映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

スティーブ・ジョブズ

2016年02月26日 | 洋画(16年)
 『スティーブ・ジョブズ』をTOHOシネマズ新宿で見ました。

(1)予告編で見て面白いと思い映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭では、『2001年宇宙の旅』のアーサー・C・クラークが、巨大なコンピュータの側で子どもたちに向かって、「未来になれば、こんな大きなコンピュータを家に置く必要はなく、TV画面とキーボードから電話のようにコンピュータと話すことができて、日常生活に必要な様々の情報を得ることが出来るようになる」などと話しています。
 子供の一人が「コンピュータ依存社会になるのでは」と質問すると、彼は「そうかもしれないが、コンピュータは我々の社会を豊かにしてくれる。コンピュータによって我々は、好きなところどこでも住むことが出来るし、ビジネスマンも地球上のどこでも仕事ができる。素晴らしいことだ。最早都市にしがみつくこともない」と答えます。

 次いで、画面は、1984年のMacintosh発表会直前の舞台裏。
 スティーブ・ジョブズマイケル・ファスベンダー)が「直せ(Just fix it)」と言うと、部下のアンディマイケル・スタールバーグ)が「できない(I can't.)」と答えます。
 マーケティング担当のジョアンナケイト・ウィンスレット)は、「2時間の発表の内の20秒間のものだからカットしよう」と言いますが、ジョブズは「そんなことは無理だ」、「会場を暗くしろ」、「音声デモを改良しろ」と言い張ります(注2)。



 ジョアンナが「音声ソフトは事前に宣伝していないから、省いてもわからない」と言っても、ジョブズは「よし、音声デモは省こう。しかし、発表会は中止だ」と答える始末です。
 さらに、そばにあったタイム誌を見て、「Macが表紙になっていないものをMacの発表会で配るとは!」と八つ当たりします。
 また、ジョアンナが「90日で100万台など売れるわけがない(注3)。1500ドルなら戦えたのに」と言うと、ジョブズは「そのこだわりから2500ドルにしたんだ」と答えます。



 こんな大騒ぎの最中に、ジョブズの元恋人のクリスアンキャサリン・ウォーターストン)が娘のリサを連れて控室に現れます(注4)。

 さあ、物語はどのように展開するのでしょうか、………?

 本作は、IT界のカリスマ的存在だったスティーブ・ジョブズの伝記映画ながら、通常の伝記物とは違って、彼が行った3回の著名なプレゼンテーションを巡っての話が中心的に描き出されます(注5)。それも、肝心のプレゼンテーションの場面は映し出されずに、そこに至るまでのおよそ40分前からの慌ただしい様子が描かれるのです。関係者がのべつ幕なしに大声でしゃべっているので、見ている方は酷く疲れるとはいえ、斬新な製品を発表して皆を驚かせようとするジョブズの意気込みなどが見る者まで伝わってきて、映画を大層面白く味わうことが出来ます。

(2)本作は、スティーブ・ジョブズと、他の登場人物、特にジョアンナとの間の激しい口論がこれでもかというくらい詳細に描かれていて、それをフォローするのが大変ながらも、大層見応えがあって、どんどん画面の中に引き込まれてしまいます。
 上記(1)からもある程度推測できるように、自己中心的ですべてを自分の思うとおりに取り仕切らなければ気がすまないジョブズですが(注6)、発表会を重ねるにつれて次第に変化していくのです。

 特に、彼の娘とされるリサに対する態度がかなり変わる様子が本作で描かれているのに興味を惹かれました(注7)。



 発表するコンピュータ製品に関する様々な術語が飛び交ったりする激しい議論が続く中にこうしたエピソードが挿入されているわけで、本作はその物語構成がとても巧みに作られていると思いました。

 ところで、よく知られていることながら、本作と全く同じタイトルの作品(注8)が2013年に公開されているので、TSUTAYAからDVDを借りて見てみました。



 同作では、2001年にジョブズが、アップル社のスタッフミーティングの場でi-Podを発表するのを導入部とし(注9)、1974年のリード大学に場面は変わって、そこから1997年にアップル社に暫定CEOとして復帰するまでが伝記物風に描かれています。

 確かに、様々な人が言うように(例えばこの記事)、あれだけ創造性を強調するジョブズを取り上げている作品にしては、かなり凡庸で通俗的な内容となっているように思いました。ウォルター・アイザックソンの『スティーブ・ジョブズ』で述べられている様々なエピソードから鍵となるものを選び出して描いているものの、単にそれらを並べてつなぎあわせているだけのように思います。
 映画作品としては、本作の方が遥かに出来が良いように思います。

 それでも、本作においては、元アップル社CEOのジョン・スカリージェフ・ダニエルズ)など、ジョブズを取り巻く人たちと彼との関係が理解しづらい恨みがあるところ、同作では、実家のガレージでアップル社を立ち上げてからの同社内でのジョブズの動きについてなかなか丁寧に描いていますから、人間関係などを手っ取り早く知るにはうってつけといえるのではないかと思いました。
 ただ、本作で大活躍し、ジョブズに様々な影響を及ぼしているジョアンナは同作には登場しませんし、またリサは同作に登場するとはいえ、本作のような扱いは受けておりません(注10)。

 なお、ジョブズはボブ・ディランの歌を愛好していたようで(注11)、本作のエンディングにはディランの「Shelter From The Storm」が使われていますが、なんと、この曲は、以前見た『ヴィンセントが教えてくれたこと』のエンドロールでも流れ、主演のビル・マーレイがヘッドフォンで聴きながら気持ち良さそうに口ずさんでいるのです!
 クマネズミも、早速、持っているi-podにディランのその曲をインプットして、聴きながらウォーキングでもすることといたしましょう。

(3)渡まち子氏は、「ボイル監督が目指したのは、すでに世界中が知っているジョブズの偉大な功績やコンピューター誕生秘話ではなく、転機となる3度の瞬間に肉薄することで、革新者として、人間として、父親としてのジョブズの横顔を浮き彫りにすることだった」として75点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「ジョブズの言動から見えてくる彼の心情と、それによってジョブズ像が変化して見える面白さ」などとして★4つ(「見逃がせない」)をつけています。
 柳下毅一郎氏は、「どこまでも人工的な物語と演技はすべてソーキンと監督ダニー・ボイルの創作である。にもかかわらず、そこにはまちがいなくスティーブ・ジョブズという人間の本質が描かれている」と述べています。
 藤原帰一氏は、「言葉のやりとりで映画が進むので、映画というより舞台劇なんですが、その言葉がひとつひとつ観客に突き刺さるので息が抜けません。とても映画には思えない。それでも、最初から最後まで引き込まれる。とても不思議で、とても魅力的な作品です」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「世界を変えたカリスマを単純化せず、大きくとらえて観客に差し出す。しかも、彼の内にある相反する性向を矛盾だと感じさせずに。それを演じたファスベンダーもさりげなく見事だ」と述べています。



(注1)監督は、『スラムドッグ$ミリオネア』や『127時間』のダニー・ボイル
 脚本は、『ソーシャル・ネットワーク』や『マネーボール』のアーロン・ソーキン
 原案は、ウォルター・アイザックソン著『スティーブ・ジョブズ』(講談社+α文庫:以下の引用はこちらのKindle版から)。
 原題は「steve jobs」。

 なお、出演者の内、最近では、マイケル・ファスベンダーは『それでも夜は明ける』、ケイト・ウィンスレットは『とらわれて夏』、ジェフ・ダニエルズは『オデッセイ』、マイケル・スタールバーグは『ブルージャスミン』で、それぞれ見ています。

(注2)ここらあたりのことは、発表会の場で、新作のMacintoshに「Hello」と言わせる「voice demo」の動作に不具合が生じてしまい、修繕していると間に合わなくなってしまうという事態を指しています。

(注3)ジョブズは、「最初の90日で100万台、後は月9万台。大事なのはそれだけ」と豪語していましたが、実際には、「100万台が35千台、9万台が500台」だったようで、そのためもあって会社から追われてしまいます。

(注4)1984年の発表会の控室にリサを連れてやってきたクリスアンは、ジョブズに対して、「生活保護(on welfare)を受けているし、娘はパーカーで寝ている」、「あなたは441百万ドル儲かったのに対し、私は月に385ドルしかもらえなかった」と言ったり、タイム誌の記事を読んで、「(自分は)米国人男性の28パーセントと寝たと言われた」と激しく非難したりします。
 最後の点については、ウォルター・アイザックソン著『スティーブ・ジョブズ』(第7章の「妊娠とDNA鑑定」)によれば、当初ジョブズはリサを認知せず、タイム誌のマイケル・モリッツ記者に、「(統計的に分析すると)あの子の父親である可能性は米国人男性の28パーセントにある」と語り、それが同誌に掲載され、その記事を読んだクリスアンが誤解してジョブズを非難しているようです。

(注5)本作では、3つの発表会の舞台裏が中心に据えられているものの、それだけでなく、ウォズセス・ローゲン)と一緒に、ガレージでホームコンピュータを作っている時の様子とか、レストランを営む実の父親の様子なども、ごく簡単にですが描き出されます。

(注6)そんなことを指して、ジョブズの「現実歪曲空間」(reality distortion field)と言われたようです。
 また、主演のファスベンダーは、このインタビュー記事において、「Macintoshのオリジナルのデザイン・チームの1人が、ジョブズは「現実歪曲フィールド」の中で動いてたって言った」と述べています。

(注7)1984年の発表会の控室にやってきたリサが、「私の名前をコンピュータに付けた」と言うのに対して、「それは偶然の一致であって、LisaというのはLocal Integrated Systems Architectureを表している」などと応じて、ジョブズは酷く冷淡に振る舞います。
 ところが、3番目の1998年のi-Macの発表会の際には、会場のビルの屋上でリサに対して、「コンピュータのLisaは、もちろんお前の名前からとったものだ」、「Local Integrated System Architectureなんて何の意味もない」と言うのです。
 なお、ウォルター・アイザックソン著『スティーブ・ジョブズ』の第8章の「新しい赤ん坊」では、「本書を執筆するにあたってジョブズ本人に確認した結果は、「僕の娘にちなんだ名前に決まってるじゃないか」だった」と述べられています。

(注8)原題は「Jobs」。

(注9)上記「注7」で触れたように、本作のラストでの方でジョブズは、i-Mac発表会の会場の屋上でリサと会うのですが、その際、「もうレンガのようなウォークマンを運ばなくても済むように、1000曲くらいをポケットの中に入れられるようになる」とリサに言います。
 それを実現したのが、映画『スティーブ・ジョブズ』(2013年)の冒頭で取り上げられたi-Podです。

(注10)ジョブズは1991年にローリーン・パウエルと結婚するところ、映画『スティーブ・ジョブズ』(2013年)の後半でその家庭生活ぶりが描かれています。そして、リサが一緒にそこで暮らしている様子が映し出されます。
ウォルター・アイザックソン著『スティーブ・ジョブズ』(第20章の「リサを引き取る」)では、「(母娘のあいだに深刻な問題があると聞いた)ジョブズはリサと散歩しながら状況をたずね、自分のところに来ないかと提案する。リサは14歳になろうとするところでもう子どもではなく、2日間考えた上で承諾した」と述べられています。

(注11)劇場用パンフレット掲載の中川五郎氏のエッセイ「ジョブズの人生に寄り添い背中を押した、ボブ・ディランの音楽」によれば、「ジョブズが大のディラン好きで、彼のことを“人と違うように考える反逆者”、すなわち自分にとってのヒーローの一人と思っていたのは有名な話だ」とのこと。
 また、同エッセイによれば、1984年のMacintoshの発表会のスピーチでは、ディランの「The Times They Are A-Changin’」の「2番の歌詞すべて」が使われたとのこと。
 なお、映画『スティーブ・ジョブズ』(2013年)では、ウォズが「俺はビートルズだが、君はディランだ」と言うシーンがあります。



