映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

幸福のアリバイ

2016年11月29日 | 邦画(16年)
幸福のアリバイ~Picture~』を渋谷TOEIで見ました。

(1)俳優の陣内孝則が監督の作品というので、映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭で「葬式 Last Request」の字幕。
 次いで、通夜の模様が映し出され、僧侶の読経(般若心経)や木魚などの音がし、お焼香が執り行われています。
 亡くなったのはヤクザの親分・松田鏡蔵山田明郷)。
 その子分でしょうか、遺影の置かれている座敷で、男が二人話しています。
 男1(谷田歩)「大変だよな、お前のところいくつだ?」。
 男2(坂田聡)「オヤジが71、オフクロが69」。
 男1「じゃあ、まだだな。うちなんか80だ」。
 男2「上に2人いるんだろ?」。
 男1「だから、余計面倒くさいんだ」。
 そこへ、喪主(親分の息子:平賀雅臣)の妻(小野ゆり子)が、「足りてます?お酒。どうぞごゆっくり」と言って現れ、またすぐに出ていきます。

 隣の部屋からは、「断固反対です」と遺族の怒鳴り声が聞こえてきます。
 男1「まだ揉めてんのか、ちゃんとしないとダメだな、遺言は」。
 男2「気を使えよ、デリケートなもんだよ」。
 男1「書かせたのか、お前んとこ?ここみたいになったら、大変だ」。
 男2「黙れ」。

 そこに葬儀屋(佐藤二朗)が、「こちらで打ち合わせをしても?」と言って、部屋に入ってきます。
 男1「まだ揉めてんの?」。
 葬儀屋「いやまあ」。
 男1「やっぱ必要?遺言」。
 葬儀屋「やっぱ、あった方が」、「失礼ですが、喪主様とはどのようなご関係で?」。
 男1「会社の後輩」。
 葬儀屋「ちなみに、会社というのは?」、「ご家族が、どなたも話をしてくれないもので」。
 男2「強いて言うなら、サービス産業」。

 ここまではほんのはじめの部分。この後、話はどのように展開していくのでしょうか、………?

 本作は、人生の節目となる葬式、結婚、誕生などのイベントを5つの短編で繋いだ作品。最近では女性がメインとなる映画が多い中で、本作はどちらかと言えば男性がメインとなって描かれており、さらにどの短編もコミカルな味付けがなされていて、まずまず面白く見ることができました。

(2)本作は、副題に「Picture」とあるように、写真を巡って5つの話がオニムバス形式で描かれます。
 例えば、上記(1)でごく最初の部分を紹介した「葬式 Last Request」では、亡くなった親分・松田の遺言状が騒動の種となります。
 と言うのも、そこには相続のことは何も書かれていない代わりに、残した写真を皆に見せてくれと言っているだけながら、その写真にはとんでもないものが写っているからなのです(注2)。
 騒動の輪は広がりますが、結局、通夜にやってきた別の組の親分(大地康雄)が、「死んだ親分は、皆に笑ってもらいたいのだ。そういうヤツなんだよ、お前のオヤジは」と喪主に言い、死んだ親分が幸せそうに笑っている写真を皆が一緒に見て、お互いに笑い合うことになります。



 本作は、「葬式 Last Request」に続いて、「見合い Gift」、「成人 Suits」、「誕生 Father in Law」、「結婚 Wedding March」と4つのエピソードが綴られますが、どれも写真が意味を持ってきます。
 この点について、本作を制作した陣内孝則監督は、次のように述べています(注3)。
 「「なんで人間って、写真を撮りたがるのかな」っていうところから始まったんですよ。僕、こういう仕事をしているのに、写真が嫌いなんです。それで逆に、写真を撮る時に見えてくる人間模様が面白いんじゃないかと思ったんです。写真といえば冠婚葬祭で、葬式なら遺影、結婚式なら結婚写真や集合写真など、いろんな写真があるじゃないですか。だから、写真で始まって写真で終わる形で、その中の人間模様を切り取れないかな、というところからの発想です」。

 確かに、人生の節目となるイベントでの写真が本作では取り扱われています。
 それらの写真はどれも、如何にも幸福そうに人物が写っていますが、でも、その背後にはそれぞれの複雑な思いが隠れているのだ、ということがそれぞれのエピソードで綴られています(注4)。
 それで本作は、静止画である写真が主役のようでありながらも、それを動画で描き出しているところが面白いなと思います。
 というか、写真の方が、むしろ動画よりも背後の思いを強く感じさせることがあるようです。
 例えば、唐突ですが、『八日目の蝉』におけるこの写真(注5)。



 本作で言えば、特に、「誕生 Father in Law」のエピソードにおけるCDのジャケットの写真(注6)。
 それに、「結婚 Wedding March」のエピソードにおける最後の集合写真。
 そこでは、式場カメラマンのサラ木南晴夏)が写真を撮るのですが、打ちひしがれたサカキ山崎樹範)は写真の枠組みから外れていることでしょう。

 なお、そのエピソードは、「見合い Gift」のエピソードの後日譚のようでもあります。
 こうしたところを見ると、陣内監督はオムニバス形式のものは当たったことがないと述べているのですが(注7)、その理由の一つが分かる感じがします。
 というのも、短編のあつまりにすると、展開が不十分だと思えてくるのではないでしょうか?
 確かに、「見合い Gift」でもオチはついているように思えるものの、「幸福のアリバイ」という総タイトルからすれば、充分に描き切っているといえないかもしれません。それで、「見合い Gift」に登場するサカキとサラが、最後のエピソードに再度登場することになったのではないでしょうか(注8)?






(注1)原案・監督は陣内孝則
 脚本は、『桐島、部活やめるってよ』や『幕が上がる』の喜安浩平

 なお、出演者の内、最近では、中井貴一木南晴夏は『グッドモーニングショー』、柳葉敏郎は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』、木村多江清野菜名は『金メダル男』、坂田聡は『百円の恋』で、それぞれ見ました。

(注2)親分が残した写真には、亡くなった親分がにこやかに愛人と一緒にいる姿が写っていたり、男1が「ダメよ、ダメダメ」(日本エレキテル連合の朱美ちゃん)の仮装をして親分と写っていたりするものや、男2がカツラを被っていることが分かる写真、それに政治家が親分からカネを受け取っているところを写した写真があるのです。
 喪主は、「オヤジがこんなに笑っているところを見たことがない」と言います。
 ただ、喪主は、愛人が写っている写真について、「ばあさんなんか鼻血を出して、葬式なんかしなくていいと言っている」と話します。
 それに、男1は、自分の写真を皆に見せてはダメだと言いますし、男2も、彼の写真を見せると喪主が言うと、懐から短刀を出します。さらに、政治家との写真が知れ渡ると組の存続が危うくなってしまうと、喪主が言います。

(注3)この記事より。

(注4)ただ、細かく見ていくと、2番目の「見合い Gift」で登場する「見合い写真」は、他のエピソードにおける写真とは違って実に形式的なものであり、背後の「思い」が何もないように思われます。もしかしたら、「見合い写真」に添えられている履歴書が、その背後にある「思い」なのかもしれませんが(なにしろ、写真の人物は、37歳のダサい男ながら、開業医で年収がものすごいのですから)。
 なお、タイトルにある「Gift」とは、見合い写真が、送り主である父親から娘・サラへの「お届け物」(配達人がそう言います)ということなのでしょう。

(注5)あるいは、『非情城市』(1989年)におけるこの写真。



(注6)義父(柳葉敏郎)の一人娘・ヒロミ清野菜名)が小学校入学の時の写真。義父がヒロミの相手の男(浅利陽介)に話したところによれば、この写真はヒロミの母親が撮ったが、彼女はその後すぐに失踪してしまったとのこと。

(注7)このインタビュー記事において、陣内監督は、「(オムニバス映画は、)みなさんから興行的にどうなのかといわれたが、当たったことがないから面白いんじゃないかという考え方もありますからね」、「あえてオリジナルで、オムニバスで、しかも俳優上がりの監督でという、それだけマイナス要素が重なれば、逆に面白いんじゃないか」などと述べています。

(注8)その点からすれば、「成人 Suits」も、一応、父親(中井貴一)と母親(木村多江)と成人式を迎えた息子(柾木玲弥)の写真は撮れてオチはついたものの、息子がどういう格好で成人式に臨むのかという当初の問題は何も解決はしていません。





★★★☆☆☆



象のロケット:幸福のアリバイ

この世界の片隅に

2016年11月25日 | 邦画(16年)
 アニメ『この世界の片隅に』をテアトル新宿で見ました。

(1)予告編を見て良い作品に違いないと思って、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、昭和8年12月(注2)の広島市江波
 8歳のすず(声は「のん」)が、川(注3)沿いの道を荷物を背負って歩いています。
 「うちは、よう、ボーッとした子じゃと言われた」とのモノローグ。
 ちょうど通りかかった砂利を運搬する舟に乗せてもらうと、すずは船頭に、「海苔を届けます。本来は兄の役目ですが、風邪を引いたので代わりに私が。海苔を届けたら、兄と妹にお土産を買って帰ります」と話します。
 船着き場に着くと、すずは船頭に礼を言い、舟を降りて、再び荷物を背負い階段を上がります。
 すずは賑わう街中を歩いていきます。
 「チョコレート10銭」の札が見えたりします。
 そして、「悲しくてやりきれない」(注4)の歌と共に、タイトルクレジットが流れます。

 すずは道に迷ってしまい、かごを背負った大きな男に、目的の料理屋の場所を尋ねます。
 すると男は、すずを肩に担ぎ上げて、「高いところなら見つかるだろう」と望遠鏡を渡します。
 ですが、すずは、男が背負っている籠の中に落ちてしまいます。
 籠の中には男の子(注5)が先にいて、「あいつは人さらいだ」と言うのです。
 結局、すずの機転によって男が横になって寝たところで、二人は籠を抜け出します。
 男の子はすずに、「あんがとな、浦野すず」と言うので、すずは「いつの間にうちの名前を」と驚きます。男の子は「ももひきの裾に書いてあった」「元気でな」と言って立ち去ります。

 次いで、昭和10年8月(注6)。
 朝早くに潮が大きく引いた海岸を見たすず(10歳)のモノローグ、「昨夜はあんなだったのに、今朝になるとこうだ」。
 すずは、両親や兄、妹のすみと一緒に草津に行くことに。
 そこには、すずたちの叔父の一家と祖母が住んでいます。
 すずのモノローグ「お祖母さんは、毎年、新しい着物を作って待っていた」。
 すずに着物を着せると、祖母は「べっぴんさんや」と言います。
 すずのモノローグ「いろいろあるけれど、子供であるのは悪くない」。

 3人は川の字になって昼寝。
 すずが目を覚まして天井を見ると、そこから子供が降りてきて、スイカの食べ残しを食べます。その話を聞いた兄は、「すずが見たのは座敷わらしに違いない」と言います(注7)。

 こんな風に物語は始まりますが、さあ、これからどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、終戦前の18歳で広島から呉に住む男の元へ嫁いできた主人公をめぐるお話。



 広島や呉の市街地の様子とか、日々の生活の有様といったものが、実に丹念に描き込まれているだけでなく、戦争がじわじわと主人公らの生活を脅かしていく中で、次第に夫への愛情を深めていく主人公の物語も大いに共感でき、素晴らしい感動作になっているなと思いました。

