません。それに、ときが営む「しま屋」のような現代の大衆酒場まがいの椅子とテーブルのある酒場が江戸時代に実際にあったとも思えないところです(注6)。
なによりもよくわからないのは、十三郎らが集めたお金が5,000貫文(1,000両)で、現代のお金に換算するとおよそ3億円にも上るという点です。
年々衰退しているという吉岡宿のどこにそんな大金があったのでしょう?
百姓は、厳しい年貢の取り立てで疲弊してもいたのではないでしょうか(注7)?
よくはわかりませんが、本作で描かれる計画に加わった9人のうち、少なくとも6人が商人(注8)という点が鍵になるような感じがします。
というのも、江戸時代の商人は、相応の税金を徴収されていないようにも考えられるからですが(注9)。
仮にそうだとしたら、吉岡宿の商人らは、お金を相当に貯めこんで隠し持っていたことになり、本作の計画に対しても拠出できたのかもしれず、現代の観点からしたら、ある意味で、彼らはすべきことをしたまでとも考えられるかもしれません(注10)。
そして、財政逼迫状態の仙台藩の方としては、手間のかかる七面倒臭い所得・財産調査などせずとも、町方が進んで金を持ってくるのですから、まさに渡りに船というところであり(注11)、また商人らとしても、どの程度吉岡宿の中で取引していたのかわかりませんが、吉岡宿の維持・繁栄(注12)は自分たちの商売等にプラスだと踏んだのではないでしょうか(注13)。
ただそうであっても、当代の浅野屋甚内(妻夫木聡)は、一人で2,000貫文(約1億2,000万円)もの大金を出したのであり(注14)、これはおいそれとは出来ないことでしょう。
無論、こんなどうでもいいことをぐちゃぐちゃ考えずに、江戸時代の勇気ある人々の功績を素直に受け止めて、映画を味わえば良いのでしょう。
でも、クマネズミは、どうしても物語の設定の方に関心が行ってしまい、正直あまり乗り切れなかったところです。
(3)渡まち子氏は、「日本人がすべてこのように無欲だとは思わないが、こんなにも純粋で、かつ知恵が働く庶民がいたのかと思うと、なかなかやるじゃないか!とこっちが誇らしくなった」として70点をつけています。
森直人氏は、「主張はシンプルだ。目先の私利私欲を超え、いかに射程の長い未来像を描けるか。群像劇のさばき方は細やかだが、全体のタッチは毛筆で書いた太文字のような力強さにあふれている」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『残穢―住んではいけない部屋―』の中村義洋。
脚本は、さらに『残穢―住んではいけない部屋―』の鈴木謙一。
原作は、磯田道史著『無私の日本人』(文春文庫)所収の短編「穀田屋十三郎」。
なお、出演者の内、最近では、阿部サダヲは『寄生獣 完結編』(声の出演)、瑛太は『64 ロクヨン 前編』、妻夫木聡は『家族はつらいよ』、竹内結子は『残穢―住んではいけない部屋―』、松田龍平は『モヒカン故郷に帰る』、草笛光子は『0.5ミリ』、山崎努は『俳優 亀岡拓次』、寺脇康文は『超高速!参勤交代』、きたろうは『樹海のふたり』、千葉雄大は『モヒカン故郷に帰る』、橋本一郎は『森のカフェ』、西村雅彦は『家族はつらいよ』、山本舞香は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。
(注2)映画の後半で、この時の先代の甚内は、2階から降りてきて忠兵衛に銭をくれた上で、「借金もかまわない。悪いのは世の中の仕組みのせいで、あんたのせいじゃない」などと諭したのだ、と吉岡宿に戻ってきた忠兵衛が仲間に話します。
(注3)あらまし、次のような内容です。
吉岡宿は、上町、中町、下町からできている小さな宿場町で、住民の殆どは百姓。と言っても、半分は商売で生計を立てていた。でも、近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて、ここのところ景気は酷く悪化。
さらに、伝馬役を負担するために、馬を買ったり人足を雇ったりしなくてはならず、そのために、破産したり夜逃げする者が出てきて、吉岡宿の家の数は年々減少していた。
(注4)同短編が依拠しているのは龍泉院榮洲瑞芝・和尚(本作では上田耕一が扮しています)の記した『吉岡國恩記』であり、それはこのサイトで読むことが出来ます〔同書は、大正15年に「仙台叢書」の中に取り込まれて活字出版され、それをこのサイトで読むことが出来るのです〕。
(注5)磯田氏の著書に「平八が早坂屋を説得したときの一部始終は、のちに『國恩記』に精確に記録された」とあるので(文庫版P.89~P.90)、上記「注4」で触れたサイトにあたってみると、「460 下段 國恩記巻之二」(11/39)以下に記されています。