★★★★☆☆



象のロケット:スティーブ・ジョブズ


俳優 亀岡拓次

2016年02月24日 | 邦画(16年)
 『俳優 亀岡拓次』をテアトル新宿で見ました。

(1)評判が良さそうなので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、映画の撮影現場。
 パトカーの音が聞こえる中、男(浅香航大)が振り向きながら歩いています。
 男は、ガードに入っていき、反対側から来た女子高生とぶつかります。
 その際、ポケットに入れていた拳銃が下に落ち、それを見た女子高生が叫び声を上げます。
 男は銃を拾って逃げ出しますが、刑事らがその後を追います。
 神社の中で銃撃戦となり、男は撃たれて石段から派手に転げ落ちて倒れ、さらに立ち上がろうとします。
 それを上から見ていた監督(大森立嗣)が、「はーい、カット。もう1回」、「撃たれたらスグに倒れろ。倒れ方がくどい」、「即死でいい。撃たれたら命は終わり」などと、無線で下の現場の助監督に伝えます。
 助監督が、演じている俳優にそれを伝えると、彼は「死んだ後でも動きたい」と言うものですから、監督は「亀岡の倒れ方を見せてやれ」と助監督に命じます。
 そこで助監督は、亀岡安田顕)(注)を連れて来て立たせて、「バン」と拳銃を撃つマネをすると、亀岡はいとも簡単にその場に倒れます。
 監督が了解し、助監督が「こんな風にアッサリと」と俳優に言って、再度撮り直しとなります。

 次いで本作の場面は、亀岡の行きつけのスナック「キャロット」(注2)。
 スナックのママ(杉田かおる)が「亀ちゃん、お帰り」と言うと、亀岡は「ただいま」と応じ、客が「どこに行っていたの?」と訊くと、亀岡は「三重です。戻ってから、都内で撮影がありました」と答えます。
 さらに、ママが「テレビ見たわよ。でも、あれってどうなるの?」と尋ねるものですから、亀岡が適当に答えると、客が「今日は何の映画?」と訊き、亀岡は「今日はTVです」と答えます。
 また、ママが「ちゃんと食べてるの?」と訊き、客が「ご飯を作ってくれる人がいれば」と言うと、亀岡は「そんな人がいればねー」と答えます。
 これに対して、ママは「そんな願望があるんだ」と言います。

 そんなこんなの亀岡が主人公となって本作は綴られていきますが、さあどんな風に話は展開するのでしょうか、………?

 本作は、映画、TVドラマ、そして舞台でひたすら脇役を演じ続ける俳優を主人公にした作品。と言っても本作は、脇役人生の悲哀を描くというよりも、むしろ、主人公と地方の飲み屋の若女将との悲恋物語をちょっとした軸にしながら、主人公が脇役として様々な作品でいかに活躍しているかを描いているようにも思え、なかなか面白く見ることができました。

(2)本作の主人公を演ずるのは、本作の主人公と同じように、実際にも専ら脇役を演じ続ける安田顕(注3)。



 クマネズミは、3年ほど前の『HK/変態仮面』で判別がついて以来、彼を注目するようになりましたが、それ以前でも映画の中で何回もお目にかかっているはず。
 脇役とは本来そうした目立たない存在なのでしょう(注4)。

 それでクマネズミは、本作が脇役を主人公とする作品と聞いて、例えばスーツアクターの生き様を描いた『イン・ザ・ヒーロー』のような、あまり日の当たらない俳優(注5)の人生の悲哀を描いたものではないかと密かに予想していました(注6)。

 ですが実際に本作を見てみると、亀岡の過去(どんな女性と関係があったのでしょうか?)とか、現在の生活ぶり(一体どのくらいの収入があるのでしょうか?)などは殆ど描かれず、私的な面は飲み屋での会話から伺えるに過ぎませんが、その際にも亀岡は殆ど愚痴をこぼしません(注7)。

 むしろ本作では、主人公が脇役として様々な作品でいかに活躍しているかを描くことの方に力点が置かれているように思いました。
 なにしろ、亀岡は、決して埋もれている俳優ではなく、ソコソコ知られており(注8)、劇団の看板女優・夏子三田佳子)からも頼りにされる存在なのです(注9)。
 それで、本作では、冒頭の映画を始めとして、亀岡が出演する6本の作品(うち1本は舞台)が描き出されます。
 といっても、本作を見ただけでは、それぞれの作品のタイトルはわかりませんし、全体のストーリーなどもわかりません(注10)。単に、亀岡が登場する場面の撮影風景などが描き出されるに過ぎません。
 でも、そんな中途半端なところが脇役の脇役らしいところでしょう。脇役は全体を構成するわけではなく、一部を担う存在に過ぎないのですから。

 ただ、そうした中途半端な脇役の亀岡が全体を担っている作品が一つだけあります。
 亀岡と、ロケ先の諏訪市にある居酒屋の若女将・安曇麻生久美子)との淡い恋物語です。
 偶然亀岡が入った居酒屋ですが、安曇が独り身だと聞き、また帰り際に「淋しくなったら、また飲みに来てください」等と言われて、亀岡は舞い上がってしまうのです。
 この安曇を巡るエピソードは、亀岡が出演する映画の中でのこととしては描かれてはおりません。
 でも、亀岡と安曇がダンスを踊るシーンが映し出されますし、亀岡が思い立って東京から諏訪に向かうときに使うのが、列車ではなくオートバイのカブであり、それも雨の降る中を進んでいく様子がわざわざ「スクリーンプロセス」という技法を使って映し出されたりするところからすれば(注11)、亀岡を主役とする一本の映画(こちらの場合は起承転結を伴っています)と見ることも出来るように思えます。



 本作は、一方で、脇役を主役とする作品であり、専らその脇役振りが脇役らしく中途半端に描かれるとはいえ、他方で、主役が主役として振る舞う物語がきちんと描かれる部分までもあるという、とても面白い構成になっているように思いました。

 なお、つまらないことですが、映画に登場するアラン・スペッソ監督の新作の撮影現場がラストの方で出てくるところ、まるで中東の砂漠まで出かけて行って撮影したかのような素晴らしさで、まさか浜松の中田島砂丘(注12)が中核になっているとは思いもよりませんでした!

(3)渡まち子氏は、「業界ものとして見ても面白いが、全員が主役ではなりたたない世の中の、脇にいる人間を応援しながら、それでも誰もが主役になれる瞬間が来ると励ましてくれる作品だ」として65点をつけています。



(注1)監督脚本は、『ウルトラミラクルラブストーリー』の横浜聡子
 原作は、戌井昭人著『俳優 亀岡拓次』(文春文庫)。

 なお、出演者の内、最近では、映画監督役の荒井浩文染谷将太は『バクマン。』、三田佳子は『の・ようなもの のようなもの』、映画監督役の山崎努は『日本のいちばん長い日』で、それぞれ見ました。 

(注2)その前に、京王線の電車の映像があり、車内放送で「次は調布です」と言っているところからすると、調布駅周辺の飲み屋街にあるスナックが想定されているのかもしれません(劇場用パンフレット掲載の「about Takuji Kameoka」によれば、亀岡は「西調布在住」とされています)。

(注3)安田顕は、最近では、『龍三と七人の子分たち』とか『新宿スワン』で見ましたし、またDVDで見た『映画 ビリギャル』においても、主人公のさやか(有村架純)が通う高校の担任教師役を演じていました。
 なお、この記事によれば、『HK/変態仮面』の続編が5月にも公開され、それにも安田顕が出演するとのこと。

(注4)劇場用パンフレットに掲載のエッセイ「〈昭和の名脇役〉表現者として格闘し続けた、プロの脇役たち」の中で、筆者の金澤誠氏は、「亀岡拓次に重ね合わせ」るのは石橋蓮司殿山泰司だと述べています。
 その亀岡を演じる安田顕と似たような存在として、クマネズミとしては渋川清彦が思いつきますが、彼も最近『お盆の弟』で主役、それも映画監督役を演じているのはとても興味深いことです。

(注5)もっと言えば、以前よく使われた「大部屋俳優」〔典型的には、『イン・ザ・ヒーロー』についての拙エントリの(2)でも触れましたが、映画『蒲田行進曲』に登場するヤス(平田満)〕の感じでしょうか。

(注6)なにしろ、その映画では、いくらスーツアクターが頑張ってみたところで、脚光を浴びるのは顔の出る主役の方だとは分かっていながらも、日々鍛錬をし続ける本城(唐沢寿明)らの姿が描かれているのです。

(注7)常識的には、こうした俳優は、飲み屋で監督や主役の悪口を言って気炎を上げたりするものではないでしょうか。
 なお、劇場用パンフレットに掲載の「Interview」において、横浜監督は、「生活感を出さない方が亀岡の謎めいた部分が膨らむので、最初の脚本段階では極力見せないようにしていた」云々と述べています。

(注8)例えば、スナック「キャロット」のママも、詳しくは覚えていないものの、TVドラマでの亀岡の出番について話をします。また、映画監督(新井浩文)が、映画のあるシーンにおける亀岡の演技について「最高です」と言ったり、さらにはスペインのアラン・スペッソ監督が亀岡を出演者に指名したりするのです。



(注9)尤も、亀岡は、「あなたは舞台向きじゃない。あなたの中に流れている時間は舞台の時間ではなくて映画の時間」などと夏子に言われてしまいますが。

(注10)劇場用パンフレットに掲載されている「Filmographies」には、6作品のタイトルや内容が記載されています。併せて掲載されている対談(横浜監督と原作者・戌井氏の)からすると、大部分は原作の中に書き込まれているようですが、一部(『鉛の味わい』)は横浜監督の手になるようです。

(注11)それも、律儀に約束を守るべく、途中で“おむつ”を履いてカブにまたがるのです。

(注12)劇場用パンフレット掲載の「Production Notes」の「ロケーション」によります。
 なお、中田島砂丘については、このサイトが参考になります。



★★★★☆☆




残穢―住んではいけない部屋―

2016年02月22日 | 邦画(16年)
 『残穢―住んではいけない部屋―』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)竹内結子橋本愛が出演するというので映画館に行ってみました。

 本作(注1)の冒頭では、「Mさんが未だ小学生だった時のこと。九州にあるKさんの家に泊まったことがあった。小さな家だった」と、語り手の「」(小説家:竹内結子)が語り出します。
 そして、画面では寝ている男の子(注2)が目を覚まし、起きてトイレに向かいます。
 「この家は、没落した炭鉱夫の家で、この家には、家の主がどこからか買ってきた河童のミイラがあると言われている」、「どこからか地鳴りのような音が聞こえてきた」、「母から入るなと言われていた部屋からそれは聞こえた」との語りが入って、男の子がその部屋のフスマを開けます。
 部屋の中には大きな仏壇が置かれていて、両側の出入り口には黒い影のようなものがいくつも蠢めいていて、それが男の子の方に這い寄ってきます。
目をつぶった男の子が再び目を開けると、腐った腕が迫ってきて、男の子は慌てて逃げ出します。

 以上は、小説家の「私」が書いた原稿の内容で、それを雑誌の編集者の田村山下容莉枝)が読んでいます。
 田村が「この「ごぉーっ」という文章は必要ですか?」と尋ねると、「私」は「こういうディテールが必要なの」と答えるので、田村は「来月もお願いします」と言います。

 次いで、「半年ほど前から怪談雑誌に連載を持ち、あわせて、奇妙な体験記を読者から募集している」との語りの後、「私」は自分の家に戻って、届いた手紙(2012年5月付け)を読みます。



 「私」の語りによれば、差出人は、建築デザインを専攻している大学生の久保橋本愛)という女性。
 最近、とある郊外の街に引っ越し、憧れの一人暮らしを始めたばかり。
 住んでいるのは、岡谷マンション(注3)の202号室。
 久保は、その部屋に何かがいるような気がすると言うのです。

 さあ、映画では一体どんなストーリーが展開されるのでしょうか。………?

