映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ビューティフル

2011年07月31日 | 洋画(11年)
 『BIUTIFUL ビューティフル』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)映画の主人公ウスバルハビエル・バルデム)は、よくもまあこれだけあるものだと見ている方が感心してしまうくらい、たくさんの問題を次から次へと抱え込みながら、それらをなんとか解決すべく、148分という長尺の映画の中であちこち駆けずり回ります。ですが、どの問題も、うまく解決などできるべくもありません。

イ)映画で描き出される様々な問題を少し例示してみましょう。
 まず、ウスバル自身が、膀胱癌で余命2カ月と医者から宣告されます。2人の子供がいるだけでなく、たくさんの問題を抱えていて、とても死んでなどいられないと言ってはいるものの、血尿が頻繁に出たり、気を失ったりと、次第次第に弱っていき、最後の方では、モルヒネ注射を自分でうつようになってしまいます。

 次いで、妻マランブラマリセル・アルバレス)とは離婚していますが、子供2人は彼が、その狭くて汚らしい棲み家で面倒を見ています。彼らが通う学校へ送り届けたり出迎えたりするだけでも大変なところに、宿題の面倒もみてあげなくてはなりません(ですが哀しいかな、英語のbeautifulの綴りを娘から尋ねられて、biutifulと書いてしまうのです!)。



 また、ウスバルは、不法にスペインに入国したアフリカ人や中国人の世話をするなどして手数料を稼いでいます。とはいえ、警察による取締りからお目こぼししてもらうべく、警察の方にも手を回さなくてはなりません。
 それでも、目立つところでアフリカ人たちが商売するに及んで警察も取り締まらざるを得ず、逮捕者には本国帰還の措置がとられるので、結婚でもしていると、ウスバルが残された妻子の面倒を見ざるを得なくなります(注1)。
 さらには、建設業に従事させていた中国人労務者をタコ部屋に閉じ込めておいたら、暖房器具の不具合で20数名全員が中毒死するという悲惨な事態をも招いてしまいます(彼らを温めてやろうということで、わざわざウスバルが購入した器具なのです!)。
 なお、中国人労務者を率いてスペインにやってきた男は、バロセロナにいる中国人を頼るのですが(この中国人が、ウスバルのお得意さんの一人)、彼らは本国においてホモセクシャルな関係にあったとされています。



 以上の簡単な例示からでも、末期癌、子供の養育、不法入国などといった実にシリアスな問題がいくつも、映画で取り上げられていることがおわかり願えるでしょう。

ロ)さらに映画では、上記のような問題に加えて、普通では余り見かけない精神的な面に関することまで描かれています。

 まず、ウスバルの妻だったマランブラは、双極性障害(従前は「躁鬱病」といわれました:注2)で、ある時はウスバルがうるさいと大声で怒鳴るほどに喋り続けたり、彼の弟と陽気に騒いでいるかと思えば(肉体関係もあるようです)、他の時は沈みきって子供たちと食事をしていたりします(何度も診療施設に入って治療を受けているようです)。
 この点が主な原因でウスバルは妻と別れ、なおかつ子供達を自分で育てているのです。



 次に、ウスバルは、死者と交信ができるということで葬式に呼ばれます。眼が開いたまま棺に納められた少年と交信したことによってその父親からお金を受け取りますが(少年はこの世に名残があったが、自分が彼をあの世に旅立たせた、とウスバルは言います)、少年の母親はウスバルを信用しません。ここでは、『ヒア アフター』でマット・デイモンが演じた霊能者と類似の姿が描かれています。

 また、天井から自分の姿を見るという臨死体験としてよく言われるイメージに類似する光景がラスト近くで映し出されます。ウスバルが、死に瀕しながらも隣の部屋をのぞくと、その天井に自分自身の姿を見るのです。
 なお、映画の冒頭では、ウスバルの亡くなったはずの父親が随分と若い時分の姿で彼の前に現れます。それも周り中が雪の森の中というわけですから、おそらくはウスバルの幻覚なのでしょう。父親は、フランコ政権に嫌気がさして、船で新大陸に向かったところ、途中で命を落としたとの話です。
 そして、映画のラストでも、冒頭と同じように、若い時分の姿をしたウスバルの父親と彼とが向かい合う場面が描き出されるところ、これもウスバルの幻覚なのでしょう、過ぎ去っていく父親に向かって、ウスバルは“そっちには何があるの?”と尋ねます。これは、もうすぐ彼自身が“そっち”、すなわち死者の国に行くことを示唆していると思われます(注3)。

 映画には、ウスバルを通して現代のスペイン(ひいては今の地球が)が抱える様々の問題が、社会問題から精神的な問題に至るまで、目一杯詰め込まれていて、見終わるとぐったりするほどながら、同時にトテモいい映画を見せてもらったという感動がじわじわと沸き起こっても来ます。

 ウスバルの役柄は、ややもすると狂言回しになりかねないところ、自分の死が迫っているなかで何とか子供たちだけは生きていける算段を付けておこうとする強い思いが一貫していて、決して狂言回しにはなっていないところがこの映画の良さといえるでしょう。
 そしてそう言えるのも、演じるバルデムの説得力ある演技力によるところが大きいものと思います。




(2)映画は、織田裕二の『アンダルシア』にも登場するバルセロナが舞台とされ、バルテムも、すでに同市を舞台とする『それでも恋するバルセロナ』に出演しているところ、それらの作品で描かれる明るい都市の光景とはマサニ逆の街の様子が、専ら描き出されています。
 なんといっても、バルセロナと言えば、ガウディのサクラダ・ファミリア教会でしょうが、むろんそうした観光名所は、この映画ではほんのチラッとしか見えず、大部分は下町のごみごみした情景ばかりです。でも、それがバルセロナの底辺で生活する者にとっては日常なのでしょう。

 なお、ガウディ(1852-1926)は、敬虔なキリスト教徒であり、政治活動を行ったわけではありませんが、田澤耕著『ガウディ伝』(中公新書、2011.7)によれば、「晩年のガウディは徹底的にカタルーニャ語に執着した」ようです(P.241)。
 ところが、1923年にクーデターを起こして独裁制を樹立したプリモ・デ・リベラ将軍は、カタルーニャ主義を排し、「カタルーニャ語は学校教育など公的な場から追放された」とのこと(P.266)。
 その後、1938年に政権の座についたフランコ総統もカタルーニャ語を禁じましたから、その独裁体制を嫌ったウスバルの父親は、ある意味でガウディに繋がっているといえるかもしれません。

 ところで、ウスバル自身はどんな言葉で話しているのでしょうか?
 劇場用パンフレットのProduction Notes に掲載されている監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥのメモには、「ウスバルは“チャルネゴ”として生まれ、サンタ・コロマの住人の1割に当たる、カスティーリャ語を話す人々の1人だ」とされていますから、カタルーニャ語ではなさそうです。
 同パンフレットに掲載されている八嶋由香利・慶大准教授のエッセイによれば、「この映画に登場する人たちの中で、カタルーニャ語を学習している野は、小学校に通うウスバルの二人の子供だけ」とのことです。

(3)映画評論家は総じて好意的です。
 まず、山口拓朗氏は、「言うなれば、ウスバルは私たち人間が例外なく直面しながらも後回しにし続けている「問い」に答えるべく受難を背負ったスケープゴートのようなものだ。だからこそ、私たちはウスバルの、ときに矛盾や苦悩に満ちた思考や行動に敏感に反応してしまうのだろう。その反応の原因を追い求めようとする人にとって、この作品の価値は計り知れないであろう」として80点をつけています。
 また、渡まち子氏は、「主人公が子供たちに遺したものは、家族で抱き合ったぬくもりだけだ。それでも闇の中から一片の希望を見いだそうとしたウスバルの姿は残像のように記憶に焼きつく。雪に包まれた深い森で、彼は生前会ったことがない父の、若き姿に問いかける。「向こう側には何が…」。死の恐怖から解き放たれ、安らぎがあることを願わずにはいられない」として70点をつけています。
 さらに、福本次郎氏は、「要するにハタ迷惑なひとり相撲を取っているのだが、映画はウスバルの苦悩を浮き彫りにすることで、思い通りにならい“人生”の真実に迫っていく」として60点をつけています。


(注1)ウスバルは、残されたセネガル出身の女性イヘとその子供の面倒を見ることになりますが、最後には、自分の死後自分の子供の面倒をも見てくれるようイヘに大金を渡します。ですが彼女は、そのお金を持ってセネガルに帰ってしまうのです〔この点については、下記の「まっつあんこ」さんのコメントを参照して下さい〕。



 といっても、イヘを責めるわけにもいきません。彼女の方は、自分たちはこの土地ではいつまでたっても異邦人扱いをされるため到底馴染むことが出来ず、機会さえあれば故国に戻りたいと考えていたのですから。

(注2)この双極性障害は、日本人の場合、鬱病患者の10人に1人くらいにしか見られない珍しいもののようです(ただ、作家の北杜夫氏は、ご自分がそうであることを明らかにしています)。

(注3)映画では、撤去されることになった共同墓地の中から、彼の父親の遺体の入った棺を取り出す場面があります。火葬処理をするためですが、その前に棺を開けて父の遺体を確認します。兄の方はとても正視できませんが、ウスバルは遺体の頬に手を当てたりするのです。ウスバルには、父親と通い合うものがあったのでしょう。




★★★★☆




象のロケット:BIUTIFUL ビューティフル

陰謀の代償

2011年07月30日 | 洋画(11年)
 『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』を銀座のシネパトスで見てきました(注1)。

