映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

モンスターズ・ユニバーシティ

2013年07月31日 | 洋画(13年)
 『モンスターズ・ユニバーシティ』の3D・吹替版を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)本作は、『モンスターズ・インク』(2001年)の前日譚。
 前作ではサリーマイクというモンスターがモンスターズ株式会社(Monsters Inc.)で働いていましたが、本作ではその二人がモンスターズ・ユニバーシティ(Monsters Univ.)の学生となって、そこのトップである「怖がらせ学部」(School of Scaring)に入り、様々な出来事の末、結局は退学させられて同社に入社することになるというお話です。



 一番大きな出来事は、同大学伝統の「怖がらせ大会」(The Scare Games)。
 期末試験を台無しにしてしまい、学長に、「怖がらせ学部」に向いていないと宣告され追放されてしまったマイクとサリーは、学長と掛け合って、その大会で優勝すれば元の学部に戻してもらえることになります(ただし、「負ければ大学を辞めてもらいます」と言われてしまうのですが)。
 そこで、二人は「OK」(ウーズマ・カッパ:注1)というサークルに入って、6名のモンスターから成るチームを結成します。
 ただ、マイク一人やる気があるものの、「OK」の他のメンバーは、実力のあるサリーを除いて落ちこぼればかり。
 ですが、他のチームが失格したりしたためなんとか「OK」は生き残り、最後に、最強のチームである「RΩR」(ロアー・オメガ・ロアー:注2)と対決することに(注3)。
 さあ、「OK」は勝ち抜くことができるでしょうか、……?

 アニメですから当然のことながら、モンスターといっても皆、実にユーモラスな存在でちっとも怖くはありません。となると、外見はともかく、本作で描かれるモンスターの行動は人間とまるで同じようにみえ、わざわざこうした作品に仕立てる意味がどこにあるのか、といささか疑問に思えてきます(注4)。それでも、実にカラフルな画像が映し出され、それも3Dですから、おのずと映画の中に引き込まれてしまうのですが。

(2)まったくどうでもいいことながら、モンスター達がこの大学(注5)で学ぶ意味は奈辺にあるのでしょう?

 だいたい、入学が認められる「モンスター」にはどんなものが含まれるのでしょう(日本の大学のような厳しい入学試験はないのかもしれないものの、受験資格は問われるでしょう)?
 公式サイトの最初のページなどで見られるモンスターたちの集合写真からすると、ゴジラのような怪獣とか、日本の各種の「お化け」といった妖怪は入っていないようですから、いわゆる怪物に資格が与えられているのかもしれません。
 でも、それらの線引きはどうなっているのでしょう?

 あるいは、外国籍のものの留学は、この大学では認められていないのでしょうか(注6)?
 もともと、モンスターズ・インクやモンスターズ・ユニバーシティのあるモンスター・シティ自体が、かなり閉鎖的な都市なのかもしれません(TPPの対象として開放するとしたら、こういうところから手を付けていったらどうでしょう)。

 また、この大学のトップの学部が「怖がらせ学部」だとしたら(注7)、大学で教える学問のトップは「人間をいかに怖がらせるか」に関するものでしょう。
 でも、「怖がらせる」〔あるいは「怖がる」(be scared:注8)〕というような、酷く主観的で、人により、地域により、民族によって違い、決して普遍的なものではないことについて、モンスターたちは大学でいったい何を学ぶというのでしょうか?
 確かに、実際の人間世界では美術大学とか音楽大学などが設けられており、“芸術”というわけのわからないことがらが教えられているのですから、「怖がらせる」ことについても学問が成立するのかもしれません。
 とはいえ、その場合の学問としては、「美術」における美術史や色彩理論だったり、「音楽」における音楽史や音楽理論だったりするように、「怖がらせる」ことに関する歴史とか理論ということになるでしょう。
 そうだとしたら、本作においては、「怖がらせ学部」にマイクは不適とされていますが(注9)、むしろ話は逆で、ナイト教授の講義のみならず、関係の著作をいろいろ読破して自分のものにしているマイクこそが、優秀な大学生として学長に表彰されるべきなのではないでしょうか(注10)?



 なお、このアニメを見に来ている幼い子供たちに、モンスター・ユニバーシティに設けられている学部とかサークル組織などについて、どの程度理解できるのか〔日本の大学の部とかサークルとも違うようですから(注11)、正直、クマネズミには分かりません〕、やや疑問に思えます。

 それはともかく、モンスターの教育という観点はかなり興味をそそります。
 でも、アレッ、モンスターって子どもから大人に成長するものなの?
 そもそも、誰がモンスターを産むのでしょう?モンスターに性別があるのかしら(注12)?
 そういえば、大学時代で最重要事項の一つの恋愛は、本作ではどこへ行ってしまったのでしょう?

(3)渡まち子氏は、「夢をあきらめない大切さを描いてきたディズニー/ピクサー作品だが、この前日譚では、理想と現実のギャップを知る苦味とともに、叶わない夢を希望に変える自分探しのマジックがテーマになっているところが新しい。そんなストーリーには現代社会の閉塞感をうっすらと感じてしまうのだが、絵の具箱をひっくり返したようなカラフルなビジュアルが、堅苦しいことを忘れさせ、楽しませてくれた」として60点をつけています。



(注1)Oozma Kappa(Kappaはギリシア語)。

(注2)Roar Omega Roar(Omegaはギリシア語)。

(注3)「怖がらせ大会」の決勝戦では、余りに熱心に勝負に挑んでいるマイクを見て、サリーがマイクを勝たせようと不正な小細工をしてしまい、それでマイクは「RΩR」のキャプテンに勝つことができます。でも、サリーは、どうしてそんな小細工を施すことができたのでしょうか?その情報を彼はどこから仕入れたのでしょう。「RΩR」の方はなぜその情報を同じように事前に取得できなかったのでしょう?
 なお、マイクはその不正を知って、トロフィーを学長に返還すると同時に、自分の実力を大学の外で試してみようと考え、大事件を引き起こしてしまいます。

(注4)製作者たちは、「劇場用パンフレット」を見ると、本作についていろいろ語っています。
 例えば、監督・ストーリー・脚本のダン・スキャンロン氏は、「「人生は思い描いたようには進まない」というテーマを前面に打ち出しました」と述べ、製作のコーリー・レイ氏は、「「自分が何者であるのかを探究する」ことを物語の核にしました」と言っています。
 でも、そうしたありきたりの人生訓話めいた事柄を知ることは、逆に本作を見る上で妨げになるのかもしれません。
 「怖がらせ大会」での不正行為を知って、マイクが獲得したトロフィーを学長に変換するところからは(上記「注3」参照)、ジョージ・ワシントンばりの教訓を得ることが出来るでしょうし(映画『フライト』における機長ウィトカーの告白!)、そんなつまらないことより何より、本作の色彩の素晴らしさとか3Dを堪能してもかまわないのではないかと思います。

(注5)ユニバーシティですから総合大学です(「劇場用パンフレット」によれば、同大学には、「怖がらせ学部」の他に、「工学部」、「教養及びモンスター学部」、「理学部」、「経営学部」の5つの学部が設けられています)。

(注6)もしかしたら、モンスター・ワールドの日本支部のようなところに、モンスター・ユニバーシティの分校が設けられているのかもしれません。
 というよりか、日本の「お化け屋敷」の方がその元祖とは考えられないでしょうか(なにしろ、「天保元年(1830)」に遡るというのですから!)?
そこには様々の怪物や妖怪などが参集し、日々、入場する人間に悲鳴を上げさせるべく知恵を凝らしているのですから〔いくらでも悲鳴ボンベ(scream canister)を作ることができるでしょう!〕!
 さらに言えば、本作に登場するマイクですが、彼は、霊長類ヒト科傘お化け属に分類されるべき存在ではないでしょうか(サリーは、霊長類ヒト科雪男属)?

(注7)モンスターの本質が「人間を怖がらせること」にあるから「怖がらせ学部」がトップだとすると、日本において医学部が偏差値からするとトップになっているのは、人間の本質をどう見ていることになるのでしょうか?

(注8)この記事を参照。

(注9)マイクは学長から、「勉強しても身に付かないものがある。もともとあなたは怖くない」と言われてしまいます。ですが、そうだとしたらこの大学の存在意味はどこにあるのでしょうか?

(注10)ここで問題になるのは、実技に関することでしょう。
 いくら理論面で優秀でも、実践が伴わなければダメだという考え方があります。
 マイクの場合、どう頑張っても人間の子供を怖がらせることはできません。でも、理論を身に着けていれば、サリーのような才能のあるモンスターを使って、より怖がらせることができます(本作のラストの方では、そのやり方で人を思い切り怖がらせて、エネルギーを生み出し、人間の世界からモンスター・ワールドに戻ってくることができました)。
 大学の使命は、実践よりもむしろ理論の確立にあるのではないでしょうか?
 実践の方は、在野の職業的な専門家に託した方がいい結果が現れるのではないかと思えるところです。
 でも、日本では、ごく僅かの例外を除いて、音大を出ていないプロの音楽家とか美大を卒業していないプロの画家はうまく育っていないようです。

(注11)例えば、このサイトの記事とかこの記事が参考になるでしょう。

(注12)本作に登場する学長ドラゴンに似たモンスター)とか、「怖がらせ大会」に出場するサークル「PINK」(Python Nu Kappa)の所属するものは、女性のモンスターのようですが?



★★★☆☆



象のロケット:モンスターズ・ユニバーシティ

風立ちぬ

2013年07月29日 | 邦画(13年)
 アニメ『風立ちぬ』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)随分しつこく前宣伝をしていましたし(特に、松任谷由美の『ひこうき雲』入りで)、興業収入が100億円達成かなどともいわれるので、見るのをやめようかとも思いましたが、久しぶりの宮崎駿監督作品でもあり(注1)、映画館に行ってきました。

 確かに、本作では、映し出される田園風景が美しく、また主人公・二郎の少年期の夢が大層幻想的に描かれていて、そうした点に関してはなかなか凄いなと思いました(注2)。

 でも、クマネズミにとり全体としてピンとくる映画ではありませんでした。
 実在の飛行機設計技師・堀越二郎(注3)と、小説『風立ちぬ』のヒロイン〔小説では「節子」:本作ではなぜか「菜穂子」(注4)〕とを合わせて一つの作品の中に描き込もうとしているものの、二人のつながりが随分と希薄なように思えるからです。
 接点のありそうもないものを無理やりくっ付けたのではという印象を拭えません。

 主人公の二郎は、ヒロインの菜穂子が重い結核であるにもかかわらず、2人で生活し、キスをしたりベッドを共にしても、結核に全く感染しません。それに、菜穂子が高原の療養所(注5)に戻ってしまっても、後を追うこともなく飛行機の製作に没頭します。
 なんだか、彼にとって、菜穂子の存在は、人間ではなくて飾り人形のようなものではないかと思えてしまいます。



 いくら国の要請に従って早急に使命を達成しなくてはならない状況に主人公が置かれているからといって、婚約者を放ったらかしというのは、恋愛物語としたら酷く不十分ではないかと思いました。

