映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

陽だまりハウスでマラソンを

2015年03月31日 | 洋画(15年)
 『陽だまりハウスでマラソンを』を新宿武蔵野館で見ました。

(1)『博士と彼女のセオリー』を見ようと新宿シネマカリテに早目に出向いたところ、満席状態。仕方なく近くの新宿武蔵野館に回って、上映まであまり待たなくて済むこの映画を、事前情報なしの飛び込みで見た次第。
 始まるとすぐにラストシーンが目に浮かんでしまうような作品ながら、まずまず楽しめ、クマネズミにとっては拾い物でした。

 本作(注1)の舞台は現代のベルリン。
 主人公は、1952年のヘルシンキ・オリンピックや1956年のメルボルン・オリンピックのマラソンで優勝したとされるパウル・アヴァホフディーター・ハラーフォルデン)。
 そんな実績のある彼も、今や80に近い歳に。

 映画の最初方では、パウロの妻・マーゴターチャ・サイブト)が食卓を整えている場面。
 時計が2時を指し、彼女が「食事よ、聞こえた?!」と叫びます。
 外にいたパウロは、庭の手入れをしていてその声は聞こえませんが、腕時計を見て家の中に。家の中に漂う臭いから「ロールキャベツか」と言いながら食堂に入っていきますが、台所で倒れている妻を発見。

 キャビンアテンダントをしている娘のビルギットハイケ・マカッシュ)もやってきて、「一月に3度よ。いつも私が来れるわけではないのだから」と言うと、パウルは、「明日になれば歩けるし、買い物は私がする。食事だって作れる。施設には入らない」と応じます。
 ビルギットが「地下室で倒れたりでもしたらどうするのよ」と言い張り、結局、パウルとマーゴは一緒に老人ホームに入ることに。



 ですが、老人ホームで皆と一緒にさせられる作業はどれも退屈なものばかり(注2)。



 そこでパウルは、自分のやりたいことはそんなつまらないことではなくやっぱりこれだとばかりに、老人ホームの庭を走り始めます。
 目標は、8週間後に開催されるベルリン・マラソンに出場して完走すること。
 さあ、一体どうなることでしょうか、………?

 本作は、かつてオリンピックのマラソンで優勝した実績のある男が、高齢になったにもかかわらず自分を取り戻すためにマラソン大会に出場するというお話ですが、クマネズミも細々ながらジョギングをやっているところから(注3)、実に興味津々な映画で、主人公のようにマラソンとはいかないまでも、高齢者の仲間入りをしても現在のようにジョギングが続けられたら素晴らしいことだなと思ったところです。

(2)本作では、大勢のランナーに混じってパウルがベルリンの街を走るシーンは感動的です。
 実際にも、主役を演じたディーター・ハラーフォルデンは78歳でありながら(注4)、2012年末のベルリン・マラソンに出場して本作の撮影が行なわれたそうです。
 ただ、高齢者によるマラソン完走という快挙が達成されという実話があって、本作もそうしたものに基づいて制作されているのであれば、その感動も一層増すのになと思えたところです。
 ですが、劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューによれば、そうした実話があったようではなさそうです(注5)。
 むしろ監督は、「私の中で根本的な問題としてあるのは、時が過ぎ、人生の終わりが近づいたときに、自分はどう行動するだろう、ということです。やる気を無くして意気消沈し、あきらめていのか、それとも、自分と自分の尊厳のために戦っているだろうか?私にとって、これは大きな、そして心を動かされるテーマです」と述べています。
 そういうところからすれば、本作は、一種のファンタジーと考えた方がいいのかもしれません。
 そうだとしたら、いくらオリンピックで優勝したという実績があるとしても、長い間トレーニングから遠ざかっている高齢者が、あれだけの事前の準備だけでフルマラソンを完走できるのだろうかなどといった問題点(注6)を本作に対して言い募っても何の意味もないことでしょう。

 実話に基づいた作品を見ると、その実話から離れて見てみたい気になりますし、逆に、こうした作品が実話に基づいていないとされると(注7)、なんだか物足りない感じになってしまうのは、クマネズミ持ち前のひねくれ精神によるものかもしれません。

(3)なお、本作に登場する老人ホームはかなり高級な感じがします。全体的な雰囲気は、医療設備の整った老人用高級マンションといったところではないでしょうか(注8)?集会所の合唱の際にオルガンを弾く老女は、娘が著名なヴァイオリニストだと言いますし、入居者は皆相応の所得がありそうな雰囲気です。
 となると、描かれる老人ホームはずっと高級ですが、『カルテット! 人生のオペラハウス』が思い起こされます。
 さらに、同作も、“昔とった杵柄”物で、とっくの前に引退している歌手などが資金集めのためにコンサートを開くというストーリーであり、おまけに、その中心の歌手ジーンを演じるマギー・スミス(注9)が、当時78歳!

 老人が活躍する映画は、見る者に、自分だってあの歳になってもあのように元気に活躍できるんだという気にさせるものであり、認知症老人に関する作品を見て現実を直視するのもかまいませんが、一種の清涼剤として意味があるのではと思います。

(4)渡まち子氏は、「元五輪マラソン金メダリストがフルマラソンに再挑戦する姿を描く「陽だまりハウスでマラソンを」。高齢者の尊厳をきちんと描いた佳作」として65点を付けています。
 秋山登氏は、「観客を幸せな気分にし、勇気づける良質な娯楽映画である」と述べています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「マラソンは人生に似ている。使い古されたそんな言葉に、新しい輝きを与える映画だ」と述べています。



(注1)監督と脚本は、キリアン・リートホーフ
 原題は「Back on Track」。

(注2)なにしろ、やることといえば「くり人形」作りとか合唱といった微温的なものばかりなのです(「クリ人形」というのはよくわかりませんが、このブログの記事に掲載されているものなのかもしれません)。

(注3)この拙エントリをご覧ください。

(注4)3月26日(木曜日)にNHK総合で放映された「北島三郎78歳の挑戦~最終公演の軌跡~」を、北島三郎がディーター・ハラーフォルデンと同じ“78歳”ということもあって見たのですが、1回の公演が4時間のものを1日昼夜2回やり、それを1ヵ月(その間10日ほどの公演日)続けるというのですから、そのスタミナに驚きました!

(注5)劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事において、監督は、「2001年に、ある短い新聞記事を見つけました。うつ状態に陥っていた高齢の男性が、奥さんから「あなたが走らなければ、私はあなたのもとを離れます!」と急き立てられ、本当にマラソンに挑戦したという内容でした」と述べています。ただ、この内容では随分と漠然としていて、あまり参考にならない感じがします。

(注6)マラソンに出場する前には、やはり、20km走とか30km走とかを予め行う必要があるのではと思いますし、なにより、ベルリン・マラソンの当日まで、パウルはベッドに拘束されていたのですから!
 劇場用パンフレットに掲載されたインタビュー記事で、監督は、「脚本の制作が進むにつれ、ドラマチックな要素を強め、アレンジを加えていきました」と述べていますが、ここらあたりのことを踏まえているのではと思います。

(注7)ただ、この記事によれば、先に開催された東京マラソンで、90歳の阿南さんが完走したとのこと。映画のようなお話もあながち夢物語ではなさそうです(むしろ、阿南さんを映すドキュメンタリー映画が考えられるのではないでしょうか)!
 なお、阿南さんがかかった時間は6時間45分で、ベルリン・マラソンの制限時間の6時間15分を超えているので(この記事)、阿南さんが同マラソンに出場した場合には完走できないことになってしまいます(ちなみに、東京マラソンの制限時間は7時間)。

(注8)と言っても、医師は常駐しておらず、常駐するのは看護師と介護士です。

(注9)マギー・スミスは、現在80歳で、NHK総合TVで放映されている海外ドラマ『ダウントン・アビー』でも活躍中です。



★★★☆☆☆



象のロケット:陽だまりハウスでマラソンを
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妻への家路

2015年03月27日 | 洋画(15年)
 中国映画『妻への家路』を日比谷のTOHOシネマズシャンテで見ました。

(1)評判がいいのを耳にして映画館(注1)に行ってきました。

 本作(注2)の舞台は、1974年のある都市。
 先ずは、線路脇で眠るホームレス風の男。実は、西域にある強制労働所から逃亡してきたルー・イエンシーチェン・ダオミン)なのです。
 次いで、舞踏学校で革命的なバレーを皆に混じって練習するタンタンチャン・ホエウェン)の姿。先生から、「来月は主役を決めます」と言われます。

 その次のシーンは、党が入っている建物の一室でしょうか、母親フォン・ワンイーコン・リー)と娘のタンタンが椅子に座っていると、男が「党から通達がある、ルーの件だ。あの右翼が隙を突いて逃亡した。絶対に会ってはならん。匿えば大変なことになる。娘のためにもよく考えろ」と言います。
 タンタンの方は、「党の指示に従います」と言うのですが、ワンイーは、娘に促されてしぶしぶ「はい」と答えます。

 夜になると、イエンシーは密かに屋根伝いからアパートの自宅に近づき、ドアをノックするのですが、そして中にいるワンイーはそれが夫であることに気付くものの、ドアは開けられず、仕方なくイエンシーは「明朝8時に駅で待つ」と雑紙に書いてドアの下から投げ入れます。

 翌朝、ワンイーはいろいろな荷物を持って駅に行くのですが、会う前に夫は追手に捕まってしまいます(注3)。

 次いで舞台はその3年後の1977年。文化大革命が終結して、20年も西域の強制労働所に送られていたイエンシーが故郷に戻ってきます。
 ですが、出迎えたのは、一人娘のタンタンだけ。



 愛するワンイーの姿がありません。
 実は、3年前の出来事が引き金になって、ワンイーの記憶からイエンシーの姿が消えてしまっていたのです。
 さあ、イエンシーはどうするのでしょうか、………?

 中国の反右派闘争で西域に送られた人々の実に厳しい状況は『無言歌』で詳細に描かれていましたが、本作はその後日譚といった趣があります。ですが、本作からは、政治的な意味合いがあまり感じられず(無論、見る人が見れば逆かもしれませんが)、むしろ、夫婦愛の物語といえるのではと思います。それも、妻が夫を識別できないことによって、かえって二人の愛が強められている感じがして感動的です。

(2)こうした作品は、素直に見て感動すればそれだけで十分と思いますが、ひねくれ者のクマネズミはつまらないことにコダワリたくなってしまいます。
 例えば、1977年にイエンシーは50歳過ぎ、ワンイーは45歳位ではないかと推測されますが、どのようにして収入を得ているのでしょうか?あるいは、イエンシーは元の大学教授に復職したのかもしれませんが、何も働いていなさそうに見えるワンイーの方はどうやって生活しているのでしょう(注4)?

 また、『無言歌』で描かれるような場所で20年も暮らしていたら、主人公のイエンシーの方こそ、必ずや心身ともにボロボロになってしまっていると思われるところ、故郷に戻ってきた彼は、逃亡事件を引き起こした3年前とそれほど変わらず、いたって普通の感じです。



 尤も、3年前には妻ワンイーは夫イエンシーと会えなかったわけで(注5)、1977年の再会は別れてから20年ぶりとなり、彼女が夫の顔を判別できなかったのも無理はないかもしれません。
 でも、強制労働所に送られる前と比べて、外見は老けこんでいるとしても、それほど変わってはいないのではないかという感じを観客の方では受けてしまいます(注6)。
 そんなこともあり、本作では、3年前の事件をキッカケにワンイーが心因性記憶障害となって(注7)、夫を識別できなくなったとしているのでしょう。

 とはいえ、心因性記憶障害だとしても、ワンイーは夫のすべてを忘れてしまったのではなく、友人の家にたまたま残っていた古い写真を見せると、夫を識別できるのです。



 また、イエンシーが強制労働所で書き貯めた手紙を読むと、ワンイーは大変な興味を示します。夫が西域に送られていることもよくわかっています。
 それと、3年前の事件がキッカケだとしても、その際に大きな役割を果たした娘のタンタンについては、ワンイーは十分に識別できていて、なおかつその時タンタンがしたことを今でも許していないのです(注8)。どうして夫のイエンシーだけ認識できなくなってしまったのでしょう?