(2)今年は、4月に広島を舞台とする『モヒカン故郷へ帰る』が公開され(注8)、5月にオバマ大統領が広島を訪れ、さらに9月には広島カープがセ・リーグを制し、そして11月の本作の公開、という具合に、1年を通して広島の年だったという感じです。

 もっと言うと、『モヒカン故郷へ帰る』に登場する主人公(松田龍平)の名前の永吉は、その父親(柄本明)が心酔する矢沢永吉に由来するものですが、矢沢永吉の父親は被爆して、彼が少学2年生の時に亡くなっています(例えば、この記事)。
 また、広島カープは、1950年に誕生し、戦後復興の象徴とされてきました(例えば、この記事)。
 オバマ大統領の広島訪問や本作については、言わずもがな。
 こう見てくると、今年を広島の年にしているいろいろな出来事は、多かれ少なかれ、前の大戦に絡んでいるようにも思われます。

 このような様々の関係性から、本作が、本年の押し詰まってきた頃に公開されるというのも、とても意味深に思えてきます。

 それはともかく、本作を見て教えられることばかりだというのが実感です。
 例えば、炒った玄米に水を一晩吸わせて炊き上げる「楠公飯」という節米料理は、本作で初めて見ました(注9)。



 また「入湯上陸」というシステムが海軍にあったことも知りませんでした(注10)。

 さらに言えば、昭和20年になると、呉はなんども空襲に遭いますが、どうも広島はそれほどでもなさそうなのです。
 すずの妹・すみがすずの嫁ぎ先にやってきて(昭和20年7月)、その家から見える呉市街の焼け野原を見て、「呉は何遍も空襲があって大変だね。広島に帰っておいで。空襲もないし、来月の6日にはお祭りもあるし」と言います。
 このセリフを聞いてハッとしました。米軍は、8月の原爆投下に備えて広島の空襲を控えていたのではないのか、と気がついたからです(注11)。

 また、すずと晴海(義姉の娘)が遭遇した時限式爆弾のことも知りませんでした(注12)。

 つまらないことですが、クマネズミが広島で暮らしている時に何度か買い物に行ったことのある「福屋百貨店」が、今と同じ姿で戦前からあったのを知って驚きました。



 本作では、終戦前後の人々の実際の生活ぶりがどのようなものであったのか、実にリアルに描かれていますし、戦争がヒタヒタと近づいて、そうした生活を根底から脅かしていく様子も大層巧みに描かれているように思います。
 ただ、それだけでなく、主人公のすずと夫の周作との関係についても、微細な感情の揺れ動きまで描かれていて、見る者に大きな説得力を持って迫る仕上がりになっていると思いました(注13)。

(3)渡まち子氏は、「観客は、映画を見て泣いてしまうのに、希望を感じるはず。なぜなら、この珠玉の映画には、生きることの喜びと素晴らしさがあふれているからなのだ」として85点を付けています。
 村山匡一郎氏は、「戦時下の生活を中心にした主人公の年代記的な出来事と時代の変化が緩急をつけて巧く構成され、現実味ある世界にアニメ特有の不思議な雰囲気が漂っていて魅了される」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「戦争や貧困、家制度の中で抑圧を受けながらも、手を取り合って生きる女性たちの姿を丹念に描ききったアニメ作品。世界の片隅に生きる人々の心の中にこそ、砲弾や原爆よりはるかに強いものがあることを示すラストはこれ以上ない人間賛歌のドラマである」と述べています。



(注1)脚本・監督は、片渕須直
 原作は、こうの史代著『この世界の片隅に』(双葉社:上巻のみ既読)。

 なお、すずを演じている「のん」は、能年玲奈の時に、『グッモーエビアン!』や『カラスの親指』で見ています。

(注2)原作漫画で対応するのは、上巻の冒頭に掲載されている「冬の記憶」ですが、そこでは「9年1月」とされています。
〔この点については、片渕須直氏による「1300日の記録」に掲載されている「第15回8年12月」の「2011年7月15日金曜日(344日目)」をご覧ください←ナドレックさんのTwitterの記事に導かれてわかりました〕

(注3)旧太田川(通称「本川」)。

(注4)本作では、コトリンゴが歌っています。

(注5)実は、後にすずの夫となる周吉。

(注6)ここは、原作漫画の上巻の冒頭に掲載されている「大潮の頃」に対応し、時点は原作漫画と同じです。

(注7)座敷わらしについては、Wikipediaのこの記事
 ただ、そこでは、「主に岩手県に伝えられる精霊的な存在」とあり、「柳田國男の『遠野物語』や『石神問答』などでも知られ」ると記載されています。それが本作の広島県の話に登場するのは、すずの兄が学校で習ってきたからでしょう。
 なお、本作のエンドロールで描かれていることからすれば、この座敷わらしが「リン」になるようです(「リン」については、下記の「注13」を参照してください)。

(注8)ただ、沖田修一監督のこのインタビュー記事においては、「台本を書いている段階で、帰郷の話だとしたら、帰りたくなくなるぐらいに距離感があって、遠い場所がいいなと思ったんです。そう考えた時に、じゃあ“島”だなと。海辺の雰囲気や穏やかな町のイメージが湧いたので、そういうイメージがある瀬戸内海を中心にロケハンをし始めました。広島の四島に決めたのは、観光地という感じがなく、どこにでもあるような町の雰囲気がすごくいいなと思ったからです」とあり、制作者の広島へのこだわりからこうした作品を作ったわけではなさそうです。

(注9)本作では、すずが嫁ぎ先でこの「楠公飯」を炊くのですが、御飯の量は増えるものの、味が薄くなってしまい、夫・周作の母親から、「あれを喜んで食べる楠公は本当の豪傑だ」と皮肉られてしまいます(昭和19年)。

(注10)この記事によれば、「実施部隊(実戦航空隊)へ行けば一日置きに上陸できたがこれを入湯上陸といった」とのこと。
 本作では、この入湯上陸で、すずの高等小学校時代の同級生の水原が、すずの嫁ぎ先にやってきて、一晩泊ります(昭和19年12月)。

(注11)呉は軍港でしたから空襲を受けて当然ながら、広島にも軍関係の施設はかなり設けられていたはずです。にもかかわらず、空襲をそれほど受けていないということは、この記事が言うように、「5月28日には、原爆の効果を正確に測定できるよう、同規模の都市が空襲を受ける中、投下目標都市に対する空襲が禁止され」たことによるのでしょう。

(注12)すずは、呉工廠に対する空襲の後、晴海と連れだって歩いていますが、壁の壊れたところに穴が開いているのが見えます。その時、軍の関係者から教わった時限爆弾のことを思い出して、慌てて晴海の腕を引っ張ってその場所を離れようとするのですが、…。
 このときの爆弾については、片渕須直監督が、このコラムで次のように述べています。
「この6月22日の空襲は、呉海軍工廠の南の端に位置する造兵部だけを目標にしたものだった。一般市街地空襲ではなく、純然たる軍事目標の破壊を目的としたものだったので、投下弾種は焼夷弾ではなく爆弾に絞られていた」、「これらの爆弾には、コンクリートを突き破り、地中に入ってから爆発する1/40秒遅動信管が多く使われた。このように地中に貫入してから爆発するものは「地雷弾」と呼ばれ、大きなクレーターを残した」、「中には空襲終了後の日本側による消火作業や修復作業を妨害するために時限信管を着けたものも混ぜられていた。この場合、最短約5分より最長304時間までの時限爆弾となる」。
 他には、例えば、Wikipediaのこの記事には、「4月21日  鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった」という記述があります(この記事にも、類似の記載があります)。

(注13)すずと周吉の初めての出会いは、本文(1)で触れたように、ふしぎな大男の籠の中(ただ、この話は、すずが妹のすみに話しているものであり、本当にあったことなのかどうかはわかりません)。その時に周吉はすずに好印象を持ち、それで10年後の結婚に結びつきます。
 とはいえ、すずは、高等小学校の同級生の水原を憎からず思っていて、そのことは周吉も察知します(上記「注10」の話が絡んできます)。でも、あれやこれやがあるものの、結局は、すずの言葉「周作さん、ありがとう。この世界の片隅にうちを見つけてくれて」に行き着きます。

 なお、このブログ記事に導かれて読んだこのブログ記事に、「私は、映画を見て監督は「白木リン」というキャラクターをすごく軽視しているのではないかと怒りを感じたが、実際はむしろその真逆で、片渕監督は彼女がすごくこの作品において重要であることを理解したうえで、このような映画版に仕上げたのだと言う事がわかった」とあるのを見て、大層驚きました。
 実は、クマネズミは、映画を見てから原作漫画の上巻だけを読んだのですが、そこには登場しない「白木リン」(本作では、遊郭のあるところで道に迷ったすずに、遊女のリンが話しかけるだけです)が、原作漫画の中巻以降ではではかなり重要な役割を演じていることがわかったからです。にもかかわらず、なぜ片淵監督が映画版のような扱いにしたのかが、この記事を読むと理解できます。



★★★★★☆



象のロケット:この世界の片隅に

ブリジット・ジョーンズの日記3

2016年11月22日 | 洋画(16年)
 『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)予告編を見て面白そうだったので、女性客ばかりの映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、5月9日のロンドン。43歳の誕生日を迎えた主人公のブリジット・ジョーンズレニー・ゼルウィガー)が、独りで居間のソファーに座り、一本のローソクが立てられたケーキを見つめ、「なんでまたこれなの?」と呟き、ワインを飲みます。そして、一人カラオケをしたり、踊り出したりします。



 次いで、「12時間前」の字幕。
 携帯が鳴ったのでブリジットが取り上げると、「ダーリン、誕生日おめでとう、ママよ」の声が。
 ママ(ジェマ・ジョーンズ)の顔が映って、さらに「43年前にお前を産んだ。出産は23時間かかったの。奇跡よ」と言った後、今度は、パパ(ジム・ブロードベント)が「おめでとう」と言います。

 それから、ブリジットは葬儀が行われている教会に入ります。その葬儀は、かつてブリジットの上司であり飛行機事故のために亡くなったダニエル・クリーバー(注2)のもの。
 牧師が、「ダニエルの思い出を語ってください」と促すと、ブリジットは、進んで前に出て「ダニエルは、大勢の人と触れ合いました。私もその一人。あなたを忘れない。皆同じよ」と語ります。

 教会の外に出てきたブリジットは、同じように葬儀に参列していた元カレで弁護士のマーク・ダーシーコリン・ファース)と遭遇します。
 マークは、連れ立っている女性(アグニ・スコット)を「カミラだ」と言ってブリジットに紹介します。
 ですが、うまく会話が弾まず、マークとカミラは立ち去ります。
 ブリジットは、「これが彼と別れた理由かも。彼の前ではうまくしゃべれない」と呟きます。

 ブリジットが、仕事場のTV局に出勤すると、皆が誕生日を祝ってくれます。

 こんなところから、ブリジットを巡る物語が始まりますが、さあどのように展開するのでしょうか、………?