 こうなるのも、主人公のモデルにした実在の堀越二郎が仕事に邁進するタイプの人物であり、それを名前も変えずに描こうとしたために、小説のヒロインと深く関わり合いを持ち得なくなってしまったからなのでしょう(注6)。
 他方、小説『風立ちぬ』では、主人公の「私」と婚約者の「節子」とが一緒に高原の療養所で暮らすのです。今回の映画の二郎ように、自分の仕事は目いっぱいやって、残りの少々を婚約者の方に振り向けるという中途半端な状況ではありません。もっとずっと厳しい状況下にありました(加えて、小説『風立ちぬ』を書いた堀辰雄自身も結核にかかっていました)。

 さらにまた、本作は、ゼロ戦より前の「九式単座戦闘機」を開発したところの昭和10年で終わっていて、先の戦争との関わりは殆ど描かれていません(注7)。単に、一人の優秀な技術者の夢の実現の過程(注8)を描き出した作品といった感じです(それに、恋愛話が少しかかわってくるわけです)。

 それはそれで一つのやり方とは思います(注9)。でも、そうだとしたら、どうして同じ時期に宮崎氏は、『憲法を変えるなどもってのほか』という文章をわざわざ発表したのでしょうか(注10)、この映画の作り方ではなんだかはぐらかされたような感じがしてしまいます(注11)。
 この映画を積極的に評価する評論家は、作品が戦争について黙っていることについて意味を見出そうとしています(注12)。しかしながら、そうした評論家が言っていることは常識的な域を出ない感じがしますし、実在の人物と小説のいいとこ取りをしているようにみえるこの作品は、宮崎氏一流の企業家精神(世界市場に向けて制作するという)の表れではないかとも思えてしまいます。

(2)渡まち子氏は、「ファンタジーを語る時代ではないと言い、リアルを目指した本作だが、ストレートな社会批判に偏らず、あえてロマンにこだわった宮崎流の希望の物語になっている。この作品の“風”はどこまでも美しい」として75点を付けています。
 他方、前田有一氏は、「アクションに期待できず、ドラマづくりの根幹たる人物造形と演技力が史上最悪レベルとくれば、もうどうにもならない。それでも途中退席せずみられるレベルに仕上げるのだから、天才監督というのはすごいものだ」などとして40点しか付けていません。




(注1)監督作品としては、2008年の『崖の上のポニョ』以来でしょう。

(注2)小学生の二郎が蚊帳の中で寝ているときに見た夢では、家の屋根の先端に取り付けられた飛行機が、二郎の操縦でアチコチ飛び回り、川の橋の下をくぐり抜けるのですが、それは、『借りぐらしのアリエッティ』のラストで描かれる川の光景を思い浮かべました。
 また、実在のカプローニをモデルとする人物が二郎の夢に現れ(二郎の夢とカプローニの夢がくっついたりします)、「戦争が終わったら、100人の客を乗せる大西洋を横断する飛行機を作る」、「爆弾の代わりにお客を乗せるのだ」、「飛行機は美しい夢だ」、「設計家は夢に形を与えるのだ」などと語ったりします。



(注3)実際の堀越二郎の家族については、このサイトの記事を参照。

(注4)この点については、映画の評価はクマネズミと異なるものの、このサイトの記事が興味深い議論を展開しています。
 しかしながら、小説『奈穂子』の主人公が「勝手に療養所を抜け出して中央本線に乗って新宿に出てきてしまう」という一つのエピソードを、宮崎氏が本作に取り入れてはいるものの、本作における奈穂子の話の全体は小説『風立ちぬ』に依っているのではないでしょうか?
 それに、本作の奈穂子の「毅然とした姿は(小説の)「菜穂子」であって「節子」ではない」とサイトの筆者・冷泉彰彦氏は述べていますが、小説『奈穂子』の主人公は、そんなに“毅然”とした態度で列車に乗ったわけもなく、衝動的に病院を抜け出し自分でもよくわからないまま列車に乗ってしまったように見えるところです〔例えば、その「22」には「(奈穂子は)最初は、只そうやって頭から雪を浴びながら歩いて来て見たくて、裏道を抜ければ五丁ほどしかない停車場の前あたりまで行ってすぐ戻って来るつもりだった」とあります〕。

(注5)富士見高原療養所。
 なお、この療養上で療養した著名人は、このサイトで分かります。
 興味深いことに、最近新聞書評で取り上げられることの多い『耕せど耕せど―久我山農場物語』(東海教育研究所、2013.6)を書いた伊藤礼氏(文学者伊藤整氏の息子)もここに入っていたことがあるとのこと!

(注6)二郎は、20歳の時、列車に乗って群馬から東京の大学に向う時に、たまたま奈穂子に遭遇し、途中で起きた関東大震災のために足をくじいて動けなくなっていた使用人のお絹を背負って、上野の家まで送り届けます。ですが、二郎は名前を告げずにすぐに立ち去ってしまい、30歳の時に軽井沢で再会するまで奈穂子には会わずじまいだったのです(一度家に行ったことがあるとは言っていますが)。
 二郎は、どうやら重要な場面からはすぐにフェイドアウトしてしまう人物のようなのです(軽井沢でも、強い風に吹かれて飛んできたパラソルをつかまえて父親に差し出しますが、そこはそれだけで終わってしまいます)。

(注7)本作のラストの方で、空襲を受ける都市の遠景とか、ゼロ戦の残骸が描かれますが。

(注8)主人公が仕事として取り組んでいるのは、より効率的な兵器を作り出すことに過ぎません。
 いくら設計が仕事とはいえ、そんな仕事に没頭する人物を映画のメインの主人公にすること自体が非常に疑問に思われます(確かに、彼の作り出したゼロ戦は、開戦当初華々しく活躍しましたが、それは敵機をたくさん撃ち落としたことであり、日本の技術水準の高さを証明するものの、本当に賞賛すべきことなのかどうか考える必要があるのではないでしょうか。特に、ゼロ戦は、攻撃を専らに考えられている戦闘機で、防御は殆ど考慮されておらず、敵機から銃撃されると簡単に火を吹いてしまうシロモノなのですから!)。

(注9)宮崎監督の手になる本作の企画書には、「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」と述べられています。

(注10)そして、なぜ、鈴木プロデュサーが、「まんが雑誌とかで、戦争に関係するものをいっぱい知っているわけですよ。戦闘機はどうした、軍艦はどうした、とか。でも思想的には、戦争は良くないと思っている。その矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべきなんじゃないか。僕はそう思った。年も年だし。これはやっておくべきじゃないか」などと発言するのでしょうか(このサイトの記事によります)?

(注11)宮崎監督の憲法改正に関する見解がここに掲載されていましたので、読んでみました。

 そこには、「本当に愚かな戦争をした」「馬鹿なことをやった国に生まれてしまった」「日本はひどいことやってる」「本当に日本人はダメだと思いました」などと書いてあるところから、宮崎氏は先の戦争、及びその時代を担った大人たちについて物凄く否定的にとらえているように思われます。
 とはいえ、そういうことと憲法改正に反対することとは、随分と距離があるものと思います。宮崎氏の文章では、そこの橋渡しが全くなされずに、いきなり「憲法を変えることについては、反対に決まっています」と言うのですから面喰ってしまいます。

 でも、ここは政治的な議論をする場ではないので、これ以上は控えましょう。
 ただ宮崎氏は、「今、はっきりしなきゃいけないのは、産業構造をどうするかとい問題です。「自分たちの食うものや着るもの、住むものは自分たちで作ろう」という思想を持たずに、ただ消費して、あとは全員がサービス業みたいな、そんな国にしたってしょうがないし、うまくいくわけがないに決まってます」と書き、「日本の適正人口は3500万人ぐらいだと思います」と述べています。
 ですが、これは現代を江戸時代に戻すべきだと言っているに等しいわけで(確かに江戸時代は鎖国をしていましたから、自給自足経済だったし、人口も3,500万人くらいだとされています!)、空理空論もいいところです。
 まさか、士農工商の世界が理想的だと言っているのではないでしょうが!

 宮崎氏は、もしかしたら本当は日本人が心底嫌いなのかもしれません。人口が今の4分の1くらいでかまわないと言ったり、なによりも「人がいなければ日本はものすごくきれいな島だと思った」「日本の国や日の丸が好きになったのではなく、日本の風土というのは素晴らしいものだという認識を持つようになりました」と堂々と述べたりしているのですから!

(注12)例えば、森直人氏は、「二郎は自分の孕(はら)む罪や矛盾について、表には葛藤を見せない。しかし彼の寡黙を責める矛先は、現代社会に生きていくだけで環境破壊やグローバリズムの歪(ゆが)みに加担してしまう、観客の我々自身にも跳ね返ってくることは自覚すべきだ」と述べます。
 でも、「環境破壊」と「グローバニズムの歪み」とは併置されるものなのかしらと思ってしまいます。
 また、高橋源一郎氏は、7月25日付けの朝日新聞の「論壇時評」の中で、本作には「戦闘シーンは少なく、また、戦争遂行への声高な批判もない。それは、なぜだったのだろうか」とし、「映画の後半、結核で亡くなる妻は、夫である二郎に「あなた、生きて」という。それは、戦争で亡くなったすべての人間が生き残った人びとに贈ったメッセージなのかもしれない、とぼくは思った。もちろん、死者はなにもしゃべらない。生き残った者が、そう聞き取るだけだ。戦争の死者のメッセージは、宮崎自身のメッセージと溶け合って、未来の世代に手渡される」と述べています。
 ただ、わざわざそんなことを言われなくとも「生きて」いますが、と観客は思うのではないでしょうか?
 さらに、樺沢紫苑氏は、「この映画では、直接的な「戦争」のシーンというものが一つもないにもかかわらず、「戦争」の虚無感と悲惨さを見事に描き出しているとも言えます。「夢実現」の先にあったものは「虚無」。これは、非常に意外な帰結であるとも言えます。自分の作りたい作品を自由に作り、そして日本人から、いや世界から最高のアニメ作家として称賛されている宮崎駿が、今感じているものは、おそらく堀越二郎と同様の「虚無感」や「不全感」ではないのか・・」と述べています。
 いや、「虚無感」を感じるのは、この映画を見た観客ではないかと思うのですが?



★★☆☆☆



象のロケット:風立ちぬ

25年目の弦楽四重奏

2013年07月26日 | 洋画(13年)
 『25年目の弦楽四重奏』を有楽町の角川シネマで見ました。

(1)『ザ・マスター』での演技が素晴らしかったフィリップ・シーモア・ホフマンが出演する映画だというので見に行ってきました。

 結成25周年目を迎えた弦楽四重奏団の「フーガ」は、それを記念する演奏会の曲目として、ベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第14番」を取り上げることにします。
 ですが、同四重奏団には色々な難題が降りかかってきます。
 まず、チェロのピータークリストファー・ウォーケン)がパーキンソン病の初期であることが判明します。
 彼は今季限りで引退すると言い、代わりのチェリストを見つけようとします。



 すると、ビオラのジュリエットキャサリン・キーナー)は、ピーターが引退するなら自分も辞めたいと言います。

 さらには、ジュリエットの夫でもある第2ヴァイオリンのロバートフィリップ・シーモア・ホフマン)は、チェリストが代わるのなら四重奏団は新しく出発することになるのだから、演奏形態も変わるべきであり、その場合には、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンとを交代でやりたいと主張し出します。



 すると、それを聞いた第1ヴァイオリンのダニエルマーク・イヴァニール)は、ロバートは第2ヴァイオリンとしては非常に優れているものの、第1ヴァイオリンとしての素質を持っていないと反対します。



 一気に弦楽四重奏団「フーガ」は解散の淵に立たされますが、さらにはプライベートな面でも考えられないことが明るみに出て、さあどうなることやら、……?