 ここで注目されるのが、イエンシーをワンイーが「ファン(方)さん」だと言い張る点です。
 ファンとは、逃亡の罪による銃殺刑から夫が逃れることができるように懇願した相手(党の幹部なのでしょう)とのこと。
 なんだか、その見返りとしてワンイーはファンと関係を持たされてしまい(注9)、イエンシーが家に戻ると関係が明るみに出てしまうおそれがあるために、心因性記憶障害になってしまったのではとも思えるところです(注10)。
 仮にそうだとしたら、イエンシーが頼った医者が言う治療法(注11)よりも、むしろ過去のトラウマに面と向かうような方法(例えば精神分析のような)の方が、ひょっとしたら記憶を取り戻せるかもしれません。

 とは言うものの、毎月5日になると、夫の名前(陸焉識)を墨でしたためたプラカードを持って駅の陸橋のところまで行って(注12)、夫の帰りを待つという儀式を行うワンイーの感動的な姿からすれば、それらの細々とした事柄などどうでもいいでしょう。

(3)渡まち子氏は、「文化大革命を背景に切ない夫婦愛を描くヒューマンドラマ「妻への家路」。静かな作品だがイーモウとリーの黄金コンビで珠玉の出来栄え」として65点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「社会的な告発よりもメロドラマ的な展開のうまさのほうがつよいが、チャン・イーモウ作品らしい、あきらめずにつよく生きていく人間像が感動をよぶ」として★4つを付けています。
 小梶勝男氏は、「政治的に微妙な題材を扱って、実に映画的な作品に仕上げたイーモウ監督の力量に圧倒された」と述べています。
 秋山登氏は、「この作品を深いところで支えているのは、文革のせいで、あたら青春を空費したチャン監督の怨念に相違なかろう。すなわち、真の主題は中国現代史の暗部の告発にほかなるまい。これはまた中国社会の現状批判でもあろうか。「待つ」ことの意味は深い。ここには、粛然たる感動がある」と述べています。



(注1)この新聞記事によれば、「シャンテ」は2018年には閉鎖されるようで、その名前が消えてしまうのは寂しい限りです。

(注2)原作はゲリン・ヤンの『妻への家路』(角川書店)。原作は未読ながら、このサイトの記事が参考となるように思います。
 監督は、『初恋のきた道』(2000年)のチャン・イーモウ
 原題は「帰来」、英題は「COMING HOME」。

(注3)実は、アパートの階段でタンタンはイエンシーに遭遇し、彼から「明朝8時に駅にきてくれ」という母への伝言を言付かっており、母からは「今回だけは父さんのことを考えて」と懇願されていたのですが、アパートを見張る党の者に父のことを密告してしまうのです。

(注4)あるいは、紡績工場で働く娘のタンタンが仕送りしているのかもしれませんが(なお、下記「注7」を参照)。

(注5)指定された陸橋で、ワンイーは、遠くからイエンシーの姿を認めることができたにせよ。

(注6)何しろ、3歳の時に別れたままのタンタンが、逃亡してきたイエンシーと階段で遭遇した時に、すぐさま父親だとわかったくらいなのですから。

(注7)ワンイーは、イエンシーを追いかけている時に陸橋で転倒し、頭から出血しています。あるいは、それが原因なのかなとも考えましたが。
 なお、ワンイーの自宅に入ると、いろいろな指示事項が紙に書いて貼ってあります。
 まるで、『博士の愛した数式』(2006年)における博士(寺尾聰)のように、一定時間経過すると記憶が消えてしまう障害にかかっている感じです(それとも、ワンイーはまだそれほど老けてはいないと思われますが、認知症にでもかかっているのでしょうか?)。

(注8)上記「注3」で触れた密告をワンイーは許さず、タンタンを家から追い出したため、彼女は街の紡績工場の寮で暮らしています。

(注9)ある時、寝室で寝ているワンイーにイエンシーが近づくと、気が付いたワンイーが「出て行け!」と狂乱状態になります。タンタンに事情を聞いたイエンシーは、お玉を持ってファンの自宅まで出かけていきます(ファンがお玉で母親を殴っていたとのこと)。しかし、家の者から、ファンが当局に逮捕されて家にいないことを聞いたイエンシーは、復讐を諦めてその家を後にします。

(注10)ワンイーは、潜在的には、帰ってこない夫を待ち続ける貞淑な妻という役割をいつまでも演じ続けていたいのではないでしょうか?

(注11)医者が「デジャヴ」の活用を勧めるので、イエンシーは、昔の写真を見せたり、思い出の曲をピアノで弾いてみたりします。

(注12)ただ、毎月5日にワンイーが駅に出迎えに行くというのも、イエンシーが「5日に帰る」という手紙を新たに書いてワンイーに見せたからです。 だったら、もう一度イエンシーが「もうここに戻っている」という手紙を書いてワンイーに見せれば、駅への出迎え自体はしなくなるように思えるのですが。



★★★☆☆☆



象のロケット:妻への家路
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イミテーション・ゲーム

2015年03月24日 | 洋画(15年)
 『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作(注1)が2014年のアカデミー賞作品賞にノミネートされた作品ということから(注2)、映画館に行ってみました。

 映画の冒頭では、「1951年 英国 マンチェスター」との字幕が出た後、アラン・チューリングベネディクト・カンバーバッチ)が、警察の取調室の中に置かれた机の前に座っている姿が映し出されます。
 そこに、取り調べをするためにノック刑事(ロリー・キニア)が入ってきて、チューリングの前に座ります。

 すると、場面は暗転してチューリングの声が聞こえてきます。
 「ちゃんと聞くか?注意を払ってないと、大事なことを聞き逃してしまうだろう。繰り返さない。君に主導権があると思うだろうが、主導権は私にある。君たちが知らないことを私が知っているから」。
 この声が聞こえているシーンの背景として、チューリングの自宅の模様が映しだされます。どうやら家宅侵入騒ぎがあったようで、警官が本部に「窓が割られ、室内は物色。刑事を寄こして欲しい」などと報告しています。

 チューリングの声が続きます。
 「約束して欲しい、注意して聞き、途中で私を批判しないこと。ここに残るなら、それは君が決めること。これから起きることは、私の責任ではなく、君の責任だ」
 この声の際には、一方で、「英国情報局 秘密情報部(MI-6)本部」にいるミンギスマーク・ストロング)の元に、「アラン・チューリング宅で盗難」との情報が入る映像が映しだされます。
 他方で、ノック刑事がケンブリッジ教授のチューリングの自宅に入っていきます。
 ノック刑事が「被害は?」と尋ねると、そばの警官が「何も盗まれていなようです」と答え、さらに「どうしてマンチェスターに?」と訊くと、「マシンの研究だとか」と応じます。
 さらに彼が家の中に入って行くと、しゃがみこんだチューリングがいます。
 ノック刑事が「昨夜盗難があったとか?」と尋ねると、彼は「下がっていろ、青酸カリだ」と言い、さらに「もっと上の人間が来ると思っていた。帰ってくれ」と答えます。



 追い返された家の外で、ノック刑事は「盗まれたことを認めない謎の教授。彼は何か隠している」とつぶやきます(注3)。

 ここから時点は1939年に飛び、チューリングの回想が始まります。
 さあ、チューリングにはどんな秘密があるのでしょうか………?

 色々なところで言及されることの多いチューリング・テストで知られるアラン・チューリングですが、先の大戦中にナチス・ドイツが使っていた暗号機エニグマが生み出す暗号の解読作業に従事していたとは知りませんでした。本作は、そのことを中心にチューリングの半生を実話に基づきながら映画化したもので、描き出される数々のエピソードは実に興味深いものがあります。ただ、彼が実際にどのような機構のマシンを作り出して解読したのかなどについては解説されないので、今ひとつ乗りきれないものがありました(注4)。

(2)上記(1)に記した本作の冒頭場面は、チューリングが同性愛行為によって逮捕される直前の出来事に関するものです(注5)。
 警察の取調室におけるチューリングの話は、ラスト近くの同じ取調室のシーンにつながります(注6)。
 チューリングの回想を聞いたノック刑事が「信じがたい話」だと言うと、彼は「判定を教えてくれ。私は何だ?マシンか人間か?戦争の英雄か犯罪者か?」と尋ね、ノック刑事が「私には判定できない」と答えると、チューリングは、「なら、君は私の助けにならない」と告げます。

 ここでチューリングがノック刑事に発する質問「私は何だ?マシンか人間か?」は、有名なチューリング・テストと同様のものです(注7)。
 そんなところから、映画全体の枠組みがチューリング・テストによっているように思われ、ひいてはなぜ「イミテーション・ゲーム」というタイトルが使われているのかがわかろうというものです(注8)。
 ただ、本作では、チューリングがノック刑事相手に一人でしゃべっているわけで、マシンか人間かを判定してくれと言っても、答えはわかりきっているように思われます(注9)。

 本作には、この他にチューリングと女性数学者のジョーン・クラークキーラ・ナイトレイ)との関係とか、ドイツ・ナチスの暗号機エニグマの作る暗号の解読など様々のエピソードが散りばめられていますが、クマネズミにはやはり上記のチューリング・テスト的なエピソードの描き方に興味を覚えました。
 それで、監督が「僕らはこの映画が一つのパズルになるようにしたかったんだ」と言っていることでもあり(注10)、それなら拙エントリ自体をチューリング・テスト形式にしてみたら面白いのではと思いました。
 ですが、そんなことは、大層素敵なブログ「detoured」のエントリ「イミテーション・ゲーム」においてとても真似することのできない高いレベルで行われてしまっていました!

 なお、本作では、エニグマの作る暗号の解読作業が中心的に描かれているものの(注11)、エニグマがどういう原理で解読不可能とされる暗号を生み出すことができるのか(注12)、そしてチューリングが開発したマシン(クリストファ:実際にはボンブ)によって(注13)、どうしてそれを解読できるのか、あの部品がくるくる回るマシンはどのような働きをするのか、などについてほとんど説明されないので(注14)、イマイチの感が否めません。
 尤も、そんなことを説明し出したらとても映画にはならないでしょうが!

(3)渡まち子氏は、「エニグマ解読に挑んだ天才数学者の苦悩を描く「イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密」。3つの時代が同時進行する脚本が緻密で見事」として80点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「本格ミステリー調のドラマ展開に魅了されながら、カンバーバッチの深い洞察力を感じる繊細な演技に胸が締めつけられる思いを味わった」として★4つ(見逃せない)を付けています。
 相木悟氏は、「人間社会の業に圧殺された少数派の成すスケールの大きい貢献、葛藤を描いた感動作であった」と述べています。
 小梶勝男氏は、「時代にのみ込まれた天才の悲劇を、絶妙の語り口で、くっきりと浮かび上がらせた」と述べています。
 藤原帰一氏は、「文章にまとめるだけで気が抜けるような筋書きですけど、それがちゃんと映画になった。理由はたったひとつ、主演のベネディクト・カンバーバッチです」と述べています。



(注1)原作は、アンドルー・ホッジス著『エニグマ アラン・チューリング伝』(勁草書房:未読)。
 監督はノルウェーのモルテン・ティルドゥム、脚本は作家のグレアム・ムーア

(注2)アカデミー賞脚色賞を受賞しました。

(注3)以上は、このサイトに掲載されている冒頭映像に依っています。

(注4)俳優陣のうち、ベネディクト・カンバーバッチは、『8月の家族たち』や『それでも夜は明ける』、『アメイジング・グレイス』で、キーラ・ナイトレイは、『はじまりのうた』や『わたしを離さないで』などで見ています。また、マーク・ストロングは『善き人』や『キック・アス』などで見ています。



(注5)ノック刑事が、チューリングのことをあれこれ調査するものの、彼の軍歴などはすべて機密事項となっていて何一つわからず、男娼の客であることだけが判明して、チューリングは逮捕されてしまいます。

(注6)映画の中程では次のような会話がありました。
ノック刑事「マシンは思考しますか?」
チューリング「マシンは人間のように考えたりしない。違うように考えるのだ。人は思考に違いがある。なぜか。それぞれの脳が違うように働くからだ。マシンについても同じだ。マシンか人間かテストするか?」
ノック刑事「戦争中は何をしていたのか?」
チューリング「無線機器製造所にいた。………」。