(注6)例えば、このサイトの記事や、このサイトの回答を参照してください。
(注7)年貢を収めているはずの農民については、本作ではほとんど描かれていないように思います。
ただ、原作の短編小説では、「吉岡宿は貧しい宿場であり、1貫文以上の田畑をもつような者は、わずかに8、9人にすぎないこと。それで、月に6度開く市で小商いをしてようやく糊口をしのいでいるが、その商いも細っている」と述べられていることからすると(文庫版P.107)、半農半商の貧しい者が吉岡宿で家を構えていたようにも思われます。彼らは、田畑については年貢を納めるものの、そして伝馬役の負担はあるものの、小商いの部分について税金は取られていないのではないでしょうか。
(注8)彼らは、造り酒屋が2人(浅野屋は質屋も営んでいます)、そして味噌屋、雑穀屋、両替屋、小間物屋とされています(吉岡宿は宿場町にもかかわらず、不思議なことに「宿屋」が入っていないのです!)。そして、茶師の篤平治を加えれば7人。
なお、残る大肝煎の千坂仲内(千葉雄大)と肝煎の幾右衛門は豪農なのかもしれません(彼らは、検地逃れとか新田開発といったことで蓄財していたように思われます)。
(注9)少なくとも、商人は年貢(米)を収めることはしていないでしょう。
Wikipediaによれば、運上とか冥加が課されていたようですが、それがどのくらいの負担なのかはどうもよくわかりません。とにかく、儲けの一定割合(現代の所得税・法人税のように)といった課税の仕方はされていなかったように思われます(なお、このサイトの「回答」があるいは参考になるかもしれません)。
(注10)現代の視点からすれば、吉岡宿の繁栄という公共目的を達成するのに、その住民が所得に応じて一定の負担をするのは、ある意味でアタリマエのことのようにも思えるところです。とはいえ、当時は、そうした所得(商人の場合は儲け)に対する税金という考え方は取られていなかったので、そんなことを言ってみても意味はありませんが。
(注11)藩の出入司の萱場(松田龍平)は悪乗りし、銭ではなく金で収めるべしと言って、金と銭との交換差額(800貫文←約4,800万円)までせしめようとします。
(注12)上記「注3」にあるように、吉岡宿が「近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて」いるのであれば、宿場の規模が縮小するのは長期的には止めがたいことでしょう。
ただ、十三郎らが伝馬役の負担さえなんとかなれば町の衰退を食い止められると考えたのは、短期的には意味があることと思われます。
なお、その伝馬役の負担ですが、原作の短編小説によれば、「1軒前の家に銭6貫文、半軒前の家に銭4貫文」(1貫文は約6万円)とされています(文庫版P.107)。
〔ここからすると、伝馬役というのは現代の固定資産税のような感じに思えます〕
単純平均30万円で、吉岡宿は200軒ほどの家があるとされていますから、少なくとも6,000万円ほどかかるものと推測されます。
他方で、本作の計画によって毎年藩の方から支給される利息は100両(約3,000万円)。
これからすると、必要額の半分程度が賄われている感じになります。この金額によって吉岡宿で暮らす人々の暮らし向きが良くなるのかどうかはよくわかりません(おそらく、クマネズミの計算に誤りがあるのでしょう)。
あるいは、原作の短編小説においては、篤平治は、「いくら、あれば、この宿を救えるのじゃ」との十三郎の質問に対し、「千四五百両」と答えているのです(文庫版P.24)。ところが、直ぐ後に篤平治は、なぜか「お上に千両ほど貸せば、お上から年に百両ちかく利足がとれるはず」云々と述べて(文庫版P.26)、以降は「千両」しか出てきません。
あるいは、当初の「千四五百両」(約4,500万円)の方が実情にあっていたのかもしれません。
(注13)平均で一人500貫文(約3,000万円)ほどの資本投下に対する見返りは、短期的には微々たるものであっても、長期的に見れば宿場内での取引が盛んになって、それなりのものが期待できると考えられるのではないでしょうか。
(注14)原作の短編小説によれば、穀田屋十三郎以下が550貫文〔ただし、早坂屋新四郎は300貫文、穀田屋善八(中本賢)は200貫文〕を拠出し、これに浅野屋甚内の2000貫文を合わせ、都合5,800貫文(金1,000両)を集めたとされています(文庫版P.166)。
他方で、映画で描かれる女将ときの50貫文とか、穀田屋十三郎の息子の音右衛門(重岡大毅)の250貫文とかはフィクションでしょう。
★★★☆☆☆
象のロケット:殿、利息でござる!