 原題の「A Late Quartet」の“late”には、第14番がベートーヴェンの“後期の”弦楽四重奏曲であることとか、この話が「フーガ」という弦楽四重奏団の“後期の”活動についてのもの、あるいはチェロのピーターの“晩年の”引き際に関するもの、というように様々な意味合いが込められているように思われます。
 さらには取りようによっては、ベートーヴェンの第14番の音楽の展開そのものが、この物語の進行とタイアップしているようにも思えてきて(注1)、全体としてとても充実した素晴らしい作品に仕上がっているなと思いました(注2)。

(2)弦楽四重奏団の団員間の軋轢については、丸谷才一著『持ち重りする薔薇の花』(新潮社)が巧みに描き出しているところ、以前、映画『カルテット!人生のオペラハウス』に関するエントリの(2)で取り上げましたので、ここでわざわざ繰り返すには及ばないでしょう。

 それにしても、本作の場合、各団員間の関係は複雑です(注3)。
 それが、ラストに至って25周年記念の演奏をすると、わだかまりが嘘のように融けてしまうというのは、ベートーヴェンの第14番が持つ摩訶不思議な魔力によるものなのでしょう!

 そのベートーヴェンの第14番に関しては、本作の中でも様々なことが言われます。
 まず、チェロのピーターが、この曲について学生に講義をする中で、「詩人のエリオットが最も愛した曲だ」と述べ、さらに、「全ての楽章が途切れることなく演奏されるために、長い間弾くと調弦が狂ってくるが、どうするか分からない」と語ります。
 また、第二ヴァイオリンのロバートは、シューベルトが死の床についたときに仲間がこの曲を演奏したというエピソードとともに(注4)、「この曲を弾く前に、いつも、シューベルトの死の床の周りにいると想像するんだ」と、自分の娘アレクサンドライモージェン・プーツ)に話したりします。

 でも、第14番にとってそんなエピソードめいた事柄などどうでもよく、吉田秀和著『私の好きな曲』(ちくま文庫)がいうように、この曲は、「ひときわよく書けた、そうして深い内容をそなえた音楽」であり、「ことに、第3楽章の変奏は完璧なもので」、「フガートで入ってくる第1楽章もバッハの最高のフーガに劣らない出来栄えであり」、「終楽章のアレグロは、……自然で無理に力瘤を入れたようなところがまったくなく、微妙というずばぬけていて、しかも、ユーモアを失っていない。気品もあ」って、「要するに、名作である」という評で尽きているのではないかと思います(P.15~P.18)。

 なお、『鍵泥棒のメッソド』において香川照之が扮した殺し屋・コンドウが一番愛好する音楽もこのベートーヴェンの第14番でした!

 また、本作では、次の二つの詩が引用されています。
 オグデン・ナッシュ(注5)の『OLD MEN』という詩(注6)が地下鉄の広告に書かれているのを女の子が読み上げます。
 あるいは、ピーターの心境をその詩が表現しているということなのでしょうか(注7)?
 
 さらに、T.S.エリオットの『四つの四重奏』の第1部「バーント・ノートン」の最初の方が、映画の冒頭に引用されます(注8)。
 劇場用パンフレットに掲載されている「Q&A」で、ヤーロン・ジルバーマン監督は、この詩に関し、本作では、「今を生きること、時間と共に訪れる変化を理解すること、どんなにあがいても時間には抗えないという事実などを描いた」と述べています(注9)。

 本作は、こうした詩の引用とか、あるいはニューヨークのフリック・コレクションにあるレンブラントの『自画像』の前でピーターとジュリエットが語るシーンとかが織り交ぜられて、その芸術的な雰囲気を一層盛り上げているように思います。

(3)渡まち子氏は、「クラシックファンにはたまらないカメオ出演もあり、音楽映画としても見所は多いが、何よりも、仲間、夫婦、親子、恋人と、さまざまな形で調和を模索する大人の人間ドラマとして味わいたい」として65点をつけています。
 また、東大の藤原帰一教授は、毎日新聞で、「見終わったら音楽を聴きたくなり、音楽を聴いたら生きる喜びと悲しみが胸に沁(し)みる。音楽によって表現し、音楽によって救われる映画」だと述べています。




(注1)例えば、本作の最初の方で4人が第14番を練習するのですが、最初に、第2ヴァイオリンのロバートが、「全部、暗譜でやろう」と言い出すと、第1ヴァイオリンのダニエルが、「そんなことは無意味だ。楽譜への書き込みは思想だよ」と反論します。暫くすると、ビオラのジュリエットが、「気分が乗らない」と話し、チェロのピーターが「自分がダメだ、次回にしよう」と言って練習を打ち切ります。
 こんなシーンは、第14番の第1楽章が四声のフーガの形式で書かれ、同じ旋律が次々に楽器を移っていくのに対応しているようにも思われます。

 また、第14番で一番長い楽章の第4楽章は主題と6つの変奏で構成されているところ、本作でいえば、愛情という主題を巡っての4人のいろいろな人間関係がそれに対応すると考えてみてはどうでしょうか〔ロバートとジュリエット、ロバートとピラール(下記の「注3」を参照)などと数え上げていくと6つになるかもしれません(補注)!〕?

(注2)俳優陣は、フィリップ・シーモア・ホフマンを除いて、あまり馴染みがありません。ただ、キャサリン・キーナーは、『トラブル・イン・ハリウッド』や『脳内ニューヨーク』で見ています(マーク・イヴァニールは『トラブル・イン・ハリウッド』に出演していたようです、印象に残っておりません)。
 なお、ロバートとジュリエットの娘・アレクサンドラに扮したイモージェン・プーツが、なかなか魅力的でした。




(注3)例えば、ロバートには第1ヴァイオリンとしての素質がないとダニエルが言っていると妻から聞き、さらには妻ジュリエットがそのことに反論しなかったことから、ロバートは酷く傷つき、ジョギング中に知り合った女・ピラールと一夜をともにしてしまいますが、それがジュリエットにすぐに気付かれてしまい、家から出て行くように宣告される破目になります。

(注4)このエピソードについては、このサイトの記事にも書き込まれています。
 なお、Wikipediaの第14番に関する項には、「シューベルトはこの作品を聴いて、「この後でわれわれに何が書けるというのだ?」と述べたと伝えられている」との記述が見られます。

(注5)Ogden Nashについては、このサイトの記事を参照してください。

(注6)詩は、このサイトに掲載されています(なお、同詩は、1931年の『Hard Lines』の中に収録されているようです)。

(注7)その次のシーンでは、ピーターがカフェで、まず薬を飲んでからコーヒーを飲んでいるものですから。

(注8)詩の初めの部分は、このサイトの記事の後半に、訳とともに掲載されています。
 ただ、訳としては、こちらの城戸朱理氏の方がより分かり易いと思われます。

(注9)例えば、こんなシーンが該当するのかもしれません。ピーターは、ジュリエットの母親が亡くなった時に、そのとき彼女とともに結成していた弦楽四重奏団を解散してしまいますが、そのことを今酷く悔みます。しかし、もう取り返しはつきません(「All time is unredeemable」)。彼は、新しいチェリスト(ニナ・リー:実際のブレンターノ弦楽四重奏団のチェリスト)を見つけ出して、最後の演奏会の時に他の3人の中に突然投げ入れ、四重奏団を次の段階に進ませてしまうのです。


〔補注〕その他には、ダニエルとジュリエット、ダニエルとアレクサンドラ、ピーターと妻のミリアム(実際のメゾソプラノ歌手のアンネ=ゾフィー・フォン・オッターが演じています)、それにジュリエットとアレクサンドラの関係が挙げられるのではないでしょうか。



★★★★☆



象のロケット:25年目の弦楽四重奏

台湾アイデンティティー

2013年07月23日 | 邦画(13年)
 『台湾アイデンティティー』をポレポレ東中野で見ました。

(1)台湾の霧社事件を取り扱った『セデック・バレ』を4月に見たこともあり、滅多に行かない映画館(注1)に足を伸ばしてみました。

 本作は、戦前に日本語教育を受けたことがある台湾人を取り上げているドキュメンタリー作品(酒井充子監督)です。
 登場するのは6人。皆相当な高齢ながら、いずれも至極達者な日本語を操ります。

 例えば、92歳になる男性(宮原永治)は、18歳のとき台湾で日本軍に入り各地を転戦(注2)、終戦時はジャカルタにいたところ、収容所から逃げ出した日本人兵士と一緒にインドネシアの独立のためにオランダと戦いました(注3)。今でもジャカルタに住み、アイデンティティーとしてはインドネシア人だとはっきりと言います(注4)。



 また、82歳になる男性(張幹男)は、母親が日本人のところ、戦後台湾独立運動にかかわったため27歳の時に逮捕され、8年間も離島に置かれた政治犯収容所に入れられました。出所後は台湾で日本語ガイドをし、その後旅行社を立ち上げています(注5)。今でも台北にある会社の会長として活躍し、台湾人が自分たちの国を作るのが希望であり、アイデンティティーを持つのは台湾しかないと言い切ります(注6)。



 いわゆる台湾の日本語世代の人たちが、まだ何人も存命で元気に暮らしていると分かり驚くだけでなく、そうした台湾人にとっては、まだまだ戦争は過去のものとなっていなのだな、他方で日本にいる我々はこうした映画によって初めてそんな人たちの存在を知り、いとも太平楽に暮らしているものだ、それにしてもあの戦争とはいったい何だったのか、などといろいろ考えさせられてしまいます。

(2)本作で特に興味をひかれたのは、80歳になる台湾原住民(ツオウ族)の女性(高菊花)の父親のことです〔勿論、戦後、歌手になった高氏自身のことも興味深いのですが(注7)〕。
 彼女によれば、父親(高一生)は、台湾の師範学校を出て派出所の巡査になり、また蕃童教育所のリーダーにもなったとのこと。
 なんと映画『セデック・バレ』でも、同じように師範学校を出て巡査になり、蕃童教育所で教えていた者(セデック族出身の花岡一郎)のことが、随分と描かれているのです(注8)。
 高氏の話では、父親は「自分はコウモリだ」と言っていて、日本と中国との狭間にいるものの悩みを持っていたとのことですが、映画で描かれる花岡一郎も同じ悩みで苦しみます。

 さらに、父親は戦後、自治体の長を務めていたところ、1952年に汚職で逮捕され(高氏によれば、原住民による自治を言い出し当局に睨まれたために、無実であるにもかかわらず捕まったようです)、その2年後、銃殺されてしまいます(注9)。
 父親が逮捕されるまでの8年間家族で暮らしていた官舎が当時のまま残っているのですが(今では観光案内所)、本作では、そこに高氏が映画スタッフらを連れていきます。両親の仲がよくとても幸福だったと彼女は言うものの、そんな悲しい思い出があるので、早々に引き揚げます(注10)。

 なお、彼女自身も父親の関係で当局から何度も尋問され、初めのうちは身に覚えのないことなので否認していたものの、約20年後に嫌々ながら自首証を提出して自由の身になったとのことです。