 本作はシリーズの第3作ながら、これまでの作品を見なくとも十分に楽しめます。43歳で独身のTV局の敏腕プロデューサーが主人公。ひょんなことからIT企業の社長で大金持ちの男と出会い、また離婚協議中の元カレとも遭遇し、主人公はその二人と親密な関係になって、なんと妊娠までしてしまうのです(注3)。このテンヤワンヤを面白く描いていて、誠に他愛ない話ながらも、気分転換するにはまずまず向いているように思いました。

(2)これまでの作品のあらすじをネットで調べてみると、ごく大雑把には次のようです。
 第1作の『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001年)では、主人公のブリジットは32歳(後半では33歳)の独身で、出版社に勤務(後にTV局に移ります)。母親のクリスマスパーティーで出会った弁護士のマークと、勤務先の上司のダニエルとの間で気持ちが揺らぎます。
 第2作の『ブリジット・ジョーンズの日記 きれそうなわたしの12か月』(2004年)でも、ブリジットはマークとダニエルに翻弄されますが、最後にはマークがブリジットにプロポーズします。

 それで本作ですが、第2作の公開から12年経過し、ブリジットも43歳になっているものの、相変わらず独身のままTV局勤務を続けているという設定になっています。
 ただ、第2作で、マークがブリジットにプロポーズしたはずです。にもかかわらず、本作のブリジットはなぜか独身のままであり(注4)、なおかつマークはカミラと結婚しているようなのです(離婚協議中ということがすぐにわかりますが)。
 それに、前2作で活躍するダニエルは、本作には一切登場せずに、代わりに、アメリカ人でIT企業の社長・ジャックパトリック・デンプシー)が新規に登場し、ブリジットを巡ってマークと争うことになります。



 43歳の女性を巡って身分も金もある2人の男性が競うのですから、まさに邦題が言うように「最後のモテ期」なのでしょう。

 こんなところから、むしろ、前2作を知らないままに本作を見た方が、返って楽しめるのかもしれません(注5)。

 とはいえ、本作がいくらファンタスティックなラブストーリーとしても、話の展開がかなり強引であり、もうすこし筋立てに工夫が必要なのではと思いました(注6)。
 それでも、プロデューサーのブリジットが、プライベートなことを話しているつもりにもかかわらず、それをイヤホンで聞いたキャスターで仲良しのミランダサラ・ソルマーニ)は、指示事項だと勘違いして、そのままインタビュー相手にぶつけてしまい、相手が当惑するシーン(注7)など、笑わせるところがかなりあって、まあ、つまらないことを言い募っても仕方がないようにも思えてきます(注8)。

(3)渡まち子氏は、「主演のレニー・ゼルウィガーの劣化ぶりがあまりにヒド」く、「今回のブリジットの行動にはまったく共感できないのだが、このラスト、もしかして次もあるの?!これ以上老けたブリジットはかんべんしてほしい」として50点を付けています。
 前田有一氏は、「深刻さがないのが救いで、よって本作の笑える度は非常に高い。コメディとしては優秀である」として80点を付けています。
 秦早穂子氏は、「目くじらたてるは野暮の骨頂。手を叩き大口開けて笑うのも単純すぎる。イギリス式二重底の皮肉の裏をニンマリ楽しもう。女、40代、人生、ようやく半ば。ピンチは、これからである。全体を刈り込めば、ユーモアとスパイスは一層、利いたであろう」と述べています。
 毎日新聞の細谷美香氏は、「ブリジットらしい自虐の利いたユーモアと、思わず応援したくなるうそのないキャラクターはそのままに、正反対の男性が自分を巡ってケンカするという、女性にとってのファンタジーを巧みに織り込んだ脚本が秀逸」と述べています。



(注1)監督は、シャロン・マグワイア
 原題は『Bridget Jones's Baby』。
 原作者のヘレン・フィールディング氏が脚本に加わっています。

 ただ、第1作と第2作は、ヘレン・フィールディング氏の『ブリジット・ジョーンズの日記』(角川文庫)、及び『ブリジット・ジョーンズの日記 キレそうなわたしの12か月』(角川文庫)が原作なのでしょう。ですが、本作の原作が『ブリジット・ジョーンズの日記 恋に仕事にSNSにてんやわんやの12か月』(角川文庫)といえるのか疑問に思われます。というのも、同書についてamazonの「内容紹介」では、「幼なじみのマークと結ばれ、二人の子供に恵まれたブリジット・ジョーンズ。ところがマークが急逝」などと記載されていて、それは、本作の内容とは全く異なっているからです(これは、ありうるかもしれない第4作目の内容となるのでしょうか?)。

 なお、出演者の内、最近では、コリン・ファースは『キングスマン』、パトリック・デンプシーは『トランスフォーマー ダークサイド・ムーン』、ジム・ブロードベントは『ブルックリン』、ジェマ・ジョーンズは『恋のロンドン狂騒曲』、エマ・トンプソンは『ウォルト・ディズニーの約束』で、それぞれ見ました。

(注2)ダニエルは、第1作と第2作に登場し、ヒュー・グラントが演じています。
 ヒュー・グラントが本作に出演しない理由については、こちらの記事が参考になります。
 なお、本作においてダニエルは、飛行機事故で亡くなったとされていますが、飛行機は見つかったものの、遺体は見つかっていないとされています。

(注3)原題からすれば、本作ではブリジットが子供を生むのかなと予め予測がつきますが、邦題ではそんなことはわかりませんし、予告編もそのことを明示していませんから、クマネズミは、本作の後半の展開の仕方には少々驚きました。

(注4)ただ、ブリジットは、「あなたとは何年も付き合ったが、結局は別れた。二人で夢見たことと現実は違った。結局あなたは仕事だったし、私は独りで孤独だった」とつぶやく場面がありますが。

(注5)これまでの作品を知っていれば、ラストがどうなるのか、容易に想像がついてしまうでしょうし!

(注6)ブリジットがジャックとベッドインするにしても、何もわからずにジャックのベッドに入り込んでいて、そこにジャックが戻ってくるというのでは、策がなさすぎます。
 また、ブリジットが、ほぼ同じ日にマークと会ってベッドインしてしまうというのも、もう少し因縁話めいた背景が必要なのではないでしょうか?

(注7)同じようなシーンは、ジャックに対するインタビューでも見られます。まだ、ブリジットが妊娠していることを知らないジャックに対し、ミランダは、テーマのジャックの書いた本のことはそっちのけにして、「子供についてどう思うか」とか「家族に病気持ちの人は?」などと、ジャックが当惑する質問をします。

(注8)つまらないことですが、新宿ピカデリーの売店で尋ねたら、本作の劇場用パンフレットが作成されていないとのこと。もしかしたら、配給会社は、本作の公開にあまり期待していないのかもしれません。



★★★☆☆☆



象のロケット:ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期


PK ピーケイ

2016年11月18日 | 洋画(16年)
 『PK ピーケイ』を新宿のシネマカリテで見ました。

(1)久しぶりのインド映画ということで映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、「本作はフィクションであり、如何なる個人も、社会も、宗教も傷つける意図はありません」との字幕が出て、「銀河は、他にも20億個以上もあり、それらを形成する星の中には人間に似た生物がひょっとしたらいるかもしれない」「その星の人が地球の探索に来ているかもしれない」などという説明がなされます。
 そして、先ずは月が、その次には地球が、さらに空中を流れる雲が映し出され、その雲の中から巨大な円盤状の宇宙船が地球に降下してきます。
 その宇宙船から、裸の男〔のちにPK(注2)と言われます:アーミル・カーン〕が地上に降り立ち、宇宙船の方は再び上昇します
 場所は、インドのラジャスタ-ン。何もない砂漠のようなところで、鉄道の線路が1本走っているだけ。

 丁度貨物列車が通りかかり、そのそばで男が歩いているのがPKに見えてきます。
 PKが男に走り寄ると、ラジカセを持っているその男もPKをまじまじと見ます。そして男は、PKが首からぶら下げているペンダントのようなものを奪い取ると、走って逃げ出します。
 それはPKが宇宙船と連絡を取るためのリモコンですから、それがなければ、PKは自分の星に戻ることができません。
 PKは必死になって男の後を追いかけます。ですが、男は、走っている貨車に飛び乗って行ってしまいます。PKは、かろうじて、男が肩にかけていたラジカセを奪い取りました。ですが、リモコンを奪われ、言葉がわからず、友達もいない状況で、どうやって元の星に帰ることができるのでしょうか?

 場所は変わって、インドから5000kmも離れたベルギーのブルージュ。
 インドからの留学生ジャグーアヌシュカ・シャルマ)は、インドの大スターの公演を見ようと自転車を走らせます。
 会場に着くと既に満席で、中に入るためにはダフ屋からチケットを買わざるを得ません。
値段を訊くと、正規の料金の倍以上の100ユーロ。
 ジャグーは諦めて帰ろうとすると、青年・サルファラーズスシャント・シン・ラージプート)が現れ、半分ずつ出し合ってチケットを買おうと提案します(注3)。



 しかし、二人のお金を合わせてもあと4ユーロ足りません。そこで、近くにいた男に助けを求めると、なんとその男が100ユーロでそのチケットを購入して劇場に入ってしまいます。
 二人は怒りますが後の祭り。

 ただ、これがきっかけとなって、ジャグーとサルファラーズは恋に落ちるのですが、さて、このラブストーリーと先程のPKの話とは、どのようにつながっていくのでしょうか、そしてPKは自分の星に戻ることができるのでしょうか、………?

 本作は、地球によく似た星から地球にやってきた異星人の物語。円盤からインドに降りてきた異星人は、円盤と交信できる大事なリモコンをインド人の男に取られてしまい、それを取り返そうと奔走する中で、テレビ局の若い女性レポーターに恋してしまいます。本作は、SF物であり、ラブストーリーでもあり、さらにはインドで勢力がある種々の宗派の問題を扱っているコメディという何でもありの作品で、見終わると実に楽しい気分になること請け合いです。

(2)本作では、最初の方で描かれるジャグーとサルファラーズとのラブストーリーの後に、PKのリモコン探しの長い物語が挿入されますが、最後には2つの物語が密接に絡み合うという展開になっていて、映画の構成がなかなか良く考えられているな、と思いました。

 もちろん、そればかりでなく、PKを演じるアーミル・カーンが、50歳を超えていながらも、実に若々しい肉体を披露しつつ縦横の活躍を見せ、それが本作の大きな見ものとなっています(注4)。



 それに、この映画を明るく盛り上げているのは、なんといっても、ヒロインを演じるアヌシュカ・シャルマの弾きれんばかりの若さと美貌ではないでしょうか(注5)。



 さらに言えば、PKのリモコン探しの長い物語が、実はジャグーに対するPKの悲恋物語にもなっているのです(注6)。そして、その展開の仕方が、すぐ前に見た邦画の『ぼくのおじさん』にかなり類似しているので驚きます(注7)。

 それと、そこでは宗教が色々と取り扱われています。
 監督は、劇場用パンフレットに掲載されているインタビュー記事において、「ある段階で、私はある結論に辿りつきました。宗教というのは人が生み出したものだということです。人が宗教を創り出したわけで、間違いなく神が創ったものではありません。もし神が宗教を創り出したのだとしたら、きっとそこには1つの宗教しか存在しないはずなのです」と述べています。