(1)少し前の『ニューズウィーク』誌(6月6日号)に、現在ハリウッドは「続編ブーム」であり、「今のハリウッドに大人の鑑賞に堪える映画を作るチャンスはなく、仲間はテレビに活動の場を求めている」と話す監督もおり、アル・パチーノとかケイト・ウィンスレットの演技が光った映画は、いずれもテレビ映画のために、アカデミー賞の対象にならなかった、などと書かれていて大層残念な感じがしていたところ、そのアル・パチーノが出演する映画が公開されるとわかり、早速見に出かけたというわけです。

 といっても、アル・パチーノが主役ではありません。
 物語は、ニューヨーク市の中でも治安が悪いことで知られる地区を担当する警察署に配属されている警察官ジョナサンチャニング・テイタム)が主人公です。



 彼は、幼い時に、住んでいた公営住宅―犯罪の巣窟とされています―の部屋で麻薬常習者を、恐怖のあまり彼が持っていた銃で撃ち殺し、さらには彼の愛犬を蹴り殺した男を、階段から突き落として殺してもしまいます(こちらはもみ合っているうちに、相手が階段を転げ落ちてしまったのですが)。
 これらの事件の捜査を担当したのがアルパチーノ扮するスタンフォード刑事というわけです。
 彼は、ジョナサンの父親(その時には殉職していました)と警察でコンビを組んでいたという因縁もあり、ジョナサンに犯人の目星をつけていたものの、不問に付してしまいます。



 時が移り、ジョナサンは警察官となって、自分がかって住んでいた公営住宅をも管轄する警察に配属されています。
 すると、16年前の事件のことで、ジョナサンのもとに脅迫状が届けられ、また断片的に地元の新聞に投書の形で掲載され出します。2つの遺体が見つかったのに、警察は何も捜査しなかった、というわけです。
 警察がやり玉に挙げられそうになったために、今や警察委員長となったかってのスタンフォード刑事は、警察の威信を守るべく、警察署長と手を組んでこの事件のもみ消しを図ろうとします。
 さてそれはうまくいくでしょうか、……。

 全体としてまずまずの感じですが、たとえば次のような問題点があるかもしれません。
イ)女性の登場があまりはかばかしくない印象を持ちます。
 主に登場するのは、まずジョナサンの妻(ケイティ・ホームズ:トム・クルーズ夫人)ですが、ジョナサンがなにか隠し事をしているのではないかと夫に執拗に迫る役柄にすぎません
 またもう一人は、警察からの圧力を排して投書を新聞に掲載しようとする地元紙の女編集長。ですが、彼女も、何者かに簡単に射殺札されてしまいます。
 ただ、その役に扮するのは、驚いたことに『Parisパリ』や『トスカーナの贋作』に出演していたフランスの俳優ジュリエット・ビノシュなのです!と言っても、フランス人ではなく、れっきとしたアメリカ人の役を演じているのです。



 でもなんでわざわざ彼女が、と言いたくなるものの、彼女は、アメリカ映画『イングリッシュ・ペイシェント』においてカナダ人看護婦の役をこなしているなど、英語が大層堪能なので何の問題もないのでしょう!

ロ)ジョナサンが犯したとされる2つの殺人は、上記したように、物の弾みといった面が強く、ならば当初スタンフォード刑事がわざわざもみ消しを図らずとも、ジョナサン少年は重い罪に問われなかったのではと思われますし、警察官になった現在でも、わざわざ警察委員長や警察署長が乗り出さずとも、彼一人で十分対応できるのではないか、と思われるところです。

ハ)この事件で犠牲者になるのは、ジョナサンの幼馴染で、今も公営住宅に住み続けるヴィニーで、追い詰められた挙げ句、警察署長を射殺してしまい、そのことで屋上から身を投げてしまうのです。結局、警察としては、16年前の2件の殺人事件の真犯人はこのヴィニーだとして、この事件の幕引きを図り、ジョナサンも以前の生活を取り戻します。
 ですが、この事件を昔に目撃して、16年後に新聞に投書した人物は、それで納得はしないでしょうから、また何らかの手段を用いて、ジョナサンを追い詰めるのではないか、決して何も解決したことにならないのではないか、物語はまだ終わっていないのではないか、と思えるところです。

 とはいえ、アル・パチーノはさすがにアル・パチーノだなと思わせます。
 16年前に、刑事としてジョナサン少年の前に現れ、「君の父親と警察ではコンビを組んでいた」と告げ、問題を自分の中に仕舞いこんでおくように説得します。さらに16年後は、警察の威信を守るべく、警官のジョナサンに、事件のもみ消しは自分らに任せるように説得します。
 この2つの説得において、アル・パチーノの演技のうまさ(特に目の使い方)がいかんなく発揮されているように思われます。

(2)アル・パチーノは、3歳年下のロバート・デ・ニーロと比較されることが多いようです。なにしろ彼らは、映画『ボーダー』(2008年)でニューヨーク市警の同僚刑事の役を演じているくらいですから(注2)!



 ですが、アル・パチーノの姿はなかなか映画でお目にかかれないところ、デ・ニーロの方は、『マチェーテ』や『トラブル・イン・ハリウッド』でその健在ぶりをうかがえます。
 としたところ、TSUTAYAでDVDを探していたら、準新作で『ストーン』にぶち当たりました。
 なんとデ・ニーロ主演とあるではありませんか!でも、公開映画としてPR等を見たことがなかった気もするし変だなと思い、ネットで調べてみましたら、浅草とか新橋の小さな映画館で、本年4月に1週間ほど公開され、ほぼ同時にDVDも発売になったことがわかりました。
 どうりで情報が一般に伝わってこないはずです。

 それで、『ストーン』を借りてきた見たわけですが、なるほどこうした内容では、大々的にPRして公開されないのも分かるなと思いました(注3)。
 というのも、全編が宗教で色濃く塗られているからです。
 この映画の解説等では、不思議なことに、そういった宗教的な側面はマッタク触れられていないため、実際に見てみると、甚だ違和感を憶えてしまうものの、ある意味で、これがアメリカの生活の実際のところなのかも知れないとも思えてきます(注4)。

 いずれにしても、法で裁かれない犯罪者を指摘に制裁してしまう警察官(『ボーダー』)、警察が捕まえた犯罪者を収容する刑務所で働く男(『ストーン』)、そして警察の威信を守ろうとする者達(『陰謀の代償』)と、警察とか犯罪者を巡って描かれる映画のタネは尽きないようです。

(3)渡まち子氏は、「スタンフォード刑事が幼いジョナサンに男の生き方を語るセリフが悲しくも味わい深い。正義や勇気の行動で男になるのではない。男とは“クソみたいな問題を抱えながら”生きていくことなのだ。こう考えているのが、警察の腐敗と戦った「セルピコ」のアル・パチーノなのだから、やるせなさもひとしおだ」などとして65点を付けています。
 また、福本次郎氏は、「映画は警察と一般市民の蜜月関係が終わった’02年、貧困層生活地域に勤務する制服警官が味わう苦悩を再現する」が、「いつしか悪習に染まっていく主人公が哀しい」として50点を付けています。


(注1)原題は『The Son of No One』で、主人公のジョナサンを警察組織の息子と捉えていてそれなりに分かりますが、邦題の「陰謀の代償」では、いったい何を指して大仰に「陰謀」といっているのか、「代償」とは何なのか、と疑問ですし、「N.Y.コンフィデンシャル」という副題まで添えられると、有名な『L.A.コンフィデンシャル』の2番煎じと思われかねません(マア、否定できない面もありますが)。

(注2)この映画は、日本では昨年公開されましたが、今回の作品と同様、銀座シネパレスで上映されたせいなのか、あまり関心を呼ばず、クマネズミも見逃してしまいました。今回、TSUTAYAから借りてきて見てみたところ、アル・パチーノとデ・ニーロは、警察で30年来の親友関係にあるという設定になっています。
 ただ、今回の『陰謀の代償』とは違い、警察内部の腐敗というよりも、司法が取り仕切れない悪人を私的に裁くことを巡ってこの二人の警察官が火花を散らすのです。

(注3)映画の概要は以下の通りです。
 主人公のジャック(ロバート・デ・ニーロ)は刑務所の仮釈放管理官で、面接の結果作成される彼の資料如何によって受刑者の仮釈放が許可されるのです。
 さて、もう少しで定年というところで、ジャックは、一人の受刑者ストーン(エドワード・ノートン)と面接しますが、ストーンはこの面接にお定まりの発言を一切せずに、いろいろジャックの内面を突き動かすことを言い出します。



 どうも、刑務所の図書室に陳列されているある宗教家のパンフレットに強い影響を受けているようなのです。
 他方で、ストーンは、自分を刑務所の外で待っている妻を使って、ジャックの切り崩しを行おうともします。
 最初のうちは、そんな誘惑に抵抗していた彼も、彼の妻が余りにキリスト教にのめり込んでいること(教会に礼拝に行くことは欠かさず、また毎日聖書を読んだりもします)にうんざりしてきていることもあって、ついには深みにはまってしまいます。その挙句、……。

(注4)よく言われることですが、「進化を否定するキリスト教原理主義(聖書無謬主義)が跋扈するアメリカでは、国民の半分くらいは進化を信じていないらしい」のです〔池田清彦著『「進化論」を書き換える』(新潮社、2011.3)P.10〕。



★★★☆☆





ラスト・ターゲット

2011年07月27日 | 洋画(11年)
 『ラスト・ターゲット』を吉祥寺バウス・シアターで見てきました。

(1)『マイレージ、マイライフ』や『ヤギと男と男と壁と』以来のジョージ・クルーニーを近くの映画館で見れるということもあって、出かけてきました。

 冒頭いきなり、クルーニーと女性のセックスシーンと思ったら、深い雪の中を2人が散歩をしにコテージを後にします。と、どこかから銃弾が。
 アッという間もなく、クルーニーがその狙撃犯をいとも簡単に仕留めます。それではコテージにご帰還かという時に、クルーニーは、一緒の女性を背後から撃ち殺してしまうのです。さらに、クルーニーに対する狙撃を背後で指示していた男についても、彼は密かに回り込んで射殺します。これで、クルーニーとこの3人の殺人事件とを結び付けるものは、何もなくなってしまったはずです。
 映画は、冷酷非情な殺し屋の姿を、冒頭の数分間で観客に的確に印象付けます。