(3)また、90歳になる男性(黄茂己)の青年時代の体験も興味をひきます。
黄氏は、台湾で学校の教員をしていた時分に(注11)、1947年の二・二八事件に遭遇するのです。
 彼は、「自分も襲撃に誘われたが、武器がなく指導者もおらず、成功するかどうか疑問に思え、直接的には参加しなかった」、「事件の後は、裁判なしに、嫌疑だけで銃殺された(仲間も2人銃殺された)」などと語ります。



 この事件については大変感動的な映画『非情城市』(1989年)を通じて知っていましたので、黄氏の話は印象的でした(注12)。

(4)監督の酒井充子氏は、本作の前にすでにドキュメンタリー作品の『台湾人生』(2009年)を制作しています。ただ、そのDVDはTSUTAYAで借りることができないので、代わりに著書『台湾人生』(文藝春秋、2010)を読んでみました。
 同書でも、本作と同じように、台湾の日本語世代の何人かが取り上げられています。
 例えば、1926年生まれの女性(陳清香)は、「あのころは、自分は日本人だと思ってたよ。それが、戦争が終わったら日本は出て行って、はい、さよなら。20歳で今日から日本人じゃありませんって言われて、どうすればいいの?」、「日本人の先生がおるし日本人の友達がおるのに、どうして日本はわたしたち孤児をかわいがってくれないの?」、日本は「勝手に自分が逃げて帰って、あとは知らない」などと語ります(注13)。

 また、同じく1926年生まれの男性(蕭錦文)は、17歳の時に義勇志願兵に応募して、インパール作戦にも参加しながらも生き延び、21歳の時に台湾に戻ってきます。
 そして、「たったひとつ、政府から「過去の台湾の軍人軍属のみなさん、ごくろうさんでした、ありがとうございました」、そのひと言がぼくはほしいんですよ。それを願っとるんですよ。どうしてひと言だけでももらえないかと。年金ももらっていない。日本人だけにしかやれないそうです。なんでこんなにまで見捨てられてしまうのかと、これがわたしはほんとに悔しいです」などと語ります(注14)。

 同書で取り上げられている台湾人は、どちらかと言えば、日本との関係に重点を置きながら語っているようですが、本作の場合はむしろ戦後自分たちがどういう思いで生き抜いてきたかの方を語っているように思われました。

(5)映画評論家・佐藤忠夫氏は、「これは、日本人のもっとも良き友だったこの人たちのことをぜひとも記録に残しておきたいという思いにかられて作られた6人の台湾人のインタビューであり、ドキュメンタリーであ」り、「台湾に幸あれ、と、見ていて心から思う」と述べています。




(注1)以前『怒る西行』を見たことがあります。

(注2)宮原氏は、「日本の兵隊として戦地に出るのは誇りだった」と言います。
 ただ、他方で「我々の世代は、戦争で明け暮れた。生まれた時期が悪かった」とも語りますが。なお、日本からは「旭日単光章」をもらったと見せてくれます。

(注3)宮原氏によれば、インドネシア独立にために戦った残留日本兵1,000名のうち700名が戦死し、現在の生存者は宮原氏を含めて2名とのこと(彼は、「カリバタ英雄墓地」にある戦友の墓に参拝に行きます)。

(注4)戦後、宮原氏は、日本企業の現地駐在員となり、日本へ出張する際に1度だけ台湾に行ったようです。その際に父親に会ったものの、「危険だからすぐ帰れ」と言われたと語ります(当局に尾行されている感じだったとも)。

(注5)張氏によれば、旅行社では、出所した政治犯を多く受け入れたそうです。当局からは、そんなことは止めろと言われたが、止めたら暴動が起こると反論して続けたと語ります。

(注6)張氏は、「日本が台湾を去った後、蒋介石が入ってきて、今や「中華民国」という国名が付いているが国でも何でもない。台湾人は見捨てられた民族だ」などと語ります。

(注7)彼女は、小さいときから両親によって日本人として教育され、本家に行くと皆が手を使って食事をしていたところ、自分はそれが出来なかった、などと話します。

(注8)花岡一郎については、『セデック・バレ』についてのエントリの「注3」を参照してください(蕃童教育所については、同じエントリの「注2」をご覧下さい)。
 なお、酒井充子氏の『台湾人生』の中には、台湾原住民のタリグ・プジャズヤン氏が、「日本人の警察は、原住民と同じような生活をして、原住民を嫌わないで、原住民風な身なりをして暮らしていた。そこまでやったんですよ。だから、親しまれたんですね。でも、原住民と警察の関係が良くないところもあった。霧社がそうだったんですね」と語っているところが掲載されています(P.141)。
 こういうところからすると、1930年の「霧社事件」のことを描くのに、『セデック・バレ』のような手法(セデック族の視点に立って事件を描き出す)もあるでしょうが、もう少し広いパースペクテブに立って、台湾の他の地域と比較をしながら事件を描くということも考えられるかな、とも思いました。

(注9)いわゆる「白色テロ」といわれるものでしょう。
 劇場用パンフレットに掲載の「キーワード解説」の「白色テロ」の項には、「台湾では、国民党政府により1949年から1987年まで38年間にわたる戒厳令が敷かれ、この間に数多くの人々が謂われなき罪で逮捕、拘禁、拷問、銃殺された」と書かれています。
 この戒厳令に関しては、映画『モンガに散る』についてのエントリの中でも触れています。

(注10)本作のラストの方で、高氏とその妹や弟が父親の墓参りをします。 その際に、父親が愛好していたというベートーヴェンの交響曲をラジカセで流します(父親が実際に好きだったのは第5番だったところ、弟さんは第9番のCDを持ってきてしまうのですが)。こういうところからも、彼女の父親の人柄が偲ばれるようです(父親はピアノを弾き、また11曲ほど歌も作曲しているようです)。

(注11)黄氏によれば、19歳で台湾の中学を出て、神奈川県の功場で働き、甲府生まれの女性と暮らしていたところ、父の病気が重くなったため妻と一緒に台湾に戻り、学校の教員になったとのこと。

(注12)黄氏は、その書斎の机には『広辞苑』などが置いてあり、また妻を偲んで作った短歌を詠み上げたりもし、今の日本人とは比べものにならないほどの日本語の教養を持ち合わせている一方で、教え子とは北京語や台湾語を交えて気さくに話したりもするのです。

(注13)日本人が敗戦に伴って台湾を突然去ってしまう光景は、映画『海角七号』でも印象的に描かれていました。

(注14)映画『トロッコ』でも、尾野真千子が扮する母親・夕美子が訪ねて行く台湾人の義父が、蕭氏と同じような不満を漏らします(エントリの「注4」を参照)。



★★★★☆




樹海のふたり

2013年07月18日 | 邦画(13年)
 『樹海のふたり』をユーロスペースで見てきました。

(1)お笑いコンビが主演であり、また富士山が世界文化遺産に登録された直後でもあることから、映画館に行ってきました。

 物語の主人公の竹内板倉俊之)と阿部堤下敦)の二人は、テレビ番組制作会社でフリーのディレクターとしてドキュメンタリー番組を制作しています。



 あるとき、自殺しようと富士山の麓に広がる樹海にやって来る人を取り上げたら面白いのではと思い立ち、自殺志願者が現れるのを、樹海の入口にあるバス停付近に止めた車の中から、カメラを構えながら待ちます。
 それらしき人がバスから降りて樹海に入っていったら、後を追いかけて、その人をつかまえ、心境などをインタビューしながら自殺を思いとどまらせますが、その一部始終をカメラに収めて番組を作るという訳です。
 二人は、そうした自殺志願者に騙されたり、あるいは逆に見逃してしまって自殺され悔やむ破目に遭うなど、樹海で様々な体験をします。
 一方で二人は、それぞれのプライベートな生活において問題を抱えており、樹海での番組制作とそうした問題とが絡み合いつつ物語が進んでいきますが、いったいどうなることやら、……?

 このところお笑い芸人の映画進出をいろいろ見かけるところ(注1)、本作に出演しているインパルスの二人は、すでに何本か映画に出演していることでもあり、まずまずの演技振りではないかと思います。とはいえ、性的シーンとなると(注2)、やはりプロの役者のような根性はまだ持っていないように見受けました。

(2)本作はタイトルからすると、自殺をテーマにした作品のように見えますが、自殺そのものには深入りしておらず、むしろそれを取材して番組に仕立て上げようとするディレクターの生活振りの方に重点が置かれていて、そこらあたりが見る者になんだか違和感を与えます。

 勿論、自殺してしまう女も映画の中で描かれはするものの、彼女がなぜ自殺するのかについて何も説明されません(注3)。
 他方で、二人が樹海で道に迷った際に助けてくれた自称・自殺志願者の八木きたろう)は、自殺する理由を二人にめんめんと語ります。ところがあとで、その話は重要な点で嘘であることがばれてしまいます(注4)。



 また、別の自殺志願者は、その妻を探し出して会わせると、いとも簡単に元の生活に戻ってしまい、竹内も「あれは最初から自殺する気などなかったな」とつぶやく始末です。

 それに、竹内に関しては、6年前に妻(遠藤久美子)が3人の子供を道連れにガス自殺を図ったことがあるのですが(注5)、彼女がなぜそんな大それたことをしようとしたのか、その後どういう経緯で今があるのか、といったことについて映画の中で説明がありません(注6)。



 もっと言えば、自殺については、精神的な問題の比重が高いことがよく指摘されるところ(注7)、本作ではその領域には足を踏み入れません。
 その一方で、竹内の精神障害の長男・光一については、映画でかなり時間が割かれるのです(注8)。

 それに、阿部が抱えるプライベートな問題は、もっと自殺との関連性が見つかりません(注9)。

 本作は、樹海を取り上げることによって「死」を見据えているようでいながらも、実際には「死」と直接的な関わりを持たない事柄の方に力点が置かれてしまっていて、そのため「再生」のインパクトが弱くなってしまっているのでは、と思われました(注10)。

(3)樹海と聞くと、映画方面では、本年1月に公開された『青木が原』が浮かぶところ、どうしても見る気にならなかった作品であり、かつまたDVDも出されていません。
 そこで代わりに、ネットで探して見つけた『樹の海』(2005年)をTSUTAYAから借りてきて見てみました(注11)。

 同作は、樹海で自殺した(あるいは自殺を図った)人を巡る4つのエピソードがオムニバス的に構成されている作品です。
 例えば、第1話は、ひょんなことで樹海をさまようハメになった男(萩原聖人)が、自殺した男の死体と向き合って色々話しますし、また第3話は、自殺した女性の痕跡を辿る探偵(塩見三省)と大企業の課長(津田寛治)との話しが専らとなっていて、一見自殺と関係がなさそうに見えますが、探偵が調べる動機が、自殺した女性の楽しかった思い出を何とかかき集めようとする執念にあるので、そうとも思えなくなります。

 大雑把に言ってみれば、本作『樹海のふたり』が樹海を外側から見ているのに対して、同作はむしろ内側から見ているような感じを受けました。

(4)読売新聞の恩田泰子氏は、「それぞれの逸話を丁寧に描いたために長く感じられるのが残念だが、2人に同道した後に見る樹海の風景は、当初と違っているはずだ」などと述べています。