(注7)例えば、戸田山和久氏の『哲学入門』(ちくま新書)には、次のように書かれています(P.38~P.40)。
 「チューリングは1950年に、機械が知性をもちうるか(オリジナルな問は、機械は考えられるか)、もちうるとしたらそれをどのように判定すればよいかを考えるために、あるゲームを考案し、それを「モノマネ・ゲーム(imitation game)」と呼んだ。いまではそれは「チューリング・テスト」という名前で通っている」。
 「そのゲームは次のようなものだ。二人の人間A、Bと機械を用意する。二人の前には、ディスプレイとキーボードからなる端末がそれぞれ置かれている。Aは審判役をつとめる。Aの端末はBの端末か、もしくは機械と接続している。だがAには、自分の端末が接続している相手がどちらかは見えない。Aは端末を通じてBか機械かのどちらかと会話を行う」。
 「Aは会話の内容だけを便りに自分の話し相手がどっち(機械か人間か)なのかを当てなければならない。このゲームで、Aがかなりの率で機械の方を人間と判定するならば、機械は知能を持っていると言ってよい」。

(注8)Wikipediaの本作に関する項の「タイトル」を参照。
 エニグマによる暗号を解読することだけが描かれているのであれば、「イミテーション・ゲーム(原題は「The Imitation Game」)」というタイトルを付ける意味合いがうまく理解できないところです。
 尤も、例えば、開発するマシンに昔の親友の名前を付けるということが、ある意味でイミテーションなのかもしれませんし、またエニグマが解読された後も、あたかも解読できていないように連合国が装ってドイツ軍を騙したことがイミテーション・ゲームと言えるかもしれません。それに、チューリングがジョーン・クラークと婚約したことも偽装と言えないこともないでしょう(ただ、その後婚約を解消しますが)。

(注9)ただ、「戦争の英雄か犯罪者か?」については、ノック刑事は、チューリングの話以外に客観的な情報を何も持ち合わせていないのですから、「判定できません」と答えるのも当然でしょう。

(注10)劇場用パンフレット掲載の「インタビュー」。

(注11)暗号解読チームを監督する海軍・デニストン中佐(チャールズ・ダンス)とチューリングとの確執、秘密情報部MI-6のスチュアート・ミンギス(マーク・ストロング)との関係など、なかなか興味深いものがあります。

(注12)Wikipediaの「エニグマ」の説明をクマネズミが理解できればいいのでしょう!

(注13)ブレッチリー・パーク内の研究所においてチューリングは「クリストファー」の開発に没頭しますが、その姿はとても「天才数学者」とは思えず、単なるエンジニアにしか見えません(総じて、本作におけるチューリングの姿から「数学者」は思い浮かびません。尤も、「数学者」が一般にどんな格好をしているのか、門外漢にはさっぱりわからないのですが!)。

(注14)他には、例えば、本作のラストで、チューリングは約1,400万人もの命を救ったとされていますが、具体的にどのような暗号を解読してそれをどのように使うことによってそんなにも沢山の人命を救うことができたのか、実行された作戦の一端でも明らかにしてくれたらなと思いました(尤も、当時の暗号解読作業にかかる情報は、大部分が現在でも機密事項なのかもしれません)。



★★★☆☆☆



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幕が上がる

2015年03月21日 | 邦画(15年)
 『幕が上がる』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)一昨年見た邦画の中でベストと思えるドキュメンタリー映画『演劇1,2』の主役の平田オリザ氏が書いた小説の実写化というので、映画館に行ってきました。

 本作(注1)は、「ももいろクローバーZ」(注2)のメンバーが、高校演劇部の部長や部員に扮して、美術の吉岡先生(黒木華)の指導のもと、全国大会を目指して頑張るという作品です。

 映画の舞台はまず10月、使い終わった舞台装置や台本などを、学校のそばの河原でドラム缶に入れて燃やしている高2の女子生徒・高橋さおり百田夏菜子)の姿が映しだされます。



 そこに仲間のユッコ玉井詩織)や、がるる高城れに)が。



 それに顧問の溝口先生(ムロツヨシ)が集まってきて、皆がその作業を手伝います。
 中の一人が「終わったね」と言うと、別の生徒が「私たちの1年が唐突に終わった」と応じ、でも先生は、「負けたと思ってはいかん。しょうがない、色々見方があるんだから」と言います(注3)。
 さらに、生徒が「次の部長はさおりで良い」と言うと、先生も「部長は高橋、お前しかいない。頑張れよ」と応じます。

 次いで、さおりの「高校演劇は厳しい。1年にたったの1回、夏から準備してきて秋に1回だけ」というナレーションが入って(注4)、さおりたちの演劇部は次に向けて動き出します(注5)。
 果たして彼らは、地区大会等を超え全国大会まで出場できるでしょうか、………?

 平田オリザ氏が関係しなければ、お定まりのアイドル映画ということでわざわざ映画館に足を運びませんでしたが、実際に見てみると、黒木華のさすが本職と思わせる演技力や、ももクロのメンバー各自の頑張りによって、アイドルたちが単に画面をキャーキャー走り回るのではない、まずまずの作品に仕上がっています。

(2)平田オリザ氏による原作と比べてみると(注6)、原作の高校は北関東にある男女共学の学校で、演劇部にも男子生徒がいるのですが、本作の高校は静岡県立で、演劇部には女子生徒しかおりません(県立高校なら男女共学でしょうから、女子の多い高校ということなのでしょうか?)。
 そのためでしょう、原作ではプロローグから描かれる男子生徒との恋愛関係(注7)は、本作では全く登場しません。
 こうするのも、原作で重点が置かれている演劇の方に焦点を当てるためかと思えるのですが、ただ、本作では、原作の骨格をなしていると思われる平田オリザ氏の独自の演劇理論は背景に引っ込んでしまっています。
 勿論、原作と同じように部長のさおりが書いた『銀河鉄道の夜』を引っさげて(注8)、映画の演劇部も地区大会に臨みます。とはいえ、映画では、肝心の稽古の様子が十分に描かれないままに(注9)、地区大会やブロック大会での上演の模様が描かれています。

 とは言うものの、本作では、ももクロのメンバーがそれぞれ思いっきり登場人物にぶつかって演じ切ることが主眼でしょうし、その熱気を画面から十分に観客は感じ取ることができますから、演劇理論の方はどうでもいいことでしょう。

 なお、見たばかりの『ソロモンの偽証(前編・事件)』では、中学生が学校内裁判を行う様子を描く作品ですが、裁判も演劇と類似しているのではないかという感じがしますし(裁判では、裁判官、検事などの役割を各自が演じているのでしょうから)、そうであるなら『ソロモンの偽証』も高校生の物語にする方がスッキリするのでは、とも思いました。

(3)渡まち子氏は、「青春映画なのに、恋愛要素をバッサリと切り捨てたのも潔いというものだ。気迫あふれる、演劇部副顧問・吉岡先生役の黒木華のメリハリの効いた演技が特にいい。アイドル映画とバカにしてはいけない。この作品、なかなかの拾い物だ」として65点を付けています。



(注1)原作は、平田オリザ著『幕が上がる』(講談社文庫)。
 監督は、『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』の本広克行
 脚本は、『桐島、部活やめるってよ』の喜安浩平

 なお、平田オリザ氏自身の脚本による舞台版が5月に上演される予定となっています(この記事)。演出は、映画と同じ本広克行で、出演はももクロ他。

(注2)ももクロは、映画『悪夢ちゃん』で、中島みゆき作詞・作曲の「泣いてもいいよ」を歌っていました。同作に関する拙エントリの「注3」をご覧ください。

(注3)さおりたちが2年生の年の10月に開催された地区大会では、彼女たちの演劇部は上位3位までに食い込めず優良賞どまりで、その上の県大会には行けませんでした。

(注4)高校演劇の場合、10月に地区大会、11月に県大会、次いでブロック大会が行われ、全国大会は翌年度の8月に開催されるようです(劇場用パンフレット掲載の「STORY」より)。ただし、このサイトの記事によれば、ブロック大会は、11月から翌年の1月の間に行われています。

(注5)富士ヶ丘高校の演劇部には、部長のさおり、副部長のユッコ、それにがるるがいますが、その他に、転校生の中西有安杏果)や2年生の明美佐々木彩夏)もいます。



 なお、映画では、原作の孝史先輩の代わりに杉田先輩(秋月成美)が登場するのですが、なぜか彼女のことは、それを演じる秋月成美を含めて劇場用パンフレットには何の記載もありません。

(注6)原作と本作の違いは、本文で書き記したもののほかにもイロイロあります。
 例えば、本作では、4月の新歓オリエンテーションで『ロメオとジュリエット』をやって全然受けなかった様子が描かれているところ、原作では、ガルルのダンスとわび助による『ワーニャ伯父さん』の朗読とを組み合わせたものを上演して、会場から拍手をもらっています。
 また、原作では、宮沢賢治の詩『告別』が吉岡先生からさおりへの手紙の中で引用されているのに対し、本作では国語の滝田先生(志賀廣太郎)の授業の中で使われています。そうすることによって、その詩の持つ意味合いがかなり違ってしまいます(ちなみに、この詩は映画『モンスターズクラブ』でも取り上げられました)。
 さらに、滝田先生は谷川俊太郎氏の『二十億光年の孤独』を授業で読みますが、原作では、その詩についての先生の言葉が大きなヒントになってさおりは『銀河鉄道の夜』のラストシーンを修正して県大会に臨むのですが、本作ではそのようになっておりません。

 でも、映画は原作とは別物ですから、様々な違いがあっても当然で、そのこと自体は問題ではないと思います。

(注7)原作のプロローグでは、3年生の孝史先輩(台本を書いて演出もする)にユッコが告る話が書かれています(ただ、次の「一、新生演劇部」では、ユッコは孝史先輩に振られてしまい、むしろ彼はさおりの方に好意を抱いていることが書かれています)。
 また、エピローグでは、さおりと後輩のわび助との仲を皆にいじられる様子が書かれたりしています。
 共学の高校ですから「コイバナ」はいくつもあるのでしょうが、原作でも、中心的な部分では「コイバナ」はほとんど展開されていませんから、本作のような取り扱い方も頷けるところです。

(注8)高校演劇の場合は既存の戯曲(専門の劇作家など大人が書いたもの)を使うのではないか、高校生が戯曲を自作して上演してもうまくいくのだろうか、と思いましたが、原作の吉岡先生は、「誰でもよく知っている話で、それこそ『ロミ・ジュリ』とかね、そういう話を元にして、モチーフとかをパロディにして、あとを全部、あて書きで書いていくの」、「このやり方の強みは、中核になるよく知られている物語があるから、観客にはあんまり物語を説明しなくてもいいこと。あとは、みんながアイデアを考えてきて、それを高橋さんがまとめていきます」と言うのです(文庫版P.97~P.98)。なるほど、これならうまくいく可能性があるのでは、と思いました。

 なお、原作では、さおりが吉岡先生に「『銀河鉄道の夜』にしようと思います」とのメールをいきなり送信するところが描かれますが(文庫版P.135)、本作では、国語の滝田先生が、授業で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を使うシーンが描かれます。こうした方が、観客としてはスムーズに受け入れることができるでしょう。

(注9)原作の次の場面などは、平田オリザ氏の面目躍如といった感じではないでしょうか(最初に触れた『演劇1、2』の中で、平田オリザ氏は、「台詞と台詞の間、0.3秒長くして」とか、「あと1歩奥に入って」、「こういうグラデーションで」などといった感じでダメ出しを行います」)?
 「ジョバンニの方にふり返って、カンパネルラが微笑みかけてクルミを鳴らす。ふり返るタイミングが少し早いように思えた。「カンパネルラ、少しふり返るタイミングを遅らせて」………「汽笛、もっと早いタイミングで。カチカチの二度目の終わりくらいに」」(文庫版P.208)。

 尤も、「momocloTV」の『ももクロ初夢ほぼ24時間SP “一富士二タカさんはなすび♡”』で流された「劇中劇銀河鉄道の夜 02.28」(本広克行監督によって編集された特別映像で、舞台で上演された「銀河鉄道の夜」と、その稽古の模様が交互に映しだされます)で見ると、実際にはかなり原作に近いところまでやっているのだなと分かります(その映像は、こちらで見ることができます)。ただ、編集の段階でそれらの映像はかなりカットされて本作が出来上がっています。



★★★☆☆☆



象のロケット:幕が上がる
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ソロモンの偽証(前篇・事件)

2015年03月19日 | 邦画(15年)
 『ソロモンの偽証(前篇・事件)』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)宮部みゆき氏の原作の映画化だということで映画館に出向きました。

 本作(注1)の冒頭の時点は現在で、大勢の生徒が校庭で運動をしている中学校の校門の前に、女性(尾野真千子)が立ち止まる姿が映し出されます。
 彼女は、通用門の方に回って中に入り、咲いている桜の木を見上げた後、校長室に行きます。
 校長室では、彼女が「卒業して以来23年ぶり、お世話になります」と挨拶すると、校長(余貴美子)が、「中原先生、いや藤野さん、過去の伝説を後に伝えるのが校長の使命。丸ごと全部話してください」と言います。



 それで、中原(旧姓藤野)は、「ちょうど、腐りかけた果物みたいにバブルがはじけようとしていた時でした」と語り始めます。

 場面が変わって1990年12月25日。
 前夜からの雪でホワイトクリスマスの朝。
 中学2年静の藤野藤野涼子)の家では、刑事の父親(佐々木蔵之介)が帰宅するのと入れ違いに、涼子が学校に出かけます。
 途中で、同じクラスの野田前田航基)と合流、一緒に行くことに。
 藤野が「野田君は何か動物を飼っているの?」と訊くと、野田は「この間カラスを」と答えたりします。二人は、中学で飼っているウサギの世話をするために、朝早く学校に向かっているのです。
 校門の前に来ると雪かきをしている人がいたので、通用門に向かいますが、そこが閉まっているために、よじ登って二人は学校の中に入ります。
 すると、雪の中から手のようなものが出ているのを見つけ、二人はそばの雪を掻き出します。
 なんと見えてきたのは、クラスメートの也(望月歩)の顔面!