 そして、その見解の一つの現れが、「電話のかけ間違い」という大層興味深いコンセプトを巡る話なのでしょう。
 ジャグーの家に転がり込んだPKが、外からかかってきた間違い電話に、ジャグーがウソのいい加減なことを答えているのを見て(注8)、自分がこれまで見てきた様々の宗教は「かけ間違い」によるものだと言い出すのです。おそらく、間違い電話に出た偽の神様がウソを言っているにもかかわらず、電話をかけた者はそれが神様の声だと思って信じ込んでいる、ということを現しているのでしょう。
 その背景には、PKが、自分のリモコンを探し出そうと、いろいろな宗教の神様にお願いしたものの(注9)、何一つはかばかしい答えが返ってこなかったことがあります。
 各宗教の対応がいい加減なのは、神と人々を繋ぐ役割を果たしている人が、間違った電話をかけて聞いた冗談を、まことしやかに人々に信じ込ませているからだ、とPKは考えているようです。
 それで、PKは、ジャグーの父親(バリークシト・サーハニー)が崇敬する導師(ソウラブ・シュクラ)が開いている集会に乗り込んで、導師に反撃します(注10)。

 今やTV局のレポーターになっているジャグーは、こうした光景をTVで流しますが、そのため、PKが提起する問題に人々の関心が集まり、話がどんどん膨らんで思いもよらない方向に展開していきます。
 宗教とは何か、信じるとは何か、などという重たい話とラブストーリーが密接に絡み合って、ラストのクライマックスを迎えるわけですが、本作のこうした話の展開ぶりはなかなか良く練り込まれたものだと感心してしまいます(注11)。

(3)渡まち子氏は、「さまざまなジャンルをクロスオーバーしながら、宗教を皮肉る風刺が効いた社会派映画なのに、堅苦しいところは微塵もなく、インド伝統のマサラ・ムービーならではの明るさを保っているこの映画、滅多にお目にかかれない娯楽映画の快作だ」として85点をつけています。
 中条省平氏は、「笑いと社会的メッセージに加えて、ラブストーリーとしても充実の1作で、とくにラストのドンデン返しでは観客を唖然とさせ、落涙を誘うだろう」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)監督は、『きっと、うまくいく』のラージクマール・ヒラニ
 また、主演のアーミル・カーンは、『きっと、うまくいく』で見ました。

(注2)「PK」とはヒンディー語で“酔っ払い”を意味するそうです。おそらく、その宇宙人がわけのわからないことを言ったりするからでしょう。

(注3)公演(「Bachchan recites Bachchan」)の前半の詩の朗読はジャグーが、後半の演劇はサルファラーズが見るということで折り合います。ちなみに、この公演では、前半でR・バッチャンの詩の朗読が行われ、後半はA・バッチャンによる劇が演じられるようで、ジャグーはR・バッチャンの詩のファンであり、サルファラーズはA・バッチャンのファンだということになっています。

(注4)公式サイトの「INTRODUCTION」にあるように、アーミル・カーンは、「劇中では一切まばたきしないという荒業で、“PK”のぶっ飛んだキャラを表現してい」ます。

(注5)上記「注4」で触れた「INTRODUCTION」」では、「気丈で可憐でキュートでセクシーと四拍子そろった天井知らずのヒロイン力」とされています。

(注6)恋に敗れたPKは、自分の星に戻る際に、たくさんの電池を鞄にしまって持って帰ろうとします。ジャグーに「どうしてそんなことをするの?」と尋ねられ、PKは「戻ってから、録音した動物の声などをラジカセで聞くために必要」と答えます。ですが、PKがいない時にジャグーがカセットテープを聞いてみると、全てジャグーの声ばかり。そんなことから、ジャグーは、初めてPKの気持ちを知ることになるのですが、もうどうしようもありません。

(注7)『ぼくのおじさん』の主人公のおじさん(松田龍平)は、見合いの席で出会った稲葉エリー真木よう子)に一目惚れしてハワイまで追いかけるのですが、結局は、わざわざ事実を告げることによって、彼女が有名菓子店の社長・青木戸次重幸)と一緒になることを推し進めてしまいます。
 それと同じように、PKは、ジャグーを愛することになるものの、真実を語ることによって、ジャグーとサルファラーズの恋が成就するように動いてしまいます。

(注8)病院に電話をかけたと思いこんでいる相手に、ジャグーは「その患者は今朝死にました」「死亡診断書に心臓麻痺と書きます」などとウソの答えをします。すると、PKは驚いて、「どうしてそんなことを?」とジャグーに尋ねます。すると、彼女は「冗談よ。彼はいつも間違ってかけてくるから」と答えます。それで、PKは、「わかった。人が神に電話をかけるが、それはかけ間違いで、電話をもらった方が冗談で答えるのだ」などと言います。

(注9)こちらのサイトでは、PKが巡礼した先について詳細な記事が掲載されています。

(注10)その集会で導師は、「妻が半年前から半身不随になっているが、医者は何もできない」と言った男に対し、「ヒマラヤの聖地にある寺院に8日間籠もって祈りなさい」と言うのですが、PKは「かけ間違いだ」と叫び、さらに導師に向かって、「あなたは、間違った電話番号をかけている。正しい神様に電話がかかったとしたら、ここから4000kmも離れたところに行きなさいなどと言うはずがない」などと反撃します。

(注11)ラストは、PKが星に戻ってから1年後ということで、再びPKが、ほかの異星人を引き連れて地球にやってきます。その際、PKは、他の異星人に対し、次の4か条を守るべしと注意します。
・地球では、裸で歩いてはならない。
・言葉が難しい。
・衣服は「踊る車」から調達し、リモコンを下着の中に隠せ。
・神様に会わせるというやつがいたら、とっとと逃げ出せ。
 4番目のものは、本作全体の雰囲気にとても合致しているように思われます。



★★★★☆☆



象のロケット:PK(ピーケイ)

ぼくのおじさん

2016年11月15日 | 邦画(16年)
 『ぼくのおじさん』を渋谷TOEIで見ました。

(1)北杜夫の原作を松田龍平の主演で映画化したというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は小学4年生のクラスで、中に春山雪男大西利空)が座っています。
 担任のみのり先生(戸田恵梨香)から、皆のまわりにいる大人の人について誰でもいいから作文を書いてくるよう、宿題が出されます。優秀なものは作文コンクールに出すとのこと。



 家に帰る途中、雪男の仲間は家族の誰かを書くようで、雪男に「雪男くんの家は?」と尋ねるので、雪男は「パパ(宮藤官九郎)は公務員で課長、ママ(寺島しのぶ)は専業主婦だけど」と答えます。

 家に戻ると、雪男は机に作文用紙を開いて、「ぼくのお父さん」とか「ぼくのお母さん」のタイトルを書き入れますが、書き倦んでしまいます。



 妹が「おやつよ」と呼びに来たので、机の上の作文用紙をクシャクシャにまるめて、別の用紙を開いて「ぼくの妹」と書き込むものの、すぐに「ダメダメ、大人じゃないと」と呟きます。

 そこに、この家に居候をしている“おじさん”(雪男の父の弟:松田龍平)が、「雪男君、勉強中?お邪魔?」と言いながら顔を出します。



 雪男が「いや、休憩中」と応じるものですから、おじさんは、「『少年キック』の発売日では?」と訊きます。それに対し、雪男は「あれはママに止められた。高学年になったらもっと高級な本を読まないと」と答えます。
 するとおじさんは、「ボクにはマンガが必要。頭を休ませないといけない。それに、現代の哲学者は、マンガを語らなくてはならないのだ」と言います。
 雪男は「ママに叱られる」と嫌がるところ、おじさんが「本にカバーをかければいい」となおも迫るものですから、仕方なく雪男が「お金を」と言うと、おじさんは「お前も読むのだから、3分の1は出す」と応じます。

 おじさんは、雪男が買ってきた漫画雑誌を万年床に寝っ転がって読み、時折笑い声を立てます。それを聞いた雪男は、机の上の作文用紙に「ぼくのおじさん」とのタイトルを書き込みます。

 こうして、雪男の書く作文が読み上げられるという形でこのおじさんを巡る物語が描かれていきますが、さてどのような展開となるのでしょうか、………?

 本作は、兄の家に居候する哲学の非常勤講師の物語。ひょんなことからハワイで農園を営む女性に一目惚れしたおじさんと甥っ子のハワイ旅行の話が中心のコメディ。松田龍平が好演するおじさんののんびりした様子には心が癒やされるものの、原作が書かれた60年ほど前ならともかく、今時こうした雰囲気はなかなか見かけないのではとも思えてしまいます。

(2)「東映」のサイトに掲載されている「ぼくのおじさん」の「イントロダクション」には、「ダメ人間だけどどこか面白おかしい“おじさん”の物語は、大人も子供も誰もが楽しめるあの名シリーズ「寅さん」を彷彿とさせます」とあり、また『男はつらいよ』シリーズ自体にタイトルが『男はつらいよ ぼくの伯父さん』(第42作:1989年)という作品があります(注2)。
 確かに、本作は、おじさんが主人公の笑える場面がいくつもあるコメディ作品であり、かつまたそのおじさんの悲恋物語でもありますから、『男はつらいよ』シリーズとの類似性は高いものと思います。
 特に、『男はつらいよ ぼくの伯父さん』以降のいくつかの作品では、甥の満男吉岡秀隆)とおじさんの寅さん渥美清)との関係が描かれていますから、なおさらでしょう。

 ただ、『男はつらいよ』の主人公の車寅次郎がテキ屋家業を生業としているのに対し、本作の主人公は、大学の哲学の非常勤講師なのです(注3)。世の中の中心ではなく、隅の方でうごめいている人物という点は案外共通しているかもしれないとはいえ、時々カントを引用したりする本作のおじさんの雰囲気は(注4)、「結構毛だらけ猫灰だらけ」などが口癖の車寅次郎とは全く別物と言えるでしょう。
 なにより、きっぷの良さが売り物の車寅次郎と、どこかネジの外れた感じのする本作のおじさんとは、キャラクターが随分と違っています。
 それに、寅さんは、全国を股にかけて歩き回っていて、殆ど家にいませんが、本作の主人公は、哲学的思索にふけるためか、居候先の部屋に敷かれた万年床で横になっていることが多そうです。

 とはいえ、美人に対する感度が鋭いのは両作に共通しているように思われます。
 寅さんは、第1作の冬子光本幸子)を始めとして、毎回マドンナを見つけては振られますが、本作のおじさんも、稲葉エリー真木よう子)に簡単に一目惚れをしてしまいます。



 そして、エリーのことが忘れられないおじさんは、雪男とともに一足飛びにハワイに行くことになりますが、寅さんの場合は、日本全国を股にかけるとはいえ、海外には殆ど出ません(注5)。

 こんなふうに本作と『男はつらいよ』とを比較していくとネタは尽きないながらも、本作だけを見た場合には、少々違和感を覚えるところもあります。
 例えば、本作は、携帯電話が使われているなど、時点は現代を想定していますが、哲学を研究しているというおじさんの風采は、一昔前のいわゆる“デカンショ”節を歌う旧制高校的な“学士様”の感じがしてしまいます(注6)。
 丸メガネをかけ、寝癖でボサボサの髪の毛で、部屋に万年床を敷き、そのまわりに乱雑に本が置かれている、などというのは、はたして今時の哲学研究者に見いだせるのでしょうか?

 それに、おじさんが大の苦手とする伯母(キムラ緑子)が見合い話を持ち込みますが、今時、こんなにまともな見合い話が行われるとも思われないところです(注7)。まして、エリーのような美女がお見合いの席に登場するなんて(注8)!