 ここまでは、スウェーデンでの話。すぐに場面はローマに代わり、組織の連絡係からの指令で、クルーニーは、ローマの東側にある小さな町に身を潜めることになります。ですが、指示された通りの町(カステルヴェッキオ)ではなく、さらに奥の町(カステル・デル・モンテ)に宿を定めます。連絡係に対する電話などは、指示された町で行って、あたかもその町に宿泊しているかのように振る舞います。
 これも、クルーニーが練達の殺し屋であることを観客に分からせるシーンなのでしょう。暗殺を業とするものは、絶えず別のものから狙撃される危険があることを身にしみて分かっているはずですから。

 潜んでいる間に狙撃用のライフルを制作するよう連絡係より依頼を受け、さらに町で若い女性に会って、クルーニーはその詳細を告げられます。



 他方で、クルーニーは、娼婦(ヴィオランテ・プラシド)と懇ろになってしまい、ついには、今度の依頼を最後に殺し屋の世界から抜けることを決意します。しかし、……。



 クルーニーに暗殺を依頼する組織はどんなものなのか、標的はどんな人物なのか、などと言った背景的なことは、一切映画で説明されません。クルーニーの殺し屋としての仕事が冷酷に描かれているに過ぎません。
 小さな町に潜んでいる間に彼がするのは、窓から双眼鏡で辺りの様子を絶えずチェックし、腕立て伏せとか懸垂などで体を鍛え、そして依頼されたライフルを制作し、といった極めて地味なことばかりです。
 ですが、このままでは終わるはずはない、といった強い緊張感が画面に漲っていて、見る者を決して飽きさせません。

(2)全体として、ジョージ・クルーニーが出演する映画にしては大層渋めの感じですが、そうしたものとしては、以前見たことがある『フィクサー』(2008年)が挙げられるかもしれません。
 その映画のクルーニーは、実にしがないフィクサー(弁護士事務所に所属しますが、表舞台ではなく裏で動き回る“もみ消し屋”)なのです。長年事務所に勤めていても一向に報酬も地位も上がらないままで、つまらない交通事故のもみ消し工作などに従事しています。また、賭博にはまり込んで、かなりの借金を抱え込んでもいます。そんな彼が、最後には、農薬を製造する大企業が絡む薬害訴訟を巡る陰謀で勝利を収めてしまうのです。
 フィクサーとしてのクルーニーは、自分で銃を所持するわけではなく、『ラスト・ターゲット』とは逆に殺し屋の標的となり、乗っていた車を爆破されてもしまいます。でも、丘の上に現れた3頭の馬を見に車を離れたときに爆破されたので、辛くも難を逃れ、むしろ死んだと見せかけることに成功して、流れを逆転してしまうのです。

 『アマルフィー』や『アンダルシア』の織田裕二も、第3作目ではこういう路線を狙ってみるのも面白いのでは、とフッと思ったりしました。

(3)最近日本で公開される映画は、どうしてこうもイタリアを舞台とする作品が多いのか(『トスカーナの贋作』、『ジュリエットからの手紙』、『プッチーニの愛人』など)、これもまたトスカーナ物なのかと思っていましたら、ローマの東側にあるアブルッツオ州の小さな町(コムーネ)が舞台に設定されています(注)。
 トスカーナとは違って、随分と広々とした高原の景色で、周囲の山々を背景に走る車もかなり小さく見えるほどです。描かれる小都市は、丘の上に教会を中心として作られており、なんだか『四つのいのち』の舞台と同じような印象を受けます。
 また違ったイタリアを見る感じで、その意味からも拾い物といえそうです。




(注)映画の舞台となるカステル・デル・モンテは、名前からすると世界遺産のあるプーリア州の同名の町の方が有名ですが、イタリアには同名の町が幾つもあるそうです(詳しくは、例えばこのサイトの記事を参照)。

(4)渡まち子氏は、「どこかおちゃめな役を得意とするクルーニーは、今回はひたすら渋い」、「城壁の街カステル・デル・モンテのロケーションが美しく、世界的な写真家であるアントン・コービン監督の自然光を使った映像が印象的だ」などとして60点を付けています。
 また、福本次郎氏も、「物語は命を狙われ潜伏中の殺し屋が、逃亡先の小さな町でつかの間のやすらぎを覚え、運命の軛から逃れようともがく姿を描く。イタリア山間部の、時間から取り残されたような石造りの町の美しさが主人公の悲しみを引き立てる」、「殺し屋の人生を選んだ人間の心を覆う虚無感と生存本能が静謐な映像の中で強烈にせめぎ合う、見事な緊張感を持つ作品だった」として60点を付けています。



★★★☆☆



象のロケット:ラスト・ターゲット

光のほうへ

2011年07月24日 | 洋画(11年)
 『光のほうへ』をシネスイッチ銀座で見てきました。

(1)昨年『誰がため』を見て感動したことでもあり、デンマーク映画ならハズレはないと思い、映画館に足を運びました。
 実のところ、この映画も『誰がため』同様、かなり深刻な内容です。
 ただ、『誰がため』と同じ様に、主要な登場人物は2人ながら、前作が、ナチスの占領下におかれたデンマークにおけるレジスタンス運動という特殊な事柄を取り扱っているのに対して、本作は、現在の先進国でよく見かける都市生活を背景として作られているので、より訴えるものが大きいのでは、と思いました。

 まず、父親がおらず、酒浸りで家になかなか戻ってこない母親を持つ兄弟―10代前半でしょう―が描き出されます。彼ら2人自体かなり荒んだ生活を送っているものの、もう一人いる乳児の弟の世話だけは何とか続けているところ、2人が酒を飲み過ぎて寝入ってしまった隙に、その弟は死んでしまうのです。



 そこから場面は飛んで、2人は大人になっています。
 まず、刑務所から出所して間がない兄のニックの話となります。別に定職を持っておらず、酒を飲んだり(アルコール依存症でしょう)、ジムに通ったりして毎日を無為に過ごしています(たぶん、公的扶助を受けているために、そうした生活が可能なのだと思われます)。
 次いで、ニックの弟の話となります。妻を交通事故で亡くし、一人息子マーティンと2人で暮らしています。とはいえ、彼も定職は持たず、いつも生活を何とかしなくてはと思いつつも、息子に隠れ、トイレで薬物注射をし続けます(ニックと同様に、公的な扶助に頼っているのでしょう)。



 兄弟は、少年のころに赤ん坊を死なせてしまったことが大きなトラウマになっているようです。むろん、育児放棄してしまった母親に専らの責任があるにもかかわらず、兄弟それぞれの心の傷となって、2人はその後まともな道を歩み続けられないのです(決してそれだけの理由ではないのでしょうが)。
 すなわち、ニックは、暴力沙汰で捕まって刑務所に入っていたわけですし(愛していた女性とうまくいかなくなったことも影響しています)、出所後も、周囲の出来事に絶えずイライラしまくっていて、母親同様アルコールを飲み続けます。
 また、ニックの弟も、自分の息子に、死なせた赤ん坊の名前を付けているほどであり、かつまた薬物依存症から抜けきれません。

 映画の雰囲気からすると、兄弟は、長いことお互いの連絡を絶っていたようなのです。
 ですが、母親の葬儀に際して、教会で一度巡り合います。
 その後、ニックの部屋に近い部屋に住む女性の殺人事件で、ニックは真犯人ではないにもかかわらず捕まります(真犯人は、ニックが愛していた女性の兄で、精神障害者なのです)。
 他方で、ニックの弟は、母親の遺産(共同購入していた家の価値が上昇したことによって、多額なものになります)で麻薬を大量に購入します。最初のうちは自分で販売していますが、売人として経験のある男に売り捌きを依頼したところ、その男が警察へタレこんだために、捕まってしまいます。

 というように、この映画では、アルコール依存症とか薬物依存症、精神障害などといった様々な社会問題が凝縮して描かれているといっていいでしょう。
 とはいえ、問題を提起する告発映画というよりも、それらを背景として、それぞれの人間が何とか生きていこうともがく様が描かれている、大変奥の深い作品ではないかと思われます。

 ですが、問題点がないわけではないでしょう。
 時間の進み具合に、何か違和感を抱いてしまいます。というのも、ニックの逮捕は、デンマーク警察の捜査力が通常のレベルのものであれば、事件が起きてからそんなに時間が経過してからではないように考えられます。
 他方、ニックの弟が逮捕されるまでの一連のプロセスは、かなり時間を要するのではないでしょうか。
 ところが、その2人が刑務所で再会するのです。
 まだ未決拘留期間中ですから、休憩時間中に、若干の距離をおくものの鉢合わせする可能性自体はあるのでしょうが、映画を見ていて、なにかご都合主義的な感じがし、釈然としないのです。

 こうなるのも、ニックが主人公の映画であるにもかかわらず、その弟の行動について、ニック以上の時間を割いて映画が注目しているせいなのではと思われます。
 要すれば、ニックの物語とその弟の物語を、時間の経過を合わせるのではなく、一塊としてそれぞれ別個に描いているがために、見ている方は違和感を持ってしまうのかもしれません。

