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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

夏の終り

2013年09月10日 | 邦画(13年)
 『夏の終り』をヒューマントラストシネマ渋谷で見てきました。

(1)本作は、瀬戸内寂聴の原作(新潮文庫)を映画化したもので(注1)、満島ひかりが出演するというので関心を持ちました。

 物語の舞台は昭和30年代の東京。
 映画の冒頭では、木造の小さな家が立ち並ぶ路地を、オーバーを着た一人の若い男が家を探して歩き回っています。一軒の家の表札を確認すると、その男が門の中に入っていきます。
 すると場面は変わり、縁側で猫に餌をやる男。「ごめんください」との声を受けて、彼は玄関に出ていきます。
 続いて女が外から戻ってきます(注2)。
 家の中の男が「早かったね」と言うと、女は「食べる?コロッケ」と言いながら、それをお皿にあけ、自分で一つ頬張ります。
 男が、「今日、木下君が来たよ、土産を持ってきたんだけれど、よっぽど僕が信用されなかったのだろう、すぐに帰ったよ」と言ったところで、クレジットが入ります。
 女は相澤知子満島ひかり)、木下を出迎えた男は、知子の家で一緒に暮らす小杉慎吾小林薫:実は鎌倉に本宅があり、そこに妻や娘がおります)、木下涼太綾野剛)は知子が以前別れた愛人です(注3)。

 慎吾は、知子の存在を妻に告げてはいるものの、離婚する気はありません。知子は、はっきりしてと迫りますが、なんだかんだと逃げています。他方、涼太は、知子と別れたあとも未練が残り、関係の修復を図ろうとします。知子は、慎吾の態度が優柔不断なせいもあって、涼太と再度関係を持ってしまいますが、こうなると今度は、涼太が、知子に対して慎吾との関係をはっきりしてくれと迫ります。
 さあ、この3人の関係は過去どのようなものであり、これからどうなるのでしょう、……?

 本作は、主人公の知子を中心にした四角関係とでもいうべきぐちゃぐちゃした関係が出来上がった経緯やその後の進展ぶりが、昭和30年代の濃密な雰囲気の中、主人公を演じる満島ひかりの熱演もあって、大変巧みに描き出されている文芸物だなと思いました。

 満島ひかりは、最近では『スマグラー』で見ただけながら、さすがの演技を披露しています(注4)。



 小林薫は、『舟を編む』で見ましたが、この俳優が出てくると画面に奥行きが出てくる感じがします。



 綾野剛は『シャニダールの花』で見たばかりですが、今が旬なのでしょう、どんな役をやっても様になっているのは凄いと思いました。



(2)こうした関係は、まさに昭和30年代だからこそありえたのではという印象を受けます。
 男が、本宅と別宅とで半分ずつ暮らすというのは、成金が身請けした芸者を妾として別宅に住まわすという昔の風潮の名残のようにも見え、あるいは当時文壇の主流を占めていた自然主義作家の一つの生き方のようにも思えます。
 でも、そうした時代的な重しを取り去って(あるいは、意識しないようにむしろその中に入り込んでしまって)、男女の濃密な関係が描かれている作品として本作を見れば、それなりに興味を覚えます。

 一つ挙げるとしたら、画面には一切登場しないものの、本作を大きく支配する人物として慎吾の妻が描かれている点でしょう。
 知子は、時々通ってくる女学生のまり(注5)が見つけ出して机の上に置いてあった彼女から慎吾に当てた手紙を読んだり、彼女からの電話を直接受けたりして、強いショックを受けます。そればかりか、自分が風邪で臥せっている時も、慎吾はきちんと妻のもとに帰っていくのです。それで、こうした関係に決着をつけようと、知子は慎吾の本宅に出向くものの、不在で会うことが出来ません(逆に、不在だからこそ、知子は、慎吾の家に妻の存在を生々しく感じてしまいます)。
 知子が涼太都の関係を復活させたのも、慎吾の妻がもたらす不安定さ(相手が見えないからこそかえって募るようです)を解消しょうとしてのことだと思われるところです。
 ただ、それは、さらに涼太に不安定さをもたらしてしまい、慎吾と知子の関係について、涼太は「無神経なんだよ、ふしだらで、淫らでだらしないよ、なぜ別れないんだよ」などと言い募るようになります。
 本作は、この見えない登場人物に3人が翻弄されている作品と言えないこともないのではないでしょうか?