 尤も、稲葉エリーの話は原作には見当たらないようですですが(注9)。
 その関連で言えば、彼女が引き継ごうとしているハワイのコーヒー農園「INABA FARM」は、農園を取り仕切るボブサイモン・エルブリング)の話によれば経営が上手く言っていないとのことながら、急きょ、なぜか日本のデパートが取引契約することになって持ち直すようなのです(注10)。

 とはいえ、これらの点はつまらないことがらであり、総じて、全編にあふれるユーモアとゆるいほのぼのとした感じを味わえば十分なのかな、と思いました。

(3)渡まち子氏は、「ユルい笑いと共に市井の人々が持つおかし味をあたたかくみつめる山下敦弘監督らしさがにじむ佳作に仕上がった」として65点を付けています。
 森直人氏は、「これはキャラクター映画として絶品だ。作家・北杜夫が約45年前に発表して以来、長く愛される児童文学の名作が、疑似親子的な男同士の小さな冒険を描くキュートなバディ(相棒)ものになった」と述べています。



(注1)監督は、『オーバー・フェンス』の山下敦弘
 脚本は、須藤泰司(本作は春山ユキオの名義)。
 原作は、北杜夫著『ぼくのおじさん』(新潮文庫)。

 出演者の内、最近では、松田龍平は『殿、利息でござる!』、大西利空は『金メダル男』、真木よう子は『海よりもまだ深く』、寺島しのぶは『シェル・コレクター』、宮藤官九郎は『バクマン。』、キムラ緑子戸田恵梨香は『日本のいちばん長い日』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の川本三郎氏のエッセイ「困ったおじさんではあるけれど」でも、「フランス映画『ぼくの伯父さん』(58年)のジャック・タティや、わが山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズの渥美清演じる寅さんがすぐに思い浮かぶ」と述べられています。

(注3)哲学に携わる人を描いた最近の映画作品に関しては、この拙エントリの(注1)をご覧ください。

(注4)カントが臨終の際に言ったとされる「Es ist gut」を、おじさんは時々口にします。

(注5)ただし、41作目の『男はつらいよ 寅次郎心の旅路』(1989年)では、寅さんはウィーンに降り立ちます。

(注6)Wikipediaのこの記事によれば、原作は1972年に刊行された単行本(旺文社)に収められていますが、実際には、旺文社の雑誌『中二時代』で昭和37年(1962年)5月号から翌年『中三時代』まで連載されたものであり、さらに、「おじさん」のモデルは作者の北杜夫自身」とすれば〔劇場用パンフレット掲載の「INTORODUCTION」には、「作家本人が自らをモデルに、兄の家に居候していた頃の体験を膨らませて、ユーモアたっぷりに描いたもの」と述べられています〕、原作は昭和30年代前半(作者の北杜夫が30歳位としたら、)を踏まえてのものだと思われます。要するに、現時点から60年余り昔の状況が原作には書き込まれているのではないでしょうか?

 なお、本文の(2)で触れた「東映」サイトに掲載されている「イントロダクション」では、「昭和40年代をベースに書かれている原作を、時代設定は現代に置き換えつつ、家族とのやり取りに感じられるどこか懐かしい昭和感は健在」と述べられていますが、クマネズミは読んでいないにもかかわらず、原作は「昭和30年代をベース」にしているのではないかと考えます。

 また、話が飛躍してしまいますが、アニメ『コクリコ坂から』では、昭和38年頃、学園内に設けられている「カルチェラタン」に設けられている「哲学部」の部室に、戦前の旧制高校生然とした図体の大きな生徒がいる様子が描かれています〔同作に関する拙エントリの(1)のニをご覧ください〕。

(注7)この記事によれば、「お見合い結婚は約6%、一方で恋愛結婚は約87%を占めます。もう圧倒的に恋愛結婚」とのこと。さらに、「1960年代にお見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転」したとのことですから、原作の物語は書かれた当時の状況を踏まえていることになるのでしょう。

(注8)モット言えば、おじさんは非常勤講師として哲学の授業を週に1コマ持っているようですが、それだと月収はせいぜい5万円弱くらいでしょうから、お見合いするに足る書類条件に全く適っていないように思われます。

(注9)山下敦弘監督のこのインタビュー記事では、「山下監督の「原作のセリフを変えるとつまらなくなる」という思いから、「前半はほぼ原作通り」だが、後半はおじさんの恋愛を主軸にしたオリジナルストーリーが展開する」と述べられています。
 『高台家の人々』を見たときにも感じたのですが〔同作に関する拙エントリの(2)をご覧ください〕、原作に沿って展開する前半部分の面白さに比べて、オリジナルストーリーになる後半部分がどうしても息切れ気味になってしまっているように思いました。

(注10)それまで稲葉農園で生産されるコーヒー豆については、買い手がつかなかった状況だったにもかかわらず、いくら有名菓子店の社長の青木戸次重幸)の画策があるとはいえ、日本のデパートが突然契約をするというのは、もう少し説明してもらわないと理解しがたい感じがしてしまいます(たぶん、稲葉農園のコーヒー豆の価格が他の農園に比べてかなり高いのだろうと思われます。それをそのままに契約すれば、今度はデパート側に損が発生するかもしれません。それに、今の時代、デパートが直接こうした商取引をするとも思えません。常識的には、そこに店舗を出している企業が契約をするのではないでしょうか)。



★★★☆☆☆



象のロケット:ぼくのおじさん

湯を沸かすほどの熱い愛

2016年11月11日 | 邦画(16年)
 『湯を沸かすほどの熱い愛』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)宮沢りえの主演作ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、銭湯の煙突。ですが、煙が出ていません
 銭湯の入口も閉まっていて、「店主が蒸発し、お湯は沸きません  幸の湯」の張り紙。

 次いで、幸の湯の店主・幸野一浩オダギリジョー)の妻・双葉宮沢りえ)が、ベランダで洗濯物を干しています。洗濯物の中に娘のブラジャーがあるのを取り出して、「まだ大丈夫」と呟きます。



 さらに、朝食の光景。
 TVを見ながら食べている娘の安澄杉咲花)に向かって、双葉が「食べるか見るか、どっちかにして」と叱ります。すると、安澄が食べないでTVを見ようとするので、双葉はTVを消して「食べて、遅刻する」と注意します。
 安澄は味噌汁に口をつけて、「違う、一昨日もそう言ったじゃない?」と言うと、双葉は「文句言う人は食べなくていい」と応じます。それに対し、安澄が「食べろと言ったり、食べなくていいと言ったり」と反論します。

 次いで、玄関。
 安澄が「お腹が痛い」「頭が痛い」と言って学校に行くのを渋ると、双葉は「学校裏のコロッケが美味しい店に帰りがけに行って、4つ買ってきてくれる?」と頼みます。
 仕方なく安澄が玄関を出ると、双葉は「ハンカチ持った?」と尋ねて、自分のハンカチを安澄に渡します。すると、安澄は「お母ちゃん臭い」と嫌がりますが、双葉は「文句言わない」「行ってらっしゃい」と安澄を外に出します。
 双葉が「(自転車に)途中まで乗ってく?」ときくと、安澄は「親と二人乗りは恥ずかしい」と拒否します。これに対し、双葉は「恥ずかしい親で悪かったわね」と応じます。

 2年C組の教室。
 安澄が席に座っていると、クラスの女生徒が次々と安澄の机を足で蹴ります。どうやら、安澄はイジメに遭っているようです。

 これが本作のごく始まりのところですが、さあこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、余命2ヶ月と宣告された主婦の頑張りの物語。それだけでなく、自分自身や自分の娘などにも出生の秘密があったりして、感動を盛り上げる要素に事欠きません。ただ、決して単純なお涙頂戴の作品ではなく、主人公が短い期間の内に様々の問題を解決してしまおうとするその情熱の凄さが描かれるので、見終わってもジメッとならず、むしろカラッとした気持ちになってしまいます。宮沢りえは本当に大した俳優になったものだと思いました。

(2)本作の主人公の双葉は、癌のために余命2ヶ月と宣告されますが、こうした設定の作品は、同じ時期に公開されている邦画の『ボクの妻と結婚してください』(注2)のみならず、これまでにも色々作り出されています。
 最近の洋画でみても、例えば、『きっと、星のせいじゃない。』(注3)とか、『永遠の僕たち』(注4)や『50/50』(注5)と『私だけのハッピー・エンディング』(注6)などなど、目白押し状態です。
 本作は、それに加え、双葉の夫・一浩が失踪していたり、さらに、双葉自身や娘の安澄の出生には大きな問題がありますし、安澄は学校でイジメに遭ったりしています。
 さらに、一浩は、幸の湯に戻ってくる際に、それまで一緒にいた女との間にできた子供・鮎子伊東蒼)を連れてくるのです。



 これほど様々な問題をてんこ盛りされると、見る者は、一々涙を流してばかりいられなくなり、返って、一体これらは映画の中でどのように処理されるのか、ということに関心を持つようになってきます。
 そこでまさに、宮沢りえ扮する双葉の八面六臂の活躍に目を見張ることになります。
 例えば、安澄が学校でイジメを受けていることがわかりながらも、双葉は、「逃げちゃダメ。今時分で立ち向かわないと」と言って、休もうとする安澄を無理やり学校に送り出しますし(注7)、母親を求めていなくなってしまった鮎子の居場所をカンを働かせて探し出して、家に連れ帰ったりします。

 こうなると、彼女の周囲の男性は、当然のことながらダメ人間となるでしょう。
 例えば、一浩は、自分がいなくなれば幸の湯が営業できなくなることを承知していながら、浮気相手だった女に出会うと、一緒に生活するために双葉のところから失踪してしまいます。
 駐車場で双葉たちがたまたま出会ったヒッチハイカーの拓海松坂桃李)は、まったく目標・目的を定めずにヒッチハイクを続けています(注8)。

 また、本作で描かれる大人の女性も、主人公の双葉を除けば、登場する男性側に負けず劣らずダメ人間と言えるかもしれません。
 例えば、安澄の実母である君江篠原ゆき子)は、以前一浩と結婚しており、その時安澄が生まれたものの、世話ができずに逃げ出してしまいました(注9)。
 鮎子も、一浩の子供らしいのですが、母親・幸子(本作には登場しません)は、二人を残して逃げ出してしまいます(注10)。

 こうした人たちに取り囲まれながら、双葉は、自分自身だけでなくこれらのダメ人間が抱える問題についても、解決の方策をそれぞれ提示しているのです。
 例えば、一浩の居場所がわかると、双葉は出向いていって、自分の窮状を話し、一浩の自覚を促しますし、拓海には「日本の最北端」という具体的な目的地を提示したりします(注11)。



 本作は、いわゆる“余命物”にありがちな雰囲気はほとんど感じさせず、むしろユーモアすら見出せ、なるほどそうなのかと思わせるラストシーンをも含め、むしろカラッとした明るい感じで映画館を後にすることができました。
 そうなる要因の大きなものは、おそらく主演の宮沢りえの素晴らしい演技でしょう。
 『紙の月』におけるリアルな演技もよかったですが、本作の肝っ玉母さん的なものも感銘を受けました(注12)。