 本作は、かなり出来栄えの良いホラー映画と言われているものの、できるだけリアルに作品を作ろうとしているせいでしょうか、怖さをまるで感じませんでした。とはいえ、出演する俳優が豪華なこともあり、なにか大きなどんでん返しがあるのかなとも期待させて、一応最後まで見続けましたが。

(2)本作は、大層怖いホラー映画だと評判でもあることから、クマネズミは普段ホラー作品を殆ど見ないものの、それほど言うのであれば一度見てやろうという気持ちになりました。
 なにしろ、原作の文庫版の解説(中島晶也氏によるもの)でも、「実は今、この本を手元に置いておくことすら怖い。どうしたらいいものか悩んでいる」と言う小説家(唯川恵氏)がいるなどと書かれているのですから。
書かれた小説についてそうなのですから、きっと映像作品ならもっと怖いのではと期待させました。
 ですが、最初から最後まで何一つ怖いシーンなどありませんでした!

 メインの物語の出だしでは、久保が暮らすマンションの部屋で怪奇現象(何か床をこする音がします)が起きます。



 それを小説家の「私」が久保と一緒に調査していくと、当該マンションの敷地に昔住んでいた人たちにまつわる話がわかってきて、云々というようにストーリーが展開していきます。

 ですが、肝心の「私」も久保も、探究心がすごく旺盛で(注4)、いくら怪奇現象が起きても「キャー」と叫んで恐怖に身を震わせるという事態に陥ることはありません(注5)。
 これでは、映画を見ている方が怖がるわけにもいかないのではないでしょうか(注6)?
 あるいは、クマネズミが年齢を重ねてきて、その感受性が薄らいできたせいなのでしょうか(注7)?

 それと、最初のうちは「私」と久保が土地の履歴を調査し、そのうちに作家仲間の平岡佐々木蔵之介)やその知人の三澤坂口健太郎)なども加わり、九州方面まで話の範囲が広がり、調査が充実してきて、同じ土地でも過去に様々なことがあったと判明してきます。
 そうなると、同じ土地にかかわる怪奇現象が競合したりバッティングしたりしてしまうことはないのでしょうか(注8)?
 それに、元々、過去に起きた事件に全く関り合いのない現代の住民が、そのような怪奇現象に遭遇するという事態も余り納得がいかない感じがしてしまいます(注9)。

 なお、つまらないことですが、本作のポスターを見ると、いずれの出演者も耳を手で塞いでいます。
 これは、本作では「音」が重要な働きをするからなのでしょう。ですが、両方の耳を塞がなくては意味がないところ、なぜいずれの俳優も片方の耳だけを塞いでいるのでしょう(注10)?

(3)渡まち子氏は、「本作は流血やショック描写は極力排している。その代わりに、ゆっくりと、でも確実に恐ろしい真相へと近づくジワジワ系の恐怖や、平凡な場所を想像力で恐ろしい空間へと変貌させる演出を多用しており、見事である」として60点をつけています。



(注1)監督は、最近では『予告犯』の中村義洋
 脚本は、『ゴールデンスランバー』などの鈴木謙一
 原作は、小野不由美著『残穢』(新潮文庫)。

 なお、出演者のうち、最近では、竹内結子は『ふしぎな岬の物語』、橋本愛は『寄生獣 完結編』、坂口健太郎は『at Home アットホーム』、「私」の夫役の滝藤賢一は『杉原千畝 スギハラチウネ』、佐々木蔵之介は『の・ようなもの のようなもの』で、それぞれ見ました。

(注2)幼い頃の真辺貴之。大人になった彼は、同じ家の見学に「私」や久保たちを誘います。

(注3)築10年の5階建ての賃貸マンションとされています。

(注4)映画では、「私」は心霊現象否定論者とされているようですし、久保は大学のミステリー研究会の部長ですから、怪異現象に遭遇しても、驚くより前にまずその原因の方を追求してしまうのです。

(注5)上記「注2」で触れていますが、ラストの方で、北九州の真辺家に「私」や久保、平岡などが行った際、仏壇や神棚が置かれている部屋の奥に入った時に、久保が叫び声を上げますが、何か怪物の出現を見たわけでもないように思います。



(注6)名大教授・戸田山和久氏の『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』(NHK出版新書、2016.1)は、「ホラーの登場人物が怪物を恐れるのは、観客にどのように反応すべきかのお手本を示すためだ、とキャロルは主張する。登場人物の怪物に対する態度は、観客が鑑賞する対象でもあると同時に、観客にどうすべきかを命じる教示(instruction)でもある」とか(P.169)、「ホラーにおいては、観客の情動は登場人物の情動を反映することが意図されている。キャロルはこれを「鏡像効果(mirroring-effect)」と言っている」とか述べた上で(P.171)、その「ホラーの定義」の第1番目に、「登場人物が何らかの脅威に直面して、その脅威をもたらす対象に恐怖・嫌悪の情動を抱く状況が主として描写される」ことを挙げています(P.179)。

 なお、文中の「キャロル」とは、1947年生まれのニューヨーク市立大学教授のノエル・キャロル氏で、芸術哲学が専門。詳しくは、この記事をご覧ください。

(注7)もしかしたら、かなり以前DVDで見て非常に怖かった『四谷怪談』なども、もう怖くはないのかもしれませんが。

(注8)例えば、岡谷マンションが建っている敷地に戦前に建てられていた家では、男が座敷牢に入れられたり、嬰兒遺棄がされたりしたとのこと。でも、久保が遭遇する怪奇現象は、戦後の事件によるもののようです。なぜ、久保の部屋では、戦前の嬰兒遺棄にまつわる怪奇現象が起きないのでしょう?
 もっと言えば、久保が遭遇する怪奇現象の主は、なぜ首吊り自殺したのでしょう?別に、世の中に恨み辛みがあってのことではないように思います。だったら、こうした形で何度も久保の部屋に出現するのはどうしてでしょう?

(注9)例えば、上記の「注7」で触れた「四谷怪談」でも、お岩の幽霊が、自分を殺した田宮伊右衛門に祟って出現するから怖いのではという気がします。
 上記「注6」で触れたように、ホラーにあっては、「登場人物が何らかの脅威に直面して、その脅威をもたらす対象に恐怖・嫌悪の情動を抱く」必要があるように思われますが、本作のように、怪物と登場人物との間に何の関係性もないのであれば、登場人物は怪物に“恐怖・嫌悪の情動”を抱きようがないのではないかと思われます。

(注10)それに、なにか恐ろしい音がするから耳を塞ぐのでしょうが、いずれの俳優も怖がっている表情をしているように思えないのですが?



★★☆☆☆☆



オデッセイ

2016年02月19日 | 洋画(16年)
 『オデッセイ』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)前回に引き続きSF物ながら、マット・デイモンが主演であり、なおかつアカデミー賞作品賞などにノミネートされているとのことで(注1)、映画館に行ってきました。

 本作(注2)の冒頭は、荒涼とした火星の風景が映し出されます。
 岩山が、まるでグランドキャニオンのように続いています。
 ここは、「アキダリア平原」内のアレス3計画(注3)の着陸地点だとされます。
 そして火星で18日目。
 乗組員たちは、火星の地表に降り立って、「サンプルはいくつ必要?」「100gのを7個」等と言いながら標本を採取しています。
 突然、ロケット内に残った乗組員のヨハンセンケイト・マーラ)から「嵐です。予想が格上げに」と連絡が入り、またマルティネスマイケル・ペーニャ)も「事態は良くない。嵐の直径が1200kmもある。採取を中止して中で待つべきです」と言います。
 地表にいる乗組員たちがグズグズしていると、一方でMAV(注4)が嵐によって傾き始め、他方で乗組員の一人のワトニーマット・デイモン)が通信アンテナとともに吹き飛ばされて行方がわからなくなってしまいます。
 ロケット内の乗組員からは「このままではロケットが転倒します」との連絡が入るものの、地表にいる指揮官のルイス船長(ジェシカ・チャステイン)は、「ワトニーを探す」、「ワトニー、どこにいるの?」、「近距離レーダーで彼を探せない?」と叫びます。ですが、「船長、船に戻ってください」と言われて、捜索を諦めてMAVに戻ります。
 船内では、隣の座席が空いたままながら、「離陸できます」との報告に、ルイス船長は「離陸」と命令を発します。

 NASAのサンダース長官(ジェフ・ダニエルズ)は、ワトニーの死亡を発表します。

 ところが、火星では、倒れていたワトニーが「酸素レベルが危険」とのアラームで目を覚まします。腹部には、金属の棒が突き刺さっています。
 ワトニーは、それを切り取り立ち上がって歩き出し、ハブ(居住施設)に入ります。



 さあ、これ以後ワトニーはどんな行動を取るのでしょうか、無事に地球に帰還することが出来るでしょうか、………?

 本作は、近未来SFであり、火星に一人取り残されてしまった宇宙飛行士の地球帰還を描いている作品で、無重力空間に一人取り残された女性科学者が地球に生還するまでを描いた『ゼロ・グラビティ』の火星版と言えるかもしれません。火星の映像にリアルさが見受けられ、またユーモアも随所に感じられ(注5)、そうであればラストの方で手放しの米中協力体制が描かれているとしても、許してあげたくなってしまいます。

(2)本作は、宇宙飛行士のワトニーが火星に独り取り残され、なんとか生きて地球に帰還しようと様々な工夫を孤独の中でする様子が描かれる前半と、早期の帰還を達成するために、火星のワトニーと宇宙船のヘルメスと地球のNASA等とが皆で協力しあう様子が描かれる後半とに分けられるように思いますが、クマネズミとしては後半よりも前半の方にずっと興味深いものがありました。

 というのも、後半では、皆がなんとかワトニーを地球に無事生還させようと必死になる様子がかなり巧に描かれているとはいえ、鼻白むような米中協力ぶりが映し出されるだけでなく(注6)、宇宙空間でワトニーを補足しようとルイス船長が必死になるシーンなどは、『ゼロ・グラビティ』におけるライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)とマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)が絡まったロープと格闘する場面に似ていたりするからですが。



 それに反して前半では、独り火星に取り残されたワトニーが、次のアレス4計画が実施されるまでの4年間を生き抜くために(注7)、一つ一つ問題を解決していくのです。
 例えば、彼は植物学者でもあったことから、食料を確保するために「ハブ」の中でイモを栽培しますし(注8)、また1997年のマーズ・パスファインダーを見つけ、そのカメラを使って地球のNASAと交信することに成功します(注9)。
 従来のこうした映画では描かれなかった興味津々の事柄が次々と画面に映し出されるのですから、面白いことこの上ありません。

 この映画から痛いほど分かるのは、火星に人類が行ってしばらく滞在して戻ってくるのに“食料の問題”が非常に重要であることです。月との往還に際しても重要であることに違いないのでしょうが、アポロ計画の当時、そんなに焦点が当てられていなかったように思います。ですが、なんといっても火星の場合、行くだけでも、月と比べて30倍以上の日数がかかるのですから(アポロ11号は月面到着まで4日かかっています)、どのように取り組むのか問題になってくるものと思われます(注10)。