(2)この作品には、現代社会で見られる様々な問題が取り上げられています。さらに、それらを取り巻くより大きな問題としては、デンマークの大層充実した社会福祉制度が挙げられるかもしれません。
 上で見ましたように、ニックにしても、ニックの弟にしても、定まった職に就いていなくとも、それぞれ一応の部屋に住んでおり、かつまたアルコールや覚醒剤を購入できているのです。
 もう少し細かく見ると、劇場用パンフレットに掲載されている鈴木優美氏のエッセイ「「負の社会遺産」の連鎖という呪縛」によれば、ニックの方は、生活保護(月額約16万円)を受けながら、自治体が提供するシェルターに格安(月額約5万円)で宿泊しているようです。
 ニックの弟の方も、失業中ということで、住宅補助(子供がいる場合、最大で月額約6.4万円)を受け取り、また幼稚園についても費用減免措置があるようです。
 とはいえ、下記の福本次郎氏は、「「ニックの弟」「マルティンのパパ」と呼ばれ名前すら与えられていない男の匿名性は、そのまま高福祉政策を実現したデンマークが抱えるリアルな社会問題。心の弱い者は公的援助に一度どっぷりつかってしまうとそこから這い上がれない、それは国民を甘やかしすぎた政策の強烈な副作用なのだ」と一方的に決めつけていますが、はたしてそこまで言えるのでしょうか?
 なにより、「心の弱い者は公的援助に一度どっぷりつかってしまうとそこから這い上がれない」とありますが、ニックの弟は、生活保護をきっぱりと断っているのですから、この言葉はあまり当てはまらないのではと思います。
 それに、生活保護などの「公的扶助」を「国民を甘やかしすぎた政策」と、そう一概に決めつけることもできないのではないでしょうか(まるで、経済状態が人間の精神を決定するというような古色蒼然とした唯物論でしかありません!)?

(3)この映画では、ニックとその弟が赤ん坊の弟を死なせたことが問題となりますが、その点からすると、先に見た『水曜日のエミリア』が思い起こされます。
 すなわち、『水曜日のエミリア』では、生後3日目で、エミリアはイザベルを死なせてしまいます。そのことで、エミリアは、密かに自分に責任があるのではと思い続けてきました。
 というのも、エミリアも、イザベルに乳首を含ませながら寝入ってしまったからなのです。エミリアは、自分がイザベルを窒息死させたのではないかと、深く思い悩んできました(そのためもあって、イザベルのために用意した用具などを捨てずにそのままにしておいたのです)。
 ところが、ジャックの前妻の小児科医が、イザベルの死因を専門家に問い合わせたところ、「乳幼児突然死症候群(SIDS)」によることがわかり、エミリアの心も晴れてきます。

 二つの作品は、置かれた状況も、そして一方はまだ未成年の話ですし、他方は大人の女性の問題ですから、同じ地平で論じてもあまり意味がないかもしれません。でも、乳児を死なせてしまったことがあと後までも尾を引くという点では、かなり類似しているのではないかと思った次第です。

(4)渡まち子氏は、「全編、悲痛な雰囲気が漂っているが、最後の最後に弟の息子マーティンがニックの手をそっと握る場面が素晴らしい。このシーンは冒頭と同じく光に包まれてい て、物語が見事につながっている。デンマークといえば北欧の福祉国家だが、そんな場所にも暴力や貧困は明らかに存在する。臨時宿泊施設や生活保護があって も、心の豊かさは補えないというメッセージが底辺に流れている」として65点を付けています。
 福本次郎氏は、映画は、「社会の底辺で生きる家族の姿を正面から見据え、人間の弱さを赤裸々にあぶり出す。先の見えないトンネルで見つけた「子供」という希望ですら、彼らにとっては重い負担でしかない。彩度の低い冷やかな映像は、身につまされるようなわびしい感情を象徴している」として60点をつけています。
 また、評論家・村山匡一郎氏は、「「セレブレーション」で知られるトマス・ヴィンターベア監督は、衒いのない物静かな演出で、現実味あふれる世界を提示。その現代社会のドン底人生を象徴的に切り取ったかのような映像は、見ていて痛々しい。そんな中、弟の溺愛する幼い息子の姿が死んだ赤ん坊の末弟と重なり、家族の絆と愛情がいかに大切であるかを伝えて胸に響きわたる」として5つ星のうちの4つ星をつけています。




★★★☆☆





あぜ道のダンディ

2011年07月23日 | 邦画(11年)
 『あぜ道のダンディ』をテアトル新宿で見てきました。

(1)石井裕也監督の作品は、DVDを含めこれまでずいぶん見てきましたので(DVDで見たものについては、石井裕也監督作品「」「」をご覧下さい)、今回の新作もぜひ見なくてはと思って映画館に行ってきました。

 この映画は、タイトル通り、まさに田舎のダンディを描いています。
なにしろ、主人公はソフト帽を被って自転車に乗り、「人を愛するなんて恥ずかしいことだ」なんて洒落たことを口にしながら、そんなことは無理を承知で、二人の子供に対し金のことは心配せずに東京の大学へ行ってこいなどと言い放つのですから!まさに平成の田舎侍ではないでしょうか(“武士は食わねど高楊枝”!)?

 もう少しクローズアップすれば、物語の主人公は、妻を亡くして子供二人と暮らす50歳になる宮田光石研)。北関東(前橋あたりでしょうか)にある家から勤務先の運送会社に向かう時は、自分で自分に活を入れるべく、競馬の騎手が馬の尻に鞭を打つような仕草をしながら、そして競馬の実況めいたことを口にしながら、懸命に自転車を漕いでいきます。
 愛用の自転車は、シティサイクルながら、アップハンドルの純然たるママチャリではなく、フラットバーのハンドルで、サドルも高めのようです。



 この姿が、映画の全体のトーンとなっています。
 もしかしたら、宮田が自転車を漕ぐ姿は、前々作の『川の底からこんにちは』における佐和子満島ひかり)の姿勢を引き継ぐものかもしれません。そこでは、彼女は、父親の経営していたシジミ屋を、なんとかしてもう一度甦らせようと、「中の下」との意識ながらも、その位置で踏ん張って生き抜こうとするのですから!

 それに、佐和子の父親の姿も、宮田に流れ込んでいるとも言えるでしょう。佐和子の父親は、カツラを被りながらも、シジミ屋で働く幾人かの女たちと親密に交際していたようですし、他方、宮田の方も亡くなってしまいましたが、頗る付きの美人の奥さんをもらっていますから。

 ですが、石井裕也監督の作品においては、男はダメ人間というのが通り相場(この点については、前作『君と歩こう』に関する記事の(3)をご覧ください)。
 それが、この映画では、すごい頑張り屋の中年男が主人公なのですから、アレッという感じになります。
 でも、そこは石井監督、宮田だけを放っておくことはしません。中学以来の親友の真田田口トモロヲ)がコンビの相手方として登場すると、画面はモット精彩を放ってきます。
 宮田は、真田が長いこと介護していた父親を亡くしたばかりというのに、毎日のように居酒屋に呼び出して、悪酔いしながら様々の愚痴を聞いてもらうのです。
 それに、宮田は、真田が被っているソフト帽が気になって仕方がないにもかかわらず、さもそれを嫌がっているようなそぶりをしながらも、結局は真田からそれを奪い取って自分の物にしてしまうのです。



 真田だけではなく、宮田が抱える2人の子供の描き方も、実に巧みです。
 長男の俊也が冴えない浪人生というのは、『君と歩こう』のノリオでも同じ(演ずるのも同じ森岡龍)ながら、『君と歩こう』の場合、両親が自殺してしまったのに対して、本作の俊也においては、一見父親に対して反抗的に見えますが、実は深く感謝しているという両面を持っているのです。
 それに、『君と歩こう』におけるノリオは、駆け落ちした高校教師・明美からけしかけられて、弁護士になるべく勉強するのですが、俊也の場合は、自分の学力を弁えて私大に入るも、下宿先はアルバイトで賄える範囲の木造アパートにするという、現実的で地に足の着いた道を歩もうとしています。
 また、高三の長女・桃子(吉永淳)は、援交を何とも思わない友人と付き合っていて、彼女から自分と同じ様にすることを求められるものの、結局は何もしないで自宅に戻ってしまうのでした。そして、普段、父親の宮田と口をききませんが、感謝の気持ちがあるのは俊也と同じです。



 この映画の出来事の一つは、宮田の子供が二人とも同時に東京の下宿に移ってしまうことですが、もう一つは、彼の胃癌騒動です。
 映画の初めの方から、食事が進まず、胃がシクシク痛んで不安になる様子が描き出されます。同僚(藤原竜也)と一緒にトラックに乗っても、ほとんど会話らしい会話をせずに黙りこくっていたりします。
 これは、『川の底からこんにちは』のような事態となるのかな、と思わせますが、宮田が受診する医師を岩松了が演じているのがわかると、観客の方でもチョット待てよという気になり、最後には案の定という場面に至ります。
 というのも、岩松了は、前々作においては役場に勤務する父親の弟役を演じていたところ、なんとも無責任でいい加減な感じを濃厚に漂わせていましたから!