(3)渡まち子氏は、「身体は細いが、心は大きくたくましい、肝っ玉母さんのような双葉を演じる宮沢りえをはじめとして、キャストはすべて好演で、家族としてのアンサンブルは劇中に登場するピラミッドのごとく絶妙なバランスだ」として75点をつけています。
 宇田川幸洋氏は、「見る者の興味をひきつけつづける、たくみで熱いかたりくち。オリジナル脚本と監督は、これがいわゆる商業映画デビューとなる、「チチを撮りに」(2012年)の中野量太。力量を感じさせる」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 暉峻創三氏は、「これは病弱な女とその近親者の幸薄い物語ではない。死期迫った強い女が、次の世代の強い女を育て上げようとする、最後まで前向きな物語だ」と述べています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「母ものと余命ものを合わせた家族ドラマと聞くと「またか」と思わされるが、これは優れた配役とよく練られたオリジナル脚本で見せる一本。決してスーパーウーマンではない普通の母親の強さ、たくましさを表現した宮沢、つらい現実から逃げない勇気をしぼり出す娘をひたむきに演じた杉咲が共に素晴らしい」と述べています。



(注1)監督・脚本は、中野量太

 なお、出演者の内、最近では、宮沢りえは『TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ』、杉咲花は『スキャナー 記憶のカケラをよむ男』、オダギリジョーは『オーバー・フェンス』、松坂桃李は『秘密 THE TOP SECRET』、篠原ゆき子は『二重生活』、りりィは『リップヴァンウィンクルの花嫁』で、それぞれ見ました。

(注2)公式サイトの「ストーリー」によれば、同作の主人公は、「すい臓がん。しかも末期。余命6か月」と検査で宣告されます。

(注3)17歳で末期ガンを患っている少女・ヘイゼルシャイリー・ウッドリー)が主人公。

(注4)脳腫瘍のため余命3カ月と宣告された少女・アナベルミア・ワシコウスカ)が登場します。

(注5)脊髄癌(悪性神経鞘腫)のため5年後の生存率がフィフティ・フィフティと宣告された若者・アダムジョゼフ・ゴードン=レヴィット)が主人公。

(注6)大腸癌のため余命半年と宣告された30歳の女性・マーリーケイト・ハドソン)が主人公。

(注7)その結果、安澄はイジメを跳ね返すことができるのですが、帰宅後に安澄が双葉に言った言葉(「お母ちゃんの遺伝子がちょっとだけあった」)は、その後の経緯を考えると涙を誘います。

(注8)さらに言えば、興信所の滝本駿河太郎)は、双葉が依頼した件(失踪した夫・一浩、安澄の実母、自分の実母の居場所の調査)をすぐに解決してしまう腕を持っていますが、妻を亡くしたために、娘の真由)をいつも連れ歩いています。

(注9)双葉が安澄に話すところによれば、君江は、耳が不自由で安澄の泣き声が聞こえなかったことから、育てることに自信が持てなくなって逃げ出したとのこと。でも、世の中には、耳が不自由でも子育てをしている女性がいくらでもいることでしょう。

(注10)さらには、双葉の実母・向田都子りりィ:11月11日に亡くなりました)は、双葉がやっとの思いで訪ねてきても、会おうとはしません。

(注11)無論、すべての問題が解決されるわけではなく、例えば、双葉の実母・向田都子や鮎子の母親・幸子については手付かずのままとなります。

(注12)TSUTAYAに行ったら、本作関連コーナーに『オリヲン座からの招待状』が置かれていたので、釣られて借りてきて見てしまいました。同作は、ストーリー的にはイマイチの感があるものの、10年ほど前の宮沢りえの魅力溢れる映像を見ることができます。



★★★★☆☆☆



象のロケット:湯を沸かすほどの熱い愛


金メダル男

2016年11月08日 | 邦画(16年)
 『金メダル男』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)コメディアンの内村光良の監督作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、チャップリン桑田佳祐出川哲朗などの言葉が字幕で引用されます。
 次いで、主人公の秋田泉一内村光良)の語り。
 「東京オリンピックが開催され、高度成長まっしぐらの1964年に、長野県塩尻市で生まれた」、「両親(平泉成宮崎美子)は同じデパートに勤めていて、慰安旅行先の旅館で合体」、「名前の泉一の“泉”は温泉の“泉”から来ている」、「幼いころはごくフツーの子供だった」。
 でも、「小学校の運動会の徒競走で転機が訪れた」。
 泉一(大西利空)は、徒競走で1位になり、女の子が金メダルを渡してくれます。
 両親が喜び、皆が拍手します。



 泉一の語り。「1等賞、素晴らしく歓喜な響き。唯一無二の存在」、「ありとあらゆる1等賞に取り憑かれた」、「私の人生が始まった」。
 そして、ここでタイトルが流れます。

 次いで、絵を描いている泉一少年が映し出され、泉一の声で、「この絵が子供絵画コンクールで金賞」、「この時、自分探しの旅に出て家にいない父について母は真剣に離婚を考えていた」。
 にもかかわらず、「私は、1等賞をとることにのめり込んでいった」として、火おこし大会、大声コンテスト、鱒のつかみ取り大会などで1等賞を取り続けます。

 小学校の教室で、先生が「将来なりたいものは?」と質問したところ、泉一少年が、「すべてのことで1等賞をとること。これが僕の将来の夢」と答えるものですから、先生は「中学に行って、ゆっくり考えなさい」と言うしかありません。

 泉一は中学に入学します。
 泉一によれば、「私の名は既に轟いていた」。
 水泳部に入った泉一(知念侑李)は、「50m無呼吸泳法」で1番を確保していましたが、ある日、1年先輩の黒木よう子上白石萌歌)の水着姿を見ようとして、溺れてしまうのです(これが最初の挫折!)。

 さあ、こんな泉一ですが、その後はどうなるのでしょうか、………?

 本作は、コメディと銘打たれているにもかかわらず(注2)、笑える要素は殆ど見かけませんでした。小学校の運動会の徒競走で1位となり金メダルをもらったことから、なんでも一番になって金メダルを獲得していこうと頑張る男の物語。とはいえ、幼い頃はいろいろ金メダルを獲得したものの、その後はうまくいかなくなり、さあどうするのでしょうかというところですが、様々の分野で主人公の頑張る姿が描かれているだけのことであって、おかしさを感じさせるシーンが殆ど見られないというのでは、『ギャラクシー街道』に感じたものを本作にも感じざるを得ませんでした。

(2)8月に開催されたリオ・オリンピックで、日本選手団は「金メダル」を12個も獲得し(注3)、マスコミで随分と騒がれましたが(注4)、ようやくそれも沈静化してホッとしたなと思ったら、本作の公開です。
 またまた“金メダル”なのかと食傷気味のクマネズミはかなり躊躇したものの、ウッチャンが作るコメディ作品ならきっとおもしろいに違いないと映画館に行きました。
 確かに例えば、高校時代の泉一は、一人で「表現部」を立ち上げて(注5)、学校の中庭で「坂本龍馬 その生と死」を演じるのですが、なかなか良く考えられているシーンでしょう。

 幼い時からそこらあたりまで、本作は、まずまずの展開を見せています。
 でも、正月のTVニュースで原宿の賑わいを見て(注6)、「東京へ行こう。そこで1番になろう」と決意して上京し、寿司屋(注7)でバイトをするなどというのは、当時ごくありきたりなコースではなかったでしょうか?
 それから、泉一は、劇団(注8)に入って役者になった後、それが挫折すると、世界に旅立って世界一を目指します(注9)。ただ、劇団の役者時代は、劇団代表に扮するムロツヨシの演技もあってまずまずなものの、その後の世界旅行は、あまりに急ぎ過ぎであり、なくもがなの感じがします。

 さらに、「手漕ぎボート太平洋横断」で遭難するも、無人島に漂着し7ヵ月経過したところで救い出され、一躍超有名人になるというエピソードが続きます。
 でもそれよりも、イベントマネージャーの亀谷頼子(注10:木村多江)と組んで漫才(注11)をやる話を膨らませた方が面白いのでは、と思ったりしました(注12)。



 総じて言えば、本作において1等賞をとろうとする話がこれでもかという具合にてんこ盛りされているところ、むしろ、ウッチャンの得意分野であるお笑いとか演劇といった分野に絞ってストーリーを展開したら、それも1等賞をその分野でとるためにどんな努力を泉一が払ったのかをも合わせて描くようにしたら、こんなに慌ただしい感じを見る者に抱かせず、またもっと笑いを誘う作品に仕上げることができたのでは、と全くの素人ながら思ってしまいました。

 ラストで泉一は、50歳を超えてなお、「これまで取り組んだことのなかった新しい分野に挑戦する」と豪語しますが(注13)、どうせやるのであれば、そんな手垢まみれの既存分野ではなく、奇想天外な新分野を創出して1等賞を目指してもらいたいものです(注14)。

(3)渡まち子氏は、「どこまでも前向きな主人公の、たくさんのエピソードをポンポンつないでいく構成は楽しいが、やはり映画はじっくりとみたいという思いと重なった」として55点をつけています。



(注1)監督・脚本は、『ボクたちの交換日記』(DVDで見ました)の内村光良
 原作は、内村光良著『金メダル男』(中公文庫)。
 原案は、内村光良作『東京オリンピック生まれの男』(一人舞台)。

 なお、出演者の内、最近では、知念侑李は『超高速!参勤交代 リターンズ』、木村多江は『くちびるに歌を』、ムロツヨシは『ヒメアノ~ル』、土屋太鳳は『るろうに剣心 伝説の最後編』、平泉成は『シン・ゴジラ』、宮崎美子は『かぞくのくに』、笑福亭鶴瓶は『後妻業の女』で、それぞれ見ました(他にも知っている俳優が大勢出演していますが、省略します)。

(注2)劇場用パンフレット掲載のインタビュー記事において、内村監督は、「映画館でお客さんに笑ってもらいたくて、この映画を撮ったようなものなので、大勢の人に笑って貰いたいのが、今一番の願いです」、「コメディとして作りましたから、笑って劇場を後にしてもらえたらそれが一番です」などと述べています。

(注3)史上最多かと思ったら、この記事を見ると、1964年の東京大会や2004年のアテネ大会で日本は16個も獲得しているのですね。

(注4)極めつけは、10月7日に行われたメダリストの銀座凱旋パレードでしょう。どうして、オリンピックでメダルを獲ることにこれほど皆がこだわるのか、よくわからない感じがするのですが。

(注5)「表現部」に横井みどり土屋太鳳)が入部し、泉一と2人で鳥の求愛ダンスをするシーンがありますが、『オーバー・フェンス』の蒼井優を思い出しました。



(注6)1983年のこととされ(泉一は19歳くらい)、TVニュースでは中曽根内閣組閣が映し出されています。原宿が「若者の街」とされ、「ローラー族」が紹介されます。

(注7)寿司屋は笑福亭鶴瓶がやっていて、「俺がみっちり教えたるわ」などと言うので、泉一は「江戸前寿司なのに関西弁?」と訝しがりますが。

(注8)ムロツヨシが扮する村田が主宰する「劇団 和洋折衷」で、日本と西洋の芸術を折衷することを狙っています。泉一は「何だこの劇団は?」と思いながらも、村田はこの劇団で天下を取ると言い、泉一も、今までのように独りで一番になるというのではなく、皆で力を合わせて一番になるのだという考えになります。でも、村田(泉一と親密な仲になろうとしたものの拒否されてしまいます)が突然ニューヨークに行ってしまい、劇団は解散の憂き目に。

(注9)泉一は、ピザ大食い大会に出場したり、自転車やスクーター等による世界一周を狙いますが、ことごとく失敗します。

(注10)少女時代は、以前泉一がファンだったアイドル・北条頼子清野菜名)。

(注11)コンビ名は「東京アイランド」とされます。これは、泉一が無人島から生還したことを踏まえているのでしょうが、あるいは、木村多江の主演作『東京島』を踏まえているのかもしれません。

(注12)泉一と妻の頼子は、「MANZAI日本一」に出場しますが、スベリまくり笑いを取ることができませんでした。でも、一度の挑戦で尻尾を巻いて退散してしまうのでは、1等賞を獲得することなどもとよりできないことでしょう!