 それと、火星と地球との間で連絡する場合、電波の到達に大層時間がかかり、緊急時にはいちいち交信している隙がないということもよくわかりました(注11)。

 いずれも、地球と火星との間には、クマネズミが想像していた以上に大きな隔たりが存在することによるものでしょう。

(3)渡まち子氏は、「近年のSF「プロメテウス」などの悲壮感とは対極にあるスーパー・ポジティブSFエンタテインメントで、見ているこちらも元気がもらえる秀作だ」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「そもそも絵的なものよりも、リアリティショー火星版として、マニアックにこだわった文字通りの「リアリティ」を楽しんだらよろしい」として70点をつけています。
 柳下毅一郎氏は、「これは爽快な技術賛歌、科学者賛歌である。ディスコソングだらけのサウンドトラックも素晴らしいが、最後まで死にあらがい続けたデヴィッド・ボウイの名曲がかかる場面には涙を禁じ得ない」と述べています。
 藤原帰一氏は、「映画の画面を塗り替えてしまったリドリー・スコットが、老齢を迎えて人の心に向かい合う映画づくりを発見した。映画の温かさからつくり手の温かさを感じさせる作品」と述べています。  
 小梶勝男氏は、「死を覚悟しつつ、記録用のビデオカメラには精いっぱいおどけて話す。そんな男のギリギリの心理をデイモンが巧みに演じて、SFというジャンルを超えて、血の通った科学ドラマになったと思う」と述べています。



(注1)次の7部門にノミネート選出されています。
 作品賞、主演男優賞(マット・デイモン)、脚色賞(ドリュー・ゴダード)、美術賞、視覚効果賞、録音賞、音響効果賞

(注2)監督は、最近では『ロビン・フッド』や『悪の法則』のリドリー・スコット
 原作は、アンディー・ウイアー著『火星の人』(小野田和子訳、ハヤカワ文庫SF)。
 原題は「The Martian」。

 なお、出演者の内、最近では、マット・デイモンは『ミケランジェロ・プロジェクト』、ジェシカ・チャステインは『インターステラー』、NASAの広報責任者役のクリステン・ウィグは『LIFE!!』、カプーア博士役のキウェテル・イジョフォーは『それでも夜は明ける』、ジェフ・ダニエルズは『LOOPER/ルーパー』、マイケル・ペーニャは『アントマン』で、それぞれ見ました。

(注3)NASAによる有人火星探査計画の3番目のものとされます。
 詳しくは、このサイトの「アレス計画」をご覧ください。

(注4)火星の地表から母船のヘルメスに戻るためのロケット(Mars Ascent Vehicle)。
 なお、ヘルメスから火星の地表への降下にはMDV(Mars Descent Vehicle)が使われたようです(上記「注3」で触れたサイトによります)。

(注5)例えば、宇宙船ヘルメスの乗組員マルティネスが火星にいるワトニーと最初に取り交わす会話が、「君を火星に残してきて悪かった。だけど、俺たちは君が嫌いなんだ。それに、君がいないとヘルメス内を広く使える」というもので、さらにマルティネスが「火星はどお?」と尋ねると、ワトニーは「マルティネス、火星は最高だ」、「ハブを吹き飛ばしてしまったが、残念なことに、ルイス船長のディスコはすべて無事だ」などと答えるのです。

(注6)火星に食料補給船を送る計画が、ロケットの爆発で頓挫した後、中国国家航天局は自分たちの「太陽神計画」のロケットを使うようNASAに進んで提案し、結局、それで打ち上げられた補給船をヘルメスが確保し、ヘルメスはワトニーを救出すべく火星に再度向かいます。
 とはいえ、『ゼロ・グラビティ』においても、ライアン・ストーン博士の地球帰還に際しては、中国の宇宙ステーション『天宮』やそこに積載されていた宇宙船『神舟』が重要な働きをするのですが!

(注7)4年後に実施される予定のアレス4計画に使われるMAVはすでに火星に持ち込まれています(その場所までは、アレス計画3用のMAVが設けられている地点から3000km以上離れています)。
 なお、ワトニーの帰還に際しては、そのアレス4計画用のMAVが使われます。

(注8)ワトニーは、火星の土をハブの中に運び入れて畑を作り、乗組員たちの排泄物を肥料としてその土に混ぜます。水は、燃料を分解してできる水素を燃焼させて作り出しました。

(注9)その際には16進法が使われます。

(注10)地球に帰還していた宇宙船ヘルメスを引き返させてワトニー救出に当たらせるという「エルロンド計画」に対して、サンダース長官が反対したのは、一人を救うためにヘルメス内にいる5人の命を犠牲にしかねないためでしたが、その理由はあまりはっきりと映画では述べていなかった感じがします。良くはわかりませんが、おそらく、もう一度火星まで往還出来るだけの食料がヘルメスに積載されていなかったのではないでしょうか(この問題は、上記「注6」で触れたように、中国の「太陽神計画」のロケットによって打ち上げられた補給船によって解決されます)?

(注11)劇場用パンフレット掲載の「About Mars 火星ってどんな惑星?」には、「近い時で約3分、遠い時で約22分かかる(返事が来るまでには最短でも、その2倍の時間がかかる)」と記載されています。



★★★★☆☆



象のロケット:オデッセイ

スター・ウォーズ フォースの覚醒

2016年02月16日 | 洋画(16年)
 『スター・ウォーズ フォースの覚醒』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)公開されてからだいぶ経つので、この辺で見ておかないと見逃してしまうおそれがあると思い、映画館に行ってきました(注1)。
(以下は様々にネタバレしていますので、映画を未見の方はご注意ください)

 本作(注2)の冒頭では、まず、「遠い昔、はるか彼方の銀河系で……」との字幕が映し出された後、タイトルが映し出され、次いで、「ルーク・スカイウォーカーマーク・ハミル)が消えた。帝国軍の残党は、ファースト・オーダーという組織を作り上げ、最後のジュダイのスカイウォーカーを探し出して殺そうとしていた。他方、共和国軍の支援によりながら、将軍・レイアキャリー・フィッシャー)はレジスタンスを率い、銀河系の平和と正義を取り戻すためにルークを探し出そうとしていた。そして、レイアは、ルークの居場所が記された地図を持つ者がいる惑星ジャクーに部下のパイロットとドロイドを派遣した」といった内容のオープニング・ロールが流れます。

 それから本編に入り、惑星ジャクーに行ったパイロットのポー・ダメロンオスカー・アイザック)は、ロア・サン・テッカから地図を受け取るものの、帝国軍の攻撃を受け、カイロ・レンアダム・ドライバー)に捕まってしまいます。ただ、その前に地図の入ったデータファイルをドロイドのBB-8に託します。

 ポー・ダメロンは行方がわからなくなるものの、惑星ジャクーで廃品回収業をやっているレイデイジー・リドリー)と、帝国軍のストームトルーパーながらそこから脱走したフィンジョン・ボイエガ)、そしてドロイドのBB-8とがミレニアム・ファルコンで一緒になり、惑星ジャクーから飛び立ちます。



 その後、ミレニアム・ファルコンには、ハン・ソロハリソン・フォード)とチューバッカが出現するのですが(注3)、さあ、物語はどのように展開していくのでしょうか、………?



 確かに、飛び交う戦闘機や戦艦などの映像はこれまでより一層精緻なものとなって、戦闘場面もリアルさが増しているように思います。とはいえ、新シリーズと聞いて何か革新的なアイデアがいろいろ積み込まれているのかなと期待しましたが、そういったものは見当たらず、どうして『ジェダイの帰還』から30年も経ってからこのような保守的とも思える映画をわざわざ制作しようとしたのかよくわからない感じがしたところです。

(2)本作は、『スター・ウォーズ』の第1作目の『新たなる希望』(エピソード4:1978年)~『ジェダイの帰還』(エピソード6:1983年)に続くとされているので、見る前に予めそれらのDVDをTSUTAYAから借りてきて予習しました。
 予習の感想は、最初の「エピソード4」はなかなか良く出来ていると思うものの、次の『帝国の逆襲』(エピソード5:1980年)及び3番目の「エピソード6」は第1作の繰り返し版のような印象で、あまり新鮮味を感じませんでした。
 
 もう少し言えば、スター・デストロイヤーXウイングタイ・ファイターウォーカースピーダー・バイクなどなど、映画に登場する様々な兵器・乗り物はどれもなかなか格好がよく、それらを見ているだけで楽しくなります。



 とはいえ、「エピソード4」では、帝国軍の究極兵器であるデス・スターは、反乱軍側によって完全に破壊されたはずですが、「エピソード6」では再度建造されていて、またもや「エピソード4」と似たようなやり方で破壊されるのは(注4)、いったいどうしたことでしょう?
 それに、「エピソード6」に登場してハン・ソロらの潜入部隊を支援する惑星エンドアの原住民イウォーク族の様子が、あまりにもアフリカや南米などに住む未開の原住民の姿を反映している感じがして、一体ここはどこの惑星なのかなと思ってしまいました(注5)。
 さらに、映画では帝国軍とか反乱軍とかが登場しますが、それらのバックとなる帝国自体とか反乱地域といったものはどこにどんなように存在しているのでしょう?これらの3つの映画では、軍隊は描かれているものの、その基盤となる国民が描き出されていないために、“正義”とか“悪”などといわれても抽象的なお題目にしか思えず、単に二つの勢力の間の派閥争いが描かれているにすぎないように思えてしまいます。

 そして、今回の『フォースの覚醒』(エピソード7)です。
 飛び交う戦闘機や戦艦などの映像はより一層精緻なものとなって、戦闘場面もリアルさが増しているように思います。
 とはいえ、話自体は、事前に予習をした「エピソード4」~「エピソード6」とあまり変わらないように思われます。

 なるほど、「エピソード4」では兵器としてのデス・スターが破壊されただけで帝国自体は存続しているのでしょうから、「エピソード5」で帝国軍が登場してもかまわないのでしょう(注6)。
 ですが、「エピソード゛6」で皇帝以下壊滅したはずの帝国軍が、本作では“残党(ashes)”として生き残っていて、その“残党”が巨大なスターキラー基地までも建造しているのは、よく理解できません。

 また、銀河系全体は、帝国軍を打ち破った新共和国がすでに支配しているはずにもかかわらず、“残党”の帝国軍と戦うための組織が「レジスタンス」といわれるのもよくわかりません(注7)。まさに、「エピソード4」のレイア姫率いる「反乱軍」の焼き直し版といったところです(同じレイアが「レジスタンス」を率いているのです!)。

 そして、「エピソード6」の第2デス・スターの拡大版といったところのスターキラー基地。
 規模が氷の惑星全体に広がっているとはいえ、やることはデス・スターと同じであり(注8)、またデス・スターと同じように破壊されます(注9)。

 さらに言えば、スターキラー基地でファースト・オーダーのストームトルーパーを前にして、ハックス将軍(ドーナル・グリーソン)が演説をしているシーンが映し出されますが、1936年に開催されたナチスのニュルンベルグ党大会を彷彿とさせます。



 これは、銀河系を支配する新共和国を打ち破ろうとする帝国軍が、またしても従前のように、正規軍による正面攻撃をしようとするのを表しているのでしょう。
 ですが、帝国軍は“残党”によって構成されているはずですし、支配体制を打破するのであれば、まずもって考えられるのはゲリラ戦ではないでしょうか(注10)?