(注1)オリラジの『津軽百年食堂』とか、品川ヒロシの『漫才ギャング』、笑福亭鶴瓶の『おとうと』などなど。

(注2)阿部とホテル従業員小森烏丸せつこ)とが関係を持ちます。
 なお、彼女は、稀代の詐欺師であることが最後にばれて警察に捕まりますが、阿部も、製作費の80万円をネコババして彼女に貢いだことを竹内に告白します。
 (なお、小森も、当初は自殺志願者として樹海に現れ、それがホテル従業員になったと映画の中で噂されますが、実際には詐欺師であることがバレ、彼女と結婚してもかまわないとまで思いつめていた阿部の眼も醒めるわけで、このエピソードは自殺とは無関係だと思われます)

(注3)自殺志願者に違いないと思って阿部がカメラを構えながら彼女の後を追いかけると、逆に猥褻な画像を撮影していると逆襲され、這う這うの体で逃げ出すところ、夜中に、竹内が、彼女は自殺するに違いないと言い出し、慌てて二人が樹海に戻って探すと、すでに自殺した後でした。
 なお、二人が樹海を探索すると、並んだ遺骨が2体見つかります。あとで、その自殺者の年齢が70を超えていることが分かりますが、どうしてそんな高齢者がそのように自殺することになったのかについては何の説明もありません。

(注4)とにかく、生活が行き詰まり、思いあまって妻を殺してきたとの話ですから尋常ではありません。八木は結局娑婆に戻りますが、暫くして連絡が取れて二人が会うと、また色々の出鱈目を話し、竹内から20万円くすねてドロンしてしまいます。

(注5)竹内が家のことは妻に任せっきりでいたがためにという理由は考えられます。でも、それでは余りにありきたりすぎるのではないでしょうか?そして、その後の6年間、一家はどのように暮らしてきたのでしょうか?

(注6)仕事明けで戻ってきた竹内が、ドアの下からガスの臭いが漏れてくるのに気づき、あわてて家の中に入り窓を開け放ったりして、事なきを得ます。

(注7)例えば、この記事を参照。

(注8)光一は単なる自閉症というのではなく、アスペルガー症候群だとされ、最初のうちはトイレの水が流れて行く様に関心を集中させていますが、竹内の自宅パソコンに映し出された画面に、樹海で撮影された美しいクモの巣の画像があるのを見つけると、今度は興味をそれに集中させるようになります。

(注9)印刷業を営んでいた父親が認知症なのです。

(注10)なにしろ、竹内の長男・光一は、クモの巣の画像に触発されて絵画に目覚め、映画のラストで「アウトサイダー・アート展」を開くまでになるのですが、それは自殺とは直接関係がありませんし、また阿部は、認知症の父親を施設に入れ、印刷所をたたんで不動産業に就職しますが、それも、自殺とはただちに関係しません。

(注11)この映画評がとても参考になります。




★★★☆☆




インポッシブル

2013年07月12日 | 洋画(13年)
 『インポッシブル』をTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)ナオミ・ワッツユアン・マクレガーが出演するという情報だけを持って映画館に行ってきました(注1)。

 本作は実話(true story)を基にしており、2004年12月にスマトラ島沖地震で発生した大津波に襲われたタイのリゾート地(注2)が舞台です。
 大津波の直前、ヘンリーユアン・マクレガー)とマリアナオミ・ワッツ)が、子ども3人を連れてクリスマス休暇中にこの地のホテルへ、勤務地の日本からやってきたというわけです。



 そして、彼らが滞在して3日目の26日のことです。子ども達がクリスマスプレゼントを楽しんでいると、突然ホテルの前庭に植えられている椰子の木が倒れ、次いですぐさま大津波がやってきて、アッという間に皆が呑み込まれてしまいます。
 サア、この家族はどうなるのでしょうか、…?

 実際には遭遇していないものの、3.11の被害の有様を様々な映像などを通じて知っている者としては、いくら迫真の作品を見せられてもやはりドラマにすぎないのでは、それにしては随分単調なドラマの作りになっているなと思ってしまいます。

 確かに、CGではない大津波の場面は迫力がありますし(注3)、津波に襲われた後のリゾート地の有様や、負傷者などでごった返す病院の有様などは真に迫るものがあります。
 また、本作でアカデミー賞の主演女優賞にノミネートされたナオミ・ワッツの演技もさすがに素晴らしいものがあります。



 さらには、ストーリー的には、長男ルーカストム・ホランド)の活躍には目をみはります。



 ですが、ただそれだけの映画といえないこともありません。
 そのくらいの映画ならば、これまでにいく度となく作られてきているのではないでしょうか(注4)?
 何より、この映画にはめぼしいドラマがありません。なにか捻りの利いたドラマを創出して貰わないと、同じような場面の連続では飽きてもこようというものです。

 とはいうものの、やはりこの作品が事話(true story)に基づいていて、映画のラストに、実際の家族5人(スペイン人のマリア・ベロン一家)の画像が映し出されると、そんな感想でオシマイにしていいのかという気になってきます。

 大津波に遭遇した5人が再会するのは、とにかく生き残ってさえいれば、様々な紆余曲折があるにしても時間の問題でしょう(注5)。でも、あの5人が大津波の中で生き残るということ自体が跳び越えられそうもない途轍もなく高いハードルではないかと思いました。
 なにしろ、母親のマリアでさえ、脚に大怪我をしてやっとの思いで病院に運び込まれ、そこでも命が危なかったくらいなのです(注6)。
 まして、幼い子ども達(注7)が3人とも濁流の中に巻き込まれたものの(注8)、溺れもせずに、さらには襲ってくる様々な物体にもぶつからずに無傷で助かるなどということが起こったのですから、驚くほかはありません。

 各人が助かる確率自体がものすごく低かったでしょうし(特に、3人の子どもが無傷で助かる確率は極端に低かったでしょう!)、その5人が皆助かる確率となると、それらを全て掛け合わせたものとなって、限りなくゼロに近づいてしまいます。
 普通だったら、そんなことはありえないとして諦めることでしょう(注9)。
 でも、現実に、そのゼロに近い確率のことが起きたのですから、これは凄いことだと思いました。

(2)渡まち子氏は、「スマトラ島沖地震に遭遇した家族が再会を果たした奇跡の物語「インポッシブル」。人間の生命力と家族愛に満ちた感動作」として70点をつけています。




(注1)ナオミ・ワッツは、最近では、『恋のロンドン狂騒曲』とか『愛する人』などで見ていますし、ユアン・マクレガーは、『砂漠でサーモン・フィッシング』や『人生はビギナーズ』を見ました。

(注2)プーケット国際空港から北に車で約1時間のところにあるカオラックのビーチ。

(注3)劇場用パンフレットに掲載の「Production Notes」には、「最初の巨大で破壊的な波が海岸をのみ込む10分間のシークエンスを作るのに1年を要した」とあり、担当したスタッフは、「デジタルの水は十分にリアルとはいえない」と考え、「唯一の選択肢は本物の水を使うことだった」云々と述べられています。

(注4)例えば、最近ではクリント・イーストウッド監督の『ヒア アフター』。そこでは、パリの超売れっ子TVキャスター(セシル・ドゥ・フランス)が、東南アジアのリゾート地で大津波に出遭って、あやうく死にそうになります。

(注5)例えば、病院での細菌感染もあるでしょうし、あるいは言葉が通じないことから来る齟齬もあるでしょうから、こんな場合の人捜しも難事業ではあるでしょう。

(注6)マリアは、何度も水の中に沈みながらも、木にしがみついてやっとのことで濁流を逃れたものの、流れてきた物体に当たって負ってしまった脚の怪我で満足に歩けず(胸も怪我をしました)、出会った現地人に地面に引きずられて運び出されるという有様。
 病院では、脚の怪我が化膿して悪化してしまい、一時は病室の戸棚の中で見つかった抗生物質を飲んで凌いだものの(マリアは医者なので、薬瓶のラベルを見て識別できました)、緊急な手術が必要なまでの事態となってしまいます。

(注7)映画の中で子ども達の年齢についてどのようにいわれていたのか、クマネズミははっきりと覚えておりません。
 ただ、こちらのサイトの記事では、「15歳の長男ルーカス」、「7歳の次男トーマス、5歳の三男サイモン」と明記されているところ、サイトによってはルーカスの歳は「10歳」だったり「12歳」だったりします〔なお、こちらの記事によれば、ルーカスを演じたトム・ホランドが15歳のようです(1998年6月1日生まれ)〕。
 とはいえ、「7歳の次男トーマス、5歳の三男サイモン」という点は、サイトの間で共通しています。

(注8)尤も、父親ヘンリーの話によれば、次男トーマスは高い木の上に、そして三男サイモンはヤシの木の上にいて助かったようです。それにしても、大津波が襲来する際には、ヤシの木などが何本もなぎ倒されているのですから、助かったのはやはり奇跡としか考えられません。

(注9)現に、ルーカスは、少なくともトマスとサイモンは死んでいるものと思っていましたし、ヘンリーも、マリアとルーカスは生きているに違いないと思いつつも、病院に置かれている死体を調べたりもしています。




★★★☆☆




象のロケット:インポッシブル

真夏の方程式

2013年07月09日 | 邦画(13年)
 『真夏の方程式』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)映画館では、3つものスクリーンをこの作品のために用意し、少しずつ時間をずらして上映していますが、各回ともかなり混雑しているようです。

 さて、映画の冒頭では、1998年冬と時点が示され、道路を走っている者の視点からなのでしょう、ブレた映像が映し出されます。同人は、跨線橋を登って暫く行ったところで、そこにいた女を刺したようです。雪の上に血を流して女が倒れ、傘が線路に落ちていきます。
 次いで、「元ホステス殺害」と報じている新聞記事(注1)。
 そして、室内風景。母親(風吹ジュン)が、「ごめんなさい、母さんのせいで。このことは一生、誰にも秘密よ。お父さんにも」と娘に言い、娘は黙って聞いています。
 母親は、食事の支度をしに台所に入りますが、包丁が1本なくなっているようです。

 次は現在の時点でしょう。青い海の中を女性ダイバーが泳ぐ姿が描き出され、次いで海岸でウェットスーツを脱いでいる彼女に、ちょうどやってきたライトバンから女が手を振ります。車の女は、冒頭に登場する母親・川畑節子であり、海で泳ぐダイバーはその娘・成実)です。

 15年前彼らは東京で暮らしていたところ、父親・川畑重治前田吟)ともどもこの玻璃ヶ浦(注2)に移り住み、そこで旅館の「緑岩荘」を営んでいます。



 その旅館には、玻璃ヶ浦の海底資源開発計画に関する説明会にアドバイザーとして招聘されていた湯川福山雅治)が宿泊します。
 そんなおりもおり、元刑事の塚原塩見三省)もその旅館の宿泊客となるところ、どうやら母親たちのことを知っているようです。

 すると、翌朝、その塚原の変死体が堤防の下の岩場で発見されます。
 他殺の疑いが濃くなり、湯川も事件の解明に乗り出しますが、裏に隠されていたものとは、……?