(1)予告編を見ておもしろそうだと思って映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、「これは本当にあった話」と字幕が出て、先代の浅野屋甚内(山崎努)が、貨幣を壺の中に投げ入れてニタっと笑い、次いで、2階の戸を開けて外を眺めます。
すると、下の道に、家財道具を大八車に積んで夜逃げを図る忠兵衛(芦川誠)の一家の姿が。それを見た甚内が、「どこへ行く?家財道具一式ではないか。あんたには銭を貸していたな?」と言って姿を消す一方で、忠兵衛は「お許しを」と答え、立ち止まります(注2)。
次いで、「それから10年 明和3年(1766年)」の字幕が出て、街道を進む男女のシーン。
男は茶師の篤平治(瑛太)。嫁にもらったばかりのなつ(山本舞香)が、馬に乗りながら「そんなに貧しい村なのですか?」と尋ねると、篤平治は、「いやいや。決して苦労はかけません。茶を作ればいいだけです」「私は、ここでは町で一番の知恵者と言われています」などと答えます。そこへ肝煎の幾右衛門(寺脇康文)がやってきて、「馬をくれ」と言って、なつを馬から降ろしてその馬を連れていってしまいます。
タイトルが映し出され、濱田岳によるナレーションにより、舞台となる仙台藩の吉岡宿について説明されます(注3)。
次いで、伝馬屋敷で伝馬役のための作業をする人々の姿。
そして、それを見ている造り酒屋の穀田屋十三郎(阿部サダヲ)。
そこへ先の篤平治がやってきて、「まったく酷いものですな。着いた早々、馬を取られました。相変わらずですな、この町は」と言うと、十三郎は「そのとおり、何も変わらぬ」と答えますが、十三郎が書状を手にしているのを見咎めて、篤平治が「そんなこと(直訴)をすれば、首を刎ねられておしまいですよ」と止めるのに対し、十三郎が「もう決めたこと」と言ってもみ合っていると、代官の八島(斎藤歩)が「それは何だ!」と怒鳴りつけます。
篤平治は、懐から別の書状を取り出し、「九条関白家様より、茶銘を賜りました」と言ってその場をなんとか切り抜けます。
こんな風に物語は始まりますが、さあこれからどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、磯田道史氏の『無私の日本人』の中の一編を映画化したもので、実話に基づくとされていますが、ややコミカルに作られていて、どこまでが史実に従っているのかはよくわかりません。でも、仙台藩の宿場町の町人らがお上に1,000両貸しつけて利息を得て苦役の負担を軽減するという話を、阿部サダヲ以下の芸達者たちが演じていて、当時の事情がよくわからない面はあるとはいえ、まずまず面白い作品に仕上がっています。
(2)本作は、映画『武士の家計簿』の元となる著書を書いた磯田道史氏の書いた短編を原作としています。前の著作は、新潮新書の純然たる歴史書ですが、後者は江戸時代に書かれた記録(注4)に依拠しながらも、登場する人物による会話が様々に組み込まれた小説仕立てになっています。
本作の脚本は、その短編小説に基づきながら作られているわけで、映画の冒頭に「本当にあった話」とされてはいるものの、どこまでが史実なのかなどよくわからない点があるような気がします。
確かに例えば、江戸時代の記録には、「下町平八」(尾上寛之)が登場し、早坂屋新四郎(橋本一郎)を説得する映画と同様の場面が描かれていたりします(注5)。
でも例えば、竹内結子の扮する酒場の女将・ときですが、原作の短編小説には登場しません。それに、ときが営む「しま屋」のような現代の大衆酒場まがいの椅子とテーブルのある酒場が江戸時代に実際にあったとも思えないところです(注6)。
なによりもよくわからないのは、十三郎らが集めたお金が5,000貫文(1,000両)で、現代のお金に換算するとおよそ3億円にも上るという点です。
年々衰退しているという吉岡宿のどこにそんな大金があったのでしょう?
百姓は、厳しい年貢の取り立てで疲弊してもいたのではないでしょうか(注7)?