 といった具合に、現代を特徴づける様々な風俗を、次々と巧みに織り込みながら、どこにでもいそうながらも、ちょっと外れてしまっている宮田の人物像が造形されていきます。

 ただ、前々作の『川の底からこんにちは』は、笑いの要素がたくさん詰め込まれていて非常に面白い作品でしたが、それに比べると、今回の作品は、そういった弾けるような面白さはあまり見られないかもしれません。
 ですが、前作『君と歩こう』などの作品は、決してそんなに笑いを誘うようなものではないのであり、むしろ本作は、石井監督らしさが表れているというべきではないでしょうか(といって、『ばけもの模様』以前に見受けられるわけのわからないシーンが見受けられるものでもありません)。

(2)映画のラストのシーンで宮田は、冒頭と同じように、あぜ道で懸命に自転車を漕ぎながら、尻に鞭を入れるのです。
 ただ冒頭からこれまでの間に、生きがいにしていた息子と娘が二人とも東京へ行ってしまい、一人ぼっちで取り残されてしまいました。
 元々は、更に妻がいて4人家族がそこで暮らしていたのです。
 その時の様子は、月明かりの下で、皆で「兎のダンス」(野口雨情作詞・中山晋平作曲)を踊るシーンが幻想的に再現していて、見る者に、この家はきっと良い家庭だったに違いないと思わせます。



 それが、今では宮田が一人で取り残されてしまいました。

 といっても、宮田はそれで挫けるような男ではありません。
 何しろ、彼はダンディなのですから!

(3)ところで、今回作品を見て、石井裕也監督の他の作品を思い返して見ると、やたらと2人組が登場するな、という印象を強く受けます。
 なにしろ、この映画では、宮田と真田とは強い絆で結ばれていますし、宮田のトラックにはいつも相棒(藤原竜也)が同乗しています、また長女はいつも特定の女友達(山本ひかる)と一緒です。
 さらに例えば、前作『君と歩こう』では、浪人生・森岡龍は、高校教師の目黒真希と駆け落ちして、渋谷で一緒に暮らします。
 とすると、あるいは、『漫才ギャング』についての記事の(2)で申しあげたことがここでも当てはまるのかもしれません。すなわち、「3人組は、この映画の安定さを揺さぶる存在」だとしたら、宮田家が3人になった時から(奥さんが存命中は2の倍数の4人組)、その組み合わせは早晩解消される運命にあったのではないか、とも思えるところです。

(4)渡まち子氏は、「“ダンディ”という名の衣を着た中年男に意地と見栄を貫き通させるストーリーは、優しさと笑いに溢れ、時にファンタジーも交えながら巧みに展開し、切なくも魅力的」であり、「主役を演じる名バイプレイヤーの光石研をはじめ、役者陣は皆好演。一生懸命な中年男の美意識をこんなにもカッコよく見せる映画はなかなかない。世の中のお父さん、いや、男性だけじゃなく“ダンディ”に生きる女性までも励ましてくれる、そんな作品だ」として80点を付けています。






★★★★☆



象のロケット:あぜ道のダンディ

蜂蜜

2011年07月20日 | 洋画(11年)
 『蜂蜜』をテアトル銀座で見てきました。

(1)これまで見たことがないトルコ映画という点で興味を惹かれ、なおかつベルリン国際映画祭で金熊賞に輝いた作品でもあるので、それならと映画館に出向きました。
 上映時間103分の間中、映画音楽は流れず、さらには台詞も極端に少ないのですが、全体的に静かな雰囲気にのまれて、最後まで飽きるということはありませんでした(3部作の第1部に相当します:注1)。

 冒頭では、ロバをひいて深い森の中を歩く男ヤクプが、ある高い木の前に来ると立ち止まり、縄を上に投げて引っかけようとします。うまく枝に引っかかったので、それに捕まりながら男は木の上の方に登っていきます。ですが、男の重みに縄のかかった枝が折れて男は下に、という瞬間に画面が変わります。
 今度は、枝の上に置かれたミツバチの巣箱(丸太をくり抜いて作られているようです)の中から大きな蜂の巣を取り出すところが描かれます。



 この作業には、木の下にいる息子ユシフが何かと手伝います(煙を出してミツバチを大人しくさせる器具〔燻煙器〕や、蜂の巣を入れるバケツを、下から父親のいる枝の上に縄を使って送ります)。
 その後の場面では、ユシフの父親ヤクプが、今年は蜂の巣が全然できないから、場所を変えよう、と言っています。
 とすると、これらは実際のことではなくて、ユシフが思い出していること、あるいは夢の中の出来事といったものなのかもしれません。

 映画で6歳に設定されているユシフは、父親から実生活上のことをいろいろ教わるものの、小学校生活はうまくいきません。普通に友達と話せませんし(吃音)、遊び時間には、一人で教室の窓から校庭を見下ろしているだけ、授業中先生にあてられても、上手に教科書を読むことができません。それに、母親ゼーラとも満足に会話ができていないようなのです。



 にもかかわらず、ヤクプと話すときはうまく話せますし(小声ですが)、また暦に書かれている事柄もちゃんと読み上げられるのです。それに、草原に生えている花の名前とか生き物に関する知識は、6歳の子供にしては十分すぎるほど持っています。

 ある時、父親が、ミツバチの巣箱をもっと違ったところに置いてくると言って出かけたきり、帰ってこなくなってしまいます。
 母親のゼーラが必死になって探すも彼は戻ってきません。



 ラストでの人々の話からすると、ヤクピは、離れたところにある断崖に登って巣箱を置こうとしたところが、誤って落ちてしまい亡くなったようなのです。
 その後、ユシフは、一人で森の中に入っていくのでした、そして……。

 この作品では、都会生活を営む我々にはとうの昔に失われてしまった自然と人間との深いつながりが、じっくりと描かれているように感じられます。

 ただ、ブログ「花を増やそう!みつばち百花」のこの映画に関する記事によれば、トルコでは以前から養蜂が盛んだそうで、「映画が撮影されたチャムルヘムシンは、トルコでも最も養蜂が盛んで、全ミツバチの1/4がいる黒海沿岸地方に位置している」とのこと。
 そして、特に、「トルコでは巣蜜が愛好され、巣から分離してろ過した普通の蜂蜜の倍以上」の値段であり、さらにそれが「黒海沿岸地方で薬用にもなるものだとさらに高価(200ドル超/kg)なものになるらしいから、これがユスフの父親が伝統的な方法にこだわる理由だろう」とされています。
 要すれば、映画では、自然と人間との親和的な関係が描かれているものの、その裏側を見ると、やはりここにも資本主義が深く浸透しているということなのでしょう。

 それにこの映画からうかがわれるのは、父親と息子との強い絆です。
 この点については、『プリンセス トヨトミ』に関する記事でも書きましたが、現代の我々には、父親が息子にわざわざ伝えなくてはならないような事柄など、あまり考えられないのではないでしょうか?
 他方、この映画のユシフは、誠に羨ましい限りですが、小さな時分から、父親より実に様々のこと(それも実生活で必至な事柄)を、盛りだくさんに投げ与えられているのです。



 こうなるのも、現代社会にあっては、大部分の人が大きな組織に所属してサラリーマン化してしまい、代々の家業を継ぐということが少なくなったせいなのではないでしょうか?
 ですから、『プリンセス トヨトミ』においても、父から息子に伝えられる事柄といえば、個別的・個人的なものではなく、大阪国の由来といった全般的・抽象的なものになってしまうのでしょう。

(2)この映画を見ると、非西欧の映画ということで、たとえばタイ映画『ブンミおじさんの森』がすぐに思い浮かびます。
 ただ、『ブンミおじさんの森』では、いろいろな霊が登場するなど、随分とファンタジックな森が描かれていて、この映画のリアルな森とは様子が違っているようにも思われます。
 とはいえ、本作のラストでユスフが入っていく森の様子は、実際には何も飛び出したりはしませんが、ファンタスティックな雰囲気を十分持ち合わせているようにもうかがえるところです。

 西欧の映画で言えば、イタリア映画『四つのいのち』に雰囲気が類似していると言えるでしょう。ほとんど台詞がないという点のみならず、本作品のラストで、ユスフが大木の木の根っこのところで横たわりますが、『四つのいのち』では、仲間とはぐれた子山羊がまさに同じ格好をします。

 邦画でいえば、河原直美氏の作品に通じるところが随分あるように思います(注2)。
 例えば、同氏が最初の頃に制作した『萌の朱雀』(1997年)は、奈良の山奥での生活を描くものですし、『沙羅双樹』(2003年)は、奈良の市街における物語ですが、たくさんの木々が風に揺れる映像が印象的でした。『七夜待』はタイの熱帯雨林での話ですし、そして『殯の森』(2007年)では、主人公のしげきが、木の根っこのそばに穴を掘って横たわる場面が描かれています。




(3)渡まち子氏は、「神秘的な森を背景に静かに語られる少年の哀しみの物語。このトルコ映画には詩的という言葉こそがふさわしい」、「寡黙な物語だが、触れると消えてしまいそうなナイーブな映像は、見ているだけで感性が豊かになる。緑あふれる自然が印象的だが、静謐な室内も陰影に富んで美しい」として70点をつけています。
 また、福本次郎氏も、「瑞々しい自然を背景に、人間の存在そのものを浮かび上がらせるかのような詩情に満ちた映像は繊細で調和のとれた写真集を見ているよう」、「説明的な音楽やセリフは一切なく、やや冗漫にも思える長まわしのカットと躍動感に乏しいシーンの連続は、まるで余白だらけの小説を読んでいるよう。しかし、あくまでも抑制の効いた演出は、その余白を埋めるのではなく広げることで観客のイマジネーションを刺激する」として50点をつけています。



(注1)3部作とは、『蜂蜜』の他に『ミルク』と『』。

(注2)このブログの他の記事の中でも、同じような点に触れているところです(たとえば、この記事の「注4」をご覧ください)。





★★★☆☆




象のロケット:蜂蜜

スーパーエイト

2011年07月17日 | 洋画(11年)
 『SUPER 8/スーパーエイト』を渋谷TOEIで見てきました。

(1)生憎スピルバーグ映画のファンでもないので、見ることは見ましたが、よくわからないところ、疑問に思えるところがいくつも出てきてしまい、とても拍手喝采というわけにはいきません。
 それで今回は、そうした疑問点・問題点のようなものをいくつか例示しながら、レヴューを綴ってみました(特段、スピルバーグ・ファンの方でなくとも、簡単にお答えいただける疑問点かもしれません。奇特な方は、コメントをよろしくお願いいたします)。
 なおこうなるのも、一つには、劇場用パンフレットが、映画の全体を見ることなしに作成されていて、はかばかしい情報を何一つ掲載していないことにもよります(何もそんなに秘密主義にしなくともかまわないような映画の内容に思えるのですが!)。