 要すれば、本作のストーリー展開に独創性・新規性といったものが少しも感じられないのです(注11)。

 そして、劇場用パンフレット掲載の「Staff Interview」で、J.J.エイブラムス監督は、「(本作の)中核にあるのは家族の物語であり、ファミリードラマだ。己の力を見つけ、知り合うことなど予期しなかったような人々との繋がりを探す。秘密や大義、そして事故よりもなにか大きな存在と結ばれることについての物語だ」云々と述べています。
 きっと、次の「エピソード8」では、レイが本作のラストで遭遇する人物が重要なカギを握ると予想されます。ですが、“家族の物語”なら、すでに「エピソード4」~「エピソード6」で様々に描かれているところであり、新シリーズでその屋上屋を重ねても仕方がないように思えるのですが。

(3)渡まち子氏は、「いずれにしてもSF活劇の楽しさが十二分につまった極上のエンタテインメントだ。エピソード8と9の公開にはもう少し時間が必要だが、今からたまらなく待ち遠しい」として85点をつけています。
 前田有一氏は、「結局「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」は、この上なくよくできた模写の域を出ていない。つまり、旧シリーズとシームレスにつなげた一点でJ・J・エイブラムス監督の職人芸を味わうことはできる。しかし、過去作でルーカスが目指したであろう、映画史を塗り替えんという創作魂や革新性はまったく受け継いでいない」として65点をつけています。
 クマネズミは、基本的にこの前田氏の見解に賛同するものです。
 渡辺祥子氏は、「第1作の頃より大幅に進歩した映像技術による3D映像が体感させる空中戦の数々。見るのではなくゲームの中で翻弄される快感がある。若い世代の新たな活躍は第8作に期待したい」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。



(注1)SF物は総じて敬遠していましたが、この記事によれば、本作の「世界興収が20億ドル(約2340億円)を突破した」、「歴史上、20億ドルの壁を突破したのは、『アバター』(27億ドル8800万ドル)、『タイタニック』(21億8680万ドル)に続いて3作目。しかも、史上最速の53日で到達してしまった」とのことで、そんなにすごいのであればやはり1回くらいは映画館で立ち会っておかなくては、という気持ちになりました。

(注2)監督は、『SUPER 8/スーパーエイト』のJ.J.エイブラムス
 脚本は、J.J.エイブラムス、ローレンス・カスタン(『スター・ウォーズ』のエピソード5と6の脚本を書いています)とマイケル・アーント。
 原題は「STAR WARS: THE FORCE AWAKENS」。

 なお、出演者の内、最近では、ハリソン・フォードは『42 世界を変えた男』、オスカー・アイザックは『アレクサンドリア』、マーク・ハミルは『キングスマン』、マズ・カナタ役のルビタ・ニョンゴは『それでも夜は明ける』で、それぞれ見ています。

(注3)『の・ようなもの のようなもの』に関する拙エントリの「注12」で、宇多丸氏が「往年の『スター・ウォーズ』ファンが、新作の予告編を見て、ハン・ソロとチューバッカが出てくるだけで感涙する」と述べていると申し上げましたが、本作は、『の・ようなもの のようなもの』と同様に、これまでの作品に格別の思い入れのある人にとって懐かしさを募らせる作品なのでしょうが、そうでもない人にとってどんな意味があるのでしょうか?

(注4)もちろん、「エピソード6」においては、「第2デス・スター」は強力なシールドで防護されていて、その発生装置を破壊するために、ハン・ソロが率いる潜入部隊が惑星エンドアに乗り込むなどというように、「エピソード4」と細部はいろいろ違っています。
 ですが、Xウイングがデス・スターの狭い通路を突進して中央部にある炉を破壊することで全体を壊してしまうという構図は類似しているように思います。

(注5)「スター・ウォーズ」と銘打たれて入るものの、地球上で展開される“第3次世界大戦”といった感じがしてしまいます。

(注6)究極兵器が破壊されたのですから、帝国が受けた損失は甚大だったはずにもかかわらず、帝国軍が、僅かな期間で最初のものよりも巨大で防御機能に優れた「第2デス・スター」を生み出してしまうというのも、どうなのでしょうか?

(注7)第2次世界大戦でナチスに対してフランス国内で行われた抵抗運動のように、支配体制に抵抗するのが“レジスタンス”ではないでしょうか?本作の「レジスタンス」のように、支配体制を防衛しようとする組織が何故そのように呼ばれるのかよくわかりません。

(注8)スターキラー基地は、新共和国の首都惑星などをビームを放って破壊しますが、これは最初のデス・スターが惑星オルデランを破壊したのと全く同じことでしょう(デス・スターのレーザー砲とは異なる原理によるのでしょうが)。

(注9)スターキラー基地の内部に侵入したフィンやチューバッカらが爆弾をセットして破壊して突破口を開くと、ポー・ダメロンらのXウイングの部隊がそこから内部に入って攻撃することでスターキラー基地は崩壊します。
 帝国軍の究極兵器の最大の弱点を狙って内部に侵入して、その一点を破壊することによって兵器全体をも破壊するという構図は類似しているように思います。

(注10)現在の世界情勢からしたら、リアリティがあるのは、ナチスばりの正規軍による攻撃よりも、むしろテロ攻撃の方ではないでしょうか?

(注11)本作に登場する戦艦や戦闘機なども、図体が大きくなったり性能が増していたりするのでしょうが、新しい機種が登場しているようには思えません。



★★★☆☆☆



象のロケット:スター・ウォーズ フォースの覚醒

ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります

2016年02月12日 | 洋画(16年)
 『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』を新宿シネマカリテで見てきました。

(1)モーガン・フリーマンダイアン・キートンが初共演の作品だというので映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、車が走るブルックリンの界隈が映し出されます。
 主人公のアレックスモーガン・フリーマン)のモノローグ「妻のルースダイアン・キートン)とブルックリンのここにやってきた。ここはド田舎と言われた。だが、貧乏画家だったから、他では家賃が払えなかった」(注2)が入り、彼がアパートメントから犬のドロシー(注3)を連れて外に出ると、近くの店の男が「明日は内覧会だね」と声をかけてきます。



 雑貨店に入ったアレックスが、家にいるルースに電話を入れて、「何を買うんだったっけ?新聞か?」と訊くと、ルースは「動きまわらないで。姪のリリーシンシア・ニクソン)が来たわ」と答えます。

 そのリリーは不動産仲介業を営んでいて、ルースが今の部屋を売却したいと言うので訪れたものです。
 リリーは、部屋のカーテンを全開にして日光を取り入れようとし、ルースの「内覧会には何人くらい来るの?」との質問に対し、「部屋を買わずに、他人の生活を覗きにくる人もいる」などと答えます。

 アレックスは、「街は変わった。アップル・ストアがある。だけど、変われば変わるほど愛おしくなる」などとつぶやきながら自分のアパートメントに戻り、ドロシーと一緒に5階にある部屋まで階段を登っていきます。
 途中でアレックスは、犬のドロシーに向かって「疲れたろう、私もだ」と言ったりします。

 リリーは、「明日は大変よ。部屋を広く見せるために、アトリエを片付けておいて」と言って帰ります。



 アレックスが「内覧会では物が盗まれたりするそうだ」と言うと、ルースは「あなたは映画でも見に行ったら?」と応じます。



 そんな最中に、ルースがドロシーの異変に気づき、二人でマンハッタンの獣医にドロシーを見せに行こうとして、タクシーを拾います。ですが、ウィリアムズバーグ橋で事件があったらしく、道路は大渋滞。
 さあ、この後、物語はどのように展開するでしょうか、………?

 ニューヨークのブルックリンにある古いアパートメント。その最上階で40年間暮らした老夫婦にとっては、外の眺めが抜群とはいえ、エレベーターが設けられていないため、部屋のある5階まで昇っていくのが大変になってきています。本作は、住まいを売りに出して別のところに移り住もうとした老夫婦を巡るお話。それだけでは取り立てて言うこともない他愛のない話ながら、同時に起こる2つの出来事をうまく絡ませることによって、全体を味のある小品(注4)に仕上げています。

(2)本作のメインのお話は、住居の売却を巡る実に他愛のないもので(注5)、それだけではわざわざ字幕をつけて日本で上映するまでもないでしょう。
 それを次のような点から、まずまずの作品にまで仕上げているように思いました。

 まずは、78歳のモーガン・フリーマンと70歳のダイアン・キートンとが、初共演ながら貧乏画家とその妻の役を味わい深く演じています。
 『ラスト・ナイツ』では他を圧する威厳に満ちた封建領主・バルトーク卿を演じたモーガン・フリーマンですが、本作では一転して、アトリエで人物画を描いたり、屋上菜園でトマトなどを栽培したりする実におだやかな役柄を演じていますし、ダイアン・キートンも、お馴染みの眼鏡をいろいろ取り替えながら、明るくポジティブな老妻役を巧に務めています。

 ただ、このくらいであれば、最近流行りの老人物ということで終わってしまうでしょう(注6)。
 本作では、ペットのドロシーの病気(注7)とテロリスト騒ぎ(注8)という現代的な要素を映画の中に取り入れ話の進行に絡ませることで、ひと味違った作品になっているように思います。

 エンディングでは、ヴァン・モリソンの「Have I Told You Lately」(注9)が流れる中、空から見たブルックリンやマンハッタンなどが映し出されます。
 ごく最近、『ザ・ウォーク』を見たばかりで、そういえば同作では空中からニューヨークを見下ろすシーンが多かったな、他方本作ではむしろ地上から空を見上げるシーンが多いのでは(注10)、と思ったところです。

(3)渡まち子氏は、「不動産売買という人生の大きな選択を通して、深く愛し合う夫婦の忍耐と真実の愛を穏やかに描いて、何とも好ましい佳作に仕上がっている」として70点をつけています。
 秋山登氏は、「映画の眼目は長年連れ添った夫婦の濃やかな愛の形である。ビジネスを言い募る若い画商に、絵は商品ではないと妻が反論する、痛快な場面がある。夫婦一体を謳う、これは心温まる第一級の大人の映画である」と述べています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「図式的ではあるが、フリーマンとキートン演じる二人が知的で偉ぶらず仲むつまじいのが説得力となる。夫婦の年輪が人生を味わうことの大切さを教えてくれる」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。



(注1)監督はリチャード・ロンクレイン
 原作は、ジル・シメント著『眺めのいい部屋売ります』(高見浩訳、小学館文庫)。
 原題は「5 flights up」(「階段を5階まで」という意味でしょうか)。

 なお、出演者の内、最近では、モーガン・フリーマンは『ラスト・ナイツ』、ダイアン・キートンは『映画と恋とウディ・アレン』や『恋とニュースのつくり方』で、それぞれ見ています。

(注2)ブルックリンは、40年前はアレックスのような若手の貧乏画家でも住むことができたものの、今ではアレックスとルースの部屋は100万ドルで売却出来るとされます。

(注3)ドロシーは、ルースの退職記念としてアレックスがプレゼントした犬。

(注4)上映時間の方も92分です。

(注5)と言っても、アメリカにおける不動産売買の一端がうかがわれ、興味深いところがあります。映画によれば、アメリカでは、一般の住居の売買に際しても、仲介業者が間を取りもって普通に入札が行なわれるようです。日本では仲介業者が予め値決めしてしまい、アメリカのように手軽に入札が行われないのではないでしょうか?