よくはわかりませんが、本作で描かれる計画に加わった9人のうち、少なくとも6人が商人(注8)という点が鍵になるような感じがします。
というのも、江戸時代の商人は、相応の税金を徴収されていないようにも考えられるからですが(注9)。
仮にそうだとしたら、吉岡宿の商人らは、お金を相当に貯めこんで隠し持っていたことになり、本作の計画に対しても拠出できたのかもしれず、現代の観点からしたら、ある意味で、彼らはすべきことをしたまでとも考えられるかもしれません(注10)。
そして、財政逼迫状態の仙台藩の方としては、手間のかかる七面倒臭い所得・財産調査などせずとも、町方が進んで金を持ってくるのですから、まさに渡りに船というところであり(注11)、また商人らとしても、どの程度吉岡宿の中で取引していたのかわかりませんが、吉岡宿の維持・繁栄(注12)は自分たちの商売等にプラスだと踏んだのではないでしょうか(注13)。
ただそうであっても、当代の浅野屋甚内(妻夫木聡)は、一人で2,000貫文(約1億2,000万円)もの大金を出したのであり(注14)、これはおいそれとは出来ないことでしょう。
無論、こんなどうでもいいことをぐちゃぐちゃ考えずに、江戸時代の勇気ある人々の功績を素直に受け止めて、映画を味わえば良いのでしょう。
でも、クマネズミは、どうしても物語の設定の方に関心が行ってしまい、正直あまり乗り切れなかったところです。
(3)渡まち子氏は、「日本人がすべてこのように無欲だとは思わないが、こんなにも純粋で、かつ知恵が働く庶民がいたのかと思うと、なかなかやるじゃないか!とこっちが誇らしくなった」として70点をつけています。
森直人氏は、「主張はシンプルだ。目先の私利私欲を超え、いかに射程の長い未来像を描けるか。群像劇のさばき方は細やかだが、全体のタッチは毛筆で書いた太文字のような力強さにあふれている」と述べています。
(注1)監督・脚本は、『残穢―住んではいけない部屋―』の中村義洋。
脚本は、さらに『残穢―住んではいけない部屋―』の鈴木謙一。
原作は、磯田道史著『無私の日本人』(文春文庫)所収の短編「穀田屋十三郎」。
なお、出演者の内、最近では、阿部サダヲは『寄生獣 完結編』(声の出演)、瑛太は『64 ロクヨン 前編』、妻夫木聡は『家族はつらいよ』、竹内結子は『残穢―住んではいけない部屋―』、松田龍平は『モヒカン故郷に帰る』、草笛光子は『0.5ミリ』、山崎努は『俳優 亀岡拓次』、寺脇康文は『超高速!参勤交代』、きたろうは『樹海のふたり』、千葉雄大は『モヒカン故郷に帰る』、橋本一郎は『森のカフェ』、西村雅彦は『家族はつらいよ』、山本舞香は『Zアイランド』で、それぞれ見ました。
(注2)映画の後半で、この時の先代の甚内は、2階から降りてきて忠兵衛に銭をくれた上で、「借金もかまわない。悪いのは世の中の仕組みのせいで、あんたのせいじゃない」などと諭したのだ、と吉岡宿に戻ってきた忠兵衛が仲間に話します。
(注3)あらまし、次のような内容です。
吉岡宿は、上町、中町、下町からできている小さな宿場町で、住民の殆どは百姓。と言っても、半分は商売で生計を立てていた。でも、近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて、ここのところ景気は酷く悪化。
さらに、伝馬役を負担するために、馬を買ったり人足を雇ったりしなくてはならず、そのために、破産したり夜逃げする者が出てきて、吉岡宿の家の数は年々減少していた。
(注4)同短編が依拠しているのは龍泉院榮洲瑞芝・和尚(本作では上田耕一が扮しています)の記した『吉岡國恩記』であり、それはこのサイトで読むことが出来ます〔同書は、大正15年に「仙台叢書」の中に取り込まれて活字出版され、それをこのサイトで読むことが出来るのです〕。
(注5)磯田氏の著書に「平八が早坂屋を説得したときの一部始終は、のちに『國恩記』に精確に記録された」とあるので(文庫版P.89~P.90)、上記「注4」で触れたサイトにあたってみると、「460 下段 國恩記巻之二」(11/39)以下に記されています。
(注6)例えば、このサイトの記事や、このサイトの回答を参照してください。
(注7)年貢を収めているはずの農民については、本作ではほとんど描かれていないように思います。