イ)主人公の少年ジョージョエル・コートニー)の母親が工場の事故で亡くなったことが、何度か映画で言及されるものの、ストーリーが展開しても、それ以上のことは母親に何も起こりません。
 単に、ジョーが好きなアリスエル・ファニング)の父親との関係(彼が酔いつぶれて出勤できない代わりに出勤して事故に遭遇)が云々されるだけというのは、お話として勿体ないのではないでしょうか?
 それに、アリスの母親も、飲んだくれの父のもとから去ってしまったらしいのですが、こちらの方は、その写真すらないらしいのも、なんだか腑に落ちない感じがするところです。
 なによりも、お互い好き同士なジョーとアリスが、揃って母親がいないというのも物凄い設定だなという感じがしますし、また初めは対立していた彼らの父親同士も、最後には打ち解け合うというのも、随分と安易なストーリーだなという感じがしてしまいます(こういったところがジュブナイルというわけなのでしょうか?)。

ロ)ジョーらが映画の撮影をしている町はずれの駅で、貨物列車の大事故が起きるものの、なんでそんな大事故になったのか、そしてその事故に何の意味があるのか、結局のところはっきりとは説明されないのです。
 想像するに、捕獲していたエイリアンを空軍が別の地点に列車で輸送していたらしいのですが、何のためにそんなことをする必要があるのか、貨物列車にどうして大量の危険物質や爆発物を積載していたのかもよくわからないままです。
 特に、凹凸のあるキューブ(六面体)がたくさん積まれていましたが、そして最後には、ジョーが密かに持ち出したキューブが、壁を突き破り給水塔に激突しますが、このキューブはいったい何に使われるものなでしょうか(あるいは、エイリアンが宇宙船を建造する際に必要な材料なのかなと思えるところ、そんなものを空軍がどうして用意しているのでしょうか、元々空軍は、エイリアンが逃亡しないように捕獲していたのではないでしょうか)?



ハ)空軍が捕獲していたエイリアンの乗っていた宇宙船が地球に不時着したのが1958年とされ、この映画の時点である1979年(スリーマイル島の原発事故の年)まで20年以上も経過しているにもかかわらず、その間エイリアンが大人しくしていて何事もなかったとは考えられないところです。
 生じたはずの事故などから、空軍は、エイリアンについて子細な情報を把握していたはずです。にもかかわらず、エイリアンに対して、どうして意味もない銃撃をしたり、戦車を繰り出したりの通常の攻撃をするのでしょうか?
 それに元々、単に列車事故に遭遇しただけで、エイリアンは逃げ出せるものなのでしょうか(逆に言えば、そんな簡単なことなら、モットずっと前に、空軍の下から逃げ出していたのではないでしょうか)?

ニ)ジョーら子供達の学校の生物の先生であるウッドワード博士は、20年前に、このエイリアンを研究するチームに入っていたようで(同博士が倉庫に隠していた資料から判明)、その後同研究チームを追われ、突然、今回の大事故を引き起こすわけですが、なんでそんなことをしようとしたのかうまく説明されていません(列車事故を引き起こせば、エイリアンが自由の身になるとでも考えたのでしょうか?)。
 さらに、空軍当局の隊長ネレク大佐は、事故で重傷を負ったウッドワード博士が非協力的な姿勢を示すと、すぐさま毒殺してしまいます。しかしながら、なんでそこまでする必要があるのかよくわからないところです(もっと博士から情報を得る必要があれば、時間をかけて尋問すればいいのですから。また、他に情報を流すことを恐れるのであれば、監禁すれば十分でしょう)。

ホ)結局、エイリアンは、本来的に人類に敵対的というわけではなく、単に自分の星に帰還したいだけだったようで、なんだか『第9地区』のような感じが漂い始めます(この映画に登場するエイリアンがやっていることは、『第9地区』において、自分の星に帰還しようと宇宙船を組み立てていたクリストファーと類似しているのではないでしょうか)。
 そのことは、エイリアンと触れ合うと、テレパシーでコミュニケーションできるようになるために、まずウッドワード博士が理解し、さらにエイリアンに捕まったアリスもわかり、最後にはジョーも理解します。そして、エイリアンがジョーを掴んだ時、ジョーはいろいろ言いますが、それを聞いたエイリアンは子どもたちを逃がしてやります。
 ですが、テレパシーでこんなに話が通じてしまうという方法は、いかにもご都合主義であって、これを持ち出したらエイリアンの意味が半減してしまうのではないでしょうか(本来的にエイリアンは、コミュニケーション不全と同義ではないでしょうか)?
 それに、そんなふうに交信できるとしたら、捕獲されていた20年以上の間に、ウッドワード博士以外の誰も、エイリアンとコミュニケーション出来なかったというのも有り得ないことではないでしょうか?

ヘ)ジョーら子供達がゾンビ映画を作る話と、エイリアンの話とがうまい具合につながってはいないように思われます。というか、別々のストーリーを無理矢理継ぎ合わせたような感じしかしないのです。
 というのも、ウッドワード博士が引き起こした列車事故は、ゾンビ映画の背景に入ってくるだけのことですし(ゾンビ映画の筋の展開とは無関係です)、アリスがエイリアンに捕まってしまうものの、またジョーがエイリアンに向かって話しかけたりするのも、ゾンビ映画とは何の関係もありませんから。


 全体としては、まずまずの出来栄えながら、決してキャッチコピー(“『E.T.』以来の最高傑作”、“歴史的超大作”、などなど)が言うほどのこともないのでは、と思った次第です。
 なるほど、エンドロールで流されるゾンビ映画はなかなか良くできているな(だからといって、それで“映画に対する愛”が感じられる、などといった大仰な話ではないでしょう)と思う一方で、エイリアンを巡るお話はあまり新鮮味が感じられませんでした。
 映画『E.T.』との関連性を云々する向きもあるようですが、『E.T.』に登場する他者と親和性のあるエイリアンと、この映画のエイリアンとはマルデ別物ではないでしょうか(『ミスト』とか『クローバーフィールド』に登場する巨大な怪物の方に類似しているのでは)?といって、別に『E.T.』と同じだからドウというわけではありませんが。

(2)この映画の子供達の行動は、『グーニーズ』と比較されることが多いようです。でも、それでは余りに曲がなさ過ぎるので、ここでは少し『奇跡』と比べてみることといたしましょう。



 (この画像には、主人公のジョーが入っていません)

 まず、子供達の数は、本作の場合6人ですが、『奇跡』も7人とほぼ同数です。
 次に年齢は、本作の場合、主人公のジョーが14歳とされ、他の子供達も同じくらいでしょうから、日本の中学生に相当するでしょう。ただ、『奇跡』では、全員が小学生でしょう(一番大きな航一が小学6年生)。
 小学生と中学生との間には大きな断絶があると思われ、本作の子供達の方が、『奇跡』の子供達よりもズット大人びているように感じられるところです。
 そして、それぞれが成し遂げようとしている目的は、内容は著しく異なるものの一つであって、『奇跡』では、それが中心になって物語が進行します。ところが本作の場合は、もう一つエイリアンというマッタク異質なものが物語の中に入り込んできてしまい、ともすれば彼らの目的は霞んでしまってもいるのです(出来上がったゾンビ映画は、エンドロールの片隅で映し出されるのですから!)。
 『奇跡』が描く子供達の目的は、実に他愛のないものとはいえ、本作よりも受ける印象が強いのは、そういうところからもきているのではないか、と思いました。

 なお、本作では、エル・ファニングが、免許証を持たずに父親の車を運転して、皆を映画のロケ場所に運ぶところ、『奇跡』では、高橋長英が運転する車で坂の下まで運んでもらった後は、目的地に向かって、皆が走りまくります。『アンダルシア』でもそう思いましたが、邦画の場合はどうも走ることが基本となっているように思われるところです。

(3)福本次郎氏は、「まだ動画を撮るのはプロか一部の趣味人だけだった1979年当時のディテールが豊かで、あの時代を生きた観客のノスタルジーを刺激し、また非常にスピルバーグ色の強い映像の数々は「E.T.」を思い出させる」し、「少年たちの感情が手に取るようにリアルで、大切なのは身近な人々との心の交流であることをこの物語は訴える。何より、エンドロールが象徴する、“映画”そのものに対する愛情があふれる作品だった」として80点もの高得点を付けています。
 また、渡まち子氏も、「どこか懐かしい作風にはスピルバーグ映画へのオマージュが満載。SF大作であると同時に、映画への愛を描いた作品だ」、「何よりも、TVドラマの映画化や続編ものばかりの映画界で、ヒットメーカーが手掛けた大作映画が完全オリジナルであるという意味は大きい」として70点を付けています。
 さらに、前田有一氏も、「映画好きのグーニーズたちが、見ちゃいけないものを見てしまうスリラー&アドベンチャー。UFO、異星人との交流、子供だけでの冒険、淡い恋……往年のスピルバーグ映画のエッセンスをつめこみ、最新のVFXとJ・J・エイブラムス監督らしい怪物アクションで味付けした娯楽映画。最新作なのに懐かしい、スピルバーグ世代ならば思わず愛しくなる映像作品である」として65点をつけています。
 ですが、テーラー章子氏は、「行って観てきたが、残念ながら 「グーニーズ」の興奮、「ET」の感動、「スタンドバイミー」の共感を期待していると、そのどれにも裏切られる。強いて言えばトム・クルーズの「宇宙戦争」が好きな人には 見る価値があるかもしれない」として50点を付けています。