 TV版でおなじみの胡散臭い大学実験室の代わりに登場するのが実に美しい海中の映像であり、さらには主役の福山雅治が最初から最後まで殆ど出ずっぱりだったり、子役(恭平山崎光)が重要な役割を果たしたりするなど、TV版を見慣れている者はいささか戸惑いを覚えますが、これはこれでまとまりのある作品になっているのではと思いました。

 俳優陣では、やはり今が旬の福山雅治がダントツに光っています(注3)。



 それに印象的なのが、成実役のと、恭平に扮する山崎光でしょう(注4)。




(2)本作は、ちょうど第2シーズンの『ガリレオ』の放映が終わったばかりの時に公開され、クマネズミもその内のいくつかを見ていますので、なんだかTV版の一話が拡大されて劇場版になった感じでいました。

 ですが、上でも若干触れたように、それらと今回の作品とはかなり違っているとの印象を受けました。
 特に、吉高由里子が扮する岸谷刑事が随分と大人しくなってしまい、これだったら何も彼女でなくてもという気がします。



 それに、湯川が、初めから事件に入り込んでしまっており、TVドラマのように「仕方なく」取り組むという段取りもなく(それで岸谷刑事の出番も少なくなってしまいます)、またあたり構わず数式を書き連ねて解答に至るというTV版でおなじみの姿も描かれません(注5)。
 何よりも、湯川の助手である栗林渡辺いっけい)が見当たらないものですから、全体のトーンが生真面目なものになってしまっているのでは、と思いました。

 こうなってしまうのも、一つには、見栄えの良い映画にするためでしょうか、海のきれいな地方を舞台としたために警視庁の管轄下の事件ではなくなってしまい、岸谷刑事らが捜査できないためなのではとも思いました。

 このほかにも、本作には色々問題があるものと思います(注6)。
 でも、年少者を大人が皆で庇ったりすることと、自然を人間が保護することとがオーバーラップするような甚だ巧みな作りにもなっていて(注7)、そんなところからしたら、様々な問題点などあまり大したことがないかもしれないと思えてきます(注8)。

(3)渡まち子氏は、「前作に引き続き、福山雅治がクールなたたずまいで主人公を好演。夏休み、海、花火、少年。夏を彩るアイテムが散りばめられ、ほろ苦く切ない余韻を残す物語になった」として12点をつけています。




(注1)同記事によれば、逮捕されたのは被害者〔ホステス・三宅伸子西田尚美)〕の知人の仙波白竜)とされています。

(注2)「玻璃ヶ浦」は架空の地名ですが、ロケ地は伊豆です。
 なお、このサイトの記事によれば、「玻璃ヶ浦駅」は、伊予鉄道高浜線にある「高浜駅」(愛媛県)を使用しているとのこと。

(注3)劇場用パンフレットに掲載の「スペシャル対談 福山雅治×東野圭吾」において、「まず企画の段階では、……第1弾の『容疑者Xの献身』とは違う映画にするにはどうしたらいいか?とプロデューサーの鈴木さん、脚本の福田さん、そして西谷監督とミーティングを何度か重ねたんです」云々と福山雅治が話していて、なにしろ彼は、企画の段階から本作の制作に加わっているのですから!

(注4)は『婚前特急』に、山崎光は『ちょんまげぷりん』に出演しています。
 他に、本作には、おなじ『アウトレイジ ビヨンド』に出演している塩見三省白竜が出ています。

(注5)そんなこともあって、本作では、天才物理学者の登場が不可欠だということにはならない感じです。
 ただ、逆にそうだとすると、タイトルにある「方程式」は何を意味するのでしょうか?
 クマネズミには、具体的な数式というよりも、何かを象徴しているように思われます。例えば、東京に戻る恭平に対し、「玻璃ヶ浦駅」構内で湯川が与えた大きな宿題の解答を導き出してくれるもの(湯川は恭平に、「この夏休み、君はいろいろなことを学んだ。問題には必ず答えがある。だけど、答えがすぐに導き出せる若ではない。焦ることはない。成長していけば、きっとその答えを見つけるだろう」などと語ります)、というのがその意味合いの一つではないでしょうか?

(注6)例えば、まず15年前の殺人事件ですが、包丁の刺し傷の位置から、犯人の身長がかなり低いと警察では推測するのではないか、そうだとしたら仙波の容疑が消えてしまう可能性があるのではないか、とも思われます。
 また、塚原元刑事が事情を聴きに来たくらいで、関係者が、彼を亡き者にしようとまで思いつめてしまうものなのかどうか、やや疑問を感じます。
 さらに、ラストの方で、湯川と川畑重治が話をする場所が、なんだか警察の取り調べ室のような場所で、片側に大きなマジックミラーが付いており、その向こうの部屋には吉高刑事と成実が湯川の話を聞いているところ、警視庁の管轄ではない事件について、果たしてそんなことができるものなのかどうか疑問に思いました。

(注7)湯川が、説明会における成実らの態度を批判して、「君たちの態度は無責任だ。相手の言うことを聞かずに、一方的に自分たちの言い分を言うだけだ。すべてを知った上で、どうするかを決めるべきだ」と言うと、成実は、「私は海を手つかずに守りたいだけ」と答えます。
 玻璃ヶ浦の海をなんとか守ろうとする成実の姿勢は、川畑重治や仙波が、娘の成実をなんとか守ろうとして様々な手を打つのに通じているように思われます(湯川は、ホスピスで仙波に会った際に、「玻璃ヶ浦は、実に美しい。あの海の美しさを壊したくない」と言いますが、暗に成実のことを言っているのだと思います)。

 ただ、湯川は、学者として、客観的な事実をできるだけたくさん集め提示する(あるいは、そうした事実から導き出される仮説までも提示する)だけであって、それらを踏まえてどう判断すべきかは、各人に任せてしまっています。
 ですが、よほど強靭な精神を持った者でないと、色々なものを突き付けられて困惑するばかりとなってしまい、そうした事態にうまく対処することが難しくなってしまうのではないでしょうか?
 湯川のように「すべてを知った上で、どうするかを決めるべきだ」と言うのは頗る格好いいものの、常人は、そんなことにおかまいなしに初めから「駄目なものはダメ」と言い切って行動してしまうところ、それにも一理あるのではないでしょうか?

 なお、川畑重治や仙波が、娘の成実を守るために様々なことをするというストーリーは、前作『容疑者Xの献身』に通じるところがあるのではないかと思います〔例えば、前作では、天才数学者・石神堤真一)が、殺人事件の容疑者・花岡松雪泰子)を庇って、ついには自首までして罪を引き受けるに至ります〕。

(注8)本作を見ていて興味深いなと思った点は、あくまでも垂直の視点が重視されていて、水平の視点はあまり登場してこないように思えることです。
 冒頭の殺人事件は跨線橋の上で起こり、被害者が手にしていた傘が線路に向かって落ちていきますし、また成人した成実が登場するのも海を海中に潜っている姿のときです。さらに、湯川が恭平に玻璃ヶ浦の綺麗な海中を見せようとペットボトルロケットを何度も打ち上げますし、塚原元刑事が殺されるのは、地下に備えつけられているボイラーから2階まで立ち上る一酸化炭素によってです。
 他方、水平の視点と言えるのは、玻璃ヶ浦へ向かう湯川が乗車する列車くらいではないでしょうか?
 これに対して、TV版の『ガリレオ』の場合は、むしろ水平の視点が重視されているようにも思えます。たとえば、第7話の『偽装う』の場合、神社の本殿は高い所にあるものの、烏天狗のミイラを探すべく光ファイバーを水平に侵入させますし、また殺人現場で使われたショットガンは水平に撃たれてもいるのです。
 でも、こんなことに拘るのはつまらない戯れにすぎないでしょう。



★★★★☆



象のロケット:真夏の方程式

はじまりのみち

2013年07月06日 | 邦画(13年)
 『はじまりのみち』を東銀座の東劇で見ました。

(1)本作は、木下恵介監督生誕100周年記念として制作された作品で、その若き日の姿を一つのエピソードを中心にクローズアップして描いています。

 木下監督は、終戦を1年ほど後に控えた32歳(昭和19年)の時に、監督として『陸軍』を制作したものの、そのラストが戦時下の映画にしては女々しすぎると当局に睨まれ、次の映画の監督から降ろされてしまいます。
 それでやる気を失った正吉(「木下恵介」の本名:加瀬亮)が、会社に辞表を出すところから映画は始まります(注1)。

 正吉は、松竹の城戸社長(大杉漣)の強い説得にもかかわらず、辞めて浜松の実家に戻ります(注2)。
 浜松では、脳溢血で倒れ動けない母親・たま田中裕子)が療養しているところ(注3)、戦局の悪化に鑑みて、母親と一緒にずっと山奥の知り合いの家(注4)に疎開することになります。
 道中の母親の負担を軽くするために、バスなどを使わずに、材木を運ぶ気動車が走っているところまで自分たち〔正吉の他に、兄の敏三ユースケ・サンタマリア)と便利屋と称する男(濱田岳)〕でリヤカーを使って運びますが、距離が長い上に峠越えがあったりします。



 はたして上手く目的地に到達できるでしょうか、……?

 クマネズミは、木下恵介監督の作品に関し、『二十四の瞳』などほんのわずかしか見ていないところ、本作は、木下監督と母親との情愛の籠もった関係を、病気の母親が乗ったリヤカーを引いて峠を越えるという、困難ながらも実に単純な行動を通して(注5)、誠に上手く描き出しているなと思いました。

 俳優陣は、主役の正吉に扮する加瀬亮、またその兄に扮するユースケ・サンタマリア、そして便利屋を演じる濱田岳の3人がそれぞれその持ち味を如何なく発揮していると思います。また、正吉たちの母親となる田中裕子は、半身不随で満足に口がきけないという難しい役柄ながら、実に味わい深い演技を披露します(注6)。



(2)若干注釈めいたことを記しておきます。
イ) 本作はいつの話しなのでしょう?
 劇場用パンフレットの冒頭に掲載されている木下監督のエッセイ「底力」(昭和30年の毎日新聞に掲載されたもの)には、本作のエピソードは「昭和19年の晩夏」の出来事とされているところ、長部日出雄著『新編 天才監督 木下恵介』(論創社、2013.5)に記載の「木下恵介 年譜」では、昭和20年の6月18日の浜松空襲と8月15日の終戦の間に本作のエピソードが掲載されています(P.552:同書の本文の方でも詳しい日取りは書かれていません)。
 おそらく本作のエピソードは、「昭和20年の初夏」の話ではないかと考えられます。

ロ)正吉は、戦時下にもかかわらず戦争に行かずに、なぜ映画を撮ったり、あるいは実家に戻ったり出来たのでしょう?
 本作には、便利屋が正吉に対して、「兵隊は?」と尋ねると、正吉が「中支」と答える場面が設けられています。



 この点に関しては、上記の長部氏の著書に掲載されている年譜を見てみると(P.550~P.551)、正吉は、昭和15年(28歳)の「10月下旬に召集令状を受け、11月1日、名古屋の中部第十三部隊輜重兵第三聯隊補充兵に入隊」し、翌年、「中国大陸の中心部に位置する湖北省の商都漢口へ着」きます。
 ただ、「前線の基地へ物資を輸送する作戦の途次」、「作業中の事故で「左側アキレス腱腱鞘炎兼左眼角膜出血」の怪我をして」、野戦病院に収容され、さらに後方の南京陸軍病院に送られました。
 でも、その病院内で刊行されている文芸誌に正吉が短歌(注7)を投稿したところ、それに「目をとめた軍医によって」、「内地の陸軍病院に転送され、8月15日、召集解除」となります。

 長部氏によれば、正吉は、怪我をしてしまい強行軍の速度について行けず、「いっそ自決した方が……とおもいつめ」るものの、野戦病院に入院してからは、幸運が「次から次へと連鎖して生じ」、ついには本作で描かれるエピソードに至るというわけなのでしょう(同書P.111~P.112)。

ハ)便利屋は、さらにもう一つ正吉に質問すべきだったでしょう、「奥さんや子どもは?」と。なにしろ、そのとき正吉は33歳の立派な大人になっており、また時代も“産めよ、増やせよ”がスローガンだったのですから!