 中学生の死体が校庭で見つかったことについて、警察と学校側は、屋上からの飛び降り自殺ということで処理します。
 ですが、これは殺人事件であり、3人の生徒がやったのだという匿名の告発状がアチコチに届けられます。
 さあ、一体どんなことになるのでしょうか、………?

 年末の学校で起きた事件を巡っていろいろの人間が関与していることが次第に明らかになってきて、緊迫感が大きく盛り上げられ、さあこれからというところで『前篇・事件』が終了してしまうので、宙吊り状態で留め置かれ早く何とかしてくれという感じになりますが、『後篇・裁判』が公開されるまで(4月11日公開)、原作本は勿論のこと予告編などの情報は一切遮断しつつ(劇場用パンフレットや、本作をレビューしているブログは別として)、いったい事件の真相はどうなのかいろいろ考えてみる楽しみが与えられました。

(2)本作はサスペンス作品ですから、とにかく、上で申し上げた以上に細かな筋立てを明かすことは、できるだけ避けた方がいいように思われます。
 それで、『後篇・裁判』の公開までのイライラを少しでも減らそうと、本作の公式サイトの最初のページに掲げられている写真で、ひとつ簡単な遊び(誰でも思いつきそうな)をしてみることといたしましょう。

 その写真には、本作の事件に関与する中学生たちが、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』を模して一堂に会しています。
 それは本作のポスターに掲載されている写真でもあり(劇場用パンフレットの最初のページでも)、例えばこのサイトの記事では、ダ・ヴィンチの絵に描かれている使徒と本作の登場人物との関係が述べられています。
 でも、そこではユダについては触れられていません。
 本作の一番のキャッチコピーが「嘘つきは、大人のはじまり。」となっているのですから、この写真からユダに該当する登場人物を探し出してみたくなってしまいます。というのも、写真が『最後の晩餐』を踏まえているとしたら、その人物が真犯人だとはいえないにせよ、少なくとも何らかの嘘をついている可能性があり、その人物を巡って真相が明らかになると推測されるからですが。
 そして、例えばこのサイトの記事によれば、中央のイエスの向かって左側に「ユダ、ペテロ、ヨハネ、(イエス)」が順に座っているとのこと。それをポスターの写真に当てはめてみると、どうやら倉田まり子西畑澪花)がユダに該当すると考えられます(注2)。



 と言っても、それが判明したからといって、『前篇・事件』における倉田まり子は、藤野の友達であり、彼女を単にサポートするだけですから、事件のことについては何一つわからないままなのですが、…(注3)。

 加えて、本作のタイトルは「ソロモンの“偽証”」であり、単なる“嘘”ではなくて、法廷における「虚偽の陳述」(この記事)こそが問題になると考えられます。だとしたら、ダ・ヴィンチの絵で描かれているのは法廷の場面ではありませんから(それに、『前篇・事件』では肝心の裁判は未だ始まっていないのですから)、ここで申し上げたことはすべて意味のないことでしょう(単に、映画のPR活動にクマネズミが踊らされているだけのこと?)!

(3)ところで、話を真面目路線に戻すと、映画で描かれるのが中学生の殺人事件なので、間近にあった川崎中1殺害事件(2月20日)を思い出してしまい(注4)、随分のリアリティを感じざるを得ません。
 とはいえ、本作の主な舞台は、現在から20年以上も前の1990年~1991年。なぜ、それほど以前の設定になっているのでしょう(注5)?
 また、その頃は未だ裁判員制度導入前なのに(同制度は2009年から実施)、どうして陪審員による裁判が皆にすんなり受け入れられてしまうのでしょうか(注6)?
 そもそも、中学生のレベルで、裁判というシステムについてどのくらい知識があるのでしょうか(注7)?

 ですが、本作についていろいろ疑問の点が湧いてくるとしても(注8)、すべて『後篇・裁判』を見た上で検討すべき事柄でしょう。
 とにかく、それを早く見せてもらわなければ話になりません!

(4)渡まち子氏は、「中学生たちが自ら校内裁判を開き隠された真実を暴こうとする姿を描くサスペンス「ソロモンの偽証 前篇・事件」。前篇は導入部ながらドラマも見ごたえ十分」として70点を付けています。
 前田有一氏は、「映画を見ると、スタッフおよび既読者にとって当たり前の謎が、未読者には全く伝わっていない。これは大きな問題である」として55点しか付けていません(注9)。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「何よりこの映画の力となっているのは、反乱を起こす子供たちだ」が、「そこには社会と切り結ぶ意志と、それを体現する少年少女のしなやかな身体が欠かせない。成島出監督がフィルムで撮ったもの作品にはその両方がある」として★4つ(見逃せない)を付けています。
 相木悟氏は、「役者陣と製作陣の直球の熱意に圧倒される、実に観応えのある力作であった」と述べています。
 稲垣都々世氏は、「後篇ですべての謎が解き明かされるという構成だから、犯人捜しの興味をあおることはいくらでもできる。しかし、この前篇にはそんなあざとさが感じられな い。骨太な語り口と腰の据わった演出で、緊張感を持続させる。「つづく」で終わることにいら立つのでなく、ただ後篇を見たいと強く思った」と述べています。
 読売新聞の福永聖二氏は、「中学生という時期特有の苦悩や純粋さ、残酷さが絶妙に描かれている」と述べています。



(注1)原作は、宮部みゆき著『ソロモンの偽証』(新潮文庫:未読)。
 監督は、『ふしぎな岬の物語』や『草原の椅子』の成島出
 脚本は、『深夜食堂』(共同脚本)の真辺克彦

(注2)公式サイトに掲載の写真の人物にカーソルを置くと俳優名が示されます。

(注3)なお、本文で触れたサイトの記事によれば、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』では13人が描かれているのに対し、この写真では12人しか描かれておらず、「果たして存在しないのは誰なのか、そしてそこに込められた意図は何なのか」という疑問があるとのこと。劇場用パンフレットにおいて写真と経歴付きで紹介されている中学生キャストは12人しかいませんから、『後篇・裁判』では新たな中学生キャストに焦点が当てられるとも思えてきます。
 ちなみに、このサイトの記事によれば、ダ・ヴィンチ以前の画家が「最後の晩餐」を描く場合には、ユダは12人とは同列に描かれなかったとのこと。そうだとしたら、この写真に入っていない13番目の人物がユダに該当するということになるのかもしれません。

 また、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は、イエス・キリストが「あなた方のうちの一人が私を裏切る」といった瞬間を描いていますから、どうしてもユダに注目してしまいます。
 ですが、ユダは、イエス・キリストを裏切ったにしても、“嘘”をついたとはいえないかもしれません。
 むしろ、「最後の晩餐」で“嘘”をついたのは、あるいはペトロかもしれません。最後にイエス・キリストが「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うであろう」とペトロに告げた時、彼は、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったにもかかわらず、実際にはイエス・キリストの予言したとおりのことをやってしまうのですから。
 ただ、結果的には“嘘”となりましたが、イエス・キリストに向かって言った時は正直に自分の心に従ったはずですから、ほんとうの意味での“嘘”ではないかもしれません(ただ、「最後の晩餐」が終わった後、外で他の人から「あなたも仲間の一人だ」と言われた時には、「いや違う」とそれこそ“嘘”をつきましたが)。
 ともかく、仮にペトロが問題だとしたら、ポスターの写真で該当するのは野田(前田航基)でしょう。ですが、その場合には倉田まり子よりも情報量は多いとはいえ、事件の真相について何もわからないままであることに変わりありません。

(注4)伊東乾・東大准教授は、このサイトの記事において、川崎の事件につき、「歩いても10~20分、自転車なら数分程度のコンパクトな空間です。そんな「子供の小世界」が、大人の目の届かない、ある種のエアポケットになってしまったのではないか?あまりにも当たり前の街区の、あまりにも狭いエリアで、犯行から「証拠隠滅」までが閉じている。現地を歩いて感じたのは、むしろこの狭い「子供社会」の生活圏と、そこに張り巡らされた「ライン(LINE)」などの目に見えない情報ネットワーク、そしてそれらとむしろ社会的な距離を置いている「大人社会」との没交渉でした」と述べています。
 本作で引き起こされた事件との関連性は、その全貌が『後編・裁判』を見なければわからないのでさておきますが、事件の真相解明を「学校のことは私たちが一番わかっている」から「自分たちで調べる」とする藤野達の姿勢には、そうした「狭い「子供社会」の生活圏」といったものが伺えるのではと思いました。

(注5)Wikipediaの「1990年」というの「世相」には、「バブル景気最後の年である。翌年には土地バブルも崩壊し、平成不況へと突入していく」とありますが。

(注6)劇場用パンフレット掲載の「PRODUCTION NOTES」によれば、オーディションによって選ばれた中学生キャストたちは、「実在の裁判所に行って傍聴したり、『十二人の怒れる男』を観るなどして研究」したりしたとのこと。恐らく、そうでもしなければ裁判というシステムが実際にどんなものなのか、特に陪審員を設ける裁判について、当時も今も若い人たちはわからないのではないでしょうか?

(注7)劇場用パンフレット掲載の「BACKGROUND」によれば、「神戸高塚高校校門圧死事件」(1990年)について、各地の「高校や大学で、生徒たちが検察官や弁護人、証人などに分かれて模擬裁判が行われた」そうで、原作者の宮部みゆき氏は、これが物語のヒントになったと言っているとのこと。
 やはり、学校内裁判を開催するにしても、高校生以上が行うのであればすんなりと受け入れることができるように思います。
 とはいえ、劇場用パンフレットの「COLUMN」掲載のエッセイ「14歳―大人に取り込まれる前の、最後の砦」で金原由佳氏が、「その時期を通り抜けてきた者なら、14歳という年齢がいかに厄介だったか、容易に思い出せるだろう。親の口から発せられた何気ない一言が自分への不満や批判に聞こえ、学校の先生による一瞥がまるで尋問を受けているかのような冷ややかな眼差しに映る」云々と述べているのですが。

(注8)例えば、本作の公式サイトのタイトルの下部に「Fiat justitia, et pereat mundus」とありますが、どうしてこんなものが付けられているのでしょう?
 ネットで調べてみると、これはラテン語で、「たとえ世界が滅びようとも、正義は行われよ」(劇場用パンフレットの最初のページに掲げられています)の意味〔この記事を参照してください(また、カントがこの格言についてどのように述べているのかについては、この記事を参照〕。
 そうだとしたら、このラテン語の文章は、裁判(あるいは法)に関しての一般的な格言であって、本作の事件の真相追求に直接関係しないように思われるのですが?