 以上の評論家のレビューの中では、最後のテーラー章子氏に共感を覚えます。



★★★☆☆



象のロケット:スーパーエイト

プッチーニの愛人

2011年07月16日 | 洋画(11年)
 『プッチーニの愛人』をシネマート新宿で見てきました。

(1)時間の隙間ができたものの、それに当てはまる映画がこれしかなかったという理由から、映画館に飛び込んだのですが、それにしてはまずまずの出来栄えで、拾い物でした。

 物語は、プッチーニの別荘(トスカーナ地方にある湖の湖畔に建つ)で働くメイドのドーリアが、彼の娘フォスカの部屋で不倫の現場を目撃してしまうところから始まります。
 フォスカは、自分の秘密が暴露されないように、逆に、ドーリアがプッチーニとただならぬ関係にあることを、プッチーニの妻エルヴィーラに告げ口してしまいます。
 エルヴィーラは激怒し、またドーリアの家族の方でも彼女を部屋に軟禁してしまいます。
 困惑したドーリアは、プッチーニに手紙で実情を訴えたりするのですが、一向に埒があかず、教会の牧師までも冷たい扱いをするに及んで、遂に毒を飲んで自殺していまいます。



 実は、プッチーニが愛していたのは、ドーリアではなくて、彼女の従姉妹のジューリアであったらしいのですが、……。

 プッチーニ家のメイドが自殺したことは事実のようですが(1909年)、この映画のお話自体はすごく素朴なもので、なんだかとてもオペラ的な感じがします。

 としても、この作品の特徴は、歌どころか、台詞がほとんどないことでしょう。
 といって、全然誰も何も話さないというわけでもなく、ごく低い声で話したり、短い台詞を言ったりもします。でも、大部分は皆無言で演技します。
 さらに、他の映画だったら台詞のあるところは、この映画では字幕と手紙を多用することで代替しているのです。
 それに、感情の起伏などは、プッチーニのピアノ演奏が表してもいるようです。丁度、物語が設定している時期に、プッチーニはオペラ「西部の娘」を作曲していましたから(1910年)。

 コウ見てくると、本作品は、無声映画といえなくもないでしょう(注1)。丁度、設定されている時代であれば、まだトーキーが出現していませんから、そんな時に映画を製作すれば、あるいはこんな雰囲気になるのかもしれません(注2)。
 でも、若干人の声が聞こえるとか、全体がカラーになっているとか、音楽が画面から聞こえるとか、サイレント映画そのものというにはおかしな感じもします(注3)。

 変わった趣向を取り入れたかなり革新的な映画というべきなのかもしれませんが、実のところは、演出方法や服装等がかなり古めかしいために(オペラ的とでも言うのでしょうか)、とてもそんな風には思われません。話が単純そのものだけに、そんなことを考えながら見てしまいました。


(注1)劇場用パンフレットに掲載されている前田秀国氏のエッセイ「“歌のないオペラ”―『プッチーニの愛人』について」では、「擬似サイレント映画」と呼ばれています。
 あるいは、オペラの無声映画化といってみてはどうでしょうか?
 アリアの部分はピアノ演奏で表現し、レスタティーボの部分は字幕とか手紙で表しているように考えられないこともありませんから。

(注2)サイレント映画の上映に当たっては、弁士と楽隊がつきものとばかり思っていたものですから、先般『愛の勝利を ムソリーニを愛した女』を見たときに、精神病院で開催された野外映画会の場面で、弁士なしのピアノ演奏だけで無声映画の上映が行われているのを見て、そういうものなのかと驚きました。今回の映画においてピアノ演奏が多用されているところからしても、少なくともイタリアにおける上映形式にあっては、ピアノ演奏が切っても切れないものなのでしょう。

(注3)もしかしたら、主役のプッチーニ役に、指揮者として世界的に活躍しているリッカルド・ジョシュア・モレッティを当てたために、映画出演は今回が初めてとのことですから、こうした台詞なしの映画を作らざるを得なかったのかもしれません(その他の出演者も、ほとんどが演技経験がない素人を当てているようです)。




(2)この映画も、最近見た『トスカーナの贋物』や『ジュリエットからの手紙』と同じように、トスカーナ地方を舞台にしています。
 場所は、フィレンツェの西にあるルッカ(プッチーニの生誕地)よりさらに西のトーレ・デル・ラーゴ(Torre del Lago)という町で、Google地図で見ると、町の中心からマッサチウッコリ湖に向かって「ジャコモ・プッチーニ通り」が設けられています。
 映画で見ると、この湖が物語の要の位置にあって、エルヴィーラが、娘に焚きつけられた夫と家政婦の関係を深く疑うようになるのも、プッチーニの後を追うように偶然にドーリアが湖畔に行ったからですし、またドーリアが監禁されるのも、湖畔に設けられた小屋のなか、さらにはジューリアが働く場所も、湖畔に突き出たレストランなのですから。それに何と言っても、プッチーニが女性を乗せた小舟を滑らせるのもこの湖なのです(はっきりとはわかりませんが、どうやらジューリアのようです)。



 なお、プッチーニについては、以前オペラをそのまま映画化した『ラ・ボエーム』を見たことがあるところ、そのオペラは、詩人ロドルフォとお針子ミミとの儚い愛の物語です。
 他方、今回の映画は、プッチーニとドーリアとの間には何もなく、またジューリアとの関係も仄めかされているだけなので、『ラ・ボエーム』と同日に論ずるわけにはいかないものの(特に、『ラ・ボエーム』の舞台はパリに設定されていますし)、恋多きプッチーニと女性との取り合わせは、やはりオペラ的と言えるのではないでしょうか。



★★★☆☆


水曜日のエミリア

2011年07月13日 | 洋画(11年)
 『水曜日のエミリア』をヒューマントラストシネマ有楽町で見てきました。

(1)『ブラック・スワン』でアカデミー賞を獲得したナタリー・ポートマンが出演する映画が、このところ引きも切らず上映されるので、なかで一つぐらいはと思って、映画館に行ってきました。

 この映画は、“子はかすがい”の典型のような感じの作品ではないでしょうか。
 確かに、初めのうちは、エミリアナタリー・ポートマン)と継子ウィリアムチャーリー・ターハン)の関係はうまくいってはいませんでした。
 それもそのはず、ウィリアムは、小児科医のキャロリン(リサ・クドロー)とジャック(スコット・コーエン)の両親のもとで、何不自由なく暮らしてきたにもかかわらず、突然、エミリアが入り込んできてその家族をぶち壊したのですから。
 毎週水曜日は、ウィリアムはジャックたちの家に行く日となっていて、学校の校門のところでエミリアが待ち受けています。それから、翌朝まで、エミリアは、ジャックとともに一生懸命に努力するものの、かえってウィリアムとの関係が悪化するような感じなのです。

 ですが、下で触れるスケート場のエピソードとか、さらにはエミリアの両親(父親は裁判官ながら、つまらない浮気がばれて離婚)とウィリアムが親しくなったりするなどして、次第に縺れた糸がほどけてきます。

 エミリアは、一旦はウィリアムから離れますが、母親キャロリンの再婚に際して、ウィリアムがエミリアを呼んだりしたことから、再度家族が形成されることになるようです(その際も、生まれてすぐに突然死してしまったイザベル(エミリアとジャックの間の子供)のことが鍵となります)。



 このウイリアムを演じるチャーリー・ターハンは、どこかで見たことがあるなと思っていたところ、そうだ『きみがくれた未来』で幽霊として登場する弟のサムだったな、と思い出しました。その映画では、主役のザック・エフロンと、墓地でキャッチボールをするにすぎないものの、とても印象に残りました。
 この映画では、主役は無論ナタリー・ポートマンであり、その心の揺れがきめ細かく描かれているとはいえ、チャーリー・ターハンの巧みな演技なしには、成功はおぼつかなかったのでは、と思います。なにしろ、当初は、エミリアとジャックとの生活にとって障害になっていながらも、最後にはむしろ2人を強く結びつける役割を果たすという随分と難しい役を、彼は実にうまくこなしているのですから。



 ただ、誠に可愛い顔をしていながらも、1997年生まれの14歳なのです(←前田航基は12歳!)。演じるウィリアムは8歳と設定されているようですから、実に6歳もの年齢差があり、若干の違和感は否めないところです。特に、家族を描いた絵が画面に映し出されるところ、その稚拙さは8歳程度のものかもしれませんが、どうも今のチャーリー・ターハンには全然そぐわない感じがしてしまいます。

 ナタリー・ポートマンの方は、ナタリー・ポートマンは、『ブラック・スワン』も結構ですが、こうした微妙な関係にある女性を演じても至極ピッタリで、クマネズミ的には、むしろこれくらいの方が好ましく感じてしまいます。



 それにしても、エミリアとその夫は弁護士であり、さらにはエミリアの父親が裁判官という設定ながら、一度も法廷の場面が出てこないというのも不思議な気がします!