(3)言うまでもないことながら、本作と原作とは感じが違う点が色々と見つかります(一般に、映画が原作と違うのは当然ですから、それ自体に問題はないでしょう)。
 例えば、本作では、四画関係とでもいうべきひどくもつれた関係が描かれているにもかかわらず、知子の性的な行為は直接的には殆ど描かれません(事後的にそれとわかる場面はありますが)。
 とはいえ慎吾については、原作でも、「いつからか慎吾は知子をいたわって二人の間で性の匂いが薄れていた」とか、「涼太との秘密を持ってしまってからは、いっそう知子には慎吾とのプラトニックな愛が稀有なもののように大切に思われてきた」とあるので(注6)、おそらく映画でもそれを踏まえているのでしょう。
 ただ、涼太については、原作では、「涼太は知子の姓名を吸い尽くそうとでもするように、貪婪に知子をむさぼった。その度涼太の体は瑞々しさをとりもどし、活力がどこからかよみがえってきた」などとかなり直接的に描かれています(注7)。
 尤も、今出回っている小説などで見られる露骨な表現からすれば、霞がかかりすぎているといえるかもしれませんが。

 他方、つまらないことですが、原作では明示されていない地名が、本作にあっては、はっきりと映し出されています。
 例えば、知子の家の表札には、「相澤 大和町」とありますし(注8)、知子が慎吾の使う机の下から見つけ出した彼の妻からの手紙には、送り主の住所が「鎌倉」と記載されています。
 これらは原作では、「知子の下宿」(注9)とか「海辺の妻の家」と書かれていて(注10)、ひどく曖昧にされています(注11)。

 ところが、本作のラスト近くでは、知子が新しい生活をすべく引っ越しをするのですが、原作ほど引越し先がはっきりしません(むしろ、元の家を大掃除しているような感じを持ちました)。
 逆に原作には、「練馬区といっても、埼玉県の県境に近い所」にある「畠の中の建売住宅」(「和六、六、四半、台所、風呂美築月賦可」)とされています(注12)。
 この他、原作(短編「花冷え」)では、ラストで知子が待ち合わせをしている駅が、本作と同じように「小田原」と明記もされているのです(注13)。
 これは、慎吾と手を切って新しい生活をスッキリと始めたいとする知子の揺るぎない決意が原作(短編「花冷え」)には込められているために、物事がはっきりと書かれているのではないでしょうか?
 対して、それまでの短編では、知子を巡るどっちつかずの四角関係を描くために、地名などの具体的なものは曖昧にされているのではとも考えられるところです(注14)。

 翻って本作を思い返してみると、原作に比べてかなり曖昧に描かれている事柄もあります。
 例えば、本作で横浜港の場面が描かれますが、知子がどこに旅行してきたのかははっきりとしません。ですが、原作(短編「夏の終り」)の冒頭には、「一カ月のソビエトの観光旅行から帰ってきた知子」と明示されているのです。
 さらには、描かれる時代が昭和30年代であるとか、慎吾と知子の関係が8年間続いていることや、涼太とは12年前に別れたことなども、原作に比べるとそんなにはっきりとは示されていないように思います(注15)。

 他方で、本作では、知子が行う染色の作業がかなりクローズアップされている印象を受けました(注16)。そして、ラスト近くで知子は、型紙を作るために刀で専用の紙を彫っていますが(型彫り)、くり抜かれて出来た型紙は、実にくっきりとしたラインで葉を描き出しています。まるで、これからの知子の生活ぶりを暗示しているかのように思いました。

(4)渡まち子氏は、「2人の男の間で揺れ動き、嫉妬や情念の末に、いちから人生をやり直す決心をするヒロインの決断は、昭和30年代当時としては画期的な女の自立だったのだろう。今見るとさしたる驚きもないが、満島ひかりのどこかふっきれたような横顔はさわやかな力強さを感じさせた」として55点をつけています。
 また、相木悟氏は、「TV屋のつくった媚びた映画と違い、どっぷりとスクリーンに浸って人間の内面を窺う、邦画界久しぶりの映画らしい映画の登場である」と述べています。




(注1)新潮文庫版には、「夏の終り」のみならず、他に4編の短編が入っていますが、「雉子」を除くと、どの短編(「あふれるもの」「みれん」「花冷え」)にも「夏の終り」と同様に知子と慎吾が登場します。これら4編の小説で、知子と慎吾(それに涼太)を巡る関係が描かれているわけで、本作も、4つの短編からエピソードをピックアップして構成されています(以下で「原作」という場合は、4編全体を指すものといたします)。