(注9)確かに警察は、告発状の内容について、目撃者がなぜそんな時間にそこにいたのか、なぜ警察に連絡しなかったのか、など重大な疑義があり、虚偽だと判断しますが、それでも目撃者の方に何か特別な事情があったに違いないと考えてもおかしくありませんし、主役の藤野自身、警察の説明に納得していません。
 さらに、被害者と以前友達だった神原板垣瑞生)も、「柏木君はいじめられるタイプじゃない、夜中のノコノコ出かけるタイプでもない」と言うのです。
 従って、前田氏は、「(警察の)主張はたしかに筋が通っており、普通の人ならこれ(被害者の死)が自殺であると納得せざるを得ない」と言い切っていますが、一方的に過ぎるのではないでしょうか?



★★★★☆☆



象のロケット:ソロモンの偽証 前篇・事件
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悼む人

2015年03月17日 | 邦画(15年)
 『悼む人』を渋谷TOEIで見ました。

(1)天童荒太氏の直木賞受賞作を堤幸彦監督が実写化したというので映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭では、リュックサックを背負った主人公の静人高良健吾)が、山道や畦道を歩き、線路や道路の脇などで跪いて祈りを捧げる姿が映しだされます。



 次いで、一緒に連れて来た新人に、ある家の玄関のベルを押させている雑誌記者・蒔野椎名桔平)が、「もっと強く押すんだ、相手が出てくるまで」、「取り敢えず写真だけでも撮っておけ」などと怒鳴っているシーン。
 どうやら、家の前で、10歳の少年が6才の弟を車で轢き殺すという事件があったようです。
 蒔田は、女性記者に生々しい写真を撮らせようとしましたが、そんな嘘の写真は撮れないと彼女は拒否します。
 そんなところに静人が通りかかり、跪いて祈るものですから(注2)、蒔田は「くだらない宗教家だ」と言って立ち去ります。

 本作は、ここに登場する蒔田に焦点を当てた物語や、静人の“悼む”旅を追いかける女・倖世(石田ゆり子)を巡る物語、それに静人の母親で末期ガンとなって自宅療養している巡子大竹しのぶ)に関する物語が、静人の物語に絡まって展開されていきます。
 さあ、静人の旅はどのように続けられるのでしょうか、………?

 本作は、出演している俳優陣は皆熱心にそれぞれの役柄に取り組んで入るものの、そもそもどうしてこんなことが映画の題材になるのかクマネズミには最後まで理解できず、138分がとても長く感じられました(注3)。

(2)本作については、クマネズミは違和感しか覚えませんでした(注4)。
イ)まず、主人公の静人が各地で行う“悼む”儀式(注5)とは、一体何なんでしょう?
 静人に言わせれば、亡くなった人が生前どんな人に愛され、誰を愛したのか、どんなことをして人に感謝されていたかといったことを記憶にとどめるという行為だということですが、まずもって、日本人である静人があのような西洋人まがいの行為を死者に対して行うなど、とても受け入れられません(注6)。

 それに、例えば、2度目に会った雑誌記者・蒔野に、「君は、人が死んだ場所ばかり訪ね歩いているんだって、ルポでも書くの?」と尋ねられると、静人は「“悼ませていただいている”だけです。自分なりに悼むだけです」と答えますが、“悼ませていただく”とはいったい誰に許しを得るのでしょうか?“悼む”とは、誰かに許しを得て行う行為なのでしょうか(注7)?

 さらに、静人は、どんな基準で対象となる死者を選んでいるのでしょう?
 劇場用パンフレットの「STORY」では、「不慮の死を遂げた人々を悼む」とあります。それで、静人は、図書館などで新聞を調べて対象者をメモに記しているのでしょう(注8)。
 とはいえ、「不慮の死を遂げた人々」なら、世の中にゴマンといるはずです。その中から、どういった基準で静人は自分が“悼ませていただく”人を選び出しているのでしょうか(注9)?
 あるいはもしかしたら、“悼む”人が自分の他にいそうもないと思われる事件等を、静人は選び出しているのでしょうか?ですが、亡くなった人には、どんな人であれたいていは“悼む”人はいるものです(注10)。

 加えて、静人は「記憶にとどめる」と言いますが、実際には、所持するノートに見聞きしたことを書き留めているにすぎません。
 それだったら、すでに新聞に記録されていることとどんな違いがあるのでしょう?
 そして、世の中の人が新聞に書かれていることを忘れてしまうのと同じように、静人にしたって、ノートに記載したことをしばらくしたら忘れてしまうのではないでしょうか?

 総じて、静人の行為は、本人が「僕は病気なんですよ」と蒔野に言うように、病気とみなせるものではないかと思われます。それを本作は、随分と意味がある行為であるかのように描き出すものですから、浅はかなクマネズミは、どうしてそんなオカシナ病人に観客を付き合わせるのかと言いたくなってしまいます。

ロ)それに、映画では、夫・甲水井浦新)と妻・倖世や(注11)、倖世と主人公の静人との愛情関係が描かれるので、実際のところ本作はラブストーリーなのかな、それだったら、上で述べたようなことも物語の背景(あるいは設定)の一つとみなせばいいのかな、と思い始めたのですが、あにはからんや、ラストになると、男女の関係の方は投げ出されてしまい(注12)、母親・巡子と主人公らの家族関係が描き出されるのです。どうしようもありません。

 何も家族関係が描かれているからおかしいと言いたいのではありません。
 ただ、本作では、“悼む”相手の死者がいろいろ描かれている上に、さらに末期ガンに冒された母親の姿と、その娘・美汐貫地谷しほり)の出産話をわざわざ近接させて描き出し、これでもかとダメ出ししているように思われてなりません(注13)。

(3)渡まち子氏は、「見知らぬ人を悼む旅を続ける青年を通して生と死の意味を問う人間ドラマ「悼む人」。儀式のように繰り返す主人公の所作が美しい」として65点を付けています。



(注1)原作は、天童荒太著『悼む人』(文春文庫)。
 監督は、『くちづけ』の堤幸彦

(注2)静人は、祈りを捧げながら、「あなたは、ご両親やお兄さんに可愛がられていたと聞きました。あなたは皆に愛されていました。そんなあなたが確かに生きていたことを、私は覚えておきます」と言います。

(注3)俳優陣のうち、最近では、主演の高良健吾は『まほろ駅前狂騒曲』、相手役の石田ゆり子は『おとうと』、井浦新は『ふしぎな岬の物語』、貫地谷しほりは『バンクーバーの朝日』、 椎名桔平は『RETURN(ハードバージョン)』、大竹しのぶは『一枚のハガキ』で、それぞれ見ました。

(注4)堤幸彦監督の作品は、前回見た『くちづけ』のこともあり、基本的にクマネズミの生理に合わないのでしょう。
 ただ、本作は、『くちづけ』と同じように戯曲の実写化なのですが、舞台とされる山形(実際のロケ地は福島県)を静人が歩き回る姿が随分と出てくることもあって、『くちづけ』のようには“新劇臭さ”を感じませんでした。

(注5)原作において静人は、左膝を地面に着き、右手を上に挙げ、左手は地面に着くくらいまでに下げ、左右の手を胸の前で合わせ(右手は「空中に漂う何かを捕らえるようにして」、左手は「大地の息吹をすくうかのようにして」)、個人のことを悼みます(文庫版原作上P.12)。

(注6)原作において静人は、蒔野に「祈るときの姿勢には、どんな意味があるの」と訊かれ、「べつに意味はありません。あの形が、自分の悼みに合っているだけです。どうしてそう感じるのかよくわかりませんが、悼むことを始めたときには、自然とこの形をとっていたんです」と答えます(文庫版原作上P.57)。

(注7)“悼む”とは、元々「人の死を悲しみ嘆く」(このサイトの記事)だけのことであり、「亡くなった人が生前どんな人に愛され、誰を愛したのか、どんなことをして人に感謝されていたかといったことを記憶にとどめる」という静人の行為は酷く大袈裟過ぎる感じがしますが、まあ本人がそうしたいというのであれば、それはそれで構わないのかもしれません。
 なお、静人は「記憶にとどめる」ことを強調しますが、最近見た『きっと、星のせいじゃない。』に登場する青年ガスが、ガンを患っている青少年の集会「サポート・グループ」において、「不安は忘却だ」と発言していたことを思い出します(ヒロインのベイゼルとのやり取りについては、同作についての拙エントリの「注2」をご覧ください)。

(注8)原作において静人は、蒔野に対し、「悼ませていただく相手のことを知るのに、ラジオで毎晩ニュースを聞きます。図書館で雑誌も閲覧します。でも一番詳しく情報を得るのは新聞から」と言っています(文庫版原作上P.42)。

(注9)映画からは、静人がマスコミ等で目や耳にした事件の中から適当に次第に選び出しているとしか思えません。

(注10)例えば、3年前に17歳の少年・直紀が亡くなった現場に行って静人は“悼む”儀式を行いますが、そこにその少年の母親が現れ、「あなたが読んだ新聞の記事は捏造で、息子は知的障害児であり、いじめで殺されたのだ。直紀を殴った少年の親類に警察関係者がいて、記事が捏造された。こうしたことを恨んでください」と言います。
 これに対して静人は、「犯人を恨むことは僕にはできません。僕は、ご両親に愛されていた直紀君のことを覚えています」と答えるだけでした。
 こんなにはっきりと自分の息子のことを考えている親がいる上に、さらに静人が“悼む”儀式をすることにどんな意味があるのでしょう?

(注11)この二人の関係も、実のところよくわかりません。宗教家の夫・甲水は、自分を殺してくれる妻ということで倖世と結婚したというのです。彼は妻・倖世に、「私を殺して欲しい。殺してくれたら愛せるかもしれない。生きている人間に愛なんてない。私を殺して、君だけのものにして欲しい。人の世の中は、愚劣で欺瞞に満ちている。それを知っていながら普通に生活することはできない」などと、到底理解し難いことを言うのです。

(注12)倖世と静人とは、性的な関係を持ったにもかかわらず、倖世は「もう、あなたの邪魔はしない、ここでお別れします」と静人に告げ、静人も「母が心配なので家に行く、それじゃあ」と応じ、二人はいとも簡単に別れてしまい、別々の行動をとることになるのです。二人が洞窟で愛しあったのは何だったのでしょう〔劇場用パンフレット掲載のPRODUCTION NOTEによれば、「ロケ地に選んだ洞窟もロケハンの途中で偶然見つけた場所。子宮のようなイメージを感じて選んだ」とのことですが、それならなおさらアッケナイ別れはどうしたことでしょう!また、倖世の夫の亡霊(あるいは、幻覚)は、そうした関係になったことによって消滅したのではないでしょうか〕?



(注13)変人の静人がいるからというので、妊娠しているにもかかわらず婚家を追い出された美汐の出産と、母親・巡子の最後とが重なるというのは、いかにも作った話(死と再生!)だなと言うしかありません。
 そして、美汐の背後にいる巡子という構図は、なんとなく『くちづけ』において、巡子と同じように末期ガンの「いっぽん」(竹中直人)と知的障害者のマコ(貫地谷しほり)とが長椅子に座っている構図を思い出してしまいます。



★★☆☆☆☆



象のロケット:悼む人
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きっと、星のせいじゃない。

2015年03月13日 | 洋画(15年)
 『きっと、星のせいじゃない。』をTOHOシネマズ渋谷で見てきました。

(1)時間的な余裕があるときにはこうした純愛ラブストーリーも良いのでは、と思って映画館に行ってみたのですが、案の定、女子高生が大部分でした。

 本作(注1)は、17歳で末期ガンを患っている少女ヘイゼルシャイリー・ウッドリー)が主人公。甲状腺ガンが肺にも転移していて、携帯用酸素ボンベなしには生活できません。ただ、抗生物質が奇跡的に効いて、今は小康状態を保っています。
 そんな彼女が、ガンを患っている青少年の集会「サポート・グループ」に行って、骨肉腫で片足を切断したという18歳の青年ガスアンセル・エルゴート)と知り合いになります(注2)。
 さあ、二人の関係はどのように展開するのでしょうか、………?