(注6)ただ、劇場用パンフレット掲載の「Production Note」によれば、原作では「マンハッタンのロウアー・イースト・サイドに住むユダヤ系老夫婦」のことが描かれているのに対し、本作の設定では「異人種間結婚したブルックリンに住む」夫婦に変えられています。
 それで、「黒人と白人の結婚がまだ30州で禁止されていた頃に、私たちは結婚した」という台詞が出てきたり、ルースがアレックスとの結婚を母親に告げると、「祝福する」ではなく「納得した」と言われてしまい、ルースが怒る場面が描かれたりします。

(注7)動物病院でドロシーは、ヘルニアで手術が必要とわかりますが、診断に際し、人間並みにCTスキャンが使われたのには驚きました。
 なお、ドロシーは、アレックスとルースの住居売却騒ぎの間中、動物病院にいて、騒ぎの最中には、術後に発作が起きたりしてアレックスたちを心配させますが、騒ぎが収まるとともにドロシーも元の通り回復します。その様子は、まるでアレックスとルースの心の動きと同期しているかのごとくです。

(注8)マンハッタンとブルックリンとをつなぐウイリアムバーグ橋の途中でタンクローリー車を停止させたまま運転手が逃走してしまったために、付近一帯で大渋滞が起きただけでなく、逃げた運転手が中東アジア出身者ということから、テロの可能性があると報道されて大騒ぎとなります。
 それで、アレックスたちのアパートメントがウイリアムバーグ橋の直ぐ側に位置するために、内覧会が上手く開催できるかが問題となり、またそうした騒ぎのために価格が下がってしまうのでは、と懸念もされます。
 結局、運転手はテロリストではなく、彼を取り巻く人々が大騒ぎをしただけにすぎないことがわかり、一件落着しますが、この経緯をTV生中継で見ていたアレックスには思うところがあったようです。

(注9)例えば、ここで聴くことができます。
 歌詞はこのサイトで。

(注10)例えば、アレックスとドロシーがアパートメントの階段をゆっくりゆっくり踏みしめながら上ったり、ウイリアムバーグ橋のたもとにある公園のイースト川に臨むところに設けられたベンチにアレックスとルースが座って、対岸のマンハッタンのビル群の方を見上げたり、マンハッタンのビル群の間を通る道路で、大渋滞のためにタクシーの中に二人が閉じ込められたりします。





★★★☆☆☆



象のロケット:ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります


の・ようなもの のようなもの

2016年02月09日 | 邦画(16年)
 『の・ようなもの のようなもの』を渋谷シネパレスで見ました。

(1)北川景子が出演するというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、公園のベンチに座っている若いカップルが、互いに「チーズ」と言いながらスマホで写真を撮り合っていると、男(松山ケンイチ)が通りかかって、そのベンチに座ります。
 すると、隣のカップルが消えて、別の男(伊藤克信)が現れアイスクリームを食べます。

 それから、大きな家の場面。
 男(菅原大吉)が池の鯉に餌を与えていると、一門の後援会の会長(三田佳子)が登場し、「昔はよくここでバーベキューをしたものね」と言います。
 そばの男が「志ん魚(シントト)が、ここでゲロした」と応えるものですから、会長は、「思い出した。志ん魚ちゃん、元気でやってるの?」と言い出します。

 その会長が、「志ん魚ちゃんに、私のために書いた「出目金」をやってもらいたい」と言い出したために、大変なことに。
 というのも、一門が今日あるのも会長のサポートがあってのことであり、会長のご機嫌を損ねる訳にはいかないとはいえ、志ん魚は落語を捨てて行方をくらましてしまってどこに住んで何をしているのかわからないからです。
 一門の師匠・志ん米尾藤イサオ)は、前座の志ん田(シンデン:松山ケンイチ)に志ん魚伊藤克信)を探すよう厳命します。
 果たして、志ん田は志ん魚を探しだすことが出来るのでしょうか、そして志ん田と師匠の娘・夕美北川景子:注2)との関係はどうなるのでしょうか、………?



 本作は、森田芳光監督(注3)のデビュー作『の・ようなもの』(1981年:以下「前作」とします:注4)の35年後を描く作品で、前座の落語家と落語を捨てた男、それに師匠の娘が絡んでくるお話です。松山ケンイチや北川景子を始め出演する俳優がそれぞれ頑張っており、面白いことは面白いとはいえ、この程度の物語であれば何も映画館のスクリーンで見るまでのこともないのでは、と思えてしまいました。

(2)これはやっぱり前作を見なくてはと思い、早速TSUTAYAからDVDを借りてきて見ました。

 まず、監督の森田芳光を始め、出演している内海好江、加藤治子、入船亭扇橋(9代目)、春風亭柳朝(5代目)などの皆さんが既に亡くなっているなと気付かされますし、さらには、一門の志ん菜を演じた大野高保とか、志ん肉に扮した小林まさひろは、現在どうしているのかなと思わせます(注5)。

 それとこの前作を見て感じるのは、今作と同じように若い落語家を巡る青春時代が描かれているとはいえ、ヒロインのエリザベス(秋吉久美子)がソープ嬢だったりするように、若者に特有の性的な方面が一定のウエイトを持って描かれている点です(注6)。
 引き換えて、本作では、余りそちらの方面には重点が置かれていないように思われます。

 その代わりに焦点が当てられているのが、前作との繋がりという点でしょう(注7)。
 例えば、上記(1)で書いた本作の冒頭シーンと前作の冒頭シーンとの間にはかなりの類似性が見られます(注8)。また、主人公が話す落語に対して、本作でも前作でも、その恋人が「ヘタクソ!」とけなしたりします(注9)。

 それに、前作に出演した伊藤克信、尾藤イサオ、でんでんらが前作と同じ役で出演しているだけでなく(注10)、森田監督作品に出演した俳優たち(「森田組」と言われるそうです)が大挙して本作に出演しています(注11)。

 そんなところからでしょうか、前作はいま見てもトテモ新鮮な作品と思えますが、本作にはむしろ保守性を感じてしまいます(あるいは、前作では外に向かっていくつも窓が開いているように見えたのに対し、本作は内に向かって窓が閉じてしまっているようにも感じられます)。
 別にそれはそれでもかまわないとはいえ、それだけで何も新しいものが提供されないのであれば、30年以上も経過してわざわざ続編を制作したのは何故なのかな、と思ってしまいます。
 無論、前作に格別の思い入れのある人にとって本作は懐かしさを募らせる作品でしょうから(注12)、意味がないとはいえないでしょう(注13)。
 ですが、そういう一部の人たちの範囲を超えて本作が広く受け入れられるためには、なにか本作ならではのものが必要なのかなと思えます。
 と言って、素人のクマネズミに何か良いイデアがあるはずもありませんが、例えば、上方落語の桂文枝がよく言う「今までの落語を壊す落語」といった方向性(注14)を取り入れることも考えられるのではないでしょうか(注15)?

(3)渡まち子氏は、「あらゆる世代がどこか途方にくれている現代社会には、昨日よりは今日、今日よりは明日の、小さな希望を信じるこんな映画が、心にじんわりしみてくる」として55点をつけています。
 小梶勝男氏は、「もはや映画を超えて、これは森田監督を愛する作り手と観客たちによる、森田監督の「映画葬」ではないか。同時に優れた落語映画であり、青春映画でもあると思う」と述べています。
 秋山登氏は、「ここには、森田へのオマージュがたっぷり盛り込まれているのだが、前作に寄りかかり過ぎていないのがいい。この作品だけで存分に楽しませる。後口の爽やかな愛すべき作品である。こうなると志ん田の真打ち昇進まで見たくなるのが人情だが……」と述べています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「かつて遅れてきた新人監督・森田の真情を見事に表現した伊藤は、その後もおもねらず楽観的に生き抜いた森田の心根を体現する」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
 産経新聞の勝田友巳氏は、「まさに、愛すべき小品。どってことのないちっちゃな話に、小さな笑いと哀調があり、最後はささやかに一歩前進。見終わってきっと元気が出る」と述べています。



(注1)監督は、森田芳光監督のもとで長年助監督を務めた杉山泰一

 なお、出演者の内、最近では、松山ケンイチは『日本のいちばん長い日』、北川景子は『悪夢ちゃん The 夢ovie』、伊藤克信は『僕達急行 A列車で行こう』、尾藤イサオは『天地明察』、でんでんは『信長協奏曲』で、それぞれ見ました。

(注2)「夕美」は、森田監督の『間宮兄弟』(2006年)で北川景子が演じた役と同名。
 ちなみに、前作の主役・志ん魚の恋人役の名前は「由美」(麻生えりかが演じました)。

(注3)森田芳光監督作として、クマネズミは、『家族ゲーム』(1983年)、『それから』(1985年)、『模倣犯』(2002年)、『わたし出すわ』(2009年)、『武士の家計簿』(2010年)、『僕達急行 A列車で行こう』(2012年)などを見ています。

(注4)劇場用パンフレット掲載の高田文夫「志ん魚よいきててくれてありがとう」によれば、「の・ようなもの」というタイトルは、落語『居酒屋』に出てくる「小僧さんのセリフ」とのこと。

(注5)二人とも既に芸能界を引退。ただ、前作のラストで「落語をずっとやっていけたら……」と印象的な台詞を言う志ん菜役の大野氏は、本作で背広姿で登場します(劇場用パンフレット掲載の対談「森田芳光を探して―フィルムに焼き付いた思い」におけるプロデューサー・三沢和子氏によれば、大野氏は郵便局職員とのこと)。

(注6)例えば、前作では、エリザベスのサービスを志ん魚が受ける場面だけではなく、可愛い妻のいる志ん米とソープ嬢とのシーンも設けられています。
 なお、志ん米の妻・佐世子を演じた吉沢由紀が引退しているためでしょう、本作では志ん米の妻は死んでいることになっています。

(注7)人はそれを“オマージュ”と言うのでしょうが、余りこの言葉を使いたくありません。

(注8)前作の冒頭では、ベンチに座る若いカップルの内の男が、「昨日、ディスコに行ったら、色々な女から声かけられたが、お前が一番」と言うと、女も「一昨日、銭湯に行ったら、自分の体が最高。しんちゃんにあげてよかった」と答えます。そこへ志ん魚が突然割り込んで、「お茶でも飲みに行きませんか?こんな男と付き合って将来どうすんですか?」と女に向かって言うものですから、志ん魚はカップルの二人にボコボコにされます(次の場面で、志ん魚がこのカップルの結婚式の司会をしているから愉快です)。

(注9)前作では、志ん魚が恋人・由美の父親の前で話した『二十四孝』について、由美が「へたくそ」と言いますし、本作では、風呂屋で開催された銭湯寄席で志ん田が話す『初天神』について、夕美が「相変わらず下手だねえ、ちっとも進歩していない」と言います。



(注10)伊藤克信は志ん魚役、尾藤イサオは志ん米(今や出船亭一門を率いる師匠です)、でんでんは志ん水という具合に。

(注11)例えば、『僕達急行 A列車で行こう』に出演したピエール瀧は志ん魚の義兄の役、『間宮兄弟』に出演した佐々木蔵之介塚地武雅はそれぞれみやげ物屋の店主と銭湯でコーヒー牛乳を飲む男の役、などなどという具合です。

(注12)劇場用パンフレット掲載の対談「森田芳光を探して―フィルムに焼き付いた思い」において、宇多丸氏は「(この映画は、)この冬公開された『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』と重なるんですよ。往年の『スター・ウォーズ』ファンが、新作の予告編を見て、ハン・ソロとチューバッカが出てくるだけで感涙するのと同じで(笑い)。僕らはずーっと志ん魚ちゃんどうしてるかな?と思い続けてきたわけですよ」と述べています。

(注13)でも、それだったら前作のDVDを何度も鑑賞すればいいのではないでしょうか?

(注14)例えばこの記事
 また、今月6日のTBSTV番組「サワコの朝」に出演した折にも、桂文枝は、「とにかく落語を壊せ。壊れたままでダメになるかもしれないが、そこから新しいものが生まれてくるかもわからない」と自分の弟子に言っていると話していました。

(注15)本作では、志ん魚の住まいを探している途中で、志ん田は、大きなヒマラヤ杉のある三叉路にぶつかります〔これは、この記事の中で佐々木譲氏が言うように「Y字路」であり、そうであれば横尾忠則を連想するところです(横尾忠則氏の「Y字路」については、この記事を参照)〕。



 あるいは、この「Y字路」を、本作の志ん田とは別の方角に曲がると、全く別の「の・ようなもの のようなもの」が描き出されるのかもしれません!