(注13)泉一は、「プロのカメラマンとしてこの後の人生を歩んでいくつもりはありません」と言って、ゴルフに打ち込んでおり、「4年後の東京オリンピックを目指している」とも語ります。

(注14)本作は、泉一の1等賞獲りを巡るお話と受け取れますが、もう一つ、泉一と両親とを巡るお話とも受け取れるように思います。
 なにしろ、小学校の時、徒競走で1等賞を獲った時に大層喜んだのが両親ですし、金賞を獲った絵のタイトルは「お母さん」、大声コンテストで「お父さん、ここにいるよ」と叫んだら、旅に出ていた父親が家に帰ってきます。さらに、高校に入って竹越(竹岡啓二)という友人ができたことを泉一は父親に報告しますし、上京する時は両親が揃って見送ります(母親は「信じてる」と言います)。また、世界旅行をする時に家に電話を入れると、母親は「あんたには何かある。思った通りに生きなさい」と励まします。はては、無人島に漂着して7ヶ月目に沖合に船を見た時、泉一が「お父さん、ここにいるよ」と叫んだら、救出されて無事に日本に帰還できますし、フォトコンテストでグランプリを獲った写真は、両親が横断歩道を渡る姿を撮ったもの。
 泉一は、ずっと一人で頑張ってきたように見えますが、結局は両親の掌の中で生きてきたようにもみえます。
 とはいえ、こうした視点から本作を見るにしても、ことさら新しい事柄が描かれているわけでもないように思います。



★★☆☆☆☆



象のロケット:金メダル男


人間の値打ち

2016年11月04日 | 洋画(16年)
 イタリア映画『人間の値打ち』を渋谷のル・シネマで見ました。

(1)本作がイタリア・アカデミー賞の作品賞などを受賞しているというので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、ミラノの郊外。
 名門高校で行われたパーティーが終わって、会場で働いていたウェイターのファブリッツィオが後片付けをしてから、仲間に「俺は1時間も早く始めたんだから早目に帰る」と言いながら外に出てきます。そして、自転車に乗って夜の街を走り、家路を急ぎます。
 時期はクリスマス休暇の前夜で、道路の両側には雪が積もっています。
 街を出て暗い中を自転車は走り続けるところ、後ろからと前から車が近づいてきます。
 そして、接近する車を避けようとしたもう1台の車が自転車に衝突し、ファブリッツィオは道路脇に投げ出されてしまい、そのまま動きません。
 にもかかわらず、衝突した車はなにもせずに行ってしまいます。
 ここでタイトルが流れます。

 次いで、その半年前のこと。
 同じ道を不動産屋のディーノファブリッツィオ・ベンティボリオ)が車で通ります。
 ベルナスキ家の邸宅前まで来ると、同乗している娘のセレーナマティルデ・ジョリ)に「ここでいいか?」と尋ねます。
 「送ったらすぐ帰る」と言いながらも、ディーノは、「さすがベルナスキ家の豪邸だ」と呟いて車を中に入れてしまいます。
 ここで、「第1章 ディーノ」との字幕が入ります(注2)。
 そして、セレーナはディーノに「チャオ」と言って、ベルナスキ家の一人息子のマッシグリエルモ・ピネッリ)と会うべく家の中に入ります。
 入れ替わりに、車から出たディーノのところに、ベルナスキ家の当主・ジョヴァンニファブリッツィオ・ジフーニ)の妻であるカルラヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)が現れます。
 カルラは、「セレーナは当家で人気者よ」「ちょっと用事があるので失礼するわ」と言って、車に乗って外出します。

 残されたディーノがテニスコートを見ると、ジョヴァンニらがテニスをしています。
 ジョヴァンニがディーノに「テニスをしたことは?」と訊くと、ディーノは「少々」「でもウエアを用意していない」と答えます。それに対し、ジョヴァンニは「そんなものは家にある」というので、ディーノはテニスに参加することになります。

 こうしてディーノはベルナスキ家に入り込むことになりますが、さあその後はどのように展開することになるのでしょうか、そしてファブリッツィオと衝突した車を運転していたのは誰なのでしょうか、………?

 本作は、一応は、ひき逃げ事件の真犯人を追うというサスペンス物。それが、富豪に取り入って大金をせしめようとする不動産屋の男、その富豪の妻、そして不動産屋の娘という3つの視点から描かれます。と言っても、事件の謎解きよりも、むしろ、それらの人々が様々な人と織りなして作り出されるエピソードの方に興味を惹かれました。

(2)本作については、サスペンスとされ(注3)、また、監督は、「主要なテーマは、増やすのも不安、失うのも心配なお金というものが、それに触れる人々の人間関係や運命や価値をいかに左右するかということです」と述べています(注4)。
 確かに、本作では、映画冒頭のひき逃げ事件の真犯人は誰かということが最後まで追求されています。
 また、「お金」を巡る問題がいろいろ描き出されてもいます(注5)。
 例えば、本作の原題は「Il capitale umano」(英題はHuman Capital)であり、それは「人的資本」(注6)のことであり、本作に当てはめれば、死んだウェイターのファブリッツィオに自動車保険から支払われる慰謝料を意味しています(注7)。
 また、上記(1)で記したように、中産階級のディーノは、なんとか富豪のベルナスキ家の中に入り込んで一儲けしようと企んでいます(注8)。

 ですが、本作を見ていると、そんなことよりも、3人の女性の動きに興味が惹かれます。
 ジョヴァンニの妻のカルラは、夫とうまくコミュニケーションができないままに、存続の危機にある街の劇場の再建に取り組み、その際、劇作家のドナートルイジ・ロカーショ)と不倫の関係を持ってしまいます。



 また、ディーノと先妻との子・セレーナは、ジョヴァンニの息子マッシと別れ、大麻所持で逮捕されたことのある下層階級のルカジョヴァンニ・アンザルド)と親しく付き合うようになります。



 さらに、ディーノの後妻のロベルタヴァレリア・ゴリノ)は心療内科医であり、ルカのカウンセラーとなっています(注9)。



 それぞれ、お金の面というよりも愛情関係の面で、自分の興味と関心に従って動いているように描かれています(注10)。

 これに対し、本作に登場する男性の3人はお金に囚われたダメ人間のように描かれています。
 ジョヴァンニは、ファンドの運営に全精力を注ぎ込み、お金が全てであるように行動します(注11)。また、ディーノは、そんなジョヴァンニに取り入って、多額の儲けをせしめようとします(注12)。



 さらに、ルカを養育する叔父のダヴィデは、亡くなったルカの母親の保険金で生活しています(注13)。
 男性側がこのようにお金に絡め取られたダメ人間として描き出されているからこそ(注14)、お金と直接的な関係を持たない女性側が本作において目立つようになるのでしょう。

 そしてその有様が、ひき逃げ事件の真犯人追求という縦糸と、上流・中流と下層の階級的な対立という横糸の中で描かれている点が本作の特色のように思えます。
 ただ、同じ事柄がディーノ、カルラ、セレーナという異なる3つの視点から何度も描き直されるために、最初のうちは随分と騒々しく落ち着かない感じがして、映画の中に入り込むのに時間がかかってしまい、全体的にもごった煮のような感じが残ってしまいます。

(3)村山匡一郎氏は、「パオロ・ヴィルズィ監督は、冒頭のひき逃げ事件の犯人は誰かという謎解きの緊張感を保ったまま、登場人物それぞれの生活をリアルに描き出す。その一方、構成の妙味を通して、主人公たちの感情や出来事を次第に膨らませつつ奥行きのある物語に仕立て上げた」として★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 真魚八重子氏は、「この映画では年齢や経験は関係なく、誠実さを知る者と、自己中心的な者が分かれて、それぞれの人生が交錯する。その中でも意外なのが「貪欲さ」「自己犠牲」「庶民」「確固たる己を持たない者」という個性の中で、その誰が一番の貧乏くじを引くかだろう。人間の値打ちは、金で計れてしまう。そのなんと、虚しくあじけないことか」と述べています。
 毎日新聞の高橋諭治氏は、「マネーゲームで荒稼ぎする富裕層や、心のよりどころを求めてさまよう若者らの人生が交錯する物語は現代社会の縮図のごとし。人間の見え、欲望、愛の渇きをミステリー仕立てであぶり出す語り口がさえ、皮肉はたっぷりでも冷笑的にならない作り手の真摯な視点が映画に確かな情感を吹き込んだ」と述べています。



(注1)監督は、パオロ・ヴィルズィ
 原作は、スティーヴン・アミドン著『Human Capital』。

(注2)以下、「第2章 カルラ」、「第3章 セレーナ」、「最終章 人間の値打ち」と続きます。

(注3)公式サイトの「イントロダクション」に、「北イタリア・湖水地方にそびえ立つ美しい邸宅を舞台に、人びとの交錯する欲望の行方を描くラグジュアリー・サスペンス」とか、「今の時代を生きる私たち全てに、人間の幸せとは何かを問いかける比類なきサスペンス」とあります。

(注4)劇場用パンフレットに掲載の「監督ノート」より。

(注5)劇場用パンフレットに掲載されているエコノミストの浜矩子氏のエッセイ「カネの切れ目は出会いのはじまり?」に、「本作から受け止めるべき経済学的教訓」として、「株にしろ何にしろ、値下がりを当て込んで「空売り」するのは止めておこう」、「(それに)借金までしてカネをつぎ込むのは、もっといけない」、「芸術的支援に使ったはずのカネを、ぼろ儲けで回収しようとしてはいけない」の3点を挙げています。確かに、素人が「投機」を行うのは止めたほうが無難かもしれません。ですが、ですが言えるのはせいぜいそのくらいであって、もともと「投機」は立派な経済的行為であり、浜氏のように倫理的な観点から規制すべきではないでしょう。そんなことをしたら株式市場はやっていけなくなってしまいます(それに、本作では、ジョヴァンニは、当初は会社倒産の危機を迎えたものの、結局は賭けに勝って大儲けをしているのですから、こうした「教訓」を本作から導き出すというのもいかがなものかと思われます。モット言えば、浜氏の挙げる3番目の教訓は、本作のどこの部分に対応してるのかわかりませんし、浜氏が拠り所とする「経済学」とはどんな内容のものなのでしょうか?)。

(注6)「人的資本」とは、例えばこの記事では、「将来獲得可能な収入を現在価値で評価したもの」と定義されています。

(注7)その金額は21万8976ユーロ=約2千4百万円。
 ただ、それが一人の人間の価値としては安すぎると批判してみても、それ自体は一つの計算方法にすぎないのですから、とやかく言ってみても仕方がないように思われます。