 厳しい状況に置かれたガン患者を描いた作品はこれまでも随分とあるとはいえ、登場するヒロインとヒーローが二人共ガン患者だというのは珍しいかもしれません。それで本作は、悲劇×2ということでどうしようもない映画になるのではと思いきや、意外と二人共終始カラッとしていて、ジメジメしたところが微塵もなく、この手の映画としてはまずまずではないかと思いました。

(2)まだ大人になる前にガンに患うという大層不幸な状況下にある者を描いた作品は、これまでも色々あるでしょう。
 例えば、『永遠の僕たち』は、自閉症気味の青年イーノックが主人公ながら、ガンのため余命3カ月と宣告された少女アナベルとの関係を綴った作品ですし(二人共高校生ぐらいの年齢でしょう)(注3)、『私の中のあなた』は、白血病に罹っている姉のケイトについての家族愛のお話です(注4)。
 ただ、それらは、未成年ながらも一人のガン患者を巡る作品です。
 それならむしろ、『わたしを離さないで』の方が、その雰囲気が少なからず類似している感じがします。
 というのも、ガン患者ではありませんが、3人のクローン人間(キャシールーストミー)が主な登場人物であり、彼らは、生まれてから30年ほどの内に、何回かの臓器の摘出手術を受けることによって死ぬことがわかっています。
 加えて、同作では、彼らの間における愛の三角関係まで描かれているのです(注5)。
 とはいえ、結局はクローン人間を待ち受ける運命に3人は飲み込まれていくことになってしまい、全体として暗鬱な雰囲気に包まれている作品です。
 他方、本作のガスとヘイゼルは、結局はこの3人と同じような運命をたどることになるとしても、アムステルダムで結ばれ、さらにはガスが遺してくれた手紙によって、この先強く生きていこうとするヘイゼルの姿に暗く感じられるものはありません。

(3)本作のような瑞々しくて感動的な作品に対し、ごくごくつまらないことをあれこれ言ってみても仕方ありませんが、
a.よくわからないのが邦題「きっと、星のせいじゃない。」。どうしてここに「星」が出てくるのでしょう(注6)?

b.案に相違して状態が悪くなったガスは、親友のアイザックナット・ウルフ)とヘイゼルに生前葬を営んでもらいますが、その際ヘイゼルが読み上げる弔辞の中に「アキレスと亀」の話が出てきます。
 この話は、ガスとヘイゼルが、結末が尻切れトンボの小説『大いなる痛み』の続きを聞きたくて(注7)、アムステルダムにいる作者のヴァン・ホーテンウィレム・デフォー)にわざわざ会いに行った時に、作者が答えたものです(注8)。
 その際の意味合いは、「どんなに頑張っても、不勉強な君たち(ガスとヘイゼル:亀)は、自分(ヴァン・ホーテン:アキレス)には追いつけないよ(小説の「続き」をいくら考えても、君らにはわからないよ)」という意味ではないかと推測されます。
 でも、ヘイゼルが読んだ弔辞においても、同じような意味合いで使われているのでしょうか(注9)?

c.作家のヴァン・ホーテンは、ガスに頼まれたからと言って彼の葬儀に参列するのですが、わざわざヘイゼルの車に乗り込んできて「自分の娘は8歳で死んだ。トロッコ問題を知っているか?」と言い出します。
 ヘイゼルは、怒って作家を車から下ろしてしまいますが、こんなところでどうして「トロッコ問題」が出てくるのでしょう(注10)?

 上記のうち後の二つはアムステルダムに住む作家ヴァン・ホーテンにかかわるものながら、そもそもなぜ彼がそんなところに住んでいるのか映画では上手く説明されていません(注11)。なんだか、ガスとヘイゼルをアンネ・フランク(注12)の家に行かせるために、わざわざそのような設定にしたのではとも思えてきます。
 でも、アムステルダムには、国立美術館とかゴッホ美術館など観光名所が沢山あり、どうしていきなり二人がアンネの家に行くことになるのか、不可解な感じが伴います。
 そうしたいなら、元々ヘイゼルが『アンネの日記』を愛読しており、そのことをガスに告げて、二人でアムステルダムを訪れるという設定にすれば、もっとスムースにストーリーが流れるのではないでしょうか?
 でも、そんなありきたりのことでは映画にインパクトがなくなってしまうかもしれません。
 だったら、「アキレスと亀」などについて映画の中でもう少し説明してくれればな、と思ってしまうのですが。

(4)渡まち子氏は、「ガン患者の集会で出会った若い男女の恋を描く「きっと、星のせいじゃない。」。難病ものなのに暗さはなく、後味はさわやか」として70点を付けています。
 渡辺祥子氏は、「死を目前にする若者の、あとに残る人々への思いやりがただの難病物とは違う深みを生み出してすがすがしい」として★4つ(見逃がせない)を付けています。
 相木悟氏は、「瑞々しい若手俳優の好演、人生訓を提示する物語性と、硬軟が融合したまばゆい青春映画であった」と述べています。



★★★☆☆☆



(注1)原作は、ジョン・グリーンの『The Fault in Our Stars』(翻訳本についてはこちら:未読)。
 監督は、ジョシュ・ブーン

(注2)ガスは、集会で自分が「不安は忘却だ。人の記憶に残る人生を送りたい」と言ったのに対して、「人はいつか死に絶える。私たちどころか、クレオパトラも皆忘れられてしまう」と応じたヘイゼルを気に留めて、集会が終わると、「今から映画に行こう」と彼女を誘います。

(注3)本作には、本文の(3)のbで述べるように生前葬を行うシーンがありますが、『永遠の僕たち』でも、アナベルの葬儀は、生前彼女がプロデュースしていた通りのやり方で執り行われます。

(注4)ただし、妹アナは、姉を救うために試験官ベービーとしてもうけられており、姉の危機の際に腎臓の一つを提供することが求められることになります。さあ、どうなるでしょうか、………?

(注5)本作も、アイザックを加えれば、3人が主な登場人物になります〔本作の場合、アイザックには恋人モニカ(映画には登場しません)がいて、三角関係にはなりません。ただ、彼女に振られてしまいますが〕。



(注6)本作の原作本に関するWikipediaの記事によれば、原作本のタイトルは、「ウィリアム・シェークスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の第1幕第2場において、キャシアスがブルータスに言った台詞「The fault, dear Brutus, is not in our stars, But in ourselves, that we are underlings. 」(だから、ブルータス、おれたちが人の風下に立つのは運勢の星が悪いのではない、罪はおれたち自身にある:小田島雄志訳)からとったものである」とのこと。
 なるほど、映画の邦題の「星」というのは、夜空の星ではなくて「運勢の星」のことなんですね。
 としたら、例えば「私たちにツキがなかったせいじゃない」くらいにしてくれれば、すぐに理解できたのですが(原題に「not」が入っていなくても、シェイクスピアの台詞の引用なのですから、映画の邦題のように否定形にする方が適切だと思います。勿論、翻訳本のタイトル「さよならを待つふたりのために」でもかまいませんが、至極ありきたりな感じがします)。

(注7)『大いなる痛み』はガンの少女が主人公の小説で、元々ヘイゼルの愛読書でしたが、それをガスに薦めたところガスも感動したのです。

(注8)折角、ガストとヘイゼルがアメリカからアムステルダムまで出かけていったにもかかわらず、ヴァン・ホーテンはケンモホロロな応対をし、スウェーデンのヒップホップ・デュオAfasi & Filthyの「bomfalleralla」(歌詞の英訳はこちら)をガンガン鳴り響かせ、ガスが「喧嘩を売るのか」と怒ってスイッチを切ると、今度は「亀と矢、無限に大小があることが分かるまでは、これが答えだ」と煙に巻く始末です。

(注9)ヘイゼルは、「無限には大小があることを作家(ヴァン・ホーテン)から教えてもらった。すなわち、0と1との間には無限の数がある。でも、0と2との間にはもっと“大きな”無限がある。私に与えられている“小さな”無限に対して、あなた(ガス)は永遠という“大きな”無限をくれた。与えられた日々を永久に感謝します」というような感じの弔辞を読み上げます。
 ただ、Wikipediaの「ゼノンのパラドックス」の項によれば、「アキレスと亀」の問題は無限級数で考えることによって解けるようですが、そのことと無限集合の濃度とはどのように関係するのでしょうか?

(注10)Wikipediaの「トロッコ問題」のに掲載されているものからすると、作家は、例えば次のような問題を考えているのでしょうか?「ガンに冒された自分の娘は、臓器の移植手術を受ければあるいは一時的に助かったかもしれない。でもそうすれば、移植手術によって確実に助かる見込がある他の患者にその臓器が提供されなくなってしまい、その人を死なせてしまうかもしれない。だから、自分は何もしなかったし、その結果娘は死んでしまった。でも、それでよかったのだろうか?」。

(注11)本人は「俺がここに来たのもアメリカから逃げるため」と言っていますが、それならカナダとかフランスも考えられるでしょう。なぜ、オランダなのでしょう?

(注12)アンネ・フランクは、15歳の時に収容所で亡くなります。



象のロケット:きっと、星のせいじゃない。
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アメリカン・スナイパー

2015年03月10日 | 洋画(15年)
 『アメリカン・スナイパー』をTOHOシネマズ渋谷で見ました。

(1)本作がクリント・イーストウッド監督の作品であり(注1)、アカデミー賞作品賞にノミネートされているというので、映画館に行ってきました。
 なにしろ、アメリカでは2月には興行成績が3億ドルを突破して、アメリカで公開された戦争映画史上最高の興行収入額となったそうですから、凄まじいものです。

 本作の冒頭はイラク戦争の場面、戦車が歩兵を従えて街路を進んでいきます。
 狙撃兵のクリス・カイルブラッドリー・クーパー)が、建物の屋上で狙撃用ライフルを構えて、街路を監視しています。



 銃に取り付けられたスコープからは、向かいの建物にいる男が携帯をかけている様子が見て取れます。そして、その男が階下に消えると、間もなく女と子供がその建物から出てきます。
 クリスはそのことを部隊に伝えますが、「撃つかどうかの判断は任せる」との返答。
 そばにいる同僚は、「間違ったら、刑務所行きだ」と脅かします。
 でも、女が隠し持っているのが対戦車手榴弾だと判明。そして子供が女から渡された手榴弾を持って走ります。
 さあ、どうなるでしょうか、………?

 本作は、極めて腕の立つ米軍の狙撃兵が、イラク戦争に従軍して160人もの敵を狙撃して殺したことを描いているにすぎないとはいえ、五輪に出場した腕前の持ち主とされる敵の狙撃兵との死闘や、仲間が敵弾に倒れる様、また何度も米国に帰国して家族と会うものの、溝が広がっていく様子などが実に巧みに織り込まれていて、132分少しも飽きることなく見終わります(注2)。

(以下、色々とネタバレしますので注意してください)

(2)この作品に関しては、これまで様々なことがかしましく言われているようです。
 例えば、劇場用パンフレットに掲載されたREVIEW「『アメリカン・スナイパー』論争とPTSD」において、町山智浩氏は、本作について、「カイルやイラク戦争を賛美」していると批判する人々がいる一方で、それに反論する人々も出てきていると述べています(注3)。
 そして町山氏自身は、そうした見解の「どちらも間違っている」のであり(注4)、「(カイルの)死の影が映画全体を覆っている」として、帰還兵のPTSDこそが本作の中心テーマであると言いたいようです(注5)。

 ただ、映画の感想に対し「間違っている」「そういう見方はバカげている」などと言うのは(注6)、それ自体が“間違った”ことではないのかなという気がクマネズミにはしてしまいます。別の人にとっては酷くおかしな意見であっても、その人自身にはその映画はそのように見えたことは確かでしょうから、それを間違っているとなんとか言ってみても始まらないように思われます。

 特に本作について町山氏が挙げている見方は、どれもそれぞれ成立するのではないでしょうか?
 本作が必ずしも反戦映画ではない(あるいは、むしろ戦争賛美の作品だ)というのは、例えば、クリスが4回もイラクに出向いていることや、同僚から「俺達は正しいのか?」と問われると、クリスが「俺達は国を守っているんだ」と敢然と答えたりするところが描かれている点からも伺えるのではないでしょうか(注7)?
 また、本作のラストでは、クリスの葬儀の様子が実録の映像で長々と映し出されますが、随分と沢山の人々が沿道を埋め、彼らは皆星条旗を手にしていたりしており、まさに英雄(注8)の扱いではないかと思います。