(2)この映画を見て、『マイ・ブラザー』を思い出してしまいました。
 その映画では、刑務所から出所したばかりの男トミー(ジェイク・ギレンホール)が、妻グレース(ナタリー・ポートマン)を寝とったのではと兄サム(トビー・マグワイア)に疑われるのですが、そうなるのも、サムはアフガンで戦死したものとばかり考えられていたからなのです。
 そして、まだサムが戦場から帰還する前、トミーはグレースと一緒に、兄夫婦の子供たちを連れて近くの公園のスケート場に行くのですが、その様子は、今回の映画で、エミリアが、夫の連れ子のウィリアム を連れてスケート場に行く場面と重なってしまいます。



 今回の映画では、ヘルメットを着けずにスケートをさせたことがあとで問題となるものの、実際には、エミリアの指導でウィリアムが一人で滑れるようになって、2人の間でなんとなく信頼関係が作られたようです。
 同じように、『マイ・ブラザー』でも、当初トミーを嫌っていたグレースが、スケート場で子どもたちと打ち解けあっている様子を見て、トミーのことを憎からず思うようになっていきます。

 なお、『マイ・ブラザー』においてナタリー・ポートマンが演じるグレースは、あまり自己主張の強い女性のようには描かれてはいませんが、今回の映画では、彼女が演じるエミリアは、法律事務所で新人として働くようになると、すぐに上司のジャックに魅入ってしまい、出張先で関係を持つようになります。
 この点では、ナオミ・ワッツが演じる『愛する人』のエリザベスに類似すると言えそうです。なにしろ、エリザベスも敏腕弁護士であり、新しい法律事務所で働くようになると、上司のポール(サミュエル・L・ジャクソン)とすぐに性的関係を持ってしまうのですから(尤も、エリザベスは略奪婚はしませんが)。

(3)福本次郎氏は、「物語は自分に厳しく他人にも寛容になれないヒロインがたどる心の変遷を通じ、本当の幸せとは何かを問う。オフィスと家庭、出産と子育て、選択肢が増えた分、迷いも多くなる。映画はそんな彼女が感じている、女として生きるには不確実な時代の空気を濃密に封じ込め、揺れ動く思いをリアルに再現する」として50点をつけています。



★★★☆☆



象のロケット:水曜日のエミリア

アンダルシア

2011年07月10日 | 邦画(11年)
 『アンダルシア 女神の報復』をTOHOシネマズ六本木で見てきました。

(1)前回作品『アマルフィー』が、イタリアの景観を随分と綺麗に捉えており、今度もそんなものが見られるのかなと思い、なおかつ、かなり以前になりますがアンダルシア地方のセビリアとかコルドバ、グラナダに行ったこともあって、それではと映画館に出向くことにしました。

 実際に見てみると、アンダルシアとタイトルにはあるものの、有名なアルハンブラ宮殿などは描かれず、セビリアとグラナダのほぼ中間に位置するLondaという小都市の街の様子が映し出されます。Puente Nuevoを中心とするこの街の変わった景観は随分と素晴らしく、アンダルシアにはレンタカーを使って行きましたから、事前に知っていたらそこまで足を延ばしたのにと残念に思った次第です。



 そんなことはともかく、どうしてアンダルシアが物語の舞台となったかと言えば、資金洗浄マネーロンダリング)に絡んで、外交官・黒田織田祐二)やインターポール捜査官・神足伊藤英明)が目を付けているアンドラの銀行の支配人が、中東のテロ組織の要人と、アンダルシアにある彼の別荘で会合を持つという情報がもたらされたからです。



 その情報を提供したのが、アンドラ公国の銀行で働く新藤結花(黒木メイサ)。



 彼女が通訳を担当していた日本人投資家(谷原章介)の遺体が発見されたというので、パリにいた黒田がアンドラに派遣され、結花と接触するなかで、そうした情報が得られたというわけです。ただ、彼女はどうも一筋縄ではいかなそうな雰囲気を漂わせています。それで、……、という具合にストーリーは展開していきます。

 まあ、前回の『アマルフィー』では、肝心のアマルフィーがストーリー上浮き上がっていて、なぜそこがタイトルになるのか了解しがたい感じがしたところ、今回のアンダルシアは、物語的には一応のつながりが付くようになっています。
 とはいえ、資金洗浄に関係する会合が持たれる銀行家の別荘が、上記のロンダに置かれているわけでもなさそうであり(ロケ地は、もっとずっと西のへレス・デ・ラ・フロンテーラです)、とすると、このロンダの映像は、単にその奇観を紹介するためのものなのかしら?

 さらに、アンドラで危険な目に遭遇した結花を保護するというので、黒田が、フランスにある日本総領事館(たとえばマルセイユにあります)ではなく、いきなりバルセロナの日本総領事館に赴くと、前回在イタリア日本大使館に勤務していた女性外交官(戸田恵梨香)に出くわすという、酷くご都合主義なところがたくさんあるのは、前作と変わりがないようです。



 だいたい、上記の資金洗浄に関与し、日本のヤクザの莫大な資金を仲介しようとするのが、いきなり日本の警視総監の息子(谷原章介)というのが不可解です。さらに彼は、結花の罠に嵌められ切羽詰まって、スキーの滑降途中で崖から転落して自殺しようとするもののうまくいかず、気がついて救助を求めて助かってしまうのも、ハテサテという感じです(崖から墜落したにもかかわらず、顔に擦り傷があるくらいで、何ら骨折もしていません!)。

 また、ホテルから逃げる結花を神足らが追いかける場面があります。アメリカ映画ならば必ずや派手なカーアチェイスとなるに違いないところ、この作品では、関係者が一生懸命走るだけなのです(一個所、黒田らの乗るタクシーに清掃車やトラックがぶつかる場面があります。でも、こんなカーアクションについて、劇場用パンフレットに掲載されている「Production Notes」において長々とした記事になっているのを見ると、かえって物寂しい気がしてしまいます)!

 関連で言えば、この路地を駆け抜けるシーンは、日本のスタジオにその路地を再現した上で撮影したとのこと。映画を見ている最中には気がつかず、その出来栄えのよさに感銘を受けました。ですが、アンダルシアに向かう列車の中でのシーンは、逆に、いかにもスタジオセットでの撮影であることがあからさまで(窓の外の景色のはめ込み方のいい加減なこと!)、拍子抜けしました!

 なんのかんの問題点はいくらでもありそうですが、パリ→バルセロナ→アンダルシアと、ヨーロパを縦断する今回の作品は、前作に比べたらまずまずの仕上がりになっているのでは、と思いました。

 なお、この作品では、インターポール捜査官の神足が抱える事情(警視庁のキャリアながら、不正経理を内部告発したことから、現在の職場に飛ばされ、また幼い子供を一人日本に残してもいる)とか、結花の事情(両親と妹を交通事故で亡くす)とかはかなり明らかになるのに、外交官黒田の持つ事情は、必ずや大きな事件があったはずと思えるにもかかわらず、前回同様、何一つ明らかになりません。



 黒田に扮する織田祐二は、実にさわやかな笑顔が大きな売り物であるはずなのに、このシリーズでは、魅力的な女性(前作の天海祐希とか本作の黒木メイサ)と同室に近い状況に陥るにもかかわらず、ラブストーリーには発展せずに、いつも額にしわを寄せた暗い顔を見せているだけです。
 きっとこれは、第3作目あたりで明らかにされるのでしょう。
 また、そのためもあって、本来なら織田祐二が一人で演じるべき役柄のうちの明るい面を、福山雅治が担って大サービスにこれ努めているのでしょう!

(2)前作の『アマルフィー』が、外務大臣を襲撃する策謀を阻止するお話になっていたのに対応し、今回は、財務大臣(夏八木勲)にスポットライトが当てられています。
 前回の場合、どうして佐藤浩市扮する商社マンらが外務大臣を襲撃しなければならないのか、あまり納得できない感じながら、その話自体を理解するのは容易でしょう。
 それにひきかえ、今回は、財務省の国際事案ということで資金洗浄が選択されていますが、「資金洗浄」と言われてすぐさま分かる一般人は少ないのでは、と思えるところです。
 確かに、映画の中では、財務大臣がG20の場で説明しますし、また劇場用パンフレットにも、「資金洗浄」とはとして、「マネーロンダリングと英訳されるように、読んで字のごとく、汚れたお金をきれいなお金に洗浄すること」云々と記載されているところ、「資金洗浄」の方が「マネーロンダリング」の和訳ではないのか、という点はさて置いても、なかなか理解し難いのではないでしょうか(注)?


(注)劇場用パンフレットに「マネーロンダリングと英訳されるように、読んで字のごとく」とあるところ、日本でもlaundryが実際の発音のように「ローンドリ」といった感じで発音され、「マネーロンダリング」も「マネーローンダリング」、「コインランドリー」も「コインローンドリ」と表記されているとしたら、話はもっと分かりやすくなるのかもしれませんが(といっても、「コインランドリー」は、和製英語のようです)!


(3)渡まち子氏は、「ストーリーは表層的だが、前作「アマルフィ」よりは出来がいい」、「このシリーズ、もはや織田裕二だけの魅力では支えきれないと踏んだのか、サービスショットのように登場する福山雅治も含め“みんなで支え合いましょう”的な雰囲気が漂っていて苦笑する」ものの、「雪深いアンドラから、芸術の都バルセロナ、太陽の地アンダルシアへと移動するにつれ、国際犯罪と日本の権力構造のからみあった糸がほぐれていく。結花の出自や背景の掘り下げが浅いのが惜しいが、新しいタイプの役に挑戦した黒木メイサの今後には期待したい」として60点をつけています。
 反対に前田有一氏は、「隅から隅までたくさんの褒めどころを探すべく『アンダルシア 女神の報復』を見に行ったわけだが、残念ながらそうした要素はどこにも見当たら」ず、「結論から言うと、織田裕二の引力にその他のサブキャストがまるで追いついていない。黒木メイサや伊藤英明ら若いキャストには、織田裕二のように絵空事ハードボイルドを格好よくみせるだけの説得力がいまだ無い。どうみても織田に見劣りするのに、ストーリー上の扱いはほとんど主人公以上。明らかにスポットライトをあてる場所を間違えている」などとして35点しか付けていません。




★★★☆☆






象のロケット:アンダルシア