(注8)ディーノは、背伸びをして、娘のセレーナを名門の私学校(グレゴリウス14世高等学校)に通わせ、狙い通りに、セレーナはベルナスキ家の一人息子のマッシと親密な関係になります。さらにまた、テニスを通じて、ディーノはジョヴァンニの面識を得、ついにはジョヴァンニが運営する「ベルナスキ・ファンド」に加わることになります(実際には、ファンドの規約に反して、ディーノは、銀行から借り入れた70万ユーロをファンドに投資します。ですが、その後ファンドが大きな損失を出したために、大幅に目減りしてしまうのですが、……)。

(注9)さらにロベルタは、ディーノの子供を宿してもいます。ただロベルタは、そのことをディーナに告げますが、「セレーナには言えないから、あなたから話して」と夫に頼みます。
 セレーナとの関係はなかなかうまくいかないながら、ロベルタは実際にはセレーナのことを親身になって考えています。

(注10)ただ、カルラについては、暗黙の内ながらも夫の財産に頼り切りであり、夫のファンド運営会社が倒産しそうになると何も行動できなくなってしまいますが。

(注11)カルラが再建しようとした劇場についても、ファンドの資金が必要なジョヴァンニはマンション業者への売却を考えており、カルラに劇場再建に出資できないと言います。

(注12)さらにディーノは、カルラに秘密の情報を売ることによって、ジョヴァンニのファンドに投資して損をした分を取り返そうとしますが、その際に、カルラにキスをも求める下劣な男なのです。

(注13)ルカが捕まる原因となった大麻は、実際には、このダヴィッドが栽培していたのです。

(注14)さらに、劇作家のドナートは、劇場再建ができず、不倫の関係も続けられないことをカルラから告げられると、口を極めてカルラを罵るどうしようもなさを示します。



★★★☆☆☆



象のロケット:人間の値打ち


永い言い訳

2016年11月01日 | 邦画(16年)
 『永い言い訳』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)西川美和監督の作品ということで、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、椅子に座った衣笠幸夫(小説家の筆名は津村啓本木雅弘)の髪の毛を、妻の夏子深津絵里)がハサミを入れて切っています。
 TV画面には、幸夫が出演しているバラエティ番組が映し出されていて、それを見ながら夏子が笑います。
 すると、幸夫は「もう消せよ、くだらない」「ヌエ(鵺)のことなんか語ってどうすんだって思ってるんだろ?」と詰りますが、夏子は「思ってません」と答えます。
 幸夫がTVを消すと、夏子は「そう言えば、小学校の同級生から電話があった」と名前を言うと、幸夫は「地元を出てから一度も会ってないやつだ」と答えます。
 夏子は、「幸夫くんのこと、色々応援していると言っていたけど」と付け加えます。
 すると幸夫は、「編集者が来た時に“幸夫くん”と呼ぶのを何とかしてくれない?」と言います。
 それに対し夏子は、「そんなことしていない」と答えるのですが、幸夫は「俺に恥をかかせようとして何回もそう呼んだ」、「鉄人キヌガササチオの代理にすぎない」、「あなたもそういう名前に生まれついたことがあるのですか?」などと言い募ります。
 夏子が「衣笠幸夫という名前が素晴らしい、結婚した時そう思った」と言うと、幸夫は「その頃の話はいいよ」と話を打ち切ります。
 そして、夏子の作業が終わると、幸夫は「おしまい?」と訊き、夏子は「完璧」と答えます。
 幸夫が「間に合うの?」「明日のパーティーの服は?」と尋ねると、「寝室に架かってる」と答えます。

 夏子は外出の準備を整えるために部屋に戻り、再度幸夫の前に現れ、「悪いけど後片付けはお願いね」と言って玄関から出ていきます。
 それを見てから幸夫は携帯電話を手にします。

 次の場面では、夏子は親友の大宮ゆき堀内敬子)と会って、一緒に深夜のスキーバスに乗り込みます。
 他方で、幸夫の家には編集者の福永黒木華)が入っていきます。
 さあ、この後、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、妻が、その親友とともにバス旅行中に事故に遭遇して死んでしまったところ、後に遺された夫の人気作家が、親友の夫や2人の子供と深く接していく内に、これまでの妻との関係を見つめ直す、という物語。主人公の作家を演じる本木雅弘や、妻の親友の夫を演じる竹原ピストルの演技が優れており、さらに出番は短いものの、主人公の妻を演じる深津絵里が印象的な作品です。

(2)最近の邦画の流れから本作を見てみると(注2)、家族の中でのコミュニケーションが希薄になっている点が共通するとはいえ、家族という共同体への異邦人の侵入という形式をとっておらず(『淵に立つ』)、また共同体の構成員が特異な行動をするようになるわけでもなく(『だれかの木琴』)、本作では、ある時突然、共同体の構成員の一人が消滅してしまうのです。

 すなわち、上記の(1)からもある程度おわかり願えると思いますが、本作の幸夫と夏子との間では、このところ親和的なコミュニケーションが行われておりません。
 特に、幸夫は、夏子が言うことをそのまま素直に受け取ろうとせずに、その裏に含まれていると思われることを意地悪く探り出して批判したりします。



 それで二人の会話はすぐに途切れてしまいます(注3)。
 さらに幸夫は、編集者の福永と不倫の関係を持ってもいます。
 そうしたところに、何の前触れもなく、夏子が突然この世から消えてしまうのです。
 その結果、本作では家族関係も直ちに消滅してしまうのですが、妻の親友の夫・大宮陽一竹原ピストル)やその子供たちとの関係が入り込んでくることによって、逆に、消えたはずの家族関係が蘇ってくるようにも思われます。

 この場合、陽一は、幸夫とは正反対な人間として設定されています。



 トラック運転手として家にいないことが多いものの、陽一は、直情的な人間で、まっすぐに妻のゆきや子供の真平藤田健心)や白鳥玉季)を愛しています(注4)。
 普通であれば、幸夫はこのような陽一と付き合わないでしょう。現に、夏子とゆきが親友であったにもかかわらず、幸夫と陽一とは何の付き合いもありませんでした(注5)。
 それが、同じ事故で妻を亡くしてしまったことから付き合いが始まり、はては、陽一の代わりとなって真平と灯の面倒を見ることにまで進展してしまいます(注6)。



 そうしたなかで、幸夫は、幸せな関係であったときの夏子を思い返したりするようになり(注7)、最終的には『永い言い訳』というタイトルの小説を書いて、気持ちの整理を付けることになります。

 本作を見て、雰囲気はまるで違いますが、以前見たことがある『今度は愛妻家』(2010年)を思い出してしまいました。
 同作においても、妻・さくら薬師丸ひろ子)を突然失ってしまった夫・俊介豊川悦司)の様子が描かれており、さくらが生きているときの俊介は、本作の幸夫と同じように、優しい言葉一つかけることもなく随分と気ままで自堕落な生活を送っていました。ですが、死なれてみると妻のことが強く思い出され、心が落ち着かなくなります。
 ただ、そうした夫の気持ちの整理がつくのに、本作では陽一とか真平や灯といった他者の役割が大きいのに対し、同作では幻影(あるいは幽霊)としての妻・さくらの出現が大きな意味を持っています。
 いずれにしても、この世に存在しなくなった人に対してあとからいくら思いの丈を話そうとしても、文字通り後の祭りだということを、本作も、そして『今度は愛妻家』も、見る者に説得力を持ってわからせてくれる作品だなと思いました(注8)。

(3)渡まち子氏は、「人は時に愚かで間違えることもあるが、それでも人生は続いていき、そのことに向き合ったものには、贖罪や忘却が許される。作り手の鋭くも優しいまなざしを感じる秀作だ」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「私の場合は西川作品に求めるハードルが極めて高いので常に辛めの点数になりがちだが、毎度ながら見ておいて損のない、よくできた日本映画である。また、これもいつもながらの話だが、やはり男性にこそ彼女の映画は見て欲しいと強く思う。西川美和監督の真骨頂は、こうした「女性による男性のための男性映画」なのである」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「幸夫は妻の死によって自分が人間として犯した罪に気づき、その罪悪感のせいで妻の死を悲しむことができない。しかも、自分の罪を謝ろうにも相手はもうこの世にいない。そんな人間の心の淵を、西川の丁寧な演出と本木の抑制した演技がみごとに表している」などとして★4つ(「見逃せない」)を付けています。
 佐藤忠男氏は、「西川美和監督はこれまでも人情の機微を一貫して描いてきたが、この作品は格段に良い」と述べています。
 毎日新聞の木村光則氏は、「幸夫が自分自身や夏子と向き合うには、もっと胸をかきむしるような時間が必要だと思うのだが、すっとそれを飛び越えてしまった印象を受けた。それでも、外面と内面に断層を抱える現代人を照らそうとした西川の試みは十分感じられる。見る者は皆、自分の胸に手を当てざるを得ないだろう」と述べています。



(注1)監督・脚本は、『ゆれる』や『ディア・ドクター』の西川美和
 原作は、西川美和著『永い言い訳』(文春文庫)。

 出演者の内、最近では、本木雅弘は『天空の蜂』、竹原ピストルは『さや侍』、作家・津村啓のマネージャー役の池松壮亮は『だれかの木琴』、黒木華は『エミアビのはじまりとはじまり』、山田真歩は『ヒメアノ~ル』、深津絵里は『岸辺の旅』、堀内敬子は『高台家の人々』で、それぞれ見ました。

(注2)この拙エントリの(2)でも、同じような議論をしています。

(注3)さらに、夏子の死に遭っても幸夫はまず自分のことが気になり、夏子の遺骨を運ぶ車の中で、幸夫は自分の髪の毛の様子をバックミラーで点検したりし、また自宅に戻ると、パソコンで自分のことがどのようにネットで書かれているか検索して調べたりします。
 他方で、夏子の方も幸夫に見切りをつけていたようで、遺された携帯の幸夫宛のメールには、未送信ながら、「もう愛していない。ひとかけらも」の文字が並んでいました(それを見た幸夫は、夏子の携帯を怒りに任せて投げ飛ばしますが)。

(注4)陽一は、事故の模様を説明するバス会社の役員に向かって、「妻を返してくれ!」と怒なりつけたり、妻・ゆきからかかってきた電話を何度も再生して聞きながら涙を流したりします。

(注5)ラストで灯が幸夫に手渡した写真には、夏子とゆきと陽一が一緒に写っていましたから、夏子は陽一を知っていたことになりますが。

(注6)幸夫には子供がおらず、また普段から家事をこなしているようにも見えませんから、真平と灯の面倒を自分が見ようという発想になるとは思えないところ、まあこれも一つの物語ですから(それに、週に2回ほど留守番をするというくらいですし)、あまりとやかく論うまでもないでしょう。

(注7)ただ、決して単線的に物語は進行しません。
 「こども科学館」の学芸員・優子山田真歩)が大宮の家の中に入り込んでくるようになると、幸夫は、嫉妬心からでしょう、自分がないがしろにされていると思い込み、大宮の家に行かなくなってしまいます〔幸夫は、灯の誕生パーティーの際、「先生(優子)にみてもらうのが良いと思うよ。きっと楽しいよ。僕は場違いだ。ごめんなさいね」と陽一に言って、大宮の家を飛び出てしまいます〕)。

(注8)『今度は愛妻家』では、さくらの幽霊が「知らなかったな。私のことそんなに好きだったなんて。何で言ってくれなかったの」と言いますが、本作の夏子も、幸夫のその後の有様を見れば同じことを言ったのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:永い言い訳