 他方で、クリスの戦友が敵弾に斃れたり傷ついたりする場面や、「早く除隊したい」などと同僚が述べる場面などからは(注9)、制作者の戦争を嫌う姿勢が読み取れるでしょう。
 それに、帰還兵のPTSD問題が取り上げられています。

 ただ、PTSD問題が描かれているからといって、それだけで反戦映画といえるでしょうか?
 それに、町山氏が中心テーマだとするPTSDですが、確かにクリスが本国に帰還している間の様子を見ると、クリスはおそらくPTSDに罹っているのでしょう(注10)。でも、REVIEWで同氏が書いている「道路で後続車が近づくだけでパニックになり、犬を殺そうとし、助産婦に絶叫し、暴力衝動が抑えられない」といったクリスの症状は、これまで見た映画からすると(注11)、それほど重症でもないような気もしてくるところです(注12)。

(3)クマネズミには、本作は、政治的なメッセージは二の次にして、妻・タヤシェナ・ミラー)や息子のこともきちんと描きつつ、クリス・カイルという狙撃兵の生き様を伝記的にできるだけ客観的に描いた作品ではないかと思えました(注13)。
 クリスは、少年時代に、父親から銃の手ほどきを受け、鹿を一発で仕留めて「見事な一撃だ、一流のハンターになれる」と言われ、その際に「銃を地面に置くな」などと指導を受けます。
 次いで、クリスは、海軍特殊部隊(Navy SEALs)に入隊しますが、当初における過酷な訓練の模様が、随分と長く描かれます。
 本番のイラク戦争では、オリンピック選手だったとされるムスタファに付け狙われるものの、最後に、1920m離れたところにいたムスタファを撃ち殺します。その際に、クリスの銃から発射される銃弾がスローモーションで映し出されるところが、もしかしたら本作のクライマックスかもしれません。クマネズミには、本作は、戦争アクション物、あるいは一種の西部劇として、大層面白く見ることが出来ました。

 そして、ラストの衝撃的な死、というわけです。
 なお、このラストが、最近見たばっかりの『フォックスキャッチャー』と幾分似ているのは興味深いことだなと思いました(注14)。

(4)渡まち子氏は、「何よりも衝撃を受けたのは、ラストに明かされるクリス・カイルの死の原因だ。淡々と明かされるその死は、戦場の狂気のもう一つの側面なのだろう。音楽に造形が深いあのイーストウッドが、あえて音を封印し、無言のエンドクレジットを流した。この沈黙の中に、今も戦争の呪縛から逃れられないアメリカの苦悩がある」として85点を付けています。
 前田有一氏は、「オバマ大統領夫人まで巻き込んだ大議論となっている「アメリカン・スナイパー」をめぐる騒動だが、それも納得のすさまじい完成度である。私に言わせればこの映画は、神が巨匠の作品を借りてアメリカ人に伝えようとしているメッセージ、である」として、なんと100点を付けています。
 宇田川幸洋氏は、「前作「ジャージー・ボーイズ」のほどよくちからのぬけたタッチから一転、「許されざる者」のころのような、いや、それ以上にちからのみなぎる活劇である」として★5つ(今年有数の傑作)を付けています。
 相木悟氏は、「従軍し、英雄になった男に、戦争はどんな影響を与えたのか?その心理を垣間見る重い人間ドラマであった」と述べています。
 藤原帰一氏は、「終幕で躓いたためにイーストウッドの映画としては思いのほか薄い印象」と述べています。



(注1)クリント・イーストウッドについては、最近では、俳優として出演した『人生の特等席』を見ています(監督としては『ジャージー・ボーイズ』を見ましたが、レビュー記事は書きませんでした)。

(注2)俳優陣の内、クリス役のブラッドリー・クーパーは、『アメリカン・ハッスル』で見ましたし、妻タヤに扮するシェナ・ミラーは『フォックスキャッチャー』(デイヴの妻)で見たばかりです。



(注3)このサイトの記事は、町山智浩氏が1月27日のTBSラジオ『たまむすび』の中で語っていることを書き起こしていますが、それによれば、町山氏は同番組で次のように述べています。「要するに、『この映画を良くないって言う人はみんな反米なんだ!』っていう風に言っている人たちと、『この映画はイラク戦争を擁護して、ものすごい大量虐殺をした男っていうものを英雄扱いしている危険な映画なんだ』っていうのがぶつかり合っているんです」。

(注4)上記「注3」の記事によれば、町山氏は次のように述べています。「要するに『これは戦争を賛美している映画だからよくない!』って言っている人も、『賛美してなにが悪いんだ!?』って言っている右側の人も、両方とも間違っているんですよ。まったく賛美していないんですよ。この映画。戦争を」。

(注5)上記「注3」の記事によれば、町山氏は次のように述べています。「これは壊れていく話なんです。で、クリント・イーストウッドに会ったんですけど。とにかく、クリント・イーストウッドっていう人はこのPTSDで人が壊れていくっていうことに関して、ものすごく興味がある人で。すでに映画を何本か撮ってるんですよ。これがテーマで。だから彼のちょっと一貫したテーマなんですよ」。

(注6)上記「注3」の記事によれば、町山氏は、「それなのに、なぜわからないんだ?って。右も左もバカばっかりですね!」、「みんな、バカなんじゃないか?と思いますけど(笑)」などと述べています。

(注7)妻のタヤから「どうしてまたイラクへ?」と尋ねられた際にも、クリスは「お前らを守るためだよ」と答えます。
 なお、他にも、例えば、ラストの方で、クリスたちが陣取る建物をめがけて沢山の敵兵が襲いかかりますが、クリスたちは彼らを次々となぎ倒して、窮地を脱出します。こんなところなどは『フューリー』のラストの銃撃戦を思い起こさせ、アメリカの戦争映画の常道ではないのか、と思ってしまいます。
 また、クリスたちが、敵の幹部が集まっているというレストランを急襲した時、ある部屋では切り刻まれた死体が棚の上などにゴロゴロしていますが、これは『ハート・ロッカー』における人体爆弾のシーンを思い起こさせます。

(注8)クリスが160人を射殺したというのは、『ハート・ロッカー』の主人公ジェームズが800個以上の爆弾を処理したとされている(例えば、この記事)のに対応するのでしょうが、ジェームズが亡くなった時にこんな葬儀は考えられるでしょうか?

(注9)他にも、イラクの飛行場でクリスは弟のジェフに遭遇しますが、ジェフは、「兄貴は僕らのヒーローだ。でも、もう疲れた、僕は故郷に戻る。こんなところはクソだ!」と言って立ち去ります。

(注10)上記「注3」の記事によれば、町山氏は、「これは要するに典型的なPTSDなんですよ」と述べています。

(注11)ごくわずかの事例しか思い出しませんが、『ハート・ロッカー』では、本作におけるクリスのように、「いったん米国に帰って、家族と平和な日々を送ろうとしても我慢できずに、また戦場に戻ってしまう」主人公が描かれているとはいえ、『マイ・ブラザー』では、アフガンからの帰還兵であるサムは、結局精神病院に入らざるを得ませんし、『戦場でワルツを』では、PTSDの典型的な症状であるフラッシュバックが取り上げられています。

(注12)上記「注3」の記事によれば、町山氏は、「原作の方を読むともっとすごく怖いことが書いてあって。心臓の鼓動とか脈拍、血圧がおかしくなっちゃうんですね。このクリス・カイルは」、「で、おかしくなった時に銃に触ると止まるんですって。異常な脈拍が」と述べていて、映画ではそこまでひどい症状として描かれていないとしています(ただ映画では、血圧が「170/110」だとクリスは言っていますが)。
 PTSDが中心テーマとしたら、どうしてイーストウッド監督は、そこまで症状を描き出さなかったのでしょうか?

(注13)いうまでもなく本作は、クリス・カイルが書いた自伝『アメリカン・スナイパー』(早川書房)に基づいていますから、伝記的な作品になるのは当然のことながら、本作では、自伝では描かれていないクリスの死がラストで描かれることによって、伝記的な傾向が一層強化されたように思われます。

(注14)「米軍の元狙撃兵クリス・カイルさんらを射殺したとして、殺人罪に問われた元米海兵隊員・エディー・レイ・ルース被告(27)の裁判で、米テキサス州の裁判所の陪審員は(2月)24日、有罪の判決を言い渡した。AP通信によると、ルース被告は終身刑が適用される」、「裁判で弁護側は「ルース被告は、自分が殺されると思っていた」「事件当時は心神喪失だった」として無罪を主張したが、認められなかった」(この記事)。



★★★★☆☆



象のロケット:アメリカン・スナイパー
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フォックスキャッチャー

2015年03月06日 | 洋画(15年)
 『フォックスキャッチャー』を渋谷シネマライズで見ました。

(1)昨年のカンヌ国際映画祭で監督のベネット・ミラー(注1)が監督賞を受賞した作品だというので、映画館に行ってきました。

 本作の冒頭では、多数の猟犬を従えて馬に乗ってキツネ狩りをするシーンが描かれて、タイトル・クレジット。
 次いで、マークチャニング・テイタム)が、練習場で人形型ダミーを使って練習しているところが映し出されます。



 その後、児童を相手にした講演を行うため車で小学校に向かいます。講演ではレスリングの話をし、1984年のロス五輪で取った金メダルを披露します。
 終了後、講演料の20ドルを受け取る際に、兄のデイヴと間違われてしまいます(実際には、兄も、同じオリンピックで別階級で金メダルを獲得しています)。
 そのデイヴマーク・ラファロ)とは練習場で会いますが、マークが「無言の留守電をしただろう?」と尋ねると、デイヴは「俺が?」と驚きます。



 そんな会話の後、二人は組んで練習を行うものの、デイヴが「腰の入れ方が甘い」などと指導すると、マークは力を込めて反撃し、デイヴの鼻から血が流れることに。
 練習が終わった後、マークが自宅に戻ると、世界的財閥デュポンの御曹司ジョンスティーヴ・カレル)の代理人からの電話があります。内容は、「ジョンが会いたがっている。デュポン家の施設まで来て欲しい。飛行機はこちらで手配する」というもの。
 マークは、ジョンに会うためにペンシルバニア州にあるフォックスキャッチャーまで出かけ、ジョンと会うことになりますが、さあジョンとマーク、それにデイヴとの関係はどうなることでしょうか、………?

 本作は実話(true story)に基づくものですが、世界的なレスリング選手であるマークとデイヴの兄弟に、世界的財閥デュポンの御曹司ジョンが絡み合って、ラストまで大変緊張感溢れる作品に仕上がっています。
 本作では、この3人を演じる俳優たちの演技が実に素晴らしく、なかでも、御曹司ジョンに扮するスティーヴ・カレルの大層不気味な様には圧倒されます。



 クマネズミは、彼をこれまで見たことがありませんが、マークを演じるチャニング・テイタムは『ホワイトハウス・ダウン』で見ましたし、デイヴに扮するマーク・ラファロは『はじまりのうた』で見たばかりです。二人共、その持ち味を本作において遺憾なく発揮していると思いました。

(以下、色々とネタバレしますので注意してください)

(2)本作の公式サイトのキャッチフレーズは「なぜ大財閥の御曹司は、オリンピックの金メダリストを殺したのか?」となっていて、あたかも本作が謎解きドラマであるかのようですが、とてもそのような作品には思えません。
 確かに、ジョンは、自分が以前作らせたドキュメンタリー(注2)を見た後、急に車で外出し、デイヴが車の修理をしているところに現れて、彼を撃ち殺してしまいます(注3)。
 でもその事件が起こるのは、ジョンが力を注いだソウル五輪(1988年)においてマーク(注4)が金メダルを逃した後、8年もの時間が経過した後であり、それに、事件の直前にジョンが見ていた映像の最後は、あるセレモニーでマークがジョンを最大級に賞賛して紹介し、2人が壇上で抱きあうシーンです。
 にもかかわらず、ジョンが殺したのはマークではなくデイヴなのです(注5)。

 それに、映画のエンドロールで映し出されたところによれば、ジョンは2010年に獄中で死亡したとのこと。さらに、劇場用パンフレットに記載されている「略年表」によれば、ジョンは「統合失調症を患っていたとされ、殺害時の精神的状況をふまえ、計画性のない殺人として13年~30年の禁錮刑となった」ようです。
 としたら、元々、この事件に関して「なぜ」を問うことはあまり意味のないことなのかもしれません。

 そうなると何が見どころになるのか、ということになります。
 それは見る人によって様々ながら、下記の(3)で触れる評論家諸氏が言うように3人の俳優の演技合戦もその一つになるでしょう。
 クマネズミは、ジョンに扮したスティーヴ・カレルが絶えず漂わせる不気味さに圧倒され、戦慄を覚えました。
 ただ、その演技は、いわゆる統合失調症患者につきまとう一般的なイメージ(あるいは先入観)にかなりの程度依拠するものではないかという気もします。
 確かに、劇場用パンフレットに掲載のインタビュー記事において、スティーヴ・カレルは、「手に入る動画はすべて見たし、彼の著書も読んだ。どんな人物だったのか、可能な限り全体像を掴もうとしてね」とか「独特の話し方や物腰、しぐさなどを習得できるように、数ヶ月訓練した」などと述べています。
 ですが、例えば、残されているジョン・デュポンの写真からすると、外見上は、この映画から伺えるような不気味さは見てとれず、ごく普通の人間ではないかとも思えてしまいます。



 それに、単なる素人の見解に過ぎませんが、元々、統合失調症患者を見分けることができる外見上の特徴といったものなど、一般には存在しないのではないでしょうか?