★★★☆☆☆



象のロケット:の・ようなもの のようなもの

ザ・ウォーク

2016年02月06日 | 洋画(16年)
 『ザ・ウォーク』(3D)をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)予告編から面白そうだと思って映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭には、「これは実話である」(True Story)との字幕が出ます。
 次いで、黒いタートルネックを着た本作の主人公フリップ・プティジョゼフ・ゴードン=レヴィット)が、「自由の女神」の松明の縁の部分に立ちながら喋り出します。
 「僕はよく訊かれる、なぜ綱渡りをするのか、なぜ死を賭けてやるのかと。だが、僕は“死”ではなく“生”を使う。綱渡りは人生そのものなのだ。1974年、ニューヨークのWTCの2つのタワーに恋していた。僕の夢は、その2つのタワーの間にワイヤーを張ってその上を歩くこと。なぜ夢を追う?答えられない。その代わり、何が起きたかを話そう。タワーに恋したのはアメリカでのことではない。パリでだ」。

 そして、画面は1973年のパリに変わります。
 プティが一輪車に乗って、「僕は無名のワイヤー・ウォーカー」とつぶやきながら、道路を進んでいます。
 「ロープを張るにいい場所を探した。僕のパフォーマンスは皆に受けた。ただ、警官が来たら僕は逃げる」と喋りながら、ロープの上でパフォーマンスをして、人々からお金を集めます。

 次いで、歯が痛くなったプティが、歯医者の待合室で待っている際に見た雑誌『Le Grand』の中に、WTCのタワーに関する記事を見つけます。
そこには、現在建設中ながら世界1位の高さになる2つのタワーの写真が掲載されています。プティは、「痛みはふっとんだ」として、そのページを破り取って、急ぎ家に戻ります。

 「2つのビルの間に線を引いた時に僕の運命は決まった」として、その記事を部屋の中の階段に作られた引き出しの中にしまい込みます。

 それから、「初めて綱渡りを見たのは8歳の時」として、街にやってきたサーカスのオーマンコウスキー団で見た綱渡りのことが描かれます。

 さあ、そこから、WTCビルでの綱渡りまでどんな展開があるのでしょうか、そして、WTCでの綱渡りはどのようなものだったのでしょう………?



 本作は、“実話”に基づいた作品で、1974年に、ニューヨークの世界貿易センタービルのツインタワーの間に張られたワイヤーの上を渡ったフリップ・プティを描いています。3Dの効果がよく出ている映像で、高所恐怖症でなくとも、ビルの屋上から階下を覗き込んだ映像などは見る者をゾクッとさせます。とにかく、世紀の綱渡りをするまでの準備段階が丁寧に描かれるとともに、綱渡りの場面の映像がとても素晴らしく、感心してしまいます。

(2)本作では、9.11で崩壊してしまったWTCを実に上手く再現しており、また、その屋上からの眺めは、当時の眺めそのもののように見えます。
 そして、プティは屋上の縁のところから身を乗り出して地上を見下ろすのですが、足元が深くえぐり取られているような映像が映し出され、見る者をドキッとさせます。



 さらに、本作では、物が観客の方に実際に飛んで来るような映像もいくつかあって、座席に座っているこちらも思わずそれを避けるような仕草をしてしまいます。

 こうした映像も素晴らしいのですが、またWTCでの綱渡りを実現させるための準備段階も周到に描き出されています。
 例えば、オーマンコウスキー団の座長パパ・ルディベン・キングズレー)にワイヤーの頑丈な取り付け方を伝授してもらいます(注2)。

 こうした作品が今の時期に制作された意義を少し考えてみると、9.11で破壊されたWTCのタワーをフランス人が綱渡りをするということで、テロ(注3)によって多大の被害を被った両国の間に連帯の橋渡しをするということがあるかもしれません(注4)。
 なにより、語り手のプティがいる「自由の女神」は、フランスから贈呈されたものなのです。
 また、主役のプティをフランス人ではなく(注5)、生粋のアメリカ人のジョゼフ・ゴードン=レヴィットが演じているのも意味ありげです(注6)。 

 ただ、「自由の女神」の右手が持つ松明というありえない場所にいる主人公が全編の語り手になっているのですが、これは“実話”とどのように関係するのでしょう(注7)?

 それと、ちょっと気になったのですが、プティが2つのタワーの間に張られたロープの上を渡って行くのを上から捉えた画像の中に、地上でその様子を見守っている群集がどこに描きこまれているのかよくわかりませんでした(注8)。

(3)渡まち子氏は、「物語はプティの回想形式で進むので、彼の無事を知っているはずなのに、高さ、風、霧や空気までリアルに体感させる3Dの演出は、思わず手に汗を握った」として75点をつけています。
 渡辺祥子氏は、「2001年9月11日。WTCは瓦礫の山と化したが、そこにアメリカの自信と繁栄の象徴だった超高層ビルがあったことは決して忘れない。ここにはそんな思いが確かにこめられている」として星4つ(「見逃せない」)をつけています。
 読売新聞の多可政史氏は、「伝説的な空中歩行の興奮が、当時のビルや街並みを再現したVFX(視覚効果)でよみがえる」と述べています。



(注1)監督・脚本は、最近では『フライト』のロバート・ゼメキス
 原作は、フィリップ・プティ著『マン・オン・ワイヤー』(邦訳・白楊社)。

 なお、出演した俳優の内、最近では、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットは『LOOPER/ルーパー』、ベン・キングズレーは『ヒューゴの不思議な発明』、シャルロット・ルボンは『マダム・マロリーと魔法のスパイス』で、それぞれ見ました。

(注2)この他にも、2つのタワーの間にワイヤーを張るのに、先ず弓矢で釣り糸を向こう側のビルに渡し、次いで縄を、最後にワイヤーを張るという方法を考えつきます。

(注3)ただプティは、事前の許可なしのこうした綱渡りが“違法行為”であることを充分に承知していながら秘密裏に敢行してしまい、騒ぎを引き起こしたのですから、彼のやったことは逆に“テロ行為”の一種とみられる側面もないわけではないでしょう。

(注4)しかしながら、映画で描き出されるプティは、芸術家の意識が強く、簡単に人を寄せ付けないものを持っていそうな感じがするところです。
 例えば、パリでパフォーマンスをする際にも、自分の周りに円周を描いて、その中に見物人を踏み込ませなかったりします(わざわざ強硬手段を用いて、円周の外に人を退けます)。
 また、プティのよきパートナーと思えたアニーシャルロット・ルボン)が、プティの夢が実現すると、さっさとフランスに戻ってしまうのも、無論彼女が言うように「自分も自分の夢を実現したい」という気持ちなのでしょうが、あるいは自己中心的なプティにこれ以上ついていけないという気持ちもあったのではないでしょうか?



(注5)プティの友人で“共犯者”とされるジャン=ルイジャン=フランソワは、それぞれフランス人のクレマン・シボニーセザール・ドンボイが演じています。

(注6)劇場用パンフレット掲載の門馬雄介氏のエッセイ「あらゆる二点を軽やかに往還する、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット」には、「コロンビア大学で歴史や文学、フランス詩を学んだ彼は、フランス語に通じていたため、フランス人であるプティを円知るのにはまたとない適任者だった」と述べられているのですが。

(注7)やはり本作は、“実話”に基づく話だけれども“フィクション”なんだよ、と言っているのでしょうか?WTCでの45分間の綱渡りに関しては、写真は遺っているにしても映像は遺されていないのですし。

(注8)もとより、真下の場所は、現在ビルが工事中につき入り込めません。それでも、少し離れた道路際に大勢の人が集まっているはずですが、クマネズミが見たところでは判別できませんでした。



★★★★☆☆



象のロケット:ザ・ウォーク

ベテラン

2016年02月04日 | 洋画(16年)
 韓国映画『ベテラン』をシネマート新宿で見ました。

(1)本作について耳にする評判が大層良く(注1)、かつまた、このところ韓国映画から遠ざかっていてこの辺りで見てみたいと思っていたこともあり、大層遅ればせながら映画館に行ってきました(注2)。

 本作(注3)の冒頭では、腕を組んだカップルが中古車販売場に現れます。
 女が「あの車がいい」とねだると、男が「駄目だ。待ってろよ。お似合いの車を選ぶから」と答えて、ベンツ(注4)を指して「この車がいい」と言います。
 女は「買い出し用にピッタリ」と言い、男は車を買います。
 ただ、その際、店の者が車に発信機を取り付けたようです。

 買ったベンツを女が運転しますが、運転が荒すぎて男が「危ない」と叫ぶと、女は「先輩が運転すれば?」と答えます。
 そこに電話が入り、「今日中に方を付ける気か?」と相手が訊くので、男は「3ヶ月も泳がせておいた」と答えます。

 場面は変わって、さっきのベンツが路地の奥に進んでいき、突き当りの倉庫の扉が開くと、その中に入っていきます。
 すると、作業員たちが現れ、ベンツからプレートを外し、違うプレートと取り替えます。
 そして、作業員がベンツのトランクを開くと、このベンツを購入した男が飛び出します。



 作業員のリーダーらしき男が、「お前は、昼間売り場にいたやつだな!」と気が付き、ベンツの男と作業員たちとの間で乱闘が始まります。
 その時、広域捜査隊のチーム長(オ・ダルス)に率いられた警官隊が入ってきて作業員たちを捕まえます。
 最初にベンツを購入した男は、広域捜査隊のベテラン刑事のソ・ドチョルファン・ジョンミン)で(注5)、捕まえた男に対し、「車はどこに運ぶ?」と訊くと男は「釜山」と答え、さらに「その先は?」と尋ねると男は「ロシア」と答えます。

 これを端緒に、ドチョル刑事らのチームは、国際的な中古車密売組織の摘発に成功しますが、ドチョル刑事にはさらなる大きな戦いが待ち構えています。さあ、どうなることでしょうか、………?

 本作は、凄腕刑事が、様々の圧力をものともせずに5人の仲間と力を合わせて、大財閥の御曹司を逮捕するに至るという痛快アクション映画です。こうした構図の映画はこれまでもたくさん作られてきたとはいえ、本作に登場する御曹司の悪さは尋常ではなく、また主人公らにのしかかってくる圧力も甚だ強いものがあります。ですが、そういうものを打ち破って正義を取り戻すストーリーの本作を見ると、クマネズミのような庶民はまさに溜飲が下がる思いをすること請け合いです。

(2)本作が痛快なのは、主人公のドチョル刑事に追い詰められる悪役チョ・テオを演じるユ・アインが、悪役の常識からは程遠い二枚目のイケメン俳優でありながら、ことさらな悪辣振りを見せるからではないかと思います。



 本作の後半に描かれる事件の元凶はチョ・テオですし(注6)、例えば、ドチョル刑事は、パーティーで財閥の御曹司のチョ・テオと初めて出会いますが、その際に、テーブルの上に並べられていた料理を腕で払って、周りの女達に浴びせかけたりするのです(注7)。

 また、主人公のドチョル刑事の悪に対する追求の執念深さも尋常ではないのですが、家に戻ると、福祉士の妻ジュヨンチン・ギョン)には、「疲れているの」と拒否されたり、子供や金銭のことでいろいろ愚痴をこぼされたりする夫に過ぎない普通の姿が描かれている一方で、平凡に思えるこの妻が、チェ常務(ユ・アイン)からの賄賂(札束の入った高級ハンドバッグ)を「そんなもの持っている」、「あの男と結婚したのを後悔している。だが、それ以上後悔することはない!」ときっぱりと拒否したりするのですから(注8)、面白さも倍加します。

 それに、コミカルな要素もいろいろ盛り込まれています。
 例えば、広域捜査隊チームの紅一点のミス・ボンは、グローバルに活躍するモデルとされるチャン・ユンジュが演じていますが、決して大人しい役柄ではなく、ハイキックが得意技で、国際的な中古車密売組織の摘発の際には大活躍します。とはいえ、相手との距離を見誤って積んであるコンテナに体当りしてしまい、目をむいて倒れてしまう様子は笑いを誘います。

 こうしたアクション物では、銃弾が飛び交い人も何人も死んだりして雰囲気を盛り上げるのが普通でしょうが、本作は銃が持ちだされることもなく殺人も行われないにもかかわらず(注9)、激しいカーチェイスが映し出されたりして見る者を充分興奮させ、娯楽作品として大いに楽しめました。