ただ、原作の短編小説では、「吉岡宿は貧しい宿場であり、1貫文以上の田畑をもつような者は、わずかに8、9人にすぎないこと。それで、月に6度開く市で小商いをしてようやく糊口をしのいでいるが、その商いも細っている」と述べられていることからすると(文庫版P.107)、半農半商の貧しい者が吉岡宿で家を構えていたようにも思われます。彼らは、田畑については年貢を納めるものの、そして伝馬役の負担はあるものの、小商いの部分について税金は取られていないのではないでしょうか。
(注8)彼らは、造り酒屋が2人(浅野屋は質屋も営んでいます)、そして味噌屋、雑穀屋、両替屋、小間物屋とされています(吉岡宿は宿場町にもかかわらず、不思議なことに「宿屋」が入っていないのです!)。そして、茶師の篤平治を加えれば7人。
なお、残る大肝煎の千坂仲内(千葉雄大)と肝煎の幾右衛門は豪農なのかもしれません(彼らは、検地逃れとか新田開発といったことで蓄財していたように思われます)。
(注9)少なくとも、商人は年貢(米)を収めることはしていないでしょう。
Wikipediaによれば、運上とか冥加が課されていたようですが、それがどのくらいの負担なのかはどうもよくわかりません。とにかく、儲けの一定割合(現代の所得税・法人税のように)といった課税の仕方はされていなかったように思われます(なお、このサイトの「回答」があるいは参考になるかもしれません)。
(注10)現代の視点からすれば、吉岡宿の繁栄という公共目的を達成するのに、その住民が所得に応じて一定の負担をするのは、ある意味でアタリマエのことのようにも思えるところです。とはいえ、当時は、そうした所得(商人の場合は儲け)に対する税金という考え方は取られていなかったので、そんなことを言ってみても意味はありませんが。
(注11)藩の出入司の萱場(松田龍平)は悪乗りし、銭ではなく金で収めるべしと言って、金と銭との交換差額(800貫文←約4,800万円)までせしめようとします。
(注12)上記「注3」にあるように、吉岡宿が「近隣の村々が直接仙台に産物を送るようになり、加えて脇道の街道の方に人が流れて」いるのであれば、宿場の規模が縮小するのは長期的には止めがたいことでしょう。
ただ、十三郎らが伝馬役の負担さえなんとかなれば町の衰退を食い止められると考えたのは、短期的には意味があることと思われます。
なお、その伝馬役の負担ですが、原作の短編小説によれば、「1軒前の家に銭6貫文、半軒前の家に銭4貫文」(1貫文は約6万円)とされています(文庫版P.107)。
〔ここからすると、伝馬役というのは現代の固定資産税のような感じに思えます〕
単純平均30万円で、吉岡宿は200軒ほどの家があるとされていますから、少なくとも6,000万円ほどかかるものと推測されます。
他方で、本作の計画によって毎年藩の方から支給される利息は100両(約3,000万円)。
これからすると、必要額の半分程度が賄われている感じになります。この金額によって吉岡宿で暮らす人々の暮らし向きが良くなるのかどうかはよくわかりません(おそらく、クマネズミの計算に誤りがあるのでしょう)。
あるいは、原作の短編小説においては、篤平治は、「いくら、あれば、この宿を救えるのじゃ」との十三郎の質問に対し、「千四五百両」と答えているのです(文庫版P.24)。ところが、直ぐ後に篤平治は、なぜか「お上に千両ほど貸せば、お上から年に百両ちかく利足がとれるはず」云々と述べて(文庫版P.26)、以降は「千両」しか出てきません。
あるいは、当初の「千四五百両」(約4,500万円)の方が実情にあっていたのかもしれません。
(注13)平均で一人500貫文(約3,000万円)ほどの資本投下に対する見返りは、短期的には微々たるものであっても、長期的に見れば宿場内での取引が盛んになって、それなりのものが期待できると考えられるのではないでしょうか。
(注14)原作の短編小説によれば、穀田屋十三郎以下が550貫文〔ただし、早坂屋新四郎は300貫文、穀田屋善八(中本賢)は200貫文〕を拠出し、これに浅野屋甚内の2000貫文を合わせ、都合5,800貫文(金1,000両)を集めたとされています(文庫版P.166)。
他方で、映画で描かれる女将ときの50貫文とか、穀田屋十三郎の息子の音右衛門(重岡大毅)の250貫文とかはフィクションでしょう。
★★★☆☆☆
象のロケット:殿、利息でござる!