 こうした点は、マークに扮したチャニング・テイタムについても言えるかもしれません。
 マークの外見とか身のこなし方は、例えば、日本のプロレスラーのアントニオ猪木を彷彿させるものがあります。
 それはそれで素晴らしいことながら、寡黙で人当たりがよくなく、あまり知性的ではないというマークの人物像は、もしかしたら、レスラーについての一般的なイメージに依っているとはいえないでしょうか(注6)?

 しかしながら、ジョンにしてもマークにしても、普通の人間のような振る舞いをしている様を映画で描き出せば、映画として大層インパクトに欠ける出来上がりになってしまうことでしょう。本作のように、一般人が抱いているイメージに乗っかった映像をつくり上げることによって、より広範な支持を受けることになるものと思われます。
 ですから、映画として何ら問題ないとはいえ、ただ、その映画が「true story」に基づいているとされる時、その場合の「true」とはいったい何なのか考えさせられてしまいます。

(3)渡まち子氏は、「財閥御曹司が金メダリストを射殺した事件を描く実録ドラマ「フォックスキャッチャー」。静かな狂気を漂わせるスティーヴ・カレルが素晴らしい」として80点を付けています。
 前田有一氏は、「これは実在の殺人事件を、主要な関係者を実名で描いた大胆なドラマでもある。役者の年齢がちょいと無理があるほど実物と離れていたりなど、少々気になる部 分はあるものの、それを上回る役作りと演技力によって、「演技合戦を楽しむ映画」として見ごたえのある作品に仕上がっている」として70点を付けています。
 中条省平氏は、「アメリカ人の力への崇拝がどれほど根深いものか、戦慄的に納得させられる。レスリングでの肉体の力の謳歌から銃器のフェティシズムまで、それは勝者が正義だという思考につながり、ほとんど信仰となり、病理に帰着する。本作の描くレスラーと富豪の心理劇の背後には、そうしたアメリカの特異な精神性が重く横たわっている」として★4つ(見逃せない)を付けています。
 相木悟氏は、「震えるほど恐ろしい、人間の底知れぬ闇を覗き込む一級品であった」と述べています。
 稲垣都々世氏は、「いわゆる映画音楽や説明的なセリフを極力排し、静寂と沈黙の「間」によって作り出される重苦しく不穏な空気。悠揚としたリズムからじわじわ広がる尋常ならざる緊張感に酔い、打ちのめされた」と述べています。
 藤原帰一氏は、「(本作を)サスペンスとかホラーなどと形容するのは誤りでしょう。この映画は何よりも主人公のマークを中心に兄のデイヴと謎の富豪ジョンを配し、3人の人物を掘り下げるドラマ、英語で言うキャラクタースタディーとして見るべき作品だからです。そして、人物の捉え方がいいんですね」と述べています。



(注1)ベネット・ミラーは、『カポーティ』(2005年)や『マネーボール』を制作しています。

(注2)ジョンのレスリング・コーチとしての力量を世の中に訴えるために作られた映像のように思われます(実際のジョンはそんな力を持ち合わせていませんが、あたかも彼の指導によって素晴らしい成績があげられているかのようにドキュメンタリーは作られています)。

(注3)ジョンが車でやってきたのを見たデイヴが「何か?」と尋ねると、ジョンは「私に文句があるか?(You have a problem with me? )」と問い返し、デイヴが「文句など…」と答える暇もあらばこそ、ジョンはデイヴに銃弾を3発も打ち込みます。

(注4)ソウル五輪を前にして、マークは、フォックスキャッチャーにいることが精神的に耐えられなくなり、大学時代のコーチの元に去っていました(ただ、五輪の会場では、コーチのコーナーにはジョンとデイヴが入りましたが)。

(注5)デイヴは、マークと違いごく常識的な人間ながら、レスリングの才能はすばらしく、またレスリングの指導面でも優れたものを持っており、なおかつ和やかな家庭も持っています。こうした事柄とまさに対極的なジョンがデイヴに反感を抱いたということが考えられます〔映画では、デイヴの妻ナンシーシェナ・ミラー)に対しても銃を向けていますから、母親(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)と不和だったジョンは、デイヴの家族に対して強い嫉妬を覚えていたのかもしれません〕。それにしても、撃ち殺すとは大袈裟すぎます。

 なお、ヴァネッサ・レッドグレイヴは『もうひとりのシェイクスピア』などで見ています。

(注6)例えば、ジャイアント馬場の読書好きは有名ですし(例えば、このサイトの記事の「嗜好」によれば、「歴史小説が好きな読書家で、年間200冊以上の本を読み、柴田錬三郎、司馬遼太郎のファンだった」)、アントニオ猪木についてはこのサイトの記事をご覧ください。



★★★★☆☆



象のロケット:フォックスキャッチャー
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はじまりのうた

2015年03月03日 | 洋画(15年)
 『はじまりのうた』を渋谷シネクイントで見ました。

(1)久しぶりにキーラ・ナイトレイ(注1)を見てみようと思い、映画館に行きました。

 本作(注2)では、ミュージシャンのグレタキーラ・ナイトレイ)とその恋人デイヴ(同じようにミュージシャン:アダム・レヴィーン)が、メジャーデビューすべく英国からニューヨークにやってくるものの、二人の関係は破綻してしまいます。



 彼女は、独りになって友人・スティーヴジェームズ・コーデン)の家に転がり込むのですが、ひょんなことからバーのステージで、自分が最近創った歌(注3)を披露することになります。



 それを音楽プロデューサーのダンマーク・ラファロ)がたまたま耳にして大層感心し、アルバムを作ろうという話に。
 ですが、彼はレコード会社をクビになったばかりで、スタジオを持っていません。
 でも彼は、パソコンとマイクがあれば十分とばかりに、ニューヨーク市内のアチコチで野外録音をすることに。



 さあ、うまくいくのでしょうか、………?

 本作はミュージカル映画とも言えそうで、そうなればストーリーはどうでもいいことになり(注4)、キーラ・ナイトレイやその恋人役〔実際にも、人気ロックバンド(Maroon 5)のボーカリスト〕などが歌う歌を聞き、加えて描き出されるニューヨークの街並みを眺めて愉しめれば、まずまず面白く思えることでしょう(注5)。

(2)本作は、歌が全編に溢れ、ミュージカル映画とも言えそうですが、といって台詞が歌われたり、普通の動作から連続的に踊り出したり歌ったりするわけでもなく、歌の場面は歌の場面として描かれます。
 でも、ダンとグレタが、それぞれがどんな曲を聞いているのか知りたいとして、イヤホンを一つずつ耳にして、お互いのiPodのプレイリストを聞きながらニューヨークの街を歩きますが、同時にその音楽が画面から流れるのです(注6)。
 また、普通であれば演奏などしないような場所、地下鉄の駅のホームや路地裏、ビルの屋上といったところで(注7)、アルバム作りのために演奏が行われ、レコーディングしていきます。
 さらには、デイヴが賞をとると、グレタは、気持ちを表現すべく、友人のスティーヴの録音してもらった歌「Like a Fool」(注8)をデイヴに送りつけます(注9)。
 特に、ラストの方のライブでは、グレタが創ってデイヴの曲とした「Lost Stars」を、最初はグレタが好むオリジナルのアレンジで歌い、次いでアレンジをロック調に変えることによって、今度はデイヴがグレタに自分の気持を伝えています(注10)。
 こんなところを見ると、台詞が歌われることはないとはいえ、詩によるコミュニケーションは十分に果たされていて、本作をミュージカル映画とみても構わないのではと思えてきます。

(3)村山匡一郎氏は、「音楽が人々に夢と希望をもたらす様を瑞々しく描いている」として、★4つ(見逃せない)を付けています。
 藤原帰一氏は、「これはラブストーリーじゃない。いつもなら音楽なんて男女を結びつけるキューピッドくらいの役回りですが、この映画の核心は音楽そのもの。音楽の力だけでつくったような映画なんです」と述べています。
 小梶勝男氏は、「とにかく曲がいい。物語には切ない部分もあるが、見終わると幸せな気分になれる。これも音楽の魔法だろう」と述べています。



(注1)といっても、熱心なファンというわけではなく、最近で見たのは、『アンナ・カレーニナ』(この作品についてはブログ記事を作成しませんでした)や『わたしを離さないで』くらい。

(注2)原題は『BEGIN AGAIN』。
 脚本・監督は、『ONCE ダブリンの街角で』(2007年)のジョン・カーニー

(注3)「A Step You Can’t Take Back」
 “気づけば地下鉄にいた 自分の世界はカバン一つ ………”(原詩はこのサイトで)

(注4)あんなに簡単に野外録音ができるのか(例えば、電源は?)などといったことは、本作にとってはまさにどうでもいい点でしょう。
 ただ、本作はラブストーリーながら、恋人デイヴに裏切られたグレタと、妻ミリアム(ダンによれば、若い歌手と一緒になろうと家を出て行ったことがあります:キャサリン・キーナー)と別居中のダンという、まさにおあつらえ向きの状況(加えて、音楽的嗜好も一致しています)にある二人の間が一向に進展しないのもどうかという感じですし、もう一つよくわからないのが、グレタと、彼女が転がり込む家の住人で昔馴染みとされるスティーヴとの関係です。二人は、狭い部屋に一緒に暮らしながらも、何の関係も持つに至りません。
 グレタは、若いにもかかわらず何の性的魅力も持たないということなのでしょうか(恋人・デイヴも、NYに来た途端に他の女に走ってしまいますし)?

(注5)ほとんど何も情報を持たずに、キーラ・ナイトレイの独り舞台の映画かなと思って見に行ったところ、『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドのみならず、『グランド・イリュージョン』のマーク・ラファロとか、『25年目の弦楽四重奏』のキャサリン・キーナー、『ワンチャンス』のジェームズ・コーデンなど、錚々たる俳優がいろいろ出演しているので驚きました。

(注6)フランク・シナトラやスティービー・ワンダーの曲など。

(注7)地下鉄の駅のホームでは、警備員らがやってくると慌てて楽器やレコーディング機器をしまって逃げ出しますし、路地裏では、様子をうかがっている子供たちをコーラスに使ったり、ビルの屋上で演奏していると、隣のビルから「うるさい、警察を呼ぶぞ!」と怒鳴られたりします。
 なお、ビルの屋上での演奏の際には、別居中のダンの妻ミリアムや娘・バイオレットヘイリー・スタインフェルド)も現れます。

(注8)“あなたは 約束をすべて破ったけど それでも私は愛していた もう十分私を苦しめたでしょ? いい加減わかって ………”(原詩はこのサイトで)

(注9)留守電に。それを聞いたデイヴがメールを送って、グレタとしばらくぶりで会い、週末のライブに来てくれるよう誘います。

(注10)グレタは、あくまでも出発点のままでいたいと思い、デイヴは、大衆の要望に沿って音楽を変えていくべきだと考えているようです。デイヴはライブにグレタを誘い、グレタも、「Lost Stars」の最初の方を聞いた時は笑みを浮かべていたものの、デイヴがアレンジを変えて歌うと、彼の気持ちがわかったとでも言うようにライブ会場を後にします。



★★★☆☆☆



象のロケット:はじまりのうた
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