(注2)前の場面とこの場面の間には時間的な経過がありますが、本作では切れ目ない感じで描かれます。

(注3)以前、知子の夫が東京の世田谷に住まいを移そうとした時、知子は付き合っている男がいて別れたくないからと言って、ついて行きませんでした(映画では、田舎道を小さな娘の手を引いて歩き去る夫の後ろ姿に向かって、知子は「だって、好きなのよ!」と大声で叫びます)。その時の愛人が涼太ですが、実のところはすぐに別れていたのです。

(注4)満島ひかりが若すぎて、本作の主人公にそぐわないのではという声があるようです。確かに、原作では、知子は「四〇近く」という年齢設定のようながら(短編「花冷え」P.186)、でも映画において同じ設定だと考えなくても構わないのではと思います。

(注5)原作には見当たらない登場人物のようで、わざわざ本作に登場させる意味はよくわかりません(知子や慎吾に娘がいることの象徴でしょうか?)。

(注6)短編「夏の終り」のP.65とP.67。

(注7)短編「あふれるもの」P.41。

(注8)中野区大和町を指すのでしょう(このサイトの記事によります)。
 また、このサイトの記事が参考になるかもしれません。

(注9)例えば、短編「あふれるもの」P.8。
 なお、短編「花冷え」では、もう少し具体的に、「ひょろ高い二階家は、母屋のすぐ裏に、全くの別棟になっていて、木口もしっかりしていた」、「旧都心にありながら、その家の崖の下は、二千坪ほどの畑地が残っていて、奇蹟的な閑静さに恵まれている」と書かれています(P.157)。

(注10)「避暑地の入り口として有名な」駅から「意外な近さ」のところにある家だともされています(短編「夏の終り」のP.101)。

(注11)この他にも、慎吾の妻は、電話で、入院した国元の姪にお見舞いを送ってくれるよう知子に依頼しますが、その宛先として、本作では極めて具体的に「山形市末広町二四番地結城病院内」と伝えられるところ、短編「みれん」では、「東北の盆地の町の住所」とされるばかりです(P.125)。
 こんなところは、原作者の瀬戸内寂聴が同棲していた相手の小田仁ニ郎の出身地が、山形県南陽市であることによっているのではと思われるところです。
 なお、このサイトの記事によれば、「小田仁二郎は「週間新潮」に時代小説「流 戒十郎」を連載している。それは柴田錬三郎の人気小説「眠 狂四郎」の後釜であった」とのことで、本作において、慎吾が眠狂四郎の円月殺法の真似をするのも、そのことを踏まえているのでしょう。

(注12)短編「花冷え」のP.169(このサイトの記事によれば、より具体的には「練馬区高松町(現・土支田一丁目)」のようです)。

(注13)短編「花冷え」では、待ち合わせをしている相手は慎吾ですが、本作では、それは明かされません(劇場用パンフレットに掲載の満島ひかりのインタビューでは、彼女は、「実は続きを撮っています。ある人と知子は会っているのです。そこは観た方の想像に委ねたいので、誰だったかは教えません(笑い)」と述べています)。

(注14)本作において、ことさら地名が明示的になっているのは、設定が東京とされているにもかかわらず、兵庫県の洲本市など関西方面でロケをしたことも与っているのかもしれません。

(注15)ダンスホールで会って話している際に、知子が涼太に「8年よ」と言っているくらいではなかったかと思います。

(注16)原作では、せいぜい「図案を画きながら、染料をときながら、型紙にのみをあてながら」とあるくらいです(短編「花冷え」P.180)。



★★★★☆



象のロケット:夏の終り


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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (ふじき78)
2014-04-01 20:43:21
> 本作では、知子が行う染色の作業がかなりクローズアップされている印象を受けました

後付けで思ったのですが、「藍と白」だけで構成される明白な絵柄は、何物をも曖昧なままにしておけないこの映画での満島ひかりみたいだな、と思いました。
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Unknown (クマネズミ)
2014-04-02 05:33:57
「ふじき78」さん、コメントをありがとうございます。
クマネズミは、「型紙が、実にくっきりとしたラインで葉を描き出している」ことから、「何物をも曖昧なままにしておけない」主人公の性格を思いましたが、おっしゃるように「「藍と白」だけで構成される明白な絵柄」自体からもおなじように言えますね。
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