 長部氏の著書には、正吉の結婚について2箇所で触れられています。
 まず、キャメラマンの楠田浩之と正吉の妹・芳子との結婚式が、昭和19年3月に神田明神で執り行われた際に、「媒酌人の役を務めたのは、木下恵介夫妻であった」と述べられています(P.149)。
 さらに、同書の第6章(P.216~P.217)では、「恵介には短期間ではあったけれど結婚(と果たしていえるかどうか疑問なのだが)したことがあった」が、「入籍しなかったので、戸籍謄本に具体的な事実関係について知る手がかりはな」いと述べてあります(注8)。

 こんなこともあって生涯独身だった木下監督については、ホモセクシャルではないかといわれたりしますが、何の情報もないのでこれ以上の深入りは出来ません(注9)。

(3)渡まち子氏は、「初の実写映画にチャレンジしたアニメーションの俊英・原恵一の演出は堅実で、戦争の荒波の中での親子愛、映画作りへの情熱を丁寧に描いた良作に仕上がった」として60点を付けています。




(注1)実際には、その前に、海岸に設けられた小さなスクリーンに、木下監督のデビュー作『花咲く港』(1943年:山中貞夫賞を受賞)のクレジット(「演出 木下恵介」)が映し出されるところから映画は始まります。

(注2)正吉は、大船撮影所に辞表を出して浜松に帰りますが、松竹の方では、城戸社長の意向から、籍は残してありました。それで、正吉は、母親を浜松の山奥に運んだあと、再び大船に戻ることになります。
 本作では、山奥の家に落ち着いた母親が、筆談などで、「木下恵介の映画が見たい。あなたがいるべき場所は、ここではないような気がする。あなたは映画のそばに戻れ。戦争が永遠に続くはずがない。作りたいものを作れる時代が来る。作りたいものを作り続けなさい」などと正吉に話す感動的な場面が設けられています。

(注3)母親は、正吉と一緒に東京・蒲田で暮らしていたところ、1944年の暮れの空襲の最中(『陸軍』の封切りの1週間ほど前)、脳溢血で倒れ、浜松の親戚の家で療養していました。

(注4)木下家の持ち山を管理してくれていた人の家。

(注5)さらには、道中で味わった人情(あちこちで断られた宿泊も、旅館「澤田屋」が快く引き受けてくれました:旅館の主人役に光石研、女将役に濱田マリ)とか、便利屋の気前の良さなども加味されて。

(注6)最近では、加瀬亮は『俺俺』で、ユースケ・サンタマリアは『カラスの親指』で、濱田岳は『俺はまだ本気出してないだけ』で、田中裕子は『春との旅』で、それぞれ見ています。
 その他に、本作には、学校の先生役に宮崎あおいが扮しています。まるで『二十四の瞳』の中の出来事のような短いシーンながら、大層印象に残ります。

(注7)「竹竿に 手拭むすび ゆきゆきつ 春をも知らで 君は狂ひし」
 長部氏の著書によれば、南京陸軍病院で正吉が見かけた「戦場で狂者となった兵隊」の姿を詠んでいるとのことです(同書P.113)。

(注8)なお、同書によれば、木下監督自身は、その自伝で「入籍寸前まで行って、いわゆる性格の不一致から解消した結婚話まであった」と述べているようです。
 長部氏は、「木下家の家族関係から考えるなら、八方手を尽くしてこの結婚話をまとめたのは、母のたま以外にあり得ない」とし、「恵介は、最愛の母の熱心な勧めにしたがって見合いをし、いったんは結婚を承知した。けれど、誰よりも愛する母が選んでくれた女性だからこそ、彼女と性的関係を結ぶことはできなかった……。これが筆者の独断的な推理である。(結婚が破局に終わったあと、相手の女性は、仲立ちの役をした人に、男女の関係はなかった、と話した)」と述べています(P.217)。

(注9)例えば、このサイトの記事が参考になるかもしれません。




★★★★☆




俺はまだ本気出してないだけ

2013年07月04日 | 邦画(13年)
 『俺はまだ本気出してないだけ』を渋谷のシネパレスで見ました。

(1)本作を見に今週の日曜日に映画館に行ったところ、上映およそ1時間前には満席状態で、前から2列目で見ざるを得なかったのには驚きました(邦画では久しぶりです!)。

 さて、本作は青野春秋氏による同名の漫画(小学館)を原作とするもので、42歳の大黒シズオ堤真一)が主人公。
 彼は、父親・志郎石橋蓮司)に高校生の一人娘・鈴子橋本愛)と同居していたところ、突然勤務先の会社を辞めてしまい、そんな状態が1ヶ月ほど続いたあたりから物語は始まります。



 映画の冒頭では、シズオ似のカミが現れ、「どうすんの、ヤバくない?いい加減ヤバイっしょ!」と言ったところでシズオは目が覚め、娘が「もう起きたら?」と部屋のふすまを開けると、彼は、「会社を辞めてから俺は自分を探しているんだ」と言いつつ、TVゲームをやり出します。
 こんなシズオに父親・志郎は怒り心頭で、「お前、何がやりたいんだ、もう一度よく考えろ」と怒鳴りまくります。
 そんなある日、夕食の場でシズオは父親と娘に対し、「とうとう見つけたよ、俺の生き方。俺、漫画家になる」と宣言します。
 娘が「描ける?」と聞くと、シズオは「こう見えても器用なんだ」と応じるものの、父親の方は、「お前はバカなんだよ」と泣き出してしまいます。



 こうしてシズオの漫画家としての道が踏み出されますが、でもはたして上手くいくのでしょうか、…?

 スラッとして二枚目で知的な風貌であり、生真面目そうな印象を与える堤真一が、原作漫画に描かれているようなメタボのダメ中年・大黒シズオを上手く演じられるのか、と映画を見る前は危惧したものの、それはまったくの杞憂にすぎず、自分捜しというと漫画家になるのはありきたりな感じがするものの(注1)〔シズオの友人・宮田生瀬勝久)が、同じように会社を辞めてパン屋を開くというのも(注2)、よくある話しに過ぎるでしょう!〕、まずまず面白く仕上がった映画となりました。

 また、俳優陣については、堤真一のうまさは言うに及ばず、石橋蓮司の味のある演技も出色です(注3)。

(2)本作では、主人公のシズオが42歳にして脱サラして漫画家の道に進もうとしますが、そんなリスキーなことは常識的にはとてもあり得ないでしょう(注4)。特に、漫画の世界のように、ことさら若い新鮮な感覚が求められるところでは、そう思われます。
 ただ、違う世界に転身を図るという点だけからすると、何も40歳を超えているからといって遅いことはないのかもしれませんし、40歳を超えたからといって才能が枯渇してしまうわけのものでもないでしょう。
 何しろ、80歳という高齢でエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎氏が、登頂を決意したのは60歳の頃なのですから(注5)。
 また、本年1月には、75歳の黒田夏子氏が『abさんご』で芥川賞を受賞しました(注6)。
 むろん、そんな華々しい成果を上げるに至ったのは御本人の強い意志とか普段の鍛練の賜物とかによるのでしょうが、周囲の人たちの支えも大きな要因であったに違いありません。
 
 翻って本作のシズオの場合はどうでしょう?
 もちろん、ダメ中年の彼の周りにだって、娘の鈴子とか友人の宮田や市野沢山田孝之)、それに雑誌編集部の担当の村上濱田岳)とかがいて、何かと面倒をみてくれます。でも、それほど強力といえそうもありません。
 他方で、一緒に生活している父親の強い反対がシズオには重くのしかかってくるのではないでしょうか?

 そして何より、シズオには、こんな場合に強く支えてくれるはずの妻がいないのです。
 そもそも、本作では、鈴子の母親でもある別れた妻のことについては一切何の言及もされません。
 実際には、鈴子が、高校生にもかかわらず母親的な役割を担っていて、父親もシズオもそれほど不自由は感じていないのでしょう。
 ですが、子供にとって母親の存在は大きなものがあるはずですし、同じようにバツイチの宮田の場合は、別れた妻が子供を養育し、時折子供と会う時間を設けていることが描かれているのです。

 原作漫画によれば、父親・志郎が営んでいた居酒屋に隣接していたスナックのホステス・アカリが鈴子の母ということになっています。そのアカリにシズオが一目惚れし、とうとう鈴子までもうけますが、彼女を生むとすぐにアカリは理由を言わずに家を出てしまいそれっきりになってしまったとのこと。
 本作ではそんなことに全く触れられていませんが、仮にそんな経緯があるとしても、シズオの夢の中に、何らかの形で彼女が現れてきてもよさそうに思います。あれだけ、自分似のカミなどが夢に登場し、さらには17歳、22歳、32歳という各世代のシズオで構成される「自分会議」なるものも開かれるくらいなのですから(注7)!

 さらには、宮田の別れた妻(水野美紀)が、宮田が脱サラしてパン屋を開業することを知った途端に戻ってきて元の鞘に収まってしまうのも、酷く唐突すぎる感じがして(注8)、本作全般について女性の描き方に物足りなさを覚えました。

(3)渡まち子氏は、「ダメすぎてそれが個性という中年男が漫画家になろうと奮闘する「俺はまだ本気出してないだけ」。彼のいいかげんさが周囲のやる気を引き起こす構図が面白い」として60点をつけています。




(注1)とりあえずは、『おのぼり物語』が思い浮かびます。
 なお、最近は、漫画家の登場する映画が目立ちます。たとえば、『リアル~完全なる首長竜の日~』とか『くちづけ』。

(注2)ただ、本作のラストの方で、宮田のパン屋開業の場面が描かれているところ、宮田が「パンを焼いたことがない」と言っているところからすると、「製菓衛生師」の資格を持っていないように推測され、そんなことでは正規の開業はできないのではないでしょうか(もちろん、手伝いに来た元ヤンの市野沢が取得しているはずもないでしょう)?
  尤も、原作漫画では、シズオの父親が、焼き鳥を焼いたこともないのに(=「調理師」免許なしに)居酒屋を開業していますから、この漫画の世界では開業資格などは誰からも問われないようです。

(注3)最近においては、主演の堤真一は『プリンセス トヨトミ』で、石橋蓮司は『大鹿村騒動記』などで、橋本愛は『くちづけ』で、生瀬勝久は『スープ~生まれ変わりの物語~』で、それぞれ見ています。
 ほかに、本作には、山田孝之濱田岳指原莉乃水野美紀蛭子能収など多彩な俳優等が出演しています。

(注4)経済学者・池田信夫氏が、そのブログの最近の記事で、会社を「40前後で辞める」ことについて論じていて、「よほど稀少な能力があり、人脈や環境に恵まれ、やりたいことがはっきりしていないと、ノマドは失敗する。日本の社会がそれに適していないからだ」と述べています。

(注5)例えばこのサイトの記事を参照。

(注6)また、作家の加藤廣氏が『信長の棺』で作家デビューしたのは75歳(2005年)でした!