(3)暉峻創三氏は、「本作は、正義感に燃える刑事が悪を追い詰め、勝利するという古典的な英雄刑事像を描きながら、非の打ちどころなき傑作エンターテインメントに仕上がった」と述べています。
 読売新聞の恩田泰子氏は、「素直に身をゆだねれば、主人公と一緒に戦っているような気分。泣いて笑って最後は痛快。映画って楽しい。素直にそう思える一本だ」と述べています。



(注1)韓国では歴代動員ランキング第3位とのこと(公式サイトの「INTRODUCTION」によります)。

(注2)シネマート新宿での公開は本日(2月5日)で終了です。

(注3)監督・脚本はリュ・スンワン

(注4)ベンツW221のようです。

(注5)そのときドチョル刑事が連れていた女は、チームの同僚のミス・ボン。

(注6)チョ・テオは、部屋に現れた運転手のチョン・ウンイン)を殴りつけ、ペが倒れて死んだと思ったため、チェ常務に自殺に見せかけろと命じます。

(注7)その際、チョ・テオは「こうやって遊ぶべきなのかな?」とつぶやいたり、さらには「こんな遊び方しか出来ません」とドチョル刑事に対し挑発的に謝ったりします。
 ドチョル刑事の方も、チョ・テオに犯罪者の臭いを嗅ぎとって、「テオさんは面白い。ただ罪は犯すな」と忠告します。



(注8)ただ、妻ジュヨンは警察に乗り込んで、夫ドチョルに、「あなたは私に恥をかかせた。少し心が動いてしまった。私も人間だから」と怒るのです(その際に、ハンドバッグと札束を夫に見せるのですが、チェ常務からの賄賂を受け取っているのでしょうか?)。

(注9)瀕死の重傷を負ったペ運転手も、最後には病院のベッドで目を開けることになります。
 なお、この運転手は、国際的な中古車密売組織を釜山で摘発する際に、ドチョル刑事を現場までトラックに乗せていってくれました(最初の中古車密売組織摘発のエピソードと、チョ・テオを巡るメインのエピソードとはつながりがあります)。



★★★★☆☆



象のロケット:ベテラン

信長協奏曲

2016年02月02日 | 邦画(16年)
 『信長協奏曲』を吉祥寺オデヲンで見ました。

(1)予告編を見てオモシロそうだと思って、映画館に行きました。

 本作(注1)の冒頭では、実写TVドラマとして放映されていた部分(注2)のあらすじが簡単に紹介され、次いで本編が映し出されます。

 戦国時代の武士たちが農家に火をつけ、逃げ惑う女子供らを次々に殺していきます。
 男の子が逃げて建物の隅に隠れ、武士らが「織田信長様」と呼ぶ馬上の指揮官を恨みのこもった目で睨みつけます(注3)。

 次いで、場面は安土城内。
 サブロー信長小栗旬:注4)が、肖像画のモデルになっています。



 周りの者が「絶対に動いてはなりませぬ。我慢、我慢」と言うのですが、信長は「もう無理」と答えて、描かれている絵を見ます。
 信長は「誰これ?」と言い、柴田勝家高嶋政宏)も「全く似ておらん」とつぶやきます。
 そこに、信長の妻・帰蝶柴咲コウ)が現れ、「何を騒いでおる?」と尋ねると、信長は「全然似ていないんだ」と絵を見せますが、帰蝶は「随分と男前だ」と言います。

 こうした騒ぎを、明智光秀に変身している本物の信長小栗旬)が頭巾の中から見ています。

 次いで、サブローと同じように現代からタイムスリップして来た男(古田新太)が松永弾正として登場し、サブローの信長と対面して、「俺はこういう話に弱い。余命わずかの身ながらこの城を建てるとは」と言うものですから、信長は驚いて「余命わずか?」と聞き返します。
 すると、松永弾正は、「お前、教科書をちゃんと読んでいないのでは?」と言って、教科書の『高校日本史B』を見せます。



 信長は、そこに「織田信長の“死後”」などと記載されているのを見て、「俺って死ぬの?」とつぶやき、「俺が未来からやってきた時点で歴史は変わるのでは?」と言います。
 松永弾正は、「お前がこれまでやってきたことは、すべて教科書に載っている。歴史は何も変わらない。お前はもうすぐ死ぬ。タイムリミットは今日かも」と言います。

 さあ、歴史は変わることになるのでしょうか、………?

 漫画を原作としていることは薄々知っていましたが、本作が、実写TVドラマとして放映されていた物語の最終章となっているので驚きました。確かに、冒頭においてそれまでの経緯が紹介されるので、これはこれだけで理解できるようになっています。それに、本作もなかなか面白く仕上がってもいます。とはいえ、本作だけを見たのでは、原作漫画の持つ無類の面白さがやっぱり半減してしまっているのではと感じました(注5)。

(2)サブロー、信長、そして明智光秀を演じる小栗旬の熱演もあって、本作はなかなか面白い出来栄えとなっています。

 それで、原作の方はどうなっているのかと興味が湧いてきて、漫画本の第1巻と第2巻を読んでみたところ、サブローは、いともあっけらかんとタイムスリップしていきなり織田信長になってしまうのです。
 なにしろ、日本史の授業で、先生から「本能寺の変を引き起こした人は?」と訊かれて「あいださん……?」と答えたサブローが、帰宅途中に土手の上を歩いていて足を滑らせて落ちたら、織田信長とぶつかってしまい、いきなり「わしの身代わりになれ」と言われ、本物の信長はスグに立ち去り、池田恒興が現れて信長として扱われてしまいます(注6)。
 そして、サブローの信長が「目指すは、今川義元!!続けぇ!」と叫んで、桶狭間に出撃する前までのところが大層スピーディーに描かれています。

 この分だと、TVドラマの方も面白いに違いないと思って、第1話をオンデマンドで見てみたところ、こちらでは、「戦国時代体験ツアー」が催されている「歴史時代村」に修学旅行で行っているサブローが、その村から外に出ようと塀の上に上がったところで足を滑らせて落ちたらタイムスリップした、とされています。
 そして、こちらでは、兄を亡き者にしようとする弟・信行との争いを軸に(注7)、斎藤道三が「そろそろ動いてみるか」と言い出すところまでが描かれています。

 見た範囲で言うと、原作漫画の方は、帰蝶が「殿とでえとするのが何よりの楽しみにござります」と信長に言ったりして、大層ユルーイ雰囲気が漂っているのに対し、TVドラマの方は、実写版のためでしょう、よりリアルな面が強調されているように思われます(注8)。帰蝶も、信長のことを「うつけ」と言ってはばかりませんし、喧嘩ばかりしています(注9)。



 これが、本作になると、TVドラマの最終章なのですから、帰蝶と信長の関係はかなり良好なものとなっていて、結婚式を挙げるという話に繋がりますし、まして「本能寺の変」が引き起こされるのですから、なおさらリアルな感じになっていきます(注10)。
 さらに、サブローの信長、本物の信長、そして明智光秀になった信長が羽柴秀吉山田孝之)と対決するという話の進め方はなかなか興味深いものがあります。
 とはいえ、原作漫画が持っていたユルーイ感じとか、TVドラマの最初の方に漂う面白さといったものは、本作になるとあまり伺えなくなってしまうのは、仕方がないとはいえ少々残念な感じがしました。

 それと、「平和、平和」、「殺し合いはやめよう」などと事あるたびにサブローの信長は口にします。これは、信長、秀吉、家康の“天下統一”の事業を見据えてのことではないかと思います。とはいえ、果たしてその「平和」という理念は、通時的に他のことをなげうってまで追求すべきものなのかどうか、検討する余地があるのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「映画そのものは、あくまでもテレビの延長線上にあるエンタテインメントで、ドタバタ劇や、歴史を軽く無視した設定、ほとんどゴリ押しに近いラストの収束まで、どこまでもライト感覚だ」として50点をつけています。



(注1)監督は松山博昭
 原作は、石井あゆみ信長協奏曲 のぶながコンツェルト』(最新刊は第13巻、小学館刊)。

 なお、つまらないことながら、タイトルについて、映画の公式サイトでは「信長協奏曲 NOBUNAGA CONCERTO」、TVドラマの公式サイトでは「信長協奏曲 ノブナガコンツェルト」、TVアニメの公式サイトでは「信長協奏曲 のぶながコンツェルト」、このサイトでは「信長協奏曲(ノブナガコンツェルト)」、このサイトでは「信長協奏曲(のぶながコンツェルト)」とされています。
 ブログのタイトルはどれにしたらいいのでしょう!

(注2)現代に生きる高校生のサブローが、タイムスリップして戦国時代の織田信長と出会って信長として生きていくことになる発端から1573年の小谷城の戦いまで、全11話で制作されています(原作の第9巻まで:放映期間は2014.10~2014.12)。
 なお、この実写TVドラマの前に、TVアニメとしても放映されています(原作の第8巻まで:放映期間は2014.7~2014.9)。

(注3)本作では、この子供が後に羽柴秀吉になります。

(注4)現代の高校生サブローが、戦国時代にタイムスリップして、本物の信長に頼まれて、その身代わりとなります。

(注5)出演者の内、最近では、小栗旬は『ギャラクシー街道』、柴咲コウは『青天の霹靂』、池田恒興役の向井理は『天空の蜂』、お市の方役の水原希子は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド』、徳川家康役の濱田岳は『杉原千畝 スギハラチウネ』、山田孝之は『バクマン。』、高嶋政宏は『柘榴坂の仇討』、本物の信長に仕える沢彦役のでんでんは『駆込み女と駆出し男』で、それぞれ見ました。

(注6)普通のタイムトラベル物であれば、例えば、『幕末高校生』におけるスマホのアプリのように、何かしらのタイムマシンが用意されるのではないでしょうか?

(注7)TVドラマでは、信行と信長の戦いにつき、大層激しい戦闘場面が描かれ、サブローの信長が実戦の恐ろしさをつぶさに体験するように描き出されますが、原作漫画においては「結局、この戦いは信長軍の圧勝に終わり」と文字で記載されているに過ぎません。

(注8)原作漫画の信行は、信長の前で切腹するとはいえ、母親と一緒に信長に謝りに来るような器量の持ち主で、小さな役割しか与えられていませんが、TVドラマの方では、様々の手段を講じて信長を付け狙う執念深い男として大きな役割が与えられています。

(注9)それでも、TVドラマでは、例えば、サブローの信長が、城内に「週休2日制」とか「1日3度の食事」を導入しようとして池田恒興に叱責されたりする場面が描かれたりします。

(注10)本作では、「本能寺の変」の最中に秀吉が京都にいたようにされていますが、史実としては、そのときには秀吉は「備中高松城の戦い」の最中であり、本能寺の変からおよそ10日後に京都に戻ってきたとされています(Wikipediaの「中国大返し」の項)。
 とはいえ、こうした史実との違いは、本作が元々タイムトラベル物であって、実際を無視しているのですから、いくらあってもかまわないと思われます。
 それに、「本能寺の変」には“秀吉黒幕説”が言われたりしますから(例えば、井上慶雪著『秀吉の陰謀』詳伝社、2015年)、本作のような描き方もあながち捨てたものではないかもしれません。
 加えて、例えば、明智憲三郎著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年)では、「徳川家康も謀叛と無関係どころか実は共犯で、豊臣秀吉も事前に謀叛の計画を知っていたから中国大返しも実は神業でもなんでもなかった」とか(この記事によります)、「信長は、徳川家康を本能寺に呼び寄せ、光秀に討ち取らせるつもりだった。ところが、この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い、家康と織田家打倒を決意。家康との談合の末に、信長と息子の信忠の間隙を縫って決起したのが本能寺の変だった」などと述べられていて(この記事によります)、「本能寺の変」についてはなんだか“百家争鳴”状態にあるような感じがします。



★★★☆☆☆



象のロケット:信長協奏曲(のぶながコンツェルト)