(注7)シズオは、アカリに捨てられたわけですから何も思い出したくないのでしょうが(鈴子は、自分の母親のことをシズオに何度も聞いたものの、シズオは「いつも黙りこくるだけだった」)、そうだとしても、少なくとも意識下にトラウマとなって残っていて、シズオの夢の世界に何らかの形で現れてくるものではないでしょうか?
 なお、アカリのことが描かれているのは、原作漫画の第5巻の「完結編 鈴子 前編」の冒頭4ページです。

(注8)元妻は、再婚することになったと宮田に報告したにもかかわらず、子供が「お父さんは、ボクがいないとシズオみたいになっちゃう!」と言ったら、再婚相手のことなどお構いなしに、いともアッサリと戻ってきてしまうのです。
 なんだか、『さよなら渓谷』において、雑誌記者の渡辺とその妻の関係が、途中経過が描かれることなく元に戻ってしまうのと類似しているのでは、という感じにさせられました。



★★★☆☆



象のロケット:俺はまだ本気出してないだけ

さよなら渓谷

2013年07月02日 | 邦画(13年)
 『さよなら渓谷』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)『モテキ』や『外事警察』などで印象深い真木よう子の主演作と聞いて映画館に出かけましたが、平日の夕方にもかかわらず、かなり観客は入っていました(注1)。

 物語の舞台は、ある渓谷(注2)の近くに設けられている市営団地。
 そこに尾崎大西信満)とかなこ真木よう子)が住んでいます。



 あるとき、外に大勢の人が群がっていて騒がしい中、隣に住むシングルマザーの立花が、午後に荷物が届くから代わりに受け取っておいてほしいと言いに来ます。
 そのあと二人がTVを見ていたら、その立花が自分の子どもを殺した容疑で逮捕されたとのニュースが流れます。
 尾崎が外に出ると、週刊誌記者の渡辺大森南朋)が寄ってきて、「やっと静かになりましたね」などと言います。



 ところが翌日、尾崎は、容疑者の立花が自分と不倫関係にあったとほのめかす証言をしたことから、警察の取調べを受けることに。



 そこで渡辺が、女性記者の小林鈴木杏)とともに尾崎の過去を調べ始めると、衝撃の事実が次第に分かってきますが、さて……?

 本作は、小説『悪人』を書いた吉田修一の原作小説(新潮文庫)を映画化したもので、特異な男女関係を描き、全体は暗いトーンながらも、主演の真木よう子が体当たりの演技を披露していて(注3)、まずまずの出来上がりではないかと思いました。

(2)映画を見ていくうちに、尾崎はある事件の首謀者であり、かなこがその事件の被害者であってその二人が生活を共にしているのだということが分かってきて、いったいそんなことがありうるだろうかと、事件を調べている渡辺のみならず観客の方も驚きます。
 ただ、そこらあたりのところは、本作では、相互の会話というよりも、専ら二人の演技で描かれていて、これはこれでかなり説得力があると思いました。

 例えば、市営住宅で生活する前、再会した尾崎とかなこはあちこちを転々としますが、その間会話らしい会話はあまり取り交わされないものの、どんどん先を行くかなこの後を追う尾崎の姿をとらえる映像がその関係を如実に表しています(注4)。

 そしてかなこは、尾崎を性的に強く求めているにもかかわらず、さらにまた仕事場(製材所)から戻った尾崎を優しく迎えたりしながらも(注5)、やはり事件のことが脳裏をよぎるのか、逆に相手を窮地に追い詰めたりとか(注6)、家の中が普通の家庭のように綺麗になると、何も言わずにどこかへ立ち去ってしまいますが(注7)、このような複雑な性格が与えられているのなら、真木よう子が扮するかなこのように、会話の少ない方が見る方はかえって納得出来るのではと思われます。

 また、尾崎の方も、いくら事件を引き起こしたのが自分の方だとしても、常識的には、映画で描かれるような仕打ちを相手からされたら怒りだすと思えるところ(注8)、すべてを黙って受け入れてしまうのですが、尾崎を演じる大西信満の演技もあって、それもそうかもしれないなと思えてきます。

 さらに、こうして見ると、当初は能動的であった尾崎は(注9)、かなこを見つけ出してからはいっぺんに受動的になってしまうものの〔この関係は、雑誌記者の渡辺についてもいえるのではないでしょうか(注10)〕、逆にかなこの方は、尾崎と出会う切っ掛けは受動的ながら、その後再会してからは大層能動的に振る舞うようになります(注11)。
 こんなところから、本作で描かれている男女は、昨今の映画の一つの流れとも言えるのかなと思いました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「最悪の形で出会った運命の相手との愛憎を描く「さよなら渓谷」。“裏”主人公は監督の実弟の大森南朋演じる記者だ」として65点をつけています。
 また、前田有一氏は、「異形なる男女の愛の姿を描いたドラマである本作において、ヒロインを演じた真木よう子は、演技派の面目躍如の見事なパフォーマンスを見せたものの、それでもわずかに届かぬその限界がつくづく惜しいと思わせる」として70点をつけています。



(注1)見終わった後に知ったのですが、本作は、モスクワ国際映画祭のコンペティション部門で審査員特別賞を受賞したとのこと(先月29日)。

(注2)映画本編の中では明示されていませんが、ロケは秋川渓谷で行われています。

(注3)他に、尾崎に扮する大西信満は、『キャタピラー』と同様、とても難しい役柄を大層うまくこなしていますし、雑誌記者の渡邉に扮する大森南朋は、『東京プレイボーイクラブ』が印象的ながら、本作においても堅実に演じています。
 また、鈴木杏は『軽蔑』で、鶴田真由は『カルテット!』で見ました。
 なお、その他に、井浦新新井浩文らも出演しています。

(注4)原作小説では3ページほどしか書かれていないところを、本作では映画の特質を生かして様々な場面を設けています。

(注5)警察の取り調べから戻った尾崎に対して、かなこは、「お帰り、お腹空いていない?チャーハンくらいだったら作れるよ」などと軽く尋ねます(尾崎の方も、「食べたいな」と簡単に答えます)。

(注6)かなこは、隣の女・立花と尾崎が不倫関係にあったようなことを警察に話してしまいます。おそらく、TVニュースで立花が逮捕された時の映像を見て思いついたのでしょう。警察の方も、その方が事件の組み立てがしやすくなるのでしょう、その話に飛び付くものの(尾崎を殺人教唆の疑いで逮捕してしまいます)、暫くしてかなこがその証言を撤回したため(立花も関係をほのめかしていた当初の証言を否定します)、ようやく尾崎は釈放されることになります。

(注7)ラストの方でかなこが家を立ち去った後に、尾崎は渡辺に、「幸せになれそうだったんですよ、テーブルを新しくしたんですよ、棚も買って」と言います(渡辺が、「だったら、幸せになれば?」と言うと、尾崎は「それはできません、一緒に不幸になろうと約束したのですから」と答えます)。
 この場合、かなこは、尾崎との幸せな生活を拒否し、再度不幸な生活を営むために別の土地を求めたのであり、そんなかなこを尾崎が追いかけてくることは、彼女にとって想定の範囲内のことではないかと思われます(実際、尾崎は「どんなことをしてでも俺はあいつを探し出します」と渡辺に断言します)。
 とはいえ、かなこが「さよなら」と書いた置き手紙を残すだけで何も言わずに忽然と姿を消してしまったのは、もしかしたら尾崎を許そうと思うようになったからとも考えられるところです。
 これからは、別々の土地で別々にそれぞれの人生を生きていこう、自分も「かなこ」の名前は捨てようと考えたのかもしれません。

 ただ、ラストで、渡辺が尾崎に対して、「もしあの時に戻れるとしたら、事件を起こさなかった人生と、かなこさんに会えた人生と、どっちを選びますか?」と尋ねる場面がありますが、尾崎にとってそんな質問は無意味でしょう。彼にしたら、今ある自分がいて、今まで一緒に暮らしてきたかなこしかあり得ないのですから。
 そうだとしたら、かなこが何を考えていようと、尾崎にとっては、彼女の後を追いかけて行くよりほかに道はないのではないでしょうか?

(注8)留置場の尾崎に面会に来たかなこに対して、尾崎は単に「冷蔵庫の豆腐、今日までだ」と言うだけですし、さらには、警察から釈放された尾崎を家で迎えたかなこが彼に対して、「何も言わないんだね。私のせいで留置場に入ったというのに、怒ったりしないの?」と言うくらいですから。

(注9)なにしろ尾崎は、大学の野球部の時代に、高校生のかなこをレイプした事件の首謀者なのですから。
 なお、「かなこ」というのは本名(水谷夏見)ではなく、一緒にいながらも隙を見て逃げてしまった友達の名前。尾崎と水谷夏見が事件後かなりしてから遭遇し、旅館に泊まることになった際に、彼女はその友達の名前を使い、以後映画の時点までそれは続きます。要すれば、現在の自分は借り物であって、本当の自分はその時に失われてしまったということなのかもしれません。

(注10)渡辺もまた、学生時代と社会人になってから最初のうちは、ラグビー選手として能動的に活躍していましたが、体を痛めて挫折してからは、すべてが受け身となってしまっているようです。例えば、家に仕事で遅くなって戻ると、妻(鶴田真由)からは、厳しい叱責の声が上がります(台所でガタガタしていると妻が起き出してくるので、「自分で作るからいいよ」と言うのですが、彼女には「誰がそれを洗うのよ!」と言われてしまいます)。
 なお、ラストの方になって、事件が一段落して渡辺が家に戻ると、妻が出てきて、「私別れないわよ。家にいるのなら掃除くらいして」などと普段の調子で言うものですから、渡辺の方は、呆気にとられるものの妻を抱きしめることになります。
 ここでも妻に翻弄される夫の姿が描かれているとはいえ、この場面は原作にはなく、映画を見る者には甚だ唐突な印象を残すことになります。尾崎とかなこの話を追いかけていく過程で、妻に対する渡辺の姿勢に何らかの影響が見られるようになったと想像するしかありませんが、なくもがなではないでしょうか?
 (原作と映画とは別の作品ですから、新しい点を付け加えてはならないなどと考えているわけではないものの、他の点はほぼ原作どおりにもかかわらず、なぜこんなシーンを付け加えたのか訝しく思えます)

(注11)例えば、各地を二人で歩きまわっている最中に、かなこは尾崎に対して、「私が死んで、あなたが幸せになるなら、私は絶対に死なない」などと言ったり、また警察から釈放された尾崎に対して、かなこは、家にやってきた渡辺に何もかも話したこと、その際に渡辺が「それで幸せなのか」と何度も尋ねるので、「我々は幸せになろうとして一緒に暮らしているんじゃない」と答えたことを伝え、あわせて、「私が決めることなのよね」と付け加えます。
 こんなところにもかなこの能動的な姿勢がうかがわれます。

(注12)例えば、今注目されている石井裕也監督の作品では、駄目な男と意志が強く主体的にドンドン行動する女とがよく描かれています(『川の底からこんにちは』など)。



★★★★☆



象のロケット:さよなら渓谷